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第一部 第三編 反映される一般的世界
第14章 思考概念
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第14章 思考概念
現象概念が実在の有り様を直接対象にするのに対し、思考概念は主観の内に引いて主観を含む現象概念間の関係を反省して対象にする。現象概念が対象との相互作用過程での直接的概念であるのに対し、思考概念は現象概念を反省することによる間接的概念である。いずれも対象化で生じる観念であるから、画然と区別できる基準があるわけではない。
[0001]
実践と結びつかない思惟は、検証できない観念の連関にあり、思惟する者のまったくの自由であるが、当人の内のみの自由である。実践を場とし、また帰結とし、実践を反映し、また検証される思考は観念ではあるが、現実的である。外部対象を概念として把握すること、そのことからして実践的である。さらに主体間での交流によって、思考そして概念、論理は社会的存在としてもある。思考概念も現実の反映のうちにつなぎ止めておくことは可能である。
[0002]
思考は意識的認識であるが、思考は意識されているとは限らない。意識されない思考が基本にあり、意識する思考は特別である。思考そして主体は日常的に意識せずに周囲を認識し、判断を下している。意識するのは意識できる特別な対象、問題についてである。しかも意識しての思考はことばを媒体とし、ことばを対象として実現する。日常的に意識していない思考をことばによって意識的に点検することで、思考能力を訓練する。主観として意識される思考はことばによって表される論理である。主観は対象化するものであり、対象をことばで表現し、操作する。主観でありながらも、客観的普遍的世界観を獲得するために改めて思考概念を思考する。
[0003]
ただし、おしゃべりしていても対象について思考しているとは限らない。会話での自己主張としてしゃべり続ける者がいる。おしゃべりのためのおしゃべりは、相手を、自分の感情を意識はしていてもおしゃべりの主題である対象については意識などしていない。
[0004]
第1節 思考の論理
意識していない思考の論理は意識できない。意識していない思考については、認知科学の成果に学ぶしかない。ここでは、意識している思考の論理についてである。
[1001]
第1項 思考の形式
運動する世界、変化発展する世界を認識し概念として固定することは矛盾である。
[1002]
意識的認識=思考は対象を観念として捉え、概念として固定し、ことばで表現する。運動する対象を不動の観念、概念、ことばに対応づける。意識的認識=思考そのものも変化発展する現実の運動でありながら、そこに対象を観念、概念、ことばとして固定し、保存する。この変化する対象と変化しない観念との対応を維持する矛盾を矛盾とし、対象との関係を一致させ続ける運動として意識的認識=思考は発展する。
[1003]
矛盾は対象と主観との関係、意識的認識=思考だけではなく、対象自体の有り様、存在矛盾としてある。存在は運動としてあり、他との諸連関にあって相互に作用し合っている。変化する対象が対象であり続けるのは対象に不変の部分、質、規定、秩序があるからである。対象の変化と不変とを区別することで対象の個別性と普遍性とを明らかにする。変化しつつ不変である対象存在を普遍的に規定する。また個別性の矛盾として、そのものであることの規定は他であるものとの規定関係に定まる。そのものであるにもかかわらず、他との関係になくては存在しない。
[1004]
認識一般が主体の環境に応じ、対象との相互作用を制御するために発達し、特化したのに対し、特殊な意識的認識である思考は逆に普遍化することで発達した。認識一般が環境や対象に対応するのに適した信号媒体を利用して進化してきたのに対して、思考は環境のうちに対象を特定し、対象間の普遍的関係をとらえようと進化してきた。単に危険を察知するだけでなく、危険をもたらす対象を特定しするために環境、対象を普遍化する。危険な信号の特徴を普遍的に把握し、分類し、普遍的な環境の中で危険の種類を特定できる様に記憶する。さらに実体としての対象と関わっていない時でも、対象を想起し、比較し、反省できる観念として記憶し、操作することで思考は発達してきた。進化論的に検証できる過程ではないが、論理的に思考するならこうなる。
[1005]
認識一般に対する思考の特徴は、個別対象を抽象化し、普遍的関係で把握することである。対象の個別性を分析と総合によって明らかにし、個別間の分類関係に位置づける。個別間の分類関係の秩序、個別の運動変化の秩序として対象全体を貫く普遍的関係にそれぞれの個別を位置づける。
[1006]
抽象化と普遍化を繰り返して、個別対象の反映である観念表象を概念として規定し、概念間の関係形式を論理として規定する。意識的思考はこれをことばによって表現し、操作する。
[1007]
保存される概念の固定した規定関係に新しい対象、あるいは対象の変化が生じることによって概念の規定諸関係が更新される。対象概念の規定諸関係の更新が思考である。個別対象と一致する概念を再現する想起、対象を概念として同定することも思考である。想起される記憶自体は思考ではない。しかし、記憶をたどり、表現するのは思考である。さらに、対象間の関係の新たな関係を見いだすことが創造的思考である。創造的思考は新発見、新発明といった社会的新しさに限らない。個人的対象理解の内で新たな関係を発見することが創造的思考である。
[1008]
個別概念として規定することは他との区別を明らかにすることであり、関係と関係するものどうしの異同を明らかにすること、すなわち分析である。分析は既知の諸関係により詳細な規定関係を見いだすことである。分析なくして思考は成り立たない。しかし分析した概念は総合され、他との関係に位置づけられねばならない。総合によって分析された諸関係間の関係を見いだす。区別された対象概念を総合し、その全体は概念構成体としての固定した、統合された個別概念になる。分析の前提としてある既知の諸関係と、総合によって見いだされる関係の関係とが一致することは当然のこととして保証されていない。一致は分析と総合が正当に行われたことを形式的に保証する。一致が保証されないのは対象と主観との関係が全体の連関の極一部でしかないからである。また、対象が、そして対象と主体との関係が運動変化していることにもある。運動する対象と固定した個別概念との矛盾が生じるが、この矛盾を追求し、それぞれの対象と個別概念との乖離関係を分析し、総合することで運動=存在についての認識がえられる。
[1009]
この個別概念の作り方が形式論理によるさまざまの流儀の違い、数学における論理主義、直観主義、形式主義などの違いを生む。
[1010]
と言って、概念は現実に合わせ、次々と打ち捨ててよいものではない。普遍的な関係を引継ぎ、対象の新しい関係を見いだすが、対象に保存されている関係が個別対象の普遍性であり、付加され、消失される関係は偶然の性質である。対象の個別性を他との新しい関係に限定することで、その新しい関係自体の普遍性が、その程度が明らかになる。また量的規定であれば変化量も含めた高位階の普遍的関係が見いだされる。
[1011]
【概念の定義】
論理が有効なのは定義された概念が不変であることによってである。論理では概念の定義の過程と、対象と概念の関係は捨象されて概念のみが対象になる。
[1012]
ところが、個別存在には個別性だけではなく全体性があり、孤立した単独の存在ではない。個別存在は他と多様な相互規定関係にあり、多様な性質の物事としてある。その個別存在の多様な性質一つひとつの担い手を個別概念として定義する。逆に一つひとつの性質を一つの規定概念として定義する。個別存在は多様な規定概念によって説明される。「太陽は恒星であり、銀河系の周辺部に位置し、太陽系の主星であり、・・・」と太陽は個別概念として定義される。逆に恒星、銀河系、周辺部、位置、太陽系、主星としての規定概念が別途個別概念として定義される。
[1013]
存在の多様な性質一つひとつを規定概念として定義する。質として他から区別する基準が規定概念として定義される。個別概念と規定概念とは対になる概念であるがそれぞれに相対的である。規定概念をより普遍的性質の規定概念で定義するなら、規定概念も個別概念としての関係に位置づけられる。規定概念は個別概念を相対的に超えたより普遍的性質を定義する。逆に規定概念は他によって規定されることで、その個別性が規定する性質の普遍性の違いを明らかにする。太陽の定義の例で恒星、銀河系、太陽系、主星は容易に個別概念として定義されるが、周辺部、位置は空間、幾何学の対象としての個別概念になる。概念による概念規定としての論理的定義でも概念間の関係には形式化で捨象されてしまう普遍性の位階構造がある。
[1014]
性質が定義されれば、性質を担うものが抽象される。性質の担体として他の性質をも兼ね備える普遍的個別存在が抽象される。「固有名詞」によって指示される特定の個別存在ではなく、「普通名詞」によって表徴される普遍的個別存在である。固有名詞によって指示される対象も、普通名詞によって表徴される対象も、思考の対象として明確に区別できるものではない。特定の個別存在を対象にする場合であっても、その「特定」は他との連関の一面での個別性にすぎない。固有名詞によって指示される対象は「人間」主体の対象であり、人間主体の対象として「固有」であるにすぎない。
[1015]
こうして個別概念は多様な規定概念との関係に普遍的に位置づけられるが、多様な規定概念も個別概念として区別することができ、一つの規定関係にある。個別対象を一つの規定関係で他と、相対的全体から明確に区別する一つの規定によって特定できることで論理操作が保証される。規定関係は論理の対象範囲としての議論領域であるが、論理に規定されるのではなく、対象とする性質の位階に定まる。幾重もの位階から対象化によって捨象する位階での規定関係に収まって操作可能になる。一つの規定関係で対象を他と形式的に区別することで思考による対象操作が可能になる。定義される個別対象は多様な性質をもっているが、個別性によって定義された対象概念は単一である。概念は定義された関係としてのみ存在するから、曖昧さは入り込まない。
[1016]
「惑星は恒星と区別され、自ら光を発せず、見かけの軌道が逆行することのある星である」と惑星概念は恒星概念と対をなし、区別され「常識」的に定義される。星雲、中性子星、ブラックホール等については惑星と恒星とを区別する基準、規定関係にはかかわらない。原子は水素原子でも、酸素原子でもなく「原子核と電子によって構成される」として、その他ではない物として定義される。
[1017]
【論理関係】
意識的思考は観念表象をことばによって表現し、対象化する。ことばを媒体として観念表象は概念として相互規定される。概念の相互規定関係の連関が論理関係である。論理関係は概念の相互規定関係として、客体間の普遍的相互作用規定関係を反映する。論理関係の関係形式を抽象し、対象化するのが論理学の対象である論理(系)である。論理(系)は論理関係の関係である。
[1018]
論理の関係単位は概念による概念の規定としての
個別論理によって表される。概念は他の概念との多様な相互規定関係にあり、全体の関係のうちにあるが、そのうちの一つの関係を捨象し、しかも相互規定関係である双方向の規定の一方を捨象した規定関係が個別論理である。他とは連なっているがその内での一つの関係として捨象することで、不変な関係に個別論理は普遍的に保存される。個別論理は論理関係の単位であり、規定関係の単位である。規定関係の基本形式を表す。規定するものと規定されるものの関係であり、ことばでは述語と主語の関係で表される。
[1019]
個別論理の形式は概念の二項間の関係として表される。「AはBである」との二項間形式で表現される。実践的規定ではAは規定されるものであり、Bは規定するものである。対するに思考概念としてはAもBも対象であり、AとBとの関係が規定されるものであり、この関係を主観が規定する。
[1020]
「AはBである」という例では「A」を「B」として規定する。論理形式としては記号A、Bが表徴するものが何であってもよい。記号A、Bは何かを表徴する変項としてあるが、関係を不変に規定する。記号Aが何を指示するかに関わりなく、「A」を「A」でない「B」として規定する。記号Bが何を意味するかにかかわらず「A」を規定する関係を表す。ただ、「B」の意味は1つとは限らない。「A」を様々な規定としてのBに置き換えることができる。「B」が複数の規定を表徴するなら記号Bは規定の集合を表徴する。
[1021]
「A」は「B」によって規定され「B」以外ではないが、規定関係として不変であることにより逆に「B」も「A」によって規定される。「B」は「A」を規定しないものを含んでいてはならない。「B」は「A」に包含されていなくてはならない。この関係は「C」、「D」、・・・ではない「B」として規定される。論理形式はこの様な規定関係の表現形式である。
[1022]
このように、論理形式は相互規定の関係にある。規定するものによる規定されるものへの一方的関係だけではなく、規定することによって規定するものは他から区別されて規定される。これは規定関係が二項間の孤立した関係ではなく、規定関係の連関としてあるからである。論理関係の普遍性が個別論理の二項間の関係にも相互規定性として現れる。
[1023]
論理関係は具体的な対象を区別する際の基準になる。対称は区別のないことであるが、対称を対象とする時、対象の有り様にかかわらず対象を論理関係によって区別する。
[1024]
個別論理形式は2項間の関係であり、対象を区別して形式的対立を表象する。形式的対立は対象が限定されなくては意味をなさない。上下、左右、前後、親子等々の形式的対立関係は相対的なものであり、対立関係だけでは真偽は意味をなさない。対立関係が対象に重ね合わされ、対象を区分して相互に対をなす他を限定することによって意味をもつ。対象の対称性を区別する関係ではなく、対象の他との連関関係が基準として真偽が問題になる。対象の他との連関関係に位置づけられて、意味づけされる区別の真偽が判断される。
[1025]
重力方向に対する上下、日の出に向かっての左右、鏡像に向かっての右左、前後の関係、運動の前後のように限定されなくてはならない。特定の親子関係は親子が入れ替わることはないが、祖父・祖母との関係、あるいは孫との関係がが加わるとそれまでの親は子になり、あるいは子は親になる。
[1026]
左右は左右対称の対象について問題になる。左右対称でなければ右左を定義する必要はない。利き手が決まれば「茶碗を持っている手」、「箸を持っている手」の方が「左右」の区別より確実に情報を伝えることができる。利き手の区別とは違って左右は抽象空間での相対的区別としてある。道案内をする場合であっても、具体的に「ここ」、「そこ」と指示できる場合、目標物がある場合に左右の指示は必要ない。具体的目標物のない仮想空間で右左の区別が必要になる。仮想空間であるから左右は抽象的である。右に曲がってさらに右に曲がると、最初の右左は逆になるが、左右の区別は依然としてある。左右の対称性が破れるから対称関係にある対立概念によって区別できる。舞台は左右ではなく「上手、下手」で区別される。川は下流に向かって「左岸、右岸」を区別する。池には左右の区別はない。左右対称でありながら右手と左手は重ね合わせることはできない。右手用の手袋は軍手はともかくも、左手にはめることはできない。鏡に映った人の腕時計はどちらの方に見えるか。「こちらの方」と指示する分には実像と鏡像の腕時計の方向は同じ側である。しかし、左右を問題にすると鏡像は反対側に腕時計をつけていることになる。ほぼ左右対称形の人の姿を当人の視点から左右を判断することにより、鏡象を見ている実在の左右と、鏡象の視点からの左右の座標系が反転する。空間概念は抽象的であり、実在の対象に適応するには注意と、訓練が必要である。特に「左右」は幼児期に訓練されて身についた概念である。鏡像の左右の区別は訓練によって獲得される。鏡像での迷路をたどるには訓練が必要である。鏡像を利用して、幻肢による痛みを治療することができるという。
[1027]
左右という抽象空間の対立概念も、実在空間では対立矛盾となって現象しうるのである。前後も抽象的相対的位置関係であるが、鏡に対しては光学的に反転する。上下は日常的には問題にならないが、地球の裏側との関係、あるいは宇宙空間などでは具体的に定義されなくては意味をなさない。左右、前後、上下といった認識主体を基準とする抽象的対立概念も、具体的対象を問題にする時、単なる対立概念ではなく認識の上での矛盾を生み出し、その矛盾を認識することで対象についての空間関係を客観的に定義することができる。
[1028]
しかし、他による定義は区別としての否定でしか表せない。他ではないものとして定義する。「これはBではない」のように。逆に他によって肯定する定義は矛盾であり、自らによる定義は同語反復、自家撞着でしかない。定義は普遍性の異なる位階間の関係で、全体に連なり意味を持つ。
[1029]
論理は認識を捨象し、認識結果である概念関係を対象とし、反省することで成立する。対象の運動での規定関係を、秩序を概念間の関係として反映したものが論理である。対象の運動、相互作用での相互規定関係を、また運動としての認識過程を概念の規定関係として論理は反映する。認識過程の概念規定は自己言及であり、規定を規定することとして再帰している。論理は対象概念を他の諸概念との関係で説明する。個々の概念を他の諸概念で説明する論理であるから、すべての概念を明らかにしなくては個々の説明を評価することはできない。個々の説明と、説明の全体とを行きつ戻りつ繰り返すことで進むしかない。
[1030]
【論理空間】
論理関係として規定される構造は論理空間を表す。時空間も論理空間の具体例である。左右の変化の可能性は一つの自由度である。これに上下、前後の自由度を合わせ、3つの自由度が定まる。3つの自由度を持つ関係が三次元の空間構造であり、3つの軸で表すことができる。時間的変化を加えることにより四次元時空間が日常的物理時空間である。四次元時空間では、複数の物が同一の空間的位置を占めることができないが、時間がずれれば同じ位置を占めることができる。関係の関係として物事の結びつきによって物事を表現する構造が表現される。論理空間は時空間的位置関係だけではなく、性質ごとの相互関係によって構成される。
[1031]
感覚によって獲得される普遍的表象世界は個別存在が配置し、相互作用する空間である。その相互作用空間関係から客観的空間の構造が表現される。客観的空間表現によって普遍的表象世界を普遍的抽象世界に転化する。数学によって表現される関係形式である。相互関係は特定の質に関して捨象・数量化され、その量的関係によって対象の運動を計算可能にする。適正に数量化された相互関係の、関係相互の関係によって空間、時間を抽象的に表現できる。抽象化された相互関係の種類の数がその時空間の次元数である。時空間に含まれて区別される各点ごとの各次元の値が定まる。各点ごとの各次元として内部空間が表現される。内部空間は抽象的で日常経験からは想像できないが、物理的次元は四次元時空を超える次元があるという。
[1032]
通常の地図は空間的位置関係を二次元の平面に表現するため、様々な表現方法を工夫している。緯度経度を基準にしたり、面積を基準にしたりと。変わったところでは移動時間を基準にした地図もある。
[1033]
地図の表現、意味が多様であるように多様な論理空間表現は思考論理にも影響する。自国中心の地図は客観的世界理解を妨げることがある。南北を逆さに見ることで、見えるものが違うこともある。
[1034]
思考が対象にする相互関係での区別は対立と同時に比較の関係でもある。対立する双方の関係は相互作用として質的に一定であるが、量的に変化する。量的変化の可能性が自由度である。特定の質的関係での量的変化を実現する自由度が定まる。自由度の数によって対象の空間次元数が定まる。
[1035]
自由度は物理的変化量だけではない。社会的存在には経済的にも生産量、流通量、再生量等複数の量で量られ、変化する。また法的には権利の種類とその範囲量、し好とその程度等の基準でも多様な社会関係で量られる。
[1036]
論理空間での表現は、対象の全体像を視覚化してくれる。さらに、膨大なデータの全体を見渡すには可視化の技術がある。そこでもまた逆に可視化に利用する色彩と対象の性質との対応関係を論理的に保つ必要がある。
[1037]
ただし、論理的に相互関係を数式化しても双方向の作用を同時に解くことはできない。一方の被作用を捨象して基準としなくては、他方に対する作用を計算できない。相互作用を互いの作用が重なり合った状態と仮定し、重なり合いを何らかの方法で形式化して計算する。時間を分割してそれぞれを計算して結果を重ね合わせるか、過程をそれぞれ別に計算しながら、結果を重ね合わせる等の工夫がなされる。
[1038]
第2項 論理の基本
論理関係の基本は規定、転化、止揚である。規定は存在関係の論理概念であり、存在は規定されて現実の個別存在としてある。存在の変化は論理では転化としてある。存在の発展として論理では止揚としてある。
[1039]
【「規定」概念】
一般に「規定」あるいは「規定する」は主観が主観に対して対象を説明し、定義することである。
[1040]
他を規定することで主観は「他を規定するもの」として自らを規定する。
[1041]
自らを規定する自己言及であるから、規定する主観、規定された対象に根拠を求めることはできない。自己言及そのものの根拠を求めて主観と対象の関係を反省することになる。自己言及の反省によって客観をえる。主観を対象化=客観化し対象である他と同じ客体として、存在の対称性で反省する。客観は主観の否定ではなく、客観は主観とは別にあるのではなく、主観が主観を超えて主観自体を客体間に観ることである。主観を客体化することで客体間の関係として客観を獲得する。客観において主観は観るものと観られるものに二重化されるが、二重化によって反省ができる。主観的見方と客観的見方を重ね合わせ異同を明らかにすることで互いの区別を明確にする。これが反省であり、反省することが主観と客観とをより明確に区別する訓練となる。
[1042]
反省を経て、客観として、客体のうちに規定の根拠を求めることが可能になる。主観による観念規定の根拠として客体の実在規定を求める。
[1043]
存在は相互作用として互いに対象化し、互いを区別している。相互作用は秩序の内容であり、秩序によってその形式が区別される。主観に関わりなく客体は互いを区別し、それぞれの存在を現している。相互作用による互いの区別は作用するものと作用されるものの関係であると同時に、作用そのものの性質による区別である。作用として一定の性質を実現するが、逆に一定の性質を実現する作用するものが規定されている。相互作用であるから相互関係によって相互に規定する。この相互規定が主観に関わりのない実在規定である。区別される存在と、存在の性質とは相補関係にある。
[1044]
主観に関わりなく作用自体が実在の有り様であり、実在としての作用によって実在は互いを区別している。にもかかわらず、主観は作用する存在を仮定し、存在を追求する。仮定する存在は性質、作用を担う実体として存在することもあれば、性質の現れの捉え方に誤り、不十分性があった場合もある。ギリシャ時代の物質存在の究極の単位としての「原子」の追求は物質構造を明らかにしてきたが、今日「原子」名づけられている物を意味しない。科学的追求の対象として熱を担う「熱素」、光の媒体としての「エーテル」等の実在性が追求されてきた。対象が存在しなかったからと言って、その追求が非科学的であったのではない。作用、性質は実在の現れであり、実在の研究として科学なのである。実在は作用、性質として互いを規定している。実在として主観が規定できるのは作用、性質であり、作用、性質の規定によって対象の個別性をとらえるのである。物理学では相互作用力そのものを担う量子をも対象としている。物理的相互作用は媒介する量子の交換として解釈される。
[1045]
主観は客体それぞれを区別してそれぞれの存在と見なし、それぞれの存在の性質を規定しようとする。この観方では主観は客観化されていない。性質の表れは対象から客体である主観への一方的作用としてみなされている。相互関係の他方の作用は主観が性質を担う存在を想定することとしてある。主観は対象の他に対する作用のうち主観に対する作用のみによって対象を規定している。
[1046]
主観は自らの解釈である個別対象を反省し、個別対象間の関係を作用、性質として普遍的に規定する。主観は作用、性質の普遍的担い手として、個別性をこえた普遍的存在での関係として対象を客観的にとらえる。主観は普遍的存在間の関係、関係の関係として普遍的対象規定を獲得する。主観は反省によって実在の秩序、実在規定を普遍的表象規定として反映する。主観は直接にではなく、反省し、普遍的存在関係に実在の表象をとらえることができる。
[1047]
媒介された個別存在を対象とする日常経験の世界では、実体を想定することは自然なことであっても、それは存在の解釈としてのみ有効なのである。主観による実体の想定として「物自体」の観念も想定される。認識できるのは作用、性質であって、「物自体」を認識できないのは当然のことである。
[1048]
主観の反省は主体を反省するのであり、対象との相互作用としての実践の反省である。主観自体を反省するのではない。対象からの一方的作用を観照し、観照を反省するのではない。主観は普遍的存在関係に捉えた対象規定を、主体の実践過程で実在に重ね合わせて検証する。実在の規定関係は主観に関わりなく、存在の相互作用として実現している。主観は実在の規定関係を普遍的概念間の関係として規定し、規定することとして対象の規定関係を客観的規定関係として反映する。
[1049]
対象を指示しての規定は現象規定であり、対象の個別性を普遍的概念によって指定する実践的規定である。「これは本である」のように。実践的規定では個別対象を概念によって規定するが、同時に概念を個別対象によって説明している。現象規定、実践規定は名称、性質、作用、状態等によって対象を説明する。また、名称、性質、作用、状態等の規定によって対象を特定、指示することができる。
[1050]
対するに思考概念としての規定は「雑誌も本である」のように個別対象を規定するのではなく、概念と概念との関係を規定する、論理的規定である。
[1051]
実践規定にあっては対象を指示することによって、規定する概念自体が反省される。思考規定では概念間の関係を規定することによって、双方の概念を反省する。概念による概念の規定は一対多対応にある。概念は他の概念によって規定され、同時に他の概念を区別する。一つの概念規定は一つの規定概念に対応するが、一つの個別概念は複数の規定概念との関係にある。規定を介して概念は他の概念すべてとの相互規定関係を構成する。相互規定関係は線形にとどまらず、編み目の平面にとどまらず、再帰して自己言及し、位階関係を構成する。位階関係として実在の階層構造を反映する。
[1052]
概念間の普遍性の違いは概念間の階層関係、位階関係を区別する。規定関係にある両概念の普遍性の違い、両概念の外延の包含関係を区別する。一般により基本的階層の概念はより発展的階層の概念より普遍的である。基本は普遍的であり、発展は特殊である。しかし媒介される対象はより発展的階層の概念がより普遍的であり、より基本的階層の概念が特殊的である。媒介自体が普遍性を実現する過程である。媒体の特殊な有り様、無秩序な有り様を普遍化し、秩序づけるのが媒介過程である。
[1053]
概念間を媒介する関係は位階関係である。概念間の直接的規定関係を超える普遍的規定関係として位階関係がある。位階関係は関係の関係として幾重にも重なる。位階は観念的構成物ではなく、実在の運動の普遍的関係を反映している。
[1054]
速度は距離と時間の関係を超えた関係として規定される。距離も時間も運動の普遍性によって規定される。速度は運動の普遍性として実在である。速度は距離と時間から計算によってもたらされる観念的な構成物としてだけあるのではない。今日では光の速度によって距離単位が定義される。さらに、加速度は速度の変化量として運動の有り様を客観的量として表す。距離、時間の量と速度としての量とは位階として互いに区別される規定関係にある。速度と加速度も位階として区別される規定関係にある。
[1055]
位階関係は関係間の関係であり、階層関係のように直接的対象と媒介された対象に見られる普遍性の逆転はない。位階関係ではより高次の次元が普遍的であり、抽象的である。
[1056]
【「転化」概念】
概念の転化ではなく「転化」の概念である。対象が対象でありながら他になる過程の概念である。
[1057]
転化は個別性を保存しながらその質、規定性を変える。転化によって個別の存在は変化しない。他の個別との相互作用関係は維持しながら、相互作用のあり方が変化する。転化によって個別対象は消滅、吸収、分離などはせずに、その個別の運動のあり方が変わる。また単に、変換、置換のように他になり、取って代わることでもない。別のものになってはしまうが、他との関係が維持、保存されているから別であることが区別される。他との関係が保存されなければ、主観も一定の対象として認識できないし、変化を知ることもできない。
[1058]
転化では対象性が保存される。保存される個別性は対象性として実在関係にあることで同一性を維持する。対象性を失うことは消滅である。他と区別される個別性が保存されず、失われれば対象性を失い消滅する。
[1059]
存在は他との関連の中で他への転化として質的に運動する。転化は個別規定の変化である。個別は運動の実現形式として一つ以上の保存される質と一つ以上の変化する質にある。転化では変化する質によって他との区別の有り様が変わってしまうが、保存される質として他と変わらずに区別されてある。転化も個別自体の運動ではあるが、その契機は他との相互作用にある。他との相互作用としての運動であり、一方、あるいは双方の個別のあり方が変わってしまいながら、個別としての存在は継続、維持される過程が転化である。
[1060]
物理での相転移も転化の例である。水の例ではそのものは変化せず気体、液体、固体と有り様を変化させる。転化酵素は対象分子を分解する酵素である。合成の場合は転化とは言わない。転化酵素は対象を転化させる継起となる。酵素自体が転化するのではなく、対象分子の特定の化学結合を切り離し、複数の異なる分子にする。分子を構成する原子に変わりはなく、その結合の仕方が変わる。合成は歴史的にはともかくも構造的には新しい質の実現である。合成は転化ではなく、止揚である。生物の変態も転化の例である。遺伝子もその機能も変化せず、その発現形態が変化する。人は状況に応じた、立場に応じた役割を担う。社会では一定の力関係にあって責任を転嫁する。
[1061]
転化は矛盾であり、矛盾であるから運動過程として実現する。この過程を非論理として否定することもできる。しかし、否定してしまっては変化の過程を論理としてとらえることはできない。
[1062]
転化は媒介されている過程である。他と、全体との関係に媒介されて変化する。転化する個別性は相互作用規定によって媒介されてある。媒介された個別性が保存され、媒介のされ方が変化する。
[1063]
媒介関係、媒介するものを明らかにすることで転化過程が明らかになるだけではなく、転化結果から、転化前の関係を明らかにすることができる。媒介の規定関係、必然的過程として論理として表現することができる。転化、媒介過程の実現は偶然の契機によるが、実現過程は必然的過程として論理によって表現可能である。そして、過程を結果から原因へと逆にたどることができる。
[1064]
他の物事で代用することでも、媒体を代替することでも、他との関係、全体での関係は保存されるが、転化ではない。代用、代替は必然的過程ではなく、操作される偶然の過程である。転化は必然の過程として実現する。転化は必然的過程であるが契機によって制限されている。転化では偶然が必然を規定するが、転化の過程は必然である。転化の契機は他との関係、全体での関係として環境としてある。環境を整え、条件を作り出すことで転化を実現することができる。生命過程はこの転化を実現する契機の組織化としてある。生化学反応を制御する酵素がそれであり、神経伝達物質、神経細胞のイオンとイオンチャンネルの相互作用も組織化される契機である。
[1065]
【「止揚」概念】
転化が一つの相互関係での一方の変化であったのに対し、止揚は双方の、全体の変化である。止揚は個別の形式的変化ではなく、個別の内容をなす対立関係の止揚である。止揚される対立は偶然の遭遇、継起による対立ではなく、対象存在の規定として保存されるている対立である。対象存在を規定する対立であるから止揚されることによって、当の対立は無くなり、対象の個別性も失われる。止揚によって、対象は新たな個別性として現れる、再生である。
[1066]
対立は一般的に平衡として保存される。保存される平衡の典型例は力学的平衡であり、静的平衡である。天秤は平衡を実現することによって重さを量るが、実現された平衡はその系内では変化のない静的平衡であり、外部からの作用がなければ変化することはない。静的平衡にある対立は止揚のされようがない。
[1067]
静的平衡に対する動的平衡の典型が生物個体の代謝である。同化と異化の過程であり、生と死の対立する過程である。動的平衡による恒存性が個別性を規定している。動的に平衡を作り出しており、多少の不均衡が生じても自律的に平衡を維持する復元力がある。怪我や、病気に対して免疫力、治癒力がある。この動的平衡は複写、再現されるが、やがて個体の平衡は崩れ死ぬ。対立にありながらも平衡を維持するだけでは止揚は現れない。
[1068]
止揚は動的平衡構造の変化として実現する。動的平衡構造は動的平衡を実現している相互作用過程間の関連構造であり、対立を含んでいる。全体の秩序崩壊過程にあって、部分としての平衡秩序を保存しているのであり、対立矛盾は必ずある。様々な対立矛盾を含みながら、動的平衡構造、平衡秩序の保存と崩壊を決定的に規定する主要矛盾がある。にもかかわらず対立矛盾しながらも平衡を維持するのは対立が相互依存の関係にあるからである。
[1069]
相互依存する対立関係は対立する存在が互いの存在に依存し、互いに対立することでそれぞれに区別する存在としてある。互いに区別することでそれぞれの個別性を実現することが相互依存性である。偶然の会合から生じる依存性、薬物依存性とは異なる。存在の根拠をなす依存性であり、同時に互いに区別する対立でもある。
[1070]
対立するそれぞれは対立する相手との関係、他との、全体との関係での個別性をもち自律的である。他との、全体との関係にありながらも運動し量的、質的に変化する。この個別的な量的、質的変化は当然のこととして主要な対立矛盾に量的にかかわり、弱めも、強めもする。それぞれの個別的な質的変化であっても主要矛盾に対しては量的作用としてしか現れない。
[1071]
対立するそれぞれの運動の平衡、対立をめぐる全体の運動の平衡が維持、保存しているうちは量的変化が現れるが、平衡が崩れるとき存在そのものの秩序まで失うか、新たな秩序を創造するかが分かれる。存在秩序の崩壊は対立していたそれぞれの存在、個別性の消失であり、質の喪失である。対するに、新たな秩序の創造が止揚である。対立するそれぞれの内で発展した部分的秩序が対立を超えた全体の秩序として取って代わるか、対立する双方の内での部分的秩序が新しい組み合わせ秩序として全体の新しい秩序を実現する。止揚は秩序、質の変化であり不連続的変化である。どのように新しい質が実現されるかは、あるいは秩序そのものが失われてしまうかはそれぞれの対象を構成する相互作用関係によって、そして偶然によって規定される。どの様に止揚されるかは、ある程度の予測は可能でも、実践の問題である。秩序創造の実践無くしては、秩序そのものが失われることは必然である。
[1072]
相互作用関係が新たな相互作用関係へ転化することが止揚である。単なる転化では他との関係は保存されるだけであるが、止揚では新たな他との関係を作り出す。相互作用の有り様の変化ではなく、相互作用関係の変化である。他との規定関係に新たな秩序、質を作り出すことが止揚である。
[1073]
止揚の思考演習テーマとして恋愛を取り上げよう。恋愛が結婚へ止揚されるか、破談に解消されるか。恋愛テクニックの問題ではなく、これまでのそれぞれの生活を変え、共同生活を作り上げる、折り合いをつける過程が結婚への止揚である。
[1074]
全体は秩序を崩壊する過程にあり、相互作用によって実現される部分的秩序もやがて崩壊する。全体の関連のうちにあって実現した秩序は崩壊過程で対立的、相互否定的関係に至る。崩れかける部分秩序はより安定した秩序を実現するか、秩序を消滅させる。より安定した秩序の実現が止揚である。
[1075]
物理ではエネルギーの高い状態での秩序からより低い状態への秩序へと向かう。それぞれの秩序形成過程で非平衡な対立状態がより安定な秩序に収まる。生物は新しい環境への適応として進化してきた。人間社会の利害対立も無くなることなく、時々の相対的安定として秩序の崩壊と構築を繰り返してきている。
[1076]
止揚そのものは発展であり、基本的存在は継承される。基本的存在を継承しつつ、新たな発展的関係への転化である。旧前の存在関係を否定し、新しい存在関係へ転化する。旧前の存在は継承され、関係が改まる。実践の場合に、旧前の存在のどこに依拠して存在関係を変革するかが問題になる。単なる破壊は存在の継承を否定するものである。単なる制度関係の変革は存在基礎をもたない。
[1077]
【論理の訓練】
論理は客体として、物として存在するのではない。存在することの秩序を反映するのが論理である。論理は物事の普遍的関係形式としてある秩序の反映である。論理を理解し、使うには訓練が必要である。論理は対象の普遍性を理解する訓練、規定形式を適用する訓練、概念操作の訓練が必要である。
[1078]
対象の個別性を抽象すること、他と区別される存在として対象化すること、対象としてとらえることは、生理的認識としても、論理としても訓練しなくては獲得できない。対象としてとらえることは、同時に対象間の相互関係を捉えることである。区別する関係によって対象をとらえる。関係間の関係によって対象間の関係を区別し、とらえる。視野のうち焦点が合うのはごく一部の領域である。視線を対象に向け、焦点を合わせることができるのは、個別性を対象のうちに見いだす訓練によってである。
[1079]
形式論理も当たり前のことではなく、訓練しなくては当たり前にはならない。形式論理による思考も抽象、捨象による対象化、対象間関係を見いだす訓練を繰り返すことによって獲得される。論理は思考訓練によって獲得される対象間の関係形式としての法則である。対象のあるいは対象間の包含関係、和集合、積集合、補集合を意識できるのは論理の訓練によってである。集合論を学校で学ぶ前に、生まれてからの経験の中で対象認識の訓練として形式論理を身につけてきている。生まれてからこのかた意識しない思考として感覚刺激を介して、感覚の中に対象を抽象している。改めて形式化された数学の集合論を学ぶ段になると戸惑ってしまうが。対偶関係などは一度説明を聞いただけでは忘れてしまう。何度も具体的な物事の関係として確認しなくては身につかない。日常生活ではほとんど必要としない関係であるから、意識的に訓練しないと理解できない。
[1080]
さらに論理の適用は個別論理にとどまらず、個別論理の相互規定全体の関係としての論理系の選択である。数学の歴史は論理系の拡張の歴史であり、多様な論理系を創造する歴史である。自然数の関係で演算可能な論理系から虚数まで含む論理系への拡張であり、行列や非ユークリッド空間といった多様な論理系の創造であった。対象間の規定関係を表現する形式としての論理系を抽象することから、抽象した論理系を拡張することで多様な論理系を創造し、創造した論理系が新たな物理現象の規定関係を表象していることを発見してきた。ミンコフスキー空間が一般相対性理論の空間であったり、ゲージ理論が相対論から量子力学にまで適用されたのが数学の力として紹介されている。対象を規定する論理系を表象し、あるいは創造するには訓練が必要である。算法=アルゴリズムを考え出すのと同様の創造的訓練が必要になる。
[1081]
対して、弁証法論理にはさらに実践的訓練が必要になる。運動の論理であり、再帰構造の論理であるから。「矛盾などあってはならず、排除すべきである」と思いこんでいる人は矛盾を見いだす訓練などする気にはならないだろう。矛盾を否定する人に矛盾関係を理解することはできない。その人にとっては弁証法など詭弁でしかない。矛盾を承知の上で弁証法を否定するのは政治的理由である。しかし光のスリット実験のように形式論理ではあり得ないことが起こるのが現実である。ゼノンのパラドックスの例もある。形式論理だけでは世界を理解できないのである。それを強引に形式論理だけで展開すると「多世界宇宙」、「波束の収束」などという解釈が生まれてしまう。
[1082]
ハサミは道具である。道具は使われて道具である。ハサミは使われなくては単に金属等の塊である。単にあるだけの物は形式論理で定義できる。使われない物を道具として定義することに矛盾を感じるかどうかは論理的感覚、論理的訓練の違いである。
[1083]
さらに、ハサミは切る道具である。しかし、ナイフのように単に切り分けるだけではなく、二枚の刃を交差させることによって切る。個別対象である紙等と接するだけではハサミとして機能しない。二枚の刃どちらかで切っているのではない。一方の刃が対象を支え、他方の刃が対象を切り裂くのでもない。さらに使い方によって曲線でも切れる。ハサミの刃は直線であるから、曲線は切りながら方向を変化させなくてはならない。切る動きと方向を変える動きとが統合されなくては曲線を切ることはできない。ハサミを動かす運動と対象を支持する運動とが協調しなくては曲線を切れず、訓練をしなくては曲線も直線も思うように切れない。ハサミは人に媒介され、人はハサミを媒介にして対象を切る。この媒介する関係が弁証法的なのである。
[1084]
「ここを切る」と支持するのに、「ここ」と示す「指」などの指示器=ポインターと位置を示される対象とは別の物である。指示されるまで「ここ」は規定され様もなく、存在しないのである。指と対象の特定の位置とが一致することによって「ここ」が特定され、実現される。しかも、指と対象とは厳密には一致していない。「ここ」は指の一部分であるのか、対象の一部分であるのか。物質的に別の点でありながら指さす延長線と対象との交点が重なり合うことで対象の特定の位置を指示できる。物質的に一致していないのに位置を特定できるのは、指示する者と指示される者との関係がコミュニケーションの場で共通の空間を介しているからである。
[1085]
弁証法論理も訓練が必要であるが、「正−反−合」と形式を宣言するだけでは訓練ではなく、世界を理解することはできない。形式だけでは弁証法は非弁証法に転化してしまう。矛盾がどのように実現し、どのように止揚されているかを現実の運動の中に見いだす訓練をしなくては弁証法論理を理解することはできない。現実世界を理解する訓練として、弁証法論理も常に具体的に試されなくては形式化してしまう。
[1086]
第3項 形式論理
変化する対象全体にあっても、変化しない規定関係を対象化することによって形式論理は成り立つ。相対的全体が他に対して不変に保たれる場合、または部分が全体に対して不変に保たれる場合、この場合の区別は相対的であり、互いに位階関係にある。位階を超えず、一階の相互関係内では形式論理が成り立つ。
[1087]
科学の基本的方法としても、対象の全体と部分の関係は単なる包含関係ではない。全体の変化過程にあって保存される質、あるいは再現される質を部分として対象化する。法則は変化の中にある普遍的秩序形式として求まる。普遍的秩序としての法則に表れる関係形式が形式論理である。形式論理だけによって対象の規定関係が明らかになるのなら、すべての学問は論理学に還元できてしまうことになる。形式論理の成り立つ対象の存在、対象の認識、論理の検証としての実践までも対象とするのが弁証法論理である。弁証法を忌み嫌う科学者であっても、研究全体を見渡す学問の方法として意識せずに弁証法を用いている。
[1088]
【形式論理の境界】
形式論理は意識的思考の主要な道具である。概念規定を保存し、概念関係を操作し、これによって概念を検証する道具である。概念は必要十分に定義されていなくてはならず、時と場合、条件によって規定が変化したのでは論理的に使い物にならない。形式論理は個別論理関係間の矛盾をあぶり出し、そのことによって矛盾がない論理を保証する。
[1089]
形式論理では論理内の矛盾を許さない。「A は A であって非A ではない」。しかし A が A であることは何も意味していない、自家撞着そのものである。恒に定まったままの存在、不変の存在はありえないし、その表現に意味はない。ただ形式論理は意味を問題にするのではなく、規定関係の普遍性、関係の確かさを問題にする。
[1090]
形式論理が論理関係として意味をもつのは、媒介された関係に適用されることによってである。相互に規定関係にある複数の論理関係間に、相互の規定関係に矛盾がないことを示すことである。例えば A が B であり、B が C であるとき、A は C でなくてはならない。B によって媒介された A と C の関係で推移律が成り立ち、あるいは推移律が成り立たない場合の矛盾が意味をもつ。形式論理は対象の矛盾した規定関係を明らかにする。
[1091]
明らかになった矛盾を実在の存在矛盾か、認識過程の矛盾かを明らかにするのが論理一般の目的である。
[1092]
形式論理は対象間の規定関係を形式的に表徴する。諸対象を定義する規定関係の系は閉じて、内部矛盾がないことを形式論理は保証する。しかし、諸対象を定義する規定関係は閉じてはいても孤立しているわけではない。諸対象を含み、諸対象を規定している全体、他によって規定されて対象としてある。他による規定によって区別され、区別されることで内部規定関係が閉じる。関係が途切れて閉じるのではない。関係はあって区別されることで閉じる。関係しつつ閉じた規定関係系として個別性があり、個別性として閉じ、存在としては開いている。でなければ存在秩序は崩壊する。こうしたことが成り立つのは対象が媒介されて個別存在としてあるからである。形式論理はこの閉じた個別性を規定する関係系内の形式を対象とする。
[1093]
個別性は対象とする階層ごとにそれぞれ区別されてある。それぞれの区別として相対的である。クオークの個別性から宇宙の個別性、個人そして、地域社会の個別性から人類としての個別性まで。多様な階層での相対的個別性があり、それぞれの規定関係で個別として区別される。同時にそれぞれの個別性として区別される規定関係系が存在としては開いた関係であり、個別性の閉じ方も相対的である。この個別性の閉じた規定関係の外の論理と内の論理を媒介する関係が弁証法である。
[1094]
【形式論理の形式】
形式論理のうち、古典的論理は概念間の論理的規定関係を対象にする。概念は対象の性質として普遍に規定されてしまっていることが前提される。したがって、古典的論理は概念自体の発展を問題にしない。この「概念の発展」は対象の理解が深まってその規定がより現実的になることではない。概念規定そのものによって、その規定関係が変化することである。形式論理では規定は不変でなくてはならない。
[1095]
形式論理での定義された概念は不変であり、変化したのでは論理での概念の用をなさい。定義された概念の相互の関係であるから、関係を演繹的に、帰納的に操作しても関係の体系は変化しない。概念が定義され、論理が定義され、定義されたものはいつどこでも同一の関係を表す。組み合わせによって関係が変わることはない。論理操作によって変化しない体系が論理である。形式論理には恒真性があり、トートロジーが成り立つ。論理操作によって論理的誤り、論理的欠陥が明らかになる。論理的拡張によって対象を予測することができる。
[1096]
ところが形式論理では抽象概念も具象概念も区別できない。形式論理ではすべての対象概念を一元的に扱うが、現実には対象は異なる次元、位階の性質をもっている。現実の個別対象は扱う人によって、場合によって対象化される規定が異なる。「意味は文脈に依存する」と言われる。一つの学会、分野内では明確に定義された「用語」も、隣接する別の学会、分野では別の側面の意味になる。
[1097]
述語論理は要素・集合関係としての対象間関係の形式を取り扱う。任意であっても一意の規定によって定義された要素を対象にし、異なる要素間の関係を集合として関係づける。述語論理は集合論で表せる。述語論理では対象間の関係を集合要素間の対応関係、写像として、関数として定義し、表現する。
[1098]
述語論理では要素間の作用は捨象される。要素・集合としての概念は現実の対象から捨象される。述語論理での概念は関係の関係であって現実の変化には関わらない。現実と関わらない不変性、永遠性が形式論理の一つの有効性の基礎になる。関係の関係であるから関係を担う媒体には関わらず、関係を記号間の規定関係として表現することができる。
[1099]
記号は信号によって表現できる。形式的操作は信号の変換として表現できる。信号間の関係は信号媒体に依存しない。述語論理はコンピュータによって演算として処理することができる。演算速度はコンピュータの発達と共に速くなる。
[1100]
【形式論理の帰結】
古典的論理は定義された概念の関係を明らかにする。しかし、それは対象の関係ではない。実在対象に論理を適用するには、定義において対象概念の厳密化に要したのと同じ厳密性で対象と概念の関係を逆にたどらなくてはならない。
[1101]
古典的論理によって対象は定義された概念として関係し、関係の連なりをたどることができる。しかし、対象の構成する関係は定義し尽くせていない。対象は定義された概念としてだけの存在ではない。未定義の性質、そしてその未定義であることを明らかにすることに古典的論理の有効性がある。にもかかわらず、定義できた概念と、概念間の関係のみで対象を理解、把握できたとして思考停止してしまうのは誤りである。一つの閉じた論理系が成り立っても、その関係系だけで存在は成り立ってはいない。一つの閉じた系として関係系が成り立つとするなら、それは世界全体の系に他ならない。
[1102]
まず、運動は相対的であり絶対基準はない(相対性原理)。対象の複数の関係は原理として同時に確定できない(不確定性原理)。また3つ以上の対象間の関係を定式化できない(三体問題)。形式的規定関係では物理的有り様も論理として規定しきれない。さらに数学的にもゲーデルの不完全性定理が形式論理の限界を示している。生物、社会、文化の階層では非論理的歴史的偶然も前提となって物事が決定されている。これらのことから、論理的に規定できない存在を否定したり、規定できない認識能力を不完全なものと解釈する可能性がある。形式論理は関係表現の一つの方法であって、実在の有り様、認識能力は規定関係の表現方法に関わりなくある。
[1103]
ついで、対象のすべてを観測できない。量的にもすべてを観測することはできない。論理的にも観測自体観測過程に媒介されており、観測過程自体の時空間的、物理的制約がある。さらに観測者自体を同時に観測することはできない。
[1104]
最後に、実験、観測資源は有限である。計算資源も有限である。高エネルギー実験等はより大きな設備、エネルギーを必要とするようになってきており実験環境、資源には限りがある。人類学では対象社会が次第に消滅し、一様化に向かっている。観測できた範囲内であっても、データ処理には一定の時間がかかり、観測結果を利用するまでの時間制限に対応できる保証はない。
[1105]
形式論理はそれぞれの論理系の議論領域を明らかにし、その中での無矛盾性を追求する。議論領域を対象に重ね合わせる時には対象の反映過程を反省しながら無矛盾性を保存しつつ、概念の定義と概念間の規定関係が対象と対応しているかを検証する。論理系の無矛盾性が論理への反映過程操作や、論理の対象への重ね合わせ操作で破綻したのでは、対象に内在する矛盾であるのか操作による矛盾であるのかが不明になる。対象を概念として定義するには、対象の選択判断が相補的に必要であり、その判断基準は実践的課題による。
[1106]
科学知識の到達点としての限界だけではなく、形式論理の制限を超えて実在世界の有り様をとらえ続ける。超えるに際して形式論理を否定するのではなく、対象の規定関係を時空間的一面に精確に反映し、保存する道具として利用する。保存した概念規定関係から可能性を推測する。限界を超え、可能性へ敷衍した普遍性において対象化する。
[1107]
第4項 論理の展開
【対応関係】
結局論理は秩序関係の形式である。関係形式の基本は写像として一対一対応から始まる。同時に一として他から区別する個別性が抽象されている。他と区別され、全体で区別される存在単位間の関係である。
[1108]
対象間の関係、対象と概念の関係、概念間の関係。いずれも一対一の関係が定まらなくては論理は成り立たない。論理は「ひとつ」として括る対象化に、個別性の規定に依存している。複数であっても括ることで個別として対象化できる。括ることのできる個別性が前提される。
[1109]
一対一対応の否定は不存在である。数の表記では「1」に対する「0」である。個別性の否定としての不存在である。集合での空集合であり、要素をもたない集合の存在である。数表記での桁は数のあるなしにかかわらず普遍的にある。対象の存在否定ではなく、他と区別される関係での否定であり、そして不存在であっても表象できる。対応関係はありながらも対応がない不存在であり、対応関係そのものがなければ非存在である。
[1110]
一対一対応では個別として区別するもの、多様な質を持ちながらもひとつの質として他と区別される抽象的存在を単位とする。個別として他と区別される、全体の関係形式で区別される単位存在である。捨象による存在の措定である。
[1111]
数学の集合論で扱う思考概念としての集合ではなく、対象を区分する実在規定としての個別集合では、ひとつの質で区別される個別と他の質での区別される個別との対応関係形式として集合関係がある。個別相互を区別する多様な規定は捨象され、ひとつの質、規定によって対象とされる。日常経験でもミカン集合は無限集合から選択された集合ではなく、「店先の」「食卓上の」等既にまとまりとしてある関係を対象にする。当のまとまりとしてあるミカン要素を対象とするのであって、色の違い、甘みの違いはここでは捨象される。同様にして規定されるリンゴとの写像関係として集合間が関係づけられる。同じ数なら好みで、価格でどちらを買うかが問題になる。さらに同様に規定される食べる人との対応関係で過不足を問題にできる。日本や世界の人口と店先、卓上の果物との対応関係は問題にならない。実在の対象としての集合は要素によって構成されるのではなく、既に集合として他から区別されてある。
[1112]
個別性規定は対象の定義規定ではなく、存在規定である。個別性規定は概念を定義するのではなく、区別される存在関係を定義する。概念の定義は個別ではなく普遍性の規定である。存在対象が個別として区別されるから他との対応関係を対象にすることができる。
[1113]
【置換法】
置換は一対一対応関係にあって一方を他に置き換える。置き換えても関係が一定であるなら、関係が保存されるなら、置き換えられたもの同士は同じであり、同時に関係は普遍的である。関係が一定であること、関係が保存されることは一対一対応関係の他との連関関係に変化がないこととしてある。一対一対応関係は置換によって当然に変化する。その対応関係の他との連関関係に変化がないから、その連関関係で対象となる対応関係を知ることが可能であり、その結果に変化がないことを確認できる。
[1114]
対応関係が普遍的であることを示す関係が一定であること、関係が保存されることの判定は関係の形式によって多様である。置き換えが一般的であり、操作可能な一方を取り除き、他のものをはめ込む。置換の前後が区別できないことによって置換が成り立ち、置き換えられたもの同士が同じであることになる。
[1115]
重ね合わせは置換の特殊な方法である。単に重ね合わせただけでは重なり合っているかは判断できない。一方の上に他方を重ねて余分がないことを確かめるだけではなく、さらに上下を変えて重ね合わせて余分がないことによって重ね合わさることが分かる。この上下の区別は区別を表すためであり、互いをそれぞれ基準にすることの意味である。
[1116]
計量はさらに特殊な置換法である。一方を基準にして他方の分割可能な単位で加えるなり、取り除くなりして同一である量を量る。判定法は基本的な置換と同じである。
[1117]
置換によっって、置換される諸個別対象、諸部分が同じであることはそれらの対称性を表す。置換によって個別間の対称性を検証することができる。対象個別を他の個別と置換することで個別間の対象としての対称性が明らかになる。規格にあった部品は同じである。単純労働者は交替可能であるから、団結しなくては立場を守れない。労働の単純性は交替可能性と並行しており、生産関係の発達に連関して変動する。
[1118]
置換の「他」であるところに飛躍がある。「他」が量の違いであるなら、その対応関係が保存されるなら、この対応関係は質の普遍性を表す。「他」が質の違いであるなら、異なる質間での変換による対応が保存される関連として対象の諸性質が明らかになる。多様な質間での対応関係の保存として対象の個別性が表れ、種類を区別する基準となる。
[1119]
対象間の置換によって保存される関係と保存されない関係として秩序を探る。対象の多様な他との関係、その関係を置換することで関係間の相互関係を探る。他との関係間の関係として対象の秩序が表れる。
[1120]
変化の可能性はそれぞれの状態を「値」として量的関係に置換できる。量的関係ではそれぞれ可能な値が定まる。値は可変なものとして「変数」に置換できる。置換による対応が保存される範囲としての閾値も対象によって定まる。一方の値の置換と他方の値の置換の対応関係の保存として写像関係が定まり、関数として、グラフとしても表現される。変数間の関係は「関数」として形式化できる。関数間の関係を構造化したものとして「モデル」が組み立てられる。モデルによって対象をシミュレーション(模擬試行)する。
[1121]
対象の量的関係には置換のできない量もある。関係にあって一定の値で関係を規定する定数である。定数は存在関係の秩序を現している。自然定数は世界の秩序の物質的基礎を表している。定数がどれほど普遍的であるかは、定数との関係にある値の置換が当の関係を保存する範囲として明らかになる。
[1122]
「ことば」、一般的には記号による「置換」、この「置換」が関係形式を損なわずに、置換してえられる多様性が論理を発展させる。置換としての連想を繰り返すことで新たな連関を発見する。量的置換が質的発展に転化する。「ことば」は意味の媒体として、置換によって多様な表現を可能にする。ことばでは自己言及も置換として表す。ことばの多様な、豊かな表現可能性はことばの置換可能性としてある。置換することによって豊かさを一つの貧弱な表徴にしてしまうこともある。ことばによってあらゆる説明が試みられる。「言葉では表せない美しさ」としてすら表現する。
[1123]
置換されるものと、置換する場との関係が置換の論理を表す。
[1124]
AはBに置換可能であるなら A=B、
また、AがCに置換可能ななら A=Cである時、
問題はBとCとの違いである。B=Cがまさに「イコール」でるならBとCとを区別することに誤りがある。単なる「イコール」ではなく包含関係、関数関係、質の抽象度の違い等、いづれの関係であるのか。どの「様」な、どの「程度」なのかが関係の成り立ち、秩序としてある。Aを媒介にしてBとCの関係が規定され、BとCの関係規定としてAの二面性が明らかになる。
[1125]
この「置換」する対象の差の、違いの大きさが、抽象度の違いであり、考えの飛躍度合、ひらめき度合、頭の回転度合である。対象理解の広さと深さといった思考の静的豊かさとは別の、思考の動的能力である。
[1126]
【変換法】
対応づけで区別される対象は変換が可能である。変換によって個別の対称性を求める。変換基準、対称軸として何があるか。変換によって何が変わり、何が変わらないかによって対象の性質が明らかになる。変換によって個別対象自体の性質、個別性、他からの区別を明らかにする。対称性によって対象個別を形式的に、客観的に認識することができる。対象の反映としての表象を対称性によって区別し、変換することで対象の部分の違いを明らかにし、構成要素を捨象する。さらに変換基準、対称軸が対象個別にいくつ、どのように組み合わさってあるかが対象個別の性質を表す。置換が対象個別間の対称性を求めるのに対し、変換は対象個別自体の対称性を求める。
[1127]
変換の仕方によって対称性が保存されたり、破られる過程を推測する。変換の仕方自体が区分される。日常経験の四次元時空の世界での変換の可能性、対称性には並進(ずらし)、回転、鏡映、映進(ずらし鏡映)、螺旋が区別される。
[1128]
変換は対称性の保存と否定としてある。個別対象の多様な対称性のいくつか、通常は一つを否定することが変換である。他に対する個別の規定は他に対する区別であるが、個別自体では区別されない対称性にある。変換に対して保存される性質が対称性であって、変換は特定の性質の不変性を試す。従って逆に対称性を否定する操作、試みが変換である。この否定も「無」にすることではなく、他の対称性の保存が試される。特定の対称性の否定によって他の対称性の保存のされようが、あるいは否定のされようが変換によって試される。対象のすべての対称性が否定されるなら、それこそ対象の否定、無くすることになる。
[1129]
対称性によって対象の形式、秩序が区分される。対象それぞれにいくつかの対称性がある。球には無限の回転対称性があり、正四角形には4つの回転対称性、4つの鏡映対称性等があるように。対称性として変換によって保存される形、質のない対象でもそれ自体の有り様として「自明の」対称性を数えることができる。対称性によって普遍的三角形等の幾何学的表象を獲得することができる。対称性の完全な否定は混沌に至る。
[1130]
【移行法】
論理は定式化されるが、定式化で完了するものではない。「A は B である」と定式化して終わりであれば論理の意味は失われる。
[1131]
「A は B である」ことが持続すること、あるいは「B が C になること」、「A が C になること」がなければ論理の意味はない。変化の中での継続、固定した関係での変化があり、その関係をたどれることが論理の意味である。
[1132]
論理関係の移行は全体の変化の場合と、論理関係の構造化の場合がある。
[1133]
全体の変化は論理関係の移行としてたどることができる。A が B から C になるのは、「A=B」であったものが「B=C」となり、そして全体として「A=C」の関係へ変化する推移律である。二項の等合記号を挟んだ関係構造が保存されて移行する。
[1134]
「AならばB」であり、「AならばC」でありながら、BとCは異なる関係によって構造化する。構造は他に対して異なる複数の関係を保存する。少なくともひとつの共通の項を介して異なる関係が関係する。少数の項関係では演繹を分岐構造として形式化できる。形式化できた範囲では項間を移行する手続きを定義できる。二分検索木としてプログラムできる。分岐規則がすべての分岐で守られて関係系は整合し、項間の移行が保証される。しかし、すべての対象を一つの分岐規則で体系化することはできない。分岐規則の有効な範囲で形式的関係規定が表現され、項間の移行が可能である。
[1135]
構造では関係が区別されており、関係していることだけによって移行はできない。構造は対称性によって区分され、現実の秩序も実現されてきた。対称性の破れには偶然が関与している。関係の連なりを論理的に移行することで対称性の破れが明らかになり、破れによる新たな対称性の構造を探求することが可能になる。
[1136]
構造では順序の違い、配置の違いによっても質の違いが実現する。規定関係の違いを順序、配置の違いとして表現することができる。行列式では配置ごとの関係で演算規則が定義される。同じアミノ酸分子も立体構造の左右配置の違いで物理化学的性質が異なる。
[1137]
構造にあっては関係のあり方で質・階層が異なる。論理は構造化した異なった関係間をも移行し、たどって全体を明らかにする。
[1138]
【帰納法】
対象間の関係が普遍的であれば、すべての関係をたどらなくても全体を明らかにすることができる。
[1139]
一般に事例から共通の性質を抽象することが帰納である。事例の対象は共通の性質によって定義される。経験的に対象化できる事例は限られている。限られた事例から普遍的性質を捨象することに帰納の意義がある。事例が限られていることによって捨象される性質の普遍性は絶対的ではない。例外が新たに見つかることによって定義は否定される。しかし定義は否定されるが性質の普遍性は否定されずに制限されるだけの場合もある。少数の事例から捨象される性質は偶然に共通であったなら、例外によって普遍性は当然に否定されるが、多数の事例から捨象される性質は少なくとも数多性としての普遍性がある。多数の事例から捨象される性質は統計的に有意であり、例外は普遍性を否定するのではなく制限する。少なくとも統計的帰納によって求められる蓋然性は、日常的には普遍性と等しい。
[1140]
帰納であっても事例の対象化は捨象としてある。対象化は無作為ではない。他と区別する基準によって捨象する。基準が帰納する性質であるなら、帰納による定義の普遍性は対象化によって既に保証されている。「スワン」の色を問題にするとき、既に白鳥を対象に他の鳥から区別している。基準が帰納する性質と異なるなら、基準となる性質と帰納される性質との相関が必然であるか偶然であるかが、規定関係があるかが問題にされる。対象の実在から切り離された論理は、まさに形式的関係の、観念としての論理である。
[1141]
事例がすべての対象を取り上げることができないとして、帰納による定義を論理的でないと否定する者がいる。すべてを対象にすることなど人間にはできない。特定の対象の規定性を明らかにするのが論理である。特定の対象化基準と、対象を定義する性質との相補的規定関係を論理は扱う。
[1142]
【類推法】
類推は未知との遭遇に対する方法である。未知に対し、既知の理解を重ね合わせ、既知との関連を見いだす方法である。すべての物事には関連があり、普遍性があることを前提にしている。類推を方法として確立するには一般的関連を理解し、物事の普遍性と特殊性の関係を理解することにある。
[1143]
類推の方法としては形式の相似を発見することと、相似な形式間の対応関係を発見することとしてある。形式の相似の発見は媒体の違い、環境条件の違い、偶然の作用にもかかわらず秩序の発現形態に表れる形の規定である。形は図形としてだけではなく、他との区別として個別性の表象である。表象としての物事を見分ける能力は、生物進化の過程で獲得され、それぞれの成長過程で訓練してきている。それを意識的に対象化するのが思考である。形式間の対応関係は時空間を隔てて表れる形を見比べることである。提示されてしまえば比較は用意であるが、時空間を隔てた形の比較には分類と記録と検索が不可欠である。記憶と想起の能力、技術、経験によって類推は可能になる。
[1144]
類推の前提になる秩序とその実現形態である個別性の分類基準は対称性である。対称性の保存と、対称性が破れて現れる新しい対称性、さらにその対称性間の関連が分類基準としてある。また対称性が破れる際のゆらぎ、環境と偶然によるゆらぎを配慮して類推は可能になる。
[1145]
類推はヒトの認識の基本的な機能である。日常経験に基づいた動作原理、思考様式として類推は訓練されている。経験の場、実践過程ではすべての対象は未知の存在として現れる。次々と現れる未知の表象を既知の対象として類推することで無意識のうちに把握している。無意識に、当然のこととして対象を認識する類推であるから、客観的過程として解析することが困難であり、ましてロボットの認知能力として実現することはさらに困難である。逆に日常経験に基づいた動作原理、思考様式であるかのように提示されると、提示されたままに対象を受け入れてしまう。人工知能とまではいえないプログラムであるイライザを相手にして会話に夢中になる人がいる。自らの動作原理、思考様式と同じ対象には感情移入が容易である。会話内容に関わりなく、仕草をまねして会話することによって賛同を得やすくなると言う。情報システムでは日常経験に基づいた動作原理、思考様式を実現するマン・マシン・インターフェースにその資源の多くを費やしているし、介護システムの使いやすさはそこに最大の開発目標がある。技術的には動作に対応した形状にすることや、形式の統一、表現の統一によって類推はしやすくなる。ユニバーサル・デザインとして、印象から機能を類推できる設計技術が今日の課題になっている。
[1146]
だからこそ、日常経験に基づかない動作原理の機械やシステムに対してとまどう。「機械音痴」と呼ばれる症状は、日常経験にない動作原理を理解できないことによる。非有機体である機械の動作原理、設計原理を理解しようとしないことで「機械音痴」は発症する。自分とは異なる動作原理、思考様式を理解するには経験とともに、反省が必要である。異なる動作原理、思考様式を経験し、知るとともに、それとの対比として自らの動作原理、思考様式を反省する。できあがった安定した社会制度では未知との遭遇はまずなく、失敗経験をすることも少ない。失敗した経験もない成功者が、反省経験のないまま社会の指導的地位につくことは危険なことである。
[1147]
【探査法】
思考は失敗が当たり前である。本来の失敗は取り返しのつかないことである。様々な可能性、方法の試行、限りない繰り返しによる思考が成功へ導く。
[1148]
認識においても、行為においても、実践においても多様な、限りない試行の繰り返しが必要である。感覚能力を獲得する生長過程でも、直立歩行への生長過程でも、学習、実践すべての過程で試行は繰り返される。休む方が良いようなアホな考えも繰り返されることによって、方法、適用力を発達させ、対象の豊かなイメージを獲得し、本質を把握し、確かな現実をとらえることができるようになる。普遍的な世界理解のうちに個別対象を位置づけ、他との、全体との関係を明らかにすることとして対象探査はある。
[1149]
直感の鋭さ、直感の到達距離は試行の繰り返しによって訓練される。個人的に、あるいは世間では確定したことであっても、改めて繰り返し試行することによってやり遂げる能力、意志、見通しが訓練される。できないことをできるようにするのが訓練である。思考の場合も同じである。それが教育課程で必要なことである。用意された答えを覚え、できあがった人間関係をまねる、装うことを強いる教育など教育ではなく、飼育である。
[1150]
第2節 思考表象
反省によって構成される論理関係がある。構成する論理関係によって、それぞれは思考表象として描かれる。
[2001]
第1項 具象と抽象
具象と抽象は存在についてではなく、表象の違いである。主観が認識する表象は対象を反映して再構成されている。具象も抽象も認識対象として実在するのではない。具象と抽象は表象の反映表現として存在する。反映の違い、再構成の仕方の違いとして具象と抽象は区別される。具象も抽象も表現としての存在は媒介されて実現される。
[2002]
【個別と具象】
日常経験の対象存在は多種多様な相互作用をしているが、そのそれぞれを個別対象として反映する表象が具象である。具象は表象として主観のうちに対象からは独立して存在するが、対象との対応関係は保存されていて具象は個別対象と重ね合わせることのできる表象である。客体としてある個別対象との対応関係を辿ることのできる具体的表象として具象される。したがって具象は非本質的な関係をも反映しているが、それだけ現実的で豊かな関係にある。
[2003]
しかし、認識であるから個別対象のすべてを反映することはできない。日常的対象はいかに身近にあっても、その分子構造や原子構造を具体的に対象化できない。人の仕事や夢も、自分の仕事ですらすべてを理解できることではない。「具象」と言っても相対的な、主観による対象化の程度で規定される。主体が対象化する個別のいくつかの面が表象として再構成され、具象される。具象の程度を規定するのは主体と対象との関係である。主体と対象との相互作用を主体にとって必要十分に反映する表象が具象である。必要十分であるかは対応関係を辿れることで保証される。具象は対象化されない、できない他である部分との連関、全体との、全体としての連関にも連なっている。主体の対象として個別の具象が表象されるのであって、具象は普遍的認識である科学の対象にはならない。
[2004]
【個別と抽象】
他から区別する規定としての表象が抽象的個別である。抽象は対象が個別として他から区別される規定である。本質の表象が抽象である。抽象は他との関連で区別された表象であり、主観が直接対象にする表象ではない、反省によって獲得される表象である。抽象された表象はその個別対象と直接の関係になく、それだけでは現実的ではない。抽象は個別対象と直接関係しない反省による観念表象であるが、具象に重ね合わせられて、個別対象の区別と同定の基準になる。抽象的表象は概念、理念として形式を整えられる。
[2005]
多種多様な相互作用としてある存在の個別性を抽象する。存在を他から区別する根拠規定を取り出す。多種多様な相互作用規定の偶発的関連を捨象し、必然的、本質的規定によって存在を他から区別する。必然的、本質的規定として個別存在の普遍性を表象する。抽象された個別は普遍的表象である。
[2006]
対象の個別性を「個別」として対象化した表象も非常に抽象的な概念である。もともと「個別」は最も具体的な抽象的概念の一つである。それぞれの個別は外部対象に対応する感覚表象として認識され、反省することで感覚対象を知覚表象として統合している。知覚としての表象は個別であっても抽象化されている。知覚表象を全体のなかに位置づけ、関係を明らかにした表象が抽象である。
[2007]
芸術は個別作品として、具象として存在しているが、表現内容は抽象的である。どのような具象作品であっても作品化は抽象化であり、作家の意図を表現するのであって、対象を表現するのではない。作品媒体は具象であるが表現は抽象である。数学は秩序の抽象的形式を対象とするから文化が違っても、数学的真理は普遍的に認められる。数学の規定は証明した数学者に依存しない。芸術作品は抽象を表現するが、表現媒体が具象であるため、創作者、演者に依存する。数学も学ぶ段階では教授者に依存する
[2008]
【個別的・実体的抽象】
個別的抽象は個別として区別されるが、感覚対象を超えた抽象である。感覚を超えていても実体としてある抽象である。私、あなた、我が家、我が社、我が国等々は実体的抽象である。感覚的に表象することはできないが実体として個別的にある。姿や構成員等の、あるいは何らかの象徴によって表徴できるが、それを超えた実在である。構成要素としての存在を超えているが、他から区別される個別性は超えてはいない。それぞれの個別として実現し、他と区別することができるが、具体的対象として操作等、扱うことはできない。
[2009]
個別的抽象は日常経験の対象でもありながら、その存在関係を超えた関係で存在する。日常経験の対象は主体の対象表象として認識されるが、その表象を反省することで実体的抽象、その本質が認識される。個別的抽象はその存在媒体によって規定し尽くすことはできない。
[2010]
【普遍的抽象】
個別性を超えた抽象として普遍的抽象がある。個別間の関係は個別的抽象にとどまるが、関係の関係は個別性を超える。個別性を超えていながら、個別の有り様を規定している実在である。
[2011]
普遍的抽象的実体はより基本的存在によって媒介されている。媒体によって存在を実現していることは絶対的である。実体は媒体であるより基本的存在によって存在を実現しているが、媒体によって存在の本質を規定されてはいない。実体を実現する形式も媒体によって規定されているが、実体としての規定はより発展的存在のあり方自体によっている。
[2012]
この抽象的実在の枠組みにおいて、より発展的実在がより基本的実在に作用することができる。上部構造は下部構造に媒介されている。上部構造は媒介されている関係において下部構造に働きかけることができる。
[2013]
生命も実在である。生命の物質的基礎である生理化学反応系は、個々の化学反応の寄せ集めとしての物理的関係ではない。反応環境自体が酵素を触媒とした特別な生物環境である。そして生物的環境は、偶然の寄せ集めではなく、組織された環境である。生命は単に物理的な実在ではなく、物理的実在を基礎とする生命としての実在である。生命は物理的実在よりも抽象的実在としてある。物理的過程だけで生命を説明できないからとして、生命は物質とは異なる存在であるとしたり、生命は主観の勝手な解釈であるとするのは誤りである。
[2014]
生命を超えて社会、文化も普遍的抽象である。歴史的、地理的に区別することはできるが、その全体としてもある。様々な事象を含み、超えた普遍性としてある。作られた制度や組織、作品によってその一部の一面を表徴することはできるが、その全体は抽象によってしかとらえることはできない。したがって抽象してしまえば一つの表徴で表すことができるが、その内容をどれだけ豊かに捉えているかは抽象力とその訓練による。
[2015]
より基本的存在はかえって具象として現れない。分子ですら感覚器官によって直接観察、表象をえることはできない。ましてや原子や陽子、電子にいたってはなおさらである。より基本的存在は実在的抽象として表象される。ところがクォークともなると分離もできないで抽象的関係だけで実在であるとされる。
[2016]
【形式的抽象】
実体的抽象に対して、反省による抽象として形式的抽象がある。対象の存在ではなく、存在の表れとしての表象形式である。対象の他との連関関係、数、論理等が形式的抽象である。
[2017]
形式的抽象はまずは秩序形式=パターンとして認識される。形式秩序を反省することで形式的抽象は対象となる。形式的抽象は他との一般的関係形式であり、普遍的形式である。形式的秩序は実在の保存される規定と、保存されない規定との関係として表れる。対称性とその破れとして、対象表象を変換操作してみることで確かめ、区分することができる。形式的抽象は認識によって実在性を表す。観念としてのみ存在するのではなく、秩序形式として客観的に表れる。
[2018]
名前は「虚数」であっても自然数との関係のうちにある。虚数がとらえどころがないとするなら、実数であってもすべての桁をとらえることはできない。自然数も無限を含む。虚数も実数も自然数も演算可能な関係にある。
[2019]
【抽象と捨象】
抽象は特定の質を対象化することであり、同時に他の諸性質を非対象化する捨象である。したがって、抽象と捨象は認識過程における対象処理の表裏をなす相補的関係にある。
[2020]
しかし、対象化する質によって結果は異なる。対象の複数の質間に相互規定関係がないのであれば、問わないのであれば抽象して対象とする質と、捨象して対象とする質は同じである。抽象は本質を対象化する。抽象は対象の本質による他との関係を対象にする。これに対し、捨象は主観による規定であり、他との関係での任意の質を対象化する。捨象は対象の任意の他との関係を対象にし、その他の多様な関係を捨てる。捨象は本質に関わりなく特定の質を対象化する。捨象はフィルター一般として機能する。
[2021]
抽象は全体を反映するが、捨象は部分を反映する。抽象が本質を対象として、本質であるから対象の全てを取り込む。捨象は任意の質を対象化するもので、その質が全体を規定するものであるとは限らない。抽象による表象と捨象する表象とは一致するとは限らない。
[2022]
【抽象と位階】
抽象を対象とする観念は中枢神経系を中心とする(他に体内環境も影響する)活動を物質的基礎としてある。中枢神経系の生理的活動は、抽象的運動の方向づけなしには成り立たない。主体は対象化するものとしての指向性にあり、それが抽象的運動、抽象化の方向性である。主体の方向性は主体自体の抽象性によって抽象的である。抽象は観念のみの存在ではない。
[2023]
観念自体抽象的であるから、対象の抽象的実在を反映できる。具象的なものは具象的なものしか対象にできない。さらに観念は抽象的実在を離れ、形式的抽象の論理によって、実在から切り離された抽象的観念も扱うことができる。実在を反映しない抽象を観念は創出できる。
[2024]
「関係の関係」「関係を超える関係」は集合と要素、全体と部分の関係と同型にある。集合は集合の集合として要素になり、要素は集合を構成する。全体の全体として相対的全体は部分になり、部分は相対的全体として全体で区別される。超える関係次元によって区別はされるが、関係規定は保存される。階層関係とは異なる抽象的位階関係としてある。検証自体が実在過程にしかありえないから、超えた関係での規定を直接検証することはできないが、この超えた関係規定が否定され、保存されないようなことがあれば超えられる関係も成り立たなくなる。超えた関係も空想される関係ではなく、実在の規定関係を表している。
[2025]
変化率としての速度は、その変化率である加速度によって規定される。速度、加速度を規定するのは相互作用関係であって、実在の運動過程を表している。速度だけが実在の運動形式であるのではなく、加速度も含めた運動形式の関係がある。
[2026]
関係の関係、位階関係をとらえることは思考の重要な、基本となる機能である。全体性、普遍性、一般、抽象、そして本質は位階関係での対象把握である。生理的認知機構、認知過程でも位階関係で対象を認識している。認識を実現する主体にあっても、位階関係を階層構造として実現することで、中枢神経系は神経細胞の発火、興奮という同じ生理的活性過程でありながら、多様な対象を区別して認識し、思考することができている。
[2027]
第2項 内容と形式
個別として他から区別される表象に内容と形式が表ある。個別規定の実現が内容であり、他との連関の表れが形式である。内容は個別の自律規定であり、形式は対他関係規定である。形式は外形としてだけでなく、個別の内形としても表れる。
[2028]
【内容と形式の関係】
個別を構成する相互作用は、一定の運動として持続するもの、保存される相対的静止でもある。その運動過程が内容であり、相対的静止としての秩序関係が形式である。
[2029]
内容と形式の区別は、一つの存在の観え方の違いではない。質の違いではない。中身と入れ物の関係でもない。一つの存在であるが対象として反省することによって運動過程、存在過程での対立が見いだされる。内容はそのものを実現している運動であり、形式は他に対して表れる作用秩序である。
[2030]
形式は相対関係秩序として内容から捨象される。それぞれの対象の質、内容にかかわらず、相対関係秩序としての抽象的普遍性にある。相対関係秩序である形式は変換可能である。形式は相対関係を保存したまま、移行することができる。だからこそ内容に関わらない形式操作が可能である。関数方程式は中身である数値には関わらず、形式である関数式を変形することができる。形式の変換可能性が、相対関係秩序の保存性が形式と内容の乖離を可能にする。そのために形式は運動から切り離された観念的な変化しない表象と見なされやすい。形式の変換可能性、相対関係秩序の保存による対称性、あるいは非対称性の保存が形式の静的関係、不動の関係として表象される。
[2031]
光の一部の波長は人との関係にあって色彩としてその相対的区分形式を表す。色彩区分は人によって、文化によって異なり、色覚病変も影響する。しかし、区分された色彩の順番や補色の相対関係は普遍的である。
[2032]
ただし、形式は内容から切り離されては意味を失う。形式的操作結果は内容と一体化して対象に重ね合わされ検証される。導かれた方程式の解は解釈されなくてはならない。機械翻訳は形式的変換であるが、意味内容を伴った翻訳を実現するために苦闘している。
[2033]
【内容と形式の乖離】
内容と形式は乖離するから問題になる。運動の止揚過程を内容と形式の乖離としてとらえる。
[2034]
内容と形式は存在のあり方の二面である。内容は形式をともない、形式は内容をともなう。相互にふさわしい形式と内容がある。形式は他との対外的関連の変化に抗して保存される。形式の自己保存は自己再生の不断の動的過程である内容によって実現する。他との相互作用の連関に自己実現するには自己規定を保存する動的過程として内容がある。他に対する自己規定の保存には保守的、静的結果としての形式がある。個別存在は自己を規定することによって自己を実現し、他に対して自己規定を保存する。
[2035]
他に、全体に対して自己を実現し、自己を他から、全体から区別する存在は二重の運動として、二つの方向として運動している。形式として他に対して自己を区別する運動と、内容としてその自己自体を実現する運動である。この対他・向他運動と即自・向自運動は他に対しては一つの個別として実現する。個別存在の生成段階では対他・向他運動と即自・向自運動は形式と内容一体の運動としてある。生成された後、他に対して個別を保存する過程で形式と内容は乖離する可能性が生じる。内容である即自・向自運動が発達する、あるいは衰退するなら形式を維持できないまでになりうるし、逆に形式である対他・向他運動が自己目的化するなら内容である即自・向自運動を疎外するようになる。自己規定として自己実現する存在であったものも、他に対して自己規定を保存するために、自己実現までも規定し、固定する。個別存在が存在し続け、さらに発展していく過程で自己実現と自己規定、内容と形式が乖離、対立する可能性が生じる。
[2036]
生物個体の基礎代謝と運動代謝が乖離するように。餌は代謝に不可欠であるが、餌を獲得する運動代謝が激しすぎれば運動代謝どころか基礎代謝までも破壊する。
[2037]
形式の自己規定の保存が自己目的化することで、当初一体であった内容と形式の関係は乖離し始める。客体の運動過程で「目的」が作用することはありえないが、自己規定が他に対する自己保存としてではなく、自己を超えるまでになれば「目的」を擬制することは保留を付けて妥当である。意思による「目的」設定は主体の自己規定保存経験をとおして獲得された能力である。主体にとってはまさに「目的」として実在する。主体にとって自己実現を規制するまでに至る自己規定は疎外である。意思作用としての自己、目的、疎外を実現する過程は、こうした客体の運動過程を物質的基礎にしている。付ける保留は、客体の運動過程が反省、意識されて「目的」が意思されるのであり、客体の運動過程に意思や目的があるのではない。
[2038]
内容と形式が乖離したままであれば、やがて個別性が消滅する。乖離が対立として止揚されるなら新しい個別性を実現し、発展する。形式は新しい秩序関係形式を実現する。どのような新秩序形式が実現するかは論理だけでは規定しきれない偶然が内容に介入する。
[2039]
【個別の内容と形式】
個別にあっては個別の自己規定が内容であり、他に対する個別規定が形式である。個別が階層構造をなす場合であっても、個別としての内容、形式には階層構造は直接関わらない。個別性についての内容、形式であって、普遍的存在構造は個別として対象化されない。普遍的存在としては内容と形式の区別は現れない。普遍性は他と区別されない性質であり、それだけで存在に現れる性質である。
[2040]
自己規定としての内容は他との継起的関連を超えて再帰する相互作用関連としての新たな、特別な質の実現としてある。他と区別される「新たな」「特別な」質ではあるが、それは反省されてのことであって、他との直接的相互作用過程での区別ではない。他との直接的相互作用過程では、新しさも、特別性もなく他と対称である。再帰する相互作用関連としての質が自己規定としての内容である。再帰として自らの内にあるから直接的規定である。
[2041]
これに対し、他から区別されることとしてその形式は、再帰する系の他との連関にある。階層それぞれで実現される相互作用は普遍的連関にあるが、階層を貫いて再帰して他と区別される個別規定が実現される。個別性は個々の相互作用による区別ではなく、個々の相互作用としては区別されない継起的連関にありながら、部分の相対的全体として他と区別される個別性である。区別されない継起的連関が再帰して相対的全体を媒介することで他から区別される。継起的関連は一方向的規定関係にあるが、継起的関連が再帰することで関連自体を規定する。組織された規定関係として個別の形式が実現する。
[2042]
私を構成する物理化学的過程での継起的連関によって私を区別することはできない。私を構成する物理化学反応に私と他の区別はない。区別を持ち込むことに無理が生じる。私の食べた物はどこから私になり、私の老廃物はどこから私でなくなるのか。生物過程でも私を形成することになった受精卵はどこから私になり、死ぬ私はいつから死体になるのか。法的、社会的、生理的に境界は異なる。労働者として私は与えられた職務を担うが、当の職務は私でない誰かによって担うこともでき、私の前にも担当者がいたし、引き継ぐ者も現れるだろう。私の存在にかかわらず、私の仕事が社会にとって必要であるうちは、私の存在にかかわらず、私の職務は誰かによって担われる。市民としての私は「平等」の選挙権を行使することができる。私にとってこれらの過程は私を構成する不可欠の存在基礎、形式である。しかし私を規定する何物もない。私を規定する、人格を規定するのは私を構成する過程のすべてであり、すべてがひとつの全体として生活していることにある。私を構成するすべての過程の全体が私の内容であり、すべてが一つの人格として他の人格と交わり区別されることに私の形式がある。私を構成するすべての過程の全体が私を実現する過程であり、私を実現するすべての過程で他に対する形式として一個の人格を自己規定する。
[2043]
内容と形式の乖離は、社会の閉塞、腐朽として深刻であるが、個人でも疎外として深刻である。こうした矛盾は弱者にしわ寄せされる。青少年にとって人格を形成する時期にその試行するための環境、条件がない。制度、組織としての形式が固まった、はみ出すことの許されない社会では、内容である人格形成を試行することはできない。
[2044]
【秩序の内容と形式】
秩序は形式である。しかし、形式が単独ではありえないように、形式である秩序は現象過程に現れる。秩序の形式は普遍的であり、秩序は実現することで個別性を現す。ただし、元々どこかに秩序が存在し、その存在がこの世に実現するのではない。存在が運動として実現することのうちに秩序が実現する。秩序のない運動は運動としての形を表さない混沌である。秩序は多様な運動を内容とし、運動の多様性を区別する形式である。
[2045]
秩序は運動にあって普遍的形式を保存し、個別的内容を実現する。秩序は個別の普遍的形式として法則を現す。法則は普遍的形式であるからその関係が量的関係にあるとき数式で表現することができる。普遍的量変化はその形式を関数として表現することができる。個別的量の変化、比較は普遍的単位によって量ることができる。普遍的単位は量の形式的基準であり、量をなす内容には関わらない。
[2046]
秩序は普遍的であるから偶然を貫いて実現される。秩序は偶然を貫くことで修飾され、個別性を表す。秩序に対して環境条件の変化が偶然である。環境条件の偶然にあっても保存されるのが秩序である。秩序は形式としても保存され、内容も保存する。秩序の内容と形式が区別されるのは対象化し、その対象を反省することによってである。秩序を対象化し、法則として表現することで表現形式と、内容である実現過程が区別される。秩序にあっては内容と形式の乖離はなく、秩序が内容と形式とを規定する。秩序には自体の生成と消滅しかない。
[2047]
【運動の内容と形式】
他との関連の変化に対して形式が保存されるのは、存在が運動であるからである。形式は動的でなくては保存されない。形式は型として用意されているものではなく、運動として実現し、保存される。個別の内的相互作用構造は再帰する再成過程として存在し、運動している。
[2048]
全体は他をもたない閉じた系であるから秩序が崩れる過程にある。始めの秩序がどのようにできたかはわからなくても、始めに秩序が無くては今の運動はない。全体の秩序が崩れる過程が全体の運動であり、全体の秩序が崩れることで対称性が破られ、部分の秩序が形作られる。全体の運動は秩序が崩れ、部分の秩序を作ることを内容としている。作られる部分の秩序が全体の、そして部分の形式として表われる。
[2049]
秩序を失う全体の運動に現れる部分の秩序は全体の運動方向に対して自律して保存される。部分の規定がどのようなものであれ、部分の自己規定運動なくしては全体の無秩序化に抗することはできない。全体の無秩序化に抗する自己規定を保存する運動によって部分は個別として存在できる。生物の新陳代謝だけでなく、物理化学的物質存在も日常生活の対象として静止しているように見えても、分子以下のレベルでは常に運動している。しかも不確定な時空間的運動としてだけではなく、全体の無秩序化に抗する方向性にある。全体の無秩序化は一方向的に熱死に向かうのではなく、無秩序化する空間的対称性を破って部分的偏りとして組織構造化している。だからこそ部分が個別存在として存在している。
[2050]
存在の内容として、相互作用としての運動過程があり、運動構造が形式として保存される。保存される形式によって、対外的関連は方向づけられる。相対的全体によって方向づけられる運動部分として運動を方向づける。内容と形式は現実の運動形態として統一されて実現し、保存される。全体の無秩序化の過程で部分の運動が秩序化されることを内容とし、部分間の関係として形式が表れる。運動自体が存在の内容であり、形式を表す。
[2051]
存在・運動の内容は量的増減として表れ、形式は質的変化として表れる。新しい形式の実現、新しい秩序の実現は発展である。質的変化は当然に発展ばかりではなく、秩序の崩壊として形式を失うこともある。秩序、形式が失われても一機に混沌に陥ることはなく、より基本的秩序、形式にとどまる。また、質的発展の過程自体の形式、法則性も現れる。量的変化と質的変化の相互転化を弁証法法則としてとらえると共に、具体的運動過程での内容と形式の変化をとらえる。内容の増減に対する形式化は、形式化のための運動によって実現される。形式化の運動が独自性を強めることは、形式化の自己目的化である。内容は他との連関によって変化し、形式は他との区別を保存する。形式である他との区別によって内容の増減が実現する。他との区別がなければ増減は全体のゆらぎでしかない。他と区別される増減の量的変化として運動はまず現れる。量的変化として形式は一定である。
[2052]
【認識の内容と形式】
認識は対象の内容を直接対象にすることはできない。直接できてしまってはその相互作用はもはや対象の内容ではなく、認識の内容になってしまう。認識が対象化できるのは対象の形式である。対象の形式は対象の媒体によって表現されている。主観、主体自体が媒介された存在であり、対象との相互作用も媒介された関係でしかない。主観は主体によって媒介されている。主体の認識は物理化学的、生物的過程に媒介されている。物理化学的、生物的過程での相互作用を介して対象を認識することができる。物理化学的、生物的過程を対象化することで相互規定関係から対象の関係形式を捨象して、対象の内容を認識する。認識が直接対象化できるのはこの対象の関係形式、対象との関係形式である。
[2053]
対象の関係形式、対象との関係形式を対象として、関係形式の他との違いによって対象を個別として対象化する。個別としての関係形式が諸対象個別間の異同として対象の意味、内容を認識する。内容は変化過程であって、そのものとしてとらえることはできない。変化は前後の形を比較し、または変形過程を追うことで認識することができる。形式を反省することで内容を認識できる。対象の内容は形式として主観のうちに保存されることで認識可能になる。主観のうちに保存されるのは対象の過去の形式である。認識では対象の内容は形式によって獲得されたものであり、対象自体の内容と一致している保証はない。形式化によって対象の普遍性を抽象して本質を認識する。
[2054]
対象の存在内容は普遍的であり、存在形式は個別的である。すべては普遍的であるから存在する。他との、全体との連関として普遍的関係になければ何物も存在しない。普遍的存在が個別として現れるのは他と区別される形式によってである。個別間の形式は個別の有り様を超えて普遍的であるから比較することができる。個別間の空間的形式を体系化するものが幾何学である。存在関係の最も抽象的な関係形式を体系化するものとして数学がある。他のすべての学問も概念の体系として形式化される。認識は対象を表象として獲得し、表象形式を保存するが、主観の外に内容として実在するから対象である。
[2055]
認識した対象は媒体の形式によって表現することができる。表現は形式によって内容を表す。表現は普遍的形式によって対象の内容を意味として表す。個別的形式では個別的指示しか表現できない。普遍的形式によって全体での位置、他との関係として意味・内容を表現することができる。ことば、文字も個別対象の表現から普遍的形式を獲得することによって多様な意味を表現することができるようになった。具象的な表意文字が形式化され、抽象的な表音文字が、記号が作られてきたように。諸芸術の歴史も形式の普遍化、抽象化によって、多様な内容表現を実現してきている。多様な内容表現であっても普遍性を実現しているから芸術である。
[2056]
科学の方法としては内容を規定する形式をより純粋に対象化しようとする。対象とする相互作用関係を単独事象として観察、実験を設定する。偶然の作用が及ばないように工夫し、あるいは逆に偶然の作用を変化させ、変化しない作用を対象化する。
[2057]
内容と形式の矛盾と発展は、形式的固定である認識の基準には対応しない。形式の固定は形式そのものを破壊する。形式は固定化するから普遍性を保存し、機能するが、対象は運動であり変化するのであるから、個別運動の形式は更新されなくてはならない。更新した形式と保存された従前の形式とを比較することで変化を認識することができる。形式の保存と更新が認識の発展形式である。
[2058]
対象の個別比較、時間比較として内容を比較し、形式を比較する。その上で内容と形式の統一として対象の実在性を認識する。内容あるいは形式が一致したからといって、すべてが一致するわけではない。ゲシュタルト図形のように図と地の相互転化が、あるいは視点の転化が生じる。形式を対象化しても認知の内容が勝手に切り替わる。内容のまったく異なる表現が一つの表現形式で実現される。ランダム・ドット・ステレオグラムでも、乱雑な点の集まりのなかに図形が浮き上がる。視線を操作する平衡法、交差法いずれかの形式に通常の立体視の関係形式から切り替えることにより内容としての立体的視覚像を獲得する。認知過程で対象と関わり合うことによって対象は認識される。認知過程では客観は成り立たず、主観的である。認知過程を反省し、形式と内容の対立と統一とによって客観的認識を獲得する。
[2059]
【目的と手段】
内容と形式は実践の問題として目的と手段として現れる。内容は目的であり、手段は形式である。内容、目的は価値であり、手段、形式は器である。
[2060]
目的と手段は当初は分離しきれない、区別できない。始めから明確な目的、確実な手段などはない。実践過程で目的はより明確になり、時には達成されてから目的が明確に意識されるようになる。明確でない目的を達成する確実な手段など、準備のしようがない。逆に意識的、計画的に実践しようとするなら、到達点での手段に応じた目的しか設定できない。解決可能性は手段を手に入れることであるのだから。
[2061]
ところが人は思考することができ、思考の成果を知識として保存し、伝えることができる。目的を体系化して、価値を共有することができる。同時に手段を開発し、利用する。しかも、人は社会の中で生活し、目的、手段を社会的制度、組織としてつくりだす。社会自体が人の物質代謝を実現する制度、組織である。制度、組織そのものは目的と手段を実現するものであり有用である。
[2062]
目的と手段を実現し、獲得することは創造的実践であり、才能と努力を要する。新しいアルゴリズムを開発し、定式化する才能は私にはない。人々を説得し、調整し社会組織を立ち上げることも私にはできない。私にはない才能と努力によって社会の制度、組織は築かれている。
[2063]
ところが、できあがった手段を手に入れれば目的を達成することができる。手段によって獲得できる目的は創造的ではないが、社会的価値を担っている。組織、制度の目的は社会的に共有される価値として評価されている。手段としての組織、制度の整備は利用を容易にする。組織、制度の利用によって目的達成が容易になれば組織、制度の利用自体が価値となり、目的となる。社会的組織、制度を利用することによって社会的価値を獲得することができる。社会的組織、制度を利用することに長けた者が社会的価値を獲得し、評価されるようになる。本来の目的実現が軽んじられ、次なる目標の実現が軽んじられる。社会の成熟による腐朽化が実現する。創られ、見いだされるものであった価値が、消費するものになってしまう。
[2064]
第3項 普遍と標準
【普遍と標準】
対象のもつ任意の性質についての個別存在間の分布関係では、普遍があれば特殊がある。量分布での普遍と特殊は相補的関係である。統計的普遍性である。普遍には価値があり、特殊は切り捨てるべきものという、価値判断とは別の区別である。
[2065]
対象のもつ2つの性質について、その一方の性質を基準に、他方の性質の量分布をグラフにするなら中央の盛り上がった釣り鐘状のグラフになる。正規分布、ガウス分布と呼ばれる。分布の形状自体が確率分布の普遍的有り様を示しているが、頻度の高い中央の値が性質の普遍的量であり、中央からの偏差の大きい離れた部分の値がが特殊的量である。確率分布としての普遍性と特殊性の関係は固定されたものではない。全体の分布が移動する場合と基準となる性質の分布との関係で変化する。
[2066]
全体が移行する場合は移行方向にある特殊はやがて普遍となり、普遍はやがて特殊になる。分布するそれぞれが普遍化、あるいは特殊化することで、分布全体が移行する。あるいは、個々の存在に変化が無くとも対象個々の生成消滅によって全体の分布が移行する。ただし、個々の有り様のより普遍化やより特殊化であるなら全体は移行せず、グラフの形がより尖るか平坦化する。この場合には普遍と特殊の転化は生じない。
[2067]
別の性質との関係では、当初の性質の分布で特殊な存在が、その特殊性を中央値とする別の分布グラフを描くこともある。性質の異なる分布間の関係で普遍と特殊は相互に転化することもありえる。グラフの操作の問題ではなく、グラフに反映される対象、性質の分布状態の違いである。
[2068]
一つの性質だけでなく対象のもつ複数の性質を基準にして分布をとれば、立体的な、さらに多次元の釣り鐘が表れる。人の身長と体重の分布を取ることができるが、さらに座高、肺活量、視力、所得、通勤・通学距離等様々な分布があり、その多次元分布のうちの1点に特定の個人が位置づけられる。特定の個人はいくつかの性質では普遍的であり、いくつかの性質では特殊でありえる。人によってはほとんどの性質で普遍的な人格的に特徴のない人もいれば、ほとんどの性質が特殊な人格的にも特殊な人もいる。この場合の普遍性は人の普遍性、あるいは人格の普遍性ではなく、個人の特性である。
[2069]
統計では普遍性という質的表現はしないで、標準という量的表現になる。平均も標準の表現方法の一つである。平均も表現方法の一つであって、実在の有り様を示すものではない、他との関係での有り様を示す。だから小数点の付いた人数が表れる。
[2070]
【標準の扱い】
一般的に存在にはバラツキがある。バラツキは標準値が最も大きく標準から離れるほど小さくなる。標準値からの距離、偏差値は個々の存在の必然性には関わりない。標準に位置する個別存在が必然ではない。個々の存在の必然性は分布することである。存在を問題にする時、標準のみを対象にしては現実を見失ってしまう。標準の運動は運動のすべてを示すものではない。標準の運動を基準にして、標準から離れた運動を切り捨てることは、全体の存在を否定することになる。標準の運動を現す論理で、すべての運動を代表させることは論理的ではない。
[2071]
同じ家族関係・環境であっても、様々な人間が成長する。「同じ家庭環境の兄弟であるのに、悪事を働いたのは本人だけに責任があることの証拠である」とするのは論理的ではない。何百人かが集えば遅刻者がでないほうがおかしい。何万世帯を調べれば、止まった時計が何個か見つかる。それらをどうするかしないか、それが社会としての施策である。
[2072]
第4項 諸表象
【個別表象】
個別対象として表徴される表象はただひとつである。唯一であり、否定されれば無である。個別性としてだけの表象である。属性はすべて捨象され、個別としての存在としてだけある。
[2073]
個別表象は有無の存在単位である。他との連関、全体にあって、他ではない、全体ではない存在単位である。個別対象は様々な性質、多様な内部構造をもちうるが、その表象は他に対して、全体に対して唯一として区別される。
[2074]
その個別表象は内容をもたない形式によってのみ他から区別される。また偶有性ももたない表象である。したがって、他との関係にあっては同じ形式にあるもの、同じに規定されるものと対称にある。個別性の表象が存在単位として、有無の関係を表す。存在単位での有無が対象の数関係を表す。この個別表象が代数学の対象であり、集合論の空集合である。個別表象として表れる対象が数関係において数えられる。数えることのできる対象は個別として区別できる表象として対象化される。
[2075]
【担体】
個別として表象される対象であっても、他との、全体との関係にあって存在し、実在する。他との、全体との関係を担う担体として個別対象は存在し、実在する。存在し、実在するのは個別性を担う対象である。
[2076]
担体は個別性だけを担うのではない。他と、全体と区別される性質、規定を担う。個別表象は他との区別という形式的関係だけで、内容をもたずに対象化されるが、担体は他と区別される質、規定を担うものとして対象化される。
[2077]
雲は個別表象として、自明なものとしては対象化されない。孤立した雲形をとる場合は数えることは可能でも、雲の個数を数えることにそれほどの意味はない。特徴のある形、色彩として対象化して指示するときに雲の個別性は意味を持つ。美的に、詩的に、あるいは気象状況としての意味を持つ。雲は担体としての規定によって明確に対象化される。雲の担体は液体、固体としての水の大気中での集合体である。気化した水は雲の担体ではなくなる。凝固することで雲の担体になりえる。ただし、量的にどれだけの水滴、氷の塊を雲と定義するかは担体とは別の規定である。表象としての対象と担体としての対象は、他との、全体との関係位階が異なり、意味が異なる。
[2078]
精神的、文化的担体は非物質的とは限らない。原子やクオーク、超ひももそれぞれの質、規定を担っている。さらに担体は実在しない存在をも担う。理想気体や摩擦のない表面など物理的には実在しえないが物理的関係を表象するものとしてある。さらに光の媒質としてのエーテルも担体として他から区別された。エーテル仮説が誤りであっても、光の担体としてのエーテルの追求が光の性質を明らかにした。担体は実在性を離れて、他と区別される性質、規定を担うものとしての表象である。遺伝子も遺伝の担体であるが、遺伝子の物理的担体はDNAあるいはRNA上の塩基配列としてある。DNA、RNAそのものは遺伝子ではないし、そしてコドンも特定のアミノ酸を指定するだけで遺伝子そのものではない。そして「ミーム」も担体としての役割を担う。他との区別が明らかにされない対象は夢想の担体であって、思考の対象にはならない。
[2079]
【表象操作】
他と区別される表象は区別される関係で操作可能である。操作可能であることは関係づけができることである。関係は他との関係であると同時に全体との関係である。
[2080]
表象操作の基本は対応づけである。対象の質、性質を捨象した対応づけの形式は数関係である。人と座席数の対応づけ、食事ごとに使用する食器の組と客の対応づけ、・・・。等の対応づけが成り立たないと数秩序を把握することはできない。対応づけはそれぞれの状況で普遍的に保存される数関係である。対応づけが保証されるから一方の表象操作の結果を他方に適用できる。普遍的に保存される対応関係を表象する媒体として自然数がある。自然数の表記は歴史的文化的につくられた規約であるが、対応づけられる関係は客観的な普遍的な関係である。
[2081]
自然数関係は対象の質を捨象した関係にあるから、個別として区別される対象は何であっても数えることができる。個別として区別する基準はそれぞれの対象に応じた個別科学によって明らかにされる。個別科学によって数える単位が定義される。逆に自然数によて数えることが可能なものが思考の表象操作の個別対象になる。
[2082]
「3までの数しか数えない文化がある」として、自然数の普遍性を否定する議論がある。自然数が社会的に、文化的に普遍的でないことは、自然数の概念が歴史的に獲得されてきたことから確かである。しかし、自然数概念が社会的、文化的に普遍的でなくとも、自然数は数関係の普遍性の基礎をなしている。数関係での普遍性があるからこそ、文化が違っても数関係を学ぶことができるし、自然数を理解することができる。「普遍性」の普遍性を区別しないと誤ることになる。
[2083]
対応づけは質が異なる対象間の関係づけである。まず、一対一対応は他と区別され対応全体にわたる個別対象間の関係である。同一の質としてありながら個別として区別される個別対象と、別の質にあってやはり個別として区別される個別対象との間の一対一対応である。対応づけは同じ質としてあるそれぞれを区別する個別対象間の関係ではない。対応づけの関係では、同じ質にあって区別される個別は対称性にある。互いにどの個別と対応づけされるかは偶然の関係であってかまわないが、重複することなく関係一つひとつが区別される。偶然の対応関係であっても対応づけに違いが現れないから普遍的な関係である。これが男女の対応づけや、腐りかけの混じった果物との対応づけになると個別間に対称性がなく、個別的な対応関係としての問題に転化する。液体であるなら器ごとに取り分けて区別し、対応づけが可能である。気体、液体の量は塊としての個別性ではなく、基準になる計量器によって区分され数えられる。「1+1=1」が成り立つトンチの対象ではなく、個別性の保存される対象間の関係である。逆に区別が保存される関係として、個別性がある。個別対象として区別される表象間の対応関係であって、しかも対応関係としての関係系全体の内に閉じた関係にある。2項間の関係であるが、1つの関係として他と区別できる。
[2084]
他と区別され、その区別関係が保存される存在表象は、表象の形式的操作が可能である。数の操作としての演算も形式的操作の典型である。複雑であっても一定の操作で一意の結果を出すことができるから暗号が成り立つ。表象操作は観念としてだけあるのではなく、信号を媒体にしてコンピュータによっても行われている。
[2085]
【無限の表象】
無限は定義できないものを定義する矛盾をはらんでいる。定義は対象を概念どうしの関係に規定するのであり、他の概念との異同を明らかにすることで対象を限定する。にもかかわらず、無限はその限定を超える対象である。また有限である、日々限界を感じている主観が限界を超えるものをとらえようとする、有限の内に無限をとらえようとする矛盾にある。その結果アキレスと亀の競争に見られる無限小、無限分割の背理=パラドックス、自然数と偶数それぞれを対応づける無限大、無限加算のパラドックスがあらわれる。有限なものがその限定を超える無限を認めることに、自らを否定して神秘なものを認めてしまう契機がある。
[2086]
無限を対象化するには、対象の個別性を明らかにしてすべての個別を区別する形式を明らかにするか、対象を限定してその限界を超える形式を明らかにするかととで可能になる。
[2087]
無限を操作可能な対象にするには操作形式を規定する。何らかの操作、手続きを規定することで無限を対象化する。要素を生成、加え続けることによって、あるいは取り去り、消去することによって、あるいは分割または延長することによって、その繰り返しとして無限を導き出し、与えることができる。無限はまず、1つの個別表象によって規定されて続く1つの個別表象との関係(0+1,1+1,・・・、n+1)に基づいて導かれる。個別を他とそして互いに区別する規定と、諸個別の関係規定の2つの規定として続くものの規定を保存し、続けることで無限に至る。関係規定として保存される操作、手続きの繰り返しとして無限に至ることができる。加算による無限である。関係としての対象全体を限定して、限定を超える無限を含めて捉えることができる。この操作手続きの繰り返しによって無限大だけでなく、無限小にも至る。一定の対象を分割することによって無限小に至る。分割による無限である。
[2088]
対象を個別として明確に限ること、その明確さによって無限操作の確実性が保証される。一つ一つの個別対象の確実さ、その操作の確実さによって無限を規定する。可能的無限といわれる無限である。対象を数として規定することによって無限を対象化できる。無限を直接対象化することはできないが、自然数の規定関係によって無限を対象化することができる。無限の濃度の違いも対象にできるし、無限集合の集合すら対象にできる。順番に並べることに注目するならば、限ることによって規定できる無限に続く数も数学は対象として扱う。
[2089]
対象として限定することで無限を完結させることができる。半直線は無限であるが端点がある。過去は無限でありえても現在は確定されているし、逆に確定している現在から未来は無限でありうる。「全体」という規定によってその否定としての「全体」に含まれないものを規定できる。限定することで超えることが可能になり、超えた位階から反省することによって無限を対象化できる。
[2090]
無限はとらえることのできない表象とは限られない。無限は視覚的に円によっても表徴される。長さは直線によって測られるが円周は接する多角形の辺の長さとして近似的に測ることができる。多角形の角を増やすことにより無限の角をもつ多角形の辺の長さとして円周長を得る。内接する多角形、外接する多角形いずれによっても無限の角をもつ多角形の辺の長さは同じになる。また、有限である線分上の点も実数として無限を表徴している。線分を半円弧にし、円弧に対する直線上の実数点と円弧の中心を結ぶ線によって半円弧上の点と直線上のすべての点とを一対一対応させることができる。曲線の傾きは接線として確定される。
[2091]
表象間の関係を規定することによって無限を規定できる。表象間の関係規定とと無限の規定とは位階関係にある。対象規定と規定を対象化する規定は位階関係で区別される。表象を規定する関係を対象化することによって無限を対象として規定する。日常経験の無限であっても、限ることによって、限界を設定することによってそれを超えるものとして無限をとらえている。限りを設定できなくては無限をとらえることはできない。「とらえる」こと自体、限定することであり、「対象化」そのものである。可能的無限をふまえ一つの対象として現実的無限が対象化される。
[2092]
日常経験的には対象として把握できないほどの大きさ、多さ、小ささが無限である。知ること、確かめることのできる限界、定めることが可能な限界を超えるものを無限と表現する。したがって日常経験的に無限と感じる対象も「限り」が把握できないだけなのか、「限り」が無いのかを思考し、対象に働きかけて検証しなくてはならない。物理学ではこの宇宙ですら大きさに限りがあり、小ささにも限りがあるとしている。
[2093]
そして無限は無規定ではなく、規定に基づいて現れるのであって、「無限」であることはすべてを含むことにはならない。自然数は無限であるが、負数すら含んでいない。質については「無限の多様性」と言われるが、質の多様性として無限であることは実証できていない。量関係のように質間の関係規定を導き出すことができない。相互作用の対称性の破れは偶然であり、対称性間の規定関係を定式化できない。
[2094]
無限は不確かなとらえどころのないものではない。関係さえ規定できれば確定される。円周率πや自然対数の底eは無限小数で表されるが、各桁の数は定まった値をとる。これら無限小数を書き表すことは不可能であるが、値が定まっていることは確かなこととされる。π、eは単に各桁の数が定また値をとるだけではなく、虚数単位iと自然数との相互規定関係がオイラーの恒等式として規定されている。
[2095]
【矛盾の表象】
矛盾は存在矛盾として、認識矛盾として、そして論理矛盾としてある。論理矛盾は思考矛盾である。存在矛盾も、認識矛盾も論理矛盾も思考矛盾として反映される。対象化した思考矛盾は「矛盾」としての表象となる。
[2096]
矛盾の実在性は量子の波動性と粒子性としてまずある。解釈の問題ではなく、運動のあり方、すなわち存在のあり方である。不確定性原理も位置と運動量という存在、運動の基本的規定における対立としてある。日常経験的にも生物の物質代謝は異化と同化の対立と統一としてある。自分自身、自らを反省、否定することによって成長し、自己を実現している。弁証法的矛盾は単なる対立、時間的、空間的に区別されるもの同士の対立ではない。対立しつつも統一としての実在を実現することとして弁証法的矛盾はある。
[2097]
対立する規定関係を超える位階に全体の規定を実現することが対立の統一である。物理的にも媒介されることである。物質代謝の同化と異化、生み出すことと死することを超えた位階で生命を実現する。うつろう対象表象を観念として保存し、対象世界を理解する。この位階を超えて保存することによって普遍性を獲得し、実現することができる。
[2098]
位階を超えることは、昔から悟ることとされてきた。悟って何もしないのではなく、自らを変革し、対象を変革することによって自己を実現し、世界を実現する。
[2099]
【世界の表象】
世界の表象として地球を思い浮かべることも、銀河の連なる宇宙を思い描くこともできる。しかし、思考概念としての世界は客観的世界ではない。思考概念としての世界は主観のうちに反映された世界であり、主観として再構成された世界である。暗い頭蓋骨の中に鮮やかな表象世界が再構成されている。
[2100]
主観は対象を表象として反映し、表象間の普遍的関連として全体を反映する。詳細を具体的に反映できなくとも、全体を普遍的に反映することはできる。主体、主観の対象である、主体、主観を含む全体を普遍的表象世界として反映するのが世界観である。表象が感覚的であるか、観念的であるか、論理的であるかの違いはあっても、人それぞれ普遍的表象世界として世界感を獲得してきている。その世界感を対象世界に重ね合わせて、個別対象を、世界を解釈し、同時に検証している。この解釈と検証が観念的実践である。
[2101]
主観が獲得できるのは表象であり、世界そのものではない。主観は世界で主体の中枢神経系の連関する発火によって媒介され、主体の他との相互作用によって意味づけられている。世界そのものは主体にとって主体の有り様として、主体の対象としてあるのであって、主観は直接世界と関わることはできない。主観は主体の対象との相互作用を介して反映される表象としてあり、その表象を解釈するものとしてある。主観は反映される世界表象を反省することで実在世界を普遍的に理解する。主観同士の間で表象を主体を介して交換することによってより普遍的に世界を理解する。
[2102]
主観の獲得する普遍的世界表象は反省によって構成されたものであるが、その個別表象は主体の実践の場で対象に重ね合わされて検証される。主観の個別表象が主体の個別対象に重なり合い、繰り返し検証されることで得られる感覚が現実感である。現実感は反省そのものではなく、反省によって獲得された普遍的表象が主体の対象に重なり合っていることによる感覚である。主観の表象でしかない世界が、意識がある限り生き生きと主体の対象として広がっている。
[2103]
抽象的全体としての表象にとどまらず、対象に重なり合う個別表象を具体的に他と区別し、関連づけ、操作可能である対象全体に相対する。抽象的全体としてあっても、個別的には具体的に対応できる対象を普遍的表象世界として反映する。未知の事柄、関わり合うことのない物事とも、他を介して相互に連関している全体のなかにある主体、主観を超えて客観的に全体を見渡しながら、対象に重ね合わせる普遍的表象世界である。具体的には第二部以降で検証する。
[2104]
第3節 思考の道具
コンピュータは電子計算機の意味だけではなくなった。コンピュータは電気的に高速に算術演算をする道具だけではなくなった。コンピュータの問題は技術論の問題だけではなくなった。情報処理は数値データ処理にとどまらない。「知識処理」として論理の問題であり、認識と論理の方法でもある。そして思考の道具であるとともに、思考を客体として実現する媒体でもある。人工知能の可能性の問題であるとともに、思考そのものの規定をも明らかにする。コンピュータの社会的機能の増大する影響力からも無視できない。
[3001]
コンピュータを使うのに、コンピュータの動作原理を知る必要はない。しかし、情報を理解するにはコンピュータの動作原理の基礎知識は不可欠である。脳による認識と思考をコンピュータの動作と対比させることで、具体的に過程を追うことができる。
[3002]
【基本素子】
理解する必要のある事柄は技術的仕様ではない。情報システムは機械がなくても存在するし、機能する。
[3003]
今日の一般的コンピュータは物理的に電子回路と電磁気とを媒体とし、プログラムによって機能する。電子回路内の電磁気の状態によってデータ、情報を保持、処理し、プログラムによって意味づけられる。量子コンピュータはともかく、今日一般的なデジタル・コンピュータでは電気の二つの状態の組合せでデータを表現する。普通「オン、オフ」と呼ばれる二つの状態である。二つの状態の組合せが、2進数の数値表現と等値て扱われる。二進数表現は電子回路上に実現し、処理するのに適しており、また基本要素の「真偽」の判定状態としても単純であり、基本である。また、二進数は桁表現を無駄なく利用することができる。十進法では片手で10までしか指折り数えることができないが、二進法なら片手で32まで指折り数えることができる。伸ばした指と、折った指すべての組み合わせを利用できる。
[3004]
二値の関係は一対の「オン、オフ」「あるか、ないか」が評価の基本単位であり、「同、異」が区別の基本である。多数間の比較であっても、一対の比較の繰り返しで行われる。比較の繰り返しの方法によってその処理速度が異なることはあっても、一対の比較が不可欠である。
[3005]
二値の関係は媒体の制限の最も少ない関係である。形式さえ整えば、媒体はなんでも構わない。石を並べても、縄を結んでも、指折り数えても、電気、光の点滅でも媒体は問わない。媒体は2値の形式ではなく、媒体自体の保存性、取扱易さ、価格によって決まる。さらに、通信、複写の容易さが技術的だけでなく、文化的にも重要である。
[3006]
情報処理回路として、論理回路と記憶回路がある。信号を通したり遮ったりするスイッチによって論理回路と、記憶回路が実現する。スイッチは機能すれば何でもよい。事実計算機もリレー、真空管、トランジスタと発展してきた。物理的には単なるスイッチの機能であるが、このオン、オフを1、0の組合せとして2進数による数値処理の意味づけをしたことに意義がある。真空管、トランジスタにはスイッチの機能の他に信号増幅の機能もあるが、入出力を除くデジタル処理には基本的に関係ない。
[3007]
【論理回路の基礎】
論理回路は論理積、論理和、否定を回路として実現する。
[3008]
複数の直列スイッチ回路によって論理積を実現する。2つのスイッチA、B が直列であれば、A、B 両方のスイッチがオンになっていれば回路に電気は流れ出力もオンになる。一方、あるいは両方のスイッチがオフになれば回路に電気は流れず出力もオフになる。スイッチ A、B、出力 C のオン、オフの組合せを表にすれば論理積の真理表ができる。
[3009]
複数の並列スイッチ回路によって論理和を実現する。2つのスイッチA、B いずれか、あるいは両方がオンになっていれば出力Cもオンになる。A、B両方ともオフになれば出力Cもオフになる。
[3010]
回路に一つの切替スイッチを入れることで否定を実現できる。回路がオンであるとき切替スイッチによって出力を切り、オフにする。逆に回路がオンの時に切替スイッチがつながって出力をオンにする。肯定は否定され、否定は肯定される。
[3011]
【記憶回路の基礎】
外部記憶装置はテープやカードの穿孔パターン、ディスクの磁気パターンや光の反射パターンを保存し、そのパターンを読み取って信号列を作り出すことによって記憶を再生させる。しかし、こうした外部記憶は媒体と一体であり、記憶の入出力に時間がかかる。論理演算を実行する主記憶では書き換え、読み出しを論理回路の動作と同じ早さで実行する必要がある。記憶媒体として論理回路と同じに回路スイッチによって記憶を実現する必要がある。
[3012]
論理回路は入力に対して出力してしまえば、回路のスイッチ状態と出力の関係はなくなる。しかし、記憶は必要な回数再現することが求めあれれる。記憶は一定の状態を保存するだけではなく、再現しなくてはならない。一定の状態を作り出す操作、保存された状態を再現する操作を必要とするが、操作は状態を変化させてしまう。再現操作によって変化しても記憶を保存し続けるために、状態の区別を階層化させることによって実現する。
[3013]
記憶回路はフリップフロップと呼ばれる2つの互いに反対の状態になるスイッチを組み合わせる。しかも互いの出力を互いの入力へ再帰させる。2系統の入出力と再帰構造とによって意図する回路状態の組み合わせを実現し、保存し、読み出すことができる。2系統の入力は組み合わされ、再帰によって2系統で出力される。この組み合わせと再帰によって回路の動作と、信号処理の2階層を実現している。第一の階層として回路のオン・オフを設定することで記憶を書き込み、第二の階層として記憶の再現を回路からの出力信号としてえる。
[3014]
【演算】
論理和の回路は2つの要素の組合せ4組のうち、3組の加算を実現する。0+0=0、1+0=1、0+1=1である。もう一組の1+1は2進数では桁上がりが生じ1つの論理和の回路では処理できない。論理和への入力 A、B を論理積の入力にも取り、この出力Dを桁上がりのオン、オフとし、出力D の否定と論理和の出力 Cとの論理積を始めの桁の出力とすることによって1桁の加算回路(正確には半加算器)が実現する。1+1の論理和 Cは1。その論理積D は1で桁上がり。D=1の否定 D=0と論理和 C=1との論理積は0。よって1桁目は0第2桁は1で1+1=10の2進数の加算が実現する。
[3015]
減算は加算の逆算であるが、回路として実現するには複雑になるため、補数の加算として処理をする。補数を作る回路は2進数の場合、各桁の「0」「1」値を逆にし、最下位の桁に1を加算することで補数を実現する。桁の数値を逆にする回路は、記憶回路よりも単純である。答えが負数になる場合は、桁数を1桁多く取っておくことにより、その最上位桁の演算結果が「0」なら答えは「正数」、「1」ならば「負数」と区別できる。
[3016]
積算は加算の繰り返し、割算は減算の繰り返しで実現される。四則演算は基本的に加算回路だけで実現できる。繰り返しを電気的に処理することは、人間が単純計算を繰り返すのとはことなり、誤りも圧倒的に少なく、飽きることもない。
[3017]
比較は減算の結果でえられる。減算の結果が「0」であれば等しい。
[3018]
【データ処理】
論理操作、記憶、演算は電気回路で基本的に実現できる。しかし、以上で示したのは1つの論理関係、1個の記憶、1桁の演算でしかない。
[3019]
論理操作、記憶、演算それぞれで信号の組を構成し、組合せによってデータ処理ができる。処理単位となる信号の桁数を幾つ組み合わせるかによってデータの表現が決まる。一つの処理単位では2つのデータ表現しか区別できない。この処理単位の桁をビットと呼ぶ。1ビットは2つのデータ表現を区別できる。「1」と「0」、あるいは「有る」「無い」、または「陰」「陽」。表現形は何でもよいがコンピュータ内では電圧の「高い」「低い(アースされた状態)」で区別、表現する。
[3020]
4ビットでは2の4乗で16のデータを区別でき、10進数を表現するに充分で、16進数まで表現できる。7ビットあれば2の7乗で64のデータを表現ができ、アルファベットと10進数を表現できる。数千の漢字を表現するには16ビットを充てているが、世界のすべての文字を表現するには不十分である。このビット数が論理操作、記憶、演算の処理単位であり、ビット数が増えれば表現も豊かになり、大きな数の計算速度も速くなる。記憶データの数が増えれば、記憶データを区別する番地=アドレスも大きな数を必要とする。画像データ、音響データ、映像データを扱うには膨大なデータ量の処理、記憶が必要になる。処理の目的によってビット単位は決まる。
[3021]
ビット単位のデータ信号、コードはコンピュータの中で論理回路の一つの処理単位を通過することで加算されたり、記憶されたりと変換処理される。1ビットが1つの回路を流れ、複数ビットが複数のまとまった回路(ケーブル)を流れるのがパラレル(並列)である。一つの回路で複数のビットを流すのにビットとビットの区別を時間単位に区切って流すのがシリアル(直列)である。コンピュータの内部でも、外部装置との間のケーブルでもそれぞれに異なった規格がつくられ、技術進歩とともに新しい規格に取って代わられている。
[3022]
いずれにしても、データは時間で分割される。現在実用化されているコンピュータ内では全体が一定の時間単位に区切られている。単位ビット数の信号が単位時間毎に処理される。単位時間はコンピュータ内の時計、水晶発振子などの振動数によって管理されている。コンピュータの処理単位時間は振動数、ヘルツを単位として表される。コンピュータは単位ビット数が多い方が、単位時間が短い方が処理能力は高くなる。
[3023]
コードの変換は機械的に固定された回路によって処理される。回路内では機械的、あるいは今では電子的スイッチが単位時間毎に入ったり、切れたりするだけである。二つのデータを演算する回路、一定の変換処理をする回路、記憶回路にデータが入り、処理結果あるいは記憶されたデータが出される。そのデータの流れは回路間の配線と、配線を切り替えるやはりスイッチによって制御される。データの流れを制御するスイッチをゲートと呼ぶ。ゲートの制御をする機能が処理回路毎に用意される基本命令である。数十から数百の命令が用意されている。命令毎に特定の回路に信号が送られ、ゲートの開閉が行われる。
[3024]
論理操作、記憶、演算はコンピュータ内ではデータと、データの流れのスイッチ=ゲートの開閉によって処理される。そして重要なことはゲートの開閉もデータによって制御される。データ自体と、データを処理する命令もデータとして処理の対象になる。データを処理するデータ、そのデータを処理するデータとして、データの階層構造を作る。このデータの階層構造によってスイッチの開閉だけしかできない機械がデータを処理し、情報を処理している。
[3025]
論理演算、記憶データの参照、記憶データの書換えがコンピュータの機械としての機能である。ただ単なるこれらの機能が、必要なだけ繰り返されること、大量のデータを処理できることによって、コンピュータは特別な能力を発揮する。コンピュータの進歩はこの他により大量のデータを、より早く処理するためにより複雑な応用処理を実現している。そしてもはやパーソナル・コンピュータであっても、一人の人間がその基礎からすべての動作までを理解することはできなくなっている。
[3026]
【入出力過程での変換】
入力信号、出力信号はデータとして意味づけられて情報を表す。人がキーボード・キーの印字をみて特定のキーを叩けば、キーの下にある格子状回路のスイッチが入り文字に対応する二進数の信号に変換される。処理された信号は出力機器によって人間が直接扱うことのできる文字や記号、図形、音、映像データへと変換される。出力は最初は信号そのものを表示していたが、文字での表現が可能になると初期には格子状の升目の状態(ドット・マトリックス)として、今日では輪郭線の連続と曲率の状態(アウトライン・フォント)に変換表示され読むことができる。
[3027]
表象として人が読み取ることのできる情報入出力に限られない。キーの印字は入力する人の意思を確認するための表示であるが、人が意識しなくても機械システムが区別できれば入力は可能である。生体認証は利用者を区別し、利用権限を制限することができる。出力信号は人を介さずに機械、設備等を制御する。
[3028]
データの意味づけの体系、情報処理を命令するデータの意味づけの体系がソフトウエアである。コンピュータはハードウエアと呼ぶ機械とソフトウエアによって実現されている。ハードウエアと電気とデータだけではコンピュータは機能しない。
[3029]
データ意味づけの体系であるソフトウエアは、ハードウエアの制御、データ処理の制御だけでなく、人間の使用する言語、映像、音の意味との対応関係も体系に取り込む。データは数字、アルファベット、漢字にとどまらない。光、音、その他を含め量として、量の変化として表現できるデータは、数値化することによってコンピュータ処理の対象になる。文字、映像、音楽、音声、複数のメディアが同じ電気信号として統一的に処理ができる。メディア間の意味づけの対応も関係づけることができる。また、数値化されたデータであるから、複写も、変更も数値によって必要な精度で制御できる。
[3030]
ハードウエアの発達は目的とするデータ処理の能力だけでなく、処理結果を人間に対して表現するための能力をも高めている。人間と直接対応するコンピュータは、本来のデータ処理よりも、人間とのデータのやり取りを人間に適した方法で処理することに、より多くの能力を割くようになってきている。コンピュータを利用する上で、人間と機械の関係を取り持つもの、マン・マシン・インターフェースがますます重要になっている。このインターフェースの開発も、人間の認知機能の研究と重なり合う。
[3031]
【手続きのシステム化】
コンピュータの機能は機械としての機能とは別にある。コンピュータが単なる計算機械ではなく、情報機械であるのはハードウエアではなくソフトウエアの機能である。
[3032]
ソフトウエアはデータの集まりと、データの処理手順であるプログラムからなる。データはプログラムに対応した構造として意味を表現する。プログラムはデータの処理手続きを規定するものである。
[3033]
機械の処理手続きとプログラムの処理手続きの違いの本質は再帰性である。プログラムはプログラムの実行順序、実行回数をデータの条件によって変更できる。プログラムはプログラム自体をデータとして処理の対象にできる。この機能によってデータを再帰的に処理するだけでなく、システム自体が再帰的に機能する。
[3034]
さらに、ハードウエアの処理は物理的動作であって、階層化することはできてもつくられた階層は変更のしようがない。ソフトウエアは階層を増やすことも、再編することも可能である。データの意味を定義することによって、データの内容も形式もそれぞれに処理することができる。入力データの組み合わせに、出力データを再帰させることによって入力データの評価を変更することもできる。試行による学習が可能である。
[3035]
ただし、コンピュータの高速性、正確性はコンピュータの本質的機能ではない。正確性などは有効桁数によって限界がある。プログラムが複雑になれば再現性のないエラーも生じる。
[3036]
さらに、仕事の段取りを規格化し、判断、作業体系までもシステムに取り込むことができる。となると、制度や条件の変更にも対応するシステム開発が求められる。プログラムで条件に対応するのでは変更の度に開発が必要になる。データを変数化して対応するなら、データを与えるだけで対応できる。システム化の機能範囲、将来の条件、制度変更可能性のどこまで対応するかはシステム設計思想の問題になる。制度や組織を見直さない開発はコンピュータとシステム開発との2つの役割を制限することになる。これは開発技術の問題ではなく、開発者の思想の問題である。
[3037]
【情報システム】
データを処理する計算機のデータに、意味を与えるのは人間である。機械はデータを処理する。人間がそのデータ処理によって情報を処理する。
[3038]
情報は生産され、蓄積され、交換される。その媒体がコンピュータであり、通信設備である。通信設備は基本的にはコンピュータの中のデータの流れと同じである。通信設備とコンピュータのデータの流れの違いは、電気特性やデータコードの扱い方の違いであって、その違いは機械的に変換が可能である。コンピュータと通信設備は一体の物としてネットワークを実現している。
[3039]
ネットワークが普及したことによって、情報間の関連づけができ、検索も容易になってきた。しかし、情報をもつ者が開示しなくては情報はネットワークにのらない。情報をもつ者が意識的にネットワークから秘匿する場合もあるし、情報開示の意義を理解しない場合もある。情報をもつ者にとって価値のない情報でも、情報の関連づけによって重要な情報になることもある。特にユニークな情報は発生源で開示されることがネットワークにとって意味がある。検証のためにも、重複を防ぐためにも。
[3040]
組織は情報伝達系でもあり、情報を制御するために職階を設けている場合、情報を取引することで組織での地位を守ることができる。ネットワークにより必要な情報を担当者が共有、利用できるようになれば、組織の情報を取引して地位を得ている役職は不要になる。
[3041]
ネットワークにより、個人情報も容易にネットワーク上に流れやすくなる。単なる位置情報であっても監視の役に立つ。コンピュータは人の能力を拡張するが、能力差も拡張する。コンピュータや情報ネットワークは役に立つが、悪事をはたらく者にも役に立つ。
[3042]
第4節 理念
目的も価値も主観的な評価である。客体にとって目的や価値は存在はしない。しかし、主観的なだけであるなら、観念としてだけの存在であるなら思考の対象とするまでもない。それぞれに思い描いていれば事足りる。だが主観的な評価であっても、その基準は主観のよってあるところ、主体の実践に根拠がある。主体の実践の場、実在世界に目的、価値の根拠がある。
[4001]
目的、価値、自由、愛、真理などの理念は反省によって獲得される。これらは反省のない客体間の直接的関係には存在しない。自らを含む存在関係を反省することによって、客体間の関係に見いだすのである。この見いだすことの反省経験が感情経験を伴って保存される。再現される行為としても、記憶としても、表徴としても保存される。したがって、反省し、意識的に経験しなくては存在しない。意識的反省を経験した主体間では共有することができる。共有しようとしない者にとっては存在しない。理念は客観的直接的存在の有り様ではないから、存在を否定することもたやすい。知識として教えることもできない。しかし、共有する主体間では互いの行動に作用する実在として現れる。
[4002]
理念も社会関係では無視することはできない実在の運動を規定する力を現す。特に経済的価値を無視したのでは、社会的物質代謝系が破綻し、個々の生活すら維持できなくなる。個人でも目的が喪失すると、人格が崩壊するという。
[4003]
第1項 目的
【運動の方向性】
存在は運動である。運動には秩序があり、方向性がある。全体の運動があり、主体の運動がある。主体は対象化するものとして方向性をもつ。主体自体が運動の方向性を組織するものとしてある。全体の運動にあって、主体の方向を向ける先が目的である。主体の方向を意識するのは主観であり、全体と主体とを反省することで目的を評価する。目的の評価は現実の運動の評価であり、運動の評価は対象を、あるいは世界をどれだけ広く、大きくとらえるかによって、またどれだけの未来に向かってとらえるかによって違ってくる。全体の方向性と主体の方向性は異なることもあり、目的には正しい目的と間違った目的とがありえる。
[4004]
目的があって主体の方向が定まるのではない。目的は主観にとってあり、客観的にはない。客観的にあるのは運動とその方向である。主体の運動、方向があって全体の運動に位置づけることで目的が定まる。目的は価値判断をふまえて定めるものであり、価値判断は自らのものである。価値評価は他人から、社会から与えられるものではない。人から、社会から大いに学ぶが、価値判断は自らに対する責任で、自らに課する。
[4005]
熱力学の第二法則、そこから導かれる時間の方向性は主観的評価に関わらずある。全体の対称性が非可逆的に破れること、これを否定することは方向性そのものの否定である。方向性を否定することは運動、そして存在を否定することである。世界全体の方向性は絶対的基準であって、主観が評価しても意味はない。主観の評価対象は部分の方向性であって、なにより主体の方向性である。
[4006]
単純な力学的運動の方向性を見いだすことはたやすが、それでも振動や循環する運動には方向性がないように見える。孤立した系に方向性を見いだすことは難しいこともあるが、世界自体以外、その部分には孤立した系はなく、すべては相互に連なっている。世界は全体の秩序を失いつつ、部分の秩序をつくりだしている。宇宙の歴史、生命の歴史、人類の歴史、社会の歴史、そして人生としての方向性がある。もっとも社会史になると方向性を認めない見解もある。技術は進歩しても暮らしがよくなるとは限らないと。人生の質は文明が発達してもよくなってはいないと。となると、主観的評価の基礎になる客観的存在のあり方、実在のあり方にもどって方向性を検討することになる。
[4007]
【方向の制御】
部分間の関係で継起する連関には方向性がない。全体の運動には方向性があっても、部分は偶然の連関に継起している。継起する相互作用は質的違いがあっても関係形式は対称である。いずれも原因にもなるし、結果にもなる。相互作用であるから対称である。
[4008]
継起する連関も再帰することで方向性を実現し、対称性を破る。再帰的関連=フィードバック系の運動過程では一方向として結果が定まる。再帰する過程は逆転することはない。再帰することは継起的連関に方向性を実現する。再帰による方向性が相対的全体の相互関係に実現する。再帰して相互関係は因果関係に転化する。相対的全体の関連の中で再帰過程を組織した個別としての運動過程が現れる。再帰過程の組織化が個別として他から区別され、その区別には個別としての方向性が現れる。再帰過程は運動の制御であり、再帰過程の組織化は運動の制御を方向付ける。他に対し、全体に対し個別として制御可能な運動の方向がある。制御可能であるから評価が問われる。
[4009]
【方向性の評価】
全体の方向性は部分の方向性であり、部分の方向は全体のうちに現れる。主観的評価にかかわらず、部分の方向は全体のうちに相対的に決まる客観的過程にある。
[4010]
分子運動の対称性が破れ、結晶化が始まれば結晶格子の方向性が定まり、全体が同じ方向に生長する。運動エネルギーが失われて結晶格子の形と、結晶化の生長方向がいずれかに決まる。結晶化が目的をもつという擬人化の不適切さは主観の問題であって、目的という意識的方向は客観的過程の方向を意識化したものである。目的意識の物質的基礎として運動の方向がある。目的設定の適切さは、客観的運動の方向性評価にある。客観的過程を無視した目的は実現しえないし、主体的実践の対象とならない運動に目的を見いだすのは主観の勝手である。目的因は説明技法としてはそれなりの力をもつが。
[4011]
結晶の成長は化学的過程であるから擬人化による誤りは分かりやすい。しかし、生物の行動や、進化となると擬人化にとらわれやすい。生物進化におおける、機能分化の過程が目的因によるものではなくても、結果と過程との関係は、目的を目指す過程として評価されてしまう。進化などの自然過程に「目的」「役割」を直接的に持ち込むことは誤りであるにしても、自然選択の評価としてそのままの意味で「目的」「役割」の概念を定義することができてしまう。生物学者の記述ですら目的論的様式になるのも“自然”なことかもしれない。生物の発生や生長に現れる方向性は、意識されさえすれば目的を実現する運動と何ら違いはない。逆にこうした運動に目的を見いだすことに意識の意義があり、その意義を認めることが意識である。
[4012]
目的があって運動が方向づけられるのではない。運動の実現が秩序形式としての方向を表す。目的に対して運動を方向づけてしまうのは、運動過程から離れた反省する主観である。目的に対する方向づけは主観の解釈である。目的があって運動が方向づけられるとする目的因は、主観の解釈による転倒である。主観解釈による目的、方向性は擬人化された幻想である。
[4013]
自ら対象化して自己実現する主体にとって、対象の方向性、全体の方向性を見いだすことは生き残るための基本的な能力である。方向性を意識的に評価する主観にとっては、それこそ主観的であっても大切な評価である。主観は意識的に目的を評価、確認し、主体の方向を定め、維持するために繰り返し目的を反省する。運動の方向を意識化するために目的は設定される。さらに個人の目的、方向としてだけでなく、主体間の、間主観での客観的運動過程では人間のあり方を決定する。そもそも社会の物質代謝過程に個人の生活も実現しているのであり、社会関係のなかで個人の生き方が評価される。社会の方向に対して迎合するなり、反発するなり、個人の生き方が方向付けられる。
[4014]
【目的の転換】
全体の方向は絶対であっても、その方向を実現する部分の方向は個別として相対的である。全体の絶対的方向も、部分の偶然による個別的方向までを規定していない。対象とする運動の時間的、空間的、構造的範囲によっても方向が異なる。生物個体にあっても同化と異化の相反する方向がありながら、個体の方向として統一されている。
[4015]
対象化する範囲によって方向が異なるのであるから、これを評価する目的もその対象化範囲によって異なる。主観にとっては目的は対象化する範囲の取り方によってその評価を転換することになる。目的、目標が戦略的にとらえるか、戦術的にとらえるかによって違ってくるのは当然である。目的、目標は固定した存在ではない。
[4016]
しかし、運動が続く限り当然に目的は指向される。対象化の範囲に対応する目的の体系が定まる。それぞれの個別目的間では矛盾もありえるが、全体としての目的から評価し、時と場合に応じた当面の目的を選択することになる。
[4017]
第2項 価値
【価値の存在】
目的によって方向づけられた系では、すべてが目的によって方向づけられた基準によって評価される。継起的連関の運動であったものも、方向づけられた系ではその運動が評価される。それぞれの運動・存在は方向づけされた基準に対する位置によって評価される。方向づけされた基準が価値尺度であり、それぞれ評価された位置が価値を現す。
[4018]
価値は全体の方向づけされた基準がなくては存在しない。価値も社会関係では客観的存在であり、実在である。価値の存在の仕方は物と同じではないが、物の運動のあり方として存在する。従って価値は消費するものでも、所有するものでもなく、創り出すものである。
[4019]
価値が目的や方向性と異なるのは普遍性である。目的や方向性は対象の相対的範囲のうちで定まる。しかし、すべての過程は全体の関連のうちにあり、すべての過程は他の素過程、全体での相互作用する関連にある。全体の方向性とあいて定まる基本過程に対し、他の過程は促進的にも、抑制的にも連関する。これらすべての過程の評価基準として価値の普遍性がある。
[4020]
価値は基本過程に関連するすべての運動過程の評価体系としてある。客観的には全世界の関連の体系である。全世界の運動過程を対象にできれば絶対的価値体系である。通常は、対象とする過程との相互作用が有効な相対的全体における評価として相対的価値体系が定まる。
[4021]
【経済的価値】
経済的価値基準、社会的価値基準は社会的物質代謝によって定まる。物の使用価値は個人的には絶対に必要であるが社会的には価値を現さない。使用価値は消費する価値であり、消費によって失われる価値であって消費する個人にとってのみの価値である。したがって、使用価値を普遍的に評価することはできない。同じ物であっても、人それぞれの必要性に応じて使用価値は異なる。空気は呼吸に絶対に必要であるが、だれしもが平等に呼吸できるのだから経済的価値はない。使用価値があるだけでは経済的価値とはならない。ただし、大気が汚染されたり、スクーバ・ダイビングや、高地登山では空気にも個別の価値が表れる。
[4022]
社会的価値が実現するのは社会的物質代謝の場に提供され、使用できることにある。それぞれの社会的物質代謝の場で使用できる様にする社会的労働としての価値がある。使用できるようにする社会的労働は使用価値とは別の社会的価値である。いかにダイビングや高地登山で空気が必要だからと言って、個人で袋に詰めて持って行けるなら社会的価値はない。社会的労働によって作られたボンベに、同じく作られたポンプによって、同じく作られた動力によって詰められて、最後に消費する場所に運ばれることによって社会的価値を担うことになる。
[4023]
こうした社会的物質代謝の場で使用できる様にする人の労働は、拾い、採り、育て、作り、保存し、運ぶこととして社会的物質代謝を実現する。そしてさらに社会的物質代謝を維持し、社会的物質代謝をよりよくするのも人の労働である。人の労働を必要としない物事には社会的価値はない。機械・設備を利用することでより少ない労働でものを生産することができるが、機械・設備ももともと人の労働が作り出した物である。人が互いの労働成果を交換し、協働することとして社会的物質代謝はある。技術も人の工夫としての労働によって作られ、労働によって伝えられる。組織、制度も人の労働によって整備され、維持される。社会的物質代謝が破壊され、止まってしまうなら人々は生きていくことはできないし、人間としての有り様を維持できない。人の労働なくして社会的物質代謝は維持できない。社会的価値の源泉は社会的物質代謝に役立つ人の労働にある。したがって無駄働きには社会的価値はない。
[4024]
人の労働の評価基準は当の社会的物質代謝での人の生活維持に必要な労働である。ただ人は生活に必要な労働以上に労働することができる。だからこそ、より良い、より安定した生活ができ、将来に備え、互いに助け合うことができる。技術の発達によりより容易に、より大量にものを作り出すことができるようになるが、人の労働なくしては社会的物質代謝を維持することすらできない。容易に、大量にものを生産できることはより容易に、より大量に消費できることであって生産と消費は量や容易さに関わらず、人によって担われることには変わりない。
[4025]
価値は今日消費するものとされてしまっているが、本来価値は創造するものである。人の労働によって作り出され、人の労働を介して蓄積されるものである。人間社会、文化は人の労働によって創り出された財産である。人間は対象に働きかけ、現実を変革することで人間へと進化し、社会を発展させてきた。今日でも労働は苦役だけでなく、自己実現としてもありえる。人が成長する時、物を作ってみること、労働することはかけがえのない経験である。
[4026]
戦争がいかに機械化されても、武器が破壊するのは社会的物質代謝であり、人の財産であり、人の命である。兵器同士が破壊し合っても戦争は成り立たない。人の命を奪ってでも人を従わせることが戦争である。したがって、機械化によって味方の兵士の死傷を減らすなら、敵は兵士以外の命を狙ってくる。圧倒的な軍事力や機械化した軍事力に対してはテロが必然的に起こる。テロを防ぐのは武力ではなく、対立を止揚する平和的手段である。
[4027]
この社会的価値の源泉を人の労働であるとする見解を経済学では労働価値説と呼ぶ。現代経済学では古くさく役に立たない学説としている。しかし、社会的物質代謝を実現し、維持・発展させるには人の労働なくしてできない。経済学が経済事象の何を対象としようが、社会的物質代謝を実現し、維持発展させる労働無くして社会は成り立たない。
[4028]
労働価値説を誤りとする根拠として、物の価格は費やされた労働量に比例しないことがあげられる。生産に必要な労働量に関わりなく、希少なものは高価格で取引される。流行によって価格は変動する。価格は商品の交換、流通での取引でそれぞれに決定されることで、社会的価値とは乖離する。しかし、社会的価値から乖離した投機取引は社会的物質代謝を破壊することによって、乖離した価格の不当性を明らかにする。今では投機操作が競争する経済圏に対する破壊的攻撃手段にまでなっている。
[4029]
第3項 自由
【自由の基礎】
自由は意志や意識の問題以前に必然と偶然の関係としてある。物事の秩序が決定論では規定できない様に、秩序は必然として偶然を介して実現する。物理法則に反する自由などはありえないが、社会法則になると社会に法則があるか否かがまず問われるが、法則であるなら反することはできない。法則に関わる自由は、反するのではなく、実現条件を整え、組み合わせることとしてある。
[4030]
継起的連関は偶然の過程であって、自由は問題になりえない。継起的連関の変化は偶然として現れる。再帰的関連によって継起的連関は方向づけられる。再帰的関連によって、継起的連関の偶然性の変化ではなく、制御によって変化させる自由が可能になる。単なる再現ではなく、制御できる再現が自由の物質的基礎である。制御できる再現が自由の可能性である。
[4031]
【人間の自由】
理念としての「自由」は主体の目的追求の実践的課題としてある。自由は目的を意識することのできる主体である人間固有の権能である。動物の「自由」も人社会に組み込まれての、人間の自由を敷衍した解釈としてある。
[4032]
人間の基本的自由は目的をもつことの自由、目的を追求することの自由である。人間は秩序にあって秩序法則として対象を理解し、秩序法則に主体としての目的を見いだすことができる。環境条件に規定されていた生活を、環境条件を社会的に変革することで人間としての能力を獲得してきた。自由の獲得と、自由の実現が人を人間として進化させてきた。逆に自由を意識できる様になったことが、人間を他から区別する特徴とまで云われる。
[4033]
人間の自由は社会的自由が基本的自由を超えた実践的自由の本質となる。人間は社会的物質代謝に参加することによって生活を実現し、人格を形成する。社会的自由は基本的自由に加えて、意思に反することを強制されない自由としてある。社会関係の中で、社会の有り様もあって、自由は多様な問題を提起する。
[4034]
第4項 愛
【愛の存在】
子育てする鳥やほ乳類の行動に親の愛を見いだす。しかしそこには愛など存在しない。本能と呼ばれる行動秩序が現れているに過ぎない。しかしこの本能と呼ばれる行動秩序は生命維持、種の保存に不可欠なものとして歴史的に獲得されてきたのである。この本能と呼ばれる行動秩序を引き継いだものが生き残ってきた。生き残るに必要なことして、その生物にとって不可欠の価値がある。生物種によっては利他的な、自己犠牲となる行動すらある。
[4035]
人も生物として生きて行くに必要な行動がある。生きていく上で必要な個体間の行動、社会的行動がある。これらの必要な行動は感情的に心地よさとしても経験する。不安、恐怖などのストレスを癒してくれる、安心をもたらしてくれる心地よさの基礎は、気まぐれな気分としてではなく、感情を制御する物質の分泌としても生理的に、精神的に獲得されてきた機能である。心地よさによって強化される、生きるに必要な行動によって生ずる感情を「愛」として意識する。行動を反省するとところに愛を意識する。行動と感情を経験しなくては愛を見いだすことも、意識することもできない。
[4036]
「愛」と呼ぶ行動と反省経験、その反省を共有することで愛は社会的存在として実現する。行動と経験、反省の共有がなければ愛は社会的に存在することはできない。
[4037]
第5項 真理
【真理の存在】
真理は反映についての評価としてある。認識されたもの、認識され表現されたものが評価され、判断される。
[4038]
真理でないものは、対象に重ね合わせることのできない表象である。錯覚、幻覚、想像であってもその原因、生じる機構を明らかにすることで対象に重ね合わせることができる。
[4039]
「色眼鏡で物を見る」といった場合、「フィルターがかかって本当の色が見えない、それでは真理は見えない」と主張になるが、それこそ真理ではない。真理はそのような媒介するものに左右されるのではなく、「色眼鏡」をかけると色は変化して見えることにある。色は光源と対象の光学的性質、空気等を含めたフィルター、生理的状態、感覚的状態の相互関係の中で決まるものである。「真理」を歪める要素はフィルターだけではない。色眼鏡をかけても赤は赤、白は白に見えるようになる。色は主観的なものであり、相対的なものである。色の「真理」は真理の問題ではなく、心理の問題である。
[4040]
真理は実践、認識において問題になるのであって、真理そのものが客観的存在としてあるのではない。真理は認識としてつかむのであって、認識の対象として捜し、認識の内に実現するものでもない。
[4041]
【個別的真理】
個々の事象、事柄について、真理を問うことはたやすい。私は「生きている」これは真理である。生きているから、今こうしてキーボードを叩くことができる。私が死んでしまえば私は「生きていた」になるだけである。「私」ということばの示すもの「生きている」ということばの示す状態にある事象と表現が一致している。これを真理と言うのはたやすい。個別的真理はいくらでもある。
[4042]
「私」ということばが示すものが死んでしまえば「生きている」と言うことはできない。「私が生きている」ことの真理は、生死の違いを問題にすることとは違う。ここに書かれた「私」ということばと書く私は一致していない。これは確かなことであり、「絶対」と言ってよい。個別的事柄についての個別的真理はいくつあっても意味をなさない。
[4043]
「ありのままに見る」「そのものを見る」などと言うのは意味がない。論理構造そのものが恣意的である。何らかのものが何らかの有り様として対象化できることを前提にしている。あるかないか、どのようにあるかも、対象化できるかも分からないものを対象化しようとしている。そもそも、見る、知ることは人の主観的ことがらであって、対象のあり方とは関係ない。「見る」とは可視光線を媒体としての対象との相互作用であり、しかも脳内での情報評価としてもある。「ありのまま」「そのもの」を定義せずに「見る」ことを評価しても意味はない。「見る」を生理的認識に限らず、認識一般に拡張しても同じことである。
[4044]
「生命とは何か」「人間としての生き方とは」といった問いに対する答えは「真理」とはまた別の問題である。ここでは問題がまず始めにある。ここではまず「生命」「人間としての生き方」が定義されなくてはならない。定義は対象の個別規定を明らかにすることであり、対象の解釈、理解は真理の問題ではない。
[4045]
同様に「究極の真理」と言ったところで「究極」なるものは未だ存在せず、定義できない。定義されていないものの「究極」を評価することはできない。
[4046]
【普遍的真理】
真理にとって必要なことは普遍性である。個別として実在することは事実であって真理評価の対象にはならない。事実の真理を評価するのは実在する対象から離れて反省したり、あるいは研究室なり、裁判所なりで評価する場合に問題になる。実在する対象から離れて、普遍的な関係に位置づけ、その評価として真実はある。
[4047]
真理を問うということは「生きるとは何か」といった意味を明らかにすることを求める。意味は個別的有り様ではなく、普遍的有り様での位置づけとしてある。真理は普遍的に評価することとしてある。その評価の上で真理と虚偽とが区別される。
[4048]
普遍性の認識は認識を反省することによって獲得される。いつでもどこでも同じである普遍性は、次々と継起するそれぞれの個別対象の他との関係が区別され、その区別されようが同じであることにある。普遍性は対象を反省するによってとらえる関係の形式、対象の秩序としてある。普遍的秩序の具体的現れとして、個別対象を同定する。この繰り返しによって対象の秩序をよりよく、より広く、それこそ普遍的に認識する。この認識結果として普遍的表象世界のを獲得する。獲得される普遍的表象世界は真理ではなく、単なる実在世界の観念的反映である。
[4049]
獲得された普遍的表象世界が、実践の場で対象である実在世界と重なり合うことで、普遍的表象が真理となる。普遍的でありながら、個別対象に過不足なく重なることが真理である。個別的であるとともに、普遍的に表象が対象に重なり合うことが真理である。
[4050]
【絶対的真理、相対的真理】
絶対的真理が時、場所等に限定されていない真理の意味であるなら、そのような真理は具体的には存在しない。すべての存在は限定されているのであるから。そのような絶対的真理は実在するものにとって意味をなさない。抽象して限定しすることで、絶対的真理を表象し、表現することはできる。絶対的真理は相対的真理の対立概念として意味がある。
[4051]
真理についても相対性と絶対性は相互に浸透しあうものであって、形式的に対立しているのではない。普遍的表象世界を反映している主観にとっては絶対的である。主観にとって反映である普遍的表象世界と対象である実在世界とが重なり合っているから絶対である。しかしそれは主観と対象との関係での絶対性であり、その関係は相対的である。
[4052]
相対的真理は相対性を明らかにし、その相対性の限定内で真理であり、限定により「絶対」に通じる。
[4053]
【条件的相対性、部分的相対性、時間的相対性】
相対的真理はその相対性によって限定されており、相対性を明らかにしなくては真理ではなくなる。真理の相対性は条件によって限定される。対象を限定する条件、対象と「真理」との関係における条件、「真理」そのものの条件によって制限される。無条件の真理などは存在しない。
[4054]
真理の相対性は部分的である。対象とする存在は階層性をもち多面的である。対象のすべてについて問題にすることはできない。対象のすべてを問題にしようとすることは、対象のすべての関係をたどって全体にいたらねばならず、対象を規定することができない。全体について個別的に真理を評価することはできない。
[4055]
真理の相対性は時間的でもある。世界は運動しており、運動を対象とする真理はすべて制限される。普遍的運動を対象とする場合は、個々の運動ではなく、普遍的・一般的な運動についての真理である。普遍的・一般的な運動であっても、時間は非可逆的であり、時間を遡って真理を問題にすることはできず、やはり時間的に制限される。
[4056]
普遍的表象世界は主観にとっては実在世界の全体と過不足なく重なり合うが、主観と対象との関係は個別的であり、その個別的関係で対象と相互作用している。その相互作用の個別性を条件的相対性、部分的相対性、時間的相対性で相対性を明らかにすることで真理として確定することができる。
[4057]
【客観的真理】
真理は検証するものではなく、検証することである。普遍的表象世界を実在世界に重ねることが真理の実現である。実在世界に重ならない表象世界は真理を現さないし、重ならない部分は真理を表さない。普遍的であることはすべての個別表象が実在世界の個別対象と重なることである。表象世界が実在世界のすべてを反映することはできない。したがって普遍的表象世界であっても相対的真理にとどまる。実在世界のすべてと重なり合う表象世界を反映する絶対的真理を想定することはできる。
[4058]
真理は客体として存在するのではなく、対象と真理として主張されるものとの関係としてあるのであって、その関係が客観的存在でありうる。
[4059]
真理は覚えるものではない。真理は常に確認できるものではない。問う時に改めて、繰り返す認識の検証である。いつでも手にすることのできる保証はない。時々に条件によって誤りを犯すが、犯した誤りを認めることで真理に向かうことができる。繰り返すごとに、反省するごとに当座求める真理を、そしてより普遍的真理をより確実に手にすることができるようになる。
[4060]
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