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第二編 一般的、論理的世界

第二編の始めに

 第1編序論での、自分と世界との相対的関係を前置きにして、本論に入る。

 ここからの本論は前置きとした自分と世界の相対的関係について、「相対性」 の「どちらつかず」ではなく、「関係」の「確かさ」を問題にする。「関係」 をなす要素のあやふやさは保留し、要素はともかく、なんらかの要素からなる 全体の確かさから問題にする。全体の枠組みである、形式である「関係」をま ず問題にし、内容は順次枠組みとの関係に応じて問題にする。要素、内容は関 係において位置づけることにより、あやふやなものでなく、確かなものへと順 次確かめられる。

 自分と世界との関係はそれぞれの位置関係であり、作用の関係であり、存在 根拠の関係でもある。また、世界に対する自分の視点の問題であり、解釈の問 題であり、なにより自分の生活の場の問題である。
 言い替えて、これからの課題、目的は、世界について、世界観について、世 界観の叙述について、世界の変革についてである。これら4つの目的は、別々 のものではない。性質は異なるが内容は同じ事柄である。互いに重なり合い、 依存し合っている。相互に依存した一つの事柄であり、分けて取り上げること はできない。しかし、同時に取り上げることもできない。始めに取り上げ方を 明らかにしなければならない。

 これから問題にする自分を含めた世界は物質そのものである。つまり唯物論 の立場に立つ。これは前提であるが、根底的な問題であり、結論でもある。世 界は物質以上でも、以下でもない。証明以前の問題である。あえて、ここで唯 物論であることを宣言するのは、観念論ではないことを宣言する為である。初 めの一部分で表現が観念論的な形を取りはするが、唯物論である。

注47
 唯物論か観念論かの問題は哲学の根本的問題であるが、極一部分の問題であ る。それは観念論との対立として始めて唯物論では問題になりえる。観念論、 唯物論の問題は、物質の最高の発展段階である精神の働きの一部分として問題 になるに過ぎない。精神の働きにおいて、世界をどのように解釈するかという 問題である。
 ただ、観念論と唯物論とのどちらが正しいかの問題は、精神が精神の働きに ついて判定しなければ成らないので、厄介である。精神にとって判定は「どち らかの立場に立ってみて、判定者である精神も含めた世界を統一的に理解でき るのはどちらか」によって決めるしかない。
 したがって、観念的に世界を解釈するとどのようになるのかは問題にしない。 神や、霊魂の存在を唯物論の立場で問題にしても、観念論としては取り上げな い。

 そもそも、唯物論以外の立場で、それらについて問題にできるとはとても思 えない。問題の提起とか、説明の根拠について、物の関係からしか何も言えな い。何かを説明するのに、物の関係を無視しては何も表現できない。例えば、 「神は、全知、全能である」と主張しようにも、「知」「能」とは、物を対象 にしなくては説明できない。物質でないものとして「霊魂」を対象にしようと しても、霊魂を説明するには人間なり、生物なりの物質的なところから説き起 こさねばならない。あるいは、超自然的現象について、何が自然で、何が自然 を超えているのかを、自然の否定、あるいは自然を限定する事でしか説明でき ない。物質以外の物事を根拠にしては、何も問題にすることはできない。言葉 にするにも、考えるにも、物質とその関係を基準にしなければならない。

 繰り返しになるが、世界を宇宙と言い替えると、銀河系、太陽系、地球系と いった範囲を思い起こすが、宇宙はそれだけではない。天文学が対象とする宇 宙は、そうした大きなスケールと、さらに大きなスケールから、分子、原子、 素粒子等までの小さな物質の生成消滅の反応である。また、実際の宇宙空間で は少なくとも地球上では生命活動、人間の知的活動がある。
 したがって、世界観で全体の意味で宇宙と言う場合には、これら諸層を含ん だ時間と空間を表す。いわば、宇宙は物質的時空間である。これにたいして、 世界は概念的時空間である。物質的時空間と概念的時空間とを区別することが、 世界観と世界観の表現には、前提として必要である。内容と表記、所記と能記 の区別に対応している。対象間の関係が問題なのか、表記の形式が問題なのか 明確に区別しなくてはならない。

 物質的時空間と概念的時空間との区別は、物質的時空間を勝手な解釈を合理 化するための方法ではない。物質的時空間についての個別科学の成果と、概念 的時空間との対応関係を明確にするための方法である。物質的時空間について の個別科学の成果が一般の表現においては「連続」「無限」「絶対性」などが 無限定に使われる。それらの概念は、それぞれ個別科学分野の中で特別に限定 される概念であって、日常言語の意味とは十分一致しない。それらの表現、専 門用語を、個別科学の成果を踏まえている装いとして、概念的時空間の用語と して直接に持ち込んではならない。概念的時空間の用語は、各個別科学用語、 日常言語それぞれとの関係を考慮しつつ、概念的時空間内の、世界観の用語と して定義され、全体の中で統一的に、普遍的に、限定された意味で用いられな くてはならない。
蛇足13
 個別科学の成果を踏まえることは、それを直接概念的時空間に持ち込むこと にはならない。個別科学の成果それぞれを、概念的時空間の全体の中に普遍的 位置づけ、概念、用語を限定しなくてはならない。
蛇足14
 全体の中で統一的な、普遍的な用語、概念、あるいはそれぞれの位置での限 定された用語、概念を用いた世界についての世界観の解釈が、個々の個別科学 の成果とよりよく、正確に対応関係がとられなくてはならない。

*****  *****

 この第二編では、物質としての世界の全体の運動、世界の全体的運動が作り 出す部分的運動、これらの部分的運動と部分的運動とによって形づけられる全 体的運動の形式、世界の構造を問題にする。
 運動と運動との関係として形づくられる構造は、世界の構造であると共に、 物質の構造でもある。物質の構造として、世界は物質の階層構造を成している。 世界の階層構造、物質の階層構造は、物質の発展史の結果であり、また、宇宙 の自然史の現在の結果である。
 したがって、世界観は物質の運動の論理と、物質の発展としての宇宙の歴史 に導かれる。物質の発展の論理を正しく理解しているか、宇宙の歴史を正しく 知っているかは、歴史的、社会的、そして何より個人的制約を避けえない。世 界観にまつわる、これらの制約を少しずつでも取り払うことも世界観の課題で ある。

【章立て】
 第5章は「全体」についてである。何から始めるべきか、何を対象とするの か、その答えとしての「全体」についてである。世界の最も一般的な形式につ いてである。全体の、いわゆる「外延」である。基点としての絶対的存在とし ての全体の性質を考える。 

 第6章は「全体」の内容である運動についてである。全体の運動であり、最 も一般的な運動についてである。運動は、「全体」の存在形態である。運動す るものとして、「全体」がある。全体の、いわゆる「内包」である。全体の存 在形態としての運動形式、絶対的全体を形式的に否定する部分の存在形態を考 える。全体に対する部分であり、部分間の相互関係として区別されてはいない。
注48

 第7章は全体の運動において、全体の運動によって、全体に対して、またそ れぞれに対して区別される、部分としての運動についてである。全体存在をそ の運動によって否定した部分の存在についてである。一般的である全体の運動 に対し、区別された運動は、部分の運動でありながら、全体の運動の一部分で ある。全体と部分の関係における、普遍的運動についてである。部分間の相互 関係として区別された部分の存在形態、運動について考える。

 第8章は部分と部分との関係としての運動についてである。全体から区別さ れ、部分と部分として運動する個別的運動である。個別的運動は、部分の存在 形態である。いわゆる物、物質の形式である。全体に対する部分の定義を考え る。

 第9章は運動の形式、運動法則である。したがって、全体としては世界の基 本的あり方である。全体の運動形態の基本法則を考える。

 第10章は個別的運動の内容、個別的存在の構造である。部分としての個別 的運動の存在形態である。

 第11章は個別的運動の具体的現れ方である。部分の、個別的存在の現象形 態である。そして、全体は部分である我々に対して、この現象形態として現れ る。我々は個別的存在の現象形態から個々の対象を見、全体を見る。

 第2編は最も抽象的な全体から、具体的な部分へと展開する。それは、世界 の基本的あり方であり、世界の構造であり、諸現象の現れ方である。


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