第二編では自分を含む世界全体の一般的構成を整理した。この第三編では全体に含まれる自分が主体として、主観として、全体に対し、他に対し、どのようにかかわるかを整理する。主体は他との相互作用にあって他を対象化するが、主観が対象化するのは主観に反映された世界である。[0001]
世界を反映するものとしての人間存在、特に意識の存在論である。意識には反映された客観法則としての論理が含まれる。論理も世界の秩序、法則の反映である。[0002]
「人間原理」の批判であり、人間の物質的基礎から最高の運動形態としての意識と、その機能についてである。[0003]
「意識」は自らの反省として主観的に対象化できる。また他方で生理学、心理学、情報学等からなる認知科学によって客観的に対象化できる。しかし、自らの反省だけでは自己了解に終わってしまう。対して現在の認知科学では自意識としてしっくりこない。個別科学の成果に学んで、自意識を対象化する。[0004]
人の進化がどのようにして意識を実現したかは、第二部第二編生命の発展で個別科学に学んだことを整理する。その成果をここに先取りする。[0005]
生物進化の過程で獲得してきた感覚器官・神経系による認識能力を、環境条件に対する普遍的対応能力である思考へと発展させてきた。環境条件に対する我々ヒトの反応能力は、生理的条件によって制約されている生理的思考を実現した。生理的思考は感覚的認識とでも呼びたい表象に依存した、直接的思考である。この生理的思考が我々人間にあっても認識の基礎である。生理的思考の方法は類推である。類推によって新しい環境条件を理解し、世界を理解する。[0006]
さらに人間の認識はこの生理的思考を超え、対象を概念として表象し、論理によって概念を操作する。人間の認識はこの論理的思考を獲得したことで、環境条件を変革する普遍的能力を獲得した。人間は論理的思考によって現実変革能力を獲得した。[0007]
これまでいわれてきた感性的認識、悟性的認識、理性的認識の分類とは異なる生理的思考と論理的思考に分類してみる。この分類によってヒトが生きるために必要な、生きることに制約された認識能力と、普遍的認識能力とを区分する。この区分によらなくてはもはや世界を理解し、問題を解決することはできない。生理的思考は日常経験の空間・時間、物質の存在理解にとらわれている。日常経験を超える変化に、環境に、文化に対応できない。日常生活を脅かす問題に対して、普遍的世界の理解が必要である。普遍的な世界の実在理解は論理的思考によらなくてはならない。普遍的実在理解によらなければ、日常経験を超えることはできない。今日が時代の節目であるかどうかは、歴史的に観なくてはならないが、人間の認識、文化、そして社会は節目でなくとも常により普遍性を求めて進んできている。[0008]
【「今」の認識】
直接的認識、生理的認識はすべてのもの今、現在を知りえない。身の回りのことであっても五感で感じていることすべてを今、現在自覚できない。対象からの光であっても、眼に到達するまでの時間、眼での信号処理、脳の視覚野への伝達に、対象としての認知に時間がかかる。胃の中の食物がどの程度消化されたか、腸内の発酵がどれほどのガスを発生したか知りえない。生理的認識では今現在を知りえない。今、現在、世界で何が起こっているかを、アメリカ大統領ですら知りえない。今現在、太陽のコロナの形を天文学者も知りえない。天文学者は過去の出来事しか観測できない。物理学者も離れた場所の出来事が同時であることを検証できない。機械設備、スパイ組織を使えても今現在の対象を知りえない。[0019]
「今、現在」と「知る」ということは、世界観にあっては物理的観測の意味ではない。世界全体の構造の理解と、その構造内の各過程の進み具合いから全体の状態を推測することが知ることであり、その時点が今現在である。知ること自体が対象との、そして主体内の相互作用過程としてある。過程としてあるのであって、結果、結論として知るのではない。対象としての世界ではなく、世界を反映する思考によって世界を再構成して知るのである。[0011]
【実在の総括】
世界の存在は思考によって「実在」として総括される。この世界観では世界のすべての存在は実在として一つの世界をなし、すべては実在として他のすべての実在と連関し、世界を構成している。[0012]
実在の中にあって、実在を反映する実在として主観がある。実在の歴史的過程の中で、実在の人間の誕生・成長の過程の中で、主観が形成される。しかし主観は一方的に、受身的にだけ形成されるのではない。実在対象と相互作用する主体の生活過程にあって主観は存在する。実在を対象とする主体を媒介に、主観は対象を論理的に再構成する。[0013]
実在を対象として、主観は論理的世界を世界観として構成する。主観は世界観として実在を総括する。実在性は個々の対象の性質ではなく、実在の総括としての世界観に位置づけられる関連性である。[0014]
【実在過程と反省過程】
この実在における主観の位置づけを改めて検討する。主観の側から改めて主観の存在を検討する。[0015]
主体としての実在にあって、実在としての人類、人間として生まれ、成長してくる過程、そのなかで主観の成立する過程は実在過程である。主観の成立過程自体が実在としての実在からの反映過程である。対象と主体の実在としての運動過程である。主体の生活、生きることそのものの過程である。この過程は個別科学の成果によって後づけることができる。[0016]
成立した主観が主観自体を対象化して反映し、反映の中に実在と主観自体との関連を跡づける過程が反省過程である。主観の自覚的認識過程である。反省は主観の対象化だけではない。主観に反映された個別対象を、主観に反映された世界観のうちに位置づける評価も反省である。反映された個別対象の実在性が世界観における位置づけとして主観によって判断される。実在性は実在過程にあっては対象そのものである。しかし反省過程は主観によって反映された個別対象の連関を問うものであり、実在性そのものが反省される。反省過程は主観が既に獲得した世界についての理解にもとづいて、個別対象を理解、説明する。この過程は個別科学によっても検証できない。[0017]
人間主体での実在過程と反省過程とは相補的過程であり、一方だけが単独では存在しない。反省過程も実在過程の一部分であるが、実在過程だけでは反省は実現しない。実在過程としての人間主体のうちに個別実在が対象として取り込まれて、実在と区別されて反省される。反省過程のみを捨象したのでは実在との連関が絶たれ、反省が成り立たない。[0018]
主観の成立は主体としての生活過程にあり、主体自体実在であり、主体の個別対象としての実在は客体としての関係にある。主体の対象である客体は、主観にとっては客観として反映される。客観は主観の内に反映・反省された客体である。実在は主観にとって客観的に反省される。主観は個別対象の直接的反映に依拠するのではなく、反省し、世界観によって評価することで、対象を客観的に反映する。主観は「主観的」でなくなることはできない。主観は主観でしかない。主観は主観自体の規定、制限を自覚することで「客観的」である可能性をえる。[0019]
【客観的存在】
客体の反映としての客観存在は、実在の存在形態だけにとどまらない。数、幾何学図形、論理は実在の形式である。数だけ、幾何学図形だけ、論理だけの存在は主観に反映された客観的存在形式として存在するのであって、客体そのものとしては存在しない。存在形式は個別実在間の関係形式としてあり、主観への反映として存在する。客観的存在形式は実在間の関係形式として実在性と一体であるが、主観へ反映された存在としては、反映されていることを主観が無視すると実在性を失ってしまう。反映性を失うと客観的存在形式はそれこそ主観的存在になってしまう。客観的存在ではあるが実在としてのすべてではない。実在の形式として、実在の一面である。[0020]
これらの反映の総過程を、個々の過程をたどるのが「第三編 反映される一般的世界」である。[0024]