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第一部 第二編 一般的、論理的世界

第7章 部分の諸性質


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第7章 部分の諸性質 (個別の運動  運動  III )

全体の否定である部分が相対的全体として全体性を回復し、実現する。全体性として普遍でありながら、個別としてある存在の有り様である。一つひとつのものとして存在、運動する個別存在である。[0001]

「第4章 全体」の検討から導かれた全体の性質を実現する部分を個別として検討する。[0002]
全体と部分の対立と統一として現れる運動が、運動主体として全体性をもちながら、部分としての独自性を実現していく。運動主体として、存在主体としての全体に対する部分が個別存在である。[0003]
個別存在は固定したものではない。すべての存在が運動過程としてあり、その形式が一時的に保存されることによって静止し、個別を区別する。全体の運動は形式、秩序を崩すエントロピーの増大の方向にありながら、部分の運動は形を作り出し、秩序を作り、エントロピーを減少させる方向にある。そこに実現する個別存在である。[0004]
部分の運動を階層的に発展させ、階層的運動主体として個別が存在する。[0005]
日常経験的に対象を個別存在とし、ひるがえって自らを実践主体として個別存在として認識している。全体と部分の規定から導かれる個別存在と、日常経験に対象化している個別存在を一致させる。[0006]


第1節 個別存在

他と関係して、他と区別される運動としての個別存在は運動の主体である。同時に、個別存在は全体から区別され、全体を否定し、全体を構成する。個別存在は運動の主体として、いわゆる「もの」である。「最も具体的な存在」「実在」等等と呼ばれる、それぞれのものである。[1001]
個別存在は認識対象として便宜的に区分された部分ではない。個別存在は相互に区別される対象性をもつ。個別存在は相互に作用し合う対象性をもつ。個別存在は相互作用する運動主体として、存在の主体である。[1002]
個別存在を普遍的規定によって定義することによって、多様な現れ方をする個別存在を同じ対象として扱うことができる。様々な個性をもつ老若男女も人間としての質=規定で扱うことによって人間性を定義できる。それぞれをアミノ酸の集合として扱うなら、20種類のアミノ酸の比と、量の違いでしかなくなってしまう。そのかわり、地上のすべての生物との関係で扱うことができる。[1003]
私も一つの個別存在である。私は一つの個別存在としての定義に当てはまる。しかし、「個別存在」は存在の有り様であって、私の有り様は多様である。「個別存在」は全体に対する個別であり、部分として他と区別される存在である。同時に、私は私を構成する諸個別存在の総体として、相対的全体としての個別存在でもある。個別存在としての私は単一の定義で定義し尽くされるものではない。[1004]
私は人の子として、他の子と区別され関係している。同時に人の親として、他の親と区別され関係している。子であること、親であることは私の属性ではない。子であること、親であることは私自身の有り様である。属性は個別存在の普遍的性質のことである。個別が属する普遍の性質が類属性である。普遍に対し個別を区別する性質が種特性である。私が子であり、親であることは私の普遍的属性ではない。かつて、私は親ではなかったし、これから子でも、親でもなくなる可能性がある。人間であるということは私の属性であり、私が私である限りまちがいない。[1005]
また、私は動物であるとの、生物であるとの属性ももつ。動物であり、生物であるとの属性から、私は約60兆個の細胞という個別存在から構成されている。私は私を構成する60兆個の細胞を確認することはできない。しかし、条件が与えられれば、数個の細胞を確認することはできる。個別存在として私を構成する細胞は表皮細胞や筋細胞、神経細胞、骨細胞等々、より詳しく分類することもできる。私を構成する細胞はこのように多様に分化し、それぞれが多数の個別存在としてある。さらに、私を構成する細胞は主にタンパク質と脂質と水によって構成され、タンパク質はアミノ酸によって、アミノ酸は炭素、酸素、水素、その他の原子によって構成され、それぞれの原子は陽子と、中性子と、電子によって構成され、またそれらはクオークによって構成されるという。これらの個別存在によって私という個別存在が構成されている。[1006]
ただし、私を構成する個別存在の一つ一つが私であるのではない。私を構成する個別存在は私を構成している限り私の一部分であるのであり、私を離れてもそれぞれ個別存在として存在し続けるが、私を離れては私という個別存在を構成するものではなくなる。タンパク質は分解され、皮膚は垢となり、髪は加速度的に私でなくなっていく。[1007]
このように個別存在という定義は非常に具体的でもあり、非常に抽象的でもある。[1008]
 個別存在はユニークである。同じ定義をもつものであっても相互に唯一の存在である。個別存在は非対称である。他と非対称であるから、個別として対象化される。[1009]
すべての個別存在は単独では存在せず、複数の相互作用の連関にある。個別存在は複数の規定をもつ。観念的対象ですら空間的位置、時間的位置の形式的規定をもつ。我々の日常経験的対象のそれぞれは、我々の認識能力を超える多数の規定をもつ。単に多数であるだけではなく、階層構造をなして重ね合わされた規定をもつ。我々はほとんど無限の規定のうちの一つ、多くて数個の規定によって対象を捨象している。我々は多くて数個の規定によって対象化し、名付けて個々の対象として扱っている。[1010]

【個別規定の可能性】

多数の規定からなる個別存在が、規定間に齟齬を生じることなく一つの個別存在として規定されるのはどのようにしてなのか。[1011]
より普遍的な規定では個々の個別存在を規定できないほどに対称性がある。個別を区別できない普遍的規定存在でありながら、ユニークな個別存在を構成する。対称性から非対称性へ対称性を破る規定が実現される。単純な物から複雑な物への発展のどこかで対称性が破れ、個別の規定が実現する。この対称性の破れは物理ではビックバンからの宇宙史の過程である。対称性の破れは、生物では生命の発生過程であり、進化の過程であり、個体の発生過程である。論理では必然性と偶然性の転化の過程である。[1012]
個別存在からそれを構成する個別存在をたどって、個別を区別できない存在を求めることができる。個性としての人格は個人間で明らかに区別される。ヒトの細胞レベルでは免疫による個体の区別がある。しかし、個体内の器官組織細胞間には対称性がある。アミノ酸レベルでは個体の区別をすることはできない。ヒト個体の区別どころか生物種間でのそれぞれのアミノ酸を区別することはできない。個人を構成する分子は新陳代謝により次々と入れ替わっている。それぞれの生物種個体を構成する原子は、非生物の原子とも区別することはできない。意識は常に対象を変え、記憶は新しい対象を獲得し、古い記憶を失い固定した状態にあることはない。[1013]
逆に、個人が構成する社会では、ユニークであるはずの個人が対称の存在になってしまう。労働者としての存在は一定の技能、資格をもつ者を区別しない。それでも、個人は一つのユニークな存在として規定される。個人は我々にとって特別な個別存在である。個人としての私は、疑いようのない、他に取って代わることのない特別の個別存在である。[1014]
単に主観によって他と区別される対象が個別存在なのではない。世界全体の中に、他と区別される、唯一として規定される個別存在がある。それぞれの個別存在はどのように規定されて区別されるのか。[1015]

個別存在そのものは単体であるか、複合体である。一つの規定として存在する単体は相互に区別することすらできない。電子、陽子、中性子等の質にあって電子どうし、陽子どうし、中性子どうしを区別することはできない。原子間の相互作用としての化学的関係にあって相互の区別が現れる。原子以上の物質ではすべての個別存在が複合体である。[1016]

【単体の規定】

単一の規定において対称であるものが単体である。単体は単一の質だけからなる。[1017]
通常の個別存在は複合体である。より基本的個別存在を要素とする複合体として通常の個別存在はある。複合体の最小の構成単位としての単体の追求が、科学の歴史を貫いている。ギリシャ時代からの元素、アトムの想定であった。[1018]
ただし、唯物論の立場からも単体の存在を否定する見解もある。「物質は汲み尽くすことができない」として。「どのような物質もさらに基本的な物質から構成され、自然には無限の階層がある」とする。しかし、光がより基本的な物質から構成された物であるとは思えない。素粒子のレベルでは個々の粒子を区別することができないのは、区別を認識できないからではなく、存在・運動自体が原理的に個別を区別する対象ではないことからして、単体の存在を前提にしてよいのではないか。単体と言っても局所化できる対象ではなく、確率的に存在を規定できるだけである。他との、全体との関係によってだけ規定される存在である。
光は光として、光どうし区別することはできない。光を区別するのはそれぞれの属性である。光は振幅と波長という属性をもち、その違いによって区別される。あるいは電子との相互作用によって、電子の位置から光の位置が特定される。[1019]

「相互作用場の励起した状態が量子である。」なら、励起が全体に対して単体を規定することになる。量子力学がイメージで解釈できるくらいに、わかりやすくなってくれないと。40年近く前、素粒子論の解説書を読んでもチンプンカンプンだった。それが高エネルギー物理学の発達とともに、概略なら素人にも分かるように整理されてきた。[1020]

 単体が複合して多様な存在が現れるが、再び単体が現れるのは文化のレベルである。概念や記号は同じ規定をもつものどうしは相互に区別できない普遍性を再び獲得している。文化レベルの個別存在は普遍性を獲得した抽象的個別存在である。概念はひとつの規定を表すものであるから、単体であることは明らかである。[1021]

「1」は他のどの数に対しても「1」以外の数として関係することはない。「愛」「人間」「尊厳」等は具体的他との関係に関わることによって多様であるが、「愛」「人間」「尊厳」自体の概念としての規定はただ1つであり、概念としての単体である。概念が単体として存在しえるのは、概念間の相互規定としてのみ規定され、対象からは独立して、観念として存在するからである。しかも、文化的、歴史的に異なる民族にあっても存在する普遍的な概念である。[1022]
単一の規定としての単体「概念」が、解釈で多様に現れるのは、複合された規定であるからではない。単一であるからこそ多様な他の規定と組み合わさっても、その規定を保存し、同一でありつづける。[1023]
単一の規定で区別される存在は明らかに個別存在である。しかし、同じ規定の個別存在間は対称である。単体としての個別存在は、異なる規定の個別存在とは区別されるが、同じ規定の個別存在とは区別されない。ただし、単体であっても個別存在として他と単一の連関にあるのではない。相互作用は単一の関連としてあるのではなく、全体の連関の一部分としてある。単体であっても他との複数の連関にある。認識の対象として単体を単独に対象化し、捨象することはできるが、現実の対象は認識対象としての関連以外の他の対象との関連にある。単体は分節化によって区分されるのではない。分節は主観の認識での対象化の機能である。[1024]

【複合体の規定】

複数の単体からなる個別存在は複合体である。複合体である個別存在の対立と統一は、複合であるための他との相互作用と個別存在の保存との間に現れる。他との相互作用において一方的に他によって否定・規定されるのではなく、自らを保存する運動として他との対立を止揚し、自らを規定する。他との対立は個別存在の規定=質において現れるのである。複合体である個別存在を構成する単体における他との対立としては現れない。[1025]
複合体では他との相互作用は他との区別でありまた同時に同一である。新陳代謝では同化と異化は一つの生理過程として統一されている。[1026]
アミノ酸は生物個体にとっては自他の区別はない。どのようなタンパク質を構成する物であっても、同じアミノ酸であるから自らを構成する要素として取り入れることができる。しかし、アミノ酸としては対称であっても、食物としては生物個体にとって対象であって、対称ではない。自他を区別する他としての、自らとは別個の個別存在である。消化器の内にあってもまだ他である。血管のうちに取り込まれたときには、アミノ酸としての個別存在は保存しつつも、生物個体を構成する要素としての規定を受ける。消化によってタンパク質としての個別存在は消化されるが、アミノ酸としての個別存在規定は保存される。アミノ酸としての個別存在規定は保存されるが、生物個体の構成要素としての規定が追加され、複合体としての生物個体を構成する。生物個体の構成要素としてのアミノ酸は、他の生物個体、あるいは食物の構成要素としてのアミノ酸と物理的には同一であり、区別できない。しかし同時に特定の生物個体を構成する個別存在として、他の生物個体、あるいは食物の構成要素としてのアミノ酸とは区別される。[1027]
個別存在の規定性はそのものの規定によってだけではなく、それが構成する相対的全体による規定も受けるのである。そのものの規定は基礎的規定であり、相対的全体の規定はより発展的規定である。基礎的規定が失われては、相対的全体の規定も失われる。基礎的規定は普遍的規定であり、発展的規定は特殊的規定である。普遍的規定は特殊的規定と複合することによって個別存在を規定する。[1028]
基礎的・普遍的規定は発展的・特殊的規定を完全否定することができる。発展的・特殊的規定は基礎的・普遍的規定を相対的に規定する。[1029]
下部構造は上部構造を規定するが、同時に上部構造が下部構造を規定するから構造が保存されるのである。同じ規定であっても上部構造の規定と下部構造の規定とは別の規定である。上部構造の規定と下部構造の規定とは対立しつつも、相対的全体を構成する規定として統一されるのである。[1030]

実在規定

すべての存在は自己規定だけからなるのではない。多様な相互規定は相互規定間の関係を一意に決定するものではない。多様な相互規定間の関係は偶然の組み合わせを含む。他との関係は規定的な、必然的な関係にだけあるのではない。[1031]
個別存在の規定は相対的である。基礎的・普遍的規定と発展的・特殊的規定も相対的である。複数の発展的・特殊的規定間も相対的である。相対的である個別存在規定でありながら、唯一無二=ユニークな個別存在を規定する。それは認識の対象となることによって選択される規定ではない。認識も一つの相対的規定関係にすぎない。認識過程も含めた相対的規定間系にあって、個別存在としての対象性を実現しているのである。個別存在としての対象性は相対的である。しかし相対的である個別存在の対象性は絶対的全体の中に位置づけられ、規定される。言い換えるなら、時間と空間によって規定される個別存在の位置によって規定される。逆にそれぞれの個別存在の規定の全体として時間と空間が規定される。個別存在全体の実現過程によってそれぞれの個別存在が規定される。すなわち実在性によってすべての個別存在は規定される。様々な規定の可能性ではなく、現実の規定関係によってそれぞれの個別存在は規定される。歴史的過程にあって、その今において規定される。[1032]
個々の相互規定関係は相対的である。しかしその環境条件にあって、全体と部分の関係に個々の規定関係はある。それこそ歴史的経過、環境条件によって規定される。環境条件は偶然にありながら、歴史的経過として結果として他ではありえない決定的な規定関係を実現してきている。現実という決定的な規定関係にある。[1033]
現実という決定的な規定関係にあって、個別存在が主体としてありえるのは主体自体の規定性を規定し、環境条件からなる諸規定の組み合わせを選択するところにある。現実の規定関係を無視した主体的選択は空想でしかない。現実の規定関係を絶対化したのでは、主体性は実現しない。[1034]
個別存在を規定するのは実在規定である。[1035]
個別存在は、偶然の関係にありながら、自己規定の必然を保存するのである。[1036]

【全体性と部分の統一】

個別存在は全体性と部分の統一としてある現実の存在である。全体と部分は対立する概念であり、一致する場合は唯一無二の絶対的存在の場合だけである。相対的存在である現実の個別存在は、全体の一部分として存在している。[1037]
存在とは他と関わることで全体と関わり、他と区別することで部分としてあることである。個別存在の全体と個別存在を構成する部分は個別存在としてどちらかが本質的、基本的等の差異はない。対立した存在の統一ではなく、統一として存在する。[1038]
全体の一般的運動の方向性は、秩序ある構造から無秩序へのエントロピーの増大化にある。濃淡の差は解消される。確率的に低い状態、希な、特殊なあり方からより確率的に高い、当たり前な、一般的あり方へ向かうのが全体の方向である。全体の運動は散逸過程である。[1039]
しかし同時に、宇宙はビックバン以来、超高密度・超高温の対称性の極みから物質の構造を作り出し、銀河・星々等からなる宇宙構造を作りだし、宇宙の歴史を展開してきている。また、地上に生命を生み、進化を実現してきている。さらに、我々は財を生産し続けている。ここにあるのは秩序の創造であり、構造化であり、エントロピーの減少である。部分の存在、運動は組織過程である。[1040]
全体の散逸過程なくして、部分の組織過程は実現しない。[1041]

【個別存在の保存】  全体の相互作用は同質の連なりとしてあり、また異質の相互作用の重なりとしてある。同質の連なりは異質によって区別され、異質の相互作用は同質の相互作用に媒介される。同質の相互作用と異質の相互作用は相互媒介の関係にある。[1042]

単に同質であるなら、同質であることの対称性も現れない。異質間の相互作用を介して、同質の相互関係としての対称性が現れる。単に異質の相互作用は一方的に散逸する。散逸過程にあって、相互作用が保存され同質が実現される。[1043]
電子−陽電子対の発生と消滅は電場の対称性の破れと回復である。対称である電場の質が破れて、異質な電子と陽電子が現れ、相互作用し、消滅する。[1044]
生物個体の生と死は生命の自己組織化と散逸化の過程である。[1045]
同質の相互作用を横の関係とすれば、異質の相互作用は縦の関係である。異なる次元の統一した現れである。重なりの安定性が個別存在の保存性を規定する。物理関係であればより低いエネルギー状態である。[1046]

【個別存在の存在形態】

すべての存在は運動であり、相互作用として現れる。複数の相互作用の重なり合いとして多くの個別存在はある。単に重なっているだけではなく、重なりを維持する相互作用がそれぞれの個別存在を保存する。複数の相互作用それぞれ運動としてありながら、相互作用間の関係を保存する。変化する相互作用の重なり合いとして個別存在はある。それぞれの相互作用における他との相互作用よりも、個別存在を構成する各相互作用間の関係を維持する相互作用がまさっているときに、個別存在は保存される。相互作用間の関係の保存として、個別存在は自己の存在形態を規定する。[1047]
一つひとつの相互作用はそれぞれにおいて独立に、無関係でもありえる。しかし、複合された個別存在を構成する場合には、構成する相互作用の関係を維持する相互作用が実現されるのであり、その相互作用間の関係を明らかにするこは、個別科学に学ぶしかない。基本となる相互作用の在り方、相互作用を連関させる相互作用それぞれと、その関係を学ばなくてはならない。そして、個別存在はこれ以外のあり方はしない。ただし、個別科学はすべてを明らかにしきってはいない。個別存在を構成する過程を明らかにする可能性を認めるようになってきたところである。物理学は基本となる4つの力の統一理論にいたっていない。生物学は生命の誕生、個体発生、進化過程の解明の緒についたところである。[1048]
個別存在は単に相互作用の契機ではない。個別存在は相互作用の契機として、相互作用によって対象として規定されるだけではない。個別存在を構成する相互作用をまとめる相互作用は、個別存在を他に対して相対的に自立・自律させる。[1049]
それでも、他との相互作用の大きな変化は個別存在を実現する相互作用の変化として現れる。他との相互作用が個別存在を構成する相互作用間の関係までも変化させるとき、個別存在自体の存在を変化させる。個別存在の他との諸関係は個別存在自体の存在としての形態を規定するものであり、他との諸関係の変化は個別存在自体の存在を変える。[1050]
存在を維持するために常に相互作用を制御しなくてはならない。さらに環境の変化に対しては、より積極的な相互作用の制御が必要になる。より発展した段階での存在を実現するためには、相互作用自体を変革しなくてはならない。例えば、日常生活での健康維持、環境変化による病気への対応、体力・技術向上のためのトレーニングのように。[1051]

【個別存在の運動形態】

個別存在は相互作用の連なりとしての普遍性から自律して、部分として自立した運動主体になる。個別存在を構成する相互作用の連関を維持する相互作用だけではなく、その相互作用を個別として他の個別との相互作用をも実現する。個別存在を構成する基本的相互作用は、他の個別との発展的な相互作用に転化しえる。[1052]
例えば自由電子は原子核と相互作用して原子を構成するが、原子同士が相互作用して分子を構成すると、電子は局在するようになり、分子全体を電気的に分極する。分極した分子は分子として独自の相互作用を他の分子との間に実現する。[1053]
個別存在が新しい相互作用の担い手となることは特殊な例ではない。個別存在としての構成が、新しい相互作用を実現することである。新しい相互作用が表れることによって、新しい個別存在が構成されたことが認識される。[1054]
 個別存在は個別としての運動の主体である。個別を構成するそれぞれの相互作用は個別の普遍的存在を実現している。この普遍的相互作用を組み合わせ、組み合わせを維持する相互作用によって、普遍的相互作用を特殊化し、新たな個別としての存在を実現する。個別存在は個別的な新しい相互作用、運動形態の担い手として実現する。個別存在の運動形態によって、個別存在は分類される。また相互作用の運動形態そのものが分類される。[1055]

相互作用は物理的作用だけにとどまらない。生物の活動、社会活動、精神活動も相互作用である。[1056]
個別存在は相互作用の主体としての存在である。したがって個別存在の存在はその内にも多様な運動を含み、それぞれに他と相互作用し、内部で相互作用している。個々の相互作用の過程に分解・還元しては個別存在はとらえられない。個々の相互作用の過程の相対的全体としての部分が個別存在である。[1057]
個人としての人間は、物理的運動過程としても多様な相互作用の過程にある。化学的・生理的過程においても、生物としても多様な相互作用の過程にあり、他を同化し、自らを異化する新陳代謝の過程にある。新陳代謝の過程は個々の細胞においても、器官においてもおこなわれ、なにより個体として生活する。生物個体は相互作用の過程の相対的全体として、他の個体に対し、他の生物に対し、他の物質に対して部分としてある。生物個体の相互作用の過程を個々に明らかにすることは、科学によっても極め尽くされない多様性がある。人間はさらに社会的に個人であり、精神活動もする人格である。[1058]
個別存在は個別存在として他と相互作用するが、その相互作用は個々の相互作用の相対的全体として統一されている。相対的全体として他の個別存在と相互作用する部分である。個別存在は全体性と、部分の統一としてある。[1059]

【類的個別存在】  個別存在の個別性は量的個別性と、質的個別性が必ずしも一致しない。量的個別性を超えた質的個別性として類的個別存在がある。[1060]

類的個別存在は個体としての個別存在が存在そのものとして相互依存し、個体単独では存在できない。[1061]
水は2個の水素原子と1個の酸素原子で構成される分子である。これは水の量的個別性である。水は1気圧の下で氷、水液、蒸気と3つの相をとり、溶媒として他の液体と比べ特異である質的個別性をもつ。水を分割したときに水の性質を保持する最小単位として、水分子を量的に個別存在として定義できる。しかし、水は固体として、液体として、蒸気として他と相互作用する。陸の浸食や気象などでの水の作用は、類的個別存在としての水の現れである。[1062]
物理的過程では類的個別存在の量的個別性と質的個別性は、生物でほど乖離してはいない。有性生物では雄雌一方だけの個体によって個別存在を定義することはできない。多くの生物は群れとして環境に応じて生きることができるのであって、小数の個体だけでは存在できない。生物の場合は類的個別性とは異なるが、成長すことも配慮しなくてはならない。個体もその成長段階によって大きく異なる。[1063]
まして、人間の場合社会的環境がなければ、生物として生きることもできない。文化がなければ言葉も獲得できない。類的存在として人間をとらえず、個人を個別存在として規定しては人間の本質をとらえることはできない。[1064]

個別存在として対象をとらえようとするとき、分析的に個体を個別存在として対象化しがちである。質的個別性が量的個別性と相補的にあることを見落としてはならない。[1065]


第1項 個別存在の運動形式

個別存在の運動形式、そしてその他様な運動の基本的な形式を整理する。[1066]

【個別存在の方向性】

普遍的運動の規定として方向性は現れる。方向性を持たない運動は混沌である。方向性の保存として運動は部分を区別する。[1067]
普遍的運動の全体の方向性は単一である。全体の運動は一方向へ向かう。全体であるから、一方向でしかありえない。秩序が崩れて散逸化する方向である。一方向でないなら、全体ではない。全体の運動は非可逆的である。[1068]
方向性は位置の問題だけではない。全体に位置などはない。濃淡の差がある場合、均一化する運動も方向性を現している。ここの要素、粒子の位置・方向とは別に全体の方向性がある。[1039]
普遍的な運動の部分の方向性は多様である。普遍的な運動自体が多様化である。全体の散逸化に対して、部分が個別として現れるのは偶然ではない。個別として部分が存在すること自体が必然性を示している。ただ我々にはまだその過程が理解できていないだけのことである。部分は個別を実現し、保存するだけではなく、個別の実現として他との区別を同時に実現する。他との区別は多様化の契機である。普遍的運動は全体を部分に区分し、部分は区分されて多様化する。部分の多様な運動は多様化する方向性として区別される。[1070]
部分の運動は単に多様化するだけではない。単なる多様化は混沌化と同じである。部分の運動の方向性は多様化と同時に複数化である。部分の方向は差異を区別すると同時に、同一を差異から区別する。同じ方向性が複数の部分として現れる。同じ方向性の部分があるからこそ、異なる部分と区別される。すべてが異なったのでは、区別自体が成り立たない。すべてが異なったのでは、違いの程度が区別できない。区別は異同を明らかにする。[1071]
部分の多様化、複数化する方向性として全体の運動の単一の方向性がある。全体の散逸化にあって部分を組織化、構造化する方向性である。[1072]
宇宙ではビックバンからの物質進化の歴史として全体の方向性がある。全体のエントロピーの増大と、部分の自己組織化としての方向がある。地上では生命の誕生からその進化の歴史がある。生物の多様化が人間によって阻止されるなら、地球の生命環境が破壊される。文化の多様性を否定するのは、経済的利益の独占の役に立っても、人類の役には立たない。[1073]
方向性は運動を部分として区別する規定である。方向性の規定は、方向性自体を対象化する。部分として区別された運動は、即自的に部分として区別されるだけでなく、部分として対象化され、対象として規定される。即自性、規定性は単なる概念規定ではなく、運動規定でもある。[1074]
単に区別される方向性ではなく、方向性によって規定された方向性は、規定されてより強められる。方向性は規定の保存であり、さらに規定されて保存をより保証される。方向性は保存される形式であり、その形式を保存する方向によって、より強い形式となる。方向性自らを方向づけることによって部分の運動はより強い方向性として、他と区別する個別存在を実現する。方向性が方向性を規定する関係の重なりとして個別存在が規定される。[1075]
方向性の方向付けは方向性を保存する力である。方向性として区別される部分の運動は、部分としてさらに方向づけられることによって個別存在を構成する運動となる。普遍的な運動の方向性は、方向づけられることによって特殊化する個別存在の運動を構成する。個別存在を構成する方向性を保存する力が、個別存在の他に対する独自の方向性を実現する。[1076]
方向性が連なれば循環することもある。循環による再帰が当初の方向性を規定し、制御するなら制御回路=フィードバック回路ができる。制御でなく方向性を強めるなら増幅回路=フィードフォア回路ができる。方向性の発展の基本的形である。[1077]
個別存在を構成する方向性を方向づけ、統括する個別存在独自の方向性が実現する。個別存在の統括として、個別存在の方向性は、個別存在にとっての価値基準となる。個別存在の方向性によって、個別存在を構成する運動、また他の個別存在の方向性が評価される。この評価は主観による評価ではない。主観はこの評価を対象とするが、個別存在の方向性を主観が反映するのである。正しく反映するかどうかは、主観の問題である。[1078]

【個別存在の自由度】

方向性は方向だけでなく、量的変位が可能である。任意の方向性のもつ規定での量的変位の可能性、逆に量的変位の可能性のある規定が自由度である。自由度は個別存在を構成する方向性である。[1079]
個別存在の運動は単一の自由度ではありえない。全体が一様ではないのだから。物理的運動であってもx、y、z軸と時間軸に対する四次元の自由度をもった運動である。個別存在の運動は複数の自由度を合わせもつものとしてある。運動主体は複数の自由度の結節点であり、複数の自由度の一体の持続として、個別存在として他と区別される。個別存在は自由度の束なりとしてある。[1080]
個別存在における自由度の一体性は自立性と対象性である。全体の無限の自由度に対し、一定の自由度の保存、一体性の持続として個別存在は自立性をもつ。全体の自由度と、個別存在の自由度との関係にあって、個別存在は他を対象として運動しつつ、自己も他の対象となって運動する。自他ともに作用し合う対象性をもって運動する。自立性と対象性の運動として個別存在は他と区別されて存在する。[1081]
より発展的個別存在はより多くの自由度を獲得できる。精神は物理法則を超える自由度すら持っている。[1082]

【対象性と自立性】

すべての存在は対象性をもつが、他に対しては自立した関係でもある。他を対象とし、自らを対象とするが、同時に自らを他と区別して自立させる。他との関係、自らの関係として存在を自立させる。[1083]
対象性は存在自らが他の存在にとっての対象である関係と、自らの存在を対象間の関連の内に実現していく過程でもある。自らの存在関係は対象の関連の中に再現されなくては保存されない。[1084]
他との相互作用としてある個別存在は、全体の運動の散逸化に抗してその相互作用を、自らの存在形態を保存する。自己保存は他との相互作用を継続して作り出す持続的な運動である。自らを対象化する性質である。[1085]

【相補性】

個別存在は環境条件との相互作用の過程で実現されている。個別存在は一方的に自立的に存在するのではない。相互作用の環境条件によって、個別存在の有り様が、相反する形で実現することが相補性である。[1086]
もともと相補性は対称性の破れによって実現する。対称であったものの対称性が破れ部分を区別する。この対称性の破れは対称性の形式的、全面的否定ではない。対称性を破る契機によって、全体が部分に区別されるのであり、全体は否定されても部分の全体としては保存さっる。保存される全体はその内に部分を区別するが部分相互は分隔されない。相互に対象性を実現している。[1087]
水は対称である。この対称性を破るものとして電気エネルギーが契機となって、陽極では水を酸化し、陽極は還元される。水の酸化と陽極の還元は同時に進行する逆の化学反応であり、相補的である。また、陰極では水を還元し、陰極は酸化される。水の還元と陰極の酸化はまた同時に進行する逆の化学反応であり、相補的である。さらに陽極と陰極の化学反応もまた相補的である。これら相補的化学反応は電気エネルギーを契機として対称性を破り相補的過程を実現している。電気エネルギーを供給する回路が閉じていなければ、化学的に安定した水が対象性を保存している。[1088]
一般的に相補性は量子力学での粒子性と波動性、位置と運動量の関係として論じられるが、対称性の破れとして歴史性を担うものとしての意義がある。[1089]
 相補性は互いに否定的でありながら、互いに排斥的でありながら一つの運動過程の別々に現れる性質の関係である。相補性は対立関係にある対象の媒介性の現れである。[1090]

【励起】

個別存在は他との相互作用を媒介にして実現、構成される。存在を実現する相互作用での環境条件によって、存在の契機を与えられる。環境条件にあっても、無条件で存在するわけではない。環境条件における契機が個別存在を実現するだけでなく、契機が個別存在そのものを構成する場合もある。環境条件との相互作用が個別存在そのものを構成する相互作用に組み入れられる。[1091]
他との相互作用にあって、相互作用により自らの状態を変える。他との相互作用を自らの内部関係として現す。自らの内部状態として他との相互作用を保存する。内部状態の変化として他との相互関係を自らの存在にする。[1092]
他との相互作用を契機として、個別存在は励起される。励起された個別存在は他との相互作用の契機に規定されている。環境条件に従属した個別存在である。[1093]
励起は個別存在を構成する内部の相互作用過程が、外部との相互作用によって強められることである。内部の相互作用が強められ、あるいは相互作用量が増える。物理的には外部からエネルギーを与えられることによって、対称が活性化することである。[1094]

【相互前提】

個別存在間の相互作用は完全に自立したもの同士の相互関係ではない。個別存在そのもののあり方が全体における他との関係としてあり、孤立してはいない。個別存在を構成する質は、相互作用する個別存在間で共通する部分を含む。共通する質を含むからこそ相互作用が成り立つ。[1095]
個別間の相互作用は単に質を共通にするだけではなく、相互の存在を前提にする関係もある。存在が前提にする条件の内に、相互作用の対象の存在を含む関係である。存在自体が自らを規定し、つくり出す運動であり、その運動が相互作用の対象と共通の運動である場合である。[1096]
基本的な相互作用の過程にあって、その過程から規定される個別存在が、同時に規定される別の個別存在と相互作用する。過程としてのフィードバック回路、フィードドア回路での規定の再帰ではなく、存在そのものを相互に規定する構造である。相互に自らの保存、再生産の前提にする関係である。[1097]
相互に前提にしながら、一つの個別存在を構成せず、相互に作用する関係であるから、対立関係を含む。対立関係自体が互いの存在を前提にして関係している。[1098]

【運動過程】

運動は他との関連にあっての相互作用である。相互作用の関連自体が運動し変化する。相互作用の全体が運動する。相互作用の構造自体の運動が過程として現れる。[1099]
運動過程の基本は継起的関連である。[1100]
物理的運動、化学的運動は一般的に継起的関連としてある。原因から結果が継起され、その結果が次の過程の原因となって運動が継起される。[1101]
運動の結果が運動の原因となって循環する関係がある。他の相互作用に比べて一端循環関係が実現すると急速に強まり、他の相互作用を従属的なものにし、その他の作用を規定する。一般的過程は平衡に向かうにもかかわらず、循環過程は非平衡に向かう。非平衡化の過程として循環系は他との相互作用と対立関係にある。[1102]
継起的関連が構造化されると、再帰的関連へと発展する。再帰的関連は継起的関連の結果が、当の継起的関連の原因、あるいは条件、あるいは運動過程自体に作用する関連である。ループバック、フィードバック、フィードフォアの運動系として現れる。[1103]
化学的運動においても再帰的関連は散逸構造として発見されている。再帰的関連は生物の運動、精神の運動にあっては本質的な運動過程である。[1104]

【自己組織化】

全体の散逸過程、部分の組織過程の対立と統一は現実であり、この世界のあり方である。この矛盾した運動過程がどう折り合いをつけているかを自己組織化と表現する。「自己」は外から、他から手を加えられない、閉じた系であることを表す。閉じた系はエントロピー増大化の一般的運動過程にある。そこにあって自発的に構造を作り出す過程であることを「組織化」が表す。すなわち増大化するエントロピーを自己の外に汲み出し、減少させる特殊的運動過程であることを表す。自己組織化は矛盾を解消するのではなく、止揚する。矛盾しなければエントロピーはひたすら増大化し、組織・構造を維持発展させることはできない。組織化しなくては自己を保存できないし、エントロピーを自己の外に汲み出すこともできない。[1105]
自己組織化は開かれた系において閉じた系を自己として実現する。開かれた系において、閉じた自己を実現し、保存するには、常に自己を閉じる運動をしなくてはならない。自己を閉じる運動も運動一般としてエントロピーを増大化する。自己のうちに増大化するエントロピーは自己の外に汲み出さなくては、自己は自己秩序を失う。自己の外にエントロピーを汲み出すには自己は開いた系でなくてはならない。開いた系でありながら閉じた系として実現される構造が散逸構造である。散逸は構造の否定である。構造は散逸の否定である。[1106]

矛盾を止揚する構造は再帰構造として実現する。全体の運動でありながら部分の運動を実現し、保存する構造である。全体の運動はエントロピーの低い状態から高い状態へ一方的に向かう。その全体の運動方向にあって、その高低の落差を利用して、部分的に方向を逆転させる。全体の運動が一様ではなく、ゆらぎがあることによって部分的に方向の逆転は可能である。[1107]
水の流れは水底や岸の地形によって歪められることで渦を巻く。水底や岸の地形といった環境条件がなくとも、水流速度が高い場合は乱流となって渦を巻く。渦を巻くことによって、部分的に安定した流れを実現する。[1108]
 逆に運動量に幅がある場合、ゆらぎの可能性が大きくなる。均一な運動量であればゆらぎようがない。運動量が低い方が運動量の幅は小さい。運動量が大きければゆらぐことのできる幅が大きくなる。[1109]
全体の運動方向に対する部分的運動方向の逆転が保存されることが、部分の形式の実現である。しかし、この段階では部分の運動も全体の運動から自立していない。部分の運動の可能性はあっても、実現は偶然に支配されている。[1110]
逆転した部分の運動方向が、実現された部分の形式を補完するよう作用することで部分の運動が自立する。新たな環境変化がおきない限り、部分の運動は保存される。部分の運動形式を保存するように部分は運動する。部分の運動が部分の運動の方向性に作用する構造が実現することで、部分は自己の構造を保存することが可能になる。  自己組織化した存在はそれ自身が個別存在として存在し、運動する。[1111]
自己組織化の構造は、出力が自らの入力として帰ってくる再帰構造である。自己言及構造でもある。再帰構造は全体構造ができあがらなくては部分の運動は散逸してしまう。部分の運動、機能だけを取り出したのでは、全体の構造が成り立たない。全体の継起的運動の連関が、再帰構造に組織化される。
再帰構造はその自立性が注目され、「ホロン」として組織論が流行ったことがある。その正当性はともかくも、流行るだけ、注目を集めるだけの意義が再帰構造にはある。[1112]

タンパク質を作り出すにはタンパク質である酵素が必要である。とか「卵が先か、鶏が先か」のように循環する因果関係を解くのは再帰構造の実現過程を明らかにすることである。[1113]

【個別存在の反映】

個別存在は相互作用の過程で、他を対象とし、他との相互作用として反応する。反応の継続は相互作用に媒介された運動過程である。継続としての反応は情報過程ではない。個別存在は対象との相互作用を、自ら対象化することで情報過程を実現する。個別存在の情報過程は反映である。[1114]
環境条件−反応系としての個別存在に制御が成立するためには評価系が成立しなくてはならない。評価系は反応系に反応する系である。反応系の一部でありながら、反応系を対象として反応する。反応系の評価をとおして、環境条件の対象を反映する。[1115]
生物が記憶として対象を反映する場合も、対象からの刺激に対する神経系の反応を対象ごとに区別し、区別を保存し、保存した反応を検索し、反応を再現しなくてはならない。[1116]
個別存在が対象を反映するには、個別存在自体の反応を対象化し、評価する系が分化、成立しなくてはならない。ここでは個別の運動形式の発展可能性として反映が実現されえることを示すにとどめる。[1117]


第2項 個別存在の発展

 個別存在は発展してきたものであり、発展するものである。個別存在は媒介されたものであり、また媒介するものである。媒介とは何か、どのように媒介されるかを明らかにしなくてはならない。媒介は現象の解釈ではない。現象のあり方である。それぞれの現象の普遍的なあり方として、媒介が存在のあり方としてある。[1118]
存在の普遍的あり方として、個別存在として物事はあるが、個別存在自体が多様化するものであり、構造化する。物質進化、生物進化、人類史、文化史の普遍的あり方である。それら個々の過程については個別科学が逐次明らかにしてきており、総合化の試みも始まっている。具体的媒介のあり方は個別科学に学ぶしかない。具体的には第二部で扱う。しかし、個別科学はまだ不明な部分を多く抱えており、たぶんすべてを明らかにすることはできない。個別科学は、まだ存在の本質にかかわる媒介を研究対象とするには至っていない。個々の分野でも大胆な推論としてしか提起できていない媒介過程は多い。たとえば、基本的であり、我々が最も関心を寄せる生命の誕生は否定できないが、どのように生命が誕生したかは未だ不明である。ただ物理化学的過程に媒介されて生命が誕生したことは確かである。地球が誕生したときには生命は存在しえなかったし、今現在存在している。だからこそ、生命の誕生過程が生物学の研究対象になりえ、科学者の議論が成り立つのである。[1119]
人文分野は科学としてさえ認めない人の方が多い。社会発展の法則性を認めない人も多い。それでも存在のあり方を理解しようとするからには、大胆すぎても、存在の媒介関係を捉えるための論理を準備する必要がある。[1121]

【発展の契機】

個別存在は他と相互作用する運動主体であり、その相互作用として運動する。各相互作用は全体の相互作用の連なりの一部分としてある。同時に個別存在は相互作用に媒介され、媒介する相互作用を個別として規定する運動でもある。[1122]
個別存在は他を対象とする運動主体であると同時に、自らを対象として構造化する、自己規定の運動主体でもある。自己規定は規定の規定である。個別を規定する相互作用が自己規定に転化するその契機、構造が問題である。[1123]

個別存在は全体の相互作用にあって、相互に規定する部分として実現する。相互作用によって部分は規定されるが、その相互規定は相互作用の質であり、部分にとっての全体の質である。相互作用を実現する、媒介する全体の質は一様であり、そこに想定される部分は対称である。相互作用によって対称性が破られ、部分が対象化され、一様な質が差異を実現する。対称性を破り、部分を対象化し、新たな質を実現することが発展の契機である。[1124]
構造化、発展の契機は存在の最初から備わっている。全体と部分の対立として、対称性を破る方向性として。発展する過程にすべての存在はある。個別存在はその発展する過程で保存される部分である。[1125]
他面から見れば、散逸過程にあって、自己組織化するのが散逸構造である。自己組織化によって散逸過程に自己を個別存在として保存する。散逸過程は全体の方向性であり、自己組織化、発展は部分の方向性である。しかし、この二つの方向性は同時に進行する相補的な過程である。最終的に熱死状態に至るのかもしれないが、その過程で必然的に秩序構造もつくりだすのである。現にこの世界の秩序構造があるというだけでなく、散逸化が一様ではなく、対称性が破られるからである。秩序構造の必然性は対称性が破られることの必然性に依存しており、その証明は物理学に依存する。少なくとも、今のこの世界では全体として散逸化し、部分として秩序構造化するのが普遍的な運動過程である。散逸化と秩序構造化という相反する、矛盾する過程によって個別存在は実現、存在する。[1126]

【相互作用の発展】  個別存在は環境条件に開かれた系であり、全体の散逸過程にある。普遍的散逸過程にある相互作用の重なりは環境条件に依存する。しかし、個別存在の環境条件との相互作用が、個別存在を構成する相互作用の重なりを規定し保存することがある。環境条件を個別存在自らの存在条件として規定し、制御する。[1127]

全体の対称性と、部分間の非対称性とは秩序だった構造であり、エントロピーの小さな状態である。全体の対称性と部分の非対称性は最も単純な秩序構造である。部分を区別することはできるが、全体を区別することはできない秩序である。部分は抽象的に区別されるが、実在として全体のうちにあって区別されない。[1128]
ビックバンは対称性の破壊であり、かつ構造化の過程の始まりであった。相互作用を分化し、宇宙の構造をつくりだす過程の始まりであった。同時に散逸化する過程でもある。散逸過程の方向性は物理的エネルギーの質の高い状態から低い状態への移行であり、低い状態はより安定な状態である。エネルギー量は保存されるが、エネルギーの質が変わる。部分間のエネルギーの非対称性が対称性へ向かう。エネルギーの高い状態から低い状態へ向かう過程で、部分間の対称性が破れ構造化する。全体が一様に高温の状態から冷えるのではなく、不均一に冷えることで部分的対称性が破れる。全体の散逸過程での部分の安定、静止は全体に対する相対的な方向性の保存、実現である。部分の安定はエネルギーの相対的に低い状態である。エネルギーの相対的に低い状態がどのように保存されるかは、その状態を実現する環境条件によって決まる。物理的安定、化学的安定、生物的安定、精神的安定、文化的安定、さらにそれぞれにおいてより部分的安定の環境条件がある。[1129]
 対称性の破れは、散逸過程における部分の保存である。全体の方向性を部分の方向性が破る。全体と部分の対立と統一が実在の運動過程として実現する。[1130]
個々の部分を安定させる環境条件は、全体の散逸過程にあってやがて最終的に解消される。しかし、環境条件の重なりは環境条件そのものを一時的に規定する。この一時はかなり長い場合もある。陽子の寿命はまだ実測されていない。[1131]
電子は陽子と相互作用することで原子の構成要素として安定する。水素原子同士が相互作用して核融合し、より結合エネルギーの低いヘリウム原子核を構成する。軽い元素はより重い元素を構成し、鉄へ向かう。核融合が進んで発生する熱エネルギーと重力エネルギーの均衡が破れて、爆縮が起きると一機に重い元素が融合される。重い元素は分裂してよりエネルギーの低い元素へ向かい、鉛へ向かう。水素分子と酸素分子の相互作用はより結合エネルギーの低い水分子へ化合する。エントロピーを絞り出して、より複雑な秩序構造をつくりだす。[1132]

個別存在間の相互作用と個別存在自体の運動は一体の運動として、新しい個別存在、より発展的個別存在の部分となる。より発展的個別存在に対して、始めのいわばより基本的個別存在は、個別存在としての全体性を失い、より発展的個別存在の部分となる。より基本的個別存在は他のより基本的個別存在と一体化することで、より発展的個別存在として全体性を回復する。[1133]

より発展的個別存在はより基本的個別存在の単なる集合体ではない。より基本的個別存在からより発展的個別存在への発展は質的変化であり、より基本的個別存在の量的変化にとどまらない。より基本的個別存在の個別存在自体の運動そのものが質的に変化する。[1134]
個別存在はより基本的個別存在から、より発展的個別存在へと発展する。[1134-2]
個別存在の規定は個別存在の最も発展的な質である。しかし、最も発展的個別によって、より基本的な個別が否定されることはない。より基本的個別の一般的規定性はより発展的個別を媒介するものでありながら、より発展的個別の規定によって特殊化されている。[1135]

【相互作用の還元】

運動の発展は特殊化である。個別存在自体、相互作用の保存自体が特殊である。個別存在の相互作用を保存する運動が継続されなくてはならない。より発展的個別存在も個別存在として他と相互作用の連なりの中にあるが、他との相互作用が個別存在自体の運動より強くなるなら、より発展的個別存在は分解する。個別存在自体の運動は他との相互作用とによって、より基本的個別存在間の運動にもどる。より発展的個別存在がより基本的個別存在へ還元する。[1136]
より発展的個別は全体の散逸過程にあって、自らを構造化する運動を保存できなくなればより基本的個別へ還元される。[1137]

【個別存在の構造】

個別存在の発展と還元における質的変化は、単により発展的な新しい個別存在を作り出したり、より基本的な古い個別存在に還元するだけのことではない。[1138]
より基本的個別存在は、より発展的個別存在の部分となるが、より発展的個別存在に解消はしない。より発展的個別存在の内にあって部分として、より発展的個別存在の要素となる。より発展的個別存在は、より基本的個別存在であったものを部分とする構造を構成する。個別存在は秩序構造を構成、保存するものとして発展する。[1139]
また、より基本的な個別存在はより発展的個別存在にすべて取り込まれはしない。より発展的個別存在の他者としても、より基本的個別存在はある。[1140]
より基本的個別存在自体の運動は、より発展的個別存在として規定されて全体性をもつ。この全体性はより基本的個別存在間の相互作用による散逸化への傾向に対立するものである。全体のより基本的個別存在への散逸化の過程にあって、部分における特定のより発展的個別存在の構造化である。[1141]

より発展的個別存在への発展では、より基本的個別存在間の相互作用そのものも、質的に変化する。基本的個別存在自体の運動の全体性は破れ、より発展的個別存在において全体性が回復する。個別存在は他と連なる全体性を他に対する方向性として内的構造をなす。全体性と方向性の統一として、個別存在はその運動形態を現す。[1142]
他と全体との相互作用の中で、発展自体が方向づけられる。全体に対する方向性として運動する個別存在は対象性をもつ。方向性として現れる運動形態は、個別存在として相互作用の対象となる。[1143]

【個別存在に現れる内在性】

個別存在は全体の運動一般に解消するものではなく、部分として捨象されるものではない。個別存在として全体性を部分としての内に形として現す構造をもっている。個別存在は他との相互作用として区別されるだけではない。他との相互作用にあって、全体性を内在化している。全体の普遍性を個別存在の内に全体性として現す。個別存在はその内に全体の運動を、個別存在としての運動形態として方向づけている。[1144]
個別存在は全体との関係を、個別存在自体を対象とする他との関係として個別存在内部にもつ。同時に、個別存在として他を対象とする運動主体である。全体性を内部にもちつつ、外部の他に対して運動する部分として個別存在が存在する。この個別存在に内在する全体性と、部分としての主体性が個別存在を決定する。個別存在の運動は他との相対的関係の過程だけを追ってはならない。個別存在に内在する全体性と、他との相互作用の総体性を統一してとらえなくてはならない。[1145]
個別存在を決定するのは内在する運動の方向である。運動方向の内在性が他に対する相互作用の対象となり、現実の運動を実現する。個別存在を対象化する主観の都合によって、個別が分節化され、定義されるのではない。[1146]


第3項 運動の階層

【階層の発展】

より基本的個別存在からより発展的個別存在への発展は、より基本的個別存在間の相互作用とは異なった、より発展的個別存在の運動形態への発展でもある。より基本的個別存在の運動形態からより発展的個別存在への運動形態への発展、そして、より基本的個別存在の相互作用からより発展的個別存在間の相互作用への発展は運動形態の発展である。こうして区別される運動形態の積み重なりとして、運動は階層構造をなす。[1147]
より基本的個別存在の相互作用からより発展的個別存在間の相互作用への発展は、運動形態の発展は相互作用そのものの発展である。新しい運動形態の実現である。より発展的相互作用はより基本的相互作用によって媒介され、より基本的相互作用なくしては実現しえない。より発展的相互作用はより基本的相互作用を規定し、新たな他との関係を実現する。[1148]
より発展的相互作用は新しい環境条件の実現でもある。新しい環境条件での相互作用として、より発展的相互作用は実現する。[1149]
より発展的な階層はさらにより発展的な階層を積み上げる。[1150]
 この運動形態の発展過程そのものも、より基本的個別存在の運動法則から導出できるようになるとの見解もある。物理法則によってすべてが明らかにできるとの見解である。物理法則自体が充分明らかになっていない段階で、しかも物理そのものの中に不確定性原理があるにもかかわらず、そのような還元主義の見解が正しいとは思えない。しかし、他方で生命の発生が物理的過程の外からの作用によって実現したわけでもない。物理法則が物理法則を超え、物理法則に規定的に作用する生物法則の実現過程を想定することが正しいように思える。生物法則の実現過程が明らかになって、その次により複雑な精神、意思の実現過程が明らかになる。[1151]
各階層における運動形態と、より基本的階層の運動形態からより発展的階層の運動形態への実現過程、より発展的階層におけるより基本的階層の運動の規定形態についてそれぞれに、また統一して理解しなくてはならない。[1152]

【個別存在と階層】

階層間の関係は個別存在を結節点とした、いわば縦の相互作用の連なりである。相互に関係のないものが積み上がっただけのものではない。より基本的階層はより発展的階層の存在基礎であり、より発展的階層の個別存在はより基本的階層の個別存在をひとつにまとめる。[1153]
階層はそれぞれに自律的運動法則を実現している。生命は物理に対して、精神は生命に対して、文化は精神に対して自律した運動形態を実現している。階層はこの大区分に限られない。[1154]
個別存在間の関係をとおして階層間の関係が現れる。階層は個別存在の運動形態の区別であるが、階層自体規定性を持った実在である。より発展的階層は発展的階層の個別存在を規定し、個別存在内の運動を方向づける。より発展的階層は個別存在の運動をより基本的階層への還元ではなく、より発展的階層での運動の方向性を規定する。全体の規定関係がなければ、部分の相互規定関係も実現しようがない。[1155]
個別存在は他に対して、階層内の、そしてより基本的階層の個別存在に対して作用する。そして階層内での他との相互作用を介して全体に作用する。[1156]

【世界の階層性】

運動の階層は世界の構造である。階層の発展の中で限りなく多様な個別存在が作り出され、世界の歴史が作られた。運動の発展が世界の歴史であり、その階層として世界の構造が作られた。階層は世界の基本的構造である。[1157]
世界の階層性は単に階層構造があるというだけではない。各階層の積み重なりはそれぞれの階層の存在を超えるものとして、より発展的運動形態を実現する。運動の発展過程が重要である。[1158]
世界の階層は階層間の関係をもつ。階層間の関係自体が構造をもつ。より基本的階層からより発展的階層への単なる積み重なりではなく、発展の度合いの異なる飛躍を内に含む。そして、階層関係の発展は系列を形成する。宇宙進化の過程での天体の系列、地球上の生物進化の系列、そして人類文明の系列、ただ文化においては発展系列がありえるのかは不明である。[1159]
運動形態の本質的発展として相互作用、再帰作用(フィード・バック)、目的的作用(フィード・フォァ)としての発展は目的因、価値の実在としての位置づけの要である。[1160]


第2節 発展一般

【即自的運動】

即自的な最も基本的な運動は、単純に非対称的な運動である。混沌ではない方向づけされた運動として、単に方向性を保存する運動である。方向を定めるのは運動そのものである。運動は方向性を保存することで形を実現し、他と区別される。環境条件との相互作用によって規定され、区別されるだけの運動である。[2001]
典型例としてブラウン運動があげられる。水分子などの非一様な環境条件の作用によって目に見える微粒子は方向の定まらない運動を継続する。定まらなくとも、静止ではなく、拡散でもなく、でたらめな方向性を保存する。運動を規定しているのは、運動主体とそれと対等な環境条件である。そこで運動を実現しているのは個別存在として他と区別され、それ自体の熱運動を保存している粒子である。[2002]
ただし、運動は力学的運動に限らない。[2003]
 区別される即自的運動は、継起する連らなりとして関係する。継起はするが必然性はなく、偶然の連なりである。即自的運動には媒介関係もない。[2004]
即自的運動の方向は対称性によって、可逆的運動と、非可逆的運動に区別される。即自的運動は可逆的運動にあっては当然に時間に対して対称であり、因果関係に対して対称である。非可逆的運動にあっては偶然性に対して対称である。偶然であるから非可逆であっても対称性を保存するのである。即自的運動は非可逆的であっても必然性はなく、偶然に継起する。[2005]
即自的運動主体の運動過程では入力を原因として出力を結果する。即自的運動過程は孤立しておらず、入力と出力として他と関係する。しかし、入力に必然性はなく、出力の対象との関係にも必然性はない。[2006]

即自的運動は自己保存の運動である。[2007]

【定向運動】

非可逆的運動は時間に対して非対称性をもつ。結果として非対称であるのではなく、運動の方向性として非対称性を実現するのは定向運動である。方向性を保存することで、非方向である対称性を破る。[2008]
慣性運動である。相互作用が均衡し、環境条件化することで、作用が現れない。[2009]
あるいは、作用が相対的に相互でなく一方的、一方向で、環境条件として一様に作用することで一定の方向への加速度が実現する。自由落下や一定の勾配での落下が例である。[2010]
やはり位置運動に限られない。濃度差の一様化も定向運動である。[2011]
ただし、運動は力学的運動に限らない。[2012]
 個別存在の運動は環境条件に対する部分的方向性の保存である。全体の散逸過程にあって散逸に抗する方向性である。全体の散逸化の方向に対し、散逸しない部分を保存することで部分の方向性を実現する。[2013]

定向運動は内部構造をもつ。散逸化する環境条件に対し、散逸しない部分を保存するには散逸化過程に散逸化に抗する運動を実現する。環境条件としての散逸化は相互作用関係自体を解体する。この環境条件に対して、相互作用関係を保存する関係形式を構造化する。部分としての平衡構造をつくりだす。渦流も振動もその運動形式を実現・維持する内部構造をもつ。内部の相互作用の相互連関を、相互依存関係として組織する。局所的、局時的安定が実現するのである。それこそ部分が他から区別されるのである。局所的、局時的に存在確率の高い状態が実現するのである。偶然ではなく必然が現れるのである。外部環境条件による偶然の作用ではなく、局所、局時的に相互作用の相互規定が保存されるのである。[2014]
定向運動は内部時間をもつ。環境条件である散逸過程としての外部時間とは独立に、独自の運動過程の経過を内部時間としてもつ。全体の運動としての時間とは別に、部分としての運動の継起に順序がある。永久不変の部分の運動はありえないのであり、定向運動は局時的である。局時性によって他と、環境条件に対して自己を規定し、自己運動としての自律した時間をもつ。人の一生の段階は普遍的時間過程を経る。しかし、それぞれの人の経験はそれぞれに違って経過する。個別条件によって全過程を経験できない場合も多い。[2015]
環境条件に対し方向性を維持、保存するのであり、環境条件によって媒介されている。環境条件との応答として、原因と結果を区別する。ただし、因果関係は相対的である。因果関係は反省規定であり、相互依存関係にある。第14章第7節参照[2016]

定向運動は自己対象化の運動である。定向運動は自己を方向性として保存する運動である。[2017]

【定向運動の重なり】

方向の違う定向運動が重なり合うことによって振動が現れる。振動は波動でもあり、同じ過程の繰り返しである。時間に対して非対称でありながら、過程(サイクル)内の空間に対して対称である。振幅中では非対称であるが、振幅全体は対称で、繰り返しをそれぞれ区別できない。だから時間を測ることができる。[2018]
繰り返しでありながら、さらなる方向性をもつ運動はら線である。部分は振動しながら、全体は一方向に進む。[2019]


第1項 制御運動

定向運動は方向性を保存する運動である。方向性は相互作用の過程で実現され、保存される。相互に作用しあいながらも、互いを消し去るのではない。相互に規定しあいながら自己を保存する過程である。この相互規定と自己規定の関係が環境条件の変動に対して恒存性を獲得するまでに安定化する。環境条件の変動に対する自己保存が制御の基礎である。環境条件の変動に対する恒存性は自己保存の静的な制御である。環境条件に対して自己を展開していく自己発展は動的制御である。[2020]

相互作用は一様ではなく、一様ではないから相互に作用する。相互作用は多様化し、重なり合う。個別存在の他との諸相互作用は自らの内の諸相互作用と連関し、自らの内の諸相互作用は作用相互に連関する。運動は他との関係を内部関係に転換し、自らの全体としての運動を制御する。[2021]

【運動機能】

運動は環境条件と個別存在の相互作用として具体的にある。環境条件は個別存在を媒介し、個別存在は環境条件に対し自らを保存する。個別存在の保存は静止ではない。環境条件の変化に対し静止したのでは、個別存在を媒介する運動が破綻する。個別存在は環境条件を取り入れなければ、自己を保存できない。恒存性は環境条件との相互作用過程で実現される。環境条件の変化に対して個別存在を媒介する運動を保存しなくてはならない。環境条件の変化に対しては、個別存在自らを変化させなくてはならない。[2022]
環境条件と個別存在との相互関係にあって、環境条件の変化を個別存在への入力とし、対応する個別存在の反応を出力として表すことができる。これは機能面の解析であり、存在構造を捨象した解析であることに注意しなくてはならない。ただ、機能の解析によって、対象間の作用関係を抽象して表現することができる。[2023]
環境条件の個別存在に対する入力に対し、個別存在の出力は被規定的、受動的である。入力と出力が質量ともに一定である単純な過程であれば、入力は出力を直接規定する。入力の質と出力の質は一対一で対応する。入力の量と出力の量は一定であるか、あるいは比例する。この場合、個別存在の運動は環境条件によって規定される。典型は力学的関係である。[2024]
入力と出力の対応関係が一定でない場合、いわゆる複雑系の運動になる。複雑系は入力と出力が多様なのではない、入力と出力の関係が多様なのである。あるいは、入力と出力が個別対象間で相互規定的に作用するのが複雑系である。[2025]
この複雑系の違いは対象を系とするか、個別存在とするかの違いであって、複雑系の質の違いではない。[2026]
単純な入出力関係であっても、出力が環境条件を変化させる関係もある。出力が環境条件を変化させ、入力を変化させる。いわゆるフィード・バック系である。[2027]

【制御機構】

フィードバック系は工学からの概念であるが、制御の一般的概念として拡張される。工学のフィードバック系は環境条件から独立した運動機構によって実現されるが、自然過程で成立したフィードバック系は環境条件を組織化することによって実現されている。制御は生物生理の基本である。認識の最も基本的な機能である。[2028]
工学のフィードバック系の典型は温度調節器=サーモスタットである。設定温度に対する検知器の変位によって、動作器である発熱器あるいは冷却器を起動させ対象の温度を設定温度に近づける。この単純なフィードバック系は対象を定位からの変位に対して制御する。工学系のフィードバック系は対象と検知器、動作器の3つの構成要素が独立して組み合わさっている。フィードバックは検知器と動作器の間で行われ、動作器の効果は対象の変化を検知器を介して実現する。[2029]
対象の温度が設定温度がより高いのに発熱器が接続されていたのでは機能しない。対象の温度が設定温度より高いか、低いかによって動作器を選択することはできない。動作器の選択をするにはさらに別のフィードバック系を付加、組み込まなくてはならない。工学のフィードバック系も構造化させることによって複雑な機能を実現することができる。パーセプトロンはフィードバック系を階層化した例である。[2030]
工学のフィードバック系でも温度検出器と発熱器を一体化することはできる。温度検出器にスイッチ機能と発熱機能を合わせ持たせることが可能である。回路が閉じているときには電流が流れ、電気抵抗により発熱し、発熱によりスイッチを歪め回路を開く。発熱しないと温度が下がりスイッチがもどり、回路が閉じる。ここでもスイッチの開閉過程と発熱、冷却過程が重なり合っているだけで独立した過程である。回路の開閉とスイッチの開閉は同じ現象によって実現されているが、回路の開閉機能と、スイッチの運動機能は独立の運動過程である。独立していながら相互依存の関係が構造化されていることによってスイッチの開閉、温度の上下が組み合わさり、振動を実現し、温度を一定の範囲に保つことができる。しかし、この回路では対象に対し、出力は意味をもず、意味は外挿されなくてはならない。[2031]
フィードバック系の基本は複数の独立した運動過程が相互依存関係を構造化することにある。同時に素過程と制御過程とが重なり合っている。[2032]
フィードバック制御の検知条件と動作機能を詳細に組み合わせることをコンピュータが実現している。しかし、条件の詳細化は、組合せを指数的に増大し計算時間、動作時間も増大させ、実時間に対応できなくなることもある。それでもコンピュータの計算速度は増大し続けている。[2033]

【制御の実現】

方向性をもった非可逆的運動過程は、入力と出力を含めた運動系に拡張することが可能である。出力は対象化の過程であり、入力は自己対象化の過程であり、出力と入力を結びつけることができる。[2034]
出力のすべてが入力のすべてであるなら、その運動過程は循環でしかない。循環する閉じた系はやがて運動を停止する。[2035]
しかし、入力が開かれた系では出力が入力として運動過程に再び入り込んで新しい運動過程を進める。[2036]
出力も開かれた系であるなら、入力に再帰する出力によって運動過程を制御することが可能になる。出力が入力に再帰し、運動過程を制御する系がフィード・バック系である。フィード・バック系では素過程としての運動過程に加えて制御過程としての情報過程が重なる。運動過程では相互作用の連鎖で、個々の相互作用の質的な差異はない。出力結果も相互作用としては質的差異はない。入出力の相互作用は、制御過程に対して素過程としてある。出力結果が相互作用として入力に作用する過程が情報過程として、素過程とは質的に異なる機能を実現する。情報過程も運動過程の一部として実現されるが、それにとどまらず運動過程自体を制御する。[2037]
情報過程は環境条件を他とし、運動過程を自己として意味づける。環境条件と自己との相互作用関係を制御し、方向付けるには、自己を制御することによってであり、自己を媒介として環境条件に作用する。直接環境条件に作用することはできない。[2038]

【制御運動】

生物はフィード・バック系の高度に発展した運動系である。単に生き、生殖するだけでなく、個々の生理過程が生化学反応の何層にも組織されたフィード・バック系である。単に個体の反応動作にとどまらない。細胞内の生理から、組織、個体全体をそれぞれ階層化し、制御している。無論、生物個体は物理過程をも身体の運動としてフィード・バック系を実現している。[2039]
他との相互作用にあって、運動を定方向に維持する内部構造としてフィードバック系が実現される。他との相互作用による撹乱を、内部運動によって補正し、方向を維持する。他との相互作用を内部構造に変換し、運動を方向づける。内部運動の出力を、他との相互作用での入力として内部構造に受け入れる。生物はその内部構造を進化させてきた。[2040]
環境条件に対する個別存在の制御を空間的、時間的に普遍化する過程で生物の認識能力が発展してきた。認識は真理の探究とか、価値評価以前に制御を普遍化することとして進化してきた。認識の基礎は知識を獲得することではなく、自らを維持し、自らを制御することである。[2041]
制御される方向は、物質の運動形態の飛躍的発展である。制御される方向は運動自体の方向にとどまらず、他に対する、全体に対する方向づけである。他についての、全体についての評価が無くては制御を方向づけることはできない。散逸過程でのたまたまの、偶然の恒存性の重なりが保存される。この保存される運動形式が環境条件に対し、運動主体としての自己を区別する。自己認識としての区別ではなく、運動主体としての区別である。運動主体の保存は環境条件に対する方向性の保存である。この方向性が環境条件に対する評価の基準である。[2042]
ここでの「評価」は価値づけではない。評価そのものの物質的基礎である。他に対し、全体に対し方向づけることとして「評価」が実現される。実現された「評価」が現実の過程にあって試される。試され、継続する運動過程の「評価」が価値づけの判定になる。[2043]
進化は遺伝子の偶然の変異によって実現している。偶然の変異に方向性はないし、価値評価もない。しかし、結果としての進化には方向性があり、変異を「価値」づける。制御される方向性そのものは運動過程に即したものである。制御が運動過程の継続として実現され続けることが、制御する方向を「価値」づける物質的基礎である。そして、歴史的に繰り返された環境の激変によって方向付けが行われたとの解釈が有力になってきている。[2044]

【情報過程】

制御過程での入力と出力の相互規定関係が情報過程の基礎である。制御過程では情報は自律している必要はない。制御過程で情報は環境条件と運動過程によって意味づけられ、情報としての自律した意味はなさない。入力の一定の条件に対する一定の出力が一対一対応し、入力条件に応じて、出力が規定される関係である。出力は直接ではなくとも、入力にフィードバックされる。出力がたれ流されたのでは、情報としての意味をなさない。出力が入力にフィードバックされ、入力によって出力が規定される相互規定関係が情報過程である。[2045]


第2項 自己組織化運動

情報過程が環境条件を介さず、個別存在の内に組み込まれることが自己組織化である。ただし個別存在が閉じた系になることを意味しない。情報過程が相対的に閉じるのである。個別存在の環境条件への作用は、個別存在を実現する媒介過程の制御であり、個別存在の保存、個別存在の発展を実現する。[2046]
自己組織化は自己制御、自己規定の運動である。相互規定による直接的な被規定ではなく、環境条件を介して、自己を規定する。環境条件に対して自己保存を実現する。さらに、自己の保存と運動を選択できる段階である。[2047]

【自己媒介過程】

存在の素過程は散逸化の過程である。散逸化の過程にあって部分的に相互作用過程が重ね合わされ、構造化する。環境条件である散逸化の過程に対し、個別存在の保存が構造化の運動として実現する。環境条件を自己保存の媒介条件として制御し、組織化する。[2048]
自己媒介過程は構造を作り出す。自己の構造を媒介にして自己を拡大すると構造を維持したまま拡大した自己が実現する。構造の継承は数学的な関係形式からだけでも実現される。フィボナッチ数列、パスカルの三角形のように量的関係形式からも構造は作られる。また、フラクタルも構造による構造化である。ライフゲームと呼ばれるコンピュータ・プログラムは相関形式からだけでも、多様な構造とその生成過程を作り出し、その過程を恒存化できることを具体的に示している。[2049]
自己組織化した自らの存在は恒存性であり、自らを保存するためには自らを更新しなくてはならない。自らの形式を保存しつつ、形作るものを更新することで形式を保存する。保存として更新し、更新して保存するのである。自らを媒介にして自らを作りだし続けるのである。生物が進化の過程で獲得してきた遺伝を含む自己媒介能力の精緻さには驚かされる。[2050]

【自己規定過程】

即自的運動過程にあっては相互関係規定と自己規定とは対等である。単に自他を区別する規定として対等である。自他を区別する規定関係は集まりであり、組み合わせであり、配列である。偶然の関係であり、秩序構造に必然性、規定性はない。運動は繰り返しか、拡散として時空間に規定されるだけである。[2051]
秩序構造化は規定関係の保存である。規定関係を規定することで秩序構造を実現し、規定関係を保存する。相互規定から自己規定が自立するには、自己規定が相互規定を介して自らを規定し直す構造化によって実現する。過去において他であった対象を、現在において自己として組み込み、過去における自己を、他として対象化する。その間、自己の空間は他に対し、普遍的に保存される。単純な規定関係が時空間のうちに構造化され、保存される。時空間のうちに保存される構造が秩序である。エントロピーの増大過程にあって秩序構造を保存するのは静的な過程ではなく、エントロピーを絞り出す動的過程である。自己規定が積極的に実現される過程である。[2052]
同化・異化の物質代謝に象徴される過程は相互規定を自己の規定に秩序構造化している。物質代謝過程のように発展した運動過程だけでなく、渦流における水分子の相互規定関係が、渦の自己規定関係として秩序構造化することにも表れている。[2053]

【秩序構造】

相互作用は単独では相互に関係する機能しか実現しない。相互作用は他の相互作用との媒介関係を構造化し、秩序構造として自己規定を実現する。秩序構造として他に対して新たな機能を実現し、新たな相互作用の連関を実現する。[2054]
秩序構造は非平衡系であり、常に増大するエントロピーを絞り出していなくてはならない。エントロピーの絞り出しが自己規定である。自己規定は相互規定関係を媒介にして、構造化する。[2055]
タンパク質はアミノ酸の連なりとして合成される。化学的にタンパク質は合成することができる。しかし、タンパク質が酵素としての機能を実現するには折り畳まれなくてはならない。一定の形に折り畳まれることによってタンパク質は酵素としての機能を実現する。その折り畳まれ方は分子間の異なる相互作用が組み合わさって特定の折り畳まれ方をすることで、特定の酵素としての機能を実現する。[2056]
 秩序構造は単なる寄せ集めでも、組み合わせでもないシステム=組織・系統である。秩序構造は物理的相互作用によって媒介されているが、普遍的な物理的相互作用を自己組織化し、多様な自由度を獲得する。秩序構造は物理的相互作用としての自由度は秩序、構造として制限している。物理的相互作用の自由度は制限しつつ、制限することでエントロピーの増大化にもかかわらず、エントロピーを絞り出し、秩序構造としての自由を獲得、実現する。全体のエントロピー増大化からの自由である。物理法則に依拠しながら、物理法則にとらわれない自由を実現している。この自由は物理法則を破るものでは当然なく、物理法則を実現する組み合わせ、環境を変える自由である。我々は地球重力に逆らって空を飛ぶことすらできる。物理法則に従った道具をつくり出し、利用することによって。[2057]

【機能の実現】

秩序構造化した個別存在は他に対して新たな相互規定関係を実現する。新たな相互規定関係は個別存在のあらたな機能の実現である。[2058]
単に秩序が規定されるだけで、新たな機能が実現する。雨だれですら石に穴を開けることができる。雨と石の関係は偶然であるが秩序構造化した個別存在は必然的な機能を実現する。一般的な運動形態を規定することによって、機能が実現される。運動形態の規定は制限であるが、制限され、規定された構造により新しい機能を実現する。制限されて実現する機能は、新しい自由度の獲得としてある。[2059]
原子も原子核と電子の構造によって原子としての機能を実現している。原子を構造化することで、分子構造を実現している。炭素原子の4つの結合手は原子間の結合を多様化し、巨大化して高分子を実現する。高分子であるタンパク質分子は結合部位で回転の自由度をもち、一定の折り畳み構造を実現する。折り畳まれたタンパク質は受容体反応の機能を実現し、ホルモン系、神経系、筋繊維での運動機能を実現する。神経系は中枢神経を発達させ、個体の内外の環境での制御を実現する。[2060]

【合目的的運動】

フィード・バック系が内部構造化することで、内部構造の制御が可能になる。内部構造の制御は、秩序構造の保存である。制御は増大するエントロピーを絞り出し、内部のエントロピーを減少させる。[2061]
内部運動を他に対する運動として評価が可能になる。評価するのは我々ではない。評価として現れるのは、環境条件との相互作用過程での選択過程である。[2062]
内部構造を他に対してさらに再構成する。内部の制御構造を対象化することで、個別の運動全体を他に対して方向づける。他に対する方向づけは、他との相互関係の変革である。内部運動の方向を他との相互関係に拡張する。内部運動の方向は運動に目的を与える。他との相互関係における方向づけ、目的づけは価値評価である。[2063]
目的、価値の存在の物質的基礎はフィード・フォア系の目的運動にある。[2064]
制御系自体を対象とする認識の発達によって、目的が設定される。フィード・バックされる方向が、逆に運動過程の前方に延長されたものが目的である。単なる運動方向は、他との、全体での方向として、人によって意識され、目的になる。目的が定まることによって、目的実現までの過程が価値評価される。逆に、人とは目的を価値評価として意識できるようになった生物である。[2065]
自己制御の方向性が、自己を媒介する環境条件に向けられる。[2066]
目的、価値は科学の対象になる。フィード・フォア系は科学の対象である。フィード・フォア系を他との相互関係の内で主体の運動形態として位置づけることで目的、価値が定まる。目的、価値は観念的、超自然的なものではない。[2067]

フィード・フォアは実践主体としての知的生命を区別する基準である。対象を認識するだけではなく、目的を認識する。[2068]
他に対する自らを変えることによって、他との相互関係を変革する。自らを変える方向性は価値判断によって決められる。価値判断は主体的実践によって定まる。他との関係、主体的実践の場になくては価値基準は定まらない。 やがて主体は対象を自らの方向性にしたがって変革する。[2069]

合目的的運動は自己発展の運動である。[2070]


第3項 運動の歴史

確率の大きい状態へ全体が向かう過程で、部分ではほとんどありえない過程が実現する。小さな確率を実現する、奇跡を実現する可能性を整理する。[2071]
物理的運動では世界の普遍的法則の存在が科学者に受け入れられ、その発見が目標とされている。科学者によっては物理の普遍的法則が明らかになれば、生命も、意識も明らかになると信じている者もいる。あるいは、生命や意識はそれぞれ別の法則性があるはずだとする者もいる。物理法則がすべてであるとするなら、それが明らかになるまで待つしかない。運動の階層ごとに法則があるとするなら、それぞれの法則が明らかになるのを待つだけではなく、それぞれの法則間の関係も明らかにしなくてはならない。それぞれが現実にひとつのこの世界を規定しているのだから。法則間の規定関係も明らかにしなくてはならない。[2072]

運動の歴史がどうであったかは個別科学の対象である。ここでいえることは引用と推測である。何も証明はしないし、誤りも含むだろう。ここでの課題は、運動が歴史的であることの状況証拠を列挙することである。主題は生命の誕生である。生命の誕生が運動の発展過程で実現したのであって、その他でないことの状況証拠を検討する。どう生命が誕生したかは生物学の中心テーマである。生物学から学ぶことは、第二部の課題である。[2073]
実際に今の地上で生物は生物から生まれるが、生物以外から新たな生物は誕生していない。新たな生命を作りだすこともできていない。生命の運動は物理化学的運動によって実現していることは確実である。生理過程は生化学の過程である。ただ生化学の過程が物質代謝を実現するよう組織され、物質代謝系を保存するよう制御されていることが、生化学の個々の過程と決定的に違う。この決定的違いを確率的にはありえない過程であると計算する科学者もいる。同様な問題は進化に関して獲得形質は遺伝しないのだから、まったくの偶然による変異の選択の蓄積でしかないと大多数の科学者が主張している。確率的にありえないほどの奇跡が、まったくの偶然がこのように多様な生命を作りだすにはどのような条件があったかを検討する。[2074]

【個別存在の形態発展】

自己組織化は平衡状態の保存を自己規定する運動である。他に対して平衡状態を区別し、保存する作用である。偶然の平衡状態の実現を超えて、他との相互作用の関係に対し、自己の平衡状態を実現する相互作用を自律する。他に対し保存される平衡状態を自己と規定する。[2075]
当然にこの「自己」はまだ意識ではない。「規定」するのは主観ではない。諸相互作用過程の自他の区別が「規定」することである。他の変動に対して、平衡状態を保存することが「規定」である。[2076]
自己組織化の過程を別に表現すれば「自己実現」である。「自己実現」という言葉には、目的意識的意志をともなう。しかし、客観的過程として意志の有無を捨象すれば同じ過程である。逆に自己実現の過程を我々は「自分を生かす」こととして評価し、意識しているのである。[2077]
自己組織化による個別存在は、環境との相互作用にあって、自己組織の部分的な破損に対して自己修復をおこなう。自己修復は平衡状態の保存を発展させた運動である。自己修復は戻すべき自己が確立していなくてはならない。組み合わされた平衡状態ではなく、組織された平衡状態として、組織の全体性がなくてはならない。[2078]
自己組織化は自己複製の能力に発展する。自己組織化した個別存在はその環境にあって自己複製する。  さらに、自己組織化した個別存在は環境条件を自己媒介条件として制御する。環境条件を自己の媒介条件として保存することは、自己の媒介条件の普遍化である。全体の環境条件の中に自己の媒介条件は部分としてある。自己の媒介条件を普遍化することは、個別存在を複数化することとして実現する。自己複製、自己増殖によって個別存在は普遍化する。部分としての自己媒介条件の普遍化は複数化として可能であり、全体化ではない。[2079]

【環境条件の変化】

環境条件が一定であることによって、自己媒介条件は保存され、普遍化される。しかし、環境条件は恒常不変ではない。環境条件は徐々に変化もするし、激変もする。[2080]
自己媒介条件は環境条件に規定されており、環境条件の変化に対しては自己を保存しつつ、媒介条件を再組織化しなくてはならない。環境条件が変化しなくとも、違う環境条件へ放散するにも、自己媒介条件を再組織化しなくてはならない。自己媒介条件の再組織化として個別存在は多様化する。[2081]

環境条件の激変に対し、多様化した個別存在のうち、変化に対応して、自己媒介条件を再組織化できたものが自己を保存する。環境条件の変化は自己媒介条件の変化であり、自己媒介条件が自己媒介条件の環境条件になる。自己媒介条件は環境条件に規定されるが、自己媒介条件を組織化することで、自己媒介条件は環境条件を部分的に、制限された条件の下で規定する。部分的制限も相対的である。人類は人類の存在条件を破壊する力を手に入れてしまった。[2082]

【発展の可能性】

過程は未だに不明であっても、当初灼熱の地球に現在多様な生物が満ちている。[2083]
第1に考えられるのは偶然の過程である。偶然にこの世界はビックバンによって開始され、星々を作りだし、有機物を合成し、それらが偶然触媒作用をシステム化し、偶然自己組織化システムを成り立たせ、偶然に変化し、自然淘汰され進化してきた。たまたま偶然に、自己を対象化して反映するヒトが生まれ、環境条件を変革するまでになった。[2084]
この過程が偶然だけであるなら、今日の我々は非常に希な存在である。その確率はほとんど無に等しい。その確率計算は何人もの科学者があちこちに書き記している。我々が偶然の過程の結果であるとすると、この世界の法則以外の希さを超越する力の作用を許したくなる。偶然による世界の過程の解釈は世界を超越する存在の承認と紙一重、紙の表裏の関係になる。科学と神との混合物になってしまう。法則性は究極において否定される。法則はたまたま成り立っているにすぎず、何でもよくなってしまう。逆にサイコロ博打する神を認めることになる。[2085]

世界が偶然のみによって成り立つのではないことの反例として、数学と論理がある。物理法則にも依存しない普遍的法則としてゲーデルによって完全性定理が証明されている。無矛盾の閉じた論理系が成り立つことが証明されている。この系内に偶然は入り込めない。必然性だけによってひとつの世界を構成できることを示している。偶然だけによって必然性は成り立たない。必然性を生み出すような偶然性が現実性である。観念的な偶然性によってはこの世界は生まれない。[2086]
しかし逆に、必然性のみから世界が成り立っていないことは、物理学が明らかにしている。不確定性原理は、我々が無知だから対象を確定的に認識できないのではない。運動・存在そのものが多様な規定性を確定していないことを明らかにしている。必然性だけによって規定される運動・存在は現実のものではない。[2087]
世界は偶然性と必然性の折り合いとして成り立っている。とする弁証法の見地に立つしかないのである。その実証は生物学に学ぶのが適切である。偶然性を確率の高い状態に転化する機構のいくつかが明らかにされている。個別存在の多様化を可能にした条件として、偶然の過程、数多性、組合せ、次元の捨象、アトラクター、継承性が考えられる。[2088]

【数多性】

事例が多くなれば低い確率も実現する。どんなに低い確率でもその分母と同じ事例数があれば実現しえる。[2089]
確率そのものが偶然性の中の必然性を示す。簡単に試すならコイン投げで表裏の出る確率は2分の1であるが、実際に2回投げて1回ずつ表と裏の出る確率は2分の1でしかない。これでは偶然でしかない。しかし、コインを投げる回数を増やしていけば、それぞれの出る比は2分の1に限りなく近づく。粒子をスリットを通してスクリーンに当てれば、粒子の数が増えるほどその位置は正規分布に近づく。ことわざでいえば「下手な鉄砲も、数撃ャ当たる」である。[2090]
低い確率であっても事例の数が膨大になれば日常的にはありえないことも起こりえる。化学のアボガドロ数、地上の水の分子数、宇宙の約150億年の時間が低い確率の事象を実現する基本的な可能性である。[2091]
ただし、数多性の可能性だけでは不十分であることが、生命の発生過程の研究から明らかになってきている。宇宙の150億年の長さをもってしても分子の衝突だけで遺伝のシステムが偶然に組みあがる確率を満たさない。[2092]

【組合せ】

偶然も組合せによって劇的に秩序だつ。順序、組合せを成り立たせるのが秩序であるのだから同義反復である。組合せを実現する秩序は形式、パターンである。[2093]
すべてが異なることは全体としてすべてが同じである。対称性によればすべてを区別することは、すべてを区別しないことと同じであり、すべてが異なることとすべてが同じであることも区別できない。ある面では同じであるが、他の面では異なるという、面の相補性が成り立つことで、形式、パターンが実現する。[2094]
電子は陽子でも、中性子でも、光子でもなく、陽電子とのみ対発生をし、対消滅する。電磁場の励起によって対発生し、衝突して消滅するのが電子と陽電子である。地上の生物は20種類のアミノ酸に限定した組合せでタンパク質を構成する。アミノ酸を限定し組合せを制限することで、タンパク質の構成パターンを規定している。タンパク質の多様性と恒存性を実現しているのは20種類のアミノ酸である。生物を構成するのはすべての元素ではない。炭素、水素、酸素、窒素等のごく限られた元素と、リン、硫黄、鉄などの限られた微量の元素である。これらは海水に含まれる元素の構成によって導かれたのであろうことが推測される。[2095]
組合せは段階を経ることによって秩序だつ。常にすべての組合せを試すのではなく、組合せが段階を経ることで、組合せに偏りが生じる。[2096]

【次元の捨象】

次元を捨象し、制限することで可能性を高めることができる。三次元空間内での分子の衝突可能性よりも、平面上の方が可能性は高い。海の中での分子衝突による化学反応よりも、干潟の粘土の上、岩の上の方が化学反応を生じる分子衝突の可能性は高い。一次元上では衝突はほとんど必然である。細胞液への拡散ではなく、細胞骨格に沿って運ばれるタンパク質は確実に搬送される。[2097]
さらに三次元空間であっても、膜で囲むことによっても衝突の可能性を高める。細胞は膜で閉じた空間である。細胞膜によって選択的に物質輸送が行われているからこそ、細胞内の秩序が形成、維持される。[2098]

【アトラクター】

因果の連関が、過程として安定し、さらに過程が循環し、閉じた系がアトラクターである。因果の連関は個々に独立に関連なく継起するのが一般的であり、エントロピーは関連を失わせる方向に増大する。しかし、関連することで連関過程をより安定にする連関もある。関連した方が低エネルギーになる場合である。この連関過程は孤立系ではない。開放形で他の連関に比べて、相対的に低いエネルギーであるから安定する。[2099]
連関過程の閉じた系は生物の恒常性を実現しているすべての生化学過程としてある。また、単純な二値の変換過程の規則を組み合わせることによっても実現できる。方眼に区切った平面で接する区画の状態によって二値のいずれかに決定する規則を適用することで、方眼上に一方の値によって一定のパターンを繰り返す循環を実現することができる。どのような変換規則でも実現するのではない。どのような状態から始まっても実現するのではない。それでも繰り返される配置のパターンが実現する場合がある。方眼紙上で実施することは困難であるが、コンピュータとプログラムを使えば簡単に試すことができる。[2100]
アトラクターの力学的な例は渦である。渦は環境条件に多少の変動があっても安定した状態を維持する。非常に安定した渦は孤立波である。海岸地形と潮の条件によって発生する孤立波は川を何キロも遡る。[2101]

【継承性】

個別存在の多様化は他との、環境との相互作用の過程で選択される。[2102]
多様化の結果が選択されるので、結果選択とでも言える過程である。全段の結果が継承されていくのである。ご破算にして新規に開始することはできない。継承性は選択基準を規定する環境条件によって規定される。[2103]

逆に選択される個別存在の変化は環境条件に適応するために変化しているように見える。継承される過程を、結果から原因をたどってそれぞれの過程を評価するなら、その積み重ねは、意志があるように、目的があるように見える。人間はこうした継承過程を対象化し、認識し、感情と一体化することによって愛を実体化する。動物にあって子育ては継承された過程にすぎないが、そこに人間は愛を感じる。逆に動物の子育てから、自分らの子育てにともなう感情を愛として実現する。[2104]
タイプライターをたたくチンパンジーがシェークスピアの戯曲を完成させる可能性は不可能であるとの主張がある。しかし継承性過程では全ての可能性から選択されるのではない。第1の選択によって、第2の選択に残らない圧倒的多数の形式的可能性が否定される。現実的可能性は、継承性過程が進むに従ってますます狭められる。継承性過程によって、その過程の方向性が定まっていく。チンパンジーのままではシェークスピアは生まれない。チンパンジーの祖先が進化の過程が継承され、その結果ヒトがうまれ、その歴史の継承によってシェークスピアが生まれたのである。[2105]

物事を順番に並べ替えることを例に考えてみれば分かる。電子計算機のプログラムで言えばソートである。[2106]
最も単純なソートのプログラムは、要素の一つ一つの隣同士を比較して基準に従って位置を替え、この繰り返しによって全体を基準に従った並びに変える。その過程は始めは至極遅い。始めの第一段では、要素の数マイナス1回分の比較が必要である。並べ替えが進むに従って隣同士の並びと、基準の並びが次第に一致するようになり、並べ替えの効率は加速度的に早くなる。[2107]
ソートのプログラム自体が発展する。ソートのアルゴリズムが改良されて、要素1つづつの対の比較ではなく、比較の結果だいたいの予測によって替える位置を設定する。ソートの効率的なプログラムさえ知ってしまえば、そのアルゴリズムなど理解できなくとも、対象と、基準さえ与えることができれば効率的な並べ替えを実行できる。[2108]
継承性過程は歴史過程である。すべての条件から1つの結果を選択するのではない。1つの選択結果が次の選択の条件になる。選択の時系列として歴史過程が実現する。この時系列を捨象して、すべての選択条件を数え上げ、その1つだけで現実を説明することは奇跡的に思える。歴史過程のどの選択で他の選択もありえる。しかし、現実の歴史過程では過去の選択は確定したものであり、その選択結果を条件として次の選択が行われる。[2109]
しかも、個々の選択は偶然に依存しつつも、歴史的過程に普遍性を見いだそうとするのが世界観である。単に偶然の選択を繰り返すのではなく、さいころを振り続けるのではなく、選択の結果ではなく、選択の過程の必然性に普遍性を見るのである。[2110]

しかし当然に、継承性だけで決定されるのではない。継承性は環境条件も継承するのである。生物進化は多様化の継承であるが、異種間に相同が現れる。空を飛ぶものには翼と方向の制御器官が見られる。水中で生活するものは流線形化し、ヒレ状の肢が見られる。遺伝を担う継承機構だけでは、生物種間の相同を説明できない。[2111]

【相乗効果】

自己媒介条件が複数の異なった個別存在間で相互依存する場合もある。同じ環境条件にあって、自己媒介条件が重なり合う場合である。互いの媒介条件を規定し合う。[2112]
協調的に重なり合うことも、敵対的に重なり合うこともある。生物で協調的な場合は共生となる。敵対する場合は軍拡競争の様相になる。軍拡競争は軍備だけではなく、生物の進化にも現れる。[2113]

【発展の必然性】

ヒト一人分の炭素、窒素、酸素、水素、等々を用意してかき混ぜれば人間が誕生する確率は不可能といってよい。しかし、宇宙の物質進化の過程で人間が誕生したのは確かなことである。不可能が可能になるのは物事の発展の結果である。[2053]
個々の過程は様々な可能性の中からの1つの現実が実現する。対称性も自発的に破れることによっていずれか一つの状態をとる。一般的には運動一般は他の可能性が消えていく過程である。対称性が自発的に破れる過程が次の過程を規定していくことによって運動に方向性があたえられる。このことからすれば、再現性こそまれなことであり、まれなことであるからこそわれわれに意識されることなのかもしれない。生物の適応も適応して変化するのではなく、環境に合ったものが生き残り選択される。無論選択する「主体」は存在しない、「選択」は比喩である。対称性の自発的な破れ、生物進化の選択もその個々の過程では偶然に大きく左右されて決定される。しかし、ひとたび選択された結果は続く過程の条件になり、歴史過程では単なる条件ではなく前提になる。偶然の過程での選択が次の過程の前提になる場合、そこに実現する選択の過程は方向性をもつようになる。方向づけられた選択過程が発展法則として現れる。[2054]
発展過程では、個々の素過程での偶然の重なりが累積されて方向性をもつ。すべての過程の結果が確率の重ね合わせとして実現するのではない。太陽系の存在確率、地球の存在確率、生物の存在確率、自己認識の実現確率等々を掛け合わせて、宇宙に人間が生存する確率の小ささに驚くのは主観の問題である。この驚きは「無知の逆転」によるものである。[2055]
「無知の逆転」とは未知の世界を知った時、その精妙さ、実現可能性の小ささに驚嘆することである。様々な可能性の中から現在の結果が実現してきているのであって、現在の現実を実現することを目指してすべての過程があったのではない。現在の現実は多くの可能性の中からの偶然の結果である。その偶然の過程を経て、世界が方向づけれれ、必然的に発展してきたのである。この発展してきた、発展していく世界の未知を知ることは認識をすすめることである。しかし、それまで無知であったにもかかわらず、そのことで新たな「知」に特別な価値を見出すことは逆転した発想である。[2056]
またこのことは「今」を規定する時間の性質の内容でもあり、「歴史にモシモはない」ということの内容でもある。また、主体的に到達点は再出発点であり、後戻りはありえても出発点まで戻る清算主義では蓄積は生かされず、発展することはできない。形式的には再帰性であり、自己言及による自己の発展過程である。[2057]


第3節 法則一般

相互規定は部分、個別存在を規定するが、同時に全体も規定する。個別存在の質量の実現は、世界存在の実現でもある。個別存在がどのような質量で実現されるかは偶然によるにしても、個別存在が実現し、個別存在が発展する過程は必然である。[3001]
続かない相互関係にあっては偶然は偶然に止まる。逆に続くことが必然性を実現する。続かない繰り返される相互関係にあっても、同じ環境条件で同じ結果が出続けることは必然性を示す。投げ上げたコインの表裏の出方は偶然の繰り返しの中に、必然的な確率を表す。[3002]
偶然も実現すると続く実現の前提になる。同じ環境条件で同じ結果が出、しかもその結果が次の環境条件となる。還元性の大気の下で嫌気性生物が酸素を放出し続ければ、好気性生物誕生の環境条件をつくりだす。嫌気性生物から好気性生物への進化は必然であった。還元性大気から直接的に好気性生物が誕生することは偶然は確率計算できるとしても実現の可能性はない。嫌気性生物に媒介されて好気性生物が進化した。[3003]
世界にとって、世界がどうであるかはともかくも、世界が存在することは必然である。存在する世界の必然性の実現は、具体的世界として普遍性を表す。[3004]
普遍性は相互規定の重なり合いとしての相互関係の全体である。普遍性として実現してきた相互関係を論理として表現するのが法則である。法則は相互関係の普遍性の論理的表現である。法則は普遍的に実現してきた相互関係の論理的表現である。[3005]
法則は論理的表現であり、したがって観念である。観念としての法則が表現す対象は、世界の存在の、したがって運動の普遍的関係形式である。したがって法則は反省規定である。したがって、表現された法則のすべてが正しいわけではない。正しさは表現の遡って、認識の正しさであって、表現しようとする対象の関係形式の存否ではない。[3006]
「法則性があるかないか」は対象の関係に必然性を問うのではなく、関係の論理的表現の適正を問うているのである。対象の関係の論理的表現としての想定の妥当性を問うているのである。[3007]

【内在する法則】

法則は運動形式の論理的表現として運動法則である。存在は運動形態であるのだから、法則は存在法則でもある。何かが存在して、その存在が運動するのではない。存在自体が運動の実現形態である。存在は構造を表し、運動は直接に過程を表す。したがって法則は対象の内部構造の表現であり、運動の内部過程の表現である。[3008]
外部関係は環境条件であり、外部関係は組み合わせに左右される偶然の過程である。外部関係に法則性はない。[3009]
だからこそ、対象性が問題になる。内部外部を規定する基準、偶然必然を規定する基準、この両基準関係は相補的である。内外の規定基準によって偶然必然が判断される。必然性の実現によって対象の内外が判断される。この両基準の相補性によて捉えることができる対象であるかの対象性が問われる。[3010]
法則が対象に内在するのはトートロジーである。にもかかわらず、偶然の関係に法則性を見いだすのは非論理的解釈である。[3011]
地球の運動法則と言うとき、法則は地球の外にあるように思える。地球の運動法則とは太陽と地球と他の惑星、衛星からなる太陽系の運動法則の一部としてある。太陽系に内在する法則である。地球だけを対象としたのでは地球の運動法則は明らかにならない。そして太陽系は恒星系としての普遍的存在の実現形態の一つである。[3012]
 個別存在は他と区別されることによって実現する。個別存在は他との関係で規定される。個別存在はその他との規定を離れては存在しない。他との関係にあって個別存在として実現する。その関係としての規定の論理表現として個別の存在法則はある。個別の存在関係から離れて個別の存在法則はない。[3013]

【外在化する法則】

個別存在は個別を規定する相互関係の重なりである。相互作用関係の重なりとして自律する個別である。自律は個別に内在する自己規定である。自律する個別は他の個別に対し自立する。自立する個別間の関係は外在であり、偶然である。個別間の外在関係は環境条件である。しかしまったくの偶然ではなく、個別自体自らを規定する環境条件から切り離されて存在しはしない。他の個別存在との関わりに偶然性があり、その偶然の相互関係に対して自らの規定性を実現する。[3014]
個別の内在法則である自己規定は、外在する個別からなる環境条件に対し、自己規定を具体的に実現する。この自己実現過程が内在する法則の外在化である。個別存在は他との相互作用にあるが、他との関係は外在であり、他との相互関係のままでは法則にはならない。他との関係に規則性が現れるのは、個別存在の法則が他の個別存在の法則と相互作用する限りである。したがって、他の法則との相互作用として、相対的な現れ方をする。相互作用の現れる過程は法則的ではあるが、個別存在間の関係として相対的である。[3015]
内在する法則は他との相互作用の過程として現れる。他との相互作用として外在化する法則は現象法則である。[3016]
個別存在の相互関係の組合せによって、個別存在の作用が様々に変化し、他に働きかけることが現象法則である。現象法則は決定的な、固定した法則ではなく、傾向としての法則である。[3017]

【法則の内在化】

他との相互関係が恒常化すると、相互作用自体が対象性をもつ。個別存在間の相互作用を維持、継続させる相互関係が形成される。相互関係の固定化として秩序づくり、組織化である。他との相互作用を、運動の一つの過程として方向づけ、安定させる。他との相互作用として外在的法則であったものが、新たな運動形態として内在法則化する。[3018]
内在化は、全体の運動として新しいより発展的な個別存在の生成である。[3019]

【法則の現象過程】  法則の現象過程について法則自体の階層性と同時に法則の現象過程の階層性の関係がある。乱暴な例で言えば、生物は生まれ生長し生殖し老化し死ぬという一般法則にしたがう。しかしこの法則は生物個体の運動過程を絶対的に規定してはいるけれども、個々の生物の生活過程に対する規定としては絶対的ではない。病気等によってより強力に規定されるし、生殖に関しては寂しい結果もある。確認できる例で言えば、今食事をしないですますことができる。食事をしない自由を貫徹することができる。しかし、動物は食べなくては生きていけないという普遍的な法則に逆らえるのは数日間でしかない。水分に至っては数十時間である。一般法則は強力ではあるが、個別存在の現象過程では特殊法則の規定性の方が強力である。さらに生物は物理化学法則にも規定されており、環境の変化によって存在そのものが規定されている。[3020]


第4節 弁証法

 弁証法は「物の見方、考え方」としての観念のあり方ではない。存在のあり方である。弁証法は矛盾を認める。しかし、無条件に矛盾を認めたのでは何も明らかにしない。どのような対象にも矛盾が現れ、認められることなどありえない。[3021]
矛盾がどのように実現するかを明らかにしなくてはならない。[3022]
弁証法は物事のあり方の基本法則である。[3023]

弁証法は「問答法」でもあり、「論証術」でもあり、「教授法」でもある。[3024]
弁証法は形式論理学の敵対物でもあり、形式論理学を含むものでもある。[3025]
弁証法は物事のあり方の論理であるから、物事の存在としても、現象としても、認識においても、解釈においても、そしてなにより運動において現れる法則である。弁証法は概念の法則であるとともに、存在、認識の法則でもある。一方、形式論理は概念だけの法則である。すなわち、形式論理は思考法則であり、第14章に位置づけられる。[3026]
弁証法は、物事の存在、すなわち運動のあり方、物事の論理、物事についての認識についてそこに含まれる関係と、関係の変化、全体の関係を示すものである。[3027]

弁証法は弁証法の正しさを証明することが使命ではない。弁証法は弁証法によって、物事のあり方を解釈するのが使命ではない。個別科学の成果の中に弁証法の例を探すことも、成果を解釈することも弁証法の役割ではない。[3028]
弁証法は言い逃れの論理のすり替え方ではない。「論理の内に、誤りを検証する方法を含まない論理は科学ではない」と言われる。また、「基本法則であるなら、すべての法則を演繹できる法則でなければならない」と言われる。弁証法はこれらに答えなくてはならない。弁証法は様々な存在の現れである。したがって、様々な誤解を生じる。しかもイデオロギー対立が関わるからなおさら混乱がひどくなる。[3029]
「なんでもあり」は「なにもない」に等しい。これはまさに弁証法論理である。[3030]

弁証法については弁証法の方法、基本的概念の説明がされなくてはならない。形式論理との関係が説明されなくてはならない。個別科学の成果との関係、真理の認識との関係が説明されなくてはならない。[3031]

結局、弁証法の問題は世界観の問題と一体の問題である。[3032]

【弁証法】

弁証法は物事のあり方として存在論であり、論理であり、認識である。[3033]
弁証法は物事が「あるか、ないか」ではなく、どのようにあるかを問題にする。すべての存在は非存在の否定としてある。非存在は存在の否定としてある。この存在と非存在の敵対的対立関係が存在のしかたである。エネルギーの移動、形態転化としてすべては存在する。[3034]
これは考え方の、観念的形式の解釈ではない。他との関わりを持つものとしての、この世に存在するもののあり方である。他との関わりという関係がそれぞれを存在させ、またその存在を否定する関係である。逆にこうした否定的対立関係にあることが物事の「存在」である。このことはこの「世界観」のこれまでに述べてきたことであり、これからもも述べることである。個々の物質の存在、生物の存在、人格の存在、宇宙そのものが一定の存在でありながら、一定であり続けつつ、次第に他の存在に変わっていく関係にある。一定の存在であり続けるために自らを変えつづけて存在する。[3035]

存在は一つの形としてあるのではない。存在は運動の現れであって、他との関係も一つの関係ではない。存在自体他との関係と連なる内部の複数の、一般に非常に複雑な内部構造の関係がある。しかもその関係、関係の構造自体が変化する。この関係の普遍的な形式が法則であり、論理としてとらえられる。法則は具体的現実に組み合わされ、その形をも様々に変化させて現れる。論理も弁証法の現れである。[3036]

認識にあっても、対象と認識の成果物は対極関係にありながら、一端成果物が獲得されるとそれをもが対象になる。認識は対象の存在=運動を反映しようとするが、認識自体が運動である。存在を対象とする認識自体も運動である。認識も対象と主観との相互関係としての運動である。認識は対象について検証するだけでなく、自己言及によって認識主体自らを検証しなくてはならない。認識も弁証法の現れである。[3037]

存在、論理、認識いづれも弁証法の現れであり、弁証法は個々の現れ方のすべてとしてある。[3038]
したがって弁証法を学ぶことは、定義された教科書を覚えることでは身につかない。現実の様々な物事を学び、次々と報告される個別科学の成果を学び続けることが弁証法を学ぶ最低限の条件である。ただし、すべての物事、すべての個別科学を学ぶことであるはずはない。[3039]

【学としての弁証法】

学問の方法としての弁証法は、個別存在の具体的研究方法を提示するものではない。論理的に研究方法まで演繹できる方法論が存在するわけはない。しかし、研究方法は弁証法に従う。[3040]
先入観があっては認識は歪んでしまう。しかし、探求の目的意識がなくては発見はできない。対象を認識することで、方法の有効性は検証される。前提と結果の関係は本質的に相互依存の関係にあり、分離され、形式的に評価される関係にはない。[3041]
科学は対象を概念と論理によって再構成する。対象を分析し、概念の論理関係として定義する。同時に定義は対象によって論理関係の整合性を検証される。新たな対象概念の定義は、概念の論理関係を拡張するものとして論理関係を総合する。分析と総合は科学の基本的弁証法の過程である。[3042]
科学研究課題は対象を明らかにすることであるが、対象を明らかにできて課題の意義が明らかになる。弁証法は研究課題を明らかにし、研究成果を評価する。また研究者自身の活動の指針を示す。[3043]

学問の対象としての弁証法は、対象の内部関係の構造を契機としての他との関係の論理を明らかにすることである。歴史的過程内における対象の論理の発展を明らかにすることである。論理構造、歴史的構造の対象としての統一構造を明らかにすることである。弁証法は対象の論理性、歴史性、総体性を明らかにするものである。[3044]
いづれかの面を欠落した対象の把握は、個々の学問としての欠陥となる。科学は当然のこととして論理性、歴史性、総体性を備えていなくてはならない。科学の個々の成果も、その論理性、歴史性、総体性を明らかにしなくては、個別科学の内にあっての評価のしようがない。[3045]

【世界観と弁証法】

形式論理の有効性は、対象の定義の厳密性、明証性を前提にしている。形式論理では対象とその概念と、さらにそれらの対応関係は不変でなくてはならない。論理操作の正しさは当然のことでなければならない。対象の定義は対象の他との関係を全体的にとらえなくてはならない。論理的帰結の利用は、逆に対象の全体性を再構成するものでなくてはならない。その無矛盾性が形式論理の有効性を保証する。[3046]
しかし科学、学問は、定義そのもの、概念化の過程と、概念の現実への展開の過程を明らかにしなくてはならない。[3047]
これらは、形式論理の枠内では扱えない。だからといって、直感によることも、経験だけによることも科学の方法ではない。対象の全体の位置づけ、対象の他との相互関係、対象の運動、対象の現れを法則的にとらえなくてはならない。それが弁証法であり、具体的適用が世界観でなくてはならない。[3048]

【弁証法の否定

弁証法の否定は概念の否定ではない。論理関係における否定ではない。論理関係における否定は補集合の肯定である。論理関係では集合と補集合は形式的対立関係にあり、決して混じり合うことも、一方だけになることもない。論理関係では集合の集合の集合をたどれば、それ自身の身の置き場がなくなってしまう。[3049]
弁証法の否定は対象の否定である。存在対象の否定であり、認識対象の否定であり、論理対象の否定である。[3050]
存在は相互作用の相互関係にあって他を否定する。対象として、全体の否定として、他の物の否定として肯定される。存在対象は全体の否定としての部分として肯定され、全体の肯定に止まってはいない。存在対象は主観でないものとして肯定される。肯定し、否定する主観の否定として対象は存在する。[3051]
認識は客観的対象を否定し、主観的対象を構成することである。客観的対象を主観的対象によって否定し、重なり合う対象を変革対象として検証する。既存の主観的対象を客観的対象によって否定し、主観的対象を更新する。[3052]
論理は対象を区別して規定する。他のどれでもない対象を概念として定義する。他のすべての概念との連関のなかに概念を定義する。形式論理は対象を否定し、関係だけで閉じてしまう。[3053]

弁証法の否定はまず、規定としての否定である。全体の否定、他の否定として対象を肯定する否定である。[3054]
弁証法の否定は、否定性の否定である。対象の全面否定ではなく、対象が対象である本質を脅かす、非本質を否定する。[3055]
弁証法の否定は、矛盾の否定である。存在構造、運動過程にはらまれる矛盾する互いの否定であり、矛盾関係そのものの否定である。同時にそれは、過去の否定としての現在であり、現在の否定としての未来である。[3056]
弁証法も、弁証法の否定も、矛盾も、世界観全体を貫いて、世界観のいたるところに現れる。[3057]

【現代弁証法の真髄】

弁証法の真髄は相対主義ではなく、相対する関係に対象を見ること。さらに大切なことは主観もそこに省みることである。[3058]
弁証法は相対主義ではなく、総体主義である。「A、Bどっちもどっち」ではない。肯定と否定どちらも認めることでもない。条件を付け加えて言い逃れする方法でもない。[3059]
弁証法は物事は単独ではありえず、全体の関係の中にあることを認める。認め、判断するもの自体が全体の関係の中にある。総体主義である。[3060]
弁証法は物事には肯定的な面と否定的な面があり、その矛盾対立の過程としてあり、永遠不変の物事はありえないことを認める。[3061]
そして大切なことは、弁証法は認識も対象である物事の運動の一環であり、対象との相互作用として認識はあり、認識によって認識自体が発展することを認める。主観が対象を判断する絶対基準をもつのではなく、判断基準自体が認識によって検証され、獲得されるものであることを認める。[3062]
弁証法ではこの様に世界を解釈する、というより世界はこの様であると認め、実践の手がかりにする。「主義」とも言いえるが、複数の選択枝として「主義」ではない。一つである現実世界のあり方そのものである。弁証法は、この真理との対応の意味では宗教と同じとも言いえるが、宗教とは認識の方法が、実践の方法が、論理が決定的に違う。[3063]

こうした世界の見方・考え方にしたがって世界を対象とし、概念化する論理が弁証法論理である。したがって、弁証法は論理関係だけを論理の対象とはしない。世界と概念の関係にも論理を敷衍する。[3064]

西欧の主流の思想では弁証法は論理でも、科学でもない無視すべきものとされる。ヘーゲル−マルクス・エンゲルスの弁証法は省みられることなく、いや否定もするべきでない、無視すべき、避けるべき方法とされている。現代哲学や科学論は弁証法に触れようともしない。そのために、相対主義に閉じこめられてしまっている。対象は相対的な存在であり、真理の判断基準が絶対的であるとの思いが見える。キリスト教の神を信ずるか、理性を根拠とするかの違いはあっても、主知主義、理神・汎神論は審判者の絶対性を疑おうとすらしない。対象の存在判断は当然の理性の権限とばかり、「では存在するとはどういうことか」を反省しない。[3065]
それでもほころびは生じてきている。「自己組織化」「自己言及」などは弁証法の入り口である。[3066]


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