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第一部 第二編 一般的、論理的世界
第5章 部分
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第5章 部分:運動一般
運動についての日常経験的解釈は捨象された、非常に抽象的なものである。我々の人間として、ヒトとしての日常経験を基準にして対象化していることによる。「具体的認識」とは、日常経験の生活対象としての具体的さでしかない。色も紫外線、赤外線を捨象している。原子、分子の構造も捨象している。対象としているのは生活用品とか、家族とか、友人とかである。それらは、機能を実現する道具としての抽象物である。病気や怪我でもしない限り、生物としてのヒトは捨象し、人間関係のみに抽象したヒトである。同様に、物の移動や振動、回転といった運動は、世界の運動の極限られた現象でしかない。
[s001]
単に論理的に全体が否定され部分が措定されるのではない。存在過程としての運動のあり方である。一つの全体が否定され、多数の多様な部分が実現する過程は、宇宙の歴史であり、生命の歴史であり、個体発生の過程であり、認識の発展過程である。そうした多様な存在過程にある普遍性を確かめようとするのである。
[s003]
全体を否定したのは相互規定、自己規定である対象化による部分である。
[s004]
部分は
相互規定により対象化し、その現れは相互作用であり、運動である。相互規定の関係を離れて、単独では存在をなさない。相手なしでは自らも規定しえない、意味をなさない。部分は
自己規定により、全体に対し個別部分を実現する。
[s005]
例えばエネルギーは真空で電子・陽電子対としての質量に転化する。電子、陽電子は相互規定し合うことでそれぞれの存在を現す。その電子は整数のマイナス電荷をもつものとして自己規定する。陽電子はプラス電荷をもつのもとして自己規定する。どちらをマイナス、プラスと呼ぶか、あるいは陰、陽、あるいは他の表現によるかに関わりなく相互に規定し、自己規定する存在である。相互規定として相互の質を現す。自己規定によって部分としての限界を規定し、個別部分を現す。
[s006]
生物は一連の化学反応系の相互規定を自己組織化し、物質代謝系を実現する。物質代謝過程は生化学反応である。その生化学反応過程の連関を系として規定し、保存するのが生物の物質代謝系である。素過程としての物質代謝、あるいは生化学反応過程と、系としての物質代謝系を区別しなくてはならない。物質代謝系は代謝を媒介するタンパク質分子を自己規定し、個体を実現する。有性生殖は配偶子を相互規定し、性を自己規定する。
[s007]
精神は対象の反映過程に自他の相互規定を見いだし、認識を実現する。また、認識を自己規定し意識を実現する。
[s008]
文化は人間の思交=コミュニケーションの相互規定であり、意味、価値の体系を自己規定し作品を創造する。
[s009]
ここでの例は、統一した形式で表現してはいないが、存在の普遍的あり方を示している。
[s010]
存在のあらゆる場で相互規定、自己規定の対象性がある。相互規定、自己規定の対象化過程こそ運動である。
[s011]
存在は運動であり、過程である。その一般的あり方がこの第5章の課題である。
[s012]
第1節 運動 I (一般的運動)
相互規定、自己規定によってそれぞれに部分である。相互規定として相互作用過程を実現する。自己規定として部分の自立性を実現する。自立する部分として相互作用をになう。相互作用の過程が運動を実現しているのであり、さらにその相互作用過程は他の相互作用過程と相互作用する。相互作用の過程は部分と部分の関係であり、部分の全体との関係である。部分間関係、部分間全体関係の両関係の総体として全体の運動がある。
[s013]
【全体の否定過程】
全体の否定は対称性の破れである。全体は非対称の部分が現れることで否定される。全体は全体であるが、全体ではないものを含むものとして、それまでの全体を否定する。対称であった全体が否定され、非対称の全体になる。
[s014]
対称性の破れは二重の過程である。形式の破れと内容の破れである。対称性は非対称があって問題になる。対称性は破れているから明らかになる。対称であるかないか較べる部分があることで対称性は問題になる。部分があることは対称性の破れである。破れた後もこれは対称性の形式的破れである。対称であるし、対称であるから破れてはいない対称性である。
[s015]
対称の内容的対称性の破れは、破れてから破れる。異なる部分間の非対称性が実現することが破れである。非対称な異なる部分が現れることで対称性は破れる。異なる部分の現れ、部分が異なって現れる、違いが現れることが、対称性の内容的破れである。内容的破れによって対称性は現実に破れる。
[s016]
対称性が内容的に破れる。すなわち区別できる部分が実現する以前の対称性が「揺らぎ」である。現に対称性が破れ、多様な存在に満ちているのだから、全体の対称性は破られるべき対称性であった。破られるべきだが、破られていない対称性が「ゆらぎ」である。ゆらぎ方によって非対称性の内容が規定される。
[s017]
対称性の破れる過程、機構=メカニズムは個別科学でもまだ明らかになっていない。物理的4つの基本的力がどのように分かれたか。ひとつの受精卵がどのようにそれぞれの組織細胞に分化していくのかは、まだ明らかになっていない。
[s018]
【全体の運動】
全体は相互作用する部分の総体としての運動である。部分の個別的相互作用過程は部分を規定するが、同時に個別的相互作用過程は他の個別的相互作用過程と相互作用し、個別的相互作用過程はすべての個別的相互作用過程と連関している。すべての連関した個別的相互作用過程の総体が全体の運動である。
[s019]
どの部分も開かれた系として全体に含まれる。部分は相対的にのみ、捨象された関係でのみ閉じた系としてある。開かれた系の連関のすべてとして全体はあり、その規定においても全体は唯一の、ひとつの閉じた系である。他から何も作用せず、他に何も作用しないから全体であり、そのことが系の閉じている規定である。
[s020]
全体の運動は部分の運動の結果ではない。すなわち、全体の運動は一部分の運動が次の部分の運動を引き起こす、といった経過の連なりとしてあるものではない。時間の経過にしたがって順次作用が伝わるのではない。すべての部分の運動は、全体の運動を構成するものとして一体のものである。部分の運動過程は全体の運動過程の一部分を構成している。部分の存在が全体の存在の一部分であるように、部分の運動過程は全体の運動過程の一部分である。部分があって、それが運動し、その運動総体として全体が存在するのではない。部分の存在と運動とを形式的に分けて考えるところに誤りがある。あえて分けるなら、存在は存在、運動は運動としてそれぞれに部分と全体との関係がある。そもそも、存在と運動とは主観による対象化の違いでしかなく、形式の対象化が存在形態であり、内容の対象化が運動形態である。
[s021]
全体の運動は因果関係を区別できない運動である。部分間の関係では相互作用の時間的連なりが作用の前後関係を表す。作用過程の前後関係として因果関係が表される。作用過程の始めの状態が原因であり、終わりの状態が結果である。しかしこれは個別的部分の運動過程としてのみの因果関係である。複数の個別的相互作用からなる複合した過程では、いずれの個別的相互作用が原因であり、いずれが条件であるかは偶然に依存し、因果関係は相互作用の総体の過程を明らかにしなくては判断できない。部分は相対的に部分であるのであって終わりはない。部分は部分に連なり、継承され、終端としての結果はない。ましてや、複合する相互作用の総体である全体の運動の因果関係は判断できない。
[s022]
【運動の存在】
運動は対象性の具体化である。運動一般は、全体の中に部分を作り出す過程である。全体の対称性を否定し、非対称な部分を形成する過程である。部分一般は対称性と非対称性の重なりである。電子どうしは対称であるが、陽電子とは非対称である。電子と陽電子は電気的規定が反対であるだけで、質量等の規定は対称である。人間は対称であるが、男女は非対称である。対称性を破る運動は非対称な規定、部分をつくりだす運動である。非対称にそれぞれを規定されるものとして対象性が具体化される。対象化の過程が運動の実現であり、物の実現である。相互作用である運動によって、相互規定する対象が存在を現す。存在は対象として現れることであり、対象の現れは存在の具体化である。
[s023]
具体化は存在一般を規定することでもある。存在を具体化する過程が、運動である。抽象的全体の中に、対立して部分を具体化する。存在は運動の対象規定が実現される過程である。運動は規定の実現過程である。
[s024]
運動が最も根元的な存在形態である。世界は運動しており、世界のすべては運動している。運動しないものは世界にはないし、運動しない世界もない。運動は世界の存在形態である。宇宙の開びゃくから、その単純な爆発から全体の膨張、散逸の過程にあって、部分は収縮し、構造化している。全体の無秩序化の過程にあって、部分は方向性を保存し、部分としての区別を保存する運動としてある。全体の無秩序化の方向に対し、部分の秩序・構造の形成・保存の方向の対立過程として運動があり、存在がある。
[s026]
最近の物理学では、この宇宙のどこででも10
-33cmのスケールでは、エネルギーが沸騰するような激しい運動状態にあるという。その一方で、すべてはエントロピーの増大なくして存在できない、運動できない。存在することは静止状態にあることではなく、存在形態を保存する運動である。静止する運動は他との相互作用にあって自己を保存する抵抗運動であり、運動としてエントロピーを増大させる。
[s027]
運動は
変化と保存の統一である。変化と保存いずれか一方のみの存在は混沌である。変化がなければ静止であり、保存がなければ形をなさない。変化を内容とし、保存を形式として運動が存在する。変化する内容として全体に連関し、保存する形式として他と区別される。保存される形式は方向性である。変化も運動の現れであり、運動の結果として変化は認識される。変化しない静止すら、運動の結果である。
[s028]
運動は一方的な働きではない。一方への働きがあれば、同時に、同様に他方への働きがある。双方向への働きとして相互作用がある。双方向への働きが相互を規定する。働きとして存在が実現する。働きのあり方が存在の規定である。
[s029]
その相互規定関係を反映することが認識である。その対象の認識である反映過程も対象と主観の相互作用であり、相互作用を媒介にして認識は実現している。
[s030]
【限定】
相互規定は対象間の相互作用を実現する質的限定である。対象相互の質を規定する。相互作用のあり方としての質が、対象を他の対象と区別する。
[s031]
自己規定は自己の範囲の限定である。相互規定によって相互に区別される対象それぞれの限界を規定する。複数の相互規定を束ねるものとしても自己は規定される。多様な相互規定に及ぶ、自己の範囲を規定する。
[s032]
相互規定と自己規定は、相互作用過程に重なり合って実現する。
[s033]
【存在一般の定義】
ここで
存在一般について改めて定義される。世界の存在、すなわち現実存在は相互に関係することと運動することの2つとしてある。存在の形式は関係であり、存在の内容は運動である。存在は他と関係することであり、そこで運動することである。
[s034]
関係は相互に規定することであり、他に対して自己を規定することである。規定するもの、規定されるものとしての対象性の現れが存在することである。運動は相互に作用し、自らの存在を運動過程として実現し、保存する。
[s035]
他との関係を超越してしまった存在は、存在に含まれない。他との関係を超越した存在は運動に関与できず、存在を対象とすることができない。他との関係を超越した存在は、主観によって対象化される思弁であり、存在の相互作用の内には入り込めない。思弁の対象は思弁の中でのみ存在できる。
[s036]
【存在の認識】
存在するかしないかは、主観が判断することではない。主観の判断にかかわらない客観的存在を、主観は確かめることができるだけである。主観による存在の判断基準は、主体の客観的存在条件に規定されている。しかもその主体の客観条件は、生物進化の過程で、それぞれの生活環境に適応することで獲得してきたものである。さらに、個体発生の段階を経て形成された器官に依存し、成長の過程での経験をとおして形成した世界感に依存する。主体の存在経験によって、主観の存在についての判断基準が形成されてきている。主体の存在経験はまずは感覚であり、生理的活動である。感覚、生理的活動としての主体の存在経験は、主体の存在条件によって規定されている。見える物、触れる物、臭う物、聞こえる物、味わえる物であり、動かせる物、操作できる物、表現できる物、記憶できる物等である。その主体的能力は、主体の生活を実現するものであり、逆に生活の実現に制限されているともいえる。
[s037]
主観が直接存在を確かめることのできない対象は、直接確かめることのできる対象の普遍的存在についての理解によって対象化することが可能になる。直接確かめることのできる対象間の関係を拡張することによって、直接確かめることのできない存在を対象化できる。直接存在を確かめることのできない対象をも、知るだけではなく、操作できる。
[s038]
さらに、主観は存在形態の多様なあり方を一般化することで、抽象的存在関係も確かめることができる。主体の直接的対象以外の存在も、主体の直接的対象を操作することによって間接的に確かめ、操作することができる。
[s039]
主観の判断に関わらず、主体の直接、間接の確認、操作の及ばない対象も存在している。
[s040]
限られた主体の存在条件から獲得した判断基準だけでは存在を判断できない。ヒトへの進化の過程で、ヒトの生存に適した感覚器官、能力が獲得され、その能力を持つものとしてヒトが進化してきた。その限られた感覚器官の能力だけで、すべての物の存在を判断することはできない。紫外線、赤外線は見ることができず、紫外線、赤外線のみを発する物の存在は視覚によって判断することはできない。観測機器を利用して感覚能力を拡張すると、存在する物についての理解も拡張される。観測手段の普遍化によって、科学は普遍的世界認識を可能にする。
[s041]
ヒトとしての進化の過程で獲得してきた感覚能力、個別的認識能力の制限だけではない。無限を個数のように数えることはできない。波動性と粒子性の統一した存在を、日常の物質から想像することはむずかいし。主観には直接知ることの、理解することのできない存在が無限に存在する。それでも主観は自らを客観化することで「存在」を定義できるのであり、客観的対象としての存在を受け入れることができる。
[s042]
そして主観は主体をとおして客観的対象を操作し、主体の生存を実現する。
[s043]
【部分の運動】
全体は対象化によって対称性を破られ、相互規定して部分を実現する。部分は自己規定として保存される。部分は相互規定によって措定され、自己規定によって定立される。部分は相互作用するものとして自己規定し、存在を保存する。部分は全体の否定としての、全体に対する部分ではなく、自立する個別存在として自己規定する。
[s045]
存在は運動として相互に対象であることを規定し続ける。規定し続けることが運動であり、存在である。相互規定の保存が運動であり、存在である。
[s046]
相互規定の過程にあって、規定を保存するものとして自己規定がある。自己規定は規定性の限定である。
[s047]
相互規定は無限でも、無でもない。相互規定は相互に規定する限界にある。相互規定の限界を保存する性質が自己規定である。運動は自己規定によって自立し、保存される。
[s048]
相互作用の過程は運動によって変化しない、運動の形式を関係として保存する。運動は常に変化するが、運動形式そのものは保存される。運動において規定性は変化しても、自立性は保存される。変化する規定性と保存される自立性の統一として運動がある。保存される自立性がなくては運動は混沌である。運動がいかに変化に富むものであっても、その形式は不変に、部分としての関係を保存する。運動の保存される性質が方向性である。
[s049]
【部分の認識】
対象の運動は常に変化する。それを観察、観測する主観との関係も当然に変化する。主観と対象との関係も相互作用であり、相互作用の過程として認識過程がある。主体によって媒介される相互作用、認識過程である。
[s050]
この変化のうちに保存される関連形式を、主観のうちに反映、保存する。主観に反映され、保存された主観的関係は、客観的存在関係の一面ごとに受け入れられる。反映された一面的主観的関係は多面に適用できるよう拡張され、変形されて客観的存在関係に適用されて、新たな客観的存在関係の発見へ導く仮説的基準になる。主観に保存された主観的関係は、様々な客観的存在関係に適用されて、客観的存在関係の普遍的存在関係を認識する仮説的基準になる。基準によって分類された対象が主観のうちに部分として保存される。主観のうちに反映された部分は、部分間の関係として名付けられる。名付けられ純化した部分間の関係によって部分は概念として定義される。
[s051]
客観的存在関係に適応されない主観的関係の拡張や変形は、主観そのものを客観的存在関係から引き離す。
[s052]
【部分の内包と外延】
部分の運動は相互規定と自己規定の二元性を持つ。相互規定と自己規定として部分は他と区別され、自立する。部分の運動は部分と部分との関係であると同時に、部分としての存在である。相互規定としての部分の他との運動と、自己規定としての部分の内での運動との分離が部分の定立である。
[s054]
相互規定としての運動である部分と部分の相互作用は、それぞれの存在としての内包を表す。孤立した運動でないばかりか、部分の内での運動は他の部分と連関し、かつ全体の運動の一部分としてあるからこそ運動しえるのであり、存在する。部分の運動としての質を実現する。
[s055]
自己規定としての部分の内での運動は部分を限定する外延を表す。部分としてまとまり、自立する運動である。区別する関係にあって、部分は他の部分と区別し、全体と自からを区別する。他と区別することで部分は全体に対し部分としてある。部分として特徴づける運動である。
[s056]
内包と外延は形式的に対立する概念ではあるが、部分、個別の実在を実現する運動の表れでもある。その相互規定、自己規定の運動の表れを、主観が対立概念として認識する。
[s057]
【部分の多様性】
部分は他の部分と区別し合い、全体を部分に分隔する。一つの規定性によっても全体は無数の部分に分隔される。観念的な規定では上下、左右、前後、明暗、濃淡等々の二項対立の区分になるが、全体の否定である部分、対象化による部分の運動としての規定性は二分ではなく、多数の部分を分隔する。
世界はつの規定性から始まったのかもしれない。しかし一つの規定性だけでは量的に部分の分隔が進むだけになってしまう。現在は複数の規定性から全体が構成されている。規定性が規定性に働きかける規定性があって規定性の発展は実現される。複数の規定性があって、それらが相互に規定し合うことによって規定性の発展が実現した、と想像できる。
[s058]
いずれであっても今現在、複数の規定性が相互に規定しあって新たな規定関係をつくり出す発展的相互規定と、一つの規定性が複数の規定性を規定する発展的自己規定とがある。規定性は多様に発展し、豊かな部分を構成する。
[s059]
多様な規定関係は多様な部分を分隔する。規定関係の多様な発展は、多様な部分を発展させる。規定関係と部分の連関は同じことを言い表している。
[s060]
多様な部分の連関は連関の連関を構成する。部分間の連関は全体の関連の中で、他の部分間の連関と関連する。連関と関連は、それらからなる新しい連関をなす。連関の関連は高次の連関になる。連関の関連として高次化することによって多様性は統一されている。部分間の連関も多様性を増す。
[s061]
連関は主観によって関連づけられるのではない。規定関係は部分の存在関係であり、運動の形式であり、客観的である。規定性の発展は運動形態の発展である。世界の運動は部分としても、全体としても多様性を増す運動である。
[s062]
単なる多様性、どこまでも多様な運動は混沌である。ただひとつである世界が無数の部分として運動するだけでは、それは混沌である。
[s063]
第2節 静止 (運動の性質 その1)
運動に意志があって限定したり、保存を目的とするのではない。運動自体が変化と不変の統一としてある。運動は他との関係にあって相互に変化し、自らを変化させるが、相互の関係を維持し、自らの運動を保存する。相互の関係が消滅すれば部分自体の消滅であり、自らを保存しなくては別の運動になってしまう。
[s064]
【運動の自己否定】
運動は相互規定の関係にあって自己を規定する。運動は自己規定として自らを限定し、保存する。運動は他への転化、あるいは普遍化を否定する。運動の保存は方向性の獲得である。自己規定として運動はその規定性を保存し、相互規定関係にあって
静止を実現する。
[s065]
運動は運動し続けなくてはならない。運動は変化であるとともに変化してはならない。これは運動の自己否定である。まさに矛盾である。個別的運動は個別であり続けなければならない。運動が停止してしまっては運動ではなくなってしまう。停止せずに運動し続けなくてはならない。ところが続けることは保存することである。運動であるためには、運動を保存しなくてはならない。運動は運動であるとの自己規定を保存することによって、運動であり続ける。運動は運動であり続けつつ、あり続けることで自己を否定する。あり続けることは変化しない。自己規定の保存は不変であることである。自己であり続けることは、他にはならないことである。
[s066]
運動の保存は方向性を現わす。運動でありながら、変化しないこととして方向性が現れる。運動の継続は方向を定める。変化にあって変化に対して保存するのは方向性である。自ら運動しなくとも、自らを保存するものは方向性をもつ。
[s067]
【相対的静止】
運動一般は全体の運動である。運動は全体の存在形態である。全体は常に運動している。運動していない全体はない。全体には静止はない。静止が現れるのは部分である。
[s068]
運動一般は運動自体の帰結として部分でもある。運動は部分を対象化し、規定し、全体から部分を区別する。運動一般は全体の普遍的運動でありながら、部分としての個別的運動である。運動一般が相互規定に重ねて自己規定して部分を生む。運動における部分の全体に対する関係、逆に部分の運動に対する相対的全体の運動の関係形式が静止である。全体の存在形態である運動一般は、存在としての対象性を自己規定して保存されるものとしての部分を実現する。規定されたものとして部分は全体の運動一般に対してその規定性によって、その規定性の現れである個別運動を保存する。部分は全体に対する概念の形式的対立物ではなく、運動の規定性を保存する個別的存在の実現である。静止は部分として保存される規定された運動である。逆に部分は運動するものとして存在するが、その運動は相対的全体として保存される。部分は内に運動として存在し、その全体として保存する静止を実現する。
[s069]
静止は運動一般である全体に対し、規定された運動である部分との対立関係にある。運動一般でありながら、規定された個別運動として静止は実現される。全体にありながら、部分として区別される。相互に規定しながら、自己を規定する。対象としてとらえられるものでありながら、自らも対象として相互規定関係にある。対象として相互に規定し、自らを規定するものとして、運動一般ではなく、保存される個別存在として静止はある。
[s070]
世界の静止はすべてこの相対的静止である。相対的でない静止は運動をまったくしない静止であるが、全体が運動であるのに絶対的静止はありえない。絶対的静止があるとすれば全体が運動でない場合である。
[s071]
部分的な絶対的静止とは表現としても誤りである。絶対的に静止する部分とは他と関係しえない部分であり、他と関係しないで部分は部分でありえない。絶対的静止は全体としても、部分としてもありえず、ありえるのは運動するこの全体を否定しえたときである。現実存在のすべての静止は相対的静止である。
[s072]
日常経験的に静止と思われる状態も、ミクロなスケールでは激しい運動状態にあり、あるいは長時間観察可能であればすべての静的存在も崩壊する。日常的温度にある氷ですら、激しい分子運動をしている。大陸も移動し、形を変え、やがて寿命の来て膨張する太陽に地球ごと飲み込まれる。
[s073]
静止を実現するには温度を下げねばならず、温度を下げるという操作をし続ける必要があり、結局、絶対零度は実現できない。すべては熱のある状態にあり、その中で熱を奪い続ける操作は、熱の移動を継続することであって、熱を汲み尽くすことはできない。
[s074]
ただ、疑似絶対的静止現象として「無気力、無関心、無感動」の三無主義がある。いずれにしても絶対的静止は恐ろしいものである。
[s075]
【静止の形式】
相対的静止は全体の運動の一部分である。全体の運動が混沌であり、まったくの無秩序であるうちは相対的静止も、部分もない。しかし、全くの混沌である運動が方向性を獲得すると、混沌は秩序へ向かう。あるいは秩序は方向性として生じる。秩序と方向性とどちらが先とも言えない。運動であることによって方向が定まり、あるいは秩序が生じる。
[s076]
全体は運動一般であり、部分は保存される対象化形式としての相対的静止である。静止は部分として保存される全体の運動である。静止と運動という対立概念は部分の存在を実現する契機である。
[s077]
そもそも全体の運動の最も一般的な作用は無秩序化という方向性である。無秩序化という全体の方向性、そして部分の秩序形成は一対の関係であり、一体のものである。全体の存在形態である運動自体が部分相互の区別をつくりだす過程であり、同時に区別としての秩序を崩壊させる過程である。区別は比較され、差異が保存され、やがて否定されねばならない。一方に混沌、他方に秩序があるのであって、それは左右のように一体であり、両者が区別できないのは、まさに運動である。
[s078]
形式的に別の言い方をするなら、混沌とは方向を持たない運動である。
[s079]
この非方向性と方向性を統一し、存在を実現するのが対象性である。同じ方向を持つ運動として、相互に静止した関係を実現する。相互に静止しつつ他に対し、全体に対してはやはり運動している。静止であり続けるには全体の運動に対立して部分として運動し続けねばならない。この運動の状態が相対的静止である。
[s080]
【静止の局所性】
静止は全体の運動の局所性として現れるから相対的であり、部分である。静止は全体性に対する局所性である。全体と局所とのどちらが先、前提かではなく、存在の現れ方の違いである。運動の局所性に注目するなら静止があり、全体に注目するなら運動がある。運動は全体として絶対的であり、静止は局所として相対的である。
[s081]
部分の相互規定としての全体性ではなく、部分の自己規定としての局所性である。
[s082]
全体性と局所性は主観が注目するから現れるのではない。全体と部分の形式的対立関係として、主観が二律背反的に解釈するのであって、存在として区別されているのではない。存在は運動の実現過程であるにもかかわらず、主観はその結果の関係を形式化して固定してしまう。認識を保存するには必要な固定化ではあるが、存在の実現過程の理解を阻害する傾向がある。形式論理にとらわれては存在の実現過程である、現実を認識することはできない。
[s083]
【静止の運動】
静止は内部の運動に対して全体であり、他に対する運動として部分である。
[s084]
静止はそれ自体が運動するものとしてあるが、他に対して静止している。自己規定としては自立する運動であり、他と相互作用し自らを保存する運動である。静止はそれ自体保存する運動として相対的全体であり、他との相互作用である運動するものとして部分である。静止は運動の否定として全体性を否定し、他との関係として運動して全体性を取り戻す。
[s085]
相対的静止は相対的静止間の運動として、新しい運動の形態を作り出す。相対的静止間の運動は、その従来の相対的静止を要素とする新しい部分間の運動を構成する。相対的静止を運動要素とする運動は、新しい高次の運動形態である。相対的静止間の関係としての運動は、高次の存在関係を作り出す。
[s086]
静止は運動の単なる否定ではない、積極的な運動の発展形態である。運動を量子化すること、混沌を丸めること、混沌の中に部分を顕在化すること、他との関係を作ること、確率を与えること、形式を与えること、運動諸要素のパラメータを決定することとしてある。
[s087]
静止は他との相互作用に関わりなく、保存される運動としての部分の存在である。静止は自己規定の現れ方であり、存在規定である。相互規定である相互作用が運動としての現れ方である。「対象が存在するかどうか」としての存在規定と「対象はどの様に存在するか」としての相互作用は別の問題である。「何がどの様に」は存在規定と、運動形態とを同時に別のものとして確定しようとするものであり、前提に既に観測問題を忍び込ませている。
[s088]
【運動の形】
形式が現れるのは観念の内にではない。現実の実在の形としてである。形は相互規定、自己規定の限界、境界として現れる。規定された静止が形としての表れである。
[s089]
点は物理的存在ではないらしい。最小の物理的存在単位は「ひも」であるらしい。存在形態としての点はない。存在関係として点は数学的に実在する。
[s090]
線は運動の方向性の現れ、現象である。相対的に強い、他にじゃまされない強い方向性が線になる。最も強い方向性は直線である。直線は無限のエネルギーの現れである。これは類推、アナロジーではなく光の性質である。感覚はこれを反映する。無限のエネルギーが最短距離を取ることになる。
[s091]
日常的に直線は光によって測られる。しかし、物理的には光は重力場の影響を受け曲がる。と言うことは、光は直進することがない。観測は不可能であるが、日常的な長さについても厳密に光を用いて直線を測ることはできない。実験条件の理想化によって、えられる概念として直線が定義される。回転の軸として物理的にも直線は現れる。直線も物理的物の形としてではなく、物と物との関係のうちに現れる数学的実在である。
[s092]
方向性と場の条件の平衡状態が滑らかな曲線になる。
[s093]
多角形は複数の方向性の現れである。あるいは方向性の複数の方向への分散である。多角形は方向性を現す力の分散である。
[s094]
円、球は、内外の力の全体的平衡状態に現れる。楕円は全体的平衡状態における2点を焦点とする力の分散の現れである。2定点間との距離の和を一定にする点の軌跡である。
[s095]
これらの組合せとして平面、立体、時空が表現される形式である。
[s096]
形は外から眺めてえられる輪郭ではない。輪郭は人の眼の認識機能として、生理的に生成されるのである。形は内容と形式の相補性にもとづく境界である。
[s097]
形の現れは本質的にはトポロジーの問題である。近傍との連なりかたが形の本質である。近傍との連なりは相互規定であり、形の内容である。近傍との連なりは局所の問題ではない。連なりとしての全体の問題である。形は自己を規定しており、それ自体形式である。
[s098]
第3節 部分 II (運動の性質 その2)
【部分の存在形式】
全体は運動していようが、静止していようが全体である。しかし部分は静止がなくては部分ではありえない。相対的静止の運動は全体と部分の対立の統一、そして運動と静止の統一である。全体は常に運動している。全体の運動と運動の全体は、全く同じことの言い替えであるが、この中に自己規定が静止として現れる。
[s099]
部分は全体の運動の部分として運動そのものであるが、部分が部分として全体と異なるのは全体の運動とは区別される運動、すなわち静止をするからである。全体の自己規定としての有を否定し、部分間の相互規定として運動し、全体の有に対する自己規定として静止する。部分は自己規定の実現である。部分は規定されて静止し、保存される。全体の運動の一部分としてありながら、静止して現れれる運動が部分であり、部分の運動である。直接的には他の部分と相互規定し、媒介的に全体に対し自己を規定する。
[s100]
部分の運動は全体の運動の一部分でありながら、全体の運動ではない。この違いは大小の違いでも、包含関係による区別という形式だけでもない。部分は全体の一部分でありながら、全体とは区別される存在として現れている。
[s101]
部分にあって部分は、全体の運動の一部分として運動しているが、部分は自らの全体性、普遍性の運動を規定し、否定し、部分としての運動を作り出す。否定される全体性の運動と、肯定される部分性の運動の関係として静止がある。全体性の運動と部分性の運動、これはどちらも全体の運動であり、最終的には全体に還元する。部分としての規定は、限界づける規定である。部分を全体から切り離し、全体ではなくする限界づけである。限界としての規定を超えてしまうと、部分は部分ではなくなってしまう。消滅あるいは無くなるのではなく、全体に還元する。還元されずに、部分を成立させる静止は全体性の運動の否定と、部分性の運動の肯定とを統一することによって静止であり続ける。静止の全体性の否定は静止に形式を与え、部分性の肯定は静止の内容を与える。
[s102]
【部分の静止】
部分は相互作用するものとして、相互作用によって存在している。相互作用は運動そのものであるが、相互作用の関係自体は継続し、保存され、相互作用の担い手としての部分の静止が実現する。
[s103]
部分が部分であることを保存する運動が、部分を規定する運動である。部分は静止した運動として固定された外観を取る。部分は静止し、固定されたものとして他と関係する。部分の静止、あるいは固定は全体に対してであり、他に対してである。決して自分自らに対して静止、固定するわけではない。
[s104]
人は安静の言いつけを守ることができるが、呼吸や心臓を止めることはできない。代謝を止めることも、体を構成している物質の原子核や電子の運動を止めることもできない。地球の自転、公転運動に対して静止することはできない。人は成長し、老化する。人は学び、人格を陶冶する。しかし人であり続け、人格を保持する。例外があっても、人でありつずけ、畜生にはなれない。
[s105]
部分は全体の運動の一部分であり、一部分として他の部分と関係する。部分は全体の運動でありながら、一部分として静止する。部分は静止しながらも、全体の運動の一部分として他の部分と関係する。
[s106]
静止は全体性の否定として、全体と関係する部分である。静止は部分性の肯定として、他の部分と関係する部分である。この否定と肯定の関係は一致しえない異なる契機であるが、ひとつのものとして統一されている。関係として、静止は自己の全体性の運動を否定し、部分として他と連なることで全体との関係を復活させる。
[s107]
運動として静止は、全体性の運動であり続けはする。部分とは言えど全体性の運動が存在の基礎である。しかし静止は全体性の運動を部分性の運動に止揚することで、部分として他と区別し、関係する。ここでの部分性の運動は、他の部分性の運動と違いはない。相互規定としての対象性、区別を超えて、自己規定する個別として対等の存在である。他と同じである部分として部分性の運動はある。他の部分と同じでありながら他の部分と区別され、関係するものとして、部分は全体性を回復する。
[s108]
【部分の対象性】
部分の内での運動は他と区別する運動であると同時に、同じ運動が他との関連としても運動する。部分の内での運動と部分の他との運動は、区別であると共に統一された運動である。部分が他の部分に作用し、その作用が他の部分からの作用となる関係である。部分間の相互の作用として現れる運動である。この相互作用は交互に、別々に作用するのではなく、一つの運動として現れる。
[s109]
その統一は全体の運動として実現している。部分の運動は全体の運動を特徴づけるものである。全体の運動は部分の運動の存在に関わり、部分を実現している。
[s110]
全体性の対立物としての部分は、静止という存在形態をとることで現実的個別存在として現れる。全体と部分の対立という抽象的関係から、部分相互に直接作用し合う関係として、実体として現れる。すなわち部分は静止という形態をとることで、対象性を持つ。
[s111]
全体は対象性を持たない。全体は何物によっても対象とされえない。いかなるものも対象として働きかけ、関係できるのは自らと同じ部分に対してである。働きかけ、働きかけられることが対象性である。対象性は他者と関係すること、他者を持つことである。同時にこれは自らを他者の「他者」とすることとして、自らを対象とすることである。対象性とは部分の存在形態としての本質である。当然のこととして全体は対象性をもちえない。
[s112]
【部分の関係】
部分間の関係は孤立したものではない。部分間の関係は特定の部分だけが互いに関係するのではない。部分であっても全体の一部分であり、全体の関係を担うものである。
[s113]
言い替えるなら、部分間の関係は別々の個体が、両極に分かれて関係するのではない。部分は部分全体の関係の一部分であり、無限の関係の中にある。部分は全体に対立する単独の存在ではない。部分間の関係は分隔された上での関係ではない。部分は部分のすべてとして全体に対応する。全体は唯一であるのに対し、部分は無数である。全体の絶対性に対して、部分は無限性で対応する。全体は部分で満ち満ちている。すべての部分として、無限の部分として全体はある。そこでは部分でないものは全体しかない。
[s114]
また部分は全体ではないものとしての部分と関係する。部分は部分間の関係を次々とたどれる、連続した関係のすべてとして全体の関係を担う。部分間の関係として、部分は全体の関係の一部分を担っている。部分として運動の形態は同じである他者とも関係しているし、またまったく異なる運動をする他者とも関係している。部分間の関係は対をなすのではなく、網の目状である。それも平面、あるいは立体的なだけではなく、時間的にも互いの作用の結びつきとしてもある関係である。部分間の関係は多次元の網の目状である。
[s115]
静止は運動の局所的運動として現れる。部分の直接関連する周囲の部分との関係は直接関係しない部分との関係より強い。関連は飛躍せず、逐次的に連続している。運動はこの連続する形式として全体であり、逐次的に継起する過程として部分である。
[s116]
部分そのものが全体の一部分であり、互いに区別できない関係にある。互いに区別できない関係でありながら部分として、互いに区別する関係でもある。区別し、区別できない関係として部分間の運動がある。区別できない関係としての全体の運動は、区別をなくす方向である。区別をつける運動として部分は自ら部分であると同時に、他を自らでない部分にする。部分は自らの運動を肯定し、他者の運動を否定する。この対立関係にあっても、各々の運動は全体の一部分であり、否定することも肯定することも、互いに同じ全体の運動の一部分としての関係である。すなわち対立しつつも相互に浸透し合う関係である。
[s117]
区別をなくす方向の運動、この全体の運動は区別する部分の運動と同時に、同じ過程としてある。区別をなくす方向の運動はエントロピーを増大させる過程である。閉じた系としての運動である。区別する運動はエントロピーを減少させる過程であり、開いた系としてしか実現しない。開いた系であるから、やがて全体へ散逸する。対称性が否定され、非対称性が現れながら、対称性の回復への運動が現れる。[s118]
ここでの物言いようは矛盾である。論理的に矛盾している。この矛盾が許されるのは、対象に時間的、空間的規定がまだないからである。時空間の規定をも特殊規定とする論理では、時空間から見た矛盾も、当然の矛盾として存在する。
[s119]
第4節 相互作用 (運動の性質 その3)
【部分の運動形態】
部分の運動は相互規定され、自己規定され、二重に規定された運動である。他との関係で相互規定され、自己の運動を実現・保存する関係として自己規定する。
[s120]
部分と全体の形式的対立は運動のあり方として具体的に現れる。部分の運動は全体の運動の一部分でありながら、全体の運動ではない。全体の運動の一部分であるという普遍性と、全体ではない部分の運動という特殊性の対立が、部分の個別性として現れる。
[s112]
全体の運動の一部分であるという普遍性は、有るものとしての普遍性の具体化、実現である。すべての存在は全体の運動の実現過程にあり、全体の運動を担っている。この普遍的全体の運動を媒介して部分の特殊性が現れる。部分の特殊性は、他の部分に対する特殊性である。部分の特殊性は全体の普遍性ではなくなること、他と区別される、他と区別する運動としてある。他と区別され、他と区別する運動は相互に働きかける作用である。どのように作用するかは、運動そのもののあり方である。運動そのもののあり方は、論理の問題ではなく実在のあり方の問題であり、個別科学の課題である。ここでの論理の問題は相互作用として、作用し、作用される区別を運動が実現する過程である。
[s122]
対称性は運動の方向性の問題である。方向性がなくては対称性は問題にならない。方向性によって対称性は破られ、規定される。方向性が一致して対称性が現れ、対称性が取り戻され保存される。等方向性によって対称性は現れ、方向性が一致しないことで対称性は再度破られる。さらに、方向性が全く一致しない場合、極限でもも対称性は問題にならなくなり、対称になる。すべての運動の方向が異なるなら、運動の部分、運動の後先を区別することができない。すべての運動の方向が異なるなら、保存される対称性がなくなってしまう。
[s124]
全体の運動は対称性を保存する運動である。対して、全体の運動の対称性を破るものとして部分の運動が現れる。対称性を保存するのも、破るのも方向性である。部分は方向性をもった運動として現れる。運動は方向性をもつことによって全体の普遍性ではなく、部分の特殊性を実現する。
[s125]
運動は異なる方向性によって作用し、区別される。作用し、作用される、相反する作用の方向で運動は実現する。相反する方向性によって運動は部分として区別される。相反する方向性を持つ部分として非対称の部分が実現する。非対称の部分として部分は区別される。これが相互規定性である。
[s126]
相互に規定された部分は同じ規定による部分間で対称性を回復する。運動の経過に対して対称性を保存する。他との相互作用、関係に関わりなく時間に対して対称性を保存する。逆にこの対称性の保存と、破れとして時間・空間が規定され、対象は時間・空間によって規定される。相互作用を担う部分は、同じ相互作用をする部分として対称性にある。運動の方向性を対称性として回復する。時間に対する対称性を、時空間に対する運動の方向性を、自らの存在を保存するものとして自己規定する。
[s127]
存在の実現過程は時間、空間規定以前の論理的過程である。運動の実現過程で時間・空間が規定される。
[s129]
【相互作用の形式】
相互作用は、一方の存在が他方の存在へ作用する関係ではない。部分間の関係は相互作用であり、単独の、一方的な作用ではない。相互作用により部分相互に区別される。相互作用では一方の他方への作用は、他方からの作用と相補関係にある。一方からの作用と他方からの作用は切り離すことができない。力学的にも作用と反作用は、作用させようとする意志に関係なく作用するものにも反作用する。
[s130]
世界には単独の、一方的な作用はない。すべては、全体の関係の内にあり、ひとつの全体の内で単独の存在はありえない。すべての運動は相互作用としてある。すべてが相互に関係して、全体はひとつである。
[s131]
相互作用の形式としての問題は、作用の方向性にあるのではなく、相互作用は互いの存在を前提にするのではなく、互いの存在を規定し、互いの存在を実現することにある。相互作用により相互を規定し、相互に規定されて、全体に対し自己を規定し存在を実現する。相互作用は全体と部分の直接的関係として、部分を実現する関係ではない。部分と部分との関係として世界の構造を実現し、そこには世界全体がある。部分を部分として実現する全体に対する自己規定が縦の関係である、というなら部分と部分との相互規定は横の関係である。縦の自己規定関係は部分の全体に対する関係であり、他の部分との相互作用を通じて絶対的全体との関係である。対するに横の関係は部分と部分の相互作用として、部分相互に規定し合い、排除し合い、否定し合い、対立し合う部分と部分との部分的な関係である。縦と横の関係は座標軸の向きが違うのではなく、相互関係の質が違うのである。縦の関係としての自己規定と、横の関係としての相互規定は全体にあって、また部分にあって一体としての存在関係を構成する。
[s132]
縦と横の関係は別々にあるのではない。部分の相互作用としてひとつのものである。ひとつの部分の相互作用としても一体である。ひとつの部分のあり方であり、その全体との関係と他の部分との関係として現れ方が別なだけである。
[s133]
部分の相互作用は部分間の関係において作用するが、その総計として全体の運動がある。また部分と全体との相互作用は、すべての部分を部分として同等のものとして関係させる。
[s134]
縦と横の相互作用は互いに前提し合って部分として運動を表す。部分間の相互作用そのものが各々の存在の根拠としての全体の運動の現れである。部分の相互作用は全体のあり方として、部分間の相互規定に部分を自己規定している。
[s135]
存在は運動することであり、相互作用することで存在する。
[s136]
【相互作用の多様性】
全体の部分との対立において、すべての部分は同等に部分である。部分そのものとして全体に対する多様性はない。多様性は全体に対する同等な部分間の組合せの多様性としてある。始めから無限の多様な組合せはありえない。相互作用をとおし相互に区別し、組合せを実現する。始めからすべてが無限に多様であったなら、運動そのものが成り立たない。それらは全体をなさない。
[s137]
部分と部分の相互作用は多次元の関連として多様であるが、全体の運動としてはひとつである。相互作用は多様であるが、多様さは秩序ある多様さである。無限の多様性であるが混沌ではない。秩序によって実現する部分を要素として、多様性は構成される。同等の部分間の組合せとして、単純ないくつかの組合せから始まり、組合せを構造化していくことによって無限の多様性が実現する。
[s138]
部分と部分は対称な、同等のものとして相互作用するが、相互作用は一様ではない。一つの個別部分としての自己規定は、多数の1対1の部分間の相互作用であっても条件によって異なる作用をする。自己規定は決定されてしまったものではなく、相互規定との対立、統一として、相互作用の過程のうちで規定され続くのである。さらに複数の部分間の相互作用は、その要素としての自己規定と条件としての相互規定の組合せで多様な相互作用をなす。
[s138]
部分と部分の相互作用は同等の部分間の、いくつかの条件の違いによる複数の相互作用を単位とする。いくつかの条件の違いによる複数種の相互作用が、部分の存在の次元の数である。すべての部分が一様に、すべての部分との間で相互作用することはない。その状態は絶対的全体であって、そこには部分の区別も、運動もない。部分はいくつかの限定された部分との相互作用をする。いくつかに限定された部分との相互作用の連鎖を通して、すべての部分と関連する。
[s139]
全体はひとつであり、部分は互いに同等であっても、そこに働く相互作用は多様である。多様な相互作用の連なりとして、全体の構造の多様性が実現される。
[s140]
【相互作用の多重性】
1対1の関係にあっても遠隔作用、近接作用は発展した相互作用の現れである。ものの存在の基礎となる相互作用は相互規定を実現する相互作用であり、相互に依存しつつ対立する関係にある。相互依存が前提にあり、独立したものどうしの影響のしあいとは異なる。相互依存は全体の対象性の現れであり、対象が相互に規定し合うことで相互の部分が実現する。相互規定は規定基準が決定されていてその基準に基づいて適用されるのではなく、現実の対象性の現れの過程で規定される。現実に規定される過程で相互規定基準が定まる。
[s141]
部分と部分、あるいは相互作用はことばの感じのように、1対1の関係ではない。部分は「1」ではない。部分は全体に対する部分であり、部分に対する部分であって、それ以上分割できないものとしての「1」ではない。その意味で部分は孤立ではなく、相対的な存在である。
[s142]
作用として、機能として、相互作用は部分と部分の関係として表現されはする。しかしそれは表現上のこととして1対1の関係であるに過ぎない。部分の相互作用は、全体の相互作用の一部分として全体と連なっている。部分の相互作用は連なる作用として、全体性を持っている。部分は1対1だけでなく、1対1対1対・・・の線状の連なりだけでなく、面状だけでなく、多重に連なっている。他の無数の部分と関係し、相互作用をする。
[s143]
相互規定は自己規定と切り離されることはなく、自己規定は複数の相互規定を貫き、自己統一する。ひとつの部分としての自己規定は多数の相互規定をもつ。ひとつの部分の作用は、ひとつの部分を対象とする相互作用のみではない。ひとつの部分を対象とする相互作用は、他の次元の相互作用を伴う。対象とする部分に対し、別の次元の相互作用をすると共に、他の複数の部分ともそれぞれ複数の相互作用をなす。発展的な相互作用はいくつもの相互規定関係を貫く。
[s144]
多次元の相互作用の連なりとして、全体の連続性が保存され、実現される。
[s145]
【相互作用の発展】
自己規定は相互規定を規定する。複数の相互規定を貫くだけではなく、複数の異なる相互規定関係を規定し、保存する。自己規定は対象性の相互規定を介して措定されたが、自己規定は相互規定を介して発展する。
[s146]
自己規定は複数の相互規定を結びつける。また自己規定は複数の相互規定間に、新たな相互規定を規定する。新たな相互規定によって、自己規定は自らを再規定する。こうして自己組織化の過程が実現する。
[s147]
任意の部分の相互作用は孤立してはいない。相互作用は重なり合う。ひとつの相互作用に対し、他の相互作用は条件として作用する。
[s148]
相互作用の発展は必然であるが、どのように発展するかは偶然である。どのように発展するかは論理ではなく、個別科学が明らかにする。
[s149]
方向性を持った運動量であるベクトルは運動量実現の相互作用と、その実現の過程での他に対する方向を維持する運動の重ね合わせである。2つの運動要素の重ね合わせとしてベクトルの運動が実現する。
[s150]
さらに2つの運動要素が逆比例するとき、振動が生じる。一方の運動量が大きくなると、その運動に対する逆方向の作用が増大し、運動量が縮小に向かい、一方への運動量がゼロになっても逆方向への作用が継続することによって逆方向への運動が始まる。運動量の双方向への増大と現象の繰り返しとして、振動が継続される。
[s151]
振動が空間的、時間的方向性の場にあれば、波動として伝わっていく。
[s152]
孤立波の場合はさらに波動の伝播方向を保存する要素が加わる。
[s153]
散逸構造はこのような相互作用の重なり合いとして、構造自体を発展させ、自己組織化する。新しい相互作用の運動形態が生じる。
[s154]
相互作用は物理過程のみの運動ではない。生物の過程でも相互作用であり、特に人間関係の相互作用は我々が日常に経験し、検証している。そして、自分自身の人格の保存と成長として、相互作用の経験と検証も保存されている。
[s155]
第5節 相対的全体 (全体 III )
部分間の相互作用にあって、部分は他の部分に対する部分であり、同時にそのことにより、全体に対する部分としてある。部分を介して全体は相対化する。
[s156]
第1項 相対的全体の認識
全体は根拠としての有の全体であった。全体を対象化するには、全体を規定する全体でないものがなくてはならない。他にはない絶対的全体でないものとして、絶対的全体の否定としてありえるのは内にある部分であった。全体に次いで対象となる部分は規定するものでありながら、規定されるものである。部分は他を対象として、自らを対象として相互に規定する。部分は他の部分ではないものとして自己を規定する。相互規定、自己規定する部分の総体として全体は規定される。また、部分間の相互規定関係の総体として全体は規定される。部分の総体としての全体、部分間の相互規定関係の総体としての全体は、無規定の絶対的全体ではなく、規定された無限の相対的全体である。
[s157]
他の部分に対する部分として、その相互作用に限定することで互いの部分は、相互作用の関係を全体とする部分でもある。相互作用の関係として限定された全体が部分に対する。部分は相互作用の対象となる部分との関係において、限定された全体と対する。限定された全体、これが相対的全体である。運動において相対的静止でがあるが、関係において相対的全体である。
[s158]
部分の規定は多様、多重でありその全体も多様である。しかし、部分の多様さは規定による多様さであり、混乱でもないし、便宜的でもない。部分は主観によって名付けられたものではなく、主体の対象として、相互作用の対象として存在する。直接的相互作用の対象にはならなくとも、相互作用の連関を伝って作用し合う。多様、多重の全体も規定関係の規定性を保存する。
[s159]
【系の定義】
部分は相互規定関係にあって、対象ではないものとして自己を規定する。自己規定した部分は相互規定関係を離れて、自己規定を同じくする他の部分とも新たな相互作用をする。また、異なる自己規定のうちなる部分とも新たな相互作用をする。
[s160]
新たな相互作用は新たな規定性の獲得である。新たな規定性の獲得は自己規定を構造化する。複数の相互規定を自己規定に組み込む。逆に複数の相互規定に自己規定を保存する。複数の相互規定がそれぞれに部分を実現するのではなく、複数の相互規定が一つの部分を実現する。部分は相互規定の結節点として自己を規定する。部分は規定関係の自己規定の総体として系を構成する。複数の相互規定関係にあって、ひとつの規定が他の第2を規定し、第2が第3を規定し、規定がめぐって第1を規定する。このように、線形の相互規定の連関にとどまらず。規定関係が網目状に、しかも円環して規定し合う。総てが他によって規定され、再帰して、再規定し、完結する。相互規定が相互の規定によってのみ規定する閉じた関係が系である。系はそのように相互規定を自己規定する。
[s161]
系は部分を構成する相互規定関係である。相互の規定関係として自己を規定する。自己の規定の内に相互規定関係を含む。部分としての系はその相互規定諸関係が自己規定に一致する場合は、自己以外の相互作用は自己を構成する規定関係に直接作用しない。条件として作用する。自己規定が相互規定諸関係に一致すると、閉じた系を構成する。しかし、世界に孤立した部分はありえず、完全に閉じた系もありえない。系を構成する自己規定は、より基本的な相互規定に媒介されている。その媒介している相互規定において、系は開いている。
[s162]
部分を媒介、構成する相互規定関係は部分の自己規定に規定されない。部分は普遍的な相互規定関係にあって自己を実現するのであり、自己以外との相互作用に依存しつつ、自己を実現する。
[s163]
部分の自己規定としては閉じた系であるが、全体の相互規定としては開いた系である。完全に閉じた部分系は思考実験としてのみ実現する。しかしそれすらも思考に媒介されていなくてはならない。思考を介して開いており、思考によって閉じている。
[s164]
部分は自己規定関係に入り込まない他の部分との相互作用もする。部分間の偶然の相互作用である。偶然の相互作用であっても、他の部分の存在は必然であり、その相互作用は環境・条件として作用する。環境条件は開いた系に対しては、規定関係にも作用する。逆に規定関係が作用を受ける系は開いた系であることが主観に認識される。
[s165]
規定関係は概念として定義され、系の規定関係は論理関係として主観に反映される。論理関係として、系は体系として理論化される。
[s166]
【物と事】
主体は他と相互作用する。主観は主体の相互作用の対象として他を認識する。主観は他を認識し、他と相互作用するものとして主体を認識する。主体は他と相互作用するものとして相互規定される。その主体を主観が自己規定する。主観は主体を自己規定するものとして、その主体の相互規定によって規定されている。主体の直接的対象は物として認識される。主体の直接的対象とならない規定関係は事として認識される。
[s168]
物は主体の対象として五感の対象になる。五感の対象として対象規定は保存される。物自体は主体の作用対象として認識される。物自体が保存される対象として主観に認識される。主体自体も物に作用するものとして認識される。
[s169]
主体の認識は、対象を主体の対象として特別に抽出する生理的知覚機能をもっている。パターン認識の特性として様々な機能が認知に関する研究によって紹介されている。視覚の輪郭強調、視細胞の桿体と錐体の分化等、色名、音楽における音階などは文化的存在としても実現されている。
[s170]
事は物と物との関係として認識される。主体は物に働きかけることによって物と物、あるいは主体と物との関係を変えることができる。物を媒介にして主体は事を起こし、事に作用することができる。物も事も主体の対象となる実在である。物はたまたま主体の対象として規定されるのである。主体の対象としての規定を離れて、物と事とを区別する規定はない。[s171]
多様で多重な規定性の対象に対し、主体との関係にとらわれ、あるいは主観との関係にとらわれて物と事を判断することは、主観的誤りを犯すことになる。対象とあるいは主観との関係は一面である。少なくとも全面的であることはまずない。主体的、主観的に制限された関係でしかない。しかし個人的にではなく、対象が社会的に関係する場合、あたかも客観的存在であるかのように判断してしまう。社会的存在を物理的存在と見なしてしまう。社会的対象は類としての人間の主体性による規定であることを忘れてはならない。人工物の最たる物は概念である。概念の使用に当たって注意しないと、使用者はその概念に支配されてしまう。概念こそが客観的な物と見誤り、観念論にとらわれる。概念が真実であり、客観的対象は仮象にすぎないと解釈してしまう。
[s172]
第2項 超える
相互規定、自己規定の関係は一様な関係にとどまらない。相互規定、自己規定の関係は再帰関係では相互の規定を組織化する。相互規定であったものが自己を構成し、自己規定が相互規定関係を規定する。
[s173]
【発展の基本】
対象性は、他を対象化し、自らを対象化する。自他の対象化は、発展の基本となる関係である。自他を相補的に規定するのではなく、規定関係が構造化することで発展する。
[s174]
関係は関係の関係に発展する。主観によって表現される関係ではなく、対象の存在として関係の関係は存在する。関係の関係は、関係を維持、保存する作用、運動として実現する。左右、上下、共通、無関係などの形式的関係としてではない。実在の相互作用を介して関係する。客観的関係の関係が存在する。
[s175]
関係の関係は、関係を超える関係である。メタ、スーパーの関係である。
[s176]
【超越】
超えたからといって、超えられた関係から独立してしまうわけではない。超えられる関係を常に基礎とした存在である。
[s177]
要素の寄せ集めではなく、相互依存関係が、相互規定関係が組み合わされる環境条件にあり、相互依存・相互規定関係が環境条件を保存するフィードバック作用を実現することによって、要素の集合ではなく、全体性が構成される。
[s178]
超えた関係が、超えた関係同士の関係に発展すると、より強固な関係になる。超えた関係は普遍性を強める。超えられた関係の不安定さに比べ、超えた関係はより普遍的である。
[s179]
超えた関係は「超」として存在の発展を特徴づける。存在のあり方を超える存在を発展させる。ものの存在のあり方として、超えることによってつくられる階層関係の視点は、もののあり方を理解する上で重要である。
[s180]
超えることによって全体の存在に回帰する。超えることによる普遍性は、全体の普遍性を回復する。
[s181]
現に、物を超えた生命を超えた精神は世界感、世界観として全体を再構成する。でなくとも、超えるそれぞれの事例に全体性の回復が現れる。個別の過程を組織化する全体の過程としてある。
[s182]
【超え方】
一般的には相互規定の基本的規定関係が閉じて相対的にその他との相互規定関係を対象化するとともに、閉じた相互規定関係自体を自己規定して対象化することによって超えた規定関係を創造する。超えた規定関係によって超えた運動・存在が実現する。
[s183]
積み木を積み上げて立体構造を作るのとは異なる。そのもののうちに構造を維持する規定性、統合力がある。この力は神秘的なものではなく、運動にあって、運動を規定する力であり、その働きによって選択された力である。この選択は、生物進化の自然選択と同じで、何者かによる選択ではない。運動の発展の実現過程で構造を実現する力として実現した力である。
[s184]
アーチは寄せ集めとしての石組みとは異なる全体性を実現している。要石を据えるまでは不安定な石組みの寄せ集めを、支柱などの環境条件との構造を構成することによって維持する。要石を据えることによって、全体の重量が互いを支え合い、全体のアーチ構造を維持・保存する。環境条件としての支柱などは不要になり、支柱に代わってそれぞれの石の重量と摩擦が全体の力関係を構成する。支柱もそれぞれの石と一体になり、重量に対し、摩擦と抗力によってアーチ全体を構成していた。要石が据えられ、石組みの力関係が構成されると、支柱なしでもアーチは維持される。一般的な重力の方向性を自らを規定する構造に組織する。
[s185]
単純な力学的構成物であっても構成する過程が必要であり、全体の構造が必要である。単純な力学的構造物であれば、石が積み重なる過程で相互に支え合い、偶然にアーチ構造を構成することもある。それでも、石が積み重なるのは石が寄せ集まるのとは違い、上から下への石の落下運動の方向性が必要である。
[s186]
一般的には超える存在を相互規定関係を自己規定する関係と定義することができるが、個別存在の超え方はそれぞれの分野で異なる。個別科学はそれぞれの分野で、分析した要素がどのような過程で総合されるかを課題にしている。要素を集めただけでは全体の運動を構成することはできない。それぞれの分野、それぞれの対象での超え方をそれぞれに個別科学が明らかにしつつある。その成果に学ばなくてはならない。[s187]
第3項 座標
【関係の表現形式】
相互規定は対象の質を規定するが、自己規定は対象の量を規定する。自己規定は規定の限界を規定する。対象が実現する運動には限界があり、自己規定は運動量も表す。対象の運動を質としてだけでなく、量的にも主観に反映させるには、量を量る客観的な基準が必要である。
[s188]
対象の特定の規定関係での運動量を一定の単位で量り、単位量で運動量を表現し、比較する。運動は複数の次元からなり、それぞれの次元でも量的相関が成り立つ。運動を構成する次元と運動量の関係を一定の単位で表現するのが座標である。
[s189]
どのような方向、どのような運動量単位で表現される次元であるかによって座標は区別される。区別される座標それぞれが、相互に座標系として相互に比較される。
[s190]
座標表現は部分と全体との関係形式を表現する。座標軸の数によって、次元の数を表し、軸と軸との関係によって、空間の構造を表す。部分間の関係は座標位置によって表される。
[s191]
【座標の客観性】
観測結果の客観性を維持するために、座標が用いられる。
[s192]
座標は対象間の量的関係を表現する基準である。座標は観測結果の量的表現の曖昧さをさけ、一意的に示すためのものである。座標によって観測結果の客観性が保証されるのではない。座標が対象の存在を保証しているのでもない。座標そのものは客観的存在ではない。座標は相対的で、絶対座標を想定することはできない。座標は対象間の量的関係を客観的に表現するものであり、客観的存在は座標ではなく、対象間の関係である。
[s193]
座標による対象の量的関係の厳密な表現は、解釈を主観によって歪めぬためのものである。観測結果を歪めるのは、主観自体の変化である。変化する主観が対象の変化を観測するためには、対象と主観の双方の変化を相関させてとらえねばならない。対象と主観の変化の相関を表現するものとして座標を用いる。
[s194]
座標は変化する主観が主観の変化を相殺して固定し、部分的絶対評価として対象間の関係を表現するためのものである。座標自体は決して客観的存在ではない。座標は主観的な道具である。座標は主観そのものであり、「主観」として主観の変化を補正するものである。座標は主観に客観性を持ち込むための「主観」の道具である。
[s195]
【座標単位】
座標は規定関係で定まるが、座標の基準量は運動量によって定まる。運動自体の基本量が明らかであれば、その量によって量るのが合理的である。運動の基本量で表せば、運動量間の関係は自然数の比で表すことができる。
[s196]
しかし複数の規定関係によって構成される運動では、運動量間の関係は相対的であり、運動量間の相互関係が明らかにされなくてはならない。
[s197]
歴史的には日常経験の利便性により、座標単位は決められた。長さであれば身体部分が基準になり、時間であれば地球の自転、公転が基準になった。対象を客観的、普遍的に理解できるようになって基準は、自体がより客観的、普遍的になってきた。今日プランク長、光速が物理的基準になる。
[s198]
【座標表現】
座標は観測が課題とするいくつかの物理量の相対関係を、空間の形式で表現したものである。観測において限定された量の相対的関係であり、他の量の相対的関係と座標系を変換することによって、異なる量間の変化の関係を対応づけることができる。
[s199]
ガリレオ変換によって任意の慣性系間の対称性が明らかになる。高速度運動ではローレンツ変換によって運動の対称性が明らかになる。
[s200]
絶対空間があってその形式によって座標が与えられるのではない。対象間の関係を空間形式化し、座標で表現した結果が、空間の性質を表現しているのではない。座標を用いて空間形式を対象間の関係にあて測るのである。対象それぞれの運動方向ごとの変化を座標によってひとつの表現にまとめるのである。[s201]
【座標の主観性】
対象の観測を座標によって表現することは、主観そのものであって、そこに客観性を求めることはできない。座標によって表現された対象は主観的なものであり、既に客観的対象とは別の存在である。客観的対象と座標によって表現された対象は普遍的に一致するものではない。
[s202]
対象の運動を関係づけ、座標によって表現し、その変化量を座標数値の変化形式として関数を用いる。対象の運動の変化量を、主観に反映させる形式として関数を用いる。関数は主観が用いる関係形式である。関数によって対象の運動が決定されるわけではない。関数は規定性の量的可能性を表現する。
[s203]
変化の様子は関数として表現される。現象の様々な変化量から一つを捨象する。捨象の選択は主観的であるが、捨象される変化は客観的である。捨象は変化のうちの、一つの形式を取り出し、他を捨てることとも言える。捨象した変化の形式を関数化して変化を表現する。変化の対象化、形式化である。変化を関数として形式化し、変化量を変化率として定義することが、対象の量的抽象化である。変化の量と方向の形式を取り出すことが量的抽象である。
[s204]
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