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第一部 第一編 端緒

第3章 存在


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第3章 存在

全体の存在の有り様は改めて第二編からの一般的、論理的世界で扱う。ここでは全体と部分の構造以前の、第2章有論を受けてのより普遍的な有が規定される定在を扱う。規定される有の有り様が個別の存在である。[0001]
世界を問う、有を判断する主観を相対化し、対象世界を客観的に扱う準備をする。与えられた自分を相対化、対象化し、自覚的、主体的に世界を認識しなおす準備をする。[0002]

【存在論の有用性】

存在論を思弁として切り捨てることはできない。存在論は前時代の遺物とて無視することはできない。前時代の問題であっても現在なお引きずっている問題である。[0003]
地動説とて今日でも全人類の常識にはなっていない。科学教育がどんなに普及しても、始めから経験的に地動説を身につける人はいない。さらにガリレオの相対性原理によって運動は相対的なものであることが明らかにされた。「だから天動説も誤りとは言えないのだ」こうした解説をする者すらいる。どうして相対性原理によって天動説が支持されたことになるのか。否定の否定は肯定になってしまうなど、存在の有り様を無視した、認識の発展の有り様を無視した形式論理で物事を理解することはできない。[0004]
量子力学の解釈は存在論、決定論の問題として繰り返し問われている。[0005]
自然科学者ですら、そのすべてが死後の世界、不死の魂の存在を否定していない。科学者も専門分野以外では素人である。科学者にとってどのように明白な理論であっても、実用の段階では様々な制約要件が作用し、必ずしも明白ではない。大きな科学的発見のあった時には、その解釈をめぐって対象の存在、認識の問題、理解の問題が問われる。決して存在論は過去のものではない。放置すれば新しい科学的装いで存在を歪める解釈が復活するのである。[0006]
ましてや青年にとって、時にはみずからの存在を問うて生死の問題にすらなりうる。果してこの世界観が自殺防止薬になりうるかはともかく、決して存在論は無意味ではない。[0007]

【月の存在】

「月は存在しているか?」「そんなもの見て見りゃわかる」という議論がある。[0008]
「月は、空を渡る光る円盤のことで、半径1,700km、重さが地球の百分の1の石の塊などであるわけがない」「昨夜の月と今夜の月は形が違う、同じ物であるのか」あるいは、「錯覚とか、幻覚という現象があるにも関わらず、見えるということだけで月が存在していると主張できるのか」「月へ行ったと主張するが、あのテレビ映像はアメリカの国威高揚のためのSFXである」何をもって月の存在を主張できるのか。[0009]
また「月を見ているのではなく、月からの光を見ているのであって月その物は見えない」と言うのは「見るとはどういうことか」という認識の問題である。[0010]
存在を問題にしている「月」とはどう認識、定義される物のことを指しているのか。論理の問題である。[0011]

「対象とする物が存在しているか」「対象を認識できるか」「対象と対象の認識の結果との関係はどなっているか」[0012]

月は見えるだけではない。東の空から西の空へ動く。周期的に満ち欠けし、季節の移り変わりとも対応関係がある。月の位置と潮の干満には対応関係がある。月食や日食もある。月に見えるクレーターは小惑星、微惑星の衝突跡として、地上のクレーター、衝突実験の跡との比較することができる。見るだけでも様々な情報が得られる。[0013]
月の位置運動は太陽系の運動の中に位置づけられる。太陽系の運動は万有引力と慣性の法則によって説明される。万有引力の現れの一面は物の落下によって日常的に確かめることができる。物が上昇するのは、万有引力の直接の現れではなく、上昇する物と空気或いは水などとの地球との引力の現われの違いとして確かめられる。[0014]
さらに光によって見ることの光学的効果は日常的に確かめることができる。望遠鏡で見るには焦点の調節が必要になる。可視光線以外の光、電波によって月を確かめることができる。錯覚、幻覚は生じる条件を確かめることができる。その条件にないときに月は見える。[0015]
ロケットによって月に行くこともできる。観測機器を送ることもできる。われわれの世代はテレビで月に人間が降り立ったところを見ることができた。若い世代は録画を見るだけで、再現することは技術的には可能でも、政治的、経済的に阻まれている。テレビは実際の映像とは別に、スタジオで、或いはコンピューター・グラフィックスで月を歩く人間の姿を映すことが可能なこともわれわれは知っている。フィクションであるかどうかは、テレビ番組の関係者等から直接、間接に確かめることができる。逆にオカルト番組は視聴率を巡る金儲けを目的として作成され、そのためにフィクションであることの秘密は関係者によって守られ、また破られる。ごまかしであることが番組制作者に理解されなくては、テレビ放映は大規模な詐欺に利用される。[0016]

月は見えるだけではなく、この様に様々な関係が見ている者との間にある。その関係は普遍的である。昼間は見えなくとも月との関係は存在する。太陽によって見えなくなっているか、雲に遮られているか、地球の反対側にあって見えないかだけである。[0017]
光、重力、観測機器、ロケットなどの月との関係の媒体は、月との関係だけでなく他の物との間の関係も媒介する。その関係もさらにより基本的な関係によって実現されている。ロケットで人間が月を訪れるためには、膨大な研究、技術開発、原材料、作業、組織が必要になる。これら関係要素の一つ一つによって月の存在が確かめられる。技術的可能性、経済的可能性を日常社会生活上の可能性の延長上に確かめることができる。複数の違った立場の証言によって確かめることができる。異なる証拠間の関連の整合性によって確かめることができる。[0018]
月は物語にも出てくる。物語が作られた頃にも月は存在していた。「月」によって人々は様々な感情を引き出される。様々であっても一定の様式がある。「月」は芸術、文化としても存在が確かめられ、記録されている。[0019]
科学によって存在を確かめるということは、この一つ一つの関係と全体の関係を前提に新しい対象を観測し、既知の対象を再検証することである。自然科学だけではなく、社会科学、人文科学とも連なっている。世界の、また世界観全体の相互諸関連の中に位置づけられて存在が確認される。これが実在することである。これらの全関連を否定することは、世界の存在否定か、世界観の成立の可能性の否定にまで至る。[0020]

【何が存在するのか】

私は存在するのか。[0021]
私の父、母は存在するのか。[0022]
すでに会うことのできない曾曾祖父、曾曾祖母は存在したのか。[0023]
生前をしのぶものもない、系図にもない、遠い祖先は存在したのか。[0024]
このペン、この紙、この本、ディスプレイ、キーボード、マウス等眼前の物は存在するのか。[0025]
ペンと言っても、万年筆もポールペンもある。「ペン」と言う物は存在するのか。「ボールペン」と言っても、黒いボールペンと赤いボールペンは別である。[0026]
見えない物は存在するのか。例えば背後の物。[0027]
色、形、音、旋律、拍子は存在するのか。[0028]
圧力、温度、湿度は存在するのか。それらは分子の運動状態、分布状態の現われでしかないのではないか。[0029]
エネルギー、エントロピーは存在するのか。[0030]
分子、原子、素粒子、クオーク、マザー・ユニバースは存在するのか。[0031]
ランダム・ドット・ステレオグラム、ホログラムの像は存在するのか。[0032]
計測に誤差はつきものだが、計測しようとしている対象の真の値は計れないのに存在するのか。[0033]
平均値、最大値、重心、質点等統計値は存在するのか。[0034]
点、線、自然数、無限、無理数、虚数等数学の概念は存在するのか。[0035]
真理、真実、価値は存在するのか。[0036]
霊、天使、神は存在するのか。[0037]
概念、論理、法則、理念は存在するのか。[0038]
生命、精神、人類、文化、歴史は存在するのか。[0039]

存在は再現性だけによっては確認できない。[0040]
存在は認識可能性だけでは確認できない。[0041]
存在は感覚、経験だけからは確認できない。[0042]
存在は少なくとも対象が存在し、その存在を問題にする私=主観との関係が無くては存在自体問うことはできない。主観と対象は相補的に存在しなくては存在を問うことはできない。[0043]
そして、存在を問うことは、どのように存在するかという問題でなくてはならない。存在について慎重に考えるときは「・・・と名付け、定義している対象の実在の有り様」を対象にしなくてはならない。「名付け」「定義」は対象についての反省によるものであり、対象の直接性からは区別してかからなくてはならない。名付け、定義したことで対象をわかったことにはならない。[0044]

【存在、論理、認識、そして実践】

存在論を最も本質的であると主張しても、何かが「存在する」とどうして言えるのか、存在するとはどういうことかと問えば、認識について論じなくてはならない。存在する対象と、それを対象にしている主観・主体の関係は認識であり、実践である。何らかの物事間で互いを対象にするのではなく、存在を問うのは認識である。[0045]
「存在する」から「認識できる」のか、「認識できる」から「存在する」のか。「存在しない」から「認識できない」のか、「認識できない」から「存在しない」のか。「存在する、しない」を「認識する」のか。どのように「認識できる」ことが「存在する」ことなのか。この問題を整理するのが論理である。[0046]


第1節 有の定在

【有り様、有り方】

主観は何でも対象にできる。主観はすべてのものと関係する、関係を拡張、創造することすらできる。逆に主観は対象との関係を断ち切り、対象を否定することもできる。したがって、単に主観との「関係」では何の存在も確かめることはできない。対象間の関係として、主観からは独立な客観的な関係が問題なのである。主観からは独立な関係は「有るか無いか」ではなく、それぞれの有り様、有り方、また全体の有り様、有り方が問題なのである。[1001]

【関係性】

存在は関係性によって判断される。関係性は他と関係することであり、他との関係を通して全体の関係に連関することである。関係性は対象性の連なりである。対象性が個別存在の他に対する、他から対する双方向の関係であるのに対し、関係性はその関係全体の全方向の連なりである。個別対象に限定されていない普遍的な対象の対象性である。[1002]
何らかの個別的存在は他と、全体と関係する。他と、全体と関係することで規定される。規定するのは神でも、主観、主体、観察者のいずれでもない。他との関係、全体との関係として規定されるのである。他によって、全体によって規定されることで個別は存在する。[1003]
ここで、他との関係と全体との関係は同じ関係ではない。個別的存在は他との関係と他と他の関係の拡張される関係として全体と関係する。個別的存在は他との直接的関係を媒介として全体と関係する。個別的存在は他との関係とそれに媒介された全体との関係によって普遍的存在=実在である。[1004]
存在を明らかにすることは、対象の関係の仕方を明らかにすることである。真実が、人類が、人間一人が石のような物のようにだけ存在するはずはない。物質としての有り様が存在の有り様のすべてではない。唯物論者は「タダモノ」論者ではない。物質の存在すらも、物としての存在のあり方すら波であり、粒子であり、位置と運動量を同時に確定はできない存在である。逆に位置と運動を同時に確定できない存在とはどのような関係にあるのか。粒子でもあり、波でもあるという存在はどのような関係にあるのか。ヒトは他の物事とどのように関係しているのか。人類とはどのような関係としての存在であり、他に対してどのように関係しているのか。真理とはどのような関係のことをいうのか。他との、全体との関係を明らかにすることで、対象の個別存在、実在性が明らかになる。それらの関係全体の整合性が普遍性である。関係性の全体を明らかにすることが、普遍性を明らかにすることになる。[1005]
全体の枠組を限定する関係は全体の存在の仕方の問題である。この枠組によって存在と非存在が区別される。この関係の枠組によって世界全体が限定され、関係の仕方によって世界の在り方が規定される。関係の範囲と、関係の仕方によって世界全体の存在の仕方が説明される。[1006]

【規定性】

定有は規定されて定在になる。定有を関係性に位置づけて存在する、定在にするのが規定性である。普遍的な定有が関係性によってどの様にかして個別的な存在として現れる。最も普遍的な性質である有は、関係によって規定され定在を現す。[1007]
全体も、関係のすべてとして規定され、存在を問うことができる定在となる。それぞれの個別的存在も個別であること、存在であることは他との関係によって規定されて現れる。存在があって関係があるのではない。関係があって、規定されることによって個別存在が現れる。[1008]

他との関係によって規定されるが、他によって規定されるのではない。そのものが存在するには他との関係においてあるのであって、他との関係にあることが存在することである。他との関係は時と場合によって異なってありうる。他との関係は偶然に依って現われ方が異なる。様々な現われ方をするが、そのように他と多様な偶然的な関係する普遍的なものとして個別存在はある。[1009]
ここではまだ、内在性は問題にならない。一般的存在には内在、外在の区別はない。内在性は存在の構造、系が問題になってから現れる。[1010]

【規定性の反省】

規定性の基準は対象の概念の基準になる。[1011]
個別存在は全体の内に他との関係にあって直接的に規定されている。これを主観は、個別存在の規定性を反省し、他の概念との関係として規定する。主観はすでに獲得された概念間の関係を基準に、当面の個別的対象を反省する。主観において個別存在の対象性は他の概念に媒介されて定義される。主観は対象を他とどのように関係するものであるかによって定義する。主観は個別的対象を直接的に対象とするが、同時に対象全体を媒介的に対象とし、反省する。主観のこの二重性が対象認識の混乱の元になり、また認識の発展の源になる。[1012]

対象の性質は他との相互関係として直接的に現れる。相互関係の現れは偶然であり、過程にある。偶然な変化する過程にあって対象の不変性が現れる。他との多様な相互作用の結節点として対象の普遍性が現れる。他との直接的規定性は多様で変化するが、不変性と普遍性として媒介された対象の規定性が現れる。[1013]
対象は対象間の直接的規定性と、主観に反映された概念間の媒介的規定性に二重化される。二重化されるが対象自体が多重化するわけではない。対象の直接的あり方と、主観の内に媒介されたあり方との二つのあり方が反省されて重なる。媒介され、反省された概念として対象が定義される。本質的か現象的か。直接性か媒介性か。内容か形式か。具象か抽象か。個別か普遍か。能記か諸記か。物か事か。[1014]

また、「有」は規定されることによって主語をもつ述語になる。これまで「有」は単独でありえた。「有」は全体を言い表すのであるから単独でありえる。「有」は規定されることで、個別の対象性として個別について規定する。逆に個別の規定によって、有も規定される。「有る」という性質は規定されて、「何々がある」という主語と述語によって表される。[1015]

【実在性】

存在するとの判断基準は何か。存在すると感じるとは何によるのか。実在感=リアリティが主観にとって問題になる。[1016]
対象の実在性は対象の対象以外の物事との関係として、その関係全体としての世界全体との普遍的関係によって判断される。[1017]
全体である世界の実在性は、対象である世界のすべてと、世界を対象化している主観との関係によって判断される。[1018]
聴覚を例に考える。通常、音は空気の振動である。空気の振動だけでは音にならない。低周波、超音波は聞こえない。聴覚器官との相互作用が成り立たなくてはならない。さらには音を聴き分ける脳の中枢が機能しなくてはならない。聴覚器官、脳だけであっても幻聴は音として感じられ、実在性を問う対象になる。[1019]
クリアーな音=鮮明な音は人工的であって実在感に乏しい。音の実在感は音波の性質だけではなく、音の方向性、響き、時には雑音によってリアリティーを感じる。さらに他の感覚との複合によって実在性が判断される。[1020]
音の振動は他に置き換えることができる。マイクロフォンの振動板の運動に、電気信号に、オシログラフの画面に、レコードの溝の波形に、電波に、磁気ディスク装置の磁界の集積に、等々に変換され、音の特性は媒体によらず保存され、再現される。実在の証拠は媒体に依存しない普遍性として保存される。保存される普遍性によって実在性が確かめられる。保存されるから加工もできる。音質の保存は技術と資金、要求によって決定される。[1021]
さらに、判断の連続性、継続性によって実在性は判断される。夢の実在性は、夢の中では主観的に判断され、納得する。醒めて反省すると当然に付随すべき感覚が欠落していたことに気づく。さらに現在と夢との物事の非連続性、非継続性によって夢の非実在性が確認される。全体に連関する普遍的関係によって実在性がとらえられる。[1022]
実在性の判断は、対象を規定している諸関係の普遍性の確認である。個々の関係が破綻せず、空間的関係、時間的関係、構造的関係が整合する。同じ条件で同じ実在の物事は、どこで、いつ、どのようにあっても同じである。条件が同じであれば、実在である物事の他に対する関係は同じである。普遍性を基礎に具体的に規定される物事に実在性が感じられる。普遍性をもたないものは実在ではありえない。[1023]

実在性をもつ対象である実在とはなにか、「・・・は実在するか」が問題になる。経験的事実、感覚的に捉えられる対象だけが実在するのではない。実在性はそのような物理的性質だけが基準ではない。物理的性質は物理的関係において現れるのであり、化学的性質は化学的関係に、生物的性質は生物的関係に、精神的性質は精神的関係に、文化的性質は文化的関係に、そして、数学的性質は数学的関係に、論理的性質は論理的関係に現れるのである。生物は実在するが物理的性質に還元できるものではない。他の諸性質、諸関係間の関係も同じことである。精神的存在、文化的存在は生物的関係、物理的関係に媒介されて存在するが、生物的、物理的存在としてだけ実在するのではない。物理的存在だけが実在の基準であるなら、生命も、精神も、文化も、形式も実在しなくなってしまう。物理的性質であっても、量子力学における実在性は経験的事実、感覚的に捉えられる対象とはまったく違う存在である。存在は多様な、重層的な、相対的な関係にあり、それぞれの関係の連なりの全体の関連の中にあり、その全体の関係の中にあることが実在することである。[1024]

実在しない物事は、主観が存在の関係形式を拡張したところに存在を想定して現れる。関係形式の拡張として、形式的には普遍的であるように捉えられるが、個別性がなく、確かめるすべはない。[1025]
科学実験の解釈においても、日常的感覚においても実在しない「物事」は現れえる。しかし、それは主観の内だけに存在する。[1026]


第2節 対象の存在

対象は当面「第一編 端緒」においては主観の「対象」としてある。しかし、対象は対象間の関係の内にあり、主観も対象化されて同じ関係の内にあることによって、対象の規定性を明らかにし、対象の定在=存在が定義される。主観の対象としてでなく、対象間に相互に規定し合う関係として、個別存在が定義される。こうして存在間の相互規定性として、個別存在の対象性が現れる。対象性として現れる対象が、主観を離れた客観的存在である。[2001]

誰か特定の個人を対象にして、その存在をどのように定義できるか。特定の人間存在はどのように定義できるか。人間は生物個体としての身体が存在している。しかしそれさえも新陳代謝によって、物質交換され、更新され、また成長し、また老いる。生物個体もタンパク質と脂質、水等からできている。タンパク質もアミノ酸からできている。アミノ酸分子は原子から、原子は素粒子からできている。逆に人格や、家庭人、社会人、日本人、人類等のそれぞれの構成員としての存在でもある。対象とは、この様に主観の問題意識によって存在が違ってしまうものではない。主観が対象にすることによって存在が決まるのではなく、存在の在り方の一部分を主観が対象にしているにすぎない。対象存在はここで例示したように一つの定義によって特定できるものではない。通常は多様な階層の、多様な在り方に対し直接的規定性では定義しきれない存在を、主観が対象の直接的規定性から、主観との関係を媒介に特定の規定性を捨象しているにすぎない。世界観を組み立てるには普遍的な対象を部品としなくてはならない。[2002]

【存在の多様性】

主観も対象も、ものごとは関係するものとしてある。その関係は、単独の関係としてはない。複数の関係の階層化した重なり合いとしてある。[2003]
主観と対象の関係であっても、対象とのいくつもの関係からなっている。対象がひとつの一体のものであるなら、主観と対象の関係もひとつであり、それだけである。それで終わりである。主観は対象をひとつの全体として関係するが、その様々な部分も個別対象として関係する。部分はさらにその部分に分けられ主観と関係する。主観の関係する対象は分割可能な部分として多様な尺度で存在する。[2004]

対象間の関係も、主観が捨象することで一定の関係を主観が対象としているにすぎない。主観が対象を捨象し、取り出した関係が対象間の関係のすべてではない。対象間の多様な関係を捨象することによって、主観は対象の一面を捨象する。対象間には主観によって捨象しきれない対象間の関係がある。主観が捨象する対象間の関係は、対象間の関係の極く限られた関係である。対象は対象間に関係があり、対象間の関係をたどることによって主観は主観と直接関係していない対象までたどることができる。主観の対象との関係は一定不変でなく、変化する多様性がある。主観が捨象する関係は有限であるが、対象間の関係は無限の多様性をもっている。さらに主観が捨象することのできるわずかな関係であっても、その主観が関わる対象の多様性は無限である。[2005]

捨象」とは対象の多様な規定性から、他の多くの規定を見捨てて特定の一つの規定を取り出すことである。それは対象を特定の質として取り出すことである。捨象の取捨選択に価値選択はない。「捨象」に対して「抽象」は価値選択を含み、抽象に主要なことは対象の本質的規定性を取り出すことである。[2006]
抽象は観念的操作のことだけではなく、個別存在の規定性でもある。個別存在は多様な相互作用によって構成され、実現されている。その個別存在を特定の規定性によって対象化することが抽象化である。[2007]
対象の抽象化はまず直接的である。対象の多くの規定性から特定の規定性を直接選択して対象化する。同時に抽象化としての規定性の選択は対象の一般化である。抽象した一般的規定関係の中に対象を位置づけることである。この抽象化は対象の抽象的認識であり、認識過程としてある。[2008]
抽象化としての規定性の選択は多くの規定性からの選択に限られない。主体が直接対象にできない存在は、一般的規定関係によってのみ対処化できる。「世界」「宇宙」「地球」等も主体の経験からえた「時間」「空間」「物質」などの抽象の拡張として対象化できる。「価値」「自由」「法則」も経験を普遍化することによって対象化できる。特定の人物であっても、直接接することのできない人はやはり抽象的にしか評価できない。子供の頃の認識は具体的、個別的であったが、成長するにつれて抽象的、普遍的認識が拡大する。[2009]
また、抽象化された対象は、その規定性を実現している抽象的存在であり、存在過程=実現過程にある。抽象的に規定された対象は客観的に存在する。存在の抽象性は実在性を否定するものではない。抽象的存在も実在であるからこそ、個別的存在の規定性としてだけでなく、他の媒体に変換可能である。言葉によって、記号、絵画、彫刻、音楽等によって抽象存在も表現される。[2010]
ついで対象の抽象化は媒介性である。抽象化は対象の一般的規定関係間の関係を対象化する。関係間の関係は無限に続く階位であるが、存在抽象化の階位の究極は「有」であった。関係間の関係の階位の追求は普遍性の追求である。抽象による対象の一般化は対象の普遍性を表す。具体的・個別的な存在の抽象化は、他に対して総体的全体としての普遍的存在も意味する。普遍性は総体的な抽象的関係であり、総体的全体は抽象的存在である。[2011]
また、一般的規定関係の中での対象の位置づけは、規定性の厳密性の追求である。特定の一般規定関係に抽象化された対象は厳密に規定される。抽象化による厳密性の獲得は規定関係を単純化することである。しかし、単純化しても規定性は単独ではありえない。一つの規定性は必ずその否定を伴う。「Aである」との規定は「非Aではない」という規定でもある。その否定が全部否定の場合もあれば部分否定、条件付き否定の場合もある。一つの規定が拡張されて別の規定性を導くこともある。その規定関係の関係がまた規定されることで厳密性が保証される。幾何学では「点」「線」「面」は抽象化され、厳密に定義される。さらに「連続性」「滑らかさ」「無限」といったものの追求によって、逆に数学は抽象化され、厳密化された。確かな世界観を組み立てるには、やはり厳密な対象の取り扱いが必要であり、対象の抽象化は世界観組み立ての基本である。[2012]

これらの関係は主観によって抽象されることによって数えられ、分類される。対象間の無限の関係、対象の無限の多様性は主観によって抽象され、また主観と関係することによって、それぞれに個別対象としてとらえられる。主観は個別対象全体を抽象することによって一つの個別の対象として関係することができる。しかし、抽象された関係には無限に多様な関係が捨象されている。[2013]

【存在の統一性】

主観の対象はそれぞれに異なり区別されるものであるが、主観とすべての対象を含む世界はひとつである。ひとつである世界がどのように主観や無数の対象に分かれようが、世界がひとつである限り、相互に関係しあっている。[2014]
すべての関係は連なっており、断絶や隔絶された部分はない。関係のない隔絶された部分は、全体が複数無ければありえないことであり、複数の全体とは相対的な限定された全体であり、全体ではない。[2015]
部分どうし、それぞれの統一性は、部分が部分である故の相対的全体の存在としてある。部分としての規定性が、部分の相対的全体を規定し、有らしめている。部分どうしが同じ規定性によって、部分として統一された全体でなければ、個々に分けることはできない。部分が相対的に分けられるのは、部分が同じ規定性によって統一されているからである。[2016]
部分の統一性自体が相対的である。また、部分の関係性自体が相対的である。部分の統一性も関係性も、すべて全体として統一されている。[2017]
相対的全体が相対的であると限定されるのは、それが部分であるからである。絶対的全体のもとにすべての相対的全体、部分があることが大前提としてある。ひとつである全体世界をなす部分の関係が、統一されていることは限定のない大前提の内に含まれている。この大前提が「有」である。[2018]

【存在の重層性】

主観によって捨象された対象は、他の対象との間に多様な関係がある。対象として捨象された関係は、単純化されただけであって、他の関係は失せるわけではない。対象は捨象された関係とともに他の関係をももつものとして他と関係している。対象として捨象された対象の他との関係は、対象において関係の重層をなしている。対象間の関係は、単に多様であるだけでなく重なり合っている。[2019]
対象は多様であること、部分としても統一性があることによって部分間の相互関係が部分間で同じ関係の連なりとしてある。部分間の区別を超えて、連なりとして関係の層を成す。多様性と統一性は統一されて層を成す。[2020]
多様であること、統一があることは対象の規定性によって現れる。規定性の違いによる多様性、同じ規定性による統一。規定性のこの二つの現われによって、対象は重層性をもつ。対象の重層性は、規定性自体の区別である。
規定性の区別は「質」として現れることになる。[2021]
質としての規定性は発展して、その重層性は「階層性」として現れることになる。[2022]

【存在の普遍性】

世界は普遍的な関係として、ひとつのまとまりとしてある。いかに多様であっても、すべての関係はすべて連続し結びついてひとつの全体としての世界をなしている。[2023]
世界の普遍性の究極は「有」である。「有」が規定されて、対象が区別される。対象は規定される存在として普遍的であり、存在は世界の普遍性である。存在の普遍性は世界の普遍性であるが、「有」が規定され、究極の普遍性ではなく、区別される普遍性である。全体の普遍性は「有」であり、規定された部分の普遍性が「存在」である。しかし、存在は全体に対する部分として全体に対して普遍性を保存している。[2024]

個別存在のひとつひとつの関係は相対的普遍性をもっている。個別存在のどれかひとつの関係は世界中どこでも一定である。個別存在のひとつの関係はいつの時代にあっても一定である。変化するのは個別存在の関係の環境である。場所、時間が異なることによる、違いは関係の違いではなく条件の違いである。[2025]
真空中での光の速度はどこでも、いつでも一定である。純粋な水は一気圧のもとでほぼ摂氏100度の一定の温度で沸騰し、0度で凍る。生物は世代交替して種を保存し、進化する。ヒトは社会の中で文化を身につけ、文化を創造する。[2026]

主観にとってひとつの関係が変化するのは、新たな関係が入り込むからである。ひとつの関係として主観は対象をとらえるが、決してそれは単独の関係ではない。主観と対象との関係は他のすべての関係とからみあっており、新たな関係が主観の対象との間に入り込むことによって対象との関係が変化する。しかし、対象は変化していない。[2027]
例えば、書かれた文字は紙との間に一定の関係をもって形として固定されている。文字は突然消え失せたり、変化したりはしない。眼を閉じても、紙を伏せても文字は紙の上にありつづける。主観との関係には影響されない。しかし、文字が書かれている紙は、酸素があって一定以上の熱があれば燃え、紙と文字との関係も変化し消滅する。あるいは鼠により、あるいは人の手により消滅する。しかし、それまで文字は一定である。訂正されぬ限り誤字もそのままである。文書として用いられている間は、いつでもどこでも成り立つ。[2028]
 いつでもどこでも一定の関係として、対象間の関係は普遍的である。普遍性があるからこそ変化するのである。普遍性のない変化は混沌であり、変化自体とらえられない。変化は普遍的なものを含んでこそ現れる。世界をなす関係は普遍性をもっており、その組合せが無限に多様な変化をつくり出す。[2029]
究極の普遍性は主観にとって与えられた「有」の普遍性であるが、主体はみずからを対象の内に対象化し、そこに普遍性を創造するようになる。人間としての普遍性を実現し、文化を創造する。[2030]

【存在の対象性】

存在は規定される対象として対象性をもつ。同時に他を対象として規定する対象性でもある。存在自体が対象としてある。主観によって媒介された対象として以前に、「有」が規定された存在としての直接的対象性である。[2031]
存在は相互に関係する対象でもある。どのような存在も孤立はしておらず、他との関係において対象である。対象としてないものは存在していない。[2032]
主観も対象との関係において主観である。主観は対象を受け取るものとして対象である。主観も対象間の関係に位置づけられるものとして対象性をもつ。[2033]
主観も対象もすべての存在は対象性としてある。[2034]
「対象性」は相互関係の基本的概念であるがあまり重視されていない。しかし、対象でありえない超越した存在を現実世界の内に忍び込ませる非科学的考え方が物理学の中にもあることからして重要な問題である。「人間原理」など人間の対象性を否定するものである。[2035]

【存在の対称性】

存在一般は対称性をもつ。[2036]
対称性は部分間の関係である。対称性は部分間の区別が全体の有り様を変えない性質である。分けられた部分が相互に入れ替わっても、部分間の同じ関係が保存される性質が対称性である。一つの存在が他の存在と入れ替わっても区別できないとは、一つひとつの存在を区別できないということである。入れ替わっても他との関係が維持される、規定性に変化がないということである。[2037]
「有」が規定された存在は最も普遍的な対称性である。「有」自体は区別が無いのだから入れ替えようがない。規定された「存在」は入れ替え可能であるが、有には規定自体に区別がなく、究極の対称性をもつ。[2038]
存在一般は「無」に対して非対称であるが、存在一般は存在に対し対称である。どの部分の存在も、世界に存在として同じ関係にある。対象性自体が対象になるものとして、対象にするものとして対称性をもつ。[2039]
対称性の破れは、存在に固有の規定性が現れることである。存在に個性が現れることであり、存在間の関係の一様性が失われることである。存在に何か別の存在が付け加わるといったことではなく、存在そのものの有り様がそれまでの有り様とは違う、他との関係が非可逆的に変化してしまうことである。[2040]

対概念は思考上の対称性である。上下、左右、前後は部分間の関係の区別であるが、この区別だけでは部分としての関係を示すだけである。対象そのものの相対的位置関係は対称性を維持する。対象が他との関係、特に観察者との関係で位置関係が対称でなくなるだけである。対概念では対象のそれぞれの部分は相互に区別されない。対概念は対称の軸を示す対称性である。形式的な対称性はこれらの対称軸に対してのみ、部分間の違いを示す。区別された部分間に違いがないから対象性である。対概念は対称軸に対して区別される違いを表現するものであり、対象を対概念で捉えても互いに同じであることが対称性を示す。[2041]

対称性によって普遍性が計られる。一般に対称性が多いほど普遍的である。[2042]
存在一般が運動として互いに区別をすることで、対称性が破れ、部分が区別され、世界の多様性をつくる。[2043]
「対称性」は数学、物理学の基本的概念として重要であるが、他の分野でも改めて問題にされている。[2044]

【存在の抽象性】

具体的、個別的存在は直接的に対象になる。しかし、具体的、個別的存在対象は直接的である限り一面しか示さない。具体的、個別的存在対象は他によって多様に規定されている。具体的、個別的存在対象に単一の規定によって存在するものなどない。[2045]
物理的な存在であっても幾重もの階層をなして規定されている。クオークは現在の宇宙では単独では存在せず、相互に結びつきながら、素粒子を構成している。素粒子は相互に作用し、変換しつつ、いくつかは原子を構成している。原子は分子を構成する。階層が上がるにしたがって一つの存在はより多くの規定された存在として具体的、個別的対象となる。物理的な存在にとどまらず、生物、人間と階層が上がるに従い、一つの存在の規定性は数え上げることもできない。そもそも今日の個別科学の成果をもってしても、日常的な物事の一つとして規定しきれない。圧倒的多数の規定性を捨象することによって対象化できるにすぎない。[2046]
 主観、主体の対象として規定できるのは多様で、重層し、相対的な一つの個別対象の限られた対象性である。具体的に対象化できるのは、対象のごく一部分の存在である。捨象された規定しか対象をとらえることはできない。[2047]
しかし、現実の存在、実在は数え切れない多様性と、重層性をもち、相対的な対象である。それを対象とし、たった一つの名前をつけて対象を定義できるものではない。実在する対象は具体的、個別的に対象化できない抽象的存在である。[2048]
具体的に、個別的に対象として扱えていると思いこめるのは、対象のごく限られた一面でしかない。このことを理解しなくては、対象の本質を抽象しようとする試みを「形而上学」とレッテルを貼って無視しようとする者が出てくる。彼らは量子力学も「形而上学」で実証科学ではないと言いだす。直接的関連の相関関係を関数に表現することのみが実証科学だと主張する。[2049]

また、主観の対象でなくとも、存在は抽象的でありうる。関係の関係は元となる関係が変化しても保存されうる。主観による対象の抽象とは別に、対象間の関係の関係として抽象的関係が存在する。[2050]
抽象的であるからとの理由で存在は否定されない。抽象的存在はその関係をなす関係によって存在している。ただその存在関係に固定的に依存しているのではなく、存在関係の変化にかかわりなく関係を保存する存在である。[2051]
例えば文は紙に書かれても、読み上げられても文に変わりはない。紙から電子媒体に変換されても文に変わりはない。他国語に翻訳されても文の意味は保存される。[2052]


第3節 主観と主体

主観は対象との関係で絶対的な対極的な関係にあったが、対象化された主観は相対化される。[3001]
対象化された「主観」は対象に関係し、対象間の関係の内にある。対象間の関係の中で「主観」はすべての対象と同じ関係をなす。対象と同じ相互関係の中で相互作用するものとして「主観」は相対化される。[3002]

【主観から主体へ】

相対化され、対象化された「主観」は他の対象と同じ客観的存在として相互作用するもの、主体である。主体は相対性、対象性をもつ。[3003]
対象間の作用として、客観的にあるものは相互規定である。相互規定を主観が関係としてとらえるのである。一般に、対象と対象との関係は相互規定の関係である。有るものが相互に規定し合い個別的存在となって現れる。[3004]
対象と対象は主観によって区別されるが、互いに規定し合うことによって対象どうし関係し、それぞれである。主観の観る対象間の関係は、それぞれの存在を区別する規定性であるが、客観的対象の相互規定性は、それぞれの存在の有り様を規定する相互作用である。客観的存在は相互に作用し合うことで、それぞれの有り様を現す。相互作用の過程の中で客観的対象は現れる。主体も同様に、対象との間で相互に作用し合う。対象を主体の内に取り入れることによって主体でありつづけ、主体を対象化することで主体でありつづける。この主体の内と外に向かう作用を統一したものとして、主体の存在があり対象との相互作用がある。しかも主体と対象との相互作用も重層的であり、双方向的である。[3005]
主体は対象を主体化し、同時に主体を対象化するものとして自己規定する。主体化と対象化の相互作用の統一として、主体は自己を規定し、存在する。主体は主体化と対象化の統一を実現するものとして実践的である。[3006]

【対象の主体化】

対象の主体化は主体の客観的存在を獲得することである。主体以外のものの有り方を主体化することである。一般的なものの有り方を、主体として特殊化するのである。[3007]
主体は対象との相互作用にあって常に変化している。主体も対象間の関係にあって普遍的な相互作用の一部分としてありながら、一般的な相互作用と区別される特殊である。人間としての特殊性に限らず、すべての普遍的な存在すべてが普遍的存在でありながら、個別として特殊な存在である。普遍的な存在でありながら、普遍的な存在を特殊化して個別として存在している。[3008]
主体が一般的個別存在と異なるのは、普遍的な存在を対象化しその対象化の範囲を拡大することにある。また、対象化の質を拡大することにある。物理的にも対象化の範囲を拡大し、生物的にも拡大してきている。さらに、精神的、文化的な質にも拡大してきている。そしてここでは世界全体を対象化し、世界観として対象世界を主体化しようとしている。[3009]
主体は対象を主体の内に取り入れる。主体の内に取り入れられる対象は、主体を構成する。主体は対象と異なる存在ではなく、対象を主体化する存在である。主体は対象によって媒介された存在であり、対象に媒介されつつ、対象を対象化する。[3010]
物質代謝によって身体を獲得・維持し、学習によって知識を、体験によって感情を獲得する。[3011]

【主体の対象化】

主体の対象化は主体と対象との相互作用を、主体として維持することである。対象を主体化することでの非主体化に対して、対象間の相互作用に主体を実現し続ける。対象に対する主体の自己規定の働きかけなくして、主体性は対象によって規定されるだけの存在になってしまう。主体の自己規定性は再生されつづけなくては対象間の相互作用の過程に消えてしまう。対象に対して今までの主体でない新しい主体を実現する、みずからの異質化が主体の存在=有り様である。主体は対象間の相互作用の内に主体を創り出しつづけなくてはならない。[3012]
主体の対象化は主体と対象との相互作用にあって、主体の主体に対する自己規定作用でもある。[3013]
物質代謝によって身体を生長、更新しつづけなくてはならない。知識、感情は再現されなくては存在しなくなる。[3014]
ヒトは生物として生きて存在するために基礎代謝を必要としている。そして基礎代謝を維持するために働かねばならない。人間は自らを対象として制御しなくてはならない。人間は自らを対象の中に実現し続けなくてはならない。[3015]
さらに、主体は自己規定性を対象間の相互作用の内に拡張する。主体は対象との相互関係の内に自己を実現する。主体は自己の規定する相互作用を対象間の相互作用のうちに実現する。主体は対象の相互作用の組み合わせを規定し、対象を変革する。主体は対象との関係の変革として自己の対象に対する規定性を実現し、対象間の関係に自己の存在を対象化する。[3016]
主体は子供をつくり、価値を創り出す。人間は理想の実現を求める。人間は自己の生きた証を求める。[3017]
主体としての人間の存在領域は拡大し、宇宙にまで広がっている。人間の生活環境は地球環境を破壊しかねないまでに拡大してきている。[3018]

【主体の相互作用】

主体は対象を主体化し、主体を対象化する相互作用過程の統一として存在する。[3019]
主体と対象との関係は、対象間の他の相互関係と同じで常に変化している。主体と対象は「主観と対象との関係」にかかわらず、客観的存在として相互に作用しあい、絶えず変化している。一般的な相互作用は「主観」の存在にかかわらず、主体を含み、主体を構成する全体の相互作用のなかで常に変化している。[3020]
主体は常に変化する対象間の相互作用のなかにあって、一般的相互作用を特殊化するのである。主体は全体に対しては部分であるが、一般的な相互作用をみずからのものとして、みずからを「相対的な全体」として持続させる。[3021]
主観は一般的存在を特殊化することで普遍性を実現する。主観はみずからを絶対的基準として特殊化することで、対象の相対性に対し普遍性を実現する。主観は主観自体の内にあってのみ普遍性を実現する。対象のいかなる変化をも主観は変えず、受け入れるだけである。これに対し、主体は一般的存在として対象と同じく特殊であることによって、個別性を実現する。
肉体の構成物質は次々と代謝され交換されるが、肉体は保存される。肉体は成長し、やがて老いるが、精神は自らの意識を保存する。個人は世代交代するが、文化は社会的に保存される。
 主体は一般的存在の相対的な全体を持続するだけでなく、主体として関係する相互作用をも組織する。主体は主体をなす相互作用だけでなく、主体・対象間の相互作用を組織することで対象間の相互作用も主体との関係に取り込む。すなわち、対象を変革する実践の主体として主体は他の存在と区別される。[3022]

【主体間の関係】

主観は主観と関係しえないが、主体は客観的存在として他の主体と関係している。主体は客観的存在である他の主体と関係することで、主体を対象とする相互作用をなす。この相互関係が社会関係である。主体間の相互作用は、主観にとって「主観」を対象化して見せる。主観は他の主体との関係において、みずからも対象として関係しているものとしてとらえる。[3023]
主体の相互作用によって主観は普遍性を獲得し、みずからを普遍的存在とみなし、みずからに対する絶対性を観る。[3024]
「主観」は主体間の関係において客観的存在である。主観は主体間の関係にあって、それぞれの客観的存在としての「主観」と関係し、「主観」を対象化することで相対的なみずからを自覚する。[3025]
主観は主体の有り様、作用として対象に働きかけ、他の主体に働きかける。主観は主体の有り様、作用として間接的に他の主観に働きかける。主観は主体に媒介されている。[3026]

【主観の対称性】

主観は対象との対立物としてある。主観の主体としての存在は主観を相対化し、対象間の相互作用の中に対象化する。対象間の相互作用の関係にありながら、みずからを含む全体を対象と対極的に関係するものとして主観は自覚される。対象を規定していた主観が、対象間の規定性によって自らを規定する。[3027]
主観は対象間の相対的関係を、対象全体と主観との対応関係に変換する。対象を反映し、認知するものとして世界の対立物として主観は対象との対立的関係にある。相対的関係の網目構造、平面の網目ではなく重層する多次元の網目構造の関係形式を保存したまま、対象との二極対応関係形式に変形・変換する。主体として相対性をもちながら、主観として絶対性をもつ。[3028]
対象全体との対極的関係形式をとるものとして、主観は対称性をもつ。全体に相対するものとして他のどの主観とも区別されない。他のどの主観と交換されても、対象を変革する主体に媒介されたものとして主観の他に対する関係は保存される。主観の絶対性は対称性をもった存在である。対称性を持った存在として平等であり、普遍的である。[3029]
主観の対称性は人間性の普遍性である。人間が平等でなくてはいけないことの根拠である。[3030]
また、主観の対称性は、直接することのできない主観間に共通理解を確認できる根拠である。主観間に誤解はありえても、誤解を乗り越えられる可能性の保証である。[3031]
相互作用をするものとしての主体は、その相互作用の内に相互作用を絶対化する「主観」を含んでいる。この相対性の主体と絶対性の「主観」の担い手として自分がある。[3032]
全体の関係の一部分をなしている自分の全体との関係はどのようなものであるのか。まず、自分と全体との関係、ついで自分と全体の部分としてある個々の対象との関係、そして自分と自分自身との関係がある。[3033]


第4節 対象世界

「他」に対する「私」、対象に対する主観、対象間相互作用における主体=私の有り方を対象との関係で位置づけてきたが、世界に対する変革主体としての自分のそこでの位置を確かめる。[4001]

【自分の位置】

対称性をもった主観が、主体として世界を対象として相対する。主体は対象との相互作用によって対称性を破る。主体は相対的、個別的存在であって対象を変革するものとして、独自性を獲得する。他との関係を変革するものとして、主体は他の主体との対称性を破る。[4002]
主観は対象に対し、主観間で対称性がある。被対象の存在としては主体であっても交換可能である。主権者一般、労働者、市民、学生等として対象化される存在の一人一人は区別されない。一人一人が個性を持ち、交換不可能な人格として現れるのは、他を対象化する主体としてである。[4003]
主体は主観と異なり、対象性の内に対称性を破る契機をもっており、対象の変革、実践によって対称性を破り、独自性を獲得する。独自性を獲得する主体として自分がある。自分は対象間の関係にある主体であり、そのことを受け入れる主観であるが、単に主体と主観の重なりではない。対象間の関係の内に自分を実現し、維持していく、他を対象化し、自らを対象化する変革主体である。[4004]

対象間の関係を主観との直接的関係とは別に認めることで、主観と直接関係しない対象の存在が認める。主観と直接関係しない対象間の関係は、主観からは独立な主体の対象としての客観的関係世界である。客観的世界は構造と経過を伴う。客観的対象間の構造は主観にとっての空間である。客観的対象間の関係の経過は主観にとっての時間である。[4005]
自分と全体との関係にあって、自分は全体の一部分であり、一時的なものである。自分は全体と対立するものではない。自分と全体との関係は、両極に対立される関係ではない。自分は全体の一部分として全体と区別される。しかも、自分は全体の中心としての一部分ではなく相対的な存在である。この自分を含む全体が世界である。[4006]
自分は自分を直接対象とすることはできない。自分は対象を媒介にして存在し、対象間の関係を媒介して自分を対象化する。自分は世界を知ることによって、自分を理解する。[4007]
自分は全体に直接関係せず、対象間の関係をたどることで全体を知る。自分は部分であり、相対的であり、個別であり、対象と同じく世界に従属している。自分の属する世界の枠組みを確認する。[4008]

【空間位置】

主観にとっての空間は主観を基準にした絶対空間である。しかしその絶対空間の対象は相対的である。主観にとっての空間対象は、主観の依存する主体=身体によってとらえられる対象であり、物理的空間とは異なる。[4009]
主観にとっての空間はまず、視覚、聴覚を主とした感覚と身体によって感知される空間である。身体によってとらえられる対象は、特に手足を基準にして空間内に配置される。手足の屈伸、歩行等としての移動によって空間が把握される。対象の空間配置により、自分の身体の位置感覚、自分の運動感覚の普遍的基準が自分のものになる。視覚は視野の広がり、対象の重なり、対象の運動、両眼視差によって対象の空間配置を把握する。身体空間、視覚空間は統合されて把握される。[4010]
一方聴覚は音程と、音程の変化、音の強弱の組み合わせによって対象の運動を把握する。振動数の高い音は音空間でも高く感ぜられ、振動数が次第に大きくなる音は上昇感を与える。音の強弱の繰り返しはリズムとして早くなったり、遅くなったり、また対象の強さ、弱さをも表す。音空間における速さは、音波の速さではない。音は身体空間、視覚空間と統一された空間とは別に音空間を構成する。音を発生させる身体空間での運動と音の高低、運動の繰返しリズムには相関関係があるが、音空間自体は身体空間とは直接的関係はない。音空間の上下と、身体空間の上下は独立して方向を変更できる。主観にとって音空間の上下は身体空間の上下とは必ずしも一致しない。人によっては、臭覚空間、味覚空間といった空間把握も成り立っているのかも知れない。[4011]
また、身体空間と視覚空間の統一された空間では、空間座標を基準にした論理的空間把握が成り立つ。空間、対象を把握するのに適当な尺度と方向を座標基準として空間を把握することができる。普通は数学で習ったように互いに直行するx、y、z軸からなる三次元空間として身体・視覚空間を対象化できる。さらに、論理関係を空間的な左右、前後、上下だけでなく、関係の関係をも座標基準として様々な論理空間を対象化することができる。[4012]
ところが、こうした主観にとってそれぞれ媒介する対象ごとの空間は一つの実在空間に統一されており、それぞれは主観との関わりにおける相対的空間でしかない。各空間の相互の関係は、主観を絶対的基準にするのではなく、主観を座標変換の相対的座標原点として対応関係をとる。主観を基準にするのではなく、主観を任意の共通座標値として、対象ごとの空間座標をすべてを重ねあわせて統一的に把握する。主観の絶対的基準を諸対象空間基準の相対的原点として共有することで諸空間を統一できる。主観基準を相対的に、対象空間を統一的基準にすることによってすべての空間は統一的な実在空間として把握される。身体空間、視覚空間は宇宙空間の相対的一部分として位置づけられる。音空間は主体の聴覚による音の認識形式として位置づけられる。[4013]
身体空間、視覚空間等は対象空間の一部分として位置づけられる。対象空間は宇宙として主観をその内に含む。主観にとっての絶対的空間基準は対象である宇宙空間としてひとつである。自分と関係する全体のすべてによって宇宙が構成される。自分の対象の全体は、宇宙によって包括される世界である。[4014]
主観にとっての空間は一般的に対象間の関係であり、その対象は重なることができない。それぞれ区別される対象はそれぞれに異なる位置を占める。それぞれを区別できる広さ=延長をもつ。また空間内でのそれぞれの対象は相互に重なることのできない不可入性をもつ。対象間の相互関係は区別される位置に従い、方向性と距離によって相互の位置を関係づける。[4015]

【時間位置】

自分は世界の始めから最後まで世界と関係するのではない。自分は宇宙の歴史の中の、時間的にほんの一部分としてあるにすぎない。[4016]
自分の人生の経過と宇宙の運動の経過とを直接対応づけることはできない。自然科学、特に宇宙論による説明を受け入れなくては宇宙の歴史の中のどこにいるのかを知ることもできない。人類学に学ばなくては、人類史での位置、歴史学に学ばなくては社会史での位置を知ることもできない。時間的経過は自分の生活史としては記憶を呼び戻すことはできるが、客観的時間の流れ、歴史は客観的対象の探索によってしか知ることはできない。自分の生活史、経験の記憶と、客観的時間の流れの対応関係は、今の経験から押し測ることしかできない。[4017]
その一部分としての自分も自分の始めから、今の自分であったわけではない。自分の始まりを直接的に知ることはできない。記憶としても。自分の終わりを今知ることもできない。客観的時間の流れを知ることによって、自分の始まりと、終わりを確実なこととして知ることができる。自分は今に至るまでに成長してきている。自分の成長過程、自分の生活史として対象世界の歴史と関連し、社会の歴史、世界の歴史の連なりを体験する。[4018]
自分の生活史を対象世界の歴史に位置づけることによって、自分の世界に対する時間的位置が理解される。自分の親から伝えられ、子供たちに伝えていく連なりの中に自分はある。伝えられるのは生命であり、遺伝情報であり、生き方、文化、世界観である。[4019]
自分に伝えられ、子供たちに伝えるのは単に同じものを保存するだけでなく、批判して継承される。それぞれの親を批判し、子供に期待し、みずからを再生産することによって継承していく。[4020]

【主体間の位置】

自分は孤立した存在ではない。自分と同じ多数の主体、すなわち他人と関係している。主体間の関係があって自分が存在する。すなわち、社会関係があって自分が他から区別される。社会関係の中で自分は生まれ、形成される。[4021]
自分は自分の対象とする世界において、その構成の極小さな部分であり、その歴史の極短い部分である。しかも全体に対する部分であっても、相対的なものであり、小ささ、短さは決まっているものではない。さらに、自分は不変ではなく、成長し、老い、自分の内でも変化している。[4022]
社会関係にあって、他の多数の相手の中に、みずからの普遍性を客観的に知ることができる。みずからの主観的、主体的体験を、相手の中に見ることによって、みずからの有り様を客観的に、普遍的に見ることができる。[4023]
主体間の交流によって、みずから体験できないこと、考えつかないことを知ることができる。社会的に蓄積された知識、経験、技能、価値、可能性を知り、身につけることが可能になる。[4024]
主体間の関係の中に区別され、位置づけられる自分は、その中で有りつづけ、自分であることによって位置を占める。積極的であろうが、受身的であろうが主体間に自分の位置を占めることは、自他に対して自己を肯定すること、主張することである。[4025]
みずからを表現し、行動することが権利義務として制度化されているなら、権利義務を行使するか、その制度自体に対しても自分の意志を表現し、行動しなくてはならない。[4026]

【全体との関係】

自分は世界全体と直接関係しない。自分の直接の関係は、自分をとりまき相互に作用し合う個々の物事との関係である。この個々の物事との関係の連なりをたどることで全体と関係する。全体は相対的な全体、すなわちここの物事を構成する全体として自分の対象となる。その相対的全体と他の相対的全体との関係の連なりをたどることで、自分は世界全体の関係と連なっている。世界全体の関係の一部分の関係として、自分の関係はあり、この関係で世界全体と関係している。[4027]
自分は直接的対象との相互作用の結果だけを受け入れるのではない。客観的存在の相互作用は、その連鎖として自分に作用する。自分はすべての客観的存在の相互作用と直接関係はしていない。しかし、相互作用の連鎖を、客観的存在間の関係をたどることによって、直接は関係していない対象の作用を、客観的存在間の相互作用としてとらえることができる。自分にとって直接的関係と思っても、自分自身が媒介された存在である。[4028]
すなわち、対象と直接関係することが、対象を知ることではない。対象を全体の関係の中に位置づけることが対象を知ることである。この位置づけは固定したものではなく対象の変化に応じて変化する。全体の中での対象の変化の位置づけが対象を知ることである。対象を知り、全体を知ることは、対象と他との相互規定を知ることである。[4029]
自分は対象との相互作用の関係にあり、対象間の相互作用を、対象を通して間接的にとらえる。したがって、対象間の相互作用と対象と自分との相互作用は別の関係である。しかし、自分と対象との関係、対象間の関係を作用の結果としてでなく、作用の有り方としてとらえることができる。自分は客観的存在間の関係のすべての連なりとして、全体の関係を自分の内に対象の全体との関係として再構成することができる。このことが自分が全体を知ることである。[4030]

【全体への対応】

全体を対象とすることは特別なことである。客観的存在としての関係にあって、普通は部分である互いを対象として関係している。しかし、自分は全体を対象とすることができる。全体と直接関係することはできないが、全体をとらえることができる。部分を対象として全体に対して働きかけることができるのが自分である。[4031]
部分としての相互作用で、驚くほどの構成美を見ることがある。自分があるいは他の人が手出しをしなくても、自分の作るものより遥かにすばらしい構成美が数多くある。[4032]
よく例としてハチの巣、結晶などの構造が引き合いにだされる。人によっては、「神が創造した」と擬人化するほど美しく、精緻で魅了する。しかし、それらは結果を予定し、構成を作りだすために関係し相互作用したのではない。一定の相互作用の繰り返しが結果として美しい構成を作りだしたのである。結果としての構成美は世界の全体の関連の中で現れる部分でしかない。条件が変れば別の結果になってしまう。[4033]

ところが、自分が作りだすことのできるものは条件の変化に対応しつつ、結果として同じものを作りうることに特殊性がある。この自分の特殊性は、限定されてはいても全体を再構成できることによっている。対象を再現することはできなくとも、全体の関係の中に対象を位置づけ、対象をとりまく関係と全体の関係とを結びつけることができる。それらの関係を自分自身の内に再構成できることによって、対象を全体の内にとらえることができる。すなわち、自分は対象と全体を知ることができる。[4034]

【非対等性】

私にとって対象は従たる関係にあり、私が知ることによって存在する。[4035]
主観にとって対象どうしは対等の関係にある。主観でないものは対象であり、対象でないものは主観である。[4036]
主体にとって主観は相対化されており、対象と対等ではない。[4037]

主観から見れば世界、対象は対等な存在であり、すべてを問題とすることができる。しかし、主体としての存在は対象の一部分であり、絶対的とも言えるほどの非対等な存在である。主体の非対等性をわすれて主観の対等性に驕ってはならない。[4038]


第5節 自分を知ること(内省、内感)

【知の対象としての自分】

世界全体の関係の中で自分は生まれ成長してきている。自分を構成する関係も世界全体の関係の一部分であり、他と連なっている。全体の関係の一部分として自分の内に複雑な関係・構造をもっている。この自分自身としての内部関係、内部構造は自分で維持しなければならない。自分は世界全体の関係の中にありながら、かつ自分自身の関係を全体から区別し、自分でありつづけなければならない。さらに、自分は自分自身と他の物事の関係を変革、拡大し、自分自身の関係を発展させていくものとしてある。世界全体の関係の中にあって自分自身の関係を拡大再生産していく。[5001]
全体を知ることは、その全体の一部分である自分を知ることである。また、自分が対象との関係にあって、対象との相互作用によって自分自身であるからには、対象との相互作用を客観的存在間の関係と見なくては自分自身を知ることはできない。[5002]
自分自身を知るには自分について調べてもことたりない。自分自身は対象である世界を知ることによってしか知ることができない。[5003]

【内感と外感】

世界の一部分であり、かつ世界を対象とする部分としての自分は、自分自身をも対象とする。世界を知ることでその部分として自分を知るが、その自分は自分自身に対して他の対象とは異なった関係にある。[5004]
当然のこととして対象とする自分と自分自身とは同一のものである。自分自身を対象にするという、自分自身の操作によって自分自身と自分とを分け関係させている。自分を対象化する操作は世界全体を対象とし、その中に自分を客観的存在として関係づけることである。[5005]
この自分は自分自身と直接する部分と、間接する部分とに分かれている。直接する自分は自分を媒介している自分であり、間接する自分は対象としての自分である。それぞれ内感と外感である。[5006]
内感は自分自身として与えられるものであり、自分の内部の状態である。自分の心身の状態である。内感は体調、気分として自分を対象としている。[5007]
外感は自分と自分以外の物事との相互作用の結果として自分の対象となる。外感は自分ではあるが、自分以外の物事と自分との相互作用がなくては対象とならない。[5008]
内感と外感は自分にとって統一もされるし、分離もされる。外感する自分は自分自身を絶対化し、対象化した自分と切り離すことによって、対象化した自分と対象世界をどのように解釈することもできる。解釈だけでなく、内感と外感の分離は錯覚と正像との区別すらできなくなる。自分は外感を否定することもできる。自分自身のみを存在するものとすることもできる。[5009]
しかし、自分を実現しつづけようとするなら、自分は内感と外感の統一体として感じられる。自分自身をいかに絶対化してみたところで、内感としてある自分は否定のしようがない。内感としてある自分の否定は自殺でしかない。しかもそれは、外感を介しての内感の否定である。やはり、外の存在を肯定しなくてはならない。[5010]

【内感される唯一の存在】

内感と外感の統一体として自分は内部構造をもちつつ、自分以外の物事と複雑な関係をもっている。しかし、自分自身はひとつのものとしてしか自分を対象としない。自分は常に数えきれない関係を自分以外の物事との間にもって作用している。しかし、自分自身にとって自分はひとつのものとして関係している。[5011]
自分自身は複雑な、重層的な関係をもつものとして全体の一部分ではあるが、それでいて対象としての自分自身はひとつでしかない。自分はひとつのものとして自分自身と関係する。そしてその自分は、その時点での自分自身にとって最も重要な関係を対象とする。その重要性の評価の基準が自分自身の価値観である。価値観は自分自身の、自分以外の物事との関係、相互作用を通して基準化される。[5012]
こうした自分、自分自身を知るためにも客観的存在としての世界全体を自分は対象として取りあげる。[5013]

【自分の限界】

自分にとって自分は絶対である。だからこそ様々な観念論が生まれる。だからこそ絶対的な自分を他との関係に相対化しなくてはならない。自分が他によって、そして自分によって規定されていることを自覚しなくてはならない。[5014]
簡単には空腹になった自分、眠くなった自分、怪我をした自分、病気になった自分を反省すればよい。しかしより実践的には自分の能力の限界を知ることである。[5015]
肉体的能力、生理的状態では絶対的自分を絶対的に限定はできない。自分の絶対性の否定は自分自身である。自分は自分以外ではありえない。なぜなら、自分は複数のことを同時に考えることができない。自分は並列に情報処理ができない。生理的には無限と思えるほどの平行した情報処理をしていながら、絶対的な自分は絶対に一つのことしか同時に考え、意識できない。[5016]
絶対的自分は肉体的能力、生理的状態に規定された相対的存在にすぎない。自分が絶対であるなら、注意力、記憶力、学習能力等知的能力に限界などないはずである。絶対であるなら、世界の全てを理解し、全てを予測してみるがいい。全てが理解できるなら、何も学ぶ必要はない。何も考える必要もない。自分であることすら必要ない。[5017]


第6節 対象と形式

自分が対象とする世界観を表現する形式を確認する。世界観の表現はことばとしての記号である。世界観として世界を再構成し、記号処理でできるほどに整理することが、世界観の形式である。その形式的可能性を探るための前提を確認する。[6001]

【対象の概念化】

主観と対象との関係は多様性、重層性、相対性をもっている。これを世界観として固定して表現するため、対象と表現媒体との対応づけをする。[6002]
主観の内に取り込まれた対象は対象との対応関係を引きずっている。この対応関係は主観の内に位置づけ、完結されなくてはならない。対象は観念として主観の内に取り込まれ、自律しなくてはならない。すでに主観の内に取り込まれているその他の対象観念との関係に位置づけられる。[6003]
対象は対象間の関係にあって相互に規定されて存在する。存在として対象化されるのは規定されているからである。他と区別される存在として規定され、みずからを区別する存在として規定している。その対象は主観の内に取り込まれることで他との相互規定性を他の観念との関係として定義される。多様性、重層性、相対性をもった対象は主観の内でも多様な、重層的な、相対的な関係を他の観念との間にもっている。観念は主観に対しても多様で、重層的で、相対的である。[6004]
存在の規定性は主観の内で定義される。定義は対象間の相互規定性の関係、関係間の関係である。関係間の関係によって整理され、多様性、重層性、相対性をもった観念は一様な、単一の関係の中に位置づけられる。関係間の関係として関係自体が定義されている抽象的な関係である。観念化された対象は観念間の関係によって定義される。関係間の関係によって定義された観念が概念である。[6005]
関係間の関係とは対象間の関係から抽象された形の関係、位置の関係、数の関係、色の関係、様々な質の関係等々の並立する普遍的関係のことである。並立する関係はさらにそれらの関係間の関係として高次の関係に関係づけられる。対象の多様性、重層性、相対性はそれぞれ関係間の関係として抽象された関係に位置づけられ単一の関係に定義される。[6006]
したがって、定義は対象の他との関係としての性質を述べるだけでは不十分である。どのような関係における性質であるかを述べなくては十全な定義にはならない。性質を測る基準を明らかにして、その基準に基づく値を与えなければ定義したことにはならない。[6007]

【内言語表現】

主観によって概念として定義された対象は「内言語」として記号化され、関連づけられる。内言語は主体の対象との関係に対応して、それぞれの位置を確定する。取り込まれた対象概念は内言語に代置され、主体の対象との関係を主観の内に再現する。[6008]
内言語は主体間のコミュニケーション=意思疎通の過程で獲得された外言語が主観の内に取込まれた記号であり、その記号の体系である。内言語は経験的であり、また主体のあり方に依存し、その現れは主体の価値観に左右される。内言語は曖昧であるが、その内言語は主観にとって依拠できる唯一のものである。内言語は主観にとっての概念の表徴媒体である。[6009]
内言語は主体の対象と対応していると共に、主観の内の対象の表象=イメージとも対応、連関ている。個々の内言語は他の内言語と連関し、表象とも連関している。内言語間、内言語と表象間の連関をつたって連想が続くことを意識活動と定義することもできる。この連想は連関を評価し、方向づけている。他との関係を評価し、対象との関係、対象間の関係、全体との関係を評価し、連想を方向づける。いわばフィルタリングと変形を試行し、取捨選択をする。[6010]
表象と内言語の連なりと主体の対象との対応関係、あるいは主観の内の表象との対応関係にずれが生じることで、内言語記号の相互関係が修正され、内言語の系が修正される。あるいは主体として対象に働きかけ、検証される。[6011]
主観の内で世界は内言語によって再現される。主観の内で世界は内言語の記号体系としてある。しかし、内言語は操作可能な対象ではない。主観の内にある内言語は対象ではなく媒体である。内言語は再び外言語として対象化されなくては操作可能にはならない。[6012]
内言語は非論理的であり、主観の内に持ち込まれた表象と連なって制御できない。内言語の連関は線形ではない。内言語の連関は線形の部分を基礎にしてはいても、並列であり、交差し、絡み合う。環境の変化によって、体内環境の変化によって内言語の連なりは寸断され、飛躍する。対象に集中しなくては内言語の連関の連続性は維持できない。内言語を外言語と同じ表現にするため、内言語の連関を外言語の論理に翻訳して表現するために、一つひとつの関連を確かめ、一つひとつの関連の全体での位置づけを確かめながら対応づけしなくてはならない。訓練によりかなり機械的に翻訳できるようになっても、直感によって翻訳できるようになっても、かなりの集中力が必要なことに変わりはない。内言語は外言語に翻訳され、外言語によって表現されて関連を論証されなくてはならない。[6013]

【外言語表現】

世界観は外言語である「文字ことば」を使用している。外言語は対象一般を表現する媒体であり、操作が可能で保存可能な記号系である。「文字」は保存できる象徴であり、定義によって対象との関係を固定・保存し、操作可能な表現媒体である。文字列の組み合わせによって対象間の関係だけでなく、対象・主体・主観間の関係をも表現する。外言語は対象を定義し、外言語自体を定義する。外言語自体を外言語によって定義することで、外言語の系は完結した系である。[6014]
外言語による対象の定義は対象を捨象し、抽象することによって永久不変なものとして扱うことができる。定義によって対象の変化運動は捨象され、対象の多様な規定性のうちの特定の一つが抽象され外言語の形式に固定される。対象を規定する関係が外言語間の関係で完結する。関係を固定し、完結する外言語は究極の普遍性を実現している。外言語は声、文字、電波、磁気記録、光記録、意識等の媒体に依存せず、媒体相互の変換が可能である。ただし、究極の普遍性といっても、究極の厳密性を意味はしない。厳密性は対象の定義内容に依存しており、外言語の普遍性は定義形式に依存している。[6015]
外言語の操作可能性は対象を規定し表現しはしても、対象によって一方的に規定されない操作の可能性・自由度をもつ。対象の他との関係による規定性を保留して、対象の規定を自由に変更して対象の他との関連の可能性を探り、対象間の関係を仮想することができる。この操作可能性が自己言及を可能にする。対象間の関係の記述を対象にして対象と主観・主体間の関係を記述できる。外言語を世界観の表現媒体としながら、世界と世界観を説明し、外言語と表現媒体をも説明する。自己言及可能な表現媒体である外言語によってすべてが表現可能、操作可能になる。その意味で、外言語は形式論理にとらわれない。外言語は弁証法論理の表現も可能である。[6016]
外言語は対象から自由で、媒体の関係形式が固定され、操作可能であることによって、対象の関係を論理的に検証することができる。多様で、重層的で、相対的な対象の同一性を定義された関係によって何度でも、どこでも確認できる。関係の関係を定義することによって変化をも、拡張される関連をも確認することができる。外言語は対象の変化、対象と主観・主体間の関係の変化、主観・主体の変化にかかわらず、定義された関係を論理によって確認することができる。[6017]
内言語は実在感をともなっているが、対象との関係、対象間の関係と密接しており、関係を論理的に確認するには不適当である。内言語を外言語に翻訳し、論理的に定義することによって諸関係を確認することができる。内言語と外言語間の翻訳、外言語による対象概念の定義、諸関係の定義にはそれなりの訓練が必要である。[6018]
主体と対象との関係では、内言語の外言語への翻訳は自己実現の過程でもある。文字等の外言語の対象媒体によって、自分自身の現われである内言語を実現する。対象間の関係に内言語表現を実現する。外言語に対象化された内言語を対象として操作、評価、確認することができる。外言語によって自分を対象間の関係に実現し、保存し、対象間の関係にある自分を確かめる。[6019]

【対象の記号化】

外言語の表現形式は多様である。普通外言語は諸言語であり、学問に使われる外言語は特に概念を厳密に定義した言語である。学問で定義される概念は対象概念と、関係概念である。定義の厳密性を求めるなら、日常の言語表現と距離を置くため概念を記号化することで関係形式を際立たせることができる。[6020]
実在する対象を厳密に定義するには、対象の多様性、重層性、相対性に応じて区分する。多様性の中の一様の関係形式によって定義する。重層性の中の一層を定義し、その定義系の中で対象を定義する。相対性に対し相対的関係座標を定義し、その座標系において定義する。関係形式を定めることによって対象を厳密に定義することができる。任意の定められた関係形式によって定義されて、対象は記号に置き換えることができる。対象と記号の関係として概念を表現する。対象概念間の関係も記号間の関係として表現する。こうして対象を記号に表現することによって、世界の対象と対象間の関係を操作可能な記号の系で表現することができる。[6021]
対象を操作可能にし、操作結果を対象の有り様によって検証することは対象を理解する本質的な方法である。対象からの情報を蓄積する観察、対象を変化させる実験も対象を理解する基本的方法であるが、対象の多様性、重層性、相対性を離れて操作し、その結果を検証する方法は、対象の通常の環境条件では現れない性質、対象の全体的なあり方を理解する、すなわち本質を理解するための方法である。[6022]
操作可能性を保証するには対象概念を固定しなくてはならない。同一律、排中律が守られなくては概念操作はできない。対象概念が矛盾をはらんでいてはならない。形式論理は対象概念の操作の前提である。  しかし、限界もある。対象の記号化表現は厳密ではあるが、それは任意の不変な関係形式を前提にしている。対象のあり方ではなく、対象の現れの一面を表現しているにすぎない。定義した一面に現れる範囲では、対象を厳密に表現している。しかし、対象がその一面的に現われなくなったら、あるいはその一面以外の対象のあり方については何も表現することはできない。[6023]
存在対象と対象概念との関係は認識上の矛盾をはらむものであり、存在対象自体が運動、発展するものとして矛盾をはらんでおり、形式論理によってとらえることはできない。現実世界の把握は弁証法によらなければならない。[6024]
主観の対象である客観的対象を主観の内に取り込み内言語で表現し、再び外言語に対象化して記号として表現する過程と、客観的対象間の関係と記号間の関係を対応させる過程を統一することによって、対象と記号の対応関係を確かめることができる。この記号と対象との統一過程は完成することのない、永続する認識実践の過程である。[6025]

【1対1対応】

対象と記号との関係は1対1であるべきである。1記号が複数の対象を意味しては対応関係を曖昧にする。主観によって抽象した一つの規定関係によって対象は扱われる。その規定関係の中では対象と記号、対象と概念、概念と記号は1対1で対応する。その規定関係では同一律が成り立ち、二律背反があってはならないのである。[6026]
対象は直感的に捉えるだけではなく、他との関係に位置づけて、その規定性によって定義しなくてはならない。定義された対象=概念とその表現=記号は定義する対象=存在と1対1に対応する明確な関係になくてはならない。[6027]
現実にすべての対象を「1」として記号に対応させることはできない。対象化自体が無限であり、重層的であるから。記号はひとつの捨象された規定関係によって抽象された概念対象と対応する。[6028]
逆に、記号間の関係として1対1に対応づけられた関係も、対象間の関係としては豊かな多様性と、複雑な重層性、相対的な実在の捨象された関係であることにも常に注意しておかなくてはならない。[6029]
多様性、重層性、相対性をもった対象を他と区別する対象として規定すること、特定、同定し記号との対応関係をつけることは認識の過程である。この認識過程を前提にして、記号化された対象の操作性を保証することで論理が成り立つ。[6030]

【法則】

対象間の関係は法則として定式化、普遍化される。多様性、重層性、相対性をもつ対象をそれぞれの面で定義し、検証し、対象としての普遍的有り様を決定する。対象の様々な規定性間の強弱の違いとその統一としての対象全体の規定性のあり方を法則は表現する。法則は対象の様々な性質の規定性ではなく、対象そのものの規定性である。法則は対象の本質的あり方を定義する。[6031]
法則は対象が対象であることを保存する規定性である。個々の規定性は対象の環境条件によって異なった現れ方をする。現れ方は異なっても同じ対象性が保存されている。法則は対象の対象性を規定する。[6032]
法則の規定性は反省規定である。対象概念を概念全体の中で位置づける規定性である。法則は直接的存在ではなく、対象の認識過程の媒介的存在である。法則は認識対象であって、客観的存在ではない。法則は対象の有り様の内に検証され続けなくてはならない。[6033]
法則は直接には実現しない。対象は規定性を実現しながらも、環境条件によって異なった現れ方をする。結果の違いは法則の誤りではない。結果の違いは、環境条件の違いである。環境条件の違いを明らかにすることによって、規定性の現れの違いを明らかにする。環境条件が一定であれば、法則は必ず同じ現れをする。例えば光は直進するが、鏡があれば反射する。[6034]
または、法則自体が環境条件によって規定される。特定の環境条件の中でのみ現れる法則もある。例えば光は直進するが、重力場によって曲げられる。[6035]

【系】

相互に規定するいくつかの関係があって、それらの関係間の関係がなす全体が系である。関係する要素間が単数、あるいは複数の関係によって結びついて全体を表すのが系である。全体をなす関係間の関係が系である。[6036]
系は要素と要素間の関係からのみ構成される。要素と、要素間の関係は必要十分に定義されなくてはならない。定義された要素と要素間の関係によって、未知の要素、未知の関係が関連してきても、定義に基づいて系の内に位置づけることができなくてはならない。すべての要素を、要素間の関係を検証しなくとも定義の必要十分性のあるものが系である。  系をなす関係間の関係を概念間の関係として全体を十分に表現したものが体系である。[6037]
系には全体の性質によって開かれた系と閉じた系がある。系内の関係によって全体のすべてが決定されるのが閉じた系であり、相対的全体が他に対して孤立した系としてある仮想の全体である。開かれた系は系として相対的全体をなしているが、その存在の基礎は他を含む全体に依存している。開かれた系は媒介されている系である。[6038]

世界観は世界の一部として開かれた系ではあるが、世界を表現するものとして、閉じた系を目指さなくてはならない。世界観は概念と論理による体系でなくてはならない。[6039]

【まとめ】
主観の有り様として、主観は主体として存在する。主観は対象を対象化するだけにとどまらず、自らを主体として対象化する。主観は主体として対象を対象化し、同時に自らを対象化する対象性をもった存在である。主体は他の対象と同じ対象性をもった存在である。[6070]
存在一般はすべての対象性の現れである。私=主観=主体も対象もすべてが対象として関わる。その対象を主観は概念として再構成する。[6071]

ようやく主観を離れる準備ができた。客観的世界存在を対象として認め、この対象を世界観として再構成してみる。対象の存在の有り様へ、本論へ進み入る。[6072]


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