紹介
論理は区別と関係を明らかにします。
区別と関係の論理に頼って世界を解釈、表現します。
2025.04.03
表現は存在秩序である。[続]
テセウスの舟 は作用秩序が保存されるが、表現秩序が変化する。
部材の板が交換される度に舟の表現秩序は更新され、作用秩序は維持される。
「分子など存在しない。存在するのは原子の化学結合である。」
等というのは誤りである。
分子としての存在秩序を実現する原子の運動は化学的相互作用であて、原子単独の運動とは違う存在秩序である。
原子は分子として結合することでエネルギーを失って安定する。
原子に還元しては分子秩序が失われる。
作用秩序と表現秩序が異なることを無視するから混乱する。
作用と表現は次元の異なる存在である。
ヒトの存在表現は常に更新されながら、ヒトの代謝秩序は平衡を維持している。
人の意識は受容する対象表現を次々に変貌させるが、世界感は連続をなして変容する。
2025.03.31
表現は存在秩序である
「人間」は人として生きる秩序表現である。
「人」は生き物の生活を社会的に組織化するヒトの存在秩序表現である。
「ヒト」は飲み食いし、目合い、呼吸する生き物の存在秩序表現である。
「生き物」は細胞を単位とする代謝秩序の存在表現である。
「細胞」は遺伝情報に基づく分子の生化学反応秩序の存在表現である。
「分子」は原子間の化学反応秩序の存在表現する。
「原子」は原子核と電子の相互作用関係秩序の存在表現である。
「原子核」は陽子と中性子の相互作用関係秩序の存在表現である。
「陽子」「中性子」はクオークの相互作用関係秩序の存在表現である。
それぞれの秩序を何と名付けようが、関わりなくそれぞれの存在表現である。
人格は物理秩序、化学秩序、生物秩序、意識秩序、文化秩序の総合表現である。
秩序の論理による表現が法則である。
法則による秩序の論理的説明が理論である。
秩序がなければ何物の存在も表現されない。
混沌も「混沌」という文字秩序で表現可能になる。
絶対零度が実現しないように、完全な混沌は表現しえない。
秩序表現があって対象として受容できる。
秩序が実現されれば必ず表現され、受容される。
しかし、その秩序表現の受容継承には限界がある。
人が受容、認識できるのは存在表現の極々一部分の一面に過ぎない。
存在は作用と表現が実現する秩序である。
2025.03.27
学術
「学」は分析であり、「術」は総合である。
クラウゼヴィッツ 著「戦争論 上 第三章 兵術あるいは兵学 」中央公論新社 中公文庫 p189-190
2025.03.26
世界は存在対象としての対象世界と、その存在表現を受容する表現世界としてある。
対象世界は生きる世界であり、生きている世界である。
対象世界は世界を表現し、世界表現は受容され、意識として世界を表現している。
表現世界は受容する世界であり、表現する世界である。
箱庭療法も、趣味世界も、仕事世界も、芸術世界も、哲学世界も、自己表現し自己受容する世界である。
2025.03.24
ひも理論によれば、あらゆる素粒子は振動する小さなひもが出す音にすぎない。輪ゴムがさまざまな振動数で振動できるように、ひも理論では、その小さな輪ゴムの振動のひとつひとつが1個の粒子に対応している。だから電子、クォーク、ニュートリノなど、標準模型を構成するメンバーは、それぞれ異なる音にすぎない。すると物理学は、そうしたひもで奏でられるハーモニー(和音)に相当する。化学は、振動するひもが作り出すメロディー(旋律)だ。そして宇宙はひもの交響楽にたとえられる。最後に、アインシュタインが語った「神の心」は時空に響きわたる宇宙の音楽となる。
標準模型を構成するメンバーは音ならば、音すなわち表現であり、「ひも」が実態と言える。
我田引水なのか?
ただし、ひも理論には現実を予測する力がない。この理論はもてあますほど無数の解を持ちうるため、検証することができない。
解釈に過ぎないのだから検証はできない。
理論なら前提をなす法則の予測によて検証できる。
過ぎない解釈でも納得できれば、人は命も賭けられる。
命をかけて検証に代える。
不確定性である相互作用の確定として存在が実現する。
全体秩序の散逸と部分秩序の創発として存在が実現する。
偶然性をとおしての必然性が存在を実現する。
存在の実現は相転移の様である。
このことを分かりやすく表現できたなら。ひさし先生も褒めてくれるかな?
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そして…」
2025.03.20
ミチオ・カクにスティーヴン・ワインバーグが多世界理論の解釈について語ったという
周囲には、あちらこちらのラジオ局がら届く電波が満ちている。 … 略 … だが、ラジオはひとつの局だけを広い、ひとつの周波数しか合わせられない。もはや他の局とは同期できなくなるのだ。
世界は相互作用の表現で満ちている。だが、人は一部分面の表現しか受容できない。
受容は主観的作用であるが、受容される表現は客観的である。
観測は主体的作用であるが、観測される表現は客観である。
剛体はどのような力を与えても変形しない理想的完全固体だという。
剛体の一部分に生じる作用は、瞬時に全体に伝わり剛体の位置だけが変化すると解される。
現実には全ての相互作用が漏れることなく相互に連なって実現している。
相互作用は実現して確定するのであって、始めも終わりもない。
存在確率は、一部分の相互作用表現を切り取って受容しようとする観測者にとってある。
「作用」が相互関係を伝わるとするのは、受容する者の時間的表現に過ぎない。
量子計算機の量子ビットは「1」と「0」とを重ね合わせて表現するとの説明は誤りらしい。
「計算機」の方が「コンピュータ」よりも文字数が少なくて済む。
量子ビットの「1」と「0」は確率値であって、「0から1まで」の可能性を表現する。
量子ビット間のテレポーテーションによって全体としての計算が実現する。
2025.03.19
作用は系のエネルギーに似ており、それは運動エネルギーから位置エネルギーをひいたものだ
… 略 …
古典的なニュートンの見方では、玉の経路は、まさにその空間と時間における点で玉に働いている力によって決定されるにすぎない。遠くの点は玉にまったく影響を及ぼさないのだ。ところが先述の新しい見方によれば、玉はとりうるすべての経路をいきなり「認識し」、最小の作用となる経路をとる「決断を下す」。どうしてそんな無数にある経路を調べて正しいものだけを選ぶ手だてが「わかる」のだろうか?
「位置エネルギーは近傍の他との相互作用関係による歪みである。」として、
「運動エネルギーは相互作用関係の個別対象化として実現する。」と解釈できないか。
AIに訪ねるには、どの様なプロンプトを設定すれば良いのか?
無数にある経路を探すのではなく、他のすべてとの相互作用関係にある世界を実現することで運動が表現される。
誰も「あらゆる経路について足し合わせ」てなどいない。
時間の掛かる計算してまでして答えを出さない。
それに必要な時間など何処にも存在しない。
量子計算機は計算に時間を必要としない。
人が答えを受容するのに時間経過が必要なのだ。
だから、量子テレポーテーションがある。
最小作用の原理は全ての相互作用の実現として表現される。
(時間を遡って解釈すると)不確定な関係が相互作用として実現し、相互の関係を確定する。
因果関係はなく、時間も無い。
2025.03.15
第四章 戦争における危険について
普通の人が戦争の危険を知らないうちは、戦争というものを恐ろしいというよりはむしろすばらしいもののごとく考えている。感激に酔いしれて嵐のように敵を襲撃する そのとき誰が弾丸の量と死傷者の数を考えよう 眼をほんの一瞬間閉じ、生死を忘れて冷たい死の境へ身を投ずる ことに勝利という黄金の目標が真近にあり、名誉欲の渇きを癒すべき清涼な果実を目前にして これらのことは難しいことだろうか。いやそれは難しいことではないだろう。とりわけ外見上は実際以上に容易なことのように思われる。しかしこのような瞬間というものは実際には滅多にないものであって、あったにしても普通考えられているほど瞬間的なものではない。それはちょうど薬の調合の際に水でその濃度が薄められるように、そのような瞬間も時間でもって薄められ弱められてしまっているものである。
さて、まずは試みに戦争を知らない新参兵を伴って戦場に出かけてみるとしよう、戦場に近づくにつれて、大砲の号音は次第に明瞭となり、遂には弾丸の唸りが砲声に混って聞えてくるようになると、新参兵の全神経はまったくこの砲声に集中されることになるこの時ようやくにして弾丸はわれわれの前後左右に落下し始める。われわれは急いで、軍司令官と幕僚達が立っている丘へと駆けつける。この丘の上でも、すでにもう幾度となく砲弾が落下し、榴弾が炸裂していて、新参兵の若い想像力は、生命の厳粛さをひしひしと感ずるであろう。突然、戦友の一人が倒れる 榴弾が一群のなかへ落下して、思わず動揺が起る。人は自分がもはや安静を保ち得ず、落ち着きを失ってしまっているのを感じ始める。いかに大胆な者でもこのような状況にあっては茫然とせざるを得ないからである。 あたかも演劇を見るがごとく荒れ狂っている戦闘のなかへと一歩踏みこんで、われわれは師団長の立っているところに至る。ここでは弾丸が相次いで落下し、味方の砲声も次第にその烈しさを増している。 さらに師団長の幕営から旅団長の幕営に至る。この勇猛な旅団長もここでは用心深く、丘や家屋や樹木の陰に身をかくしている。これは危険が刻々と増してきたことを明瞭に物語っている。榴散弾は屋根や野原に降り注ぎ、砲弾はわれわれの傍に、あるいはわれわれの頭上に飛び交い、小銃弾さえも風を切って飛ぶのが頻繁に聞えてくる。 われわれはなお一歩進んで交戦部隊に近づく。それは言語に尽し難い忍耐力でもって長時間の射撃戦を遂行している歩兵部隊である。 ここでは大気は弾丸の音で充満し、短く鋭い音によって弾丸が飛来したとみるや、たちまち耳・頭・魂をわずかにそれて飛び過ぎて行く。それに加えて、負傷して倒れた兵士を見るや、われわれの心は同情で身も引き裂かれんばかりの思いにさいなまれるであろう。
これら密度の高いさまざまの危険層に触れることによって、新参兵はこれまで頭のなかで考えてきた戦争が、いかに実戦とは異なったものであったかを思い知るであろう。とにかく、新参兵がこのような最初の印象に直面して瞬間的に決断の能力を失わないとするならば、それは恐るべき非凡な才の持主であろう。もっとも習慣がこのような印象を、たちまちのうちに鈍らせてしまうということは事実であるが。人によって程度の差はあれ、一般にわれわれは半時間も経てば、われわれを取り巻いているすべてのものに無関心になり始めるものである。しかしながら心の完全な平静さや平時におけるような心の弾力性をとりもどすことは、普通の人間にはできることではない。 このような事態でさえ、普通の人間には動揺を隠し得ないとするならば、責任の範囲が増大するにつれて、ますます特殊な天才が必要になるということは、どうしても認めざるを得ないであろう。このような困難な状況にあって、なおかつその活動の程度が、平生室内で見受けられる程度以下に劣らないためには、熱狂的な、あるいは禁欲的な、それとも生まれつきのといったさまざまな種類の勇気とか、強い名誉心とか、危険に対する永年の習慣とかといったものが兼ね備わっている必要がある。
戦争における危険は、戦争に当然つきまとう障害の一つである。したがって、これについて正しい観念をもつことなくして、われわれの認識は真理に至り得ない。それゆえ、ここに戦争における危険について論及しておいたわけである。
クラウゼヴィッツ 著「戦争論 上」中央公論新社 中公文庫 p125-127
著作権を侵犯する長い引用だ。
小説や映画等、様々な表現で学べたはずが、手軽な媒体では伝わらないのか。
変わらない光景がウクライナで、世界各地で
そもそも情報とは、敵軍と敵国についてのわれわれの全知識のことであリ、したがってまたわれわれの想定と行動の基礎となるものである。
「同書」 p131
揚げ足取りではあるが、これはいただけない。
情報は自軍と自国の全知識も含む。自らのことをだれも知り尽くしていない。さらに国際関係も関わる。
2025.03.10
世の中で先陣を切る人には並外れた何かがあるのだろう。
にもかかわらず、相互し、抜出ぬきいでんなどと、
専攻する意志なく、努力は端はなから、
ただ浮かび上がり来る思いを掬い採るだけ。
機微であっても、天地転位なるならば、
明らかで確かなのは「作用と表現」であり、その「元」は解釈に過ぎない。
存在「元」解釈としての存在対象を「実態」と名付けることはできる。
「物質」も、「物質の存在」も解釈に過ぎない。
「分子」「原子」「核子」「素粒子」「量子」も対象表現の「名」にすぎない。
物理学者も量子の「状態の重ね合わせ」「非局所性」の解釈を躊躇、無視している。
カントは「物自体は知りえない。」
マッハは「知覚することができず,実証もされない原子・分子は,科学から排除すべきだ。」
ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」
行動主義は「科学的心理学は外部から観察し観測できる行動だけを研究対象とすべきだ。」
これらの主張と何が違うのか。
「作用と表現」の一部分が自らの身体の存在である。
意識される世界は自らの身体を媒体に存在する表現である。
脳だけでなく、身体感覚、身体運動によって世界は意識される。
自らの身体の生活実践として体験する世界が存在する。
ルクレーティウスは「
物質の本質について」で「映像」について語っている。
これ〔映像〕が如何に容易に且つ急速に生じ、絶え間なく物体から発散し、剥げ落ちるか…〈略〉…映像が其処から我々に向かって帰ってくる来るということになる。そして、如何に速やかにでも、いつ如何なる時にでも、如何なる物でも、鏡の前に置けばその映像が現れる。…〈略〉…物体からも亦これと同様に、時の一瞬の間に物体の映像が多量に、あらゆる工合にあらゆる方向に、至る所へ発散しているに違いない。何故ならば、鏡をいずれの方向へ向けて、物の形体に面せしめても、同じ形と色とを持って鏡に反映するからである。
樋口勝彦 訳 p164- 143-167
この「映像」とは「表現」のこと。
2025.03.05
存在表現は相互作用での互いの表現であり、区別される存在対象そのものの表現である。
存在表現は個別の表現である。
高エネルギーの光子が相互作用して電磁場が励起すると電子と陽電子が対生成する。
光子の存在表現はエネルギーだけである。
光子は他との相互作用で振幅と波長の波動表現、或いは粒子としての位置を表現する。
「相互作用」「振幅」「波長」「波動」「粒子」「位置」は対象表現である。
光の速度は一定であって、他と相互作用することで減速する。
クオークは相互作用して陽子や中性子を表現する。
陽子と中性子の相互作用は原子核を表現する。
陽子と電子、或いは原子核と電子は相互作用して原子を表現する。
生物は物質代謝系をなす相互作用の表現である。
人は物質代謝を社会的相互作用として組織化する生物の表現である。
人間は相互作用としてのコミュニケーションによって文化を共有する人の表現である。
存在表現は相互作用によって互いに区別される。
全ての個別存在は表現であると共に、相互作用の実現としてある。
存在は作用と表現の二元でなる。
表現を受容しての表現として意識が存在する。
対象表現は存在表現の他に対する表現である。
対象表現は他に受容される表現である。
対象表現は相互作用で実現する個別を媒体にする。
継起し、並起する相互作用間で受容される存在表現が対象表現である。
対象表現は継起する相互経て変換、置換され、直列する。
対象表現は並起する相互作用関係で並列して束ねられ、括られる。
光は束になって対象の形、大きさ、位置を括って表現する。
人は個々の表現を括って世界を観る。
対象表現は表現を超えて、表現の表現として階層化し、発展する。
表現は抽象化可能であり、また捨象可能である。
実在の確信
実在感は存在表現である。
身体は相互作用からなる代謝系の存在表現である。
身体は所有感覚、固有感覚を表現する。
意識は神経信号が相互作用する情報処理系の存在表現である。
大脳皮質での情報処理は自己意識を表現する。
身体と意識の存在表現が意識の対象表現と一致して実在感となる。
身体を介しての存在表現の受容が世界認識の唯一の根拠になる。
不可知な互作用実現世界であっても、身体を媒体に存在表現を受容している。
量子の相互作用(非局所性、状態の重ね合わせ)を理解できなくても世界は理解可能である。
睡眠中の夢の放尿は対象表現であり、存在表現の受容ならば、認知症か夜尿症の悲喜劇となる。
作用と表現は物理的存在ではない。
存在が物理的相互作用することで物理的存在が実現する。
光子は物理的存在であるが、色は物理的存在ではない。
色が見えることを否定できる視覚のある物理学者はいない。
音の響きも物理的存在ではない。
音は時間経過で表現される。
音の響きは過去から現在への圧力の変化によって表現される。
過去は現在に存在しない。
時空間は物理的存在ではなく表現の尺度でしかない。
加速も作用によって実現する表現である。
加速は過去からの作用を表現している。
一般に変化は相互作用の表現であって、物理的存在ではない。
2025.03.01
物質の定義が抽象的なのではなく、「物質」が抽象的解釈なのである。
「物質」は解釈なのであって、物質そのものは存在しない。
「物質とは相互作用して互いの区別と関係を表現する対象である。」から、相互作用で区別されて具体的個別として実現する。
具体的個別の実現から解釈するその総体が「物質」である。
解釈でない存在は相互作用する実態である。
エネルギーなり場も実態であるが物理的相互作用に偏る。
2025.02.27
物質の定義
今日では一般的に存在は物質一元論で解釈されている。
その「物質」は不可入性、局所性の個別対象として日常的経験で解釈されている。
物理化学での「物質」は分子、原子、素粒子、量子と構造を成す対象として理解は深まり、暗黒物質、暗黒エネルギーが例示され、外延定義される。
哲学での「物質」は感覚によって認められ、意識からは独立して存在する対象と内包定義される。
この物理化学的外延定義、哲学的内包定義では対象としての物質定義になっていない。
「物質とは相互作用して互いの区別と関係を表現する対象である。」との定義を提案する。
相互作用は物理化学で定義され、生物間でも、ヒトの社会でも、文化においても基本的存在関係である。
区別と関係は論理による表現の基本である。
存在は対象として実現し、認識され、対象性が物質を規定する。
物質の定義について以下のように考えました。
Copilot said:
物質の定義について考えるのは興味深いですね!どのような定義をお考えですか?また、どのような点について議論したいですか?
You said:
今日では一般的に存在は物質一元論で解釈されている。
その「物質」は不可入性、局所性の個別対象として日常的経験で解釈されている。
物理化学での「物質」は分子、原子、素粒子、量子と構造を成す対象として理解は深まり、暗黒物質、暗黒エネルギーが例示され、外延定義される。
哲学での「物質」は感覚によって認められ、意識からは独立して存在する対象と内包定義される。
この物理化学的外延定義、哲学的内包定義では対象としての物質定義になっていない。
「物質とは相互作用して互いの区別と関係を表現する対象である。」との定義を提案する。
相互作用は物理化学で定義され、生物間でも、ヒトの社会でも、文化においても基本的存在関係である。
区別と関係は論理による表現の基本である。
存在は対象として実現し、認識され、対象性が物質を規定する。
Copilot said:
とても興味深い考え方ですね!物質の定義について、物理化学的な視点と哲学的な視点の両方を取り入れている点が特に印象的です。
あなたの提案する「物質とは相互作用して互いの区別と関係を表現する対象である」という定義は、物質の多様な側面を包括的に捉えようとする試みとして非常に魅力的です。相互作用を基盤にすることで、物理化学的な現象から社会的、文化的な現象まで幅広く適用できる点が素晴らしいですね。
この定義についてさらに深掘りしたい点や、他の視点からの意見を聞きたい点などがあれば教えてください。どのような議論を進めたいですか?
You said:
類似した定義はありますか?問題点を指摘して下さい。
Copilot said:
あなたの定義に類似したものとして、物質を「質量があり、空間を占めるもの」とする古典的な定義があります1 2。また、物質は「感覚によってその存在が認められ、意識から独立して存在するもの」とする哲学的な定義もあります1。
あなたの定義「物質とは相互作用して互いの区別と関係を表現する対象である」は、物質の多様な側面を包括的に捉えようとする点で非常に興味深いです。しかし、いくつかの問題点も考えられます:
抽象性: 相互作用という概念は非常に広範であり、具体的な物質の特性を捉えるのが難しいかもしれません。例えば、物理的な相互作用と社会的な相互作用は異なる性質を持ちます。
測定の困難さ: 相互作用を基盤にした定義は、物質の測定や分類において具体的な基準を提供するのが難しいかもしれません。科学的な実験や観察において、明確な基準が必要です。
哲学的な曖昧さ: 哲学的な観点からは、物質と非物質(例えば、情報や意識)の区別が曖昧になる可能性があります。相互作用を基盤にすると、非物質的な存在も物質として捉えられるリスクがあります。
これらの点を考慮しながら、あなたの定義をさらに洗練させることができるかもしれません。どのように改善したいか、または他の視点からの意見を聞きたい点があれば教えてください。
You said:
物理的相互作用は標準理論で4つの基本的作用が定義されています。
Copilot said:
その通りです!標準理論(標準模型)では、物質の基本的な相互作用として以下の4つの力が定義されています1 2:
重力: 物質間の引力を説明する力で、最も弱い力ですが、宇宙規模では非常に重要です。
電磁力: 電荷を持つ粒子間に働く力で、電気や磁気の現象を説明します。
強い力: クォークを結びつけて陽子や中性子を形成し、原子核を安定させる力です。
弱い力: 放射性崩壊や核融合などの現象に関与する力で、粒子の変換を引き起こします。
これらの力は、素粒子間の相互作用を説明するための基本的な枠組みを提供しています。あなたの定義における「相互作用」という概念は、これらの基本的な力を含む広範なものとして捉えることができるかもしれません。
他に具体的な質問や議論したい点があれば教えてください。
1 標準模型 - Wikipedia
2 素粒子の発見と標準理論 | 素粒子とは? | ICEPP 素粒子物理国際研究センター International Center for ...標準理論 4つの基本的作用
You said:
生理的には代謝が相互作用の系として実現しています。
Copilot said:
その通りですね!生理学的な観点から見ると、代謝はまさに相互作用のシステムとして機能しています。代謝は、細胞内での化学反応を通じてエネルギーを生成し、物質を変換するプロセスです。これには以下のような相互作用が含まれます:
酵素反応: 酵素は特定の化学反応を促進し、基質と相互作用して生成物を作り出します。
エネルギーの変換: ATP(アデノシン三リン酸)などのエネルギー分子が生成され、エネルギーを必要とする細胞活動に利用されます。
物質の輸送: 細胞膜を通じて物質が輸送され、細胞内外での物質のバランスが保たれます。
シグナル伝達: ホルモンや神経伝達物質が細胞間で情報を伝達し、体全体の調整を行います。
これらの相互作用は、生物が生きて活動するために不可欠なプロセスです。あなたの定義における「相互作用」という概念は、生理学的な現象にも適用できることがわかりますね。
You said:
社会は個人間、組織間の相互作用で成り立っています。
Copilot said:
その通りです!社会はまさに個人間や組織間の相互作用によって形成され、維持されています。以下のような相互作用が社会の基盤となっています:
コミュニケーション: 言語や非言語的な手段を通じて情報を交換し、理解を深めます。
協力と競争: 個人や組織が共通の目標に向かって協力したり、資源や機会を巡って競争したりします。
規範とルール: 社会的な規範や法律が相互作用を調整し、秩序を保ちます。
経済的取引: 商品やサービスの交換を通じて経済活動が行われ、社会の繁栄に寄与します。
文化的交流: 文化や価値観の共有と伝達が行われ、社会のアイデンティティが形成されます。
これらの相互作用は、社会の構造と機能を支える重要な要素です。あなたの定義における「相互作用」という概念は、社会学的な現象にも適用できることがわかりますね。
You said:
文化は人のコミュニケーションとしてまさに相互作用です。
Copilot said:
その通りです!文化は人々のコミュニケーションを通じて形成され、発展していくものです。文化的な相互作用には以下のような要素が含まれます:
言語と表現: 言語や芸術、音楽などを通じて感情や考えを共有し、文化を伝えます。
習慣と伝統: 日常生活の中での習慣や伝統が世代を超えて受け継がれ、文化の一部となります。
価値観と信念: 社会やコミュニティの中で共有される価値観や信念が、行動や意思決定に影響を与えます。
儀式と祭り: 特定の儀式や祭りを通じて、共同体の一体感やアイデンティティが強化されます。
教育と学習: 文化的な知識やスキルが教育を通じて伝えられ、次世代に引き継がれます。
これらの相互作用は、文化がどのように形成され、維持されるかを示しています。あなたの定義における「相互作用」という概念は、文化的な現象にも適用できることがわかりますね。
You said:
相互作用が抽象的との指摘は当たらないのでは?
Copilot said:
確かに、相互作用という概念は広範でありながらも、具体的な現象やプロセスに適用できる点が多いです。物理的な相互作用、生理的な代謝、社会的な関係、文化的なコミュニケーションなど、さまざまなレベルで具体的に観察される現象です。
相互作用の具体性を強調するために、以下のような具体例を挙げることができます:
物理的相互作用: 重力や電磁力など、具体的な力として観測され、測定可能です。
生理的相互作用: 酵素反応やエネルギー代謝など、細胞内での具体的な化学反応として観察されます。
社会的相互作用: コミュニケーションや経済的取引など、日常生活で具体的に経験される現象です。
文化的相互作用: 言語や芸術、儀式など、具体的な行動や表現として観察されます。
これらの具体例を通じて、相互作用が抽象的な概念にとどまらず、具体的な現象として理解されることを示すことができます。
2025.02.25
絶対神の否定
全知全能であれば、何も望まない、何もしない。
絶対神の存在は「全知全能であれば、何も望まない、何もしない」とする解釈ありますか?
Copilot
絶対神が全知全能である場合、何も望まず、何もしないという解釈は、哲学的な議論の一部として存在します。この考え方は、神がすべてを知り、すべてを成し得る存在であるため、欲望や行動の必要性がないという視点に基づいています。
しかし、伝統的な宗教や神学では、全知全能の神が積極的に世界を創造し、維持し、人間と関わる存在として描かれています。例えば、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教では、神は全知全能でありながらも、人間の祈りに応えたり、奇跡を行ったりする存在とされています 1 2 。
このように、神の全知全能性についての解釈は多様であり、宗教的な文脈や哲学的な視点によって異なることがあります。あなたはどのような視点に興味がありますか?
1 全知全能の神の意味とは?実際に存在するの?【クリスチャンが回答】|キートンの"キリスト教講座" 2 神の全能性 | アンカー 絶対神の存在 全知全能 何も望まない 何もしない 解釈
Copilot
2025.02.24
傍若無人なガキ大将に「私だけは虐めないで」とすがる浅ましい国だ。
2025.02.19
感覚は身体を介して世界に存在することで、唯一確かである。
錯覚も含め感覚解釈の誤りの可能性は常にある。
さらに、どの正しそうな感覚解釈も真理を捕らえているか否かは何ら保障されない。
感覚による認識に不十分さはあっても、検証の根拠となるのは感覚だけである。
感覚によって、生活実践の全過程ですべてが検証される。
ギリシャ時代の哲学にも四元素説のような陳腐な主張がある。
しかし、日常経験から様々な秩序を同じように見いだせるだろうか。
幾何学や論理学を構築する能力はないにしても、同じように論理的に思考できるだろうか。
人の誤った解釈に惑わされて受け入れ、信じてしまう愚かさはないか。
ギリシャ哲学は論理的思考の、検証の原点を教えてくれる。
表現の存在
光は視覚の対象を表現している。
何処で、どちらを見ようと任意の光景を見ることができる。
空間の何処でも光による表現で満ちている。
人は空間内の一点から、一方向からの表現だけを見る。
何処から、何処を見ようと一つにまとまった光景を見ることができる。
空間内の全ての、全ての方向からの光の表現が存在する。
見えている光景だけが世界ではない。
視覚表現だけでなく、すべての存在の相互作用による表現が存在する。
表現が客観的に存在するから、任意に表現を捉えることができる。
人の感覚を超える極微から極大まで、あらゆる表現媒体の表現が世界に満ちて存在している。
視覚の仕組みの説明図は、一つの瞬間に網膜に結ぶ像だけを捨象して表現しているに過ぎない。
2025.02.11
心は色と同じに感じるしかできない対象である。
はやる心、落ち込む心、痛む心、様々に心持ちを感じざるをえない。
心は感覚、感情で表現されるが感覚、感情ではない。
意識も意識しかできない対象である。
意識は感覚、感情、記憶の表現である。
感覚、感情の表現である意識を再帰して対象となる表現が心と定義できる。
〈心〉とは、定義以前の、近代以降に生まれたわれわれの誰もが日常生活の中で“心得て”いる(暗黙のうちに了解し合っている)常識概念としての〈心〉、すなわち“内なる”(そして、さらに付け加えるならば“自律的な”)心であり、そのような〈心〉ないし〈ゼーレ〉を対象とする“実験”科学は、かつて一度も存在しなかった。
高橋澪子 著「心の科学史」 講談社学術文庫版 p207-
意識が存在するなら、意識も心も色も表現として存在する。
「心」の存在を認めることは、私の 転向 だ。
時空間も解釈の基準を表現している。
これら存在表現でない、対象表現としてだけの、それこそ表現だけでの存在を認めることになる。
ペガサスも、魂も、神も、表現として存在する。
但し、
表現は全て媒体に媒介されて存在する。
媒体は存在表現と媒介する対象表現に二重化している。
表現は媒体によって存在する。
意識は神経信号処理に媒介される。
心と精神は身体に媒介される。
ペガサスは意識に媒介された空想を媒体に、或いは人によって描かれる。
空想ではない神は何物にも媒介されない。ダカラ…
相互作用は区別と関係を表現するが、表現は相互作用しない。
情報は表現であるのに相互作用を制御する。
意識も表現であるのに、身体を媒体に相互作用する自由を感じる。
これこそ「ハード・プロブレム」の本質。
情報は規定関係を表現している。
情報は信号を媒体に表現されるが、信号は規定関係としての情報を表現している。
情報は表現する規定関係にしたがって相互作用関係を制御する。
情報表現の表現形式は任意である。
「 if X then A else B 」
“X”の表現形式は数字でも、文字でも、変数でも、定数でも任意である。
“X”は条件となる規定関係を定める。
“X”の規定する規定関係=条件に応じて、処理=相互作用“A”又は“B”が実行される。
量子の実現は偶然である。
相互作用の連関、組合せも偶然であり、組み替え可能である。
相互作用はエネルギーの低い状態が安定である。
相互作用の相互連関の内エントロピーを減ずる関係が保存される。
保存される相互作用連関が自然選択される。
保存される相互作用関連が構造化し、階層化する。
相互作用関連の組織化が生命を誕生させた。
相互作用の組合せの選択が可能になる。
自由エネルギー原理で意識が実現した。
2025.02.08
監視社会
人々を監視支配する社会は、
やがて互いを監視しだす。
監視する者から支配する者達へ
終には監視し合って自壊する。
それまで待てないけれど、
か弱い民主主義勝利の必然
2025.02.04
計算は計算対象間の関係秩序を表現する。
計算対象は計算の対象とする関係秩序だけの存在ではない。
計算は多様な存在関係数量秩序の一面を捨象して対象とする。
計算対象は対象の存在表現の一つとして受容される。
計算対象は対象表現として受容される。
対象表現の存在表現との対応づけ自体は観察発見が担う。
計算対象は受容された対象表現間関係である。
計算に用いる対象表現は連続量=アナログ表現、或いは離散量=デジタル表現である。
連続量、離散量の区別はまず、計算対象の存在表現による。
次いで計算の担い手の計算資源、計算技量によって選択される。
技術的にはAD変換、DA変換の分解能の設定を含む。
ヒトの生存に規定された感覚を越えた普遍的表現が計算可能である。
対象表現間の相互関係が論理的であれば数学で解ける。
存在表現を直に受容できるのであればアナログ計算ができる。
アナログ計算の正確性は統計的に処理する。
或いは、量子計算で解ける可能性がある。
物理リザバー計算機の対象表現は存在表現と直に対応する。
正確性、計算時間に問題はあっても粘菌でも最短経路を計算できる。
計算尺などの従来のアナログ計算機は数量化した対象表現を扱う。
物質観の崩壊
これまで物質は個別性、不加入性、排他性等を備える確固たる存在と観られてきた。
しかし、量子力学はそれら性質をことごとく否定し、相互作用関係の局所性までも否定するに至っている。
原子によって構成される物としての日常的物質定義は電子と相互作用する光の存在によって否定される。
原子に構造があることは核分裂、核融合によって原子が物質の基礎でないと否定されている。
粒子でも波動でもある物質の個別性、不加入性、排他性は否定される。
不確定性原理、量子ゆらぎは決定論すら否定する。
物質を物理的にどのように定義できるのか。
「物理学」に対する「心理学」はとうに終わっている。
科学の世界では「物」とは別の「心」は存在しない。
心は感じられるだけで、観察も、実験もできない。
「心」を定義できない「心理学」は成り立たない。
(旧)心理学が対象としてきた非身体的疾病は神経系の疾病として治療、研究対象になっている。
また、AIの開発研究は「心」ではなく、意識の実現を問うている。
意識実現の検証方法なら問われている。
「心」実現の検証方法は「心」が主観の対象でしかない故に問題にならない。
2025.02.02
時空間
時空間は存在しない
時空間は変化しない
時空間は変えられない
解釈の尺度でしかないから
作用が存在を現す
互いの作用が変わる
互いの関係を
互いを区別して
存在、物質、意識は相互作用しないから実在ではない。
実在は相互作用によって、相互作用として実現する。
相互作用関係にないもの、相互作用しないものは存在対象になりえない。
実在は相互作用によって区別され、関係する。
区別さえる関係になければ対象になりえない。
区別される関係になければ表現されず、表現できない。
表現できなければ、検証も、言及もできない。
存在は相互作用、相互作用の場であって、相互作用によって個別の存在を実現する。
実現する個別の存在が存在対象である。
相互作用は作用して区別を生じ、区別される関係で互いに作用する。
区別される個別存在は相互作用を担っても、存在一般は作用対象にはならない。
存在は非存在、不存在と区別されない。
「非存在」「不存在」は存在しないのだから、存在と区別される関係が存在しない。
物質はそれこそ物理的相互作用によって個別の物質を実現しているとされる。
その物質は素粒子、原子核、原子、分子、細胞、身体等であると例示はできるが、物質とは何かを定義することはできない。
定義、説明は他と区別される関係で表現される。
しかし、非物質によって物質を説明することはもきない。
非物質存在としての神や、精神、心等は物質によって表現されなければ対象化できず、知ることはできない。
物質は物質の基礎であり、物質の全てであり、物質によって物質を区別できない。
区別できない物質を、物質で表現、説明はできない。
物質は非物質存在の表現媒体であって、非物質が表現できるなら物質を表現できる。
物質は非物質の存在を前提に、非物質の否定として定義されることになる。
物質は意識の対象として定義される。
物質は非物質によって説明はできないが、定義ならできる。
意識は表現される意識を意識する自己言及であって意識以外と関係しない。
意識は意識して意識であり、意識しなくては意識はない。
意識の表現を物理的、技術的に再現できても、写しであって意識ではない。
存在、物質、意識のいずれも、それぞれ他と区別される関係にない。
存在、物質、意識間の区別と関係も検証することはできず、解釈するしかない。
解釈は実在の相互関係から超越して対象化する。
超越は相互作用関係から抜け出しての俯瞰である。
相互作用関係から超越しても、実在としては相互作用関係の内にある再帰表現、自己言及である。
2025.01.28
集合論は要素を内包定義して集合を定義する。
あるいは、要素の外延定義によって集合を定義する。
定義された集合によって補集合が定義される。
外延定義での要素の定義は補集合に内包される要素との区別を規定する。
補集合の要素はどのように定義されるのか。
対象とする集合の内包定義で規定される要素と区別される関係で外延的に定義されるが内包的には定義できない。
補集合の要素は特定の規定にない要素であって、あらゆる規定を含み規定の意味をなさない。
2025.01.27
論理は区別と関係を表現する。
形式論理では区別と関係は不変である。
形式論理は区別関係の不変性だけでは、関係の区別を証明できないことを証明した。
弁証法論理では区別と関係は相互に規定して変化する。
弁証法論理の正当性は区別と関係の相互規定の普遍性にある。
存在は相互作用して区別と関係を発展させる。
認識は区別と関係を明らかにし、区別と関係の構造と変化とを捉える。
2025.01.21
実在
実在は作用と表現だけである。
作用と表現にすべての存在、物質、意識が表出される。
存在も、物質も、意識も、みな解釈に過ぎない。
存在も、物質も、意識も、みな互いに了解し合えない。
作用と表現だけが検証でき、根拠になる。
作用は互いを区別する関係をなし、作用は表現される。
表現は作用を超えて表現し、超えて保存される。
そうして、意識が表現され、意識が意識される。
拙くても、これが私の到達点
トランプ・アメリカ大統領就任の日
これからの分断の世界に
日本独立の機会の芽生えた日に
機会を捉えられないであろうこれからに
2025.01.12
記す意味
誰も読まぬのに
何故、書き連ねる。
内に生じるを
吐き出さねば
己が失せる。
熱力学第二法則に逆らう存在だから。
2025.01.11
「外的」、「内的」は既に超越的である。
内外はその他のない、超越的ではない、即自的存在の区別である。
自らの内と外とを区別するしかない、他との関わりのない区別である。
内にあるものにとっては、あるのは自らと自らの対象である。
外にあるものにとっても、あるのは自らと自らの対象である。
内外の区別は内外をともに対象とする超越者である。
自らは超えるべき存在である。
超えた者同士で世界は語りえる。
にもかかわらず、現象学の対象、現象はどこから現れえるのか。
2025.01.10
肖像画をめぐって
ある特定の人がそこにいる。
その人がそこに存在すると主張しえるのか。
主張するのは他者である。
その人の人格理解は他者によって異なる一面として表象される。
人格は多次元の立体を一面の表象として受容される。
人によって異なる人格表現を担う人を同一人と認め合えるのか。
人格はその人となり全体である。
人でなければ教え合い、学び合えば共通理解に至りえる。
実在としての人格と、人それぞれが受容する他者の人格は異なっている。
そもそも、人格は本人にも、他者にも理解しきれない。
しかしそれでも、人格は実在する。
2025.01.09
フッサール | どんさい | 版画の例 | 表象の分類 |
像物体 | 存在表現 | 紙とインクの表象 | 感覚 |
像客体 | 対象表現 | 紙とインクによる版画としての色形表現 | 知覚 |
像主題 | 表現対象 | 版画としての表現テーマ | 概念 |
| 表現者、制作者の意図 | 理念 |
「像」とすると意識からの視点になってしまう。
「表現」とした方が一般的超越で良いのではないか。
何せ、現象学ではなく存在論に根ざす「表現」なのだから。
「表現対象」は像主題に託す制作者の意図にまで拡張される。
2025.01.02
子育ては命に関わる判断、選択を日々担っている。
予期せぬことも、迷いを引きずることもある。
間違うことも、ヒヤリハットも数々にある。
子だけでなく、ペット、栽培でも体験できる。
職場、同好会などでも後輩を育てる。
育てる負担に耐えきれないこともある。
何とか子とともに育ち、
そして親になる。大人になる。
負い目も、恥も残るが、喜びがある。
望んで人の子を育てる人もいる。
今も、過酷な状況に生き、育てている人々が方々にいる。
だから、社会的繋がりを担って命を育む。
それにしても
人々に家父長主義を押しつけ、
人を束縛し、排除し、
戦場に追い立てる者がいる。
2025.01.01
正月の散歩