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第一部 第一編 端緒

第2章 有


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第2章 有

第1節 有ること、無いこと

最も普遍的な物事の性質である「有」は、「全て」としてはその否定である無でしかない。「有」でない物は「無」であり、その区別さえも超えた際限のない普遍性の性質として有るのは「全て」である。有る物「全て」は際限がなく、無との区別すらない。[1001]
キャッチコピーとしては良いが無意味である。要はこの「有無」に何をどのように盛るのかが、「有り様」が問題である。[1002]

【有るもの】

有るもの」の全体が世界である。世界は「有るもの」の全体である。「有るもの」の集合が世界である。「有るもの」の連なりが世界である。[1003]
世界のすべての物事の共通に持っている性質は「有る」ということである。「どのように」有るかによって個々の物事は区別されるが、それらに共通しているのは「有る」ということである。「どのように」あるかという個々の物事の性質を捨象し、ただ「有る」という抽象される性質が世界のすべての物事、世界そのものの最も普遍的な性質である。[1004]
科学以前の認識にあっても、科学によっても承認される世界の最も普遍的な性質が「有」である。最も普遍的性質は当たり前の性質であって、だから科学では問題にしない。存在、認識、論理のどれであっても「有る」ことが前提である。「」が世界の究極の普遍性である。具体的な物事も、抽象的な物事もすべての物事に普遍的な性質は「有る」ということである。[1005]
究極の普遍性から始まる世界観は「有」から始まる。ただし、この「有」は直接的であるが無媒介な観念ではない。すべての物事の性質として現実的である。[1006]

【無いもの】

世界に「無いもの」は無い。また「無いもの」は、世界に無い。[1007]
「無いもの」は空集合としてある。集合「無いもの」は集合「世界」における集合「有るもの」の補集合と定義されるだけである。集合は要素が定義されていなくてはならない。そして、集合が定義されなくては、空集合も定義できない。[1008]
」は有の形式的否定として有が「有」でないものとしてある。無は有によってある。逆にいえば有は無を直接導き出す。有と同じように抽象された無は有の抽象と同じくある。具体的無は、物事が「どのように」無いかとして現れる。具体的な無は具体的な物事がいかようかにしてあることを否定してある。物事が無いのであって、無い物があるのではない。[1009]

【世界の範囲】

世界の範囲は「有」と「無」とによって限定される。「有」のすべてが世界の範囲に含まれる。「有」と「無」との境が世界の境界である。[1010]
ただし、「無」は無いのであり、「有」と「無」との境も有りえない。「無」はもともと無いのであり、その境も無い。すなわち、「有」は無限であり、世界は無限である。[1011]
世界は、まずこのように定義される。しかし、この定義で世界が無限であることには意味がない。有と無との境が無いだけであって、有るものが無限に有ることを示してはいないのだから。したがって次に、「有る」ということについて考えねばならない。「有る」とはどういうことなのか。ここでは時間、空間は捨象される。捨象されると言うより、ここではまだ時間空間は問題にならない。「有る」ということによってとらえられる世界を問題とする。[1012]


第2節 「有」の主観性

有ること、無いことは、有り方、有り様の問題ではない。「有るか、無いか」それだけのことである。何によって有るのか、どの様に有るのかを問題にしてはいない。[2001]
あらかじめ何等かの物事が有ることを前提にし、その上でそのものの有無が問題にされる。これでは論理も何もない。前提が正しければ結論は「有る」のであり、誤っていれば「無い」。前提が誤っていれば前提を含む問題自体が無い。このことには、何の意味もない。強いて意味づけるのなら問題にされうることとしてである。[2002]
このように「有無」が問題になりえないのは、それだからこそ問題になるのは「有」が何の限定もつけられていないからである。「有る」ことは何についても言うことができる。「始めに、光あれ」とも言えるし、無い事柄ですら有無の問題として言い有らしむることができる。[2003]

【有を問うもの】

有を問い、「有無」に規定を与えるとすれば、それは普遍的主観である。主観が「有無」を問い、審判する。「有無」を問題にする主観が「有無」を規定する。主観にとってこそ「無」が問題となるのであって、それ以外に「無」は有りえない。「有無」が問題になるからには、その問題をとりあげるものが「有る」はずであり、それが主観である。「無」に対しても、「有」に対しても有るのは主観である。[2004]

ここから「主観」は私の有り様ではない。ここからの主観は「私」の個人的事柄、経験をすべて剥ぎ取った観る有である。飲食し、語り、一喜一憂し、勇み、疲れる等々の私ではなく、自分のことすらも観る、無限に後退して観る自分、最も抽象的である私である。有無を問い、有り様を問うものとしての普遍的な主である。有を普遍的にとらえることで、普遍化した私が主観である。端緒の主観は有を問うて普遍化する。[2005]

規定」とはとりあえず、対象に何らかの性質を付加することである。「付加された」は主観が結果として認めることであるが、何らかの性質は対象に現れるので、何らかの主体が対象に付加するのではない。何らかの性質が対象に現れていることが規定されていることである。「有」という性質だけでなく「どのようにかして」性質が付加されてあることが規定である。何者にも規定されない「有」について規定を問題にすると「付加」とか、「現れ」とか、何者にもよらない「規定」とか衒学的な印象を付加してしまう。[2006]
「付加」が不可であるなら、規定は対象の存在の決定である。主観的からいえば対象を対象として選び出すことである。しかし、対象の存在が主観にかかわらない存在の一つ、主観に関係なく他と区別される性質によって自立しているものであることを認めなくてはならない。主観による規定によって定義される対象の区別ではなく、対象の存在が他と関係し、他と対象とを区別する客観的関係における対象であることの性質が規定性である。[2007]
例えば電子などの素粒子は波であり、粒子としてもある。粒子性は一つ一つ区別され、不連続な数えることができる性質である。電子は他と物理的性質によって区別される粒子として規定される。電子としての物理的性質を現すものとして他と区別され、他と関係している。電子は陽子との相互作用によって物理化学的な性質を担うが、陽電子とも相互作用する。陽子によって電子が規定されるのではない。科学者によって電子が規定されるのでもない。ただし、同じエネルギーの電子は電子どうし区別できない対称性をもっている。他方で電子は波でもあり、連続する波の波長は波自体によって規定されるが、波形のどこからどこまでが一つの波長ということはできない連続である。位相は相対的にだけ比較が可能になる。一定の波形、位相で表される定常波であっても、振動の形を取り出して示しても運動しない波形はもはや波ではない。サインカーブでしかない。「波束が収束する」という物理学者もいるが、哲学でいう規定は他の存在によって規定が行われるのではなく、その物自体の有り様である。[2008]

私の体を構成する炭素等はどこかの星の中で作られた物である。私の体を構成する糖は植物によって光合成された物である。私は新陳代謝によって更新されている。元素や有機物なくして私の存在はない。しかし元素や有機物によって私を規定することはできない。私が私としてあるから私の体は生物としても、物質としても私として存在している。規定は対象の有り様であり、その有り様をとって対象は存在する。その有り様を対象として概念として定義することが規定することである。規定は対象の有り様そのものであり、その規定により対象は概念として定義される。われわれは対象を規定するのではなく、対象の規定性によって対象を定義するのである。[2009]
「規定」とか「現れ(=現象)」は客観的には、後に定義されるように他との関係の普遍的有り様のことである。ここではまだ他との関係が問題にならない段階であり、それゆえに主語・主体がないのに規定したり、付加することになってしまう。他との関係は必然的に問題になることであるが、最も普遍的性質である「有」を抽象して扱う場合には他との関係はまだ現れない、捨象されている。[2010]
量子力学の成立期に、物理学者の間ですら「物質は消滅した」と主張された。その後もたびたび繰り返されている。「有」った「物資」が対消滅して「無」になってしまう。粒子であり波である「物質」など「有」りはしないと。これらは物理学者の観念解釈であり、主観による「有」の問題でしかない。「有無」と「変化(運動)」は別の問題である。[2010]

【有の定立・定有】

主観によってすべてが決められるる。主観が世界を問題にする。主観は世界が有ることを認める。少なくとも世界が「有る」ことを前提にこの世界を問題にする。主観によって世界が「有る」ものとして定められる。世界がどのようなものであるかは後の問題であり、「有る」ことは「主観」と「世界」のかかわりの問題として規定される。[2011]
「有」は主観とのかかわりにおいて問題になる。「有」は主観にとって問題になるが、主観にとって「有」は、主観以前に、主観にかかわりない最も普遍的な性質としてある。このように「有」はなにものにも規定されない、最も普遍的な有り様として定立=措定される。最も普遍的な、無規定の「有」と規定された有は、定有と定義される。[2012]
物事の有り様として、関係の仕方は未定義であるが関係するものとして扱うことが「定立」する、「措定」することである。その有り様が「定立」「措定」である。定立はなにものにも規定されない有り様である。[2013]
何らかの性質によって規定された存在が「定在」である。「定有」は「有は無規定である」と規定された定在である。[2014]

ここで「有る」ということは舞台の上の空間や、空気や水で満たされた空間、あるいは場と言った何らかのものに媒介された空間を、何らかの存在がその空間を押し分けて、その空間を変化させて有ることではない。他との区別によってそのものであるのではない。すべての物事に共通な性質、究極の普遍的な性質としてある「有る」ということである。強いて言えば世界に有る。世界の中に他のもの、すべての物事と同じく、区別されることなく、ただそれだけとして有るのである。[2015]

【主観一元論】

主観は有無の問題提起者・審判者として存在する。問題提起者としての「主観」が唯一の「有」であるなら、問題はそれですべてである。「有」は「主観」の有であり、「無」は存在しない。[2016]
唯一の「有」である主観にとって「対象との関係」は存在せず、「対象」は「主観」の「有様」であって、存在は「主観」だけであり「無」は存在しない。「主観」以外の「対象」は存在せず、「対象」との関係も存在しない。「主観」のみが唯存在する。唯存在するのみの「主観」に「有無」は絶対であり、「有」「無」の区別もない。[2017]
他に「主観」がとりえる立場は、世界は「無い」、あるいは主観自体も「無い」である。ところが、世界が「無い」のであれば主観は何も問題にしえない。世界観は問題にならない。主観自体は「無い」と主観が否定することには意味がない。残るのは、主観自体が「有る」である。[2018]

主観のみが有るとする世界観はここで終わる。次に書き(読み)進む必要はない。[2019]


第3節 主観の措定

主観の措定

主観は何等かを対象とする。主観はとりあえず「有無」を問題にするものである。[3001]
主観と主観の対象は区別されるが、ひとつの関係に対置され、結びついている。主観と対象の存在は相互に前提し合っている。[3002]
主観は対象との関係になければ「主観」ではない。他のものでもありうるかもしれないが、「対象」と関係しない「主観」は無い。対象との関係にない「主観」は「主観」ではない。「主観」にとって「主観」とは区別される「対象」の存在と、「主観」と「対象」との「関係」が存在する。「主観」のみの存在は無いものを有らしめて否定することでしかない。主観は対象を持つからこそ「主観」でありうる。「対象」との関係にあるから「主観」は有る。[3003]

主観に関連する意識、精神、自己などは対象間の相互作用の過程にあって現れてくる。ここではまだ主観と対象との関係以外に世界はない。[3004]

【有の二元論】

主観を対象と同じものであることを認めない、あくまで主観に固執する主観にあっても、主観と対象との区別はある。[3005]
すべての関係を主観と対象との関係とすることは、対象と対象との関係も主観との関係の一部分でしかないことになる。主観と対象との関係にあって、対象を複数の部分にわけ、その分けられた部分と部分の関係として、対象と対象としての関係を認めることは、対象間の関係を主観が分割したにすぎない。ここには対象の自立性はない。ここでは対象は主観に従属している。ここでは主観が対象を想像し、創造し、放棄している関係でしかない。[3006]
この立場では主観を対象化することはできない。対象はすべて主観との関係のうちにあり、主観のもつすべての関係の対極をなしているものである。したがって、主観を対象化してみたところで、それは主観ではありえず対象でしかない。[3007]
対象は主観にとって有るものである。すべての有るものが主観の対象となる。これに対し、対象を「有る」と評価するものが主観である。何かが対象であり、その対象を「有る」とするのが主観である。主観と対象が二元としてある。「有」だけではここに留まる。有り様が問われなくてはならない。[3008]

【主観の定在】

主観と対象の関係にあって、主観は対象をただ観るだけである。主観と対象とが関係して有るが、その関係で対象なくして主観はない。対象を対象としなくては主観は主観であることも、有ること自体ありえない。主観にとって対象は与えられるものである。[3009]
主観は主観に対して対象を示す。主観は対象を主観自体に対して評価する。主観は対象との関係にあって、対象を主観と関係づけることによって主観として有る。主観は対象を主観自体の内に受け入れることで主観である。主観は対象に媒介されて有る。[3010]
主観は主観に対してのみ働く、機能する。主観は主観自体の内に向かってのみ働きかけるものであり、主観は主観としてあり、他に対して、すなわち対象に対して働きかけることはない。だだし、これは主観が主観としてある場合だけのことである。したがって働きかける主観も対象も区別はされず、働き自体の有無すら問題にならない。[3011]
すべての事柄、全世界は主観にとって「主観」と「対象」として区別でき、また関係している。[3012]

主観の絶対性

主観は対象との関係以外にはありえない。対象との関係がどのようなものであれ、主観を基準にして対象と主観との関係は絶対的なものである。対象が次々と変化し一定でないにもかかわらず、それは対象の現れであり、主観にとらえられている対象との関係に変化はない。対象の変化は主観の相対性によるのではなく、対象のあり方である。主観は主観にとって、対象との関係にあっても絶対的である。主観が対象と関係していることは絶対的である。主観と全体とは常に関係をもつ。そこでは主観と対象との関係は絶対的な関係である。[3013]

【主観の関係性】

主観と対象との関係を恒久的、固定的なものとする立場では、主観にとって世界は絶対的なものである。主観が終えんするまで対象は変化しえても主観は変化しない。主観は主観にとって絶対的なものである。しかしこの「絶対」はまさに硬直である。主観は対象とただ関係しているだけのものでしかない。対象の変化そのものは主観にとって何の意味もない。[3014]
主観がみずからを対象化せず、相対化しなくては、主観について受入れ、感じ、考えることもない。それどころか、生命としてもあり続けることはできない。主観と直接関係しない対象間の関係を認め、主観を対象化しなくては世界を理解できない。対象の自立性を認め、対象間の区別された自立性を認めなくては主観と対象との関係の変化を認められない。主観は対象間の関係と関わることによって対象と関係する。[3015]


第4節 主観の対象化

【主観対象化の可能性】

主観は「有無」を問題とするものとして定義された。しかしこの定義はまだ証明されていない。主観は対象の有無について評価するものとして、対象との関係によって「有る」とされたのである。対象を離れて主観が「有る」かどうかは答えていない。主観の「有無」はまだどのようにも証明できていない。主観の「有無」は主観を対象化することであり、主観を主観でないものにしなければならない。「主観の対象化」はどのようなことなのかが次の問題である。[4001]
対象化される主観は、主観と対象との関係に対象化されて主観でありつづけることはできない。対象化されたものは対象であって、対象化された「主観」は別の主観、いわば「主観自体」によって問題にされている。[4002]

【主観の有】

「対象化される主観と、その主観を対象とする主観はもはや同じ物ではない」との形式は成り立たない。この形式は通常の分析的論理であり、自己言及の構造を認めていない。主体と対象は二律背反の関係に有ることを前提にしている。[4003]
主観の「有無」の問題は、対象化される主観が主観自体と同じでありつづけているのかどうか、ということになる。そうであれば、主観と対象は同じ有り様、同じ有り方の別の現れであり、主観が対象になりうる。このことはまた主観が、主観を知ることができるし、さらに主観を対象として有らしめる。さらには主観に働きかけ、主観と対象との関係を変えることができる。[4004]
しかし、ここで有るのは「主観」と「対象」だけでありその他の存在はない。主観は対象化されても、対象化された主観と、対象化された主観を対象とする主観も別のものではなく、同じ主観の別の現れ方であるにすぎない。ここでは主観が対象化されて別の存在になってしまうような関係は成り立っていない。ここにあるのは主観と対象だけの関係であり、主観と対象は相互に関係することを前提として存在しており、相互に入れ替わっても主観と対象との関係以外にはありえない。主観が対象化され、主観でなくなる段階は、主観が対象として、対象間の関係に入ってからである。ここでは主観と対象しかなく、対象間の関係はまだ扱えない。[4005]
これは主観の自己言及の形式であるが、主観はまだ主観に言及することばを持たない。主観と対象だけからなる形式的関係では、主観は主観でしかありえない。主観と対象とを媒介するものがなくては、主観を対象化することはできない。[4006]

【主観の対象性の獲得】

「主観と対象との関係」が、主観の対象化によって主観が主観でなくなるのではなく、対象がそれまでの対象とは違う関係になる。主観の対象でしかなかった対象が対象と対象との関係として、主観との関係とは別に存在する。対象間の関係が主観との関係を離れた客観的関係の承認を求める。主観と関係のない対象間の関係が一般的関係として存在する。主観と離れた対象間の関係を主観が対象とすることによって対象間の関係は、客観的存在として扱うことができる。関係において主観は対象に媒介されていたが、主観の有としても対象に媒介されている。対象こそ普遍的な有の有り様である。[4007]
対象間の客観的関係を前提にすることによって、すべての客観的存在を、主観と対象との関係に結びつけることができる。客観的関係の中に主観を関係づけることで、主観は対象化される。対象化される主観は、対象性を獲得した主観として主体になる。主体は他にとっての対象であり、他を対象として存在する。他との対象性の関係を媒介にして、主観は対象になりえる。観る主体である主観と、見られる対象である主観、主観は主体であると同時に対象になる。[4008]
対象間の客観的関係に有ることによって、主観の直接かかわらない対象間の関係と、「主観の対象との関係」は隔てられてはいない連続した関係としてある。空間的、時間的に隔たった対象とも、対象間の関係の普遍性によって主観との関係の可能性が保証される。それらも主観にとって有る。逆に空間、時間もこの関係によって普遍的存在としてみとめられることになる。[4009]
主観が対象化されるなら、対象としての主観のあり方と、主観の対象とは同じに有るものとして客観的存在になる。主観自体に規定されるのではない対象と主観とは客観的存在である。主観は対象化され、対象間で関係するものとして客観的存在となる。主観と、主観と関係する対象と、主観と関係しない対象まで含めた客観的存在である。[4010]
主観は対象と対等な関係にあって、対象をみずからのものとして主観の内に取り込みうる。主観は対象についても知りうる。主観は対象を主観化して取り込むが、対象は対象として有りつづける。[4011]

【他人の承認】

主観が対象と同じ客観的存在であるということは、対象も客観的存在として主観と同じ部分をもっている。[4012]
主観と対象との関係は、対象間の関係にあって同等化し、主観は対象性を獲得する。対象性をもった主観として、主観は対象との関係の内にみずからの主観性を取り戻す。主観の対象性の承認は、対象の内にある主観性の承認である。対象として有る主観性は他人である。[4013]
他人を承認することは、同じ関係の内にある自分の承認である。[4014]

これらの問題は関係をたどっただけである。これらのことの証明は対象である世界をすべて確かめることで明らかになる。主観は対象との関係によって「有る」とされるのであり、主観との関係を含む対象の関係をすべて確かめることによって、対象と主観の関係を全体の中で明らかにできる。[4015]
この確認が「第一部 世界の一般的ありかた」のテーマである。[4016]

そこで、世界は対象であり、対象は世界であるが、主観は世界に含まれるのか、主観は世界とは別のものであるのか。始めに前提とした「全体」の内には、対象だけしか含まれないのか、主観と対象ともに含むものが「全体」なのか。対象化の可能性の問題は、このように言い替えることができる。このことにより、前提に繰り込まれた結論の正しさを証明する枠だけが確認できる。[4017]
「すべての集合の集合はそれ自身を要素として含むのか」という問題は、論理的には証明できないのであって、実際にすべての関係をたどることによって証明される。[4018]

第5節 主観の相対化

対象は主観に対する対象として、主観との関係と対象間の関係をもつ。この2つの関係とも、対象が対象とて主観と関係しえるものであることを前提にしている。しかし、この前提は主観にとって絶対的でありえても、対象にとっては絶対的なものではない。[5001]

【関係の相対化】

ただ主観は主観を対象化することで「主観と対象との関係」を「対象と対象との関係」とみなすことができる。「主観と対象との関係」は「対象と対象との関係」の一部分でありうる。「主観と対象との関係」は「対象と対象との関係」の特殊な場合としてある。[5002]
対象を主観との関係に従属しない、自立した「有るもの」として認める主観にとって、対象のとりうる2つの関係「主観と対象との関係」と「対象と対象との関係」とは代置することができる。主観を相対的なものとみなす主観自体にとって「主観と対象との関係」は、「対象と対象との関係」と区別するところのない同等の関係である。主観と対象との絶対的関係は、対象間の関係として相対化される。[5003]

【絶対性の転化】

主観と対象との絶対的関係が対象間の相対的関係になることによって、絶対性は対象間の関係に転化する。ただし、この絶対性は関係形式の絶対性であって、もはや対象、あるいは対象の有り方の絶対性ではない。[5004]
主観との関係を前提とすることから、「対象」と「対象」との関係を前提にすることが「主観の対象化」の問題である。主観とは直接関係しない対象間の関係を認めることである。この立場では、世界のすべての関係を相対的なものと見なすことになる。対象と対象との個々の関係は、対象と主観との関係を含め相対的なものであり、相対的な関係のすべての連なりとして、世界のすべての関係があることになる。[5005]
主観の絶対性は絶対性として主観の内に封じられ、対象の相対性からすれば主観は対象と相対的に関係する。対象と関係する主観は相対的である。主観はみずからを対象化することでみずからの存在を確かめ、確かなものにする。主観は主観のままでは、ただそれだけの固定した「絶対的存在」である。主観は、主観としての存在を貫き、かつ主観として主観を対象として見ることができる。このことが主観の存在を対象との関係において決定するものである。主観は主観でありながら何でも対象化することで、みずからも対象化する。[5006]
主観の絶対性は主観の内に封じ込められなくてはならない。以降解き放ってはならない。[5007]

【主観の客観的定立】

主観にとって主観の対象化は、全体との位置関係を不安定にするものであるが、対象間の関係としてとらえなおしてしまえばあたりまえのことになる。対象間の関係全体にあって主観はひとつの部分としてある。主観がみずからを対象化できるのは、主観も客観的存在であることを認めるからである。主観が主観に固執する限り、主観と対象との関係は絶対的に永久に続く。主観は対象化されねばならない。[5008]
対象によって媒介される主観と主観の関係が成立する。主観の対象化は、対象の内に別に対象化された主観を承認することになる。主観と主観が対象とする主観とは対象として対立し合うが、主観としては同一である。主観は主観であると同時に対象でもありうる存在として有る。[5009]
主観を対象化することで、対象間の関係を客観的関係として定義することができる。客観的存在は主観が評価するから「客観的」なのである。対象化した主観を含む対象間の関係は主観との関係に従属しない存在である。客観的存在の関係は、主観との関係よりも基本的な主観と対象を媒介する関係である。主観が客観的存在の関係を説明するのではなく、客観的存在の関係として「主観」が説明される。[5010]

【対象と主観の全体】

ひとつである「全体」が「主観」と「対象」の関係としてとらえなおされる。始め対象は主観によって「有るもの」として規定されたが、全体の関係のなかで主観は対象によって規定される。主観は世界に含まれており、世界の外に有るのではない。全体は、主観と対象のふたつの部分からなるが、すべての物事の関係と同じ関係の連鎖の内に関係している。[5011]
主観からして世界にある関係を、このように相対化して見ることができる。そして、主観にとって重要なことは主観を対象化することである。主観の対象化が主観が世界を理解する鍵である。主観は対象を通して主観を知ることができる。このことは、子供が自立する過程で経験することである。[5012]


第6節 主観の定立

普遍的関係

したがって、主観が「有る」として評価したものは、関係しているもののことである。そして、「有る」ということは関係することである。[6001]
「主観と対象との関係」そこで区別される「対象と対象との関係」ひるがえって主観を対象化し「対象と相対化した主観との関係」この3つの関係が、主観にとっての世界の関係のすべてである。これらの関係を、同一の、同質の関係として連関を見ることによって世界を一元的にとらえることができる。[6002]
主観あるいは、対象のどこから出発するのであれ、関係はたどることができ、すべての関係は世界の関係の全体をなす。主観と直接関係していなくても、関係をたどれば主観にとっても「有る」のである。また、主観が実際に関係していなくとも、実際に関係しえなくとも、対象間の関係に普遍性があれば「有る」のである。普遍性はその関係が、主観のたどる関係内でいつでも、どこでも成り立っていることである。[6003]
主観によって「有る」とされたものは、「この世界の中で、関係している」という意味である。そして、なかでも主観との関係だけの対象は「無い」と評価されるものである。対象間の関係をもたないものは「無い」のである。[6004]

【対象の定立】

対象間の関係として物事は有る。対象間の関係の普遍性が有の普遍性である。対象間に関係することによって対象は普遍的に有る。対象は世界の普遍的関係に有るものとして定立される。[6005]

始め、対象は主観によって認められた。主観との関係で対象は有る。主観の対象は様々であっても対象として区別をもたない。対象は主観と関係することでだけ区別された。主観は自らを対象化することによって、対象間の関係を客観的関係として認める。主観が対象化され、対象間の関係に主観が対象化されると、対象間の関係として対象は区別される。対象は様々に区別される対象になる。主観にとっても対象は対象間に区別をもつ。対象は主観に対してだけでなく、他に対しても一定の関係にある。対象は他に対する一定の関係を保存するものとして、主観から自立する。他に対して一定に保存される関係が、対象を他と区別する。他と区別する関係が対象の性質であり、対象の存在を規定する。他との区別としての規定性が、対象を規定するのであって、主観が対象を規定するのではない。ここにいたって、主観自体が対象との関係によって規定される。[6006]
世界は有るもののすべてからなる全体である。ということから始め、その有るものは主観によって規定された。しかし、主観を対象化する主観自体は主観を対象と同じ関係の内に位置づけ、主観を相対化した。主観は対象間の関係の内にあって規定される。対象化した主観を含めすべての事柄相互の関係全体として世界があることを、主観自体が認めた。[6007]

【まとめ】

「有」の問題は主観と対象の関係の問題であった。[6008]
「有」は主観が対象との関係を問題にする。[6009]
対象は主観との関係で「有」の問題になる。[6010]
主観はすべてを対象化し、主観自らも対象化する。[6011]
対象は対象として対象以外にはなれない。対象は主観にはなれない。[6012]
主観を対象化することで、主観は相対化され、対象性をもつ主体となる。[6013]
対象間の関係として主観、主体の「有」が規定される。[6014]
主観、主体を含む対象間の関係で対象は個別として区別され、規定される。  対象は主観、主体を含む世界全体でもあり、また同時に相互に区別される対象性として規定される。  相対的主体間の関係に他人が認められる。[6015]
したがって、世界を理解することは対象間の関係を理解することである。対象間の関係を理解するには「主観と対象との関係」にあって「対象と対象との関係」と整合させねばならない。その上で主観は主観を対象化し、対象化した主観によって対象に働きかける。[6016]

関係の有り様が次の問題である。[6017]


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