【個別の存在】
個別は一つひとつの物事である。日常経験のほとんどの対象は当然のごとく一つひとつの物事として区別でき、名づけられている。日常経験の対象は名前によって区別される。日常経験の対象は主体によって対象化されている物事であり、それを主観が認識するのであるから区別は自明に思える。しかし、よくよく考えると実在の境界はそれほど明確ではない。個別の境界設定、区別は主観の都合によるのか、実在の自己規定に基づくのかが問われる。
[3008]
日常経験では意味あるものとして個別は対象化される。主体によって意味の単位として個別は対象化されている。意味は主観による価値づけであり、主体と対象との関係で意味づけられ、その意味の媒体として個別が対象化される。意味づけられた対象としての個別は主観的に評価された個別表象である。主観にとって対象は個別表象として対象化され、個別存在に重ね合わされる。主観は個別表象を個別存在としての主体の対象に重ね合わせて操作し、検証する。個別存在である主体の個別性が、対象の個別性の基準になる。
[3009]
名づけられている物事の存在単位として個別をとらえるのは簡単である。ミカン、リンゴ、箸、茶碗、等々。ただそれらは皿の上、テーブルの上、あるいは店頭の棚の上等々に他と空間的に区別されることによって枠づけられて個別性が明らかになっている。ことば、名前によって対象化されるのは観念表象でしかなく、表象に個別性はない。個別は既知の物事に限られない。未知の物事を対象とする時に個別性が問題になる。逆に個別性が明らかでないから未知なのである。未知の対象を含むすべての存在の個別性の概念が問題になる。
[3010]
主体の対象として扱う単位としての個別性は日常経験で身につけている。対象を扱う主体の個別性を基準に対象の個別性は自明である。しかし、主体の個別性を問うなら、個別性は決して自明ではない。さらに、非日常の対象では量子の個別性は粒子としての現れである。相互作用としての運動において、相互規定される存在単位がどのように実現されるかが問題である。アナログ−デジタル(A−D)変換としての数学的、工学的量子化ではなく、存在の運動単位実現の機序が問題である。
[3011]
A−D変換では連続量をサンプル量に分割し、分割されたそれぞれの部分を離散量で表現し量子化する。部分の離散化は手続きが明確で機械によって処理できる。これに対し存在の個別化は対象全体を他から区別して個体として対象化する。部分の離散化と全体の個別化という大きな違いがある。全体の個別化は曖昧で、模糊として工学的処理は難しい。しかし、全体の個別化も結果として、日常経験の中では明確である。物理化学的存在も、生物個体も、個人も間違いようなく区別できる。
[3012]
個別は部分として独立していながら全体の一部である。全体の存在として全体の運動の一部としてありながら、特定の階層において他と区別される部分である。個別は一つの相対的全体として、相互作用の過程として存在し、他と関係している。個別はその内により基本的な個別を構成要素として含む。物理学では「超ひも」が時空間を構成する物質の最小単位とする考えもある。量子は波動でもあるが粒子として個別性を表す。生物の生化学反応は連続する代謝過程であるが、膜によって、免疫系によって個体を環境から区別している。人間は自己同一性=アイデンティティを求め、自己同一性に依存している。生物個体も種も、人間個人も社会も自他を区別するために懸命の努力を続けている。他との、環境への依存として普遍的存在でなければ生きていくこともできないが、個としての生活主体でなければ生存できない。自分の自覚なくして自立した社会生活はできない。この個別と普遍とを概念として定義しようとするのであるが、簡単な命題形式で表現することがなかなかできない。
[3013]
【個別性】
個別は他と区別される存在単位である。個別は単独の存在であるが、絶対的単独、孤絶ではない。個別は他との連関のうちに区別されて限定されるものである。連関を実現している普遍性が区別されて個別を実現するのである。
[3014]
個別は他と決定的に区別される本質規定にありながら、具体的に他と区別される偶有性にある。本質規定を保存することで確かな存在でありながら、偶有性によって不確かである。他との関連による規定である偶有性は区別を曖昧にする。しかし、偶有性は本質的を同じくする個別間を区別する。
[3015]
実在の普遍的有り様を個別として他と区別するのが個別性である。相互作用によって相互に区別する規定性が個別性の根拠である。この個別性は改めるまでもなく直接に区別する。問題になるのは媒介された存在の個別性である。普遍的有り様が媒介されて特殊な有り様として個別を実現する。
[3016]
ヒトを対象とするとき、受精後何週目から人と認めるか、脳死判定での死の定義等は個別性を規定しない。消化器官の中は体の内か外か。消化途中の食物、排出中の老廃物も人の個別性を規定しない。これらの区分規定は対象概念の定義規定としての問題であり、個別対象を定義するものではない。概念としての定義を明らかにしておくことによって、個別対象についての判断を状況に合わせることができる。
[3017]
個別性は階層ごとに現れ、また階層を貫いて現れる。階層ごとの個別性と階層を貫く個別性は媒介関係で相互規定している。個別性は階層に規定されることなく、他との区別として区別のあり方によって規定される。認識主体、主観が対象化し規定することで個別性が現れるのではない。個別性は客観的過程、実在の有り様として現れる。
[3018]
水一般に個別性はない。強いて個別性を求めるなら水分子として区別される。個別性は具体的に現れるのであって、液体としての水は水溜まり、池、川、海等として対象化される。個別性は普遍的に区別されるのではなく、具体的に区別される。物理化学的区別としてだけではなく、社会的、文化的にも区別される。個別性の区別は明らかであるが、厳密な区別ではない。
[3019]
媒介された存在では媒体の階層での区別は直接的であり、媒介された階層での区別は相対的である。媒介された存在は媒体としての対称性にある。媒介された存在の対称性が問われるのは、媒介によって媒介するものの対称性が破れることとして区別が現れるからである。媒介は対称であるものの区別という矛盾にある。
[3020]
媒介された存在を区別する非対称性は媒介過程での偶然の介入である。媒介の過程で媒介される存在は偶然によって修飾され、同じに媒介された他の存在と区別される。媒介過程の積み重なる実在の有り様は時空間的相互区別だけではなく、媒介構造自体に様々な性質の偶然による修飾が加わる。この修飾が個別性を現す。まったく同じ本質の個別であっても歴史的に区別される。それぞれの個別は生成したものであり、生成の過程は時間的、空間的に区別される。存在過程が時空間的に区別される対象として個別がある。「皆同じ人間」でありながら「誰とても同じ人間はいない」ことになる。
[3021]
【個別と普遍】
同じ個別としてある諸個別はその同じということ、同じ運動、同じ性質をもつ個別として普遍性を同時にもっている。同種の個別は他との関係が同じであれば時間、場所に関わりなく同じ関係をになう。「同じ」になって実現している個別は普遍性の一つの表れである。「同じ」であることを確かめる方法はいくつもあり、方法自体が測定尺度として普遍性によっている。個別の本質は保存されている。個別の普遍性はその本質である。
[3022]
普遍と個別の有り様は同じではない。個別は諸個別間で区別される。諸個別間それぞれに、他との関係で区別される有り様が個別の存在形態である。普遍は諸個別の存在形態として、その他の個別に対する同一の関係として、当の個別間の対称性として現れる。
[3023]
普遍は諸個別のように単独では存在しない。普遍は諸個別の存在一般として存在する。世界が一つとしてあることが普遍性の絶対的根拠である。宇宙史の過程で対称性がゆらいで破れて相互作用が現れ、次々と個別が実現してきた。対称性の破れとしての否定は性質の違いであり、空間的、量的に2つの部分に分かれるのではない。全体の有り様が相として質的に区別される部分を表す。個別を実現する宇宙に世界の普遍性がある。存在一般としての普遍性に実現する個別は普遍的性質を現す。対立する性質も相互に区別される個別によって担われる。区別される個別によって普遍的である対称性が破れていることが表される。同じ性質を担う個別は相互に対称であるが、個別として区別されることで全体の対称性が破られていることを表している。破られた全体の対称性は普遍的性質を担う個別間に再現される。破られた全体の対称性と個別間に再現される対称性との違いが存在次元の違いである。対象の対称性としての普遍性は個別存在の普遍性である。
[3024]
性質の異なった非対称の部分間でも量的区別は同じ形式の対称性にある。電子と陽電子の対発生は対称性を破り電荷の違う質であり、非対称性を表す。電子は電子間で対称であるが量的に個別として区別される。電子は電荷を介して質的に違う陽子と相互作用し、量的対応関係で原子を構成する。電子間の量的区別は陽電子間の量的区別と同じ形式にある。量的に同じであるから過不足なく対発生し、対消滅する。電子−陽電子間の非対称性と電子−陽子間、陽電子−反陽子間の非対称性は質的に異なる。この非対称性の質的違い、個別性の違いによって物事の構造が可能になり、実現している。
[3025]
媒介された個別存在はその内に多様な普遍性をもつ。階層が積み重なるほどに階層ごとの普遍的質が多様に実現されている。媒介された個別存在の普遍的質はその媒介された階層の特質である。人間の特質は他のほ乳類より多く、ほ乳類の特質は他の動物より多く、動物の特質は原生生物より多い。
[3026]
【個別を超える普遍性】
主観は個別を超える普遍性を個別対象を反省することによって認識する。個別を超える普遍性は主観と個別対象との関係で認識される観念的な表れであるが、対象間の客観的関係を反映している。
[3027]
普遍性には存在の普遍性と、個別を超える普遍性とがある。存在することそのことが普遍性である。他との連関に全体の一部分としてあること、相互対象化するものとして存在は普遍である。対象性が存在の普遍性である。個別対象の非対称性にもかかわらず、個別対象間に共通する関係秩序が現れる。対象性としての全体の秩序が破れ、非対称化することによって、部分に再生される秩序が個別を超える普遍性である。個別に媒介されながら個別を超えて現れる秩序の普遍性である。個別を超える普遍性として、内容の非対称性が形式の対称性を表す。個別を超える普遍性には個別を超えてしまっているのであるから、個別性はもはやない。
[3028]
媒介された個別間では媒体は異なっても、同じ形質を現す場合がある。鳥の翼と昆虫の羽の関係にみられる相似器官のように。個別として異なるものが環境に対して、他に対して同じ関係を担う。同じ関係としての普遍性が実現する。存在の普遍性ではなく、個別を超える普遍性である。個別間の直接的関係では表れないが、直接的相互作用を超えて表れる普遍性である。個別を超えた普遍性の最たるものが数学概念、論理概念等々の抽象概念として反映される。
[3029]
「普遍」と「一般」は同じである。どちらも対称性を表す。「普遍」は実在の有り様であり、「一般」は表象の有り様である。表象の区分であるから「一般」は反省によって、反映されてある。この「であるから」は根拠を示してはいない、観念的表現である。根拠は対象の反映表象を反省することにあり、反省によって普遍性を一般性として認識する。
[3030]
【普遍と特殊の性質分類】
「普遍」の具体的性質としてとりあえず数え上げるなら、保存性、互換性、変換性、流通性、関連性等を挙げることができる。この逆、否定が特殊性である。
[3031]
保存性は空間の移動、時間の経過、環境条件の変化に影響されない性質である。保存性は対称性と一体の表裏の相補関係にある。変換によっても保存されるのが対称性である。保存性が内容であり、対称性が形式である。保存性は一様性の尺度である。場が一様であることは法則がどこででも成り立つことによって測られ、同時に法則の保存性が測られる。
[3032]
互換性は一定の機能の担体が組み合わされる連関が違っても同じ機能を実現する性質である。異なる連関関係でも組み込まれて同じ機能を実現することが互換性である。この連関関係の違いは連関関係実現の違いであって、目的、機能の違いではない。
[3033]
変換性は媒体に依存しないことである。媒体を変えても保存される性質が変換性である。変換可能なことではなく、保存されることである。ビット・データは2値を区別できる媒体であれば何によっても表現することができる。文字は何に何によって書かれていても、その媒体についての記述でなければ同じ意味を表す。さらに、その意味は何語であっても同じ意味である。媒体変換の容易性を変換性という場合もあるが。
[3034]
流通性は他との交換関係に影響されない性質である。交換される他が違っても保存される性質である。貨幣は多様な商品と交換されて流通する普遍的商品である。
[3035]
関連性は他との関係にによって実現される性質である。すべての存在は他と連関して存在するが、連関の有り様はそれぞれである。それぞれの有り様は多様であっても、関連して、連関をたどることんできる関係にある。
[3036]
【個別と特殊】
質的に異なる個別間では普遍と特殊とを区別するのは媒介関係であり、階層によって区別される。より基本的階層での個別は普遍的であり、媒介されたより発展的個別は特殊である。媒介されてそれぞれの階層で区別される個別でありながら、媒介されて階層を貫いて関係している。一般的に任意の個別どうしを普遍的か、特殊的かと比較しても意味はない。
[3037]
同種の個別が諸個別として区別されるのは個別の本質とは関わりのない偶有な性質によってである。同種であっても個別はその非本質的性質、偶有性によって互いに区別される。個別性としての本質を他との偶然を含む関連で修飾されるが、その修飾は個別の非本質的性質であり特殊性である。
[3038]
特殊は現実の個別存在として、他との相互関連にあって異なった関係にある。同質の部分として区別される個別も、他との関係で異なった現れ方をする。個別は他との関係で特殊である。
[3039]
個別として区別する個別性の規定は他との関係で決定的である。個別規定は当の個別にとって決定的である。他ではない自己を規定するのであるから。当の規定外の規定を加えることもできないし、規定の一部を削ることもできない。当の規定にあるから当の個別である。個別は本質的な規定はもちろん偶然の規定によって多様に規定されているがすべてによって唯一の個別としてある。個別はそれ以上特殊化も普遍化もできない決定的な個別性によって規定されている。
[3040]
個別一般は相対的である。個別性は他との区別としてあり、区別は階層においても相対的であり、階層を貫いても相対的である。個別はより基本的個別を含んで構成され、より発展的個別に含まれて個別を構成する。いずれの個別も本質的に他と区別され、他との偶有性によって具体的に区別される。相互規定関係は変化し、媒介関係には偶然が介入し、個別規定自体が相対的である。日常経験の対象である個別存在は永久不滅ではない。それぞれの個別性は生成消滅する。個別の消滅はその本質が失われることであり、普遍的であろうが特殊的であろうが消滅する。普遍性が消滅するがそれは個別の普遍性である。個別の普遍性は他の個別によって担われる可能性にあって普遍的である。しかし、個別存在は当の諸個別性によって規定されたものとして決定的存在である。相対的個別性の総体としての個別は決定的に他と区別される特殊である。私は多様な面をもち、多様な行動をするが決定的に私である。
[3041]
【個別と類】
一般的に個別は単独で存在し、個別性が相対的に、厳密ではないが完結している。個別単独の存在はより基本的階層での個別性とより発展的階層での個別性が重なり合ってずれがない事で単独性を実現する。個別単独の存在は階層を貫いての個別性が自律している。個別性であるから単独で存在するのは当然で、理由にもならない。
[3042]
しかし、個別としての存在そのものが相互に依存している個別は単独では存在できない。互いに依存して存在する個別が類である。種・類の区別としての類ではなく、存在としての類である。より発展的階層での個別性がより基本的階層での共通の相互作用に依存している存在である。存在を規定する他との関係に、同種の個別との関係がなくてはならない個別の存在が類的存在である。個別間の相互規定性によって、それぞれの個別としての質をそなえる。生物は類的存在であり、ヒトは最も類的存在である。
[3043]
類的存在は個別の特殊な存在形態である。より発展的階層での個別性がより基本的階層での個別性に依存しているのではない。より発展的階層での個別間の依存である。多細胞生物は個体だけであっては絶滅してしまう。動物は植物の光合成に依存しているが、今日の植物の多くは動物なしには存続できない。植物が下等なのではない。また植物、動物という括りだけが類的存在の区分ではない。存在を実現している生活単位での依存関係で類的存在は区別される。
[3044]
【現象の普遍と特殊】
存在の現象形態ではより基本的階層が普遍的であり、より発展的階層が特殊的である。より基本的階層はより発展的階層の媒体である。基本的階層である媒体を特殊化することでより発展的存在形態が実現される。量的にも基本的階層の存在はより発展的存在よりも多い。
[3045]
より発展的階層での関係はより基本的階層での関係より抽象的である。より基本的階層での素過程が再帰することでより発展的階層を媒介し再帰が抽象性を実現する。発展段階を異にする他の存在との関係における超えた普遍性は抽象的普遍性である。より基本的階層では量的な普遍性があり、量に対しより発展的階層では質的普遍性が実現する。より発展的現象形態は媒体の特殊性に依存しない質的普遍性を持つ。質的普遍性は抽象的普遍性である。
[3046]
進化による特殊化は適応による普遍化でもある。進化の系統樹の分岐は特殊化への分化であるが、環境への適応は普遍的形態を実現する。たとえばほ乳類の鯨への進化は、水中生物である魚の形態に似て適応している。媒体の特殊化と存在の普遍化が統一されている。
[3047]
特殊は個別性として現れる。個別は区別される規定性としてあるが、区別されることが特殊化していくことにもとづく。普遍的質が非普遍的質、特殊によって区別される。特殊、非普遍的質は普遍に対する偶有である。非普遍的、偶有的性質の積み重なりとして特殊が実現し、区別される。
[3048]
個別は他との関係で、存在する限りの経過のうちで他と区別され偶有規定を積み重ねる。存在過程は特殊化の過程としてある。多様な関係可能性からひとつの関係を実現することで、特殊化する。個別として存在し続けることは特殊化することである。経験を積むことは個別として特殊化することである。経験を蓄積することは、他との区別を蓄積する。単に経験の記憶として保存されるだけではなく、諸能力の訓練として、免疫として、シワやシミの数として蓄積され、他と区別される。経験の蓄積は、個別性としては特殊化であるが、他に対する対応は普遍化し、個別性を保存する。
[3049]
普遍と特殊は個別の有り様として相互に転化する。普遍的個別が特殊化し、特殊な個別が普遍化する。個別の有り様が変化する場合と、他と区別される個別の他に対する関係が変化する場合とがある。
[3050]
個別の有り様は他との相互連関にあって変化し、他との関係を環境として環境に適合していくことで普遍化する。類の要素としての適応であって、類を構成する個別は個別でなくなることはない。類としての生物種や社会の変化はそれぞれの個体や個人は変化しなくても実現する。類を構成する個別が世代交代することで類全体が変化し、適応する。種や社会に対して変化しない個体や個人も個別単位でありながらそれ自体の類である。生物個体は細胞を個別とする類であり、細胞は細胞器官を個別とする類である。個人も多様な社会関係を担う類としての人格であり、社会関係に引きずられては人格は破綻する。個人が変わらなくても社会は変わるが、それぞれの個人が変わることで社会は劇的に変わる。社会が劇的に変わるには個人の変化、その相乗作用によってである。
[3051]
特殊化の過程としての個別存在は、過程をとおして普遍化する。人は誕生し、成長し、怪我をし、病気を得、結婚し、産み、老いて、死ぬのが普遍的有り様である。途中で事故死、病死するのは特殊である。戦死、事故死、病死が普遍的であるなら社会は維持されず、世代交代も実現しない。個人は生活過程で特殊化し、他人とは違う経験をし、違う人格を形成するが、生活を維持することで普遍的な人の生き方を実現する。
[3052]
第4節 偶然と必然
偶然と必然の問題は決定論が成り立つかどうかの問題であり、歴史の問題であり、自由の問題である。決定論では我々が思い悩むことは愚かしいことである。努力することにも、怠けることにも違いはない。善悪も無意味である。単に自己満足できるか否かの違いである。すべてが必然であるなら、発展は起こりえずすべては繰り返しに終わり、自由など問題にならない。そもそも運動が実現せず、従って存在もない。
[4001]
決定論は偶然を否定する。決定論はすべての前提条件に対応して結果がすべて決定されていると主張する。決定論は条件と結果の対応関係について理解できていない過程を「偶然」と呼ぶに過ぎないと主張する。決定論が否定される今の量子力学では解明されていない隠れた次元での決定性が、まさに隠れていることによって不確定性として現象すると主張する。自由を求める意識も無意識の過程に支えられており、無意識の過程で主観的意志には関わらず決定論が成り立っていると主張する。
[4002]
法則の追求は抽象化の過程であり、獲得されるのは捨象された秩序の関係形式である。抽象された関係形式である法則は完結しており、偶然を含まず、無駄がない。法則だけを扱っていれば世界は決定論的に見えてくる。しかし、法則の実現過程を見るなら、偶然に決定されていく過程が見えてくる。抽象の世界にとどまるつもりならゲーデルの不完全性にも学ぶべきである。論理には論理の形式的限界があり、決定論も論理によっている。
[4003]
気体分子がどの分子と衝突するかは偶然であるが分子間の衝突は必然である。分子間の衝突位置、方向を規定するのは分子を構成する原子の最外殻の電子であり、電子の位置は決定論的に確定できない。衝突過程を計算するには大きさのない質点を想定する。流れを決定する分岐点の先端が無限小に、幾何学的に尖っているなら流れがいずれに向かうかは決定的であるが、先端にもプランク距離の幅がある。量子間の空間での作用はプランク距離内では決定されない。プランク距離の幅は測定によって決定できないのでもなく、理論上だけの量でもなく、量子間の作用を規定する最小の距離である。(存在確率をこのように解釈して誤りはないか。)
[4004]
【必然性】
全体は必然である。全体は一つであるから必然であり、必然であるから一つである。複数あるなら全体ではないし、複数のいずれであるかを決定のしようがない。全体はひとつであり、閉じているのと同じであるから熱力学第二法則が成り立ち、エントロピーは増大する。全体は多様な可能性をもちながらも、最もありそうな可能性へ向かう必然にある。途中偶然による乱れがあっても、全体は最終的には最もありそうな状態、混沌へ向かっている。偶然と必然の問題は部分の問題である。
[4005]
部分間の論理的関係としての必然性は条件と結論の関係にあり、日常経験の関係では原因と結果の関係にある。日常経験では結果から原因が追及され、原因から結果が推測される。日常経験では必然は保留されている。必然が保留されず明らかであるなら、原因の追及も結果の推測も不要である。日常経験での認知対象の必然は無意識下で処理されて、当たり前として気づかない。
[4006]
前提条件がないことには、現に存在している我々には何も問題になりえない。すでに存在している我々には前提条件を明らかにしきれなくとも、前提条件は明らかに存在する。すべての存在、すべての物事には前提条件がある。一つの前提条件からは唯一の結論が導かれることが必然である。異なる前提条件から唯一の結論が導かれることも必然である。一対一対応、多対一対応が必然である。
[4007]
必然性が成り立つためには前提条件に再現性があること、過程に規定性が保存されていること、規定に現れる量関係が一定であること、の3要件がある。
[4008]
前提条件の再現性がないなら、同じことが起こらないのなら必然性は問題にならない。再現する物事があること、同じ物事があることが必然性自体の前提である。すべてが異なるなら混沌でしかない。再現する物事、同じ物事があることが秩序であり、再現する物事、同じ物事が同じ別の物事を再現することが必然であり、秩序である。
[4009]
規定性の保存は再現性そのものである。時間的、空間的に区別される同じ物事の再現が、保存される、再生される規定性の実現である。時間的、空間的区別は部分の区別であり、偶然の区別である。偶然に区別されたそれぞれに同じ過程が実現するのは規定関係が保存されているからである。部分の区別は非対称性であり、対称性が破れるのは必然であるが、破れ方は偶然である。
[4010]
規定に現れる量的関係が一定な定数として表される。自然の過程にはいろいろな自然定数がある。光速度、重力等のように。自然定数の値がどの様に決まったかは物理学の課題であるが、値が一定であることによって必然性が実現する。値が異なればまた別の秩序世界が実現しえるとされる。
[4011]
必然性には量子力学の解釈が基本的な問題としてある。不確定性は観測精度の問題ではなく、観測対象との相互作用による擾乱の問題ではなく、純粋に物理過程の問題とのことである。不確定性は物理過程を確率と解釈するか、状態の重ね合わせと解釈するか、解釈にかかわらず実在の有り様である。さらに物理過程での物理的相互規定関係は生物的相互規定関係を媒介し、さらに社会的相互規定関係、文化的相互規定関係を媒介する。それぞれの相互規定関係内での媒介過程も、相互規定関係間の媒介も偶然の過程にあり、偶然の関係が実現して実在の有り様が決定される。だからこそ人は法則を勝手に変えることはできないが、法則を組み合わせることにより法則の実現過程を操作、制御することができる。しないこともできる。
[4012]
【必然の過程と組合せ】
必然性は継起的関連での一対一対応関係と多対一の収束関係である。継起的関連の素過程はこの他に一対多対応の関係、対応する状態が個別性を失う発散の関係がある。当然に現実は必然性に関わりのない多様な継起的関連がほとんど無限に並行している。
[4013]
継起的関連での一対一関係は形式的変換、置換と同じである。記号操作と同じことが実在過程で実現する。「aならばbである」が「aはbである」にとどまらず、「aがbになる」のである。実在過程で「aがc、d、e、・・・になる」のであっては、必然性は成り立たない。一対多対応が成り立つのは素過程としてではなく、偶然、あるいは条件付過程でである。
[4014]
多対一の関係は収束の関係である。「bであっても、cであっても、dであっても、・・・、aになる」関係である。b、c、d、・・・間の関係はどうであってもaとの関係が規定されている。それぞれの素過程はひとつの別々の変換、置換過程であが、結果が同じになる。多対一対応は必然と言うより当然の関係である。初期条件が違っていても、あるいはどの様な場合でも同じ結果に至る。椀=ボールの縁から玉を落とせばどこから落とそうがやがて一番低い底に停止する。(椀はそのような形状を性質とする器である。)そうならない特異な条件を探すことの方が思考訓練になる。
[4015]
一対多対応の関係は他との複数の関連それぞれが素過程として実現する。それぞれの素過程の実現は偶然であっても、素過程それぞれには法則性がありえる。必然性として問題になるのは多対多対応の偶然性ではなく、個々の素過程の必然的関係にある。形式的には自然数で2+2=4の加算の関係は左辺は右辺と一対一対応する素過程である。しかし逆に4を構成する自然数を求めるなら他に2種類の素過程4=0+4、4=1+3もある。さらに4=4+0,4=3+1の項順の違いが意味をもてば素過程の可能性は増える。多対応の程度は加算a+b、a+n、乗算a×n、累乗n
a、a
n、n
nと大きくなる。(a、bは定数、nは任意の自然数)それぞれの素過程の必然性と素過程の組合せ集合からなる必然性とは次元が異なる。
[4016]
一対多対応関係は一対一対応の素過程が平行する複数の過程として扱うことができる。それぞれの素過程を検証することが可能である。ただ検証そのものは素過程の数が増えるほど困難になり、検証不可能な量になりえる。鍵がわかっていれば多数の可能性から答えを一対一対応で出せる暗号はこの関係を利用している。多様な組合せは必然性を隠すが、個々の素過程に必然性がありえ、だから暗号が成り立つ。
[4017]
恒真関係=トートロジーは必然性ではない。公理系での導出も必然ではない。確定された関係には必然性はない。未然であるから、偶然が関係するから必然がある。物事が実現していく過程、認識が実現していく過程、論理が展開していく過程に必然性は現れる。決定論では偶然は問題にならず、必然性も問題にならない。
[4018]
発散の関係は規定性を失う、秩序が失われる過程であり、防ぐことができない、系内でエントロピーが最大化する過程である。これも必然的な過程である。規定性の再現、秩序の形成は開放系にあって、その一部分が自律することとして可能になる。部分での秩序形成は全体のエントロピー増大過程が一様ではないことにより可能になる。この部分の秩序形成の必然性はわからないが、この宇宙では実現した。
[4019]
【偶然性】
偶然性は必然性とともに、実在の有り様である。実在は偶然の関係を確定していく必然的過程である。存在そのものが偶然の可能性にあって確定しているのである。さらに存在は媒介されることによって可能性を増し、より大きな自由度を獲得する。存在の偶然性は運動の可能性拡大として実現する。同時に拡大する可能性をひとつの有り様として確定する過程が運動過程である。偶然性、可能性がなくては運動自体が成り立たない。すべてが決定されていたのでは変化のしようがない。
[4020]
偶然の組合せは相互規定関係にない事象間の関係である。媒介された存在は媒体との相互作用関係にあるが媒介されたもの間には直接の規定関係はない。同じ媒体による同じ媒介関係にある存在間には媒体を介した間接的相互作用関係はあっても、複数の異なる媒介関係を経た存在間の相互規定関係はほとんど無い。(「ほとんど無い」程度はゼロではない。すべての存在はこの世界の存在として無関係ではなく、「有」として普遍的関連にある。)複数の異なる媒介関係に媒介された存在間の関係、出会いに偶然がある。ただし、完全な偶然ではない。この世界の存在としての普遍性があるからこそ偶然であっても関係が可能である。
[4021]
意識的に偶然を作り出すことの方が困難である。日常経験の場では意識的、無意識的にも何らかの方向性が働き規則性が表れてしまう。日常経験的に偶然を作り出すには乱数を利用することになる。ところが与えられた「乱数」が乱数であることを検証することも困難である。また、与えられた乱数がまがい物でなくとも、表されたことでデタラメさを失っている。与えられた乱数の各桁は決まってしまっている。偶然は不確定性であり、動的である。偶然のデタラメさは確定すると否定される。確定されたデタラメは、偶然性をもたない。偶然性は動的過程として現れる。
[4022]
日常経験的に日常経験を超えるでたらめさを実験することは比較的容易である。木や金属でできた剛体振り子は必然的な運動をする。関節が一つの自由度しかないからである。これに中途に関節を付け関節を2つに増やすことで、自由度を増やすと運動は飛躍的に複雑になる。関節を増やし、自由度を増やすことによって複雑性は累乗される。日常経験の必然性の理解が日常経験相当の限られたものであることがわかる。奇跡的確率の解釈も日常経験的な程度であるから宝くじを買う時、賭け事をする時には客観的評価が必要になる。
[4023]
【偶然と必然】
全体はひとつであり、二つとなく、偶然も必然もありえない。対する部分は多様であり、部分間の関係に偶然はある。部分の相対的全体は普遍的であっても、無二であってもその内の部分は他と区別され、部分間の関係はほとんど無限である。そこで、個々の関係は現実に唯一に決まっていく。
[4024]
部分間の偶然の関係にあって相対的全体の運動が発展する。偶然の関係から相対的全体の運動が実現される。偶然を継起として相対的全体の運動は必然的である。必然は偶然の関係の中にあって、偶然でない関係を実現する。
[4025]
一様な拡散状態に向かうことは熱力学第二法則にしたがう必然である。しかしこの法則の必然は偶然を否定していない。より起こりやすい状態へ向かうことが必然であるとしている。より起こりやすくないことが起こる偶然を否定はしていない。水の中にインクを垂らすなら、一様に拡散することはない。水の内外での温度差による対流れやインクの落とされる位置、量の偶然性の中で水分とインクのそれぞれの分子間張力の違いと分子間衝突の偶然性が働いてインクの模様が表れる。模様の形は偶然であるが、形が表れるのは必然である。
[4026]
必然的過程だけではすべては決定されており自由度はない。偶然の過程と必然的過程を組み合わせることで新たなより発展的自由度を獲得する。獲得される自由度は偶然性があっての自由度である。自由度は偶然によって許される可能性である。剛体振り子を1つの軸で結合した関節は1つの平面で回転する自由度を実現する。さらに1つの関節が加わることで単純な回転にとどまらない複雑な動きを実現する。あるいは、三次元空間での自由度を獲得する。自由度の獲得は新たな偶然の可能性をひらく。
[4027]
必然は不可避なことでも、確定したことでもない実現過程での問題である。対称性の自発的な破れは必然でありながら、その破れ方は偶然である。必然性があっても条件が整わなければ実現しない。確率法則があっても独立事象間での確率を予測はできない。コイン投げの個々の結果は確率で予測できない。
[4028]
必然の関係は偶然の関係の中にあり、偶然によってその継続を断ち切られる可能性をもっている。必然性は偶然性の中で発展し、現実的なものになっていく。
[4029]
人類の歴史の継続、発展は社会活動の蓄積として必然的である。同時に軍事技術の発展も必然的である。軍事技術の管理手法の発展も必然的である。しかし、これらの組合わせは必然ではなく、偶然により人類の絶滅の可能性が存在する。人類の平和的発展を必然的なものにするには、人類絶滅の手段をなくすことである。
[4030]
【必然と偶然の相互転化】
必然も偶然も物事の実現過程に現れる。必然の実現は過程としてあり、偶然の実現は必然的過程間の関係としてある。必然的過程の対立として、あるいは組合せとして偶然の関係が現れる。物事の実現過程にあって、必然と偶然は相互に転化する。
[4031]
必然的過程の対立として簡単な例は物と物の衝突がある。衝突前の運動過程は様々に規定されていても規定関係に変化がなく連続している。衝突は衝突以前の規定関係とは不連続な決定的作用である。衝突は規定関係に連続性のない、不連続な決定的作用である。不連続な規定関係に偶然性が現れる。衝突は質点の力学では必然的過程であるが、質点自体が理想化された概念である。実際に質点の測定精度の問題以前に質点の不確定性、それよりも衝突表面の状態によって偶然性が現れる。
[4032]
必然的過程の組合せは物事の存在の有り様でもある。日常経験の対象は当然のこととして複雑な規定関係で成り立っている。科学が解明できた必然的過程での複雑性は無論のこと、未解明な過程の必然性もある。しかし、すべてが必然的な関係で成り立ってはいない。必然的過程を組み合わせることでこれまでにない作用を実現することができる。必然的過程自体固定的な規定ではなく、変化を規定している過程でもある。変化過程は必然的規定だけでなく、他との関係で決まる。
[4033]
必然性と偶然性の関係ではより重要なことは必然的過程と偶然性からなる物事に必然的運動が現れ、その必然的運動がやはり非決定的運動に転化する過程である。偶然の相互関係に秩序が現れることが偶然性の必然性への転化であり、秩序が崩れ、消失することが必然性の偶然性への転化である。秩序に部分的秩序と全体の秩序があるように必然性と偶然性は部分的過程にも全体の過程にもそれぞれ次元を異にして現れる。
[4034]
全体の秩序が破れ部分の秩序が実現する過程自体が必然と偶然の交替する過程である。全体の秩序が破れるのは必然の過程である。同時に部分の秩序が実現するのは偶然の過程である。できあがった部分の秩序は必然的過程にある。
[4035]
相互作用は必然の過程である。相互作用間の継起は偶然の過程である。継起的相互作用が再帰するのは偶然であり、再帰した作用が過程自体に規定的に作用することも偶然である。再帰した作用の規定によって過程が保存されることで必然性が実現する。偶然の規定関係ではなく、規定構造として保存される作用過程は必然的な過程である。媒介された運動過程は媒介過程が崩れれば消滅するが、媒介過程が保存される限り必然的運動過程にある。運動の発展につれて偶然性と必然性は相互に転化する。運動の発展により、より発展的個別は成立するが、より発展的個別の成立により偶然性は必然性に転化する。
[4036]
物質進化の過程、生物進化の過程も偶然性から必然性への転化の過程である。生物進化では偶然の劇的環境変動があっても爆発的な種の多様化が実現し進化が促進されてきた。生物自体が生物的環境をつくりだし、必然的過程をより確かなものにしてきた。進化自体が必然の過程である。それぞれの種の進化は偶然の過程である。ただし、より進化、適応したものほど環境変化に適応できないという。
[4037]
歴史性を認めるならそこにあるのは必然性だけではない。歴史は単なる必然の過程でも、偶然の過程でもない。歴史は偶然の過程が次の過程を決定することによる発展過程としてある。必然的過程間に偶然が入り込むことによって必然的過程が偶然によって規定される。偶然の関係が実現することによってこれに続く過程が規定される。歴史的「過程」は偶然である。起きてしまったことは事実である。その事実が続く過程の前提条件となり、あるいは環境条件の一部を構成する。偶然の過程が必然の過程と同じく、後続する過程を規定する。この後続過程の規定では、偶然と必然との規定性に違いはない、共に決定的である。一端決定された偶然の過程は必然の過程と共に、後続する過程を決定的に規定する。偶然の関与する決定過程が歴史過程であり、偶然の関与が創造を可能にし、発展を可能にする。
[4038]
相互転化としての偶然と必然の関係は古典的である。複雑系の科学として要素部分間のわずかな規定関係によって全体の秩序が、必然性が実現される事例が紹介されている。複雑系の科学の評価に関わりなく、革命組織理論の新たな挑戦となる。経済理論、経済政策・運営にとっても新たな探求が求められている。全体を全体として制御し、全体の秩序への整合性を部分に求めるのがこれまでの計画性であった。しかし自然は、人間社会も含めそのようには運動していない。自然には全体を計画する者など存在しない。「見えざる手」は部分間の相互規定関係によって制御される。
[4039]
全体の秩序の破れとして部分が秩序づけられるのが全体の過程である。この過程では部分は全体によって規定される。しかし、部分の相互作用として媒介された相互規定関係が相対的全体の秩序を構成するようになる。全体の無秩序化過程での、部分的秩序形成では全体ではなく、部分間の相互規定関係によって相対的全体の秩序が形成される。部分要素の限られた相互規定関係によって全体の他に対する運動が調整される。
[4040]
具体的事例として粘菌の離合集散、社会性昆虫の生態行動等が紹介されている。個体は相互規定関係として、フェロモン等の化学物質を媒体として互いの行動を調整する。化学物質量は環境と集団全体の活動状況によって濃度と分布が決まる。化学物質量の濃度と分布を媒介にして環境に対応し、集団の行動を調整する。コンピュータ・プログラムでも「ライフ・ゲーム」として要素間のわずかな相互関係規則によって、要素集合の離合集散によって秩序を形成できる。これまで「群集心理」として実態のつかめなかった動きも、法則性を明らかにできる可能性がでてきた。
[4041]
第5節 原因・条件・結果
意図をもって対象化する主体にとって因果関係の発見が認識である。意識にかかわらず、因果関係を認識できるものが進化過程で淘汰され、生き残ってきた。因果関係は主観的な物の見方ということにはならない。偶然であっても実現した過程が前提となって後続する過程が規定される。
[5001]
【原因と結果】
物事の作用は一般的に相互作用であり、相互作用の連関として全体の運動も部分の運動もある。一般的相互作用連関には対称性がある。一般的相互作用連関での継起が区別され、時間対称性が破れている。継起では相互作用過程の前後が相対的に区別される。継起的過程での区別は時間の継起する連続を形式的に区分する。
[5002]
因果関係は相対的に自立した物事間の作用関係である。一般的相互作用関係にあって自立した物事が区別されて因果関係が現れる。逆に因果関係として物事の自律性が区別される。相互作用が個別を構成し、自律することで個別間の非対称な方向性のある作用を実現する。自律し、自立した個別間の関係として因果関係が現れる。相対的に自立した物事として、個別の区別によって因果関係が成り立つ。他との相対的区別と継起関係での区別が重なることによって因果関係が現れる。
[5003]
継起的相互作用連関の中から対象となる現象を抽象し、因果を評価するには主観的な評価もかかわる。継起的相互作用連関の客観的過程での対称性の破れとして因果関係は実現するが、因果関係は孤立してはおらず、多様な因果関係が並行し、しかも階層ごとにも区別される因果関係が重なり合ってある。いずれの因果関係を対象化するかは主体による評価である。継起的相互作用連関に因果関係を見いだす評価だけではなく、すでに対象化することとして因果関係の対象設定を主観的に評価している。主観的評価だけに頼るなら、対象の勝手な解釈になる可能性がある。風が吹けば桶屋が儲かる。継起的相互作用連関の対称性の破れとしての因果関係を抽象することが客観的評価になる。
[5004]
原因と結果が必然的規定関係にあることと、結果から原因を探ることとはまったく別のことである。結果から必然的に原因が明らかになる保証はない。因果関係の非対称性は客観的過程にあるが、相対的区別に隠れている。
[5005]
一つの原因が複数の結果に至る可能性があり、偶然によってその一つが実現する。また、一つの結果は複数の原因によることもある。したがって、因果関係は固定的に原因と結果を結びつけるものではない。
[5006]
【原因と条件】
継起的相互作用連関での他との相対的区別は因果関係に対して環境条件としてかかわる。他と相対的に区別される個別間の継起関係に因果関係が現れる。環境条件は継起的相互作用関係そのものであるが、因果関係が実現することによって因果過程に連なる相互作用関係が環境条件と位置づけられる。環境条件の作用の仕方が変わるのではなく、関係が、位置づけが変わる。位置づける評価の問題ではなく、因果関係によって継起的相互作用関係の対称性が破られ、因果関係を取り巻く相互作用関係に非対称性が実現するのである。逆に継起的相互作用関係の対称性が破れ個別が実現し、個別間の相互作用関係が実現することで因果関係が実現する。環境条件に対する因果関係の自律性が問題になる。継起的相互作用関係の対称性が因果関係によって破られ、実現する非対称性によって因果関係に連なる相互作用関係が環境条件となる。当然に環境条件も相互作用としてあるのだから因果関係に作用する。環境条件にあって継起関係が偶然ではなく、個別間の必然として実現することが因果関係である。
[5007]
台風の発生では風の流れが渦を形成し、形成された渦が風を呼び込む。台風と熱帯低気圧の区別は人為的に発生場所と風速で「規定」されているが、客体として渦の形成によって自律的に規定している。赤道付近では南北の温度差が小さいのは地球の形と自転によっている。貿易風や季節風がぶつかるのは地球規模の大気の流れである。これら環境条件にある。また、水蒸気をより多く含めば凝固によって熱を放出し積乱雲を形成しやすい。コリオリの力が働けば渦ができやすい。これら物理法則は普遍的に働く。海水温の上昇から空気の流れが一カ所に集中して上昇気流を生じることを契機として台風が発生する。どこで、いつ、台風が発生するかは偶然であるが、毎年季節的に発生することは必然である。個々の因果関係が重なり合うことで、相対的全体の因果関係が実現する。
[5008]
日常経験での物事の原因には必然的原因と、偶然的原因がある。必然的原因は秩序の前提条件であり、法則の前提である。偶然的原因は継起的連関の先行する過程、あるいは環境条件である。
[5009]
必然的原因は相互作用関係の内部矛盾であり、条件によって規定されつつ矛盾を発展させ、新たな統一としての結果に至る。継起的相互作用間の対立関係が、それぞれの相互作用を継起させて矛盾を生じる。矛盾を契機としてひとつの運動形態が自律し、個別として実現する。対象とする個別規定によって原因の有り様は異なる。相互作用は相互の区別を互に原因としてあり、相互に結果であると規定することもできる。しかし、相互作用は必然的過程であり、原因と結果を関係づける意味はない。
[5010]
他との関連の仕方は偶然であり、従って複数の結果の可能性をもつ。複数の可能性から一つの結果を規定するのが条件である。多様な他との関連自体も相互に区別される個別性として、それぞれに条件として区別される。条件相互に原因に対する規定の強弱、影響力は異なりえる。原因が同じであっても、条件が異なれば結果は異ったものになる。
[5011]
一つの過程の結果は次の過程の原因になるだけではなく、他の過程の条件にもなる。原因、条件、結果の個別性はそれぞれの対象化によって規定される。主体、主観は対象設定でそれぞれを位置づけ、意味を評価する。
[5012]
【結果からの原因】
バタフライ効果は蝶の羽ばたきが、世界の特定地域の気象への影響を主張する。初期値の極わずかな違いが、結果に大きな違いをもたらすことを強調するために言われている。しかし、原因から結果をたどることはできるが、結果からその原因をたどることは容易ではない。より大きな規模での結果はより多くの原因によって規定されている。他の原因を条件として捨象してしまっては全体の因果関係を無視することになる。まして、大規模な過程の結果から原因を論理的に導く法則を発見することはほとんど不可能である。条件を洗い出し、組み合わせ、シミュレーションを繰り返すことで原因に近づくことができる。
[5013]
個々の運動過程の因果関係を取り出すことはできる。しかし、個々の因果関係の関わり合いの組み合わせは、ほぼ無限の可能性をもつ。個々の原因が結果に対してどれほどの規定性を持っているかを評価しなければならない。相互作用関係での個別規定性を明らかにすることで原因としての個別、結果としての個別、条件としての個別を区別して関係を整理することができる。
[5014]
【相互作用と因果関係】
個別の作用は遠隔力ではなく、近接作用である。現実に相互作用している関連の中で作用しえるのであって、現実の相互関係から離れた個別に対して作用しえない。
[5015]
その限界は光円錐として物理的に限界づけられているとされる。すべては光の速度を超えては作用しえない。すべての作用は光が到達することのできる範囲内に限界づけられるという。時間の経過とともに光の届く範囲は拡大し、時間の進行方向を軸とする円錐形の世界が実現していく。その光円錐の外とは相互作用できず、因果関係も成り立たない。
[5016]
因果関係の関連する問題として、予知能力がある。通常言われている動物の予知能力は未来を先取りしているわけではない。単なる環境への反応である。全体の変化の一体性の中で、部分が変化し、部分の変化が全体の変化と同調、連動しているに過ぎない。要は、動植物の予知能力とされるものが、その環境のどの変化に対応しているかを科学することである。予知能力は動植物の能力ではなく因果関係を追求する、人間の論理能力である。
[5017]
環境変化の結果と個体の反応の因果関係ではなく、全体の変化過程が一つの問題であり、その全体と個体の相互関係が別の一つの問題である。予知しようとする現象の実現過程の解明と、実現過程のでの個別性の有り様の解明が課題である。
[5018]
にもかかわらず、なまずの地震予知能力を活用するとして、なまずを水槽にいれてしまうことは、あるとするなまずの「予知能力」を封止するか、制限することになるのではないか。自然環境の中にあって、全体の変化の現象の一つを人が「予知能力」として捨象しているのだから。
[5019]
【因果関係と統計】
現実の運動の過程、展開は偶然のまっただ中にある。しかしそれが現実の運動の中にある限り現実の運動法則にしてがっており、法則は偶然性を貫いて必然性として結果する。相関関係による因果法則発見の有効性はここにある。逆に相関関係の有意性の評価なしに、統計処理の結果を法則視するのはおかしい。
[5020]
疫学的結論を実証的でないとして、非科学とすることもおかしい。初めから実証できる問題は問題にならない。ありそうな因果関係を追求することが実証的方法である。実証できていなくとも、実害があり、解決が求められているなら、因果関係を統計的に求めることは必要である。実証されてからでは取り返しのつかないことが多くあることは、既に実証されている。統計的因果関係はその確率と利害の大きさとで比較して有効になる。
[5021]
第6節 現実性と可能性
【現実性】
現実は主体の対象としてある世界であり、主体の存在する世界である。主体には現実世界を主観に反映する表象世界がある。表象の現実の対象との重なり具合が現実性である。表象は観念であって、主観によって実在である外部対象を反映し、外部対象に重ね合わされる。
[6001]
観念表象は外部対象を反映しているが一面であり、誤ることもある。さらに観念表象間の連なりは隠れた外部対象を探り、外部対象間の関係を超えて広がることがある。観念表象は外部対象を反映するが、外部対象と必ずしも対応しない。その観表象念が外部対象と一致することが現実性である。現実である外部対象として観念表象の対象を見いだせることが現実性である。現実の中で現実性など問題にならない。非現実的であるのは観念表象間の連関に生じる観念の可能性である。観念そのものが非現実的なのではない。
[6002]
また、過去の現実は記憶と記録によってしか知りえない。未来は予測するしかできない。過去から現在への実現過程、現在から未来への実現過程で可能性と現実性が問われる。過去の実現可能性として何があったのか、そのどれが実現したか。未来の実現可能性には何があり、そのどれに現実性があるか。実現できる現実性の尺度としても可能性がある。
[6003]
【可能性】
実在過程が必然と偶然とからなる決定過程であり、主観はこの決定過程を可能性の現実化として反映する。可能性から現実性への転化の認識は主観の最も重要な役割であり、主体はこの過程を制御しようとして主体である。よりよく認識し、制御できるものが生き残り、進化してきた。
[6004]
可能性は他と区別される一個の個別性の実現過程にある。個別の規定関係を保存し続ける可能性と、消滅する可能性が個別の存在を決定する。個別の自律的規定関係が構成されれば必然の過程が実現する。個別の規定関係を実現する他との作用関係は偶然性にある。個別の実現として、あるいは消滅としての可能性にありながら、一つの有り様が実現するのが現実である。偶然の可能性が決定的可能性に転化する。これまで必然であった過程が、偶然に対して分岐可能性をもつ。
[6005]
可能性は客観的過程にあるが、評価は主観の問題である。客観的過程の分岐が可能性として評価される。分岐は対称性の破れる過程の形式的表現である。分岐は区別される個別の生成であり、更新される個別性の実現である。分岐は複数の部分への分裂ではない。分岐が可能であってもいずれが実現するかは決定されていないから可能性である。分岐する過程のいずれが実現するかには異なる確率があり、可能性がある。分岐のない過程には一つの結果しかない。分岐の可能性は認識の可能性ではなく、実在の有り様である。
[6006]
たとえば、鉛筆を机に立たせることの可能性はあるが、長時間立ったままである可能性はほとんど無く、倒れる可能性が絶対的に大きい。立つと倒れるの二つの可能性に分岐する。これは鉛筆の有り様として決定的な分岐である。重力均衡が保存されるか、破られるかで有り様が決定的に分岐する。立ったままの可能性はほとんど実現しないが、倒れる過程での分岐が続く。どの方向に倒れるかはほとんど無限の可能性のうちから一つの方向に決まる。決定的条件は立たせる指との相互作用にあるが、机の振動、先端と机表面の形状、空気のゆらぎ、さらには重力場の歪み等からなる環境条件によっても影響を受ける。1回の試行では1つの状態が決定されて他の状態にはならない。それでも無限の分岐可能性がある。実際に倒れる過程は一つであり、ほとんど無限の、複数の可能性が実現しないこととして分岐している。
[6007]
保存される個別性が必然的過程としてあり、必然であるから個別性は保存される。決定的分岐によって新たな個別性が獲得され、個別性の転化が実現する。他と区別される有り様としての従前の個別性に代わる新たな個別性の実現である。個別性が失われるとすれば、それは部分的秩序の崩壊として実現する。必然的過程なしに可能性は実現しない。必然的過程だけでも可能性は実現しない。必然的過程で保存される個別性と他との偶然の相互作用によって個別の有り様は実現する。
[6008]
過程の分岐は連続してある。環境条件としてある作用状態は常に変化している。
[6009]
鉛筆が倒れる途中でも環境条件は作用し続ける。空気のゆらぎによって方向が変わりえる。それ以前に、主体自体の意志決定も分岐である。鉛筆を立て、倒れ方を試行しようとする主体の意志決定過程も、想像するだけにする可能性との分岐がある。相互作用連関過程に分岐の連続があるが、その中に決定的分岐がある。無限の可能性があるが、ありえない分岐は鉛筆が浮かび上がるとか、立ったまま机上を動き回るとかである。
[6010]
主観はあらゆる可能性を想像することができる。主観自体を否定することも可能である。世界の運動法則、あるいは世界についての認識を否定することも主観には可能である。しかし、この可能性は不可能性である。否定することは可能であっても、その否定によって現実には何事も実現しないのであるから。存在の不可能性は存在に関わりのない観念的空想である。存在が不可能なものでも観念的空想として可能である。逆に観念的空想であることが実現不可能であるとは限らない。主観も客観的過程での可能性を追求しなくては何ものも生み出すことはできない。存在の可能性の実現が運動であるとも言える。運動の必然性は実在の秩序である。秩序は法則としてだけで実現はせず、必ず環境条件にも規定されながら実現する。
[6011]
必然性のない関係に可能性は問題にならない。その必然は現実には未だ実現していない可能性としてあり、これから実現するから「必然」である。しかし、「必然」だけの「現実」を認めることは決定論である。必然であっても分岐は可能である。実現したものだけを認める現状追認、現実肯定では問題の解決のしようも、問題の立てようもない。
[6012]
必然だけであるなら可能性はない。無秩序化としてのエントロピーの増大は必然であり、熱死は単なる可能性ではない。可能性は対称性が破れながらも、秩序が実現することにある。全体の秩序が崩壊していく過程に部分の秩序が現れる。全体ではなく、部分の過程として可能性はある。部分を区別し個別性を規定するのは偶然である。全体の必然性は偶然によって部分を区別し、秩序を再生し、多様な可能性を実現する。
[6013]
【可能性の認識】
実現過程の分岐の法則性と、分岐条件を明らかにすることが可能性の認識である。秩序、法則として必然的過程を知ること、学ぶことができる。その組合せによる分岐を選択肢として明らかにすることができる。必然的過程の組合せに必然性があっても、その分岐の実現には偶然が作用する。必然的過程の組合せの偶然もある。偶然の作用する過程では実在過程を対象としなくては認識は成り立たない。法則性だけを理解してもどのように実現するかを予測することはできない。逆に秩序、法則を無視した可能性を認識することは不可能であり、それは認識ではなく空想である。
[6014]
認識そのものとしての可能性は対象と認識媒体と認識主体が整わなければ実現しない。対象と媒体と主体のいずれかを欠いた認識は無条件に不可能である。実在の秩序としてある客体を対象にしなくては認識ではなく空想になる。媒体なくして対象と関係することはできない。媒体を介してのみ対象と関係することができる。媒体を対象化しようとするなら、主体までも対象化しなくてはならない。主体も対象との関係を体調不良等で維持できなければ認識できない。対象、媒体、主体の相対関係は認識の条件付可能性を構成する。
[6015]
認識成果である概念間の規定関係としての個別論理にあるのは真か偽かであり、恒真関係に可能性の問題はない。論理の可能性は証明可能性として、あるいは弁証法論理として問題になる。証明可能性は概念の規定関係ではなく論理関係と概念対象との対応関係としてある。論理系内で無矛盾であることの証明可能性は否定されている。対象の相互規定関係が論理関係として反映されることが証明可能性になる。
[6016]
弁証法論理も概念の転化可能性、規定関係の転化可能性としてある。可能性を否定し、解釈を不変に保つことは弁証法的ではない。保存される概念、規定と、転化あるいは獲得される概念、規定との関係である。概念や規定の転化可能性を認めることが弁証法であるが、何でも有りの可能性ではない。運動過程での対象の変化としての可能性を反映していなくてはならない。逆に対象の変化可能性での必然性を明らかにすることが弁証法的認識である。対象の運動過程で保存され、分岐し変化する関係として概念を規定する。必然の組合せ、偶然の作用を制御できるかどうかが弁証法的可能性である。対象と主体の可能性を明らかにすることが弁証法論理である。
[6017]
【不可能性】
不可能性には対象の法則、認識の論理を否定する無条件的不可能性と、一定の条件さえ整えば実現の可能性がある条件付き不可能性がある。
[6018]
法則が明らかであるのに、その法則を否定しては現実的に不可能であり、無条件に不可能である。法則が明らかになっていなくとも、実在の秩序は主観に関わりなく実現しているのであり、現実の秩序に反することは起こりえない。現実を否定したのでは何も導き出せない。無条件的不可能性は永久機関のように荒唐無稽な可能性である。原理的不可能性である。無限量を有限量によって量ることは不可能である。対象を擾乱することなく直接観測することは不可能である。人が生物個体として永久に生き続けることは無条件に不可能である。条件を付けることも不可能である。
[6019]
運動の必然的過程での必然的でない結果は不可能である。必然的でない結果は必然の否定である。必然的過程にありながら分岐が実現することに可能性がある。必然性がなかったり、分岐が実現しないなら無条件に不可能である。条件付不可能性は必然的過程の組合せ技術、代替手段が実現すれば可能になる。
[6020]
必然的過程であっても、不可能な条件がある。空間的、時間的、資源的、エネルギー的に条件が制限される。技術改良によっても実現できない条件である。現実に実現できない条件がある。ビックバンの高エネルギー状態を再現実験することは不可能である。自然環境だけでなく、社会環境、文化環境それぞれに制約条件がある。生活が多様化した産業国で国勢調査を1日で終わらせ報告することは不可能である。生活向上を実現して社会環境が変化するにもかかわらず、すべての言語を残すことは不可能である。それでもなお保存する努力に価値はあるが。
[6021]
【抽象的可能性】
条件付き不可能性は、条件が満たされれば可能性へ転化する。それは形式的抽象的可能性になる。現実の運動とまだ結びついていない可能性であり、概念あるいは表象としてある。抽象的可能性は現実の運動に対応するだけで、現実の運動の実現とは重ならない。抽象的可能性は現実の運動によって確かめられていない。抽象的可能性は抽象の形式によって区別される。論理的可能性、理論的可能性、統計的可能性のように。
[6022]
形式論理で偽であれば不可能である。しかし論理的可能性は概念間の形式的規定関係であって、概念が対象を正しく反映しているかどうかは別の問題である。認識の可能性を抜きにして論理的可能性だけで結論を出すことはできない。
[6023]
理論的可能性も論理的可能性と同じく、現象を実現する法則を正しく反映していることが前提になる。理論的可能性は実験によって、観察によって検証される。検証可能性は環境条件と結果が定義されて保証される。環境条件のすべてを明らかにするか、制御することで保証される。すべてとは検証過程で影響する要素のすべてである。環境条件と結果の定義は解釈に関わりなく計測できる量として定める。量れる量によって理論的可能性は検証される。ただし、理論は対象を抽象的関係形式=法則として表現するものであり、法則から一定の条件によって導かれる解を検証する。理論を直接検証するのではない。
[6024]
確率は統計的可能性である。生じる可能な場合を区分できるなら確率を計算することが可能になる。必然的過程の分岐を区別することが確率の基礎である。他と区別される結果の個別性を定義できることが確率の基礎である。極特殊な場合を除けば硬貨投げの結果は表か裏のいずれかに区分される。人は必ず何歳かで死ぬから余命を年齢別に区分することができる。可能な場合は前提条件との対応関係によって規定される。可能な場合の区分の可能性も前提条件の必要十分な定義による。偶然の作用が影響することは当然のことであり、偶然の作用は統計結果では相殺される。作用が相殺するから偶然の作用と見なすことができる。偶然の作用と必然の作用とを区分し、計測を制御することが統計処理である。確率は実現可能性の割合を計算する。
[6025]
抽象的可能性は現実の運動を抽象化、形式化することで実現に至らず可能性にとどまっている。逆に抽象化によって不可能性を排除しているから可能性を獲得している。抽象的可能性を実現するには実現を阻んでいる具象的条件を明らかにし、取り除くなり、他の代替条件を整えることで現実的可能性へと転化する。抽象的可能性のまま環境条件を探っていても観念的堂々巡りに終わって実現できない。抽象によって理念や方向性を見いだすことは重要であるが、実現する過程では抽象によって捨象してしまった具体的条件へ働きかける。捨象してしまった条件が実現の環境条件となる。抽象的可能性は現実の必然性と偶然性の入り交わる運動過程で現実的可能性に転化する。
[6026]
【現実的可能性】
現実的可能性であっても無条件に実現することはない。実在過程は偶然が決定されていく過程であり、偶然の決定の中に必然性が実現していく。現実的可能性は偶然にも実現する可能性である。しかし、その偶然の可能性は偶然であるから変えることが可能である。実現を妨げる偶然の条件を排除し、または実現のための代替条件を獲得することで実現の可能性を高めることができる。詐欺は被害者が実現するもので、詐欺師は実現のための条件を整える。手品の種は代替手段として用意され、偶然を排除するが、手品師の技術的失敗の可能性までは排除できない。
[6027]
現実の諸部分の関係は偶然の組み合わせである。偶然の関係にあるから諸部分である。必然の関係は部分に分けることはできない。対称性の破れですら破れ方は偶然である。それぞれの部分の存在は現実の過程にあり、実現されている存在である。偶然の関連の中に必然的関連を実現することとして実在する。環境条件の中で必然的過程の偶然の組合せによる分岐可能性が次々と確定されて実在が実現していく。確定され実現された可能性は過去の実在であり、確定されていない可能性が未来である。現実的可能性は実現されなくては可能性のまま消える。実現され、確定される可能性は必然の連続としてあるが、実現しなかった可能性も連続しえた必然である。連続しえなければ必然ではないし、既に再現可能性もない。逆に必然は連続可能性である。ただしこの連続性は数学的連続ではなく、最小単位は物理的離散過程である。必然の連続を介する偶然に変化の可能性があり、分岐の可能性がある。
[6028]
主観から評価すれば実在の有り様である運動は可能性から現実性への転化の過程である。この転化がなければどの様な可能性も不可能にとどまる。可能性は汲み尽くされねば不可能である。現実性への条件をすべて整えて後は偶然の確定を待つ。
[6029]
【可能性の実現】
前提条件、環境条件が整うことで可能性は実現する。前提条件は不可欠であり整わなければ実現しない。前提条件が整うことで必然的過程は実現し、環境条件において偶然が確定する。環境条件は実現過程に作用する。環境条件は実現過程を修飾し、個別性を規定する。
[6030]
前提条件が明らかでなければ可能性も問題にならない。前提条件を明らかにすることは必然性があることと、必然性を認識することである。偶然と見えるなかに必然を見いだす能力、技術によって主体的可能性が限界づけられる。科学は法則として必然の秩序を明らかにし、検証し、成果と方法を普及している。偶然を事実として知り、記憶しても可能性を見出すことはできない。偶然の規則性は経験則、ジンクスでありその適用も偶然によって規定される。
[6031]
環境条件は排除しようがなく作用する。孤立した物事は存在しえず、独立事象として抽象される対象も環境条件のなかに実在をえる。環境条件は必然的に作用するが、どのように作用するかが偶然である。
[6032]
夢を実現するために法則を変えてしまうことはできない。法則を明らかにすることはでき、利用することはできる。法則は組み合わせることはできる。法則を実現する条件を整えることはできる。法則の実現を妨げる条件を排除することはできる。
[6033]
条件を整え、あるいは排除できない場合、代替条件を用意することができる。物事は階層構造をなして存在し、運動している。主体である人間はそれぞれの階層でのそれなりの自由度を獲得してきている。物理化学的にはほとんど不可能でも、生理的に生命は存在している。生理的には不可能でも社会的には(科学・技術、産業により)宇宙空間でも生存可能である。社会的には不可能でも精神・文化的には夢見ることが、あるいは騙すことが可能である。逆により基本的階層で可能になる代替条件を用意することも可能である。貧困化によって夢を潰すことができる。戦争、環境破壊、資源・エネルギー浪費によって社会を消滅させることができる。臓器移植、性欲のために人身売買される。薬の乱用は耐性菌を生む。それぞれの可能性を組み合わせた選択可能な代替条件を用意することができる。
[6034]
第7節 論理と歴史
【歴史性と非可逆性】
全体はエントロピーの増大過程として否定しようのない非可逆過程にあるが、このことに歴史性があるのではない。単に物事が運動し、前後関係が区別される時間の流れが歴史ではない。個々の運動は秩序の生成として部分を現し、部分を関係のうちに保存する。環境条件が同じであれば秩序は同じに実現し、同じ存在形態を現す。秩序は時間的にも、空間的にも並行して同じ存在を実現して現れる。時間的に、空間的に区別される部分の繰り返しにも歴史性があるのではない。
[7001]
媒介された存在は他に対して自律的であって、他と独自の相互作用関係を実現する。それでも、より基本的階層に依存しており、枠組みとしても規定されている。媒介による規定が媒介された存在の他との関係も当然に規定する関係がある。媒介関係による規定は媒介された存在に同型の関係を繰り返し表す。媒介されるものは生成され、そして消滅する。繰り返しが可能な、可逆な過程には歴史性はない。
[7002]
親子の関係で子であった者はやがて親になるが、以前の親子の関係が逆転したわけではない。次の世代の親子関係が現れたのであって、関係形式が再現されたのである。社会、組織の成立期、発展期、充実期、停滞期、腐朽期は形態の変化の形式的段階であって、個々の社会、組織それぞれに異なった内容、長さである。これは繰り返しであって歴史ではない。
[7003]
繰り返しも偶然の場で実現し、偶然の決定によって修飾され、違いを生じる。再現性のない繰り返しも歴史ではないが、偶然の過程にも歴史性はない。
[7004]
時間の経過、流れに歴史性があるのではなく、歴史性は新たな秩序、質の創造としてある。新たな秩序、質の創造は繰り返しではない。創造される質は付け加えられるのではなく、全体の質の変化として実現する。対象の発展的運動過程として歴史はあり、運動としての秩序がある。歴史の運動過程での秩序は、対象が複雑であるほど偶然の修飾も大きく、法則としてとらえることが困難である。歴史を見る時には必然による新たな秩序、質の違いと偶然の修飾の違いとを区別する必要がある。
[7005]
歴史は社会史に限られない。自然の過程、宇宙にも、生物進化、人の一生にも歴史がある。
[7006]
【歴史と時間と順序】
歴史性は物理的時間的経過と関係するが、一致はしない。個々の物理的運動過程から抽象された時間と、個々の歴史的運動とは一致するとは限らない。あるいは比例して経過する規則性もない。
[7007]
物理的時間であっても相対的である。相対的に運動する物どうしでは時間の進み方が異なる。化学反応でも温度、圧力、触媒によって時間は変化する。生物的時間、社会的時間のそれぞれに絶対的時間関係はない。
[7008]
系統発生と個体発生の関係、人類史と個人の成長段階の関係は物事の発展順序にもとづいている。段階を追って新しい質が加わるのであって、既に形成された段階を否定するような質は形成されないし、中間段階を省略することもない。昆虫の変態は内部構造を消失する質の否定に思えるが、遺伝子と誘導因子に制御された秩序下にあり、非可逆的な発展過程としてある。
[7009]
どのような飛躍にも前段階がある。発展順序の必然性も秩序であり、論理的である。原因と条件が整って結果が現れる。それぞれの素過程の相互関係には偶然があっても、素過程自体は秩序づけられて推移する。素過程の運動秩序は全体の秩序のうちに組み込まれている。素過程の相互作用にも偶然だけではなく、構造を相互の規定関係として構成する。生物個体は生理的代謝系としての構造を持ち、社会は物質代謝系を生産関係とする。この構造が崩壊すると生物は生存できず、社会も崩壊する。こうした構造も秩序としての構造であり、構造の運動過程にも秩序がある。秩序の発展として構造の歴史が実現する。構造が保存されつつ変化するのであり、継続性と、順序がある。社会が転換する場合であっても、征服される場合であっても、そこでの人々の生理的代謝を保証する社会的物質代謝条件がすべて破壊されることはなく、続く社会構造に引き継がれる。
[7010]
変革の強力な実践手段があっても、手段だけでは目的は達せられない。手段は条件を整えることができるだけである。強力な手段だけの実践は因果関係をも破壊し、目的をも失わさせる。外部から歴史過程に影響を与えることはできるが、目的や方向は内部過程で実現されるものである。対象を構成する構造は内部の相互規定関係であり、目的や方向は内部の相互規定関係によってのみ定まる。外国からの干渉によって、国内の社会構造、秩序を直接変えることはできない。外部の者に可能なのは、自立を失わせ、社会構造、秩序を崩すことである。民主主義ですら輸出することはできない。
[7011]
【歴史と法則性】
歴史も運動であり法則をもっている。しかし歴史のように、より全体的な法則は部分的な運動をとおして現れるのであり、傾向として現れる。歴史法則は部分的運動法則の合計ではない。
[7012]
歴史は相互作用の実現結果であって、発展法則はそのものとして歴史に現れはしない。発展は決定されている過程ではなく、決定していく過程である。決定していく過程は偶然の場で実現される。必然的な素過程が偶然の組合せの場で原因を構成し、あるいは条件を構成して全体の過程を決定していく。相互作用は相対的なだけの関係ではなく、構造化して秩序を実現する。再帰することによって構造自体を再生産し、強めも弱めもする。
[7013]
人間社会は利害の対立をとおして発展してきた。利害の対立があれば社会発展にも力関係が作用する。人間社会の歴史は前進と後退を繰り返して貫かれることこそ、現実的な現れ方である。利害関係は生産関係、社会的物質代謝を基礎にしている。
[7014]
相対的全体の歴史的経過には再現性がある。新しい秩序、質が普及、浸透、確立する時期を経て、次の新しい秩序、質への移行に伴う衰退、腐朽の時期を経る。いずれも典型としては実現せず、偶然によって異なった現れ方をするが、形式には再現性がある。
[7015]
【歴史と論理】
物理法則ですら歴史的に発展してきている。物理理論の発展の意味ではない。宇宙の歴史は物質秩序の発展として現れている。人間社会も宇宙の一部分である。物理法則だけで社会法則が実現しはしないが、物理的基礎なしに社会は存在しない。物理的基礎の上にある人間社会は環境、資源、戦争によって人間社会の発展法則に関わりなく物理的に終わりかねない。
[7016]
歴史には法則性もあるが、個々の歴史的事象を確定的に関係づけることはできない。歴史法則の論理は歴史の実現過程を決定しない。歴史法則の論理は歴史の実現過程で現れるが、実現過程そのものではない。歴史の発展は構造変革としてあり、構造の規定関係は論理的である。規定関係に偶然の介入はあるが論理的秩序がなければ構造な成り立たない。人が構造のすべてを解明できなくとも客観的相互規定関係がある。構造の論理的規定関係の変化過程に歴史法則の論理性が表れる。
[7017]
人類をこの地球上に誕生させたのは、物理的発展、生物的発展の歴史的段階を経てからである。物理法則、生物の法則なしに人類は誕生しない。人類の誕生には歴史法則が貫かれている。
[7018]
しかし、人類の歴史はこの地球からであって、他の太陽系惑星ではなかった。また近所の恒星系の惑星でも知的生命は誕生しなかったらしい。知的生命の誕生の普遍性は、空間的な一般法則としては成り立たない。条件の整った環境でなければ法則は現れない。法則の実現は条件を整えることである。
[7019]
人間社会の歴史の法則は、特定地域の社会発展に標準の形として現れはしない。特定の地域社会が標準的人間社会であることはない。その歴史も標準として実現するものではない。歴史の法則性は具体的な、偶然の条件の中で実現される。地域社会の発展はそれぞれの条件によって異なる。典型的歴史も、典型的社会も存在はしない。それぞれの地域社会の発展の経過は多様である。しかも、それら地域社会は相互に関連している。孤立した地域社会もやがて全体に関連するか、さもなくば衰退する。ただし、今の世界の支配秩序の価値判断は肯定されるものではなく、別の問題である。
[7020]
社会の歴史は個人の実践によって担われるが、個人はそれぞれの社会の歴史的発展段階で形成される。しかも「個人」概念自体歴史的で、近代の生まれである。英雄は歴史を作るが、英雄を作るのは歴史である。様々な能力や気質はどの時代にも存在する。能力はその社会的実践によって鍛えられる。能力を実践する場が社会的になくては、能力は発揮されない。能力が発揮されるには、実践の対象がなければならない。個人の能力は社会では社会的力として発揮される。社会的力は社会的組織関係によって構成され、しかも個人の教育訓練も含む。社会的教育訓練を経ない個人の能力は社会的に役に立たない。
[7021]
正義や英雄の待望は未来を待つだけで、実践的には現実を肯定してしまうことになる。それぞれの社会的実践によって歴史はつくられる。
[7022]
【歴史的到達点】
発展する運動の論理は歴史的段階によって異なる。運動法則の発展が歴史である。単なる繰り返しは歴史にはならない。量的拡大は歴史にはならない。質的変化の蓄積が歴史である。
[7023]
歴史的段階にはそれぞれの段階の社会の運動法則がある。基本的運動法則は歴史的に普遍であっても、歴史的段階を画する社会的運動法則はその時代独特のものである。各時代の社会的運動法則の全体は基本的運動法則をふまえた、発展した独自の運動法則として実現される。
[7024]
歴史的に最も発展した存在を明らかにすれば、歴史的過去の運動法則も明らかになる。逆に過去の存在を明らかにしただけでは、その後の存在を明らかにすることはできない。その場合、可能性を見つけられるだけである。
[7025]
連続した変化であれば一定の論理に従い、量的変化を関数によって表現することもできる。しかし、構造が変わってしまう変化は関数として表せない。構造の変わり方を関数によって明らかにすることはできない。関数は規定関係を量的関係で表したものであるから。さらに必然だけで現実の運動は決まらず、偶然に媒介されて実現する。量的相関関係から計算した答えとは大きな誤差を伴うのが社会的関係である。それこそ多数の思惑の相互規定関係が現実を規定する。それでも個々の過程でのゆらぎをとおして大きな全体として法則性を現す。
[7026]
自由、平等、人権、個人などの概念は歴史的に発展してきたものであって、各時代の考え方を同じ論理で扱うことはできない。それぞれの時代の概念を明らかにすることによって、その時代の論理が明らかになり、それらの概念の普遍的性質と歴史的限界が逆に明らかになる。現代の論理によって過去の社会を描くことは、創作ドラマとしては許されても科学ではない。また社会、歴史の違いを理由とした人権抑圧が、そのまま許されるものではない。それが歴史的到達点の違いであるなら、歴史的に発展させなくてはならない。さらに、権力を持つものが、覇権を主張して他の社会に干渉する場合の論理とも峻別しなくてはならない。
[7027]
【歴史と実践】
歴史性、歴史的必然は過去のことではなく、現在の実践によって現れる。
[7028]
歴史法則の論理は変更することができない。発展には段階がある。基本的段階が整わなくては発展は実現しない。基本的段階を整えることを政策的に実行することはできるが、政策によって基本的段階を超出、無視することはできない。
[7029]
未来の実現過程は変更可能である。歴史法則に従う実践も、逆らう実践も現実にある。実践を放棄して歴史法則は実現しない。歴史の前進に逆らう現在の利益の方が現実的である。建設よりも寄生、破壊の方が安易である。現在の利益を制限してまで変革を実践すること、新しい秩序を創り出すこととしてで歴史法則は実現する。現在の利益を制限する必然性を歴史的に明らかにすることで歴史的実践が実現する。
[7030]
歴史的実践の誤りは批判され、克服されるべきものであり、非難されるべきものではない。皆で作り出した現実であるのだから。秩序に寄生する者、破壊する者こそを非難すべきである。秩序を私物化する者こそを最も非難すべきである。
[7031]
歴史的必然は多数決によって決定されるものではない。歴史的必然を担う者は歴史的である程に当初は少数であり、必然性を実現することによって多数になる。当初少数であった者が多数になることを否定することこそ、現状を固定化し、歴史的発展を否定するものである。
[7032]
歴史は汲み尽くせない。発展が続く限り、社会を発展させる力の対立は新たな段階での対立に転化する。古い対立に対し、対立そのものをなくすることはできない。古い対立に対し、新しい対立はより発展的な対立でなくてはならない。社会的実践が伴わなければ、新しい対立は古い対立以前の社会に後退する。かつてのソビエト連邦共和国が民主主義を否定し、労働者が主人公の国でなかったように。未来に向けて階級対立を止揚する革命がなったとしても、階級対立に変わる社会対立が生じうる。原理的に発展は多様化であり、多様化によって生じる対立を協調させることで豊かさを実現できる。とりあえず、多分、自由と民主主義をめぐる対立が、すべての人の自己実現という内在的、自発的主体確立を目指す勢力と社会的調整秩序から私利を得ようとする、旧守しようとする勢力の対立が新しい人類の歴史を発展させる運動をつくり出す。
[7033]
主要矛盾の止揚が新しい主要矛盾に転化する。新しい対立が対立を無くせないからといって、現在の矛盾に取り組まなくては社会発展は実現しない。
[7034]
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