第一部 第一編 第1章は、いかなる前提もない世界観の前提を扱う。この矛盾を矛盾として、世界観展開の出発点を明らかにし、組み立てる世界観模型の駆動力を明らかにする。
[0001]
第1節 序論の目的
【存在・認識・論理】
世界観は対象と主体の存在、主体による対象の認識、対象の法則と認識された論理全体をその内に含んでいる。存在、認識、論理はバラバラでも、組合わさっているものでもない。存在、認識、論理は相互に依存し、世界観の骨格として一体のものとしてある。存在の追求は主体が存在をどう認識するかに依存する。認識は対象と特に主体の存在に依存する。存在の構造、存在間の関係は論理として認識され、その認識は論理によって表現され存在になる。
[1001]
「存在するとは何か」と追求していけば、結局は「存在」についてどのように理解しているかという認識の問題になる。物理学で「物質の究極の存在」を追求しても、宗教によって「神の存在」を追求しても、追求者が納得できるかどうかは、その人の「存在」の理解にかかっている。対象のあり方と「存在」の理解が一致するかという対象の認識の問題になる。逆に対象の在り方を追求することにって「存在」することについての認識が深まる。
[1002]
「一致している」かどうかは論理の問題である。認識と論理がともに成り立たなくては存在を捉えることはできない。何が他と区別される対象であるのか、対象の他との関係は、同一の存在でありながら、区別される存在である。同一性と差異性によって対象認識される。同一と差異は全体と部分、普遍性と特殊性、変化と恒存などの論理によって認識される。存在は他を対象とし、他に対象とされる。対象は区別され、他によって規定され、他を規定することによって存在する。存在は論理によって認識され、論理によって表現される。
[1003]
主体は対象の存在を認識することによって主体の存在を認識する。主体は実践によって存在に働きかけ、みずからを存在させる。主体は存在を論理によって理解し、実践によって自らを存在として実現する。
[1004]
【世界観のことば】
世界観の対象は世界である。世界観記述の表現媒体はここではことばである。ここで記述の表現媒体として利用することばは自然言語であり、日本語である。
[1005]
世界を対象とするなら、世界観記述の媒体言語は世界と対応しなければならない。ことばは表記の形式について定義されていなければならない。言語表現は対象を示すことも、言語自体をも示す。いずれも可能であるが混乱させてはならない。それは、対象と媒体との関係として明確に区別されねばならない。
[1006]
「水は高いところから低いところへ流れる」。では「高い」「低い」の定義はなにか。高低は水を使って測るのである。水によって水平を決め、水平に対し高い低いと決めるのである。地球規模で考えた場合、高い低いの意味はなくなってしまう。仮想する地球中心から同じ距離の球面を水平というのか、場所によって違う重力の変位も考慮すべきか。日常的にはへ理屈でも、世界の普遍性を追求するには必要な理屈である。
[1007]
ことばの構造、表現の形式が対象を誤って表現してしまう場合もある。特に価値判断、評価を伴う表現には注意しなくてはならない。「ここではこの様に定義する」等の表記がある。どこで誰が定義したのか、どの程度普遍的な定義であるのか不安になる。生物進化を適応するための変化と記述する生物学の記述も多くある。「するため」などの目標や価値を生物学は実証できているのだろうか。適応する主体は生物個体なのか、種なのか、主なのか。
[1008]
【ことばと論理】
世界観を記述し説明しようとすれば、表現される言語表現全体と個々の言語要素は定義されていなければならない。
[1009]
ことばはことばによって定義され、ことば全体の体系によって意味を表す。個々のことばは対象と対応し、他との関係をことばによって説明し、ことばとことばの関係は文法としてことばの体系を作っている。ことばは個々のことばとしても、表現媒体全体としての意味もある。
[1010]
ことばによることばの定義は、辞書の中をさまようように循環してしまう。ことばはことばによって定義される。ことばは対象を主語とし、対象の性質等を述語によって説明する。そして述語の説明は述語を主語とすることで、また別の述語によって説明される。ことばはことばによって、結局循環して説明される。ことばはことば同士の閉じたことばの関係にある。しかし、この循環が対象世界のすべてを巡ることによって、それぞれのことばが位置を占め、意味を表す。ことば同士の関係として意味を表す。個々の各ことばと対象との対応関係と文を成すことば間の関係が対象を説明する。ことばの関係は形式的関係であり、対応関係は意味の関係であり、対象を反映したことば自体が対象化されて、ことばは実践的に機能する。
[1011]
ことばは指し示す対象との関係を確定しなくてはならない。ことばの全体系の形式と、ことばの指し示す対象間の関係との対応が確かめられなくてはならない。ことば全体の体系と世界の体系との一致によって、世界が表現される。ことば全体の体系として定義された世界が世界観の表現である。逆に、ことばは世界の関係を反映する関係をその内にもっていなくてはならない。
[1012]
ことばも世界の一部分である。世界観全体に「ことば」として位置づけられていなければならない。
[1013]
【全体の始め】
全体を見ることで、始めが明らかになる。これまでの経験、学習によってえたその全体を総括してみる。
[1014]
世界観記述の「論理の始めをどの点にすべきか」として、一つひとつ検討してみても何も明らかにはならない。一つひとつは限りなくあり、それぞれの理解は完全に一致しないどころか不一致の方が多いことがある。ただ、いまここで確実に一致しえるのは世界観について議論を「始め」ようということである。
[1015]
そもそも「始め」とは「始め」として単独にはありえない。「始め」に続く、始めをその先端に含む連続体があって「始め」はありうる。「終り」はともかく「始め」は何等かの全体があり、その一部分として「始め」そのものがある。「始め」は「始め」以外のものと共になくてはならず、「始め」を含む全体の中で「始め」はある。
[1016]
始めは、始めとしてあるにもかかわらず、「始めの、その前は何か」と問うことは、問うている「始め」そのものを否定し、問い自体を無意味にする。観念的ことば遊びでしかない。「始め」は「一番前」であるにもかかわらず「その前」を問うことは、「始め」を「一番前」とする意味を否定し、否定した「前」でない「前」でもって再びその意味を求めるものである。「始め」は全体の中にあって「始め」であるのであって、その「前」は存在しない。その「前」を問うことは無意味である。このことの意味を問うことは問うことの意味を否定する問いである。
[1017]
対象の存在をなす相互関係に立ち入る前に、何から始めるかは暫定的である。「終わり」までの対象の相互関係をすべてたどり、すべての相互関係が分かり、「始め」が始めでよかったのかが判断できる。「終わり」まで行って、何から始めるべきであったかが決定できる。だが、「終わり」も暫定的である。暫定であるからこそ何から始めたか、どこから始めたかを明らかにしておかねばならない。
[1018]
そこで、暫定ではあっても、「始め」を決定するには、「始め」と「終わり」の形式的関係によって決める。「始め」と「終わり」の形式的関係は、「始め」から「終わり」までのすべて、すなわち、全体としてある。有限のことばと時間ですべてを表現することはできない。「始め」も「終わり」もない「全体」から始めることによって、すべての関係を「始め」からたどることができる。
[1019]
そして、決定的なことは、今が、ここがこれまでの到達点として確実な終端である。そして、今から、ここから始めることができる。実践的に確実に始めることができる。
[1020]
第2節 全体の枠組
【最も一般的な全体】
しかし「全体」についてもまだ何も明らかにされてはいない。「全体」についてとらえることが世界観の主題であるのだから、ここでも全体についての結論は前提する全体の「始め」に組み込んでしまわなくてはならない。
[2001]
順次連関の後先を先頭に組み込むだけでなく、構造の全体を先頭に組み込まなくてはならない。まるでフラクタル図形の原点を定める様。あれも全体の美しい形が画面に程よく収まるように、スケールと原点を定めなくてはならない。
[2002]
「有るものの、全体が有る」これ以上になにも言うことはできない。「有るもの」について問題にするのに、その「全体」以外に何も付け加えることはできない。まだ内容は何もなく、最も抽象的である。
[2004]
「全体」は全体をなす「或るもの」を有している。「或るもの」はひとつとは限らない。「或るもの」は複数であってもひとつの全体をなす。複数であっても「或るもの」は何ものをも示してはいないが単数である全体を有らしめている。
[2005]
【抽象的絶対性と端緒】
この「全体」についての抽象的枠組の確かさは世界観にとって絶対的である。
全体の絶対性が世界と世界観を強固に結びつける。世界観は世界の全体を対象とするものであり、世界は全体の以上でも以下でもない。世界観は世界の全体を問題とし、「全体」は世界としてある。「全体」としてある世界を問題にするのが世界観である。世界観のこの抽象的枠組は抽象的であるだけではなく、内容を伴いうる。内容を導けることが世界観の「始め」にふさわしい。「始め」の抽象性の中に組み込まれた無限の豊かさの予感がある。
[2006]
世界の内容がひとつ明らかになることで、そのひとつを含む全体が明らかになる。ひとつひとつが明らかになるにつれ、世界観の内容がひとつづつ豊かに示される。
[2007]
全体は始めからすべて明らかにされてはいない。しかし、全体があるのは明らかであり、そのひとつひとつを明らかにすることが全体を明らかにすることになる。
[2008]
この抽象的絶対性は証明可能である。「私」は私を殺すことによって証明可能である。私を殺すことによって、「私」を亡くし、「私」と世界の区別を無くすことができる。単に抽象的だけではなく、具体的に証明することができる。存在だけでなく、認識だけでなく、論理だけでなく、実践的に証明することができる。自殺によって、「私」の人間性を基調とする世界観自体をその本質から、人間性を含めて葬り去ることができる。完全な証明としても絶対である。
[2009]
【全体の範囲】
全体を決めるのに範囲を定めることはできない。部分の全体についてはその範囲の限界を定めることができる。部分は限定されたものであり、その全体はその限定にないものとの間に限界を持つ。限定を持たない全体の限界は論理矛盾である。限界を求めることは、その外にあるものを前提としており、限定を持たない全体を限定させるという矛盾を犯してしまう。論理的には全体は定義できない。対象の全体を定義すると、その「定義」は「全体」に含まれず、「全体」は全体ではなくなる。
[2010]
全体の範囲を決める限定は、限定なき限定でなくてはならない。全体は限界を持たず、すべての限定を含むものである。全体はすべての部分を含むものである。全体は限定される部分をすべて含む非限定である。
[2011]
【部分による全体の定義】
全体が含む部分とは、部分として限定される関係によって区別される。そして部分はその内により小さな部分を持ち、その外に対して他の部分との関係を持つ。あらゆる部分は相互に関係する部分として部分でありうる。
[2012]
全体とはこのあらゆる部分のなす関係のすべてとして限定される。あらゆる関係からなる部分の範囲が全体である。関係の仕方によって部分は区別される。部分の関係の仕方のすべてによって、すべての部分の範囲が決められる。
[2013]
【関係による全体の定義】
全体の範囲において無関係の関係はない。あらゆる関係によってすべてが全体としてある。関係しないものは全体の内にはない。あらゆる関係にないものとの区分として、全体の範囲が定まる。全体は何等かの関係によって、すべてと関係するものからなる。多世界宇宙であっても、枝分かれによる関係があり、枝分かれの結果を、関係なくなったそれぞれの世界に残している。
[2014]
全体の枠組は関係するものとして限定される。これがすべての出発点となるものである。
[2015]
【内容による全体の定義】
世界観が対象とする「世界」は「宇宙」とも言い替えられる。その意味するところは銀河、星々、太陽系といった大きな尺度がまず連想されるが、それだけでなく、宇宙空間では多様な化学反応、原子核、素粒子反応があり、少なくとも地球上では生命活動、人間の知的活動までがある。
[2016]
世界観で対象とする「世界」「宇宙」といった場合、これら諸相すべてを含んだ時間と空間を表現する。これら諸相は物質を媒体としている。宇宙=世界は、いわゆる物質的時空である。
[2017]
一方、世界観記述の媒体としての言語は概念である。「世界観」が媒体とするのは、概念としての言語表現である。その意味で世界観は概念を媒体とする、概念的時空である。概念はとりあえず言語の体系の中に定義され、意味づけられた対象が言語によって表現される。
[2018]
物質的時空は先験的に与えられた全体である。しかし、物質的時空は先験的に定義されていない。物質的時空間概念は先験的ではなく、感覚器官を含めた身体の経験によって獲得された後天的概念である。概念的時空は物質的時空を反映するものであり、概念としての獲得物であり、定義される体系である。概念的時空は表現体系であり、論理体系であり、操作対象としての体系である。
[2019]
物質的時空は個別科学を学ぶことにより、概念的時空と対応される。
[2020]
第3節 正しさの保証
【全体の正しさ】
世界観はすべてを正しくとらえなければならない。世界観は部分的正しさではなく、すべてが正しくなければならない。そこで、世界観について取り上げるには、すべてについて正しいところから始めることになる。すなわち、すべてである全体について、正しいことから始め順次部分について取り上げ、部分の正しさを確かめる。
[3001]
全体について言える事は抽象的な「正しさ」でしかない。まさに全体であれば最も抽象的である。全体的、抽象的正しさから始めて順次正しさを保持しながら、より部分的、具体的ことがらへ展開する。これが世界観の方法である。
[3002]
世界観の正しさは、全体からより部分的、より具体的ことがらへの順次の展開に、正しさを保持し続けることによって実現される。だが、展開に際して誤りが入り込む可能性は大きい。社会的、歴史的、そしてなにより個人的制約により誤りが入り込む余地はいくらでもある。だからこそ誤りを排除し、すべてについて正しい世界観を保持することは世界観そのものの使命であり、また世界観の社会的、歴史的使命である。
[3003]
部分は常に全体に照らし合わせねばならない。部分は他の部分との関係だけではなく、全体との関係で評価されなくてはならない。全体に位置づけられる正しい部分によって、全体の正しさも維持され、豊かになる。個々のゆらぎは全体に対して補正され、吸収される。個々の個人的誤りは全体の過程中で正され、許容される。ここでの
全体性は、抽象的には始めの全体と同じであるが、当面の問題の対象の全体性である。そのものは他のものと連なって全体をなしている。全体の一部として有ること、これこそがそのものの全体性である。
[3004]
正しくあるためには、世界観は全体から始められねばならない。
[3005]
【筋道の正しさ】
「全体」から始める世界観の論理が世界観の正しさの基礎になる。これからの論理によって世界観の全体が正しくある可能性が保証される。表現される世界観のすべての論理を検証し尽くさなくとも、まず世界観の論理の始めは正しい。正しく始めることは保証される。「結論まで見なければ、正しいかどうかわならない」ということはない。「途中の論理をすべて尽くさなくては、全体は正しくありえない」ということはない。
[3007]
「始め」の正しさから出発し、ひとつひとつを始めの正しさに照らすことで、ひとつひとつの正しさが確かめられる。全体の中でひとつひとつを明らかにすることは、世界観にとって全体の結論を正しくあらせる筋道である。
[3008]
この筋道をたどることで世界観の展開は正しく維持される。世界観としての全体性を維持することで、この筋道の正しさが維持される。全体から出発し、その始めからの連続性と当面の問題の全体との関係を明らかにし続ける。
[3009]
ここでの正しさは「仮定の正しさ」だとか「パラダイムの正しさ」とは無縁である。抽象的ではあるが単に観念的なだけではない。
[3010]
【超越的全体】
ここで、すべての「全体」、究極の全体を問題にしている。この全体の中に、「全体」を指し示す「全体」そのものは含まれるか、という問題がある。
[3011]
「全体」の、論理的理解、形式的理解、いづれの立場にも立たない。ここでの「全体」は範囲でも、ひとつひとつ数え上げる事ができるものとしての対象でもない。集合についてでも、要素についてでもない。対象を要素の集合とし、集合自体を要素とする集合を問題にするのでもない。対象を要素の集合として対象化することの枠組み、論理自体を問題にする。
[3012]
数学的に論理の完全性が証明されて、その完全性によって証明されえない論理があることが証明された。論理の不完全性によって、論理の対象と対象にならない対象との全体が明らかになった。どの様に「不完全」であるかがわかれば、完全性が明らかになる。論理的に証明不可能なことがありうることを、しかし、それをも対象として含めて完全性は回復される。論理的に真偽を決定できなくても、「全体」は決定できる。形式論理によっては定義できないが、対象化可能なすべての「全体」である。直感主義的な把握ということになってしまうが、直感も論理も含む可能性のすべてとしての全体である。
[3013]
対象となりえるものすべてであり、対象を対象とする、主体をも、主観をも対象にする。「無関係」としても、関係を問題にできるものをも含む、すべての「全体」である。
[3014]
このことは、形式的に「全体」と定義すること自体を無意味にする。ここでの問題の内容は、対象としての「全体」ではなく、「全体」として、それを問題にすることの意味そのものである。
[3015]
ここでの「全体」は全体を「全体」としてとらえること、が問題である。「全体」を対象にする対象化の枠組みをとらえることが、課題である。「全体」と全体を対象にする主観とを含む全体の枠組み、構造の中ですべての物事の関係を、関係づける形式を獲得することが課題である。「全体」の関係形式は、固定され、固定したものではない。「全体」が、その要素も含めて、固定されていないからである。逆に、固定されていないものとしての「全体」、固定されたものとしては定義されないものとして「全体」を理解する。
[3016]
【正しさの関係】
ところで「正しさ」とは独断ではない。「正しさ」とは個々の部分の問題である。部分が部分として全体に位置づけられることが「正しさ」である。そもそも全体が正しいかどうかは問題にならない。抽象してしまえば正しさは問題にならない。
[3017]
個々の部分が相互に否定し合って正しさの問題が生じ、どちらが正しく、どちらが誤っているとして結論づけられる。どちらも正しいなどという正しさの結論はない。あるいは連続した関係を断ち切り、二律背反の対立関係で当否を問題にすることによって誤る。
[3018]
この「正しさ」はそのものと、そのものと共に全体をなす他のものとが、互いに正しさを説明すること、証明できる全体の関係の中にあることである。「正しさ」の全体的関係が正しさを決める。この関係にある個々の部分の連なりが整合性である。
[3019]
意見の対立は声量ではなく、一方の論理によって対する論理をその誤りの根拠、誤りの生まれた必然性までも含めて説明することで決る。全体性の中に対立する意見を位置づけること、取り込めることが、正しさの証明になる。全体に位置づけることは最終的には実践することである。実践の過程に組み込むことが、全体に位置づける検証である。
[3020]
【関係の普遍性】
因果関係を法則として理解するということは、世界のどこでも、いつでも同じ原因から同じ結果を予測できるということである。しかし、その結果は現実にはまったく反対の結果でもありうる。光は何処でも直進するとは限らない。
[3021]
結果の異なった原因が他の因果関係の作用によって導かれたことが示されれば、対象となった因果関係の正しさが、より補強されるのである。他の因果関係による作用を受けて結果が違っても、対象となる因果関係が貫徹したこと、その普遍性が示されるのである。だから因果関係それぞれの関係全体の正しさが示されるのである。そのようなものとして、世界全体は理解されねばならない。
[3022]
方法の正しさは因果関係を法則として理解し、その法則を他の諸法則と組み合わせて世界全体を表現できることである。因果関係は裸で、即ち単独では作用しない。特定の因果関係だけを取り出したのでは、その因果が正しいことの保証はない。原因と結果は具体的に固定された関係ではない。因果は関係として一定であるにすぎない。原因と結果が相対的であり、また特定の因果関係は他の因果関係との関係でも相対的である。因果関係の現れは他の因果関係との関係、すなわち条件によって現れ方が異なる。因果関係の法則が現実に現れるのは大なり小なり傾向、あるいは確率としての法則である。
[3023]
このことは逆に、全体の因果関係以外に原因を求めるべきではないということである。すなわち場所によって、時によって、他の因果関係と関係しない結果はないということである。いわゆる、超自然、超科学的作用などは有りえないのである。あるのはただ未知の因果関係であり、その因果関係も、既知の因果関係と連続して全体をなしているのである。
[3024]
世界観の結論、そして全体の正しさとは別に、個々の結論に至る過程も問題となる。天啓としてえたものの正しさは人に理解されない。獲得する過程、方法の正しさがなくてはならない。天啓ですら獲得過程は神秘的に権威づけられて正当化される。内容ではなく、獲得者の人格やその効果によって正当化される。
[3025]
【真偽の目撃証人】
また、
真偽は目撃者、証人がいなくとも普遍的に定まる。「だれも知りえぬことだから真偽のほどは不明である」ということにはならない。「だれも知りえぬこと」と「真偽のほど」は別問題である。「昔、人はサルと同じ祖先から進化した」ことの目撃者はいない。あるのはその断片的な骨や道具である。他方「人は神により造られた」その目撃者は神である。一方は目撃者がいて一方にはいない。どちらが真で、どちらが偽か。真偽の決定に目撃者、証人、証拠は必要ではあるが不可欠ではない。関係全体の作用から推測できるのである。推測は不確かな仮説というだけではない。他にはありえないことを示す推測は、正しい方法である。
[3026]
推測は確率によって定まる蓋然性である。起こりうる確率が高ければ、その条件が多いほど確率は高まり、推測は確かになる。法則として因果関係が明らかでない物事の関係は蓋然性によって真偽が判断されなくてはならない。
[3027]
そもそも、目撃証人と存在証明、真実の証明とどれほどの関係があるのか。ひとつの対象を複数の人が同時に目撃しても、同時であれば決して同じ視点ではありえない。同時に同じ場所に複数の人は存在しえない。さらに複数の人が向き合えば視線は逆方向を向くことになる。複数の視線、視点を考慮せずに一人の目撃証言だけで真実を判断できない。
[3028]
誰かが認めることと、その誰かを認め、その認識を認め、その証言を認めることとどちらか一方だけに頼ることは正しさの保証にはならない。権威や数に頼ることが常に正しいことの保証にはならない。
[1001]
第4節 世界観の認識
【認識の始めに】
「世界をどう認識するのか」を扱う世界観の始めに、認識について論ずることはできない。
[4001]
世界を対象として生きることが主体の直接的過程である。その直接的過程とその過程を対象にする主観の間接的媒介過程、二つの過程の統一が認識である。
認識の問題は、対象となる存在との直接的過程と、存在との関係を対象化する間接的媒介過程との二重の問題としてある。まず直接的過程が明らかになっていなくてはならない。
[4002]
主観とその対象である世界の関係過程である認識について、世界の認識について述べる前に認識そのものを確かめて保証しておきたいのであるが、世界の直接性について明らかにならなくては世界の一部である認識の媒介性を明らかにすることはできない。
[4003]
この認識の媒介性と存在の直接性の関係を整理するのは論理の問題である。何が認識できて、何が認識できないのかは、認識とは何かの論理の問題である。どういうことになれば「認識できた」といえるのか、認識の存在状態の論理的記述の問題である。存在、認識、論理は改めて本論で取り上げる。存在論は
第3章で扱う。認識論は
第12章で扱う。論理は
第14章で取り扱う。
[4004]
さらに存在は第二部の「具体的な物質の運動」全体の課題であり、その中で認識はいわば客観的認識論として生物進化の過程、人間文化の発展過程の中で再論される。第二部に対すれば、第一部での存在論、認識論は主観的存在論、主観的認識論である。第二部を踏まえて第一部の存在論、認識論が理解されなくてはならないが、やはり世界観の体系的説明では逆の進行をとらざるをえない。
[4005]
したがって、序としてのここでは、世界観は世界をどのように観ようとしているのか、世界を観るとはどのようなことなのかを概観する。ここでも、「導くべき結論をこっそりと先取りして、結論へつなげているのではないか」という誤解を避けねばならない。結論をも始めに提示し、そこへ至るすべてを確認しなおすのが世界観の方法である。世界をどのように認識するかをここで要約的に明らかにし、逐論の過程で確認しながら進めることができるようにする。
[4006]
【ヒトの認識】
人間は生物としての存在でもある。人間は生物として物質代謝系であり、生理的過程の統合であり、生物としての存在を否定して人間は存在しない。人間は生物としての存在だけでなく、高度に発達した精神活動を行い、人間社会、文化の担い手でっもある。そうした人間の生物としてのあり方を問題にするときに「ヒト」とカナ書き表記する。
[4007]
ヒトとしての誕生、世界についての理解は誰でも経験してきたはずであるが、どのようであったかなど、言い切れる根拠は何も記憶されていない。すなわち認識開始の記述についての経験的根拠はない。発生の過程で認識能力として感覚器官と中枢神経系が与えられた。その発生の過程、そしてその経験であり、訓練の場である生活過程で認識能力を実現しつつ、世界認識を獲得してきた。獲得してきた世界認識を確かめようにも、はじめには確かめる認識能力が備わっていなかった。獲得した世界認識、そしてこれからも発展させようとする世界認識を確かなものにするにはその始めからを改めて点検しておく必要がある。世界観を改めて組立てる基本的必要性、原理的必要性はここにもある。[4008]
【論理的であること】
世界観の論理は、特にことばによる、平叙文による世界の表現の論理は、論理学でいう論理よりかなり広い。今日の論理学での論理は命題論理、述語論理等であって、概念論やヘーゲルは時代遅れで、文学の論理、相対論・量子論の論理などは個別科学にまかされてしまっている。世界観は世界を対象としてその論理を明らかにしなくてはならず、世界観にとって概念論のない論理などありえない。[5001]
論理とは対象を概念として定義し、対象間の関係形式を概念間の関係形式として定義することである。対象、対象間の関係は客観的存在関系であるが、論理は対象と概念の関係と、概念間の関係という2つの異なる関係形式からなる。前者が認識の論理であり、後者が存在の論理である。
[5002]
対象を論理的にとらえるとは、対象の一面、変化しない質=普遍性を定義することである。しかし対象は多面的で、構造的で、多様であり、また、変化・運動する。したがって、対象を論理的にとらえるには、その対象を限定し、論理を限定しなくてはならない。その限定が認識の限界を明らかにし、その限定を超える対象をさらに論理的にとらえなおすことが認識の発展となる。
[5003]
また、論理を実現するのは我々の思惟であり、思惟の運動形式として論理の形式も論理の対象となる。認識の形式については
第三編第14章で改めて取り上げる。
[5004]
【世界の論理】
世界観は論理的でなければならないが、世界が論理的であるわけではない。
[5005]
論理とは第一に、対象の本質と現象とを区別することである。本質は対象が対象である質の普遍性である。本質は環境や条件による現象の変異から区別される、対象として保存される質である。現象は対象間の多様な相互関係としてあり、現象過程では対象は相対的である。
[5006]
対象の現象過程での相対性のなかに、対象を規定するのが認識であり、何より対象の普遍性を切り出す実践である。主体の実践過程において対象は対象になる。対象との主体の偶然的条件、環境にありながらも、実践過程における普遍的対象として、存在を認識するのが論理である。主体の実践過程は対象との多面的な関係であり、対象との関係自体も変化する。実践過程は多面的現象過程であり、変化する現象過程である。対象は実践における現象過程で多様に規定されるが、その現象過程での普遍性として本質を規定する。
[5007]
主体の実践過程で規定される対象であるが、実践過程にあることが対象の客体性の保証である。主体の実践過程は、主観による客観性を歪めるのではない。実践過程では検証と同時に認識が行なわれているのである。実践を離れた観想は主観であり、客観的ではない。
[5008]
論理は第二に、定義された対象間の概念関係を、抽象的類概念に種差を加えることで具体的種概念へと種・類の体系に分類する。種・類の体系に対象を規定することが概念の定義である。概念は対象を定義するのではない、対象の本質の他との関係を定義するのである。対象の他との関係としての規定性の関連体系として種・類としての概念を定義するのである。
[5009]
論理は第三に、対象間の関連全体が概念間の関係に反映するように概念間の関係を調整する。実践による現象過程で多様に規定され、定義された対象の概念間の関係が対象の存在構造を反映するように調整する。概念間の相互規定が整合するように調整する。対象の存在構造、概念間の関係が閉じた無矛盾の系として、対象を論理系をとして定義する。無矛盾な概念の相互規定の系を定義することによって、対象と概念の矛盾を検証し、矛盾が生じたらそれが論理系の定義の誤りであるのか、対象認識における誤りであるのか、対象自体の変化・運動によるものであるかを確かめることができる。
[5010]
注意すべきは、論理の対象は個別でもあり、総体でもあり、普遍でもある。対象性自体が個別として対象化され、個別は総体の要素として対象化され、また同時に個別の総体が対象化され、そこには普遍的な対象が対象化される。
[5011]
論理は第四に、主体の実践過程を離れ、論理系を対象とする。概念の規定規定形式がもれなく関連づけられていること、規定関係が閉じていること、無矛盾であることを論理関係の論理として、二階の論理を定義する。論理は論理自体として実践対象からは独立に論理命題間の関係の公理系を定義する。
[5012]
したがって、対象が、世界が論理的であるのではない。主体の実践、概念の定義と相互規定が論理的であるべきなのである。論理は主観の内に反映される対象間の関係形式であり、主体の実践過程によって対象と対応し、関係形式として主体間で普遍性をもつ。論理は対象から独立して真理を反映しているのではない。主体の実践過程を離れて、関係形式としての論理を他の対象に適応して解釈しようとしても誤ることになる。
[5013]
【有無】
「無」自体は何も説明しない。「無」から出発して「無」でないものを説明できない。証明するには「無」でない「有るもの」を根拠とする。「無」でない何ものかが有ることを前提にする。したがって「無」は前提にはならない。
[5014]
「有るもの」はそれが何であるかは先の問題として、ただ有るもののすべてを出発点にできる。「無」でないものとして、「有るもの」は全体として有る。有るものがないのが無である。有るものの否定として「無」が定義される。
[5015]
有るものの形式が残されその内容が否定されることで「無」が形式として存在する。
[5016]
論理的説明には論理的限界がある。論理的説明を超えての理解を求めるには「無」も始めでありえる。
[5017]
ここではまだ内容も形式も定義されていない。有無の関係の説明のために例示として内容と形式を使う。
[5018]
「ここではまだ」と場所と時制を指定しているが論理的位置のことである。とくに「まだ」と言う時制は論理的前後関係であって、時間の流れとは関係ない。論理を展開する、あるいは論理をたどるには時間的経過を伴うが、論理は時間の経過にかかわりなくある。論理空間は静止した構造である。論理空間では時間はそのうちで定義されなくては現れない。論理空間は創り出すものではなく、有るものであるからこそ基準になる。それこそ論理は定有である。
[5019]
「有る」ものは「有るもの」の全体である。全体の内容はこれからの問題である。これからの問題の前提となるものは、全体として有るものである。
[5020]
無でない、有るもの全体を対象として解きほぐして行くことが世界観の叙述である。その上で、解きほぐす論理にとって「有無」は基礎になる。「有」だけ、あるいは「無」だけでは論理は成り立たない。「有」だけでは何も論理は成り立たない。「有」「無」の両方の可能性があって、そのいずれかが有ることによって論理は成り立つ。
[5021]
対象が有ることは、対象化が成り立っている。対象化は対象が他と区別される関係にあることである。他と区別される性質が有ることである。他と区別される性質が「有」り、他の性質は「無」い。逆に他には対象の性質が「無」く、他の性質がある。この性質の「有無」によって対象は規定され、存在する。
[5022]
認識の対象としてもやはり、他によって規定される関係を経て定義され、定義の対象が存在が問題になる。認識の対象としての「有無」は論理関係の基礎である。「有無」は「肯定か否定か」である。
[5023]
【世界の外延】
「世界は全体である」ということと、「全体が世界である」ということは自家撞着である。証明しようもない事柄である。世界は限定なしにすべての全体である。世界は全体であって、世界以外にはない。世界はひとつである。世界は世界以外の世界ではないものを関係も、前提もしない。また、世界はひとつであって複数ではない。世界以外の何かを認めることは、あるいは、複数の世界を認めることはできない。それは世界ではないものであるか、あるいは、その様なものがあるなら、そのものを含んだ全体が世界である。
[5024]
世界以外から始めることはできない。ひとつしかないのだから。しかし、ひとつではあるが、その内に部分を含む全体である。全体としてひとつなのである。部分は複数であるが、そのすべてである世界全体から始めるべきで、その全体以外のものから始めることはできない。
[5025]
外側のないものを外延によって定義することはできない。あえて定義するなら、内部から内部のすべての普遍性によって言及することしかできない。全体としての世界は、この様な特殊な対象である。自己言及によってしか表現しえない。この様な特殊性にこだわるのは、世界の内容を取り上げていく際に、世界の外からの作用がありえないことを保証しておくためである。世界がひとつでないとするなら、それは誤りであるか、あるいは詭弁でしかない。
[5026]
【論理的世界】
世界観の叙述は論理的でなければならない。遊んではいても論理的でなければならない。いかなる叙述も論理的でなければコミュニケーションの手段にはなりえない。基礎となる論理を踏まえた上で、論理を無視することで対立点を強調することも、矛盾を記述することもできる。基礎となる論理の上で、さまざまな変形が可能である。ただし、世界観の論理であるから、余り複雑な遊びに走りすぎることは慎まなくてはならない。
[5027]
論理的でないとは、区別される対象間の関係を示さず、対象の部分と全体との関係、位置づけを示さないことである。論理は対象の定義である。対象は他との相互作用の中で他との関係として規定されている。相互の規定関係として全体の内に規定されている。にもかかわらず、対象は相互作用の過程にあって変化し、運動している。変化し運動しているにもかかわらず、対象としてある普遍性を基準に定義した普遍的関係が論理である。
[5028]
対象自体の変化の過程にあって対象で有り続ける規定によって論理は対象を定義する。それは過程全体との関係で不変な対象の存在である。また、主体・主観との関係で変化しつつも対象化し続ける対象についての認識としてある。全体、そして他との関係にある普遍性が対象の論理による定義である。論理的に定義された対象間の関係も論理である。部分の範囲のどこまでを対象とするかによって論理の範囲も拡大し、あるいは限定される。そしてそのすべてが全体としての世界の論理である。論理によって定義された全体が論理的世界である。世界観は論理的世界として組み立てられる。
[5029]
叙述の中の関係が支離滅裂であれば、世界観でなくとも論理的ではないし、コミュニケーションも成り立たせない。
[5030]
【整合性】
論理的正しさを保証するためには、対象化する、取り上げる関連の内に部分的破れ、矛盾が無いことを証明する。対象の関連の内部に整合性があれば、対象部分に誤りはない。対象部分に誤りがなければ少なくとも、対象とした部分のすべてについて、普遍的に正しい。
[5031]
整合性は、任意の存在の規定が、どこでも、いつでも不変である保証である。存在自体は時と場所、条件によって変化する。しかしその対象であることの規定性は不変でなければならない。対象の規定は対象の恒存性によらなければならない。規定の普遍性と対象の恒存性とは相補的である。相互に依存しあった関係にある。どちらかに根拠を求めることはできない。整合性は対象規定の普遍性によって保証される。
[5032]
認識としてはひとつの全体を見渡して、順次分割すれば整合性を保てる。実践としては確かな要素単位を一つの全体として、順次確かな要素単位を付け加えることによって整合性を保てる。全体との関係が明らかなうちは、順次の作業による整合性は維持される。正しい論理ですべてを取り上げるには、全体から始めるしかない。
[5033]
「AはBである。BはCである。ならばAはCである」こうした一つひとつの関係をたどる論理によってすべての関連を対象化できたら、個々の論理的正しさの証明である。ただし、「A」,「B」,「C」などの記号によってすべてを置き換えることができるのか、そこに作られる関連が置き換えられたものの持つ関係と同じであるかは、別の問題である。記号によってすべてを置き換える事は不可能である。置き換えによっては質を扱うことができないから。同じく、記号でなくてもすべての論理を追う事は不可能である。論理はいくらでも複雑化しえるし、論理の対象も限りなく多様である。
[5034]
また、要素を定義し、その関係を論理的にたどる公理系では当の公理系が正しいかどうか証明することはできない。このことは論理学によって不完全性定理として証明されている。単に論理関係だけでは世界を定義することはできない。世界との対応関係を定義しながら世界の関係を論理に置きかえることによって世界観を組み立てることができる。
[5035]
論理によって定義される概念は世界との対応関係を意味として反映していなくてはならない。しかし、その「意味」は論理的に定義する意味であって、世界の対象部分についての解釈ではない。論理的に定義する概念によって世界を再構成できるように定義され、意味づけられなくてはならない。その「意味」が日常的経験に基づく解釈とずれるものであっても、個別の対象の示す印象と離れてしまっても、論理の連関によって論理全体の構成から定義していかなくてはならない。すべてを明らかにしなくてはならないが、とりあえずは形式的に一点から始めなくてはならない。すべてを一点から始めて、順次豊かな全体を構成していく。内容的には全体から始める。形式と内容との統一を維持しながら世界観を組み立てる。したがって、途中に登場する概念は具体的、個別的対象のすべてをその段階では反映していない。論理的定義による概念は日常的経験の対象の具体性、個別性とは隔たった普遍性を持っている。一点から始めて、順次豊かになっていく論理の展開をすすめる全体の規定性が肝要である。この普遍性を具体的に、個別に最終的に対応させるのは、実践の場における主体と対象の規定である。
[5036]
論理的正しさは全体の中で、個々の論理が占める位置を明らかにし、それぞれの位置で他の分野と論理的に整合することを確かめなくてはならない。対象のもつ他の質についての関係の論理との整合性である。個々の論理の位置を示す全体の座標を明らかにしつつ、個々の論理的整合性を確かめる。まず、全体から始める。
[5037]
例えば、時間は時計で測られる。時計の正確さは何によって測られるのか。ニュートンの時代では、どこでも時間の進み方は同じとされていた。アインシュタインの相対性理論によって、運動によって時間の進み方は異なるとされ、実際に観測された。では、進み方の同じ時間と、進み方の異なる時間は何によって測られたのか。運動の相互の比較によってである。
[5038]
ガリレオは、振子の等時性は振子の重さ、振れの角度に関わりなく、周期が一定であることを発見した。振子の等時性から時計が作られ、改良された原子時計では10のマイナス13乗の精度であるといわれる。さらに中性子星であろうといわれるパルサーの回転の一様性によって精度の桁数は飛躍する。振子の等時性は、振子相互の比較によって観察された。一日、一年の長さがほぼ一定であることは一日の労働の成果、旅に要する移動時間等等の比較によって、経験的単位として理解され、天体の観測によって確かめられた。世界の様々な変化が比較されることによって、すべての変化の間の相関関係として一定の時間の進み方が認められた。
[5039]
他方、振子の等時性は実験だけでなく、支点から重心までの長さによって、周期が決められることが力学の体系の中で証明される。同じ力学の体系の中で星の運行、特定の原子の電子の運動等等、力学の体系の中では、すべての運動が示す反復時間が一定であることが示される。
[5040]
そして、相対性理論では個々の力学系の内では一定である時間の進み方が、異なる力学系間では相対的に異なる。ただし、でたらめになるのではなく、相対的運動の相互の速さによって決まる割合で変化する。個々の系の中での時間の進み方を測ることができ、相対的に異なる時間の進み方の差を測ることができるのも、時間の進み方の関係がすべての運動の相対関係の内で一定であるからである。ただし、同時性については原理的に検証のしようがない、直接的関係にある。
[5041]
物理学の根底を支えているのは等価原理である。物理法則はすべての物理的存在に対して同じに働く。
[5042]
「地球の周囲は何故4万kmなのか?」これは地球物理の問題ではなく、歴史の問題である。地球に関する論理ではなく、単位の決定の社会的問題である。地球や長さは確かに物理的問題ではあるが、単位の決定は社会的、歴史的経緯がある。地球と長さの単位の関係に、物理的意味を求めるには単位そのものの規定を確かめておく必要がある。北極から赤道までの子午線の長さを10,000,000mと定めたからであり、今日端数があるのは地球が球形でな地球物理の問題と、測量制度の技術的な問題である。
[5043]
さらに、世界観にとって重要なことは物理学の説明だけでなく、全体の相互関係の中での一定の事柄の理解、認識のされ方である。個々の認識で、対象の比較は直接的に、間接的に行われる。次に、例外が例外である条件を明らかにすることによって一貫性が傍証される。最後に、反例がありえないことの証明によって完全に証明される。世界のあらゆる事柄について全体の把握、相対比較、反例の条件、不存在の証明により、より確かに、統一的に世界を理解し、認識することができるはずである。[5044]
【連続性】
未知の部分は既知の部分の連続、延長上に位置づけられる。新しい知見が既知の部分の変更をもたらすとしても、それは変更であり、あるいは制限であり、全面否定ではない。それよりここで重要なことは、未知の部分が既知の部分と連続するからこそ、既知の部分が見直され、より全体的、より正しい理解がえられるのである。
[5045]
この
連続性は任意のどの存在も周囲によって規定されていることである。数学的には微分可能であることである。すべての存在は他との相互関係によって規定される対象性である。他との関係として全体と関係する。全体を構成する関係の中で、他と関係するものとしてすべてのものは存在する。その関係において、対象性としてすべては存在する。その関係はすべてと連なり連続している。
[5046]
人類はこの方法によって、世界を理解しようとしてきた。科学はこの方法により、部分的破れを埋め、矛盾をつぶすことで発展してきている。全体がもつ連続性によって部分の破れが明らかになり、矛盾の構造が明らかになる。
[5047]
無限の一つづつを確かめることは不可能である。単純に数えるだけでも、人間の一生涯をかけてどこまで数えられるか。1分間で数えられる数を測定してみる。数が大きくなればなるほど1分間で数えられる数は少なくなる。70年間でいくつまでの数を数えられるか。
[5048]
一つづつ確かめることはできなくても、全体は「無限」としてとらえることができる、表現することができる。一つづつ確かめることと、全体を確かめることには、確かさに質的違いがある。しかし、確かであることには違いはない。
[5049]
無限の一つ一つはそれぞれが区別されることと、一つ一つが順序づけられることによって、数えることができる。「数える」とは、数える対象と自然数とを順番に、一対一対応をとることである。どこまで対応づけられたかの結果が、対象の数である。自然数のすべてと対応づけられる対象が無限である。
[5050]
無限は認識不可能ということではない。無限は不確かなのではない。無限も確かに数えられる。さらに、無限である自然数と、無限である実数との数の大きさすら、比較がされる。それは、無限と無限の比較ではなく、自然数一つ一つと、実数一つ一つの対応として比較される。
[5051]
「わかる」ということは、ひとつひとつすべてに対応する知識を獲得することではない。世界についてのすべての知識を獲得することはできない。それは原理的に不可能である。無限にあるすべての物を、それ以外の物と対応させることは論理的に不可能である。すべての物をその内の部分と一対一で対応させることも、論理的に不可能である。集合のすべての要素をその内部の部分集合の要素と1対1対応させることはできない。
[5053]
【対象性、媒介性】
世界の存在、物事のあり方は対象性をもつ。物理学で言うところの「対称性」よりもより基本的な性質である。[5054]
存在は他に作用することであり、他から作用を受けることである。他との連関なしに存在はしない。存在そのものが他との相互作用にあることである。存在を認識できるのも、相互作用を介してである。認識の対象も、認識の主体も認識以前の存在一般と同じ相互作用によって存在する。作用するものとして他を対象化するものとして存在一般がある。存在することそのことが他から作用を受ける、対象となる対象性である。対象性は相互に作用し、作用されるものとしての存在の本質的性質である。相互に作用するもの、作用されるものの相互作用の前提ではなく、相互作用の自他の区別以前に、自他の区別をする相互作用の過程で存在するのである。
[5055]
対象性には直接性と
媒介性がある。直接性は対象性の直接の表われである。直接する相互作用の対象性が直接性である。媒介性は直接的相互作用の連なりが直接性を介して間接的に相互作用する性質である。
[5056]
直接する相互作用は相互の対象性によって作用過程が規定される。直接的相互作用の連なりが全体としての相互作用の過程を組織すると、相互の規定性が直接的相互作用を制限したり、規定するようになる。単純な媒介性の過程はフィードバック機構であり、より複雑な媒介性は自己組織化である。
[5057]
個別科学でも分析と総合が問題になるが、従来総合は分析結果の解釈程度の理解であった。しかし、総合が単なる解釈問題ではなく、物質進化、生命の構成、生物進化の過程の解明としての問題になってきている。自己組織化の過程分析はできても、どのように発展するかまではまだまだ不十分である。まだ自己組織化の過程を個別科学の対象とすることすら、当然のこととして受け入れられるまでに至っていない。
[5058]
媒介性は存在する物事の関係としてあるだけではない。存在にとって存在そのものの媒介性が重要である。人間は他の人間と相互作用し、物を利用し、物を生産する。しかしそれ以前に物として、生物としての生理的過程があり、生物進化の歴史的過程を経て存在している。また社会的人間関係の中で、特に両親を介して誕生し、生活・文化の過程で成長してきている。媒介された結果としての人間存在にとどまらず、自己を維持し、自己を実現するものとして、自らを媒介し、未来に対して自己を展開しつつ、子を産み育てるものとして人間存在がある。人間は媒介された存在であり、媒介する存在である。人間は主体として自らの媒介性を理解しやすいが、媒介性は存在の普遍的な性質である。
[5059]
媒介性の理解が世界観理解には不可欠である。
[5060]
第6節 常識
正しい方法によって獲得し、正しい表現による世界観であっても歴史を画する力を持つわけではない。世界観はあたりまえの結論にしかならない。正しければ正しいほど超自然的、超科学的な力が作用するはずはないのだから。これまでの諸先輩の成果を、何とか自分のものとしてひとつにまとめ、ひとつの世界に対応させる。その時点での一定の結論でしかない。しかし、正当な新たな結論は決して常識とは一致しない。
[5061]
【常識の確認】
通常の対話は
常識がなくては成り立たない。対話が成り立つためには、まず共通のことばがなくてはならない。また、ことばの意味について、対話の内容に応じた共通理解がなくてはならない。そして、共通の問題意識がなくてはならない。対話の当事者はこれらのことを、互いに認め合っていなくてはならない。ところが、この常識は決して普通ではありえない。たんなる常識、だれもが多数の人が認めることがらとしての常識は、あえて伝達する必要のないものである。
[5062]
一致した常識を持つ当事者が対話を必要とし、行うのは非常識を問題とするからである。常識になっていない事柄、あるいは常識に反する事柄が当事者の問題になるからである。常識外の事柄を、常識と関連づけ常識内に取り込むために、共通理解とするために対話を必要とする。非常識、反常識を常識化することで、以前の常識は常識を点検せられ、新しい常識として再構成される。程度は様々であっても対話によって常識は発展する。
[5063]
【非常識の常識化】
世界観を問題にすることは、この対話を意識的に徹底してみることである。すべてを非常識とし常識を再構成するのである。世界観として再構成される常識は、当然にあたりまえのものでなくてはならない。しかし、あたりまえ以上の価値を持たねばならない。すべての事柄を意識的に点検し、意識的に再構成することで、世界をいままで以上に明確に見ることができる。何となく身についてしまった常識、何となく共通理解であると思っていた常識から離れ、自分で確認できる常識を持つのである。手の届かない世の中の動き、漠然とした将来の不安、いたたまれない無力感をはっきりと意識し、解決へ向かう方向を定めるのである。
[5064]
世界観は、そのような常識でなくてはならない。世界観を問題とするとはこうした常識の点検でなければならない。したがって、世界観は非常識までも問題とし、それを常識化し、常識を常に新しいものにしていく観点でなくてはならない。
[5065]
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