Japanese only
第一部 世界の一般的あり方
第一編
次章
第二部
第三部
世界は経験しなくては理解できない。実践によって世界をよりよく理解し、理解する力をつけることができる。世界の理解は個々の具体的経験のなかで獲得される。
[0001]
しかし、日常の経験、あるいは専門分野の知識から世界全体を理解することは非常に困難である。世界全体を理解するには、個々の経験を評価し、他の経験との関連、関連の統一を必要とする。全体世界を一つのまとまりとして理解し、確かめるには演繹的体系でなくてはならない。一から多へ、本質から現象へ、全体から部分へ、普遍から個別へ、そして歴史的にも展開する体系としての構造でなければならない。現在までに獲得した到達点での世界の普遍性から、個別の多様な現象を説明しなくてはならない。体系は論理的に世界の存在、有り方を概念としてとらえ、概念間の関係を論理として世界を再構成する。
[0002]
抽象的な本質によって世界のすべてが決定されていると主張するのではない。世界は論理的に構成されていると主張するのでもない。このように体系化すれば世界を統一的に理解でき、そこでの意味を、当面何が重要かを明らかにできるようになる。と主張できるようにしたい。
[0003]
ところが、世界観の構造(体系)は矛盾したものにならざるをえない。
[0004]
体系に限らず、何かを記述、表現、証明するには前提を明らかにしなくてはならない。しかし、世界のすべてを問題にしようとするからには、問題に前提があってはならない。前提があっては、その前提が世界の全体に含まれず、その世界は全体ではない。この世界観体系の矛盾は論理的矛盾であり避けることはできない。「すべての集合の集合は、要素として集合に含まれるか」「自分を対象として意識する自分を意識する自分を意識する・・・、自分はどこに?」と同様の矛盾である。
[0005]
世界観はまずこの矛盾にどう対処するかを始めに明らかにしておかなくてはならない。
[0006]
論理的には世界観の記述全体が前提である。体系として記述された全体が結論であり、結論が前提を保証する。記述されて世界観の全体がすでにここにあるのだから、この記述の開始にあたって確定されたこの全体を前提にできる。
[0007]
そして最後に、世界を知ることは自分を知ることである。世界を知る、その「知る」は自分がどのようになることが知ったことになるのか、という世界の問題ではなく、自分の問題である。対象を知るということは、知ろうとしている自分を知ることである。そして「知る」前に自分は世界の内の一つの存在であるから、世界を知ることは自分を知ることであるのは当然のことである。
[0008]
しかし、自分が世界の内の一つの存在であることは証明できない。自分は世界の外に出られないのであるから。いや、自分は世界と対立しており、この対立関係を離れた自分はありえないし、世界もありえない。世界内存在としての自分の関係と自分と世界の対立関係とを統一しているのは現実世界であり、また主体としての自分の実践である。
[0009]
そこでは知る対象としての現実世界と、理解した世界としての観念世界の分裂と統一がある。世界観も科学も学問も、自分の内での観念としてある。科学によってもたらされた知識も観念である。現実世界と、理解としての観念世界の対立を統一するのは自分の主体としての実践である。科学が有効であるのは解釈よりも、科学実践として、現実世界と直接に関係し、現実世界を構成しているからである。物質としての世界観は「このような書かれた物」「表示された物」として存在するが、「このような書かれた物」「表示された物」としての物質としては、「世界観」でない物との違いはない。「世界観」は観念として小説や報道とは異なる。
[0010]
実践的に世界の時間的、空間的、物質的只中に生まれた自分は、自分を維持、成長しつつ世界を理解する者として、現在までの到達点として自分が理解した世界を記述する。この世界観記述の前提、結論はこれからの実践によって確かめる。この全体と始点、結論と前提をひとつの世界観として保証するのは、読書というあなたの実践過程である。
[0011]
しかしこれでは読む者への配慮に欠ける。小さな全体を見渡せる小規模な記述から、より大きな、そして最終的には私の現在の到達点の全体までを段階を経る記述を開始する。
[0012]
第一編 端緒
索引
部始
次編
ちょっと複雑なものを組み立てるには準備が必要である。設計図も必要なら、組み上げる材料、場所、技術も必要である。設計図は何を対象にしているか、対象をどのように表現しているかが明らかにならなければ意味をなさない。機械部品の設計図や電気回路の配線図、建築図面では対象のとらえ方も表現方法もまったく別である。仮想化等の表現方法や記号等の約束事の理解が前提になくてはならない。
[0013]
世界観を組み立てるには、その材料である部品も手に入れなくてはならない。世界観の部品は概念である。部品を手に取って操作できるかのように、形状、材質、機能を明かにしておかなくてはならない。そして、それらが適切なものであることの保証を付けなくてはならない。
[0014]
ところが、「概念などというものは人が勝手に解釈したものであり、客観的な実在ではない」と主張する人もいれば、「概念が具体化されたものが現実の個々の物として存在している」と主張する人もいる。したがってまず「概念」を部品化して操作できるようにする形式を定める。
[0015]
【世界観の材料】
そして、これは世界観である。個別の分科された科学そのものではない。全体である世界を、部分である主観がその内に再構成−組立てる「世界」である。当然諸科学の成果の上に立っていなければならない。しかし、科学自体の到達点としての歴史的制約があり、世界観を扱う個人の問題として社会的、能力的制約がある。誤りがないことは不可能である。
[0016]
問題は個人が扱うことのできる世界をより正しく組立てることである。そこで、主観独自の存在様式があることにも注意しなければならない。すべてが客観的な存在ではない。
[0017]
例えば色である。色の性質を決めているのは光の波長のである。光の波長の違いが主観には「色」の違いとして認識され、しかも温寒、肌触り等の感覚と結びついている。しかし、対象から来る光の波長だけで色は決まらない。異なった波長の光が混在すれば色は変わってしまう。光の波長は混ざり合わないのに、色は混ざって別の色になってしまう。「色」はこのようにまったく主観的な存在であるが、ことば等を媒体として伝えることのできるものとして客体になり、物の性質を表現し、人から人へと伝えることができる。その様な非存在の存在まで存在するのが主観の世界である。
[0018]
主体、客体、主観の区別、区別の始まり、対象の全体から区別される部分と、その区別の発展過程を、世界の過程としてたどる。実際に世界観を組み立てる前に、組立方をどのように表現しているかを定義する。
[0019]
【世界観の組立て】
できあがった「世界観」から、その組立て過程を逆にたどって、世界を明らかにすることはできない。「これが私の得た真実だ」と結論を提起し、真実であることを証明しようとする順序では、「真実」とはなにかを明らかにできない。そうした人々のそれぞれの成長過程−修行を通して得た結論から、獲得過程を逆にたどる筋道は、無限の多様性からの出発であり、全体的・統一的体系であることはできない。人それぞれの主観は人それぞれの有り様を反映しており、主観を異にして人々は時に殺し合いもする。
[0020]
そうした個別的やり方による多様性はこの序論でかたずけておく。端緒として誰でもが認める公理を定義し、誰もが認めるとはどういうことかを定義する。世界観は世界の普遍性を追求し、普遍的な世界観の組み立てを目指す。「世界観」の組立ては世界と世界の物事の発展過程、現われ方を順にたどる。「世界観」のことばによる表現=叙述は演繹的でなければならない。
[0021]
世界観を組立てる場所は主観の内である。主観の内がどのような場所であるかを確かめ、主観の依って立つ客観との関係を確かめ、客観からの材料を受け入れる。世界のすべて、全体を受け入れる際の問題を整理する。組立方、受け入れ手続き、世界観の形式をまず定める。
[0022]
すべての物事がかかわる世界は一つである。その世界の最も普遍的な性質も一つである。その性質が「有る」ということであることを確認する。世界のすべての物事に共通する普遍的性質から、すべての物事がどのように導き出され、個々の性質となって個別性が実現されるのかという普遍性から個別性への過程が基本的形式である。しかしそれは主観としての個別の内に新たな普遍性を創り出す過程でもある。普遍性は個別へ向かう過程で個別の内に普遍性を再創出する。
[0023]
この過程はビックバン宇宙の物質進化の過程ともとれるし、エントロピーの増大過程における自己組織化の過程ともとれる。生物の適応放散の過程ともとれる。分業と協業による生産技術の発達と世界の統一経済市場の成立過程ともとれる。科学の専門化と世界理解の深まりの過程ともとれる。人権意識の発達と人類共同体の概念の発達の過程ともとれる。世界観ではこの過程を論理的過程としてとらえる。
[0024]
世界の中にあって、主体、主観に世界のすべて、全体を受け入れても、受け入れた中身は不十分である。受け入れは主体、主観の手続きであって、世界の存在の手続きではない。世界の中の一部分の手続きである。世界のすべてを受け入れが可能になったとしても、受け入れた主体、主観にはそれ以外の圧倒的世界がある。
[0025]
世界観は組立てた後にも膨大な世界の物事の受け入れを続ける。世界のすべてを受け入れることが不可能でも、あまねく、偏ることなく、必要な物事はすべて受け入れ整理し、組込まなくてはならない。
[0026]
世界観の組み立てはその端緒に過ぎない。ひき続き世界とその全体と、受け入れた世界概念の対応関係を、緊張させておかねばならない。生きる実践と世界観の実践として、両実践を一体とする主体として、現実を変革し緊張を維持しなくてはならない。世界観はそのような許容量と、構造を備えていなくてはならない。
[0027]
世界観は世界の模型であるとも言える。他の模型と同じように全体を眺め、細部を確かめることもできる。しかし、異なる点は対象、すなわち現実に重ね合わせてみることができることである。
[0028]
【予備の概念】
「概念」を部品化し、操作できる形式を定めるのは思弁−勝手な思いめぐらしである。概念は対象そのものではなく、対象との一定の関係での対象の取出しである。一定の関係を対象を取り出す対象化の基準とし、その基準に照らして普遍的な対象の性質として定義したものが概念である。対象化の基準と概念の相互規定として対象は定義される。対象そのものに根拠があるのではなく、対象との関係すなわち思考の実践性に根拠がある。何を対象とし、どのように理解するかと、人それぞれの経験実践の過程でそれぞれに思いめぐらしてきた。この思弁が邪魔であると感ずる人も多いだろう。しかし、こうした思弁は程度の差はあれ、ほとんどすべての人が物心ついた頃から経験し、繰り返し経験し、試行錯誤を経て対象についての理解として深めてきた。
[0029]
経験的に獲得された概念は、経験の多様性を反映して多様である。同じひとつのものに対して、人それぞれがもつ概念がまったく同じということの方がありえそうもない。誰にでも必ずある「親」の例であっても、まったく対立的な概念をそれぞれの人が、いや一人の人であってももっていることすらある。「親」は無償の愛の象徴であったり、憎悪の対象であったりもする。また、対象についての理解の深まりによっても概念の内容が違ってくる。
[0030]
そのそれぞれの概念の違いを削り取り、あるいは違いの原因を明らかにすることによって、同じものについての一致した概念を確認しなくてはコミュニケーションも成り立たない。逆に、コミュニケーションは概念を一致させる作業でもある。概念を一致させるのは偶然的な違いを捨て、普遍的な本質を取り出す抽象化の作業である。
[0031]
概念は個々の具体的対象を指し示すものではない。個々の対象の多様なあり方の違いを捨象して、他に対する関連の関係のうち恒存する性質の定義が対象の概念である。対象としての存在を現す関係にあって、他の対象として、あるいは認識の対象として現れる関係性の定義が概念である。他の存在の対象として、あるいは認識の対象としてそれは対象として存在する。対象として他と関わる性質が対象性である。存在であることを示す対象性の定義が概念である。個々の存在は対象として思弁の内に取り出され概念に置きかえらる。この存在と思弁、対象と概念、個々と普遍の対の関係を踏まえておかないと、世界観体系の構造矛盾が混迷となって現れてしまう。
[0032]
個々の具体的存在は多様な性質をもち、多様な環境条件に対して多様な現われ方をする。それぞれのヒトは生物でもあり、哺乳類でもあり、人間でもあり、個人でもあり、女あるいは男でもあり、大人でもある。生物の概念、哺乳類の概念、人間の概念、個人の概念、男女の概念、大人の概念等の、それ以外の多様な概念との組み合わせとして生き、個々の具体的対象存在として、生活の様々な場面で予測できないほど多様な感情、思考、行動を現す。
[0033]
他方、具体的個別対象についての概念規定は対象そのものによってではなく、逆に対象とのかかわり方によって選択・捨象される。主観によって概念の内容が変わるのではなく、対象との主観のかかわり方によってその対象の他とのあるいは主観との関わりの一面が選択・捨象される。対象とする具体的個人の本質は何かを問題にする時に、主観の問い方の違いによって対象とする具体的個人の本質の取り出し方が違ってくる。対象化の基準が選択されるのである。対象個人の本質を改めて問えば、一生の処し方をその人の本質とするのが通常であろうが、日常の話題の中では対象個人は職業人として、あるいは家庭人として、趣味人としての人格がそれぞれ問題にされる。普通には対象個人と全人格的にかかわりをもつことはないのであるから。具体的対象としての個人は一定の範囲の社会関係において、その関係での対象化基準に照らして定義される。
[0034]
このように、日常ではそれぞれの概念はそれほど厳密に定義はされない。しかし、身体的性と自ら意識する性との不一致を問題にするときの男と女の概念、少年犯罪問題を扱うときの大人と子供の概念、臓器移植を問題とするときの生死の概念等は厳密に検討する必要があり、個々の具体的対象にその概念を適用する場合には、逆に柔軟な適用が求められる。厳密な概念規定があってこそ、柔軟な概念適用が可能になる。
[0035]
個人の概念を形成してきた経験以前に経験の仕方、思弁の仕方自体はヒトへの生物進化の過程をへて獲得してきた能力である。個人の経験以前であるから、先験的、先天的、アプリオな認識能力、認識として思弁の形式、概念操作の仕方を獲得してきた。また、誕生後であっても意識以前に経験は蓄積される。経験として意識、記憶される以前の膨大な経験がある。経験として意識する能力自体が、経験を対象化する経験によって実現している。経験を超える特別な何かよって認識能力が与えられていると経験を超えて信ずるならともかくも、認識、あるいは認識能力は先験的、後験的かの問題は経験での後験的な問題である。
[0036]
個別の多様な経験によりながらも概念は対象の普遍性を反映する。概念の普遍性は、思弁にも普遍性があからであり、経験の普遍性が相互理解、共通理解が概念の普遍性を実現する。同じひとつの世界の内での経験から獲得される概念は普遍的対象であるほど一致する。
[0037]
ただし、概念の普遍性の主張は、思考、精神が最高の存在として世界を審判するとしての主張ではない。思考、精神はそれ自体を含む主体としての生物個体、社会的人間の実践を方向づけるものとしてある。
[0038]
【予備の論理】
世界観ではすべて論理によって認識され、存在が記述される。経験をとおして獲得してきた概念は、論理によって普遍的相互関係に関連づけられ、位置づけられる。「論理」自体も概念であるが、概念間の関係の概念である。「論理」概念は直接的対象の概念を超える概念である。「論理」概念についてとりあえず整理しておく。
[0039]
経験によって獲得された概念は、その経験の直接的対象を指し示す直接的概念である。直接的対象は他の直接的対象との相互作用、連関としてある。しかも直接的対象の相互作用、連関は多様な他の直接的対象との関係としてある。さらに、直接的対象の多様な相互作用、連関は直接対象をも変化させる運動の過程にある。その変化運動の過程のなかにあって不変な関係として対象が存在する。変化のなかの不変として直接的対象は存在し、他と多様な相互作用、連関にある。変化の中の不変な関係が対象の性質として現れる。変化のなかの不変な性質は恒存性である。恒存性は生物学では「ホメオスタシス」の訳語であるが、生命活動に限らずすべての存在の有り方でもある。直接的対象の他の直接的対象と恒存する相互作用、連関を定義するのが
個別の論理である。
[0040]
概念は対象を対象化する基準に照らして定義する。「 A は B である」という一般的定義形式では、対象は「A」として対象化され、「A」は特定の普遍的対象化基準の値である「B」として定義される。「A」という個別を対象とする論理は「B」という値を位置づける普遍的な基準によって評価される。普遍的な基準による、普遍化される基準にる評価でなければ、それは論理ではなく、単なる説明である。論理は個別の普遍による評価である。概念は個別と普遍の統一として存在を定義する。概念の定義は個別として対象化する過程と、普遍的評価基準を設定する過程との統一としてある。
[0041]
直接的対象は他として関係する同等の直接的対象と多様な相互作用、連関にある。同等の直接的対象との関係でも、そこに多様な相互作用、連関がある。たとえば人と人とは同等であるが、同等の存在であっても家族間、友人間、仕事仲間、外国人、歴史的な過去の人など多様な人との関係がある。特定の人との関係でも見る見られる関係、会話する関係、触れ合う関係、扶養する関係、協働する関係等の多様な相互作用の関係がある。さらに、特定の人との関係を構成する関係がある。光、音、微粒子、肉体、紙、通信機器、ことば、イメージ、観念等の多彩な媒介関係がある。こうした多様な相互作用、連関の特定の関係もまた形態、構成、機能、歴史、価値等の関係によって定義される。
[0042]
主観を基準にして形態による定義ができる。「これは丸い」「これは重い」「これは小さい」「これは黒っぽい」等。しかし、基準が主観であるから論理的定義としては不適格である。どこから見ても丸い球であるのか、上から見ると丸くて横から見ると三角形であるとか。丸さの程度は真円にどの程度近いのか不明である。
[0043]
客観的基準によって構成による定義ができる。「これは鉄である」「これの平面は離心率ゼロ、直径10センチであり、その誤差は10分の1以下である」等としてかなり普遍的に定義できる。
[0044]
さらに機能、歴史、価値によって直接的対象の個別的、具体的定義ができる。「これは文鎮である」「これは小学校の卒業記念品である」「これは担任の教師がデザインした」等。
[0045]
しかしこれでも、論理的定義としては不充分である。「これは」と指示しているが、指示できる直接的対象がなくては真偽を判断することはできない。論理的定義、論理的対象は直接的に指示する対象ではない。直接的対象間の関係が論理的定義の対象である。「鉄は元素であり、原子番号順に分類した26番目の元素である」等。さらに「元素は化学的性質の基礎を担う分類単位であり、原子からなる」。さらに「原子は原子核と電子によって構成される」「原子核は陽子と中性子によって構成され、陽子数によって原子は分類される」等より基本的構成要素によって物理的に定義される。同時にこれらの定義は対象化基準の定義でもある。分子を構成する物質はすべて元素を基準として原子によって定義される。原子の分類は陽子数を基準に定義される。同じ原子であっても中性子数を基準に同位体が定義される。それぞれの対象化基準は個別対象一般に適用できる普遍的な評価分類基準である。
[0046]
対象化基準の定義によってより直接的対象が再定義される。「原子の電子を共有することによって、異なる種類の原子同士が結合して分子を構成する」等。分析研究によって明らかにされた理論が対象化基準の定義である。対象化基準である理論によって個別の対象が定義され、その多様な現象過程が説明される。
[0047]
自然数と対象とは1対1で対応づけされ、無限の自然数の体系の中のただ1つの値としての「基数」によって対象の個数が示される。自然数は数の基本系として対象の数を位置づける対象化基準の典型である。さらに自然数を基本にしてすべての数が定義される。自然数を基本に減算に対して負数が定義される。自然数の割り算に対して有理数が定義される。有理数に対して無理数が定義される。階乗に対して虚数が定義される。複数の自然数系の組み合わせである座標に対してベクトルが定義される。すべての数の世界の基準として自然数が定義される。
[0048]
定義には対象化基準が必要であり、基準は定義されなくてはならない。定義と対象化基準は相互に依存し、自己に言及する。この関係が直接的対象の個別的関係ではなく、世界の普遍的関係にまで一般化したものが論理である。すべての直接的対象の多様な相互作用、連関を定義の関係に置き換えた関連が論理である。個別的直接的対象間の定義は、より普遍的対象化基準によって定義され、最も普遍的対象化基準は世界のすべての直接的対象の関係を定義する。
[0049]
世界のすべての直接的対象の関係は、世界のすべての関係ではない。世界の関係は直接的対象に媒介された関係も含む。「鉄」は元素であるばかりではなく、工業的には銑鉄と鋼に分類され、さらにより純粋な鋼はまた特別な物理的性質を現す。また、歴史的、文化的に鉄は武器として、記述された歴史のほとんどにかかわり、近代文明の基礎をつくった。「鉄」は工業材料の媒体であり、歴史、文化をも媒介している。
[0050]
直接的対象間の関係形式は論理として世界を普遍的に反映する。しかしさらに、論理にとってより基本的なことは論理関係の関係である。直接的対象間の関係形式を反映する個別の論理は、定義によって規定される被定義項と規定を説明する定義項によって構成される。文法では被定義項が主語であり、定義項が述語である。この被定義項と定義項の定義は直接的対象間の論理ではない。直接的対象間の論理を対象とする論理である。直接的対象間の論理を超えた超論理が形式論理である。超論理でも対象化基準が問題になる。「名目的定義」と「実在的定義」、「辞書的定義」と「約定的定義」と「説得的定義」、「顕在的定義」と「暗黙的定義」と「直示的定義」、「顕在的定義」と「文脈的定義」と「条件的定義」というように。また論理は要素と集合の関係の組み合わせによっても定義される。また論理の構成基礎になる公理から、論理形式である推論規則によって全体の論理が矛盾しない体系をつくる。
[0051]
これら多様な論理と超論理によって直接的対象の直接的相互関係だけでなく、媒介する超関係をも含む普遍的論理関係として直接的対象の世界を概念と論理的によって組み立てる。直接的対象は概念を、直接的対象間の相互作用、連関は論理として、そして概念と論理は定義と対象化基準の相互規定の関係として普遍的な世界を反映して世界観を組み立てる。
[0052]
概念の普遍性をたとえるなら、「完全」「絶対」等をどのように理解するのか。存在するのか、認識できるのか、論理で証明できるのか。
[0053]
「完全」「絶対」を生身の人間が直接経験、感知することはできない。経験してはいないがどのようなことかは理解している。少なくとも問題にしえることとしてある。「完全」「絶対」の存在、認識を否定することもできるが、否定する対象としてあり、皆が知っており、しかも皆が知っていることを前提に問題にしている。皆が同じに理解しているとは限らないが、「完全」「絶対」について議論することができる。直接経験も感知することもできないものを、皆がそれなりに理解しているのはなぜか。抽象的な物事を議論できるのは論理を用いるからである。論理自体抽象的な形式的関係を対象とし、手段としている。
[0054]
そして、すべての物事、すべての存在、認識は程度の差はあっても抽象的である。直接的経験、感知であっても対象は色形、触感、臭い等の性質として理解される。しかし、直接的経験がすべてではない。対象の存在は、主観にとって直接的に連関するのではなく、対象との連関によって媒介されている。いや主観自体が媒介された存在である。対象は対象そのものとして理解のうちに保存されるのではなく、対象との関係に媒介された抽象として保存される。
[0055]
小学校までに学ぶ「数える」ことですら直接的対象に対する抽象の典型である。対象の個数は個別対象の性質ではない。対象化した物の集合という抽象的関係での要素の性質である。直接的個別対象の性質として数は存在しない。しかし直接的個別対象を他の直接的個別対象と区別される性質をもつものとして、当の直接的個別対象間の集合の比較として個数は実在する。どのように大きなあるいは小さな数であっても、どんなに複雑で多くの演算をしても答えを決定することができ、しかも検算で確認することができ、他の数になったりはしない、抽象的ではあるが実在である。直接的経験対象の確かな存在の典型である物質の物理的実在ですら、量子論的基礎では非常に抽象的な存在として、数学の形式によってしかとらえることはできない。日常的実在性で量子の実在性を理解することはできない。物理的実在自体が非常に抽象的な対象性になっている。
[0056]
日常的実在に関しても、対象の定義は抽象的である。サングラスや光源によって波長が異なる光を、対象の同じ色として認識する。色は個別の直接的対象の具体的な性質ではない。生理的な感覚過程でも恒存性が普遍性を維持する。変化のなかに相対的に不動の像を対象として視覚はとらえる。視覚は視覚細胞、視覚情報を処理する大脳での抽象化する信号処理として実現している。まして、友情、信頼、愛などは高度に抽象的な実在の人の関係が保存される形式である。保存されるからこそ、当の実在の人間関係になくとも、芸術などの媒体によって人から人へも伝えることができる。
[0057]
相対的な普遍性も実践の場ではひとつの全体世界の中に位置づけられる。理解のうちに保存される対象はことばによって表現される。ことば自体が文法という緩やかな論理によって成り立っている。多様な色名、あるいは光の周波数によって対象の色が示される。そこで色名は色彩空間に体系づけられているからこそ、単位時間当たりの振動数による色の表現系があるからこそ、同じ色の感じ方が人によって異なっていても同じ色として表現できるのである。色覚異常を色覚異常と判定できるのは標準の色別基準が社会的に定まっているからである。定まった色別基準を問題にすることのない日常生活では色覚異常は色「盲」ではない。
[0058]
思弁は抽象的な表現であっても、現実の世界を対象とすることができ、現実の世界について世界のすべてを対象とすることができ、現実世界の変革の根拠となりえるのである。
[0059]
だからこそ、思弁の形式=概念と対象との関係、対象間の関係と概念間の関係との対応関係、概念と論理の相互規定関係を確認しておかなくては、自分のよって立つところが問われた時に神秘主義に引きずり込まれることもある。対象だけが問題ではなく、対象化する基準自体も問題として、相互規定の関係を見なくてはならない。自然科学者でさえ手品師にひっかかって「超常」現象を信じてしまうこともあるのだから。[0060]
それ以前にというか、「ましてや」というか、「そもそも」というか、世界観は世界を対象にしていながら、しかもその世界の一部である。世界観は世界とどうのように関わる世界であるかを明らかにする世界観でなくてはならない。はじめに、世界観の「観」の枠組みを組立てなくてはならない。しかし世界観の枠組みは世界観の内容と不可分であり、枠組みは内容に形をあたえ、内容は枠組みの質をあたえる。世界観の枠組みと内容は一体を構成し、紙の表裏のように別でありながら分離できない相補的関係にある。世界の「枠組み」は世界観の内容そのものでもある。世界観は世界を認識する方法、能力についても、生物学、心理学の成果だけでなく、世界観の根本問題として、世界観そのものの論理によって確認しなくてはならない。組立てるにはまず設計図で全体を把握しなくてはならないが、組立は基礎から順に始めなくてはならない。設計図を描く過程では全体の構想がまずあって、その素描から次第に具体的に展開し、詳細の構造や形式によって全体の変更が必要になる。そして設計図は組み立て前には完成していなくてはならない。
[0062]
***** 状況説明 I *****
この文章(世界観)を書き(読み)始める。この状況を確認する。[0063]
結局「この状況」という実践から始まらざるをえない。実践の場こそ根拠であり、実証の場である。
「世界観」を扱うのは私であるが、世界観の始めに「私」を否定しなくてはならない。「私」は世界に相対する絶対的存在、世界を判定する基準ではなく、私は世界を学び、世界の内に「私」を実現する存在であることをまず確認しなくてはならない。[0064]
【無前提の確認】
文章に限らず人によって表現されるものには前提がある。表現する者と、受け取る者との関係、表現媒体についての理解といったことが前提になければならない。著作の序論はこれまでの諸著作に対してどこに位置取りし、どのように継承する立場であるのかを明らかにする。しかし、世界観を論ずる場合には、前提を設けることはできない。すべての事柄について、その因って立つべきところを、前提そのものを問題にするのが世界観である。
[0065]
一般に記述は対象を説明し、説明を証明する。説明には一致した理解がなくてはならない。証明には根拠がなくてはならない。しかし、世界観はすべてを対象とするのであり、何かを根拠にしたり、一致する理解を前提として求める事はできない。世界観の記述は何も無いところからから出発しなくてはならない。
[0066]
ここで書く(読む)には、日本語で書け(読め)なくてはならない。正しいかどうかはともかくも。世界観について興味をもっていなければならない。何等かの世界観についての理解がなくてはならない。
[0067]
そして、書いた「意味」と読まれた「意味」とが一致しなくてはならない。一致させるために、この状況で用いる用語と、その用語の示すものとの対応を示す。書く(書かれた)対象と書いた(読む)ことばの関係について一致させる。
[0068]
ついで、問題とする対象を抽出・選択する基準を明らかにする。
[0069]
最後に、この状況での書き手と読み手がここで対象とする「世界観」の表記・構造についての理解を一致させる。
[0070]
ただ、このこと自体が、対象と対象、世界と世界観を位置づけ、対象を意味づけることこそが世界観の目的である。ここでの世界観の前提と世界観の全体の結論との循環関係が、世界観を書く(読む)ことの基本的構造の制約である。自分が(世界の存在が)自分自身を含めて(世界について)書か(読ま)なくてはならない。
[0071]
何もないところから始めることはできない。といっても、始めから前提にできる確かなこともない。何ものも前提にせず、定義できる確かな物事のないところから確かな世界観を組み立てようとする試みである。内容は何も確かではなくとも、世界観を組み立てようとしていることは確かである。誰でも世界の中に生き、世界について何らかの理解をもっていて、改めて世界観を問題にしようとしている。それぞれに持っている世界観の内容をとりあえず不問として保留し、形式から確かなものを定義し、定義を確かめながら、確かな定義領域を拡張する、あるいは確かな内容を次第に取り込んでいく。これがこの世界観の戦略である。
[0072]
したがて、私はこの点で宗教者とは相容れない。私は神の存在証明とか、信仰、死後の世界とかを論議する材料をまったくもっていない。「完全である神が不完全なものを創ったのはなぜか」「奇跡は神の不完全性の表われではないか」などと言っても何を言おうとしているのか、何を根拠に判断しようとしているのか私には分らない。神や信仰、死後の世界について、私は誰とも話す資格も意志もない。ただ、宗教者とも平和や、貧困、自由、人権、教育、人間の尊厳等について日常の、社会の課題として話し合い、協力し合うことは必要である。さらに、宗教者ともこれから展開する世界観の具体的論点については議論することは可能であり、できれば必要なことである。
[0073]
*****
【なにか】
一般的に考えたり、書いたり、話たり、「なにか」について先ず私に言えることは、「
私」と「
他」である。この「私」は考え、書き、話し、読み、その他である私であり、そうである一般的な「私」である。私は「私」ではない「なにか」を「他」として関係し、考え、書き、話し、読み、そして「私」自体を「他」として私が扱う。
[0074]
「なにか」について言うためには、「
ことば」も必要である。「ことば」によって「なにか」を言えるのであって、「なにか」と同時に「ことば」が「私」とともに、最初になくてはならない。私とことばがどのようにしてあるのか、与えられているのかは「なにか」である「他」を知らねばならない。「他」の内で、「私」が誕生し、成長の過程で「ことば」を獲得してきたことを「他」の内で学ばなくてはならない。しかし、「他」の内、内容を扱う前段では「私」「ことば」を含め、「なにか」として表すことしかできない。「なにか」と「他」を一致させ、内容を学ぶ実践の過程に入るまでは、「私」には「なにか」以外にはない。
[0075]
そこで「私」も「なにか」になりえる。「なにか」は私それぞれがかかわっている現実の世界である。しかし、それぞれの私がかかわっており、そのかかわり方が一致している保証はまだない「なにか」である。
[0076]
「なにか」である「私」も含めて「なにか」を考えたり、書いたり、話したり、「なにか」である「他」である「私」として扱えるのは「ことば」としてである。「ことば」は「私」にとって「他」としてあるが、「なにか」を「私」に「他」として扱えるようにする。「なにか」である「私」は「なにか」を「ことば」として扱うことができる。私は「他」のすべてを扱うことができない。私は「私」に直接する「他」しか扱うことはできない。私は直接する「他」と、直接する「他」に連なる間接するすべての「他」をことばによって扱うことができる。私の扱える他は直接する「他」に限定されており、直接しない「他」は「ことば」としてしか扱えないことをまず確認しておかなくてはならない。「ことば」による他の扱いが正しいかどうかは、私と直接する「他」との直接する連関でしか確かめることはできない。直接する「他」との連関とは「他」の内での私の実践である。
[0077]
「私」と「ことば」を含む「他」からなる与えられた
関係から出発するのであって、あらゆることがらの「創造の始め」から出発するのではない。「あらゆること」も「始め」も、何も明らかにはっていないのだから。
[0078]
【私と他の相互関係】
「私」と「他」は「なにか」であることによって、相互に前提している。「私」は「他」と関わることで「私」であり、「他」は「私」にとっての「他」である。
[0079]
「私」は考えたり、書いたり、話したりして、「私」を含む「他」を扱う。「私」は考え、書き、話し、読み、食べ、その他として「私」であり、そのようにして「私」は「他」を扱う。そして同じように「私」は「私」を「他」として「私」を扱う。
[0078]
「私」が「他」を扱うのは、「私」と「他」との相互の入れ替わりである。
[0079]
「私」であることは私を「他」にすることであり、「私」を「他」として扱うことである。それは同時に「他」を「私」にすることであり、「他」を「私」として扱うことである。「私」と「他」は互いに区別しながら、それぞれになる。「他」である「私」を含めた「なにか」を「私」にする、それは私を「なにか」にし、同じ「なにか」である「私」と「他」として関わることができる。関わるには同じでなければ関わることはできないし、関わるには区別されなくては単に「同じ」で関わりは生じない。「私」と「他」を私にとりこむことによって、「私」と「他」である「なにか」が、どうのうにして私に与えられたかが「私」のものになる。私を「他」として誕生からの成長を知らねばならない。しかし、それは私であるだけでは不可能である。私を「他」として扱うことによって「私」の誕生から成長を知ることができる。「知ることができる」ことの確認は、私の「他」との関わりで、私が「私」を扱っている連関の延長としてある。「私の「他」との関わりで、私が「私」を扱っている連関」とは「他」の内での私の実践である。
[0080]
私と他の2者相互の単純な関係は、相互に連関することで私を「他」にし、他を「私」にすることで複雑な構造になる。私の内に取り込んだ「他」は「私」の一部になるがそれでも私の操作対象として「他」でありつづける。「他」として実現する「私」は、「他」として他との相互作用の過程にある。「私」「他」「私化他」「他化私」とでも区別する4つの要素からなる関係構造は相互に6つの関係をなす。6つの関係の相互関係は要素それ自体のあり様も含め19のより高次のあり様を構成して複雑化する。
[0081]
禅問答のような主観についての「私」と「他」の関係は、具体的にも人間を含めた生物の生理的物質代謝の過程であり、また人の認識の関係であり、実践の関係でもある。
[0082]
「私」も「他」も「ことば」も世界観をたどる中で、改めて定義される。ここでは世界観をたどり始める時点での確認が目的である。「私」が何であり、「他」が何であるか、「なにか」は何であるか、その他のことも含めて全体の中でそれらは「私」になるので、これから「私」の紹介から始める。
[0083]
【私の紹介】
ここでは「なにか」を書く、読む場合であって、まだ「なにか」の存在の有り様を問題にしてはいない。「私」は
自意識と呼ばれる。しかし、「自意識」と呼ばれる以前に「私」であって、名付けられたり、呼ばれたりする以前に「私」、すなわち「意識」である。「他」としての「私」を対象とする私である。この状況をまずここで確認する。
[0084]
私が他として扱う「私」を「
主観」と呼ぶ。私は「私」のままでは「私」を扱うことはできない。「主観」として私は「私」を扱う。私を他として扱うには「主観」という「ことば」で表す。
[0085]
「主観」の「他」が「
対象」である。通常は「他」が「対象」であるが、「私」自体も「対象」化される。この関係は「私」にとっては絶対的である。この「私」の立場が主観である。
[0086]
主観が直接扱うのはは
観念である。「他」は観念として主観に取り込まれ、主観は対象を観念として取り込む。主観は対象を観念として扱う。主観は主体の対象に対する関係形式でもあり、また対象を観念として扱う主体の有り方でもある。
[0087]
「私」と「他」の関係にあって「他」と区別されるものが観念である。「私」も観念であるし、「他」と区別される「他」も観念である。観念は主観によって「他」と区別されることで、他から引き離され、主観の内に対象化された「他」である。
[0088]
***** 状況説明 II *****
「私」を「他」として扱うこと、主観のあり様を書くためには私から離れて、引いて眺めなくてはならない。主観にとってあるのは「私」と「他」とを区別する、間にある境界面である。普通に表現すれば、「私」は自意識として感覚に包まれている。[0089]
「私」の境界面は壁、鏡といった平面のイメージではない。変幻自在な「膜」のイメージに近い。物と物とが区別されるところの境界であり、どちらかの物に属する物ではない。この「膜」自体は「他」としてとらえられない。「他」を対象にすることによって現れる。この「膜」自体は対象となりえない、
非対象である。自他の関係としての区別の境であり、少なくとも点や線ではない。
[0090]
この境界面に沿って上下、左右の広がりはあるが、主観に関わるのは有限の範囲である。しかも主観にとって、その限界すら明かでない範囲である。主観にとっては膜は無限である。主観にとってこの境界面にそった彼方では、境界面自体がどうなっているのかわからない。主観をとりまいて閉じているのか、無限の彼方まで続くのか、消失して自他の区別がなくなってしまうのか、その他の状態がありえるのか、主観にとってはわからない。主観にとって関われない彼方は、とりあえず「
無限」と仮定しておく。この仮定は主観と対象の関係を確かめ、「無限」の意味を確かめることによって決定される。
[0091]
また境界面に対して交わる方向についても「こちら」と「あちら」の区別しかない。「あちら」には様々な変化があり、こちらにはその結果が知らされる。あちらに働きかけることも可能らしい。主観の働きかけの目的が、達せられたように知らされることもあるし、失敗したように知らされることもある。結果は様々な程度にある。
[0092]
この境界面はいつからあって、いつまであるのかもわからない。
[0093]
「こちら」と「あちら」の区別と方向は、空間の問題だけではない。主観のありよう(意識)によって変化する。「あちら」を問題にするときは顔、手、足等の感覚器官の末端まで「こちら」が拡張される。
[0094]
「こちら」と「あちら」の境界を問題にするときは「こちら」は無限に退行したように、存在位置が不明になる。「自分を対象として意識する自分を意識する自分を意識する・・・」
[0095]
物をつかむとき、物は「あちら」にあり、「私」の手でつかむ。手は「私」の延長である。しかし、私の手を延ばそうとするとき、手は対象であり、「あちら」の「他」としての存在になる。ものを見るとき、ものは「あちら」にある像として見え−感じる。「私」と「他」との境界面に像として見え−感じる。しかし、像を見ようとすると、像は境界面の「あちら」の存在になてしまう。
[0096]
「私」は常に私として、私にとって絶対的存在であるが、「他」との関係で「私」の境界面を求めようとすると「私」は相対的な存在になる。
[0097]
少なくとも「こちら」側には現在と過去の区別がある。過ぎ去ったことと、それに対する現在がある。しかし、過去から現在への作用は結果として認められるが、現在から過去へ作用することはできない。
[0098]
現在から過去への方向の、逆方向への延長として未来が想定できる。未来に対して直接作用することはできないが、現在の「あちら」への働きかけの結果として未来に作用できる。過去から現在への作用と同じ方向性によって、現在から未来への作用を予測できる。
[0099]
現在から未来に作用することを目的とすることによって、過去は目的に対する方向、手段を提供する。未来を目的とすることによって過去、現在、未来の方向が、流れとして主観である「私」に理解される。この「時間」の方向には逆向きはない、非可逆的である。客観的な時間の方向性、非可逆性とは別に主観にも時間の方向性、非可逆性がある。
[0100]
*****
【主体と客体】
「主観」のつぎに言えるのは「私」と「他」が関係していることである。関係全体がどの様なものか、どの様な関係であるかについては、この関係からは何も言えない。しかし、この関係にあって「私」は「他」と相互に働きかけ合っている。「私」と「他」が相互に働きかけ合っている関係は、主体と客体の関係である。
[0101]
***** 状況説明 III *****
「私」にとって「他」は食べ物であり、衣服であり、住居であり、人々であり、声であり、文字であり、諸々である。そして「私」の身体、「私」の「意識」も「他」として「私」に関係し、対象になる。[0102]
「私」と「他」との関係以外はない。他にはなにもない。他の存在を疑うことは、「私」自体を崩壊させることになる。「私」と「他」以外はないことを世界観全体を見渡すことによって確認し、日々体験しておいたほうがよい。特殊な状況で、「私」と「他」以外の存在が介入してこないように。介入してきたときには、相談できる、信頼できる「他」を世界を確認する中で見つけておくべきである。
[0103]
「私」は手足を動かすなど「私」自身と関係するには、「私」である手足を「私」でない「他」としてしか関係できない。
[0104]
「私」にとって「他」との関係として、「私」はある。「私」だけでは「私」はない。「他」だけでも「他」はありうる、と「他」は主張している。
[0105]
「他」に働きかけ、「他」から働きかけられる関係が世界の関係である。
[0106]
ここまで来ると「主観」は著作者としての「私」でも、読者としての「私」でもない。「私」でありうるすべての私の、観る主としての「主観」である。人類、ここでは日本語が使えなくてはならないから、すくなくとも日本人の普遍的な一人としての「私」の抽象が主観である。「他」と対することによって、「私」は主観として抽象される。
[0107]
*****
この「他」と相互に働きかけ合う「私」の立場が
主体である。「私」に対する「他」が
客体である。
[0108]
「私」は一つであるが、「客体」は「私」との関係にあって全体として一つの客体であり、「私」の働きかけの対象とする個々に分かれる「他」も「客体」である。私が働きかける「私」もそこに「客体」としてある。
[0109]
主体、主観を含み、主体、主観を含まなくてもある客体を、主観に対する
客観と呼ぶ。客観は主体が自らを客体として客体化した主観の他の客体との関係形式であり、主体ではなくなった客体化した主観の有り方でもある。主観を問題にしなければ客観は問題にならない。客体を明らかにすることによって主体、主観が明らかになるが、客観は客体としての主観の存在を問うことによって問題になる。主観が主観を評価するときに、客観が問題になる。主観が客体を主観的に見るか、客観的に見るかは問題になるが、主観的存在があるか、客観的存在があるかは、主観の内のみの問題であって、客体の問題ではない。主観の内にのみとどまるのであれば、主観は何をするも勝ってである。しかし、主観の内のみでは主観は何をも見出しえない。
[0110]
***** 状況説明 IV *****
「私」と「他」の相互作用の関係を基準として主体・客体間の関係をみる。主体・客体関係を客観的にみるには、主体を客体の延長とする。
[0111]
主体は客体に働きかけることにより、主体を取り巻く客体からなる主体の環境を変革し、客体の一部を主体の内に取り込む。客体に対する働きかけによって、主体は維持される。その様な主体・客体の客観的関連にあって、主体はみずからを変えることによって客観的関連を変え、その変革を介して対象である客体を変革する。飲食するにも食品を変えるのではなく、みずから調理し、みずから食事をしなくてはならない。社会を変えるにはみずからを変えねばならない。理解するには経験しなくてはならない。物として、生物として、精神として他との関わりにあってみずからを変え、みずからを維持する代謝活動として私はある。代謝活動は主体の存在そのものであり、ときに主体の存在目的そのものにもなる。このように主体は生活し、存在する。主体が客体に働きかけるには、主体を客体化しなくてはならない。
[0112]
主体は客体として客体と相互作用し、互いに連続している。相互作用することによって、主体は主体であり続ける。
[0113]
「私」は私の身体に働きかけ、身体によってよって「他」に働きかけ、身体によって感覚し、制御し、身体によって道具を利用し、道具を利用して他に働きかける。
[0114]
「他」は私の身体を構成し、私の身体に直接働きかけ、「他」である私の身体は直接「私」に働きかける。逆に私は「私」の身体を介してしか「他」に働きかけることはできない。「私」は「他」によって媒介されている。
[0115]
「私」は「私」を「他」にすることによって確かめることができる。
[0116]
見、聴き、触れ、嗅ぎ、味わう感覚するものとしての「私」。外を感覚するだけではなく、身体各所の空間位置、関節の曲がり具合、内臓の異常、さらに動作、平衡、緊張、集中を感じる「私」。脈打ち、呼吸し、暑ければ発汗し、寒ければ鳥肌立つ「私」。食べ、寝、欲情し、働き、遊びまわる「私」。喜び、悲しみ、驚き、怒る「私」。「私」について考え、「他」について考える「私」。
[0117]
数十兆個もの細胞からなる私。それらの細胞は1個の細胞から分化、成長して発生し、老いていく。その細胞それぞれに物質代謝を制御し、身体全体でも物質代謝を制御する。物質代謝を制御する情報処理システムは、タンパク質の形によって自他を区別する免疫、タンパク質の授受によるホルモン作用、イオン濃度差による電気パルスの通信、それらを組み合わせた信号の送受と制御、神経細胞のネットワーク、そしていまだに解明の糸口を探している記憶と推論の機能。さらに、これらを子に引き継ぐ。やがて来る老いに対してどうするのか。
[0118]
これらを直接確かめるには、病気の時、怪我をした時、麻酔をかけられた時、睡魔に襲われた時、飢餓に陥った時、夢見る時、夢から覚める時、大人になって泥酔した時、「私」を観察してみることだ。必要なら「修行」してみることだ。
[0119]
*****
【主観の客体化】
客体に働きかけることによって客体を理解し、客体を理解することによって主体自体を理解する。客体に働きかけることによって、客体の一部に主体と同じ存在を想定できる。他人を同格の存在として客体の内に想定できる。
[0120]
主観としての「私」と主体は同じものの別の表現ではない。重なりはするが、別のものである。
[0121]
「私」と「他」は絶対的な区別である。それはたぶん「私」にとっての区別である。「私」は私にとって絶対である。
[0122]
「私」が主体としてあるのは「他」との関係にあってのことである。「私」と「他」との相対的関係として主体はある。「主体」は私にとっても相対である。
[0123]
「私」と「他」とは絶対的区別であるが、「私」は相対的な主体からはなれたことはない。言われていることは「私」が主体からはなれることを死と呼び、主体と分かれた後の「私」の存在が議論される。
[0124]
しかし、通常、死を議論するのは主体と客体との間においてである。いずれにせよ、そして「私」と主体とを分けるには、「他」あるいは客体との関係を変化させること、または変化することによってのみ可能であるとされている。「私」を殺すには「客体」を利用しなくてはならない。息を止めるにも「客体」である呼吸器官に働きかけなくてはならない。
[0125]
長期間監禁され、客体に対する働きかけを止めたり、意欲を失うと、主体は客体と一体化する。人格が崩壊する。そこまでの状況になくても、大きな課題の達成、あるいは挫折の後には自己喪失感がある。光、音、におい、圧力、温度などの感覚への刺激を奪う感覚遮断の実験をすると意識は拠り所を失い、迷走してしまうという。
[0126]
客体に対する変革は主体の運動を方向づけ、
目的を見出す。客体への働きかけは人生そのものである。目的の評価、評価基準としての価値の問題は、「私」だけの中にはない。「私」と「他」との関係の中にある。結論は−
価値は「私」も含めた「他」の運動の方向性を見いだすことであり、私に可能な操作をその一致する方向に向けることで実現される。「価値」についての結論をえることは、世界観の結論をえることである。
[0127]
さらに価値は現実のものでなくてはならない。価値は現実に実現されなくてはならず、価値の実現を阻むものに対する闘いをとおして実現される。価値は見い出すだけでなく、実践によって実現されねばならない。
[0128]
主体と客体との相互関係はここで一機に定義できない。客体について明らかにし、客体と主体との関係を明らかにしなくてはならない。
[0129]
【世界観】
主体と客体の相互作用の成果物として、主観の内に世界感が構成される。主体が対象を主観の内に取り込み観念を構成する。観念は対象間の関係を反映してすでに主観の内に構成されている観念の連関のうちに、新しい観念を取り込む。相互に関連した観念全体が世界感を構成する。
[0130]
観念は主体と客体との相互作用の過程で他の観念との関連を主観によって何度も再検証される。主観による意識的な観念の検証を経て、観念は普遍的な客観になる。
[0131]
対象は客体間の相互作用にあっては相互作用の担い手としての対象性であり、主体と客体との相互作用に現れる恒存性である。客体としての対象は、主観のうちに観念として反映される。主観のうちで観念は恒存性として保存され、操作される。何度も検証され、観念の恒存性は主観にとっての普遍性までになる。普遍化した観念は観念間の普遍的連関を構成する。逆に普遍的連関のうちに、観念は普遍性を獲得する。
[0132]
観念は普遍的関連のうちに概念として定義される。概念は概念間の普遍的関連である論理によって定義される。概念としての定義は概念間の論理によって関連づけられ、概念として定義する世界観を構成する。世界観は主体と客体との相互作用の結果の蓄積、集積である。主体と客体の相互作用関係の主観としての生成物が
世界観である。客体間の関係を、主体と客体の関係をとおして主観の内に取り込んだものが世界観である。世界は主観の内に客観として、みずからを世界観として再構成する。主観は客体間の関係、主体と客体の関係を世界観として再構成する。主体は意識的に「世界観」を組み立てる。
[0133]
これまでに経験してきた世界、学校で習う世界は無限であるのかないのかわからないくらいに広く、多様で、連なっている。その中の極小の存在である「私」が世界全体をとらえようとする。その内容が正しいのか、確かなのかはともかくも、「私」と「世界」がある。
[0134]
世界のすべての物事を「私」の内に再構成し、一つ一つとの対応関係を確かめようとすることは不可能である。学ぶことのできる知識のすべてを「私」の内に詰め込むことは不可能である。
[0135]
しかし、主体の内の「他」としての観念をもってすれば世界のすべてをとらえることが可能になる。観念は場所をとらず、物事のように消滅したりしない。ただし人から人へと継承されるという限定付で消滅しない。
[0136]
客体と主観の最も簡単な基本となる対応関係は世界と「世界」である。「世界」という観念によって、客体である世界全体と主観との対応関係を「私」の内に持つことができる。しかし、すでにこのことで明らかなように、こうした観念は内容的には最も貧弱である。形式はいたって強力であるが、内容は無に等しい。無に等しい内容については無視して、強力な形式によって世界をとらえる。世界の物事と個々の観念との対応関係、観念と観念との相互関係と、その枠組みを確かめることによって、世界の物事の相互関係を整理することができる。
[0137]
この観念的形式の枠組みを手がかりに科学の個々の成果を解釈し、成果のそれぞれを位置づけることができる。内容のない貧しい枠組みに普遍的経験としての科学の成果を位置を確かめながら順次満たし、枠を拡張する。新たな内容によって枠組みを確かめながら拡張する。内容と形式を確かめて拡張することで、世界の、客体の運動の方向性が明らかになる。全体の方向性によって、個々の価値が明らかになる。一部の自然科学者にとっては、こうした哲学による科学利用は生理的に嫌悪されるが、「私」にとっては必要なことである。
[0138]
【真理】
主体と客体の相互作用の関係を、主観がどの様に解釈するかによって世界観、そして哲学の基本的な分類がなされる。
[0139]
どの世界観、哲学が正しいかの判定基準は、主体と客体の相互作用と主観における「他」との関係の一致による。これが
真理の評価基準である。「真理」は「他」としてどこかに物事として存在するものではない。真理は存在を訪ねる問題であり、真理の認識可能性の問題であり、真理を証明する論理の問題である。真理は存在過程、認識過程、論理過程の問題であり、過程の問題として実践の問題である。最終的に真理は客体と客観の対応を確認する認識の問題である。
[0140]
「真理」の問題も、「何が真理か」よりも「真理」をどのように理解するかが基礎にある。
[0141]
真理は個別的な対象世界のについての認識結果が、より普遍的世界理解の認識と整合することである。個別的な認識結果は誤謬ではなくとも、限定されていたり、条件付きであったりする。普遍的世界認識に対して限定され、条件つけられることで真理である認識は個別的真理であり、
相対的真理である。個別的、相対的真理は限定や条件をはずしてしまっては誤謬に転化する真理でしかない。
[0142]
他方、個別的、相対的真理の評価基準となる普遍的世界理解が絶対的真理かというと、そうではない。普遍的世界理解は
抽象的真理でしかない。「世界は存在する。存在するのは世界である。」「人はいつか必ず死ぬ。」は真理であっても抽象的で、意味がない。「世界はどう存在するのか。」「人の死とはどのようなことで、死にどのように向かうか。」に答えなくては真理を認識する意味はない。対象を抽象的、形式的に捉えるならば真理は単純である。「1945年8月15日に大日本帝国は敗れた。」これは個別的真理ではあってもほとんど意味を成さない。真偽の問題ではなく、真偽を問題にすること自体が問題になる。
[0143]
絶対的真理は相対的真理を普遍的世界認識に位置づける過程での、誤謬と真理の相互転化を経て限定し、条件づける認識実践の方向性としてある。抽象的真理が個別的真理によって豊かにされる過程の方向性である。個別的真理を積み上げる、抽象的真理につけ足すのではなく、抽象的真理を具体化し、個別的真理を普遍化する過程で真理と誤謬との相互に転化する限界点、条件を明らかにすることによって絶対的真理を手繰り寄せることができる。相対的真理と抽象的真理は存在の次元が違う。同様に絶対的真理も相対的真理、抽象的真理との存在の次元が違う。相対的真理を超えたところに抽象的真理はあるが、それをも超えたところに、それらを包含するものとして絶対的真理がある。
[0144]
不可知論や、相対主義は否定すべき対象としてあるが、真理と誤謬の相互転化の可能性を忘れ、実践過程で真理を評価する努力を怠ると、自ら主体の内に不可知論や相対主義がたちまち育ってしまう。到達点としての手にした真理が絶対的真理ではないからと言って、絶対的真理に向かうことを否定しては、全体に対し、未来に対し、他に代わりうる基準を持ちえない。
[0145]
「真理」は世界観を貫く問題である。ここ「端緒」で最終的な結論を出すことはできない。ただ言えることは、我々が手にすることのできる「真理」は恒に、いつまでも検証し続けなくてはならない、ということである。
[0146]
【実践】
主体は客体となんら区別されたものでなく、客体の一部分である。
[0147]
主体は客体の内にあって、他からみずからを区別することによって生成される。客体の中にあって相互作用し、相互作用によって他から主体を区別するのが「
実践」である。
[0148]
主体は客体の内にあって他の客体と相互に作用し、主体としてあり続ける。やがて主体は他との区別を維持できなくなる。主体は主体でなくなり客体に還元する。主体は客体の一部分である。
[0149]
客体の中に「私」は主観として存在し、主体として生活する。
[0150]
***** 状況説明 V *****
客体は構造をなす空間的広がりであり、未来へ向かう時間的連続体である。
[0151]
その客体の極一部分に、その極一時期に生まれ、育ち、子を生み育て、やがて死んで行くのが人間主体である。私は人間主体であっても、主観にとっては無から生まれ、主観自体が無から始まった。私が人間主体として育つ過程で主観が形成された。主観の形成過程の前から人間主体としての私の成長過程があった。主観としての私は、私がどのように形成されたか、その過程は私の内に残されていない。したがって、客体の構造を知り、歴史を知った上で、そこでの主体、主観の生成を知り、将来を知ることが世界観の獲得である。客体としてその内に主体を位置づけ人間の未来を見通すには、単に時間の方向だけでなく、客体構造の歴史、特に社会歴史の方向もみなければならない。
[0152]
そこでの知ることが主観の作用であり、主観は主観自体をも対象とする。主観は対象を通して主観自体を規定できる、再帰的存在である。主観は対象を記録すると共に、みずからをみずからの内に書き込むことができる。「私」とは何か、私は語ることができる。
[0153]
同様に主体は客体によって与えられるままではなく、対象に働きかけるだけでなく、主体自体に対しても働きかけ、その運動・存在を制御しなければならない。
[0154]
もう一度、「私」と「他」の関係を確認しておく。「私」にとって「私」でないものは「他」である。私はには「私」と「他」がすべてであって、「私」と「他」でないどのような物事もない。
[0155]
「他」は私でないものとしてある。私から他を説明することはできない。「私」を「他」によって説明することはできる。「他」によって「他」を説明することはできる。説明自体も「他」によらなくてはできない。「説明する」ことばも、ことばの意味も「他」であり、私ではない。私は「他」によって、「私」が「他」とどのようにかかわるかを説明し、物語ることができるだけである。
[0156]
「他」によって説明された「私」は、私と同一ではない。別物である私と「他」と「私」が外にありようのない一つの世界でどのようにかかわり、私と「私」が統一されるかを世界観によって確かめる。
[0156]
*****
私は主体として世界を対象とし、私を対象化し、私を実現する。その過程で私は主観として、「私」の内に反映される世界観を対象として再構成し、操作する。主体として私と世界は直接的相互作用にあるが、反映された世界観は世界の中での私によって媒介されたものである。世界観としての対象の再構成、操作は世界との直接的相互作用を反省することである。
[0157]
世界との直接的相互作用は私の主体性によって限定された世界であり、繰り返すことも、逆行することもない。世界の一方向へ向かう非可逆的な運動の、極限定された一部の運動過程である。対するに世界との直接的相互作用の反省は、直接的相互作用の恒存性を対象とし、その普遍性を保存し、再現により検証する。世界観の対象操作は時間的にも、空間的にも、相互関連からも規定されない。世界観の対象操作は、世界との直接的相互作用から乖離することが可能である。しかし、世界との直接的相互作用こそ根拠であり、世界観の対象操作は、世界との直接的相互作用によって検証されなくてはならない。世界観の対象操作は、対象の理解であり、予測であり、検証であり、主体としての実践の過程になくてはならない。
[0158]
世界との直接的相互作用と世界観との反省関係とを区別しないと、対象の理解の仕方を誤ってしまう。世界の対象についての理解と、世界観の対象についての解釈とを混同してはならない。区別と統一が重要である。世界は物質であり、直接であり、本質である。世界観は観念であり、反省であり、現象である。世界と世界観は区別しなくてはならない。しかし同時に、世界観も世界の一部分に含まれている。世界は世界と世界観の統一である。いずれか一方が他方を否定しきることはできない関係にある。
[0159]
客体にとって、客体としては客体自体の内に客体自体を反映する存在を作り出す。客体は部分の内に全体を映し出す。しかし、主観へ客体の歴史を集約させることは歴史の終端に立つことではない。歴史の、未来に向かう前面に立っていることである。
[0160]
【世界観の構成】
1.存在
存在は客体=実体の有り様である。「世界観」を組み立てる材料である「概念」の対象である。個々の対象であり、相互に対象としてある連関の全体でもある。存在の追求は、何を認識するかの問題に帰る。
[0162]
2.認識
認識は客体の主観内への取り込みである。「概念」と「客体」との関係を「主観」の内の関係に再構成し、操作し、検証する。「世界観」の組立そのものである。認識の追求は、存在の対象性に規定される。
[0163]
3.論理
論理は客体=実体の中での主体、主観の位置づけである。「概念」どうしの関係の仕方である。「概念」と「概念」の組み合わせ方である。「概念」どうしの「関係」の関係形式である。論理の追求は存在形式の問題であり、認識構造の問題である。
[0164]
この3つの要素は形式的には区分できるが、それぞれの内容、ありようは切り離すことはできない。相互に規定し合い一体のものとしてある。それぞれの根拠、本質は互いに前提しあっていて相互依存関係にある。それぞれに相補的である。
[0165]
そして
4.実践
実践は存在の主観=観念化であるとともに、主観、主体の客体化=現実変革である。存在は相互に対象であり、客観と主観も相互に作用し客観は主観の内に反映され、主体も存在の一部分としてある。認識は存在を対象化し、主体を方向づけ、主観を構成する。論理は存在と認識を対比し、観念として構造化する。これらの過程の実現として実践がある。実践はまた、組み立てた「世界観」の実現である。
[0166]
実践において存在、認識、論理は一体のものとして実現される。
[0167]
一応各々を主要な問題として順番に取り上げるが、その中でも互いに依存し、規定し合っており、繰り返し、繰り返し相互の関係が問題となる。それぞれの有り様から、それぞれの過程で、他の有り様を位置づけ、意味づけなくてはならない。
[0168]
【世界観の表現】
何も前提のない世界観を始めるには書くこと、読むこと、表現することも前提にはできない。私にとってはあなた、あなたにとては私は必然ではない。あなたと私の関係も必然ではない。偶然の関係からも、確かな、必然に至るためには偶然の中にもある必然を探すことから始める。
[0169]
ことばによる記述に限らず、コミュニケーションは主体(私)と客体(あなた)との関係としてある。コミュニケーションの関係は対象と、主体と、客体と、それらの関係を媒介するもの、すなわち媒体(ことば等)からなる。
[0170]
私は書く、書きながら読んで推敲する。あなたは読む、読んだことばが対象を反映しているかを検証し、対象の表現として、あなたのことばの使い方と一致しているかを確かめる。あなたなら、この対象をどのように表現するか。
[0171]
主体と対象との関係と客体と対象との関係が主要な部分で一致しえるかどうかは別の問題であって、一致を目指すのがコミュニケーションである。共通の理解を確認し、拡大して行くことを目指すのがコミュニケーションの目的である。コミュニケーションの目的は主体と客体のどちらにも属さない対象(主題)に対する、主・客体両者の理解の一致を確認しようとすることである。時に主体と客体は同じになり、自問自答することもあるが。この目的にしたがって、世界観表現の構造は決まる。
[0172]
ことによると「対象と、客体と、対象と、媒体は区別できないもの」とする立場も成り立つかもしれない。「主体と主体でないものの関係のみがある」として。「存在するのは私だけであり、私以外のものとして表現されるものは、私の一部分である。」
[0173]
しかしこの立場は、コミュニケーションを成り立たせない。「私」は「私」に、「私」について、「私」で何ができるのか。何も始まりはしない。主体と主体でないものとの関係が絶対的であっても、主体でないものとしての対象と客体、媒体の区別と関係がなくてはコミュニケーションは成り立たない。少なくとも、「私」は「私」以外のものと「私」以外によって関係できなければならない。
[0174]
主体、客体、対象、媒体の関係の構造について、まず一致させておかなくてはならない。それは世界観の基本的枠組みであり、世界全体をとらえる基本的構図である。
[0175]
主体は客体が主体と同じ様に「対象」を理解できることを求める。
[0176]
主体は客体が同じ様に両者間の「媒体」を理解できることを求める。
[0177]
この可能性を前提にして関係し、コミュニケーションする。
[0178]
主体と客体は対象と媒体に対して対称性を持つ。主・客体相互の関係を、主体と客体と相互に立場を取り替えることができる。ここでの主体と客体との関係は対立的なものではなく、対象に対して媒体によって同じ立場に立っている。主体と客体は相互に転化するものとして関係している。主体と客体を結びつけるのは媒体との関係であり、隔てているものは対象である。
[0179]
これが基本的関係である。基本的関係は基本的関係にとどまらない。基本的関係は複数の基本的関係どうしを再構成する。基本的関係を関係させて新しい関係を作り出す。関係は拡張される。最初の基本的関係と拡張された関係は関係としては同じであるが、関係の形式はことなる。
[0180]
主体も客体も媒体を対象として操作することができる。対象と媒体との対応関係を離れて、媒体を操作できる。対象をことばで表現していた者が、ことば自体を操作して、対象の新しい表現を作り出す。その新しい表現が対象の別の面との対応関係を表現するとき、それは言葉遊びではなく、コミュニケーションである。また、主体と客体はそれぞれを、みずからをも対象にしえる。相手について語り、自分について語り、自分たち、自分たちのコミュニケーションについて語る。
[0181]
さらには主体も客体も対象も媒体も、すべてが同じく媒介されたものであるとするのがこの世界観の立場である。
[0182]
【世界観の自己言及】
これらの拡張された関係形式が
自己言及であり、世界の発展の基本型である。ことばの操作として「自己言及」と呼ばれるが、ことばだけの関係形式ではない。論理学でも高次階の論理があり、不完全性定理が証明されるのも対象の論理と、証明の論理を同じ論理によって自己言及させている。数学においても高次関数はいわば自己言及の関数であり、フラクタルは自己言及そのものである。物理学においても加速度は変化率としての速度の変化率であり、物質の階層構造も自己言及と同じ関係構造である。生命の発生、生物の物質代謝、進化等のより発展的関係は自己言及の関係である。
[0183]
自己言及は関係の再帰性である。この関係を承認しなくては物事の発展、構造を理解することはできない。「AはAであって、Aでないものではない」では変化・発展を捉えることはできない。自己言及、再帰性は弁証法理解の鍵である。
[0184]
対象を構成する関係形式=論理と、対象を説明する関係形式=論理は通常別次元の形式であるが、このそれぞれの関係形式=論理が同じ形式=論理で連関する型が自己言及である。これが表現における自己言及である。
[0185]
一般的存在は一様化の傾向にある。一般的な一様化の運動の乱れ、ゆらぎは特殊化の運動である。一様化の全体の運動に対して、特殊化の部分的運動が対立する。一様化の全体の運動は部分の運動を規定し、媒介する運動である。全体では一様化の運動が決定的である。部分的には特殊化の運動が一様化の運動に対して勝るからこそ部分の運動が現われる。一時的な部分の運動の恒存化、普遍化が同時に全体の運動の特殊化の運動である。全体の一様化の運動に特殊化の運動が対立して個別が現われる。この個別の現われる過程を、そしてそれが階層構造を成し、多様な世界の存在を実現する。これが存在における自己言及=自己組織化=再帰構造である。
[0186]
自己言及は単純な論理ではない。筋道をたどってたどり着いたら出発点に戻ってしまう、しかし始めの出発点とは違う地点である。繋がりとしては同じでありながら、違ってしまうあり方を理解しなくてはならない。物事の本質を追求していくと必ず出くわす論理である。また自己言及は諧謔=ユーモアの源泉でもある。
[0187]
世界は宇宙の歴史として、ビックバンから始まり宇宙自らのうちに宇宙を反映・描き出す我々人間を産み出した。我々は世界の一部分でありながら、世界全体を理解しようとする。我々は世界を理解することで、自分自身を理解する。我々は、我々の存在を維持するために、対象世界を取込む。我々は自己を実現するために、世界を変革する。世界観はみずからを理解し、説明しなくてはならない。
[0188]
【対象としての世界観】
対象を反映し、対象世界の再構成として世界観は映し採られた結果にとどまらず、構成する対象でもある。さらに対象世界を理解し、確かめるため、対象世界を変革するための実践の対象になる。世界の存在は相互に他を対象とすることである。存在の対象性は他を対象にすることと、他の対象になることの二重の対象化の統一としてある。世界観も対象を認識した結果としてだけ、対象化しただけの存在ではない。世界観は世界を対象化し、自らを対象化する。同時に、世界は世界観を対象として我々を介して作り出し、世界観の内に自らを対象化する。
[0189]
しかし、全体としての世界を反映するからには、それだけの世界として自律していなくてはならない。他によって対象化され、規定されるのでは全体としての世界を反映していないことになる。世界観も対象性であるが、その完成度を試す対象として自律性が試される。
[0189]
世界観の完成度は、世界変革を保証する程度である。
[0190]
【まとめ】
結局ここでは何も説明していない。すべての説明は本論でおこなわれる。ただここでは「私」「他」「主観」「客体」「世界」「世界観」「観念」「真理」「実践」「主体」と呼ぶ要素を紹介した。紹介したその内容はあたりまえの、したがって否定する価値すらない。紹介の方法も支離滅裂的で、説明が正しいか、論理がとおっているかの評価のしようもない。
[0191]
また、ここではこれらの要素間に区別があり、要素間に関係があり、分かちがたく「全体」としてあることを紹介した。
[0192]
この思弁をもう少し詳細に、今度はより論理的に、説明が正しいかどうか評価できるように整理する。「第一編 端緒」として第1章 端緒の序論、第2章 有論、第3章 存在論として展開する。どうでも良いことをどうでも良いことと確認する必要を感じない人は第二編 一般的、論理的世界へ読み飛ばした方がよい。
[0193]
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