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第一部 第二編 一般的、論理的世界

第6章 普遍的運動


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第6章 普遍的運動

 ここから、またより具体的論理段階にはいる。対象の運動と、論理の関係・展開を区別する必要がある。特に「実現する」との表現は論理の関係、論理の展開をたどっているのであって、対象概念が物理的に実在化するのではない。また、観念の自動的運動でも、主観の解釈過程、認識過程を現すのでもない。抽象的概念がより具体的概念に展開されることをいう。論理を展開するのは主観でも、対象でもない、論理の連関そのものである。人が目標を実現するのも、抽象的観念を具体的な現実に展開する。人の場合には意志と実践とによって展開する。論理も人もいずれも可能性を必然性に転化する運動、過程である。[s001]

具体的世界に立ち至る手前の普遍的存在のあり方を問題にする。世界観を組み立てる概念構想とでも呼ぶべき普遍的概念についてである。建築、システム設計で言うアーキテクチャである。[s002]

【規定性の展開】

全体が規定性を実現することで、対象性が部分となって現れる。全体はすべてであるが、全体ではない何らかの未規定のもののすべてとして、全体は自らを規定する。未規定の何らかのものは全体ではない、全体の否定である。全体自らを自らでないもの、他である部分によって規定する。全体を規定する部分としては、部分のすべてによって全体を規定するが、まだ部分は全体の否定としてしか規定されていない。[s003]
全体の否定としての部分は、すべてではない部分として、他の部分との関係で自らを規定することになる。他の部分との関係は相互の規定関係であり、いずれかが一方的に他方を規定する関係ではない。部分は全体の規定性を部分の相互規定としてそれぞれの質を規定し、それぞれの量を自己規定する。部分の自己規定は、他との量的限界を規定するとともに、自らの質の限界を規定する。部分の質的量的規定はすべての個別のあり方を規定するものであり、まだ普遍的存在形態である。対する全体は普遍的部分のすべてとして抽象的に規定される。[s004]
この普遍的部分は相互の多様な質的規定を束ねて具体的部分となる。個別として量的に区別される質を現す。部分が個別として現れる。個別としての存在を現す。質的量的に規定された部分が個別存在である。部分、個別存在は主観によって区別されるのではない、客観的存在である。対する全体は内容をともなって客観的に規定される。[s005]
規定は何らかの主観によるものではない。それぞれの存在の仕方のことである。相互規定の相互規定関係として他と全体と区別される質を現す。どのような質を現すかは、個別の規定に、個別科学に学ぶしかない。個別部分は多様な質をもったものとして、個別存在として現れる。個別存在は個性を現す一歩手前の普遍的存在である。[s006]

個別存在は存在条件にも規定される現象形態として現れる。物理学の量子は他との存在条件によって波動として現れたり、粒子として現れたりする。量子物理学の対象でなくとも同様である。人間も時、場所、場合によって多様な人格の特定の一面を現す。多様であってもそこには一個の統一された人格の一面の現れがあるだけである。一個人の人格は、存在条件に規定されて多様な現れをするが、そこにはその個人の普遍的人格がある。ただし、この普遍性は個別にある普遍性であり、人間の普遍的人格での意味ではない。[s007]

なぜ規定しなくてはならないのか。誰が規定するのか。理由も主体もない。論理の性質である。論理は規定するものである。何が何を規定するかは、規定の相互連関をとおして、その全体として規定される。ここでは世界を対象とし、論理による規定関係を全体から始め、規定関係の全体として世界を規定する。[s008]
世界が相互作用という運動によって相互に存在を区別している、その区別を論理が規定として反映するのである。[s009]

【普遍性】

普遍は特殊、個別と区別される概念であるが、全体と部分とから派生する概念でもある。[s010]
どこにでも、いつでも存在する個別存在は普遍的存在である。ただし、個別存在の普遍性は「どこ、いつ」として限定される普遍性である。個別の普遍性は範囲を限定されている。[s011]
部分間の関係形式の不変性が成り立つためには、全体が一様でなければならない。全体が一様であるからこそ、普遍的な部分は全体に対してどのような位置にあっても、時刻にあっても不変でありえる。全体の普遍性は一様性である。すべての、どのような普遍的部分に対しても普遍であることが全体性である。[s012]
任意の個別存在の規定性が全体のどこにおいても不変に成り立つ場合、その規定性は普遍的である。性質、規定の普遍性である。他の部分との普遍的関係がその個別存在の普遍的性質として規定される。普遍性は任意の関係を、他の関係に変換しても関係が保存されることでもある。対称性にょって普遍性は保証される。場の普遍性であり、場の質として規定される。物理学での場を例として理解すればよい。[s013]
任意の範囲のすべての部分に共通な性質も、その質はトートロジーとして普遍的である。部分の普遍性は全体によって保証され、部分の性質として実現する。[s014]
個別存在の分析・総合からは普遍性はでてこない。その分析・総合は、前提として個別に限定されているから。全体の普遍的存在が特殊化し、個別存在が現れるのではない。普遍性の特殊化として、個別存在が現れるのである。普遍的存在と個別存在は別々の存在としてあるのではない。個別存在は普遍的存在の現れである。しかし、個別存在はそのものとして普遍的存在になるのではない。他のすべての同じ個別存在との共通の性質を担うものとして普遍的な存在である。[s015]


第1節 運動 II

全体の絶対的運動は強調しすぎることはない。ただし、個別存在を形式的に全体に還元して理解するのではない。個々の存在過程の結果を形式的に包含して一括するのでもない。全体の絶対的運動が、個々の運動として現れる過程としての普遍的運動のあり方が問題である。この運動の、存在の理解が、弁証法の理解にもなる。木も森も見よ。森も存在する。木々には様々な種が、個別が存在する。[s016]

個別存在があって、その存在が運動するのではない。存在と運動は別々ではなく、一つの過程の現れ方の違いである。運動があってその現象形態として個別存在が実現する。個別存在は他の個別存在との相互作用を担うものとして区別され存在する。その相互作用が運動である。個別存在が運動するのではなく、個別の存在が運動によって媒介されているのである。[s017]
科学研究過程は個別存在の実在形態の分析から普遍的存在形式を探求する過程であるが、存在の現れる過程は認識とは逆の過程である。科学研究方法での分析と総合の、「総合」とも異なる。総合として把握された個別対象の現象過程を運動として問題にする。[s018]

全体性の一面的強調は、全体主義、有機体説につけいれられる。個別性の強調は無政府主義につけいれられる。どちらも観念的理解に基づいて、現実を形式化しようとする試みである。どちらでもあり、どちらでもない折衷主義でもなく、対立と統一の過程を論理として明らかにしなくてはならない。[s019]
存在の仕方そのものが部分は相対的に、全体は絶対的に運動している。運動がすべての部分と全体の存在を媒介していることが重要である。[s020]

【有からの運動】

すべての存在の普遍的性質である有は運動ではない。最も普遍的な一般的性質であるから、ただ有るだけである。[s021]
しかし、有ることは他と関係することであり、他との関係は相互に作用することである。単に有ることは、存在として即、他との相互作用としての運動を実現する。有は最も普遍的な一般的性質にとどまらず、運動する、相互作用する可能性である。有は単に有ることにとどまらず、運動する存在として実現する。有は、すなわちすべての存在は運動するものとしての普遍性の実現としてある。相互作用という他との、全体での運動をする普遍的存在が、現実存在である。[s022]
「有」という最も抽象的存在の性質を表す概念は、相互作用としての運動をする「存在」概念に具体化する。有は現実存在へと展開する。有が現実存在としてあることが運動である。[s023]

【運動の全体と部分】

全体に対しての、部分が他の部分と区別される関係にあっては、部分は抽象的、形式的存在であり、具体的な存在形態をなさない。全体に対する部分であって、部分は全体の一部分でしかない。ここには運動はまだない。[s024]
運動のない抽象的関係にあっては、全体はまったくの対称な存在である。まったくの対称な絶対的存在は思弁の対象ですらない。現実を超え、思弁を超え、思弁以前の、思弁の立ち入ることのできない世界であった。対称性を決定する部分が存在しない絶対的対称性、超対称性の世界であった。[s025]

全体がエントロピーを増大させても、相対的にエントロピーを減少させる部分が運動の方向性として現れる。逆に部分の方向性に関わらず、エントロピーの増大として全体の方向性が絶対的なものとして理解できる。エントロピーの増大によって時間の非可逆性が明らかになり、時間の方向性が規定される。エントロピーの増大に対して部分的にエントロピーを保存、減少するものとして、部分は静止として存在を現す。 [s026]
宇宙史として時間的無限、宇宙構造として空間的無限は現実の規定として確かめるしかない。概念としての無限は、数学によって定義される。[s027]

そこに絶対性を否定するような無限が入り込んでいるかという問題は、思弁ではなく、現実に確かめるべき課題である。逆に「無限」についての理解を現実の存在形式からえなくてはならない。「無限」は延長、繰り返しの観念的、形式的操作の結果としての思弁的理解から離れ、現実の存在形式から概念化しなくてはならない。[s028]

【運動の実現】

普遍性は絶対性を否定する。普遍性は時間的な変化、空間的な局所性を否定することである。変化、局所化に対して不変で一様な性質が普遍性である。また、そもそも絶対性は変化、局所性そのものを前提としない。絶対性自らが絶対性を否定し、対称性を破っているのが現実であり、現実を否定するのは観念的絶対性である。[s029]
運動自体が観念的絶対的全体の否定である。観念的絶対性は不変性であり生成も消滅もふくまない。全体は実在として運動するものとして存在する。全体の存在自体が全体の観念的絶対性を否定する。存在は他と相互作用することとして存在し、相互作用を介して認識される。人間に認識される以前に相互作用として存在し、相互作用として人間を実現している。[s030]
観念的絶対性にあっては、差異も同一も否定されるまでもなく存在しない。絶対性を破ることによって、破る現実の、実在の運動によって差異と同一は現れる。差異と同一が現れることが運動である。差異と同一の最も単純な現れが方向性である。差異は差異だけでは混沌であり、同一は同一だけでは絶対的な静止である。差異は保存されることで、他に対する方向性を現し、それは自己同一性の実現である。他との差異は同一性を自己として実現する。[s031]
運動自体が変化であろうが、不変であろうが、いずれであっても他と区別される性質を現す。何らかの主観、第三者、あるいは意志によって区別されるのではなく、自らを他と区別するものとして運動の形式が実現する。運動は他と区別し、区別されることとして、全体の対称性を破る。[s032]

【運動の方向性】

運動は全体の絶対性を否定する相対性である。相対性は他との関係である。他との関係は全体に対する関係であるとともに、他に対する関係である。この関係に方向性が現れる。他との関係にあって他と区別される性質として方向性が現れる。運動は変化と不変の統一過程であり、変化と不変の形式として方向性を現す。変化だけでは混沌であり、不変だけでは静止である。[s033]
現実の世界はまったくの対称ではなく、ゆらぎがあるという。自分があり、他があることで現実世界の非対称性は仮定でも、推論でもなく、確かである。どのように対称性が否定されているかが問題である。対称性を否定するゆらぎは、運動そのもののもつ方向性である。[s034]
全体の運動の対称性を破るものは、全体の運動そのものである。運動そのものが継続し、保存され、方向性が現れる。方向は変位しても方向性は保存される。停止せず、運動しつづける方向性が非可逆的に現れる。[s035]
逆に、部分としては他との相対性とし、非対称性として方向性が現れる。他と区別される差異として部分の方向性がある。他と区別される方向性の保存として部分がある。[s036]
全体の対称性は全体の運動の方向性によって、同時に方向性によって規定された部分の運動によって破られ、否定される。方向性は変化にあって保存される不変である。運動が継続すること、変化する中にあって一定の運動形式が保存されることとして、相対的静止が現れる。[s037]
全体の対称性を破るのは運動の方向性であり、どのような方向性かは次の段階である。方向性の具体化は全体の対称性の破れ、運動による部分の相互区別からは現れない。運動は他への働きかけとしてあり、また他からの働きかけに対し自らを保存するものとしてあり、その現象過程としてある。働きかけは、働きかけるものと働きかけられるものとの間に双方向の方向性を現す。[s038]

【方向性の保存】

運動は継続する。生成した個別的運動は消滅することなく、継続する。全体が消滅するまで、存在が消滅するまで、運動は継続する。形式は転変しても運動そのものは保存される。運動の消滅は相互作用の消滅であり、区別の消滅である。運動の消滅は、存在の消滅であり、全体の絶対的否定であり、無に至る。運動自体の肯定は運動の継続である。[s039]
運動の継続として、運動は保存である。運動がどのような変化をしようが、運動自体は保存される。運動の継続として、方向性も保存される。方向性の保存が運動の継続である。運動だけがあって方向性が消滅することはないし、運動が消滅するところに方向性もない。運動は有の純粋な内容であり、方向性は有の純粋な形式である。[s040]
運動の方向性は質的変化、または量的変化の保存、不変性である。変化率の保存、変化量の不変性である。変化率は変化量の変化量であり、次数を限定するのは運動そのものである。速度は距離空間と時間の変化率である。加速度は速度と時間の変化率である。運動制御は加速度と時間の変化率である。[s041]

個別的運動は絶対不変の方向性ではない。運動は方向性を保存するとともに、方向を変える。個別存在の方向性は部分的な対象性の保存である。全体ではなく、部分の対象性の保存として個別存在の方向性がある。方向性は保存されるから方向性であるが、方向は否定されても方向性は保存される。個別存在の方向は否定され、変えられてもなお、運動は方向性をもって継続する。[s042]
慣性系での直線運動は運動の方向性の最も単純な現れである。外力によってその方向が否定されても、向きを変えて運動は継続し、方向は変わっても方向性を保存する。唯一外力によって方向性が保存されない場合は、運動そのもの、存在そのものの消滅である。[s043]

【運動の措定】

運動は存在の実現過程としてある。[s044]
運動は規定性であり、また被規定性である。運動は規定する過程であり規定される過程であり、無規定性としての自由、偶然だけということはありえない。すべての運動は物理的規定にあり、生物的規定も物理的規定を基礎としており、精神的、社会的、文化的規定であってもより基礎的規定によって規定されている。すべての存在はより基礎的規定なくしてありえない。[s045]
規定し、規定される運動は限定されるものでありながら、限定を超えようとする。他の規定によって自らを規定する過程は、自らの規定によって自らを他にする。規定性の普遍性が規定の構造化を可能にする。自己規定は他を規定する過程を媒介として、自らの規定性を超える可能性をもつ。運動は限定を超えようとするものとして、発展の可能性、方向性をもっている。[s046]

変化は運動の他への反映である。運動の作用過程で、他に反映して保存されたものが対象の変化である。存在そのものの運動は変化し、運動の作用結果は他の存在に保存される。存在そのものの運動はそのものには保存されない。変化は他との関係に現れる形式である。運動は他によって反映される。[s047]

抽象的な全体と部分の形式的対立を超えるには、全体と部分の現われている場の統一性、普遍性を見なくてはならない。統一性、普遍性を実現するのがであって、場の局所化として部分が実在となる。[s048]
対象を認識する過程では、個別存在からその場を認識として構成する。しかし現象の過程は逆で、場が相互に規定しあい、励起することによって部分を個別存在として実現する。[s049]
運動は全体の普遍性と、部分の個別性の現れである。[s050]
物理学には場の概念を定性的にもう少しわかりやすく説明して欲しい。 [s051]

【運動の限界】

個々の運動の方向性は無限ではない。方向性自体に限界はないが、方向性を実現する運動自体は無限ではない。運動は方向性によって規定されるだけではなく、運動の実現過程として限界によっても規定される。[s052]
限定されない運動は混沌であり、運動の形式を表さない。規定された運動は実現するのであり、運動は限定されているものである。[s053]
方向性自体ひとつの規定性であって、個別としての運動を限定する。個別としての運動はどの方向に向かうのか。個別としての運動はどこまで到達するか、いつまで継続するか。個別としての運動の方向性は質の規定であり、個別としての運動の到達度、継続性は量の規定である。個別としての運動は量的規定と質的規定の統一としてある。だから運動の方向性はベクトルとして表現される。[s054]

【運動の発展】

措定された運動はその規定性の内に発展の可能性をもっている。[s055]
運動の限界は運動の実現過程としてあり、絶対的規定ではない。運動自体絶対的に規定されては運動であることはできない。限界は運動自体を規定し、同時に運動自体によって限界が規定される。運動は限界を規定することで形式を実現する。運動は形式の、限界の規定を超えることで、運動としての規定自体を超え、超えた発展した運動を実現する。[s056]
運動は限定されているものであるが、限定を超えようとするものである。超えても限界そのものが消滅するのではない超えられる限定はより基礎的限定として継続し、新しい限定によって基礎的限定を規定して新しい質を実現する。そして、限定を超える運動は存在の発展を実現する。[s057]
相互規定は個別の運動を規定する。規定された個別は相互作用を実現し、相互作用自体が保存され、方向性を実現する。相互作用の方向性が相互作用自らを規定することによって、より発展的運動形態を実現する。運動は自らを規定し、自らの規定を超えて発展する。相互作用自らの規定によって、より発展的運動形態が媒介される。[s058]
物事がどのように発展するかは、現実の過程を見なくてはならない。論理展開だけによってすべてが導出されるはずはない。そこには歴史的過程があり、条件や、偶然によって多様な発展形態がありえる。要は逆に現実の過程を、発展のない固定した関係と見ることは、現実に誤るということである。[s059]

【まとめ】

全体は片寄った状態から平衡状態へ向かって運動する。その過程で部分は非対称化し、階層化する。全体の平衡化、散逸化の過程と部分の非対称化、階層化の過程で部分が対象化され、構造が実現し、秩序が実現する。全体と部分の運動は矛盾しており、相補的である。[s059]


第2節 矛盾

矛盾は関係である。[s060]
存在規定は限定であり、他でないことであり、否定であり、矛盾をはらむ。存在規定は全体の否定であり、一般の否定である。同時に部分の肯定である。全体ではない、他ではない部分を肯定する。[s061]
矛盾は否定的関係であり、存在を否定し、関係を否定する。しかしすべてが否定されては存在も関係もない。存在し関係する肯定があるからこそ、否定が実現する。肯定は前提でも、仮定でもない。否定は結論でも関係操作でもない。矛盾する肯定と否定は存在として対象を規定し、運動を実現する。[s062]

矛盾そのものが存在としてあるのではない。矛盾は存在を媒介するものであり、逆に存在に媒介される関係である。全体と部分の矛盾、普遍と個別の矛盾、運動と静止の矛盾、自他の矛盾、そしてなにより有と無の矛盾として存在、媒介する。また、個別存在間の相互作用の自己規定として矛盾は媒介される。[s063]

矛盾は2つの契機からなり、契機は相互に規定=否定しつつ、新しい契機を実現する運動である。契機は個別の運動を、存在を規定するものである。矛盾は構造としてあり、過程としてある。矛盾は相反する、相否定する規定関係が、同時に相互依存、あるいは相互前提の関係をなす。矛盾は一方的な否定、規定ではない。[s064]
「矛盾」概念に対立する概念は「整合」「均衡」である。構造として矛盾に対して整合の関係がある。過程として矛盾に対して均衡の運動がある。[s065]

矛盾は単純な区別、差異、対照、対称、相互依存、相互前提とは異なる。矛盾は形式的関係でも、解釈の違いでもない。[s066]
矛盾は衝突、対立、闘争といった現象を現しはするが、それら現象は矛盾そのものではない。それらは現象過程の形態でしかない。[s067]

矛盾は対立関係の現れである。単なる対立とは異なり、互いの存在にかかわる関係である。一方だけでは存在しない「もの」どうしの対立関係である。矛盾が無くなるとき、一方だけが残ることもない。矛盾は対立を統一するのではない。対立の統一は固定であり、観念的対立関係でしかない。[s068]
矛盾する関係は互いを否定し合う関係である。しかし、相互に前提し合う関係でもある。矛盾は二律背反とは異なる。矛盾による否定は「全てか、無か」にはならない。[s069]

矛盾があるから弁証法なのではない。矛盾は運動を実現する関係であり、物事の存在形態を規定し、発展過程を実現する関係である。弁証法は全体と部分、普遍と個別、原因と結果というように存在構造、運動過程の対極をなす契機間の相互規定を明らかにする論理である。[s070]
関係は存在そのものの関係としての存在関係、対象とその反映の関係としての認識関係、存在関係・認識関係の普遍的関係としての論理関係がある。これら関係に対応して矛盾も存在矛盾、認識矛盾、論理矛盾がある。[s071]

存在、認識、論理は相互規定的な循環構造にあり、そこにそれぞれに現れる矛盾自体が相互規定的であり、矛盾の理解を難しくしている。「矛盾がどう現れるか」と同時に「矛盾とは何か」を相互規定的に明らかにしなくてはならない。[s072]
弁証法は矛盾を問題とするが、すべてが矛盾であるとか、矛盾が絶対であるとかを主張するものではない。すべてが矛盾であるなら、矛盾など問題にもしようがない。無矛盾の関係と矛盾の関係とがあるから矛盾が問題になり、無矛盾が課題になる。 [s073]

【形式論理と矛盾】

形式論理では矛盾は排除されるべき対象である。対象を分析し、公理系として把握、表現するには矛盾は排除されるべきである。狭義の科学の方法は公理系の構築であり、そこでは矛盾は排除の対象である。そこに矛盾は存在するが、矛盾が存在する限り公理系としては未完成である。矛盾が存在するからこそ、公理系は注意深く、厳密な論理によって構築されなくてはならない。公理系の系内で概念は相互に定義され、相互規定的に循環的構造ををもつ。そこに矛盾があってはならない。[s074]
しかし、循環的構造をもつ公理系は公理内ではその公理の正当性を証明することはできない。[s075]
論理学における不完全性定理は公理系の外に矛盾が存在することを、公理系として無矛盾に閉じてあることの矛盾を示している。[s076]
公理系の正当性は、公理系として反映する対象との関係で検証されなくてはならない。公理間の相互規定関係ではなく、公理の規定そのものが問題になる。公理系の検証の過程には対象との関係に矛盾が存在しえる。公理系の適用範囲の制限によっても矛盾は現れる。対象自体が歴史的に発展してしまうことによっても公理系との矛盾は現れる。[s077]
公理系を構築する過程にも矛盾は存在する。公理系の構築に関わる矛盾は認識矛盾である。認識も未熟さ故に矛盾が存在し、認識を実証する過程にも矛盾は存在する。[s078]

認識以前に、認識の対象である存在自体に矛盾は存在する。逆に、矛盾は存在として実現するものであると、「矛盾」概念を理解する。「存在矛盾は存在するか」ではなく、存在に現れる関係のうちに「矛盾」を理解するのである。矛盾は論理的なものであり、論理によって明らかになる。論理自体は対象の反映であり、観念的な存在である。論理によって明らかになる矛盾も観念的存在であるが、論理が客観的対象を反映するのと同じく、矛盾も客観的対象を反映し、論理的対象存在のうちに矛盾を見いだす。[s079]


第1項 存在矛盾

【存在の源】

存在は相互作用することであり、その関係として存在し、その関係によって認識される。[s080]

存在は普遍的であり、個別的である。存在は個別の存在として多様な現れでありながら、世界全体の現れである部分である。個別存在は他の部分と区別しながら、ひとつの全体を構成する部分である。普遍的でありながら個別的であることは矛盾である。全体でありながら部分であることは矛盾である。これが存在の源であり、存在矛盾である。見方とか、解釈による矛盾ではなく、世界の有り様である。[s081]

存在そのものなどは存在しない。存在するのは何らかのものとして存在する。存在は個別的にあり、しかし存在として普遍的である。存在は特殊なものとして個別的であり、一般的なものとして普遍的である。個別性と普遍性との矛盾する規定性によって存在する。[s082]
存在は全体と部分としてある。存在は部分と部分の相互関係である。全体は全体でありながら一様ではなく、部分を区別し、部分との対極に全体がある。部分は全体の一部分として同じ部分でありながら、別のものとして互いに部分である。存在は部分として全体を構成し、部分は全体ではない。全体と部分は存在の形式的対立矛盾としてある。[s083]
矛盾は普遍と個別、全体と部分という形式的関係として、観念としてあるのではない。存在矛盾は実在の矛盾である。実在を構成する矛盾である。[s084]
多体間の関係はひとつの方程式で表すことができす、二体間の複数の方程式で表し、連立方程式として多体間の関係を現す。それぞれを規定する係数は、定数ではなく、それそれの規定によって変化する過程にある。連立方程式の解を再び連立方程式に代入することで多体間の関係の変化を追う。一つの方程式を解くことでは、多体間の関係は解けない。結果としての解を前提としての方程式群の係数に戻し、代入を継続する過程をとおして多体間の変化を解く。対象の変化を一つの結果としてえるのではなく、結果自体が一連の繰返し過程を経なくてはならない。解は単に解としては解でなく、問いに戻され、解かれる繰返し過程をとおして解となる。[s085]
物理学の対象とする場の理論は存在矛盾の直接的現れである。[s086]
生命は個体によって担われるが、個体の死や種の絶滅で失われるものではない。[s087]
観念は矛盾に満ち満ちている。この様に矛盾は普遍的である。[s088]

相互規定の循環的関係は時間(t)と速度(v)と距離(l)の関係に端的に現れる。[s089]
時間は距離を速度で割ってえられる。( t = l / v )
 速度は距離を時間で割ってえられる。( v = l / t )
 距離は時間と速度を掛けてえられる。( l = t × v )[s090]
それぞれの変数に他の式を代入すると、それぞれの変数の恒等式になってしまう。[s091]
かっては距離は不変なものと考えられていた。単に単位を任意に決めさえすれば、すべての関係は一意に決定されるとされていた。しかしその単位自体の決め方を、単位の普遍性を追求することによってこの常識は否定された。確かであるはずの距離は、今日では光の速度と時間で定義されている。時間と速度と距離は相互に規定しており、その関係は普遍的である。相互の規定関係をどのような単位系で定義するかは任意であるが、普遍性は実在の空間の性質によって実現している。[s092]

相互規定関係にある基準が一律に変化しても、その変化を捉えることはできない。[s093]

【運動の源】

存在は運動の現れであり、運動は矛盾の現れである。運動しないものは存在しない。運動は変化であり、変わり続けるものの有り様である。一時の有り様は次の有り様に変わる。一時の有り様は次の有り様によって否定され、次の有り様が肯定され、この否定と肯定の過程として運動があり、運動は矛盾としてある。[s094]
運動は変化と不変として現れる。運動は限定され限定を超える。運動は存在の内容をなす対立矛盾としてある。[s095]

個別の他の個別との存在関係に矛盾があるのではない。個別そのものの存在関係に矛盾がある。矛盾は存在の有り様ではなく、存在そのものにある。[s096]
力学的矛盾は力学自体の限界である。力学は運動過程を対象とするものではない。力学は歴史性を問題にしない。力学的原因と結果は過程によって影響されない。力学は運動の結果を求める、運動の結果を対象とする。結果の原因として「力」を想定する。「力」は運動の理解を容易にする概念である。「力」は運動の結果の理解を容易にするが、運動そのものを覆い隠してしまう。[s097]
物理学では基本的な力からして、それぞれを担う物理的存在によって媒介されている。[s098]
ある物が特定される場にあって、同時にその場にない。そのような形式的否定関係が矛盾なのではない。「ある・ない」の意味自体を問題にしなくてはならない。運動の過程そのものが問題であり、表現形式が問題なのではない。特定の場所、特定の時刻にあるか、ないかは日常経験的な意味での存在確認である。日常的な意味での存在は物理的にも、生理的にも、精神的にも存在しない。[s099]
離れつつ落下するとは慣性運動と落下運動との対立矛盾ではない。慣性抗力と、引力の対象物体への作用の矛盾である。合力の存在矛盾は運動としてあり、異なる作用が一つの対象に作用し続けている過程にある。[s101]
力の平行四辺形は力の対立と統一に見えるが、それは形式的否定関係であり、平行四辺形を描いて固定される。形式的否定関係は矛盾ではない。上下、左右、前後、南北などの対立も矛盾ではない。[s102]

【媒介の否定性】

全体は個別を媒介する。個別は媒介されて存在する。存在そのものなどは存在しない。存在は何らかの媒介されたものとして存在する。[s103]
「私」は人間であり、動物であり、生物であり、生体であり、分子であり、原子であり、素粒子であり、クオークであり、物理場に媒介されている。下位の階層の存在によって媒介されかつ、同じ階層でも他によって媒介されて存在する。「私」は「私」ではない存在によって媒介されている。「私」を構成する物質、生体、精神は「私」ではない存在を媒介にして「私」を構成する。「私」自信が「私」ではないものを対象化し、「私」との相互関係の過程で「私」に同化し、「私」を異化している。[s104]
自他の一般的存在を媒介して、自らを特殊化して運動し、存在している。[s105]
媒介は媒介するものを規定し、否定する。媒介されるものは媒介するものを規定し、否定することで存在する。[s106]

存在矛盾は媒介されたものの有り様の矛盾である。存在の構造上の矛盾である。したがって、個々の表象に矛盾は現れず、表象を反映する概念には矛盾があってはならない。ヒトはヒトであってヒトではないなどとは言えない。しかし、ヒトは生物としてはヒトの規定性をもたず、原子としてもヒトの規定性はもたない。ヒトは原子でありながら、単なる原子ではなく、生物でありながら単なる生物ではない。[s107]

【方向性の矛盾】

何らかの存在が運動することで方向性が現れるのではない。存在すること、運動することが方向性の現れである。[s108]
方向性は運動のあるところすべてに現れ、したがってすべての存在の規定性である。運動し、変化するのもでありながら、同一のものである。同一とは変化しながら不変であることである。[s109]
方向性は運動、すなわち変化がなくては現れようがない。しかし、まったくの変化である混沌には方向性はない。変化しない、変化を否定する規定性として方向性が現れる。方向性は変化を前提にし、変化を否定する規定性である。[s110]

方向性は部分の運動を規定するとともに、全体の運動の方向としてもある。全体は非可逆的過程にあり、一貫した、連続した方向性をもつ。部分の方向性と全体の方向性は次元を異にする方向性である。しかし現実の一つの方向性としてある。[s111]
静止した図形にも方向性がある。しかしその方向性は単独では存在しない。図形は背景との相対関係にあり、しかもその方向性は鑑賞者の認識過程にはじめて現れる主観的な規定性である。鑑賞者の解釈なくして、図形の方向性は現れない。図形の方向性は鑑賞者の認識過程に、認識の運動に規定性として現れる。図形の方向性は図形そのものの規定性ではない。[s112]


第2項 認識矛盾

誤った認識が矛盾なのではない。誤りは単に否定されればよいのであって、弁証法とは関わりがない。[s113]
認識の基礎である反映自体が、対象を捉えようとして対象を捉えられない。対象の反映は、対象を保存するのではなく、対象でないもののうちに保存される。認識の成り立ち自体に矛盾の構造があり、認識の過程自体が矛盾の展開である。[s114]
認識は対象を反映するものであり、対象の存在矛盾を反映して認識にも矛盾は現れる。しかし認識矛盾は認識主体の構造としてあり、認識の過程に現れる対象と反映との間の矛盾である。また、既得の認識と新たな認識との矛盾である。さらに、対象の反映と反映方法との矛盾である。[s115]
「認識」ということば自体が、認識すること、認識の過程の意味と、認識された対象、認識の成果物の意味をもつ。[s116]

【認識主体の矛盾】

主観の直接的存在形態である意識は、対象がなければ意識としてない。ヒトである主体は意識がなくても存在するが、意識は対象との相互作用になければ現れない。意識は他との相互作用によって実現する。[s117]
意識は主観と対象によって媒介されている。意識は客観的対象も、主体も対象化するが、意識にとっては客観的対象も、主体も他である。意識は主体に媒介されて、客観的対象と間接的に関係する。意識は主観も対象化するが、主観は意識と一体=直接的である。主観と意識は直接的関係にある。意識は媒介された間接的関係によって、自らを直接的に対象化し、自らを主観として認識する。意識する主観にとって「意識」は絶対的である。意識は主観自らにとって恒常的である。[s118]

この意識の恒常性、絶対性に依拠して、対象の普遍性が認識される。対象からの刺激は次々と変化する感覚として与えられる。変化する感覚に対し、恒常的な意識に対象との関係が保存されることが、同じ対象からの感覚として認識される。変化する刺激の中に、対象の普遍性を認識するのは、意識の恒常性への反映によってである。対象の普遍性は、意識の恒常性によって媒介され認識される。[s119]
対象との相互作用の変化は、意識の恒常性へ反映されて、普遍的対象として認識される。個別対象としての普遍性は、一端主体との相互作用に相対化されるが、意識の恒常性に媒介されて、主観のうちに普遍性を回復する。個別対象の普遍性は、主体との相互作用の相対性と矛盾する。しかし、対象と主体との相互作用は現実の過程として確実な存在関係である。対象の普遍性は主体との相対性に媒介され、主観にとって普遍的認識として獲得される。普遍性−相対性−普遍性と媒介される。第一の個別対象の普遍性は主体との相対性によって否定され、主観において普遍性は反映として回復される。[s120]
自分らを理解するには、自分でないもの、客観世界を理解しなくてはならない。他人を知らなくては、自分を知ることはできない。そこには存在矛盾が認識矛盾として反映されている。[s121]

【認識過程の矛盾】

認識は反映過程としての運動である。対象がそのまま反映されるなら認識矛盾は存在しないし、認識そのものが不要である。対象と主観の対立関係に一致を目指す運動として認識過程があり、認識過程の矛盾する関係がある。[s122]
対象と主体との関係の対象化は、主体の対象化であり、対象の主体化である。相反する対象化の規定関係が、対象と主体との関係を介して、主体の内に組み込まれる。主体の内に組み込まれた反映過程が主観である。主観は主観をも対象化できる。[s123]
主体が生理的化学反応の連鎖の中に組み込まれているうちは、主体と対象との関係は同化と異化の物質代謝の関係であり、同化と異化の対立と均衡の矛盾関係にある。この矛盾関係は存在矛盾である。ここでの対象と主体との直接的関係を対象とするところに認識の間接的関係が成り立つ。認識は進化の過程で、物質代謝の主体的制御機能の獲得として実現された。[s124]
認識は対象全体の変化の中に、不変の部分を対象化する。全体の運動に対して不変の部分を対象化する。全体の普遍性の中に、部分を特殊として対象化する。同時に認識は諸個別対象のうちに普遍性を見いだそうとするものであり、異なる個別間の関係に普遍を見いだそうとする運動である。変化する中の不変な対象に普遍性を見いだす。異なる個別存在に共通な規定性として普遍性を見いだす。認識は個別のうちに普遍を見いだそうとする矛盾した運動である。[s125]

客観的には対象も主体も相互作用の過程にあり、相互に、独自に運動している。この過程を主観に反映し、主体の主観としての普遍性に依拠し、対象の普遍性を認識する。主観に反映されて主体および対象は、主体と対象との恒常する関係で認識される。対象と主体との相互作用自体が矛盾の現れである。主体は対象を同化し主体化し、主体を異化して更新しなくては生存できない。対象は対象自体を対象の内に反映するものとして主観をつくり出した。この矛盾した過程で認識が実現している。[s126]
現象をとおして認識する主体によって、対象は認識される。対象は主観に直接するものではない。対象と主体との直接的相互作用に媒介されて、対象は主観に反映される。直接的でなくとも、対象を確実に認識できる根拠は、主体と対象との直接的相互作用を含み、直接的相互作用を媒介する相互作用の連関のうち、すなわち主体の現実過程にある。[s127]

【認識方法の矛盾】

認識は対象を反映すると同時に、対象を他と区別する。他と区別する規定性、基準をも獲得する。認識は対象の評価と評価基準の獲得である。評価と評価基準は認識過程で交互に対象化され、対立する。評価と評価基準の対立過程で、認識は発展する。認識は対象の認識と、認識方法の獲得という二重の過程としてある。[s128]
自然科学にあっても対象の認識は、認識方法の確立でもある。未知の分野の認識は、未知の分野にふさわしい方法が必要であり、未知の対象を認識することによって、新しい方法の正当性が評価される。従前の確かな方法によって認識できる対象は、従前の形式論理によって構成することができる。新しい方法は、従前の方法、従前の形式論理からは演繹できないからこそ、新しいのである。未知の対象の認識は、従前の方法を否定し、新しい方法を確立する弁証法の過程である。新しい方法の確立は従前の方法の質的拡張として実現する。確立してしまった新しい方法は、従前の方法の形式論理的拡張として位置づけられる。従前の方法は近似として扱われる。方法は完成されれば、形式論理によって構成することができる。しかし、依然として未知の対象は、未だ獲得していない新しい方法は、既知の方法、形式論理の量的拡張としては実現できないのである。[s129]

【認識の発展】

認識は到達点における暫定基準によって対象を分類・区分する。[s130]
同時に対象の分類・区分の過程で分類・区分の基準を検証し、暫定基準を普遍的基準とする。[s131]
普遍的基準による分類・区分の過程で、適用できない関係が矛盾としてとらえられる。基準の適用の仕方、基準そのものの不適切さとして、認識矛盾があらわれる。[s132]
認識矛盾は分類・区分の基準をより普遍化することで対象の理解を普遍化する。新しい対象の分類・区分を追加するだけではなく、既得の対象の分類・区分も新しいより普遍的な基準によって点検されなおされる。認識の発展は新しい対象知識の獲得ではなく、すべての対象を理解する新しい認識基準の獲得としてある。[s133]
認識は対象に向かうだけでなく、自らにも向かう。認識自体の発展が自己否定と自己実現の矛盾の展開としてある。[s134]

【認識結果の矛盾】

対象が実在であれば運動は必然であり、不変ではなくなる。対象と反映された対象とは矛盾するようになる。認識は対象を追い、対応させ、反映し続けなくてはならない。認識過程の継続によって、不変も変化も明らかになる。すべての存在は運動し、変化している。にもかかわらず、認識は対象を概念として固定し、保存する。存在に対し概念は次第に矛盾を生じる。認識は完成されるものではなく、主体が生きていく過程に組み込まれている。認識は主体の実践の一部としてある。[s135]
さらに、認識結果は認識の到達点でしかない。対象の変化を追求することが認識の量的展開であるのに対して、認識には質的展開もある。対象は多面的であり、認識は始めからその多面性をすべて認識することはできない。対象の多様な面の認識結果は対象の多様な質を反映する。対象が実在であれば対象の多様な質は存在矛盾を含む。対象の存在矛盾は認識結果としての多様な面間の矛盾として反映される。多様な面間の矛盾をもつ一つの対象として、対象の認識は質的に深まる。多様な面の単なる集合としてでなく、構造として、過程として対象を理解する。[s136]

【矛盾の追及】

個別科学は公理系の集合として完成される。公理系のうちには矛盾はない。個々の公理系は形式論理で構成できなくてはならない。形式論理のみで個別科学が構成できるのは、公理系の対象が不変な関係であることに限定されるからである。変化する運動を扱う場合でも、時間に対して対称であり、再現可能であり、条件が与えられれば同じ結果がえられる、方程式として、変化を一意の値の連続として表すことのできる不変な関係としてである。そこに矛盾は現れない、現れたなら公理系が完成されていないのである。[s137]
しかし、対象の媒介関係、発展的運動は公理系として定義することはできない。媒介関係、発展運動は矛盾そのものであり、公理系として定義できない。[s138]

公理系は形式論理による構成として限定されている。そこに矛盾は現れない。といって、限定は見方の問題ではない。見方を限定するから矛盾が存在せず、見方を変えれば矛盾が現れる、というように、矛盾は主観的見方によって存在したりしなかったりするのではない。矛盾は公理系の外に、対象の存在として、対象の認識として、対象と認識を構成する論理としてある。[s139]

【経験の否定】

日常経験にもとづく存在の理解は、観念に、形式に縛られやすい。日常的経験の認識は、ヒトが生物進化の環境に適応する過程で獲得してきた能力である。物事の相互作用の多様な階層、広がりの中で、ヒトに限定された相互作用の過程で獲得した認識能力である。五感それぞれがヒトの生存形態に規定され、限定されている。五感だけではなく、五感を評価する理解も同様に規定され、限定されている。[s140]
見ることであっても色、形、大きさ、視界も生理的に規定され、限定されている。色は可視光線の範囲である。微小なものの分別能力も限界がある。微弱な光に対して巧妙な感知機能を生理的に実現してはいるが、それもデフォルメである。固さや、温かさの感覚にも限界がある。[s141]
感覚だけが規定され、限定されているのではない。固体表面の日常経験的理解が、分子間結合の、原子構造の理解とはまったく異なっている。相対性理論の空間時間理解、量子力学の不確定性原理なども日常経験的存在理解とは違っている。数学的無限は日常的数の感覚からすれば非常識である。ヒトの日常経験からの対象理解は、より普遍的相互作用の理解によって否定される。日常経験からの対象理解の否定は、より普遍的相互作用の理解によって限定されなくてはならない。全面否定ではなく、限定されなくてはならない。より普遍的相互作用の理解から、日常経験の理解を理解しなおさなくてはならない。[s142]
認識は経験に基づかなくてはならないが、経験にとらわれてはならない。個別の経験を超えて、普遍的に認識しなくてはならない。[s143]
「あるがままに物を見よ」というが、「見る」ということ自体が主体的に規定され、主観的なきわめて実践的過程である。[s144]
見ることには物理的制限がある。対象からの光を見るのであって、対象との関係を媒介する光によって対象を認識するのである。数分前の太陽は見えるが、今の太陽を今見ることはできない。[s145]
さらに、生理的過程で対象を抽出するさい情報加工している。視覚における輪郭の抽出もそうであるし、音に対するカクテルパーティー効果もある。錯視の原因も生理的情報処理にある。これはヒトの進化の過程で生きていく上で、生活する中で必要な情報を獲得するため、感覚処理を意味有る対象に特化してきたことによる。[s146]
ヒトの認識能力はヒトの生活上の対象との関係によって規定されて進化してきた。生活上の対象となるものを、生活上の必要に応じて対象化してきているのである。[s147]
「あるがままにに見る」ことの意味自体が問われなくてはならない。当たり前の日常的経験は、ヒトの生活という極特殊な、限られた環境での認識でしかない。功利主義的に理解するなり、経験主義的に理解するなら、それら理解は単なる自己了解でしかない。個別科学に学び、普遍的な世界に位置づけて対象を理解しなくてはならない。[s148]


第3項 論理矛盾

論理には個別論理、論理系、一般論理、超論理がある。[s149]
個別論理は個々の概念の定義、規定の形式である。個別論理には内容も、意味も含まれない。概念に意味を与える形式であり、形式としての論理に意味は含まない。概念と概念との連関形式である。[s150]
論理系は一つの対象についての個別論理の集合であり、その構造である。形式論理の対象である。個別論理の集合、構造として対象の規定関係を反映する。[s151]
一般論理は論理系間の連関である。論理系は個別対象の一つの規定性しか反映しない。個別対象は多様な規定性の統一としてあり、論理系間の構造として対象は反映されなくてはならない。同時に個別対象は他との、全体との関係構造、位置づけも反映しなくてはならない。逆に、部分、個別をそれぞれに規定することによって、全体を規定する。論理によって全体を表現し、次元を定義する。「すべて」として外延的に、形式的に規定されていた全体を、その中身によって内包的に、内容によって規定する。対象の内容、意味が問題になる。一般論理によって実在の関係を反映し、概念に意味をあたえる。[s152]
超論理は論理の論理である。論理矛盾を超えて発展する論理である。一般論理によって定義された対象の全体を超える発展過程を反映する。超論理は形式論理学のメタ論理とは異なる。[s153]

【個別論理の矛盾】

個々の定義、規定の形式に矛盾があってはならない。個別論理では矛盾は追放の対象である。[s154]
「AはBであり、同時にAはBではない」は矛盾しており、論理として成り立たない。この矛盾を認めることは、論理の否定である。論理としてこの矛盾を認めるには個別論理を出て、個別論理の外から条件を付加しなくてはならない。「Cの条件ではAはBであり、Dの条件ではAはBでない」であれば論理として成り立つ。しかしこれは、個別論理ではなく、個別論理の条件による組み合わせである。[s155]

【論理系の矛盾】

対象を構成する特定の連関を、個別論理の関連として反映した概念の関係が論理系である。[s156]
論理間の関係は量的大小関係である。対象概念の範囲の包含関係としての外延の大小比較も、量的関係である。それぞれの量的限界、あるいは外延領域を円で描くベン図で示されるように、円の大小の組み合わせ、重なる部分として表現できる。論理系は量的関係を反映する。[s157]
論理であるから「肯定」と「否定」はまず前提としてある。これに量的関係は「より大きい」だけが基準である。「より大きい」は公理系では条件法「PならばQである。(P⊃Q)」と同等である。最も基本的な、典型的な論理系は自然数である。[s158]

論理系は、
第1に、関係を定義する。
公理系を展開するには諸記号を提示し、その記号から構成される論理式を定義しなくてはならない。[s159]

第2に、定義によって対象が関係づけられ、公理を措定する。
公理が定義され、推論規則が定義され、論理関係が定義される。[s160]

第3に、公理間の関係によって、論理関係が次々と定義され、一つの閉じた相互規定連関をなす。
推論規則に基づいて、公理間の関係から相互に規定された論理系が展開・導出される。[s161]

第1で定義された関係は第3の相互連関を導きだす。しかし、第1の関係そのものは第3の相互連関の関係に基づいて定義されている。第1の関係と、第3の相互連関は相互前提の関係にある。第1の関係と第3の相互連関は同じものでありながら、別のものである。だからこそ論理によって論理系が真であることを証明することはできない。これが論理系の存在矛盾である。これが論理系の弁証法的矛盾である。[s162]

第1の関係の定義は、対象の定義であり、対象の質を抽象する。対象の質は対象間の量的関係として比較される。質間の評価を捨象し、連関比較としてある量間を対象とする。[s163]
第2の大小関係、包含関係の比較は量的比較であり、だからこそ演算可能であり、計算機によって計算できる。[s164]
第3の相互連関は連続し、かつ閉じている。すべての相互連関は第1で定義された関係を保存している。第2での定義がすべての相互連関で保存されていることが、一様性である。第3の相互連関として論理系は一つの次元を表現する。[s165]
現実の存在対象は一つの質で成り立ってはいない。現実の存在対象は多様な質からなる、多次元の存在である。次元間は相互規定関係はあっても、次元内の相互規定関係と連続していない。連続していないからこそ、質が区別され、次元が区別される。[s166]

【一般論理の矛盾】

論理矛盾は排除すべき矛盾である。しかし、概念は実在を反映しする。個別概念は実在の一面を反映するだけである。実在は多面であり、概念として捉える対象化した実在は、対象化する実在の複数の面間においてはそれぞれの個別概念の規定が齟齬しえる。実在の関係にあっては、論理矛盾は存在する。[s167]
論理による対象の定義は、定義によって規定された対象である。実在する、普遍的対象は媒介されており、発展的であるものもある。媒介関係、発展構造は矛盾する否定関係によって成り立つ。媒介関係、発展構造をとる対象は前提や原因に対し、結論や結果は前提や原因を否定する。[s168]

【超論理】

概念には概念がある。概念の概念は超えた概念であり、メタ概念である。同様に論理も論理を対象にする超論理がある。弁証法は超論理までも範囲とする。[s169]
媒介関係、発展構造は超える関係、超える構造であり、超概念、超論理によってしか定義できない。[s170]
一般論理として反映された対象は、論理系ごとの次元によって構成される実在である。論理系として定義された次元を超える運動への発展は超論理、弁証法として捉えることができる。[s171]

【矛盾の止揚】

弁証法的矛盾は否定されるものではなく、構造として、過程として止揚されるものである。矛盾は否定関係であるが、否定関係は構造であり、あるいは過程である。[s172]
否定し合う対立の構造は、構造自体を変換する。構造は変換され、以前の構造は否定されるが、新しい構造として存在し続ける。否定は無に帰することではない。構造をなす関係が、構造内の矛盾を矛盾でなくす、矛盾を否定することで新しい構造へ変換することが矛盾の止揚である。矛盾は否定され、新しい構造のうちで、新しい矛盾関係を実現する。矛盾が全くなくなることは止揚ではなく、構造の否定であり、構造の維持・発展が終わってしまうことである。[s173]
否定され、否定することは結論が出ておしまいにはならない。結論は次の過程の原因になる。原因と結論は一つの過程で相対的に関連づけられるのであって、現実の過程では相互に規定しながら、入れ替わる。入れ替わっても矛盾の展開過程は同じことを繰り返すのではない。可逆的な場合はともかく、現実の過程は歴史的であり、非可逆的な過程である。原因が否定され、結果に取って代わられる過程が、矛盾の展開過程であり、矛盾が止揚される過程である。[s174]

【矛盾の形式】

矛盾は形式的対立としても表されはするが、世界のあり方が対立する関係を持っているから形式的対立としても現れる。[s175]
左右、上下、前後と言った対立は、形式的対立である。形式的対立は矛盾ではない。形式的対立を結果する、世界のあり方の対立関係が矛盾である。[s176]
世界のあり方が対立関係であるから、世界は運動し物事が存在するのである。物事は対立する関係にあるから相互に作用し合い、相互関係をなすのである。物事は対立する関係にあるから、運動するのである。対立しつつ関係し合う矛盾があるから、運動があり、存在がある。矛盾のないところに存在はない。[s177]
矛盾は固定したもの、静止したものではない。矛盾は運動として現れるものであり、常に変化する。静止と見えるものも、相対的に運動が見えないだけである。平衡、均衡の状態も矛盾、対立が前提としてあり、その矛盾、対立を、部分的、一時的に否定しているに過ぎない。すなわち、矛盾自体も運動するのである。対立は相互否定的でありながら、対立として肯定される。[s178]

矛盾は裸ではない。矛盾は単独ではなく、全体の縦横の諸関係の中にある。ひとつの矛盾が普遍的なもので、世界のどこにあるものであっても、他との諸関係はすべて同じではない。矛盾をなす対立関係は外に対して、他に対して、全体に対する関係を持っており、矛盾としての対立関係よりも他との関係の方が多く、複雑である。普遍的矛盾も他との関係についてはけっして普遍的ではない。他との関係は普遍的ではなく、偶然的である。したがって、矛盾は普遍的なものであっても、どれも同じ様に運動し同じ様に現れるものではない。[s179]
矛盾は対立関係として相互作用としての運動であるが、その関係の他と関係しつつ運動するものである。他との関係を通して、全体に対立する部分として現れる。つまり、矛盾は運動の原因でであり、他との関係を条件として現れる。[s180]

【発展の源】

矛盾の対立関係は常に変化し、強くなったり、弱くなったりする。対立関係自体が相対的なものであり、他の対立関係と連なっており、ひとつの対立関係としての矛盾は他の対立関係に転化もする。さらに、全体の中の個々の対立関係が、対立関係相互に対立関係を作り出すこととして、矛盾自体が発展する。矛盾自体運動するものである。[s181]


第3節 質量

有は規定されて定有=存在一般として現れる。全体に対する関係と、他との相互関係に規定されるのが存在一般である。存在一般は全体に対する部分としての質であり、他との相互限定としての量である。[s182]
存在としての規定、部分としての規定は質と量として現れる。[s183]
存在一般は質と量によって限定されて個別存在として現れる。全体に対する部分でありながら、他と相互関係する個別である。全体に対する規定としての質、他との相互規定としての量は個別存在の規定である。対全体、対他が個別存在を一体のものとして二元的に規定している。同じこととして、質と量も一体である個別存在の二元性を表す。全体に対して質であり、他に対して量である。[s184]
ここでは、物理学での「質量」概念とは別と考えた方が良い。存在の第1の性質としての「質量」である。物理的運動として具体化する前段階の一般的運動の質量である。物理学的質量に具体化され、物理学的質量から学ばなくてはならないが、物理的存在に限定されない存在一般の、普遍的あり方としての質量である。哲学的概念としての質量である。[s185]

【個別存在の具体化】

存在は他と関係し、他と関係することで全体と関係することである。全体の一部であることが存在である。存在一般は全体と不可分であり、存在一般は非局所性である。一般は非局所性であるのだから、証明するまでもない、単純な言い替えである。[s186]
何らかの存在があって、その存在が関係をもったり、その存在が運動したりするのではない。関係し、運動することが存在である。関係し、運動するものとして個別存在がある。個別存在は存在一般の具体化である。[s187]
具体化するのは存在そのものであって、主観や観念等の何らかのものが存在に働きかけるのではない。具体化は運動=時間的過程としてあるのではない。存在一般の具体化は論理的過程である。一般と個別の論理的関係である。一般から特殊化を経て個別が展開されることが具体化である。[s188]
どのように関係し、どのように運動するかが個別存在の規定であり、質と量として実現する。[s189]

【対称性の破れ】

全体の対称性が破れ、部分の相互作用が現れる。逆に相互作用によって部分が区別され、全体の対称性が破られる。全体の対称性は破れたのであり、対称性が保存されたのでは何も始まらないし、何もない。今年2001年に物理学でPC対称性の破れが実験的にほぼ確認されたとの報道があった。その解説でも対称性の破れは同様に解釈されている。論理的にも全体が全体である限り、あるのは全体であり、全体だけであることは何もないに等しい。[s190]

部分間の相互作用は互いに向き合う方向をもつ運動であり、同時に作用全体が方向をもつ運動である。[s191]
運動であるから方向があるのである。方向があるから対称性が量られるのである。運動が対称性を破るのである。存在が対称性を破るのである。単に形式的関係として部分が全体を否定し、全体の対称性を破るのではない。[s192]

【質量の不可分性】

もっとも、最も一般的な運動としての混沌にあっては、質も量も問題にはならない。混沌にあっては、区別はなく、部分がない。運動は混沌にあって、混沌としての一様性を否定し、歪むことで部分として区別される運動へ発展する。この全体に対する「区別」が質である。全体に対する「部分」が量である。[s193]
全体から区別されることとして、他の質と区別される運動規定が質である。運動の関係・過程の限界が量である。質と量は運動の基本的な関係である。運動の基本的な関係として、質と量は一体のもの「質量」である。運動は混沌ではなく、部分として区別される運動として質量を持つ。[s194]
全体に対する運動の単位=部分として質量が現れる。全体の運動の局所化として部分の運動が質量として現れる。[s195]

質があって量が量られるのではない。個別存在そのものが他に対する個別の質をもち、他に対する個別の限界としての量をもつ。逆に個別存在は、全体に対して質として個別化し、他に対して量として個別化する。[s196]
物理学にあっても、存在は観測値として、量として確認される。質も観測値として、量として測られる。観測値を表さないものは物理学では存在しない。 [s197]

【反省としての質量】  質量は言うまでもなく、普遍的な規定である。質量は個別存在としてあるのではない。質量は対象として存在するのではなく、反省として現れるのである。対象の直接規定ではなく、他との、全体との関係としてある反省規定である。対象の個々の質量は直接的で具体的あるが、質量は他との、全体との関係として間接的である。他との関係、全体との関係として測られる。[s198]

哲学の対象はすべて反省規定であるにもかかわらず、哲学の対象追求は時として対象を直接追求しているがごとく、主客を転倒させてしまうから注意が必要である。規定性と被規定性は相互に転化するのではなく、元々相互規定性である。規定するのは主観ではない。対象間相互に規定関係はある。この認識の弁証法の基本中の基礎を忘れ、自らを失ってはならない。[s199]
 質量を直接に対象とすることはできない。対象を他との、全体との関係で規定することによって質量が明らかになる。そして、質と量として二重に、二元に現れるのは対象が二重に、二元にあるからである。[s200]
反省としての質量は、認識の過程で明らかになるのであり、質量を明らかにすることは認識の、科学の対象として明らかになる。質は個別科学の対象としてその多様性が明らかにされ、量は数学の対象として明らかにされる。個別科学、数学の個々の対象ではなく、個別科学の認識、数学の認識対象として規定が明らかになるのが質と量である。[s201]
個別科学と数学とが異なり、また不可分であるのと同様に、質と量との関係もある。[s202]

【質量の対称性】  質は非対称性の規定である。すべての部分が同じであること、対称性をもつことが質である。同質の部分は互いに対称であり、対称であるから同質である。非対称な部分との相互作用によって質は区別され、非対称の質間に関係する。[s203]

量の対象は対称である。「或る物」と「他の物」は区別されるが、同じ対象である。たまたま「或る物」を対象とするから他が「他の物」と規定されるのであって、区別はされるが同じ対象として対称である。区別はされるが同じ対象間の関係が量的関係である。区別はされるが同じ対象間の関係として対応関係が問われ、包含関係が問われる。[s204]
質も量も他との区別であるが質の違いは、対全体との関係で非対称である。量の違いは対称な質にあっての対他との関係で非対称である。[s205]
したがって、質と量とは非対称である。非対称であるから相互転化する。[s206]


第1項 質

規定は概念を定義する対象間の相互関係である。対象間の相互規定関係は論理である。相互規定関係は論理として単独で対象を定義する。相互規定関係は単純である。[s207]
規定は対象の一つの相互関係を抽象している。抽象した相互関係として、個別対象は抽象的に定義される。規定は他との普遍的相互関係であり、向他的である。規定に対し、質は存在の普遍的規定であり、向自的、即自的である。[s208]
存在することは他と相互作用することであり、相互作用するものとして他と区別される。他と区別される自は相対的規定である。どれを自としても相互作用関係は成り立つ。自・他は対称であり、単に対象を特定するために自とするにすぎない。自・他は一つの相互作用において分け隔てられるにすぎない。[s209]
自・他を区別する相互作用は異なる対象間の相互作用ではない。自・他を区別する相互作用は全体に対し、部分相互を区別する相互関係である。異なる対象間の相互作用は、その相互作用によって結びつかなくてもそれぞれに存在する。[s210]

【質の多様性】

区別される質は区別されることで多様化する。質は多様であるから質である。質は質であること自体が多様であることである。質は質として多様化し、新しい質をつくりだす。多様性・多様化を本性とする質は、一般として多様である。質一般は多様である。質一般である個別存在も、多様な質からなる。質は他の異なる質と区別されるから、非対称であるから質である。[s211]
表現としては矛盾するが、存在一般は多様である。存在一般とは世界全体であり、世界全体は多様である。[s212]

ものの存在の一般的、普遍的あり方を追求すると、一つの質が現れる。陽子、中性子、電子のようにそれぞれに一つの質としての存在が現れる。もはや同じ質をもつ存在は、相互に区別できないまでに同質の存在としてある。さらに電磁場、重力場といった究極の場、言うなれば物質の存在場を究極の質として理解することができる。そこに質の単一の規定がある。単一の質がある。[s213]
しかし、それは多様化する質である一般性、普遍性を追求したから単一の質に至るのであって、単一の質だけが存在するのではない。単一は単独とは違う。単一の存在場は重力場となり、電場、磁場へと多様化した。陽子、中性子はそれぞれ単一の質であるが、二つの質が原子核という新しい質をつくりだし、元素の多様性をつくりだした。[s214]

質は多様であるから質である。質は多様であるから単一の質を他と区別する。他の多様な質から単一の質を区別する。[s215]

【質の規定】

質はすでに重ね合わされた規定である。[s216]
質の同一性は部分の対称性の現れである。しかし、部分の対称性として部分が区別されるということは、部分は非対称でなければならない。非対称の部分の対称性によって質が規定されるという矛盾がある。部分が対称であり、かつ非対称でありえるのは、複数の規定による部分が重ね合わされているからである。対称である規定が質の規定である。[s217]
質Aは質Aと区別することのできない対称である。A=A[s218]
質Aは質Bと区別される非対称性である。A≠B[s219]
この質Aと質Bが非対称であるのは、質Aをもつ個別存在aと質Bをもつ個別存在bが非対称であるからである。A(a,a2,・・・,an):B(b1,b2,・・・,bn)においてa1≠b1[s220]
このことから質Aの対称性がA(a,a,・・・,a)においてa=aとして、質Bの対称性がB(b、b、・・・、b)においてb=bとして明らかになる。[s221]
質Aの対称性だけをいくらいじくっても何もでてこない。同語反復だけである。異質Bとの非対称を介して質Aの対称性が質Aの個別存在a間の対称性として明らかになる。個別存在(a1,a2,・・・,an)の非対称性があって(a,a,・・・,a)の対称性が明らかになる。個別存在(a1,a2,・・・,an)の非対称性は個別存在(b1,b2,・・・,bn)との相互規定によって明らかになる。決して質A(a)だけでの規定では対称性は明らかにならない。(a1,a2,・・・,an)の添え字がつき、(a,a,・・・,a)と添え字が消えるのは(b1,b2,・・・,bn)との相互規定の非対称を介し、自己規定に再帰することによってである。[s222]
質Aがあり、次に質Bが現れてこの過程が進行するのではない。質Aが対象化されるのは質B他との非対称性がすでに存在しているのである。[s223]
質の規定は他の異質との非対称性を前提にしてある。[s224]

【運動形態としての質】

個別存在は複数の特定の質として規定される。その規定が個別存在の本質である。複数の特定の質として個別存在の本質がある。複数の特定の質のうち、一つでも欠けてしまっては、一つでも加わっては、あるいは別の質に入れ替わっては、個別存在は変質する。複数の特定の質によって個別存在は内在的に規定される。本質は内在的規定である。[s225]
しかし、個別存在は単独の存在ではない。他と区別はされるが、区別される関係にある存在である。存在自体が他と関係することである。個別存在は他の個別存在との相互作用として存在し、区別される。[s226]
相互作用は相互区別であり、相互変化である。個別存在は複数の特定の質として存在するのであり、その複数の質いずれもが保存される。変化するのは個別存在相互の量的関係である。個別存在の相互作用は個別存在の量的関係の変化としての運動である。相互関係を保存し、相互作用の変化として個別存在の現れ方、存在形態が変化する。存在形態の変化は他との関係の変化であり、環境による、条件による規定である。環境条件による規定は外在的規定である。[s227]

【相対的静止としての質】

相互作用過程の内容は常に変化の過程である。しかし、相互作用過程の形式は不変の過程である。変化する内容と、不変の形式として相互作用過程はある。この相互作用過程が存在の質である。変化と不変の統一過程が質である。[s228]
一定でありながら変化するその一定である質と変化する量としての存在である。[s229]
全体の運動に対する部分の静止は一定の相互作用をするものとして、現実的存在である。一定の相互作用として存在の関係は保存される。相互作用の関係を一定に保存する運動が静止である。静止は現実的存在であって、観念的妄想ではない。全体の運動としての存在に対し、部分の静止としての存在は普遍的存在である。相互作用としては全体の運動の一部でありながら、相互作用関係の保存として静止である。現実的存在の定義は「他と、それを通して全体と関係し、その関係は相互の作用」である。[s230]
保存は一定の変化の継続である。保存は内容の変化と形式の不変との統一である。[s231]
一定に静止する相互作用として、部分の存在は特徴づけられる。静止する相互作用関係の形式が、存在の性質として区別される。継続する相互作用関係としての運動の静止が質である。継続する関係として、質は恒存性をもつ。相互作用の継続する関係が静止として、運動の質である。[s232]
質は静止によって形式化した相互関係である。[s233]

【質の普遍性】

無限の世界であっても、すべての関係が異なるのではない。無限は無限の多様性と同じではない。ひとつの世界の運動としてある存在は、一般的な相互関係にあって同じものである。同じであるから相互に関係できるのであり、全体としてひとつの世界をなしている。世界の一つの連なり関係として、世界は同質である。同質の世界であるから、ひとつに連なる関係として世界は存在する。全体として世界は同質の存在である。それが「有」という性質である。[s234]
質は永遠不変ではない。静止の継続に限界があり、全体の運動に対し絶対的ではない。全体の運動の過程にあって、相対的に静止が実現している。全体の運動の中での、継続する相対的運動として静止があり、質がある。他との関係の継続、恒存する性質として質がある。質は運動の形式の継続・恒存として、相対的静止としての存在である。[s235]
質の関係の継続・恒存は相対的である。関係は全体の運動の過程で関係を変える。関係自体が運動する。全体の運動として質は変化し、別の存在になる。質は運動の関係形式として、変化して新しい質になる。[s236]
限界のある相対的静止が真実であるかどうか、考えても結論はでない。経験的に永遠不変の存在はなかった。「神」ですら時代によって変容し、地域間で戦争さえする。真実であるかどうかは、現実に確かめなくてはならない。だからこそ、陽子寿命の実験がおこなわれている。[s237]

 同じである静止間の相互作用として、作用に差異が現れる。相互作用に含まれる静止の数や、組合せによって、差異は生じる。静止間の相互作用は、相互作用の全体としては、相対的全体の運動として同じでありながら、相互に区別される。相互作用によって、静止は区別される質をもつ。[s238]

【媒介と質】

質の存在、過程は媒介である。質は全体との関係で全体ではない部分として区別される規定を実現している。質は他との非対称の対象として実現している。質は全体に対してあり、他に対してある。質そのものは存在しない。質は反省規定であり、媒介されるものである。全体に対して規定され、他に対して規定される質の媒介は形式的関係における媒介である。質の媒介は形式的関係だけでなく、内容としても媒介し、それとして質は実在し、発展する。[s239]
質は質の発展を内包した存在であり、過程である。質は他と区別し、自らを規定する。規定性は相互を規定し、区別をする。質は他の質との区別で自らを規定する。質は異質な他との相互作用にあり、異質な他との相互作用から新たな質をつくりだす。相互作用自体が新しい質として実現される。それまでの相互作用の相互規定とは質的に異なる規定を実現する。質は違いを基礎にしており、違いは次の違いを実現する。自らの他との違いは、自他と違う質の他を実現する。質は自ら媒介されたものでありながら、他を媒介する。[s240]
自然の歴史的過程が新しい質を創造し、より複雑化し、より発展的存在を創造する過程にあることから、質の発展は必然的な過程であり、普遍的存在のあり方である。問題は、この発展過程がどのように実現されているかを理解することである。ヘーゲル弁証法、散逸構造理論はこの問題を対象にしている。[s241]
振り返って、相互作用の連関する規定関係は、相互作用の連関自体を規定する。これは自己組織化の基本的過程である。一般的相互規定関係は規定し、規定される関係であるが、規定関係の規定は一方的規定であり、一方的被規定である。 この規定関係は階層間の関係として改めて問題としなくてはならない。[s242]
再三強調する。
相互作用は規定の実現であり、質の実現である。この実現は観念が物質化するのではない。相互作用の本質として相互規定、質の規定を「概念」として論理的に定義する。「概念」は多様な観念のひとつの種類である。その観念としての「概念」の対象との関係が「実現」である。対象と観念との関係は原因結果の関係ではない。対象から観念への反映過程が抽象であり、観念から対象への展開過程が実現である。反映過程も展開過程もどちらも観念の過程である。抽象も実現も広い意味での反映である。[s243]
現象を実現すると言ってしまえば、何らかの根拠がそれだけで与えられるというものではない。元々現象には根拠としての原因があり、その根拠の可能性が現実性に転化することによって実現するのである。[s244]
規定性は主観的判断ではなく、客観的な対象化である。相互の対象化としての相互作用の形式である。[s245]

【質の環境条件】  相互作用の規定としての質にとって、相互作用は環境条件である。質にとって他との関係は環境である。他に作用し、他から作用される関係は質にとっては前提であり、関係そのものの否定は質自らの否定でしかない。質にとって相互作用は質自らを実現する条件である。相互作用は質を規定し、質は相互作用を条件とする。[s246]

質にとっての環境条件は、普遍的な相互作用であり、質を規定することで質の環境条件となる。環境条件なしに質は実現しない。環境条件は質にとって他であると同時に、質自らの実現の場である。環境条件なしに質は存在しない。[s247]


第2項 量

有は最も普遍的な性質として、延長、連続として量を伴う。全体と部分の関係がすでに量の関係を内包している。全体が部分を包含し、部分間に包含関係があることは量の現れである。[s248]
有の量は限定されていない量である。有の量は限定された量に対する無限でもない。有が質として規定されると同じく、有は量として限定される。全体ではない、限定されたものとして、限界づけられたものとして、一様性が否定され、区別された部分からなる延長、連続となる。延長は限界までの広がりであり、連続は限界を超えた連なりである。延長と連続によって有は全体を満たす。[s249]
部分は延長として限定され、延長を媒介にして連続し、連続した全体の可分性を担う。部分の可分性に対し、全体は無限を担う。[s250]

質はすべての存在の多様な現れとして、より具体化する世界の各階層において、同じ概念が繰り返し現れ、より豊かに展開される。質に対し、量は対象のすべてを規定する普遍的関係である。全体と部分の関係として、部分間相互の関係として。しかし、それだけであり、数学を専門としない者にとっては「一般的、論理的世界」において検討するしかない。したがって、量についてはここで可能な限り整理しておく。[s251]

【存在量】

世界の普遍的運動である相互作用は、相互に区別する運動の全体である。区別される存在は相互に関係し合う運動である。相互作用として、相互を区別し、相互を規定する。規定された全体である部分は、全体の広がりを延長として継承している。相互の作用点としてではなく、部分としての広がりがある。相互作用として、全体の運動に占める部分の運動の範囲がある。相互作用の相互の境界によって限界づけられる部分の範囲がある。相互作用として部分の限界が規定される。部分の延長の限界が量の第1である。[s252]

部分は単独ではない。全体に対する部分は区別される存在であり、部分は複数の存在である。全体に対する部分はそれぞれに区別されるが連なって全体を満たす。[s253]
質として規定された部分は、異なった質の部分と区別され、それぞれの質は全体を占めることはない。異なった質のすべてとして全体を満たすが、それぞれの質としての部分は全体を満たさない個別部分となる。部分は全体に対する部分であり、他の部分に対する部分であった。質をともなう部分は同質の部分と、異質の部分との抽象的関係を媒介に相手全体を満たす。質をともなう部分はもはや抽象的にしか全体と関係しない。質をともなう部分の直接関係する全体は、相対的全体でしかない。異質な部分と区別される、同質の部分の連なりとして部分が規定される。同質の部分の連続の限界が量の第2である。[s254]

第1の量は、存在のまとまりが区別されて数えられる。数えられる離散数である。[s255]
第2の量は、存在の広がりの範囲が量られる。量られる連続量である。[s256]

量は関係の内に現れる性質であって、まとまりとして数えられ、限界が量られる。量は運動=存在そのものではないが、運動の他に対し、全体に対しての関係である。[s257]

数量は対象間の関係を反映している規定である。数量は原子や分子、人のように個別に存在するのではない。普遍的抽象的関係として存在するのである。対象が存在すれば、存在するだけで成り立つ関係であり、対象が存在する限り保存される関係である。主観によって対象化されなくとも、存在間の関係として保存されている。当然、主観の内にも反映されている。主観とは別の客観的存在間に有る量の関係を人が数量として反映し、理解しているのである。[s258]
面、線は存在対象間の境界として存在する。点は作用の空間上の位置として存在する。線も点も、そして面も部分としての存在とは違う存在である。まして物事としての存在とはまったく違う存在である。人によっては幾何学的対象の存在を認めない。運動としてのすべての存在対象は線や点によって示されはするが、対象として他との相互作用の境界によって囲まれた広がりをもつ。[s259]
 主観は何らかの存在を対象化することで主観であり、対象を離れて主観はありえない。主観自らを対象とするときでも、主観自体が対象としてなくてはならない。主観が対象を失うのは意識を失っているときであり、主観は機能していない。主観が機能している限り対象は存在し、少なくとも主観的対象は存在しており、その対象間の関係として普遍的、客観的数量関係が保存されている。[s260]
数量の基本は対応関係の反映である。対象間の数、量の対応関係である。人はこの対象間の数量関係を、対象の比較、予測のために利用する。対象間の数量の対応関係は普遍的であるから数学が成り立つ。数学が対象間の普遍的関係を反映しているから、数学は認識の、科学の普遍的な道具になる。認識の発展、科学の発展の過程で数学の果たしてきている役割は、数量的秩序を証明するだけでなく、先行的でもある。数学だけで成り立つと思われていた非ユークリッド幾何学が相対性理論の時空間の構造を示す物であるように。虚数がシュレディンガー方程式に不可欠であるように。[s261]
対象の対応関係を扱う数学は、それ故に論理学とも密接し、重なり合っている。対象間の対応関係は対象の質には規定されない。対象間の対応関係は形式関係だけで成り立つ。対象間の対応関係は人の反映、認識の過程で記号との対応を成り立たせる。対象間の対応関係を記号で操作することによって、人は直接対象を操作することなく、演算ができ、シュミレーションができる。演算、シュミレーションが有効なのは記号体系が普遍的であるだけでなく、記号体系が対象間の対応関係を反映しているからである。[s262]
数量は対応関係であるから、変換することができる。関係さえ保存されていれば対象の質には関係なく成り立つ。[s263]
数字は人が作った記号であるが、数は人が作ったものではない。数は存在間の対応関係を反映する客観的存在である。当初数学者も数として認めようとしなかった虚数も実在を反映している。物理学で量子の振る舞いをきっちりと計算するシュレディンガー方程式にも虚数が含まれている。物理学を引くまでもなく数学でオイラーは自然対数(e)、虚数単位(i)、円周率(π)、自然数(1)の間に恒等式
iπ = −1
が成り立つことを示した。[s264]
数は概念の形式の一つである。自然数は存在するが、虚数は存在しないとか、無限数は存在しないとかは実在論の問題ではない。数は量関係の概念として存在するのであって、数そのものが存在するのではない。順序も全体に対する位置としての量である。[s265]

「数」あるいは「数値」は単独では何の意味もない。他の「数」との相対的、全体的関係の中に位置づけられて意味を表す。全体に対する関係の区別は単位を区別する。全体を基準に単位系が定まり、単位によって部分間の対応関係が計られる。全体をどう捉えるのかによって、単位系が選択される。[s266]

数量として存在する対応関係は全体と部分の関係を基礎にしている。全体に対する量、他に対する量が基礎である。相互規定として有る部分は、相互規定によって相互に対応する。1対1対応である。1対1対応が基本になって多数の1対1対応が成り立つ。多数の1対1対応は同じ形式の対応関係であり、集合として1に対応し多対1の対応関係が成り立つ。集合関係が成り立つことによって自然数の関係が成り立つ。自然数は数の体系の基礎をなす。自然数から負数へ、自然数の比から実数、虚数への発展。さらに自然数から無限への発展。[s267]

「0」は単に存在の否定ではない。単に引き算の結果として無を表すのではない。自然数に位置づけられた他の数と同じ数である。ある数に「0」を掛けることができる。無を掛けるのではない。数と数を掛ける関係をそのまま実現するのである。答えが「0」で無であることが気になるなら、ある数を「0」乗すればよい。こたえはそのある数が出てくる。[s268]

【限度】

運動は保存されるから存在する。存在は保存される限りの物である。運動はその有り様として存在を現し、運動そのものは継続するが、保存される個別存在には限度がある。対する他との関係の限度が一つ。運動の有り様、存在の継続の限度が一つ。[s269]
相互作用の対立する部分の限界は空間を表す。運動の継続の限界は時間を表す。個別存在は空間的限界と、時間的限界を現す。[s270]

相互作用の担い手である静止部分の数量は、デジタル(離散的)量であるが、作用はアナログ(連続的)量として量られる。デジタル量は他との相互作用を関係形式として計る量である。アナログ量は相互作用の連続的な違いとして計る量である。[s271]
物理的存在も量によって観測される。対象が有るか無いかは、機器のメーター針がどの程度振れたかで観測される。泡箱の場合でも、メーター針の代わりに知覚可能な大きさにまで凝固した泡の連なりによって観測される。[s272]

【基数、順序数】

対称との1対1対応、全単射の対応関係を保存する数が基数である。対応関係を保存し、表現する数である。基数は順番には関わらない、大小の比較はできる。部分間の区別を対応づける対象である。基数は対応関係を保存していることとして、部分間は対称そのものである。基数は他がなくとも1であっても存在を表す。[s273]
個別・部分が互いの関係、全体との関係を保存する数が順序数である。順序数は部分間の固定した関係にあり、それぞれは全体に対し、他に対し固定した位置を占める。順序数のそれぞれの部分間は非対称である。順序数には、他がなければ何の意味もない。他のない順序数は自家撞着の破綻でしかない。[s274]

【可算量】

数えることができる量は、他と区別される対象が、区別される質によって強い独立性を持っている。数えることは分けることである。他との関係によって区別されて数えられることが可能になる。主観的に区別して数えることも可能になる。四方八方、東西南北のように。分ける基準が対象の性質によるのか、数える側の都合によるのかは、数そのものの性質には関係ない。[s275]
可算量は計算可能である。非可算量は計算できない。1杯の水に1杯の水を加えても1杯である。可算無限に1を加えても、可算無限を加えても可算無限として「大きさ」に変わりはない。可算無限は可算量ではなく非可算量である。[s276]
可算量は離散量でもある。離散量はデジタル量として量られる。離散量は量子化としてのアナログ−デジタル変換とは異なる。アナログ量をデジタル化するのではなく、客観的な存在対象間の対応関係が対象である。存在対象間の関係は主観的な意味づけではなく、存在対象そのものを規定する相互規定関係に基づいている。量子力学の基準であるプランク定数は客観的な区別の基準である。存在対象のいずれの相互規定関係を対象とするかは主観の選択であるが、対象間の対応関係は主観からは独立した客観的存在関係である。[s277]
対象と主観・主体の関係だけからは数は現れない。対象間の関係に関わることによって、主観に対象間の区別と、区別される対象の数が現れる。可算量は対象の客観的に区別される関係を反映しているからこそ、反映している限りで対象間の関係を演算し、予測できるのである。[s278]
アナログ−デジタル変換の基準は技術的な基準である。量子化数はアナログ関係をデジタル処理するための技術的な存在である。ヒトの生理的聴覚能力と聴取環境、聴取目的、変換・再生機器の性能との経済的均衡点で決められる。[s279]

【自然数】

論理的には数えることは対象があるかないかの区別を基礎にしている。全体の関係、要素・部分の関係を最も基本的に定義した系として自然数がある。[s280]
歴史的に数えることは対象の比較から始まった。多いか少ないか。[s281]
対象の比較は比較基準の標準化になる。対象と指1本との対応関係が有りえるかどうかが基本になる。[s282]
次に数の体系化によって数の定義が問題になる。対象が規定されて、その規定が捨象され対象間の区別関係が抽象される。存在論が捨象される。[s283]
最後に自然数の体系によって改めて数が定義される。[s284]

有無の状態の組合せとして指を折る状態を対応させ順次続けることで5進数か10進数ができる。一人分の手としてまとめた単位として上位の桁、10の位が設定される。[s285]
論理的にあるかないかの組合せで数えられる。[s286]
対象が存在する場合を何らかの記号で表記する。例えば「●」で存在を表現する。内容は数の関係としての計算の保証であり、大小関係の保存である。形式は表記の問題であり、存在の場として桁である。[s287]
対象の存在の否定を別の記号で表記する。例えば「○」で非存在を表現する。ただし、存在記号ではない。桁がなくては意味をなさない。場・桁は関係として存在していなくてはならない。[s288]
非存在を予定することで数が存在可能になる。存在の単位枠としての存在可能性が多数のそしてついには無限の枠が用意される。対象の存在可能性は質の存在を前提にしている。[s289]
数は対象の存在を現すのではない。対象間の比較関係を表す。対象間の関係の1形式としての実在を扱う。数の体系として形式化できる、形式と対応関係づけることのできる対象間の関係=自然数によって対象を表現する。[s290]

対象の「存在」と「非存在」だけが対象の性質として、存在形態として表記される。記号「●」と「○」だけが対象を表現する。[s291]
次いで「存在」と「非存在」からなる関係を表記する。「非存在」○と「非存在」○の関係は「非存在」○である。「(○><○)>>○」[s292]
「非存在」○と「存在」●の関係は「存在」●である。「(○><●)>>●」[s293]
「存在」●と「非存在」○の関係も「存在」●である。「(●><○)>>●」[s294]
「存在」と「存在」の関係は「存在」であるが、当初の「存在」とは異なる「存在」である。「(●><●)>>(●●)」[s295]
「●」と「●●」は対象の異なる存在を表現している。非存在「○」とも表現は区別される。[s296]
複・諸数間の比較・計算関係を自己言及することで空・ゼロ・無桁が現れる。否定としてではないことに注意が必要である。[s297]
あとは「存在」の組み合わせを順次表現することが可能になる。「●●●」「●●●●」・・・「●●・・・●●」[s298]

「存在」の組み合わせとして、数えられる対象の表現として「自然数」が使われる。[s299]
自然数はどのような記号、文字、表現形式によるかにはかかわらない。[s300]
大小関係の基本的形式系として自然数はある。自然数は要素の性質を定義していない。要素間の関係を定義している。要素に順番を与えることができる。要素を数え上げることはできない。数え上げは過程であり、自然数は数量関係の結果を表す。[s301]

記号、文字として「○●」「零一二三・・・」「I  II  III ・・・」・・・[s302]
表現形式としてあるかないかの組合せには、組合せの場が必要である。あるかないかは、桁(ビット、各位)の状態によって区別される。桁があって対象がない場合が「0」。桁が「0」に対し、対象がある場合が「1」。対象があるかないかに対応して、桁が「1」と「0」で区別される。対象と1対1の関係であり、対象と桁が対応関係にあり、対応する対象が有る関係を「1」、対応する対象がない関係を「0」で桁を表す。[s303]
対象があるかないかの関係で、有る対象の別の対象が有る場合は次の桁が「1」になる。「11」になる。これは2進数ではない。対象との対応関係が保存され、拡張されただけでありる。[s304]
拡張された対象があるかないかの対応関係にあって、「0」と「1」の関係が拡張される。[s305]
ないものはなく、「0」と「0」で「0」。
         0+0=0。[s306]
なくはない関係が「0」と「1」は「1」。
         0+1=1。[s307]
あるものとあるもので「1」と「1」を「11」とするか、「2」とするか、「10」とするかは表現形式の問題である。
         1+1=[11]、
 または     1+1=2、
 または     1+1=[10]。
となる。[s308]
次の対象との対応関係は
         [11]+1=[111]、
 または     2+1=3、
 または     [10]+1=[11]。
となる。[s309]
順次対応関係が保存される。[s310]
対象との対応関係と対応関係間の関係によって数、自然数が定義される。「1+1はなぜ2になるのか」は対象との対応関係が保存されるからである。対象間の関係ではない積木と積木を接着して新たな積木を作るとき、「1+1=1」は積木の個数であって、体積は「1+1=2」である。この場合、保存される関係は個数ではなく体積である。数は対象間の関係ではなく、対象間の関係の関係である。[s311]
自然数は集合論によって定義される。空集合とその要素の個数として桁と「0」が定義され、対象との対応関係は最も一般的な形式とする。[s312]
集合論定義では、対象との一般的形式関係は認めるが、対象間の関係と「数」間の関係の対応を定義し続けるのではなく、「数」間の関係の論理だけで自然数を定義する。定義された自然数の論理、「0」、「1」、和、積、交換法則、結合法則によって自然数の関係が定義される。[s313]
定義された自然数の体系と対象との対応関係は、自然数全体の中の部分としての「数」との対応として関係づけられる。[s314]

自然数の論理から導かれる「無限」と対象との対応を問題とする場合、対応関係と対象間の関係が存在論にもたらされる。[s315]
自然数は「自然」に存在するものではなく、対象との対応の関係として存在する。対象との対応を定めることによって対象の「数」が決まる。数によって対象の性質が決まるのではない。[s316]
自然数とは、とても「自然」ではない。「自然」と言うなら無理数も、虚数も自然の数量関係を反映しており、より自然の数である。自然数は、量る者から見た自然でしかない。序数、基数も対象との対応関係で意味づけられた数であって、自然数の論理を無条件に適応することはできない。[s317]

存在可能性の枠を用意し、存在・非存在の状態を当てはめる。こうして存在の全体を表現する。存在可能性の枠と存在・非存在の状態という二つの次元間の関係づけを操作する。この単純なアルゴリズムを獲得するために人は幼児期に何年もの失敗に満ちた訓練を繰り返す。その後、学校でそれこそ四則演算の算法・アルゴリズムを訓練し、使いこなすようになる。[s318]

【連続量】

運動の経過は量の変化としても現れる。[s319]
通常運動の量的変化は連続している。運動は相互作用であり、相互の規定によって量の限界は規定されており、相互作用が破綻しない限り量的変化は連続する。運動の任意の時点から時間的に隔たった時点での量の比較が可能である。時間的に隔たった量の関係で、時間的隔たりを連続して小さくしていく場合、運動量も連続して変化する量を連続量という。数学の場合はグラフにした曲線の接線の傾きが連続して変化することをいう。数学の場合は時間ではなく、グラフ軸上の2点間の隔たりを近づけた極限値として計算される。時間的隔たりの極限では、隔たりは超えられる。連続量は積分によって計算可能な量である。[s320]
通常=日常経験では、連続量は「滑らかさ」である。こうした日常経験からの感覚ではなく、対象間の関係のあり方として数量関係を用いて客観的に定義することができる。[s321]
積分可能な量的関係の運動であっても、3点以上の要素間の運動は積分可能な系として表現できない。三体問題は連立方程式として計算できない。[s322]

連続量であっても特異点がありうる。剛体でできた回転可能な振り子は、頂点で静止するときには二方向への運動が可能である。運動量は連続して変化しえるが、その変化の内で、いずれの方向に回転するか、それまでの連続した変化では決定されえない時点が特異点として現れる。頂点では連続した円形の回転運動に、突然重力が規定的作用を表す。このように特異点では運動の質の転換が起こる。特異点は、改めて質量の相互転化の法則で検討する。[s323]

【無限量】

限界は質的に決定される。一定の質によって量的限界が定まる。質をともなわない限界はない。数学においても無限は自然数が基準である。自然数は各要素が対称であり、同質であることを前提にしている。一定の質の限界を超えると、より一般的質がある。最も一般的質として世界の存在一般がある。[s324]
ただし、これは世界が無限であることの主張ではない。自然数として無限が定義でき、自然数が概念として世界に存在する。その無限概念を含んで世界が存在する。世界が無限を含む、無限の存在であると論理的に主張するのである。世界が無限であるかどうかは、論理だけではなく、物理学によって確かめなくてはならない。[s325]

数は無限を普遍の尺度で測ることができる。曖昧さを残すことなく、論理的に必要な正確さで無限を追求することができる。また、自然数によって無限の程度を濃度として量ることができる。[s326]

無限は質的に定義された存在として規定される。質的存在の限界として限りがある。質的限界とその質の量との隔たりを詰めることによって無限が定義される。明らかな質的限界と、その限界との質のなす量との隔たりの関係として無限がある。質のなす形式と、量のなす内容との隔たりともいえる。限界の定め方、隔たりの定め方によって無限は様々な極限として定義される。限界の定め方が質的規定であり、隔たりの定め方が量的規定である。定義された質量として、無限が規定される。[s327]
最も一般的存在として限定した世界を超えるものとして、限りない存在の無限を考えることはできる。絶対的無限、真実の無限の存在を思弁することができる。しかし、世界一般を超えた存在は、世界の存在になんら関わりをもたない。[s328]
無限量(数)の実在性をめぐる議論は実在そのものの考え方を区分する指標である。[s329]

方向性は連続する延長として先を示す。運動の過程で方向として定まる限界は、その運動過程を延長することによってその先を求めることができる。「果て」として定まる限界のさらにその先として、過程として「果て」の先に無限を求めることができる。過程としての仮の限界を超える無限の存在である。究極はとらえられないが、仮の無限として考えることができる。この無限は果てをなす質を超えなくてはならない。[s330]

【単位】

量的関係比を比較基準を一定に定めることによって、別々の量的関係を比較することができる。量的関係を一定の比較基準に対する比として表わすことにより、量的関係を数の関係に対応させることができる。[s331]
対象と対象との対応関係を特定し、対象間の関係が量られる。逆に対象間の量的関係を特定できるから対象として特定できる。対象間の関係の普遍的対応を定めることは単位を決めることである。空間的に区別される関係では個数が単位になる。繰り返し等の関係があれば周期を単位にする。[s332]
連続量を対象とする場合は単位量を対応関係の基準にする。周期がなければ、実践上の使い勝手によって単位は定められる。量の単位の多くは生活習慣によって尺度として決められた。[s333]
決められた単位量による数量化は、それだけで客観化にはならない。適切な単位量の基準が必要である。角度は直角を単位量にしたり、便宜的に1周360度と定められているが、直径を基準とした周の比を単位量としたラジアンの方が普遍的である。便宜的に定められた単位量で量ると整数比にならない関係も、量られた関係によって単位量を決めることで対象を整数比で量ることができる。 適当な単位で量られた量を比較し、改めて公約数を量の単位とすることで量比を自然数で表すことができる。[s334]

単位の飛躍する量的関係を統合して理解するためには、指数表現は数処理の技術と、感性をうまく折り合わせる。対象の関係を再現するのに、客観的理解を助ける。[s335]

基本的には、一貫した単位を使用し、客観性を感性的にも保障すべきである。[s336]

【尺度】

量は単位によって測られ、比較される。単位は測られ、比較される基準である。測り、比較する目的にょって定められた尺度と、運動そのものによって定まる尺度とがある。長さ、重さといった量は人間の活動を基準に尺度が定められ、その尺度の普遍性を保証するために技術的、政治経済的努力がなされてきた。[s337]
量る目的によって単位量を決める場合、尺、フィート等日常的長さは、身体の長さを単位とすることで、日常生活上の量の表現に適している。対象の量的な節、繰り返しがあるわけではない。オームストロング、天文単位、光年は、それぞれに適した、対象間の関係に対応した単位である。特に光年は、距離と時間を媒介し、宇宙史、宇宙構造の表現に適している。[s338]
単位量は目的によって決定される場合もある。連続量の変化としての音を量る場合最大値をとる場合もあるが、再現を目的とする場合時間単位に分割して振幅を量る。時間分割の単位を小さくすればするほど再現性は良くなる。しかし再現性を良くするとデータ量は増え、その処理と保存の技術的困難も増える。再現の質に対する要求と、再現技術のかね合によって単位量は決定される。統計処理をする場合もサンプル数と誤差を考慮しなくてはならない。[s339]
単位量の決定は再現の質に影響する。数量化する意味と、数量によって再現される意味をすり替えて、対象を量ってはならない。[s340]
また自然定数として定まる物理量もある。光の速度、粒子として現れるエネルギー単位。人の目的によって決められた尺度も、自然定数も、それぞれに相互に変換が可能であり、相互の関係は一定である。[s341]

【比】

量の相対的比較として比がある。比は単位で量られた値の関係である。比は安定した相互作用の形式的関係として保存される。比の前提は同じ質であることは当然として、量の基準が共通していなくてはならない。一定の相互作用のうちにあっての量的現れの関係である。[s342]
三角形の三辺は、直線によって閉じた平面空間としてある。開いていては三角形をなさない。三辺は閉じた平面空間として逆に三角形の要素として相互に規定し有っている。決して一辺は他の辺と平行になることはない。三角形としての三辺の相互関係として、1つの角が直角であることによって三辺の長さそれぞれの平方の関係がある。[s343]
個数は存在として保存されるデジタル量であるのに対し、比は運動形式として保存されるアナログ量である。[s344]
比はひっとつの量的関係の値として、他の量的関係との比較基準になる。質的に異なる相互作用間の関係を何らかの基準によって直接的に計量しなくとも、それぞれに現れる比によって量的関係の構造を比較することができる。[s345]
量的比較に限った単純な関係形式である。普遍的関係を探る入り口でもある。[s346]

【関数】

関数の定義:関数は変化量と別の変化量との対応関係を示すものである。[s347]

関数の機能:関数によって変化を予測することができる。直接観測できないことがらを、既知の変化から計算することができる。関数は相互規定の量的関係を形式化して定義する。質を現す相互規定の量的関係を関数で表せれば、対称そのものを量的に規定することができる。[s348]
関数に含まれる係数を求めることで対象の変化の法則性を抽象できる。[s349]
関数の適用:関数は明らかな対象の変化量を計算、表現するものであって、未知のものそのもの、あるいは既知であっても対象の存在、構造を隠してしまう。関数は対象を構成する規定関係に対応しているから対象を計算可能にする。対象を構成する規定関係と関数関係とが正しく対応しているかは、関数の利用とは別の問題である。対象の規定関係と関数関係との対応が維持されているかは別途検証しなくてはならない。いわばブラックボックス化することになってはならない。[s350]

【量の量】

さらに、量は他との関係において、異なる次元の量の組合せによっても、ひとつの量として現れる。単独でも現れる相互作用が複数組合わさって、複合されてはいても、単独の相互作用として他と関係し、他と区別される場合がある。速度と時間に対する加速度、というように。逆に運動から形式的関係を抽象することもできる。運動速度から、長さと時間とを抽象する。運動速度からの抽象であっても、長さと時間は日常経験に依拠してあたかも客観的存在基準のように感ぜられる。同じことは相対性理論でも現れる。日常経験では質量と運動エネルギーはあたかも対立し、重いものはより大きなエネルギーによってしか運動を変えることはできないと解釈される。しかし相対性理論では質量と運動エネルギーは同じものの別の現れであり、相互に転化し、光速度に近づくほど質量は増し、高速度では無限の運動エネルギーを担うことになる。[s351]
また、相互作用の相対的全体に対する関係にあっても、量として相互の違いが現れる。同じ相互作用がまとまった作用として、どれほどまとまるか、まとまりの全体としての相対的全体に対する、相互作用の量である。密度などの量である。[s352]

【統計量】

数量化された対象間を比較する際、個々の要素の対応関係を比較するのではなく代表値によって比較する。[s353]
対象を数量化した個々の要素のデータとしての集合を様々な指標で表現する。したがって、個々の要素のデータと統計量・指標は一致しない。一致しない程度、頻度、程度も指標として表現される。[s354]
統計量は傾向としての量であるが、現実的な量でもある。物理量の圧力、温度等は統計量であるが、実際の道具、圧力計、温度計を使って測ることができる。[s355]
平均値は母集団の値として実在する。母集団に変化があっれば平均値も変動する。ただし、分散が同じ比で変化したのでは平均値に変化は表れない。平均値が作用量としてあるのではないが、実在を表している。個別存在の量ではなく、個別存在集団の存在量を表している。[s356]

統計は対象の規定性を表わすものではない。すべての対象が数量として表現できるからといって、すべての物事の関係を統計によって把握することは不可能である。すべての物事は単に有としての規定をもつだけであり、統計は成り立たない。何らかの質を規定された物事の相関を明らかにする手段として統計は有効になる。そこに質的相関がなければ、統計的相関は意味をなさない。意味ある統計的研究方法は、研究者の見識として質的相関の推定がなくては成果をえることはできない。[s357]

【確率値】

投げ上げた硬貨が落ちて、裏表どちらが出るかは、偶然である。しかし統計を取れば、二分の一の確率に限りなく近ずく。あるいは、二分の一からの誤差が、硬貨そのものの不均一さを示す。光、あるいは電子がスリットを通ってスクリーンに当たるとき、一つ一つの場合はランダムである。しかし、多くなればなるほど干渉縞がはっきりと現れる。[s358]
確率は個々の事象の生起を規定するものではない。個々の事象の生起を規定するのは、それぞれの事象自体の運動であり、そしてその環境である。確率は運動法則を表すのではなく、一定の環境でのそれぞれの事象の現れる傾向を表すのである。[s359]
人の死ぬ確率は問題にならない。人は皆死ぬのである。確率によって人々の、あるいは個々の人の生理的、社会的環境で、何歳まで生きる可能性があるかを推定するのである。平均余命を計算することで安定した保険制度を維持できる。個々の人が推定される確率で死ぬことは規定されていない。しかし、対象とする人全体は環境条件の評価に誤りがなければ、確率どおりに死ぬ。[s360]
確率によって、不可能性を量ることができる。宇宙の歴史で1回起きるかどうかの事象は、不可能と判断できる。それ以下の確立はそれ以上に不可能である。[s361]

【定数】

数学方程式の変数に対する定数ではなく、世界の要素を数量化した場合に不変量となる数がある。存在の質によって定まる一定の量がある。[s362]
数学にあっては円周率(π)、自然対数の底(e)、虚数単位(i)等。物理学にあっては光速度(c)、万有引力定数(G)、プランク定数(h)等。これらの数は便宜的に仮定された量ではない。量を量るものの都合や、目的によって定められたものではない。 空間の構造の性質を表す普遍的な数である。[s363]
したがって安定した局所的環境でも、その環境条件が保存される間成り立つ数量関係比が定数にもなる。[s364]

【物理量】

作用素、演算子と呼ばれるもので表される。[s365]
存在とは何かを考える基本的な量である。質量など、具体的な物の存在の他の物との関係で特定できる量はわかりやすい。[s366]
速度など物の運動に関わる量はわかりにくくなる。その瞬間の速度とは測定不可能な量である。速度は通常、平均値として測定される。[s367]
エネルギー、エントロピー、熱、圧力等も物理量である。計測できる存在である。しかしその存在としては、分子、原子の運動の総計として測られる物であって、分子、原子の個々の運動を測定することによっては測ることのできない量である。[s368]
物理変数と物理量、存在量。対象を決めれば決まる対象の普遍量である。物理量で規定された対象は、対称性をもつ。物理的関係では個別存在は個性をもたないのである。同じ種類の量子を日常的感覚で区別することに意味がないだけではなく、分子レベルでも同じ質の分子は相互に対称である。[s369]
対象の状態を決定したときに現れる量が測定値である。測定値は対象だけによって規定される量ではない。観測環境との相互作用において規定される量である。量子力学の観測問題としての「擾乱」の理論的問題としてではなく、観測過程の現実の制限としてあるのである。だからこそ、同じ観測環境での測定値間の比較によって客観的関係を測定するのである。観測環境と対象との関係を測定するのではない。だからこそ、測定値の値ではなく測定値の評価を無視して、客観的対象を観測することはできない。観測は主観的でなくてはならない、と主張するのではない。観測も評価という主観的過程を経て客観化されなければならないのである。[s370]

誤差

真の値は測定することができない。測定値と真の値の隔たりは誤差として推計される。誤差も真の値もそれぞれに測定はできないが存在する。誤差をなくすことはできないが、必要なだけ小さくする必要がある。[s371]

ここにも認識構造の基本的問題が表れる。[s372]
真の値は認識しえないが存在する。真の値は実在を反映する。認識できるかどうかに関わりなく、実在の値として真の値は存在する。真の値が存在しなければ、測定値も誤差も存在しえない。[s373]
しかし、個別科学では、「値」自体が対象と測定系との相互関係を前提にしている。測定系の対象としての値は目標としての真の値と、結果としての測定値に分かれてしまう。[s374]
真の値は目標としての値であるが、測定値を介して、測定値の精度を上げる認識過程を介して、世界全体の理解のうちに実在として反省される。世界の存在と同程度に確かな存在として真の値は存在する。真の値は個別科学の実証性とは異なる「真」である。真の値は、量子力学での位置と運動量の相補的関係とは別の問題である。[s375]


第4節 部分 III

全体を否定し、全体と対立する部分ではなく、質と量をもつものとして規定される部分である。世界を構成する基本単位としての部分である。[s376]

相互規定によって区別された部分は、他に対して自己規定する。相互規定は自己規定化する。全体に対する相互規定の相対性に対し、規定を対象として保存する。全体に対する相互規定は全体の対称性を破るものとしてあるが、同時に部分にとっては対象性の獲得としてある。自己規定の保存は対象性の獲得である。他を対象とする部分であり、他との相互規定の対象となる部分である。他を対象とし、自らを対象とする部分として自己規定を保存する。[s377]

【部分の存在】

部分は相対的静止として全体の絶対的運動と区別、対立する。部分は全体の一部として絶対的運動でありながら、運動の相対的静止として実現する。部分は運動でありながら、その静止として、絶対的な運動から析出する。絶対的運動でありながら、絶対的でない部分である。全体の一部分でありながら、全体でない部分として運動する。絶対的な運動に対立する、相対的部分の運動主体として部分は現実存在である。[s378]
運動自体が絶対的運動の否定であった。絶対的運動の否定、対称性を破るものとして運動はある。絶対的運動の対称性を破って現れるのは、非対称の部分である。運動は絶対的運動の対称性を破り、非対称の部分として、相対的運動として現れる。相対的運動は部分としての運動でありながら、部分としての運動を保存する。保存は静止である。運動と静止は対立概念ではあるが、部分は運動と静止の統一としてある。相対的運動は変化を表すとともに、当の運動の規定を保存する過程として静止、不変である。[s379]
運動と静止は部分の同等な構成部分としてあるのではない。部分の現れ方の違いである。部分は運動するものでありながら、他の部分と区別される存在である。他の部分との区別を保存する部分は、規定を保存している。保存される規定は部分の静止の現れである。別の表現をするなら、部分の内容は運動であり、部分の形式は静止である。[s380]

相互作用は全体と部分の相互作用ではなく、部分間の相互作用である。相互作用として区別される作用主体が部分である。しかし、部分があってその部分が相互作用するのではない。相互作用として部分が相互に規定されるのである。[s381]
部分は全体との対立関係の形式的区別ではない。部分間の形式として区別されるものではない。部分は存在としての質量の単位である。部分は存在単位としての質量をもつ。どのような質量をもつかは論理の問題ではない。部分が現れる歴史的過程によって具体的質量が形成されてきた。質量の具体的規定は個別科学に学ぶしかない。[s382]
部分は全体の内に関係する存在でありながら、それとして独立した存在である。「もの」としてまとまりのあるものである。運動の主体であり、運動の対象であり、認識の対象であり、他と区別される存在一般である。[s383]


第1項 存在一般

【部分の限定】

部分は他の部分と区別され規定される。部分は規定された有限の存在である。部分のすべてとして無限の全体を構成することはできるが、個々の部分は限定された、有限の存在である。部分は全体に対し有限である。しかし、部分は相対的全体として、そのうちに無限の部分を含みえる。ただし相対的全体として限定された無限を含むのである。無限自体が無限でありながら、限定されえる規定である。自然数は自然数として規定された無限である。限定されない無限は全体であり、限定されない無限は部分と同じに扱うことはできない。限定された部分として、無限も部分のありようの一つとして、他の部分と相互関係をもちうる。限定された無限であることで、他の無限でない部分との意味の違いを問うことができる。[s384]

部分は全体に対し一定の質をもって相対的全体を構成する。一定の質の部分によって構成される相対的全体は、すべての全体ではないが、一定の質の相対的全体である。一つの質によって規定される相対的全体である。質的に規定された全体に対し、個々の部分は量的には限定されるが、質的には同等であり、対称である。個々の部分は区別することができない。部分は量的には限定されるが、質的には限定されない。部分の質は前提として規定されており、個々の部分を区別する質としては現れない。部分に個別性はない。部分はユニークではない。[s385]

部分に個別性が現れるのは個別対象として、異なる複数の質によって規定性されてからである。部分が複数の質によって規定され、構造をなすことによって部分相互に区別されるようになる。同じ素粒子は相互に区別できない。異なる素粒子が原子構造をなすことによって、各元素が区別される。無性生殖の単細胞生物はそれぞれの個体を生理的に区別することはできず、世代を区別することもできない。一つの職種の労働者のうち誰が雇用され、誰が解雇されるかは職能による区別ではなく、労務管理の対象としての違いによる。[s386]

【部分の内外の区別】

部分は相互作用の関係を構成する作用点であり、相互作用によって他と区別される存在である。全体の運動としての相互作用は部分によって区別され、部分の相互作用は部分間を区別する。部分の相互作用間の関係が相互作用を区別する。[s387]
部分間の相互規定の保存は、部分を自己規定する。部分間の相互規定は相対的であるが、保存されることによって部分の自己規定となる。自己を保存する規定として、部分にとって総体的規定になる。部分間の相互規定を前提として、その相互規定が保存される限り、部分は保存され、部分間の相互規定は部分の規定として保存される。部分間の相互規定は部分の自己規定に転化する。[s388]
相互作用が一様ではなく、相対的に安定な場と不安定な場の違いがあれば部分の自己規定は安定な場でよりよく保存される。安定と不安定は相互作用=運動の同じ質の場での量的違いである。相互作用自体が平衡と非平衡との相対的関係にある。平衡は安定な平衡と不安定な平衡とがある。非平衡な外部環境にあって、内部的には平衡化する相互作用が安定な平衡である。相互作用の量的関係がU字型のグラフを作るとき、安定な場である。非平衡な外部環境にあって、内部的にたまたま平衡状態にあり、内外いづれかの条件によって非平衡化する相互作用が不安定な場である。相互作用の量的関係が∩型のグラフを作るとき、不安定な場である。外部環境は非平衡にあるが部分的に平衡が実現する。安定な平衡の実現は様々な質の場にある。部分は完全に閉じてはいないし、完全に開いてもいない。[s389]
異なる安定な平衡が重なり合うとより安定な相互作用の場が実現する。ここの相互作用の規定関係が、重なり合った平衡をより安定して保存する。このより安定した規定関係によって部分の自己規定が実現する。相互規定の自己規定への転化は、相互規定の組織化として実現する。単独の相互規定では相互に区別するだけであって、自己規定にはならない。[s390]
この自己規定によって部分の内外は区別される。一つの相互作用では部分の区別は保存されない。たまたまの平衡も、非平衡へ還元される。双方向の規定関係が連なり、閉じた規定関係になることによって自己規定が完成される。[s391]

全体の対称性の破れが部分を生み、部分間の対称性の破れが部分の多様性を生む。部分の他との関係、他との相互作用は相互作用間の区別を生む。多くの部分は単独の相互作用ではなく、複数の相互作用によって区別される。複数の相互作用によって区別される個々の部分は、他との相互作用に対応した内部の運動を区別する。部分は内部の平衡な運動と外部の非平衡な運動とを区別する。[s392]
基礎となる相互作用は普遍的な運動であり、そのうちの安定した平衡状態の重なり合いからそれぞれ異なる規定関係が異なる部分を実現する。基礎となる相互作用が普遍的であることによって、部分は孤立しない。部分内部の相互作用と他の部分との相互作用の階層を実現する。部分間の新しい相互作用を実現する。部分間に部分内部とは質的に異なる相互作用を実現し、部分の内外を区別する。[s393]
部分の内外を区別を担う相互作用が物質化すると膜となる。部分の内外の区別は、幾何学的境界としてだけでなく、生物、非生物どちらにおいても物質的に膜として内外を区別する。[s394]

【部分の内部構造】

複数の相互作用は部分の内外で重なり合い、部分において相互作用相互に閉じた規定関係を実現する。相互作用の重なり合いは多様化の実現である。同じ相互作用が異なった相互作用と重なり合うことによって、異なった規定関係を実現する。異なる相互作用の重なり合いは、異なる質の部分を実現する。しかし基礎をなすのは、普遍的な相互作用であり、どの部分も非平衡な全体の相互作用によって連関させている。[s395]
部分を形成する複数の相互作用は、相互作用間の関係として構造をなす。部分の相互作用は相互作用間で相互作用し、部分の構造をつくる。部分は部分を部分として構造をつくる。相互作用間の相互作用のまとまりの関係は部分の内部構造である。[s396]
構造は相互関係の関係である。相互関係の関係が相互関係と同程度に安定して保存される関係にあるとき、構造として現れる。関係の関係は一次にとどまらないし、一種類の関係にとどまらない。多元多次な多様な関係に発展する。[s3977]
そもそも相互作用は単独であるのではなく、相対的運動全体の一部分であり、無数の相互作用として全体の運動をなしている。それらの中で、相互作用間の相互作用を作り出し、相互作用の集合、部分を作り出す。相互作用は相互作用間の相互作用を生成し、部分的、そして全体的相互作用の関係を発展させる。相互作用間の相互作用の系の発展として、部分は多様な存在形態を取るようになる。[s398]

【部分の運動形態】

したがって、部分は幾つもの重なり合う質を持ち、その質の複合したものとしての特徴を持つ。この複数の質は、それが単独にある場合とは異なり、部分としてのまとまりによって現れ方を変化させる。部分の質は部分として統合された質として現れる。部分を構成する質それぞれとは違った規定性を実現する。[s399]
部分は全体の運動としては他と同じ全体の運動であるが、部分の内と外とでは運動の形が異なる。部分の外の運動が部分の内にはいると、部分を全体とする運動に取り込まれる。運動は部分の内にあっては、部分を全体とする閉じられたものとなる。全体的運動の一部分であるから運動し、存在するのである。全体の運動としては他と区別できない開かれた構造である。しかし、部分としての運動は全体の運動でありつつ、全体の運動に還元されない部分として完結した運動をする。全体に対して開かれてはいつつ、部分として閉じた運動をするのが部分の運動形態である。[s400]
部分は全体の非平衡な相互作用にあって、自己規定を保存する運動をする。同時に部分として他の部分との相互作用としての運動もする。生物は基礎代謝によって個体を維持・保存する。基礎代謝は生物の自己規定の運動である。基礎代謝を安定化し、またより効率的な基礎代謝を実現するために、個体としての運動によって進化した。個体としての運動は、基礎代謝に媒介され、同時に基礎代謝を実現する運動でもある。さらに、個体としての運動は基礎代謝を超えて、個体独自の運動を実現する。[s401]

【部分の存在形式】

部分は部分としての運動としての量を持つ。部分は様々な集合、広がりとして作用する量をなす。部分は質と量を持つつ現実的な存在形態の単位、節である。[s402]
部分は全体の絶対的運動の単なる一部分ではない。部分は全体の運動でありつつ、全体の運動でない構造をなす。しかも、部分は他と区別する境界を持つ。[s403]
部分の運動が発展すればするほど、部分の境界は外と内とで運動を区別するだけではなく、内と外との運動を相互に変換する場となる。運動として相互に作用し合いつつ、存在として他と隔絶する。この対立する運動を統一し相互に変換する境界が独得の機能をする。[s404]
部分の境界面の機能も、部分の構造によって多様なものになる。[s405]

【時空の実現】  全体は絶対的対称性にある。全体の否定として部分がある。全体を否定する部分間は対称である。全体との関係で部分は対称である。[s406]

部分は相互に規定し合うことで、対称性を破る。部分間の関係で部分は非対称化する。相互規定する部分は質・量を実現する。[s407]
全体に対する部分の対称性は質であり、部分間の非対称性は量である。質・量によって規定される部分が個別存在である。[s408]
個別存在の質は全体に対して対称であり普遍的である。存在すること自体が普遍的である。個別存在の量は部分として非対称であり、個別的である。個別存在は存在として普遍的であり、その非対称性として個別的である。個別存在の相互規定を媒介しての個別存在自体の構造化は、個別存在自体のより非対称化である。[s409]
すべての個別存在の全体として、全体は空間を構成する。それぞれに区別される部分を位置づける空間である。個別存在によって区別される部分間の関係、連なりとして空間が実現し、規定される。[s410]

非対称化、対称性の破れる過程は非可逆過程である。規定と、規定の規定へと進む課程は、無規定へと逆行はしない。規定は失われることのない、普遍的な運動を表す。非対称化、対称性の破れる過程である、個別存在の運動過程は普遍的全体の一部である。個別存在の運動過程の非可逆性は、全体の可逆性である。全体の運動の非可逆性として時間が実現し、規定される。[s411]
部分としての個別存在を抽象するなら、それらは対称である。しかし、全体の過程の中でそれらは区別される。対称である部分が相互に区別されるのは、空間、時間に対して非対称であるからである。空間、時間に規定される非対称性は歴史性にである。[s412]
個別存在は歴史的規定によって、絶対的非対称性を実現する。歴史的過程にあって、個別存在は具体的個別として実現する。[s413]


第2項 空間

【空間の関係】

運動は相互作用であり、相対的関係としてある。運動は相対的関係にあって、互いに連なり合い、そして全体と連なり、全体をなしている。この相互作用の連なり具合いが空間である。運動の広がりが空間である。[s414]
相互作用の連なりによって部分の相互関係があるのであり、個々の相互作用によって全体の相互関係がある。[s415]

個々の相互作用は孤立しておらず、全体の相互関係の中にある。個々の相互作用は、作用の結果として他と関連し、全体につながるのではない。個々の相互作用はその作用の始まりから終わりまで他と連なり、全体と関係している。存在そのものが他との関連である。個々の相互作用は、作用のあらゆる要素を通して他と連なり、全体と関係している。常に全体と連なり、全体の一部分として相互作用は相互関係のひとつの節をなしている。そのすべての相互作用からなる全体の相互作用が空間である。[s416]

【絶対空間と実在空間】

部分からなる相対空間に対して、全体は絶対空間といえる。しかし、部分なしの全体は抽象であり、何も内容を伴わない。絶対的全体は何も含まず、ただ相対空間の拡張の究極として概念化される、反省規定でしかない。絶対空間の物質性は一般相対性理論によって否定されている。絶対空間は部分間の連関の反省から観念的に導き出される観念である。[s417]
他方、観念に対する実在としての空間も、相互作用の場としてある。実在空間は、物事の入れ物として実在するのではない。実在空間は、物事の実在を実現する場としてある。[s418]
実在の物事を概念として定義し、概念間の関係を空間として定義することができる。概念として定義する空間が、論理空間である。論理空間は論理系を実現する空間である。[s419]

【外部空間と内部空間】

部分の内外が部分の存在を規定する。部分は内なる相互作用の系として、内部空間を定義することができる。同様に部分の他との関係として、外部空間を定義することができる。しかし、内部空間の規定関係と外部空間の規定関係は相対的規定でしかない。部分自体が相対的であり、部分は部分を含み、また全体の部分である。部分は自己規定するものとして客観的存在であるが、その自己規定は他との相互規定を媒介にして実現しているのであり、相対的規定である。[s420]

【空間の形式】

空間は何かの入れ物でもないし、空の空間などもない。空間は運動の連なり具合いの形式のひとつであって、空間というものが存在しているのではない。空間は運動を定量化するための形式である。[s421]
空間は距離と方向によって測られるが、これは特定の相互作用の隔たりと、その要素を示すものである。相互作用に隔たりがあってこそ距離が問題になる。相互作用が実際に働く要素の対があって、方向が問題になる。[s422]
距離にしろ、方向にしろ、その定量化する単位、あるいは原点は、問題とする相互作用によって決めるものである。距離、方向の基準は、複数の相互作用間の関係として決めるのであって、相対的なものである。空間の絶対的基準などはないし、絶対的空間なども実在しない。[s423]


第3項 時間

【時間の関係】

時間は運動の継続である。[s424]
時間がなければ運動がないのではなく、運動がなければ時間も問題にならない。運動が存在するのであって、時間が存在するのではない。[s425]
運動の経過を比較する尺度として時間が計られる。時間はなんらかの絶対的時間があるわけではない。時間は、運動そのものに従属して決まるものであり、複数の運動を比較することで意味づけられる。[s426]
地球の自転や公転、あるいはセシウム原子の振動を基準に時間の単位を固定し、寿命の長短、社会現象の遅速を問題にしても、意味はないのである。あっても目安でしかない。[s427]
個々の運動において問題となる時間を絶対的時間の基準とすることはできない。個々の運動の相対的関係の全体として、全体の運動による時間を問題にできるが、それは相対的なものである。[s428]

【時間の尺度】

運動、空間が普遍的であるように時間も普遍的である。時間は主観によって感じられるだけのものではなく、実在の運動の普遍的形式の一つである。実在の運動の時間的普遍性は元素の半減期として実感することができる。主観的判断でも、地球の公転の揺らぎに影響もされない、普遍的な時間が存在する。また、宇宙の時間もその空間的膨張に比例して表れている。時間的に古いものほど空間的に遠くに、またより早く遠ざかる天体として存在している。[s429]
空間も、時間も個々の関係では相対的であるが、全体の関係として客観的に、普遍的に存在している。[s430]

【過去・現在・未来】

過去・現在・未来の連続は解釈にすぎず、可能性である。実在は運動であり、運動の過程としてある。その過程を空間的解釈の類推で前後を区別することによって定義する観念である。時間の反省規定として過去・現在・未来は区別される。[s431]
過去の存在、未来の存在は、実在とは別の解釈として成り立つ。過去の存在は結果としての現在を実現した原因であるし、未来の存在は現在の可能性としてある。過去も、未来も相互作用の関係としては存在しえない。過去も、未来も一方的規定関係としてしか想定できない。過去は現在を一方的に規定し、未来は現在が一方的に規定する。過去も、未来も存在規定として、物事の有りようとは別のもの、反省規定として定義されるのである。[s432]

だからこそ同時性は成り立たない。現在とは過去とも、未来とも区別される、運動過程における同時性の決定を想定しているが、一般相対性理論では同時であることを測定することは原理的にできない。運動の全体を反省することによってのみ、同時性を判定できる。過去・現在・未来は反省規定である。[s433]

【時間の非可逆性】

時間は運動の過程、経過によって方向をもって進む。すべての運動が全体の一部分であり、運動のすべてとして全体があるように、時間も全体として一定の方向をもっている。全体の運動を問題とするとき、時間は一様であり、一定である。[s434]
しかし、個々の運動についての時間は、一定の方向が全体の時間と同じであっても、一様ではなく相対的である。個々の運動は時間に対して対称でありえる。原因と結果を入れ替えても同じ関係が成り立ちえる。また、同じ運動が繰り返されうる。物事には再現性がある。物事に再現性があり、対称性があるのが日常経験の普遍性である。だからこそ、科学は普遍的な知識を獲得でき、因果法則が成り立つ。日常経験では一般に時間は可逆であり、取り返しがつく。それでも、日常経験を超え、一生を基準にとると再現性は消える。[s435]
個々の運動の時間であっても、方向は一定であり全体と一致している。すなわち、時間の逆転はありえない。ありうるのは運動の逆転である。運動の逆転と言っても、相対的全体の中の一部分が相対的に逆転するのであり、運動の全体が逆転することはない。[s436]
ひとつの運動の原因と結果が、逆に結果が原因となって元の原因が結果した場合でも、それは運動が別の逆の運動になったのであり、時間が逆転したのではない。[s437]
時間の非可逆性は物理学によって、熱力学の第二法則から定義されている。[s438]

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