ここまでの身体制御系の進化、階層でも認識は行われている、記憶もされている。しかしわれわれが通常「物事を知る」と言うことで意味する認識には至っていない。したがって、主体と対象との相互作用過程に現れる広義の認識は身体による生理的認識である。「物事を知る」という意味での認識は意識が伴う狭義の認識である。生物進化のどの段階で意識を認めることができるかは生物学、医学の課題であり、逆に哲学の課題としては「どのような機能が実現されることが意識があるといえるか」が課題になる。類人猿の場合は個体間、人との間にコミュニケーションが可能であり、意識を持っている。言語を持たなくとも、類人猿の中には道具を使って工夫することができるものがいる。[1008]
【情動】
主体は反応過程を制御することで、主体であることを維持し、実現し続けている。細胞での代謝過程、組織、器官での代謝過程、個体としての代謝過程で、また全体を制御して身体を維持し続けている。生化学反応系自体に平衡状態を維持する相互関係がある。生物個体として免疫系、末梢神経系、自律神経系、ホルモン系、中枢神経系が身体の制御をしている。体内環境の制御は睡眠中も常に行われている。体内環境は意識的には制御できない。
[1009]
体内環境の制御は体外環境との相互作用に反応する。情動の過程は末梢神経、自律神経、中枢神経、神経伝達物質、ホルモンによって媒介される。情動は体外環境に対応して体内環境の調節によって現れる身体の変化である。そして骨格筋の収縮として動作が生じる。情動は表情筋、内臓筋、血管筋の収縮としても表れるが、主体にとっては何よりも感情として意識される。情動は喜び、悲しみ、恐れ、怒り、嫌悪として表れる。体外環境の作用に対する体内の反応は情動を表わす。情動は認識の基礎、基本である。
[1010]
情動は生物進化の過程で獲得されてきた生命維持の仕組みであり、遺伝によって個体に受け継がれている。遺伝される情動は先天的な能力であり、生命維持に直接しているが、社会的、精神的、文化的環境でも働く。人前で上がったり、試験に緊張したり、芸術に恍惚となったりすることは、生命維持に直接はしていない。社会的、精神的、文化的情動は経験によって獲得される後天的情動である。後天的情動は経験によって形成され、記憶されている。記憶されているからこそ、感情を伴って想起される。運動技能が訓練によって意識することなく発揮できるように、後天的情動も意識されることなく発現する。情動の経験は育児の問題として重要視されている。ただし、育児は母親だけの特権ではない。
[1011]
情動は主体にとって不可欠な適応能力であり、適応のための認識を行っている。しかし情動は主観にとっては対象としての身体の変化でしかない。情動は主観に反映されるが、主観は情動を意識的に制御することはできない。主観は身体を制御して情動の反応を作り出すことで、情動を擬似的に作り出すことが可能である。主観の擬似的に作り出した情動反応が主観に再帰反映することも可能である。それでも情動は主観にとっては対象でしかない。
[1012]
【感情】
情動は主観に感情として反映される。情動は中枢神経を含む身体の反応であるが、感情は中枢神経、脳での反応である。情動は意識がなくとも働くが、感情は意識がなければ働かない。
[1013]
感情と主観の関係では、主観はむしろ方向性が中立化した意識である。方向性の意識、指向する意識としての主観ではなく、反映を受け入れる受動態としての意識である。感情を受け入れる意識は対象としての「主観」である。
[1014]
感情は主観に反映され、主観に作用する。感情によって主観の方向性は強められたり、揺るがされたりする。競争相手に対する闘争心によって科学研究も進捗する。達成感は方向性を失わせ、虚脱感に変わる。主観の対象との関わりの過程で、主観自体が感情を高揚させることも可能である。
[1015]
感情は個別対象そのものではなく、主体、主観との相互関係の表象である。感情は五感すべての感覚を伴う表象である。感情は主観にとって、個別対象との関係の統合された表象として記憶される。感情は主観にとって経験された情動の記憶である。感情は経験によって豊かさを増す。
[1016]
社会関係では感情は認識の対象として重要である。感情を理解することが、社会関係を円滑にする。社会関係は単に対象を認知することではなく、対象が自分をどう認知しているかを推測し、自分の選択する働きかけによって対象がどう変化するかを推測するという複雑な相互関係の認知を必要とする。対象が自分に対して抱く感情の理解は人間関係をきづく基本である。感情を理解し表現することで、ヒトの知的能力は大きく進化したとされる。
[1017]
さらに個別対象との関係から普遍的感情も抽象される。多様な感情を相互に区別し、それぞれの特徴づけをする。区別し、特徴づけられた感情が普遍的感情として記憶される。個別的対象と結びつく感情ではなく、経験から普遍化された感情が記憶される。記憶された感情は、個別的な感情も、普遍的感情も、他の物事などの記憶と同じ主観の対象になる。
[1018]
【認識と意識】
環境を対象化するものとして主体が実現するが、主体自体が身体として客体の一部であり、身体も対象化される。身体の反応としての情動も認識の対象になる。体外対象と情動とが一体となって認識される。体外対象と情動とが一体となる反映表象が感情として対象化される。体外対象と情動によって感情が引き起こされるが、引き起こされた感情も感情の表象として意識の対象になる。
[1019]
客体間の相互作用が対象化によって対象と主体の関係になる。客体のうちの一つが他を対象化することによって主体になる。一つの客体が主体として他の客体を被対象化する。客体間の関係が主体と対象との関係として方向づけられる。客体間の対称性が主体による対象化によって非対称化する。客体間の相互関係が主体と対象との関係になって、客体からの作用により主体のうちに客体が個別対象として反映される。
[1020]
反映過程と反映表象を対象化する過程は身体・主体の過程である。反映された表象を対象化するのが意識・主観である。対象として客体を反映し、反映表象を対象化する過程が意識の働きである。「意識」は主観の機能の客観的表現である。主観は自らを「意識」として対象化する。客体の反映としての認識は無意識にでも行われるが、認識なしに意識は実現しない。
[1021]
反映される表象は記憶として保存され、再現される。記憶は単に保存された過去のことではない。反映される表象は記憶として媒介される。媒介するのは脳神経細胞網である。脳神経細胞網とは主体の対象との相互作用からと、身体環境からの刺激によって継起される脳神経細胞網発火の連鎖型である。記憶表象は脳神経細胞網発火の連鎖型として再現される。表象それぞれに神経細胞網発火の連鎖型を構成する。構成される神経細胞網発火の連鎖が再現される記憶である。
[1022]
記憶には意識される顕在記憶と意識下にある無意識の潜在記憶がある。また記憶には数秒から30秒程度の保存できる短期記憶と、いつでも再現できる長期記憶の区別がある。短期記憶は作業記憶であり、作業記憶には容量の限界があり、7つ程度までの表象を保存できる。作業記憶にも意識的操作に使う顕在記憶と、無意識に使われる潜在記憶であるプライミング記憶がある。無意識の作業記憶はメモの機能を担い、中間作業を効率化するが、思いこみの誤りを起こしやすい。長期記憶には経験してきた事象が、さらにこれまでに思い出された事象が思い出されるたびに評価され、重みづけられて保存されている。個人的経験の記憶であり、自伝的記憶、エピソード記憶である。また長期記憶には経験してきた事象のそれぞれの意味が知識として記憶されている。経験によって意味づけられ、社会的に意味づけられた意味記憶である。意識されない長期記憶として手続き記憶がある。運動動作、記憶操作の仕方についての記憶である。発話の内容は作業記憶からの表出であるが、文法にかなった発話過程は手続き記憶に従っている。
[1023]
短期記憶と長期記憶の分化、短期記憶は短期記憶を引用できるという再帰性=入れ子構造によって、意識を意識する意識を意識する存在の無限後退を回避できる。作業記憶域での短期記憶は別の作業記憶域の短期記憶から当の短期記憶を指示・対象化することができる。意識を意識する脳内の小人ホムンクルスに居場所はない。
[1024]
認識過程での対象の短期記憶と、保存された経験である長期記憶が想起され、結びつけられる。短期記憶、長期記憶は記憶の機能の分類であって、脳の機能の分類や領域の区分ではない。作業記憶では、対象の表象と長期記憶から作業記憶に引き出した表象を関連づけ、評価する。関連づけ、評価する対象は体外対象もあれば、感情を含む身体の状態、経験知識など記憶されるあらゆる表象が対象になる。評価を受けて主体は対象を予測し、身体を動かす。この作業記憶での数十秒間保存される記憶表象の操作過程が意識である。意識は体外対象に自らを対し、自らの経験を連ね、過去から未来へ向かう今を構成する。
[1025]
認識は主体による対象と個別対象の反映である。主体は対象間にあっての客体としての対称性を破り、個別対象を措定し、対象化して方向性を現す。客体間の相互作用によって継起される反映を超えて、反映を対象化する。相互作用を対象化し、主体として客体との関係を対象化することが肝心である。主体的対象化によって、客観的過程での反映が主体による認識になる。主体性のない認識はない。認識は主体的である。反映表象の対象化として、認識には方向性がある。方向性なしに認識は成り立たない。認識の方向性をふまえた上で、客観的認識が成り立つ。客体間の関係では客観性など問題になりようがない。主観が客体を対象化するから、客観性が問題になる。
[1026]
主体の対象化を主観が対象化することによって対象と主観=意識との関係が実現する。意識は感覚をとおして反映された表象を対象化する。意識は直接客体を対象化することはできない。だからカントの「物自体は認識できない」ことになる。意識は客体間の関係、客体と主体との相互関係から切り離されている。
[1027]
逆に物質は意識の外に客体として存在する。意識は客体としての、物質としての主体によって媒介されながらも、自らを客体として対象化できない。意識・主観による対象化自体が客体間の対称性の関係ではなく、非対称化、対象化する方向性としてあるのだから。方向性を失っては意識も失われる。
[1028]
意識は相互作用の最高の発展段階ではない。意識は客体と主体との相互作用によって実現され、媒介されているにすぎない。日常的に意識することなく動作している。相互作用としての運動はエントロピーの増大過程にあって、物質を構造化、自己組織化してきた。その最高の発展段階として知的生命体を実現した。知的生命体として人は相互作用の、物質の最高の発展段階にある。少なくとも、われわれが知りえている物質の有り様として。意識はその人に付随している。
[1029]
コンピュータやロボット等の物質的存在として意識、認識を実現することはできない。しかし、コンピュータなどによる意識、認識を実現する可能性は、物質としての人に意識、認識が実現されているのだから否定はできない。
[1030]
この第11章で扱う「主体」はほぼ、「人間主体」である。ヒト以外の動物にも主体性があり、認識主体でありえるが、ここでは動物でもある人間を「主体」とする。
[1031]
第2項 認識の概要
【認識の主体】
認識の主体は自分である。主体が客体間の相互作用を対象化し、対象化するものとして自分が意識される。主体である身体を持つものとして、自分を意識する。対象の反映表象を認識する主観として、自分を意識する。
[1032]
意識は記憶の操作過程として主観によって対象化され、記憶の操作過程の意識を自分として認識する。主体の対象を意識し、主体の情動を意識し、自らの感情を意識し、これまでの個人的経験記憶を意識し、主体のこれからを意識する。体外環境を意識し、身体を意識し、過去の経験と、未来の計画を意識する主体として自分を認識する。自意識が実現する。
[1033]
日常的に繰り返し認識することで、自分は対象の個別性と普遍的とを認識する。対象は全体として、自分に対するものとして普遍的である。個別対象は時間に対して相対的に保存されるものとして普遍的であり、他に対する個別として認識される。また複数の個別対象に、他との関係を同じに実現する普遍性を認識する。同時に普遍的対象に対する、自分の普遍性を認識する。
[1034]
意識の過程は経験として繰り返され、記憶され、想起される。「こうありたい」、「ああでありたくない」、「これは良かった」、「あれは避けたい」という評価を伴って記憶される。指向が想起されて確認される。評価され、方向づけされた反応態度が経験として訓練される。方向づけられ、指向された意識が信念である。信念と一体化する情動として人格が形成される。
[1035]
生物は環境に対する反応制御において環境を認識している。生物一般の認識は意識に関わりない。意識的認識は、認識していることを認識することである。中枢神経系を発達させた動物には意識の可能性がある。大脳皮質を発達させた動物に意識がある可能性は大きい。目的を持って活動している人に意識があるのは確実である。自分は会話の相手である他の人を認識し、自分と同じように相手が対応することで、相手が自分と同じに「相手である」自分を認識し、意識していることを認識する。
[1036]
自分は他の人と共同することで、自分の経験できないことを認識する。同じ対象を複数の視点から認識する。別々の個別対象を別々に認識し、個別対象の普遍性を認識する。認識結果を記録し、交換し、共有することでより普遍的に認識する。自分の認識結果を記録として表現し、交換し、蓄積していく過程で社会的に認識する。社会は社会的認識の主体としてある。社会自体がコミュニケーションを介する社会的認識主体である。社会的認識主体は独自の社会システムも組織する。学会等は意識的に組織された社会的認識主体である。
[1037]
【認識の対象】
認識の対象は主体の対象であり、主体自体である。客体は客体間の相互作用関係にあるうちは対象ではない。身体は常に客体として他と相互作用している。身体と他との相互作用で身体は他の作用に対応し、自らの代謝過程を制御する。身体は他の作用を認識し、自らの代謝過程を認識している。この認識は感覚器官でも、中枢神経系でも担われている。身体の生存に必要な体外情報を認識している。また、身体自体の状態も認識されている。脳への酸素供給が不足すればアクビがでる。意識しなくとも、意識を伴わなくとも、身体は認識している。その対象は身体の生存に関わる身体外の物事と、自らの身体内の状態である。この認識過程の大部分は意識されない。
[1038]
主体が全体として対象とする個別を主観が認識する。狭義の主観による意識的認識である。主体の対象のうち、主体の方向の先にある個別対象を認識する。感覚器官や中枢神経は常に多様な対象を知覚しているが、意識の対象となるのはそれらの統合された個別表象のうちから選択する一つである。主観の対象、認識対象の個別性は主体の方向性によって規定される。客体としての個別性ではなく、主体の対象としての個別性が認識される。
[1039]
日常的な主体の対象は、集合体としての個別客体である。客体個別の諸階層にある一つの表象を主体は対象化する。ご飯を食べる時でもアミノ酸や、タンパク質分子はむろん、米の一粒ずつを対象にはしない。口に入れることのできる、米粒の塊を対象化する。逆に食糧自給率確保の農業政策に協力するための消費対象として対象化などして食べない。客体の個別性と主体の対象化とが一致することが必要であり、そこに狭義の認識が実現する。
[1040]
感覚刺激を遮断されると人の神経活動は混乱してしまう。感覚器官の直接的相互作用を介さないと対象を認識することはできないが、感覚器官だけによって認識がおこなわれるのではない。感覚器官への刺激は分類され、統合されて表象として記憶される。表象間の関係も認識の対象である。さらに主体の対象は行動の対象である。主体の行動対象が表象間の関係から構成される。直接的行動でなくとも、可能性だけの行動対象も主体の対象になる。
[1041]
老女と婦人、アヒルとウサギなどのゲシュタルト図形でも、個別対象の全体性を生理的に認識している。反映結果として認識が成り立つのではなく、認識は対象の解釈、意味づけによって方向づけられている。相対する人の顔と果物台の図と地の認識の例でも全体を図と地に区分して対象化し、その対象化は排他的である。認識は単に対象との出会いではなく、対象間の相互規定関係を主体的に対象化するのである。
[1042]
主体は統合された個体として、特定の個別客体を対象にして行動する。逆に個別を選択、特定する対象化が主体の方向性である。生物的個体、社会的個体、精神的個体、文化的個体として人間主体は行動する。どの階層の客体を対象とするかは、それこそ主体の対象化によって決まる。認識はその主体の行動に応じて対象を区別する。
[1043]
個別対象は主体の対象として個別性を主体によって規定される。同時に個別対象は他との相互作用によって、個別性を実現している。客体としての個別性と、主体の対象としての個別性を重ね合わせることが個別対象の認識である。個別が個別として区別されながら、同じ個別としての普遍性を認識する。個別客体の普遍性、個別客体間の普遍性を対象とし、個別対象の普遍性の極限として、実在を認識する。主体は客体としての世界の普遍性を認識する。個別対象の個別性と普遍性を認識することで世界の普遍性を認識する。認識にあっても主体は対象化するものとして主体である。
[1044]
【認識の媒体】
身体・主体による広義の認識に主観、意識は介入することはできない。広義の認識は主体の他との直接的相互作用過程にある。広義の認識の結果である情動は意識の対象にはなっても、直接制御することはできない。これに対して狭義の意識的認識、主観の認識は操作が可能である。主観の認識は媒介された認識であり、媒体を操作可能である。
[1045]
体外対象の意識的認識は身体の直接的相互作用によって媒介される過程である。体外対象の意識的認識は身体の他との直接的相互作用過程で感覚器官によってまず担われる。感覚器官は特定の刺激を受容する。多様な刺激のうち何をどの範囲で受け入れるかは進化・適応の過程で選択されてきた。ヒトの場合には光を主に眼で、力学的振動を耳と皮膚で、分子を鼻と舌で、物体を皮膚で感じる。感覚器官の直接的相互作用の対象は、通常主体の対象ではない。感覚器官への刺激は分類され、統合されて認識される。感覚刺激の統合された表象を記憶と関連づけ、評価して主体の対象としてとらえる。認識の媒体は主体と対象との相互作用を媒介する物であり、相互作用によってもたらされる刺激を受け入れ分類・統合する神経系である。客体間の相互作用としての外部過程と、感覚刺激からの内部過程とによって認識は媒介される。
[1046]
対象を認識しようとする時、感覚器官はその対象との関係を媒介する作用を利用する。光、力学的振動、分子、物体は感覚器官の対象ではあるが認識の対象ではない。感覚器官の対象は認識に利用されるのであり、すべての感覚が認識に利用されてはいない。ヒトの場合には視覚が主要な感覚器官であり、見る時には他の感覚はほとんど無視される。視覚もその視野のすべてを対象にしてはいない。その視覚も他の感覚によって無視されることもある。感覚刺激は認識によって利用される手段である。
[1047]
さらに、視覚の場合でも人によっては眼鏡が必要である。対象によっては顕微鏡、望遠鏡等、また非可視光、音などの様々な運動を見える形に変換する機器が利用される。
[1048]
認識は個々の感覚にとどまるものではなく、ほとんどの感覚を捨象してまで主体と対象との相互作用として実現される。感覚は主体と対象との相互作用の基本的な一部ではあるが、主要な一部であるとは限らない。透視などの超感覚的認識のことではない。主体と対象との相互作用の全体を対象化することによって認識は実現する。その意味で認識は大脳皮質によって媒介されている。認識は主体と対象との関係を対象化する主観の働きである。
[1049]
したがって認識は個々の感覚ではなく、主体によって選択された感覚を対象とし、複数の感覚を統合して対象化する。色、形、臭い、硬軟等の異なる感覚表象を統合して対象化する。対象と主体間の複数の関係間の関係を対象化する。複数の関係を統合することによって個別対象を認識する。
[1050]
【認識の表現】
主体は対象である客体を自らのうちに取り込んで、自らを更新し、客体の中に更新される主体の相互作用関係をつくりだす。主体自らの対象化は表現の契機である。
[1051]
動植物も環境内での新陳代謝過程を進化させ、表現を実現してきた。陽当たりに対し、重力に対し、発生、成長、進化の過程で形をつくってきた。特に個体の更新としての生殖に関わって多様な、豊かな表現を実現してきた。花は生殖を媒介する昆虫に対し、動物は異性に対し自らを表現する。情動は表情に表れ、表情から情動を読み取る事も可能になる。
[1052]
対象化過程を対象化する意識も対象の認識を表現に変える。単に反応するだけではなく、反応に形を与え、反応を表現する。対象化過程での反応による表現は、表象を固定化し、認識を記録する。中枢神経系における認識の記録は記憶である。人の社会関係における認識の標準的記録は言語表現である。人間の場合は客体の有り様だけでなく、さらに意味も記録するようになった。人間が記録を客体化して残すのは客体の有り様ではなく、むしろ意味を記録するためである。人類の誕生共に、壁画が残されるようになった。歌や踊りは残っていないが、祭祀に用いる器などの道具への表現は残っている。
[1053]
人間の場合、存在は社会的であり、認識表現も社会的であり、社会に対する自己表現が自己実現の主要な目的、手段にもなる。人間主体として生活し、生きることが自己実現そのものではある。個々の表現は到達点における自己実現、繰り返し試みることのできる自己表現でもある。繰り返しての表現、そのすべてとしての生き様、人間にとって表現が自己目的化しえる。生き様としての自己表現は、自己実現そのものである。しかし、それは一生をとおしての一度だけの取り返しのできない過程である。
[1054]
認識結果は表現され、記録され、客体化され、対象化される。表現され、記録された認識結果も認識の対象となる。表現され、記録され、蓄積された認識結果は繰り返し認識の対象になり、確認される。個人的にも社会的にも。
[1055]
【存在の認識】
認識は個別対象間の関係もたどるのが認識である。個別対象の「有る・無し」という存在確認に認識はとどまらない。存在の定義は観測できるかどうかではない。存在の定義は他と相互作用していることである。個別対象と主体間の関係よりも個別対象間の関係として「対象がどうのように存在する」かをとらえなくてはならない。性質は他との相互作用過程で実現し、他との区別として現れる。
[1056]
存在することは被対象になると同時に、逆に他を対象にすることでもある。相互作用自体が相互に対象化し、相互に被対象化することである。客体として対称の関係にあることが存在することである。存在はこの関係から逃れることはできない。存在は対象性と対称性にある。
[1057]
存在の関係は今現在である。過去の物事は存在したのであり、もはや存在していない。過去の物事は記憶や記録として関係できるだけである。過去の物事をコトバによって表現できるからと言って、それらはコトバとして存在するのであって、物事として存在しているのではない。当然に存在について認識できるのは今現在の存在である。存在の認識としてさらに問題になるのは、今現在直接の認識対象の先の関係にある存在である。
[1058]
認識は個別対象と主体間の関係での、対象間の関係の反映である。対象と主体間の関係を縦方向の関係と見なすなら、個別対象間の関係は横方向の関係である。縦横どちらをどちらと呼ぶかに関わりなく、異なった二つの方向性をもった関係から認識は成り立つ。
[1059]
認識は中枢神経系における個別対象解釈に限られない。認識は主体の行動の一部をなすのであって、前頭葉の働きに局限することはできない。認識は単に個別対象を写し取ることではなく、主体の対象としての存在を確かめることである。そもそも認識は主体の行動によって媒介されている。
[1060]
存在の認識は主体の認識である。主体が存在しているのと同じように対象が存在していることを確認する。主体が他との相互作用として存在しているのと同じ、相互作用の連関のうちに個別対象が存在していることの確認が存在の認識である。個別対象との間に観測機器が介在しようとも、観測機器も個別対象と、主体と同じに存在する。
[1061]
認識は個別対象と同時に対象の認識である。対象は主体に対する対象であり、その対象のうちに主体は個別対象を対象化する。個別対象と対象との関係は集合と補集合の関係ではない。個別対象は対象のうちに含まれる。対象が個別として対象化される、その個別性に認識の機序、本質がある。
[1062]
認識の対象は普遍性と個別性をもつ。認識の個別対象は時間的、空間的に普遍的である。対象であるうちに変化してはとらえることができない。変化、運動であっても、対象としてとらえることのできる普遍性がなくてはならない。認識の対象とすることは、即対象の普遍性の把握であり、対象の固定化である。対象として規定してしまうのだから、変化しない。意識しなくとも認識した対象は変化しない表象になる。不変の表象が記憶される。不変の表象に対して名づけられる。記憶された対象は忘れられることはあっても不変である。他の記憶との干渉によって記憶表象が揺らぎ、変化しても認識表象自体は不変である。不変であるから想起され、再現される。同時に他と区別され、主体との関係を実現する個別であるから対象になる。
[1063]
実在は相互作用する運動として存在し、相互作用によって普遍性の根元である対称性を自ら破っている。主体の対象としての普遍性ではなく、実在の普遍性である。実在としての普遍的相互作用で相互に規定し合って個別性を獲得している。実在の普遍性は客体間の相互作用過程で対称性を失い、個別性を獲得している。
[1064]
実在の普遍性のうちに、主体は客体との相互作用過程で他を対象化して表象を個別化する。主体は普遍的対象を個別性によって、主体との関係に規定する。対象の普遍性に対する個別性を対象化することで、個別表象を対象化する。主体による対象の個別性の抽象であるが、対象の個別性は普遍的相互規定によって元々規定されている。
[1065]
主体にとって対象表象は絶対的普遍性である。対象があるから主体でありえるのだから。対象化しなくなった主体は単なる客体であって、主体性を失っている。主体による対象化の限界を超えても、それ以前に主体の対象化にかかわらず客体は存在している。逆に対象の普遍性は主体にとっては主体の普遍性である。個別対象がどのように変化しようが、主体は対象に対して普遍的にある。
[1067]
【認識の認識】
主体の認識は対象化され主観の認識になる。主体の認識を対象化する認識主体として主観が実現する。主体によって反映された表象を主観が対象化する。主体内の個人的認識であり、他人にはどうすることもできない。他人には確かめることも、干渉することもできない。
[1068]
主体の認識は主体の生活での直接的経験として蓄積される。記憶として、表現として蓄積される主体の認識を主観が対象化する。主体の蓄積された認識は主観にとって個別対象ではあるが、主体の対象認識の総体でもある。主体の認識対象の総体を主観は対象として認識する。主観は当初から全体を対象に認識する。主観は全体の認識の中に、主体の個別対象を位置づける。個別対象を主体の方向性から評価する。主観の認識は主体の直接的経験の反省である。
[1069]
対象は主観の認識として、全体として、世界感として表象される。世界感のうちに区別される個別対象間の関係を論理的に定義した表象の体系が世界観である。主体によって獲得された世界感を主観は対象化して世界観を獲得する。世界観は主体の方向性を規準とする価値体系である。個別対象間の関係を評価し、評価する基準として価値体系を構成する。
[1070]
主観の認識は主体の直接的経験を対象化しており、主体の対象と直接していない。主観の認識の表現は、主体の直接的経験から乖離しえる。主体の直接的経験の全体をとらえることができなかったり、主体の方向性を願望や失望でゆがめれば主体の直接的経験から乖離する。
[1071]
【認識と実践】
認識は関係の関係として、存在関係を超越するものではない。認識も存在関係そのものの一つの過程である。認識は主体の存在関係・過程としての実践の一部分である。主体が主体であるのは対象である客体との相互作用関係を方向づけるからであり、その方向づけの過程の一部としてとして認識過程がある。主体は対象を変革することで、自らを実現する実践主体としての存在である。その実践の過程で認識が発達してきた。実践過程にあって、実践を方向づける機能として認識の役割がある。
[1072]
憶測や先入観は退けなければならないが、目的なしに認識はできない。感覚器官の存在自体が対象との相互作用をとらえることを目的にしている。認識の客観性を保証するために、実践過程からの相対的自立が必要であるが、絶対的自立ではない。より本質的に、対象への働きかけなしに対象との関係を確かめることはできない。
[1073]
主観によって獲得された世界観は、主体の直接的経験の過程に重ね合わせられなくてはならない。世界観は主体の対象に重ね合わせられなくてはならない。実践から相対的に自立した主観の認識であっても、実践過程で検証されなくてはならない。
[1074]
【認識の制限】
認識の対象は確定された質量をもたない。対象化される客体は多様な質とそれぞれの量をもつ複合体である。客体間の相互規定としての確定される質量で存在し、運動しているが、階層を貫いて相互規定し、多様な構造をなしている。しかも対象間でも、主体との間でも相互作用し運動している存在である。認識は定義されない要素の集合を対象にする。そうした個別対象と認識結果を1対1対応させることは、対象と主観との形式的関係においてのみ実現される。
[1075]
定義されない要素の集合を、数学の集合概念と同じに扱うことはできない。定義された要素として、それ以外の性質は捨象して対象にするのが数学の集合である。数学の集合概念を基礎とする形式論理では、対象はすでに捨象されている。したがって、形式論理では対象の実在を扱うことはできない。形式論理では他との多様な相互関係のうちの、一つの関係の質量だけによって対象を定義し、論理操作をする。捨象された関係内でのみ、形式論理は成り立つ。定義された要素の集合を扱っている限り、形式論理は厳密である。しかし、認識の対象は定義されていない、定義しきれていない存在である。対象は認識されて定義される。
[1076]
しかも現実の認識では対象は固定されていない。いわゆる「ゆらぎ」がある。主体、主観は対象との関係を固定してはいない。対象をその要素と集合とに定義された固定したものとしていない。主体、主観と対象との関係も相互作用としてあり、対象間の関係も相互作用としてある。対象にはゆららぎがあり、認識をゆるがしている。主観は個別対象の他との関連に注目し、少しずつ条件を変え、解釈を変えている。対象を多面的に見るということではなく、対象は完結しておらず、変わりうる。あるいは認識がまだ不十分であるから認識しようとする。
[1077]
確定しきれない対象を認識しようとするのは無駄なことではない。主体、主観にとって対象との関係は絶対的である。主体、主観の本性、対象化するものとしての本性からして対象との関係は絶対的である。その絶対的関係の中に個別対象を位置づけようとするのである。主観の絶対的関係のうちに個別対象を位置づけ、対象を普遍的にとらえようとするのが認識である。
[1078]
対象の存在は相互作用していることである。相互作用して存在している個別対象のすべてを、相互作用関連の一部である主体・主観が認識することはできない。直接の相互作用過程にない個別対象は、関係の関係によって認識するしかない。直接的相互作用過程の関係形式の普遍性を対象化することによって、関係の関係を認識する。関係の移管系によって直接的相互作用過程を対象全体に敷衍する。
[1079]
第2節 主観的認識
主観による認識である。まず主観による認識の基礎である反映過程を、ついで認識そのものの過程を扱う。
[2001]
第1項 反映過程
【反映の意味】
反映過程は認識の基礎過程である。反映は単独で存在する過程ではない。反映は個別対象を反映するのではなく、個別対象間の関係、個別対象と他との関係を反映する。反映は客体間の関係を写し取る過程である。反映は相互作用である客体間の関係を、客体の有り様として固定する。反映は客体間の関係を記録する。因果関係は相互作用過程そのものであるが、過程の有り様は残さず、結果を残す。反映は相互作用過程の有り様を残す。因果関係は直接的であるが、反映は因果関係を媒介にしてその関係を対象化する。
[2002]
写真は対象を反映する。写真は対象の有り様を、点の明暗、あるいは点の色の相互関係として固定し、写し取る。写真に写っているのは、対象からの光の偏りである。偏らない光は像を結ばない。対象の形は光の偏りの秩序として像を結ぶ。点の明暗、さらに点の色の偏りによって光による像を形作る。写真技術として因果関係を組み立て、結果として紙等の上に対象の像を写し出す。写し出された像は対象そのものではなく、写し取られた対象とは別の物である。対象の他との関係を光の偏りとして、像として表象している。対象の形と写真の像の関係は対応している。
[2003]
感覚器官は環境からの特定の刺激に特化している。特定の刺激に反応する仕組みとして感覚器官は進化してきている。感覚の受ける刺激は主体にとっての環境の特別の変化を反映する。感覚器官は、受ける刺激がどうであるかよりも、主体の環境条件を反映する。感覚は環境条件、その変化の方向性を反映し、主体の対応方向を指示する。環境条件、その変化を担うものとして対象を表象する。感覚器官を介して対象の表象が反映される。
[2004]
【物自体の認識構造】
物を見ると言うとき「物から発する光、物の反射する光を見るのであって、物自体を見ているのではない」これはへ理屈である。「見る」とは光を見るのであって、物自体は見るのではなく理解するのである。対象の主体にとっての意味を評価するために見るのである。ただし普遍的意味ではない。主体にとっての意味、基本的には危険か、安全かの意味、食糧か道具かの意味である。主体の存在に関わる意味で評価するために、対象を見る。生理的過程として視覚がどのように成り立っているかの問題と、対象の反映の問題とは次元が違うのである。主体と対象との相互関係で対象を反映するのである。
[2005]
物があり、光があり、自分がいる。さらに対象物とは重力等で関係し、対象によっては触れることができ、においを感じ、味を感じ、音を聞くことができる。これらの一般的関係があることを前提に、三者の関係を理解するのが物を見ることである。全体の関係の中で可能になることである。それを通常物を見ると言っているのである。自分を感じるように、対象である物を感じることなどできはしない。自分を感じるように物を感じる要求は、自他の区別を否定する独我論の要求である。「物自体」は主体の対象として反映される対象ではなく、対象としての表象に関わりない「客観的」存在の想定である。主体による認識とは関わりのない存在を認識しようとするのは自家撞着である。
[2006]
【反映表象】
光は人間にとって主要な情報媒体である。光は対象から発し、あるいは対象に反射して受光細胞を刺激するだけである。目で受けた光の刺激が相互に比較され、輪郭線、面、形、色、質感、位置等として対象を反映する。光そのものの刺激ではなく、処理され抽象化された情報として対象が反映され、記憶され、比較される。反映表象は抽象的な反映像=イメージである。
[2007]
実際に脳の一次視覚野では直線、三角形、円等を単位として表象される。その単位表象を統合することで個別対象の形を再構成する。特徴の抽出と統合、再構成は論理的必然でも、技術的要請によるものでもない。生物として、環境によりよく反応するために既得の器官を利用して進化してきた歴史的結果である。高度に発達してきてはいるが、主体の対象をとらえるために特化した、普遍的でない反映である。視覚も動物種ごとに構造は異なり、獲得する反映像も異なる。少なくとも複眼や、魚眼での視覚は、ヒトの眼とは異なる対象のとらえかたである。ヒトの視覚が標準で、最も優れていることにはならない。ヒトの視覚はヒトにとって他の種の視覚より適しているに過ぎない。同じヒトであっても視力や色覚に違いがある。眼鏡を買い換えた時の新鮮な世界の感じは、視覚であっても唯一の正しい見え方などという基準がないことを示している。
[2008]
しかも、五感はそれぞれに独立してはいない。主体の対象をとらえるために協働している。視覚も他の感覚の影響を受けるし、特に主観の指向性によって規定されている。感覚表現である「あたたかい」とううことでも、単に温度に対する感覚の反応だけのことではない。温度についての感覚的表現にとどまらず、一般化して色、旋律、響き等を表現もするし、さらに抽象化して、ことば、人格についてまで表現する。
[2009]
主観的意味解釈による干渉のない感覚器官での反映表象も、客観的に対象を反映しているのではない。主体の行動の中で、とりあえず有効に対象を反映している。いうなれば主体の勝手な反映表象である。
[2010]
【反映表象の階層性】
反映表象は表象媒体によって届けられる情報を抽象化した反映表象であるが、反映像はさらに抽象化される階層がある。
[2011]
反映表象の関連から、対称性、繰り返し、変位等が抽象される。表象に区別を見いだすことは、その基準も見いだすことである。対称性には部分の区別と同等性だけではなく、対称軸もある。繰り返しには再現性だけでなく、間隔もある。変異には標準がある。分析してわかることではなく、表象のうちに抽象的な性質も反映される。
[2012]
音楽では音程、音色、音長、音量を基本的表象としている。しかし、これら基本的表象である音の性質だけでは音楽にならない。それらの組み合わせとしてより抽象的なリズム、ハーモニー、メロディーが要素となって対象を表現する。しかも、演奏という現実化の過程で表情が表される。リズム、ハーモニー、メロディーは音楽だけの要素ではない。また芸術表現だけの表象ではない。生理的活動、スポーツ、仕事等にも現れる。
[2013]
感覚的理解は文化的基盤の上で直接的に与えられており、それぞれの社会で特殊な形で行われ、独自の文化を作り出した。芸術の多様性、独自性は芸術家だけによって実現されるのではない。受け入れる鑑賞者があってのことである。気候風土に根ざし、歴史的に規定された文化的基盤が想定される。文化的基盤は表象を反映する共通の経験によって実現される。表象の一般化、抽象化は生活条件、人間関係等、社会構造などの条件によって、各々の社会で特殊な形で行われ、独自の文化を作り出した。
[2014]
感覚的理解は文化的基盤の上で直接与えられており、批判的訓練を経た者でないと客観的、論理的に理解することができない。普遍的感受性の才能もあるのだろうが、普通は訓練が必要である。表象の反映として理屈なしの異文化に対する嫌悪はありえる。だからといって異文化を排斥したり、否定したりすることを正当化できない。異文化の理解には、成長過程を過ごした文化を客観化しなくてはならない。反映であっても直接受け入れるのではなく、反省が必要である。
[2015]
【反映表象の特性】
反映表象は反映の過程を担うものであり、また反映の結果として残るものである。物理的存在、生物的存在とは異なる特性がある。
[2016]
反映表象は抽象化されているが、抽象的であると同時に具象的存在である。反映内容は抽象的であるが、存在形態は具体的である。反映表象は主体からの一方的、一面的関係で写し取られる。反映表象は主体によって対象化され、対象化されない諸性質は捨象されている。反映表象は五感それぞれの対象として抽象され、その統合として抽象されている。それでいて、主体と対象との相互作用過程という現実に、具体的に実現する。
[2017]
反映表象は表徴性、記録性、操作性を基本的特性として備えている。反映表象は対象そのものではなく、写し取られたものであるから写すことが可能である。反映表象は他の媒体に写す、複写することができる。反映表象は表現可能である。表現された反映表象は、対象の代替として、対象をい指し示す物である。表現された反映表象は物として操作可能である。操作可能な物を媒体として反映表象を複写できる。
[2018]
【反映表象の表徴性】
反映表象は反映内容を表徴する。反映対象を区別して現すことができる。具体的存在・運動から抽象の程度の異なる対象までを相互に区別し、表徴する。
[2019]
反映対象は主体との関係だけではなく、他の客体との多様な関係にある。その多様な関係を対象化して、表象することができる。一つひとつの反映表象は五感に媒介された一面であるが、それらの統合として対象は表象される。統合は一つのまとまりとしてだけではなく、多様な質それぞれとして統合され、異なる次元それぞれに統合される。物理、化学的性質をもつ対象として表象もされる。生物種、生物個体としても表象される。社会的存在、個人としても表象される。生き方人格としても表象される。どのような性質であっても、反映されさえすれば対象を表徴する。とうてい理解できないものとして反映されても、その対象を徴表するのが反映表象である。
[2020]
反映表象は実在性を評価される。実在性は個別対象の全体性である。個別対象の全体性とは個別対象が他と連関する多様な関係の整合性である。世界での連関に個別を規定される全てが実現されていることが実在性を表す。色形だけではなく触覚による質感や、匂い、音、物によっては味、これら全てが個別対象の規定に整合性があること、個別対象の他との相互作用に普遍的整合性があること、さらに個人的経験、エピソードとの整合性があることによって実在性が評価される。「赤い風船」は赤い色、表面のつや、丸い形、指でへこむ触感、・・・、だけではなく、空気やヘリウムが入っていること、針金やひもがつながっていること、時がたてばしなびてしまうこと、さらに「手を離したら飛んでいってしまった」「ゲームで腰掛けて割った」等の記憶を呼び覚ますものとして実在性が評価される。
[2020-2]
主観は感覚器官をとおして対象からの情報を受け取る。このことはビデオカメラをとおして対象を見ること同じ形である。感覚器官とビデオカメラが対応し、記憶とビデオテープが対応する。ビデオカメラを介して「生」で対象を見ることと、テープを再生して録画で見ることの異同が実在性を説明してくれる。客観的には別のものを見ている。主観的には同じものを見ている。同じ対象を見ている主観的過程であっても、客観的には別の対象を見ている。ビデオ信号によって媒介されているが、「生」の対象と、テープに録画された対象という別のものを見ている。客観的過程は2つの別の過程でありながら、主観にとっては区別できない過程である。主観にとって「生」の対象の実在性と、テープで再生された対象の実在性を区別することはできない。区別は主体として、カメラとテープを操作することによって明らかになる。記憶の生々しさ、実在感は感覚器官からの刺激と、記憶の想起による刺激が同じに再現されることにある。そして、記憶は視覚だけではなく、経験する感覚の統合として記録している。
[2020-3]
【反映表象の記録性】
反映表象は対象を反映のうちに記録する。反映対象と、反映表象の対応関係を保存する。反映表象として再現することで、反映対象を再現することができる。
[2021]
反映表象は対象を反映のうちに記録する主体の経験である。記録された反映表象は主体によって参照され、対象と比較される。記録された反映表象と対象との比較は、対象を普遍的に認識する基礎をなす。繰り返し反映される表象は対象の時間的普遍性を表す。どこの個別対象からも等しく反映される表象は、対象の空間的普遍性を表す。個別に現れる普遍性を表象する。反映表象を記憶し、記録することで、対象の普遍性を認識する。逆に個別対象の時間的、空間的普遍性があらゆる対象に表れることで時間自体、空間自体の普遍性が表象される。そのあらゆる対象の中心に自分自身の身体と意識がある。
[2022]
反映対象と反映対象の対応関係の表象は全体性を保存する。反映対象間の連関は全体として連なっている。その全体性を表象し、記録することによって個別対象の評価が可能になる。全体性の表象のうちに、個別反映表象の収まるべき位置が見える。
[2023]
【反映表象の操作性】
反映過程を「対象と主体の相互作用」と抽象してしまうが、実在として反映過程にも階層性がある。しかし、分類すらしきれない多様な過程の総体としてある。だからといって認知神経科学はあきらめたりはしていない。主体の内での情報処理過程は未だに明らかにされていないにもかかわらず、主観にとっては日常的、自明の過程である。あたりまえの知覚であるが、反映過程の複雑さ、精妙さは同時に限界と誤りの可能性を含んでいる。さらに主観にとっての簡明さは、主観を主体と対象との関係から隔絶してしまいがちである。
[2024]
複写される反映表象は操作可能である。反映表象は反映対象からは独立しており操作が可能である。反映表象間の組み合わせ、関連づけ、統合、抽象化が可能である。反映表象間の変換が可能である。反映表象を媒介する物性には影響されない。
[2025]
反映表象は対象そのものを反映はせず、その一面を写し取っている。その一面だけであるから、その一面を規定できれば置き換えが可能である。物にも信号にも置き換えることができる。物や信号への置き換えと、その逆の復元の手続きさえ定義できればよい。操作に適した媒体によって反映表象を置き換えて扱うことができる。したがって、反映表象は通信が可能で、個人間の情報交換を可能にしている。
[2026]
第2項 認識過程
反映過程を対象化し、反映表象を対象化するのが認識である。生物の反映過程は主体の生理的過程としてあるが、この生理的過程で反映された直接的表象から対象を個別表象として再構成するのが認識である。個別表象は認識される表象全体=世界感の中に関係づけられる。認識は反映過程の個別性をふまえ、普遍的に対象をとらえる。
[2027]
【対象と主体と主観】
主体と対象との関係は、対象間の関係とは別の特別な関係である。物理的、化学的、生理的相互作用としては特別ではないが、主体にとって対象化し、対象化することで自らの主体性を実現する過程として特別である。対象を客体間の関係ではなく、主体との関係に対象化する。
[2028]
認識の階層構造は対象と主体の区別すらない相互作用関係から、同化と異化の物質代謝過程、情報処理過程、そして意識にとって自他を絶対的に区別対立する対象と主観との相対関係までを含んだ相互作用としてある。そこでの認識と他の相互作用との本質的違いは、対象と主体の関係そのものを対象とすることである。
[2029]
反応過程の制御は身体・主体と個別対象間の相互作用の制御として方向づけられる。身体と個別対象との相互作用過程の主体による方向づけが目的として現れる。この方向づけ、目的化が主体内の反応過程の制御過程で個別対象の反映像を規定する。いわば主体の対象化の反作用を主体内で対象化することで、主体内に反映像を表象する。
[2030]
例えば、大脳皮質内の過程として、感覚器官から継起される感覚受容野の神経細胞網発火の連鎖反応を、いくつかの中間処理を経て、統合野の神経細胞網が伝達物質として受け取り反応するように。ただしそこには感覚受容野の神経細胞網から、統合野への神経細胞軸索の回路がすでにあり、反応が経験されており、意味づけがされていなくてはならない。神経細胞の回路網は遺伝子によって規定され、構造を実現する過程で取捨され、経験によって選択され、反応性が重みづけられ、意味づけられている。
[2031]
認識の対象化は感覚器官の受容細胞でも、感覚器官でも、大脳皮質の感覚受容野でも、統合野でもおこなわれ、階層化されている。その全体として主体の認識としての対象化が実現する。
[2032]
生理的反映過程とどのように対応しているかは明確にできないが、意識的、主観的にも区分される段階がある。段階に応じた認識表象の区分がある。感覚表象、知覚表象、観念表象の各段階である。感覚表象、知覚表象は実証可能な表象である。これに対し観念表象は主観での表象であって実証の対象にはならない。観念表象はそのものではなく、コトバその他で表現された結果に対して実証が可能になる。
[2033]
また観念表象の特殊な形態として概念表象がある。概念表象は観念表象間の関係形式を普遍化し、相互規定関係を論理関係として定義する。普遍的関係形式によって偶然性、個別性が排除された規定関係を実現する。論理関係によって定義しなおされた観念表象が概念表象である。ただし、概念表象も観念表象も主観であり、相互に明確に区別することはむずかしい。概念表象は論理的に表現された場合にだけ、観念表象一般から区別できる。
[2034]
「対象を認識する」問題は、対象と直接的相互作用できるかどうかではなく、対象との関係を対象化できるかの問題である。直接的相互作用過程にない対象も認識の対象にできる。
[2035]
主体にとって個別対象は感覚表象として与えられる。感覚表象は対象そのものではない。感覚対象は客体である個別対象から直接に、あるいは媒介されて主体の感覚器官が刺激されることで表れる。感覚表象は感覚器官で変換され、加工されている。感覚器官での感覚対象からの刺激を受けて、感覚神経細胞網発火の連鎖型が引き起こされる。
[2036]
対象からの作用を受けただけでは認識は成り立たない。対象からの作用を受けて表象が形成されただけでは、どのように反応すべきかは明らかにならない。それ以前に表象そのものが形成されない、意識されない場合の方が圧倒的に多い。生理的反射の場合はすでに特定の部位への特定の刺激に対する反応回路が形成されている。膝下の打撃に対する感覚神経、運動神経、骨格筋の反射回路は脚気の診断に利用される。反応をこれから選択しなくてはならない刺激に対しては、形成される表象がどのようなものであるかを判断しなくてはならない。身体に生じる反応として表象は実現する。その表象を意識が対象化する。対象からの作用によって形成される表象は対象そのものではない。
[2037]
身体に形成される反応は対象からの作用によって規定されるが、身体によって媒介されている。身体に媒介された表象であるから、記憶された表象と関連させることが、評価することができる。対象からの作用によって規定された表象を、記憶された表象と関連づけて認識する。記憶された表象の規定と関係づけて認識する。この関連づけ、関係づけの過程で既に対象の表象は固定化される。身体によって媒介される表象の記憶として固定化される。対象の表象は記憶された表象の規定との関係づけによって普遍化される。この普遍化した対象の表象を他の表象との相互規定関係を検証して概念を構成する。
[2038]
表象を普遍化して認識する能力が表象を対象に重ね合わせて検証する、同定する能力である。対象からの刺激によって形成された表象を普遍的にとらることで同定する。対象が何であるかの認識は、何であるかを説明する普遍的表象で指示する。通常普遍的表象であるコトバで指示、説明する。
[2039]
【主体の認識と主観の認識】
身体は客体である個別対象と相互作用する生理的過程にある。身体は生理的過程として、感覚器官、運動器官、神経組織、中枢神経系とホルモン、自律神経系の体内調整機構によって調整されている。主体は身体外の客体を認識し、身体内の状態も客体として認識する。
[2040]
主体の認識はすべてが意識されるわけではない。主体の方向性によって選択される個別が対象化されて、意識される。主体の方向性は今対象にしなくてはならない個別に向く。主体の身体の維持が基本的方向である。最優先は危機の回避である。食事、労働、睡眠、訓練、学習、休息の優先順位は主体の状況によって変わる。過程それぞれにおける個別対象も経過に応じて選択される。
[2041]
主体の様々な相互作用過程のうち、主体全体として向かう個別を対象化する。主体は主体全体の方向性として対象を意識する。個別を対象化することで意識し、対象化することが意識の実現である。意識は主観の客観的有り様である。主観はあくまで対象化するものである。意識は対象化する主観を個別対象として言い表すのである。しかし、主観は主観にとって主観ではない対象にはできない。
[2042]
「主観」には神経生理学上の意味はない。「主観」は昔からの哲学用語である。しかし、感覚表象は大脳皮質で主観として対象化される。神経生理学的に大脳皮質の各感覚領野での神経細胞網発火の連鎖型が制御のための統合領野によって対象化される。感覚領野の活動は制御の領野へつながる神経細胞のシナプスからの神経伝達物質を放出する。放出された神経伝達物質は制御の領野の神経細胞によって取り込まれる。制御の領野は感覚領野からの神経細胞の放出する神経伝達物質を、感覚領野の活動結果として対象化する。この過程は感覚領野と制御の領野の特殊な関係ではなく、すべての神経細胞間の一般的な関係である。神経細胞間の一般的な作用関係が神経細胞網として組織されることで、制御のための信号入力としての「意味」を付加する。感覚領野と制御の領野そして運動を発動する運動領野を経て運動神経系への神経網ができあがっていることで、信号入力に意味が付加される。一般的な神経細胞間の刺激の伝達が、神経細胞網組織に位置づけられて特定の意味を表す。この意味を対象にするのが主観である。
[2043]
感覚表象は特定の大脳皮質感覚領野の神経細胞網発火の連鎖型として反映される。脳神経細胞網発火の連鎖型を統合領野は感覚表象として対象化する。客観としての対象ではない、主観的表象である。感覚表象として反映された主観が、主観によって対象化される。矛盾である。反映の実現としての主観が、その主観によって対象化される。主観は対象化するものとして、自らをも対象化するのである。主観は物としての存在ではなく、反映表象の「対象化」として存在するからである。
[2044]
主観はすべてを対象化する。すべての存在を対象化し、区別し、評価するのが主観である。逆に主観は何かを対象化していなくては消滅する。主観は主体の対象を対象化し、主体を対象化し、主体への反映を対象化する。
[2045]
主観は意識として主体の部分である。主観は客体を外部対象とし、主体を内部対象として関係する。主観は対象化することで、主体から主観を区別する。主観は外部対象を実践対象として、内部対象と区別する。主観は内部対象を媒介にして外部対象と相互作用する。
[2046]
主観に対して外部対象と、内部対象である身体は客観的であり、客体である。主観は客体との区別される対立関係にある。区別するのは主観である。
[2047]
【感覚表象】
客体としての対象は直接的・即自的存在である。客体は主体によって被対象化されることによって、感覚表象として主体に反映される。感覚表象は客体と主体との相互関係によって規定されている。客体間の相互規定として、主体の感覚器官の特性によって規定される。感覚表象は主体による対象化によって、対象として表象される。客体間の相互規定によって区別されての被対象化と、主体による対象化とは重ならねばならないが。
[2048]
主観は対象を主体の内に取り込まれた感覚表象として受け取る。主観は外部対象を直接に操作対象にはできない。対象を操作する、対象と相互作用するのは主体である。主体の感覚表象は対象の表象として主観に反映される。主観が操作するのはまず、主観として与えられた感覚表象である。
[2049]
主体の感覚器官、そしてその認識能力は普遍的ではなく、主体の普遍的方向性によって規定されている。主体の方向性は生物進化の過程で選択されてきている。それぞれの感覚器官が、主体の生活環境から主体の生活に関わる個別を対象化できるように進化してきた。人の視覚によって対象化されるのは電磁波のうち極限られた範囲の可視光である。視覚の制限は光だけではない、分解能も網膜の受光細胞の密度によって制限されているし、視野も制限されているだけでなく、見ているのは視野の中央の極一部である。しかし、両眼によって対象を立体的に見ることができる。聴覚も毎秒40回から2万回までの振動数の音しか聞こえない。嗅覚の違いはよく犬との比較が例にされように、個人を区別できるほどではない。特に臭覚は好き嫌いによって感じることすら拒否したくなる。何が優れているかではなく、主体の生活に適合していることが必要なのである。
[2050]
五感のうち触覚、味覚は身体との直接的相互作用に表れる。触覚、味覚以外は身体との直接的相互作用にはない。視覚は網膜に対象からの光の像を結ばせ複数の視覚細胞、明るさと色とは別の種類の視覚細胞でとらえる。聴覚は蝸牛器官の感覚細胞の位置によって音高別に振動をとらえる。臭覚は対象の発する分子を感覚細胞の繊毛がとらえる。感覚細胞は受けた刺激によって細胞膜内外の電位差を作り出す。単純に言えば電気的信号に変換して出力する。感覚器官で感覚細胞の出力は調整されて、大脳皮質のそれぞれの感覚野に伝わる。感覚野でパターン処理され、対象は感覚表象として反映される。感覚野でのパターン処理によって対象からの刺激が他と区別され、対象の変化、状態が徴表される。パターン処理は高度な情報処理過程である。脳でのパターン処理については認知科学が成果を上げているが、再現できるまでには至っていない。
[2051]
同じ神経系の仕組みによって、主体も対象化される。身体に張り巡らされた神経網は、主体の対象だけではなく、主体の物質的媒体である身体を対象化する。身体を調整するため、各器官、組織を対象として感覚表象に変換する。特に平衡感覚は主に耳にある三半規管によって表象される。それぞれの器官が不調になれば不快感として表れ、具合が悪くなれば苦痛となって表れる。
[2052]
人が他の動物の次元を超えた感覚を利用できるのは、道具によってである。味覚、臭覚はまだ開発途上であっても、電磁波も、音波も全帯域を対象化できる。対象の技術的分解能も原子レベルに達し操作も可能になっている。遠くのものは理論的限界である137億光年の彼方に迫りつつある。技術的、社会的認識能力として人は認識能力を高めてきている。
[2053]
主観は対象からの反映表象を操作対象にする。感覚表象は加工された反映表象である。主観の対象とする反映表象は外部対象の直接性をもたない。主観に反映された反映表象は光でも、振動でも、分子でもない。主観に反映された反映表象は生理的には大脳皮質での脳神経細胞網発火の連鎖型である。それぞれの脳神経細胞網発火の連鎖型がどのような反映表象と対応しているかは明らかではないが、神経細胞の生理と神経細胞間の相互作用単位は明らかになっている。細胞間の相互作用の強化や抑制、神経細胞網の結合づくりの過程が当面の研究課題になってきている。こうした脳神経細胞網発火の連鎖過程として反映表象はまず感覚表象として対象化される。
[2054]
主観が対象とする感覚表象は主体によって加工されている。パターン処理され、個別対象としての表徴を抽出されている。視覚は図と地を区別し、特に記号は意味づけをともなって区別される。聴覚も雑音と対象とを区別しているし、一連の記憶として保存されなければ対象化することはできない。音は一連の変化を記憶することによって対象化する。文字であれば単語は一目で対象化できるが、発話では一連の発声が終わらなければ単語を理解できない。
[2055]
感覚表象は外部対象から知覚表象への反映過程で媒介される。この媒介過程が感覚である。感覚は一過性であり、感覚表象は保存されない。感覚表象は媒介されたものであり、保存されるのは再現を引き起こす連関機構である。この機構がどのようなものであるかは明らかになっていないが、われわれは日常的に様々な表象を再現させている。感覚の再現性は外部対象からの刺激に対する反応の再現性である。外部対象から切り離されていても、記憶の再生や、夢として再現されるのは反応だけが再現されるのである。
[2056]
感覚表象は、対象から身体への刺激の直接的反映表象である。表象として主観であり、主観にとって与えられた表象である。感覚表象は対象を反映してはいるが、主観にとって主観の一部であり、対象からの規定は反映されていない。感覚表象は対象の規定性を反映していない。対象の規定性、対象からの規定は主観と対象との関係を対象化しなくてはとらえることはできない。感覚表象は身体への刺激によって継起される大脳皮質一次表象である。
[2057]
感覚表象は生理的反映過程としては感覚器官における刺激に対する感覚神経の発火から、大脳皮質一次感覚野での解析過程にある。しかし主観にとってこれら総過程は記憶、保存されない。神経細胞網は保存されているが、神経細胞発火の過程は終わってしまう。神経細胞網発火として表れる感覚表象は記憶されず、消えてしまう。感覚表象は繰り返し再現されるが、保存はされない。
[2058]
【知覚表象】
外部対象は感覚表象に媒介されて知覚表象になる。感覚表象は主観のうちに反映され、操作される知覚表象として対象化される。主観は感覚表象を対象の反映表象として評価する。感覚表象は対象と関係づけられることによって知覚表象として対象化される。感覚表象は保存されないが、対象と関係づけられた反映表象である知覚表象は対象として記憶され、保存される。主観によって知覚表象は他のもろもろの知覚表象と関係づけられる。主観はもろもろの知覚表象の要素、包含関係を体系化する。知覚表象は関連づけられ、意識化された感覚表象である。
[2059]
感覚表象は一次感覚野での神経細胞網発火の連鎖型として実現するが、この発火過程が中間処理を経て統合野での発火の連鎖型を継起する。この統合野での神経細胞網発火の連鎖型が主観にとっては感覚表象の対象化であり、知覚表象の実現である。つまり知覚表象は感覚表象を元に、経験をとおして構成する表象である。一次視覚野が脳の後ろにあるのに、前方に視野が開けるのは身体経験をとおして構成しているからである。鏡像を見て図形をなぞってみればはじめはうまくいかないがなれるにしたがって容易になぞることができるようになる。上下を反転させる眼鏡を使用しての実験では、数日で視覚が順応するとのことである。特別のことでなく、今ではランダム・ドット・ステレオグラムによる立体視の作品が多数販売されている。これなども相関する点からの対象図形の構成という、知覚の表象構成を実体験できる例である。
[2060]
知覚表象は他の知覚表象との連関のうちに評価され、区別される。感覚表象を対象化し、区別し、関連づけるのは知覚である。主観は感覚表象を区別し、関連づける知覚能力を獲得した。知覚能力は人間の知性である。区別し、関連づけることは思考の本質である。感覚は主体の生理的反応能力として獲得され、知覚は主体の対象化能力として獲得された。知覚は対象の区別と関連を対象とし、それは対象の個別性を対象とする。
[2061]
感覚表象と知覚表象を区別しない見解もある。しかし、知覚表象は反省を伴っていて、意味による規定がある。絵を見るのは感覚表象であるが、描かれている物を見るのは知覚表象である。遠近法も知覚表象が感覚表象から独立しているから成り立つ。知覚表象が感覚表象から独立しているから、絵画、演劇、アニメーション、騙し絵を見て楽しむ事ができる。音楽を騒音としてではなく、楽しむ事ができる。
[2062]
知覚表象は楽しむだけではなく、感覚表象を評価する。机に二本の脚しか見えていなくても、見えない脚を想定している。
[2063]
感覚表象が反映され、知覚表象として対象化されることが主観にとって「有る」、存在することである。知覚表象として対象化される存在が知覚対象である。知覚対象間の相互関係のうちに関連づけられる対象の存在を認める。知覚表象は主観への反映であり、主観であるが、知覚対象は主観の対象である。対象化される知覚表象が、感覚対象として反映されない場合が「無し」、存在しないことである。「有る」「無し」は主観にとっての問題である。客体としては全体のうちに区別されているか、相互作用を実現しているかどうかでしかない。客体としての存在は、相互に区別し連関していることである。これを主観は知覚対象として、感覚表象に見いだすことで認識する。知覚対象の存在は主観にとっての存在でる。客体としての存在は主観に関わりなく存在する。知覚対象は主観によって対象化され、感覚表象としての反映と重なることによって存在を認識され、重ならなければ存在しない。
[2064]
重ねる時に隠れて欠けた感覚表象は補わなければならない。重ねる場合に変換が必要になる場合もある。変換は対象内の相互関係を変えずに他との関係を変える。位置の移動、回転は対象を保存したまま、対象の他との関係を変える。平面での変換は容易であっても立体空間での変換には訓練が必要である。立体空間での平面の変換、立体の変換。さらに多次元空間での変換もある。
[2065]
主観の操作によって、知覚によって、知覚対象は知覚対象間の相互関係のうちに関連づけられる。主観の操作によって、知覚によって、知覚対象は他と区別されて「存在」する。知覚対象として「有る」「無し」が問題になる。他と区別され関係が対象化されて数が数えられ、量が量られる。知覚表象は感覚表象とを一つの個別対象の反映として対象化する。感覚表象は一つの個別の反映として対象化されて知覚表象との1対1対応の関係にはまる。知覚対象は個別的である。
[2066]
【観念表象】
知覚表象を対象化し、評価すたものが観念表象である。知覚表象は直接的に感覚表象によって規定されている。知覚表象間に位置づけられ、評価された、反省された知覚表象は観念表象である。感覚表象、知覚表象、概念表象も観念であるが、それら個々の表象の反省され、記憶される表象が観念表象である。
[2067]
知覚表象が対象を豊かに実在的に反映しているのに対し、観念表象は他の知覚表象との連関、区別として徴表的な表象である。連関と区別という操作によって徴表化=シンボル化される。徴表化されるから区別されて連関を構成する。連関可能であり、区別可能であるから操作することができる。感覚表象は追うことしかできず、表れるのを待つしかない。
[2068]
観念表象は他と区別され記憶として保存され、操作される。記憶として保存される観念表象は、知覚表象との1対1対応であった対応性が失われる。1対1対応が崩れ、多数の知覚表象の共通の対象性を観念表象として抽象する。観念表象として抽象する共通の対象性が普遍性である。共通性を抽象するのであって、他と区別される性質の抽象である。他と区別される共通性として観念表象の普遍性が認識される。他と区別される個別性でありながらも個別対象間に共通する普遍性である。
[2069]
観念表象は知覚表象と直接的に対応した関係を基礎にしている。さらに、観念は外部対象の関連も対象化する。観念は知覚表象間の直接的関連にとどまらず、外部対象間の間接的関係も対象化する。間接的関係の対象化は関係の関係も対象化可能にする。
[2070]
観念は知覚表象間の区別と同時に関連も対象化して、観念表象を組織化する。継続性、連続性等の時空間関係は知覚自体のもつ形式ではなく、知覚等の反映過程を通して獲得された、観念表象の普遍的属性である。連続、継続、繰返し、再現は記憶されなければ性質を認識できない。主観のうちに記憶された知覚表象と次々と生起する感覚表象の関係に連続、継続、繰返し、再現は認識される。次々と変化する感覚表象に対し、記憶された知覚表象が不変のまま重なることによって連続、継続、繰返し、再現は認識される。連続、継続、繰返し、再現として対象の普遍性を認識する。対象の普遍的性質として時空間が認識され、その中に個別対象が位置づけられる。
[2071]
直線は普遍的形であり、他の規定性をもたない。直線の両端は無限の彼方にあり、感覚の対象にはなりえない。直線が他の直線と相互規定して線分となり、線分間の相互規定を固定することで多角形が知覚される。特定の多角形としての普遍性によって線分間の関係が規定される。同時に線分も有限の長さとして知覚される。
[2072]
主観の操作によって、対象間の関係の関係が比較される。他との関係で区分された集合間の関係が比較される。対象間の関係の関係が比較されて、包含関係が評価される。区別された集合間に共通部分、非共通部分が評価される。共通部分、非共通部分の比較から集合と補集合が評価され、また集合間の階層が評価される。集合関係と、集合の階層の追求によって、観念表象間の相互規定関係がより詳細になる。同時に観念表象における普遍性の階層も深まる。観念体系として主体の対象が反映される。
[2073]
普遍的観念表象からの演繹が可能になる。特定の普遍的関係での、普遍性と個別性の体系が演繹される。特定の関係での普遍性が公理である。いくつかの公理の組み合わせとして個別性が導出される。個別性が組み合わさってより豊かな個別が導出される。幾何学系のように、公理系が導き出される。あるいは特定の集合としての類に個別性としての種差が加えられて、種に区分される。区分された種にさらに種差が加えられて、さらに種が区分される。系統分類が演繹される。ただし、客体としての生物進化の過程では単に種の分化ではなく、多様な変異の内から選択されて、種が固定される。知覚操作と実在過程が一致する必然性はない。
[2074]
観念体系は感覚表象を対象化するだけで獲得することはできない。観念表象を操作し、比較し、評価しなくてはならない。比較し、評価することが観念の対象化である。さらに観念表象の関係も比較、評価することで対象化する。観念表象の操作には訓練が必要である。幾何学の公理系もユークリッドによって一夜にして完成されたわけではない。知覚表象を超える非ユークリッド幾何学は一つの観念体系が完成されることによって発見可能になった。今でもユークリッド幾何学の学習には、非ユークリッド幾何学の理解には訓練が必要である。観念体系は感覚対象としてどこかに存在するものではなく、観念の訓練によって獲得するものなのである。
[2075]
普遍的観念表象間の関係、観念表象の操作規則が論理である。論理は主体の対象である客体関係の客観性を反映した操作規則である。観念表象の操作が外部対象の運動と一致することによって操作規則は検証される。
[2076]
【認識表象と対象】
観念表象は規定された表象として抽象的である。主要でない規定は捨象されている。ところが現実の対象は多様に規定されており、環境条件によっても様々に有り様を変えている。多様な規定、環境条件による影響を受けている個別表象が認識表象である。認識表象は認識過程で客体対象と重ね合わされて検証される。
[2077]
知覚表象が主体の認識過程で受け取った表彰であるのに対し、認識表象は主観の理解として作り出した表象である。認識表象は認識過程で多面的である、変化する知覚表象に重ねられる。
[2078]
運動する客体としての対象と、反映表象との対応関係を維持するのが認識である。同時に対象の全体と観念系全体との対応関係の維持も認識である。客体を対象化し、相互作用に際し、主体としての作用方向が対象に向かうよう制御することが認識である。
[2079]
認識の対象は定義されきれていない要素の集合である。定義されていれば認識の必要はない。個別対象それぞれが定義され、確認できるとしても、それらの相互関係、主体との関係は変化し、定義のしようがない。定義されていない要素関係を他と区別し、区別することで集合としてくくることが認識である。集合としてのくくりが正しければ、認識対象と客体対象とは過不足なく重ねることができる。定義した要素関係を他と区別してくくることが概念化である。認識は普遍的であることによって完成する。すべてについて普遍的に認識を完成することはできなくとも、部分的には完成させている。普遍的認識は対象が変化しても、条件が変わっても、視点が変わっても、対象についての認識表象と客体対象とを過不足なく重ね合わせられることである。
[2080]
客体対象の定義されていない要素を概念化することで認識は深まる。客体対象の運動を、対応する概念の他の概念との関係として対応づけることで認識は確かなものになる。認識の究極は、客体対象の全体と概念関係の全体との対応関係、多対多の対応関係を維持することである。現実の認識は客体対象との相互作用としての主体的実践である。
[2081]
第3項 観念一般
普通、観念にも二つの意味がある。対象の個別反映像の意味と、認識過程総体の意味である。
[2082]
【観念:諸表象】
感覚表象は感覚器官での刺激によって身体に生じる反応の表象であり、主観にとっては受動的に与えられる表象である。主観にとって身体の主体性は客体間の方向性に過ぎない。感覚表象によって知覚表象は構成される。知覚表象は個別的、具体的で物事の表象である。知覚表象は作業記憶に表象されるが、長期的には潜在記憶である。感覚表象または観念表象によって知覚表象は想起される。観念表象は知覚表象間の普遍性を抽象するものであると同時に、顕在的に記憶される表象である。観念表象は意味記憶の徴表である。観念表象が他との、全体との関係形式で定義されたのが概念である。観念表象は主観によって操作される対象である。
[2083]
感覚表象−知覚表象−観念表象として主観によって対象化される外部対象の反映表象が観念である。観念は概念を含むが、概念のように定義されていない表象も含む。観念は主観の対象となる有象無象である。観念は感覚表象を対象化して、知覚表象をえ、知覚表象を対象化して概念を定義する。観念の対象化は感覚表象の偶然性、個別性を徴表し、知覚表象の個別性を抽象して観念を表象する。同時に観念自体の普遍性も抽象する。
[2084]
観念は認識の外部過程によって主体に反映された主観である。主観は観念としての反映であると同時に、自らを対象化し、観念を対象化する。反映された観念を対象化する観念が主観である。観念は観念でありながら、自らを対象化する観念として主観であり、主観の直接的対象である。主観は対象化するものであるが、観念は対象でもあり、主観自体でもある。
[2085]
主観にとって主体の対象である客体は外部対象である。身体も客体であるが主観にとっては内部対象である。
[2086]
【認識の内部過程としての観念】
観念表象は感覚−知覚−観念と相互に転化して運動する。観念表象の運動の総過程が観念である。認識の内部過程では感覚、知覚、観念の対象は観念表象としてある。主体は外部対象である客体を対象にするが、主観である観念は観念自らを対象にする。観念は客体を反映したものであるが、客体を対象にしていない。観念である主観が対象化できるのは観念である。観念を対象化する観念として主観があり、観念は観念のうちに孤立している。
[2087]
観念は証明のしようもない。観念は知覚表象によって契機され、知覚表象の反省として形を表す。観念は主観にとって与えられる。主観は観念を対象化し、観念の連なりをたどり、観念の相関を操作する。相関する観念の全体として世界感を構成する。
[2088]
したがって観念は独我論を許してしまう。観念は観念でない客体である物自体を認識できないと言う。観念としての世界はどのようにでも解釈できる。観念を価値基準にしてしまえば、何でも可能になる。
[2089]
観念は主観によって対象化され、客体に重ね合わされなくてはならない。観念を実在につなぎ止めるのは主観にしかできない。
[2090]
【観念の変革性】
知覚表象は感覚表象によって直接的に規定され、構成される。観念表象は知覚表象によって規定されるが、知覚表象の普遍化、抽象化によって自立してしまう。観念表象は知覚表象間の関係のとらえ様によって多様である。観念を規定するのは観念間の相互規定でしかない。例えば多角形の観念表象は角の数、辺の長さそれぞれに多様である。観念の被規定性、自由度は、観念自体を混乱させるほどに自由である。観念の自由度は外部対象による規定から自由であり、正しさを保証しない。観念の自由度が認識の様々な誤りの原因になる。
[2091]
しかし、観念の自由度の重要性は新たな発見を受け入れることを可能にすることにある。さらに、現実を変革する方向を見いだすことを可能にすることにある。
[2092]
観念の自由度は客体である外部対象の規定性に対する自由である。何ものにも規定されない自由ではない。例えば多角形の角の数、辺の長さそれぞれに多様でありながら相互規定関係にある。客体の被規定性は反映するが、その組み合わせまでは規定されない。客体のいくつもの被規定性、その一つひとつの規定性を自由に組み合わせる。外部対象の一時的規定、部分的規定にとらわれることなく、外部対象をより全体的に、普遍的に表象できる。外部対象の運動の新たな発展を、既存の観念の関係の拡張として受け入れる柔軟性が観念の自由度によって保証されている。
[2093]
観念は現実を否定することができるから、理想を描くことができる。未現実の観念を実現することとして、現実の変革を方向づける。実現できる観念は荒唐無稽ではなく、客体の被規定性を反映して構想され、外部対象の被規定性に重ねることができる観念である。
[2094]
第3節 主観的認識の限界
認識するものにかかわりなく、世界の存在は客体として対称である。物理的構造、生物の自己組織化にはとても対称性を認めることはできないが、主体による対象化という方向に対しては対称である。人が自然を変革の対象とし、認識の対象とし、主体として現れることで人にとっての対称性は破られた。物理的に対称性の破れは自発的に実現するが、これとは別の意味で人が主体として自己実現する過程で人にとって対称性が破れる。主体である人にとって破れるのであって、その対象である客体間に対称性は保存されている。対象化する主体である人は、自らをも対象化し、自らを非客体化する。自らを対象化することで、観念として客体とは決定的に非対称な、客体とは交流できない主観の世界に閉じ籠もる。客体であれば、あるがままですむ。対象化する主体であるからには、自らをも対象化し、自らを問う。
[3001]
認識は改めて存在を対象化する。存在はもともと相互作用、相互規定、相互対象化である。主体は対象化により、相互の対称性を破る。対称性が破れ、相転移する。対称性の二項対立ではなく、構造が表出、実現する。物理的構造では全体は相対的であり要素を定義することにより、集合が定義される。部分を組み合わせて全体が構造化される。ところが対象化の構造では、要素と集合、部分と全体が相互依存、相互規定の関係になる。対象化の構造は連関をひねり、自己再帰する。部分は全体が整っていなくては部分でありえず、全体は部分の一部でも欠けてはありえない。有機的構造とよばれる構造である。自己組織化するもののもつ構造である。認識以前にもこの対象化構造は生物によって実現している。認識はこの対象化構造を改めて対象化するのである。
[3002]
第1項 認識の可能性と限界
【形式的可能性と限界】
存在は相互連関していることであり、対象と認識主体が関連しているならば、形式的にはすべて認識可能である。形式的可能性としては存在の相互関連が問題になるのであって、個別対象のありようではない。逆に不可能性は解釈の方にある。
[3004]
関係形式は存在秩序である。必然的過程であれ、偶然の過程であれ、歴史的に作られた存在秩序は普遍的である。存在秩序はいくつかの可能性のうちから歴史的に決定され、階層構造をなしてきている。普遍的秩序であっても、歴史的に排除されてしまった秩序がある。初期地球の還元性大気のように。階層によって成り立たなくなった秩序がある。細胞に取り込まれた水は流れ出さない。人体の70%は水であり、海や雨の水とは違った秩序に組み込まれている。普遍性は歴史的、構造的に規定された秩序である。偶然に作られた秩序の普遍性は空間的に限定された、相対的な普遍性である。歴史的、構造的規定を無視して、普遍性だけを形式的に敷衍して存在を追求しても認識できようがない。形式的可能性はあっても、歴史的過程で成立した秩序に反するものは存在せず、したがって認識できない。
[3005]
たとえば物質と反物質の対称性は破れた。物理化学的には対称である2種類のアミノ酸構造のうち一方だけが地上生物のタンパク質を構成する。これら秩序を否定する存在、反物質の星や、D型のアミノ酸による地上生物などは存在しない。
[3006]
まして、普遍的秩序を否定する存在は空想でしかなく、存在を認識しようがない。認識の問題としては単純な秩序の否定であるのか、歴史的・構造的規定を否定しているのか、環境条件によって隠されてしまっているかの違いを明らかにすることになる。対象の認識ではなく、対象を規定する環境条件を認識する、歴史的・構造的規定を認識することが対象を認識することにとってかわる。
[3007]
対象が認識できてしまえば形式的可能性など問題にならない。認識できていない段階での認識可能性が形式的可能性の問題である。対象の存在可能性ではなく、認識自体の環境条件、対象の環境条件の認識である。対象を実現する相互関連の歴史的規定、構造的規定の認識である。
[3008]
【物理的可能性と限界】
空に見上げる太陽は数分前の太陽の光である。夜空の恒星は何万年から昔の状態を見せている。 光の波長より小さなものを光で照らして見ることはできない。物理現象は物理法則によって物理的認識を制限している。
[3009]
物理的認識の主要な問題は「観測問題」である。「観測問題」は対象に対する観測手段による干渉、擾乱が問題になるのではない。「干渉」、「擾乱」は観測という人の意志を介するからであって、一般的には相互作用そのものである。干渉、擾乱は観測問題に関わりはない。
[3010]
「観測問題」は認識の問題、解釈の問題である。観測でデータを得ることは一般的相互作用の過程である。対象との相互作用過程で対象からの作用を反映する変化を記録することである。霧箱実験の場合に、電荷の変化によって過飽和の蒸気を凝固させること、凝固の形跡を写真に撮ること、写真の飛跡の曲率を測定すること、測定結果を統計処理すること、いずれもデータを得ることである。どれか一つが観測ではなく、一連の過程が観測である。
[3011]
観測によって得られたデータを対象の既知の法則から導かれる予測データと比較し、相互評価する。これが解釈である。新規のデータと既知のデータとを比較して一致すれば既知の法則が検証されたことになる。一致しなければ観測に問題があったか、既知の法則に、あるいは予測データの導出に誤りがあったかを相互に評価する。一致しなかった場合はいずれも対象の問題ではなく評価の、解釈の問題になる。
[3012]
また、「知ること」と「情報をえる」こととは違う。「知ること」には新たなデータを得ることと、既知の法則を検証することの二面がある。既知の法則によって直接観測できない対象について「知ること」ができる。直接の観測によって「情報をえる」ことができる。直接観測できない対象について「知ること」は「情報をえる」ことではない。直接観測できない対象から「情報をえ」てはいない。直接ではないのだから、情報は伝わらない。情報は直接でなければ媒介されなくては伝わらない。直接観測できない対象とは直接でも、媒介されてもいない。
[3013]
このようなことを専門家に相談せず断言しても良いのだろうか。相談できる相手もいないし、いてもどう相談していいのか分からない。「観測問題」を認識も、解釈もできない。
[3014]
なくしてしまった物は認識できない。なくした物は消滅したわけではなく、見つければ認識できる。しかし見つけるまでは認識不可能であり、実質的に認識できない。見つける手段があるなら、今関連していなくとも手段を手に入れることで認識可能になる。物理的認識では対象の有り様、手段の開発・運用、主観の解釈のそれぞれに可能性と制限がある。
[3015]
【生理的可能性と限界】
狭義の主観による認識は感覚能力によって限界づけられている。感覚器官の物理的・生理的特性として、意識の指向性によって、脳の情報処理能力によって規定されている。
[3016]
感覚器官の物理的・生理的特性は物理・化学法則に従い、生物進化の過程でとりあえず最良のものが選択されてきたのだから致し方ない。視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚、いずれも限定された範囲の感覚である。限定された能力であっても、人は道具を使うことでこの限界を破り、補うことができる。
[3017]
問題は「感覚能力の制限」ではない。これら能力は訓練されなくてはならない。基本的能力は生後の生長過程で意識せずに訓練されてきた。保護者にはその訓練の環境を整える義務がある。基本的能力を超えて、研ぎ澄ますことも可能である。逆に生活習慣によって自ら能力を損なう可能性がある。生物の認知過程の巧妙さ、精緻さを学ぶにつけ、「感覚能力の限界」などと贅沢を言うことは許されない。
[3018]
認識に際しては感覚器官の特性を理解し、錯覚を意識して補正することである。
[3019]
意識の指向性によって認識は制限されている。制限することによって認識が可能になっている。意識は多くの生理的認識諸表象から主体にとって主要な対象に指向する。主要な対象の選択基準、方法は生理的にも決定されているが、経験によっても身につけてきている。知識としても学んできている。
[3020]
対象のなかの特定の個別対象に対する指向によっても認識は規定される。生理的認識ではなく、主観的認識による規定である。問題意識のあるなしによって生理的活性にも影響する。
[3021]
脳の情報処理能力はコンピュータの処理能力と比較される。コンピュータの記憶は量的に人を遙かにしのぎ、加工しなければ変化しない。人の記憶は想起するたびに評価され、付加されて変化する可能性があり、想起されなくなると思い出せなくなる。コンピュータの演算速度はとどまることなく向上し、データを表す電子の速度は秒速約30万kmである。人の神経細胞の伝達速度は速くて秒速約100mでしかない。コンピュータは処理手続きを規定するプログラムによって動くが、脳は感覚器官からの刺激と記憶の連想によって働く。しかし、人は探査や規準を定めながらの分類などコンピュータで実現できていない能力をもつ。人はコンピュータをそしてネットワークを利用することによって情報処理能力を飛躍的に高めることができる。コンピュータとネットワークは人と人との知的交流も媒介する。
[3022]
【技術的可能性と限界】
観測技術は人類の歴史と共に発展してきたが、到達点での制限は当然にある。認識技術の問題は技術そのものではなく利用にある。
[3023]
観測は相互作用を組合せておこなう。相互作用であるから直接の観測は対象に干渉し、擾乱を生じる。干渉、擾乱を避けるには対象の他との相互作用結果によって間接的に観測する。対象と光との相互作用を利用して対象を見ることができる。しかし対象が光と相互作用した結果を見ることはできない。光との相互作用が対象を大きく変化させる量子の大きさでは光で見ることは意味をなさない。
[3024]
観測には必ず誤差が伴う。逆に誤差を無視できる精度の観測手段が選択される。誤差を無視できるかどうかは対象の規定をどこまで求めるかによる。長さを測るのに様々な規準があるが、海岸線の長さを測るには海岸線の定義とスケールが定まっていなくてはならない。許容できる誤差と誤差を小さくするための費用によって認識の可能性が決まる。さらに費用だけではなく、結果を得るまでの許される時間によっても制限される。
[3025]
知覚表象あるいはデータを得ることができても、対象を認識できたことにはならない。認識は他との関係を明らかにすることである。膨大なデータ、あるいは逆に貧小なデータからは統計処理によって対象の性質を抽象する。さらに統計処理では差異、区別が統計的に有意であるかも計算される。数値データから特徴を把握するために可視化する技術が利用される。
[3026]
【論理的可能性と限界】
論理は対象の範囲内で個別対象間の関係が不変な形式に定まっている関連を表す。関係形式は複数ありえるが関係形式間の関係も定まっていなくてはならない。関係が定まっているからこそ、関係をたどることができればすべてを明らかにすることができる。逆に定められた範囲を超えては何も明らかにすることはできない。関係を延長できるのか、関係形式を変化させれば適応できるかどうかは論理的には明らかにできない。
[3027]
論理的認識は論理的に定義されている関係であれば、すべてを明らかにしなくても全体も、部分も導き出すことができる。「線分の両端から、内側に向かって60度の角度で引かれた半直線は、基準となる線分と同じ長さのところで、他端からの線分と交わるか?」平面の上でなら交わる。これはすべての場合を確かめなくても真理である。ただし、空間が曲がっていないことが前提である。
[3028]
直線は実際に物理的に検証できなくとも、対象が直線であるかどうかを確かめることはできる。無限の彼方、限りなく小さな存在も論理的に認識できる。認識できたかどうかは無限の彼方で平行線がどうなるかによって、幾何学関係の全体が破綻しないことによって確かめられる。限りなく小さな存在も連続して並べることが可能で、連続した並びとして長さを表すことで確かめられる。
[3029]
関係形式の関係が変化する場合は形式論理ではなく、弁証法論理によらなくてはならない。ギリシャの昔から形式論理ではいくつものパラドックスが生じることが紹介されている。弁証法論理は関係形式の関係が変化することを前提にする論理を含む。世界は定義できていない全体であり、実在も圧倒的部分が定義できていない。定義しきれていない対象に対しては、定義できている部分を明らかにし、定義できている部分間の関係を求めていくことになる。まして対象は変化しない、固定してしまってはいない。運動している対象を論理的にとらえることは、認識の方法そのものである。論理関係形式自体を変化させて対象に重ね合わせる。論理関係形式の変化は論理を損なわないよう規定性を保存していなくてはならない。
[3030]
【現実的可能性と限界】
現実には、実践的認識可能性が重要な問題である。認識可能な現実的条件があるのか、認識する意志があるのか。
[3031]
認識可能な現実的条件とは、形式的、物質的、生理的、技術的、論理的認識可能性だけでなく、環境、手段を含めた条件である。情報・通信手段の発達した社会であっても、すべては明らかにならない。隠され、隠れている部分があるから利権が争われ、コネが求められる。社会的認識可能性は利害が絡まり、意識的に曇らされている。
[3032]
見ようとしなくては、見ることはできない。自らの経験と対象の相互評価によって認識する。ことに文化的対象の認識は認識能力を研ぎ澄ますことが必要になる。認識には訓練が必要であり、訓練をあきらめては認識能力が衰退する。訓練しなくとも満足できる対象は人の認識能力を衰退させる。百科事典を電子データ化して持ち歩けても、インターネットが使えても対象を認識しようとしない人にとっては何の参考にもならない。
[3033]
【検証】
感覚の対象は評価されなくてはならない。対象からの光は直進、屈折し、振動数等の変化を経ている。光は重力によって曲がるし、水面で屈折し、鏡に反射し、赤方変異の現象もある。日常経験を超える認識の場合、直進性の空間の歪みとの関係、媒質の性質と速度の関係等を評価しなくてはならない。錯視の可能性も評価しなくてはならない。認識は関係の関係の関係も評価し、全体の関係の整合性を評価しなくてはならない。さらには異なる次元の関係も評価しなくては、実在性の認識は確かなものにはならない。
[3034]
実験・観測による結果が真理とは限らない。実験過程で見落とされた条件によって、実験結果の評価によって結果は歪む。実験には対照実験がなくてはならない。薬の有効性実験では、被験者の思いこみによるプラシボ効果が留意される。繰り返すことによって、条件設定を変えることで対象を普遍的に認識できる。
[3035]
実験は追試されなくてはならない。実験は理論によって評価されなくてはならない。ニュースは複数のソースから確認されなくてはならない。誤解は解消されなくてはならない。関係間に矛盾があってはならない。
[3036]
第2項 観念世界
【観念と知覚表象】
感覚表象は知覚表象を媒介にして観念に反映される。感覚表象は他との関連から、主体によって捨象、抽象され、主観に反映される。主観によって対象化される知覚表象は他と知覚表象との関連に位置づけられ、表現されて観念になる。知覚対象としての連関は知覚対象間の関係の関係に意味を表す。意味は関係の関係に規定される。観念の意味は観念対象間の相互規定関係の再帰的規定として表れる。観念の意味はコトバによって与えられるのではなく、知覚表象を反映する観念対象間の相互規定関係にある。観念は知覚表象を評価して、外部対象と知覚表象の関係を規定的に方向づける。
[3037]
外部対象に対する主体の関係を介して、観念は知覚表象と関係する。観念は知覚表象の反映としてもたらされるが、知覚表象は観念によって評価される。知覚表象は観念によって反省の対象になる。観念との関係として知覚表象を評価する。観念のもつ全体性によって、錯覚が錯覚として認識される。知覚表象は主体の対象との相互作用過程にあって、直接的で、個別的である。観念は観念間の相互規定関係に位置づけられ、全体での評価をされている。その観念を知覚表象に重ね合わせることによって、直接的知覚には反映されない他との連関を想定することができる。知覚表象間の関係の構造を、主体的に認識する契機をえる。
[3038]
観念は知覚表象との相互規定の過程によって、観念間の関係を拡張し、全体化する。知覚表象は次々と変化するが、変化を全体の中に位置づけることで、全体に対する変化を評価する。部分間の相対的変化ではなく、変化をとおして全体の連関を対象化して、観念間の関係を知覚表象の及ばない限界を超えて拡張する。限界はまず知覚表象によって与えられる。知覚表象間の関係によって知覚表象の限界を超えて観念間の関係を拡張する。抽象的観念とは、知覚表象間の関係の関係である。無限は知覚表象としては対象化できないが、観念対象を操作することによって対象化できる。観念対象の操作結果は観念対象の関連によって表すことができる。「すべての集合の集合」「無限の濃度」などの論理的観念=概念だけではなく、知覚的表象としての個別的愛情表現を超えて、「普遍的愛」を実現してくれる人もいる。
[3039]
観念は知覚表象から普遍性を獲得し、感覚表象から豊かさを獲得する。
[3040]
【観念と外部対象】
知覚表象と観念の相互規定の過程によって、観念の体系は外部対象の体系を反映する。観念間の関係は外部対象との対応関係において世界の存在関係を反映する。観念間の関係規則・操作規則は、外部関係間の運動法則を反映する論理法則である。
[3041]
観念間の関係は記号間の関係として表現できる。観念は定義によって規定が確定していて記号との対応づけが可能である。観念は記号によって徴表され、観念間の関係は記号間の規定関係で表現される。記号表現されて外部対象として操作可能であり、記号間規則によって演算が可能である。すべてを記号体系として表現することはできないが、規定された範囲では演算によってシミュレーションが可能である。演算可能な範囲は観念が整合的に定義しきれる範囲である。
[3042]
観念は記号として操作可能であり、保存が可能であり、翻訳が可能であり、主観間の流通が可能である。観念は客体として相互関係を再現できるから、主観間での共通理解が可能であり、共通理解を検証できる。客体として操作可能であるから、自然数の共通理解を確認でき、商取引の信用が保証される。
[3043]
観念の体系によって、外部対象の個々の運動が全体的に評価される。全体の運動の内に個々の運動が位置づけられる。主要な運動と瑣末な運動の区別、基本的関係と組合わせ条件的関係の区別として、外部対象を評価する。その相対評価が外部対象の価値評価である。評価される外部対象の相対位置体系が価値体系である。価値は外部対象の内にあるのではなく、観念による全体的評価として主観に現れる客観の反映である。
[3044]
評価は主観の問題である。しかし、客観性の否定としての主観性ではない。世界が、対象がどうであるかを主観が評価する。「実在はこうであろう」と主観が評価する。その評価は外部対象の法則性を反映している。そして法則性自体が反映された関係を表す。法則は外部対象のすべてを反映しきっていない。法則は制限された範囲内の外部対象の普遍性である。どの個別科学分野の法則も到達点での限界がある。限界内であるのだから外部対象の実在性評価と法則性の検証とは区別しなくてはならない。幾度もの、幾つもの法則性の検証を踏まえて外部対象は解釈され、評価される。解釈され評価されるものとして外部対象は主観にとって実在する。検証され、評価された法則に基づいて新たな観測がおこなわれる。法則によって観測対象を規定できるから新たな観測を行うのである。観測を行う者は対象の実在性に依存している。対象が法則に従って運動することを前提に観測を行う。観測の結果、前提とした法則を見直すこともある。必要な見直しによって認識は進歩、発展してきた。
[3045]
ただし、観念操作には訓練が必要である。運動についての観念を操作するには固定した、静止している関係を表現するのとは違った訓練が必要である。少しでも日常経験を超える分野であれば、そこでの論理を身につけ、コミュニケーションするには訓練が必要である。個別科学の成果を理解するにも訓練が必要である。ユークリッド幾何学も体系的な訓練が必要であるし、非ユークリッド幾何学の平行線を理解するにも当然に訓練が必要である。物理学の慣性質量と重力質量の等価性、量子の波動性と粒子の相補性などは訓練によってもなかなか理解できないけれども。論理的ではなくても観念を直接外部対象化する芸術の創作にも訓練が必要であるし、その鑑賞にも訓練が必要である。
[3046]
【記号と意味の認識】
記号も意味も孤立しては対象を表象することはできない。記号は記号系の中にあって対象間の関係を表す。赤色灯も道路などの信号機に組み込まれることによって「進入禁止」を表す。記号が意味を表すには対象の系と記号系との対応関係が規約化され、共通に理解されなくてはならない。対象の系と記号の系との対応関係として意味が表される。
[3047]
意味はより一般的に方向性の評価である。存在するものは他との相互作用のうちにあり、相互作用の過程は方向性を現す。相互作用過程の方向性に対し、相互に規定される存在も作用過程に対して方向性を現す。相互作用過程の方向性に対する相互規定される存在の方向性の相対関係がその存在の意味である。相互作用過程は単独ではなく、相互に連関し、階層をなし、構造をなし、全体を構成している。それぞれの相対的全体に対する方向性がその存在の意味である。したがって個別存在の直接的相互作用過程における意味もあるし、より普遍的な過程での意味もある。逆に意味を評価するには方向性を知る必要がある。人間のように複雑に発達した存在の方向性を見いだすことは難しい。「生き方」は人類誕生以来の課題である。社会の方向性などは利害が絡むから、なおさら難しいが、切実な課題である。その方向性を見いだすことこそ、世界観の課題である。
[3048]
逆に他との関係にあれば、意味の表れを乱す擾乱(雑音)や誤りの影響を排除できる。他との関係に規則性が保存さていることにより、欠落があっても埋めることができる。重複や冗長性も複数間の関係として意味の保存に役立つ。
[3049]
他との関係によって別の方向性をとることもある。相対的全体が異なることによって、属するそれぞれの存在の意味が異なる。社会によって、歴史的段階によって同じ行動様式が進歩的であったり、保守的であったりする。逆に、文脈に依存して表象する意味が認識される。どのように普遍的な体系での意味であっても、それぞれの存在は具体的・個別的に現れるのであり、相対的全体との関係が前提される。
[3050]
意味の一致度として、価値が認識される。全体の方向性と、個別の方向性の一致度が当該個別の価値の程度である。
[3051]
【観念の社会性】
まず、観念の物質的存在基礎である知的存在、人間が類的・社会的存在であり、類的・社会的存在であるから知的存在へと進化してきた。その知的存在への進化そして、知的活動の発展の過程で観念の系を発展させてきた。観念は社会的運動に物質的存在基礎をもつ。
[3052]
個体それぞれの経験表象をコトバで表現し、コトバを交換、共有して観念化してきた。対象間の関係をコトバで区別し、定義してきた。コトバによって対象を、対象間の関係を再構成してきた。表象の個別性、偶然性を社会的表現媒体であるコトバによって普遍化してきた。
[3053]
コトバはコトバによって説明され、説明はさらに注釈することが可能である。コトバによる観念の定義は定義し直されるごとに確定され、または拡張される。厳密にされ、再検証される。観念間の規定関係が試される。観念間の規定関係の全体の見通しを立てたのがアリストテレスであり、成り立つ完全性を証明したのが20世紀初めのゲーデルである。
[3054]
個人の経験の狭さ・偶然性をともなう知覚表象を、観念として交換、共有することによって普遍的定義に発展させてきた。さらに、個々には獲得できない知覚表象までも、観念として共有することができる。また、観念としての定義をえることによって、外部対象を明確に認識できる。より高度な認識方法・抽象的な外部対象をも社会的な観念の発展によって個々人が利用できるようになってきている。
[3055]
それでも観念は普遍的に定義し切れてはいない。観念は見方によって方向づけられている。見方は主体の社会的あり方によって方向づけられている。定義された概念であっても個別科学のそれぞれの専門分野内だけの普遍性である。日常生活で個人が使う観念はその個人の生活の範囲内で普遍性であるにすぎない。学者であっても日常生活で使用する観念はその個人的制約にある。個人の生活は社会の限られた部分であり、生活の範囲は利害関係によって隔てられ、偏っている。部分的で偏った生活の中で形成される観念が、その見方によって方向づけられ、偏るのは当然である。
[3056]
当然に偏る個人の見方、観念を普遍化するには、その社会性を明らかにすることによって可能になる。個人の偏りは社会的に普遍化しなくてはならない。社会的に、歴史的に普遍的な観念とその観念によって表象される全体、世界観として点検し合わなければならない。
[3057]
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