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第一部 第三編 反映される一般的世界

第13章 現象概念


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第13章 現象概念

「実在」と呼ばれる、現実存在を反省する。「第9章 現実存在」の特に第1節を繰り返すことになってしまうが、次回改訂時に調整することとして、多少の深化のためにあえて重複する。「実在とは何か」は第9章で扱ったが、その反映を含む実在の実現過程を現象概念として整理する。反映された表象間の相互規定関係は思考概念として次章で扱う。[0001]

概念間の関係整理であるからはなはだ観念的である。概念自体が互いを説明し合い、観念的相互規定関係を展開していく。実在の規定関係を反映しているのか不安になってしまう論理の連関である。[0002]

自分自身は個としての存在であり、生かされている存在でありながら、主体として他を対象にして働きかけ、対象のうちに自らを実現していく。また、全体の部分でありながら全体を反映し、かつ自分自身をも対象として認識する。この様に他と、全体と相対する自分自身と世界とを認識するにはそれなりの構成確認が必要である。[0003]

現象は本質の対概念であり、仮象の意味ではない。実在が実現していく過程としての現象である。[0004]
すべてが因果関係によって規定される決定論であるなら現象と本質に区別はない。決定論ですべてが規定されるなら確率も、意志も、自由も問題にならず、我々の無知の程度だけが問題になる。実在は決定されているのではなく、決定していく過程である。可能性が現実として確定していく過程が実在の有り様、現象である。物理的にも、生物的にも、社会的、精神的、文化的にも可能性が現実性に転化していく過程が現象であり、実在の有り様である。[0005]
決定論ではなく現象論である根拠は存在が相互作用であることにある。相互作用は一方が他方を規定するのではなく、相互に規定し合うのであって、規定は双方向に規定し、相互規定されて決定されていく動的過程にある。現象は相互の出会いの偶然性ではなく、相互の実現の偶然性によっている。[0006]
主観にとっても過去の原因によって未来が決まることはない。主観にとっては過去を改めて確かめることも、なおさら変更することもできない。主観にとってあるのは過去でも未来でもなく、決定し、決定される現在しかない。主観にとって過去は決定されてしまっているし、未来は知りようがない。[0007]

形あるものは秩序の現れであり、どこにでも見いだされる。見いだされるのは秩序ある形である。個別科学は秩序を法則として記述する。数学は論理秩序を、幾何学は時・空間秩序を、物理化学は物質秩序を、生物学は生命秩序を、社会学は社会秩序を、等々記述し、説明する。[0008]
どこにでも、何にでも見いだされる秩序は当たり前の世界の有り様である。秩序の有り様は個別科学に学ぶとして、秩序の実現過程が世界理解の対象である。複雑系の科学が秩序を正面から取り上げているが、今日では他の科学でも主要課題である。宇宙進化、生命の誕生、生物進化、生物個体発生、生産関係の成立過程等は秩序形成の主要関心事であるが、ようやく解明のとっかかりがつかめ始めたところである。にもかかわらず秩序形成の一般的有り様を思っても空論にしかならないが、避けることはできない。熱力学第二法則は絶対であると強調されても、現実に実現している秩序形成過程の方が我々にとって重要である。[0009]

第1節 相互作用と媒介作用

存在は運動として実現し、運動は相互作用としてある。すべての存在は相互作用が継起して連関している。継起する相互作用の連関は相互作用に再帰して作用し、媒介作用を実現する。媒介作用は相互作用の連関を相対的全体としての個別存在を構成する。媒介作用によって存在形態は多様に発展する。[1001]

【存在と相互作用】

存在は他との連関であり、他と相互に作用することで他と区別され個別として存在する。作用が一方的であっては作用するもの自体が規定されず作用は実現しない。すべては相互作用として関係し、存在する。物理化学の対象では相互作用が順次分化し、この宇宙は4つの基本的相互作用によってすべての相互作用が現れるとされる。(隠れた第5の作用の可能性も言われるが明らかではない。)生物も化学的相互作用である代謝によって生きている。生物としてのヒトも相互作用関係として社会的物質代謝を組織し、文化を創造してきている。相互作用はすべての存在の有り様であり、相互作用以外に物事の存在はありえない。相互作用がなければ存在を確かめることはできず、自然科学者であっても相互作用にない存在については可能性を思弁するだけである。存在は相互作用での現れとしてあり、未実現の存在は相互作用の可能性としてあり、存在はそのように定義される。すべてが相互作用であるから、結果を推測する認識にとっての困難がいくつも生じる。[1002]

他に作用し、他から作用を受けることが存在であり、存在があって作用するのではない。物事の性質は作用の実現、表れである。ところで、日常経験ではそれぞれの物事はそれぞれに個有の作用をするものとして存在が前提されている。そのものが何であるかは、そのものが他にどのような作用をするかで説明される。相互作用として他に対して現す作用がそのものの性質であり、その性質を担うものとして客体は規定される。それぞれに区別される存在はその作用を実現するものとして対象規定される。物の存在は前提ではなく、結果である。運動の有り様として存在が現れる。物の存在が機能するのではなく、機能によって物を定義する「機能主義」でもない。まして、秩序、法則を思考経済、便利、有効な解釈法とする規約主義でもない。[1003]
しかし、相互作用は常にすべてとして表れるのではない。物理的真空は相互作用の表れない状態である。ただ物理的真空は相互作用が表れないだけで、エネルギーに満たされ我々の感覚では捉えられない粒子が対発生・対消滅を繰り返す「沸騰」するような状態にあると言われる。真空を含む時空間には存在の偏りがあり、相互作用の実現として時空間の秩序が現れる。時空間の有り様、存在の有り様を理解するカギとなる概念が相互作用である。思弁する「有・無」の物理過程とでも言える。[1004]
重力は質量のある物どうしに働く。重力は質量のある「太陽と地球とを相互に引きつける万有引力」として説明される。そして人工衛星が打ち上げられれば衛星との間にも引力の作用が表れる。質量は常に、すべての質量間に作用し続けている。「何もない」空間での重力を観測するには観測機器を送ることになる。質量をもつ観測機器を送りその空間での質量間の作用によって規定される軌道から逆に空間での重力を知る。「質量によって周りの空間が歪められている」とも説明されるが、空間の歪みは相互作用の結果として表れる。[1005]
物理的運動過程であっても孤立した存在はなく、多様な連関のうちにある。電子も陽電子との対発生だけではなく、観測装置との相互作用があって観測される。電子は陽電子とだけ作用するのではなく、電荷をもつ物として相互作用し、質量をもつ物としても相互作用する。電子を定義する複数の性質は電子を実現するそれぞれの相互作用の表れである。まして原子、分子、細胞等々からなる日常経験の対象は解析しきれない複雑な相互作用によって実現され、それら相互作用は重なり合うだけではなく、相互に規定し合って媒介されている存在である。個別は相互規定関係を保存して、他と区別されて存在としてある。物理的存在の基礎がどのようであれ、日常経験の対象も物理的過程を基礎として存在し、連関している。[1006]
相互作用は物理的相互作用、化学的相互作用、生物的相互作用、社会的相互作用、文化的相互作用として歴史的に発展してきている。より発展的相互作用はより基本的相互作用に媒介されて実現している。存在はそうした相互作用の階層構造のうちで規定関係を保存し、相互に区別される個別として実現している。[1007]

相互作用は任意の組み合わせによる関係ではない。互いに作用し合う対象性によって相互に区別し、関係している。作用することとしての対象性は対象によって規定されるのではなく、作用のあり方によって規定される。相互作用の関係は2つの作用によって関連するのではなく、1つの作用の双方向の現れである。力学的作用と反作用に見られるように一方だけでは成り立たない。双方向の1つの作用によって現れるそれぞれの対象は、その作用の関連として存在する。[1008]
しかも相互作用は確定された初期条件によって決定されてはいない。相互作用は初期条件によっていくつかの可能性、あるいは可能性の幅を規定されているだけで可能性のうちでどの様に決定されるかまでは規定されていない。相互作用は初期条件、環境条件によって条件付けられるが、結果が出るのは相互作用の実現、決定過程でである。逆に相互作用の実現がなければ初期条件も環境条件もいかなるものも条件として作用のしようがない。相互作用の継起連関にあって初期条件、環境条件と相互作用の区分は相対的な区分である。どの相互作用も他に対する継起では初期条件あるいは環境条件となる。[1009]
ひとつの相互作用の素過程が他の素過程と連関する過程は不確定な、偶然な過程である。この不確定さは測定精度の問題でも、測定による対象の擾乱の問題でもなく、存在の有り様である。相互作用はこの不確定さを確定していく過程であり、実在の有り様を定めていく過程である。立てた針が倒れる必然性と、倒れる方向の偶然性がよく例としてあげられる。倒れることのない無重力状態では「立てる」ことの意味、上下の区別さえない。倒れる必然性に抗して立て、倒れる方向が偶然に決定される。[1010]

【運動と相互作用】

運動は秩序の崩壊として不定形への変化だけではなく、相互作用としての秩序の実現でもある。運動は相互に部分を構成する相互作用としてあり、部分として相互に規定する形を現し保存する。すべての存在が運動としてあり、存在として他から区別される形を保存する。運動の相互規定関係を単位として、他と区別される部分が保存される。存在単位も区別も観測者にかかわりなく、相互にそして他に対して規定される。[1011]
運動の保存される形は相互に規定し合う変化と不変の対立としてある。互いに作用する運動として変化であり、相互規定関係を保存することとして不変である。互いを部分としての変化と不変の過程にあると同時に、相互作用全体もまた過程として保存される。この相対的全体の不変性は他に対する相互作用の質の保存であり、作用が継続している限りである。当たり前すぎる、あえて言うまでもないはずの客体としての不変性である。[1012]
物理的過程としては秩序が崩壊していく散逸過程と、秩序を構成していく組織過程との相反する過程が一体として実現している。エントロピーの増大過程と自己組織化の過程である。一方のエントロピー増大も一様には実現しない。一様であることは対称性が保存されていることである。一様なエントロピー増大があるとするなら、時間は非対称でありながら空間は対称が保存され、時間の前後は区別されるが空間は区別のしようがない。対称性が保存されることが空間の一様性の表れである。エントロピー増大の過程は自己組織化以前にも完全な一様化ではない。その空間の対称性を破っているのが相互作用であり、相互作用によって区別が表れ、部分の秩序が実現される。相互作用によってすべてが始まる。全体の、空間の対称性を破り、部分の秩序を作り出すのはまず重力であったという。[1013]

【相互作用の存在】

相互作用は孤立した作用ではなく、他の相互作用と並行し、連関して実現している。物事の存在は相互作用の連関として世界全体を区別し、構成している。相互作用の連関はすべての作用と連なり、全体の運動を実現している。バタフライ効果も単独ではない。一匹の蝶の羽ばたきだけでなくすべての蝶の羽ばたき、すべての昆虫の羽ばたき、さらには気流に影響するすべての作用と相互の影響力の違いもあって特定の地域の嵐、すべての地域の天候は規定される。相互規定関係の全体によってきまり、個々の規定に特別な意味はないし、規定関係全体での個々の規定評価は実際には不可能である。[1014]
物理的相互作用の普遍性に物理学的意味はなくとも、世界観、存在論にとっては相互作用の連なり、普遍性は決定的意味を持つ。物理的にも宇宙論ではそれなりの意味があるのかもしれない。物理だけではなく、生物でも地球生物は太陽エネルギーを利用する連鎖の場で存在する。例外である地熱エネルギーを利用する生物との関連は明らかではないが。人間も生物として親がいなければ生まれないし、孤島での漂流者であっても社会的訓練を生かさなくては生き抜くことは困難である。それぞれの存在で相互作用は普遍的に連なり、それぞれの有り様の違いを超えて連なる普遍にある。[1015]
特定の相互作用過程を対象化することで一つの過程として捨象し、取り出すことはできる。相互作用過程は対象化し相互規定関係を観念として抽象するから一つの対象として扱うことができる。太陽と地球の相対的運動解釈は宗教観、世界観の基礎をなしてきた。太陽と地球の重力作用は太陽系の重力関係から孤立して存在しえない。太陽の発熱機構で定まる熱の供給期間の長さが生物進化に必要な時間を保障しなくては我々は存在しない。相互作用の連関のうちにあることが整合性による検証を保障している。単独の存在では整合性を問題にしえない。他と、すべてと連関しているから整合性を検証することができる。一見、整合しない場合でも、他の作用が介在することで例外的関係であることを検証することができる。相互作用の連関として存在の普遍性が保障されているのである。世界は連なって一つの全体をなし、一つの全体としての普遍性が主観にとっても保証される。[1016]

【相互作用の認識】

作用はいつどこにでも実現するのではなく全体の偏り、対称性の破れとして現れる。作用によって「いつ」、「どこで」が他から区別される。相互作用の実現する時、場所に普遍性はない。相互作用が実現する時・空間には必然性も、法則性もない。必然性は相互作用としての秩序であり、秩序形式が法則である。[1017]
他に対していつでも、どこでも同じ作用を実現する運動が普遍的個別存在としての実在を現す。「いつでも」は「常に」ではない。「どこでも」は「あらゆる所」ではない。常にあらゆる所で実現したのでは時間的、空間的に他と区別できず、不変であって作用のしようすらない。「いつでも」、「どこでも」は相対的普遍性である。特定の他との関係では「いつでも」、「どこでも」実現する相対的普遍性である。同じ作用をする普遍性であり、特定の対象と作用し、区別される個別性である。一定の作用を保存するものとして個別存在の普遍性が現れる。[1018]
さらに、相互作用がなければ観測することはできない。しかもその観測は媒介されなければならない。観測は直接の相互作用としてはありえない。客観的関係での相互作用の結果を対象として観測する。相互作用結果を記録した物に標された痕跡を読み取ったものが観測データである。観測データによって対象を解釈し、認識する。観測は科学技術の方法だけではない。人の感覚であっても相互作用過程にありながら、対象とは媒介された関係にある。主観にとっては神経系も媒体である。[1019]

客体間の相互対象化連関の一部分として主体が実現し、主体によって客体が対象化され、主観によって客体が反映される。主体による客体の対象化は客体間の相互対象化と異なるものではない。客体間の相互対象化と主体と客体との相互対象化の対称性の破れは、主体が自らを実現し続けるために対象を主体化し、主体を客体化することにある。主体の自己保存として相互規定関係を超える。主体を客体化しながら対象を主体化する制御手段として、主体のうちに対象を反映し、保存する主観を実現した。対象を反映することとして主体は主観を実現する。主観も客体間の関係にあるが主観は客体間の対称性にはなく、主観と対象である客体は絶対的非対称性にある。[1020]
客体間の相互作用は実在過程として変化、運動の過程としてあるが、主観はこれを対象間の相互規定関係として、普遍的関係に、観念の関係として保存する。主観のうちに保存される普遍的相互規定関係で作用対象を概念として規定し、対象を区別する。普遍的相互規定関係のうちで主観の対象は個別化される。概念として定義されないまでも、観念表象として保存し、操作する。主観のうちに保存される普遍的表象と主体の対象との対立と重ね合わせが主体を客体間の関係で特別な存在にする。[1021]
相互作用関係は主体、主観にとって、対象が部分として孤立していないこと、対象が相互規定として対立を含んでいることを常に気づかせる相対的視点としても重要である。主体、主観と対象との関係も相互作用過程であり、相対的である。主観が対象規定の基準でもないし、主観に反映されることが客体の存在理由でもない。相互規定関係は主観のうちの区別としてだけあるのではなく、客体間の相互作用関係を反映している。[1022]

【相互作用の関連】

個別存在は他に制限されない普遍性も現す。存在としては個別であっても、普遍的関係にある。そして相互作用は質的に相互を区別し対称性を破るが、関係としては相互対称の関係にある。気体はそれぞれ区別される分子相互の衝突を繰り返す相互作用の連関にあり、他に対しては一定の温度としてその全体の運動状態を表す。日常経験の対象はそのまとまりとしてある。人は多様な人々の連関で生活し社会を構成している。概念は概念間の相互規定の連関にあって、意味を表す。[1023]
相互作用は孤立した過程ではなく、継起する関連のうちにある。個別存在間の作用そのものが複数の作用過程として区別される過程でありえる。日常経験の物事は単独の一つの作用にはなく、質的に異なる作用が並行してある。しかも、日常経験の物事はミクロ物質間の相互作用からの階層構造をなしている。日常経験の対象は基礎をなすミクロ作用から捨象されなくては単独の作用として認識することも、表現することもできない。保存される相互規定関係を一つの対象としてくくることで、複雑な規定関係構造を捨象する。日常経験の対象として捨象しているから、意識、無意識に関わりなく安定した生活ができている。[1024]
ひとつの相互作用は関連を経て継起し、他の相互作用に連なる。作用は個別相互の連関を経て他の個別との関連に連なっている。相互作用の連関は作用の継起的関係にある。継起的関連では個別の関係は偶然の連なりでありながら、連関の関係は普遍的である。どの他の個別と関連するかは偶然であるが、他の個別と連関することは必然的である。[1025]

【継起的関連】

継起的関連は相互作用によって区別された個別間の関係である。相互作用は必然の関連であるが、継起的関連は相互作用間の偶然な連関も含む相互作用連関一般である。継起的関連ではひとつの運動過程にあって、初期状態の結果が終期状態の原因となる。初期状態と終期状態の関係は相対的な区別である。継起的関連では原因と結果は形式的対立であり、結果は原因となり次々と継起する。物事に終わりはない。[1026]
初期の結果だけが終期を規定する原因になるのではない。すべての運動過程は相互に関連し、ひとつの運動過程に対して他の運動過程は条件として作用する。継起的関連では、初期の結果が条件とともに終期の原因になる。初期の終期に対する規定は形式的に決まるものではない。継起的関連の組合せが条件となって偶然を介して結果が生じる。[1027]
相互作用が相互規定の実現として必然的関係にあるのに対し、継起的関連は偶然の関係にある。関係としては相互作用も継起的関連も同じに連なる。その実現が必然的であるか偶然であるかに違いがある。この必然性と偶然性の違いは個別間の関係の違いでもある。[1028]
継起的関連は同質の相互作用間だけでなく、異質の作用間の関係にも現れる相互作用の普遍的関連である。継起的関連は相互作用を素過程とし、全体を構成する一般的関係である。継起的関連は他の継起的関連と連なり、全体に連なっている。並行し、重なり合いながら相互に連関する、必然も偶然も区別しない関連である。素過程間の関連は不定であり、方向性はない。素過程間の関係としても、継起的関連には方向はなく、したがって目的もない。[1029]
相互作用は相互を規定するだけではなく、他との連関にも規定的に作用する。ひとつの相互作用の実現形態が他との相互作用に規定的に作用する。相互作用間で相互作用を規定する規定的関連が実現する。相互作用の他に対する規定によって継起的連関が規定的連関へ発展する。継起的連関の規定的関連への発展は新たな秩序の形成である。酸素原子と水素原子間の相互作用としての電子の共有、共有結合による水分子の構成は水素原子が偏極することで水分子の電気的極性が現れる。水分子の電気的偏極は他の水分子との相互関係を中性な、継起的関連ではなく、電気的に規定することになる。[1030]

【個別、個体の構成】

相互作用による相互対象化で対象化し対象化される個別が区別され個体を実現する。個別は相互作用によって区別され、他の個体との継起的関連にあってまた、相互作用を実現する個体としてある。相互作用によって相互に規定し、区別が明らかになるが、相互作用の連関、継起では相互規定関係が保存されている。保存される相互規定関係として他と区別される個別である。物理的に媒介された個別が個体である。[1031]
個体間の相互作用として相互作用の新しい階層を構成する。個別はより基本的階層での個体の有り様で区別されるのではなく、それぞれの階層で他と区別され、規定される。それぞれの階層で相互に規定されて個別性を現す。[1032]
ただ、個別性は階層ごとの形式としてあるのではなく、重なり合って個別性を現す。相互作用によって破られた非対称性が重なり合うことによって個別性が実現する。個別として一つに重なり合って実現する存在は、同時に一つのものがいくつかの性質を担う。個別としての存在が複数の相互作用関連を担う。結果として一つの個別存在は多面で他と区別される。その多面それぞれが相互作用規定によって他と区別される面であり、それらの面の重なりとして個別存在は多面性をもつ。[1033]
個別は相互作用関係、相互規定関係としての関係の結節点であり、多様な関係面の重なり合いとして保存される。個別は保存される規定関係である。保存が実現するのは相互規定関係が相互規定によって安定化することが必要条件であり、相互規定関係が規定関係になることが十分条件である。ただこれでは言い返えでしかない。必要条件としての規定関係の保存、十分条件としての規定関係の実現環境がどうであるかは具体的関係でしか明らかにはならない。[1034]
個別・個体の実現は量子の階層で物理的過程としてまず現れる。宇宙の対象性が次々に破れ、4つの基本的相互作用によって相互作用を担う量子が個体として実現してきた。作用は量子の交換として実現し、作用し、作用されるのも量子である。物理的基礎階層での個別としての存在は量子である。相互作用の物理的な階層は大きさでも、構造でも、作用の有り様でも明らかに区別される。クオーク、素粒子、原子、分子としてある。物理化学的運動の発展、特殊化した存在が生物であり、生物も細胞を単位とし、さらに互いを種として区別し、個体として区別し相互作用によって生きている生物個体である。人間も互いを社会的に区別し、また個人として相互作用しながら生活している。人間精神は個別、個体の運動形態というより、個別、個体としての個人を超えている。ただし、個別存在を超えた価値として精神を認めるのではない。人間間の相互作用なくして精神、文化は存在しない。このことはヒトを人間社会から隔絶して育てるという非人道的実験、思考実験で確かめることができる。非実証的であると非難されても応えようがない。[1035]
個別性はまとまりとしての秩序である。粒子としての個別は時空間に対していくつかの性質を持つ物である。波としての個別は特定の連続した振動である。人間としての個別は生理的代謝過程にありながら生物個体として保存し、社会的役割を担い、気まぐれではあっても人格を現す。主観や観測者が個別性を規定するのではなく、対象そのものの相互規定関係が相互連関のうちにそれぞれの階層で個別性を表す。主観あるいは観測者は特定の階層を対象化し、そこに現れる個別を対象として認識する。主観あるいは観測者は対象を媒介する相互作用関係の他との連関のうちに個別を認識する。[1036]
日常経験の世界では個別、個体は当然の存在単位として対象化されているが、秩序、対称性、相互作用からその構成、存在を理解することで、世界を普遍的に理解することが可能になる。世界感としての表象世界を普遍的表象世界として理解し直すことで、個別、個体としての人間、自分自身の普遍的価値を明らかにできる。[1037]

【相互作用の発展】

相互作用は継起的に連なるだけではなく、構造化する。対称性を破る相互作用は相互規定として新しい秩序をつくりだし、その秩序対称性を破ってさらに新しい相互作用を実現する。[1038]
繰り返される対称性の破れ、相互作用の実現は世界の構造秩序を発展させる。具体的には宇宙の歴史、物質進化としてある。物理化学的構造秩序の実現は対称性の自発的破れとして説明されている。これに続く化学的反応過程から生命の誕生、進化の過程での秩序形成は「自発的」というわけにはいかない。生物は相互作用発展の歴史と環境によって決定、選択される特殊化の過程にある。一般的な構造秩序の形成であれば、普遍的に生命が誕生していることになる。[1039]

相互作用の継起的連関は相互連関の環を構成しえる。相互作用間の組合せとして継起的関連は特殊化する。相互作用が組み合わさることで、相互作用間の相互規定関係が実現する。規定の因果関係が循環する。相互規定が相互規定を保存し、継起的に連関する他の相互作用からは相対的に自律、自立した循環的規定関係を実現する。「鶏が先か卵が先か」の循環は相互規定関係の構造化によって実現する。[1040]
循環構造が環境条件にあって、より実現しやすいことがひとつの決定要因になる。生物の場合には自然選択が働き、単純に環境条件だけでは決まらない。より実現しやすい規定関係が何であるかは個別科学によって明らかにされるのであって、論理によってではない。偶然の組み合わせを超える、起こりやすさである。[1041]
より実現しやすい可能性とともに、相互作用の発展方向を規定するのは偶然の積み重ねである。偶然の積み重ねであっても既に確定し、既にある環境条件として、必然性がなくとも規定的に作用する。発展の歴史的到達点が次なる発展の基礎になる。生物進化での前適応が典型的な例である。進化の過程で既に獲得された器官が新しい機能を担って進化する。保温のための羽は鳥が飛ぶことを可能にした。相似器官は異なる器官が同じ機能を担うようになったものである。進化の速度を規定するのは獲得された器官、機能の活用である。偶然の組み合わせではとても実現しない小さな確率を実現するのは、実現した関係の積み重ねである。全くの偶然の組み合わせから始まっても、始まってからの到達点から次へ進むことで加速する。偶然に決まった方向は袋小路にはまり込むことがあっても、環境の激変を経て打ち破られてきた。[1042]
生物進化の過程では生物種間、個体間の相互依存関係を発達させてきている。共生、寄生や進化「軍拡競争」のように。また代謝系は多様な酵素による循環的連関によって効率のよいエネルギー代謝を実現している。[1043]

化学反応であっても触媒による反応の促進と阻害の作用がある。触媒が反応物質分子の立体構造を変えたり、輸送するなどして反応を促進したり、阻害したりする。生化学では酵素が化学反応の制御に決定的な作用を担っている。細胞レベルでの物資移送、化学反応の組織化は制御された化学反応秩序としてある。組織化は対称性の破れである秩序の崩壊とは逆の秩序の形成である。全体の秩序が破れることによって部分の秩序が形成される。この組織化は外部からの作用ではなく、自己組織化と呼ばれる。[1044]
自己組織化はあらかじめ機能・構造が設定されて組織されるトップダウン型ではない。自己組織化は相互作用の相互関係が保存され、保存される相互関係によって他に対する新たな機能を実現するボトムアップ型の組織化である。「自己」とは新たに実現される機能の担い手であり、自ずから実現するからである。相互作用が保存されるには相互作用の前提条件、環境条件が保存されていて実現する。相互作用過程によって前提条件、環境条件を構成する他の相互作用との関係が変化してしまえば当の相互作用は保存されない。当の相互作用が前提条件、環境条件を擾乱しないことで消極的、静的に保存される。さらに相互作用が前提条件、環境条件を再現することで条件を積極的、動的に保存する。前提条件、環境条件との動的相互関係が強化、拡張されれば、当該の相互作用は量的に増える。前提条件、環境条件との動的相互関係の保存がさらに他との相互作用関係を保存することによって相互作用の構造化を実現する。環境によって偶然に作られるのではなく、環境との相互作用によって自律的に構造を作り出す自己組織化である。新しい質が実現される。[1045]

【媒介作用】

自分自身を含め日常経験の対象は解析し尽くすことのできないほどの相互作用関連にある。人は60兆個の細胞からなり、一つひとつの細胞は細胞器官の相互作用の統合として代謝を実現しており、その細胞代謝は分子の物質代謝として生化学過程であり、分子の相互作用は原子、素粒子等の相互作用過程からなる。それぞれの階層で、それぞれを単位とする相互作用の素過程からなる連関の統合として人は生き、社会で相互に依存し、影響しあっている。素過程の連関構造があるが、その構造を作り、維持するには集合、集積するだけでは実現しない。構造秩序を作りだし、維持する機構が問題になる。中でも生命の誕生は「実証」されておらず、相互作用の発展としての成立を否定する学者すらいる。[1046]

相互作用によって区別される個別は相互規定関係を介して相対的全体としての連関構造を実現する。新たな相互作用系は媒介された個別存在である。媒介によって個別はより発展的個別を構成し、新たなより発展的階層を実現する。より発展的個別、より発展的階層を実現するのは相互作用の媒介作用である。媒介作用の素過程は相互作用であり、相互作用の連関である。媒介される個別存在は動的である。媒介され続けなくては個別性は崩壊、消失する。媒介し続ける組織された相互作用機構が維持されることで個別性が保存される。[1047]
われわれが日常生活で対象とする物のほとんどは媒介された存在である。われわれ自身が媒介された存在である。媒介されたものは媒介するものから相対的に自立していて、単独の存在に見えてしまう。そして、われわれは運動が相互作用であることを見落としがちである。[1048]

媒介作用は物理的相互作用関係をも超える。物理化学的個別の媒介のされ様は個別的である。物理化学の階層では、普遍的秩序も個別として実現する。物理化学の法則は個別の運動法則であり、全体の統計的法則も個別の運動法則の現れである。物理化学の階層を超える生物の階層は階層を構成する個別全体の連関として媒介される。生物個体は他の生物個体との相互依存関係になくては存在を維持できない。他の生物との相互依存関係から離れては物理化学的存在に還元されてしまう。生物の相互依存関連は地理的に分裂することは可能であるが、相互依存関係は保存されていなくてはならない。[1049]
生物個体自体が物理化学的相互作用によって媒介されているが、生物の相互依存関係も物理化学的過程に媒介されている。生物個体の発生、存在は見事に秩序づけられた物理化学的過程に媒介されている。「秩序づけ」こそ媒介作用であり、どのように媒介されているかは生命の発生過程としての大問題である。生物個体生存の前提となる生物の依存関係は物質代謝として食物連鎖だけでなく、呼吸も含むエネルギー代謝としてもある。生物個体の生存は生物の相互依存関係、生物環境から切り離すことはできない。[1050]
さらに人間社会は物理化学過程、生物過程に媒介されて、エネルギー・物質代謝を社会的に組織し、意識的制御対象として実現している。人間の社会関係に媒介されて、文化が実現し、生物的遺伝を超えて、個体が獲得した技能を共有し、続く世代に伝えることを可能にしている。[1051]

【再帰過程】

継起的関連の連なりは繰り返され、繰り返しは時間的過程を回路のように閉じる。単に原因結果の一方向的過程でなく、循環する過程、再帰過程を実現する。再帰過程にあっては結果が原因に作用する。再帰過程は継起的関連の構造化によって実現される。継起的関連が再帰してもとの過程に作用する構造を構成する。再帰以前の、再帰される過程は再帰過程に対する基本過程として区別できる。一つひとつの相互作用過程は基本過程、再帰過程に関わらず普遍的な素過程である。基本過程の結果が基本過程に再帰する過程が基本的再帰過程であり、再帰することによって全体の他に対する継起的関連を制御する過程が拡張する再帰過程である。単に循環するだけではなく、他との相互作用変化に対応して循環を制御するのが拡張する再帰過程である。素過程が組み合わさった複合過程として再帰過程が構成される。再帰過程は素過程に対する複合過程である。再帰過程として素過程としての相互作用は自らの制御を実現する。[1052]
再帰過程モデルとして今日ではほとんど廃れた温度調節器=サーモスタットがある。熱膨張比の異なる二種類の金属を貼り合わせ、電気回路の接点切替器にした物である。貼り合わされた金属は熱膨張比が異なるから環境温度によってその形状が変わり湾曲する。湾曲することによって電気回路の接点が閉じたり開いたりして電流を制御する。制御された電流は発熱器、あるいは冷却器を動かし環境温度を変える。電力の供給や発熱器、冷却器の動作は捨象してここに再帰過程モデルを見ることができる。貼り合わされた金属の環境温度による形状規定。貼り合わされた金属の形状に規定される電気回路の開閉。電気回路の開閉に規定される環境温度。この3つの規定関係によって再帰過程が構成される。3つの規定関係はそれぞれ物理法則を実現する素過程である。再帰することで発熱、吸熱を規定、制御する。そしてこの再帰過程は全体として開かれた環境温度の変化に対して、周囲の環境温度を一定の範囲に収まるように機能する。素過程それぞれは規定されたとおりに動作する。素過程が組み合わさって、複合過程として温度調節を実現する。再帰することで周囲の限られた温度調節をするが、同時に開かれた環境での温度調節も実現する。閉じた再帰過程自体の制御と、開かれた環境での制御とを二重に実現する。ただサーモスタットのように単純な機構では、今日要求される炊飯器の制御機能を実現することはできない。[1053]
温度調節器は工学的工夫によって構成された物であるが、非人工的相互作用過程にあっても普遍的な調整機構として再帰過程がある。 物理化学の階層にあっても平衡状態、恒存状態の維持は再帰過程によって実現される。季節変化はあっても地球の気候のように安定した気象環境には平衡状態を維持する再帰過程がある。生物の階層では再帰過程を組織化して環境に適応したものが自然選択されてきた。[1054]

再帰過程は結果が原因となって新たな過程を繰り返す構造と、結果が原因の条件として作用する構造と、結果が原因を選択、組み合わせる構造がある。[1055]
再帰過程が基本過程の原因となって基本過程が再び繰り返される構造では、基本的過程の結果が時間をさかのぼってその原因に作用するのではない。基本的過程の繰り返し、あるいは基本的過程の継続に対して、その結果が作用するのである。この場合、再帰による効果は質的でも、量的でもない、繰り返しの実現である。再帰によって基本過程、素過程の有り様が規定されることはない。[1056]
再帰過程が条件として基本過程に作用する構造では、基本過程は素過程として継続して繰り返される。再帰過程は基本過程の操作子=パラメーターとして作用する。この場合は再帰による効果は量的である。再帰によって基本過程、素過程が規定され、結果が量的に制御される。[1057]
再帰過程が基本過程の組み合わせを規定する構造では、先行する基本的素過程の結果を引き継ぐ素過程の選択を、再帰過程が規定する。この場合、再帰による効果は質的であり、いくつかの区別される基本過程を選択する。再帰過程自体を変化させる。選択の基準、選択の実現は相互作用の関連系であったり、再帰過程の媒体であったりする。再帰による基本過程の組合せごとに異なる結果をつくりだす。[1058]
再帰過程によって継起的連関に方向性が現れる。他の運動過程との全体的関連の場に継起的連関が方向性をもって現れる。継起的連関は他に対し、生起するごとの不定な運動ではなくなる。継起的連関単独で方向性をもつのではなく、継起的連関を制御する再帰的過程を含む系=システムとして、再帰過程=フィードバック系として方向性をもつ。制御が可能になることによって、方向性が実現される。方向性を実現するために制御する様になるのは、方向性を設定するものとしての意志なりが成り立つ段階でである。[1059]

【媒介された再帰過程】

再帰過程を媒介することで環境への適応は飛躍的に発展する。媒介された再帰過程として生物の認知機能を実現する。個体の運動による結果が環境へ他として客体化される。客体として、他として残される結果を再帰させて次の運動過程を制御する。客体化した運動結果が運動過程自体の変化、あるいは環境の変化を反映するなら、環境の変化に対応できるようになる。また、客体化した運動結果を個体間で共有するなら個体間の運動を調整することができる。[1060]
運動結果として客体化した物は信号として機能する信号媒体である。信号が環境で変換処理されなくとも、再帰して個体の有り様を制御する。運動結果の客体による媒介は情報の客体化である。[1061]
信号は環境で変換され、環境情報を再帰してもたらす。環境での変換処理は、物理的に集積、配置として、あるいは濃度勾配としても環境情報を表徴する。化学的変化が加わるならより複雑な環境情報を表徴する。[1062]
媒介された再帰過程は個体間を超えた協調を実現する。粘菌はサイクリックAMPを介して集合体を作るという。フェロモンは雌雄の関係を取り持つ。言語はまさに人々の行動を調整する。媒介された再帰過程は生物的秩序の実現であり、その根幹にDNA、RNAを遺伝子媒体とする生物個体の再生機構がある。[1063]
運動結果を客体化するだけではなく、主体の内に保存し、運動過程との対応関係も保存することで認識が成り立つ。[1064]
客体化した運動結果に環境の意味を対応させるなら、環境を表現する媒体に、またコミュニケーション媒体になる。言語は人々の行動を調整するだけではなく、対象を表現し、対象操作を表現することができる。さらに表現するもの自体を、対象操作するもの自体をも対象として表現する。文化的秩序の実現であり、秩序形成として文化の創造である。客体としての諸表現等を組合せ、音韻、リズム等の媒体の特色をも利用して表現する。意味の階層をも区別して表現し、意味の深さを表現する。意味表現としての創造であり、価値の創造である。[1065]

コンピュータは工学的に物理的規定関係に従う。人は生物的規定関係に従う。生物的規定関係が物理的規定関係に媒介されながら人はコンピュータをプログラムできる。人はプログラムを作成することによって、出力装置上に有意味な表象世界を構築することができる。出力装置上の表象世界は出力装置の工学的規定関係に媒介されているが、その意味は出力装置からは規定されていない。意味はプログラムされた表象世界内で規定される。プログラムした人の意志に媒介されても、出力装置上の表象世界は人の意志からも自立した世界である。出力装置上の表象世界は工学的規定関係、生物的規定関係からも自立した世界である。[1066]
この媒介関係を超える自由度は論理的にも否定できない。生物的規定関係に従う人が自らから自立した世界を構成できるのだから。それを物理的規定関係に依存しているからと言って自由度を否定できない。コンピュータ・システムは環境条件として与えられる入力データに応じた処理を選択することに機械を超える意味がある。想定外の入力データによる暴走に対しては入力段階でチェックして回避する。[1067]

【相互作用と秩序】

秩序は相互作用の実現であり、相互作用の保存として、相互規定関係の保存として実現する。相互に規定することで互いを区別し、区別を保存する規定が秩序を現す。規定、区別、保存として秩序が形成、維持される。秩序は相互作用の直接的関係ではない。秩序は相互作用によって規定される媒介関係の他に対する関係に表れる。[1068]
単独の存在に対外の秩序はない。複数の要素の寄せ集めでは秩序にならない。秩序は複数の要素間の他に対する関係形式であるが、要素は秩序によって区別される。存在があり、関係して秩序ができるのではない。他からの規制による形式的秩序ではなく、相互作用を内容とする、内容によって規定される自発的秩序である。「自発」的であることの価値判断には関わりなく客観的に実現する秩序である。対称性の破れによる秩序の実現である。相転移の過程である。相転移は双方向であり、一方は秩序化であり、他方は混沌化である。[1069]

秩序は安定状態であり恒存性である。運動変化にあっても関係を普遍に保存する形式として、保存される関係形式として秩序は表れる。コマが回転することによって軸を安定させるように。個別科学で保存則として明らかにされる法則である。相互作用の状態に応じた秩序の形が実現する。相互作用は全体の状態に応じた作用形式をとる。相互作用の規定性は全体の状態によって異なる。逆に全体の状態は相互作用の規定性、相互作用の作用形式として表れる。同語反復であるが実在の有り様と表象の解釈の相補関係を表す。宇宙の膨張によってエネルギー密度が低くなれば、より低いエネルギーでの安定した相互作用が実現する。全体の温度の低下と共に、より低いエネルギーでの構造が安定になる。交通は秩序が維持されることで円滑におこなわれる。信号機が故障するならたちまちにして渋滞が生じ、無駄なエネルギーが使われる。ただし、交通秩序は形式的秩序であり、形式的秩序は自発的ではなく、秩序維持のための機構が必要である。[1070]
安定した秩序は相対的である。秩序の相対性は秩序の時空間的広がりとしてもある。全体が無秩序化に向かう過程に絶対的な時間での安定秩序はありえない。時空間的に相対的安定位置がただ一箇所であるとは限らない。複数の安定場所がありえるし、それぞれに安定の程度に違いがありえることとして相対的である。生物進化の説明に用いられる「適応(度)地形」が相対的安定空間の例である。一度相対的に低い安定場所に落ち着いた秩序は他のより安定した場所に移行するには一度不安定な地帯、過程を経なくてはならない。不安定な地帯、過程を経ることは秩序が崩壊する危険をともなう。秩序崩壊の危険を犯してまで他の安定場所への移行するにはそれなりの機序がある。人間であれば安定度、危険度、可能性を考慮して判断することも可能であるが、意識のない存在では動機に代わる動因があって実現する。生物であれば既得の安定な環境が悪化する等の動因によって移動が試みられる。量子であればゆらぎやトンネル効果による移動も考えられる。[1071]
偶然の過程による秩序実現だけではなく、計画された秩序の実現過程もある。生物はまさに計画された秩序の実現として生きている。生物の計画は遺伝子列として保存され、代謝を秩序づけている。生物の秩序計画は進化の過程で多様化してきたが、生命誕生の過程では偶然の過程であり、蓄積された多様な相互作用を秩序づけて個体群を作り出した。[1072]
環境条件との連関関係にあって保存される相互作用系は環境との相互作用実現条件を擾乱しないで保存するか、再生する。相互作用実現条件を擾乱しないことで関連形式が系として保存され、秩序を表す。あるいは相互作用実現条件を擾乱しても、再生する作用過程が保存され、秩序を表す。秩序は生のまま、環境条件に影響されずに現れることはない。秩序は実現したもの、実現しているものに働きかけるのではなく、実現過程を規定する。秩序は他を規定する力、実在の有り様を規定する力ではなく、相互作用規定関係を保存する作用として実現し、その表れを法則として表現する。[1073]

物事の存在基礎をなす物質の有り様はエネルギーの有り様である。秩序あるエネルギーは秩序を崩すことで仕事をする。秩序あるエネルギーは秩序を失うことによって他を秩序づける。エネルギーは特殊であることによって区別される。エネルギーの一般的な有り様は熱エネルギーであり、すべての秩序が失われた状態は熱エネルギーだけの熱死と呼ばれる。[1074]
本質であっても現象であっても、区別は対称性が破れていることである。「破る者」、「破られる物」があって区別され、区別がつくられるのではない。変化のうちにはも化としての偏りがありる。変化の偏りによって区別される。全体が一様であり、一様であり続けることはない。区別できる偏りは部分的秩序である。部分的秩序があることによって他と区別される。[1075]

秩序を保存するエネルギーは他と特定の作用するものとして量子として現れる。量子は他と特定の作用しかしない。物理学は特定の作用を担うものとして量子を分類し、作用関係でそれぞれ物理量として定義する。量子は定義される物理量以外の性質をもたない。未知の性質があったとしても、その性質は他との相互作用のあり方に現れる。未知であっても相互作用を人工的に実現できるようになれば観測可能になる。いずれにしても定義可能な特定の作用によって、物理量として定義可能な性質によって量子は区別され、存在を表す。量子は決して色や香り、味などという性質をもたない。[1076]
物理量の担体である同じ質の量子は互いに対称である。限られた性質しかもたないものは同じものどうし区別することができない。作用単位として区別し、数えることはできても、作用単位どうしを区別することはできない。陽子と陽子、電子と電子を区別することはできない。作用単位を区別できるのは作用量が時空間としての区別を粒子として現すからである。電子と電子は互いに異なる陽子などとの作用位置、軌道殻にあるから波であっても区別できる。同じ原子核にとらえられた電子は、その軌道殻は区別できても同じ軌道内の電子どうしを区別することはできない。運動は量子に見られるように時空間としての秩序形式を保存することで区別される。逆に時空間は保存される運動の秩序形式である。時空間による区別は作用し合うか否か、作用が届くか否かによる。相互作用が実現するか否かのこの区別にも偶然が介在する。作用には最小単位があり、最小単位を満たすか否かは偶然である。[1077]
量子も粒子として相互に区別することができる。個別として対象化し、対象化されることによって粒子としての時空間位置を区別することが可能になる。しかし、量子の運動量と位置とは相反する関係でしか定まらない。粒子としての時空間位置は量子にとって非本質的な物理量である。粒子として一個一個の位置を区別できるが、どれも同じ量子であって、その位置を占める前にどこにあったかによって区別することはできない。位置を観測できた量子の存在はすでに他のエネルギー形態に転化してしまっている。[1078]
なぜ、「量子」など非日常的で、専門家に頼らざるをえない、誤解しやすい例を引くのか。日常的な物は複雑すぎて「本質」を説明しようとしても単純に対象を定義することができない。物理的にも日常的物質は不純物を含み、純粋物質の物理とは違う性質を表すことがある。[1079]

相互作用の関連は次々と継起して連なるだけではなく、一つの相互作用は複数の相互作用と相互関連する。二次元の面での編み目ではなく、多次元の網目構造である。量的にだけではなく、質的に異なる相互作用間の連関もあり、その連関の全体として世界のすべての相互作用の連なりがある。何次元であるかは物理的に検証されなくてはならないが、四次元時空であっても時空的相互連関、次元にとどまらず、連関の連関として高次元の相互作用関連が構成されている。[1080]


第2節 本質と現象

本質は個別、対象がそのものとして他と区別される決定的性質である。そして本質は個別性に重なり、一致する。[2001]
現象は個別、対象の他の物事との関係における現れ方、あり方である。[2002]

【本質と偶有性】

本質と現象とは反対語ではない。本質の否定は個別対象の決定的でない偶有する性質である。本質的に同じものを個別対象として区別できるのは偶有性によってである。偶然の違いによって個別として区別される。区切られていない連続する存在も他によって隔てられれば複数に分けられる。単独の存在がそれ自体によって分割するなら、それ自体複数の要素によって構成されていることの表れである。分割可能であるのは偶有性によって結びついているからである。分割できない究極の物質単位の追求は本質と偶有性の区別の歴史である。[2003]

偶有性は非本質である。本質は偶有性を含まない。本質だけでは本質を区別できない。区別できない本質は普遍的である。[2004]
個別性は他から区別されることであり、違う性質で区別される。他との関連にあって相互に異なる性質で区別される。性質は他との相互作用の有り様としての現れである。[2005]
量子は性質の異なる相互作用によってそれぞれの存在形態を現す。陽子と中性子間の相互作用で原子核が構成される。陽子と中性子とどちらがいつどこにあるかは核力の相互作用によってのみ定まる。相互作用は必然の過程であるが、どのように作用するかは偶然の過程である。原子核と電子との相互作用によって原子が構成される。原子核内の陽子の数は陽子と中性子の相互作用の安定性によって決まり、原子核を構成する過程に依存している。原子核内の陽子数に対応して原子を構成する電子の数が決まる。陽子と電子の数対応の仕方は他の原子との相関によって過剰であったり、不足したりもする。その電子数によって原子の化学的性質が決まる。必然的な相互作用を実現しつつ、あり方は偶然の作用が実現する。それぞれの偶然の有り様によって原子核相互、電子相互、原子相互が区別される。区別がなければ一塊の元素として量的に他と区別される。一塊の元素内では互いの原子はその相対的位置によってのみ区別され、相対的位置の違いは塊が形成される偶然の過程によって決まる。[2006]

【偶有性による区別】

他と区別され、個別として区別される存在は偶有性によって区別される。日常経験の対象である物質は媒介されており、媒介によって偶然性が重なる。しかもその媒介の段階は階層として幾重にも重なる。人間などは偶有性の固まりのようなものだからこそ、人間の本質を定義することが困難なのである。しかし、地上の人間は60億人を超え、歴史的にはさらに多くの人間がいながら、自分をただ一人の人間と言い切れるのは他の人間とは違う性質によって区別されるからである。同じ人間としての本質が想定されながら、同じ人格をもつ人はいない。人格を構成する様々な性質は生物的にDNAによって基本的に決定され、生育環境によって影響されてきた。そのDNAは多様性を増すことによって生物を進化させ、配偶者同士のDNAを組み替え、かき混ぜることによりさらに偶然を介入させている。生育環境は一人一人、地理的、歴史的、社会的、文化的に違う。一緒に育てられた一卵性双生児にしたところで、兄弟、姉妹として時空間的区別だけではなく、社会的立場が違ってしまう。同じ遺伝子をもちながらも互いを区別し、相手の存在を重要な環境要素として異なった人格が形成される。人格の違いの絶対性は数学の絶対性とはちがうが同じ程度の絶対性である。人格の違いを実現しているのは遺伝形質だけではなく、人格形成過程の偶然性である。すべての人間を区別できるのは遺伝子と、成長過程での偶然性によってである。[2007]

ただし、日常的識別能力、技術では偶有性の差は小さい分野もある。大量生産した製品はどれも同じように見える。しかし同じには故障しないように違いは絶対的に存在する。使用環境の差と製品自体の差によって故障の仕方、時期が違う。わずかな絶対的違いを簡単に、形式的に識別するために製造番号=シリアル・ナンバーを付けて区別している。同じ原因による故障の可能性を容易に見極める手段として利用されている。製造番号、工程番号がなければ故障の原因が普遍的なものか、偶然によるのかを切り分けるのは困難になる。[2008]

性質間には本質的、非本質的の違いはない。個別存在の性質それぞれに本質的、非本質的違いがある。主観的に何を対象化するかはむろん、客体間の相互対象化での相互関係によって本質的か偶有的かが区別される。人間の性質としては人格が本質として対象化されるが、男女、親子等の関係にもそれぞれ本質はある。それぞれの性質が本質であるか偶有的であるかは対象化が基準となって決まる。対象化は見る者による主観的判断以前に対象間の関係にある。女性、男性という性質でも生物的性質と、社会的性質の違いがある。生物的性質であっても染色体による違いと、ホルモンによる違いがある。肉体的なだけではなく、心理的性差もある。それぞれの関係での本質があり、本質的違いがある。[2009]

【現象の実現】

本質に対する現象は本質の実現過程にある。その意味で現象は本質でない現れである。本質的、必然的相互作用関係はそれだけでは実現しない。すべての相互作用関係は連関しており、多くは偶然の連関としてあり、その連関に本質的、必然的相互作用関係が実現する。媒介されたものであるほど偶然の関連をより多く含む。偶有性をともなう本質の実現が現象である。現象は本質と偶有という相対立する関係、性質の実現過程である。日常経験では個別を偶有性を伴った本質として対象化し、当然の個別対象として扱う。[2010]
現象は客観的過程であり、主観に表象されることとしての主観的過程ではない。現象は主観への反映過程としてもあるが、主観によって規定される過程としてあるのではない。まして客観的存在、運動は主観に観測されるためにあるのではない。現象は対象が他との関連のうちに実現する過程である。主観は現象をとらえるが、とらえることのできるのは現象の一面である。[2011]
本質は持続的であり、必然的、内面的である。現象は一時的であり、偶然的、表面的である。一方だけの存在はない。物事は多面的、多様な性質を現すが、同じ条件であれば必ず表れる性質として本質を現す。それぞれの物事はそれぞれの他との連関状況によっても規定される。他との連関状況は物事それぞれでそれぞれの時に世界で唯一に規定されている。他との連関状況が世界で唯一に規定されているからこそ特定の物事を対象化することができる。特定の水素原子は他との連関状況として酸素原子と共有結合して水分子を構成し、その水分子は細胞内で細胞質を構成し、その細胞は私の胃を構成し、その私は作文をしているとしても、その水素原子は水でも、細胞でも、胃でも、私でもない、また酸素原子、炭素原子でもない、またガスボンベの中の水素原子でもない当の水素原子としてある。他との連関状況は観測によって擾乱されることもなく、観測者の意志によって規定されることもない世界での唯一の存在としてある。[2012]
他との連関状況として世界での唯一の存在を規定するが、連関状況は唯一ではなく、不変ではない。連関自体が相互作用の過程であり、変化の過程である。他との連関も複数あり、連関の組合せも変化する。変化する連関の複数の組合せ状況は偶然の過程にあり、この偶然の過程での有り様が現象である。[2013]

【相互作用の本質と現象】

諸々の相互作用は単なる並列的関連にはない。相互作用の関連は基本的相互作用から、より発展的相互作用へと階層をなしている。基本的相互作用がなければ、より発展的相互作用はありえない。より基本的相互作用はより直接的であり、より発展的相互作用は媒介されている。媒介された相互作用は他と偶然に組合わさる。媒介された相互作用は基本的相互作用を再帰的に規定し、他に対して自らを規定する過程を保存する。単に再帰過程が安定する環境条件にあるだけでなく、再帰過程が安定をつくり出すこともある。媒介された相互作用担体の組合せは多様な有り様を実現する。環境条件による多様性ではなく、組合せによる多様性である。より発展的であれば組合せはより多様になる。組み合わせは過程の組み合わせであり、組み合わせ自体を再生し続けることで多様性を保存する。[2014]
日常経験的対象は一つの個別存在であっても複数の作用を現わす。個別性の規定自体が階層をなす連関にあって相対的でありながら自律する他との区別である。その相対的関係にあっての本質と現象との区別は絶対的ではありえない。相対的に現れる個別性が基準となって本質と現象とが区別される。個別があって本質と現象が現れる。個別としての対象でなければ本質は問題になりえない。[2015]
基本的相互作用での本質と現象との関係は比較的に単純である。個別存在は他からの偶然の作用に対応する作用と他に対して自らを保存する作用とからなる。相互作用自体を規定するのが本質であり、相互作用の他との連関に現れるのが現象である。環境条件によって規定されるのが現象であり、環境条件にかかわらず保存されるのが本質である。[2016]
発展的相互作用は媒介された作用であり、本質と現象の関係は複雑になる。基本は基本的相互作用と同じく相互作用の規定関係を実現するのが本質であり、環境条件との連関に実現するのが現象である。ただ発展的相互作用は基本的相互作用によって媒介されており、媒介する相互作用と環境との相互作用の連関を切り分けることが困難である。認識の問題としてだけでなく、媒介された相互作用は媒介する相互作用の規定と、環境との相互作用規定との決定性がゆらぎ、時に逆転もする。新たな媒介関係の実現にはこの規定決定性の逆転がある。それまで環境条件であったものが個別の存在を規定するようになる。現象に過ぎなかったものが本質を実現する。水が凍るのは現象であり、水に変わりはない。しかし、氷は彫刻の素材として作品にすることができる。[2017]

【本質と現象の対立】

本質と現象は相互作用の関連としてある物事のあり方の二面である。本質は自己規定であり、現象は他との連関としてある。他との連関での相互作用と自己規定を実現する相互作用との平衡が維持されることで個別性が保存される。平衡の維持は対立があるから平衡であって、この対立は平衡からずれるときに表れる。対立は相互作用間での対立ではなく、対象の個別性規定を巡る対立である。[2018]
発展的個別の本質規定は基礎的相互作用での現象過程に媒介される。基礎的、基本的個別を実現している現象過程によって発展的個別の本質規定は実現している。基礎的、基本的個別の偶然性が発展的個別の本質規定を揺るがし、対立する。より発展的存在ほど他との関係は多く複雑であり、現象は多様である。より発展的存在ほど本質と現象の乖離・対立が生じやすい。[2019]
個別存在の内的相互作用関連とその構造は、他との相互作用とも相互作用の関連としてありながら、内外の相互作用は互いに否定的である。内的相互作用は他に対して特殊化であり、特殊性を保存、発展させる。他との相互作用は一般化であり、普遍的存在へ還元させる。存在の内的相互作用と他との相互作用は基本的階層では同一の相互作用として連続している。個別存在の内外として存在の個別性によって区別され、存在の内で他と区別される個別存在としての規定性は本質としてある。本質は存在の内的相互作用関連とその構造として規定され、保存されている。存在の個別規定性として本質はあり、他との関連としての現象によって他と区別される。[2020]
本質はそれぞれの個別存在に保存される性質であり、個別性を保存する性質である。本質は個別を他から決定的に区別する性質である。対するに現象は個別存在間の連関とその区別として一般的である。現象は多様な個別存在、異なる個別からなる現象界を実現する。[2021]
逆に、同じ個別存在は同じ本質であるから異なる現象に現れても同じである。その意味で本質は個別性を超えた性質であり普遍的である。これに対し現象は個別毎の環境条件によって異なりそれぞれの個別性を表す。[2022]

【本質と現象の統一】

本質と現象は、対立する2つの別の物ではない。ひとつの物事の存在として統一してあり、個別性を表す。[2023]
日常経験での対象としての個別は現実に多くの階層をなし、各々の階層において多様な相互作用連関にある。相互作用の連関は、それぞれの作用として常に運動しており、かつそれぞれ周囲の物事と、つまり環境あるいは条件によって変化している。その全体の運動、変化が現象である。そしてその運動し、変化しつつも、個別として他から区別されて保存される規定が本質である。[2024]
本質は部分的な性質などではなく、抽象的な存在でもなく、現象として現れている。しかし他との相互作用の過程、個別そのものが変化すれば、当然のこととして、本質は変化する。現象だけの存在、本質だけの存在などはありえない。[2025]

本質と現象との区別では普遍と個別との区別とは重なり合うことはない。本質は個別を超えているから個別を規定できる普遍性である。現象は個別を普遍的有り様のうちに実現する。本質も現象も存在、存在するものではない。本質が存在を規定し、現象が存在を実現する。存在とは別に本質があるのではなく、存在するのではなく、個別存在として本質は実現する。現象として個別存在は現れ、存在の個別的有り様が現象である。[2026]

より基礎的規定とより発展的規定が連関して一つの個別、一つの物事を構成する。より発展的、媒介された個別を構成する相互作用は発展・媒介の程度に応じてより多様な相互作用の連関を実現している。他との相互作用もそれに応じて多様で、多様な現象を表す。現象が多様なだけでなく、本質規定も不変ではない。本質が変化するとしても他との関係にあって個別性が保存されているのであり、実現されている個別規定が変化しても、その変化をとおして保存される個別性をより本質的規定と見ることもできる。変化の変化をとらえるのであって、高次の規定をとるのであって取り繕うのではない。人格は変化し、成長する。[2027]
また現象は環境条件によって異なり、他との関連によって現れが規定されている。現象自体が環境条件としての相互作用の実現である。他との連関に応じて規定される個別は、当然に他との連関が変わることによって本質規定までも変える。より発展的、媒介された個別存在はその階層によって、関係によって異なる本質規定をとる。[2028]
特定の個人も親に対するときは子であり、子に対するときは親である。親であり且つ子である者に相対することはありえない。対する者によって子であり、親である者として一個人を規定することは可能である。親子関係に限らず多重人格者はいくつかの人格を表すという。病的多重人格でなくとも、たいていの人の人格は揺れ動く。揺れ動くから本質的でないとは言えない。揺れ動くのが普通の人格である。[2029]

【本質と現象の相対性】

本質と現象は物事の属性ではない。物事のあり方が本質と現象である。存在の個別規定性は個別の有り様を運動の発展に応じて変える。個別として他と区別される運動が発展して、その本質が変化する。本質は実在の質であるが、実在は他と区別される個別性として現象している。その実在の質が他との関係を発展させて変化する。他との相互作用としてあった現象が、実在の質を変化させ、本質を規定する。[2030]
本質としての存在規定は他との相互作用との関連で強まりもすれば、弱まりもする。存在の内的相互作用とその構造が、他との相互作用との関連で存在規定性を失うこともある。他との相互作用との関連が構造化し、存在の規定性を実現するようになれば本質と現象の関係は逆転する。媒介する本質が媒介されるものの本質に取って代わられる。それまで本質であったものの規定が限定され、それまで現象であった他との相互作用が本質規定になる。それまでの本質は新しい本質を媒介するだけの規定になる。質的変化、相転移として本質の変化は劇的に現れる。しかしその質、その相における本質であって、その質、その相を実現している媒体の変化ではない。[2031]
現象は環境条件によって現れが異なる。特定の人物であっても、環境条件、関係によって立場、対応は異なる。多面性として言い表されるそれぞれの性質は時と場合に応じて変わる。環境条件によって異なる有り様が現象規定である。現象規定が変わりえることとして存在規定がある。個別存在は個別性の保存としてその本質を現し、個別性の実現として現象する。個別存在は現象として環境に応じ、他との相関によって変わる。保存される本質と変化する現象として個別の存在規定がある。[2032]
人は人間関係によって様々な立場をとる。家族関係、地域関係、職域関係、経済関係、政治関係、文化関係等、それぞれの立場でのその人の本質的あり方があり、これが本質の現象規定である。これら多様な現象規定をとりながらも、生活、生き方を貫く人格としての本質が存在規定である。[2033]

【本質と現象の認識】

本質と現象は認識の対象でもある。主体、主観は他に働きかける時、本質と現象によって対象の個別性を規定し、切り出し、個別対象の他との連関関係を操作する。本質と現象の対象認識は実践において個別存在として確かめられる。主体の働きかける対象は本質でも現象でもない個別存在である。[2034]
認識の対象としてはより本質的か、現象的かの相対的関係がある。認識では本質には比較してのより本質的関連がり、現象には比較はない。すべての存在、運動は現象としてあり、「より現象的」などということはない。[2035]
相互作用の関連の一部として認識過程があり、直接に認識するのは現象である。認識は相互作用の関連をとおして対象の相互作用を反映する。認識過程は対象の内的相互作用と直接はしない。対象の内的相互作用の他との関連における現れを認識する。[2036]
しかし、認識は現象にとどまらない。相互作用の関連をたどることによって、対象の内的相互作用を論理的にとらえる。他との、環境条件との相互作用は対象個別を構成する相互作用関係と連なっていて、本質的相互作用は現象的相互作用を介して認識しえる。相互作用間の関連から、対象本来の内的相互作用を本質として認識する。[2037]
主観・主体による対象化は本質を認識しようとして選択的に関与する。対象の連関関係に枠組みを設定してしまう。主観・主体はその方向性によって評価し、評価した個別を対象化する。無意識にでも評価した個別対象の本質を問題にすることになる。さらに、主観・主体は直接本質を対象にするのではなく、現象過程で対象と相互作用する。相互作用の連関としては認識も含めすべてが現象過程としてあり、主観・主体による対象化は現象過程を擾乱してしまう。主観・主体は直接ではなく、対象を反省することでその本質を認識することが可能になる。[2038]
現実的な存在として、本質は単純であり、現象は豊で複雑である。一般的普遍的存在として、本質や現象を語ることはできない。[2039]


第3節 個別・特殊・普遍

普遍と個別はかって「普遍論争」と呼ばれる存在の有り様解釈の大問題になった。「実在である普遍が個別として現れている」とする実在論か、「個別間に表れる共通の性質名が普遍である」とする唯名論か。実在論と唯名論とを折衷するつもりも、並立するつもりもない。現象としての物事の有り様を整理するだけである。[3001]
普遍・特殊・個別の関係は、類・種差・種の関係でもある。普遍・特殊・個別は内容であり、類・種差・種は形式である。この解釈では「普遍が特殊化することで個別が実現する」ことになる。存在の有り様はそれほど単純ではなく、存在の普遍性と、存在を超える普遍性とがある。[3002]

【存在と性質】

物事の存在を対象化するか、物事の性質を対象化するかの違いとして対象の存在構造、対象の現象過程の理解が問われる。日常経験での物事の存在と性質とは異なる有り様に思える。対象として保存される物事が存在であり、他との関係で現れる対象の作用が性質である。[3003]
日常経験では存在があって性質が現れる。対象存在の個別性が前提になっているのが日常経験の世界である。日常経験で主体はどのような性質をもつものかとして客体を対象化する。主体にとっては対象との存在関係が実践の基礎になる。主体は存在関係の上で対象の性質に応じる。存在として対象化することで主体は対象を明確化できる。主体の認識も対象を個別として抽出する機能を特化して進化してきている。対象を個別として操作する関係で主体は自らを制御する。主体は個別としての存在を対象化することで、自らの制御を容易にしている。日常経験の対象では存在と性質は乖離した物事の有り様である。「存在はこれこれの性質をもつ」として表現される。日常経験を踏まえながらも対象の個別性を超える普遍性を追求する。[3004]

個別存在は他との連関に保存される相互作用関係の節であり、媒体である。相互作用によって実現する多数の個別が普遍的存在である。相互作用が存在を規定し、相互作用の普遍性が存在の普遍性となって実現する。普遍性自体が性質であるが、普遍的性質は質的に多様な物事に共通な性質であり、あるいは特定の物事の多数にある性質である。いずれであっても、性質は他との相互関係で実現する作用である。性質の普遍性は相互作用の普遍性である。存在であっても、性質であっても相互作用の現れである。相互作用の表れとして普遍性と特殊性が区別される。[3005]
相互作用はより基礎的階層が普遍的であり、より発展的階層が特殊である。より発展的階層が実現する際にはそれまでのより発展的階層がより基礎的階層になる。相対的にそれまで特殊であったものが普遍的になる。これは存在についての普遍と特殊の転化関係である。[3006]
質的に異なる相互作用関係で他との関係に同じ形が実現することがある。生物の相似器官のように。形の形成は秩序の実現である。同型の秩序の実現として普遍性の実現である。それまで普遍的でない特殊な関係が普遍的な関係になる。これは性質についての普遍と特殊の転化関係である。この場合でも秩序が表れる関係は媒介された階層でである。媒介された階層はより発展的階層であり、より基礎的階層に媒介されている。より発展的階層であるにもかかわらず普遍性が現れる。存在としての普遍性ではないから基礎的階層を超えて、個別存在を超えて実現する。[3007]

【個別の存在】

個別は一つひとつの物事である。日常経験のほとんどの対象は当然のごとく一つひとつの物事として区別でき、名づけられている。日常経験の対象は名前によって区別される。日常経験の対象は主体によって対象化されている物事であり、それを主観が認識するのであるから区別は自明に思える。しかし、よくよく考えると実在の境界はそれほど明確ではない。個別の境界設定、区別は主観の都合によるのか、実在の自己規定に基づくのかが問われる。[3008]
日常経験では意味あるものとして個別は対象化される。主体によって意味の単位として個別は対象化されている。意味は主観による価値づけであり、主体と対象との関係で意味づけられ、その意味の媒体として個別が対象化される。意味づけられた対象としての個別は主観的に評価された個別表象である。主観にとって対象は個別表象として対象化され、個別存在に重ね合わされる。主観は個別表象を個別存在としての主体の対象に重ね合わせて操作し、検証する。個別存在である主体の個別性が、対象の個別性の基準になる。[3009]
名づけられている物事の存在単位として個別をとらえるのは簡単である。ミカン、リンゴ、箸、茶碗、等々。ただそれらは皿の上、テーブルの上、あるいは店頭の棚の上等々に他と空間的に区別されることによって枠づけられて個別性が明らかになっている。ことば、名前によって対象化されるのは観念表象でしかなく、表象に個別性はない。個別は既知の物事に限られない。未知の物事を対象とする時に個別性が問題になる。逆に個別性が明らかでないから未知なのである。未知の対象を含むすべての存在の個別性の概念が問題になる。[3010]

主体の対象として扱う単位としての個別性は日常経験で身につけている。対象を扱う主体の個別性を基準に対象の個別性は自明である。しかし、主体の個別性を問うなら、個別性は決して自明ではない。さらに、非日常の対象では量子の個別性は粒子としての現れである。相互作用としての運動において、相互規定される存在単位がどのように実現されるかが問題である。アナログ−デジタル(A−D)変換としての数学的、工学的量子化ではなく、存在の運動単位実現の機序が問題である。[3011]
A−D変換では連続量をサンプル量に分割し、分割されたそれぞれの部分を離散量で表現し量子化する。部分の離散化は手続きが明確で機械によって処理できる。これに対し存在の個別化は対象全体を他から区別して個体として対象化する。部分の離散化と全体の個別化という大きな違いがある。全体の個別化は曖昧で、模糊として工学的処理は難しい。しかし、全体の個別化も結果として、日常経験の中では明確である。物理化学的存在も、生物個体も、個人も間違いようなく区別できる。[3012]
個別は部分として独立していながら全体の一部である。全体の存在として全体の運動の一部としてありながら、特定の階層において他と区別される部分である。個別は一つの相対的全体として、相互作用の過程として存在し、他と関係している。個別はその内により基本的な個別を構成要素として含む。物理学では「超ひも」が時空間を構成する物質の最小単位とする考えもある。量子は波動でもあるが粒子として個別性を表す。生物の生化学反応は連続する代謝過程であるが、膜によって、免疫系によって個体を環境から区別している。人間は自己同一性=アイデンティティを求め、自己同一性に依存している。生物個体も種も、人間個人も社会も自他を区別するために懸命の努力を続けている。他との、環境への依存として普遍的存在でなければ生きていくこともできないが、個としての生活主体でなければ生存できない。自分の自覚なくして自立した社会生活はできない。この個別と普遍とを概念として定義しようとするのであるが、簡単な命題形式で表現することがなかなかできない。[3013]

【個別性】

個別は他と区別される存在単位である。個別は単独の存在であるが、絶対的単独、孤絶ではない。個別は他との連関のうちに区別されて限定されるものである。連関を実現している普遍性が区別されて個別を実現するのである。[3014]
個別は他と決定的に区別される本質規定にありながら、具体的に他と区別される偶有性にある。本質規定を保存することで確かな存在でありながら、偶有性によって不確かである。他との関連による規定である偶有性は区別を曖昧にする。しかし、偶有性は本質的を同じくする個別間を区別する。[3015]
実在の普遍的有り様を個別として他と区別するのが個別性である。相互作用によって相互に区別する規定性が個別性の根拠である。この個別性は改めるまでもなく直接に区別する。問題になるのは媒介された存在の個別性である。普遍的有り様が媒介されて特殊な有り様として個別を実現する。[3016]
ヒトを対象とするとき、受精後何週目から人と認めるか、脳死判定での死の定義等は個別性を規定しない。消化器官の中は体の内か外か。消化途中の食物、排出中の老廃物も人の個別性を規定しない。これらの区分規定は対象概念の定義規定としての問題であり、個別対象を定義するものではない。概念としての定義を明らかにしておくことによって、個別対象についての判断を状況に合わせることができる。[3017]

個別性は階層ごとに現れ、また階層を貫いて現れる。階層ごとの個別性と階層を貫く個別性は媒介関係で相互規定している。個別性は階層に規定されることなく、他との区別として区別のあり方によって規定される。認識主体、主観が対象化し規定することで個別性が現れるのではない。個別性は客観的過程、実在の有り様として現れる。[3018]
水一般に個別性はない。強いて個別性を求めるなら水分子として区別される。個別性は具体的に現れるのであって、液体としての水は水溜まり、池、川、海等として対象化される。個別性は普遍的に区別されるのではなく、具体的に区別される。物理化学的区別としてだけではなく、社会的、文化的にも区別される。個別性の区別は明らかであるが、厳密な区別ではない。[3019]
媒介された存在では媒体の階層での区別は直接的であり、媒介された階層での区別は相対的である。媒介された存在は媒体としての対称性にある。媒介された存在の対称性が問われるのは、媒介によって媒介するものの対称性が破れることとして区別が現れるからである。媒介は対称であるものの区別という矛盾にある。[3020]
媒介された存在を区別する非対称性は媒介過程での偶然の介入である。媒介の過程で媒介される存在は偶然によって修飾され、同じに媒介された他の存在と区別される。媒介過程の積み重なる実在の有り様は時空間的相互区別だけではなく、媒介構造自体に様々な性質の偶然による修飾が加わる。この修飾が個別性を現す。まったく同じ本質の個別であっても歴史的に区別される。それぞれの個別は生成したものであり、生成の過程は時間的、空間的に区別される。存在過程が時空間的に区別される対象として個別がある。「皆同じ人間」でありながら「誰とても同じ人間はいない」ことになる。[3021]

【個別と普遍】

同じ個別としてある諸個別はその同じということ、同じ運動、同じ性質をもつ個別として普遍性を同時にもっている。同種の個別は他との関係が同じであれば時間、場所に関わりなく同じ関係をになう。「同じ」になって実現している個別は普遍性の一つの表れである。「同じ」であることを確かめる方法はいくつもあり、方法自体が測定尺度として普遍性によっている。個別の本質は保存されている。個別の普遍性はその本質である。[3022]
普遍と個別の有り様は同じではない。個別は諸個別間で区別される。諸個別間それぞれに、他との関係で区別される有り様が個別の存在形態である。普遍は諸個別の存在形態として、その他の個別に対する同一の関係として、当の個別間の対称性として現れる。[3023]
普遍は諸個別のように単独では存在しない。普遍は諸個別の存在一般として存在する。世界が一つとしてあることが普遍性の絶対的根拠である。宇宙史の過程で対称性がゆらいで破れて相互作用が現れ、次々と個別が実現してきた。対称性の破れとしての否定は性質の違いであり、空間的、量的に2つの部分に分かれるのではない。全体の有り様が相として質的に区別される部分を表す。個別を実現する宇宙に世界の普遍性がある。存在一般としての普遍性に実現する個別は普遍的性質を現す。対立する性質も相互に区別される個別によって担われる。区別される個別によって普遍的である対称性が破れていることが表される。同じ性質を担う個別は相互に対称であるが、個別として区別されることで全体の対称性が破られていることを表している。破られた全体の対称性は普遍的性質を担う個別間に再現される。破られた全体の対称性と個別間に再現される対称性との違いが存在次元の違いである。対象の対称性としての普遍性は個別存在の普遍性である。[3024]
性質の異なった非対称の部分間でも量的区別は同じ形式の対称性にある。電子と陽電子の対発生は対称性を破り電荷の違う質であり、非対称性を表す。電子は電子間で対称であるが量的に個別として区別される。電子は電荷を介して質的に違う陽子と相互作用し、量的対応関係で原子を構成する。電子間の量的区別は陽電子間の量的区別と同じ形式にある。量的に同じであるから過不足なく対発生し、対消滅する。電子−陽電子間の非対称性と電子−陽子間、陽電子−反陽子間の非対称性は質的に異なる。この非対称性の質的違い、個別性の違いによって物事の構造が可能になり、実現している。[3025]
媒介された個別存在はその内に多様な普遍性をもつ。階層が積み重なるほどに階層ごとの普遍的質が多様に実現されている。媒介された個別存在の普遍的質はその媒介された階層の特質である。人間の特質は他のほ乳類より多く、ほ乳類の特質は他の動物より多く、動物の特質は原生生物より多い。[3026]

【個別を超える普遍性】

主観は個別を超える普遍性を個別対象を反省することによって認識する。個別を超える普遍性は主観と個別対象との関係で認識される観念的な表れであるが、対象間の客観的関係を反映している。[3027]
普遍性には存在の普遍性と、個別を超える普遍性とがある。存在することそのことが普遍性である。他との連関に全体の一部分としてあること、相互対象化するものとして存在は普遍である。対象性が存在の普遍性である。個別対象の非対称性にもかかわらず、個別対象間に共通する関係秩序が現れる。対象性としての全体の秩序が破れ、非対称化することによって、部分に再生される秩序が個別を超える普遍性である。個別に媒介されながら個別を超えて現れる秩序の普遍性である。個別を超える普遍性として、内容の非対称性が形式の対称性を表す。個別を超える普遍性には個別を超えてしまっているのであるから、個別性はもはやない。[3028]
媒介された個別間では媒体は異なっても、同じ形質を現す場合がある。鳥の翼と昆虫の羽の関係にみられる相似器官のように。個別として異なるものが環境に対して、他に対して同じ関係を担う。同じ関係としての普遍性が実現する。存在の普遍性ではなく、個別を超える普遍性である。個別間の直接的関係では表れないが、直接的相互作用を超えて表れる普遍性である。個別を超えた普遍性の最たるものが数学概念、論理概念等々の抽象概念として反映される。[3029]

「普遍」と「一般」は同じである。どちらも対称性を表す。「普遍」は実在の有り様であり、「一般」は表象の有り様である。表象の区分であるから「一般」は反省によって、反映されてある。この「であるから」は根拠を示してはいない、観念的表現である。根拠は対象の反映表象を反省することにあり、反省によって普遍性を一般性として認識する。[3030]

【普遍と特殊の性質分類】

「普遍」の具体的性質としてとりあえず数え上げるなら、保存性、互換性、変換性、流通性、関連性等を挙げることができる。この逆、否定が特殊性である。[3031]
保存性は空間の移動、時間の経過、環境条件の変化に影響されない性質である。保存性は対称性と一体の表裏の相補関係にある。変換によっても保存されるのが対称性である。保存性が内容であり、対称性が形式である。保存性は一様性の尺度である。場が一様であることは法則がどこででも成り立つことによって測られ、同時に法則の保存性が測られる。[3032]
互換性は一定の機能の担体が組み合わされる連関が違っても同じ機能を実現する性質である。異なる連関関係でも組み込まれて同じ機能を実現することが互換性である。この連関関係の違いは連関関係実現の違いであって、目的、機能の違いではない。[3033]
変換性は媒体に依存しないことである。媒体を変えても保存される性質が変換性である。変換可能なことではなく、保存されることである。ビット・データは2値を区別できる媒体であれば何によっても表現することができる。文字は何に何によって書かれていても、その媒体についての記述でなければ同じ意味を表す。さらに、その意味は何語であっても同じ意味である。媒体変換の容易性を変換性という場合もあるが。[3034]
流通性は他との交換関係に影響されない性質である。交換される他が違っても保存される性質である。貨幣は多様な商品と交換されて流通する普遍的商品である。[3035]
関連性は他との関係にによって実現される性質である。すべての存在は他と連関して存在するが、連関の有り様はそれぞれである。それぞれの有り様は多様であっても、関連して、連関をたどることんできる関係にある。[3036]

【個別と特殊】

質的に異なる個別間では普遍と特殊とを区別するのは媒介関係であり、階層によって区別される。より基本的階層での個別は普遍的であり、媒介されたより発展的個別は特殊である。媒介されてそれぞれの階層で区別される個別でありながら、媒介されて階層を貫いて関係している。一般的に任意の個別どうしを普遍的か、特殊的かと比較しても意味はない。[3037]
同種の個別が諸個別として区別されるのは個別の本質とは関わりのない偶有な性質によってである。同種であっても個別はその非本質的性質、偶有性によって互いに区別される。個別性としての本質を他との偶然を含む関連で修飾されるが、その修飾は個別の非本質的性質であり特殊性である。[3038]
特殊は現実の個別存在として、他との相互関連にあって異なった関係にある。同質の部分として区別される個別も、他との関係で異なった現れ方をする。個別は他との関係で特殊である。[3039]
個別として区別する個別性の規定は他との関係で決定的である。個別規定は当の個別にとって決定的である。他ではない自己を規定するのであるから。当の規定外の規定を加えることもできないし、規定の一部を削ることもできない。当の規定にあるから当の個別である。個別は本質的な規定はもちろん偶然の規定によって多様に規定されているがすべてによって唯一の個別としてある。個別はそれ以上特殊化も普遍化もできない決定的な個別性によって規定されている。[3040]
個別一般は相対的である。個別性は他との区別としてあり、区別は階層においても相対的であり、階層を貫いても相対的である。個別はより基本的個別を含んで構成され、より発展的個別に含まれて個別を構成する。いずれの個別も本質的に他と区別され、他との偶有性によって具体的に区別される。相互規定関係は変化し、媒介関係には偶然が介入し、個別規定自体が相対的である。日常経験の対象である個別存在は永久不滅ではない。それぞれの個別性は生成消滅する。個別の消滅はその本質が失われることであり、普遍的であろうが特殊的であろうが消滅する。普遍性が消滅するがそれは個別の普遍性である。個別の普遍性は他の個別によって担われる可能性にあって普遍的である。しかし、個別存在は当の諸個別性によって規定されたものとして決定的存在である。相対的個別性の総体としての個別は決定的に他と区別される特殊である。私は多様な面をもち、多様な行動をするが決定的に私である。[3041]

【個別と類】

一般的に個別は単独で存在し、個別性が相対的に、厳密ではないが完結している。個別単独の存在はより基本的階層での個別性とより発展的階層での個別性が重なり合ってずれがない事で単独性を実現する。個別単独の存在は階層を貫いての個別性が自律している。個別性であるから単独で存在するのは当然で、理由にもならない。[3042]
しかし、個別としての存在そのものが相互に依存している個別は単独では存在できない。互いに依存して存在する個別が類である。種・類の区別としての類ではなく、存在としての類である。より発展的階層での個別性がより基本的階層での共通の相互作用に依存している存在である。存在を規定する他との関係に、同種の個別との関係がなくてはならない個別の存在が類的存在である。個別間の相互規定性によって、それぞれの個別としての質をそなえる。生物は類的存在であり、ヒトは最も類的存在である。[3043]
類的存在は個別の特殊な存在形態である。より発展的階層での個別性がより基本的階層での個別性に依存しているのではない。より発展的階層での個別間の依存である。多細胞生物は個体だけであっては絶滅してしまう。動物は植物の光合成に依存しているが、今日の植物の多くは動物なしには存続できない。植物が下等なのではない。また植物、動物という括りだけが類的存在の区分ではない。存在を実現している生活単位での依存関係で類的存在は区別される。[3044]

【現象の普遍と特殊】

存在の現象形態ではより基本的階層が普遍的であり、より発展的階層が特殊的である。より基本的階層はより発展的階層の媒体である。基本的階層である媒体を特殊化することでより発展的存在形態が実現される。量的にも基本的階層の存在はより発展的存在よりも多い。[3045]
より発展的階層での関係はより基本的階層での関係より抽象的である。より基本的階層での素過程が再帰することでより発展的階層を媒介し再帰が抽象性を実現する。発展段階を異にする他の存在との関係における超えた普遍性は抽象的普遍性である。より基本的階層では量的な普遍性があり、量に対しより発展的階層では質的普遍性が実現する。より発展的現象形態は媒体の特殊性に依存しない質的普遍性を持つ。質的普遍性は抽象的普遍性である。[3046]
進化による特殊化は適応による普遍化でもある。進化の系統樹の分岐は特殊化への分化であるが、環境への適応は普遍的形態を実現する。たとえばほ乳類の鯨への進化は、水中生物である魚の形態に似て適応している。媒体の特殊化と存在の普遍化が統一されている。[3047]

特殊は個別性として現れる。個別は区別される規定性としてあるが、区別されることが特殊化していくことにもとづく。普遍的質が非普遍的質、特殊によって区別される。特殊、非普遍的質は普遍に対する偶有である。非普遍的、偶有的性質の積み重なりとして特殊が実現し、区別される。[3048]
個別は他との関係で、存在する限りの経過のうちで他と区別され偶有規定を積み重ねる。存在過程は特殊化の過程としてある。多様な関係可能性からひとつの関係を実現することで、特殊化する。個別として存在し続けることは特殊化することである。経験を積むことは個別として特殊化することである。経験を蓄積することは、他との区別を蓄積する。単に経験の記憶として保存されるだけではなく、諸能力の訓練として、免疫として、シワやシミの数として蓄積され、他と区別される。経験の蓄積は、個別性としては特殊化であるが、他に対する対応は普遍化し、個別性を保存する。[3049]

普遍と特殊は個別の有り様として相互に転化する。普遍的個別が特殊化し、特殊な個別が普遍化する。個別の有り様が変化する場合と、他と区別される個別の他に対する関係が変化する場合とがある。[3050]
個別の有り様は他との相互連関にあって変化し、他との関係を環境として環境に適合していくことで普遍化する。類の要素としての適応であって、類を構成する個別は個別でなくなることはない。類としての生物種や社会の変化はそれぞれの個体や個人は変化しなくても実現する。類を構成する個別が世代交代することで類全体が変化し、適応する。種や社会に対して変化しない個体や個人も個別単位でありながらそれ自体の類である。生物個体は細胞を個別とする類であり、細胞は細胞器官を個別とする類である。個人も多様な社会関係を担う類としての人格であり、社会関係に引きずられては人格は破綻する。個人が変わらなくても社会は変わるが、それぞれの個人が変わることで社会は劇的に変わる。社会が劇的に変わるには個人の変化、その相乗作用によってである。[3051]
特殊化の過程としての個別存在は、過程をとおして普遍化する。人は誕生し、成長し、怪我をし、病気を得、結婚し、産み、老いて、死ぬのが普遍的有り様である。途中で事故死、病死するのは特殊である。戦死、事故死、病死が普遍的であるなら社会は維持されず、世代交代も実現しない。個人は生活過程で特殊化し、他人とは違う経験をし、違う人格を形成するが、生活を維持することで普遍的な人の生き方を実現する。[3052]


第4節 偶然と必然

偶然と必然の問題は決定論が成り立つかどうかの問題であり、歴史の問題であり、自由の問題である。決定論では我々が思い悩むことは愚かしいことである。努力することにも、怠けることにも違いはない。善悪も無意味である。単に自己満足できるか否かの違いである。すべてが必然であるなら、発展は起こりえずすべては繰り返しに終わり、自由など問題にならない。そもそも運動が実現せず、従って存在もない。[4001]
決定論は偶然を否定する。決定論はすべての前提条件に対応して結果がすべて決定されていると主張する。決定論は条件と結果の対応関係について理解できていない過程を「偶然」と呼ぶに過ぎないと主張する。決定論が否定される今の量子力学では解明されていない隠れた次元での決定性が、まさに隠れていることによって不確定性として現象すると主張する。自由を求める意識も無意識の過程に支えられており、無意識の過程で主観的意志には関わらず決定論が成り立っていると主張する。[4002]
法則の追求は抽象化の過程であり、獲得されるのは捨象された秩序の関係形式である。抽象された関係形式である法則は完結しており、偶然を含まず、無駄がない。法則だけを扱っていれば世界は決定論的に見えてくる。しかし、法則の実現過程を見るなら、偶然に決定されていく過程が見えてくる。抽象の世界にとどまるつもりならゲーデルの不完全性にも学ぶべきである。論理には論理の形式的限界があり、決定論も論理によっている。[4003]

気体分子がどの分子と衝突するかは偶然であるが分子間の衝突は必然である。分子間の衝突位置、方向を規定するのは分子を構成する原子の最外殻の電子であり、電子の位置は決定論的に確定できない。衝突過程を計算するには大きさのない質点を想定する。流れを決定する分岐点の先端が無限小に、幾何学的に尖っているなら流れがいずれに向かうかは決定的であるが、先端にもプランク距離の幅がある。量子間の空間での作用はプランク距離内では決定されない。プランク距離の幅は測定によって決定できないのでもなく、理論上だけの量でもなく、量子間の作用を規定する最小の距離である。(存在確率をこのように解釈して誤りはないか。)[4004]

【必然性】

全体は必然である。全体は一つであるから必然であり、必然であるから一つである。複数あるなら全体ではないし、複数のいずれであるかを決定のしようがない。全体はひとつであり、閉じているのと同じであるから熱力学第二法則が成り立ち、エントロピーは増大する。全体は多様な可能性をもちながらも、最もありそうな可能性へ向かう必然にある。途中偶然による乱れがあっても、全体は最終的には最もありそうな状態、混沌へ向かっている。偶然と必然の問題は部分の問題である。[4005]

部分間の論理的関係としての必然性は条件と結論の関係にあり、日常経験の関係では原因と結果の関係にある。日常経験では結果から原因が追及され、原因から結果が推測される。日常経験では必然は保留されている。必然が保留されず明らかであるなら、原因の追及も結果の推測も不要である。日常経験での認知対象の必然は無意識下で処理されて、当たり前として気づかない。[4006]

前提条件がないことには、現に存在している我々には何も問題になりえない。すでに存在している我々には前提条件を明らかにしきれなくとも、前提条件は明らかに存在する。すべての存在、すべての物事には前提条件がある。一つの前提条件からは唯一の結論が導かれることが必然である。異なる前提条件から唯一の結論が導かれることも必然である。一対一対応、多対一対応が必然である。[4007]

必然性が成り立つためには前提条件に再現性があること、過程に規定性が保存されていること、規定に現れる量関係が一定であること、の3要件がある。[4008]
前提条件の再現性がないなら、同じことが起こらないのなら必然性は問題にならない。再現する物事があること、同じ物事があることが必然性自体の前提である。すべてが異なるなら混沌でしかない。再現する物事、同じ物事があることが秩序であり、再現する物事、同じ物事が同じ別の物事を再現することが必然であり、秩序である。[4009]
規定性の保存は再現性そのものである。時間的、空間的に区別される同じ物事の再現が、保存される、再生される規定性の実現である。時間的、空間的区別は部分の区別であり、偶然の区別である。偶然に区別されたそれぞれに同じ過程が実現するのは規定関係が保存されているからである。部分の区別は非対称性であり、対称性が破れるのは必然であるが、破れ方は偶然である。[4010]
規定に現れる量的関係が一定な定数として表される。自然の過程にはいろいろな自然定数がある。光速度、重力等のように。自然定数の値がどの様に決まったかは物理学の課題であるが、値が一定であることによって必然性が実現する。値が異なればまた別の秩序世界が実現しえるとされる。[4011]
必然性には量子力学の解釈が基本的な問題としてある。不確定性は観測精度の問題ではなく、観測対象との相互作用による擾乱の問題ではなく、純粋に物理過程の問題とのことである。不確定性は物理過程を確率と解釈するか、状態の重ね合わせと解釈するか、解釈にかかわらず実在の有り様である。さらに物理過程での物理的相互規定関係は生物的相互規定関係を媒介し、さらに社会的相互規定関係、文化的相互規定関係を媒介する。それぞれの相互規定関係内での媒介過程も、相互規定関係間の媒介も偶然の過程にあり、偶然の関係が実現して実在の有り様が決定される。だからこそ人は法則を勝手に変えることはできないが、法則を組み合わせることにより法則の実現過程を操作、制御することができる。しないこともできる。[4012]

【必然の過程と組合せ】

必然性は継起的関連での一対一対応関係と多対一の収束関係である。継起的関連の素過程はこの他に一対多対応の関係、対応する状態が個別性を失う発散の関係がある。当然に現実は必然性に関わりのない多様な継起的関連がほとんど無限に並行している。[4013]
継起的関連での一対一関係は形式的変換、置換と同じである。記号操作と同じことが実在過程で実現する。「aならばbである」が「aはbである」にとどまらず、「aがbになる」のである。実在過程で「aがc、d、e、・・・になる」のであっては、必然性は成り立たない。一対多対応が成り立つのは素過程としてではなく、偶然、あるいは条件付過程でである。[4014]
多対一の関係は収束の関係である。「bであっても、cであっても、dであっても、・・・、aになる」関係である。b、c、d、・・・間の関係はどうであってもaとの関係が規定されている。それぞれの素過程はひとつの別々の変換、置換過程であが、結果が同じになる。多対一対応は必然と言うより当然の関係である。初期条件が違っていても、あるいはどの様な場合でも同じ結果に至る。椀=ボールの縁から玉を落とせばどこから落とそうがやがて一番低い底に停止する。(椀はそのような形状を性質とする器である。)そうならない特異な条件を探すことの方が思考訓練になる。[4015]
一対多対応の関係は他との複数の関連それぞれが素過程として実現する。それぞれの素過程の実現は偶然であっても、素過程それぞれには法則性がありえる。必然性として問題になるのは多対多対応の偶然性ではなく、個々の素過程の必然的関係にある。形式的には自然数で2+2=4の加算の関係は左辺は右辺と一対一対応する素過程である。しかし逆に4を構成する自然数を求めるなら他に2種類の素過程4=0+4、4=1+3もある。さらに4=4+0,4=3+1の項順の違いが意味をもてば素過程の可能性は増える。多対応の程度は加算a+b、a+n、乗算a×n、累乗n、a、nと大きくなる。(a、bは定数、nは任意の自然数)それぞれの素過程の必然性と素過程の組合せ集合からなる必然性とは次元が異なる。[4016]
一対多対応関係は一対一対応の素過程が平行する複数の過程として扱うことができる。それぞれの素過程を検証することが可能である。ただ検証そのものは素過程の数が増えるほど困難になり、検証不可能な量になりえる。鍵がわかっていれば多数の可能性から答えを一対一対応で出せる暗号はこの関係を利用している。多様な組合せは必然性を隠すが、個々の素過程に必然性がありえ、だから暗号が成り立つ。[4017]
恒真関係=トートロジーは必然性ではない。公理系での導出も必然ではない。確定された関係には必然性はない。未然であるから、偶然が関係するから必然がある。物事が実現していく過程、認識が実現していく過程、論理が展開していく過程に必然性は現れる。決定論では偶然は問題にならず、必然性も問題にならない。[4018]
発散の関係は規定性を失う、秩序が失われる過程であり、防ぐことができない、系内でエントロピーが最大化する過程である。これも必然的な過程である。規定性の再現、秩序の形成は開放系にあって、その一部分が自律することとして可能になる。部分での秩序形成は全体のエントロピー増大過程が一様ではないことにより可能になる。この部分の秩序形成の必然性はわからないが、この宇宙では実現した。[4019]

【偶然性】

偶然性は必然性とともに、実在の有り様である。実在は偶然の関係を確定していく必然的過程である。存在そのものが偶然の可能性にあって確定しているのである。さらに存在は媒介されることによって可能性を増し、より大きな自由度を獲得する。存在の偶然性は運動の可能性拡大として実現する。同時に拡大する可能性をひとつの有り様として確定する過程が運動過程である。偶然性、可能性がなくては運動自体が成り立たない。すべてが決定されていたのでは変化のしようがない。[4020]
偶然の組合せは相互規定関係にない事象間の関係である。媒介された存在は媒体との相互作用関係にあるが媒介されたもの間には直接の規定関係はない。同じ媒体による同じ媒介関係にある存在間には媒体を介した間接的相互作用関係はあっても、複数の異なる媒介関係を経た存在間の相互規定関係はほとんど無い。(「ほとんど無い」程度はゼロではない。すべての存在はこの世界の存在として無関係ではなく、「有」として普遍的関連にある。)複数の異なる媒介関係に媒介された存在間の関係、出会いに偶然がある。ただし、完全な偶然ではない。この世界の存在としての普遍性があるからこそ偶然であっても関係が可能である。[4021]
意識的に偶然を作り出すことの方が困難である。日常経験の場では意識的、無意識的にも何らかの方向性が働き規則性が表れてしまう。日常経験的に偶然を作り出すには乱数を利用することになる。ところが与えられた「乱数」が乱数であることを検証することも困難である。また、与えられた乱数がまがい物でなくとも、表されたことでデタラメさを失っている。与えられた乱数の各桁は決まってしまっている。偶然は不確定性であり、動的である。偶然のデタラメさは確定すると否定される。確定されたデタラメは、偶然性をもたない。偶然性は動的過程として現れる。[4022]
日常経験的に日常経験を超えるでたらめさを実験することは比較的容易である。木や金属でできた剛体振り子は必然的な運動をする。関節が一つの自由度しかないからである。これに中途に関節を付け関節を2つに増やすことで、自由度を増やすと運動は飛躍的に複雑になる。関節を増やし、自由度を増やすことによって複雑性は累乗される。日常経験の必然性の理解が日常経験相当の限られたものであることがわかる。奇跡的確率の解釈も日常経験的な程度であるから宝くじを買う時、賭け事をする時には客観的評価が必要になる。[4023]

【偶然と必然】

全体はひとつであり、二つとなく、偶然も必然もありえない。対する部分は多様であり、部分間の関係に偶然はある。部分の相対的全体は普遍的であっても、無二であってもその内の部分は他と区別され、部分間の関係はほとんど無限である。そこで、個々の関係は現実に唯一に決まっていく。[4024]
部分間の偶然の関係にあって相対的全体の運動が発展する。偶然の関係から相対的全体の運動が実現される。偶然を継起として相対的全体の運動は必然的である。必然は偶然の関係の中にあって、偶然でない関係を実現する。[4025]
一様な拡散状態に向かうことは熱力学第二法則にしたがう必然である。しかしこの法則の必然は偶然を否定していない。より起こりやすい状態へ向かうことが必然であるとしている。より起こりやすくないことが起こる偶然を否定はしていない。水の中にインクを垂らすなら、一様に拡散することはない。水の内外での温度差による対流れやインクの落とされる位置、量の偶然性の中で水分とインクのそれぞれの分子間張力の違いと分子間衝突の偶然性が働いてインクの模様が表れる。模様の形は偶然であるが、形が表れるのは必然である。[4026]
必然的過程だけではすべては決定されており自由度はない。偶然の過程と必然的過程を組み合わせることで新たなより発展的自由度を獲得する。獲得される自由度は偶然性があっての自由度である。自由度は偶然によって許される可能性である。剛体振り子を1つの軸で結合した関節は1つの平面で回転する自由度を実現する。さらに1つの関節が加わることで単純な回転にとどまらない複雑な動きを実現する。あるいは、三次元空間での自由度を獲得する。自由度の獲得は新たな偶然の可能性をひらく。[4027]

必然は不可避なことでも、確定したことでもない実現過程での問題である。対称性の自発的な破れは必然でありながら、その破れ方は偶然である。必然性があっても条件が整わなければ実現しない。確率法則があっても独立事象間での確率を予測はできない。コイン投げの個々の結果は確率で予測できない。[4028]
必然の関係は偶然の関係の中にあり、偶然によってその継続を断ち切られる可能性をもっている。必然性は偶然性の中で発展し、現実的なものになっていく。[4029]
人類の歴史の継続、発展は社会活動の蓄積として必然的である。同時に軍事技術の発展も必然的である。軍事技術の管理手法の発展も必然的である。しかし、これらの組合わせは必然ではなく、偶然により人類の絶滅の可能性が存在する。人類の平和的発展を必然的なものにするには、人類絶滅の手段をなくすことである。[4030]

【必然と偶然の相互転化】

必然も偶然も物事の実現過程に現れる。必然の実現は過程としてあり、偶然の実現は必然的過程間の関係としてある。必然的過程の対立として、あるいは組合せとして偶然の関係が現れる。物事の実現過程にあって、必然と偶然は相互に転化する。[4031]
必然的過程の対立として簡単な例は物と物の衝突がある。衝突前の運動過程は様々に規定されていても規定関係に変化がなく連続している。衝突は衝突以前の規定関係とは不連続な決定的作用である。衝突は規定関係に連続性のない、不連続な決定的作用である。不連続な規定関係に偶然性が現れる。衝突は質点の力学では必然的過程であるが、質点自体が理想化された概念である。実際に質点の測定精度の問題以前に質点の不確定性、それよりも衝突表面の状態によって偶然性が現れる。[4032]
必然的過程の組合せは物事の存在の有り様でもある。日常経験の対象は当然のこととして複雑な規定関係で成り立っている。科学が解明できた必然的過程での複雑性は無論のこと、未解明な過程の必然性もある。しかし、すべてが必然的な関係で成り立ってはいない。必然的過程を組み合わせることでこれまでにない作用を実現することができる。必然的過程自体固定的な規定ではなく、変化を規定している過程でもある。変化過程は必然的規定だけでなく、他との関係で決まる。[4033]

必然性と偶然性の関係ではより重要なことは必然的過程と偶然性からなる物事に必然的運動が現れ、その必然的運動がやはり非決定的運動に転化する過程である。偶然の相互関係に秩序が現れることが偶然性の必然性への転化であり、秩序が崩れ、消失することが必然性の偶然性への転化である。秩序に部分的秩序と全体の秩序があるように必然性と偶然性は部分的過程にも全体の過程にもそれぞれ次元を異にして現れる。[4034]
全体の秩序が破れ部分の秩序が実現する過程自体が必然と偶然の交替する過程である。全体の秩序が破れるのは必然の過程である。同時に部分の秩序が実現するのは偶然の過程である。できあがった部分の秩序は必然的過程にある。[4035]
相互作用は必然の過程である。相互作用間の継起は偶然の過程である。継起的相互作用が再帰するのは偶然であり、再帰した作用が過程自体に規定的に作用することも偶然である。再帰した作用の規定によって過程が保存されることで必然性が実現する。偶然の規定関係ではなく、規定構造として保存される作用過程は必然的な過程である。媒介された運動過程は媒介過程が崩れれば消滅するが、媒介過程が保存される限り必然的運動過程にある。運動の発展につれて偶然性と必然性は相互に転化する。運動の発展により、より発展的個別は成立するが、より発展的個別の成立により偶然性は必然性に転化する。[4036]
物質進化の過程、生物進化の過程も偶然性から必然性への転化の過程である。生物進化では偶然の劇的環境変動があっても爆発的な種の多様化が実現し進化が促進されてきた。生物自体が生物的環境をつくりだし、必然的過程をより確かなものにしてきた。進化自体が必然の過程である。それぞれの種の進化は偶然の過程である。ただし、より進化、適応したものほど環境変化に適応できないという。[4037]

歴史性を認めるならそこにあるのは必然性だけではない。歴史は単なる必然の過程でも、偶然の過程でもない。歴史は偶然の過程が次の過程を決定することによる発展過程としてある。必然的過程間に偶然が入り込むことによって必然的過程が偶然によって規定される。偶然の関係が実現することによってこれに続く過程が規定される。歴史的「過程」は偶然である。起きてしまったことは事実である。その事実が続く過程の前提条件となり、あるいは環境条件の一部を構成する。偶然の過程が必然の過程と同じく、後続する過程を規定する。この後続過程の規定では、偶然と必然との規定性に違いはない、共に決定的である。一端決定された偶然の過程は必然の過程と共に、後続する過程を決定的に規定する。偶然の関与する決定過程が歴史過程であり、偶然の関与が創造を可能にし、発展を可能にする。[4038]

相互転化としての偶然と必然の関係は古典的である。複雑系の科学として要素部分間のわずかな規定関係によって全体の秩序が、必然性が実現される事例が紹介されている。複雑系の科学の評価に関わりなく、革命組織理論の新たな挑戦となる。経済理論、経済政策・運営にとっても新たな探求が求められている。全体を全体として制御し、全体の秩序への整合性を部分に求めるのがこれまでの計画性であった。しかし自然は、人間社会も含めそのようには運動していない。自然には全体を計画する者など存在しない。「見えざる手」は部分間の相互規定関係によって制御される。[4039]
全体の秩序の破れとして部分が秩序づけられるのが全体の過程である。この過程では部分は全体によって規定される。しかし、部分の相互作用として媒介された相互規定関係が相対的全体の秩序を構成するようになる。全体の無秩序化過程での、部分的秩序形成では全体ではなく、部分間の相互規定関係によって相対的全体の秩序が形成される。部分要素の限られた相互規定関係によって全体の他に対する運動が調整される。[4040]
具体的事例として粘菌の離合集散、社会性昆虫の生態行動等が紹介されている。個体は相互規定関係として、フェロモン等の化学物質を媒体として互いの行動を調整する。化学物質量は環境と集団全体の活動状況によって濃度と分布が決まる。化学物質量の濃度と分布を媒介にして環境に対応し、集団の行動を調整する。コンピュータ・プログラムでも「ライフ・ゲーム」として要素間のわずかな相互関係規則によって、要素集合の離合集散によって秩序を形成できる。これまで「群集心理」として実態のつかめなかった動きも、法則性を明らかにできる可能性がでてきた。[4041]


第5節 原因・条件・結果

意図をもって対象化する主体にとって因果関係の発見が認識である。意識にかかわらず、因果関係を認識できるものが進化過程で淘汰され、生き残ってきた。因果関係は主観的な物の見方ということにはならない。偶然であっても実現した過程が前提となって後続する過程が規定される。[5001]

【原因と結果】

物事の作用は一般的に相互作用であり、相互作用の連関として全体の運動も部分の運動もある。一般的相互作用連関には対称性がある。一般的相互作用連関での継起が区別され、時間対称性が破れている。継起では相互作用過程の前後が相対的に区別される。継起的過程での区別は時間の継起する連続を形式的に区分する。[5002]
因果関係は相対的に自立した物事間の作用関係である。一般的相互作用関係にあって自立した物事が区別されて因果関係が現れる。逆に因果関係として物事の自律性が区別される。相互作用が個別を構成し、自律することで個別間の非対称な方向性のある作用を実現する。自律し、自立した個別間の関係として因果関係が現れる。相対的に自立した物事として、個別の区別によって因果関係が成り立つ。他との相対的区別と継起関係での区別が重なることによって因果関係が現れる。[5003]

継起的相互作用連関の中から対象となる現象を抽象し、因果を評価するには主観的な評価もかかわる。継起的相互作用連関の客観的過程での対称性の破れとして因果関係は実現するが、因果関係は孤立してはおらず、多様な因果関係が並行し、しかも階層ごとにも区別される因果関係が重なり合ってある。いずれの因果関係を対象化するかは主体による評価である。継起的相互作用連関に因果関係を見いだす評価だけではなく、すでに対象化することとして因果関係の対象設定を主観的に評価している。主観的評価だけに頼るなら、対象の勝手な解釈になる可能性がある。風が吹けば桶屋が儲かる。継起的相互作用連関の対称性の破れとしての因果関係を抽象することが客観的評価になる。[5004]
原因と結果が必然的規定関係にあることと、結果から原因を探ることとはまったく別のことである。結果から必然的に原因が明らかになる保証はない。因果関係の非対称性は客観的過程にあるが、相対的区別に隠れている。[5005]
一つの原因が複数の結果に至る可能性があり、偶然によってその一つが実現する。また、一つの結果は複数の原因によることもある。したがって、因果関係は固定的に原因と結果を結びつけるものではない。[5006]

【原因と条件】

継起的相互作用連関での他との相対的区別は因果関係に対して環境条件としてかかわる。他と相対的に区別される個別間の継起関係に因果関係が現れる。環境条件は継起的相互作用関係そのものであるが、因果関係が実現することによって因果過程に連なる相互作用関係が環境条件と位置づけられる。環境条件の作用の仕方が変わるのではなく、関係が、位置づけが変わる。位置づける評価の問題ではなく、因果関係によって継起的相互作用関係の対称性が破られ、因果関係を取り巻く相互作用関係に非対称性が実現するのである。逆に継起的相互作用関係の対称性が破れ個別が実現し、個別間の相互作用関係が実現することで因果関係が実現する。環境条件に対する因果関係の自律性が問題になる。継起的相互作用関係の対称性が因果関係によって破られ、実現する非対称性によって因果関係に連なる相互作用関係が環境条件となる。当然に環境条件も相互作用としてあるのだから因果関係に作用する。環境条件にあって継起関係が偶然ではなく、個別間の必然として実現することが因果関係である。[5007]
台風の発生では風の流れが渦を形成し、形成された渦が風を呼び込む。台風と熱帯低気圧の区別は人為的に発生場所と風速で「規定」されているが、客体として渦の形成によって自律的に規定している。赤道付近では南北の温度差が小さいのは地球の形と自転によっている。貿易風や季節風がぶつかるのは地球規模の大気の流れである。これら環境条件にある。また、水蒸気をより多く含めば凝固によって熱を放出し積乱雲を形成しやすい。コリオリの力が働けば渦ができやすい。これら物理法則は普遍的に働く。海水温の上昇から空気の流れが一カ所に集中して上昇気流を生じることを契機として台風が発生する。どこで、いつ、台風が発生するかは偶然であるが、毎年季節的に発生することは必然である。個々の因果関係が重なり合うことで、相対的全体の因果関係が実現する。[5008]
日常経験での物事の原因には必然的原因と、偶然的原因がある。必然的原因は秩序の前提条件であり、法則の前提である。偶然的原因は継起的連関の先行する過程、あるいは環境条件である。[5009]
必然的原因は相互作用関係の内部矛盾であり、条件によって規定されつつ矛盾を発展させ、新たな統一としての結果に至る。継起的相互作用間の対立関係が、それぞれの相互作用を継起させて矛盾を生じる。矛盾を契機としてひとつの運動形態が自律し、個別として実現する。対象とする個別規定によって原因の有り様は異なる。相互作用は相互の区別を互に原因としてあり、相互に結果であると規定することもできる。しかし、相互作用は必然的過程であり、原因と結果を関係づける意味はない。[5010]
他との関連の仕方は偶然であり、従って複数の結果の可能性をもつ。複数の可能性から一つの結果を規定するのが条件である。多様な他との関連自体も相互に区別される個別性として、それぞれに条件として区別される。条件相互に原因に対する規定の強弱、影響力は異なりえる。原因が同じであっても、条件が異なれば結果は異ったものになる。[5011]
一つの過程の結果は次の過程の原因になるだけではなく、他の過程の条件にもなる。原因、条件、結果の個別性はそれぞれの対象化によって規定される。主体、主観は対象設定でそれぞれを位置づけ、意味を評価する。[5012]

【結果からの原因】

バタフライ効果は蝶の羽ばたきが、世界の特定地域の気象への影響を主張する。初期値の極わずかな違いが、結果に大きな違いをもたらすことを強調するために言われている。しかし、原因から結果をたどることはできるが、結果からその原因をたどることは容易ではない。より大きな規模での結果はより多くの原因によって規定されている。他の原因を条件として捨象してしまっては全体の因果関係を無視することになる。まして、大規模な過程の結果から原因を論理的に導く法則を発見することはほとんど不可能である。条件を洗い出し、組み合わせ、シミュレーションを繰り返すことで原因に近づくことができる。[5013]
個々の運動過程の因果関係を取り出すことはできる。しかし、個々の因果関係の関わり合いの組み合わせは、ほぼ無限の可能性をもつ。個々の原因が結果に対してどれほどの規定性を持っているかを評価しなければならない。相互作用関係での個別規定性を明らかにすることで原因としての個別、結果としての個別、条件としての個別を区別して関係を整理することができる。[5014]

【相互作用と因果関係】

個別の作用は遠隔力ではなく、近接作用である。現実に相互作用している関連の中で作用しえるのであって、現実の相互関係から離れた個別に対して作用しえない。[5015]
その限界は光円錐として物理的に限界づけられているとされる。すべては光の速度を超えては作用しえない。すべての作用は光が到達することのできる範囲内に限界づけられるという。時間の経過とともに光の届く範囲は拡大し、時間の進行方向を軸とする円錐形の世界が実現していく。その光円錐の外とは相互作用できず、因果関係も成り立たない。[5016]

因果関係の関連する問題として、予知能力がある。通常言われている動物の予知能力は未来を先取りしているわけではない。単なる環境への反応である。全体の変化の一体性の中で、部分が変化し、部分の変化が全体の変化と同調、連動しているに過ぎない。要は、動植物の予知能力とされるものが、その環境のどの変化に対応しているかを科学することである。予知能力は動植物の能力ではなく因果関係を追求する、人間の論理能力である。[5017]
環境変化の結果と個体の反応の因果関係ではなく、全体の変化過程が一つの問題であり、その全体と個体の相互関係が別の一つの問題である。予知しようとする現象の実現過程の解明と、実現過程のでの個別性の有り様の解明が課題である。[5018]
にもかかわらず、なまずの地震予知能力を活用するとして、なまずを水槽にいれてしまうことは、あるとするなまずの「予知能力」を封止するか、制限することになるのではないか。自然環境の中にあって、全体の変化の現象の一つを人が「予知能力」として捨象しているのだから。[5019]

【因果関係と統計】

現実の運動の過程、展開は偶然のまっただ中にある。しかしそれが現実の運動の中にある限り現実の運動法則にしてがっており、法則は偶然性を貫いて必然性として結果する。相関関係による因果法則発見の有効性はここにある。逆に相関関係の有意性の評価なしに、統計処理の結果を法則視するのはおかしい。[5020]
疫学的結論を実証的でないとして、非科学とすることもおかしい。初めから実証できる問題は問題にならない。ありそうな因果関係を追求することが実証的方法である。実証できていなくとも、実害があり、解決が求められているなら、因果関係を統計的に求めることは必要である。実証されてからでは取り返しのつかないことが多くあることは、既に実証されている。統計的因果関係はその確率と利害の大きさとで比較して有効になる。[5021]


第6節 現実性と可能性

【現実性】

現実は主体の対象としてある世界であり、主体の存在する世界である。主体には現実世界を主観に反映する表象世界がある。表象の現実の対象との重なり具合が現実性である。表象は観念であって、主観によって実在である外部対象を反映し、外部対象に重ね合わされる。[6001]
観念表象は外部対象を反映しているが一面であり、誤ることもある。さらに観念表象間の連なりは隠れた外部対象を探り、外部対象間の関係を超えて広がることがある。観念表象は外部対象を反映するが、外部対象と必ずしも対応しない。その観表象念が外部対象と一致することが現実性である。現実である外部対象として観念表象の対象を見いだせることが現実性である。現実の中で現実性など問題にならない。非現実的であるのは観念表象間の連関に生じる観念の可能性である。観念そのものが非現実的なのではない。[6002]
また、過去の現実は記憶と記録によってしか知りえない。未来は予測するしかできない。過去から現在への実現過程、現在から未来への実現過程で可能性と現実性が問われる。過去の実現可能性として何があったのか、そのどれが実現したか。未来の実現可能性には何があり、そのどれに現実性があるか。実現できる現実性の尺度としても可能性がある。[6003]

【可能性】

実在過程が必然と偶然とからなる決定過程であり、主観はこの決定過程を可能性の現実化として反映する。可能性から現実性への転化の認識は主観の最も重要な役割であり、主体はこの過程を制御しようとして主体である。よりよく認識し、制御できるものが生き残り、進化してきた。[6004]
可能性は他と区別される一個の個別性の実現過程にある。個別の規定関係を保存し続ける可能性と、消滅する可能性が個別の存在を決定する。個別の自律的規定関係が構成されれば必然の過程が実現する。個別の規定関係を実現する他との作用関係は偶然性にある。個別の実現として、あるいは消滅としての可能性にありながら、一つの有り様が実現するのが現実である。偶然の可能性が決定的可能性に転化する。これまで必然であった過程が、偶然に対して分岐可能性をもつ。[6005]
可能性は客観的過程にあるが、評価は主観の問題である。客観的過程の分岐が可能性として評価される。分岐は対称性の破れる過程の形式的表現である。分岐は区別される個別の生成であり、更新される個別性の実現である。分岐は複数の部分への分裂ではない。分岐が可能であってもいずれが実現するかは決定されていないから可能性である。分岐する過程のいずれが実現するかには異なる確率があり、可能性がある。分岐のない過程には一つの結果しかない。分岐の可能性は認識の可能性ではなく、実在の有り様である。[6006]
たとえば、鉛筆を机に立たせることの可能性はあるが、長時間立ったままである可能性はほとんど無く、倒れる可能性が絶対的に大きい。立つと倒れるの二つの可能性に分岐する。これは鉛筆の有り様として決定的な分岐である。重力均衡が保存されるか、破られるかで有り様が決定的に分岐する。立ったままの可能性はほとんど実現しないが、倒れる過程での分岐が続く。どの方向に倒れるかはほとんど無限の可能性のうちから一つの方向に決まる。決定的条件は立たせる指との相互作用にあるが、机の振動、先端と机表面の形状、空気のゆらぎ、さらには重力場の歪み等からなる環境条件によっても影響を受ける。1回の試行では1つの状態が決定されて他の状態にはならない。それでも無限の分岐可能性がある。実際に倒れる過程は一つであり、ほとんど無限の、複数の可能性が実現しないこととして分岐している。[6007]
保存される個別性が必然的過程としてあり、必然であるから個別性は保存される。決定的分岐によって新たな個別性が獲得され、個別性の転化が実現する。他と区別される有り様としての従前の個別性に代わる新たな個別性の実現である。個別性が失われるとすれば、それは部分的秩序の崩壊として実現する。必然的過程なしに可能性は実現しない。必然的過程だけでも可能性は実現しない。必然的過程で保存される個別性と他との偶然の相互作用によって個別の有り様は実現する。[6008]
過程の分岐は連続してある。環境条件としてある作用状態は常に変化している。[6009]
鉛筆が倒れる途中でも環境条件は作用し続ける。空気のゆらぎによって方向が変わりえる。それ以前に、主体自体の意志決定も分岐である。鉛筆を立て、倒れ方を試行しようとする主体の意志決定過程も、想像するだけにする可能性との分岐がある。相互作用連関過程に分岐の連続があるが、その中に決定的分岐がある。無限の可能性があるが、ありえない分岐は鉛筆が浮かび上がるとか、立ったまま机上を動き回るとかである。[6010]
主観はあらゆる可能性を想像することができる。主観自体を否定することも可能である。世界の運動法則、あるいは世界についての認識を否定することも主観には可能である。しかし、この可能性は不可能性である。否定することは可能であっても、その否定によって現実には何事も実現しないのであるから。存在の不可能性は存在に関わりのない観念的空想である。存在が不可能なものでも観念的空想として可能である。逆に観念的空想であることが実現不可能であるとは限らない。主観も客観的過程での可能性を追求しなくては何ものも生み出すことはできない。存在の可能性の実現が運動であるとも言える。運動の必然性は実在の秩序である。秩序は法則としてだけで実現はせず、必ず環境条件にも規定されながら実現する。[6011]

必然性のない関係に可能性は問題にならない。その必然は現実には未だ実現していない可能性としてあり、これから実現するから「必然」である。しかし、「必然」だけの「現実」を認めることは決定論である。必然であっても分岐は可能である。実現したものだけを認める現状追認、現実肯定では問題の解決のしようも、問題の立てようもない。[6012]
必然だけであるなら可能性はない。無秩序化としてのエントロピーの増大は必然であり、熱死は単なる可能性ではない。可能性は対称性が破れながらも、秩序が実現することにある。全体の秩序が崩壊していく過程に部分の秩序が現れる。全体ではなく、部分の過程として可能性はある。部分を区別し個別性を規定するのは偶然である。全体の必然性は偶然によって部分を区別し、秩序を再生し、多様な可能性を実現する。[6013]

【可能性の認識】

実現過程の分岐の法則性と、分岐条件を明らかにすることが可能性の認識である。秩序、法則として必然的過程を知ること、学ぶことができる。その組合せによる分岐を選択肢として明らかにすることができる。必然的過程の組合せに必然性があっても、その分岐の実現には偶然が作用する。必然的過程の組合せの偶然もある。偶然の作用する過程では実在過程を対象としなくては認識は成り立たない。法則性だけを理解してもどのように実現するかを予測することはできない。逆に秩序、法則を無視した可能性を認識することは不可能であり、それは認識ではなく空想である。[6014]
認識そのものとしての可能性は対象と認識媒体と認識主体が整わなければ実現しない。対象と媒体と主体のいずれかを欠いた認識は無条件に不可能である。実在の秩序としてある客体を対象にしなくては認識ではなく空想になる。媒体なくして対象と関係することはできない。媒体を介してのみ対象と関係することができる。媒体を対象化しようとするなら、主体までも対象化しなくてはならない。主体も対象との関係を体調不良等で維持できなければ認識できない。対象、媒体、主体の相対関係は認識の条件付可能性を構成する。[6015]
認識成果である概念間の規定関係としての個別論理にあるのは真か偽かであり、恒真関係に可能性の問題はない。論理の可能性は証明可能性として、あるいは弁証法論理として問題になる。証明可能性は概念の規定関係ではなく論理関係と概念対象との対応関係としてある。論理系内で無矛盾であることの証明可能性は否定されている。対象の相互規定関係が論理関係として反映されることが証明可能性になる。[6016]
弁証法論理も概念の転化可能性、規定関係の転化可能性としてある。可能性を否定し、解釈を不変に保つことは弁証法的ではない。保存される概念、規定と、転化あるいは獲得される概念、規定との関係である。概念や規定の転化可能性を認めることが弁証法であるが、何でも有りの可能性ではない。運動過程での対象の変化としての可能性を反映していなくてはならない。逆に対象の変化可能性での必然性を明らかにすることが弁証法的認識である。対象の運動過程で保存され、分岐し変化する関係として概念を規定する。必然の組合せ、偶然の作用を制御できるかどうかが弁証法的可能性である。対象と主体の可能性を明らかにすることが弁証法論理である。[6017]

【不可能性】

不可能性には対象の法則、認識の論理を否定する無条件的不可能性と、一定の条件さえ整えば実現の可能性がある条件付き不可能性がある。[6018]

法則が明らかであるのに、その法則を否定しては現実的に不可能であり、無条件に不可能である。法則が明らかになっていなくとも、実在の秩序は主観に関わりなく実現しているのであり、現実の秩序に反することは起こりえない。現実を否定したのでは何も導き出せない。無条件的不可能性は永久機関のように荒唐無稽な可能性である。原理的不可能性である。無限量を有限量によって量ることは不可能である。対象を擾乱することなく直接観測することは不可能である。人が生物個体として永久に生き続けることは無条件に不可能である。条件を付けることも不可能である。[6019]
運動の必然的過程での必然的でない結果は不可能である。必然的でない結果は必然の否定である。必然的過程にありながら分岐が実現することに可能性がある。必然性がなかったり、分岐が実現しないなら無条件に不可能である。条件付不可能性は必然的過程の組合せ技術、代替手段が実現すれば可能になる。[6020]
必然的過程であっても、不可能な条件がある。空間的、時間的、資源的、エネルギー的に条件が制限される。技術改良によっても実現できない条件である。現実に実現できない条件がある。ビックバンの高エネルギー状態を再現実験することは不可能である。自然環境だけでなく、社会環境、文化環境それぞれに制約条件がある。生活が多様化した産業国で国勢調査を1日で終わらせ報告することは不可能である。生活向上を実現して社会環境が変化するにもかかわらず、すべての言語を残すことは不可能である。それでもなお保存する努力に価値はあるが。[6021]

【抽象的可能性】

条件付き不可能性は、条件が満たされれば可能性へ転化する。それは形式的抽象的可能性になる。現実の運動とまだ結びついていない可能性であり、概念あるいは表象としてある。抽象的可能性は現実の運動に対応するだけで、現実の運動の実現とは重ならない。抽象的可能性は現実の運動によって確かめられていない。抽象的可能性は抽象の形式によって区別される。論理的可能性、理論的可能性、統計的可能性のように。[6022]
形式論理で偽であれば不可能である。しかし論理的可能性は概念間の形式的規定関係であって、概念が対象を正しく反映しているかどうかは別の問題である。認識の可能性を抜きにして論理的可能性だけで結論を出すことはできない。[6023]
理論的可能性も論理的可能性と同じく、現象を実現する法則を正しく反映していることが前提になる。理論的可能性は実験によって、観察によって検証される。検証可能性は環境条件と結果が定義されて保証される。環境条件のすべてを明らかにするか、制御することで保証される。すべてとは検証過程で影響する要素のすべてである。環境条件と結果の定義は解釈に関わりなく計測できる量として定める。量れる量によって理論的可能性は検証される。ただし、理論は対象を抽象的関係形式=法則として表現するものであり、法則から一定の条件によって導かれる解を検証する。理論を直接検証するのではない。[6024]
確率は統計的可能性である。生じる可能な場合を区分できるなら確率を計算することが可能になる。必然的過程の分岐を区別することが確率の基礎である。他と区別される結果の個別性を定義できることが確率の基礎である。極特殊な場合を除けば硬貨投げの結果は表か裏のいずれかに区分される。人は必ず何歳かで死ぬから余命を年齢別に区分することができる。可能な場合は前提条件との対応関係によって規定される。可能な場合の区分の可能性も前提条件の必要十分な定義による。偶然の作用が影響することは当然のことであり、偶然の作用は統計結果では相殺される。作用が相殺するから偶然の作用と見なすことができる。偶然の作用と必然の作用とを区分し、計測を制御することが統計処理である。確率は実現可能性の割合を計算する。[6025]
抽象的可能性は現実の運動を抽象化、形式化することで実現に至らず可能性にとどまっている。逆に抽象化によって不可能性を排除しているから可能性を獲得している。抽象的可能性を実現するには実現を阻んでいる具象的条件を明らかにし、取り除くなり、他の代替条件を整えることで現実的可能性へと転化する。抽象的可能性のまま環境条件を探っていても観念的堂々巡りに終わって実現できない。抽象によって理念や方向性を見いだすことは重要であるが、実現する過程では抽象によって捨象してしまった具体的条件へ働きかける。捨象してしまった条件が実現の環境条件となる。抽象的可能性は現実の必然性と偶然性の入り交わる運動過程で現実的可能性に転化する。[6026]

【現実的可能性】

現実的可能性であっても無条件に実現することはない。実在過程は偶然が決定されていく過程であり、偶然の決定の中に必然性が実現していく。現実的可能性は偶然にも実現する可能性である。しかし、その偶然の可能性は偶然であるから変えることが可能である。実現を妨げる偶然の条件を排除し、または実現のための代替条件を獲得することで実現の可能性を高めることができる。詐欺は被害者が実現するもので、詐欺師は実現のための条件を整える。手品の種は代替手段として用意され、偶然を排除するが、手品師の技術的失敗の可能性までは排除できない。[6027]
現実の諸部分の関係は偶然の組み合わせである。偶然の関係にあるから諸部分である。必然の関係は部分に分けることはできない。対称性の破れですら破れ方は偶然である。それぞれの部分の存在は現実の過程にあり、実現されている存在である。偶然の関連の中に必然的関連を実現することとして実在する。環境条件の中で必然的過程の偶然の組合せによる分岐可能性が次々と確定されて実在が実現していく。確定され実現された可能性は過去の実在であり、確定されていない可能性が未来である。現実的可能性は実現されなくては可能性のまま消える。実現され、確定される可能性は必然の連続としてあるが、実現しなかった可能性も連続しえた必然である。連続しえなければ必然ではないし、既に再現可能性もない。逆に必然は連続可能性である。ただしこの連続性は数学的連続ではなく、最小単位は物理的離散過程である。必然の連続を介する偶然に変化の可能性があり、分岐の可能性がある。[6028]
主観から評価すれば実在の有り様である運動は可能性から現実性への転化の過程である。この転化がなければどの様な可能性も不可能にとどまる。可能性は汲み尽くされねば不可能である。現実性への条件をすべて整えて後は偶然の確定を待つ。[6029]

【可能性の実現】

前提条件、環境条件が整うことで可能性は実現する。前提条件は不可欠であり整わなければ実現しない。前提条件が整うことで必然的過程は実現し、環境条件において偶然が確定する。環境条件は実現過程に作用する。環境条件は実現過程を修飾し、個別性を規定する。[6030]

前提条件が明らかでなければ可能性も問題にならない。前提条件を明らかにすることは必然性があることと、必然性を認識することである。偶然と見えるなかに必然を見いだす能力、技術によって主体的可能性が限界づけられる。科学は法則として必然の秩序を明らかにし、検証し、成果と方法を普及している。偶然を事実として知り、記憶しても可能性を見出すことはできない。偶然の規則性は経験則、ジンクスでありその適用も偶然によって規定される。[6031]
環境条件は排除しようがなく作用する。孤立した物事は存在しえず、独立事象として抽象される対象も環境条件のなかに実在をえる。環境条件は必然的に作用するが、どのように作用するかが偶然である。[6032]

夢を実現するために法則を変えてしまうことはできない。法則を明らかにすることはでき、利用することはできる。法則は組み合わせることはできる。法則を実現する条件を整えることはできる。法則の実現を妨げる条件を排除することはできる。[6033]
条件を整え、あるいは排除できない場合、代替条件を用意することができる。物事は階層構造をなして存在し、運動している。主体である人間はそれぞれの階層でのそれなりの自由度を獲得してきている。物理化学的にはほとんど不可能でも、生理的に生命は存在している。生理的には不可能でも社会的には(科学・技術、産業により)宇宙空間でも生存可能である。社会的には不可能でも精神・文化的には夢見ることが、あるいは騙すことが可能である。逆により基本的階層で可能になる代替条件を用意することも可能である。貧困化によって夢を潰すことができる。戦争、環境破壊、資源・エネルギー浪費によって社会を消滅させることができる。臓器移植、性欲のために人身売買される。薬の乱用は耐性菌を生む。それぞれの可能性を組み合わせた選択可能な代替条件を用意することができる。[6034]


第7節 論理と歴史

【歴史性と非可逆性】

全体はエントロピーの増大過程として否定しようのない非可逆過程にあるが、このことに歴史性があるのではない。単に物事が運動し、前後関係が区別される時間の流れが歴史ではない。個々の運動は秩序の生成として部分を現し、部分を関係のうちに保存する。環境条件が同じであれば秩序は同じに実現し、同じ存在形態を現す。秩序は時間的にも、空間的にも並行して同じ存在を実現して現れる。時間的に、空間的に区別される部分の繰り返しにも歴史性があるのではない。[7001]
媒介された存在は他に対して自律的であって、他と独自の相互作用関係を実現する。それでも、より基本的階層に依存しており、枠組みとしても規定されている。媒介による規定が媒介された存在の他との関係も当然に規定する関係がある。媒介関係による規定は媒介された存在に同型の関係を繰り返し表す。媒介されるものは生成され、そして消滅する。繰り返しが可能な、可逆な過程には歴史性はない。[7002]
親子の関係で子であった者はやがて親になるが、以前の親子の関係が逆転したわけではない。次の世代の親子関係が現れたのであって、関係形式が再現されたのである。社会、組織の成立期、発展期、充実期、停滞期、腐朽期は形態の変化の形式的段階であって、個々の社会、組織それぞれに異なった内容、長さである。これは繰り返しであって歴史ではない。[7003]
繰り返しも偶然の場で実現し、偶然の決定によって修飾され、違いを生じる。再現性のない繰り返しも歴史ではないが、偶然の過程にも歴史性はない。[7004]
時間の経過、流れに歴史性があるのではなく、歴史性は新たな秩序、質の創造としてある。新たな秩序、質の創造は繰り返しではない。創造される質は付け加えられるのではなく、全体の質の変化として実現する。対象の発展的運動過程として歴史はあり、運動としての秩序がある。歴史の運動過程での秩序は、対象が複雑であるほど偶然の修飾も大きく、法則としてとらえることが困難である。歴史を見る時には必然による新たな秩序、質の違いと偶然の修飾の違いとを区別する必要がある。[7005]
歴史は社会史に限られない。自然の過程、宇宙にも、生物進化、人の一生にも歴史がある。[7006]

【歴史と時間と順序】

歴史性は物理的時間的経過と関係するが、一致はしない。個々の物理的運動過程から抽象された時間と、個々の歴史的運動とは一致するとは限らない。あるいは比例して経過する規則性もない。[7007]
物理的時間であっても相対的である。相対的に運動する物どうしでは時間の進み方が異なる。化学反応でも温度、圧力、触媒によって時間は変化する。生物的時間、社会的時間のそれぞれに絶対的時間関係はない。[7008]
系統発生と個体発生の関係、人類史と個人の成長段階の関係は物事の発展順序にもとづいている。段階を追って新しい質が加わるのであって、既に形成された段階を否定するような質は形成されないし、中間段階を省略することもない。昆虫の変態は内部構造を消失する質の否定に思えるが、遺伝子と誘導因子に制御された秩序下にあり、非可逆的な発展過程としてある。[7009]
どのような飛躍にも前段階がある。発展順序の必然性も秩序であり、論理的である。原因と条件が整って結果が現れる。それぞれの素過程の相互関係には偶然があっても、素過程自体は秩序づけられて推移する。素過程の運動秩序は全体の秩序のうちに組み込まれている。素過程の相互作用にも偶然だけではなく、構造を相互の規定関係として構成する。生物個体は生理的代謝系としての構造を持ち、社会は物質代謝系を生産関係とする。この構造が崩壊すると生物は生存できず、社会も崩壊する。こうした構造も秩序としての構造であり、構造の運動過程にも秩序がある。秩序の発展として構造の歴史が実現する。構造が保存されつつ変化するのであり、継続性と、順序がある。社会が転換する場合であっても、征服される場合であっても、そこでの人々の生理的代謝を保証する社会的物質代謝条件がすべて破壊されることはなく、続く社会構造に引き継がれる。[7010]
変革の強力な実践手段があっても、手段だけでは目的は達せられない。手段は条件を整えることができるだけである。強力な手段だけの実践は因果関係をも破壊し、目的をも失わさせる。外部から歴史過程に影響を与えることはできるが、目的や方向は内部過程で実現されるものである。対象を構成する構造は内部の相互規定関係であり、目的や方向は内部の相互規定関係によってのみ定まる。外国からの干渉によって、国内の社会構造、秩序を直接変えることはできない。外部の者に可能なのは、自立を失わせ、社会構造、秩序を崩すことである。民主主義ですら輸出することはできない。[7011]

【歴史と法則性】

歴史も運動であり法則をもっている。しかし歴史のように、より全体的な法則は部分的な運動をとおして現れるのであり、傾向として現れる。歴史法則は部分的運動法則の合計ではない。[7012]
歴史は相互作用の実現結果であって、発展法則はそのものとして歴史に現れはしない。発展は決定されている過程ではなく、決定していく過程である。決定していく過程は偶然の場で実現される。必然的な素過程が偶然の組合せの場で原因を構成し、あるいは条件を構成して全体の過程を決定していく。相互作用は相対的なだけの関係ではなく、構造化して秩序を実現する。再帰することによって構造自体を再生産し、強めも弱めもする。[7013]
人間社会は利害の対立をとおして発展してきた。利害の対立があれば社会発展にも力関係が作用する。人間社会の歴史は前進と後退を繰り返して貫かれることこそ、現実的な現れ方である。利害関係は生産関係、社会的物質代謝を基礎にしている。[7014]
相対的全体の歴史的経過には再現性がある。新しい秩序、質が普及、浸透、確立する時期を経て、次の新しい秩序、質への移行に伴う衰退、腐朽の時期を経る。いずれも典型としては実現せず、偶然によって異なった現れ方をするが、形式には再現性がある。[7015]

【歴史と論理】

物理法則ですら歴史的に発展してきている。物理理論の発展の意味ではない。宇宙の歴史は物質秩序の発展として現れている。人間社会も宇宙の一部分である。物理法則だけで社会法則が実現しはしないが、物理的基礎なしに社会は存在しない。物理的基礎の上にある人間社会は環境、資源、戦争によって人間社会の発展法則に関わりなく物理的に終わりかねない。[7016]
歴史には法則性もあるが、個々の歴史的事象を確定的に関係づけることはできない。歴史法則の論理は歴史の実現過程を決定しない。歴史法則の論理は歴史の実現過程で現れるが、実現過程そのものではない。歴史の発展は構造変革としてあり、構造の規定関係は論理的である。規定関係に偶然の介入はあるが論理的秩序がなければ構造な成り立たない。人が構造のすべてを解明できなくとも客観的相互規定関係がある。構造の論理的規定関係の変化過程に歴史法則の論理性が表れる。[7017]
人類をこの地球上に誕生させたのは、物理的発展、生物的発展の歴史的段階を経てからである。物理法則、生物の法則なしに人類は誕生しない。人類の誕生には歴史法則が貫かれている。[7018]
しかし、人類の歴史はこの地球からであって、他の太陽系惑星ではなかった。また近所の恒星系の惑星でも知的生命は誕生しなかったらしい。知的生命の誕生の普遍性は、空間的な一般法則としては成り立たない。条件の整った環境でなければ法則は現れない。法則の実現は条件を整えることである。[7019]
人間社会の歴史の法則は、特定地域の社会発展に標準の形として現れはしない。特定の地域社会が標準的人間社会であることはない。その歴史も標準として実現するものではない。歴史の法則性は具体的な、偶然の条件の中で実現される。地域社会の発展はそれぞれの条件によって異なる。典型的歴史も、典型的社会も存在はしない。それぞれの地域社会の発展の経過は多様である。しかも、それら地域社会は相互に関連している。孤立した地域社会もやがて全体に関連するか、さもなくば衰退する。ただし、今の世界の支配秩序の価値判断は肯定されるものではなく、別の問題である。[7020]
社会の歴史は個人の実践によって担われるが、個人はそれぞれの社会の歴史的発展段階で形成される。しかも「個人」概念自体歴史的で、近代の生まれである。英雄は歴史を作るが、英雄を作るのは歴史である。様々な能力や気質はどの時代にも存在する。能力はその社会的実践によって鍛えられる。能力を実践する場が社会的になくては、能力は発揮されない。能力が発揮されるには、実践の対象がなければならない。個人の能力は社会では社会的力として発揮される。社会的力は社会的組織関係によって構成され、しかも個人の教育訓練も含む。社会的教育訓練を経ない個人の能力は社会的に役に立たない。[7021]
正義や英雄の待望は未来を待つだけで、実践的には現実を肯定してしまうことになる。それぞれの社会的実践によって歴史はつくられる。[7022]

【歴史的到達点】

発展する運動の論理は歴史的段階によって異なる。運動法則の発展が歴史である。単なる繰り返しは歴史にはならない。量的拡大は歴史にはならない。質的変化の蓄積が歴史である。[7023]
歴史的段階にはそれぞれの段階の社会の運動法則がある。基本的運動法則は歴史的に普遍であっても、歴史的段階を画する社会的運動法則はその時代独特のものである。各時代の社会的運動法則の全体は基本的運動法則をふまえた、発展した独自の運動法則として実現される。[7024]
歴史的に最も発展した存在を明らかにすれば、歴史的過去の運動法則も明らかになる。逆に過去の存在を明らかにしただけでは、その後の存在を明らかにすることはできない。その場合、可能性を見つけられるだけである。[7025]
連続した変化であれば一定の論理に従い、量的変化を関数によって表現することもできる。しかし、構造が変わってしまう変化は関数として表せない。構造の変わり方を関数によって明らかにすることはできない。関数は規定関係を量的関係で表したものであるから。さらに必然だけで現実の運動は決まらず、偶然に媒介されて実現する。量的相関関係から計算した答えとは大きな誤差を伴うのが社会的関係である。それこそ多数の思惑の相互規定関係が現実を規定する。それでも個々の過程でのゆらぎをとおして大きな全体として法則性を現す。[7026]

自由、平等、人権、個人などの概念は歴史的に発展してきたものであって、各時代の考え方を同じ論理で扱うことはできない。それぞれの時代の概念を明らかにすることによって、その時代の論理が明らかになり、それらの概念の普遍的性質と歴史的限界が逆に明らかになる。現代の論理によって過去の社会を描くことは、創作ドラマとしては許されても科学ではない。また社会、歴史の違いを理由とした人権抑圧が、そのまま許されるものではない。それが歴史的到達点の違いであるなら、歴史的に発展させなくてはならない。さらに、権力を持つものが、覇権を主張して他の社会に干渉する場合の論理とも峻別しなくてはならない。[7027]

【歴史と実践】

歴史性、歴史的必然は過去のことではなく、現在の実践によって現れる。[7028]
歴史法則の論理は変更することができない。発展には段階がある。基本的段階が整わなくては発展は実現しない。基本的段階を整えることを政策的に実行することはできるが、政策によって基本的段階を超出、無視することはできない。[7029]
未来の実現過程は変更可能である。歴史法則に従う実践も、逆らう実践も現実にある。実践を放棄して歴史法則は実現しない。歴史の前進に逆らう現在の利益の方が現実的である。建設よりも寄生、破壊の方が安易である。現在の利益を制限してまで変革を実践すること、新しい秩序を創り出すこととしてで歴史法則は実現する。現在の利益を制限する必然性を歴史的に明らかにすることで歴史的実践が実現する。[7030]
歴史的実践の誤りは批判され、克服されるべきものであり、非難されるべきものではない。皆で作り出した現実であるのだから。秩序に寄生する者、破壊する者こそを非難すべきである。秩序を私物化する者こそを最も非難すべきである。[7031]
歴史的必然は多数決によって決定されるものではない。歴史的必然を担う者は歴史的である程に当初は少数であり、必然性を実現することによって多数になる。当初少数であった者が多数になることを否定することこそ、現状を固定化し、歴史的発展を否定するものである。[7032]
歴史は汲み尽くせない。発展が続く限り、社会を発展させる力の対立は新たな段階での対立に転化する。古い対立に対し、対立そのものをなくすることはできない。古い対立に対し、新しい対立はより発展的な対立でなくてはならない。社会的実践が伴わなければ、新しい対立は古い対立以前の社会に後退する。かつてのソビエト連邦共和国が民主主義を否定し、労働者が主人公の国でなかったように。未来に向けて階級対立を止揚する革命がなったとしても、階級対立に変わる社会対立が生じうる。原理的に発展は多様化であり、多様化によって生じる対立を協調させることで豊かさを実現できる。とりあえず、多分、自由と民主主義をめぐる対立が、すべての人の自己実現という内在的、自発的主体確立を目指す勢力と社会的調整秩序から私利を得ようとする、旧守しようとする勢力の対立が新しい人類の歴史を発展させる運動をつくり出す。[7033]
主要矛盾の止揚が新しい主要矛盾に転化する。新しい対立が対立を無くせないからといって、現在の矛盾に取り組まなくては社会発展は実現しない。[7034]


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