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第一部 第二編 一般的、論理的世界

第4章 全体


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第4章 全体

絶対的有の形式は全体である。全体の内容は「有」である。有は存在すべての普遍性として抽象された。ここから逆に有の有り様を具体化する。有の形式と内容を具体化し、順次より具体化する概念構造として世界観を組み立てる。[1001]

ここから「全体」概念は論理的に展開し、抽象からしだいに具体的、実在の全体へと展開する。ここではまだ「全体」は抽象的な一つの存在である。それぞれの存在は個別としての存在でありえるが、「全体」は他と区別されない特別な個別存在である。[1002]

第1節 全体の措定 (全体 I )

 ここで始めに問題にする「全体」は、相対的全体でも、相対的全体からなる普遍的全体でもない。絶対的「全体」である。絶対的全体によって世界観の基礎を清める。世界観を食い荒らす観念虫が入り込むことを防ぎ、腐らせる想像菌を除去する。[1003]

【全体の外延】

始めに定めるべき「全体」は他の何物によっても定めることはできない。全体について言い表すこと、区別すること、特徴づけることはできない。[1004]
客観的にも、主観的にも「全体は」全体である。「全体」は他と区別するその「他」がない「すべて」である。「全体」は全体以外のものを持たないゆえに、全体以外のものによって説明、限定することはできない。全体はすべてをその内に含み、その外には何もない。他のものがないのが全体の第一の性質である。[1005]
全体に関係するものはすべて全体の内(側)にしか存在しない。全体以外、全体の外(側)には何も存在せず、外(側)自体存在しない。全体でないものは存在しない。全体はその外に何物も持たない、置かない。全体と全体でないものとの境界は存在せず、境界自体がなく、境界によって全体を限定することはできない。「全体」は範囲として規定できない。範囲を規定できない存在として、「全体」は無限定である。「全体」は外延を持たない。[106]

全体を定める、限定することは、ことばによって形式的にだけ可能である。ことばの形式、論理によって、全体は限定されうるが、実在的には全体は限定されえない。ことば、論理で全体を限定しても定義することはできない。「全体」ということばが定義されていないのだから。「Rは、それ自身の要素でないような、すべての集合の集合」というラッセルのパラドックスの問題になってしまう。ただ「ことば」としてあるのは「全体」という単語を含むことば全体があって、そのことばに依拠して世界の全体を語る。[1007]
「全体」でないものの存在を仮定することは、問題にする「全体」そのものが「全体ではない」ことしか証明しない。[1008]

外延規定は様々な基準によって計られる規定である。「様々な基準」とは、時間、空間に代表される様々な観念的関係である。「その前、その後」「その向こう」として計られる大きさ、範囲として全体は無限である。「全体」の大きさは問題になりえない。限りのない大きさは無限としか言いえない。[1009]

結局、全体の問題は「実在とは何か」という存在論の問題であり、その存在をどう認識し、どう論理化するかという視点に立たなくては、全体について説明も、証明も不可能である。[1010]

結論を先取りすれば、全体は閉じた系である。内部での相互作用は外部に対して何ら連関しない。外部へ何ものの出ていかない。また外部から何ら連関をもたない。外部から何も入り込まない。作用しない。閉じた系が全体である。[1011]

【全体の内包】

全体を全体以外のものによって限定し、定めるとすれば、それはその内(側)からの関係によるしかない。[1012]
全体でないものは全体に含まれる部分である。全体の第一の否定は部分である。全体を規定しえるのは部分である。全体が関係するのは全体を形式的に限定することで示すことのできる「部分」である。「部分」を要素とする集合として「全体」を規定することが可能になる。[1013]
全体ではないものとしての「部分」からみるなら、もっとも大きな集合が「全体」である。集合の集合の、限りない集合の集合、無限の集合として「全体」は規定される。「全体と部分の対立関係」の相対的関係を全体の絶対性に適用して普遍化することで全体が規定される。この強引な手続きによって全体と部分の対立矛盾を止揚して全体を定義する。この強引な手続きは全体の絶対性によって正当化される。「全体」は「すべて」を内包する。全体の外延は規定されない。[1014]
「すべて」であり、すべてを含んでいるから、全体の内にないものはない。全体はどの様に大きなものもすべて含む。全体はどの様に小さいものもすべて含む。どの様に小さく規定し、無限に分割したものをも含む。あるものの否定としての「無」も、あるものとのその関係として全体に含まれる。無限に分割してえられるゼロ、あるいは「空」、「無」すらも全体は含む。全体が無限であるということは、その内に「無」すら含み、ないものはないのである。[1015]

【分割不可能性】

全体は全体として、全体のままでは分けることはできない。全体は部分を含むが、全体は部分ではない。仮に全体を分けたら、それはもはや全体ではない。「分ける」ということは、現実であれ、論理の上であれ別々にすることであり、対象についての違い、区別を現し、いうことである。しかし全体は区別されるもののすべてとして区別できないものであって、全体は区別されない。全体は部分とは違うが、異なるが、部分を含むのであって、部分は部分間で区別されるが、全体は部分から離れることはない。[1016]
分けて数えることのできる部分が数える単位である。数えるのにそれ以上分けては数える意味が無くなる部分が、数える最小単位である。数える意味とは、部分どうしが同じであることを前提に、同じでないことを基準に区別できることである。部分どうしが同じでありながら、違いを区別できる関係がなくては数える意味はない。部分どうしが同じであり、区別できる違いを持つという、部分どうしの全体の関係がなくてはならない。[1017]
例えば、星と愛の数を数えあげて対応づけても意味はない。通常、星と愛には同じ部分がない。星に愛を意味づけても星の意味も、愛の意味も明らかにはならない。星の運行と愛の行方は関係を持たない。[1018]
関係について調べ、認識し、表現することの意味は、同じ部分が何であり、違う部分が何であるかについてであって、同異二面的な問題である。同異、何れかしか取り上げられていなければ、他の面が省略されているのであり、その省略されている面をも検討しなければならない。[1019]
星は夜空の光として数えることができる。星を数えることで宇宙の大きさを感じることができる。その意味では星を数えることに意味がある。しかし星を数えることだけで、宇宙の大きさは解らない。見える星より見えない星の数の方が多い、見える星であっても惑星もあれば恒星もある。さらに遠い銀河も見た目には一つの星でしかない。同じ星として数えることでなく、星の違いを区別して数えなければ宇宙の大きさを知ることはできない。[1020]
個々の違いは個々の違いであって、全体の違いではない。[1021]

異なるものであっても必ず同じ部分があり、同じ部分の方が異なる部分よりも普遍的である。全体はその普遍性の究極である。究極的普遍性は何等区別がなく「普遍性」の意味を失う。様々な個別存在のもつ性質の究極の普遍性が有である。区別されるものとしての部分は、区別の前提にその存在は同じもの、普遍的存在があるから区別される。普遍的存在が個別的形態で現れるから区別される。部分は相対的に区別されるのであり、全体は普遍的存在としてひとつある。究極的普遍性である「有」として、全体は有る。[1022]

全体と対立する部分を全体から区別することで、全体は絶対性を失い、相対的、実在する全体になる。部分との関係にあって全体は実在である。だがまだ、対立する部分がない全体である。相対化する可能性をもった絶対的全体である。[1023]

【全体の絶対性】

すべてを、無限を含んでいながらひとつであるもの。これは矛盾しているが全体の絶対性である。この矛盾は誰も否定できない。但し、何の意味もない。[1024]
全体に他はありえない、全体は何物にも規定されない、その意味ではまったく無意味な「絶対性」である。「絶対」の意味は永久不変ではない。「絶対」は決定されてしまったものの意味ではない。[1025]
「絶対性」は決定論としても無意味である。絶対的に決定されていたのでは決定されるかどうかを問うことが無意味である。因果関係の全体の可能性として絶対はありうるのであって、原因と結果の個々の関係に絶対はない。原因も結果も相互に、また諸条件によって制約されている。いくつもの制約にあるものが、その制約を否定する絶対としてはありえない。絶対でありえるのは、何ものにも規定されない全体だけである。[1026]

全体は観念においても、存在においても絶対的である。全体は絶対唯一である。したがって絶対的全体は規定されない混沌である。絶対的全体はなんの区別も見いだせない混沌である。[1027]
この絶対的全体はヘーゲルの「絶対精神」とは違う。ヘーゲルの絶対精神は、その認識過程において世界を認識するだけではなく、自らを実現するものである。この絶対的全体は、現実世界の最も抽象的な、究極の存在である。存在すべての究極の抽象から、順次より具体的な規定性を加えて、現実の豊かな概念世界を構成する端緒である。世界観の構造の基点である。そして、実在の宇宙史の発展過程にも対応すべく個別科学に学びながら展開するものである。[1028]
野心を明かせば、ヘーゲルの逆立ちした観念的弁証法を正立させ、唯物弁証法を展開しようという大それた試みである。[1029]

これからひとつひとつ決定していく出発点である。絶対的全体は無規定性から規定性を繰り出す過程の端緒であり、同時にその過程の全体である。[1030]
全体が「全体」であるのは、全体ではないものがあるからである。全体だけが「すべて」であるのなら、なんの意味もない。単なる全体だけの存在は何もないに等しい。全体は全体でない「部分」があることで、全体である。部分なしに全体はない。「全体」の次は「全体」ではないものとしての部分である。[1031]

【閉じた系】

すべてを含み、他のない全体は結局とじた系である。閉じた系の通常の定義は、系外との連関が立たれた、内部連関系のことである。内外の連関を断った何らかの運動、作用によって閉じた系は実現する。外延を規定し、外延規程を保存する運動によって閉じた系は実現する。これに対し全体は、外延規程なしに閉じた系としてある。[1032]

第2節 全体の対象化

実質的、実在的全体は、部分を含むことで全体である。[2001]
部分を含むことは分けることができることであり、可分性である。[2002]
ここでは部分によって定義される全体が対象である。[2003]

「全体」の第一の直接的否定、絶対的全体の論理的否定によって出てくるのは部分である。全体と部分の関係は直接的、敵対的対立ではない。区別はできるが、分け隔てることはできない関係である。[2004]

第1項 全体の直接否定 (部分 I )

全体の媒介的否定は有に媒介されて無にいたる。絶対的全体を否定し「無」にいたるのは観念的否定であり、全体の「絶対的」実在を見失っているからである。全体の空疎な絶対性を否定し、内容の豊かさである実在性を求める否定によって部分が現れる。[2005]

【全体と部分との対立】

全体は全体以外には有りえないが、その内に部分を含んでいる。全体でないものは全体に含まれている部分である。「全体」を否定することで、ありうるのは部分である。[2006]
全体は全体でないものとしての部分と対立する。ただし、この対立は複数の別個のものの対立とは異なる。形式的な対立である。この形式によって「全体」が定義される。[2007]
全体は多様な現れ方としての部分を含んでおり、部分のあり方が全体を表す。全体と部分の対立は互いの存在を前提にした形式的対立である。[2008]
全体に対立するものとしての部分ではあるが、全体と部分は存在として一体のものである。全体と部分の対立は同一のものとして、統一している対立である。全体と部分はどちらが先か、どちらが基礎かといった対立ではなく、互いに依存し、互いに前提し合う対立である。全体と部分の対立は同一のものの別の表れであり、形式の違いである。[2009]
全体の有り様と、部分の有り様は同じ有り様でも「有り様」の次元が異なる。次元の違いはまさに全体と部分の違いである。部分の規定性、区別は部分間の違いであるが、その区別、規定性とは別の、それらを含む、それらを超える規定として全体がある。[2010]
全体と部分の対立は観念的な対立ではなく、全体自体が対立物としての部分を従えているのであり、全体は部分の根拠である。[2012]
絶対的全体の次にくる相対的全体では、全体と部分の対立は相互に転化する。そこでは部分は内に部分を含み、含む部分に対する部分は相対的全体に転化する。相対的全体は、その相対性を超える全体に対しては部分となる。[2013]

全体の対称性

全体は形式的に部分に対立するが、全体の内容をなす部分と部分とを区別できない。区別は部分と部分との問題であり、全体に対する部分の規定に区別は入り込まない。全体は対称性である。部分と部分を入れ換えても全体が同じであることを対称性という。「入れ換える」とは形式的、観念的操作の場合もあれば、具体的物質の運動の場合でもある。[2014]
全体は、いつでも、どこでも同じである。全体は他であることはありえないから、移動することも、入れ換えることもできない。部分がどのように入れ替わろうが、全体は変わらない。全体に対立する部分は相互に絶対的等価である。全体は他でありえない、破れることのない対称性をその形式としている。全体の対称性は絶対的である。対称性そのものを全体は問題にしない。[2015]
具体的物質の対称性とその破れとしてまずあるのは宇宙創生の例である。それこそ、現に我々の観測できる宇宙全体がビックバンから膨張を始め、膨張により温度が下がるにつれ対称性が破れ、非対称性が重力、核力、弱い力、電磁気力と次々と現れるにいたり、現在の宇宙の構造ができたという。絶対的全体は絶対的静止にはなく、揺らぐのである。揺らぎによって部分をはらむのである。[2016]
ビックバンの根拠が絶対的全体の対称性とその自発的破れにあるのではない。ビックバンの例は宇宙存在の基礎をなすものであるが、それだけでなくすべての物事の創成、発展から言うのである。自然科学の成果を勝手に解釈するのではなく、自然科学の成果から解釈を学ぶのである。[2017]
対称性とその破れは形式的対称性にとどまらず、歴史過程としても見る必要がある。発展的歴史、論理の高次階への移行の過程などは、この対称性の問題として整理することで統一した理解ができる。世界観の論理展開も同じ過程で、全体の斉一性を保存しながら特殊・個別の構成過程をたどる。[2018]

「対称性」は数学、物理学からの用語であるが、哲学では同じ概念を「無差別」「絶対的無差別」としてきた。「差別」は主観的判断のニュアンスがあるから「対称性」を用いる。[2019]

【平衡としての全体】

全体を規定する形式は対称性であり、内容は平衡である。平衡は静的ではない。平衡は部分間にいかなる動的変化があっても、全体が不変である状態である。全体のエネルギーは保存さる。非平衡はエントロピーの増大として平衡に向かい、エントロピーの増大過程として全体はある。[2020]

【全体の対称性の破れ】

何ものにも規定されない全体にあって、相互に規定する部分がある。部分は相互に規定し、自らを決定するものとして対象化する。何ものによっても対象化されない全体が、部分によって規定され対象化する。ただし、単なる部分としての規定は、形式的な対象化であり、部分間の対称性は保存される。相互対象化する形式的関係として、対称性は保存される。しかし、部分は相互に区別し、区別されるものとしてあり、同時に非対称性をもつ。[2021]
部分が部分間の問題として問題になるのは、対称性が破れるからである。対象であることの規定が保存されているから対称性も保存される。部分相互に異なる規定性をもつことによって対称性が破れる。異なる部分としての対象化によって対称性が破れる。異なるから区別され、対称性が破れるのではない。対称性の破れは「自発的」であり、他によるのではない。[2022]

存在は相互に対象化することで、部分としての規定を実現する。規定性が異なる部分を実現する。何者かが規定するのではない。主観が規定するのでもない。部分として区別し、区別されることとして他者を、自らを規定するのである。相互に部分として規定することで、存在を実現するのである。[2023]
肝要な点は部分があって対象化するのではない。部分は相互の規定によって実現するのである。[2024]
主観は規定性を一方的なものと考えやすい。主体が対象を変革するものであるから。主体にとって物事は変革の対象であり、目的である。主観は自らを基準に対象を扱う。これにより、規定するものと規定されるものとの関係を一方向的に思い込みやすい。主観は対象を操作し、定義し、一方的に対象を規定していると思い込む。しかし、主体そのものは対象を変革するのもであると同時に、自らを変革し、自らを対象化し、自らを対象として実現するのである。規定性は相互の存在を規定するものであることを忘れてはならない。規定性は認識の問題ではなく、存在の問題である。存在の対象性を主観は規定性として認識するのである。[2025]
部分を識別するのは我々であるが、我々が識別するから区別されるのではない。いわば「自発的対称性の破れ」として、我々は対象を知るのである。 [2026]

【絶対的全体の相対化】

全体にあって部分が対象化されることで、逆に絶対的全体が相対化する可能性がある。完全な対称性をもった絶対的全体が、対称性の破れとして非対称な存在としての部分をつくり出す。逆に非対称な部分の現れが、全体の対称性の破れである。[2027]
絶対的である全体が全体ではない部分、つまり否定性をもつことは絶対性を否定することになる。全体の絶対性は究極の抽象性としてあるのであって、いつまでも究極にとどまることはできない。実在の全体は絶対性に固執するのであれば究極の抽象としての全体そのものへ戻らなくてはならない。具体的実在に向かうには抽象的全体を否定して、より具体的全体へ展開されなくてはならない。[2028]
否定性は単純な形式論理の否定ではなく、この様に概念の展開の契機である。対象は様々な規定性の存在である。一つの規定性によって対象化される存在を、その対象化する規定により定義したら、その規定性を否定する次の規定により、より豊かな現実存在へと対象概念を発展させなくてはならない。また同じく、対象は一つの規定性の発展として具体化されるだけではなく、複数の規定性で構成されていく。[2029]
これは単なる観念的お遊びではなく、概念により世界観を組み立てていく際の清めの過程である。[2030]

部分としては規定されない全体の形は、全体を分析しても内部構造がないのだから出てこない。絶対的全体に内部構造はない。絶対的全体を相対化し、部分の連関の全体として内部構造が現れる。部分相互の対象化としての相互規定関係が全体の内部構造をなす。[2031]

第2項 部分の関連

【部分の全体性】

絶対的全体に対する部分は、関連性を持った部分である。他との連関を全くもたない孤立した部分はありえない。絶対的全体は一つであり、一つであるものの中に孤立した部分はありえない。他と、全体と関連しないまったくの絶対的「孤立」は、存在そのものの否定であり、「孤立」とうい関係自体の否定である。絶対的全体に対し、絶対的孤立、絶対的部分は存在しない。[2032]
そもそも「孤立」は部分がもつ多様な関連性のうち特定の関連が断たれている関係である。特定の関連が断たれることにより、その関連において孤立する。「孤立」自体が相対的概念であり、存在である。特定の関連が断たれることにより、他との区別を鮮明にし、個別的存在を際だたせる。しかし、孤立した存在であっても存在としてある限り、普遍的存在としての連関までも断たれてはいない。すべての部分は全体との関連性をもつものとして存在しえる。すべての部分は、その存在根拠に全体性を持っている。部分は全体の斉一性を否定するものではなく、全体の斉一性によって存在している。[2033]
人里離れた自然環境にあっても人間は孤独ではない。雑踏の中にあっても孤独を感じ、最も強い孤独は仲間内で感じられる。人間は社会環境にあって孤独になる。一人になって孤独を感じるのは、人間関係における自分を思うからである。[2034]

【部分の全体における相互関係】

全体の対称性は自発的に破れるのであって、他者の介入によって破れるのではない。[2035]
絶対的全体に対する部分は、規定関係として絶対的全体の関連をなす結節点としてある。部分は部分それぞれに部分として相互に対象化する。部分は相互に対象として規定し、区別し、結びつく。[2036]
結節点は網の結び目であるが、全体における部分の関連は平面的な網目ではない。さらに立体的な網目にもとどまらない。相互規定関係は多様な、多重な相互作用の場である。相互規定関係の全体の広がりは、規定関係自体を規定し、さらにその関係をも規定して階層を積み上げる。部分の相互規定関係は多階層、多次元の連関である。[2037]
また、相互に部分として規定し合うのであって、固定した部分としてはない。相互の規定関係は相互の対象化としての存在であり、個別存在は固定していない。相互の対象化自体が過程であり、規定し、規定し返される変化する過程である。[2038]

【部分間の関連の普遍性】

すべての部分はすべての部分相互に直接に連関してはいない。すなわち部分は直接に全体と関連しない。個別部分の相互連関は局所的である。相互連関の一つひとつはすべての部分と直接に関係してはいない。一つの部分と隣接する部分の連関が、直接的関連である。個別部分は他と他との連関に媒介されて直接しない関連と連関し、全体と関連している。部分と部分とは一対一の結びつきだけにとどまらず、同時に複数の部分とも結びつく。部分間の結びつきをたどることで、部分の結びつき全体をたどることが可能である。同じ相互規定関係の関連をたどることによって、その関連の全体をたどることができる。[2039]
全体をなす連関にあって相互に部分である。部分の関係は部分との直接的連関としてある。直接的連関を媒介としてその他の部分とも媒介的、間接的に連関する。そのような連関として部分の連関は全体の連関を実現している。部分の全体に対する関連は、他の部分に対する直接的、媒介的、間接的連関とは異なるが、それ自体が全体の連関の一部分を構成している。[2040]
部分相互の規定関係として、相互に規定して互いに部分であり、相互の連関を通して全体をなしている。部分間は相互の直接的規定関係と直接的規定関係に媒介された間接的規定関係としてあり、その全体が全体の規定関係としてある。部分の存在自体が全体を構成するように、部分間の相互関係は全体の関係の一部分であり、全体の関係そのものである。[2041]
普遍的なのは相互規定の連関である。個々の部分の連関は多様であるが、個々の部分は相互規定の連関を媒介し、全体の関連として一つである。個々では多様な関連ではあるが、すべてが連関してあり全体として一つである。「すべて」の部分との連関は全体としてひとつの関連である。[2042]
部分のなす関係は普遍的な関連である。普遍的な関連をなすものが部分としてありうる。部分は関連するものとしてあり、関連することで部分として区別される。したがって、部分が変わることなしに、部分間の関連が変わったり、他に取って代えられるようなことはない。「すべて」は一つの全体の内の部分である。一つの全体の内の部分間の関連が、部分をそのままにして変わってしまうことはない。[2043]
「連関」は「連なり」と読み替えるとニアンスがわかりやすい。「関連」は関係の連なりである。「連関」は関係をつくり出す。 [2044]

第3項 部分の連続

全体を分隔することはできない。 [2045]

【部分の連続としての全体】

全体は部分の連続体であり、全体から分離された部分はない。[2046]
関係する相互の部分は、関係としてひとつのものである。一つの関係として部分が存在する。対象性も関係として部分が存在する。そして関係は孤立せず、他の関係と連なる。他との関係の連なりとして部分は全体と連なり、対立する。[2047]
一つである全体は分かれてはいない。部分を含むものであっても、全体は分けることのできないものである。部分は全体に対する部分であって、部分間に隔てるものはない。部分はすべての他の部分と直接、間接に連なって全体をなしている。部分は部分と関係することで全体をなす。[2048]

具体的イメージで言えば泡構造である。シャボン玉では石けん水の幕は他者であるが、それぞれの空気の塊は相互に遮断されつつ、塊の中に制限されて運動することで、それぞれの塊の圧力として泡の構造を実現している。一定の空間内にシャボン玉を多量に作れば泡構造の模型ができる。石けん水の幕は空気塊を相互に区別する規定性を表す。石けんの膜は空気塊の境界を目に見える形にするが、石けんの膜が泡の形を決定しているのではない。泡の形を決定しているのはそれぞれの空気塊の圧力である。ボロノイド領域、ディリクレ領域、ティーセン多角形等々と呼ばれているパターンである。[2049]
宇宙は天体の重力に規定され、泡構造を実現している。宇宙の泡構造は重力場で、いわば満ちている。多細胞生物の組織は細胞で満ちている。[2050]
全体を分かつ部分は、全体を満たす。規定関係は網目構造でも、実在は空隙をもたず世界を満たしている。[2051]

日常的な感覚からすれば、物は個別として独立し、孤として存在しているように見える。個人主義などその典型としての表れである。しかし人間存在であっても、物理的レベルでも重力は言うに及ばず、身体を構成している原子、分子の相互作用、周囲の空気、湿気、化学物質との相互作用の過程にあって自己を保持している。生理的に物質代謝、エネルギー代謝は生きて存在している限り止めることのできない相互作用の過程である。人間関係も社会的物質代謝を基礎にしている。また、他の人間を意識しないで文化に触れることなどできない。人間の全存在が、全面的に他との相互作用の過程にある。たまたま人間がつくり出した物、人工物が人との関係を離れ、使われずに置かれていると、その社会的関係が見失われ、孤立した、相互作用にない存在に見えてしまうのである。ハサミがハサミとしてあるのは、人が紙などを切る物としてである。それ以外では、鉄なりの塊として机なり、空気と相互作用している。[2052]
そして最も一般的に形あるものは、その形を規定する運動によって存在する。その形を規定する運動を保存できなくなると、より一般的な運動形態に崩壊する。一般的には平衡化の過程にあって、それぞれは非平衡な規程を保存することで、個別的に存在する。<平衡化の過程については、熱力学に、エントロピーに学ぶ。>[2053]
高度に発展、組織化した物ほど、自己規定性が強まる。意識など他との相互作用関係が希薄になれば、自己を対象として相互作用を疑似化してまで実現する。[2054]

【部分の不分離性】

絶対的全体に対する部分は全体の構成部分である。しかし構成部分として、分割できない構成単位としてあるのではない。いわゆるそれ以上分割できないものとしての原子=アトムとして部分があるのではない。絶対的全体に対する部分は非局所的である。部分であるにもかかわらず、全体に連なっており、全体に連なりながら、全体ではない部分である。分割という考え方は日常的な関係にあって言えることであり、絶対的全体に関しては問題にならない。[2055]
何もない真空などというものは存在しない。何もない部分は存在しない。全体に対する部分とは空間的枠組みのことではない。部分とは全体内の相対的関係の各々の関係の極、要素を指すのである。部分とは関係を表すものであり、空間的な存在の入れ物ではない。部分は関係であり、何もない部分には関係そのものがない。[2056]
絶対的全体に対する部分は、何等かの限定された部分ではない。絶対的全体に対する部分であり、全体との関係に規定されるだけである。絶対的全体に対する部分は全体性と結びつき、全体に対する対称をなしている。全体に対する部分は時間的、空間的に限定されてはいない。限定し、個別として取り出すことはできない。[2057]
また同じことであるが、部分と部分との間に部分でないものも存在しない。部分と部分とは相互に規定し合っており、相互に接しており、相互に浸透し合っている。そもそも、部分と部分は一つである全体に対する部分である。一体である部分と部分とを隔てて考えるのは自家撞着である。[2058]

第4項 部分の無限

全体は全体性を全面否定して、部分に分け隔てることはできないが、全体性を保存したまま全体を否定し、その内部を部分に分割することができる。全体の否定は、全体の無限定性を否定し、規定することである。逆に部分は全体を分割して構成するのである。全体の分割と、部分による全体の構成とは同じ事である。[2059]

【全体の分割】

全体を分割することによって、無限の部分がえられる。全体は無限の部分を含む。全体を有限回分割することによって、無限の部分が有限個えられる。全体を無限回分割することによって、無限の部分が無限個えられる。[2060]
直線であれば2つの無限の長さ=半直線に分割できる。平面であれば無限の広さをもつ部分に、無限の数に分割できる。[2061]
有限である部分を単位として数え、計っても全体は数えられない、計れない。部分を区別する基準は全体には適用できない。有限な部分で計って全体は無限である。[2062]
無限の部分で全体を計ると、全体をなす部分の個数ではなく、全体の無限の濃度が計られる。有限の部分は個数として計られるが、無限の部分は濃度として計られる。有限と無限は同じ単位で計ることはできない。<無限については数学、特に集合論に学ぶ>[2063]

【無限の全体】

全体は部分に分割され尽くせず、分割は無限に行われる。無限に分割されるが、その分割そのものは時間的にも規定されない分割である。無規定の分割による、無限分割の極限として結果が出る。論理的分割の繰り返しとしてのみ計られ、結果は無限である。「すべて」は無限に分割されえるものであり、無限の分割の結果は一つの全体である。無限小の集合も、無限大の全体である。例えば、無理数のどれほど下位の桁をとっても、その下にさらに無限の桁が続く。「分割」という操作の問題ではなく、関係の論理の問題である。操作は過程によって規定されており、時間を規定し、時間によって規定される。しかし論理は時間を超越し、また無限の時間を無限に使える。[1064]
無限にある有限な部分をすべて数え上げることは出来なくとも、無限の基準で無限に分割された部分のすべての集合が全体である。全体に含まれない部分はない。全体は部分で満ち満ちている。[2065]
無限を実感する機会を持つことは、世界観の具体的イメージを持つために重要である。同時に有限の多さ、多様さの経験も重要である。有限であるはずの存在が、計り知れない多様性と、無限としかとらえることのできない数量を備えていることを。[2066]

第3節 全体の規定 (全体 II )

全体が均質、均等であるなら全体は静止である。[3001]
全体がまったくの一つであるなら、部分は全体と完全に一致する。そうであるなら世界は絶対的静止である。永遠にすべてが静止した世界を我々は想像できるが、知ることはできない。すべての運動が熱に変換され尽くす熱死の世界であり、知覚主体そのものが、それ以前に死滅してしまう。熱死した世界からの類推として絶対的静止を想像することができる。[3002]
絶対的静止の世界は人間の「想像」として、この世界の極極一部分として微かに存在するだけである。絶対的静止は我々の思考によって「想像」として存在する。その存在は想像する我々と「想像された世界」とに区別されており、同じものではない。想像する者と「想像された物」は対称ではない。そして、区別のない絶対的静止はそれぞれにあり、どちらも全体ではない。[3003]

【混沌】

運動の極限は混沌である。限りなく均質、均等に近い運動も混沌である。また、限りなく相互に異質で、限りなく不等な運動も混沌であある。混沌は何物も区別できない、特徴づけることのできない運動である。しかし、運動である。[3004]
極限の運動として混沌は一つの全体としての存在形態である。限りない混沌として全体と部分は一致する。限りない混沌として混沌でない状態に一致しうるものとしてのみ、絶対的全体は想像されるのである。全体が部分を含まない絶対的全体でありうるのは混沌としてである。しかし、絶対的全体は混沌としての運動によって否定される。混沌の対称性は運動による方向性によって破られる。[3005]
全体は完全な混沌の対称性、同質性を破って対極の混沌へ振れる。全体は混沌の度を加える過程で、部分の規定性を現し、部分としての秩序を表す。部分の相互規定は発展するが、それは全体の無秩序化の過程である。全体の運動は動的な混沌から、静的な混沌へ向かう過程である。[3006]
この宇宙は閉じている。閉じていることを前提に宇宙の構造が明らかにされ、歴史が明らかにされている。この宇宙が開かれている可能性もあるらしい。しかしその可能性の影響はビックバンの前、あるいはエントロピーが極大化した後にしか現れないらしい。少なくとも数十億年の宇宙を問題にするとき、宇宙は閉じていることを前提に理解できる。[3007]
閉じた宇宙のビックバンは最初の極限の混沌から、対称性の破れとして世界の秩序を構成してきた。部分は開放系として秩序をつくり出し、構造を実現してきている。同時に宇宙は熱死という秩序、構造を失う終末へ向かっている。宇宙は対称性の自発的破れという矛盾の端緒から、部分的秩序をつくり出しながら、全体は無秩序へ向かう、矛盾の発展過程にある。[3008]

【絶対性の破れ】

全体は区別のない絶対的静止ではなく異質な、等しくない部分からなる。これは真実である。だからこそ世界を対象として世界観を組み立てることが問題になる。[3009]
全体でない部分は対象としてある。部分相互に対象となって区別され、存在する。全体でない部分はそれぞれに対して部分であり、それぞれに対象である。対象化される部分の総体として、全体が対象となる。部分相互の対象化は、全体による部分の対象化であり、部分を対象化することで、全体の対称性が破れる。全体の絶対性が破れ、全体は部分によって規定される。部分は個々の部分がそれぞれに全体を規定するのではなく、部分の規定全体が全体を規定する。[3010]
単なる部分の区別は対称性を保存するが、相互規定性と、自己規定性として部分間の対称性は破れる。相互規定、自己規定が異なった存在を現す。異なる部分としての区別が表れる。[3011]
規定し、区別するのは観測者でも、主観でもない。区別するのは部分である。部分相互に対象化することによって、部分が区別される。部分による部分の対象化は、「部分」を擬人化しているのではない。対象化は部分自体の規定性=本質である。[3012]
部分相互の対象化は、相互規定、自己規定として異なる部分の区別を現すが、全体はそれでも一つである。全体と部分の非対称性から、部分間の非対称性への移行は全体を歪ませる。歪みは部分と部分の対立であり、全体の矛盾である。[3013]
矛盾を生み、全体として一つに統一する働きが運動である。運動は矛盾による対立を統一しつつ、新たな対立を再生産する。全体は矛盾しつつ、統一されるものとして運動している。運動は世界の存在形態である。[3014]

規定性

存在することは運動することであり、全体にあって相互に作用することである。相互の作用として存在が現れる。作用しないものは存在を現さないだけでなく、存在しない。相互作用の相互の対象関係にあること、対象性が存在の根拠としての性質である。[3015]
光が光源から発し、スリットを通過し、スクリーンに到達する場合、相互作用は3箇所に、3つの時点にあるのではない。全過程が一つの相互作用である。なぜなら光という規定性が保存されているからであり、光として他と区別されているからである。光源とスリットの間、スリットとスクリーンの間の時空では物理的相互作用は現れないが、全過程にわたって光としての規定性が保存されている。相互作用、存在とはこのようなものであり、個別の物理的相互作用に限られない。逆に非存在とはこのような相互作用をしないものであり。規定性を保存しないものであり、スリットを通っても干渉しない光が非存在である。[3016]
 その相互作用において相互の対象化は、相互の区別であり、特定の区別である。相互作用は特定の作用であり、特定の性質を現す。相互作用は普遍的であるが、その現れは特殊である。特定の作用によって相互を区別し、相互の存在の差異が現れる。相互作用は相互の存在を規定する。特定の作用によって対象を特定し、特定の作用するものとして自己を規定する。[3017]
対象との相互規定によって、他と異なるものとして自己が規定される。その自己規定があって、同類との関係が成り立つ。自己と同類との関係は、他との相互規定関係の媒介された関係である。[3018]

対象は性質によって規定される。[3019]
性質は他に対する何らかの特定の作用をする。他に対する何らかの作用なくして性質ではない。性質は他に対する何らかの作用として現れる。対象は他を対象として性質を現す。何らかの作用関係なしに対象の存在自体が無い。何らかの作用によって対象は存在し、対象の存在は認識される。[3020]
性質は対象を規定する。他を対象として、何らかの作用をする。他に何らかの作用をする対象である。そこでの作用は双方向である。何らかの作用は一方への作用ではなく、対象双方への作用である。これが対象化の相互規定である。[3021]
その性質を担うものとして対象は自己規定し、保存するものとして自己規定する。[3022]
物質と反物質は相互規定して対象化する。電子と陽電子は真空で光=電磁エネルギーをえて対生成し、再び光を放出して対消滅する。電子と陽電子は相互規定して対象化する。電子はその電子としての自己規定を保存することによって、陽子と相互作用し原子を構成する。電子と陽電子の相互規定、自己規定は単純であるが、複雑な存在も同様である。[3023]
無性生殖の生物は相互に性的対称である。有性生殖によって雄雌の非対称性が現れる。男女が相対していても生物的、社会的には違っても男と女はそれぞれに同性と対象性にある。特定の男女間に恋が芽生えると対象性は破られ、恋人として相互規定する。相互に規定された男女それぞれは恋人がいる存在として自己規定し、他の男女との関係においては恋愛関係を排除することになる。単純な恋愛関係は多くの人が経験可能なことで理解しやすい。ただし今日、単純な恋愛関係ばかりではない。また、人間としての社会的対称性に男女の非対称性を持ち込むことがセクシアル・ハラスメントとなる。[3024]
商品所有者は商品市場では対称である。単に所有する商品の使用価値が異なるだけである。売り手と買い手は相互に入れ替わるから商品が流通する。資本主義経済にいたって、商品所有者は基本的に資本家と労働者に相互規定する。生産の担い手として自己規定する労働者は資本主義経済が消滅しても生き残る。[3025]

【部分の生成】

部分の対象化は相互規定、自己規定の保存としての秩序の生成である。[3026]
混沌にあっても、運動は全体を統一する過程でもある。全体の統一を実現している普遍的連関は混沌の内に混沌でない秩序を生み出す。混沌とした全体の運動は、その内に区別される運動を生む。変化にあって不変を保存するのである。全体の混沌にあって部分が保存されるのである。全体の混沌にあって部分が保存されることで方向性が現れる。方向性は保存されることなくして現れない。逆に、運動はその方向性によって区別される。混沌は運動として、自らを否定する何らかの方向性を実現する。[3027]
全体の運動が全体として経過をたどることも、時間としての運動方向性の実現である。また全体の混沌である運動も、運動の対象化として相互規定による部分の方向性を実現する。エントロピーの増大過程にあって秩序が生まれる。エントロピーの増大過程という方向性が、すなわち全体の秩序が崩れるなかで、部分に秩序が形成される。非平衡化過程が平行を実現する。[3028]
存在と作用は一方が他方の契機、あるいは原因となるのではなく、1つの運動過程の対立しつつ相互に結びついている2つの契機である。存在は作用として実現し、作用は存在に働く。[3029]
部分は他と対象化し合う関係に自己規定し、自立し、存在する。部分としての相互の対象化が、相互規定を介する全体に対する部分の自立である。他に対して自らを区別し、全体に対して自らを保存し、自立する。部分は対象性として相互規定を実現し、自立性として自己規定を実現する。部分は対象性と自立性によって区別され、個別的存在として現れる。対象性と自立性の保存として個別的存在がある。[3030]
区別は対象性と自立性の保存である。区別自体が区別されるものを保存する秩序である。個別的存在の保存として秩序は連関であり、関連によって区別される。全体の混沌は関係し、区別されて局所性、極性、方向性を保存する部分として自立する。局所性、極性、方向性は排他的性質である。排他性をもつから部分として区別され自立する。[3031]
混沌から区別される運動が部分としての存在、運動である。区別されるのは混沌に対してではなく、部分相互の区別である。部分としての運動は全体の運動の一部であり、全体の運動でありながら相対的に自立した、区別される運動である。全体の運動であった混沌が否定され、部分の運動秩序が成立する。[3032]

リンゴとミカンは区別される。リンゴとリンゴも区別される。だから、リンゴの数とミカンの数を比べることができる。もらう人の数とも比べることができる。基数が区別され、比べられ、一対一対応が成り立つか判断され、同じ基数であるか判断される。基数として数が区別される。前後関係で区別される自然数の区別ではない。集合要素としての区別である。型=パターンの対象としての区別である。[3033]
リンゴどうし区別されるが、基数としてのリンゴはどれも同じとして対象化される。区別はされるが同じ物として。空間的な量的な区別である。互いに対称である物の区別である。外延的区別である。[3034]
しかし、子供にとって、主婦にとってリンゴはどれも同じではない。大きさが違い、色つや・形が違う。物質的に異なる物の可能性より、同じ物がある可能性の方が低い。量子レベルでは個々の区別は原理的にできなくとも、日常経験的な物は多分、すべてその量子の数は異なる。互いに非対象の物である区別である。内包的区別である。[3035]
リンゴとミカンの区別、リンゴとリンゴの基数としての区別、リンゴとリンゴの物質としての区別。区別のこの区別は単に見方の違いではない。すべての区別の対象になる個々の物として、それぞれが存在する。[3036]

【全体の否定】

全体は部分を形成、区別することで、絶対的全体ではなくなる。絶対的全体は否定される。[3037]

部分を問題にするとき、全体の絶対性は捨てられる。部分は絶対的全体とは関係しえない。部分は現実的であり、絶対的全体は思弁的である。部分が関係する全体は相対的全体である。個々の部分はすべての部分と直接関係しない。部分が問題にする全体は、問題とする部分と、問題とする部分の対象との間の連関によって規定される範囲としての相対的全体である。[3038]
問題によって規定されている相対性であり、問題の連関によって規定される相対性、二重の相対性である。問題による規定は多様であり多重であり、そのひとつとして相対的である。質的に相対的である。問題の連関は無限の連なりであり、そのうちの一部として相対的である。量的に相対的である。[3039]
問題を提起するのは主観ではない。対象の規程性そのものである。対象の多様な規程、それぞれとしてある。その意味で過程として相対的である。[3040]

【相対的全体の措定】

全体と部分は存在媒体に関わりなく、関係によって捨象された部分として相対的である。絶対的全体から質的に、量的に、相対化された全体が問題になる。[3041]
部分と関係する全体である。部分に対する全体である。部分によって構成される全体である。絶対的全体に対する、部分としての相対的全体である。部分に対する全体でありながら、より大きな部分の一部分をなす全体である。相対的全体は現実的全体である。現実的全体は相対的全体である。[3042]

【対象性の矛盾】

対象性は同質でありながら異質であることの矛盾である。対称性は対象を区別できるないことである。対象を区別できないから対象化する。対称性を破ることは区別を現すことである。区別を現すことは対象として異質であることを表す。異質であることは非対称であることであり、対称性は問題にならない。対象化は、対称性の全体に非対称の部分を規定することである。[3043]

第4節 全体の認識

全体は認識の対象として、主観に対して形式である。全体は認識の対象として「ある」のではない。主観にとっての認識対象の枠組みの形式として全体はある。[4001]
全体自体に形式はない。形式は部分があって、部分間の関係として現れる。「現れる」と表現される過程の時制、時性が形式として問われるのだが。[4002]
主観に現れる過程、認識過程の形式として全体の枠組みは再現する。認識過程での全体と部分の対応関係の実現として、認識自体の発展過程の構成として全体が再認識される。[4003]

全体の対象性

全体は当然に主観である我々を含む。全体に含まれる主観が対象とする「全体」は全体ではない。主観が対象とする全体は対象化された「全体」である。全体が対象化するのではなく、主観が主観に対して全体を対象化するのである。主観は全体に含まれる主観をも対象化する。[4004]
全体は対象性をもたない。対象性をもつのは相対的存在である。全体は主観によって対象化されて、主観の内に取り込まれる。主観の内にあって、対象化された全体として、他を包含する相対的存在になる。同じく主観も全体を対象化する存在として主観の内に位置づけられる。全体と主観の対象関係は、主観の内の関係に変換され、同期される。主観にとらえきれない無限の全体も、主観の対象性の関係をたぐり、保存して主観の内に繰り込む。[4005]
全体は(主観によって)対象として限定されることで、全体ではない(主観にとっての)「全体」になる。全体そのものが変化、変わったのではなく、主観と全体との相対的関係を基準として限定されるのである。主観ではないものとして、主観のうちには対象化された「全体」がある。[4006]
対象化された全体は、その「全体」に含まれない主観を区別する。主観が何であるかはともかく、主観は全体を対象とするが、全体は全体のままでは対象にならない。主観のうちに反映されて全体は対象となる。主観内存在として、そのすべてとして全体は主観の対象になる。[4007]

主観は対象として全体について述べるとき、主観の述べる形式を整えておかねばならない。[4008]
全体と対象化された「全体」の関係について、対象化する主観と対象化の関係については、第一編 端緒において整理しておいた。ここでは、対象化したものを表現する形式を整理しておかねばならない。全体と対象化された「全体」からなる形式、対応関係を明らかにしておかなければならない。全体がその内部の一部分である主観において、その全体を投影する関係を明らかにする。全体は主観のうちに自己言及する。主観は全体の中の主観に自己言及する。全体と主観の自己言及は重なり合って実現し、主観のうちに反映され、一体となる世界を構成する。[4009]

【部分の対象化からの全体】

主観の対象とするものを、主観の対象とする「全体」の部分に対応づける。[4010]
主観の「対象」になるであろうものも、主観の「全体」の部分に対応づける。[4011]
一つ一つの対応関係を確認したり数えたりすることは、現実的にはできない。量的にだけではなく、質的にも現実には不可能である。線分上の点の数すら数え尽くせない。観測できる宇宙の(水平線、光円錐の範囲の)その向こうの銀河も数えることはできない。質的と言うより、論理的に不可能である。[4012]
この対応関係の意味は「対象化」である。主観と対象とを関係づける「対象化」そのものが、主観の「全体」と対象との対応関係になる。「対象化」として「操作」される関係と、「全体」と「対象」を定義する関係の変換関係がここでの対応関係の意味である。対象と主観の関係を主観のうちに反映させるのである。「対象化」は一つ一つ数えることではなく、相互関係を確認することではなく、対象としてあることを主観に反映し、対象として主観のうちに位置づけるのである。主観のうちの全体に含まれるものは「対象化」でき、対象化できるもののすべてとして「全体」がある。[4013]
全体は対象化され、形式化された「全体」である。「され」るのであるが、我々の主観によって勝手に位置づけたのではない。関係を形式化することで、定義しなおされたのである。全体そのものが変わったわけではない。[4014]

全体の形式は全体のあり方ではない。主観の全体に対するあり方として問題になるに過ぎない。しかし、この形式にこだわるのは無駄なことではない。現に「観測者」の問題として、物理学の解釈の問題として、重要な現実的問題と連なっている。[4015]
もともと、観測とは客観的なものではありえない。観測、観察も実践的なものであり、主体的なものである。対象の実現している、実現する相互作用を、主体との相互作用と連関させねばならない。観測、観察には訓練すら必要である。観測、観察には機器も必要であり、その補正も必要である。客観性が問題になるのは、観測、観察の結果を評価し、対象を再構成する解釈においてである。解釈に主観が入り込まないよう、様々な方法、手続きに注意がされねばならない。評価、解釈からの予測を検証する。すなわちフィード・バックによって検証する。観測、観察のフィード・バックの過程で重要なのは客観性ではなく、主体性である。にも関わらず、観測の客観性を求めることは自己を否定するか、世界を否定することになる。[4016]

自己規定は自立性からアイデンティティーへと発展し、主体の姿勢を問う。主体は相互規定と自己規定の統一に思い悩む。[4017]

第1項 関係

全体の否定としての部分は単独では有りえず、必然的に部分間の関係をともなう。部分の存在自体が関係することである。そして部分の関係が全体の形式を現す。[4018]

規定

対象存在を実現する規定性は主観に反映し、主観は対象の規定を既得の概念による規定に変換する。規定された存在対象を、主観は概念によって規定して対象化する。主観は対象を概念として対象化する。[4019]
主観は対象規定の方向を逆転させる。対象の相互規程、自己規程を主観に反映した客観規定を、主観による対象化として主観的に規定してしまう。主観による対象規定の方向の逆転は、主観に自己中心的判断の誤りを犯させる。[4020]
対象存在は、他との区別として自己を規定する質と量としてある。対象存在の質としての自己規定と、主観の認識としての対象規定は全く別のものであるが、一致しなくてはならない。前者は客観的規定であり、後者は主観的規定として区別できる。しかし客観的規定は主観的認識過程にあって、主観規定に反映され、一致の可能性を保証する。[4021]
主観にとって「規定する」とは、対象について何らかの性質、働きによってそのものとして定義することをいう。主観にとしての「規定」には二重の定義が含まれる。対象についての個別的定義と、性質あるいは働きについての質的定義である。量的個別性と質的普遍性とを定義する。対象は普遍的性質、働きを実現する個別的存在である。[4022]
全体に対する部分を規定することは、全体の普遍性と部分の個別性とを定義するものでなくてはならない。対象のもつ普遍性と個別性とを定義することで、その対象の個別としての部分と普遍性としての全体とを定義する。他に対する部分の個別性であり、全体に対する普遍性である。[4023]
この対象は個別的存在そのものではない。個別的存在の特定の性質、働きだけを捨象して対象化する。個別的存在は多様な性質を備え、働きをしている。個別的存在は多様な性質、働きのうち、その実在条件、環境によって特定な性質、働きを本質として実現する。その本質によって個別的存在は定義される。[4024]
主観にとっての規定は、個別的存在を定義するのではなく、特定の性質、働きを定義する。「規定」は個別存在の定義ではなく、普遍的存在の定義である。普遍的存在の何らかの性質、働きを定義する。すなわち、規定は普遍的存在の対象化である。定義という論理関係に対象を位置づけることが「規定」の意味であるが、論理関係を普遍的存在に適用する、持ち込んで対象を定義するのである。論理関係という観念の働きを対象間の関係の説明に転用する。ただし、これは対象を観念的に解釈することではないし、対象を擬人化することでもない。[4025]
これに対して「説明」は対象の性質、働きの多様性を列挙することで対象を指示する。あるいは多数の個別存在を列挙し、集合を示すことで対象を指示する。説明では対象は既定されてしまっている。[4026]

【規定関係】

対象化、自立化による部分の存在は、個別的存在の実現である。部分として他と区別される。相互の区別の保存される形式が関係である。相互の区別が保存されなくては混沌である。対象性、自立性の保存形式として関係は存在の現れである。[4027]
対象性は相互規定自己規定として現れ、相互規定によって区別され、自己規定によって存在を表す。相互規定は外延を表し、自己規定は内包を表す。外延と内包として表せられる関係は、個別存在の実現形式である。[4028]
相互規定、自己規定の関係は客観的存在の形式である。対象の存在を表す形式であるとともに、存在形態としての内容である。[4029]
 「では、時計の規定性はなにか?」時計に相互規定、自己規定などあるのか?時計が自らを規定するなど、観念論ではないか?[4030]
物としての時計自体に時計の規定性など無い。物としての時計は太陽光を受ける柱と板であったり、水とその流量を量る升であったり、歯車等の機構であったり、電気回路であったりする。時計の規定性とは我々との関係にある。時計は我々との関係を離れては、時計としての規定性をもたない。物としての時計は何らかの力を均等に用いて、変化の間隔を量的に示す物である。時計の規定性を実現する関係としての我々は、資本主義社会以降の人間である。あるいは天文学者、あるいは官僚である。資本主義経済に影響されていない社会では地域的にも、歴史的にも時計によって生活を計る必要はない。まして、地球外生物にとって時計が同じ単位である方が奇跡的である。[4031]
時計としての規定性は、人工的に与えたものである。機能として、時間を計るものとしてある。周期的な運動を取り出す機構として。人が作り、利用する物としての規定性を、主観ではなく主体としての人間が与えているのである。人工物または社会関係に組み込まれた非人工物は社会的機能によって規定される物とされる。媒介する物としての規定と、社会的機能としての規定とは区別しなくてはならない。社会的機能も客観的規定である。主観において、社会的機能の規定と社会的機能を実現、媒介する物としての規定を混同してはならない。時計は物としては時計ではない。時計は作られ、利用されるものとして規定された「物」として時計としての規定性を与えられるのである。人工物または社会関係に組み込まれた非人工物以外の規定性は、そのものの有り様として明らかにしなくてはならない。[4032]
物質としては物理的に規定性される。生き物としては生物的に規定される。生産物は社会的に規定される。意味は文化的に規定される。それらは主観が規定するのではない。時計であっても、その材料の性質は物理的な規定である。さらに、その材料の化学的組み合わせ、元素、原子、素粒子、クォークは階層をなす物質としてそれぞれの階層でそれぞれに規定性をもっている。[4033]

【反映関係】

規定関係は主観が関係づけるのではない。主観は規定関係を見いだすのである。対象間で区別された上での部分間の関係は、主観へ反映される。対象は主観のうちに反映されて主観の対象となる。主観が対象化するから対象が存在するのではない。主観を媒介する主体が、対象と同じ対象性にあることで認識が保証される。主観のうちで対象は対象間の関連のうちに位置づけられ、意味づけられる。主体の対象と主観の対象とを一致させることが認識である。主観に、主体に、自らを媒介する対象性が失われるなら、主観はどこまでも現実を超越できてしまう。超えるどころか、現実との関係を失うことも、主観自らを欺くこともできてしまう。[4034]
客観的反映過程の問題は第二部の課題である。ここでは生物学、認知科学の成果を踏まえたうえで、主観の経験をとおして反映、認識を総括する。[4035]
 主体は対象の相互作用と一面的にしか連関しない。個別存在は多様な、多重な相互作用を実現しているが、主体はその相互作用の一部の相互作用と連関するにすぎない。主体自体も多様な、多重な相互作用の実現としてあるが、そのうちの一部の相互作用を対象として捨象し、反映するにすぎない。主体の対象との相互作用する機能は、主体の進化の過程で主体の保存に必要なものとして捨象されてきている。主体は当面主体にとって相対的に主要な対象との相互作用を捨象し、主観に反映させる。主観は反映された対象を、反省によってその全体を再構成する。しかし反省による対象の再構成も、対象を完全に再構成するものではない。[4036]
関係は存在の対象性、自立性の保存形式でもあり、主観に反映される個別存在のあり方である。関係は対象(間)の運動を、対象と主観との運動から区別して連関させる表現でもある。[4037]

【関係の反映】

個別存在として主観の内に保存される形式は主観的関係である。主観の内に保存される形式としての関係は、主観によってどのようにも拡張可能であり、変形も可能である。[4038]
対象間の関係も主観の内に反映される。対象と主体の関係も主観の内に反映される。反映された関係を主観は操作し、拡張し、変形して対象間の関係、対象と主体間の関係を類推する。無原則な関係の一般化は主観の観念的な誤りを生む。対象間の相互規定、自己規定関係、対象と主体の相互規定、自己規定関係は世界存在の対象性を貫く普遍性として主観はとらえておかねばならない。[4039]
主観を媒介する主体はすべての対象と同じ対象性をもつ。対象性をもつものすべてとしての全体の部分として主体はある。そして主体は全体において対称性をもつ。この対称性は一面では相対性である。この主体によって媒介される主観も、主観自らの反省によって対称性を回復する。他の主観との対称性を介して、主体における主観自らの対象性を認める。主観自らの対象性の認識は、他の主観との対称性の認識である。他人の認知であり、自らの認知である。このようなものとして主観の反映機能は対象全体の関係を反映する。[4040]

第2項 次元

対象化による相互規定、自己規定は存在の実現の過程であり、同時に対象の運動の過程である。全体において対象化される部分の一般的運動は方向性を現す。運動は何らかの規定性を保存するものでなければ混沌であり、そこに部分は現れず、見いだすことはできない。何らかの運動は規定され、規定性は保存される。運動は変化と不変との統一として方向性を現す。時間に対して変化しない運動も、規定性を保存する運動である。これは単なる思弁ではない。熱力学の普遍性と、宇宙論に依拠している過程である。[4041]

方向性

対象性は相互作用として実現し、相互規定、自己規定の統一としてある。その相互規定、自己規定は一端規定されれば完成といったものではなく、実現過程として継続しなくては消滅してしまう。実現過程として規定性は保存される。規定性が保存されることで相互作用か継続し、方向性を現す。[4042]
規定性は重ね合わされる。規定性の現れである方向性が組み合わされる。複数の規定性が重ね合わされて、方向性が組み合わされて、相互作用は個別の運動として実現する。そのひとつひとつの規定性、方向性が関係形式としての次元である。[4043]

方向性は混沌の否定である。混沌は静止ではなく、運動である。混沌は運動として自らを否定する方向性をはらみ、そして実現する。方向性は秩序、構造の契機である。運動は全体としても、部分としても方向性を実現する。運動の規定性自体、運動のうちに保存され、方向性を実現する。方向性は運動形式の一つの現れである。方向性はやがて静止へと運動を発展させる。[4044]

方向性は対称性とともに秩序の2つの形式である。秩序は方向性、あるいは対称性として規定される。[4045]

【自由度】

方向性として保存される対象性は、対象間の連関にあって普遍的な性質である。相互に対象化される部分が相互に入れ替わっても不変である対称性が保存されるなら、対象の自立性は普遍的な質としてある。相互の対象化に現れる対称性は対象の普遍的性質である。対称性の保存される対象間の方向性が自由度である。1つの自由度の中では対象は区別されない。対象の自立性は保存されるが、対象は相互に区別されない。個別対象は自由度のいずれかの値をもって実現される。[4046]
自由度とは無規定性ではない。自由度は規定された可能性である。自由度はひとつの規定性のうちでの可能性である。自由度は部分の全体に対する形式的規定性である。自由度は部分の全体に対する可能性である。[4047]
例えば物の移動では空間に対する方向を規定される。線上での運動は線に沿った一次元方向でしか動くことはできない。面上では描ける線すべての二次元方向に動くことができる。立体上ではさらに三次元方向に動くことができる。次元として表される可能な方向性が自由度である。この他にも回転運動も自由度の一つである。こよように運動は複数の自由度によって規定される。[4048]

運動は方向性を持っている。方向性なしに運動は現れない。逆(形式的)に、変化しうる方向が運動の性質になる。運動として変化しうること、その方向に対しては自由でありうる量、物理学で言う「自由度」が次元である。[4049]
他の諸関係から独立して、変化する量の変化の方向性を、ひとつの次元として他の諸関係と区別する。次元と次元との関係は、次元を構成する関係間の関係に直接作用しない。[4050]

【次元】

自由度間の関係として次元が構成されている。質的に異なる自由度すべてとして全体がある。全体の次元数がいくつであるかは個別科学に学ばなくてはならない。物理的次元だけではなく、数学的次元について、さらに生物学的次元というものがありえるかどうか。社会的次元、文化的次元が物理的次元に還元できるかどうか。これは解釈の問題ではなく、実証の問題である。多様な商品流通形態を次元として整理できるかどうか。芸術価値の変容も次元であるのかどうか。[4051]
しかし、ここで次元について確認しておかなくてはならないのは、次元としての時間である。日常的に空間が三次元として現れることは一般に承認されている。空間上の1点にある物も、時間を異にすれば別の物と入れ替えることができる。あるいは、特定のものが時間を隔てれば異なる所にいくらでも存在しえることから、時間も次元として四次元時空を受け入れることができる。物理学ではさらにいくつかの折り畳まれた次元の存在を想定しているが。[4052]
四次元時空間は存在や運動の枠組みとして、絶対的に固定された基準ではない。物理学の相対性理論から学ぶことは、空間も時間も質量によって歪むことであり、次元は運動によって規定されるものであって、次元によって運動が規定されるのではない。その上で重要なことは、存在を問題にするとき、空間に位置を占めるかどうかではすまされないということである。存在とは運動することであるという命題を受け入れるからには、存在は過去から未来への連なりとしてあることを受け入れなくてはならない。存在過程として対象を見なくてはならない。そして全体とは存在過程の全体であることを承認しなくてはならない。[4053]
自由度として対象の様々な関係が区別される。自由度は対象間の関係形式を区別する。個別的存在対象は複数の自由度において対象化され、規定され、重ね合わされている。逆に存在一般は多数の自由度によって個別を対象化する。[4054]
対象はひとつの関係としてのみとらえられるものではない。対象は多数の関係をともなって運動する。多数の関係は関係相互にも関係する。対象の関係のいくつかは一体となって運動するものも、互いにほとんど相関しないものもある。関係相互の関係は、階層を構成することになる。ひとつの運動として現れる対象であっても、内部構造をもつものもある。ほとんどの存在は内部矛盾を含み、それは次元に働き、また統一している。個別対象は単一の物と見なしては、たいてい誤ることになる。[4055]
空間は形式であり、3次元空間が絶対ではない。物理的次元も基本的物理量の自由度の数として3次元、4次元に限られない。量子力学では次元数の確定が量子力学の枠組み自体を決定することになる。次元は物理の次元にとどまらず発展する。[4056]
社会生活においても、思索においても、文化的創造においてもまったくの自由な関係などはない。あらゆる場において相互規定、自己規定の関係にあって活動している。どれだけの自由度をもって生きていくのかは、人生の豊かさの尺度でもある。[4047]

第3項 まとめ

世界観を組み立てる構成要素は相互規定、自己規定関係を明らかにして定義される概念である。世界観の組み上げは概念による概念の構造物として仕上がる。[4058]
  1.  その概念は存在の最も普遍的な性質である「有」から始まる。[4059-1]
  2.  「有」を有たらしめている客体を「有る」とするのは主観である。[4059-2]
  3.  存在は「有」から客体と主観とからなる全体となる。[4059-3]
  4.  全体は客体を対象化し、主観は対象に規定性を見いだす。対象性は存在の第一の性質である。[4059-4]
  5.  対象性は相互規定性と自己規定性に分かれる。[4059-5]
  6.  相互規定と自己規定は対象性を部分を部分として定する。[4059-6]

 対象は対象性を発展させ、それを主観は概念の展開として認識する。[4060]
世界観は概念の集合として、データベースとしても整備されなくてはならない。[4061]
世界観は概念による概念だけの構造物として、知識構造体を構成しなくてはならない。[4062]
概念による知識構造体は、概念操作によって知識情報処理を実現するものでなくてはならない。[4063]
物理学を含め個別科学は、まず部分を追求している。そして、物理学は部分を追求することで、部分の構造が世界の構造に関わっていることを明らかにしている。また、歴史的にも物理学の部分の追求が宇宙の創成の過程を、宇宙の構造を知る手がかりを提供している。[4064]
にもかかわらず、「西洋科学は分析ばかりで還元主義である」との批判がある。そうした一面的科学批判は分析を否定し、全体性の神秘主義にいたる。科学は分析の方法論については体系的に確立してきたが、総合の方法は個人的、経験的でしかなかった。しかし、分析方法の発展として、総合の方法を体系化する試みが20世紀以前から既に始まっている。分析的方法論によって、分析的方法論と一体のものとして形をなしつつある。これまで分析と総合の統一を主張しても、経験主義的であったり、類推的であったりした総合が、分析的方法と同じ論理、表現で科学の方法論として形成されてきている。非線形科学、群、トポロジー、カオス、ゆらぎ、フラクタル、複雑系といったキーワードで代表される方向である。うさんくささを次第に払拭しながら計算機能力の飛躍的発展にも力づけられて進んできている。[4065]
このこととは別に、これら以前から弁証法は分析と総合とを統一する論理としてある。[4066]


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