Japanese only

第一部 第三編 反映される一般的世界

第10章 人間の存在一般


索引   前章   次章



第10章 人間の存在一般

 これまでの「第二編 一般的、論理的世界」では世界が論理的にはどう再構成されるかをみた。その論理的世界での自分と、生きて生活している自分とを重ね合わせると、世界はどのように反映されるかをみる。「第一編 端緒」を論理的世界のうちに位置づけなおす。論理的世界が主観にはどのように反映されるのか。[0001]

 一般的世界の有り様の中に、世界を対象化する特異な存在としての「私」が現れる。一般的相互対象化の世界にあって、「私」は世界を一方的に対象化する。特異な「私」の世界の対象化である。[0002]

【世界の再構成】
 世界の存在は発展し、認識能力をもつようになった。そして、ヒトが自分自体を認識するまでになったとき、世界を再構成する。その「世界の再構成」を問題とする。再構成される世界は、反映された世界観である。全体としての世界自体が、自らを部分としての自らのうちに再構成する。全体から区別される、他から区別する、部分としての運動の発展が、反映する運動自体を反映して、世界を反映、再構成する。[0003]

 他を対象化する、その対象化の関連を普遍化すれば、その普遍の連関に自らも対象化する。他を対象化することで自らをも対象化する関連構造は、他を対象化している単純な関連構造をひねらなくてはならない。自他を単に相対化するのではなく、自他の対称性を絶対的非対称性にするのであり、非対称の次元を超えなくてはならない。メビウスの環のように部分での表裏は絶対的な区別であるが、全体では表裏の区別はない。鏡に映った自分は向き合ってしまっており、前後または左右を反転させなくては、自分自身と重ね合わせることはできない。ひねった構造は構造の部分的連関では実現できず、構造全体のひねりとして実現される。部分が全体のひねられた構造を受け入れるには、全体を自らのうちに自らではない対象として、再構成しなくてはならない。論理が自らの正当性を証明することは、個々の論理関連をたどるだけでは不可能であり、論理を構成する全体の関連を示さなくてはならない。[0004]
 再構成される世界観も世界そのものの一部であるが、世界そのものではなくなっている。再構成される世界は世界でありながら、世界そのものではなくなっている。全体と部分は重なり合わない。世界は全体であり、再構成される世界は部分、個人によって担われる観念である。どちらからでも他方を説明できねば、一つの世界を説明する一つの世界観にはなりえない。[0005]

 「個人の世界観は個人の経験によって獲得されてきたものであり、だから同じ問いに対して人それぞれに違う答えが出される。だから理解し合わなければならない。」と主張する脳科学者もいる。個別性だけの主張は誤りである。人間は親から生まれ、乳を飲み、離乳し、母語を獲得し、教育を受け、仕事をし、ケガをし、病気になるという普遍的な経験を経ている。生活地域に共通の普遍性もある。同時代性もある。個々の経験は違ってもそれ以上に普遍的な経験がある。普遍的な経験がなければ共通理解など成り立たない。人によって答えが違うが、答えの基礎に普遍性があるから個別的違いが明らかになる。普遍性がなければ答えであることすらわからない。今日の都市生活で自然の普遍的な経験を経ていない子供は、社会生活に支障をきたしてしまう。[0006]

 人間は個々の個人として生活し、生活の中で自分と世界を理解する。個人の世界理解は個別的世界感であり、普遍的世界観ではない。個人が普遍的世界観を構成するには、社会的に蓄積された世界理解の知識を学び、全体の視点から反省しなくてはならない。さらに人類として世界の部分であり、個人として人類社会の一員であることによって可能になる。[0007]

 人は養育されなくては生きれない。人は養育されなければコトバなどの表現手段も獲得できない。表現手段なくして対象を、自らを表現し、再構成することはできない。その表現手段自体が社会関係の中で発展され、普遍化されてきた。表現の内容も蓄積され、内容もより普遍的に発展してきている。社会的、歴史的により普遍的に発展してきた世界についての理解、その表現、その表現方法を継承し、人それぞれの生活において世界の反映を再構成し続けている。多数の、あるいはすべての個人を媒介として「世界を再構成」する超人が存在するわけではない。[0008]

【観念の存在】
 再構成された世界は単独の現実存在ではない。再構成された世界は観念であり、観念として普遍性を表現するが、観念そのものは普遍的存在ではない。観念は物質に媒介されて存在し、物質でもあるヒトに媒介されて運動する。個々の人間によって個別の観念が実現される。個々の人間が対象として表象する一つひとつの観念が存在する。その個別の「観念」をまとめた集合観念も存在する。観念の集合としての観念一般は個々の人間による観念の一つとして存在する。さらに、個々の人間の「観念」の集合として、しかも単なる集合ではなく、他の人の観念と共通するコミュニケーションにおいて普遍化された観念が存在する。社会的に、歴史的に普遍化され、継承される観念が存在する。超人の観念ではなく、多くの人々に共有される観念である。[0009]

 普遍的に規定され、表現された「概念」だけが観念ではない。個別対象の表象としての個別観念も、普遍的表象も観念としてある。また普遍的観念であってもすべての人々に了解されるわけではない。普遍的観念を了解するには、抽象化の訓練が必要である。[0010]
 観念は物質を媒介して他の観念と関係する。観念を媒介する物質はヒトであり、人の感覚器官、神経系、中枢神経系である。人が環境と相互作用する生活過程で観念は媒介されている。[0011]
 観念は多様な存在、存在関係の個別性を捨象した反映表象であり、抽象的存在である。観念の普遍性は観念そのものではなく、世界の普遍性を反映することで普遍的でありえる。また、観念を媒介する人間の普遍性、思考の普遍性によって観念は普遍的でありえる。[0012]
 観念は現実を反映するが現実を変革しはしない。観念は観念を実現している物質的関係を、観念を担う人を方向づけることにより、現実を変革しうる。観念は人によって生み出され、人によって操作され、人の対象に重ね合わされ、その対象の変革として現実を変革しうる。[0013]

 ここで初めて世界の物質性が問題となる。それは観念を媒介するものとして、それは観念に対立するものとして、観念の外に実在するものとして。世界における「観念」の位置づけによって、その観念の対象としての「物質」が問題となる。観念以前の存在は実在である。実在のうちに観念が実現することによって、観念が「存在」を問題にすることによって、実在の「物質性」が問題になる。「観念」によって観念論と唯物論が問題として登場する。観念論と唯物論のどちらが正しいかは観念にとっての問題であって、実在の問題ではない。[0014]


第1節 産み落とされた存在 (即自)


第1項 自分の存在構造

 感覚の世界は極限られた世界であるが、その対象である実在世界は時間的にも、空間的にも豊かに広がっている。感覚世界をとおして実在世界を理解する。理解した観念世界が私のうちに、私の前面にある。感覚世界は実在世界と観念世界とのインターフェースである。感覚世界を介した実在世界の観念世界への反映過程では、感覚体験と一緒に言語体験、知的体験がある。言語体験は、私と同じに観念世界をもつ人々との共通経験を共有する交流である。知的体験は観念世界を共有する交流である。[1001]

【世界と自分自身】
 生きることは環境との相互作用を制御することで実現する。生物は環境との相互作用をよりよく制御する能力を獲得してきた。反映は環境との相互作用を対象化することで獲得された。反映は生きにくい環境を避け、生きやすい環境を求めて対応する過程で獲得された能力である。よりよく環境を反映できる能力を獲得してきたものが生き残ってきた。環境を反映する能力は認識・実践能力として、主体としての運動能力を発展させてきた。[1002]

 認識能力と実践能力が分化したのは、主体自体を対象化することによってである。主体と対象との相互作用を制御するには主体と対象との相互作用を対象化しなくてはならない。主体と対象との相互作用の対象化は、主体の対象化を含む。主体の対象化は主体でないもの、主体と対象とを対象化する主観を実現する。主観は主体と対象でもないものとして、自分自身を対象化する。主観である自分自身にとって主体とその対象、そして自分自身は与えられた存在である。[1003]
 与えられたものとしての自分自身は、他を対象化し、他との相互作用を制御することで主体としての自分を実現し続ける。他との相互作用を制御する主体を対象化して主観としての自分を実現し続ける。実現し続ける自分自身を規定しなくてはならない。自分自身を規定しなくては、他との相互作用の方向を定めることはできない。他ではないものとして、何であるかを規定しなくてはならない。[1004]
 与えられているのは他と、その他と相互作用する主体からなる世界である。そこでの自分は、世界の相互作用関係に対象と自分自身との相互関係を位置づけることによって明らかになる。世界の相互関係を、自分自身に対して明らかにしなくてはならない。世界を反映し、世界に働きかけるものとしての自分は、世界をどの様に把握できるのか。[1005]
 世界と自分の関係では、自分自身も世界の一部であり、世界存在の発展によって自分が作り出された。自分は世界の中の一部分でありながら、その内に世界全体を再構成し、内なる世界を発展させ、それを世界に実現しようとする。[1006]

【自分の出自】
 人は自分自身を意識する以前に自分である。人は自分の生きることを意識する以前に生きている。人は意識以前に生きている。人は意識以前の自分について、直接に検証できない。人は意識する以前の自分について、人が生まれ、育つのを見て、子育てを経験して自分の出自を類推する。[1007]
 他の人々は例外なく両親から生まれ、両親を含む大人に養育されなくては育たない。人々が生まれ育つ過程は普遍的である。大きさの違い、機能や障害の程度の違い、発育の違いはあって、個性的であっても普遍的な誕生、成長過程を経る。誰でも食事、睡眠、排泄、等普遍的な行為をする。ほめめられ、しかられ、嫉妬し、羨望する、等を程度、回数に違いはあっても経験する。違いは個別的なのである。[1008]
 他の人々が生まれ育つ過程以外の過程を経て自分が生まれ育った可能性を直接否定することはできない。普遍的な人の誕生、成長以外に自分の出自の可能性は想像できるだけである。例えば、「本当は自分など生きてはおらず、何らかの存在が夢見ているにすぎない。」と想像できる。そのような想像を、あるいは他のさまざまな想像を実際に信じてしまう人もいるらしい。自分の出自の勝手な想像も、その根拠は他の人の誕生と成長を含む物事の有り様から類推している。他の人々の誕生と成長過程と自分の出自の過程が一致する蓋然性は大きい。直接証明できなくとも、とりあえずこの状況においては、この与えられた状況を受け入れることしかできない。この状況が変わるまでは、この状況に依存することしか選択の余地はない。[1009]
 それでも、この与えられた状況を簡単に理解することはむずかしい。歴史的にも、多様な解釈があったし、現に多様な解釈があるから世界観の違いが問題になる。[1010]
 また、この状況で、知り得ること、検証できることは自分と他との関連以外にはない。自分と他との関連のありようが問題になるのである。[1011]

【客体の反映主体】
 一部の物理学者が何と言おうが主体、主観、観測者が存在しなくとも世界は確定するものとして存在する。相互作用が一つひとつの過程を確定している。実在世界が存在する。存在するものが実在であり、それ以外にはない。どのように存在するのが実在であるかが問題になる。[1012]
 実在は相互作用の連関として相互に区別し、区別の階層をつくりだし、互いのうちに構造をつくりだして発展してきた。実在は相互作用によって作用の客体を相互に区別する。[1013]
 客体間は対称な関係である。客体間の作用は相互作用であり、一方的な作用ではない。相互作用であるから相互に客体として区別する。客体間の相互作用の連関が実在の有り様である。[1014]
 その実在の客体間相互作用の発展が、客体のうちにさまざまな対象との相互作用に対応する反応過程を形成する。有効な反応過程を獲得した客体がよりよく残る。反応過程によって客体が相互に対象化される。形成された反応過程は反応器官・反応組織として客体のうちに構成される。[1015]
 客体を実現し、保存するには反応過程を組織化して発展させる。物質代謝、エネルギー代謝の相互作用過程を反応過程として組織化して生物が誕生した。自己組織化し、自己実現し、自己保存する生物が物質代謝、エネルギー代謝過程の主体を構成する。生物主体として他を対象化し、主体自体の運動の方向性を実現する。運動の方向性を実現することで他との関係での主体となる。一般的な客体間の関係に、自らの方向性を実現する主体として関係する。[1016]
 主体として他の対象化には、他との相互作用の対象化には自らの対象化を組み込んでいる。相互作用であるから一方のみを対象化することはできない。他と相互作用する自らを対象化し、制御することで相互作用を制御する。他の対象化、自らの対象化によって主体は対象を反映する。対象との直接的相互作用の過程によって継起される自らのうちの反応過程を対象化する。対象との直接的相互作用過程になくても、対象との関係を自らのうちに保存するようになる。[1017]
 自らのうちに保存する対象との関係を対象化したものが記憶である。対象との相互作用によって引き起こされる自らのうちの反応過程である。自らのうちの反応過程が対象化され、保存され、再現される。対象との直接的相互作用の過程になくとも、記憶として保存されている対象は普遍化されている。時と場合によって多様な相互作用をする対象を同一のものとして、普遍的存在として保存する。他と区別される個別として、同一な対象として保存する。[1018]
 対象化された記憶は他の対象の記憶と比較され関係づけられる。記憶としての対象の普遍性と個別性が対象間の関係を反映する。実在対象ではなく、記憶を対象として、記憶間の関係を対象として実在対象を反映する。[1019]
 普遍性と個別性として反映される個別対象間の関係が、対象世界の反映になる。[1020]

【自分の与えられ方】
 主体は他と客体として相互作用して実在する。主体は他との相互作用の過程で他を対象化し、自らを対象化する。主体は客体の対象化として、自らに主観を実現する。主体の対象を反映し、対象化する主観を実現する。主観は主体の対象を反映した客観を対象化する。さらに主観は自らも対象化し、主観を客観化する。主観の客観化は対象化としてあり、主観が主観でなくなることではない。主観は主観にとって常に主観である。主観は自らを対象化し、主体としての自らを対象化して操作することで、主体の対象との相互作用を操作する。[1021]
 主観は常に主観であることによって自らを保存する。主観は常に何かを対象化することによって主観である。主体を含む他と常に相互作用の過程にあることによって主観は存在する。常に他を対象化する主観が意識である。対象化できなくなった時に意識は失われる。[1022]
 主観による対象化の働きが意識である。主観の客観的表現が意識である。人々それぞれの主観が意識である。しかし私にとっての意識は特別なものであり、他の人々の意識とは絶対に異なる。他の人々の意識と私の意識は絶対に対称ではない。私の意識は私にとっては絶対であり、だから主観である。[1023]
 主観は私にとって絶対であるが、絶対は孤立、隔絶ではない。主観は他と直接相互作用することはできないが、主観自体の存立が主体自体の他との相互作用に媒介されている。その上他者の意識との交流=コミュニケーションに対象化の多くを依存し、費やしている。[1024]
 「主観」は「意識」「自意識」でもある。しかし、「意識」は客体的表現であるが、日常経験的には主体的であり、常に対象を反映しつづけながら、自らを対象化しても対象化しきれない特別な質を表現しきれない。「主観」は客体も主体も主観自らも対象化するが、対象化する対象によって自らの位置を変えてしまう。客体を対象化する時には主観は主体の位置にある。主体を対象化する時には主観は主観の位置にある。主観を対象化する時には主観ではない主観の位置、対象化の次元を超える位置にある。主観は主観自らを対象化することで、いわば自らの背後に後退し、その後退は無意味になるまで無限に後退しえる。自己言及の自己言及という再帰構造になる。「意識」ではこの対象化の構造を表現できない。[1025]

 主体による対象の反映は個別主体によってだけ実現するのではない。主体としての人間は類的存在、社会的存在であり、主体相互の連関の中で自らを形成している。生物的反映能力にとどまらず、社会的に対象を反映する。社会の対象を反映するだけでなく、社会的存在を対象化し、社会関係自体を対象化し、社会的手段で対象化している。[1026]
 人間主体の主な対象は社会的生産物であり、社会によって価値づけられている。観念に名づけるコトバもコミュニケーションを媒介する社会的実在である。人間主体の対象は言語によって名づけられ、言語を対象化し、操作することによって主観はあらゆる対象を操作する。[1027]


第2項 対象化

 対象化こそ主観、主体の本質である。[1028]
 認識、実践の過程であり、次章 認識の結論である。生物学、生理学等によって認知過程として明らかにされるが、日常に経験される過程として整理する。[1029]

【対象化するもの:主観】
 主観は常に対象化するものである。主観だけでは主観でありえない。主観は常に他を対象化し、自らをも対象化して、主観でありつづける。主観は主観以外にはすなわち対象にはなりえない。[1030]
 対象化は他と連関することの上にある。客体である他と連関することで、他を対象化する。客体である他との連関の上で対象を捨象、抽象し、客体のうちに個別客体を、個別対象を区別する。[1031]

 また、対象化は自らの外化である。自らの感じを対象化し、客体である対象に重ねて同定する。自らに与えられた感じ、表象を他の表象と区別し、関連づけて客体である個別対象に重ねる。[1032]
 主観に反映された表象を対象化したものが観念である。客体の表象として反映されたものを、既得の表象と比較、関連づけ、区別し対象化したものが観念である。反映された対象を観念として対象化、表象化しつづけて、思考する。言語で表現して反芻する。言語で表現することで、観念を社会的、客観的コミュニケーションの場に対象化して客観化する。自らの観念を客体化して提示する。[1033]
 観念を客体化するには、主体によって発話し、あるいは書き記さなくてはならない。主観は自らに対しても、観念を言語で表現することで客観化する。主体として発話しなくとも、言語での表現は客観化である。その客観化が対象である客体とどれほどに重なり合い、整合するかは客観化の手段の問題ではなく、主観の反映の問題である。あるいは主観の言語の対象化の問題である。[1034]
 さらに、主観は自らを言語で表現することによって、客観的コミュニケーションの場に自らを対象化して客観化する。コトバを発することも、文字、記号を書くことも主体による主観の対象化である。[1035]
 主観にもたらされる観念は主観が主観自体を対象化する以前にもたらされている。主体が主体となる前からの主体の成長過程で、観念はもたらされる。観念の獲得、評価、操作、保存は主体によって媒介されている。その方法も、主体によって獲得され、訓練される。[1036]

 主観は主体を対象化し、対象化した主体を介して客体を対象化する。[1037]
 主体の対象は観念として主観に反映される。主体も主体の対象も実在であるが、主観に対しては観念として反映される。主観に対して主体は実在として、同時に私である観念として対象化される。主観は主体を介して実在と連関する。主観は主体に媒介されることによって実在に働きかけることができるのであって、主体の媒介なしに主観は実在を直接対象化することもできない。主体に媒介されることなく、主観は思考することもできない。主観のひらめきですら主体の経験と知識の蓄積に依存している。[1039]

【主観の対象】
 主観の直接的対象は主体によって反映された観念である。観念のみが主観の対象であり、主観自体が観念である。主観にとって対象全体は一つの世界感である。主体の対象である客体、主観の対象としての主体、主観の反省として対象化する主観、この3つが主観の対象である。この全体が主観の対象としてある。主体の対象である客体も、主観には観念として反映される。自らの感覚として主体も、主観には観念として反映される。そして主観自体観念である。すべては観念として主観にとって一つの全体世界である。[1040]
 主観は主体を直接働きかける対象にはできない。主観は主体からの感覚に一体化することによって、主体を方向付ける。主体の対象、客体の反映を対象化することで、主観と主体は一体化する。主観は主体と一体化することによって、結果として主体を操作する。主観は主体を方向付けることによって主観自らを方向づけることができる。主体と一体化することで、主体の対象に集中できる。主観は主体の対象、客体の反映を対象化している時に、同時に主体を対象化することはできない。その時には主観と主体とは一体化しているのだから。主観は主体から離れていることはできないが、主観は観念を対象としている時、主体を忘れる。[1041]
 主観は環境に影響されやすい。主体の環境、主体の体内環境、主観自体のゆらぎによって、常に動揺する傾向にある。逆に自らゆらぐことによって、ゆらがない対象を確認する。日常経験のうちでも、ゆらぎながら何度も確かめ、より確かに対象を捉える。また、心配事を抱えていれば、気が散りやすくなり、当面の対象に集中することはできなくなる。心配事は対応を決定できない課題である。[1042]
 主観は主観自体を対象化することによって、主観は主体を対象化する。主体を対象化するまでは主観は主体から乖離することはない。単に呼吸するだけであるなら、主体を対象化する必要はない。主体自体の自律的運動に依存して呼吸している。呼吸に異常が生じても、主観が対応しなくとも、主体は咳をし、くしゃみをし、時には息を止める。主体を対象化することによって、主観は主体との一体化を訓練するようになる。主体によって主体の対象を操作するために、主体を対象化する。話すことも、書くことも、歩くこと、スポーツをすることも、主体の新たな運動課題を行うには、訓練が必要である。主観は主体を対象としながらも一体化して、課題設定して主体を方向づける。試行によるずれを調整して訓練する。熟練すれば主体を対象化しなくとも、課題は遂行される。訓練が不要になった段階の主体の運動過程に支障が生じた場合、主体は主観に再度対象化される。[1043]

【反映の対象化】
 主体と主体の対象との相互作用は、主体の五感を介して反映される。五感は主観と主体の一体化として、実感として与えられる。客体対象との相互作用の直接的反映である。主体によって反映された感覚を対象化する。主体と主体の対象との相互作用による感覚、主体自体の運動によって生じる感覚、主観に蓄積された感覚が対象化される。主観に蓄積された感覚は、主観の対象によって呼び戻される。反映が反省される。睡眠中の夢としても再現される。[1044]

 主観が物をみる場合、主体の網膜に結ばれた像を受け入れる。網膜像を結ぶ光は対象から発したり、反射して眼に達している。網膜像は視神経網によって画像処理されており、必要なら目をこすったり、移動したり、主体を操作して見る。主観は網膜像から背景と図を弁別して対象の形、色を見る。[1045]
 これら主観と主体の感覚能力は成長過程での臨界期までの訓練によって獲得される。通常主観は、主体との違和感を感じることなく対象を見ている。かえって、物を見ようとするときには、主体も、主観自体をも意識することはない。しかし、ランダム・ドット・ステレオグラムを見ようとするときは、主体の眼を意識的に操作しなくてはならない。このときは主体を対象化し、同時にその結果を評価する主観も対象化している。[1046]
 主体自体の運動による感覚は生理的気分としても反映される。主体の主体を取り巻く環境との相互作用全体としての体内環境を反映する。[1047]

 対象の中に個別対象を弁別する。主体の個別対象は感覚の対象であり、相互作用の操作の対象である。主観は観念として蓄積し、記憶された個別対象と、主体によって反映される個別対象との同定として対象化する。主体の反映する対象が記憶された個別対象に一致しない場合、記憶された個別対象から類推し、主体を操作し、主体の対象を操作して一致する観念を探す。または他との新たな関係によって新たな個別対象として記憶する。[1048]
 主観は全体の中に部分を対象化する。主観は部分を区別することはできるが、部分の詳細のすべてを区別はできない。対象化されなくては部分は相対的全体である。対象化されることによって、全体か部分に区分される。主観は部分を相対的全体として対象化することによって、その内に部分を他の部分と区別する。[1049]

【対象の弁別】
 対象は普遍性と個別性によって個別対象として弁別される。対象の変化にあって変化しない部分を個別として弁別する。空間的に、時間的に変化しない部分を個別として対象化する。単に空間的、時間的なだけでなく、変化にあっても混沌でなければ秩序形式が不変に保存され、それを個別表象として対象化する。単に時空間的でない不変と変化の区別として対象の普遍性と個別性がある。相対的に不変な範囲・部分・形式が個別対象の表象である。[1050]

 人の場合通常視覚によって対象を認識する。形は境界として表象される。遠近の不連続の境界として、色・明るさの不連続の境界として、視角の変化に対する不変な境界として形は表象される。その境界は、意味の外延としても対象化される。対象の表象と、意味の表象とが重なり合うことによって対象化される。[1051]

 変化する他との関係は対象化において相対的であるが、さらに対象とする個別のうちにも不変と変化の区別があれば、そこの部分を含む構造が見いだされる。個別が相対的全体となり、その構造部分が対象化され、順次詳細に弁別を進める。[1052]
 他との関係は空間的・時間的な尺度を定めている。通常感覚的距離感、つかむ、腕を伸ばす等の身体的部分を動かすことのできる大きさ、歩行などの運動による距離が基準尺度になる。さらに経験・学習によって社会的・普遍的尺度が用いられるようになる。尺度によって対象は測られ、数量で表すことが可能になる。対象の質量による規定ではなく、普遍的数量尺度によって、対象が相対的比で表される。[1053]
 特殊な認識能力として絶対音感がある。多くの人は相対音感で音程の変化を追っている。絶対音感の持ち主は音色に影響されることなく音階名を同定する。音階名は倍音を12分割した階梯であり、音の振動数で、1秒間の波の整数で定義される。絶対音感の持ち主であっても音高=ピッチを弁別する能力には個人差はあるであろうし、周波数の分解能に限界もあるはずである。[1054]
 対象の弁別過程は対象から主観への単純な作用過程ではない。主観による、主体による積極的な対象化も働き、先入観や錯覚も作用しえる。対象化の課題なしに積極的な対象化はないし、対象を弁別する訓練もできない。対象に興味、問題意識を持っていることで、弁別をよりよく行える。それが先入観になってしまえば誤った弁別に至る。誤りの少ない、積極的な対象化のためには、対象化自体も対象化、客観化する必要がある。主体の対象化能力を対象化しなくては対象を正しく認識することはできない。観察には訓練が必要であり、評価が必要である。観察の評価として対象が解釈される。解釈は観察にフィードバックされ観察を進める。[1055]
 見分ける能力が訓練によって高まることはジグゾーパズルによって体験できる。対象を解釈しながらの観察は行き過ぎの可能性もある。火星の模様に運河を見てしまうように[1056]
 訓練は誤りに対処する調整の過程を必然的に含む。誤りを犯さないなら訓練は不要である。[1057]

【主観の対象化】
 主体の反映過程を対象化し、主体の運動によって主観が媒介されていることを対象化することによって、主観を対象化することができる。ただし、主観による主観の対象化であって、形式論理的には矛盾である。主観と対象とは対立概念であって、概念間の関係では同一のものが同時に対立概念それぞれであることはない。主観は観念であるからこの矛盾を止揚する。観念はいくらでも矛盾を作りだし、成立させる。矛盾する関係は観念としても矛盾しているから矛盾として成り立つ。矛盾がありえないことなら、矛盾が問題になることもない。[1058]
 主観の対象化能力は主体の反映能力として生得的に備わっているが、訓練によって高度化する。主観の対象反映能力は反映過程を対象化することで、対象を主観のうちに観念として保存して対象化する。主体の対象が主体との直接の連関になくなっても、主観は対象を主観のうちに再現することができる。対象は記憶として保存され、再現される。その記憶を対象として操作することができる。消したり、変更する操作ではなく、他の記憶と連関させ、評価する操作である。記憶は客体としての存在ではなく、観念である。記憶は客体としては海馬あるいは側頭連合野の連関した脳細胞の反応過程の再現である。電気的化学的反応過程が主体にとっては記憶として再現される。主観にとっては観念として表象される。この再現を対象化する能力は主観の生得的反映能力である。主体の記憶力であり、記憶の操作能力である。[1059]

【評価能力】
 記憶を再現し、記憶を操作する過程を対象化するのには訓練が必要である。脳の電気的化学的反応過程を対象化することは生得的な記憶能力であるが、同じ対象化能力で自らを対象化するには訓練しなくてはならない。記憶を対象化するその対象化過程を対象化する。反省であり、自らを客観視することである。人は成長の過程で反省する能力を訓練する。反省は直接的対象化ではなく、全体の中に位置づけて対象化することである。したがって、反省できることは人として必要なことではなるが、どの程度反省できるかが違う。反省する訓練をどの程度したかが、人の深さという抽象的能力になる。どの程度とは全体をどれ程広くとらえているか、どの程度詳細にとらえているかということである。全体の知識だけではなく、その全体に対象を位置づける、連関させることも含めての対象化能力である。対象の評価能力でもある対象化能力は日常経験の実践の中で訓練されて獲得され、向上される。[1060]

 制度や組織ができあがり、評価基準が決まってしまえば反省の必要はなくなる。評価基準に合わせることが上手な者が高く評価される。評価基準を評価することが反省である。[1061]

 芸術は表現する者の訓練だけではなく、鑑賞する者にも訓練を求める。良いものは訓練されていない者にも受け入れられるが、良さは訓練に応じて受け入れられる。[1062]
 対象の評価能力、表現能力は連続的には高まらない、段階的である。一段階の上部が頂上に見えても、そこに至ればさらに次の頂が見えてくる。段階の連続として限りない豊かさがある。[1063]

【自分の外化】
 主観の対象化は、主体のうちに主観を位置づけることであり、主体の運動を主観によって方向づけることである。主観は主体のすべての有り様、運動を対象化することはできないが、主体が主観を媒介している過程での主体を対象化し、その主体の運動を方向づける。[1064]
 主観は自らを媒介する主体の運動を方向づけることで、主観の反映する表象世界を客観世界に実現しようとする。同時にこれまでの主観ではないこれからの主観を主体によって媒介させる。主観は主体を介して主観の思いを客体のうちに実現し、主観自体を実現し続ける。主体のうちなる主観が、主観の外である主体に、主体の外である客体に主観自らを実現する。自分自身として主体を対象化し、自己実現へ向かう。[1065]

【主体の対称性と非対称性】
 主体は主観を媒介するのもであり、主体自体客体としてある。客体間の相互作用にあって、主体は他と対称な対象である。しかし、主体は主観を媒介することによって、主観にとって主体は主体以外の客体とは決定的に異なる存在である。主観にとって主体はその対象となる客体とは絶対的な非対称にある。主観を媒介することによって主体は客体でありながら、他の客体と区別される。他の客体に対するものとして、主体は主観を媒介し、主観は主体に依存し、主体と主観は一体化する自分である。[1066]


第3項 自己実現過程

【世界と世界観の対応関係】
 部分と全体の関係として、それぞれの要素を一対一に対応はできない。部分は全体の要素であるのだから。しかし部分である自分は、全体である世界を対象とし、部分である自分のうちに全体を再構成しようとしている。全体を部分に対応させているのが自分自身であり、問題はその対応のさせ方である。全体の一部分である部分、すなわち部分集合でありながら、全体としての無限集合を含もうとする。要素が定義されていれば、再定義によって無限の要素を有限の集合に繰り込むことはできる。しかし、世界全体は単なる無限集合ではなく、その要素がはっきりと定義されてはいない。数学、あるいは形式論理によっては取り扱うことはできない。はっきり定義されていない無限集合を部分集合に対応させ、部分集合のうちで全体の無限集合を取り扱うのであるから、始めから形式論理的に無理なことである。その無理をあえてすることが世界観であり、無理が誤りにならないようにすることが肝要である。形式論理を超えた論理、実在の論理としての弁証法論理が必要である。[1067]
 全体をその内に含まれる一部分に組み込む方法が問題である。また、正しさの検証が問題である。単純な方法は一対一対応を一つ一つ検証して行くことであるが、その方法で無限の要素を検証することは不可能である。[1068]

【世界と世界観の媒介項】
 主観と主体とを一体化し、実現するのは自分自身である。自分として主観と主体は一体化する。[1069]
 自分は世界の一部分であり、世界によって自分のすべてを与えられている。それでいて自分自身を世界と区別するのは、世界全体を対象として関係するからである。世界全体を対象として反映し、認識しようとする。世界全体を対象として認識し、そうした世界に働きかけるものとして、自分は他の世界の部分とは区別される。[1070]
 他との直接的相互作用の過程にあるだけでなく、他を自らのうちに取り込んで再構成し、全体を再構成して対象化する。直接的相互作用の過程では全体を対象化することは不可能であるが、自らのうちに再構成した世界の全体を対象とすることができる。詳細は捨象して全体を抽象して対象化することができる。[1071]
 単に世界の運動の部分的な過程の通過点として自分はありながら、世界全体の運動と相対している。[1072]

【自分の無限の多様性】
 自分と対象との関係は、単純な主客の一対の対極関係ではない。[1073]
 自分は単一の存在ではない。自分でないものを感じ、自分を感じる。自分を動かし、自分でないものを動かす。自分の対象となる自分でないものはほとんど無限の多様性をもつ。対象の無限の多様性は、自分自身の多様性である。自分はさまざまに感じ、さまざまに運動する。自分の運動自体を感じる。自分の運動は感じなくても運動し、自分を構成している。自分の体は主観に関わりなく多様な運動をし続けることで、自分自身を維持している。主観は主観を客観化することはできず、主観は主観を制御できない。主観は主体と一体化して対象を制御することで、主観自体の制御を期待できるにすぎない。[1074]

 自分に理解できない自分自身の制御については、他の人に診てもらうことも必要な時がある。それこそ客観的に評価してもらう。自分にはない経験、知識によって評価してもらう。心身に病変が現れたら専門の医師に診てもらうしかない。[1075]

【自分自身の運動】
 世界は相互作用する物質の運動であり、自分自身も物質の特殊な運動形態であって、他の物質と相互作用することで世界に存在している。相互作用する物質として自分自身も他と変わるところがない。しかし、主体としての自分自身は、他との直接的相互作用だけではなく、他との相互作用過程を自らのうちに再構成し、よりよい相互作用過程を選択する。感覚は他との相互作用を刺激として受入れ、自分自身を保存し、実現する運動を制御する。感覚自体を対象化することによって、感覚間の関連を対象間の連関を反映するように再構成する。周囲の他の物との相互作用をつうじて、世界全体の相互作用を反映する。反映した世界全体の中に自分自身を位置づける。[1076]
 その周囲の他の物との相互作用にあって自らを変えるこが自分自身の運動である。自分は相互作用の方向を制御し、変革することで他の物、世界全体に働きかける。自分にとって変えることのできるのは他との直接的関係である。[1077]
 他との直接的関係で自分に制御できるのは他ではなく、自分自身の有り様である。自分自身の身体、考えだけが制御可能な運動である。個々の他との関係での自分自身を制御すること、個々の他との関係過程の全体をとおして自分自身の方向を制御することが可能である。物を動かすにも自分の手足を動かすことによって可能になる。他の人も物も直接制御することはできない。[1078]
 自分の担う相互作用は、自分自身の階層が複雑であるとおりに複雑でありながら統一されたものである。その統一において、自分と直接に関係しない、離れた他の相互作用を反映し、働きかける。他と他との自分からは離れた関係を自分と直接する他との関係の延長上に関係づける。自分と他との関係を拡張する。[1079]
 反映した世界全体の中に位置づけた自分の生き方、行動の方向性を定める。人生の方向を定めるだけではなく、何を食べるか、何を着るか、どこへ行くかを含む多様な選択を方向づける。この過程を介して、自分は世界全体と相互作用をする。そして自分自身の有り様を変革し、自分自身を保存する。[1080]

【与えられた自分自身】
 自分は他と区別されることで産み落とされ、生き、生活している。父母から区別され、兄弟姉妹から区別され、友と区別され、配偶者と対立しながら共同して生き、生活している。子は唯一与えることのできる存在であるが、同時に親としての自分を与えてくれる。それ以前に肉体は他の物質と区別されている。精神は文化の中で他と区別される。人格は人類の中で区別される。このように区別されるものとして人間社会の中に、人類の歴史の過程に産み落とされた。[1081]
 自分はいつから存在したのか知らない。自分自身について知ったのは自分自身を対象化したのは、自分が他の中に、他から区別されていると意識してからである。[1082]

 自分は客観的な存在として与えられてはいるが、自分自身の多様な他との関係を統一し、運動の方向を決定しようとしている。自分自身の統一された多様性を評価し、方向づけるものが意志である。自分自身の多様性を無視して意志は実現しない。[1083]


第2節 意志の形成 (向自)

 自分は客体の中にあることによって、客体全体と関わり、全体の関わりに自分を実現するものとして方向を見いだす。[2001]


第1項 自存

【自分の位置】
 自分は他と同一の存在であり、自分自身にとってのみ他とは異なる存在である。日常のすべては多様な現れをし、しかも知らないもの、知ることのできないものに連なっている。それでも、実在という普遍的ありようにあって、相互に対称であり、その意味で同一である。すべてのものは相互作用し、相互に変化している。自分も他と相互作用し、変化している。病気になっても、ケガをしても生活し続け、たぶん死ぬまで自分自身でありつづけ、死んだら焼かれるか、分解して他のものに変わる。[2002]
 ただ、自分は他を対象化し、自分自身を対象化する。対象化は対象と主体、主観との非対称化であり、方向性を保存する。対象化は、対象と主体、主観との対極関係をつくりだし、常にこの対極関係にある。対象化をやめたとき、自分は意識を失い、または生存することをやめる。意識によって対象化するのではない。意識は何かを対象化することで実現している。身体も他を対象化する新陳代謝によって自らを実現し、他に対して働きかけることで運動している。自分はこの対象化するものとして、他と対極的に関係する、他とは決定的に異なる存在である。[2003]
 対象化するものである自分は、対象化によって方向性を追求する。常に自分の向かうべき方向を追求する。自分の向かうべき方向を追求できなくなったとき、自分を失う。道徳的にだけでなく、精神的に、肉体的に方向性の喪失は自分を瓦解させる。[2004]
 対象化による方向性が主観にとっての価値基準として対象化される。方向性を貫き、方向性を保つ程度が価値の程度である。主観にとっての対象化は対象の価値評価である。主観自体の対象化は、価値評価基準の対象化である。価値評価基準はすでに決定されたものでも、与えられたものでもない。これまでの対象化の過程で獲得してきたものであり、対象化に際して適用し、検証し続けているものである。主観の対象化、価値基準の対象化が反省である。反省は結果の評価でもあるが、同時に評価基準の評価でもある。[2005]

 自分の対象化の方向は他に対して決まる。方向決めが正しいかどうかは対象化の結果で明らかになる。物質代謝を維持する方向を誤れば体調を崩し、動けなくなり、病気になる。社会生活の方向を誤れば仕事に就けず、仕事を失い、信用を失う。精神の方向性を失うなら、眠り込むか病気になる。常に変化する対象に対し、自らの方向を維持しなくてはならない。方向を維持するために、方向を常に評価しなくてはならない。[2006]
 肉体的、社会的、精神的方向性、それぞれのうちでも、諸階層に分かれる方向がある。そしてその全体を統一する生き方としての方向がある。よりよい方向はより全体的な関係での方向である。より全体的な関係での普遍的方向がよい方向である。主観がよりよい方向を見いだすには、より普遍的に全体を理解することによってである。ただし、不健全な社会にあっては、その不健全性を見通す自らの方向性が問われる。[2007]
 よりよい方向として価値が定まる。価値は客体としてどこかに存在するのではない。方向を決め、方向を評価する基準に価値は現れる。求めないものには価値はない。[2008]
 方向性を実現することが価値の質である。どれほど方向性に貢献できるかによって、対象の価値は量的に評価される。[2009]

 価値基準が定まり、方向性が明らかになって、改めて自分の位置が明らかになる。自分の位置を明らかにすることは、全体を理解し、全体における自分を理解することである。世界を明らかにし、自分の世界観を明らかにすることである。全体の関連・運動における自分の位置・方向を明らかにすることは、自分の価値づけであり、同時にそれは世界の価値づけであり、価値観の形成である。価値観は自分にとっての世界の評価であるが、どれほどに世界全体を関連づけているかによって普遍性の程度が規定される。価値観は人によって程度の違いはあっても、同じ世界の関連の中にあって普遍性がある。価値は世界のどこかに隠されているものではない。[2010]
 価値観に基づき、自分の存在を方向づけていく、自分に対する意識的な規定性が意志である。[2011]

【自分の存続】
 人間の場合、物理的、生物的、精神的、文化的な他との関連でも基本的に社会的規定を受けている。物理的生活空間も社会的に作られ、時間も社会的に規定されている。住環境、移動手段、移動目的まで社会関係によって決まっている。特に都市生活者はほとんど社会的規定に縛られている。生物として必要な食物、水も社会的生産・物流に依存している。誕生前から、誕生後は特に対人関係を通して精神的発達が条件付けられる。知能が先天的・遺伝的かどうかの問題ではなく、人間は社会環境に基本的に規定される。個体関係で相手の表情を読み取ることが集団をなすほ乳類の生活の基本になっている。ヒトの場合にはさらに社会的コミュニケーションをになう言語環境が、知的発達の基礎になる。[2012]
 自分の身体維持に必要な環境、資源は社会的物質代謝によって保証されている。社会関係なくして今の生活水準を維持することはできない。社会的に蓄積された情報なしに、世界を普遍的に理解することはできない。理解を確認するための言語ですら、社会的情報交換、情報共有・保存によって社会的・歴史的に獲得される。属する社会の言語環境の中で母語は獲得される。[2013]
 恵まれた環境であれば特に欲求を意識することなく生活はできるが、方向性がないのではなく、環境条件も主体的条件も方向性を慣性的に維持できているからにすぎない。しかしながら社会的物質代謝によって維持されていても、社会的環境によって新たな有害物質すら生み出されている。社会的利害は対立しやすい。力のある者にとっては共同より占有の方が容易である。社会的環境が整うと、社会的環境のみによって生活が規定されるようになる。多少の逸脱をしても自然環境によって報復されることなく、黙認されてしまう。子供の生育環境としては最悪である。しかし社会的環境は自然環境の上に築かれているのであり、自然災害、自然環境の破壊によって、社会環境は簡単に破壊されうる。[2014]

 物理的、生物的、精神的、社会的、文化的に媒介された存在である自分は、他を対象にして働きかけ続けることとして存在している。他を対象化する過程は、物理的、生物的、精神的、社会的、精神的、文化的に対象を取り込んで自らを実現し続ける過程であるとともに、自らを異化し、対象間の連関のうちに自らを再生していく代謝過程である。物理的、生物的新陳代謝は同化と異化の過程そのものである。精神は客体を表象として取り込み、客体間の関係を世界感として自らのうちに構成する。世界感のうちに対象を位置づけ、評価し、対象への働きかけを予測する。精神は自らを対象化し、他の個体の精神活動も対象化する。社会は物理的、生物的物質代謝を社会的に実現する人の連関組織である。社会的物質代謝を下部構造として、多様な人間関係の上部構造を構成する。人間関係は他人を受け入れ、自らを主張する関係である。文化は価値の普遍的共有である。人間の対象評価によって価値を認められる対象の共有である。対象の価値評価を受け入れ、自らの対象評価を受け入れてもらう、価値の共有過程が文化である。[2015]
 自分は物理的、生物的、精神的、社会的、文化的に存続させなくてはならない。すなわち全人格的でなくてはならず、一面に偏ってはならない。[2016]

【類的存在】
 自分は自立した存在ではない。自分は他によって媒介され、その媒介関係を自律する存在である。物理的存在は物理法則によって自立している。生物は自立しては存在できない。生物を存在させている新陳代謝は他への依存であり、生物全体の相互連関が保存されなくてはならない。さらに、個体は種になければ生まれない。生物的存在はすでに個別的個体としてだけでなく類的存在としてある。[2017]
 自分という他を対象化する特別の存在を対象化すると、自分が類的存在であることを忘れてしまいがちである。自分は両親から生まれ、両親を含む人々によって育てられ、形成された。そして子を育てることによって親になる。過去だけではなく、現在も他に依存し、未来も他の中に自分を実現していく存在である。他と形成する類としての存在である。他に依存するだけでなく、他との連関の中で自分である。[2018]
 自分を対象とするとき、それは「人として」であり、個ではなく類としてである。生きること=生活は人との関わりの中で実現される。孤立、疎外も人との関わり方の問題であって、隔絶されて生き続けることはできない。論理的にだけでなく、社会生活無くして生命の維持はできない。コミュニケーション無くして学習もままならない。その社会は地域的、歴史的に制約されており、それぞれの個人はさらに家庭環境、教育環境に制約されている。それぞれに制約された環境での成長である。[2019]
 社会から隔絶して生きる人の例によって、人間が類的存在であることが否定されるかもしれない。恵まれた自然環境があれば、一人で生活することも可能である。「その人の幼児期までは社会に、特に親に依存していた。」「生活する技術は社会から学んだ。」とするだけでは「人間は類的存在ではない」とすることを否定するには不十分である。「人間」そのものの規定が問題なのである。生物として生き残ることと、人間として生きることとは違うのであり、われわれの「類的存在」は人間の規定にかかわることなのである。単に道徳の標題としての相互依存ではなく、存在の規定としての相互依存なのである。[2020]


第2項 自己決定

 相互依存する類的存在でありながら、対象化するものとして、他と区別する自分を規定しなくてはならない。対象化は自分ではない他を他から区別すると同時に自分からも区別する。それは逆に他ではない自分を他から区別する。対象化は自他の区別であり、自己決定である。アイデンティティーの問題である。[2021]

【非決定者】
 客体としての主体も他と相互依存の関係にあり、相互に対象として対称である。客体であることが相互対象化する対称性にある存在のことである。相互対象化、相互規定の関係では決定は問題にならない。相互依存関係では決定は問題にならない。[2022]
 自由な人間といえども自然によって、社会によって規定される。意識は社会によって規定される。下部構造が上部構造を規定するとの「規定」は対称性にある客体の規定なのである。[2023]
 主体としてあるにはこの対称性を破るのである。[2024]

【決定者】
 自分は、自分自身のことを決めることのできる決定者である。自分の感ずること、理解すること、行動を決定することができる。自分は自分自身の運動を決定する主体である。全体、あるいは、自分をとりまく環境はどうすることもできない客体であるが、自分の働きかけにより、自分自身と対象とからなる物事との関係を変える、決定することのできる主体である。[2025]
 相互依存関係にありながら自らの方向性の決定は、連続する過程である。一度の決定で決まってしまうほど、物事は固定されていない。相互依存関係にあって、すべては運動であり、常に変化する。変化にあって自らの方向を維持するには、他の変化に対応しなくてはならない。他の変化に対応する決定をし、同時に自らの方向性を再評価する。習慣化した衣食住であっても、何も選択せずに過ごせない。時に習慣を見直すことも必要である。仕事の場合は、なおのこと決定・判断と見直しは常に行われる。決定を必要としない仕事は機械に置き換えられる。[2026]
 自らの方向性の決定、方向性の維持が意志である。意志はより広く、より深い対象世界の理解によって強くなる。普遍的な理解によって意志は強くなる。誤った場合も、普遍的理解であるほど、誤りに気づきやすいし、正すための基盤は確かである。

 ただし、私自身の意志の強さはこのことを証明しない。アルコールに対する意志の強さは肝臓の強さに逆比例している。[2027]


第3項 自己実現

【自分の再生産】
 自分自身を対象化すること。自分自身を対象として関係する「対象化」ではなく、対象間に自分自身を作り、今の自分を移していく。単に生きるだけのことであっても、更新していかなくてはならないのが生物である。新陳代謝は常に更新していく過程である。[2028]
 全体の変化にあって自分を保存することは、変化の中に保存される自分を作り出していくこと、自己更新である。自己更新は変化の、成長の契機である。自己更新し続けるものであるから、変化しえる、成長しえる。自己更新は変化、成長の可能性の契機であって、必然的に変化成長するのではない。変化、成長の可能性を現実性に転化するのは自己の対象化によってである。全体の変化の中での保存は保守的・消極的運動ではなく、創造的・積極的運動になる。自己更新能力が衰えれば、自他を区別する免疫力も衰え、個体はいずれは死ぬのである。個体は死ぬから生殖によって自己更新力を更新するのである。[2029]

【自分の変革】
 客体の物質代謝は一部分の更新の積み重ねである。部分を更新することで全体を維持する。部分を更新することで全体を維持する。全体を更新しなくては更新能力は減退する。これに対し、自己実現するものとしての主体の自己更新は自分の一部分を更新することで、自分全体を更新する。全体を保守するのではなく、新しい自分を産出するために更新する。新しい自分を産出できるのは自分を対象化し、新しい他との関係としての方向性を見いだせるからである。自分を対象化することで、部分の更新ではなく、全体として更新できるのである。別の物になる方向性によって、単なる部分の更新ではなく、全体を更新する。平衡を実現している部分の変更は全体の平衡を変ええる。身体も成長の段階では全体が更新されて大きくなるが、青年期を過ぎれば更新は保守的になる。[2030]
 更新する自分を対象化することは、他との相互作用、相互規定にある自分を対象化することである。相互作用、相互規定を対象化する。自分を対象化することにより、自分の位置・方向を変えていく。自分を今とは違う未来の自分として、外化する。対象間の連関の中に新しい連関を作りだすものとして自己を実現する。相互作用、相互規定にある自分を対象化して、自分自身を超える自分になる。身体の成長には限界があっても、人格の成長には限界はない。[2031]
 コップを動かすにしても、まず自分の腕を動かさなくてはならない。対象を変えるには自分を変えることによって、自分と相互作用している対象を変えることができる。自分を変えずに対象を変えることはできない。どのように変えるかは、自分と対象との相互関係を自分が規定することによってである。どのように変えるかは、全体と自分との相互規定関係を方向づけるのである。[2032]

【対象の変革】
 対象を変革すること。自分でない対象を自分の働きかけによって変革する。[2033]
 対象を変革することにより、自分の運動を現実過程として実現する。自分の価値・価値観を対象の内に実現する。自分の存在としての運動を、自分以外のものとして存在させる。自分の存在・運動を対象化、客体化させる。対象の存在・運動に、自分との関わりの成果を作りだす。[2034]
 対象の存在・運動は恒に変化しているが、自分が対象との相互関連に入り、自分との関連の変革として、自分自身を変革することとして、対象の関連を変革する。対象の変革は、自分の変革と同じに関連する存在の運動である。自分の一方的な意志によって対象だけが変革されることはない。[2035]

【全体の変革】
 自分は自分自身と対象との関係を、自分自身を変えることによって変革する主体である。全体はこの自分と対象との関連としてある。[2036]
 全体は直接対象として関係することはできない。しかし、自分と対象の存在は相互規定して全体を構成している。自分と対象の存在として全体は存在する。対象の運動も、自分の運動も全体の運動の一部分である。全体は対象と自分によってのみ存在する。自分と対象以外の何者かは世界に存在しない。自分の直接の対象とならない存在も、同じ対称性にある。すべては相互作用の対象としての普遍性にあり、全体を構成している。[2037]
 自分と対象との変革は、即全体の変革である。全体は変革の対象として直接関係することはできないが、自分と対象の存在そのものとして全体は変革される。主観は直接全体を対象化するが、主体は間接的に、媒介関係をとおして全体を対象化する。[2038]
 対象の変革、全体の変革はなかなか見えない。実感できない。しかし自分自身の成長ですらなかなかわからないのが現実である。他にどうしようもないのであり、継続しかないのである。[2039]

【肉体能力の拡張】
 人間一人の対象変革能力は限られたものである。他の同じ程度の大きさの動物と比べても、感覚能力、運動能力とも劣っている部分が多い。裸で、何も持たずに生活したなら、他のほ乳類よりも長生きできないだろう。[2040]
 肉体的に弱いヒトが全地球的に繁殖できたのは、肉体的能力を社会的、技術的に拡張したからである。認識能力、運動能力を拡張したからである。[2041]
 社会的に共同し、分業・協業によって、一人の能力を集中し、全体の能力を統合することによって、変革能力を拡張し、しかも蓄積してきた。[2042]
 技術的に物を利用し、道具を利用することで、生活圏を広げてきた。道具を利用することで認識能力も、運動能力も拡張してきた。生理的感覚能力を超えて、普遍的に対象を認識できるようになった。乗り物によってどんな動物よりも早く、遠くまで移動できる。巨大な物を動かすことも、原子一つを動かすこともできる。そして地球環境を破壊できるまでになった。[2043]


第3節 意識の対象化

 世界は自分にとっての対象である。自分自身との大きさの比較、意味の比較などと関わりなく、全世界が自分の対象である。ただし、前提として自分も世界の一部であるとして。世界の一部分として、他と対称の、同質の部分としてありながら、全世界を反映し、全世界のつながりを変革するものとして、全世界を対象としているのが自分である。[3001]
 世界観はその自分自身の自分を含む世界の反映像である。世界観では観るものと、観られるものが対立している。この対立は、自分自身の働きかけとして、実践において統一される。自分にとって対象は反映しかつ変革するものである。[3002]


第1項 意識

【意識の位置】
 身体は物質代謝によって存在している。細胞一つひとつが常に物質代謝をしており、細胞そのものも代謝される。身体は物質代謝として他と常に相互作用して自分を維持している。身体は自分を維持するために他を対象として反映する。他に対する反応を制御するには、身体の内に引き起こされる反応を対象化しなくてはならない。対象との相互作用を対象として反映する。身体の神経系による対象化が意識である。意識は身体と相互作用する客体を対象化する。意識は身体を対象化する。対象化する意識を自分として対象化する。[3003]
 意識は客体と身体との相互作用を調整する。身体は意識しなくても身体自体の神経系とホルモンによって自らを調整する。その調整を対象化して意識は身体を方向づける。[3004]
 他との関係の中で、他と自分を区別するものが意識である。他と自分を区別し、自分を確認するのが意識である。自分は身体であり、意識自体である。世界を変革の対象とする自分自身は、対象との関係にあって自分自身を対象と区別する。自分自身を対象と区別することで、自分自身を対象化する。自分自身を含めてすべてを対象化するのが意識である。[3005]
 反映そのものを対象化する反映は、質的に区別される反映としての意識である。意識は反映の最高の発展段階である。[3006]

 コンピュータが、ロボットが意識を持ちえるかが問題になる。「物質が意識を持ちうるか」。しかし物質の進化としてヒトは意識を獲得した。結果は出ている。問題は意識をどう定義するかを、まず答えなくてはならない。[3007]

【意識の対象】
 意識が直接対象にするのは反映された表象である。どのようにして対象が反映され、反映された表象を意識がどのように対象化するかは、未だ明らかにはなっていない。学際領域の認知科学が研究対象にしている。わかっていることは次章でまとめてみる。対象からの刺激に応じた身体の反応を表象として対象化し、他の表象との連関の中に位置づけて対象化することが意識の対象化であろう。意識が表象を対象としていることは確かなことで、意識に他の有り様はない。[3008]
 しかし意識は自らの身体の動かし方すらしらない。食物がどのように自分の胃腸で消化されるのかを意識は知らない。どの筋繊維をどのように収縮させて足や手を動かすのかを意識は知らない。訓練して身につけたことも、訓練が十分であれば意識しないで行えるようになる。意識は表象を操作することができるが、客体を操作するには身体に依存するしかない。[3009]
 意識的に手足等を動かすには感覚神経からの情報に基づいて、運動神経によって筋肉を収縮させることで動かす。感覚神経からの情報と、運動神経への情報とは独立した神経系ではあるが、相互にフィードバックして調整しなくては意図したようには動かない。この調整は小脳で行われる。しかし、操作対象を意識しているのは大脳であり、大脳で意識は小脳をどう操作するかを知らない。[3010]

【意識対象の単位】
 意識は一つの対象しか関係しえない。対象化そのものが自他を区別する関係であり、自他は対極関係として2つの要素間の一つの関係である。対象化である自他の区別にその他の関係が入り込むことはない。意識にとって意識は唯一の自分である。他と区別するのは唯一の自分である。他と区別する唯一の自分の対象となる他も、自分に対応して唯一である。対象を変えることはできるが、対象化できるのは一つである。逆に対象化することで対象を他と区別した一つの存在としてとらえる。「1」という概念自体が対象化によって規定される概念である。[3011]

 「1」によって規定される自然数の体系は、対象化できる存在の数量関係としての普遍性をもつのである。対象化という意識そのものに自然数の普遍性がある。意識の対象とならなければ、客体は数で表される必要はない。果実は1本の木になったり、籠に取り分けられて数で表される。他と区別されて対象化されることによって、数が意識される。数は集合とその要素という階層に分けられる対象間の関係である。意識によって対象化される関係として「1+2=3」でなければならない。自然数の関係は勝手に決められたものではない。自然数の系は対象化によって規定される、数量の普遍的関係である。[3012]
 一つであっても、その対象が部分をもたないのではない。複数の部分から成るものであっても、対象化するのはその全体である「1」である。その部分を対象化するとその部分「1」が相対的全体として対象となる。複数の部分を対象とするとき、個々の部分でも全体でもなく、部分を要素とする一つの集合である。一つの集合を対象とするとき、要素である部分は同じ規定をもつものとして、質的違いは捨象されている。質的違いが捨象された、対称な部分の全体として一つの集合が対象化される。[3013]

【意識の線形性】
 意識は一つであり、その対象と関係する。ゲシュタルト図形でも図と地とを一時にどちらか一方しか見ることはできない。対象を変えることによって「一」は点として動いて線になる。意識は空間的には一つの対象を弁別するが、時間的に多様な対象を弁別して、対象を線形に弁別する。意識は線形性である。[3014]
 線形によって対象を認識する意識は、三次元の立体や運動を理解するには、線を構造化しなくてはならない。線を折りたたむことによって面にし、面を組み立てることによって立体にし、点、線、面、立体を動かすことによって運動を構成してみる。[3015]
 手がかりにするのは視覚の二次元、身体の三次元である。これに対し聴覚は一次元である。意識は対象を線形にたどり。対象を再構成することで、面、立体、運動を理解する。[3016]

【意識の階層性】
 生物の情報処理は処理単位からして階層化されている。生物のセンサーである感覚器官からして階層的な情報処理システムである。その上に、感覚、反射、自律神経、小脳の制御、大脳の統御に大分類できる階層がある。[3017]
 意識も階層化された情報処理システムである。生物の情報処理を対象化することにより、対象の階層性に対応した意識の階層がある。感覚を遮断するには特別な実験装置が必要である。それでも完全には感覚を意識から遮断することはできない。反射や自律神経は意識的に制御することはできないのが普通である。反射や自律神経は意識によって干渉することはできる。一時的に呼吸を止めることはできる。備えて訓練すれば反射を押さえることもできる。暗示をかけてアドレナリンを放出することも可能かもしれない。小脳の制御は運動の訓練である。意識的訓練である練習によって小脳の制御を対象化できる。大脳の統御はまさに意識の働きである。大脳の統御は対象化の制御であり、思考である。[3018]
 意識は対象を変えることで階層を移る。意識自体を対象とする階層、観念・表象を対象とする階層、身体を対象とする階層、客体を対象とする階層。意識は対象にするものによって意識の階層を移る。[3019]
 主観的には無意識、本能と呼ばれる階層、印象、知覚、悟性、理性といった階層がある。思い巡らし、観想しているだけでは意識自らを理解し、体系化することはできない。それぞれの階層における相互作用を学ばなければ意識的に意識を対象とすることはできない。[3020]

【意識の程度】
 意識は対象との関係程度に違いがある。対象との関係を密にすると集中する。意識が対象化できるのは常に1つの対象であるが、主体の対象との関係は多様である。その多様な関係の一つひとつを順に明確にすることで個別対象との関係が密になる。[3021]
 客体に対して身体の感覚が意識と一致すると、心身の一体感がえられる。主観と主体との一体化である。主観は主体を対象化することなく、客体の対象化に集中する。ゲームに夢中になるのはこの一体感にある。[3022]
 逆に対象との関係一つひとつを無視し、くくってしまうと漠然とする。要素を定義していない集合として対象化することで、意識は漠然となる。その極はすべてを全体として対象化することで、主体と主観との区別すらなくなる。これを超えてしまえば対象を失い意識を失う。[3023]
 意識の状態として散漫もある。対象との関係が持続せず、脈絡なく対象化する状態である。対象との関係の関係を介して対象の関係をたどるのではなく、対象化するのではなく、環境としての対象の偶然の関係で対象化する。[3024]


第2項 意識表現

【表象の言語化】
 人は共同生活の過程で相互に協力するだけでなく、同時に共同で対象化をする。衣食住の物品を共有・交換の過程で共通の対象にする。対象を指示し、会話して共同生活をする。物事を共に対象化し、互いを互いに対象化する。また共同生活の秩序もコミュニケーションによっても維持される。その共同生活の場で言語を獲得してきた。会話と共同は相互規定的、相互依存的関係にある。共同によって言語を獲得し、会話によって共同を容易にする。対象に対する共通の関係であると同時に、相手を対象とする関係でもある。自らをも相手の対象として自覚する関係でもある。この関係をとおして対象をより普遍的に認識することが可能になる。自分が寝ているときの物事まで、生まれる前のことまで確認できるようになる。会話は会話自体が目的化するまでになる。[3025]
 言語は会話の手段であると同時に、意識が表象を指示、操作する媒体である。表象を言語で指示し、言語を操作することで表象を操作する。表象の言語化は表象の記号化である。さらに文字として保存することで、言語自体が客体化される。客体としての文字は操作をより具体的に、容易にする。[3026]
 対象の相互関連の普遍性を言語の表現として定義し、概念にする。コトバ自体が概念を表象する。概念によって相互定義されて概念は操作可能な手段になる。言語という表象表現、操作媒体を主観は獲得する。主観は観念として対象を表象し、観念を操作するが、観念を概念によって表現することでよりよく保存し、他との関連を明示できる。言語表現された概念は客体として保存し、交換することができる。[3027]

【言語の社会性】
 言語は社会的実在であって、抽象的・一般的存在ではない。実在対象を表現し、個別としてある実在の普遍性を表現し、表現媒体としての実体をもつ。言語は音・音声として、印・文字としての実体をもつ。ただし音声も文字も社会関係になければコトバではない。言語は国語、方言、母語等として具体的存在である。国語、方言、母語はその使用される社会関係の場で、それぞれ独特の意味あいをもつ。表現の奇異性だけではなく、その社会に規定される特別な意味を表現する。社会的区分の必要性によって対象が区分され、コトバが名としてつけられる。風土に即した自然表現をもつ。社会の歴史的段階での人間関係を反映した表現をもつ。またコトバは相手を想定して発せられる。相手によって言葉遣いも、内容までもが変わる。しかし、コトバとその用法を勝手に変えることはできない。流行コトバを作り出すことはできても、すでにあるコトバを別のコトバによる表現に置き換えてしまうことは個人にはできない。集団的、社会的に認知されなくてはならない。集団的、社会的に認知されればコトバは変化しえる。ことわざの意味がまったく逆転してしまったり、鹿児島弁のように政策的に変えてしまうことは可能である。同時に社会の普遍性も反映しており、未知の外国語で書かれた碑文も、母国語との関連が見つかれば、言語として理解可能である。動物に対して人間の言語は一方的コミュニケーションの手段とはなりえても、双方向性のある言語として機能しない。[3028]

 コトバは社会的に発生したものを、自分自身が社会内で成長する過程で学習し、獲得してきた。コトバはこれまでの生活の中で体験を通して確かめられてきたものであるが、それ以前に社会的に対象を確かめてきている。[3029]

 獲得してしまった言語は、あまりにも身近な道具であるために取り扱いが雑になりやすい。主観にとって個人的な道具に思える。しかし、言語文法に従わなければ、言語は機能しない。人にもわかるように表現し、自分に言い聞かせて確認する。不十分なメモは、時がたてば自分でも解釈できなくなる。言語表現体系のなかに正しく表現されなくれはならない。言語で表現したからといってわかったことにはならない。文法的に正しいということにとどまらず、文脈=コンテキストなり、専門分野であれば他の論文との関連なりが明示されなくてはならない。[3030]
 言語は対象との関係によて拡張される。社会的に対象となる物事が名づけられる。日常にしろ、専門研究にしろ、その指示する必要のある新たな物事を、それまでのコトバの対象との関係の延長上で名づけ、表現するる。社会的関係が変化するにつれ、新たな言語表現が必要になり、言語も変化する。言語が乱れるのではなく、社会関係が変化する。言語は普遍的で、保守的であるからコミュニケーション手段として共通理解をもたらすが、共通理解できていない対象を共通理解するには手段は拡張されなくてはならない。同じ対象を意図的に、政策的に言い換える場合も、新しい物事に従来からの名称を、あるいは名称の組み合わせを当てる場合もある。[3031]

【言語世界】
 表象世界、感覚世界、観念世界、概念世界、とともに言語世界がある。コトバによって実在世界を反映する世界である。コトバによってコトバを説明し、世界のすべてを説明する、閉じた世界である。[3032]
 コトバは対象を指示する。様々な物や事を指示するコトバがある。対象があって発話される時にはコトバは対象を指示することができる。しかし対象がある時はコトバを使用しないでも対象を指示することができる。対象があってもコトバを使用するのは、同時に存在しない別の対象との関係を説明する時にコトバが使用される。時間的、空間的に隔たった対象との関係を説明するためにコトバが使用される。対象の歴史的由来を、対象をこれからどうしたいか、等を説明する時にコトバが使用される。[3033]
 言語は表象をコトバで表し、表象観の関係をコトバの関係で表す。コトバをコトバで説明する。コトバは相互にコトバで説明することによってすべてのコトバを説明する。説明は対象をコトバに置き換え、そのコトバを対象にして、他のコトバとの関係を明らかにする。コトバとコトバの関係によって、対象間の関係を説明する。対象間の関係のすべてをコトバによって説明する。新たに対象となった物事は、従来のコトバと関係付けられ、新しいコトバで指示される。[3034]
 言語はコトバを対象として指示することで実在対象から自立する。コトバによってコトバを説明し、すべてをコトバで説明する。コトバによる閉じた系がつくられる。[3035]
 他の人が書いた文章を写したり、発言をメモ、ノートにとる、それを再度読み返すことによって、表現者の思考過程を、論理を再現し、理解することができる。言語によって追体験することまでできる。言語世界を実在世界に再現することができる。[3036]
 言語の自立した閉じた系によって、コトバを交わすことによって発話者間の交流ができる。挨拶によって対人関係を円滑にもし、破壊することもある。言語によって発話者が規定されるまでになる。暗示にかけられたり、詐欺にあったり。[3037]

【言語による説明】
 言語以外にも表現し、コミュニケートする手段はある。身振り手振り、音楽、美術等としてある。しかしそれらに比較しての言語の特徴は、無限の階層性にある。言語は注釈の注釈をつけることができる。言語は多様な、ほとんど無限の注釈を付け加えることができる。言語は対象を説明するには最も適した手段である。注釈して説明することによって、音楽や美術等他の表現をも説明できる。説明できるだけであって、その表現を実現するのではないが。[3038]
 主観自体も確認のためには言語で表現してみる。言語で表現できることで対象を、世界を理解したことを確認する。逆に言語で表現され、説明されれば理解したことにしてしまいかねない。言語での表現によって、名を付けることによって結論を出したことにしてしまう。[3039]
 世論操作は証拠品ではなく、言語でおこなわれる。「うそ」は言語で実現される。繰り返されることによって、虚偽も社会的実在になってしまう。[3040]
 言語も発信者と受信者の間で機能する。発信者と受信者が対象について同じ認識をもっているなら改めて言語によるコミュニケーションを必要としない。対象についての知識、経験の違いの上で、言語をやりとりして、対象について共通の認識を確認する。共通の認識の程度は両者の関係で必要十分であれば事足りる。十分確認できたと了解できる程度でコミュニケーションは完了する。言語による表現がほとんど無限に注釈可能であることは、有限な言語表現が完全にはなりえないことでもある。[3041]

【言語の柔軟性、冗長性】
 言語は同じ対象を多様に表現することができる。多様な表現は微妙なニュアンスを表現するだけではなく、確実なコミュニケーションに役立つ。重複した別の表現、冗長性によって伝達上の誤りを確認、訂正できる。「6月5日、木曜日」は重複した、冗長な表現であるが、思い違いの可能性を減らせる。「明日、6日」は誤りの可能性をより減らせることができる。くどくない適当な冗長性がコミュニケーションを円滑に進める。適当であるかどうかが表現能力を示す。逆に冗長性の程度が表現者と相手との関係の緊密さを示し、また表現者が相手をどう想定し、どの程度に見なしているかを示す。[3042]

【対象の記号化】
 言語は社会的コミュニケーションの媒体であり、社会関係の具体個別性と曖昧さを伴っている。特定の普遍的質を抽象的に表現したり、定義した以外の意味を捨象するには、言語には限界がある。具体的個別対象はコトバで指し示すことができるが、抽象されたものはコトバで説明されなくてはならない。「クラインの壺」とコトバで指し示すことができても、何人の人にその構造を伝えることができるか。「クラインの壺」でなくとも、正四面体、円錐などの立体は体験し、特徴を学び、対象としての表象=イメージを作り出さなくてはならない。その表象はコトバではなく、思考の対象である。言語も記号ではあるが、意味は日常経験に依存しており、さらに使用される文脈によって異なる意味を表す。言語は記号として意味を伴い、表すが、その意味は言語によって既に説明されている意味である。既に言語によって説明されていることを前提に、言語はその意味を表す。普遍的質を表現し、定義外の冗長性を捨象して表現するために言語以外の記号が利用される。記号の典型は数学記号、論理記号である。数学記号、論理記号はその意味を必要十分に定義されていて解釈によって変化する余地はない。対するに、言語や音楽記号の意味は解釈されて、生きる。解釈されて生きない言語は文学にならない。[3043]
 対象そのものに代わって対象を表象し、操作可能にするものとして記号が用いられる。対象間の関係を表現する媒体として記号が用いられる。対象を表現するのではなく、対象の他との連関のあり方を定義する。対象は相互作用としてあり、双方向に作用し、動的である。この対象の要素間の関係から個別対象の普遍性を捨象、固定化して表象するのが記号化である。対象は変化するが、対象のなす関係は普遍的であり、再現性があるからこそ記号化の意味がある。煙は火の記号ではない。強いていうなら、煙は火がある可能性の記号である。数字は自然数の個別要素を表現するものとして記号の典型である。数学、論理学の記号は具体的個別ではなく、普遍的な関係を表現する関数記号である。量的変化を関数によって記号化、表現することができる。[3044]

 記号論では記号の意味表現を逆に探る。対象の意味ではなく、観察者にとっての対象との関係の意味を求める。それぞれの存在は表現するためにあるのではない。他と相互作用する運動を担うものとして存在する。[3045]

【記号の対象化】
 記号は対象を表象する媒体である。記号によって表象を保存し、伝達する。記号は対象の表象、または対象間の関係に現れる表象を写しとって保存し、伝達する。[3046]
 媒体としての個々の記号は対象の内容・意味は反映しない。個々の記号は、記号の関係規則体系の中で対象を指示する。記号観の連関の中に対象の位置を示す。個々の記号は対象を直接指示するのではない。記号一般は操作可能な規則の体系としてある。個別対象を指示する個々の表示記号として、個別の記号の関係規則の体系がある。[3047]
 個々の記号は単独では機能しない。記号関係規則体系が前提としてある。全体が定義されていることによって、個々の要素は定義される。記号の場合は全体の定義なしに要素間の関係は成り立たない。[3048]
 記号は個々の記号を定義し、記号間の関係を定義する。記号間の関係を記号化することによって記号は閉じた系を構成する。個々の記号は記号によって規定される。記号は表示されなければならないが、どのように表示されるかは任意である。個別記号の表示は任意であるが、個別記号間の表示関係は一定でなければならない。[3049]
 文字も記号であるが、言語の媒体としての記号であって、言語の意味と文字記号は直接の関連にない。表意文字には言語の示す意味と文字の形には関連があったが、今では説明されなくてはわからぬほど、その関連は希薄になってきている。文字記号は字体=フォントが違っても、乱暴な手書きであっても同じコトバを表現する。変換可能であればまったく異なる表現方法でもよい。デジタル・コンピュータはすべてのコトバを2進数で操作する。暗号は変換可能性の極限を追求する。記号は媒体に依存しないで意味を表すことができる。[3050]
 記号は普遍的存在ではない。個々の表示記号とその関係規則は、その体系の歴史をもつ。そのような社会的存在として、記号一般の変化を対象化することはできるが、これを無視して個別の記号の意味を対象とすることは遊びでしかない。[3051]

【記号の二重性】
 記号は二重の関係を表す。記号とによって表象される対象との関係と、記号と他の記号との関係である。個別記号の表象関係と、記号間の規定関係である。記号は媒介するものと媒介されるものとの二重の存在を表す。文字は意味を表すとともに、書かれ、読まれる対象でなければならない。記号は対象を表象するものであるとともに、自ら対象としてなければならない。記号は対象だけではなく記号自体を対象化する。国語辞典はコトバを対象にして、コトバで説明している。[3052]
 書かれた形、発せられた音形等の記号素材としての表示記号そのものが能記=シニフィアンと呼ばれる。表示記号の示す、もつ意味が所記=シニフィュと呼ばれる。記号は記号を対象として規定することで、能記と所記とを相互転化することができる。所記は能記によって表現されるが、能記を対象とする場合、能記は能記であると同時に、所記として対象化される。能記として表す場合は「」(括弧)に入れて表したりする。[3053]
 記号の関係規則を離れて表示する記号は何も意味しない。記号の物理的存在はインクのしみ、音の連なり、電気パルスの連なりでしかない。記号の関係規則が保存されていれば、表示媒体は交換可能である。記号の媒体(メディア)は変換できる。翻訳として規則と規則の間の変換も可能である。[3054]
 記号は記号の規則に従って操作が可能である。記号の規則体系を操作規則としてプログラムすることで、会話するコンピュータが作られた。コンピュータがその会話を理解していなくとも、人間はコンピュータとの会話を人間との会話と同様に夢中になることもある。[3055]


第3項 思考と言語

 言語学者の中には「人間は言語によって思考する」と言い切る人がいる。思考と言語は密接に影響しあっているが、別のものであって一体ではない。まず、大脳皮質の言語機能の局在からも明らかである。思考は大脳皮質全体によっておこなわれるが、言語機能は局在しており、言語理解と言語構成の機能も別の場所で行われている。[3056]
 学者は論文を書くことが研究ではなく、その前に思考が、試行(試考)錯誤があって、それを定着するために文章化していることを経験しているはずである。言語化も思考の一部であり、言語として思考を対象化して思考対象を操作可能にする。言語は思考の対象になるが、言語によって思考が行われるのではない。しかし、言語と思考の関係は思考そのものを明らかにする重要な手がかりになる。言語によって思考は表現される。[3057]

【思考】
 意識の対象理解が思考である。思考と認識とはほとんど同じである。認識は対象との関係が直接的であるのに対して、思考は対象との関係が間接的で対象に対して自立的である。認識は言語と直接関係せず、むしろ言語を認識対象とする。思考は言語も対象とするが、思考自体を言語化する。[3058]
 対象を弁別し、他との関係を見いだすことが思考である。関係は感覚では直接とらえることはできない。関係は感覚対象間の関連であり、対象を弁別し、他との関連に気づかなければとらえることはできない。感覚対象を抽象、捨象して統合することで他との関係を見いだす。単純に対象を抽象、捨象しての弁別であっても、要素とその集合としてとらえるだけでは不十分である。要素は常に補集合との関係にもある。関係を見いだす思考は繰り返しての訓練が必要である。思考は思考すること自体の訓練でもある。[3059]
 思考は対象が存在するかしないかを問題とはしない。思考は対象がどうであるかを問題にする。思考は対象の他との関係を問題にする。さらに関係を対象化し、関係が他の関係とどのような関係にあるかを問題にする。対象を比較したり、位置関係、包含関係を問題にする。多い・少ない、大きい・小さい、強い・弱い、近い・遠い、等がどの程度の量であるかを問題にする。量は比較によって表される。数による表現も、基準単位との比較である。比較は個別対象間の関係であり、個別対象を説明するものではない。対象とするのは個別対象間の関係である表象=イメージである。対象が何であるかには関わりない。対象がどうであるかが問題である。[3060]
 思考の対象化はまず抽象化、捨象化により、対象の普遍性と個別性を確認することである。対象が複雑であれば、部分に分けて確実に対象化し、対象化できた部分の連関を対象化する。部分に分けて対象化した個別対象はブラックボックスあるいはサブルーチンとして固定されるが、機能は生かされていて動的である。あるいは対象との関係を手続き化して思考する。「半分の半分、そのまた半分」「限界を超えたところ」等として対象化することで、「無限」までを対象化できる。「無限」はとらえどころのない、空疎なコトバではなく、現代数学を発展させる豊かさをもっている。抽象化、捨象化が困難である時は環境条件を制御する。環境条件を制御した実験によって対象の質を顕わに抽象し、付随条件を捨象する。落下が早すぎれば斜面を利用する。実験も困難であれば理想化して思考実験をする。[3061]
 自然科学の場合は対象を数量化し、関数化して表現する。しかし、数や関数は抽象であり、対象を具体的には表現しない。科学者は抽象的数や関数と、対象の具体的変化を経験によって結びつける。さらにデータが多くなって経験によっては結びつけることが困難になったり、生理的に扱えない量や複雑な場合今日ではコンピュータを用いて可視化する。[3062]

【思考の客観化】
 思考の対象化は思考を客体化することと、思考過程を対象として扱うことの2つの意味がある。思考の客体化は、思考したものを実在化することであり、思考自体の対象化ではない。思考したものは観念であり、観念の客体化、対象化である。思考は対象の他との関係を認める過程である。思考の対象化も、対象化一般のもつ2つの区別される意味をもつ。[3063]
 思考の対象である観念を固定するには客観化して保存する。主観の客観化は客体に働きかけ、客体として作り出すことが第一である。物として作り出すこと、あるいは物を特定の関連に位置づけること、物や人に働きかけることが主観を確実に客観化する。[3064]
 客体への直接的働きかけができない場合は、代替物を作り出す。代替物によって対象を表現する。模型でも、図面でも、絵などの造形、楽曲、そして言語によって表現する。言語による表現は言語自体の普遍性によって主観を客観化する。言語自体の普遍性とはコトバどうしの相互規定性である。コトバは相互に規定してコトバによってすべてを規定する。[3065]
 コトバにして表現することで、社会のコミュニケーションの場に思考を対象化する。[3066]

 歴史的に言語を作り上げる過程、獲得する過程は思考を客観化する過程でもあったはずである。個人的にも言語獲得の過程は客観的思考を訓練する過程であったと思う。思考は客観化されることで対象を広げ、対象間の諸関係をより詳細に対象化する。思考過程は言語を利用することで客観的になる。コトバが文字として記録されて客体化される。思考を言語で表現することで客体化できる。今では音声も記録され、客体として保存、再生される。[3067]

【思考過程の客観化】
 思考の過程で対象である個別観念は次々と入れ替わり、それぞれも変容する。主観は対象化であり、個別対象との関係は固定していない。主観は同じ個別対象を対象化するときも常に視点を変える。視線は固定しても個別対象の可能性を次々と試考し、可能性が尽きると別の個別を対象化する。主観の対象は客体だけではない。主観は観念を対象として思考する。思考は観念を対象とし、主観のうちでおこなわれる。主観は対象化に疲れると休む。注意を引くものが現れるまで対象化を休み、主観は消える。主観が対象とする観念は、主観の対象化の変化によって変容し、対象でなくなる。思考を成立するには個別対象は保存されなくてはならない。思考過程で個別観念は記憶として保存されている。記憶として保存される個別観念は思考過程で変容しつつも保存される。変容の過程でも保存される普遍性が確認される。個別対象の普遍性を確定することが抽象であり、変容する諸性質を破棄することが捨象である。抽象と捨象によって対象とする個別観念は普遍的に把握される。[3068]
 主観が対象にできるのは一つの個別対象である。一つの個別観念を対象として他の観念との関係を思考する。複数の個別対象間の関係を対象化することはできない。複数の対象を扱うことは主観のうちではできない。思考は対象のうちに個別を追求するのであり1点の連続として線形である。意識の線形性によって思考も規定されている。線形の思考で四次元時空間の実在を対象とすることに無理がある。順次たどって全体を巡ってようやく対象を把握する。言語で表現する場合も同様である。言語も線形の表現手段である。[3069]

 「意識」とか「思考」を対象とし、表現しようとするのであるから苦しい。相互規定関係を線形に表現するには、一方の規定・被規定を規定し、次に他方の規定・被規定を規定し、後に双方の規定・被規定を全体の構造として結び付けねばならない。立体構造を線形に表現するには、一筆書きのように同じ点を何度も通過しなくてはならない。[3070]
 だからこそ、思考を表現するために皆苦心する。適切なコトバを探すのである。対象の量を、量の変化を表現する適当なコトバを探す。コトバを見つけるのが目的ではない。対象の対象間の量、量の変化をとらえることが思考の厳密化である。[3071]
 今日ではコンピュータを使って四次元時空間の運動をシミュレーションし、表示することもできる。次元数すら4つに制限されない。[3072]

 複数の対象は主観の外に客観化されなくてはならない。対象は操作可能な客体によって表現される。石ころや木片等によって表現し、石ころや木片によって印をつけることによって表現する。考えを整理するために図表を描く。同時に、個別観念はコトバと対応され、言語によって表現することでも客観化される。[3073]

 言語記号は思考の対象を個別的に論理的操作可能なものとして関係づける。対象を概念として定義し、対象間の関係概念を定義する。対象間関係がどのように変化するかを定義する。関係の変化が対象をどのように変化させるかを定義する。この定義の過程を対象化することが思考過程の対象化である。思考過程は主観における観念の運動である。[3074]
 認識過程の媒体として、言語は思考過程を再現可能にする。記憶された思考過程も再現可能であるが、記憶に依存する。思考過程も記憶されるが、記憶過程で表現を媒介する言語は記憶されるだけでなく、音声なり文字として記録することができる。記録された言語により思考過程の再現が可能である。[3075]
 指示対象との一致を繰り返し評価された言語によって、社会的(普遍的)意味の媒体として思考を再現することができる。言語による表現が、どの様に思考されたかの意味、構造を指示することができる。その表現した本人が後に追試する、または他人がその思考過程を追体験する標識として言語は機能する。社会で繰り返し表現されることによって、言語の表現する思考の普遍性が検証される。検証されて言語はより普遍的意味表現を担うようになる。言語は思考過程の記憶媒体として機能する。[3076]

【思考の固定化】
 思考の言語化は、思考の後追いである。思考の確認である。[3077]
 思考は個別対象間の関係を問う。個別対象を何と呼ぶか、何と名付けるかには関係ない。対象を何語で表現しようが関わりなく、対象間の関係が表現される。対象間の関係は観念の関係として論理の関係である。関係のうちで評価されて観念は概念として定義される。概念と概念の規定関係は論理関係として定義される。[3078]
 対象概念の言語化は固定化である。一つの概念は一つのコトバで表現される。コトバは一つの固定した、変化しない表象である。コトバは何によって媒介されようとも、表現する概念を不変に表象する。概念は実在対象ではなく、概念間の相互規定関係の中で定義されている。変化すら不変化され表現される。表現された物は変化してはならない。映像であっても、映写されるたびに違ってはならない。固定された言語間の関係は形式論理によって規定される。コトバによって名付けられた対象は、いくつもの説明を付けられる。説明相互に矛盾があってはならない。コトバは言語によって説明される。説明を付けられたコトバが、他の対象名を説明する。[3079]
 しかし、実在対象は運動し、相互作用する。運動は不変と変化の矛盾する過程である。対象の普遍性は変化しないが、個別性は変化する。対象の表現は対象を追いかけなくてはならない。まして言語化して固定しても、意味は解釈されなくてはならない。どのように解釈されても変わらないまでに普遍性を追求し続けなくてはならない。[3080]

【観念と物質】
 主観にとってすべては観念として与えられる。主観自体が観念である。主観は観念以外ではありえない。主観が対象としているのは脳に反映された表象であり、主観の対象としての表象が観念である。[3081]
 主観は自らを自ら説明することはできない。説明は対象について説明することである。説明するために対象化した「主観」はもはや主観ではない。主観は対象化するものであり、対象ではない。[3082]
 対象なくして主観はない。主観は対象によって説明される。対象間にあって生活する人が、精神によって対象を反映するものとして主観は説明される。対象を指し示す言語によって主観は説明される。[3083]
 問題は対象は対象によってどのように説明されるか、主観は対象によってどのように説明されるかである。[3084]

 自分自身の主観によってとらえられた観念に対立するものとして、対象は物質である。そして自分自身も物質であり、観念も物質によって媒介されて存在する。すべては物質であり、物質によって存在しているが、観念と直接の相互作用を持たないものとして観念と区別されるものとして、物質の意味がある。[3085]
 物質はすべて相互作用する、運動する存在であるが、観念は物質の特殊な運動形態である思考として世界に存在している。観念は思考を介し、肉体を介して物質と相互作用できるのであって、観念と対象となる物質は直接相互作用しない。[3086]
 しかし、観念は世界観として全世界を対象とする。世界と観念は直接結びつくが、それは観念の中においてである。観念は観念の内において世界と直接し、世界観を構成する。[3087]
 世界・世界観において物質は観念の対立物としてある。観念は物質の産出物としてあり、観念と物質は、思考と実践によって統一される対立をなしている。[3088]

【主観の対象】
 主観は対象化するものとして、対象を規定している。[3089]
 相互依存関係にある客体としての「主観」には対象は与えられた「他」である。「他」は主観によって対象化されるまでは、他と区別されない「他」である。主観は個別として他を対象化する。個別として抽象し、捨象することで主観は他を対象化する。しかし、対象は主観によって区別される以前から他と相互に区別しあっている。主観は多様な相互規定の一つを、規定関係全体から捨象して対象化する。主観は対象の表象のひとつを捨象して対象化する。[3090]
 主観は意識によって実現している。意識を対象化する意識が主観である。心理学の対象は意識であるが、世界観の対象は主観である。心理学は客体として意識を対象化するが、世界観では実在する自分、実践する自分、主体における意識を「主観」として対象化する。[3091]
 主観は「主観」を対象化する、意識を対象化する、主体を対象化する、客体を対象化する、世界を対象化する。対象化する主観の位置は対象に応じて変わる。対象が変わるのではなく、主観の位置が変わる。[3092]

 意識は主体の生理過程として、実在過程としてある。これに対して主観は、客体との相互関係の形式としてある。主観のうちに反映される客体を対象化する観念が主観である。観念と観念の相互規定関係に主観はある。主観は反映された対象との形式的関係にあって、普遍的、抽象的である。これに対し意識は対象に対し実践的であり、具体的である。これは証明のしようがない。このような関係にあると解釈しているのであり、解釈の正誤と関わりなく、このような関係以外にはない。[3093]


第4項 意識の共有

 人間にとって対象は物事にとどまらない。世界についての認識が社会的に蓄積され、交換されている。認識の仕方も教育される。蓄積され、交換され、習得される認識は情報として対象化される。人間にとって情報は意識の共有として問題になる。情報一般ではなく、人間にとっての情報である。[3094]

【意識の情報化】
 言語が最も一般的情報媒体ではあるが、より基本的には物事の媒介された表象が情報である。物事の表象そのものではなく、写し取られた表象が情報を担う。意識への反映も表象の写し取りであり、情報化である。[3095]
 認識し、記録することが情報の生産である。直接対象を認識する過程だけではなく、記憶した対象・観念間の相互関係を整理することも情報の生産である。意識は記録されることで情報になる。有用性には関わらず、人間にとっての情報は記録された意識である。[3096]

【情報体系としての世界観】
 単に記録された意識としてだけではなく、反省された意識として世界観が構成される。意識の経験の記録にとどまらず、世界の構造に対応した体系としての世界理解である。世界の体系に個々の経験を評価する。個々の意識経験を、意識経験の世界体系に位置づける。同時にそのことは意識の世界体系の構成でもある。[3097]
 体系化の程度は様々でありえる。偶然の意識経験をただ蓄積してできあがった全体としての世界感なら、誰しもがもっている。価値を見いだそうとして、全体を評価することによって体系化へ向かう。価値基準を明確にして、価値基準に従って体系化したものが世界観である。[3098]
 世界観は主観のうちに観念として構成されるが、表現されることによって客体化する。表現された世界観は情報体系としての客体である。観念として世界観を構成した本人だけではなく、他の人によって対象化可能な客体としてある。[3099]

【情報の操作:リテラシー】
 人間にとっての情報は発信、通信、蓄積、検索、加工として操作される。情報の操作には訓練が必要である。言語であっても、無意識であっても訓練が必要である。言語が訓練によるものであることは、だれもが育った環境の言語を母語として獲得することからあきらかである。母語は先天的には決まっておらず、生育環境での訓練によって獲得される。[3100]
 母語であっても意識的な訓練によってよりよい操作が可能になる。表現技術も訓練によって磨かれる。情報操作でより重要なことは意味の操作である。修辞操作技術も基本的に必要であるが、より重要なことは意味の操作である。より明確な概念として提示し、概念定義は表現の中で一貫していなくてはならない。概念はいつでもどこでも同じ意味を表象し、普遍的でなければならない。[3101]

 キーボードやマウスの操作が情報を扱う能力ではない。ワープロや表計算ソフトを使うことが情報技術ではない。コンピュータは情報を操作する手段、道具であって、コンピュータを操作することが情報活用能力ではない。この自明なことが一般に理解されないのは、一般には情報はテレビ等のマスコミによってたれ流されるのを受け入れるものだけだからである。一般には情報は操作する対象として受け取られていない。[3102]

 情報は客体として蓄積されており、どこにどのようにしてあるかを知らなければ利用できない。しかしすべてを知っている情報であれば、探す必要もない。知らない情報であるから探す。情報は隠されているのではなく、関係づけられて検索可能に整備されている。索引がつけられて、索引をたどることによって情報にたどり着くことができる。情報は容易に検索できるように蓄積されねばならないし、検索の技術、知識を学ぶことも必要である。意識的に関連づけられていなくとも、物事はすべて連関の中に生起しているのであり、孤立していない。物事が情報として蓄積される過程で残されているはずの他との関連を見つけることも検索技術である。[3103]

 そして何より、情報評価が情報操作の核心である。与えられた情報を評価することはむろん、蓄積の仕方も評価によって異なる。情報を公開すべきか保護すべきかも情報の評価である。しかしそれも、善意か悪意かでも処理は異なる。社会的情報は時代と共に評価基準が変わる。社会の評価基準がどう変わっているかを理解しておくことはむろん、逆に社会自体の評価も基本的に必要である。[3104]

【知的能力の拡張】
 個人の知的能力は社会的共同によって発達し、社会的に規定された能力である。この個人の知的能力が社会的に組織されることで拡張される。自然科学はもはや個人ではなく、研究組織によって担われるようになってきている。[3105]
 また社会化することだけでなく、知的能力は道具の利用によって拡張される。生理的感覚器官ではとらえることのできない相互作用を観察器具、観測機器を利用して認識できるようになる。思考を記録すること自体が思考を客観化し、客体の操作として、そして記憶を保存して思考を拡張する。[3106]
 社会化と道具の利用が相まっての知的能力の拡張の例は印刷技術である。印刷によって情報の共有、流通に画期的な役割を果たした。それ以上に今日の情報ネットワークは貢献する。[3107]
 今日の情報ネットワークを実現しているコンピュータは個人の知的能力も拡張する。計算、記憶、検索と言った知的作業を正確に、効率的に行うことを可能にしている。コンピュータは膨大な計算量を高速で処理することでも知的能力を拡張する。シミュレーションによる試行錯誤は創造性、想像性に役立つ。専門家の知識をデータベースとして利用可能にし、専門家の技術をプログラムとして利用可能になる。ただし逆に、その知識、技術を利用する目的、知識と評価がなくてはならない。人間とコンピュータの相互関係自体=インターフェースも、コンピュータによってより使いやすく改良される。[3108]

 ただし、知的能力の拡張は誰にでも平等ではない。力のある者にはより大きく作用し、力がわずかな者にはわずかしか作用しない。そして情報を支配しようとする者に巨大な力を与えてしまう。情報を支配するものは公開情報と非公開情報を恣意的に決定できる。情報の流通を制御できる。[3109]

【信号処理】
 信号は情報系での表象媒体である。情報系としての相互規定系で信号は機能する。信号は発信者と受信者の間で送受される情報を表象する媒体である。信号は通信媒体である。信号そのものは発信者と受信者間の通信規約があって通信媒体としての機能を果たす。信号は記号と違って解釈の余地があってはならない。解釈の土地がないよう定義されなくてはならない。通信規約にかかわらないものにとって、信号の情報は意味を表さない。交通信号は交通規則に従う人にとって信号であって、交通規則を知らない子供や外国人、ましてや動物にとっては他の表象と区別される客体の一つでしかない。[3110]
 情報を確実に伝えるために信号は階層化される。信号の階層は通信規約=プロトコルとして規定される。物理的媒体の階層では、信号を保存し、伝達する媒体が選ばれる。信号を伝達する階層では、信号と雑音とを明確に区分する。信号を信号として実現する階層では、信号相互の関係を規定する。情報を信号化し、信号を情報化する階層では符号化、複合化を規定する。最後に情報を人間にわかるように表現し、人間が情報を表現する手段を提供する。これら階層をどのように区分し、システムするかは技術と歴史の問題である。[3111]
 情報を対象として扱うのではなく、情報の発信受信主体として信号は直接の対象になる。情報によって互いの行動を調整する場合、信号を発し、信号を受ける主体になる。情報の授受が目的であれば符号化・復号化がどのように行われるかはシステムに任せておいてもかまわない。しかし互いの行動を調整するには、信号の発し方、受け方は直接に作用する。車の運転手と道路を横断する歩行者のアイコンタクトの成立は命にすらかかわる。 [3112]


索引   次章