始めに世界観の枠組みを決めてしまっても心配は無用。世界観の枠組みはしっかりはしているが、いくらでも、無限の内容を詰め込める。狭すぎることはない。
[0003]
【唯物論の立場】
自分と世界との関係はそれぞれ互いの位置関係であり、作用の関係であり、存在根拠の関係でもあった。また、世界に対する自分の視点の問題であり、解釈の問題であり、なにより自分の生活の場の問題である。
[0004]
言い替えて、これからの課題は、世界について、世界観について、世界観の叙述について、世界の変革についてである。これら4つの課題は、別々のものではない。性質は異なるが内容は同じ事柄である。互いに重なり合い、依存し合っている。相互に依存した一つの事柄であり、分けて取り上げることはできない。世界を明らかにすることが、世界観であり、世界観の表現の仕方であり、生き方の基点である。
[0005]
これから問題にする自分を含めた世界は物質そのものである。つまり唯物論の立場に立つ。これは前提であるが、根底にある問題であり、結論でもある。世界は物質以上でも、以下でもない。証明以前の問題である。あえて、ここで唯物論であることを宣言するのは、観念論ではないことを宣言する為である。初めの一部分で表現が観念論的な形を取りはするが、唯物論である。
[0006]
唯物論か観念論かの問題は哲学の根本的問題であるが、極一部分の問題である。それは唯物論では観念論との対立として始めて問題になりえる。観念論、唯物論の問題は、物質の最高の発展段階である精神の働きの一部分として問題になるに過ぎない。世界に対立するものとしての、あるいは物事の判定者としての大仰な精神を問題にはしない。
[0007]
ただ、観念論と唯物論とのどちらが正しいかの問題は、精神が精神の働きについて判定しなければならないので、厄介である。精神にとって判定は「どちらかの立場に立ってみて、判定者である精神も含めた世界を統一的に理解できるのはどちらか」によって決めるしかない。
[0008]
精神と物質の対立を前提とする立場からすれば、「精神も物質の働きの一部であり、物質的存在である」との主張は論理のすり替え、物質概念の無原則な拡張に見える。しかし、問題にするのは前提である物質そのもののであって、精神に対立するような物質概念を前提にはしない。対立する相互の立場を尊重はしない。唯物論の立場の根拠を示し、唯物論の立場で精神を位置づけ、さらに観念論を位置づける。神や、霊魂の存在を唯物論の立場で問題にしても、観念論としては取り上げない。
[0009]
【唯物論的世界観】
そもそも、唯物論以外の立場で、それらについて問題にできるとはとても思えない。問題の提起とか、説明の根拠について、物の関係からしか何も言えない。何かを説明するのに、物の関係を無視しては何も表現できない。例えば、「神は、全知、全能である」と主張しようにも、「知」「能」とは、物を対象にしなくては説明できない。物質でないものとして「霊魂」を対象にしようとしても、霊魂を説明するには人間なり、生物なりの物質的なところから説き起こさねばならない。あるいは、超自然的現象について、何が自然で、何が自然を超えているのかを、自然の否定、あるいは自然を限定する事でしか説明できない。物質以外の物事を根拠にしては、何も問題にすることはできない。ことばにするにも、考えるにも、物質とその関係を基準にしなければならない。基準を明らかにしないで、科学の不十分性だけを根拠に正当化は成り立たない。
[0010]
世界を宇宙と言い替えると、銀河系、太陽系、地球系といった範囲を思い起こすが、宇宙はそれだけではない。天文学が対象とする宇宙は、そうした大きなスケールと、さらに大きなスケールから、分子、原子、素粒子等までの小さな物質の生成消滅の反応である。また、実際の宇宙空間では少なくとも地球上では生命活動、人間の知的活動がある。生命も精神も物質世界に位置づけられねばならない。
[0011]
世界観では全体の意味で宇宙と言う場合には、これら諸層を含んだ時間と空間を表す。いわば、宇宙は物質的時空間である。これにたいして、世界は概念的時空間である。物質的時空間と概念的時空間とを区別することが、世界観と世界観の表現とには前提として必要である。意味と表記、所記と能記の区別に対応している。対象と主観の関係が世界観のうちでは物質的時空間と概念的時空間として重なり合っている。世界観は世界の自己言及なのである。対象としての世界の関係が問題なのか、世界観の構造自体が問題なのか明確に区別しなくてはならない。
[0012]
物質的時空間と概念的時空間との区別は、物質的時空間の勝手な解釈を合理化するための方法ではない。物質的時空間についての個別科学の成果と、概念的時空間との対応関係を明確にするための前提である。例えば物質的時空間についての個別科学の成果を一般的解説において「連続」「無限」「絶対性」などが無限定に使われる。それらの概念は、それぞれ個別科学分野の中で特別に規定される概念であって、日常言語の意味とは完全に一致しない。それらの表現、専門用語を、個別科学の成果を踏まえている装いとして、概念的時空間の用語として直接に持ち込んではならない。概念的時空間の用語は、各個別科学用語、日常言語それぞれとの関係を考慮しつつ、概念的時空間内の、世界観の用語として定義され、全体の中で統一的に、普遍的に、限定された意味で用いられなくてはならない。
[0013]
世界がどうなっているかを客観的に理解することは基本である。しかしそこには客観的とは何か、理解とは何かの認識の問題がある。
[0014]
さらに、自分が主体として世界にどうかかわっているかを、客観的世界理解のうちに位置づけなくてはならない。
[0015]
【世界観の不足分】
世界についての解釈である世界観は、手前勝手な解釈として、特に自然科学の専門家に嫌われることが多いがやむをえない。自然科学以外でも、科学論文として蓄積されてきた成果とのつながりを、引用という形で明らかにしていないことで、また、今日的成果を十分にふまえていないことで専門家からはほとんど無視される。それ以前にこの世界観の内容が取るに足りないのかもしれないが。それでも、生きていく実践に役立つ包括的世界の記述を具体的に例示するため、専門の立場からの批判を期待したい。世界観は意識するしないに関わらず、生活上の判断に不可欠の前提になり、また前提たるように検証されるべきものだから。
[0017]
中高年の者は個別科学の進展に特別の注意を払わなくてはならない。20年、30年前に学校で学んだことだけでは世界を理解することはできない。逆に受験のために偏った選択教科しか学ばなかった若者も、努力を要する。個別科学の進展を理解することは宇宙、地球、遺伝、生理、脳、計算機といったことだけでなく、人々の誤り、成功の歴史、地球環境の保全、生命倫理の確立、社会組織の運営といった実践上の問題に取り組む上でも不可欠である。
[0018]
この「世界観」の中で、この目標がどの程度達成されるかは、私の到達点を示すものになる。この「世界観」の到達点の低さは、この「世界観」の目指す世界観の低さを示すものでなく、私の責任である。
[0019]
***** *****
【章立て】
この第二編では、物質としての世界全体の運動、世界全体の運動が作り出す部分的運動、これらの部分的運動と部分的運動とによって形づけられる全体的運動の形式、世界の構造を問題にする。
[0020]
運動と運動との関係として形づくられる構造は、世界の構造であると共に、物質の構造でもある。物質の構造として、世界は物質の階層構造をつくり出している。世界の階層構造、物質の階層構造は、物質の発展史の結果であり、また、宇宙の自然史のこれまでの結果である。世界観は物質の運動の論理と、物質の発展としての宇宙の歴史に導かれる。
[0021]
第4章は「全体」についてである。何から始めるべきか、何を対象とするのか、その答えとしての「全体」についてである。世界の最も一般的な形式についてである。全体の、いわゆる「外延」である。基点としての絶対的存在としての全体の性質を考える。
[0022]
第5章は「全体」の内容である運動についてである。全体の運動であり、最も一般的な運動についてである。運動は「全体」の存在形態である。運動するものとして「全体」が存在する。全体の、いわゆる「内包」である。全体の絶対性を否定して部分の存在形態が現れる。全体に対する部分であり、部分間の相互関係としてはまだ区別されてはいない。
[0024]
世界観を組み立てる素材である部分は、世界観を構成する素材すべてに共通する統一規格である。
[0025]
第4章、第5章は「全体」の存在についてである。いわば、全体の即自的存在である。
[0026]
第6章は全体の普遍的運動において、全体の運動によって、全体に対して、またそれぞれに対して区別される部分としての運動についてである。全体存在をその運動によって否定した部分の存在についてである。一般的である全体の運動に対し、区別された運動は部分の運動でありながら、全体の運動の一部分である。
[0027]
第7章は部分と部分との関係としての運動についてである。全体から区別され、部分と部分として運動する個別的運動である。個別的運動は、部分の存在形態である。いわゆる物、物質の形式である。全体に対する部分の定義を考える。
[0029]
第8章は運動の形式、運動法則である。したがって、全体としては世界の基本的あり方である。全体の運動形態の基本法則を考える。
[0031]
第9章は個別的運動の内容、個別的存在の構造である。部分としての個別的運動の存在形態である。個別的運動の具体的現れ方である。部分の、個別的存在の現象形態である。そして、全体は部分である我々に対して、この現象形態として現れる。我々は個別的存在の現象形態から個々の対象を見、全体を見る。いわゆる「実在」についてである。世界観の素材から部品を作り出す。
[0034]
第2編は最も抽象的な全体から、具体的な部分へと展開する。それは、世界の基本的あり方であり、世界の構造であり、諸現象の現れ方である。
[0037]
この第一部「世界の一般的なあり方」そして特にこの第二編「一般的、論理的世界」の構造は演繹的である。しかし、世界が演繹的であると主張するものではない。個別的、具体的現実から不変・普遍を求めて抽象、一般を獲得するのが認識の第一の過程である。認識の第二の過程として獲得した抽象、一般が正しく世界を反映したいるかを論理的に演繹することで検証する。認識の第二の演繹過程が、宇宙の歴史であるエントロピーの増大過程にありながら、同時に世界の構造をつくり出してきた過程と重なり合うのである。宇宙の歴史も進行中であり、宇宙の多面的現れを対象とする個別科学も、まだまだ全体を見通す可能性が見えてきただけである。
[0038]
個別科学の解説を新たに学ぶたびに、世界観は再編される構造であり、世界観の構造自体完成されることはない。単に私の個人的な到達点をどこかで区切って形を示さなくてはならない。もし、この世界観の構造が価値あるものであるなら、再編は引き継がれるであろうけれども。かさねて、この世界観は世界と世界観がこの様に演繹的であることを主張するものではない。
[0039]
***** *****
【世界観の組立開始】
ここでの世界観は現実世界の対象を概念に対応させ、対象間の関係を論理によって対応させる。概念は論理によって関連づけられる。概念は論理によって概念相互の連関として定義される。論理は対象間の関係によって基礎づけられる。
[0040]
概念も論理も思考によって存在する精神的存在である。世界を概念と論理によって思考のうちに世界観として組立てる。世界観は世界を思考のうちに反映するモデル、模型である。世界観としての模型は他の模型と同じに全体を鳥瞰することもできれば、分解して部分を取り出してみることもできる。しかし他の模型と違うのは全体であること。他の模型はすべて世界の部分を取り出している。世界観模型は世界のすべてを含んでいる。他の模型のように台座とかケースなど余分な物を含まない。さらに決定的に違うのは、世界観は現実の世界と重ね合わせることができる点である。現実世界に働きかける時に、世界観を現実世界に重ね合わせて見通し、変革し、検証することができる。
[0041]
そして、組立始めのこの時点では世界観の鳥瞰は目次としてだけ可能な段階である。また、検証もまだである。世界観組立の要素である概念も論理も思考としての精神的存在であるが、まだ世界の中で思考の位置づけはできていない、世界観での論理と概念による思考の定義はまだできない。思考による論理と概念との形成は、我々の成長過程で現実には先行している。思考と概念は第三編全体の課題である。思考としての論理も第三編で扱う。
[0042]
とりあえず、概念と論理を世界と対応づけ、その表現である言語によって定義して世界観の組立を開始する。
[0043]
【思考以前】
世界の中で生活する過程は、自分自身の主体性の実現である。
[0046]
生活過程の中で主体は客観的存在を対象世界として主観に反映する。
[0047]
客観的存在を対象世界として主体の内に反映するのが主観である。
[0048]
主観は経験を印象として保存する。経験は主体による客観的対象の反映だけではなく、主観自体の反映過程も、反省も印象として保存される。
[0049]
主観は新たな印象を保存された印象と類比する。また主観は保存された印象間を類比する。逆に類比することで、印象の普遍性を抽象し、保存すべき対象を抽象する。
[0050]
類比され、保存される印象の全体として主観は世界感を獲得する。世界感は印象の連なりであり、動的である。常に類比の過程にあり、保存された印象も常に修正される。世界感は経験による印象に媒介されている。
[0051]
類比によって印象の変化の中に対象の普遍性を抽象する。印象の変化自体に不変がある。不変がなければ単なる混沌であり、不変があるから変化を対象とすることができる。変化と不変の類比によって対象が抽象化され、印象として保存される。
[0052]
同時に対象の印象を反映する不変としての主体自体を主観として抽象する。主観は主体の経験を対象化するとともに、主観自体を対象化する。
[0053]
印象は抽象化されて記憶として保存される。また印象は普遍化されて記号化される。記号化された印象は不変であり、操作可能であり、経験からは自立する。印象の抽象化と普遍化、その類比が思考の基礎である。
[0054]
主観は経験される新たな印象を、抽象化・普遍化された印象から類推する。対象が何であるか、どうであるかは記憶から類推される。新たな印象が記憶と同じ対象であるか類推する。記憶と異なる場合は、一致する部分を捨象し、異なる部分の印象を記憶する。しかし同時に、異なる新たな印象も普遍的な記憶を基にその普遍性を類推する。その類推が正しいかどうかは対象を経験し続けることによって検証される。
[0055]
この類比過程で印象は概念化され、類推過程で対象間の規定関係が論理として抽象化される。
[0056]
【概念化と思考】
存在は他の存在との相互作用関係に対象性として現れる。他に対する対象化と、他による対象化が存在の規定性である。他と区別される個別対象は、他との関係において区別されるものとしての個別存在である。個別存在は主観との相互作用によって、主観にその規定性を反映させる。主観は世界を対象化し、相互に規定される対象を主観のうちに反映する。反映された規定性によって、主観が対象化する存在が概念である。概念間の相互規定関係が論理である。
[0057]
主観の内へ対象世界を反映する主体の運動が
思考である。対象の規定を概念として定義する。対象を認識し、存在を主観の内に概念として対象化することが思考である。対象と対象との連関を概念と概念の関係に置き換えて対象化することが思考である。主体は自らの存在、生活実践において対象を認識し、自らを含む存在を対象化する。思考によって対象は主観の内に概念として定義され、表現される。主観は思考として概念と論理を対象とする。主体は実践として世界を対象とする。
[0058]
概念間の規定関係は思考によって論理として操作される。思考は対象を概念として表現し、論理によって操作する。
[0059]
「思考」を「とりあえず」この様に位置づけ、これから「思考」の具体的あり方を思考する。
[0060]
【論理の検証】
思考による対象規定は概念としての対象の
定義である。思考は概念としての定義が他の概念の定義と整合しているかどうかを検証する。概念としての定義が必要十分な規定であるかを検証する。検証基準は対象の規定性である。
[0061]
同時に思考は概念間の形式的関係を論理的に検証する。概念間の形式的関係の検証は思考の健全性の検証でもある。検証は概念の反省である。概念の定義の検証である。
[0062]
概念としての定義は、定義によって個別対象を他と区別し、他との区別として対象を抽象する。概念としての定義によって多様な個別対象を他と区別して囲い込む。囲い込まれた個別対象の構成する領域が、定義域として形式化され、妥当性が検証される。対象を概念とする定義域が定義される。
[0063]
定義域は多様な個別対象を分類する基準である。定義域は定義された対象を要素として含む集合である。集合間の関係として、要素間の形式的関係の整合性が検証される。定義の妥当性が定義域間の形式的関係として、集合間の関係で検証する。思考自体の健全性が検証される。
[0064]
集合関係は他と共通部分をもつか、他に含まれているか、あるいは共通部分をもたないかのいずれかである。共通部分をもたない集合関係は関係がないのだから定義することもできない。共通部分をもつ2つの集合間の関係は、2つの非共通部分と1つの共通部分との3つの部分からなる。この関係はベン図として表現される。
[0065]
【概念の論理関係】
しかし、概念と概念とは2つの部分の集合関係に還元できない。概念と概念とは互いを双方向に対象化する関係にある。概念があって関係が生まれるのではない。ベン図で言うなら対象領域があって領域間の関係が問題になるのではない。ベン図自体が対象領域とその補集合とからなる論理空間によって包含関係を表現している。補集合を含む集合領域としてベン図の論理空間は成り立っている。ベン図の論理空間における存在として2つの集合領域は対象化される。論理空間がなければ包含関係を表現することはできない。思考は論理空間として対象化され、その中身を概念の階層構造で満たす。
[0066]
つまり、論理的定義は対象化する個別対象が他から区別されるその差異を表現する。個別対象は対象に含まれる対象一般でもある、と同時に対象一般からと区別される特殊である。対象の一般性の規定は「
類」である。対象一般と区別される特殊性の規定が「
種差」である。対象は属する類と、その類での他との種差によって定義される。
[0067]
例えば「哺乳類」は「子供に乳を与えて育てる」という種差をもつ「脊椎動物」という類に属する。これを「哺乳類は子供に乳を与えて育てる脊椎動物である」と定義する。「脊椎動物」は「脊椎をもつ」という種差をもつ「動物」という類に属する。これを「脊椎動物は脊椎をもつ動物である」と定義する。
[0068]
したがって論理的定義は階層構造をなしている。種差は対象の本質的規定性を取り出さなくてはならない。類と種差が対象の規定性を正しく反映していないと、定義される階層構造は破綻してしまう。
[0069]
そして、世界観の論理的定義の階層構造は、最も普遍的な類である「全体」から始まる。
[0070]
【定義形式】
一般に定義は様々な形で行われている。語源による説明。構成による説明。他との類似性による説明。他の否定による説明。等々。これらは修辞の世界を豊かにし、またユーモアのセンスを問う。しかし世界観の表現としては不適切である。世界観の定義は論理的定義でなくてはならない。
[0071]
論理的定義は対象の本質を示さなくてはならない。他と対象を区別する必要十分な性質を述べることである。ただし、論理的定義も概念間の関係であって、関係形式自体の制限を明らかにしておかなくてはならない。
[0072]
定義された主語と述語の関係形式の論理をたどれば循環してしまう。「 A は B, C, D・・・の性質を持つ」「 B, C, D,・・・の性質を持つのは A である」この循環を断ち切るのは対象との関係である。定義され、表現された「定義」は「定義」の対象との関係にあって意味、内容を表現する。
[0073]
「定義」と定義される対象の関係によって「定義」は2つの形式をとる。「定義」は対象を他と区別する外延を示し、特定の性質を共通にする内包を示す。対象の範囲によって外延を定義し、対象の内容によって内包を定義する。外延定義から、対象の定義された以外の性質がつけ加えられていく。内包定義から、定義された性質の対象の他の対象との関係がつけ加わる。外延に性質が内容としてつけ加えられ、内包に他との関係が区別としてつけ加えられ、外延と内包が現実の対象表現として統一される。対象の抽象的外延と具体的内包の定義が、内容と区別の規定をつけ加えられることによって、豊かな個別対象の定義となる。
[0074]
定義は主観の対象についての勝手な解釈ではない。対象の存在のあり方を、反映していなくてはならない。個々の存在は他との相互作用の過程にある。その相互作用として相互の存在を規定し、実現している。相互規定を保存するものとして自己を規定し、実現している。相互規定、自己規定の統一として存在対象は規定されている。相互規定のあり方を内包とし、自己規定の限界を外延として対象を反映し、定義しなくてはならない。
[0075]
【科学・学問・世界観】
さて、ここ第一部第二編からは思惟の無規定の想像から抜けて、現実世界に根拠を求める。ここまでたどってきた世界観の組立準備を総括する。
[0076]
思惟の根拠を求めて現実世界を理解する方法として頼りになるのは科学である。科学を担うには知的才能が必要であるが、科学によって世界を理解するのであれば、特別な能力、透視者のような能力は要らない。科学は世界についての普遍的な認識であり、やさしく解説もなされ、学ぶ体系も準備されている。科学なら努力すればそれなりの世界についての理解をえることができる。ただし、科学は万能ではないとの批判もある。科学理論は科学者仲間だけの共通理解であって、新しい理論の登場とともに、旧理論は捨て去られる、との主張もある。科学と科学によって世界を理解する枠組みをまず確認しておく。科学と学問と世界観の関連として整理する。
[0077]
広義の
科学の定義は社会の普遍的な認識活動である。科学は科学者の研究組織によって担われ、科学者の生活、研究費用も設備も社会が負担し、科学者の教育も社会制度化され、成果は社会的に公表され、解説され、現実世界の変革に応用される。科学は社会的認識、共通理解の基盤であり、日々実践的にも検証されている。
[0078]
狭義の科学は対象を概念として、普遍的な論理で認識することである。論理の普遍性は対象の普遍性と主体の普遍性を併せたものである。対象の普遍性は対象の本質と他の対象との関連の普遍性、すなわち対象を世界の統一性、全体の中に位置づけての普遍性である。主体の普遍性とは認識方法、表現方法の普遍性であり、共通理解、社会的承認である。
[0079]
科学は膨大な知識を蓄積してきた。しかし、対象の認識はその知識の解釈である。対象の解釈は仮説として提案され、仮説のほとんどが誤りである。多数の仮説の中からひとつの説の正しさが検証され、公認される。仮説は検証され、普遍的な体系に位置づけられて科学的認識の成果となる。
[0080]
また、狭義の科学には世界全体の普遍性に位置付けられた分野の科学と、現象のみを対象とする分野があり、さらに科学の装いをまとった似非科学の分野がある。似非科学とは世界の普遍性を無視し、個別の事象を勝手に解釈しながら、科学の形式をとって現れる。非常識だから似非科学と呼ぶのではない。科学は非常識な発展をしている。
[0081]
現象のみを対象とする科学分野とは、普遍的に位置づけるには現段階では複雑過ぎる分野、あるいは再現性がなく現段階では全体を把握できない分野を対象とする科学である。とりあえずは記録するか、統計処理するしかない分野である。しかし、現象から本質理解へ進めば、世界全体の普遍に連なる分野である。
[0082]
学問とは科学を学ぶ属人的認識過程である。科学と一致することを目指すが、科学は対象のすべてを明らかにできてはいない。広義の科学は多様な誤りを含む仮説の中から、検証によって正しい理論だけを残す。科学は対象に不明な部分を多く残している。学問は科学にとって未知・不明な部分を含んで世界を理解する。さらに学問は科学を学び、担う方法の獲得過程でもあり、課題の発見、認識過程の評価、成果の価値評価までも含む。学問は科学の認識過程を含み、科学の成果の解釈まで含めた認識活動である。
[0083]
したがって、学問は分野によって質が異なるように見える。分野によって科学による対象の定性的、定量的解明の程度が異なるのであるから。物理の分野では、日常の定性的対象に限っての概念はほぼ厳密に定義できているが、定量的にどれだけの物質があるかは宇宙論の焦眉の課題である。また天気変動等の複雑な相互作用の系については、課題が明らかになった段階である。生物学になると生死、生命の概念からして理解に幅が出てくる。社会的事象については科学として認めるかどうかすら意見が対立する。思想を対象にするには学者の数ほど概念が多様化する。哲学では概念に差異があることがその学問の価値であるように主張される。
[0084]
しかし、学問が社会的に認められるのはその基礎に、対象についての普遍的概念が科学によって定義されていることによる。哲学の扱う人間であっても、物理学で定義される原子、分子からなり、化学によって定義される化学反応によって構造と、エネルギー代謝をなし、生物学によって定義される動物個体であり、経済学で定義される生産者や消費者であり、情報学でモデル化される情報システムであり、美学で定義される創作者又は鑑賞者であり、宗教学で定義される信仰者あるいは非信仰者としての人間である。科学のそれぞれ分野での対象として定義される普遍的なものであるからこそ、哲学おいて人間の普遍的概念が問題になる。科学的根拠を無視した学問はいかに属人的なものであるといっても、社会的に許容されない。それは個人の内的自由によって許容されるだけである。
[0085]
世界観は学問であるが、ともかく対象世界全体の統一的理解である。学問はそれぞれの分野での対象を理解するが、世界観はすべての分野を含む全体世界の理解をめざし、さらにその中で生活し、生きていくための実践的認識である。科学的世界観もあれば、芸術的、宗教的、感覚的、観念的世界観もある。
[0086]
であるから、これは科学でもないし、学術論文でもない。
[0087]
索引
次章