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第一部 第三編 反映される一般的世界

第12章 普遍的認識(思考)


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第12章 普遍的認識(思考)

思考は選択である。思考は選択肢を探し、判断することである。その過程で対象を普遍的に理解する。[0001]
普遍的認識としての思考の前提として生理的認識がある。生理的認識にあって対象、環境からの作用に対応して身体の反応を決定している。生理的認識での選択は遺伝と経験に基づいている。経験に基づく選択は生命進化の過程で獲得した能力であり、個人の成長過程で獲得した能力である。生き残れる反応を選択する能力を獲得したものが、自然選択されてきた。[0002]
ところで経験は具体的であるが個別的である。経験の繰り返しとして刺激と反応の生理的認識・反応過程が固定化されるが、そこでの普遍性は環境の普遍性に依存している。安定した環境としての普遍性に依存している。生理的認識は対象、環境の個別的異同を区別するが、環境の変化に対して普遍的ではない。したがって生理的認識での選択の幅は狭く、最良である保証はない。生理的認識では環境、状況が変わっても、同じ刺激には同じ反応しかしない。[0003]
意識、主観は個別を普遍的に対象化する。主体、主観にとって対象との関係は普遍的世界である。対象は多様な個別として次々と現れ、個別部分は常に変化するが全体世界は客体としても、主観にとっても普遍的である。生理的認識と異なり、思考は対象、環境の共通性、一般性を普遍的表象世界として認識する。個別についても個別として保存される普遍性を対象世界のうちに対象化する。意識、主観によって普遍的表象世界としてとらえることで獲得されるのは「見通し」である。主体として対象に関わっていく、生活していく見通しを獲得する。この普遍的表象世界全体を意識的思考の対象として世界観を獲得する。[0004]
人は対象との相互作用環境の変化の中で、主体の恒存性を実現し、反応を制御する能力として普遍的認識能力=思考力を獲得した。ただし、現生人類=ホモ・サピエンスに進化してから数十万年、この間人の思考力はさして進歩していないようである。歴史的に現れている違いは、人口が増え、その当然の結果として思考する人が増えたこと、社会的に思考を訓練する教育が進歩、普及したこと、そして何より思考の成果としての知識、思考の前提になる知識が蓄積、共有化してきたことによる。[0005]

【意識と思考】

とりあえず簡単に定義するなら、意識は感覚器官、運動器官の神経活動入出力が、大脳皮質での神経活動と連関=リンクしている程度を表す。思考は神経中枢による感覚器官、運動器官の主体的調整である。[0006]
無意識であっても思考し、対象についての理解が進むように、意識と思考は同じではない。思考は意識にかかわりなくおこなわれ、思考が言語を獲得し、その言語を対象化することで思考は意識されるのであろう。[0007]
無意識無思考は意識もなく、思考も行われず神経麻痺、ほとんど脳死の状態であろう。無意識無思考であっても創造性はある。生物進化は意識、思考以前の過程であるが、その成果の多様性、その適応の巧みさに思考も追いつかない。[0008]
無意識思考は睡眠中の夢として経験できるし、覚醒時であっても夢中になる。睡眠中の夢も、昼間の思考経験の整理ではないかとも言われている。また思いついた時にそれ以前の思考過程を思い出すことはできないが、思考によってもたらされた結果を知ることができる。気がつく、思いつく、納得するその前段は意識されず、気がつき、思いつき、納得した後に前段の思考過程を意識的にたどることができる。思考の大部分は無意識に行われている。しかも生物的にだけではなく、社会的、文化的にも無意識の思考が働いている。社会的に差別意識などが植え付けられる。無意識に獲得された思考様式も意識的思考によって、普遍性に基づいて点検しなおすことによって矯正できる。無意識の思考も訓練の対象になる。[0009]
意識無思考は主観的な思いこみである。決まり切った行動をするときには対象化がおこなわれず、意識があっても思考は停止しているかのように思える。意識無思考は覚醒して行為していても、行為過程を対象化していない、意識と思考が分離した状態である。行為対象の変化、行為の変化に対応できなくなって意識無思考を自覚する。意識があっても、対象との関係を制御できない状態である。上の空である。行為対象以外について無意識思考しているかどうかは当人も、観察者も検証のしようがない。ミス、事故が起きてから状況を把握できていなかったことが明らかになる。意識が対象に向かない不注意とは異なる。しかし、思考を意識できないだけであって、意識の対象外で感覚器官、運動器官は思考によって調整されている。[0010]
これらに対して意識思考が通常の「思考」の問題で対象にされる。思考を意識し、対象化するには思考過程を客体としての言語によって表現する。思考を言語によって表現し、表現した言語を対象化することで思考を対象化する。直接の思考は意識の対象にならない無意識思考であり、思考は言語によって媒介されることで意識の対象になり、意識した思考=意識的思考を実現する。意識的思考を実現する言語は主体間のコミュニケーションの場で、コミュニケーションを媒介し、主体の対象をコミュニケーションの対象として規定する。意識思考は、主体の方向性に規定される。主体が対象にする物事に意識が向けられ、思考は指向される。意識的思考は意識によって方向づけられ、意識によって対象を規定された思考である。[0011]
意識的思考はコトバをいじくり回して試考=シミュレーションする。試考過程で対象との関係はランダムに飛躍し、また繰り返して探られる。様々な視点から対象化したり、いくつもの別個の物事を次々に対象化したりする。その試考過程、その結果は言語で表現され、説明される。やがて対象の他との関係のすべてをまとめて理解することで、対象をつかむ、把握することができる。対象全体を表現し、筋を通して説明できるのはまとめる時である。繰り返し試考することでより詳細に、より確固とした観念表象が構成され、概念として定義されて名づけられる。まとめとして成果物を出せずに保留するのが通常である。この過程を「呻吟」とうめく。意識的思考は孤立した過程ではなく、無意識思考、そして情動を基礎にして実現している。[0012]
さらに意識思考には主体の対象を対象とする実践思考と思考自体を対象とする反省思考とがある。[0013]

第1節 無意識思考

人は日常的に覚醒しているほとんどの時間を無意識思考によって生活しており、意識的に思考するには努力が必要である。意識される思考は思考の一部でしかない。経験し、訓練したことは意識することなく、意識思考を伴わずに行動できる。経験、訓練により、意識しなくとも高度な情報処理をすることができるようになっている。思考を意識していないのである。意識しては思考、判断は遅くなる。経験、訓練によって身につくのは運動能力だけではない。観察力も、論理能力も経験、訓練によって向上する。同じ形式の論理問題であっても、経験した対象間の関係を把握することはたやすいが、未経験、あるいは抽象的関係を把握するには意識的に論理関係をたどり、時には図解までしなくてはならない。このことはジョンソン=レアードらによる「4枚カード問題」としても紹介されている。また心理学が、成長過程で思考力が発達する様子を紹介している。経験は知識として集積されるだけではなく、思考能力も訓練している。意識して思考することが思考の訓練である。思考する器官である脳は生まれた時にはできあがてはおらず、その神経細胞は網は再構成され続け、細胞間の伝達が制御される。したがって、三歳頃までの記憶は意識の対象として残りようがない。[1002]
主体の実践過程と思考過程が並行して進む場合には、思考は無意識におこなわれる。意識は実践対象に向かい、思考を対象化できない。実践過程を反省することで、思考過程を想起することができる。頭頂後頭皮質に脳損傷がある人は、損傷の反対側の空間認知を無視する半空間無視の症状がでることがあるという。無視はしても判別し、記憶し、想起し、つまり意識をせずに思考している。[1001]
対象からの刺激によって引き出される記憶は連想であって、その連想過程は意識して制御することはできない。せいぜい方向づけることができるだけである。これに対し意識的に索引づけされた記憶は意思によって制御され、思い出すことができる。また、経験、知識のうちだけではなく、未知の対象に対しても無意識思考がおこなわれる。経験の適用や、知識をたぐり出す過程は無意識に行われる。対象の連関形式である空間、時間に未知の対象を受け入れ、他の諸存在との相互作用を対象化する、その過程でもたらされる対象評価に意識思考は介入できない。[1004]
抽象空間は意識されるように座標によって規定されてはいない。座標は意識的思考の産物であり、それ以前に空間は抽象的に把握されている。経験の過程で感覚だけではなく、同時に身体を動かすことによって抽象空間を理解する。試しに自宅周辺の地図を書いてみると分かる。右左折を意識する道路でなければほとんど直線で描き、うねりを捨象してしまう。時間についても生理的リズムを刻む生物時計は意識することなく、その表れで身体リズムがあることを知る。意識しての時間は身体の運動と時計との相関によって理解する。思考によって対象化される時間は時計によって計られ、ついには同時として意識される時間は一般相対論によって否定される。空間・時間は経験によって意識以前に理解される。意識以前の理解であるから先験的、先天的、アプリオリな概念として解釈されてしまう。[1005]

意識的思考は無意識思考によって反映される表象を評価する。反映表象の評価は普遍化であり、反映対象の異同を普遍化する。感覚表象が普遍化されて知覚表象になる。形、色、響き等の感覚表象が特定の個別対象の反映像を結ぶ。特定の対象を超えて感覚表象は形、色、響き等の異同を普遍化しそれぞれを区別し、名づけられる。他方で多数の個別対象からなる感覚表象の普遍性によって個別性が知覚表象として普遍化される。知覚表象は知覚表象間で分類体系化されて観念表象になる。観念表象としての範疇は具体的、個別的なものから、抽象的、一般的なものまで多様である。これら普遍化された反映表象が意識思考の対象になる。[1006]
思いつき=ヒューリスティックは無意識思考の意識化、意識思考への転化として起こる。意識を基準にするなら思考は意識と無意識とを遷移する。[1007]

【普遍的対象化】

客体の客観的相互作用関係は考えるまでもなく存在し、実在している。主体による対象化によって客体は反映され主観・思考の対象になる。思考の対象にすることで、客体間の客観的相互作用関係の対称性は主観的に破られ、被対象の存在が主観のうちに措定される。主観の対象として置かれることが措定である。主観の対象として措定されるが、対象はその主観的被措定関係による区別に関わりなく客観的に他との、全体との関係にある。主観は主観に関わりなくある対象を主観のうちに反映し、再構成する。個別的、具体的にある実在としての対象を、主観のうちに普遍的に構成する。対象としてはとらえることのできない過去の世界、未来の世界に連なる普遍的世界をとらえる。実在の世界は豊かに多様であり、普遍化しなくては主観のうちには収まりきらない。[1008]
さらに主観は客体間の相互関係の一部分をも対象として措定する。それでも主観がとらえることのできるのは、客体間の複雑な関係の一部分である。関係の対象化は客体と客体間関係の主観化である。個別対象の構造を要素個別と要素個別の関係、要素と集合全体との関係として、相対的全体として対象化する。主観は対象の個別性、偶然性を捨象して抽象的普遍的個別を対象化する。変化はしても当の個別として保存される普遍性を対象化する。例えば川や風、渦のように。他に転化しても、他から転化しても個別として規定できる普遍性を対象化する。放射性元素は崩壊して変わっていくが、崩壊前の元素も崩壊後の元素もまた他に存在するし、構成していた陽子、中性子は消滅しない。[0000]
主観はまったく異なる個別に表れる他との同じ関係形式の普遍性を対象化する。すべての変転、連続のうちに区別される普遍性を対象化する。普遍的関係形式は秩序である。概念として思考によって定義されるものは、このように無意識のうちに普遍的に対象化されたものである。[1009]
ネズミ(ラット)の認知実験でも提示される四角形を個別的に認知するのではなく、辺の長さの比によって長方形らしさ、長方形の規則性を認知しているという。長方形概念と正方形や台形の概念とを比較しその違いとしてではない。人であっても幾何学を学ぶ以前に丸らしさ、三角らしさ、四角らしさ等の幾何学的性質を区別することを身につけている。特に言語では親から文法のすべてを学ばなくとも、誤った表現を与えられても子供は正しい母語を身につけることができる。規則性という、より高度な普遍性を対象化する能力を進化の過程で獲得してきている。[1011]
一つひとつの個別を対象とするのではなく、それぞれの個別のもつ普遍的性質を実現するものとして対象化する。それぞれの個別に実現されている普遍性を対象化する。「個別性」と「普遍性」という対立概念を対象として統一しているのである。[1010]
物を探す時、意識的には対象を思い浮かべ、一致するパターンを探査するが、パターンは対象の一面である。しかし無意識に完全なパターンを求めず、部分的パターンの一致でも見つけ出すことができる。対象が物の陰に隠れていても、一部が見えるだけでも見つけることが可能である。無意識的に一部分を見いだすことによって、意識は対象が隠れていたことをみいだす。普遍的に対象化されていれば、部分であっても、予想外の視点からでも対象を見つけることができる。捜し物の観念表象と個別対象との相対的関係が予想外であっても、違いと同一性を思考できるから見つけることができる。探す経験を積むことによって探すことが上手くなる。依頼されてわずかな手がかりだけで探すのは困難である。わずかな手がかりでも、対象を普遍化できれば見つける可能性は増える。[1012]

【範疇化】

思考は感覚表象を確認し、主体と対象との関係を確認する。感覚表象の認知過程での錯誤の可能性を確認する。主体が思考可能な状態であるかを確認する。主体と対象との相互作用を確認する。確認は一度限りではなく、視点を変えて繰り返えす。一つの個別対象に対するだけではなく、次々と生起する主体と対象との関係変化を追う。過去の変化についても繰り返し反省する。一連の確認をとおして、対象一般のうちに普遍的個別を対象化する。個別を普遍化することで全体を普遍化する。普遍的な個別を要素として普遍的な表象世界を構成する。普遍的表象世界に個別が普遍的に規定される、普遍的表象世界での関係を規定される普遍的個別表象が範疇である。範疇は個別の一般的性質である。質が個別として範疇化される。[1014]

性質が連続して分布している場合、それでも主観によって分類される。この主観による分類は、主体の相互作用過程で対象化し、操作対象として他との区別を規定する。主観による分類は主体の経験として、主体の社会的、文化的環境の中で身につけられる。[1015]
虹の色を何色に分けるかは主観の文化的背景によって異なる。生活の中で対象化される物の色が区別され、色名がつけられ、色名間の対比によって虹の色が分類される。光の波長は連続しているが主観によって7色、6色あるいは2色に分類する。色盲の規準は医学的であるより社会的である。偵察軍務、交通信号、取扱薬品の弁別に必要だとする理由によって色盲の規準が決められる。色盲だったらどのように弁別手段を整えるかの視点ではない。[1016]
母音であっても「イ」から「ウ」までは連続した響きであるが、それぞれの言語によって分節化され、区別が強調される。連続した母音を8等分して発音記号を並べるなら 8つの母音発音記号列 のようになる。現在の標準的日本語ではこのうちから5つの音を用いている。心理学では乳児は十三種類の母音を区別して聞き分けているという。親などの発音を聞くうちにそれぞれの母語の母音を聞き分けるようになり、十二ヶ月で聞き分け能力は固定されてしまうという。この固定化がマグネット効果と名付けられているが、範疇化の弁別過程を言い当てていておもしろい。量が区別されて、違いが強調されて表現され範疇化される。[1017]
季節の区分は地域によって異なる。季節に応じて農耕、狩猟は営まれ、営みの経験から季節が区分される。季節は区分されるがいつ季節が変わったかは天気予報士にも確言できない。移り変わり全体のなかで、相対的に決められる。[1018]
脳神経科学の発達によって、思考や記憶が神経細胞網の発火、発火のネットワークとして実現している様子が明らかになってきている。しかしその思考の内部表現は主観によってしかとらえることはできない。そしてその表現は観念表象間の相関関係として、結果として表現することしかできない。思考の内部表現は言語として対象化され、範疇として名づけられる。思考の内部表現でありながら、言語は社会関係の中で、人間関係の中で、コミュニケションの過程を経て名づけられている。思考の内部表現は言語として共同の経験のうちで互いに確認し名づけられている。[1027]
人それぞれの経験、エピソードの違いを引きずりながらも、普遍化によって範疇規定を確認することができる。個別対象の理解は人それぞれに多面的であるが、範疇として名づけられたコトバ=記号で当該の一般対象を指示することができる。太陽についての理解は人それぞれであるが、「太陽」というコトバが指し示す物がどれであるかは日本語を解する者の間では一致する。個別の対象理解は人それぞれに違っても、本質部分の理解は一致しえる。[1028]
範疇はコトバ、表象としてあるのではない。コトバは範疇を名指すものであり、表象は範疇の具体的一面でしかない。範疇は主体の感覚、運動と連なり、対象との相互作用過程での経験を普遍化した記憶としてある。対象での有り様を分節し、普遍化したものが範疇であり、対象を個別化するものとして範疇はある。[1019]
対象を範疇化することによって、個別対象を改めて普遍化する過程を省略できる。個別対象に範疇を当てはめることによって、対象の多様な規定を前提にすることができる。他との関係、違いを確認しなくとも、範疇によって想定する。範疇の適用は探査しないで対象の一般的可能性を主観にもたらす。ただし範疇は完成され、固定されてはいない。範疇の再編は経験のうちで、認識の発展のうちでくり返し行われる。範疇の再編が行われなくなることが思考停止である。「バカの壁」ができあがる。[1020]

【普遍的表象世界】

結局、主観は個別を普遍化して対象化し、普遍的表象世界を構成する。この普遍化は抽象化ではない。主体は客体の相互作用連関過程である運動変化に普遍的個別を対象化し、主観はそこに普遍的表象を構成する。客体の相互作用連関過程に対する主体の普遍性に依拠して普遍的個別表象を構成し、個別表象全体からなる普遍的表象世界を構成する。主体の生理的認識過程をとおして普遍的表象世界は構成され、普遍的表象世界に対する主観が主体によって意識される。主観は普遍的表象世界を主体と、主体の属する客体の相互作用連関過程としての実在世界に重ね合わせる。[1021]
普遍的表象世界は「カルテジアン劇場」のように主観、意識の対象として存在するのではない。主観、意識も「トムンクルス」ではない。普遍的表象世界は主体に反映されている、主観としての観念世界である。実在世界である客体の相互作用連関過程のうちでの主体の反映過程に実現される。主体によって担われる反映過程に普遍的表象世界と主観、意識とは相補的に実現される。客体ではなく、主体によって担われる反映であることが鍵である。ヒトの大脳皮質での情報処理過程で再帰的関係に実現されていることが肝要である。大脳における情報の並列処理から独立した処理過程が並行することではない。脳神経細胞網発火のそれぞれの連鎖が相互に連関し、相互に対象化し、主体の対象との相互作用関係を反映過程で再現構成する。主体の対象との相互作用過程と、主観と表象との相補的実現過程とが実在過程として重なり合う。主体と対象との相互作用過程に、主体の中枢神経を介して再帰することで主観と表象との相補関係が実現する。ただしこれは私見である。[1022]
したがって主体と対象との相互作用過程と、再帰する主観における反映過程との相補関係には生理的に時間差が生じ、空間的隔たりがある。主体は実在過程での実在時間で対象と相互作用している。これに対し主観は、生理的に調整される普遍的表象世界時間に依存している。神経系の伝達最高速度は秒速100mでしかないのだから。視覚刺激の「今」と、足先刺激の「今」は主体の実時間では違っていても、主観は同時と認識する。この時間差、空間的隔たりを中枢神経系は調整している。[1023]
具体的に短距離走のクラウチング・スタートで運動野から腕と脚とに同時に信号を発したのでは脚への信号到達が遅れ転倒してしまう。脚への信号はより多くの時間がかかる。さらに、脚が腕よりわずかに早く起動するよう調整されなくてはならない。練習をとおして訓練、調整される。この時主観は腕と脚とを同時に動かしているかのように意識する。この過程の実証報告があるのかどうかは知らないが、逆に手足での感覚刺激の時間差が大脳感覚領野で調整されるとの実証報告はある。主体と対象との相互作用過程と主観と表象との相補関係を同調補正する機構が様々な錯覚を引き起こすことになる。[1024]
1983年発表のリベットの実験では被験者の運動開始意思の前に運動前野の発火が確認されている。自らの運動開始を意識は決定しているのではなく感じているにすぎないと解釈できる。[1024-2]2007.1.22
普遍的表象世界で主観は「絶対時間」「絶対空間」の概念を構成する。主観は離れた空間での同時性を想定する。時間・空間概念だけではなく、様々な個別存在も主体の経験から構成する。法則も、科学理論も普遍的表象世界を記述するものである。法則、科学理論の真理性は表象世界の普遍性に依存している。科学理論も普遍的表象世界としての限界のうちにあり、限界を超えようと発展する。普遍的表象世界は主体の実践過程で、客観的対象世界に重ね合わされ、常に検証される。[1025]
ここで「普遍的表象世界」の詳細はとりあえずこの「世界観の組立方」である。詳細は自ら見、感じ、経験している世界で確かめることだ。それは客観的実在世界ではない。それは主観に反映された表象世界である。主観が観ているから表象である。しかしそれは主体の実践過程で客観的実在世界に重なり合っている。この画面、あるいは紙面から意味を読み取ろうとあなたが見ているのは、画面上のドット、紙面上のインクではなく、光によって媒介され、あなたの脳に反映されて構成された表象としての文字である。これが見るということであって、主観的世界と客観的世界を重ね合わせている。客観的には「普遍的表象世界」は客観的実在世界の一部分であるが、主観的には世界を実在世界との二つの次元として構成している。主観的にこの次元を超えることはできない。この次元を超えるのは主体の実践である。[1026]

【無意識思考の意識化】

範疇を表す記号=名前=コトバによって範疇の規定関係の再編を表現する。範疇名で範疇相互規定の再編を操作するのが意識思考である。無意識思考を範疇名の操作として意識化する。コトバによる表現は発話、筆記、打鍵(タイピング)などの外言語だけではなく、思考過程での記憶表現として、観念表象として、内言語としても利用されている。[1029]
思考自体が経験であり、訓練の対象である。意識的に思考することが訓練であり、思考過程一つひとつを確認し、一つひとつの過程の関係を確認する。これをくり返すことによって確実な思考を意識しなくともできるようになる。対象に現れる個別対象の他との相互作用全体の関係から対象を理解する。対象に表れる普遍性を秩序形式として、パターンとして把握する。個別対象一つひとつ、その動き一つひとつを確認しなくとも、対象とすべき事柄を把握する。無意識の思考を対象化することによって、思考の対象を意識しなくとも対応できるように訓練する。[0000]
経験の蓄積は到達点である。経験だけに依拠することはできない。経験だけで把握できる世界は、相対的普遍性しかもっていない。より多くの人々の経験、歴史的にも蓄積されてきた経験知識を学ぶことができる。より多くの人々の思考経験は言語によって表現されており、主体的に経験しなくとも学ぶことができる。学ぶことは意識的思考の訓練である。[1031]

第2節 意識的思考

意識的思考は対象の規定関係の連関を言語によってたどる。対象は無意識思考によってすでに個別に区分されている。意識的思考は個別対象を規定する相互作用関係形式、規定された相互作用によって実現される秩序形式を言語によって表象する。意識的思考は対象の性質、状態として現れる関係形式を対象とし、関係の関係をも対象として言語表象=コトバを操作する。コトバの操作は必ずしも対象を反映しない思考であり、創造と過誤の可能性がある。したがって、意識的試考は対象関係を言語によって表現し、言語表現を対象関係によって検証する。[2001]

【意識的思考過程】

考え方のハウ・ツー書も出回っているが、意識的思考がどうであるかを簡単に反省してみる。思考は対象のなかに範疇を獲得し、範疇を適用して相互作用過程を制御する。第一に対象間での主体の対応可能性を探査し、決定する。主体の行為、行動を見通す。第二に探査、決定過程を反省し、個別対象を主体との関係で範疇化する。客観的実在世界を普遍的表象世界として理解する。二つの過程は相互に連関し、相互に規定しあっている。二つの過程は同時に進行するが、意識はどちらか一方しか、しかもその一部しか対象にすることができない。全過程は意識できないが、思考の成果物を整理するならこう推測するしかない。[2002]
思考の第一の過程は問題への対処指針を設定する。経験的対処で事足りることは意識的思考を必要としない。経験的対処は訓練によって拡張される。よく自転車に乗れるようになることが意識的訓練による無意識化の例として挙げられるが、運動に限らず認識も、論理も、読み書きも訓練によってその能力を拡張することができ、無意識化する。経験を超える問題に気づくことから意識的思考は始まる。続いて問題を把握し、原因と到達目標を設定する。解決手段、方法を検討する。試考し、評価する。それぞれの過程は筋としての順番であって、思考過程としては互いに連関しあい、行きつ戻りつ全体として進行する。[2003]
問題に気づくことにもいくつもの問題がある。主体的に問題を探すことも、問題を突きつけられることもある。早期に発見すること。問題であることを理解すること。問題を把握することは、解決までを見通すことでもある。好奇心、感受性は与えられたものだけではなく、それまでの生活での訓練にもよる。対象のわずかな変化を感知するには対象になじむことが必要である。この場合の「対象」は個別対象の構造、他との連関でもあるし、環境、世界の広がりでもある。普通には「問題意識」である。[2004]
解析にもいくつもの問題がある。同じ型の問題を思い出すこと。経験を組み合わせ、技術を応用すること。普遍的経験・知識を適用し、それを具体化すること。このことは問題の要素とその関連を明らかにすることである。そして明らかにすべき関連の範囲をまずは限定する。範囲が限定できれば解決の目途が立つ。解決の目途が立たないなら、範囲を順次拡大する。関連は必然的な相互作用に限られない、たまたまの条件もあれば、特殊な環境の影響もある。異分野との関連に範囲を拡張するには知識と経験が必要である。[2005]
しかし、日常的には予断がこれを妨げることの方が多い。関連の範囲を経験、知識に限定し、事実を認めようとしない。問題解決に自信がなければ、あるいは自己満足していては柔軟な認識、思考で取り組めない。自己中心的であれば自らのミスを機械や他人など自分以外に求めてしまう。他の物事の方により価値を認めるなら、当面の対象に取り合おうとしない。それが私利私欲による場合にはどうしようもない。普通には客観性である。思考力は記憶力や回転の速さだけではない。[2006]
関連範囲の拡張は最終的に未知の領域と対する。自分が知らない場合と、社会的にも知られていない場合があるが、思考としては自分、主体の問題である。未知の関連に対する方法は普遍的関連を拡張するか、似ている関係の型を当てはめる。前者は論理的思考であり、後者は類推思考である。普通にはこれが「考える」ことである。[2007]
最後に試考、評価がある。これには実行と了解がある。試考には技術も必要である。不良箇所の発見では道具とそれをどこで使うかの技術がものをいう。試考を実行して問題が解決すれば終了である。多くの場合試考できても解決できない問題が大きな問題である。現実には大きな問題が残され、それを巡って歴史が展開する。試考なくとも、対象のすべての連関が明らかになり、既知の知識と整合することで了解される。試考過程では個々の連関をたどるが、対象をとらえきった時、対象の連関のすべてが既知の知識の連関に過不足なく連なる。これが了解=ヒューリスティックである。普通には了解、「思いつき」である。しかし、日常的に評価は結論をともなうとは限らず、保留されることの方が多い。実践的にはどこで保留するかがその人の思想性を表す。[2008]

意識的思考には実践思考と反省思考がある。反省思考は実践思考経験を経て獲得される。思考経験を経た人は実践思考と、反省思考を意識して区別することなく実践する。しかし、実践思考と反省思考の対象は異なる。実践思考は個別を対象化するが、反省思考は普遍を対象にする。実践思考の個別対象は反省思考によって獲得された普遍表象との関係で評価される。反省思考の普遍表象は実践過程での個別対象によって検証される。[2009]
実践思考は主体を制御する思考であり、可能性の探査、可能性に対する評価、主体的判断からなる。それぞれ相互に規定しあってはいるが、相対的に独立の過程としてそれぞれに基準がある。それぞれの基準に準じながら、相互に規定しあう構造として実践思考はある。[2010]
反省思考は実践思考を対象化する思考である。感覚経験と、実践思考によってもたらされる表象を普遍的世界として構成する。個別表象を評価することで、普遍的表象世界を構成する。反省思考は反省思考自体をも対象として思考する。反省思考は構成した普遍的表象世界を主体の対象世界に重ね合わせて検証する。[2011]

第1項 実践思考

【可能性の探査】

人は無意識に反応、行動できない時、場合に思考を意識化する。対象・環境へ、経験にしたがって対応できない時、場合に意識的に思考する。未知の対象、新しい環境に限らず、ちょっとした条件の違いに対しても意識して確認する。感覚的に違和感があるだけで注意が喚起され、対象、環境を探査する。対応の仕方を思考するのであり、そのために対象が何であり、環境がどうであるかを認識しようとする。対象・環境と自らの相互関係の可能性を探査する。単に対象に対する好奇心だけではなく、主体と対象との相互作用変化の可能性を探査する。好奇心は思考経験によって、人の進化過程で、あるいは個人の成長過程で獲得されたのであろう。[2012]

主体は対象化するものであり、客観的相互作用関係を対象化することで、反映し、主観化している。客観的相互作用関係を主体との連関で関係づけることが対象化である。対象との相互作用関係は常に変化し、主体にとって有利になったり、不利になったりする。客体間の相互作用関係にあってもすべてが決定されておらず、偶然によって過程は変わる。これに対し、主体は偶然ではなく、意思によって対象との相互作用を方向づけることができる。主体は対象との相互作用関係を否定することも、超えることもできないが作用の組合せを変えることができる。この対象との相互作用関係の変化に応じるのではなく、変化の制御を目指すのが思考である。変化の可能性を探査し、主体にとって有利な変化を実現できる主体の作用を選択する。[2013]
ここには二つの探査がある。対象と主体との相互作用変化としての実践的可能性の探査と、対象の変化としての一般的可能性の探査とである。実践思考の対象化は、実践的可能性の個別的、具体的探査である。反省思考の対象化は一般的可能性の普遍的探査として対象の知識化であり、知識の対象への適用である。[2014]

【実践的可能性の探査】

変化の可能性は個別対象間の相互作用と、対象と主体との相互作用にある。この可能性は相互に関連しているが、主体にとっての選択可能性は対象と主体との相互作用にある。客観的個別間の相互作用に主体は直接介入できない。主体が客体ではなく主体でありえるのは、対象化できる個別との相互作用においてのみである。[2015]
主体と対象との相互作用が経験を超える時、主体と対象との相互作用関係の変化の可能性の探査が必要になる。主体と対象との関係の変化可能性を明らかにするために、個別対象間の客観的相互作用変化可能性の探査が必要になる。ここに主体の対象から個別の対象化がおこなわれる。経験を超える変化を担う個別を対象としてとらえる。未知であってもまったくの未知ではない。他ではないこの世界に実現する対象であり、現れは他の存在と同じであり、有り様が他とは異なるだけである。未知であっても見えるものは見えるし、聞こえるものは聞こえる。敵対するものは敵対する。感覚によってとらえることも、行為の対象とすることもできない対象は未知ですらありえない。対象化できないものはこの世界の存在ではない。対象一般と個別との相互作用は普遍的にある。客体間の関係に現れる未知の関係が対象化される。個別的有り様が未知なのである。普遍的相互作用関係に対象が未知の個別的関係を伴って現れる。[2016]
探査する可能性は無規定の可能性ではない。探査する可能性は主体の選択肢としてである。主体が選択可能である対象との相互作用関係を探査する。ほとんど実現することがありえない可能性の探査は「下手な考え」である。経験的にはありえなくとも、実現可能な選択肢を見いだすのが主体にとって価値ある思考である。誰が考えても同じ答えが出るものには価値がない。誰も考えつかなかった実現可能性に価値がある。[2024]
可能性を見いだすのが探査であり、実現性を見いだすのが評価である。探査と評価は一体ではあるが相反する。探査は広くなくてはならないし、評価は綿密でなければならない。限られた時間、過程のうちで探査を広くするなら評価は粗略になり、評価を綿密にすれば、探査は狭くなる。[2017]
当初は経験的に当面の対象に限定する。限定した対象に可能性がなければ、対象と他との関係に範囲を拡張する。他との関係は多様であり、必然的な相互規定関係から、偶然の組合せ関係まである。関係の蓋然性にしたがって対象化する関係を拡張する。見落としがちなのが異分野との関連である。[2018]
使用している機器の故障と思いこんでいたのに、自分の操作ミスであったり、電源が抜けていたり、ブレーカーが落ちていたり、停電であったりする。自らのペットが計算して吠えたり、足踏みして答えられると思いこんでいても、飼い主の表情が読まれていたりする。どのような関係が作用して問題が生じているかは予測しきれない。それでも問題は現実の相互作用関係のうちにあるのであって、すべての関係をたどることで明らかになる。対象との直接的関係から、対象の他との関係へと探査対象を順次拡大して探査する。関係をもれなく列挙するには経験も必要であるが、技術、論理によって容易になる。専門分野それぞれの技術、例えばプログラミングでのデバック・ツール等がある。論理は汎用の思考道具であり、昔からの哲学の対象である。[2019]
ものを探す時、あるべき場所、置きそうな場所、紛れ込みそうな場所、誰かが置きそうな場所、隠されそうな場所を探す。それぞれにありそうな可能性を推理、思考する。それぞれの可能性間には階層があり、可能性の大きな場所から順次探す。対象を探すのは実践であるが、可能性を探すのは思考であり、可能性の大きさを評価するのも思考である。[2020]
しかもその各段階で認知の可能性の高い感覚を主に動員する。第一に視覚であり、ついで聴覚、臭覚、触覚の順、味覚は特殊な対象に用いる。当然に対象の性質によって感覚の優先度は異なる。日常経験の内では思考することなく探査方法を選択しているが、困った時には道具を含め方法、手段も探査し、評価し、選択する。[2021]
より困難な可能性は対象と主体との相互作用変化である。相互作用過程は一方が他方を規定する関係ではない。双方向の規定関係であり、一方からの作用が他方からの作用に影響する。さらに双方向の作用過程が他との連関の中にあり、環境、条件によっても規定されている。3つ以上の要素からなる多体問題では相互規定を一義に定義できない。それでも思考は多数をひとつの全体として括り、複雑な動的規定関係をだいたいの予測にとどめ可能性を探査する。計算はアナログ計算機なら可能になるかもしれない。[2022]
経験を超える可能性への拡張は想像力でもある。想像力は経験の拡張であり、経験の拡張経験である。無からは何も想像できない。知識、技術、論理の新たな組合せ、比較、拡張、変形等を適用した経験によって想像力は訓練される。単に新しい関係ではなく、全体としての、他との連関を拡張する力、見いだす力である。探査と評価の均衡のとりようが思考の経験として蓄積される。蓄積された経験を方法として整理するのも思考である。[2023]

【個別対象化】

普通には思考は選択すること、判断することととらえやすいが、与えられた選択肢を判断することは受動的である。主体的、創造的思考は可能性を追求し、選択肢を発見することである。対象を意識的にとらえること、対象を理解することになる。[2025]
相互作用関係は普遍的、一般的関係であり経験により理解されている。未知の作用は既知の関係の変化として現れ、表れる。未知の対象であっても、我々にとって五感によってとらえることができるから対象になる。我々にとって間接的にでも、五感でとらえられないものは存在を確認することもできない。伝聞であっても他の人を介し、他の人からの情報を五感で受け取ることで対象化できる。五感によってとらえることができても、表象化できない対象が未知なのである。我々は経験によって様々な対象の観念表象を獲得してきている。感覚表象から知覚表象を構成し、抽象的な観念表象まで獲得してきている。基本的な表象から複雑な表象を組み上げて発展的な観念表象を獲得してきている。既得の観念表象は観念表象間の相互関係のうちに規定されている。その規定関係にない対象が未知なのである。未知の対象を既知化するのは、既知の観念表象間関係に位置づけることである。既知の観念表象規定によって未知の対象を規定するのである。既知の観念表象によって規定することで、未知の対象は個別対象としての表象を表す。新たな個別対象として対象化され、新たな観念表象として対象化される。[2026]
新たな個別対象として、既知の観念表象との相互規定関係の可能性を探査し、検証する。新たな相互規定関係によって新たに個別対象化する。同時に新たな相互規定関係がどのように相互作用を実現するかを探査する。規定関係は法則であるが、規定関係の実現は他との相対的関係、偶然の介入する過程である。逆に偶然の中に普遍的に貫かれる関係が法則である。新たな相互規定関係によって、対象との相互作用の可能性を探査する。相互規定関係によって実現する相互作用の可能性を探査する。[2027]

【対象の解析】

了解までの前段は見通しの立たない解析である。全体を構成するには対象要素、要素関係が明らかになっていなくてはならない。対象の変化する部分と不変な部分とを区別することで対象を解析する。個別対象が他と区別されるのは対象の個別性が保存され、不変であることによる。個別対象が存在するのは他との相互作用過程に、変化のうちに保存されることにある。その個別対象の成り立つ有り様、運動過程も変化と不変とによって明らかになる。個別対象そのものの存在過程で、他との相互作用の過程で、そして主体による作用によって。科学実験は統制され、さらに対照実験が求められる。[2028]
個別対象は他との相互作用、相互規定関係の場にある。この場から飛躍して他になるのではない。相互作用、相互規定関係を変えることによって他になる。しかも、個別存在はその主観による対象規定としてだけの存在ではない。階層関係の中で主体、主観によって対象化され、個別として規定される。すべての階層関係でその規定を変えてしまうことはない。個別性が保存されているのだから。一部の階層で、個別対象として規定される階層で変化する。量的、連続的変化ではなく、個別対象としての規定が、他との相互作用の質、相互規定関係が変化する。規定の変化として、概念として別の規定をもつ、別の概念に転化する。「A」が「A」でなくなり「B」になる、「A」から「B」への転化の過程も論理的過程である。異なる表象間を一意に規定する関係が保存されている。部分では対立する差異がありながら、全体が個別として保存される過程がある。その部分の対立する際は偶然の組合せにとどまらない、全体を規定する差異でありながら。これは包含関係の論理ではなく、実在の運動法則を反映する論理である。[2029]

【変換・置換】

対象の運動、変化の過程がとらえられない場合、最初の規定関係と結果としての規定関係での同一性と差異性から運動、変化の過程を推測する。あるいは未知の対象と既知の対象間の同一性と差異性から未知の対象の規定性を推測する。対象を操作できない過程では試考することしかできない。部分を取っ替え引っ替えして全体の個別性が保存されるかを試考する。試考対象はいくつもの規定が組み合わさっている。対象の特定の規定を固定、保存し、他の規定を変えることができる。変換操作によって個別性が保存されるかどうかを検証する。変換操作によって個別性が保存されるなら、その操作対象は個別対象を規定していない。変換操作によってどの規定に対称性があるかを検証する。対称性の保存される規定は他に依存しない、対象の自律的規定である。[2030]
対称性は幾何学図形が分かりやすいが、物理学での対称性は物質、世界の成り立ちを解き明かす重要な概念である。自然科学に限らず、自由、平等、独立についてまでも、対称性を見いだすことが普遍的理解の基本になる。権力関係に対称性はない。[2031]
物事の成り立ち、他との関連を対象とするには可能な変換を試み、対称性を解き明かすことが方法として有効である。対象の規定関係を明らかにすることで、実際に対象を操作しなくてもそれぞれの規定量を変えた場合を計算できる。規定する特定の性質を変えることで、対象の質の変化を予測する。質の場合連続的な変化ではないため、質間の変換法則を知っておく必要がある。さらに一部の質の変化が全体の質を規定する法則を知っておく必要がある。この法則は個別科学に学ぶ。思考だけで対象の法則を導き出すことはできない。逆に変換法則を知ることによって、対象を変化させる可能性を見いだすことができる。[2032]

同じものへの置換は「同じ」でないか、あるいは「置換」ではない。「同じ」であっても置換するからには違うものである。その場合、通常は古くなったものを新しいものに置換する。あるいは違う方法なりで「同じ」機能を担うものに置換する。技術的にはより省エネルギー、省スペース、安全、メンテナンスのしやすさ等を実現するものに置換する。思考の問題ではこの「同じ」と「違い」を明らかにし、検証する。置換によって全体性、機能性、他との連関性が維持され、保存されるかを推測し、実施結果を検証する。置換という手続き、一つの過程で何が保存され、何が変化されたかを明らかにする。さらに技術的には置換作業自体による影響も考慮する。[2033]
「比喩」「隠喩」「直喩」は修辞法の置換であるが、説明のためではなく指示のため、理解のために比喩と同じ置換が利用される。複雑化したシステムを対象にする時、個々の機能について精通することは不可能である。このとき「比喩」と同じ置換を利用する。別名=エイリアスではなく、実現するその結果が予測できる機能を比喩できるもので表現する。「チャネル(チャンネル)を開く」、「(信号線としての)バスに乗せる(これもオムニバスからの転用か)」等は伝送経路を代替表現してくれる。同様なことは日常会話、思考で活用されている。むしろ言語自体が対象の代替表現である。[2034]

対象の概念化は言語記号への置換によって表現され、言語記号操作によって検証される。言語記号操作が概念の他の概念との規定関係をなぞり、対象の他との連関を写像することで検証する。対象の概念化、抽象化は対象としての規定性を表す。対象は質として抽象される。対象の捨象は特定の関連での他との量的境界を表す。対象の多様な有り様から特定の有り様として対象を捨象する。抽象され、捨象された対象を言語記号で表象する。抽象し、捨象する過程も思考である。抽象、捨象する過程は生理的認識の過程でもあるが、抽象、捨象された表象操作が思考である。さらに思考は言語記号に置換された表象間の相互規定関係を操作する。記号表象の操作は集合論として形式化される。要素と集合、集合間の関係が操作される。集合操作によって対象の内包と外延が記号関係で規定され、対象との写像関係で検証される。集合関係による規定が対象を反映しているかを検証する。対象を記号として固定化することによって、対象の変化、運動を明らかにする。記号によって固定化された対象表象と、対象とが重ね合わなくなることで、対象の変化をとらえることができる。対象の変化を表象し、変化の変化をとらえることで対象の変化方向と変化量を計る。[2035]
思考は固定化された知識を集めることではない。対象の変化に応じて、あるいは他との関連において表象を置換し、置換しても対象を反映しているかを検証する。置換した表象間の関係が検証される。「a=a」は思考による表象ではない。対象である「A」とその表象記号である「a」との反映関係で「A=a」として思考対象になる。「a=b」との異同関係において「a=a」は思考対象になる。「a=b」、「b=c」のとき「a=c」と置換できるかどうかが思考される。対象間の関係に推移律が成り立つかどうかを思考する。「a or ¬a」排中律は否定との置換が成り立つかどうかを思考する。結果を知るのではない。置換過程によって対象を反映できているか、置換過程で保存される性質と、変化する性質を明らかにする。記号に置換した結果の関係形式を恒真式として知ることが思考ではない。記号への置換、記号間の置換が対象を反映しているかを検証することが思考であり、この検証過程で対象が普遍的に認識される。[2036]

【対象評価】

探査の過程で主体に立ち現れる対象を、主観として評価する。対象のうちに個別を取り出し、位置づける。個別対象と他との異同の規定、他との全体に対する部分としての特性を評価する。保存される異同の規定、特性は個別としての普遍性である。個別対象として現われる規定、特性は主観にとって多様な秩序、範型として反映される。主体は客体としては心身を取り巻く物事のすべてと相互作用し、心身自体相互に対象化し代謝している。その客体としてでなく、対象化するものとしての主体は対象との関係で特定の規定、特性と相互作用し、主観はその過程で秩序、範型を表象化する。主観は対象の特定の秩序、範型にいわば焦点を合わせるように対象化する。主観は普遍的に区別する観念表象として対象を規定し、個別として評価する。客体は主体にとって個別対象化され、主観によって観念として表象される。個別とその規定は相補的である。対象化は他との区別であり、全体からの区別である。全体を構成する単位を求めることであり、集合の要素を求めることである。対象化することによって、その反作用として観念化がおこなわれる。対象化と観念化は相互規定関係にある。主体は対象を特定し、主観は観念を規定する。対象は個別表象として主観に反映されるが、主観によって対象化され、個別として規定される。客体としての個別は主観に影響されるものではないが、対象としてとらえられるには主観によって規定されなければならない。その主観による規定が正しいか否かが評価の問題である。主観はすべてを対象化できない。主観は一時に一つしか対象化できない。対象は主観によって一つの物事として対象化され、一つの観念表象として反映され、評価される。対象として焦点の合わせ方が適正であるか、評価としての観念表象が適正であるかが問題になる。[2037]
物事に輪郭線など無い。物事として対象化することで輪郭線を見いだす。輪郭線によって物事の形を見いだす。[2038]
他と区別するそのものの関係形式は範型=パターン認識である。パターン認識は認知科学、人工知能開発でも困難な課題である。相互作用の変化する過程にあって不変に保存される型式を抽出する。パターン認識は個別表象と普遍的表象との重ね合わせであり、個別表象の特徴抽出は工学的に可能になってきているが、普遍的表象は経験によって獲得されてきたものであり、特徴規定を表現することにまず困難がある。普遍的表象によって個別表象の特徴を規定するのであって、普遍的表象規定がまず定まっていなくてはならない。しかしその表象が普遍的であることは対象化の経験をとおして獲得されてきた。進化の過程で生存に適した表象化の認知機能が獲得されてきてはいるが、その機能を実現するのは個人の成長過程を経てである。経験によって獲得された普遍的表象によって対象を個別として規定し、その秩序、範型を抽出する。対象のもつ秩序の型式を表象として抽出し、普遍的表象をあてはめる。[2039]
対象の秩序、範型は多様な変化する諸規定のうち、相対的によりよく保存される規定である。よりよく保存される規定が強い規定であり、強い規定であるから保存される。部分間の相対的関係とその関係の他の関係と比較しての規定性の強弱を評価する。規定関係の強弱としてそれぞれの相対的関係を意味づける。[2040]
さらに、個別対象と主体との相互作用関係を基準として評価する。主体と個別対象との相互作用過程では視点ですら一定ではない。多様な、変化する相互作用関係で評価することでより普遍的評価になる。[2041]
個別から普遍を帰納する命題の真偽に関して、形式論理のおかしな議論がある。「調べたすべてのスワン=白鳥が白いことから、『すべてのスワンは白い』と帰納するが、1羽でも黒いスワンがいればその帰納命題が偽であることが証明される」という。スワンでなくとも「すべてのカラスは黒い」でも同じである。形式論理での真偽の判断はその様なものかもしれないが、常識は異なる。常識では色で白鳥を判断はしない。色も含めた形態で、生態で白鳥を分類している。生物学ではさらにDNA分析までも利用して種を特定する。黒い白鳥に似た鳥が目撃されたなら何故黒いのか、白鳥と同じ種類であるかどうかが問題になるのであって「すべての白鳥が白いのではない」かどうかは問題にならない。存在論、認識論の問題が提起されるのであって、帰納論理の機能が問題になるのではない。この場合では、帰納法と形式論理は認識論、存在論の問題を解くための手段として機能する。論理としては対象についての個別の定義づけと、定義の個別対象への適用が相補的に実現されているかどうかが問題になる。個別対象への定義の適用は個別を定義する問題であるのと同時に、定義の適正の検証でもある。「これこれの性質をもつあれは白鳥である」として個別対象へ定義を適用する。同時に「白鳥はこれこれの性質をもつ」という定義を検証する。このように適用と検証を相補的に構成するのが弁証法論理であり、形式論理との違いの1つである。[2042]
帰納された定義の例外をすべての対象を検証することで見つけることは現実的ではない。帰納された規定性を実現する環境条件を明らかにし、環境条件の異なる領域を探すことが現実的である。形式論理的には議論領域を変えてみる。[2043]

法則は秩序、範型の現れる蓋然性であり、関係の関係である。秩序、範型は偶然の一時的なものもある。雲の形、木目模様が何かの形に見えるように。偶然の、一時的なものであっても秩序、範型として対象化されるからには混沌ではない、保存される性質がある。偶然的、一時的であっても再現性のある秩序、範型には偶然性、単起性を超える法則性がある。実現過程でのゆらぎ、雑音に埋没する可能性が大きくて顕現しなくとも、探査能力の向上により見いだすことのできる秩序、範型もある。地上での我々のように逃れようのない重力法則もある。その重力法則ですら自由落下する空間内では現れない。秩序、範型には現れる蓋然性に違いがある。[2044]
蓋然性の違いは条件だけでは決まらない。条件だけによって決まる確率は蓋然性ではなく偶然性である。コイン投げの表と裏の出る確率のように。蓋然性は実現する可能性と、現れる可能性の組合せによる。実現するか否かは条件によって決まる。現れる可能性は環境によって決まる。実現する条件は「〜ならば、〜になる」と結果との関係で表現することができる。逆に実現される秩序、範型の前提が「条件」である。現れるか否かは環境によって決まる。環境は他の作用との相対的関係によって構成される。秩序、範型を構成する相互作用関係と他の相互作用との相対的関係が「環境」である。条件が満たされるには環境が整わなくてはならない。条件と環境の組合せによって蓋然性が定まる。[2045]
自然科学の法則は蓋然性が高い。蓋然性が高いだけであって確実な法則はまだ見つかっていない。むしろ確実な法則はないのかもしれない。もし「確実な法則」があるとするなら、この世界はすでに決定されていることになる。複雑な過程になれば法則の蓋然性は低くなる。社会科学の場合は法則性すら疑われるが、生物進化ですら確実ではあっても、法則は明らかになっていない。ニュートン力学の法則ですら制限された条件で成り立つ。一般相対性理論ですら制限された「古典」物理学であるとされている。このことは「法則は相対的で確実なことは何も言えない」ことを意味しているのではない。法則は整った条件、環境の下では確実に実現するのである。したがって、統計的記述は対象化の方法としては有効であるが、法則ではない。[2046]
対象化に関して現象論、実体論、本質論の段階を区別する見方もある。対象を法則化する、法則を対象化する際の段階と見ることができる。法則は覚えるものではなく、実現過程を対象化する規準になるものである。新たな法則の発見は学者の栄誉になるが、我々素人にとっても無関係ではなく、対象化し、生活していく上での秩序、範型の規準を示してくれるものである。[2047]

理論は法則の組合せであり、法則の実現過程を説明する。主体の対象は物事として客体の相互作用連関が相対的に閉じた系として現れる。主体自体がヒトとして高度に組織化された物質代謝系であり、その物質代謝は社会的に組織化されており、自らを含めた世界を反映する。その対象となる客体も様々なレベルで組織化された物事としてある。物事は階層構造をなす相互作用の連関としてある。そのそれぞれ相互作用は法則として秩序づけられ、範型を現している。それぞれの相互作用の法則が組み合わされ、法則相互の連関がまた秩序づけられ、範型を現している。法則の相互連関によって規定されている物事を対象として説明するのが理論である。[2048]
法則も、理論も知識として学習することができる。しかし、知識としての記憶は思考ではない。記憶された法則、理論としての知識も対象に適用し、対象の理解に用いられなければならない。対象に適用されることで、法則も理論も生活の場で検証される。法則と理論についての理解についても検証される。歴史的、社会的に検証されてきた知識を活用し、思考し、生活することができる。より深く、より広く、より普遍的な法則と理論によってより深く、より広く、より普遍的な、より確かな、より豊かな生活を実現できる。資源、エネルギーの消費量の大きさが豊かさを測るのではない。[2049]

【可能性の評価法】

可能性の探査と同時に取捨選択がおこなわれる。選択肢となりえる可能性を評価する。意識的思考、手続きとしては探査の後に取捨選択がおこなわれるが、すべての可能性を一つずつ検討したりしない。選択肢になりえる対象間で比較できるよう可能性を評価し、選択肢を絞り込む。コンテスト、コンクールの選抜と同じである。取捨選択には篩(ふるい=フィルタリング)と重ね合わせがある。篩は特定の条件を課し、条件に合うものを残し、条件に合わないものを捨てる。篩は条件以外の違いは問わない機械的、形式的取捨選択である。重ね合わせは複数の条件に一つずつ一致するかを確認して取捨選択をする。重ね合わせで確認する条件は対象とする規定である。[2050]
重ね合わせの条件は対象とする規定以外は捨象しており篩と同じであるが、重ね合わせ条件は組み合わさっている点が篩とは異なる。そしてその組み合わせは相互に規定しあっている。ここでも対象評価と同時に、評価規準も評価される。[2051]
逆にいくつもの篩を順次経ることで重ね合わせと形式的に同じ選択になる。しかし、複数の篩と重ね合わせは形式的には同じであっても、篩の順番によってまったく異なる結果が生じることに注意が必要である。ケネス・アロウの「不可能性定理」である。「クジ運」とも言われるが、多数決によって篩にかけていくと、篩の順番によって推移律が成り立たなくなる。このことは民主主義の原理的な問題として改めて考える必要がある。[2052]

第2項 反省思考

実践思考対象を反省し、対象を観念表象として構成してみる。実践対象を観念表象として構成してみることで、対象理解を確認する。観念表象は他の観念表象と相互に区別され、関連づけられている。その観念表象間の関係のうちに対象を構成し、対象の相互作用、相互規定が観念表象としての相互関連として再構成できるかを確認する。実践対象を観念表象として反映する過程は帰納である。観念表象を構成するのは演繹である。実践対象を観念表象によって説明し、観念表象が実践対象に過不足なく重なるかを検証する。重ね合わせの見通しをえる。それぞれの表象を表象全体の連関に位置づけ、連関の論理的関係として構成する。観念表象としての構成過程を対象化することで、その方法である演繹論理を、普遍的関係形式の表現として利用する。[2053]
実践対象間の関係を対象化することで、相互作用関係、相互規定関係の普遍的関係形式を抽象する。相互作用関係、相互規定関係の普遍的関係形式は法則であり、実践対象間の関係から帰納される。既知の関係から未知の関係を予測する。既知の関係形式の拡張可能性、敷衍の可能性を予測する。[2054]
演繹による対象理解と、帰納による関係理解とは形式的区別であって、実践対象との関係に区別があるわけではない。主体、主観が客体を対象化することで現れる区別である。主体、主観の対象は他との関係で個別として区別される。対象の個別性と関係性は主体、主観が対象化することによって区別される。主観が対象の個別性を対象化するか、関係性を対象化するかの違いである。この違いは主観にとっては対象化方法の違いである。[2055]

まず、対象を個別として、観念表象として数え上げ、汲み尽くすこと、その可能性も含め方法を整理する。対象を構成する要素をもれなく対象化するには分類整理してみる。その上で汲み取られた対象理解、関係理解を論理的に規定する形式を整理する。[2056]

【個別対象の数え上げ】

対象を数え上げるには個別性が規定されていなくてはならない。個別を数え上げるには個別は規定されていなくてはならない。[2057]
木立を数えるにしても、その範囲は当然として、種類や生長具合が規定されていなくてはならない。用途によっては幹、枝の形が規定される。幹の太さも地面から一定の高さでの幹周りとして規定することができる。木立のように個別性を規定しやすいものばかりではない。熟した果実は色や柔らかさ、糖度計等で規定する。目的にあった尺度基準の設定が必要になる。[2058]
対象が連続している場合は部分を直接対象化することはできない。連続した対象は自然数ではなく実数で表される。連続する部分を対象にするには、目的による個別の尺度規定がなければならない。[2059]
日常生活では個別からなる対象であっても連続量として扱われる。水は分子の個数ではなく、升で量られる。個別性を規定するために空間や時間の計測単位が決められてきた。目的によって有効な基準で分節化して扱なり、アナログ計算機を利用するしかない。[2058]
もれなく数え上げるには並べ、整列させる。並べ整列させるには、整列規則を明らかにする。規定関係に順番規則があれば順に整列することができる。数学的帰納による整列は自然数の体系であるから付番可能である。付番した整列は自然数に対応し位置関係を演算することができる。同じ順番に複数の対象要素があるなら、集合として一つの要素として扱えるかを検討し、最終評価を保留して当面の評価をおこなってみる。順番規則が複数の場合に、その組合せは配列に表すことができる。付番された順列の数が次元を構成し、探査空間を表現する。配列により組合せの全体を一覧することができる。配列によって表せるなら、順番規則に捕らわれず、表した配列の並びを原点から斜に順次たどることで線形に並べ直すことができる。整列規則が不明なら空間的配置、時間的継起を取り合えすの基準にすることができる。[2060]

個別を論理的に区別するには概念間の関係型式として規定する。個別概念を型式論理的に規定するのは「同一律」「矛盾律」「排中律」である。[2061]
同一律は「A は A である」と表される。この形式は主語と述語の置換に対して循環であり意味を顕わさない。しいて意味づけるなら主語の「A」は記号、指示対象を表し、述語の「A」はその意味を表す。この肯定文の型式では主語である「A」とそれに関係付けられる他である対象が「A」でない場合に意味がある。「AはBである」によって「A」の意味を「B」として説明する。しかし逆に、これでは形式的に「A」を「A」でない「B」に置き換えたに過ぎない。「A」でないものを「A」と同じであると主張する。この肯定文の型式は対象の意味ではなく、置換によって他との関係を示すことに意味がある。したがって同一律は他との関係、全体との関係にあって、時間、場所が異なっても同じ規定関係が成り立つことを表している。「A」の普遍性、不変性の論理である。[2062]
矛盾律は「A は非A ではない」と表される。「非A」は「A」ではないとして定義された補集合である。単に2つの異なった集合の間の関係ではない。この対象には「A」と「非A」以外の他はない。図形で言えば境界線によって区別されるが、境界線は対象ではなく、太さもなく、存在ではない。矛盾律は主語「A」が定義されることによって「非A」も同じく定義される関係の論理である。「A」の集合と「非A」の集合が定義され、2つの集合に重なり合うところがないことを示している。「矛盾」ということばが使われているが、対象の定義そのものによる形式的対立であって、存在矛盾を意味するものではない。[2063]
排中律は「A は B か非 B のいずれかである」と表される。矛盾律によって定義された「B」と「非B」との関係に対して、「A」はいずれかの集合としか対応関係をもたない。異なる2つの集合「A」と「B」との関係における「A」の存在関係を示す。[2064]
形式論理では個別概念はこのように自らに対する関係、他に対する関係が規定される。弁証法論理では個別性は相対的規定であって、他との、全体との関係で規定される。他との、全体との関係は相対的であって、一つの規定関係、次元だけで対象は規定しきれない。[2065]

【個別対象の説明】

対象とする個別は観念表象として反映され、他の観念表象と関係づけられる。感覚表象、知覚表象も思考の対象としては一般化され、観念表象化される。観念表象は名付けられ、コトバで指示される。コトバで指示される観念表象は個別対象の反映であるがもはや個別表象ではない。対象の特定の他との関係で個別として区別される規定性として抽象され、普遍化されている。コトバは個別対象を指示はするが、表現してはいない。コトバによる指示は他のコトバが指示する個別の普遍的規定によって説明され、表現される。[2066]
「コレは……である。」
個別対象は「コレ」として指示される。指示される個別対象はコトバ「……」が表す個別の普遍的規定によって説明される。[2067]
コトバ「……」によって説明された「コレ」に「……」とは別のコトバ「〜〜」が名としてつけられる。
「……であるものは〜〜である。」[2068]
指示された個別対象は他との関係で
「〜〜は……である。」
とコトバとコトバの主語と述語の関係で表現される。「〜〜」が主語となり、「……」が述語となる。この主語・述語関係の肯定表現では主語と述語が関係形式において同一であることを表現している。同一でないことを表現するには単に否定するだけである。「〜〜は……ではない。」と。[2069]
しかし同一であることを表現する肯定表現であっても主語と述語は違うコトバである。主語を別のコトバで置き換えている。区別されるコトバによって指示対象の同一性を表す。同一であることを表現する関係形式によって、異なるコトバどうしを関係づけ、異なる対象を関係づける。コトバによる対象表現は同一性と差異性によって対象を説明する。関係での同一性と差異性が明らかにされねばならない。一方だけで対象を理解すると誤ることになる。[2070]

肯定文での同一性は述語の表す「規定」における同一である。対象は多様な個別性を現している。個別対象はいくつもの規定をもっている。主語になる「〜〜」はいくつもの述語「a」、「b」、「c」、…によって表現、説明される。
「Xはaである。」
「Xはbである。」
「Xはcである。」
   :  
のように表すことができる。[2071]
これをまとめて
X(a,b,c,…)
と表すこともできる。[2072]

個別の観念表象はこのように説明される。逆に「a、b、c、…であるものがXである。」として個別対象としての[これ・あれ]が概念として定義される。他との多様な関係をもつものとして、しかもその関係が普遍的なものとして定義される観念表象が概念である。それぞれのコトバがコトバ間の相互関係で普遍的に定義されて概念を表す。概念には特定の名前がつけられ、用語として定義される。概念として定義される観念表象はもはや個別対象と一対一の対応関係から離れている。概念による概念の説明は命題と呼ばれる。[2073]
概念は指示対象と直接せず、概念間の関係で定義される普遍的表象を表す。概念はひとつの性質だけを規定する。対象を普遍的表象によって表現、説明するにはあらためて関係づける。個別対象は多様な性質によって個別である。対象の個別性と普遍的表象の個別性との関係を規定する。ひとつの個別を対象化する場合でも、対象の多様な個別性の重ね合わせが問題になる。[2074]
そこで、指示による個別の対象化と、普遍的に規定する性質との一致は保証されていない。指示する個別対象は多様な「a、b、c、d、…」の性質をもつものとして定義されている「X」である。しかし個別対象は対象相互作用間、対象相互規定関係で他から区別されている。性質「a、b、c、d、…」すべてを備えている保証はない。ある性質「a、b」はすべての個別対象がもっていても、ある性質「c、d」はもっていない個別対象もありえる。そこで逆に「X」の個別性、規定がさらに問題になる。性質「c、d」をもっているものと、もっていないものとを区別する規定が問題になる。[2075]
また「X」の多様な性質「a、b、c、d、…」のうち対立する、両立できない性質が含まれることもある。「a」と「d」とは両立しないことがある。「量子」は「粒子」であり「波動」である。「X」を規定する諸性質間の関係が「X」を媒介にして問題になる。[2076]
普遍的観念表象による対象規定が個別対象とずれるところに思考が始まる。観念表象間の相互規定関係の普遍性が破られる。規定関係を論理によって表現し、論理関係を導き出して相互規定関係の破れの過程を推論する。思考は破られた普遍的関係をより普遍的な関係に修復する。[2077]

個別表象を説明する性質、属性の一つ一つも同様に説明され、普遍的に定義される。
「aという性質はa1, a2,…,anとして区別され、表される。[2078]
それぞれの性質(a、b、c、…)、例えば形は曲率、頂点、角度、辺等々によって区別される。さらにそれぞれの量(a1, a2,…,an)として幾何学的な説明がされる。色であれば明度と彩度とその量と色相、あるいは赤(R)、緑(G)、青(B)としての質と、それぞれの量を数値化するなど様々な説明のされようがある。日常言語では質・量の違いを範疇化し、それぞれに特定の名前をつけて表す。[2079]
多様になされる説明がより普遍的な性質から個別的、偶然的な性質まで評価される。最も普遍的な性質が本質である。対象を概念としてとらえ、対象間の相互作用を概念間の規定関係としてとらえ、概念間の関係から判断を下す。思考は判断を下すことを目的とし、概念間の関係を明らかにする機能である。概念間の判断関係は命題として整理されてきた。しかし、本質の理解が思考のすべてではない。かえって思考は本質以外の性質の現れ様をとらえることが重要である。本質は多様な現象を解き明かす鍵であって、理解の対象は現象全体である。[2080]

個別の規定、規定間の関係を普遍的関係に表すのが論理である。個別は普遍的性質と個別的性質とを合わせもつ。普遍的性質によって対象化されるが、個別的性質をもつから個別として区別される。個別対象の定義はこの普遍的性質と、個別的性質とを論理として区別する。普遍的性質は同一性であり、個別的性質は差異性である。[2081]
普遍性と個別性の区別を命題表現では全称と特称として区別する。「全称」は「すべて」であり、「特称」は「ある」、「いくつかの」である。この全称・特称の区別をしないと「風が吹けば桶屋が儲かる」ことになってしまう。[2082]
命題の形式は「肯定」と「否定」、「全称」と「特称」が組み合わされる。命題の形式は4つの型に区分される。
「すべてのXはAである」は全称肯定、
「あるXはAである」は特称肯定、
「すべてのXはAでない」は全称否定、
「あるXはAでない」は特称否定である。[2083]
普遍性の程度である蓋然性は限量規定でもある。限量規定は対象の包含関係を規定する。「すべてのXはAである」である場合、「あるAはXである」であるが、「すべてのAはXである」とは限らない。このばあい、「すべてのAがXである」なら「X」と「A」は互いに包含し合う、合同関係にある。さらに「あるAがXである」ことは「他のAがXである」ことを否定も肯定もしない。[2084]

【関係づけ】

客体は他との相互規定関係にあるが、思考の対象として改めて観念として関係づけられる。客観的関係にではなく主観の内で、観念表象として、他の観念表象と関係づけられる。関係づけられるものとして、一つとして区分されるいくつもの個別観念表象があたえられている。[2085]
関係づけられた関係を思考は分類整理する。観念表象間の関係として関係の仕方は分類される。個別観念ごとに関係する他の観念との関係の可能性は経験的に分類されている。思考によって経験的分類を普遍化することで、対象間の関係の階層性を反映する。観念表象の対象化はその分類への適用と同時に、その分類自体の正当性の検証である。個別的関係として表れる普遍的関係形式を分類する。経験的分類を論理的分類によって検証する。[2086]
論理的分類は形式論理、述語論理の前提となる「議論領域」を区別する。議論領域を設定することで領域内で対象は不変で無矛盾に定義される。議論領域を設定しなくては述語論理は成り立たない。実在の対象は議論領域を超えて多様な属性、運動を実現し変化する。詭弁はこの議論領域を超えることで、論理をすり替える。あるいは議論領域として現実を肯定し、当然の前提として議論を囲い込む。声の大きいものが議論領域を決定する。[2087]
「議論領域」については、幾何学図形の変換がわかりやすい。正多角形は辺の長さと角の数だけが可変である。角の数が一定であれば辺の長さだけが違い、形は相似の関係で不変である。議論領域を多角形の角の数を限るかどうかで、相似の関係が成り立つ場合と成り立たない場合が分かれる。二等辺三角形では辺の長さが違っても形は相似の関係で不変であるが、角度を変えると相似ではなくなる。角度の違う二等辺三角形は相似ではないが、二等辺三角形として他の三角形と区別される同じ三角形である。しかし特殊な場合として、正三角形と重なる。さらに角の数を増やしていくと円になるかどうかの議論は、整数を超えて実数を認めるかどうかが議論領域の設定になる。[2088]

関係づけは対象を観念表象として規定し、固定し、不変化する。観念表象としての固定化は、それだけでは普遍性を表すものではない。普遍性は対象にあるのであって、関係づけられる観念表象に普遍性はない。関係づけは対象の表徴としての固定化である。関係づけられる観念表象は他との関係にあって、固定化した記号間の関係としての表徴である。関係づけられた観念表象として他との関係で意味が表象され、表象される意味として観念対象の普遍性が表される。関係づけられるのは表象対象であって、示される関係によって観念表象の意味が表される。観念表象は単独では普遍的意味を表さず、観念する主観の個人的意味を表すだけである。観念表象そのものは個別的表象であり、表象対象間相互関係での意味が普遍的なのである。[2089]

相互作用、相互規定は2点間に関係づけられる。対象の相互作用連関は2点間の関係を超えて多点間の関係にある。3点以上の関係は面を構成する。多様な質である個別がそれぞれの質規定による関係をそれぞれの面として構成する。階層構造の各層も面ではあるが、相互作用、相互規定の関係は階層構造の階層を貫く関係にもあり、階層関係よりより一般的関係である。個別対象は多様な相互作用、多様な相互規定にあり、それぞれの関係面を含んで構成されている。各面での相互の規定関係が当該の面のみにおける形式論理として抽象される。形式論理は一つの面を議論領域として成り立つ。多様な面を構成する個別間の面を超えた相互関係は形式論理では捉えらず、弁証法論理によって対象化される。個別間の相互関係は単に各面での相互関係の積み重ねでも、組み合わせでもない。各面関係を超える相互関係によって全体が構成されている。各面での関係は形式論理によって無矛盾に規定されるが、個別を構成する相互関係としての面の重なり、面の組み合わせでの関係は無矛盾ではありえない。[2090]
対象の相互作用、相互規定は各面、各質ごとの相互関係として無矛盾の関係形式的に整理する。各面、各質から一つの面、質を定めることは議論領域を定めることであり、対象化する個別の質、規定関係を抽象することである。対象の抽象化した質的規定関係を対象の実在過程に重ね合わせるには、他の議論領域との相互規定関係、他の質との相互規定関係を弁証法的規定関係で構成しなくてはならない。[2091]

【関係の関係】

さらに、個別観念表象間の関係として関係の関係の統合を構成する統合観念表象が措定される。逆に個別観念表象の他の個別観念表象との関係に対応する、個別内構造を構成する要素観念表象が措定される。さらに、主体によって対象化される関係だけではなく、主観が対象化する観念間の関係として、あるあらゆる関係が関係づけられる。対象には関係ない関係についても、関係ないことが検証されて関係づけられる。主観によって対象化され、措定され、検証され、思考対象化はあらゆる関係の可能性から対象に関係しない関係の捨象を始める。[2092]
二つの概念間の関係は一つしかないので単純である。しかし、概念は孤立した関係ではなく、いくつもの概念間の関係があり、相互に関係している。関係の関係を捉えることによって、関係を順次たどる。関係の関係から関係の連なりを捉えるのが推論である。二つの関係の関係から第三の関係を導き出す。[2093]
関係の関係の基礎は三段論法である。三段論法は二つの概念間の関係の関係として構成される。三段論法は2つの前提から1つの結論を導き出す。初めの二つの概念間の関係が大前提、二番目の概念間の関係が小前提を構成する。前提、結論はそれぞれ2つの概念(S、P)間の関係を命題「SはPである」、「SならばPである」として主語−述語の関係で表す。
命題の主語になる概念を小名辞と呼びSで表す。
命題の述語となる概念を大名辞と呼びPで表す。
2つの前提に共に含まれる概念を中名辞と呼びMで表す。
三段論法は中名辞を介して小名辞と大名辞の関係を導き出す推論である。[2094]

三つの概念、小名辞・大名辞・中名辞間の位置関係として四つの格が区別される。[2095]
「SはPである」を「S−P」で表すならつぎのような配置を取る。       第一格  第二格  第三格  第四格 大前提:  M−P  P−M  M−P  P−M        \     |  |     / 小前提:  S−M  S−M  M−S  M−S     ----------  ------  ------  ------- 結 論:  S−P  S−P  S−P  S−P
[2096]

大前提、小前提、結論それぞれの命題は、命題の4つの形式、全称肯定、特称肯定、全称否定、特称否定を取りうるから組合せは43通りある。さらに格が4種類あるので全部で形式的には44=256通りの組合せがある。このうち推論では大前提と小前提の組合せから結論を導きだすのであるから、結論の命題形式は問わない。大前提、小前提の命題の4種類、格が4種類で43の計64通りの種類が対象になる。64通りもの組合せを逐次検討して結論を検証していくことは困難である。このうち論理的に正しい組合せは24通りとされる。24通りの三段論法形式を記憶しても意味はない。日常生活で行う推論はこのうちのごく一部である。[2097]
40通りの組合せは誤りであり、思いつかずに適用できない組合せもある。推論は論理関係が展開されてしまえば、当然のことであるから論理である。推論過程では論理関係が見通せず、誤りかねないから論理的に思考する。中名辞の位置によって推論のしやすさに差がある。意味や形式が結論を導く過程に干渉して誤らせる可能性がある。意味づけを伴うことによって論理関係のつながりが理解されやすくなる。繰り返し推論することによって、使い慣れることでその形式の推論に通じることになる。論理的思考も訓練が必要であり、時には日常的にはなかなか使わない推論形式を試す訓練も必要かもしれない。[2098]
命題として表した関係を言い換えて他との関係を試考する。肯定命題を否定し、否定命題を肯定することは喚質と呼ばれる。主語と述語を入れ替えることは喚位と呼ばれる。さらに、命題間には「対偶」、「逆」、「裏」と呼ばれる関係がある。喚位が逆である。主語と述語を共に喚質するのが裏である。喚質と喚位を合わせて対偶となる。命題を言い換えて関係の可能性を検証する。言い換えと三段論法とは推論の基本的方法である。[2099]

対象間の関係形式は概念間の関係形式として、対象の相互関係を超えて拡張可能である。対象間の相互関係を超えて対象の新しい関連を概念操作が導き出す。対象間の関連としてはとらえられてはいない関連を、概念操作によって明らかにする。例えば「無限の彼方の、その先」は、「無限」の定義と「その先」の定義によって矛盾した論理にもなるし、定義そのものを問う論理にもなる。概念操作の規則、概念間の関係形式として思考の論理がある。[2100]

第3項 主観的意識の言語表現

【意識の内部表現】

とりあえず「意識は感覚器官、運動器官の神経活動入出力が、大脳皮質での神経活動と連関=リンクしている程度を表す」と客観的に定義できるが、主観的内部表現はこれほど単純ではない。主観として意識は感覚表象、知覚表象、観念表象を対象とし、コトバで表現し、コトバで説明する。コトバによらないで意識的思考は実現しない。[2100-1]
感覚表象、知覚表象は生理的認識によって獲得され、認知・反応過程が記憶として保存されるが、観念表象は個別の普遍性をとらえ、反映のうちに保存しなくてはならない。記憶可能な徴表として、しかも操作可能な記憶として観念表象はコトバによって保存される。コトバによらない観念表象は個別対象の普遍性を保存できず、具体的に認知・操作対象として個別に重ね合わせられて再現される。観念表象を対象として意識し、操作するにはコトバとして対象化しなくてはならない。ただし、このことの検証は類人猿や幼児の認知発達過程の研究によって実証されなくてはらない。[2100-2]
意識は思考の一部分を対象にし、思考の一部分としてある。意識によって表現される思考はコトバで対象化され、コトバで説明される。他者に対してだけでなく、自らに対する表現、説明も内言語によっておこなわれる。したがって、意識できない思考、表現できない無意識の思考に対してはもどかしさが感じられる。[2100-3]

【言語による対象化と確認】

意識的思考はコトバを獲得しないとできない。コトバを獲得することによって思考は意識され、コトバで思考することによって意識が実現する。感覚表象、知覚表象、観念表象を対象として意識するのは名づけることによってである。普遍的個別性によって対象を区別し、範疇を対象に適用するのはコトバで対象を指示することによってである。コトバによって対象を指示することで、言葉の意味する普遍的個別性、範疇が対象規定に適合しているかを確認する。同時に言葉の普遍的個別性、範疇の意味を確認する。[2100-4]
意識は個別対象だけではなく、感覚、感情をも対象化し、コトバによって表現することができる。感覚、感情は直接制御できないが、感覚、感情を表現するコトバは制御することができる。とらえどころのない感覚、感情もコトバで表現することで対象化し、意識過程を整理することが可能になる。コトバで表現することによって、不安をとらえ、落ち着くことが可能になる。直接、具体的に対象化し、対応できなくとも、コトバによる代償が有効なこともある。自己暗示は呼吸の制御とコトバでなされる。[2100-5]

【意識の階級性】

したがって、意識はコトバを媒体とし、コトバの社会性にも規定される。コトバは意識に直接的に作用する。直接対象の評価に作用するのではないが、評価の対象と評価する意識の媒体はコトバである。コトバで表現され、コトバを表現する意識はコトバの社会性を反映する。しかし当然にコトバだけで階級性、社会性が規定されるわけではない。コトバが獲得され、使用されるのは社会関係にあってであり、社会生活関係が意識に反映され、思考に影響する。生活関係が意識を基本的に規定し、コトバは生活関係の反映を媒介し、表現する。意識は主体の社会関係を反映し、主体の階級性を表す。[2100-6]
主体は階級性を反省し、階級性を超え、普遍的社会性に至ることで階級を否定する立場に立てる。階級を否定するには普遍的主体として、社会変革の立場に立ちうる。否定するのは階級関係であって階級性ではない。階級性は階級を否定することによっていつか否定される。階級を観念的に否定することは、階級性を否定することである。階級性を自覚しない意識は階級性に従属する。[2100-7]
階級性はこのよに観念的にもてあそぶものではなく、敵味方を明確にし、敵を打倒すべしとの見解もある。しかし、階級社会は階級対立を前提に社会の物質代謝が組織されているのであり、一方の階級が物理的に排除されることは社会の物質代謝を機能不全にする。社会的物質代謝の普遍的機能で支配階級が担っていた部分までも排除しては社会は成り立たない。社会的物質代謝を無視して政治的に運営しようとすれば全体主義につけ込まれる。社会の弱点を利用して寄生する者はどんな社会にでもいるし、社会の弱点が拡大すれば彼らは国家権力まで手に入れてしまう。寄生能力は生物進化の適用力の表れであり、寄生を直接排除することは生物の生き方を否定するものである。寄生する環境をなくし、社会的物質代謝が健全に機能することを目指さなくてはならない。そのために観念的ではあっても、社会的物質代謝の普遍性を明らかにする必要がある。[2100-8]
プチブルとして育った私には、それ故のニヒリズムが階級性として染みついている。一労働者となった今の私は、そのニヒリズムを自覚し、対決し続けてきた。自分ではその過程をへて普遍的立場に立ち、この世界観を表現できるようになったと思っている。[2100-9]

第4項 主体的判断

客体の相互作用関係にあっては選択は成り立たない。法則として規定される相互作用の相互作用間の組み合わさりは偶然の過程でしかない。法則自体は決定論を示すが、法則の実現する実在過程は偶然の組み合わせ過程である。量子の不確定性原理、宇宙の背景放射のゆらぎを引き合いに出すまでもなく、法則の実現は偶然の環境にある。多体問題は決定論的には解くことはできない。法則を実現する未知の法則があることも、遺伝子の発現を制御する遺伝子があるように当然に予測されるが、法則は個々の相互作用を規定するだけである。相互作用間の相互作用を規定することはあっても、相互作用の出会い、相互作用間の組み合わせまでも規定しきってはいない。個々の必然的相互作用が実現する可能性は、宇宙の歴史的時間に比しても実現する可能性、確率はわずかである。素粒子の時空間的存在確率、特に原子を構成する電子の存在、運動はマクロ物質の化学的性質を規定する。その化学的性質によって構成される分子。分子から構成される細胞60兆個によって人の体がある。それぞれの自由度のほとんど無限の組合せから今現在、唯ひとつ私の存在が実現されている。実在の有り様とはほとんど無限の可能性から、一つひとつの相互作用が実現する偶然の有り様が組み合わさって、秩序が必然的に実現する過程である。「それぞれの相互作用間での規定法則によって決定されている」と反論されるが、多体の相互規定関係は決定さない。「自由論、非決定論の論拠に量子の不確定性原理を持ち出すことに意味はない」と反論されるが、決定されるのは相互規定関係の法則によってである。「法則」は客観的・普遍的規定関係として人間が理解している形式であって、その対象理解は完全ではない。完全な客観的「法則」はあるのだろうが、その法則の実現過程は法則だけで規定されるのではないのだろう。[2101]
必然と偶然の織りなす実在過程に「選択」が成り立つのは主体の存在によってである。主体が実在過程を対象化することによって、その対象化の方向として主体の選択基準が定まっている。客体間の相対的関係を主体を原点にして方向づけるのである。主体が対象をどう方向づけるかは勝手である。まさに今日の何でもありの社会状況、犯罪状況は個人の生き方、判断の勝手さを示している。この勝手さが実現できるのは、その生活基盤にある。勝手さが通用するのはアメリカ合衆国と日本、その他一部の国のその一部でしかない。生活基盤は世界全体の実在過程によって規定されており、資源、エネルギー、環境の物理的条件によって規定されている。人口増、高齢化の生物的条件によって規定されている。創造性と閉塞性の精神的、文化的条件によって規定されている。個々人の勝手な選択も、究極的には世界の実在過程に添わなくては破綻する。[2102]
対象を構成する概念間の関係を確かめることで対象が理解される。対象の理解は定義された概念の関係として構成することである。十分に整理された対象は視点を変えても揺るがない表象になる。その全体が世界観を構成する。そのすべてを見極めて判断できれば理想であるが、実在過程は理想郷ではない。世界の、社会の、個人の到達点で選択しなくてはならない。選択、判断が可能であるにもかかわらず、「仕方ない」と現状を追認していては主体的な生き方はできない。主体性こそ方向性を定めるものであり、方向性なくして自由も価値もありえない。主体性の放棄は自由の放棄であり、価値の放棄である。[2103]

自らの方向性を認識するには対象を理解しなくてはならない。対象を理解する方法はただ一つ、対象との相互作用過程を反省することである。対象との相互作用過程の反省は相互規定関係を論理的に規定し直し、普遍的表象世界を構成する。規定関係の一つひとつを論理的にとらえ、構造を論理的に組み合わせることは努力を伴う思考過程である。思考は対象を普遍的に捉えることで、個別的に必要とされる繰り返しの努力を省く。繰り返しが機械に担われ、制度、組織として機構化するなら個別的努力は不要になる。指示を与えるだけで必要な繰り返しが行われる。社会的物質代謝過程のすべてが機械化、制度化、組織化されることはありえないが、個人的には何の努力もせずに生活し、かなりの権力を行使することが可能になっている。対象と向き合うことなく非主体化し、没対象化し、脱思考化する個人が制度、組織に乗って要領よく立ち回る。相互規定関係を無視した自らの都合によって社会関係を支配する。相互規定関係を無視した行為は当然に破綻しても、口先だけの言い逃れで責任を追及されなくなる。道理が道理として通用しない社会は閉塞し、やがて社会全体が破綻する。個人にできることは対象としっかり向き合い、理解して、主体として生活することである。[2104]

囲碁、将棋等の対戦ゲームを例にする。規則=ルールを知らなければゲームをすることはできない。規則は形式的可能性を規定している。交互に打ち・差すこと、打ち・差すことのできる位置も形式的可能性である。ゲームの進行過程での定石も形式的可能性として、経験して学んでいく。同時に経験は大局観を学ぶ。ただし、大局観は初心者では希望的観測でしかなく、経験を積むことによって論理的に裏付けられた見方になる。その上で、可能性の探査がおこなわれる。それぞれの局面での可能性の探査である。それぞれの局面での形式的可能性と、大局観からの方向性に基づき、対戦相手との駆け引きとしての可能性の探査である。何手先まで読めるかが探査であり、そのうちどれが最良の手であるかが評価である。コンピュータはこれを機械的に計算する。手筋を読むのは形式的可能性の、組合せの演算である。手筋の善し悪しは設計者の集めた対戦データとその評価法のプログラムで評価する。ここまではコンピュータも人間と同じ技術的、論理的思考を実現している。人間とコンピュータの違いはこの過程の前後にある。人間の場合は思いつく良さそうな手筋を検証するためにこの技術的、論理的思考をする。そして評価を下しはするが、相手との駆け引きの場を読み、自分の思いを込めて判断し打ち・差す。この思いつきと、決めの過程が人間のコンピュータとは違う思考の総合性である。[2105]

第3節 意識的思考の道具

意識的思考は記憶の想起を基礎にするが、思考は解析、推論、了解の3つを対象とし、手段とし、成果物とする。解析は相互規定関係を対象要素一つひとつ明らかにし、全体の連関の変化を明らかにする、いわゆる算法=アルゴリズムの構築、運用である。推論は可能性の探査であり、三段論法によって連関をたどり、類推によって理解する。了解は全体の関連での収まりを見いだすこと、したがって思いつくこと、ヒューリスティックである。[3001]

第1項 解析と算法

アルゴリズム=算法は定義された手続きによって相互規定関係を構成する。規定された前提から規定された手続きによって結論である答えを導き出す。算法は思考の基礎過程である。人は単純な算法でも、始めは意識的に学ばなくてはならないが、訓練を経て意識せずに利用できるようになる。単純な例では四則演算の計算法がある。指折り数えて和、差を計算することにも算法がある。普通アラビヤ数字10進法表記の筆算が基本になっている。繰り上がり、繰り下がりが鍵になる操作である。算盤(ソロバン)も算法を玉の操作規則で実現している。計算尺も対数目盛によって積算を和算に変換している。積算は和算の繰り返しであるが、九九という数同士の固定した関係を記憶し利用することで膨大な繰り返し計算を省くことができる。数十年前の日本の小学校では鶴亀算や追い越し算等数々の算法が教えられていた。算法を覚えることが目的化されてしまったために廃止されたのであろうが、関係の中に規則性を見いだす算法の訓練には必要な課程ではないか。コンピュータには限られた数の信号操作法が命令セットとして中央処理装置の回路網に組み込まれている。[3002]
コンピュータ・プログラムは算法の塊である。完成されたプログラムはその中でどのように演算が実行されているかを理解できなくとも、データを入力すれば結果が出力される。算法は使い方さえ知っていれば、仕組みは知らなくとも利用できる。プログラムなら算法にしたがったプログラムをコピーすることで別のコンピュータに組み込むことができる。算法の利用は思考には関わりない。対象の織りなす関係のうちに規則性を見いだし、算法を構成することが、すなわち対象を理解することが思考である。算法に従うのではなく算法自体を操作することのできるコンピュータの可能性は未だわからない。[3003]
ルービック・キューブの各面間の位置関係をどのようにしたら記号表現できるのか、私には分からない。 [3004]
算法の組み上げに決まった方法はない。単純な構造であるなら可能な組み合わせは限られるが、個々の過程、要素が増えれるほど可能な組み合わせは爆発的に増える。したがって、同じ仕様書が与えられてもプログラマによって違う、何種類ものプログラムが作られる。それぞれのプログラムは正しく組み上げられていれば同じ結果を出すが、用いられている算法によって処理速度が違ってくる。算法同士の比較、改良には算法の理解が必要であり、算法を理解することは思考の基礎である。算法を作り出すことは、まさに創造的思考である。[3005]
筆算でも二進法と十進法では操作法が違ってくる。二進法では「0」と「1」の組合せとその位置・桁だけで加算、減算を機械的に操作できる。十進数では十個の基数と進数である十との大小関係を計算しなくてはならず、機械化するには歯車などを使った複雑な機構が必要になる。タイガー計算機のベル音を覚えているだろうか。コンピュータでも整数演算は特別に扱われる。機構が複雑になれば故障も増え、維持管理が大変になる。[3006]

【算法の例】

名簿の並べ替え=ソートの算法を例にする。数人程度の名簿であれば、特に算法を意識しなくとも並べ替えはできる。人の作業記憶単位容量は7±2だといわれる。この範囲であれば見ただけで並べ替えの結果を書き出すことができる。数十人になるとメモが必要になる。メモ用紙上にだいたいの配置順の目安を設定し、予測で名前を書き込んでいく。書き込んだ列の中間の名前が出てきた場合、挿入記号を付して書き加え、すべてが並んでから清書する。数百人になるとカードなどに氏名を記入し、カードを並べ替える。その際算法によって処理速度に差が出る。1枚1枚を取って順に並べていく方法は単純な算法であるが、処理時間がかかる。いくつかの段階に分けて並べることによって処理を効率化できる。例えばまずア行、カ行、・・・に分類し、次に先頭文字ごとに分類し、ついで名前順に並べ替える。並べ替えた束を文字順にまとめれば全体の名簿ができあがる。 [3007]
このように算法を用いるには対象の規定構造、関係の規則性を解析、理解する必要がある。「アイウエオ順」であるなら、ア行、カ行、・・・順にグループ分けが可能であり、「いろは順」には構造がない。また漢字名の場合、事前に読みを確認する処理が必要になることも配慮が必要である。[3008]
メンバーの入れ替わりのある数千人の名簿を並べ替えるにはさらに工夫が必要である。コンピュータが発明される前であれば、アメリカの国勢調査で使用されたという肩に穴を開けて分類するカードが使える。現在では手軽にコンピュータを利用することができる。カードを作成する手間や、コンピュータに入力する手間と実際の並べ替え作業負担とを勘案して手段を選択することになる。しかも最近は漢字コード順ではなく、読みでソートすることも可能であるが、人名の場合読み仮名は必須である。コンピュータの場合であっても、データ量によってコンピュータの規模、使用ソフトウエアの選択が必要である。パーソナル・コンピュータの場合、表計算ソフトでは、そのままでは数千人までしか処理できない。実質的には名前以外のデータを伴うなら、千名程度が限界になる。それを超える人数ではデータベース・ソフトなり、統計処理ソフトが必要になる。作業手段、作業手順も広い意味での算法の問題である。[3009]
狭義の意味でのコンピュータを利用した並べ替えの算法もいくつもの方法が開発されている。処理時間は比較回数と交換回数によって決まる。もっとも単純な基本的方法にも三種類ある。隣接する2項を逐次交換する交換法(バブル・ソート)。最小、または最大のものを順次選択する選択法。先に示したメモ方式で、順次整列の中に追加していく挿入法。これらでは処理時間比はデータ数の2乗になる。これを改良したクイック・ソート、ヒープ・ソートもあるが、より高速なシェル・ソートでの処理時間比はデータ数の1.2乗になる。シェル・ソートではデータの並びに名前のような規定構造がなくとも、とりあえずの並びをグループ化することによって処理を段階分けする。[3010]

【算法の要点】

算法の基礎は対象の理解である。対象の規定要素を明らかにし、要素規定と要素規定間の規定関係、規定構造を明らかにする。[3011]
算法の基本はチューリング・マシン(万能機械)に見ることができる。桁に区切られた1本の記録テープとテープ上の印のあるなしを読み取り、あるいは印を書き込み、桁を左右に移動する。読み込み、書き込み、桁移動の仕方と読み込んだ印のパターンとの対応づけがされれば、これだけの機能で論理演算を実行できるという。計算可能な問題と問題を解く算法を当の記録テープに記述して与えれば、算法にしたがって記録テープを読み書きして、答えを書き出して停止することができる。逆に計算可能とは定義された操作規則だけで答えの出る問題である。新たな関係の発見したり、新たな方法を考え出す必要なない。どのような機構で実現されるかを理解できなくとも、今日のコンピュータが機能を実現している。[3012]
読み書きの記憶容量さえあれば、今日のどのコンピュータも原理的に対等な能力をもつ。どのコンピュータでも、他のコンピュータと同じ処理をすることができる。違いは処理速度、記憶容量である。したがってコンピュータ・プログラムとして他のコンピュータの処理機能を作り込むことができる。作り込まれるコンピュータは仮想機械(バーチャル・マシン)と呼ばれる。しかも1台ではなく多数の仮想機械を作り込むことができる。これが計算機資源の制限はあるにしても、機能としては同じ事ができるチューリング・マシンの万能性を示す。[3013]
信号処理操作は順に一つずつ段階を追って行われる。平行して操作されることはあっても、それぞれの過程は一つずつの段階を経る。定義された信号処理操作の連なりとして実行され、データ信号が読み取られ、置き換えられ、書き出される。データ信号は他と比較され、他と重ね合わされ、否定され、変換される。三つ以上の対象間の関係を同時に操作することはできない。三つ以上の対象は二つずつの関係を繰り返すことで処理される。[3014]
算法は一つひとつの単純に規定された操作段階にまで分析され、組み上げられなくてはならない。要素間の規定関係を操作規則に置き換え、操作規則は一つの定義された対象要素に対し、ただ一つの定義された結果を導かねばならない。コンピュータでは信号のあるなし、その切替だけの操作しかしない。したがって操作規則は極単純な形、スイッチの入りと切りの組合せになる。一連の操作をひとつの処理過程としてサブルーチン化することは可能であっても、その中ではやはり一つひとつの段階を経なければならない。サブルーチンは決められた形式と決められた数のデータを入力すると、決められた処理を実行し決められた形式で、決められた数のデータを出力する。サブルーチンの中での処理がどのように複雑でも、サブルーチンを呼び出し、データを与えれば期待するデータを出力する。このようにして複雑なシステムを構築することができる。しかもすでに作られたサブルーチンの算法を勉強しなくとも、その機能を利用することができる。既成の算法を利用してより高度な処理をする算法の開発に取り組むことができる。[3015]
算法の過程は一つひとつの処理を順次処理する線形の連なりである。線形でない場合は飛躍はあり得ないのだから分岐することになる。分岐は一つの条件に応じて二分岐する。多数の分岐可能性があっても、一つひとつの二分岐を経る。したがって、分岐の順番も分岐条件によって決まる。分岐することによって繰り返しが可能になる。分岐により処理を終了させるだけでなく、処理を繰り返すことが可能になり、再帰構造を実現できる。繰り返しは条件が満たされるまで、あるいは満たされなくなるまで繰り返す。条件に自然数を利用すれば繰り返し回数を指定できる。繰り返しの開始位置、戻る位置も指定しておく。やはり条件により戻る位置指定を選択することが可能である。分岐は条件を設定しておいての分岐と、処理の途中での結果に応じての分岐が可能である。条件を設定しての分岐は結果の区分をあらかじめ設定できる場合である。途中での結果に応じての分岐は条件値を範囲として設定する。[3016]

組み合わせ、その評価に関してはオペレーションズ・リサーチ(OR)が軍事、経営、行政で研究、運用されている。ORは問題の目標が明確であり、評価基準が一致しており、選択肢を数量として計測可能なことが前提になっている。選択肢を組み合わせ、評価する過程での属人的誤りを排除し、求める時間内に結論を出すには有効な手段である。しかし評価過程をモデル化し、数値計算で答えをだすため、誤った場合の責任をモデルに転嫁できてしまう。明らかな関連ではなく、見いだせなかった関係から裏をかかれる可能性がある。ORは計算に計算機を利用するように、シミュレーションにコンピュータを利用し、思考の一部を代替させることはできる。しかし、思考のすべてをORに代替させることはできない。選択肢、そして条件は思考して可能性を探査、検証しておかなくてはならない。[3017]

【表象の構造化】

思考に使える作業記憶単位容量は7±2に制限されている。記憶単位容量の制限を超えた作業をするために区切や、置換を利用する。個別にこだわっていては全体を対象化することはできない。対象を記号構造化することによって普遍的に把握する。普遍的構造として対象化することで、逆に個別を取りだし、具体化することが可能になる。[3018]
対象の記号化は対象構造を単純化する。対象構造は階層化、体系化、索引化、目録(リスト)化、図形(グラフ)化、空間配置・時間配列である。この方法の順序は発生的には逆順であり、後の方法ほど単純である。構造化は記憶技術でもあるが、構造化することが思考であり、構造をたどることが思考である。思考は対象表象を記号構造化し、記号構造を検証する。思考は未知の対象を構造化し、既知の構造との相関をたどることで未知の対象との境界を明らかにする。「考えをまとめる」とは構造化することである。[3019]
複数の対象表象間の相互規定関係を記号化することで一つの表象とし、他の表象との相互規定関係を対象化する。記号化した表象に問題があれば、記号化した相互規定関係を改めて展開してみる。対象の記号化と、記号の対象への展開が定義されていることによって置換が保証される。記号の相互規定関係が一つの階層をなし、記号が展開された対象が一つ下の階層をなす。記号の階層構造は対象の階層構造を反映する。[3020]
一つの対象をそのうちの差異により部分を区別することは認識の基本である。差異を表す性質を種差とし、種に区分する。種に区分される元の対象が類である。類は種差によって種に区分される。種・類の区分によって演繹体系が構成される。種類の区分は記号化されて表象される。演繹記号体系として対象全体、そして部分を思考の対象にできる。演繹体系は種差による構造であり、種差という性質で抽象された系である、演繹体系は抽象であり、対象を直接反映するものではない。演繹体系は種間の量的関係を反映していない。[3021]
対象についての説明、情報はより詳しいほど多くなる。記号を階層構造化しても、体系化しても記号関係を逐次たどって検索することは困難である。記号そのものから対象表象を検索するのが索引である。記号そのものは対象表象の規定関係とは関わりなく、記号そのものの性質によって配列する。「ア・イ・ウ・エ・オ・…」などの記号系を基準にする索引も、漢和辞典のように画数、偏による索引もある。人の長期記憶も連想によって関連づけられており、索引による検索は記憶の基本的方法である。[3022]
対象の性質にしたがってその表象記号を配列したものが目録である。目録と索引の違いは配列が対象の規定に従っているのが目録であり、表象記号の何らかの規則にしたがっているのが索引である。目録は書籍では目次であるが、思考の対象としては表象の一覧化である。思考でも目録は目次の編、章、節、項のように構造化する。目録構造は対象の構造を反映していないが、思考過程の構造順に従う。[3023]
対象要素間の相関関係を記号間の関係に図示したものがグラフである。相関関係の構造が明らかでない段階、場合には対象表象を適当に配置し、相関を線で結ぶことによって要素間の関係を整理することができる。時系列、時間的経過を追う場合や、分岐があって整列できない対象の場合には流れ図=フロー・チャートを用いる。継起する段階を一段ずつ明らかにし、分岐がある場合には分岐条件を明らかにする。流れは初期状態から終端状態までの全体の把握から始め、対象の可能性を順次より詳細に明らかにする。集団で検討する場合にはKJ法等が紹介されている。[3024]
対象の形象そのままの位置関係が空間配置であり、生起の時間順に並べたものが時間配列である。空間配置は図形としての、一目見た範囲に限られる。時間配列はひと連なりの過程に限られる。その範囲、過程に含まれる要素の相関は数が増えれば漠然としてくる。対象を操作可能な数に絞り込むことは空間配置範囲を、時間配列の過程を狭くとりなおす。空間配置・時間配列は生理的認識過程に対応している。空間配置・時間配列は対象をそのまま反映し具体的であるが、抽象的対象にも適応される。読書した後改めて参照しようとする時、調べたい単語が「ここらあたりのページのこの辺にあった気がする」として探す経験はよくある。ただし算法としては要素間の関係が相対的であり、曖昧な操作しかできない。[3025]

第2項 類推(アナロジー)

論理的推論は命題の言い換え、三段論法によっておこなわれるが日常的推論には非論理的推論、類推がある。論理は対象を概念として定義し、その定義によって概念間の規定関係を明らかにする。論理的推論に対し、類推は対象間の規定関係を飛び越し、範型=パターン間の類似性で規定関係を推測する。範型は物事の関係の型式であり、物事の相互作用としての規定関係と偶然の関係とを区別しない。規定関係が明らかでないから関係を類推する。対象の実在、本質と直接しないからこそ、飛躍した類推を可能にする。[3026]

【類推の過程】

日常生活では迷うことなく、ほとんどの対象を特定できている。しかし新しい、経験していない物事に対し、それまでの範型を当てはめ、性質、状態を知ろうとするのが類推である。既得範型が当てはまるであろう未知の対象は、既得範型の性質、状態が表れるであろうと類推する。既得の範型がもつ性質、状態が対象にも当てはまるかどうかを検証する。獲得されている範型は「ベース」とよばれ、対象は「ターゲット」と呼ばれている。[3027]

類推は異なる物事の間にある共通性と、その共通性によって実現する普遍的な性質、状態の理解が前提になる。したがって共通性を範型として抽出し、範型のもつ普遍的な性質、状態を理解する過程と範型を対象に適用し、対象を理解する過程に分かれる。この2つの過程は実践経験のうちで相互に規定し合い、統合されている過程である。範型を獲得し、その性質、状態を理解することは生理的にも実現している認識機能である。生理的には感覚表象、知覚表象が同型であることで、対象が同じ個別対象であることを認識する。ここで同型であることの特徴の抽出過程は意識されない。認識機能としては類推と同じ対象のい特徴の抽出、比較であるが、獲得した範型から対象の性質、状態を導き出す過程が異なる。範型から対象の性質、状態を推測するには範型としての特徴の抽出、比較は意識されていなくてはならない。対象の性質、状態を導き出すことを目的として意識し、推測することとして、思考としての類推が成り立つ。[3028]
類推の過程として、物事の特徴を抽出して分類すること、その特徴をになう対象の性質と状態を理解することが前提になる。物事の特徴抽出は対象として理解する解析とは異なり、性質と、状態を導き出すことのできる物事の連関形式、関係の関係を理解することが前提になる。対象が何であるかを同定するための特徴抽出ではない。対象の個別性を規定するのではない。特定の特徴を持つものは特定の性質を表し、特定の環境条件の中では特定の状態をとる関係形式である。個別対象のもつ普遍的規定形式を理解する。[3029]
特定の子供を対象にする場合、特定の状況でその子がどのように反応するかはその子の個性によって、個別性によって決まる。その子が男の子の特徴を示すなら、男の子らしい反応をするだろうと推測する。男女を区別できる特徴によって、その反応も男女らしさを区別できる種類のものがあり、対象が示す特徴によってそれぞれの反応をするであろうと推測できる。「男の子らしさ」がジェンダーであれ、女の子と区別される反応傾向がある。特定の男の子の反応が特定の女の子の反応よりも「男らしさ」の程度が逆転する比較組合せは十分ありえる。また、「女らしさ、男らしさ」の反応と、性別との関係が再考されることもありえる。このことから、類推の過程は範型の適用と、範型の獲得の過程との相補的な関係にあることが例示される。[3030]

類推は常に正しくおこなわれる、正しいと検証される保証はない。常に正しいなら類推は必要ない。常に正しいなら、単に個別を分類するだけのことで類推とは呼ばれない。対象が変化し、発展するから新しい物事が現れる。未知の対象に対しとりあえず範型を当てはめ、範型どおりであるならどのような性質を表し、どのような状態になるかを推測するのが類推である。新しい物事の特徴に最も似ている既得の範型を「このようなものであろう」と当てはめる。逆にいくつかの既得範型を規準として対象の特徴抽出をする。既得範型と対象の特徴とを比較し既得範型の何に似ているかを判断する。[3031]
該当するであろう既得範型が示すであろう性質、状態が実現したなら、ほぼ範型と同じ物事と理解して対応する。単に条件が違うだけであるなら、既得の範型として分類される性質、状態との差異は見いだされず、既知の個別対象と同じであることが確認される。ただし、類推では対象のすべての性質、状態が明らかになったのでも、物事そのものの規定関係が明らかになったわけでもない。対象を理解するには表れた性質、状態から対象の規定関係を明らかにしなくてはならない。差異が単に偶然の条件ではなく、対象の性質、状態によるのであれば類推、推論ではなく、差異を現す規定を解析をすることになる。対象規定が明らかになるまでは対象との相互作用を予測するために類推を利用する。[3032]
類推は範型の特徴抽出と適用の経験に依存している。範型の普遍性は経験によって限定されている。類推はいわば経験と勘による生理的認識を基礎にしている。類推には与えられた環境条件で、実践的に対応するための思考としての限界がある。類推で特徴抽出されている範型は人によって違い、個別的である。類推は範型の連なりであり、その連関は経験に依存し、体系化されていない。部分と部分の連関としてだけあるだけで、全体の連関のうちにそれぞれの部分を位置づけていない。[3034]
類推は思考経験の限界を超える論理である。すでに知っている個別対象、その理解全体を超える物事を理解しようとするとき、類推は未知の対象との橋渡しをする。推論としての橋が実在の規定関係になくとも、実在の規定関係によって対象規定を明らかにする手がかりになる。個別対象の普遍性と範型自体の一般性を追求することによって概念が抽象され、範型は概念として定義され、類推関係が論理として抽象される。普遍的思考は個別・経験的対象理解ではなく、普遍的な世界理解によって評価する。空間的・時間的対象連関の全体によって個別対象を評価し、さらに社会的に、歴史的に評価されるから普遍的なのである。対象の普遍性と主観の普遍性によって、論理の普遍性は可能なのである。宇宙の一様性は多様な中に繰り返される秩序を現している。また、科学史の中で用語は違っても「原子」「エーテル」等はくり返し現れている。論理はその普遍的規定関係を個別対象間の相互規定関係に重ね合わして検証される。普遍的規定範型を個別対象間の関係範型に重ね合わせるのが類推である。[3035]

主体、主観の対象となる物事は構成された個別である。物理的にもいくつもの階層での運動によって構成されている。その多様な運動が構成する一部分が相対的全体として主体、主観と相互作用している。主観、観察者はその個別対象を「何々である」と規定するが、客体としての個別は一つの規定によって規定しきれるものではない。客体のそのものの規定は他との多様な相互作用すべてによっていて、しかも相対的である。物理的、化学的、生物的、社会的、精神的、それぞれでも多様な相互作用過程にあるものとして相互規定されている。(主観の対象になるのであるから社会的、精神的相互作用についても配慮しなくてはならない。)多様な相互規定関係にある物事の性質、状態の一面を主観は個別として対象化する。一つの性質、一つの状態を対象化し、そこに保存されている個別性をとらえる。個別性は保存されていることで、保存されている範囲で、その個別の普遍性を表す。性質は個別対象の規定の現れである。状態は実在過程=当該環境での、相互作用過程での性質の現れよう=有り様である。客体個別の普遍性ではなく、主体、主観による対象規定を映しだす、反映された普遍性である。主観は対象化する個別の性質、状態を普遍的観念表象=範型=パターンとして抽象し、記憶する。[3036]
獲得され、保存される範型は無限に分類されるのかもしれない。しかし日常的な物事には無限の変化型があるわけではない。人工知能にどれだけの範型をもたせるかの研究がなされているが、むしろ無限ではなく、いくつかの限られた範型で知覚、操作できるからこそ類推が機能する。いずれにせよ範型の獲得と、適用とによって類推が構成される。[3037]
思考が扱うのは対象の性質、状態であって客体としての個別ではない。客体としての対象を個別として扱うのは主体であって、主観は対象を個別としては扱わない。主体の個別対象を主観は普遍的表象関係に対象化する。主観は感覚表象、知覚表象、観念表象として反映された表象を範型化する。とりあえずは主体の対象として保存されている個別性、他と区別されている性質、状態の範型を主観は対象化する。主観にとって範型は他の範型と区別される普遍的表象として記憶され、主体の個別対象化に適用する。[3038]

【範型の階層】

範型は感覚表象として表れる対象の個別性、対象として保存される秩序、形を基礎にしている。主体と対象との相互作用過程での感覚表象は主観的であるが、実在に直接している。主体の個別対象からは離れ、主観のうちに反映され、保存される感覚表象は他の感覚表象と区別され範型化される。感覚表象は主観のうちにあって範型化され、普遍的表象であり、実在を反映はしているが観念である。[3039]
主観は感覚表象を対象化して、主体の対象の個別性を知覚する。主体の個別対象を主観は知覚表象として反映する。主体の個別対象の性質、状態は主観にとって個別性として反映される。対象は性質、状態によって区切られる個別表象を主観に表している。個別として他と区別され、その区別が保存される秩序が範型化される。対象の個別性として知覚表象は抽象され、範型化されている。知覚表象としての抽象的範型は主体の具体的個別対象に重ね合わされる。[3040]
感覚表象、知覚表象として主観に反映され、対象となる主体の個別対象の性質、状態は主観の対象一般の中で観念表象として範型化される。個別対象の違いを超えた、物事一般の性質、状態が抽象されて観念表象の範型が分類される。感覚表象も「硬さ」「柔らかさ」「暖かさ」「明るさ」といった具体的個別の感触を超えた観念表象として範型化される。知覚表象も「机」「椅子」「誕生」「ケガ」といった特定でない物事、一般的物事として範型化される。感覚表象、知覚表象は個別対象から切り離され、主観のうちに保存され、操作対象として、観念表象として範型化される。[3041]
さらに主観は観念表象の一般的性質、状態を範型化する。「物性」「人間性」といった抽象的性質、「存在」「無」といった状態を範型化する。抽象化の程度によっていくつもの範型の階層がつくられる。[3042]

性質、状態は日常的に動詞、形容詞、副詞で表現される。しかし、物事の性質、状態の普遍性はコトバによって定義しきれない。性質、状態自体が量的幅を持っており、コトバ自体も幅を持ち、他のコトバと重なり合っている。専門用語は質だけではなく量的にも規定されている。日常用語では「赤い」ですむが、科学・技術的に指定するには波長の巾を規定しなくてはならない。思考で用いる普遍的観念表象は明確でないから発展的である。普遍的観念表象は試考の過程で明確になる。[3043]
「波」というコトバの普遍的観念表象は多様な波の範型を含む範型としてある。水の波として眺めることも、起こすこともできる。長縄を揺すって送ることもできる。乗り物に乗って揺られる体験もある。打撃を受けてふらつく経験もある。音声は空気の振動であると教わる。サインカーブを学ぶ。波には縦波と横波があることを学ぶ。オシロスコープで楽器の波形を見る。すべての物質には波動性があることを知る。[3044]
これらすべての経験、学習をとおして「波」の普遍的観念表象を形成する。同時に波の普遍性が具体的に実現する様を体験する。具体的実現体験によって、観念表象の形成経験を経て普遍的観念表象が記憶される。普遍的観念表象は獲得形成の多様な背景を引きずっている意味で明確ではない。しかし、他と区別するには普遍的観念表象は実に明確であり、波と粒とは絶対に異なる性質である。だからこそ物質が波動性と粒子性を現すことに驚き、どう理解するかを考える。[3045]

対象はとりあえず表面的な秩序、型式を区別して範型化する。表面的な相互関係は形式的二項対立である。自分を規準に「自・他」、「左・右」、「上・下」、「前・後」、「過去・未来」、等は互いを否定することによって対象のすべてをどちらかに区分できる。「左・右」の定義は互いを否定し、二律背反であり、左右の規準ですべてをいずれかに区分できる。一方があれば必ず他方がある。対称性があれば一方が分かれば他方も分かる。このように完全に定義できるのは形式的関係であるからである。形式的関係からの出口は「自・他」にある。自他を区別することはできるが、「自分とは何か」と非形式的関係では完全ではない。非形式的存在関係では二項対立ではなく、相互依存関係を定義しなくてはならない。自分を明らかにするには他を明らかにしなくてはならず、明らかにする自分を明らかにしなくてはならない。「自・他」は主観的関係での端緒である。このことは「第一編 端緒」で明らかにしたつもりである。客観的存在での端緒は「全体・部分」である。このことは「第二編 一般的・論理的世界」で明らかにしたつもりである。[3046]

【経験を超える論理】

ヒトに限らず感覚の能力には限界がある。感覚の質的制限だけではなく、感覚表象の範囲だけではなく、対象を弁別区分、識別できる限界、分解能の限界がある。視覚の場合2点を区別できる限界の距離がある。この限界まででは対象を区別することができる。この限界を超えるとそれぞれを区別できず、一つの点にしか見えない。[3047]
この限界は感覚の限界であって、対象の限界ではない。主観の限界であって、客体の限界ではない。この限界は主体が超えることのできる限界である。遠くの区別できない距離にあっても、近づくことによって区別できるようになる。眼鏡や望遠鏡、顕微鏡等の道具によって区別できるようになる。[3048]
超えることのできる限界、対象の可分性として、対象の連続性を想定することができる。分けることができるのは連続しているからである。感覚の限界を超えて、主観の対象化能力を拡張するのである。実際の検証可能性ではなく、検証可能な普遍的連関に対象を位置づける。[3049]
論理によって感覚による認識の限界を超えて、普遍的な規定関係を構成できる。論理によって構成される規定関係を対象に重ね合わせることによって、感覚ではとらえられない対象間の関係を追求することができる。無限の連なり、無限の分割、なめらかさ、非線形等の関係を対象に見いだすことができる。[3050]
客体の連続性=可分性を、あるいは逆に不可分性を追求することで、物理学は発展してきた。物理的対象の限界を問題にしてきた。歴史的にはじめは「原子」が想定され、その限界が破られ、「原子核」「素粒子」が発見され、さらに「クオーク」が想定されている。物理的距離の単位はプランク距離であるとも言われるが、物理的対象はプランク距離で測ることのできる連続体、物理的連続体=場としてある。粒子は離散的で連続していないが、波動は連続していて、物理的物質はそのどちらでもある。[3051]
区別の限界と同じように、手続きの限界からも対象の連続性を理解できる。「半分の半分、そのまた半分、・・・」と二分する手続きを続けていくことによって、手続きの限界の先に連続性を理解することができる。同時に、逆に、手続きの繰り返しの先に無限を理解することができる。対象を数学的に、論理的にとらえることによって連続性を理解することができる。数学的連続体である。分割によって連続がわかるという逆説であるが、この矛盾を止揚するものとして無限も明らかになる。連続体をデカルトは「延長」と表現した。論理的対象規定によって、日常経験を超える世界の普遍性を理解することができる。[3052]

感覚による個別対象の認識を超える、対象一般の相互規定関係形式が論理である。論理として対象の相互関係を形式的に規定できる。対象は一つの全体、世界として連続している。同時に区別される部分から構成される。対象は個別対象として具体的である。個別対象が個別として区別されるのは、対象として他との、全体との関係にあるからである。この関係と区別との形式的規定関係が論理である。[3053]
関係の中に区別を見いだすのは主観であり、観念間の相互規定関係として構成する。観念として抽象されているから普遍的である。この普遍性は観念としての普遍性であって、実在の普遍性ではない。実在の普遍性を反映する観念的普遍性である。観念的普遍性は実在的普遍性をとらえ尽くしてはいない。主観にとって、主観が個人的にも、社会的にも経験してきた到達点での普遍性である。感覚による認識の限界を超えることはできても、主観のうちの観念としての普遍性である。観念としての普遍的表象世界は、実在世界に重ね合わされなくてはならない。[3054]

【夢、想像】

可能性の探査は評価との兼ね合いにある。評価によって探査が規制されることが現実的なことではない。可能であれば評価を保留してでも探査を進めることが創造には必要である。逆に、経験から完全に離れた夢、想像をすることはできない。何もない、無条件で夢、想像をすることはできない。現実、経験から、あるいはそれを否定することとして夢、想像ができる。否定するなり、変容させるなりするには、想像力が必要である。否定の方法、変容させる方法をもっていなくてはならない。人は進化の過程で想像力を経験的に身につけ、個人としては先天的にもっている。認識する過程で感覚表象から知覚表象を構成しているのであり、経験から対象を構成している。健常であれば経験することで想像力は拡張できる。夢み、想像しながら現実、経験からのつながり具合を探査する。[3055]
論理は対象を抽象して操作する。類推は対象間の現実の連関を反映するが、論理は抽象化された対象間の関係だけに依拠する。論理の関係形式は厳密であるが、論理の概念関係が現実の対象関係を正しく反映している保証はない。論理関係の正しさは、実践によって検証されなくてはならない。論理は関係形式だけによって拡張できるところに強さと弱さがある。[3056]

第3項 了解:ヒューリスティック

思考は観念の操作である。反映された諸表象を比較、評価して関係づける。対象との直接的相互作用を離れて、反映された諸観念の相互規定関係に個々の観念を位置づける。個々の観念の他との関連づけだけではなく、同時に個々の観念を関連づけることによって観念全体の相互関係を規定する。主体の方向性を見いだし、対象をとらえるには全体での自分と対象との位置づけが必要である。自分についても、対象についても全体での位置が求められる。[3057]
対象を全体との関係でとらえることが了解=ヒューリスティックである。全体のなかに対象が過不足なく収まることとして了解であり、対象が他と連関して機能し、実在性を獲得するから「思いつき」、「ひらめき」である。客体対象は当然に全体の中にある。しかし、認識対象、知覚表象としては全体の中にどのように位置づけられているかは始めは不明である。不明であるから意識の対象になる。対象の質は他との関係に表れ、他との関係として全体に位置づけられる。対象の質を認識することは、全体の秩序での対象の収まりを知ることである。[3058]
認識は対象を全体としてとらえることから始まる。全体としてとらえた対象を、その構成する規定を一つひとつ解析する。規定間の関係を一つひとつ解析する。解析は関係の一つひとつしか対象にできない。人の能力の制限ではなく、論理では複数の関係を同時に解析できない。規定関係一つひとつを解析することで対象の規定すべてを明らかにできる。そのすべての規定が他との関係規定に収まる時、対象が全体の中に収まる。[3059]
了解するには対象の内部規定の理解ができなければならず、そしてなにより全体の規定関係の理解が目指される。対象の内部規定の構造を一機に理解することは困難である。それでもひとつの内部規定の実現される様子を試考し、その組み合わさった過程を順次、繰り返し試考することで、やがて全体の過程を試考できる時がくる。全体性が相対的であっても、対象のについての全体を了解できる。[3060]

第4節 日常経験の拡張

【個人的経験】

個人的経験は、物心ついてからのことしか記憶されていないし、忘れてしまうことも多い。個人的、個別的感覚経験は生物的に偏っているし、錯覚も生じる。個人的経験は制限されており、拡張、普遍化するには十分な注意が必要である。[4001]
しかし、個人的経験は否定されるものではない。個人的経験によって私たちはそれぞれに生き、生活できている。むしろ、個人的経験以外の生活は実現しようがない。地球が球体であると分かっても人が転げ落ちる事はない。分子、原子の構造を説明されても、衣食住の生活に変わりはない。関係がないのではなく、それぞれに位置づけられている。日常的関係が薄くとも、旅行をすれば時差ぼけを体験するし、急性毒性のない物質であっても慢性毒性のある物質は次第に健康を蝕む。日常生活の物質代謝、廃棄物、エネルギー消費によって地球環境が変わってしまうことも確かである。普遍的な知識がなくとも生活はできる。しかし、個人的日常生活であっても世界の一部分であることも確かである。[4002]
個人的経験は生き、生活していることの確かさの根拠である。様々な日常のものを利用し、消費し、作りだしている。様々な人々と会話し、協力し、敵対して生活している。これが否定されるなら私も、世界もどうしようもない。[4003]
世界を理解する以前に、個人的経験は確かなことである。誤りを犯しても、誤りであることが分かり、正す機会がある。願ってもかなわなくとも、可能性を追求することができる。個人的経験の確かさを否定しては何も始まらない。個人的経験の確かめることのできる普遍性に依拠し、個人的普遍性理解の限界をわきまえて、その限界を拡張することはできる。拡張し、より普遍的な確かさにつながる個人的日常経験の世界である。普遍的表象世界が実在世界に重なり合う個人的日常世界である。[4004]

【社会的経験】

人間は社会的存在であり、社会的物質代謝によって生活している。社会関係の中に生まれ、社会的に教育され、社会を構成している。社会的価値を理解し、利用し、貢献し、享受する。どのように社会生活をするかは、社会の発達に応じてかなりの自由が保障されている。最低限の社会規範を守る限り生活は保障され、社会規範を破れば制裁される。[4005]
しかし、社会規範は確定した基準ではなく、最低限の社会規範が守られるだけでは社会は機能しない。応分の貢献が求められるし、貢献を自己実現として受け取ることもできる。そこに社会的経験の認識が問題になる。貢献が応分であるか、むしろ収奪しているのかは社会認識が基準になる。階級対立を認めない人であっても、社会には利害の対立があることは認めている。社会的平等の平等の計り方にも対立がある。[4006]
社会的規範基準に社会的合意がえられていなくとも、社会生活をする上で個人的基準を設定する。個人的社会規範基準の検証には社会を理解しなくてはならない。社会的基準が変化するし、社会的情報はすべてが明らかではなく、操作されてもいる。[4007]
社会的情報は科学によってももたらされる。自然科学の成果も、社会的に獲得され、社会的に伝達され、社会的に教育される。科学は社会的に組織された認識である。自然科学の成果であっても、社会的情報として評価される。研究者にとって社会的評価は名誉だけではなく、研究費獲得に不可欠である。科学的成果は巨額の利益をもたらすことも、社会的不平等をもたらすこともある。エネルギー資源、環境変化の見通しは生活条件、人類の未来を左右する。[4008]
社会科学の成果は社会関係に直接的に影響する。日本では未だに「南京大虐殺」があったかどうかが問題になる。社会的、歴史的事件は物証、記録、証言によって評価される。それぞれの信憑性が評価される。さらに、証拠のねつ造、記録の改ざん、記録されなかった事、偽証が評価されなくてはならない。歴史学の成果に頼らなくてはならない。しかし、社会的認識、社会的経験を問題にする時、個人的評価も問われる。その時、科学的評価を前提に、事件を否定しようとする人々が何を求めて否定しているか、事件を肯定する人が何を求めて肯定しているかが評価基準になる。歴史的過去、社会的隔たりを超えて、今生活している社会で、これからをどうするかが評価基準になる。[4009]
社会的経験の確かさは、自分たちの生存をかけることのできる確かさでなくてはならない。[4010]

【科学的経験】

科学は科学者だけのものではない。科学は社会的認識であり、科学者も訓練を受ける前は非科学者であった。科学は技術によって利用されるだけではなく、検証された物事の見方である。科学によって明らかになったことを無視し、否定して普遍的に世界を見ることはできない。科学の成果を学ぶだけではなく、科学の方法で対象を見る経験も必要である。また、社会での科学の有り様も反省思考の対象になる。[4011]

科学も科学者の日常経験の中で行われている。科学者も文字や図表で書かれた論文を読み、実験機器の指示目盛りを読みとる。他の人と同じ感覚をとおして対象を認識している。科学者は特別な認識能力をもっているわけではない。科学者は対象をデータ化し、データを解釈し、それらを表現する訓練を受け、公認された人々である。[4012]
科学者が獲得するのは、データとその解釈としての理論である。データは人類の歴史の中で蓄積され、検証されて確かめられたデータと、新たに獲得されるデータである。検証はデータの取得法も含め再現され、他のデータと整合され、他の分野のデータとも相互に説明づけられる。地図などは科学に限られない基本データであるからこそ社会的労力が注がれる。地図そのものがデータの表現であるが、地図の上には様々なデータが記され、相互の位置が解釈される。旅行計画に、自動車のナビゲーション、都市計画、経済統計解釈、地震予知、プレートテクトニクス理論等、その他多様に使われ、そしてそこでも確かめられる。その他有用であるなしにかかわらず、検証しようのないのデータは排除される。多くの人々の日記はデータとして扱われることはない。[4013]

科学的データは対象を直接的に表象しない。社会科学であっても統計処理したデータである。自然科学の場合ほとんどが計測機器目盛りの数値データとその統計処理結果である。科学的データの正当性を保証するのはデータの相互検証と、実験機器、計測機器、統計処理にかかわる社会的信頼である。機器は社会的基準に定められた精度を保証し、校正されていなくてはならない。すべての機器の製作から維持管理・運用までを一人の科学者が行うのはもはや不可能である。まして巨大科学の実験施設は世界で一つ作れるかどうかの規模になり、他の人、他の施設での検証実験は不可能になってしまっている。科学データは社会的信頼に依存している。[4014]
文書であれ、他の形式であれ、客体として、社会的生産物としてデータは作成され、保存され、参照されるが、すべて科学者の手元で対象化され、解釈される。[4015]
科学はデータだけでなく、データの解釈を含む。科学的データに基づいて、対象を解釈する。当該データが出てくるには対象はどのようでなければならないか。対象の構造、運動が想定される。対象の相互作用の量的関係がデータに表れる過程を解釈する。対象の相互作用の他の相互作用との連関を解釈する。相互作用を相互規定関係としての解釈が理論である。理論を仮定にして他の相互作用によって出てくるデータを想定して新たな実験・観察を行う。人類の歴史の中で検証されてきた理論が共有されている。その理論に基づく対象解釈から導かれる未知の相互作用量を推測し、新たな実験・観測を行う。新たな実験・観察データによって予測した相互作用を検証する。データが予測どおりであるなら相互作用が検証されたことになる。データが検証され予測と異なるなら、想定した相互作用理解が誤りになる。他の想定による相互作用の実験・観察データも集積される。新たな実験データの集積が検証され、推測された相互作用の蓋然性が高まれば、従来から解釈されていた相互作用系との連関が解釈されなおす。総合された相互作用系として新たな対象解釈が作られる。[4016]
従来からの解釈は拡張されるか、制限されて新しい解釈の部分として組み込まれるか、まったくの誤りとして新たな解釈に取って代わられる。[4017]
科学の構造はデータと観念としての理論からなる。科学としての認識は実在としての実験・観察の過程と、実験・観察からのデータと理論との相互評価の過程である。認識としての科学は実験・観察の実在過程と、データと理論の観念過程、二つの過程からなる認識である。認識としての科学は実在過程と観念過程から構成される。データと理論の観念過程は相互評価の反省過程である。認識の対象としての、客体としての科学はデータと理論の相互評価としてある。[4018]

科学がもたらす理論は二つの事柄からなる。「対象がどうであるか」と「対象間の関係がどうであるか」とである。「対象がどうであるか」は観測の問題である。「対象間の関係がどうであるか」は原理の問題である。対称な客体間の関係であるならこの二つを区別することはできない。しかし認識の、対象化の問題としては決定的に違う。[4019]

観測は個別的であり、偶然が作用する。原理は対象間の普遍的関係である。観測も対象と観測者の関係に普遍性を求めて行われる。対象の普遍性を求め、普遍的に検証された観測方法によって、主観が介入しないように観測する。しかし、対象は個別的存在であり、観測も個別的過程である。観測によって偶然以外の作用が生じる可能性があるから、観測誤差以上の差異が現れるであろうから観測する。[4020]
原理は対象間の検証された普遍的関係である。単に再現実験で例外なく検証されたということではない。原理は対象の普遍的性質、本質として現れる他との関係である。原理とする関係が現れなければ、観測対象自体が別のものでしかない。電子も様々な原理的性質をもつが、その一つでも観測によって否定されたなら、「その観測対象が電子ではない」あるいは「観測に誤りがある」とされる性質である。より壊滅的な結果は「その性質が原理的なものではない」として電子自体の定義が変更される。原理は対象だけの性質ではなく、対象を含む世界のすべての相互規定における整合性で検証された性質である。その性質が否定されるなら、世界についての解釈全体を変更しなくてはならなくなる。それでも変更は全部否定にはならない。日常経験から知られた原理はほとんど揺るがない。そのようなことは歴史上何度もあった。地球が丸くて回転していても人が振り落とされることはない。このことが示す地球と人との関係を規定する原理と不整合な力学理論は原理にはなりえない。[4021]
科学の対象も実践の対象であって、理解は主観として与えられる。主観としての理解が対象に一致するかは問題になるが、理解は対象と同一にはならない。原理とて対象についての理解である。理解しようとすること自体が対象化であり、対象とは別のものとして自らを立てている。[4022]

【科学的認識】

データは普遍的な実験、観察の場に位置づけられている。データは検証可能な対象間の関連に位置づけることで普遍性が保証される。データは主体と対象との関係が制御されて再現性が保証されている。[4023]
データには偶然の作用や、測定誤差が含まれる。データに意味のある差異、傾向を明らかにするために統計処理がおこなわれる。統計処理が可能なようにデータ数が制限され、明らかな偶然の作用を受けたデータは排除される。偶然の作用による攪乱があっては対象の必然的過程が隠されてしまう。データ量が少なすぎても、多すぎても有効な統計処理はできない。多すぎるデータでは統計処理に時間、資源がかかりすぎてしまう。[4024]
一度きりの再現性のない事象であっても、他との相互作用は質的、量的に複数生じるのが一般的である。まったく再現性のない事象は科学の対象にはならない。歴史的事件であっても同様なことが、条件、規模を変えて再現される。一度きりのことは事実として記録されても科学の対象にはならない。殺された独裁者が何という名前であるかは歴史学の対象にはならない。どのような独裁者が、どのような状況で殺されたかが科学の対象になる。宇宙のビックバンでさえ、他にも起こりえることとして想定されている。再現される現象の普遍性と、特殊性を科学は区分する。[4025]
データとして観測される過程が解釈される。対象間の相互関連、観測過程での相互関連がどのような相互作用の過程で実現したかが解釈される。物事の関連は「AならばBである」という論理で表現される。しかし「A」であること「B」であることがまず定義できていなければならない。そして関連の実証のためには「AならばBである」ことが成り立つだけでなく「AであってもBでない」「AでなくともBである」こと、「A」と「B」の違いが前提としてなくてはならない。さらに事によっては「AでないXであってもBである」ことが他に成り立たたないことまで求める必要がある。日常経験ではこうした他の可能性についての検証は省略してしまっていることがほとんどであるが、科学では許されない。[4026]
観測、データ処理、解釈それぞれの過程は相互に規定し合う。解釈できない、想像もできない対象は観測の対象にならない。データを得る事ができない、観測手段のないものも対象にはならない。データ処理もできない制限された対象、あるいは膨大なデータをもたらす対象も試みられない。しかし、これらの制限も技術の進歩や方法の開発によって可能になってきているのが科学史の一面である。[4027]
科学の成果は日常経験とはかけ離れた世界像をもたらす。宇宙論、天文学、量子力学、相対性理論、地球物理、生物の代謝過程、生物の多様性、神経系の情報処理等、日常経験とは全く異なる世界像が紹介されている。いかに日常経験とかけ離れていても、日常経験する情景と同時にそれぞれのレベルに展開されている世界である。日常経験で利用できる道具から作られる観測・測定機器を利用して、その仕組みの連関をとおして整合性のあるデータが得られている。日常経験世界の階層と、この階層の下の階層、上の階層があり、その階層の様子は日常経験世界の道具、機器によってうかがい知ることができる。日常経験世界の方法以外に、それら階層の有り様を知る手だてはない。日常経験世界の確かさは制限されていることによって否定されるのではない。日常経験世界は限定されて、世界の階層として確固として位置づけられる。日常世界も科学によってのみ普遍的に認識される。[4028]
科学技術的手段での取得以外にそうしたデータを得るには、日常経験をも否定する方法によらなくてはならない。永久機関が実現できたり、死骸を入れたフラスコを振ると生物が生まれたり、会ってもいない人の考えを読みとったり、そのようなことが可能なら、科学は否定されても仕方ない。科学に基づく世界観など求めるなど無駄なことだ。[4029]

「科学」と称するものがすべて科学ではない。科学性を根拠にして認識、世界観を考える時には注意しなくてはならない。学者のポストに就いている者すべてにその資格があるわけではない。科学者であっても専門外の分野では素人である。科学者が成果を争ってデータをねつ造することもある。常識を覆すような発見の場合、その評価は科学者でも難しいし、社会的圧力がかかることすらある。科学性を問題にする時には、科学とは何かが逆に問われる。科学組織、資金、施設の運用には科学者にない資質も必要である。科学者も専門分野以外で、訓練された科学的認識能力を活用すべきだし、学際分野では専門外との協力が不可欠である。データねつ造は背信行為であるが、それを見破るには科学が正常に機能していなくてはならないし、同時に科学を取り巻く社会環境での点検も必要である。データの中身より、科学者の生活態度から疑義が発見されることもある。科学者自身の科学に対する姿勢と、社会性を問う環境である。公害や薬害ではデータの中身より、科学者の交際関係によって結論が異なった。データの解釈において論理がゆがめられ、すり替えられ、科学者の発言として権威づけられた。[4030]
科学の最新の成果を取り入れて論ずるには、引用に際しての注意が必要である。マスコミに紹介された成果は科学者相互の検討を経たものとは限らない。一般向け書籍では、読まれやすくするための配慮によって誤解の種が入り込む。一般向け書籍は専門家の相互評価の対象になっていないものの方が多い。[4031]

科学者であっても手品の種明かしができるわけではない。実験科学者はデータの読みとりの訓練はしているが、同じデータを作りだす他の方法をすべて知っているわけではない。超常現象を信じてしまう自然科学者がいるし、反社会的、反人類的研究を反省しない科学者もいる。自らのデータ解釈の限界を明らかにせず、普遍的真理と主張する者もいる。[4032]

科学は相互検証を前提にしている。実験データだけではなく、データを導き出した対照実験を含む実験環境、制御方法まで含めて公表される。成果の解説記事では必要ないが、解説記事を書く者は点検し、必要ならばは反証できそうな専門家にも意見を求める必要はある。[4033]

科学は対象そのものを実現するのではなく、対象の解釈であるのだから、対象について予測できるにすぎない。[4034]
データ間の関係から対象の相互作用、相互規定関係を推定する。可能ならば関数で表現する。その組み合わせとして対象の構造と作用が解釈される。表現された解釈が理論である。理論はデータに依拠して解釈された対象を表現する。その意味で理論はすべて仮説である。反証するデータが出ない限りでの理論である。「私が私である」のは仮説ではないが、科学理論は仮説である。科学理論の基礎を成しているのは、人類の歴史過程で反証するデータが出てこなかった、確かめられた仮説である。[4035]

第5節 思考体系

第1項 原理系

【原理】

科学研究で提案されている理論は仮説であり、圧倒的多数は誤りであることが検証され、証明される。しかし、誤りが検証される過程で、正しい部分が明らかになる。個々の科学理論が仮説のままであるなら、科学は役に立たない。科学理論が次々と否定される度にわれわれの生活が否定され、根拠を失ってしまうことはない。科学理論は検証を経て、その適用限界が明らかになり、限界内での正しさが保証される。限界内で正しさが保証された理論によって、日常生活の根拠が保証される。[5001]
適用限界が明らかにされた理論によって説明される世界の有り様が原理である。物質は素粒子からなり、素粒子の一部は原子を構成し、原子は分子を構成し、分子としてアミノ酸、タンパク質、RNA、DNA等が形作られる。これらの分子によって細胞が構成され、生物個体が生まれ、自己増殖する。これは物質の構成原理である。この原理は詳細まで明らかになってはいない。しかし、否定されようのない物質の構成である。否定されるとするなら、この宇宙の否定であり、われわれの存在の否定である。[5002]
物質の構成原理ほど確かではないがエネルギーの保存則、エントロピーの増大則があり、同時に物質の自己組織化則がある。エネルギーの保存則には歴史的経過があり、元素・原子の不変性から量子力学での保存則まで拡張されてきたが、まだ全宇宙のエネルギー量を検証できていない。宇宙論の発展によってはさらに拡張される可能性もある。エントロピーの増大則は経験則で、エネルギーの保存則が成り立つ限り統計的に否定されようがない。物質の自己組織化については原理として認めない科学者の方が多いが、宇宙の物質進化、地球上の生物進化の歴史はこの原理を裏付けている。[5003]
この他に、世界の有り様としてではなくとも、個別科学の対象とする物事の原理がある。自然科学の場合、個々の原理は容易に検証される。原理の普遍性はいくつもの自然定数としても表現され、検証され続けている。[5004]
ところが生物学、社会科学、人文科学になると原理の存在評価が分かれる。生物進化を原理として認めない人もいるが、その人々は科学の明らかにした他の原理に対しても、日常生活上の価値判断でも私とは異なっている。遺伝情報は DNA→RNA→タンパク質の方向にのみ流れるというセントラル・ドグマは原理の一つに数えられるが、生物進化を説明することまではできない。社会科学、人文科学ではこれらを科学と認めない自然科学者も多い。それでもわれわれの生活が社会的生産、流通という物質代謝過程に依存していることは確かである。特別の問題を抱えていない限り、すべての人間が文化、芸術を楽しむことも確かである。科学理論で証明されなくとも確かな社会、人間の有り様がある。この確かさが否定されるなら、私たちには悲しむことも、怒ることも、存在すること自体ができない。科学的に検証できなくともも、私たちの生存を支える原理がある。[5005]
ただし、原理はそのものとしては現れない。本質は現象するのであり、必然性は偶然性をとおして現れる。個々の物事には原理を否定するように現れる場合がある。その現象が実現する条件を明らかにするのは科学であり、でなければ原理についての理解を正すのも科学である。[5006]
原理は世界の物事の有り様として、私たちの理解にかかわらず存在している。私たちの原理としての表現に誤りがあるとしても、物事の有り様としての原理がある。普遍性である原理がなければ世界は混沌であり、形あるものが形をとどめることはできない。原理は概念によって論理的に表現された秩序である。[5007]

【法則の認識】

普遍性である原理は個々の法則として認識される。[5008]
個別の本質的運動形式が法則である。しかし本質的運動であっても、単独であるわけではない。本質的でない運動とともに相互に作用し、他の個別との相互作用もある。本質的運動は本質的運動のみによって個別としてあるわけではない。[5009]
本質的運動は個別そのものであるが、いずれも固定的なものではなく、また別々の物でもない。本質的運動も他の運動との相互作用によって変化してしまうこともある。本質的運動は本質でない運動として、他の個別との間で相互に作用し合っており、本質的運動だけで個別の運動は決まらない。時には、本質的運動が他の作用によって、まったく異なった動きをすることもありうる。そこでは個別としての形も変化する。しかし個別として維持される限り本質的運動も維持され、それが個別の法則である。[5010]
そこに本質的運動が維持される限り、個別の法則が貫かれる。[5011]
より発展的個別ほど、法則は傾向の法則として現れる。またどんな基本的な個別であっても、法則だけで現実の運動を決定することはできない。そこには、非本質的運動との相互作用があるから。[5012]

第2項 公理系

物事の普遍的関係形式が論理である。普遍的関係形式として論理は相互に関係する。論理は論理の相互規定のみによってそれぞれを、そして全体を規定する。それ自体によって規定するのであって、他によっては規定されない。したがってそれ自体によっては検証、証明されない。検証、証明は他による根拠づけである。論理は他によっては根拠づけられない、それ自身によって根拠づけられる。それ自身だけの閉じた系として論理間の規定関係は公理系を構成する。公理系には無矛盾性、独立性、完全性がなくてはならないとされる。無矛盾性として、その公理系の公理が互いに矛盾していないこと。独立性として、ある公理が、他の公理を使って導き出せたりはしないということ。完全性として、その公理系からその学問分野に属する命題がすべて証明可能であること。 [5013]

ただし、物事は普遍的関係形式だけによって規定されない。決して繰り返されることのない非可逆的な歴史の過程にあり、すべては唯一の個別として実現する。そこに表れる関係形式は普遍的関係形式としての公理系ではなく、実現過程の形式としての弁証法的論理である。[5014]

個別論理】

個別の反映が概念であるように、個別間の関係の反映が論理である。個別間の関係の論理は要素関係として表される。個別の質を捨象し、個別の量と他に対する位置の関係である。[5015]
存在単位間の関係であり、個々の関係する要素としての存在を対象にする。現実の対象は存在単位としても、その内部により基本的階層の構造があるが、関係だけを対象とし、その関係を担う単位としての存在の関係形式を問題にする。内的存在構造ではなく、対外的存在関係を問題にする。存在構造も構造要素間の関係としては、個別論理である規定関係の組み合わせとしてある。[5016]
個別を対象化することそのことのうちに、論理自体を規定してしまう。対象化は主体との連関なしには成り立たない。主体との連関として個別の対象性は規定されてしまう。措定される対象であって、対象そのものではない。主観によって切り取られて一面での対象である。個別対象は個別の全体としては主体との連関のうちには入ってこない。[5017]

【論理系】

論理は世界の存在=運動法則の意識への反映である。したがって、世界が一つであり、統一的なものであるからには、論理も究極的には一つの体系として世界を反映せねばならない。[5018]
論理は概念間の連関を全体として関係づける。論理としての関係は対象を何らかの制限することによって成り立つ。何らかの制限によって論理は論理系として閉じる。自然数は負数を制限することによって系として閉じる。系として閉じるからこそ自然数は無限の濃度を計る単位として機能する。また、整数の系を定義する基準になる。また、ユークリッド幾何も平行線の公理によって制限することで閉じた系になる。論理が系として有効であるためには、何らかの制限によって閉じていなくてはならない。[5019]
論理に対して、現実世界は開いた系である。現実世界は開いた系ではあるが、閉じた論理系の階層構造によって表現することができる。論理による表現であるから、それぞれの階層は閉じて表現される。閉じた部分を階層として積み上げる。たぶん、無制限の閉じた系とは世界全体であろう。[5020]

【集合論による公理系】
区別の関係形式は集合として一般化できる。集合として対象を指示し、要素によって集合を説明する。説明によって集合間が区別されて関係づけられる。[5021]
集合は定義された要素によって定義される。要素は他の個別と関係し、区別される。集合に含まれる要素と、集合に含まれない個別と区別する。要素は他と二元に区別される。同じ集合内の他の要素と区別され、集合に含まれない他の個別と区別される。[5022]
集合は集合を要素として定義できる。含まれる集合が一階の集合で、一階の集合を要素とする集合が二階の集合である。集合の集合として一階の集合の要素定義を捨象して、集合間の関係を規定することができる。要素は定義されていなければならないが、どのように定義されているかは捨象して、集合間の関係を規定できる。[5023]
集合間の規定関係を無矛盾の形式的関係として規定できるとのことである。集合間の無矛盾の相互規定関係は公理系として、ツェルメロ=フレンケルの集合論(ZFC)として認められている。要素を捨象した集合間の関係が普遍的に成り立てば、すべての対象を集合間の関係として比較し、操作することができる。要素を捨象しないより一般的な集合規定関係=公理系への拡張は要素の部分集合を集合によって規定する選択公理として可能とされる。ただし、実際には要素の定義の仕方が問題になる。[5024]

【集合と矛盾】

集合論では矛盾を排除している。まず前提で要素は明確に定義されていなくてはならない。この明確な定義とは不変な定義であり、対象がその定義からはずれないことである。要素となる対象はその相互作用によってではなく、定義によって規定される。これが形式論理学の、公理系の無矛盾性の保証である。論理が根幹にあって、すべてを規定するのである。[5029]
しかし、実在は不変ではない。エントロピーの増大過程にあって、自己組織化するのが実在である。存在は運動であり、他との相互連関のうちにある。実在を変化しない要素として定義しきることはできない。存在を不変な要素として定義しきることはできない。また、不変な対象を認識することはできない。認識は相互作用の連関を経て実現するのだから。日常の対象はその構成要素を常に変化させている。特に生物は新陳代謝の過程を固定することはできない。意識は一定であることはできず、人格は常にゆらいでいる。常のゆらぎを普遍的に保つのが人格である。物理的存在も粒子であり、波動でもある量子として存在し、運動している。量子は個別性を認識できず、クオークの階層では相互転化によって結びつき運動している。実在を受け入れるには矛盾を受け入れなければならない。認識は矛盾をとらえなければならない。矛盾によって無秩序にならないように、矛盾が関係のうちに収まるように認識を、思考を訓練するのが弁証法である。[5030]
集合論と矛盾との接点は選択公理である。選択公理以外の公理は要素を捨象し、集合を要素とする集合間の関係を規定することで、要素と集合の矛盾を回避している。[5031]
要素と集合の矛盾は存在矛盾である。部分と全体の矛盾である。部分は部分間の相互連関として全体を構成するが、部分間の関係と部分と全体との関係は同じではない。有機的存在では部分間の相互規定と全体による部分の規定とは異なる。部分間の規定関係を合わせても、全体の規定性を実現することはできない。それぞれの規定関係だけではなく、規定関係全体の中での相互依存性が実現することで、全体の規定性が現れる。生物の構成要素を集めても生物を作り出すことはできない。生物の生理的過程は相互依存的規定関係にある。形式論理では定義できない多体系が実在の構造である。単純には平衡状態が相互依存の典型である。釣り合いは相互依存関係である。[5032]
選択公理は集合の定義し直しの手続きに矛盾が生じることを排除する。集合の定義し直しは対象の変化、認識の変化に対応する手続きである。実在を対象とするのに、変化に対応しなくてはならない。矛盾による運動を矛盾を反映せずに集合間の規定関係を保存する手続きが選択公理である。無矛盾の要素からなる集合に対し、特定の要素からなる無矛盾の集合を取り出す手続きである。選択公理は無矛盾性を保証するのではなく、集合関係から矛盾を排除する手続きである。[5033]
公理系内では無矛盾が保証される。この保証によってコンピュータの計算結果を信頼することができる。しかし、集合間の定義されていない関係・組み合わせや、コンピュータの動作環境からの干渉による誤計算を排除することはできない。しかも、原理的に「本質的に自然数論を含む数学の形式的体系が無矛盾ならば,その無矛盾性を,その体系内で形式化できるような手法のみによって証明することはできない」。[5034]
実在を対象とする弁証法論理は、要素間に生じる矛盾を定義し、無矛盾の要素集合を取り出し、取り出した集合間の矛盾として再定義する。要素間に生じる矛盾が、集合間の矛盾へと転化する過程を対象の運動過程として、または主体の認識過程としてとらえる。[5035]

第3項 価値系

思考による判断は逆に判断基準を思考する。認識、思考が主体の生存のための判断過程であることから、生存を価値とする体系が構成される。生理的思考での生存を実現する判断体系は単純である。生存の可能性が広がれば選択の対象も広がり、価値基準も単純ではなくなる。[5036]

【価値基準】

経験からの個別的価値基準に従うなら、やはり単純である。より普遍的価値を求めることへ、価値を求める思考は向かう。普遍的な世界の誰にでも認められる、時代を超えて認められる価値を求める。しかし利害の対立する社会では誰にでも認められる価値はありえない。普遍性を「誰にでも」ではなく、世界の普遍性に求めることになる。[5037]
世界は非平衡な系が平衡化することによって運動が実現している。非平衡であるのはエネルギーである。非平衡なエネルギーの平衡化は均一には実現しない。不均一なゆらぐエネルギーの平衡化はエネルギーの有り様を区別して秩序を作りだす。エネルギーの平衡化によって作りだされるのは秩序である。秩序は保存される形式である。逆に秩序を保存するには運動が必要である。非平衡化の運動過程で秩序が作りだされ、保存される。非平衡化と秩序は相対立する。非平衡化は区別をなくする変化である。秩序は区別を保存する不変である。[5038]
われわれは秩序を作りだす過程で生まれ、進化してきた。われわれにとって秩序が作りだされることが価値である。価値の創造が価値である。[5039]

【秩序】

問題は何を秩序と見なすかである。より普遍的な秩序が価値ある秩序である。より普遍的な秩序の理解が、人の対立点になる。世界の普遍性、人間の普遍性、普遍性の理解が価値基準になる。[5040]
独自性、個性も秩序によって実現されるがそれだけでは普遍性はない。より普遍的な有り様での独自性、個性がより価値がある。普遍性のない独自性、個性は独りよがりであり、普遍的に受け入れられない。[5041]
世界全体の秩序の中にすべては価値づけられる。ただし、秩序は固定ではなく、運動の秩序であり、創造される秩序である。できあがった秩序を守るのは価値を創造しない。[5042]

第4項 世界の構成

論理は存在の関係形式である。存在は多様な運動形態としてあり、したがってその関係形式である論理も多様である。そして、存在の階層性は論理の階層性として反映される。[5043]

【観念世界】

観念は外部世界を反映し、観念の世界を構成する。観念世界は主観の世界であり、主観によって操作される世界である。感覚、知覚は外部世界の対象の直接的反映であり、操作のしようがない。知覚表象を対象化した観念表象は主観であり、かつ主観の対象である。客体対象からの直接的規定から解放されている。の相関全体のうちに評価した表象であり、操作可能である。[5044]
観念は知覚表象の解釈である。知覚表象の意味づけである。知覚表象は感覚に応じて変化する。その知覚表象をこれまでに記憶され、蓄積された観念表象と重ね合わせ、一致不一致を評価する。同一性と差異性を評価する。[5045]
完全な不一致はまずない。幼児期ならともかくも、物心ついてからは他との連関のうちに知覚する。初めての知覚と思われても、世界の存在物として対象化する。他との何らかの関連の内にあり、何らかの共通基盤の上に存在する。どのようなものであっても世界の存在物は物理的、化学的、生物的、精神的、社会的、文化的、いずれかの存在としての普遍性をもっている。これを超えた存在の感覚表象、知覚表象を得ることはできない。知覚できるものとしての普遍性をもった存在であるから対象化できる。対象化できるものは他のものと同じ世界の一部を構成する存在である。対象化できるものはすべてそうした普遍性をもち、世界はそうした普遍的存在の場である。[5046]
同一性は普遍性であり、差異性が個別性を規定する。差異性によって個別を区別する。他から区別された知覚表象が観念である。観念表象は同一性と差異性、普遍性と個別性によって評価された表象である。区別され、関係づけられて観念は記憶される。区別され、関係づけられて記憶されているから、観念は思い出すことができる。区別され、関係づけられ、記憶されて対象化されるから、観念は操作可能である。知覚表象は主観にとってもたらされ、再現されるものであって操作することはできない。知覚表象は即自的で他の知覚表象との関連にはない。知覚表象は感覚表象によってもたらされるだけである。[5047]
観念と観念の連関として観念世界が対象世界、外部世界を反映する。逆に観念によって外部対象世界は内部世界を構成している。内部世界は主観による、観念世界として構成されている。内部世界は外部世界を反映しているが、単純な写し取りではない。内部世界は普遍化され、全体として評価され構成されている。内部世界の表象が世界観である。[5048]
この内部世界と外部世界を区別しないととんでもないことになる。EPRの思考実験は、思考実験であるから内部世界での実験である。一方の粒子のスピンの方向の測定によって、他方の遙か彼方の粒子のスピン方向を知ることができる。あるいは他方のスピン方向を確定する。その際、情報が光速を超えて伝わってなどいない。実際に外部世界で一方の粒子のスピンを測定する実験を行ったとしても、他方の粒子の測定は行っていない。内部世界で他方の粒子のスピン方向を知るにすぎない。[5049]
観測によって波束は収束する。他方は観測によらず収束する。どちらも観測によって収束するというなら「観測」の意味を拡張しなくてはならない。しかし全体になる反対方向のスピンの発生は理論と観測によってもたらされた「知」である。「観測」とは異なる「知」によって知るのである。[5050]

外部世界の個別対象を「知る」ということは、内部世界に位置づけることである。外部世界で個別対象を観測することとは違う。普遍的に位置づけることとしてあり、また個別的に位置づけることとしてもある。再現性のあるもの、複数あるものの普遍性を位置づけることとしてあり、またそれらの個別を個別として位置づけることもある。「親」という概念は普遍的な概念である。対して「自分の親」は個別的な概念である。さらに「今朝挨拶を交わした親」も個別的に記憶されている。外部世界の生身の親とは別に、内部世界に観念としての存在がある。[5051]
外部世界と内部世界は並行しており、いつでも重ね合わせが可能である。だだし、内部世界は主観が対象化している時のみ、意識がある時のみ現れる。主体の実践過程で意識的に重ね合わせなければ実現しない。[5052]
社会生活の場で、観念は交換され、共有され、言葉で表現される。言葉で表現されて、観念の操作は容易になる。観念の記録も容易になる。観念世界も言葉で表現される。[5053]

【世界観の確認】

自分自身と世界の関係としての主観の対象、相互作用の対象は、概念として反映される。個別は概念として意識に再構成される。観念を論理的に関連づけ、体系化したものが概念である。[5054]
概念は単に意識に反映された個別の知覚ではない。意識に再構成された世界に位置づけられた個別の意識における存在=観念である。個別と全体の関係と同じく、概念は世界全体の構成と関係する概念は、意識にとっては世界観の構成単位である。[5055]
個別の他の個別との相互作用が、意識における世界全体の構成の中で、対応する概念間の関係として捉えることが位置づけである。反映された個別を概念として位置づけることで、個別の反映をより確かな、意識にとってより正しいものとすることができ、世界全体についての構成像を、より正しいものとすることになる。[5056]

【心】

生物、動物の認識が個体が生きていく上での情報処理過程であり、その進化の過程でヒトが生まれ、意識が成り立ち、心が実現した。この進化の過程を貫いているのは「対象化」である。「志向性」を主張する哲学者もいるが、志向性では主体、主観が前提になってその方向性になってしまう。対象化は相互作用過程が再帰し相互作用の対称性を一方的に対象化することで主観、意識を成立させるところに意義がある。この再帰により相互作用の対称性が破られ、自らをも対象化し、主観は自らの世界に閉じこめられる。相互作用の実在世界から隔絶された主観の世界を構成する。実在世界と主観世界の二元の世界が成り立つ。[5057]
主観は生物的に獲得された認知機構を介して自らの主観世界を実在世界に重ね合わせようとする。主観世界は実在世界に重なり合うように創造される。意志によってではなく生理的にこの創造は実現されている。視覚での盲点でも視覚表象は補われている。鏡像は鏡面を対称軸に左右をそのまま移しているにもかかわらず、見る人は視線の方向を逆転させて左右が逆転しているかのように解釈してしまう。脳神経系の障害による症例だけではなく、健常者の錯覚もこの生理的創造過程によって起こる。[5058]
生理的創造過程こそ「心」である。創造力、想像力と創造物としての主観世界として心が実現する。宗教が成り立つ基礎もここにある。[5059]


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