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第一部 第二編 一般的、論理的世界

第8章 法則


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第8章 法則

法則は物事の「有り様」の普遍性である。「物事」は世界全体であり、個々のものでもある。有り様はそれらの存在、運動、歴史(発展)である。有り様は実在の構造、実現過程、現象過程である。[s001]
法則は普遍性であり、むき出しのまま現れはしない。法則は環境条件にあって具体的に現れる。法則は本質の実現形態であり、環境条件にあって現象する。環境条件にあって具体的な形をえて、豊かに実現する対象の本質を法則は表現する。[s002]

法則は対象の有り様を規定するものであるが、同時に反省規定でもある。対象の有り様の普遍性を認識し、その普遍性を概念によって表現した反省規定が「法則」である。対象を直接規定する法則とその法則を対象とする反省規定としての「法則」の二重性に留意しておく必要がある。定義された「法則」と、定義された「法則」の示す法則がある。定義された「法則」は定義の過程で誤りを犯す可能性がある。[s003]

【対象の反映】

法則は存在の関係形式であり、運動過程の形式である。法則は同じ環境条件にあって同じに現れる運動の普遍的形式である。[s004]
環境条件の最も一般的な場合が世界全体である。世界全体の運動に現れる形式は最も普遍的な法則である。最も普遍的な法則の一つとして熱力学法則が思い浮かぶ。地球の環境条件ではエネルギー代謝過程と、生物進化の法則が重要に思われる。ただし、生物進化についてはまだ「法則」と呼ぶにふさわしい形式を整えていない。社会の発展法則も同様である。ただ歴史を振り返って、そこに普遍的な運動が想定されるから、法則を探ろうとし、科学予算が配分されている。明確さに程度の差はあっても、将来法則として定義しえる普遍的な運動形式を対象に想定している。科学行政も科研費の対象に人文分野を排除できない。[s005]

法則は、環境条件を制御することによって発見される。多様な環境条件を設定することによって、それでも現れる普遍的な運動形式を明らかにする。環境条件を制御することによって運動の普遍性を明らかにし、法則として表現することが可能になり、利用することが可能になる。環境条件を操作することが不可能な対象については、観測条件を変え、観測を繰り返すことによって普遍性を明らかにする。再現性のない1度きりの対象は、連関する原因と結果、環境条件を可能な限り明らかにすることによって、そのすでに明らかになっている他の法則との論理的関連によって普遍性を明らかにする。[s006]

対象の運動形式は現象過程をとおして現れ、思考によって反省され、定義される。法則は対象の普遍的有り様として存在し、反省として存在するのである。「○○○法則」と名付けられた法則は、反省規定である。法則を対象とするときには、対象の普遍的形式のことか、反省規定のことかを区別してかからないといけない。反省規定としての法則は対象の普遍性を抽象して認識し、論理によって観念として表現しているのである。全体の運動との比較、他の運動との比較によって、対象に運動形式の普遍性を認めるのである。認めるのは人間の主観であるが、認めることとは独立して対象の普遍的運動形式がある。主観の反省の中で抽象化され、形式が定義されるが、それは対象を反映している限りで普遍的である。主観の判断だけで対象の普遍的運動形式、法則が定義されるのではない。[s007]
したがって、誤った法則もある。対象の現象にとらわれ、本質をゆがめて反映してしまう法則もある。しかし、「法則」に誤りがあるのであって、対象に普遍性がないのではない。対象に普遍性があるから誤った「法則」は正される。対象に普遍性がなかったなら、現象の数ほどに多数の法則が並び立つことになってしまう。[s008]

個別科学はそれぞれの具体的な対象について法則を明らかにする。これに対して哲学は具体的な対象ではなく、運動の普遍的な形式を対象にする。哲学は個別科学が対象とする運動すべてに現れる普遍的形式を対象とする。すべてではなくとも、個別科学の対象範囲を超えた普遍的運動形式を対象とし、その場合個別科学の名称と哲学を組み合わせて言い表す。「数理哲学」「自然科学の哲学」「生物学の哲学」等等。それだけ哲学の法則は一般的であり、抽象的であり、具体的豊かさとはほど遠い。哲学の法則は、一つひとつの物事の世界全体に占める一面とその位置を表す。一つひとつの物事のすべてを明らかにはしないが、すべての物事の一面とその位置を表す。一面ではあるが全体を対象とする法則は、すべての物事の一面ずつを表す法則は、そのすべてによって抽象的にではあるが世界全体を表す。抽象的にでも世界全体を表せるよう、世界観は組み立てられなくてはならない。[s009]

【論理の意味】

逆に、反省された法則は論理系の意味を表す。[s010]
論理系は対象から独立した形式的関係として閉じている。論理系の論理の連関をたどると系内のすべての関連をたどることができるが、論理の連関以外の関連に至ることはない。論理は論理系の外に出ることはできない。だからこそ論理系の無矛盾は証明することができる。他の要素が連関したのでは、無矛盾であることを確証できない。論理系は閉じた形式的関係であるために、系外とは連関せず、世界で自律している。論理系はその内なる世界からは意味づけることができない、抽象的な形式である。[s011]
しかし、論理は対象から独立はしてはいるが対象内の、あるいは対象間の関係を反映している。対象の普遍的関係形式を概念間の論理的形式として反映している。対象の内容は捨象しているが、形式を抽象している。論理の表す関係形式が、対象に表れる関係形式を反映している。論理的に定義された法則は、対象の論理的解釈であり、論理はその法則によって論理系の意味をしめす。[s012]
論理系の個々の論理は抽象的で対象の意味を捨象した形式である。抽象的な形式的連関もその全体として対象の運動形式を表現することで意味を表す。対象との反映関係として、形式化された論理系の意味を法則が具体的に表す。[s013]
例えば、抽象的で非現実的と考えられていた幾何学が、相対性理論や量子力学の主要な道具になっている。また、虚数の例もある。[s014]

【反映の獲得物】

法則の獲得は認識の当面の目的であり、法則は認識の成果物である。認識の究極の目的は実践である。にもかかわらず、認識することが知性の最高の価値であるかのように理解するのは西洋人に多い。理性を真理の審判者として疑おうとしない。主知主義的傾向というか、理性至上主義というか。[s015]
知性の証明は現実に何をなしているかである。人工知能の評価などで「認知」ばかりが注目され、そこに止まることが人工知能研究の限界になってしまう。認識は実践過程の一部であり、絶対と思われる真理も繰り返し検証されなくてはならない。普遍性の追求は一度の獲得で成し遂げられるのではなく、実践の過程で常に検証され、獲得しなおされなくてはならない。[s016]
認識は対象の変化の表れを記録することではない。結果としての記録をどれほど蓄積しても意味はない。記録は実践過程で、多様な形で検証されて意味を実現する。多様な形での検証によって、記録の普遍性が明らかになる。認識は変化の中に普遍性を求める。変化の中の普遍性として対象は認識される。その普遍性が実践の中にどう現れるかまで認識しなくてはならない。[s017]
法則は対象の普遍的関係を論理関係として反映し、表現する。法則は対象の普遍性を抽象する認識の成果物であり、認識の発展によって限定されたり、否定されたり、改訂される。[s018]

【法則の展開】

絶対不変の法則は真理であっても意味がない抽象である。法則の抽象的論理関係は限定され、具体化し、対象の運動過程、現象過程を説明し、予測できるものでなくてはならない。法則の論理による必然的規定と、環境条件による偶然的規定とを区別する基準を明らかにしなくてはならない。法則は主観の反省によって形式化された抽象でしかないのだから。[s019]
対象の普遍性を抽象した論理である法則は、具体的対象を再構成できなくてはならない。法則は論理を展開して、運動過程を再現しなくてはならない。法則は環境条件に応じてどのように具体化されるのかを、その具体化の規定性を普遍的に備えなくてはならない。法則は捉えた普遍的な形式が、対象の運動過程のうちに具体的な内容となって展開されることで検証されなくてはならない。[s020]

【法則の利用】

法則が明らかになっても直接役には立たない。法則は普遍的な、当たり前の運動を示すにすぎない。[s021]
「光は直進する」ことが分かっても、光を直接曲げることはできない。光を直接曲げることができたら、光の直進性は法則ではないことになる。光を曲げることは光の環境条件を変えることによってしか実現できない。太陽のように質量の大きなものを利用して重力場を歪ませることは、人間の技術ではできない。光の進路を曲げるには場の密度の変化を利用する。気体、液体なりの密度の違いで、あるいはレンズを用いて光の進路を曲げることができる。[s022]
法則を利用できるのは法則そのものではなく、法則を実現する環境条件を設定することによってである。環境条件を制御することによって、法則の実現を望みどうりに、あるいは実現しないように図ることができる。[s023]


第1節 基本法則

基本法則は物事の有り様の最も一般的、本質的、抽象的法則である。基本法則に対するのは現象法則である。現象法則は、歴史性も含めた環境条件のなかで実現する過程を対象とする。[s024]
基本は個別存在ではない。個別存在を実現する全体の運動法則が基本法則である。基本法則は個別存在を実現する法則であり、実現してしまった個別存在のあり方ではない。[s025]

運動は変化として現れ、運動しないものは存在しない。「不変(普遍)の理念」であっても記号化され、放置されては単なるキズなりシミとしての存在となり、次第に消滅する。「不変の理念」は常に他の「理念」と結びつき、相互作用し、試され、その過程で保存される存在が普遍なのである。運動しつつ保存される存在形式が「不変」であり、存在そのものは常に変化・運動するものとしてある。他と結びつかない、相互作用しない、試されない、運動しない理念は理念ではない、単なる観念である。[s026]

【法則の階層】

究極の法則性を想定し、世界を論理的にとらえることができるとするなら、世界を法則として表現することができる。世界が一つであれば、法則も一つであるが。しかし、一つしか法則がないのであれば、それは法則ではない。一つしかない法則は一つの結論、現実しかもたない。一つの世界が多様であるから、多様な法則があり、かつ普遍性がある。多様な法則はそのすべてによって一つの世界を表す。多様な法則は、一つの世界をはみ出しもしないし、不足もしない。[s027]
多様な法則が一つの世界を過不足なく表すことができるには、そこに法則の法則性がなくてはならない。法則間の連関に法則性がなくてはならない。「法則」は「法則」の法則によって一つの全体として連関している。「法則」の法則は、法則の階層性を示す。法則の対象に階層性があるように、法則自体にも階層性があり、対象の階層性を法則の階層性が反映しなくてはならない。[s028]
法則には基本法則、現象法則がある。世界の普遍性を示す基本法則がある。対して、個別存在の有り様を示す現象法則がある。逆に特殊法則に対し、一般法則がある。個別科学の特殊法則を超える、世界の統一性を示す一般法則がある。[s029]

【学問と基本法則】

基本法則の現れを様々な事例の中に探すことが、基本法則の問題ではない。主体が対象世界と関わる基本を押さえるためである。法則の表す普遍性にとどまらず、認識の、実践の普遍性を主体自らが実現するためである。学問としての普遍性、生きることの普遍性、実践における普遍性を主体が獲得するためでもある。[s030]
獲得された基本法則は万能の研究方法ではない。研究の具体的指針を示すものでもない。しかし、解釈の道具としてあるだけでもない。いかに専門的分野であっても、対象の世界における位置、研究手段、研究方法、研究成果の解釈、これら全体を一つの研究として扱う。この全体に基礎となる対象理解を提供するのが基本法則である。すでに獲得された基本法則だけでなく、研究に有効なのはかえって獲得されていない、想定される法則である。想定する法則に基づいて対象を解釈し、検証することで対象を明らかにし、法則を想定ではなく、証明することができる。[s031]
個別存在の研究も「変化にあって変化しないものを認識する」ことである。全体的・相対的変化の中に、不変の部分の規則性を明らかにすることが研究である。「不変」のみにとらわれ、結果の形式的「不変性」が科学であると思い込んではならない。[s032]

【基本法則の分類】

世界全体、あるいは個々のものの存在、運動、歴史は、存在法則、運動法則、歴史法則に分類できる。特に歴史法則はより一般的表現として発展法則である。[s033]
世界全体、あるいは個々のものの存在を表す対立物の統一の法則。[s034]
運動過程を表す量的変化と質的変化の相互転化の法則。[s035]
発展過程を表す否定の否定の法則。[s036]
として基本法則は分類できる。[s037]
これら3分類の基本法則は単独で現れるものではない。3つの基本法則は相互に依存し、相互に規定し合っている。3法則にあっても、法則自体の内に、存在、運動、発展に関わる各々の面を持っている。3分類の法則を3つの面に整理して検討する。[s038]
基本法則をこのようにとらえる弁証法は、存在=運動の法則である。存在は運動することであり、運動しない存在はない。このことを忘れてしまうと、形式論理の位置づけができず、混乱することになる。[s039]

基本法則は世界観全体を貫くものであり、法則の具体例は世界観のすべてである。「基本法則」としての項目は、法則の形式を整理する場である。そして、第二編 一般的、論理的世界のこれまでのまとめである。[s040]

基本法則は物理、生物、精神、文化いずれにも現れる存在一般の運動法則である。あらねばならない。[s041]


第2節 対立物の統一の法則

対立は矛盾の現れであり、その統一と相まって、存在、運動の弁証法の基本となる概念である。弁証法における対立は表裏、上下、左右といった形式的対立でも、別個のものの偶然の出会いによる対立でもない。弁証法の対立と統一は互いに否定し合いながら、それぞれに肯定される存在、運動である。また、一つのまとまった存在を構成する、運動の過程における対立である。存在構造、運動過程の、その内における、同時に外に対する対立である。[s042]


第1項 対立物の存在

存在は他との関係であり、他ではないものとして存在する。存在は運動であり、運動は質的、量的変化でありながら、量的、質的に不変でもある。すべてが変化したのでは運動は何ものの区別できず、混沌である。すべてが不変であっては、運動ではない。[s043]

【全体と部分の対立】

対立物の統一の法則は何よりも存在に関する法則である。個別存在間の関係として部分が区別され、個別存在間の存在間系の統一として全体が、部分に対立している。世界は全体と部分の対立と、その統一として存在している。個々の物事は全体の運動でありながら、相対的静止としての個別の保存として存在している。全体と部分の対立は、存在そのものとして形式的対立ではない。[s044]
全体の運動なくして部分の運動はありえない。部分の運動は全体の運動があって実現する。逆に、全体の運動は部分があって現れる。部分があって全体は抽象ではなく、具体的現実となる。[s045]
全体の運動と部分の運動は媒介関係にある。部分の運動は全体の運動に媒介される。媒介は全体である媒介するものを規定し、否定し、それに対立する部分を規定、構成する。媒介自体が対立的否定性である。そして、部分の運動は全体の運動に還元されない。全体に還元されたのでは部分は存在しようがない。部分であるからには全体にありながら、全体を否定する契機を保存しなくてはならない。[s046]

部分の全体を否定する契機は部分間の区別である。他でないことの区別として部分はある。他ではなく、したがって他と関係する部分であり、他ではない、全体ではない。他と関係し、他ではない、他の否定として、全体を否定する。部分は全体の部分であり、直接全体を否定するものではない。部分は他を否定することによって、全体を否定する。[s047]

部分間の対立する運動の統一として全体の運動が実現している。その全体の運動の傾向は散逸化である。部分が部分間の相互否定の、対立する運動過程にあって構造を創り出すが、全体は部分の構造化を否定し、散逸化する。部分の運動は構造化、あるいは構造の保存である。また、さらにその部分の構造の全体として発展する運動がある。2つの対立する要素間の関係だけではなく、対立関係を超える存在をもとらえなくてはならない。この対立の視点と、対立を超えた統一の視点が弁証法の視点としてすべてに必要になる。[s048]

全体の運動なくして部分の運動はありえない。部分の運動は全体の運動があって実現する。逆に、全体の運動は部分の運動があって現れる。部分があって全体は抽象ではなく、具体的現実となる。[s049]

【存在における対立】

対立を含まない対称的存在は絶対的静止であり、運動する全体であるこの世界には存在しない。対称性の破れは対立の契機である。なぜ対立し、対称性が破れたかは問題にならない。「なぜ」の理由が必要な構造などまだない。「どのように」は課題になっても、「なぜ」は問題の立てようがない。ただ、対立が生じ、対象性が破れたから、それぞれに区別される存在が現れ、多様な問題を提起することになる。[s050]
個別存在は全体の運動の中の相対的静止である。全体の運動に対して部分の静止を保存する運動として相対的静止は実現する。静止の相対性は空間的でも、時間的でもありえるが、個別存在の静止はなによりも質的である。[s051]
個別存在は互いに対立し、同時に全体に対立する。これらの対立は敵対的とは限らない。個別存在の対立は相互作用の相互対象性としての対立であり、相互規定として現れる。[s052]
全体の散逸化にあって部分の構造化として存在を実現する。散逸化と構造化とは形式的に対立する方向である。散逸化する全体の部分において構造化が実現する。散逸化と構造化の対立と統一の過程として部分が実現される。散逸化と構造化は部分において同時進行する過程である。[s053]

【運動における対立】

部分の運動は全体の運動とは区別され、かつ全体の運動を部分の運動として保存する。相対的全体を、他との連関を変化させるが、部分を保存する不変である。運動は変化と不変の対立であり、その統一である。[s054]
部分の区別は対称性の破れである。部分の対称性の破れは幾何学的対称性と違って対立を含む。対立は対称性の破れの現れであり、一方で対立が継続し、あるいは再生産され、対立関係が保存される変化が現れる。他方で「継続」、「再」生産、関係の「保存」として不変が現れる。[s055]
散逸化として、時間の対称性を破っているのが全体の運動である。そもそも時間には対称性がないから時間である。時間のどの部分をとっても区別がある。全体の時間は歴史であり、部分的繰り返しはあっても、全体は繰り返さない。全体としての散逸過程に時間的対称性はない。散逸過程での対称性は、一様な散逸過程での部分の形式に現れる。時間対称性が現れるのは部分の運動形式、部分の運動関係としてである。繰り返される過程は部分として互いに対称である。しかし、過程の全体はやはり非対称である。部分の運動形式の保存は静止ではなく、全体と部分の対立運動によって実現される。[s056]
部分間の運動の対立は対称性を破り、非対称性を保存することによって、対象性として実現する。対象性は他を対象化し、そのことを介して自らを対象化する。自他の区別としての対象性は自他の対立と、その対立を保存する場の普遍性が統一としてある。[s057]

【対称性の対象性への転化】

対称性は互いに区別する部分を含むから対称である。部分を含まない単一の存在は完全対称であるが、そのようなものは存在ではない。対称性は対称軸を規定できるから対称である。しかし、対称軸の規定は互いの区別であり、互いの対象化である。対称性は対称軸を規定することから、対称性の破れの契機を孕んでいる。対称軸を介して対称性は対象性へ転化し、対象性の実現として対称性を破り、非対称化へ向かう。完全対称性は破れ、対象化し、やがて対象は散逸し、混沌として対称性へ再帰する。[s058]
対称性の破れは非対称となる部分の生成であり、非対称となる関係間にある。非対称をなす互いの部分の関係は対立であり、その対立の場の普遍性が統一である。対称性の破れは被対象となる部分の生成である。被対象となる部分として、自らを対象とし、また他を対象化する。[s059]
非対称の関係は相互関係であり、現実の過程では相互作用として現れる。相互作用は互いを対象とし、またそのことによって自らも対象とする。対象性は自らの存在の規定である。すべての個別存在は対象性をもっている。対象性をもたないものは、存在を超えてしまったものであり、個別存在にとってはもはや存在しない。個別存在の観測者も、存在を評価する者も対象性をもっている。[s060]

【対立と統一】

対立によって別々に分かれ、互いに他としての存在が再度統一するのではない。抽象的対象ならともかく、現実に存在する対象は世界の部分としてあり、分隔することはありえない。統一は対立の現れる普遍的な場の統一性である。場は入れ物としての空間ではなく、対立を実現する運動過程そのものである。分隔して対立するのではなく、対立はひとつの、分隔していない運動過程である。対立の過程と統一の過程は存在の契機としてある。[s061]
対立は面ではない。面には表裏のように固定した関係の意味合い、あるいは多面的な選択可能な部分の意味合いがある。対立は全体として一体の過程であり、他方を切り捨てる否定ではない。全体の運動は散逸化、一様化への運動であるが、その過程にあって部分は個別存在として対象化する。個別存在としての対象化は個別化であり、他ではない個別の肯定である。他を否定し、自らを肯定する。個別化としての個別存在の相互作用、相互規定は相互に否定するのではなく、自らを肯定する。規定のもつ否定性は個別相互ではなく、全体に対する否定性である。[s062]
統一は結果ではなく対立関係全体を構成する媒体である。統一はできあがってしまうのもではなく、対立を保存する過程である。この「統一」は分裂の反語ではない。さらに、「対立物の統一」であって、「対立の統一」ではない。「物」として存在に関わる関係であって、すでに存在している物の出会うことによる対立ではない。「対立の統一」では過程の結果しか表さない。「対立物の統一」は運動過程そのもの、存在過程そのものを表す。[s063]
人によっては「統一」という用語は対立を切り捨て、肯定的で不適切であるとし、「闘争」という用語を提起する。しかし、存在の契機としての理解をふまえ、戦闘的な「闘争」より「統一」を選ぶ。[s064]


第2項 対立の運動

【対立物の関係】

個別存在間の対立も、全く独立した別個のものが衝突するのではない。また、対立の結果としてひとつのものに統一されるのでもない。対立する個別存在は相互に依存し、あるいは相互に浸透し合う関係として対立する。全く関係のない個別存在間には対立も、統一もありえない。対立は関係であり、関わることなしに関係ははい。背離でも積極的に背く関係にある。[s065]
対立しているから統一されるのであり、単一のものには統一などありえない。統一された場=全体にあるから対立する部分が実現する。[s066]
対立は否定ではない。対立する関係は継続であり、対立する関係での運動である。相互の存在を前提にしており、互いの存在に対し、自らの存在に対する対立関係である。[s067]

現実の存在は互いに関係しあっていて、現実の相互関係の中で運動している。抽象化した観念の無作為の組み合わせの関係を作り出しても、対象間に関係はなくとも、観念的に作り出された関係にある。恣意的に関係づけたり、対立を持ち込むのではない。論理的関係、空間的・構造的関係、時間的関係、これらの関係を形式的に当てはめて対立を見るのではない。特に、因果、前提と結論、等の関係は、派生的関係であって、対立物の統一の関係として扱うことはできない。現実存在である対立関係は、対立と同時に同一、あるいは統一の関係にある。[s068]

【部分と部分の対立としての存在】

部分と部分の関係として現実の対立は存在する。全体に対する部分の対立関係は、部分間の関係として現れる。[s069]
逆に、部分の関係として全体との関係が現れる。部分は他の部分へ作用することによって、また全体の一部分である自らを変えることによって全体に作用する。部分が作用できるのは、自らが関わっている関係においてである。自らが関わっている関係において、作用は自らを変えることによって実現する。自らを対象として規定することによって、自らの関わりを変え、全体の関係を変える。[s070]
部分と部分との対立関係としてある相互作用過程にあって、部分が存続するには他を対象とし、直接にはその関係にあって自己を規定することによってである。当然に他からの作用も自己を規定するものとして作用する。自らの作用も他に対して同様に規定的に作用する。この相互の規定作用全体に対するものとして、自己を自ら規定することによって部分は存在する。[s071]

【個別存在における対立と統一】

個別存在は、全体と部分の対立を実現し、統一するだけではない。自らを構成する部分間の対立を統一するものとして存在する。[s072]
個別存在における対立と統一は個別存在そのものの存在を規定する。個別存在は他に対して自らを対立させるのではなく、個別存在自らの内在する対立の統一体として存在する。物理的散逸過程での構造の保存は、生物の代謝に同型で再現する。代謝は生物の存在の基本的過程である。[s073]
さらに、生物は基礎代謝と運動代謝の対立と統一の過程へ発展した。基礎代謝は生命維持の基本的過程である。運動代謝は基礎代謝を維持するための環境条件への運動として獲得された。動物は生命維持のための基礎代謝だけではなく、餌を獲得するために、基礎代謝を超える運動をする。物質代謝の生理過程は基礎代謝も運動代謝も同じ過程である。同じ代謝過程でありながら、生命維持の基礎代謝を超え、生命維持のための運動代謝を必要とする。やがて、運動代謝は生命維持を超えて、独自の運動形態へ発展する。よりよい環境条件の選択や創造、運動自体を目的とする「遊び」である。環境条件をより優位に利用できる能力が生物進化の過程で選択されてきたことは、運動代謝能力獲得の圧力であるが、運動代謝は基礎代謝の実現を超える契機である。動物は基礎代謝だけでは生命を維持できない。基礎代謝を更新し、自己複製するために基礎代謝を超えた運動をしなくてはならない。だが、運動代謝の負担が大きすぎれば、基礎代謝過程が破綻する。[s074]
さらに、精神の反映は、主体の対象を主観の内に自らの対象として対立させる。主観の内で自らと対象との対立を反省し、主体の対象としての世界を再構成し、理解する。主観の内に理解された世界観を基準に、新しい主体の対象を解釈し、解釈を反省し、検証する。環境条件の変化として与えられる新しい主体の対象は、既得の世界観の対立物である。この対立物を解釈し、評価することで対立物を世界観に統一し、世界観自体を更新する。[s075]

【対立の契機】

運動は相互作用であり、個別存在単独の運動はありえない。運動は相互規定であり、反省規定ではない。運動は直接的、即自的規定でありながら、全体を否定し、全体に対立し、他に対立し、自らをも否定する。存在、運動自体が対立の契機である。[s076]
運動は他との連関にあって方向性をもつ。方向性は空間的方向性に限られない。一般に方向性は他との相対的関係のうちに現れる形式の保存である。[s077]
方向性は運動の属性であって、それぞれの運動を離れた、抽象的な方向性は相互に作用しない。花の開花の方向性と恋の成就の方向性に相互関係はない。方向性は具体的運動として、他との相互の関係に方向性を現す。そもそも、方向性そのものが無関係なものに対してあるのではなく、自他の区別としてある。[s078]
相対的な方向性が異なることが対立である。相対するか、あるいは相反する関係が保存されることが対立である。対立関係が保存されるだけであるなら、形式的対立である。対立関係が方向性をもつことが運動における対立である。対立関係が方向性をもつことが、運動における対立の契機である。対立の方向性がどのように現れるかは、運動の過程である。[s079]

【対立の実現過程】

存在は散逸化に抗する構造化運動である。散逸化は全体の運動であり、構造化は部分、部分間の運動である。部分、部分間の運動は相互作用として構造を実現する。散逸化と構造化という対立する方向性の統一として散逸構造が現れる。[s080]
すべてを散逸構造として理解し、割り切ることができるのか。散逸構造理論のブームは過去のもの。今は「複雑系」と呼ばれている、[s081]
 存在を実現する運動が、散逸構造として対立を統一しているのである。偶然の相対的運動すべてに散逸構造があるわけはない。一般にすべての存在は散逸化を免れない。同時に散逸化せず、存在構造を保存する運動としてすべては存在する。[s082]
散逸化させない、構造化し、構造を保存する運動は散逸化の運動に媒介されているが、散逸化の運動を超えた運動である。運動の一般的方向性は散逸化である。一般としてある方向性を対象として、構造化の方向を組織する。個別の運動を対象として組み合わせ、その組み合わせを保存する。一般を個別を介して特殊化する。存在は、対立する方向性を保存する方向性として超えている。[s083]
物質の場合も陽子と中性子が結合することで原子核が構成される。原子核が電子を捕らえているから原子が構成されている。電子の運動を介して分子を構成する。[s084]
物理的相互作用は基本的な4つの相互作用である。物理的相互作用が化学的相互作用を構成し、化学的な相互作用が生物の物質代謝を構成する。生物は環境に対し、他の個体に対し知的相互作用を実現し、社会的相互作用を構成する。社会的、知的相互作用から文化が構成される。各段階でそれぞれに構成される運動がどのように実現されているかは、個別科学に学ぶべきである。運動一般の対立関係を個々の運動によって例示したり、解釈することは理解の助けにはなる。しかし、運動法則を証明することにはならない。法則は本質が示す、普遍的な形式をとらえなくてはならない。[s085]

位置の移動も単独の運動ではなく、相対的な重力場に規定される空間内での移動であり、重力場を規定する圧倒的に大きな質量の物との相互作用である。複数の質量が関係することで引力が現れる。通常は地球との相互作用である。互いの質量差が圧倒的でなければ相互の規定関係が見やすくなる。連星の場合、互いに互いの周りを回る。[s086]
質量をになうものは宇宙全体の質量のそれぞれ一部をになっている。同じく質量をになう物が重力で引き合うから相互に関係する運動をする。質量をもつから引き合うのであり、逆に引き合うから質量が現れる。質量をもつこと、引力で引き合うことは重力で相互作用する物の普遍的存在であり、運動である。それぞれに個別であることによって相互に運動する。それぞれ個別であり続けるかどうかは、今の科学でもわからない。[s087]
振動は複数の相互作用の重なり合いによって実現する。対立する方向の運動が重なり合い、しかし作用が互いにずれることによって振動が実現する。それぞれの作用がずれなければ相互の運動は収束して消滅するか、発散して振動しない。[s088]
静止は対立と統一のまさに均衡の上に実現する。対立する運動が統一され、その均衡によって、静止状態が保存される。[s089]
対立の見えない運動は一方の作用が圧倒的に強力であるか、あるいは観念的な運動であるからである。主観的に対立を持ち込んで対象を理解することもありえる。対象の在り方に即してその相互作用を見なくてはならない[s090]

【対立構造の再生産過程】

対立は外因による結果ではない。2枚のカードを組み合わせ、立てかけさせて山形を構成するのは、人が外因として2枚のカードの重力を均衡させることで実現した結果でしかない。多くのカードをばらまいたのではほとんど実現しない偶然の組み合わせを、外因である人が実現した対立と統一である。外因によって実現した対立構造は風や振動といった外因によって破られるまで維持される。[s091]
存在の運動の過程における対立は対立関係自体を、対立構造をつくりだす過程にある。対称性を破り、対象化する過程であり、この過程は運動の構造としてある。環境条件は散逸化の過程であり、外因によっては構造化は実現しない。対称性を破る契機が内因として対立構造を構成する。対称性を破る契機が運動として保存されなくては対立構造は維持されない。外因である環境条件の散逸化過程を構造化過程に転化する対称性を破る契機がある。この契機は構造化によって保存される。契機が対立の保存によって、契機から過程に転化することが重要である。[s092]
対称性を破る契機が何であるか、契機を過程に転化する構造化がどのようであるかはそれぞれの個別科学の対象である。[s093]
契機が過程に転化することによって、過程は対立構造を再生産する。原因が結果する一過性の過程ではなく、結果が原因を再成、あるいは保存する循環する過程である。結果が直接原因に転化するのではなく、過程を実現する契機を再生産する。結果が過程を再構成するのではなく、結果が契機を再生する。結果が契機を規定する相互作用を実現する。[s094]

資本制生産は資本と賃労働を結合することを前提にする。生産過程は生産物を生産するだけではなく、資本と賃労働を再生産し、その関係をも再生産する。

「契機」とは何か。結局用語をつけ加え、すり替えただけではないか。[s095]
世界を、対象を指示するにはこうしたいい加減さがつきまとう。意味が確定したことばによって指示するのではなく、言葉の意味を世界と、対象を指示することによって示そうとするのだから。指しつ指されつ対象と用語の関係を示して、いい加減さを全体として確かなものにしていくしかない。[s096]

【対立する相補性】

対立物の統一過程は全体に対して、環境条件に対して多面的に現れる。一つの個別存在も他との相互関係は一つではない。通常の複合体としての個別存在は一つの規定によって規定される抽象的な存在ではない。[s097]
存在に関わる重要な問題であるが、相互作用の場の規定性が問題になる。常に他との相互作用の場を規定できているか。すべてが常に相互作用しているが、すべての相互作用によってすべての場を我々は対象化できていない。異なる質の相互作用間の関係を対象化できていない。[s098]
粒子性と波動性は対立する性質である。量子は環境条件によって粒子性を現すか、波動性を現すかが決まる。同時には決して対立する性質を現さない。相対立する性質を併せもつことが相補性である。相補性は環境条件に対しいずれか一方のみが現れる。[s099]
相補性をもつ存在、運動が環境条件によって規定されないときにはどうなっているかは解釈の問題に止まる。観測という環境条件によって対象化できない運動状態は解釈によってしか規定できない。「量子は粒子性と波動性を重ね合わせている。」と解釈される。重ね合わせ自体は観測できない。観測できるのはいずれか一方である。異なる観測をし、その観測結果を重ね合わせることによって、相補性を観測できる。[s100]

生産と消費も対立物の統一過程である。原材料は消費され、生産物が生産される。原材料資源から製品が作られ、低エントロピー資源が消費され、廃物・廃熱が捨てられる。対立物が不離に重なり合った統一過程である。[s101]

存在の本質的規定は環境条件に規定されて、現象として実現する。[s102]

【環境条件に規定される対立】

相互作用は対立する関係を内に構成するが、他との連関のうちにもある。他との連関は環境条件として作用する。環境条件によって他、全体に対する相互作用の方向性が規定される。相互作用自体は保存されるが、相互作用の他に対する現れの方向が規定される。例えば、酸化と還元、イオン化と中和化は環境条件によって現れる方向が決まる。[s103]
環境条件が一定で勾配を規定すれば、相互作用は流れとなって現れる。相互作用の結果、勾配が逆転すれば相互作用は振動となって現れる。[s104]
相互作用の規定性と環境条件の規定性とは相対的である。すべての運動が相互作用であり、すべての相互作用が相互に連関しているのであり、どの相互作用が対象を規定するかは相対的である。相対的ななかで対象を個別存在として規定する作用が対象の存在法則である。その存在法則の実現の場を構成する相互作用が環境条件である。[s105]

対立しながら統一されるものは、永遠ではありえない。対立は相互の関係を変化させ、対立そのものを変化させる。対立も変化し、ついには新たな対立関係に転化する。[s106]


第3項 対立物の相互浸透

【対立物の相互浸透】

対立と統一の過程は外因による単純な関係形式ではない。契機が再生され、対立構造が再生産される運動過程である。対立する過程、構造自体が一体であり、分離しては対立が解消してしまう。対立する部分は相互に相手に規定され、その規定は相互の規定性を強めるだけではなく、弱めることもある。[s107]
対立関係は強まることもあり、弱まることもある。「強くもあり、弱くもある」何でもありは、何も規定していないことになる。「弁証法は、だから何も明らかにしない、言い逃れを常に用意する詭弁である」とされる。時と場合によって「強くも、弱くもある」のでは、環境条件によって規定されるのであって、必然性、不変性はない。弁証法は外部条件を付加して何にでも適用するのではない。「強くもなり、弱くもなる」対立関係の過程内部を問題にするのである。[s108]
対立自体は環境条件によって規定される。しかし、統一は内部関係である。対立する方向性が組み合わさって統一する運動過程である。環境条件の規定も受けるが、運動自体を規定するのは内部の対立する方向性である。その内部の対立過程の推移が具体的な問題である。[s109]
相互に対立する規定性は、自らに対する規定性でもある。運動過程は他の同化であると同時に自らの異化である。そこに対立物の規定性を自らの規定性にとり込む可能性がある。運動過程の本質において、対立物の相互浸透は可能性としてある。相互浸透が実現性としてあったのでは、それこそ本質が否定され、何の規定性も残らない。[s110]

対立過程は環境条件からの作用もあり、派生的運動もつくりだす。派生的運動もその基本的対立構造に規定されている。対立の一方から派生した運動も、基本的対立関係に規定されて、対立する他方からの作用から隔絶してはいない。基本的対立関係の変動に応じて派生的運動も変動する。派生的運動では対立関係の逆転すら起こりえる。[s111]
派生的運動の対立逆転は基本的対立関係からすれば、対立物の浸透である。対立物の浸透は相互に起こる。運動の多様な派生による複雑化は「敵の敵は見方」の関係をつくりだしかねない。対立自体がひとつの運動過程であり、孤立して純潔であっては対立そのものが生起しない。不純であることを勧めるのではなく、派生的な対立に惑わされることなく、全体の運動過程から主要な対立を基準に見なくてはならない。派生的対立が基準になってしまうことが倒錯である。[s112]
対立物の相互浸透と、対立の契機の再生とは対立関係にある。対立物の相互浸透は散逸化過程であり、対立の契機の再生は自己組織化の過程である。[s113]

【過程での対立と統一】

相互作用の全体は過程として継続する。相互作用の過程全体も他との連関のうちにある。相互作用は過程の他との連関のうちに対立を現す。例えば物質代謝は生産と消費として現れる。生産と消費は対立するが一体のものである。原材料を消費することなしに生産はありえない。消費は生産物を消費することで、生産主体である生産者を再生産し、生産者の生活を実現する。また生産物の消費なくして原材料を手に入れることはできない。生産は自然を社会的物質代謝のうちに取り込み、社会的物質代謝を維持する。消費は社会的物質代謝によって維持され、社会的物質代謝系から自然に廃棄する。生産と消費は対立するが一体のものであり、補足し合うものである。[s114]
生産における消費は主観的解釈ではない。原材料が消費されて製品が生産される。原材料の消費なくして生産は成り立たない。廃棄物は役に立たないから廃棄されるのではなく、社会的物質代謝に入り込めないから役に立たないのである。物質代謝系から廃棄される物も、別の生産の原材料に利用されれば副産物となる。また最終消費の廃棄物も、社会的物質代謝に循環させれば再資源化する。生産と消費の対立は主観的な解釈ではなく、社会的物質代謝系での位置づけである。部分の対立は全体に位置づけられる。部分を対立から取り出してしまっては、評価を誤ることになる。ただし、生産と消費はそれぞれ部分であり、部分としての製品を作りだす。全体としては低エントロピーのエネルギーと労働力が消費され、高エントロピーが廃棄されている。[s115]
一体である生産と消費は社会的物質代謝の発展させ、生産部門と消費部門とに分離する。生産と消費が分離し、組織化されることによって社会的物質代謝は発展する。しかし、相互に補足することができなくなれば不況になり、あるいは恐慌になる。同様なことは肉体労働と精神労働にもいえる。どのような労働も肉体と精神とを使う。社会的労働の発展によって、肉体労働と精神労働とは個人別に分離して担われ、やがて社会的にも部門が分かれる。逆に肉体労働と精神労働を含め、分業と協業によって社会的労働は発展する。肉体労働と精神労働が乖離してしまうと文化は健全性を失う。[s116]


第4項 対立の発展

【内在する対立】

対立は片方単独ではありえず、対立するからには対になっていなければならない。各々の相手としてなければ対立はありえない。対立は内在する関係である。逆に対立は内在関係を表す。対立する双方は外在として関係するのではない。外在としての関係は偶然であり、法則性はない。逆に偶然の関係が外在性である。外在的対立と見える物も、対立であるからにはそこには普遍性があり、普遍性を媒介にして対立を実現する。異質な物、あるいは別個の物の衝突は偶然の外在的対立であるが、重力場での互いの質量間の関係が普遍性としてある。[s117]
物事の関係には普遍性と偶然性がある。普遍性は世界が一つであることによって保証されている。偶然性は世界が非可逆的であることによって保証されている。個々の物事は、普遍性と偶然性の規定のどちらが相対的に強いかの差がある。物事の普遍性、偶然性の評価はその差を計ることである。そして対立は普遍性の現れであり、内在的関係である。[s118]
現実の対立は運動における対立であり、現実の運動における対立でなければ単なる形式的対立であり、統一にはならない。現実の対立、あるいは世界の対立は外在する形式的な対立ではない。時間的、空間的に固定、形式化される対立ではない。また、統一される対立であるからこそ運動であり、現実のものである。[s119]
運動における対立は相互を前提とし、互いを区別する運動を維持しながら、互いの運動間で相互に作用し合う。互いの運動間の関係を変化させる一つの過程である。各々の運動は互いの運動を取り込み、あるいは入り込むことで相互に浸透する全体の運動の一部である。このような互いを含む運動として、対立物は統一されている現実的存在である。[s120]

【対立関係の深まり、発展】

対立関係は運動として実現される過程である。また、対立関係は運動を実現する構造である。一点での時間、空間で関係を取り出したのでは、固定的な、形式的な対立関係を見ることになる。そこでは形式論理が成り立ち、対立は二律背反の関係で完了してしまう。現実の対立関係は変化する過程であり、関係自体を変化させる運動である。[s121]
規定性はほとんど偶然のゆらぎの段階から、静止する全体の絶対的なまでの力の差がある。全体の絶対的静止は現実にも、相対的全体にも現れないが、規定性の究極として想定される。現実の規定する力は決してゼロにも無限大にもならないが、物事を規定する力はゼロに近いところから、無限に近いところまでの差がある。[s122]
規定性の力の差は、規定性の多様性にある。世界が単独の規定しかもたないなら、それで始まりであり、終わりである。単独の規定しかもたない世界は絶対であり、そして存在しない。複数の規定性があるからそれぞれに区別され、存在がある。逆に、それぞれが存在するから複数の規定性が表れる。相互に規定し、区別するだけでなく、規定性が組み合わさり、規定性相互の力が変化することで運動が実現する。運動はその規定性の変化である。変化する運動の規定性を受け、反映することで運動を観測できる。[s123]
規定性は相互の規定性を規定することによって新たな規定性を実現する。規定性の発展である。対立する規定は対立関係を規定する全体の規定性を実現する。可能性としての対立の契機が、他の諸規定性との対称性を破って全体を規定することで対立過程が実現する。[s124]

対立は規定された方向性の相互作用である。相互関係としての対立関係は弱まることも、深まることもある。相対的規定関係の変化は対立関係の変化となって現れる。対立関係の変化は対立を規定する全体の規定の変化である。[s125]
一般に対立は契機の実現として、ほとんどゆらぎの段階から、対立関係を深化させる過程をたどり、やがて対立関係自体を破ってしまうか、あるいは再び弱めるかして他の規定性に転化する。[s126]
対立過程の変化はそれぞれの対象ごとに見なくてはならない。対立過程は多様な規定性のうちの主要な規定性の変化か、あるいは諸規定を規定する規定性の変化に見なくてはならない。[s127]

対立は運動であり過程である。形式的組み合わせではない。対立は規定性の実現であり、規定性の実現は継続する過程である。対立の再生産構造が運動過程として継続すると対立の規定はより強力な規定となる。結果が原因に作用して運動は加速する。対立は対立を深め、規定性はより強く規定するようになる。それぞれに多様な物事の規定の方向性がそろうようになる。個々の方向性の整列化は全体の規定性を強め、方向性を強める。対立は対立の再生産構造を実現することで普遍化する。[s128]

【止揚】

運動は相互作用であり、相互に規定する対立関係である。逆に、対立関係は運動を規定する。相互作用は相互を規定し、その規定関係として限定する。相互の規定はそれぞれに2つの規定としてあり、その規定関係として、相互の規定を超える第3の規定がある。部分相互の規定を超える全体の規定がある。第3の全体の規定が運動の規定であり、運動を限定する。全体は相対的全体であるが、他との関係で相対的なのではなく、規定性によって他と区別される。他と区別される規定性として限界がある。対立関係によって規定される運動は、その規定が運動自体の限界になる。規定は限定する。規定され、限定されるから運動は個々の存在として現れる。規定され、限定されて運動はそれぞれの運動形態をとる。[s129]
規定性の限界は規定された運動によって対象化される。運動が規定を保存していれば、その限界は他との境界として現れる。運動が規定を超えて発展すると、運動の限界は突破され、新たな規定を実現する。限界を超え、他との関係を含む新たな規定によって、新たな限界を構成する。運動はその規定を否定し、超えて、新たな規定を獲得する。運動の規定の超え方、否定の仕方が問題になる。[s130]

永久不変の運動はない。不変であれば運動ではないし、永久であれば静止である。運動には限界があり、限界を定めるのが規定性である。限界に達した運動はその限界を定める規定を変え、別の運動に転化する。運動自体は否定されて静止することはない。運動自体は保存されるが、規定された運動の形態は新たな形態に取って代わる。[s131]

対立関係の深まりは対立関係の限界に迫る。対立する相互の規定は、相互規定関係の規定を脅かす。対立する相手方の否定は、一方の肯定ではなく、対立関係そのもの構造を否定する。決められたルールでの闘いも、激しくなればルール自体を破るまでになる。[s132]

 限界に達し、その規定の否定が偶然であれば、運動は別の規定に取って代わられる。運動は保存されるが、運動形態は別のものになる。存在は別の存在に替わる。規定は保存されない。全面否定であり、完全否定であり、形式的否定である。限界に達し、規定が否定されれば運動形態は消滅し、存在形態も消滅する。運動形態は他の運動形態に転化する。消滅した存在形態は、別の存在形態に取って代わられる。運動自体は保存されるが、規定された運動形態は別の規定による運動形態に転化する。[s133]

偶然の否定に対し、必然の否定が止揚である。規定を否定するのではなく、規定による否定である。相互の規定関係の規定が相互の規定関係を否定し、新しい規定関係を規定する。部分の規定関係を全体の規定が否定し、全体の規定が新しい部分の規定関係を肯定する。規定による否定であるから必然であり、法則である。規定された否定によって古い規定関係は新しい規定関係に移行する。運動の発展が実現する。[s134]
一つの対立関係が、その前提としての統一された関係自体を再編することで、対立関係を新しくする。新旧の対立関係の間で、関係は転化される。古い対立関係をその存在関係まで含む全体として、新しい対立関係に転化する。新旧の対立関係は、無関係な切り放された関係ではない。新しい対立関係には、古い対立関係が存在の形を変えて残る。古い対立関係は、すべて清算されることはない。[s135]
前提となる対立は止揚され、より普遍的対立になる。その普遍性は領域的に普遍的になる場合と、質的に普遍的、根元的になる場合、その両方である場合が対立関係の規定性によってある。発展は対立関係の普遍化としてある。新しい対立関係の形は、存在関係のどこまで深く再編するかによって異なる。また、対立点の決まる位置によっても、新しい対立関係の形は異なる。部分の運動運動は普遍化し、発展する。[s136]
対立関係の発展は具体的に捕らえておかないと形式化してしまう。使用価値と交換価値の対立・乖離の拡大。グローバル化のスローガンに見られる領域的商品経済の発展。人間の臓器までも商品化する商品市場の質的発展[s137]
 対立関係がその存在関係まで含めて新しい対立関係に転化することが止揚である。[s138]


 

第3節 量的変化と質的変化の相互転化の法則

第6章第3節では「存在の量と質」であったが、ここでは「運動の量と質」である。[s139]

第1項 量と質

量的変化と質的変化の相互転化の法則は、運動の基本法則である。運動は量的変化、あるいは質的変化としてある。量的変化、あるいは質的変化は存在=運動のより具体的な形態である。[s140]
質は他との相互作用にあって、他と区別し、その形式を保存する規定である。他との相互作用にあって、相互作用を保存し、他ではないこととして個別存在を実現する運動である。まず、質を維持する運動としてあり、そしてその質を変化させる運動としてある。質の変化は規定を超える、あるいは失う、飛躍的変化である。[s141]
量は他に対する状態の違いを示す。量は相互作用の状態の違いである。状態は連続して変化する。この場合の連続は線形であるということではない。離散的である場合も連続性がある。[s142]
量的変化と質的変化の相互転化は規定性の転化である。量的規定と質的規定は対象を規定するとともに、両者相互に規定し合う規定性であり、いずれかの変化が現れ、その現れが相互に転化する。量と質いずれかだけになってしまうのではない。変化の現れが相互に転化するのである。[s143]

【量と質の相互規定】

量と質は個別存在の規定であると同時に、量と質とを相互に規定し合っている。量と質との相互の規定なくては個別存在は実現しない。複合体である個別存在は質それぞれに応じた量的規定にある。同時に個別として一つの存在として量的に限定されている。複合する質それぞれの量的規定の全体として、個別存在は1に限定される。各質それぞれの量的規定は個別存在としての質の規定によって1に限定されている。[s144]
質と相互規定する量は外延量ではなく、対象を規定する内包量である。外延量は環境条件との連関で決まるのであって、対象の運動の規定ではない。質は量の基体としてある。[s145]

単に量のみがあっても他に対して作用しえない。海の水は地球の気候に絶大な影響量をもつ。そして、膨大なエネルギーを含んでいる。しかし、いかに膨大でも、その熱エネルギーは温度差がなくては利用できない。温度差があれば、運動が可能であり、運動エネルギーを取り出すことができる。温度差という区別、質、秩序が必要である。あるいは月と太陽の潮汐力を利用しなくては海のエネルギーを利用することはできない。[s146]
何らかの作用を実現するには量だけでなく、区別があること、質があることが不可欠である。量に非対称性がなくてはならない。非対称性をともなった量こそが秩序である。非対称に区別されることで秩序が崩れ、秩序の崩れによって運動が実現される。[s147]

【質の質規定】

質間の規定関係は二重である。質そのものの一般規定として、個別存在を構成する個別規定として二重である。[s148]
質は存在の相互の規定であり、必ず他の異なる質がある。当の質の否定、当の質でない質に対して区別される質としてある。存在規定自体が相互作用として実現し、異なる質を現す。相互の対象として相互に異なる一般規定としての質を実現する。[s149]
相互作用としての相互の質の規定は、同時に当の相互作用の他の相互作用との区別である。複合体としての個別存在は多様な質としてある。多様な質をもつものであるから複合体である。個別存在は相互の規定関係を保存する存在である。多様な一般規定としての質を、他と区別する個別規定として個別存在を実現する。[s150]
質は相互に規定し合うことによって新しい質を媒介、実現する。相互に規定し合う質は媒介される質に対して普遍的である。媒介される質は普遍的質に対し特殊的である。[s151]
新しい質は付け加えられるのではない。古い質のうちに規定されるのである。新しい質は古い質から飛び出してしまうのではない。古い質に依拠し、古い質を規定することで新しい質を実現する。[s152]

【量の量規定】

量は量間の必然的規定関係にある。自然数の順番はその記数法の多様性、形式の多様性に関わらず普遍的に規定される。自然数に限らず、負数、実数、虚数、すべての量間の規定関係を表す数は普遍的である。量は量間で普遍的に規定されるから数学が成り立つ。量相互の規定関係の普遍性によって演算が保証される。量間の規定関係を離れた量はありえない。[s153]
量の量規定は線形であり、連続して変化する。その典型は黒体輻射である。光を全く反射しない黒体の色は温度だけによって決まる。黒体の色と温度は並行して、線形に変化する。そうした黒体は物質としてではなく空洞として実現される。黒体輻射は、質に規定されない純粋の量的関係としてある。[s154]
量の量規定は量の限度として現れる。量は変化し、その変化の限界を規定する。量は限りがあって量られる。可能性としての量が個別存在として他と区別される限りとして現れる。無限であっても自然数によって限られ、量られる。自然数が無限の濃度の基準になる。[s155]
運動にあっても速度は加速度に規定される。物理的質に規定されることなく、速度の量関係とと加速度の量関係との間の規定関係は普遍的である。量の規定関係に現れる自乗に逆比例の関係も万有引力の法則、光の照度等空間の量的規定関係も普遍的である。[s156]

【質の量規定】

質は基体として量を規定する。規定である質は他との区別として全体を部分に区分し、部分は量を表す。絶対的全体には量規定はない。量的に規定されては絶対的全体ではない。量を表すのは部分であり、質によって全体は否定され、部分が量を表す。質は部分を規定することで、量を規定する。[s157]

男女の体力差もヒトとして質的に規定される体力を超えるものではない。男女の体力差は個人を単位として比較するなら、女性が男性より強い場合もありうる。男性間の体力差の偏差は、女性観の体力差の偏差と重なる部分があるのだから。それでも偏差はあるものの質としての男性の体力と女性の体力にはやはり差がある。男女の体力差はあっても、動物種間の体力差に対しヒトとしての質に規定される体力量を示す。統計量をとおし、質に規定される量が区別される。[s158]
物理的関係では質と量の規定関係はより明確に現れる。物理的性質は測定装置の変量で量られる。物理的性質が量を規定するから、その観測される変量によって質を特定することができる。[s159]
禿かどうかの質的規定は形式的規定であり、髪の量の変化によって規定はされない。禿という概念の質的定義の問題である。禿は地肌の見え方の規定であって、髪の本数によって定義されるのではない。[s160]

【量の質規定】

量は特定の質を規定して新しい質を実現する。量は質を規定して、個別存在を多様化する。基体としての質によって量は限定されて現れる。その限定された量が増減すると、質そのものの規定性を否定したり、規定する限界を超えるまでになる。[s161]
複合体としての個別存在は、複数の質からなる全体としての質を実現している。質間の量的関係によって新しい質が実現する。  エネルギー量によって物理的対象の存在形態としての質が規定される。量の規定は質の階層を構成する。エネルギーは異なる物理的対象を量的に規定する。異なる質にあっても、共通な質によって量的状態が規定される。エネルギー量によって物質は固体、液体、気体、プラズマとその相を質的に変えるが、その相の相互関係は普遍である。固体から気体へ気化することはあっても、固体から気体になって次に液体になることはない。[s162]
運動エネルギーの量的違いはその質を規定する。超高速度の水は石などの個体に穴を開けたり、切断することができる。速度がなくとも繰り返すことによって個体に穴を開けたり、切断することができる。運動エネルギーが水の質を規定するのである。水が石の質を規定するのではない。水と石の関係は環境条件の問題である。[s163]
組み合わせも、構造も量の規定である。空間配置は要素相互関係の量的組み合わせである。クオークの組み合わせとして陽子、中性子、電子等が実現する。陽子どうし、中性子どうし、電子どうしは区別できない同じ質である。同じ質でありながら、それぞれの物理量によって区別される。陽子と中性子の組み合わせで原子核が構成される。同じ数量の陽子と中性子で構成される原子核は質的に相互に区別できない。質的に区別できない同じ原子核は存在状態が量的に区別される。同じ質である原子核は同じ半減期をもつが、同時には分裂しない。原子核と電子の組み合わせで原子が構成される。異なる原子でも(外殻の)電子の同じ配置によって、原子として同じ質を周期律として現す。原子の組み合わせで分子が構成される。同じ原子から構成される分子も、その原子の配置構造の違いによって異なる質を実現する。[s164]
水分子は運動エネルギーを失うと、互いに水素結合することで結晶構造をとって氷になる。逆に運動エネルギーをえると、水素結合を断ち切って液体の水になる。運動エネルギー量によって、分子の組合せ、配置が決まる。水の量ではなく、水分子の運動エネルギー量が水の構造としての質を規定する。[s165]

【量的変化】

量的変化は他の物事との相互連関の中での、相関運動である。一般的に変化と言えば量的変化である。[s166]
位置変化も他のものとの相互作用の強弱としての量的変化である。位置変化も形式的な座標上の運動の結果ではなく、相互作用としての相対的運動の内部関係である。相互作用でなければ位置の関係も、変化も現れない。位置関係も対象と対象間を媒介するものによって成り立つ運動の内在的関係、変化である。[s167]
量的変化は他に対しては同質化、異質化の過程である。量的変化は自らに対しては、自らの内在的質的規定の臨界との相対的位置である。[s168]
量は他に対する連続の関係である。量的変化は連続的で線形である。[s169]

【質的変化】

質的変化は全体・他と区別する運動である。全体の運動の中で、全体の運動とは異なる運動として質が現れる。質は全体の運動にあって、個別存在を存在させる運動の現れである。個別存在として存在させる運動が、個別存在の部分としての質である。[s170]
存在は有無として区別される。質的変化は存在を規定する運動であり、存在を現す運動の質間の転化として飛躍的である。質間は離散的関係である。[s171]
質的変化も相対的である。質も普遍的質と特殊的質を合わせもっている。世界全体の存在が一般的質であり、部分として普遍的質がある。部分としての普遍的質はその内に様々な特殊的質の累層をなしている。普遍的質の相互の区別が個別存在である。[s172]
質は他に対する区別の関係である。質的変化は区別を超える飛躍である。[s173]

【量的変化と質的変化の相互規定】

以上の量と質間の規定関係と量的変化と質的変化の規定関係は別の規定関係である。[s174]
部分を構成する質間の量的関係の変化によって、全体の質が規定される。全体の質が転化するところに量的関係の限界が現れる。量と質の相互規定は運動過程の規定関係であって、形式的関係の問題ではない。[s175]
量と質間の規定関係は存在規定であり、即自的、必然的である。[s176]
これに対し、量的変化と質的変化の相互規定は運動過程の規定であり、現象として現れ、環境条件にも規定され、偶然に左右される。[s177]
存在は運動することであるが、存在規定は運動として実現する過程で、環境条件によって偶然の作用も受ける。環境条件による偶然の作用を受けながらも、存在規定は普遍的な規定として運動過程を規定する。[s178]
存在に規定されながら、環境条件に規定され、偶然に左右されて運動過程は量的変化と質的変化として実現し、量的変化と質的変化の相互作用の過程は歴史的過程として実現する。量と質の存在関係に規定されながら、質の運動過程は累層的な運動として非可逆的運動である。量的変化と質的変化は偶然の組み合わせではなく、存在関係に規定され、質の累層的運動として非可逆的、歴史的運動として実現する。量的変化と質的変化の相互作用として現実の歴史的運動過程が実現する。[s179]
量と質間の規定関係が存在規定であるのに対し、量的変化と質的変化の相互規定関係は歴史的規定である。

【運動の量と質】

量的変化と質的変化は、運動の形態として異なった現れである。量的変化は漸次的、連続的である。質的変化は飛躍的、非連続的である。量的変化は質の規定性を保存する運動状態の変化である。質の規定性の保存として、量的変化は漸次的、連続的である。質的変化は量を保存しながら、他との相互作用形態を変化させ、それによって自らの規定を変化させる。質的変化は量は保存しつつ、その規定自体を変化させる飛躍であり、非連続である。[s180]
そして様々な運動において、量的変化と質的変化はがあるが、両者は並行して進むものではない。量的変化は質の保存としての運動であり、量的変化は量の保存としての運動である。いずれかが保存されるから運動自体が保存され、存在が維持される。量的変化と質的変化が同時に進行しては、保存される何ものもなく、混沌でしかない。[s181]
また、いずれの変化も単独の変化ではない。量的規定と質的規定は相互に規定し合う。量的変化と質的変化は運動全体の過程の中で、相互に規定的であり、また相互に転化する。量的変化と質的変化は存在の対立と統一の過程である。

【増減】

開いた系での量的変化は増減として現れる。ものの数の増減も、他のものとの相対的転化としての量的変化と質的変化の転化の結果である。数の増減は、無から有への転化、飛躍としてあるのではない。数の増減は、既存の数を構成する質と他のものの質との質的関係としてある。増減は既存の数を構成する質の存在関係の変化として現れる。対象と区別される質が、対象の質へ転化されることによって、対象の数が増えるのである。対象の既存の数を構成する質を保存させる運動状態として、既存の数が現れるのである。あるいは逆に、既存の対象の質が他の質に転化することによって、対象の数が減るのである。[s182]
対象の保存と、対象規定の実現の運動は同じ過程の別の表現である。いずれにせよ、対象の質を実現する運動の変化が数の変化となって表れる。対象の運動状態の延長として新たな数としての増減が現れる。数え上げることによって増減が現れるのではなく、増減も対象を保存する運動の内在的変化の結果として現れる。[s183]
区別される他であったものの質が同じ質に転化されることによって、同じ質のものの量が増える。逆に同質のものが異化されることによって同質のものが減る。自他を区別する質の規定性における運動が量を規定する。存在を規定する質的運動が、相互に区別される量の変化を作りだす。したがって、結果としての数ではなく、数の増減を実現する量と質の規定関係が問題である。

【運動量の比】

閉じた系での量的変化は比の変化として現れる。比は質間の量的関係である。量的関係によって比が決まるのではない。偶然に実現している比を統計処理するのは、統計処理によって量関係の普遍性から質的関係を推測するためである。質的関係を推測できないまでも、運動の方向性としての質を推測するためである。[s184]
運動量の比は全体に対する部分間の量的関係である。非対称な部分間の関係である。対称性を破る非対称な部分間の量的関係として比がある。対象の複数の対称性における重なりとして比例関係が表れる。[s185]
化学反応の場合に共有結合の比は相対的量ではない。最外殻の電子数によって結合の数が規定されている。水素は1つの結合しかしない。酸素は2つの結合をする。そして、酸素1単位は水素2単位と結合して水を構成する。その他の比では水は構成されない。その他の比では酸素、水素のいずれか多い方の分子は水を構成せずそのまま保存される。水を分解しても1対2の酸素分子と、水素分子が現れる。質としての、それぞれの化学反応の規定にしたがって、結合、分解が実現する。偶然の量によって比が決まるのではない。[s186]
化学平衡の場合圧力や温度によって化学反応の方向が規定され、その生成物の構成比が変化する。圧力や温度といった環境条件に規定はされる平衡状態であるが、構成比を規定するのは環境条件ではなく、反応物質間の結合比である。全体の比は平衡状態で一定するが、反応は停止するのではなく双方向の反応は継続している。環境条件は偶然であるが、反応の構成比を決めるのは反応物質の化学的性質である。[s187]
生物は同化と異化の新陳代謝のバランスによって存在するが、そのバランスも成長過程と老化過程では異なる。[s188]

【限界量】[s189]

量は一定の質の運動変化として現れるが、量によっても質が規定される。一定の質はその相互作用に限界がある。連続した量の変化が質的変化に転化する限界がある。この限界量での量的関係が、質を明らかにする。限界に至っていない量は、質による規定が弱い。限界内で量は連続した様々な値をとる。質は限界内での量的変化を許容する。[s190]
限界量は運動の質そのものによって値が定まっている。基本的運動にあっては限界量は自然定数として一定である。自然定数は質の普遍性である。普遍的に一定である運動が存在の質である。一定であることを基準に運動の質を比較することができる。[s191]
実際の運動過程での限界量は単純には決まらない。実際の運動過程は単純な質ではないからである。単純化した破断実験であっても、破断がどれだけの力を加えたときに生じるか、どこから生じるかを予測することはできない。統計的に予測できるだけである。資料の複雑な内部構造と、実験装置との相関関係によって統計的平均値と、実際の値とは確率的関係にあるにすぎない。それでも、すべての個別存在はこの世界の中で、それぞれの相互関係の中で、限界量によって規定されている。その値は、それぞれの質によって定まる。[s192]
発展的運動では限界量自体が変わりうる。基本的運動の限界量・自然定数が変化してしまうのではない。より基本的な運動の許容量の組み合わせとして、発展的運動の限界量はある。より基本的運動の限界に近い運動量と、その組み合わせを変えることによって、より発展的運動の限界量を変えることが可能になる。[s193]

【相】

量的変化と質的変化は一つの運動過程にあって相を現す。一つの運動過程の状態に応じた量的変化と質的変化によって規定される運動形態が相となって現れる。量的変化と質的変化の相互の転化が、相の変化として現れる。相の変化は存在の変化ではない。相の変化は存在の形態の変化である。[s194]
水は氷、水液、水蒸気として、固体、液体、気体の相を現す。エネルギー状態の変化によって水の分子構造は変化しない。水の分子構造は保存されるが、分子間の運動状態が変わる。固体では分子相互間の運動状態は固定され、個々の分子は熱運動はしても、相対的位置は保存される。液体では分子の熱運動だけではなく、分子の電気極性間の相互作用により結びついて位置運動をする。気体では分子間の相互作用はほとんどなく偶然の衝突によって相互作用する。水の相変化は温度の量的変化と固体、液体、気体という外見に現れる質的変化の相互転化ではない。分子のもつエネルギーの量的変化と、分子間に働く相互作用の質的変化の相互転化である。[s195]
さらに水としての存在の内部エネルギーが高まれば、水の内在的質的規定が破れ、水素と酸素に分離する。水の存在である分子構造が変わる。水が水でなくなることが質の存在の変化である。ただし、それまでの水素と酸素の存在は残る。さらに原子核と電子が分離しプラズマとなる。水としての内在的質的規定はなくなってしまうが、より普遍的物質の存在形態になる。[s196]

相は量的変化と質的変化とに規定され、保存される状態であるが静止ではない。相は、量的変化と質的変化との規定を実現し続けている運動状態である。[s197]
相は環境条件によって変化するが、環境条件は部分としては偶然であるが、環境条件全体としては歴史である。過去の規定関係の偶然を通し、確定されてきた過程の結果としての現実である。相は環境条件によって規定されるが、相を実現しているのは対象の量的、質的規定である。[s198]

【構造化】

既存の質における量的変化の形式は、量的変化によって規定されて新たな質を実現する。量的変化の形式は結果として現れるだけではなく、過程として対象化される。形式が新たな質として内容に転化する。[s199]
量的変化の形式はその形式を主観によって反映されるだけのものではなく、保存される過程として客観的実在になりえる。形式は主観によって区別・分類されるものではなく、対象の質に規定された対象を構成する要素相互の量的関係である。[s200]

量的変化はその過程、その結果が他によって対象化されて、対象全体の質を変化させる。他による対象化は相互規定であり、自らの規定であり、自らの質の規定である。[s201]

量的変化と質的変化の相互転化の運動過程では、質の変化は2つの質の間での運動にとどまらない。変化前の質と変化後の質としてある2つの質間の関係ではない。従前の質のすべてが新しい質に取って代わられるのではない。従前の質の一部に、従前の規定に加えて新たな規定が付け加わる。新たな規定の付け加わりとして新しい質が実現する。新しい質は従前の質の一部分であるが、一部分が新しい質になることで、従前の質全体は従前のままではなくなる。新しい質を媒介する全体の質になる。[s202]
量的変化と質的変化との相互転化は、質を新たにして繰り返され階層を累積する。運動の質は無限の階層をなす。階層を超える質の運動は相互規定性を構造として現す。階層間にまたがる相互規定性が構造である。[s203]
量的変化と質的変化の相互転化の運動過程では、量は単に拡大することはない。量的変化は世界からはみ出すことはない。新たな質は世界を超え出て、世界の外に質を拡張するのではない。新たな質は量的変化の中に新たな規定を付け加えることによって量を限定し、より限定された新たな質を実現する。[s204]
運動はその構造の規模、要素数、作用力として、ひとつの量的関係を他との関係に現す。個別存在は量的に他と区別される。個別存在は量的に全体の一部でありながら、他と区別される量的限界によって規定されている。[s205]
運動はその構造の機能、保存力をひとつの全体として、他と区別される質的存在になる。個別存在は質的に他と区別される。個別存在は一般的質に媒介されつつも、個別を規定する質としてある。[s206]


第2項 量と質の運動過程

個別存在の運動、あるいは個別存在間の運動にあって、量的変化と質的変化は対立しながら統一される変化である。[s207]

【運動の量】

個別存在の運動、あるいは個別存在自体の存在としての運動、すなわち個別存在内の運動は量的な運動である。量的な変化として、他の同じ運動をする個別存在との間で相互作用をし、あるいは、より基本的階層、より発展的階層の個別存在との間で相互作用をする。この相互作用は連続した運動である。この運動が他と区別され、個別存在の運動としてあるのは、個別存在としての一定の質を持つからである。逆に質的に変化しないから個別存在の運動である。[s208]
量的変化は質的に規定されつつの変化であり、規定されない変化は過程を超える空想でしかない。質的規定が保存されての変化であるから、連続的である。
エネルギーの増減は連続的である。エネルギー単位が量子化されて、離散的変化であっても断続はしない。無限小のエネルギー状態からから無限大のエネルギー状態へ転化するような変化はありえない。爆発も相対的に短時間の増大であるが、その過程は連続的変化である。[s209]
 運動の量は増大だけにとらわれるのではない。減少も量的変化である。宇宙の膨張、エントロピーの増大は一方的絶対的増大に思える。しかし、孤立した宇宙を思うから一方的絶対的に思えるのであって、孤立しているか否かは思いではなく、物理学に依拠しなくてはならない。対象にしえるのは相対的運動についてである。絶対的運動をその外、その他に対する運動を対象とすることはできない。そのことは第4章で明らかにしておいた。[s210]
相対的運動の量的変化は増大もあれば、減少もある。一方的絶対的増大、一方的絶対的減少はありえない。一方が増大すれば他方が減少する。一時的増大があれば、一時的減少がある。[s211]

【運動の質】[s212]

個別存在の存在は、他の個別存在との質的な運動である。他の個別存在との間で量的交換を行いつつ、個別としての質を保存する運動である。個別存在として他の個別存在と相互作用する。個別存在としての質を解体することなく、個別存在としての規定を保存しながら他の個別存在と相互作用として運動する。[s213]
運動の質は新たな質を構成するだけではない。古い質を解消する変化もある。[s214]
運動の階層性は運動の質を区別する。個々の階層で、運動はそれぞれの質を区別する。区別される運動は階層間で質的に区別される。運動の質的区別は階層間で意味がある。同じ階層間で異質の運動を関連づけても意味はない。
光の運動の階層で、光のエネルギーと光の方向性を関連づけても意味はない。光のエネルギーの違いは光を吸収し、放出する原子との相互関係として意味がある。光の運動階層と原子の運動階層との階層間の運動の関連である。また、光のエネルギーはマクロの量である温度と関連する。光が色として現れるのは人間の感覚においてである。光の色と暖かさは人間の知覚として関連づけられる。[s215]
気体の振動と液体、個体の振動との関連づけは振動の媒体の関連づけであって、振動の質的関連ではない。媒体の振動としての運動の質は同じであるから、媒体による量的な違いが問題になる。運動の質を問題にしているのではない。[s216]
 運動の質は階層の異なった運動への転化として問題になる。質は運動階層間の区別である。[s217]

【質的変化の量的規定】

いずれの運動も一定の質と量がある。量の連続的変化にあって、限界量として質の転換が規定される。質自体の定在を規定する量の限界がある。一定の質における量的変化が無限に可能であるなら、それは質自体の否定である。無限量の質は質の規定性を否定する。質は量的に規定されて実現している。[s218]
質的変化は一定の質の限界量を超えることによって現れる。質的変化を規定する限界量は最大値としてか、あるいは最小値としてある。一定の質は量の増大として最大値を超えることで、あるいは量の減少として最小値を超えることで質的に変化する。[s219]
質的変化は質のみによって実現されるものではなく、量的変化の過程で現れる。[s220]

【量的変化の質的規定】

量的変化は、一定の質に規定された運動である。[s221]
しかし、量的変化は連続しており、その個別存在としての運動の範囲に留まらねばならないものではない。個別存在である質として現れる形態を超えて運動し変化する。量的変化はそれまでの質的規定を超え、新しい運動形態、新しい質になる。これが質的変化である。運動全体としてみるなら、量的変化は質的変化に転化し、個別存在は新しい質を持った個別存在、別の個別存在に変わる。そして新しい個別存在、新しい質の運動として新しい量的変化をする。[s222]
量的変化は質に規定され、変化量、変化の形態が一定あるいは連続的である。質的変化によって量的変化の変化量、変化の形態は非連続的に変わる。逆に量的変化が不連続し、変化量、変化の形態が異なることが質的変化である。[s223]
運動の量は階層によって現れ方が異なる。連続した量的変化は異なった質において変化量を変化させる。[s224]

【質的変化から量的変化へ】

一般に一定の質での量的変化が変化一般である。質に規定された運動量が変化する。質的に規定されて、変化は他のものになるのではなく、同一の対象の経時的変化が量的変化である。しかし、質的変化から量的変化への転化は、質的変化によって量的変化が規定されることに意義がある。質的変化によってそれまでの量的変化に変化率の変化が現れることの意味である。[s225]
量的変化にとって質的変化の規定性は環境条件のように作用する。[s226]

【量的変化から質的変化へ】
量的変化が連続することをやめ、質的変化をきたすことである。[s227]
質的規定の限界を超えることによって、質的変化が起こる。液体は温度が下がり、すなわち分子運動エネルギーが小さくなると、凝固点を超えて固体になる。逆に分子運動エネルギーが大きくなり、沸点を超えると気体に質的に変化する。さらに運動エネルギーが大きくなると分子としての質は維持できなくなりプラズマになる。[s228]
相転移は量的変化の質的変化への転化の典型である。それぞれの質において、物理量の量的運動の特性がある。固体では古くからの力学的運動がある。液体と気体では流体力学的運動がある。プラズマでは電磁力学的運動がある。単に固体、液体、気体、プラズマと存在形態としての質が異なるだけではない。[s229]
運動エネルギーの連続的変化だけに止まらない。不純物の混入によっても質的変化が実現する。純鉄の精錬は鉄そのものの性質、例えば耐錆性を変える。またシリコンも不純物の混入で半導体になる。量的変化である物質の構成比によって、質的変化が実現する。[s230]

【内部変化と対外変化】 個別存在の存在=運動は孤立していず、他との相互関係にある。しかし個別存在の質として運動の内部的構造がある。個別存在の質は他との相互関係に対して、個別存在を維持する内部運動の過程を維持している。個別存在は一つの質として他に対する相互作用の主体として運動する。[s231]

内部変化は個別存在の質を形成し、対外変化は個別存在の運動を量的に示す。個別存在においても質的変化と量的変化は統一された運動であり、かつ現れる場が異なる。[s232]


第3項 量と質の相互転化

個別存在間の運動における量的変化と、質的変化の統一の様相はまた異なる。[s233]
個別存在間、特に異なる質を持つ個別存在間の運動は、対立物の統一としての運動である。[s234]
個別存在間の量的変化は、相互の比較量の変化である。相互の多少、あるいは作用力の強弱の相対的関係である。これらの変化は、その対立矛盾によって、量的変化として現れたものである。この対立矛盾の深まり、あるいは緩和により、量的変化が生じる。[s235]
しかし、対立矛盾の深まりは、量的変化だけでは留まらない。相互関係そのものを変化させるまでの運動になる。対立矛盾の止揚であり、質的変化である。[s236]
ここでも量的変化は質的変化に転化し、新しい運動における対立関係として、新しい矛盾による、新しい個別存在間の量的変化を開始する。[s237]
ここでの質的変化は、発展である。[s238]

【物質三態の例】

量的変化と質的変化の相互転化の法則の例として水の三態の例が引かれる。これに対し、「水は水素と酸素の化合物であり、質は何ら変化していない」との反論があった。水素と酸素の化合物という規定は確かに水の質である。同時に固体、液体、気体も物質の有り様=相としての質である。この例では熱エネルギー量の収支と分子構造としての質の関係を問題にしているのである。[s239]
固体、液体、気体は固さや、流動性の問題ではない。分子間の相互作用関係の違いとして物質の質が異なり、変化する。氷は水素結合による結晶であるし、水液は水分子の電気的偏りによる引き合いであるし、水蒸気は水分子の熱運動による反発である。熱エネルギーの収支と、物質の有り様としての相=質が相互に規定し合って変化する。しかも相互の変化は並行せず、潜熱がかかわる。[s240]
水分子の性質を問題にするなら、水素と酸素の化合と分離を問題にしなくてはならない。水素分子2モルと酸素分子1モルで1モルの水分子が合成される。分子量の関係として2+1=1となる。モルとして分子の個数であるから、過不足はない。また、単に酸素分子と水素分子を混合しても水はできない。それぞれの分子の解離エネルギーを必要とする。それぞれ酸素原子、水素原子に解離することによって化合し、その際、解離エネルギーを超えたエネルギーが放出され、解離に必要なエネルギーが供給され、反応は爆発的に進行する。安定な水分子が生成される。[s241]

【転化の時期】

量的変化と質的変化の転化の時期は一意的には決まらない。法則として限界量が明らかな場合でも、限界量だけでなく、環境条件との相互規定の偶然によって転化は実現する。[s242]

物理的にも、過熱、過冷却、過飽和などで限界量を超えて量的変化が進む場合がある。質的変化が実際にどの量で開始するかは偶然である。いずれ質的変化が起こるにしても、どこで起こるかは決定されていない。爆発的な転化を防ぎ確実に転化を実現するには、ゆらぎを作りだしておく必要がある。[s243]

【転化による変化】

質的変化はそれまでの量的変化の運動過程を変化させる場合がある。質的変化による運動過程の変化は、量的変化量を変化させる。例えば個体、液体、気体は分子の結合の仕方が質的に異なる。分子の結合の仕方が異なれば、分子の安定なエネルギー量が異なる。環境条件からの熱の供給、あるいは放熱に際し、熱エネルギー量の収支によって温度の変化しない蒸発熱、凝縮熱などが必要になる。[s244]
人の協力関係の場合はもっとわかりやすい。複数の人の共同は作業の効率化になる場合もあれば、逆の場合もある。協力関係ができあがれば効率化し、足を引っ張り合えば成功もおぼつかない。人数という量的関係だけでなく、共同する場合、「協力関係」または「足の引っ張り合い」という人間関係に費やす労力が新たに必要になる。それまでの一人ひとりで作業する労力に加え、社会関係に費やす労力が必要になる。社会関係に費やす労力が、社会関係による作業効率の増加分を上回れば共同は失敗であり、下回れば成功である。共同の場合は人数という量的関係と人間関係という質的関係の組合せによって質量の転化の結果は違ったものになる。[s245]


 

第4節 否定の否定の法則

第1項 肯定と否定

【存在の肯定】

個別存在はまずは有るものとして存在する。他と関係し、全体に含まれるものとして存在が肯定される。全体を否定した部分が、他との関係を介して自らに全体性を回復する。個別存在を構成する運動と全体の運動の、改めての対立と統一である。個別存在を成立させた全体と部分の対立と統一が、個別存在を経て新たな過程に再び現れる。個別存在間の関係として対立と統一が現れる。存在は繰り返して否定され、繰り返し肯定される。[s246]

【形式的否定】

通常否定の形式的意味は、対象の存在を無くすることである。しかし、無から有が生じないように、有を無にすることはできない。存在否定によって可能なのは、対象を別のものに変えてしまうことである。[s247]
「A」の否定である「非A」は「A」でない存在であって、「B」であるか「C」であるかは決められない。「A」の否定は「非A」の場合もあるし、「B」、「C」、・・・、「Z」の場合もある。「a」の場合すらある。形式的否定は現実の過程を明らかにすることはできない。「A」の否定が単に「非A」であるか、「a」あるいは「B」、「C」、・・・、「Z」のいずれであるかは、否定される「A」の規定による。否定の仕方によって結果は異なる。否定の対象が「対象」のいずれの質=規定であるかによって、否定の結果は異なる。対象の「A」という規定を否定するものであって、対象の存在を否定するのではない。対象は対象化されるものであって、対象化として相対的である。規定によって対象化されるのであり、その規定の否定である。[s248]
「A」の否定は「非A」である。「A」の規定は否定され残らないが「非A」としての存在が残る。存在は否定されずに「A」としての規定が否定される。存在は否定によってその規定構造が明らかになる。全体における位置、他との連関としての構造が規定の否定によって明らかになる。[s249]
否定は形式的であってはならず、対象の存在に関わらなくてはならない。対象化される存在の、対象としての質が否定されなくてはならない。否定されるのは、対象化される存在の質である。[s250]

【存在の否定】

対象化される存在に対する否定が弁証法的否定である。[s251]
主観による対象概念の否定は対象の消滅であるが、主体の対象否定は対象の規定性の変化である。さらに主体が対象を否定するには主体自らの対象との関係を変化させることで、対象を否定する。むしろ、主体自らを替えることで対象との関係を変化させることとして、主体の対象否定はある。[s252]
存在すること自体が運動であり、そのものである規定を保存する運動が存在することである。そのものである規定を保存する運動過程に、そのものである規定を否定する契機がある。そのものを規定する契機と、その規定を否定する契機の対立過程として存在はある。個別存在としての全体との相互作用は個別の規定と、その否定としてある。他でないこととしての否定と、自らでなくなることの否定の二重の否定としてである。他との相互作用は、互いの否定としての区別と契機としての肯定の過程である。[s253]
運動自体が否定的である。運動は「でないもの」になることである。全体の運動は運動を否定する平衡化である。何らかの特定のものを、普遍的な一般的なものへ、確率的にありえない有り様から、確率的に高い有り様へ押し流していくのが全体の運動である。全体の運動自体が否定的である。[s254]
全体の運動を否定するものとして部分の運動、存在がある。部分の存在そのものを保存することが全体の運動の否定である。全体ではないこと、他ではないことを保存するには、部分自らを否定しようとする全体、他に対して自らを肯定し続ける運動としてある。[s255]

【発展の契機】

質的変化は新しい質を作り出す変化であるが、それがより発展的質を作りだす場合と、ただ別のものになってしまう場合がある。ただ単に別のものになってしまう質的変化は、前のものの完全な否定であり、特に否定としての意味はない。否定は否定であり、それ以上でも以下でもない。ところが、より発展的質を作り出す変化は、まさに発展的変化であり、運動法則として重要である。発展変化における否定は、古い質を否定し、さらに古い質の否定を否定することで新しい質を作り出す。[s256]
否定の否定の法則は、発展の法則である。[s257]
否定の否定としての質的変化、発展は古い質を否定はするが、その質を継承し古い質を包摂しつつ、それを新しい質の中に再組織する変化である。[s258]
したがって、対立物が運動を通して、新たな統一を発展的に回復される運動の質的変化であり、量的変化を貫く発展的運動として否定の否定がある。[s259]
対立する、相互否定する他との関係、環境条件との関係を否定し、自らの規定を保存しつつ、新たな自己規定を実現する。


第2項 否定の否定

発展は個別存在そのものの発展と、個別存在間の関係の発展とがある。[s260]
個別存在は個別存在として運動しているが、単に自己否定による新しい自己の回復としての運動、あるいは変化は発展ではない、単なる保存である。個別存在の発展は個別存在の関係している現実、あるいは個別存在を取り巻く全体において、個別存在の否定的側面を否定することである。[s261]

【否定の形式】

個別存在は個別存在の関係している現実、あるいは個別存在を取り巻く全体、いわば他者との関係で、肯定的なものであるから個別存在としてある。他ではない他を否定し、他を対象とする運動として存在する。これは前提でもある。質を保存し続ける運動として存在する。[s262]
しかし、個別存在は他者との関係の中で、個別存在として新しい質を作り出しつつ、個別存在であり続ける保守的な質を合わせ持つ。この新旧の質の量的関係の変化は、やがて個別存在としてのこの新旧の質を否定するものになる。前提である肯定的個別存在の否定である。肯定の否定を経て、新しい個別存在を作り出す否定、第2の否定、すなわち否定の否定は、古い個別存在の他者との関係を基準に否定され、新しい他者との関係の個別存在として再組織される。新しい個別存在は古い他者との相互作用を引き継ぎながら、古い個別存在を否定し、新しい個別存在へ発展し、他者との新しい相互作用を実現する。[s263]
物質代謝をするものだけが自らの構成物を否定して異化し、自らでないものを否定して同化するのではない。星々ですら生成消滅のサイクルがある。[s264]

【否定の階層性】

「肯定−否定−否定の否定」は基本的な3つの過程からなる形式である。しかし、現実の運動の過程は単独ではない。しかも、現実の運動過程は累層をなしている。否定から否定の否定への過程は直接するとは限らない。否定の過程の3段階はいくつかの否定の3段階を含んで到達する過程もある。個々の否定過程でも「肯定−否定−否定の否定」の3段階を経つつ、それらの過程を含んだより全体的過程での「肯定−否定−否定の否定」の過程がある。より基本的過程では否定しきれない、全体的矛盾を否定するより全体的過程がある。[s265]
まったく形式的に全体の過程を見るなら、肯定に対する否定の過程がいくつも連なって否定の否定に至ることになる。しかし、個々の否定の過程でも否定の否定の過程がある。ただ、個々の過程での否定される矛盾が全体的でない。全体的矛盾は個々の部分的矛盾の否定の過程を経て深化し、全体化して否定される。[s266]
個々の過程を形式的に比較するなら、否定の否定の繰り返しの過程に見えさえする。しかし、より全体的な総過程では肯定−否定の深化の過程−否定の否定としてより全体的、より発展的な運動の階層がある。[s267]
歴史は繰り返されるが、それでも発展する。[s268]


第3項 否定の運動

個別存在間の関係の発展として、否定の否定は新しい世界を作り出すことである。[s269]
対立する個別存在間の関係は、対立が互いの存在を前提としている、という意味で肯定的なものであった。しかし、対立するようになった個別存在間の関係は、互いに否定的である。対立する個別存在間の運動は、互いの個別存在的運動を否定するものである。対立する個別存在間の運動は、この否定的な関係、すなわち対立関係そのものを否定するまでに発達する。[s270]

【古い質の保存】

発展的運動は運動自体が質的に変化する。変化の前と後との任意の時点で運動の質は異なる。しかし、発展的運動は階層を積み重ねていく運動である。階層を積み重ねることが発展である。[s271]
積み重なった階層で、新しい階層は古い階層を新たに規定し、新たな質に変える。しかしそれは、古い質を排除することではない。古い質は新しい質によって規定はされるが、新しい質の基礎として保存される。古い質は固定化したり、静止したりはしない。規定である質は一度の規定で決定されるのではなく、規定を実現し続ける。存在として運動し続ける。[s272]
古い質の新しい階層での現れが否定され、排除される。新旧を比較して保存されるものと革新されるものとの違いは、偶然でも、人の気まぐれによるものでもない。古い質の基本的階層における運動は保存される。[s273]
人間が知的生物になったからといって、生物でなくなりはしない。生物になったからといって、化学変化によるエネルギー代謝がなくなりはしない。[s274]

【再帰】

否定の否定によって当初措定された肯定に復帰する。しかし、復帰した肯定は一度否定された存在である。質的に同じものを備えながら、より発展的質として存在する。否定の否定によって、当初の質からますます隔たった質に変化していくのではなく、質の形は再帰する。[s275]
再帰は単に往復することではない。自らの存在規定を対象化し、主体を対象化し、客体化し、再び主体として対象化した自らに作用する。当初の自らの存在規定を対象化し、自らの存在規定によって、自らを変革する。[s276]
プログラムが自らを書き換えるには、自らプログラムとしての機能を保存しながら、その機能によって自らをデータとして書き換える。プログラムの制御変数に結果としての数値を代入し、プログラムの流れを制御する過程は単純な例である。全過程は電子データの流れでしかない。電子データの流れの過程としてはどのような処理も同じ事の繰り返しである。そこに質の変化は表れない。しかし、変数として指定したアドレスのデータを書き換え、そのデータを参照して、参照回数そのものを制御することができる。変数のデータは参照を制御するものではない。参照を制御するのはプログラムである。しかし、そのプログラムがプログラムのうちに設定した変数を参照して、自らを制御する。[s277]
プログラムはどのように複雑な処理でも高速に繰り返すことができる。その安定性に依拠しながら、自らの設定した変数データを書き換えることで、自らを対象化し、自らを変えることで、安定ではない動的処理を可能にする。変数はプログラムの一部でありながら、プログラムではないデータとして対象化されるが、同時にプログラムの一部として存在し続ける。繰り返し制御のプログラムは、条件による分岐プログラムとともに、ほとんどのプログラム言語の基本的アルゴリズムとして定義されている。これらなくして、プログラムの動的制御はできない。[s278]
プログラムだけではない、生物も特定のDNA先端のテロメアという物質を細胞分裂ごとに失うことで、細胞分裂可能回数を制御しているという。細胞分裂できなくなった個体は、生殖によって再生する。[s279]

【らせん】

「肯定−否定−否定の否定」としての弁証法的発展過程は「らせん」に例えられる。[s280]
らせんは全体の進行方向Yから見るなら回転運動である。進行方向に対し垂直の方向Xから見れば波動である。X方向の運動は振動であり、繰り返しであり、同時に延伸運動である。[s281]
らせんは回転し、元の位置の戻り、完結しなくてはならない。しかし回転の繰り返しは変化しない。回転運動は最も安定な運動形式である。他方、振動も繰り返しではあるが振動だけでは放散してしまう。最も安定な運動形式と、放散する運動が組み合わさり、互いの否定関係によって別の運動形態を実現しうる。この互いの否定関係と繰り返しこそ、らせん運動が発展を象徴する形式にしている。回転運動の同じ位置にありながら振動として前進している。振動として放散しながら、回転の位置として古い質に変えて新しい質を獲得する。[s282]

【自己言及】

対象化は対象を認めることであり、対象を認めることによりその対象を対象化している自己を対象化することである。対象について言及する同じ論理によって、自己について論究することができる。自己言及の構造は自己による対象の規定という否定関係によって、逆に自己を規定する構造である。能記と諸記の関係も相似の構造にある。[s283]
この自己言及の構造は客観的過程にも現れる論理構造である。全体と部分、論理と概念、集合と要素、関係と対象、形式と内容、構造と意味、桁と数、質と量、場と相互作用、プログラムとデータ、社会と個人、世界と世界観等、[s284]
自己言及の論理構造を獲得しなかったなら、構造の把握、発展過程の把握はできない。有無の区別、ゼロの発見、数論の発展、コンピュータの実現、情報理論は成り立たない。[s285]

【発展の過程】

古い関係は肯定されたものとして成立していたが、相互の否定がやがて、各々の運動を否定し関係そのものを否定するに至る。さらにこの否定的な関係を否定することで、新しい全体の関係を作り出す。[s286]
新しい全体の関係は、古い関係を否定して成立したものであるが、古い関係をなしていた個別存在を引き継ぎ、引き継がれる個別存在間の関係が新しいものになる。[s287]
すなわち、一定の階層からの発展は、より発展的階層を成立させることで、より基礎的階層における関係を、より発展的階層において再組織するものである。[s288]

【成長】

成長は自己を対象化する過程で実現される。[s289]
自分の存在は他を自己組織化する運動である。自己組織化する運動の質を発展させることが成長である。[s290]
現在の自己組織化の運動過程を維持するだけの過程でも、同化と異化が統一的に実現されている。この自己の存在過程を総体として方向づけ、現在の自己の存在過程を否定し、新たな自己の存在過程を実現する自己の対象化の過程が成長である。[s291]
物質的、生理的、社会的、精神的他との関係としてある、同化と異化の統一としての代謝過程を全体に対して位置づける。全体に対する個々の位置づけによって決まる、価値体系に基づいて、自らの存在関係を変革することで自らを変えて、他との関係、全体を発展させる。[s292]
自らを否定し、自分でないものに脱皮して、自分であり続ける。当初の自分と、否定によって生み出される自分と、全体を貫く自分と、質的に次元が異なるが否定される自分として成長する。[s293]
自分の否定として自己を対象化する。[s294]
自分を対象性を持ったものとして、対象の内に自己を実現する。[s295]
今の自分にない価値を実現するために、自らの存在を変革することで他を変革し、全体を変革する。[s296]

【全体の歴史性】

世界全体は多様な運動をしているが混沌ではない。様々な運動、大きさの部分をなしているがバラバラではない。世界は統一されたひとつの全体である。[s297]
これまで個の全体を見てきたが、全体性に視点をおいたために抽象的であった。[s298]
ここからは、その統一の様を見る。[s299]
世界全体をなす個々のものが、各々の関係でどの様な秩序をなして統一を実現しつつ多様であるのか、という一般的な世界のあり方を見る。[s300]


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