概観 全体の構成
【定義】
定義は定義の対象について、他と区別する必要十分な性質を述べることであ る。定義された主語と述語の関係形式の論理をたどれば循環してしまう。「Aは B,C,D・・・の性質を持つ」「B,C,D,・・・の性質を持つのはAである」この循 環を断ち切るのは対象との関係である。定義され表現された「定義」は「定義」 の対象との関係にあって意味、内容を表現する。「定義」と定義される対象の 関係によって「定義」は2つの形式をとる。
「定義」の形式は対象を他と区別する方法と、特定の性質による方法とがあ る。
前者は対象の範囲によって定義し、後者は対象の内容によって定義する。
前者は他との包含関係による定義であり、後者は要素による定義である。前 者の定義から、対象の定義された以外の性質がつけ加えられていく。後者の定 義から、定義された性質の対象の他の対象との関係がつけ加わる。
では、「全体」を定義する。
注49
ここで始めに問題にする「全体」は、相対的全体でも、相対的全体からなる 普遍的全体でもない。絶対的「全体」である。
【全体の外延】
始めに定めるべき「全体」は他の何物によっても定めることはできない。そ れについて言い表すこと、区別すること、特徴づけることはできない。
客観的にも、主観的にも「全体は」全体である。「全体」は他と区別するそ の「他」がない「すべて」である。「全体」は全体以外のものを持たない故に、 全体以外のものによって説明、限定することはできない。全体はすべてをその 内に含み、その外には何もない。他のものがないのが全体の第一の性質である。
全体に関係するものはすべて全体の内(側)にしか存在しない。全体以外、 全体の外(側)には何も存在せず、外(側)自体存在しない。「すべて」であ り、すべてを含んでいるから、全体の内にないものはない。全体でないものは 存在しない。全体はその外に何物も持たない、置かない。全体はそもそも、そ の外などがない。全体と全体でないものとの境界は存在せず、境界自体がなく、 境界によって全体を限定することはできない。「全体」は範囲として規定でき ない。範囲を規定できない存在として、「全体」は無限定である。「全体」は 外延を持たない。
【全体の内包】
全体を全体以外のものによって限定し、定めるとすれば、それはその内(側) からの関係でしかできない。
全体でないものは全体に含まれる部分である。全体が関係するのは全体を形 式的に限定することで示すことのできる「部分」である。「部分」を要素とす る集合として「全体」を規定することが可能になる。
全体ではないものとしての「部分」からみるなら、もっとも大きな集合が 「全体」である。集合の集合の、限りない集合の集合、無限の集合として「全 体」は規定される。「全体」は「すべて」を内包する。
全体はどの様に小さいものもすべて含む。どの様に小さく規定し、無限に分 割したものをも含む。無限に分割して得られるゼロ、あるいは「空」、あるい は「無」も、全体は含む。全体が無限であるということは、その内に「無」す ら含み、ないものはないのである。
同じものは同じであり、同じものに違いが生じるのは条件が異なるからであ る。条件の違いは全体には現れない。条件の違いは部分間の違いであって、同 じ全体の中の部分に対して条件が異なりえる。
異なるものであっても必ず同じ部分があり、同じ部分の方が異なる部分より も普遍的である。全体はその普遍性の究極である。究極的普遍性は何等区別が なく「普遍性」の意味を失う。普遍性の究極が全体である。
全体は全体として、全体のままでは分けることはできない。全体は部分を含 むが、全体は部分ではない。仮に全体を分けたら、それはもはや全体ではない。
注52
【全体の絶対性】
すべてを、無限を含んでいながらひとつであるもの。これは矛盾しているが 全体の絶対性である。この矛盾は誰も否定できない。但し、何の意味もない。
無意味な条件付きの絶対性である。「絶対」の意味は永久不変ではない。決 定されたものの意味ではない。まったくその反対の意味である。他にはありえ ない、何物にも規定されない、その意味ではまったく無意味な「絶対性」であ る。
注53
全体が「全体」であるのは、他方に全体ではないものがあるからである。全 体だけが「すべて」であるのなら、なんの意味もない。単なる全体だけの存在 は何もないに等しい。
注54
斉一性と局所性を統一する関係としての全体と部分の関係である。
【全体は部分と対立する】
全体は全体以外には有りえないが、その内に部分を含んでいる。全体でない ものは全体に含まれている部分である。「全体」を否定することで、ありうる のは部分である。
全体は全体でないものとしての部分と対立する。ただし、この対立は複数の 別個のものの対立とは異なる。形式的な対立である。この形式によって「全体」 が定義される。
全体は多様な現れ方として部分を含んでおり、部分のあり方は全体をになっ ている。全体と部分の対立は互いの存在を前提にした対立である。
全体に対立するものとしての部分ではあるが、全体と部分は一体のものであ る。全体と部分の対立は一体のものとして、統一している対立である。全体と 部分はどちらが先か、どちらが基礎かといった対立ではなく、互いに依存し、 互いに前提し合う対立である。全体と部分の対立は、部分間に現れる対立とは 異なる。
【全体の対称性】
全体は形式的に部分に対立するが、部分と部分の区別ができない、部分と部 分を入れ換えても全体が同じであることを対称性という。「入れ換える」とは 形式的、観念的処理の場合もあれば、具体的物質の移動の場合もある。
全体は、いつでも、どこからでも同じに見える。全体は他であることはあり えないから、移動することも、入れ換えることもできない。全体は絶対的等価 である。全体は他でありえない、破れることのない対称性をその形式としてい る。全体の対称性は絶対的である。対称性そのものを全体は問題にしない。
【全体の対称性の破れ】
部分が部分間の問題として問題になるのは、対称性が破れる場合である。対 称性が破れることが部分を識別することであり、識別できる部分の差異が現れ ることである。対称性の破れによって区別される。
区別されるものとしての部分は、区別の前提にその存在は同じもの、普遍的 存在があるから区別される。普遍的存在が個別的形態で現れるから区別される。 相対的に区別されるのであり、絶対的部分はより普遍的存在としてある。絶対 的部分はより普遍的存在として区別されず、分けられはしない。それは全体と して一体のものである。
注57
部分との関係にあって全体は実在である。部分は全体として一つのものであ る。まず全体だけでは何も明らかではない、明らかにならない。全体の要素で ある部分が明らかにされなくてはならない。
全体は部分には還元できない、しかし部分が部分間の相互の関係として示す 全体性、方向性、極性として全体がある。他にない絶対的全体ではなく、部分 間の相互関係のすべてとして、部分と対立する全体がある。全体との形式的関 係としての部分とは別に、部分間の相互の関係として部分から区別される。
注58
【部分は全体に含まれる】
全体は部分の寄せ集めや、部分の集合として考えられるものではない。全体 はひとつであり、部分は多様である。しかし、それは別のものではなく、あり 方の現れ方の形式的違いである。
注59
形式的には、全体は部分を包含する。全体は、存在として部分と別には存在 しない。存在として全体と部分は不可分である。
【全体と部分は相互規定関係にある】
全体がどの様なものであるかは、部分のあり方の問題である。全体は全体と しては絶対的であり、それ以上でもそれ以下でもないが、部分の全体としてい くつかの性質を持つ。
全体の内で個々の部分は有限であるが、全体の内で部分の連なりは無限であ る。
全体は部分に分けられるが、部分は部分相互に関連している。部分はそのあ り方として、全体を性格づける内容である。全体の性質は部分によって特徴を 持つ。部分は全体の部分として、全体としての関係として全体を特徴づける。
全体の性質の局所性が部分の存在である。部分の存在の非局所性、斉一性が、 全体の性質である。
【絶対的全体の相対化】
部分に対する相対的全体として、絶対的全体が部分によって相対化する可能 性がある。完全な対称性をもった絶対的全体が、対称性の破れとして非対称な 存在としての部分をつくりえる。
部分としては決定されない全体の形は、全体の内部構造を分析しても出てこ ない。絶対的全体に内部構造はない。絶対的全体を相対化し、部分全体の関係 のとして内部構造が現れる。
【部分の全体に対する位置】
絶対的全体に対する部分は、関連性を持った部分である。孤立した部分はあ りえない。絶対的全体は一つであり、一つであるものの中に孤立した部分はあ りえない。そもそも「孤立」は部分がもつ多様な関連性のうち特定の関連が断 たれている関係である。他と、全体と関連しないまったくの、絶対的「孤立」 は存在そのものの否定であり、「孤立」とうい関係自体の否定である。「孤立」 自体が相対的概念であり、存在である。絶対的全体に対し、絶対的孤立、絶対 的部分は存在しない。すべての部分は全体との関連性をもつものとして存在し える。すべての部分は、その存在根拠に全体性を持っている。
注61
【部分の全体における相互関係】
絶対的全体に対する部分は、絶対的全体の関連をなす結節点としてある。部 分は部分として単独であるのではなく、部分相互の関連においてある。
注62
相互に部分であるのであって、固定した部分としてではない。部分相互の関 係として、相互に関連して互いに部分であり、相互の関連を通して全体をなし ている。全体をなす関連にあって相互に部分である。しかもその関連自体が相 互に関連する。部分は相対的である。
【部分間の関連の普遍性】
すべての部分はすべての部分相互に直接に関連してはいない。同じ関連の形 式であればその相互関連は局所的である。同じ形式の関連をたどることによっ て、その関連の全体をたどることができる。しかしその関連一つひとつはすべ ての部分と直接に関係してはいない。一つの関連として隣接する部分の関係が、 他の部分との直接的関係である。
他の部分との直接的関係として、部分が全体との対称において存在する。す べての部分は全体の内にあって直接に、間接にすべての部分と関連している。 部分の存在は一定の、限られた、有限の関係にあるのではない。全体の関連の 中で部分は「すべて」の関連の中にある。全体との対称における存在の関係と して、他の部分との直接的関係は部分間の普遍的関係である。
普遍的なのは関連である。こうした部分のなす関係は絶対的全体の関連であ って、部分的なものではない。個々の部分の関連は多様であるが、個々の部分 は相互に関連し、全体の関連として一つである。個々では多様な関連ではある が、すべてが関連しており全体として一つである。「すべて」の部分との関連 は全体としてひとつの関連である。
部分のなす関係は普遍的な関連である。普遍的な関連をなすものが部分とし てありうる。部分は関連するものとしてあり、関連することで部分として区別 される。したがって、部分が変わることなしに、部分間の関連が変わったり、 他に取って代えられるようなことはない。
「すべて」は一つの全体の内の部分である。一つの全体の内の部分間の関連 が、部分をそのままにして変わってしまうことはない。
【絶対的全体の関連】
関連は全体では多様ではない。個々には多様な関連があるが、関連している ことは不変である。関連は不変であるから関連であるのであって、不変でない 関係は関連ではない。不変の関連にあって他と区別されることで部分である。 不変でない関係は無秩序であり、混沌である。関連は不変の関係として部分を 部分たらしめる。常に変化してしまうのでは、部分として存在できない。常に 変化する関係は変化しない全体としてしか存在できず、その部分は部分として ない。
全体はこの様な部分の関連としてある。
【部分の連続としての全体】
全体は部分の連続体であり、全体から分離された部分はない。
関係する相互の部分は、関係としてひとつのものである。一つの関係として 部分が存在する。対象性をもった関係として部分が存在する。そして関係は孤 立せず、他の関係と連なる。他との関係の連なりとして部分は全体と連なる。
一つである全体は分かれてはいない。部分を含むものであっても、全体は分 けることのできないものである。すなわち、部分であっても孤立した存在はな い。部分は全体に対する部分であって、部分間に隔てるものはない。部分はす べての他の部分と直接、間接に連なって全体をなしている。部分は部分と関係 することで全体をなす。
絶対的全体に対する部分は、何等かの限定された部分ではない。絶対的全体 に対する部分であり、全体との関係に規定されるだけである。絶対的全体に対 する部分は全体性と結びつき、全体に対する対称をなしている。全体に対する 部分は時間的、空間的に限定されてはいない。
絶対的全体に対する部分は全体の構成部分である。しかし構成部分として、 分割できない構成単位としてあるのではない。いわゆるそれ以上分割できない ものとしての原子=アトムとして部分があるのではない。分割という考え方は 日常的な関係にあって言えることであり、絶対的全体に関しては問題にならな い。
また同じことであるが、部分と部分との間に部分でないものも存在しない。 部分と部分とは相互に関係し合っており、相互に接しており、相互に浸透し合 っている。そもそも、部分と部分は一つである全体に対する部分である。一体 である部分と部分とを隔てて考えるのは自家撞着である。
注63
【全体の分割】
無限の全体を分割することによって、無限の部分がえられる。無限の全体を 有限回分割することによって、無限の部分が有限個えられる。無限回分割する ことによって、無限の部分が無限個えられる。
注64
部分は他と区別されるものとして有限である。区別されるものとして、部分 は限りあるものである。有限である部分を単位として数え、計っても全体は数 えられない、計れない。部分を区別する基準は全体には適用できない。有限な 部分で計って全体は無限である。
【全体は無限を内に持つ】
全体は部分に分割され、分割は無限に行われる。無限に分割されるが、その 分割そのものは時間的にも規定されない分割である。無規定の分割による、無 限の分割によって結果が出る。分割操作の繰り返し回数としての時間によって のみ計られ、結果は無限である。「すべて」は無限に分割されえるものであり、 無限の分割の結果は一つの全体である。無限小の集合も、無限大の全体である。
無限にある有限な部分をすべて数え上げることは出来なくとも、無限の基準 で無限に分割された部分のすべての集合が全体である。全体に含まれない部分 はない。全体は部分で満ち満ちている。
注65
全体が均質、均等であるなら全体は静止である。
注66
【絶対性の破れ】
全体は絶対的静止ではなく異質な、等しくない部分からなる。
区別される部分の存在は、全体の対称性を破る。部分は区別されて部分であ り、全体ではない。区別される部分を含む全体は絶対ではない。区別される部 分間の相対的関係を全体がもつ。全体は部分によって歪む。
【全体の運動】
歪みを生み、全体として一つに統一する働きが運動である。運動は歪みによ る対立を統一しつつ、新たな対立を再生産する。全体は歪みつつ、統一される ものとして運動している。運動は世界の存在形態である。区別する基準を存在 させるのが運動である。
運動の極限は混沌である。限りなく均質、均等に近い運動も混沌である。ま た、限りなく相互に異質で、限りなく不当な運動も混沌であある。混沌は何物 も区別できない、特徴づけることのできない運動である。
極限の運動として混沌は一つの全体としての存在形態である。限りない混沌 として全体と部分は一致する。限りない混沌として混沌でない状態に一致しう るものとしてのみ、絶対的全体は想像されるのである。全体が部分を含まない 絶対的全体でありうるのは混沌としてである。しかし、絶対的全体は混沌とし ての運動によって否定される。
【部分の生成】
混沌であっても、運動は全体を統一する過程でもある。全体の統一を作る関 係は混沌の内に混沌でないものを生み出す。混沌はゆらぐ。混沌とした全体の 運動は、その内に区別される運動を生む。部分は他と区別し合う関係として存 在する。一つの区別する関係は混沌に秩序を生む。秩序は関係づけであり、関 係によって区別される。全体の混沌は全体として関係し、区別される部分の運 動として現れる。全体の混沌は関係し、区別されて局所性、極性、方向性をも つ部分となる。局所性、極性、方向性は排他的性質である。排他性をもつから 部分として区別される。
混沌から区別される運動が部分としての運動である。部分としての運動は全 体の運動の一部であり、全体の運動でありながら相対的に独立した、区別され る運動である。全体の運動であった混沌が否定され、部分の運動が成立する。
【相対的全体の措定】
全体と部分は存在媒体に関わりなく、関係によって捨象された部分として相 対的である。絶対的全体から質的に、量的に、相対化された全体が問題になる。
部分と関係する全体である。部分に対する全体である。絶対的全体に対する、 部分としての相対的全体である。部分に対する全体でありながら、より大きな 部分の一部分をなす全体である。相対的全体は現実的全体である。現実的全体 は相対的全体である。
注70
【全体の対象化】
全体は当然に主観である我々を含む。全体に含まれる主観が対象とする「全 体」は全体ではない。主観が対象とする全体は対象化された「全体」である。 全体が対象化するのではなく、主観が主観に対して全体を対象化するのである。
全体は対象性をもたない。対象性をもつのは相対的存在である。全体は主観 によって対象化されて、主観の内に取り込まれる。主観の内にあって、対象化 された全体として、他を包含する相対的存在になる。同じく主観も全体を対象 化する存在として主観の内に位置づけられる。全体と主観の対象関係は、主観 の内の関係に変換され、同期される。主観にとらえきれない無限の全体は、主 観の対象性の関係を保存して主観の内に繰り込まれる。
全体は(主観によって)対象として限定されることで、全体ではない(主観 にとっての)「全体」になる。全体そのものが変化、変わったのではなく、主 観と全体との相対的関係を基準として限定するのである。主観ではないものと して、主観の内に対象化された「全体」がある。
対象化された全体は、その「全体」に含まれない主観を区別する。主観が何 であるかはともかく、主観は全体を対象とするが、全体は全体のままでは対象 にならない。
【部分の対象化からの全体】
主観の対象とするものを、主観の対象とする「全体」の部分に対応づける。
主観の「対象」になるであろうものも、主観の「全体」の部分に対応づける。
一つ一つの対応関係を確認したり数えたりすることは、現実的にはできない。 量的にだけではなく、質的にも現実には不可能である。線分上の点の数すら数 え尽くせない。観測できる宇宙の(水平線、光円錐の範囲の)その向こうの銀 河も一つ一つ数えることはできない。質的と言うより、論理的に不可能である。
この対応関係の意味は「対象化」である。主観と対象とを関係づける「対象 化」そのものが、主観の「全体」と対象との対応関係になる。「対象化」とし て「手続き」される関係と、「全体」と「対象」を定義する関係の変換関係が ここでの対応関係の意味である。「対象化」は一つ一つ数えることではなく、 相互関係を確認することではなく、全体に含まれるものは「対象化」でき、対 象化できるもののすべてとして「全体」がある。
全体は対象化され、形式化された「全体」である。「され」るのであるが、 我々の主観によって勝手に位置づけたのではない。関係を形式化することで、 定義しなおされたのである。全体そのものが変わったわけではない。
【座標】
観測結果の客観性を維持するために、座標が用いられている。
座標は対象間の量的関係を区別する基準である。座標は観測結果の解釈を主 観によって歪めぬためのものである。観測結果を歪めるのは、主観自体の変化 である。変化する主観が対象の変化を観測するためには、対象と主観の双方の 変化を相関させてとらえねばならない。対象と主観の変化の相関を表現するも のとして座標を用いる。
座標は変化する主観が主観の変化を相殺して固定し、部分的絶対評価として 対象間の関係を表現するためのものである。座標自体は決して客観的存在では ない。座標は主観的な道具である。座標は主観そのものであり、「主観」とし て主観の変化を補正するものである。座標は主観に客観性を持ち込むための 「主観」の道具である。
基本的には、観測が課題とするいくつかの物理量の相対関係を、空間の形式 で表現したものである。観測において限定された物理量の相対的関係であり、 他の物理量の相対的関係と座標系を変換することによって、異なる物理量間の 変化の関係を対応づけることができる。空間の形式によって座標が与えられる のではない。対象間の関係を空間形式化し、座標で表現した結果が、座標表現 が、空間の形式を表現しているのではない。座標を用いて空間形式を対象間の 関係にあて測るのである。
対象の観測を座標によって表現することは、主観そのものであって、そこに 客観性を求めることはできない。座標によって表現された対象は主観的なもの であり、既に客観的対象とは別の存在である。客観的対象と座標によって表現 された対象は普遍的に一致するものではない。
対象の運動を関係づけ、座標によって表現し、その変化量を座標数値の変化 形式として関数を用いる。対象の運動の変化量を、主観に反映させる形式とし て関数を用いる。関数は主観が用いる関係形式である。関数によって対象の運 動が決定されるわけではない。
変化の形式は関数として表現される。現象の様々な変化量から一つを捨象す る。捨象の選択は主観的であるが、捨象される変化は客観的である。捨象は変 化のうちの、一つの形式を取り出し、他を捨てることとも言える。捨象した変 化の形式を関数化して変化を表現する。変化の対象化、形式化である。変化を 関数として形式化し、変化量を変化率として定義することが、対象の抽象化で ある。変化の量と方向の形式を取り出すことが抽象である。
【関係】
観測結果の客観性を維持するために「関係」も用いられる。
関係は対象間の質的関係を区別する基準である。関係は対象(間)の運動を、 対象と主観との運動と区別して表現するためのものである。
対象の運動は常に変化する(変化が運動である)。それを観測する主観との 関係も当然に変化する。この変化を区別し、関連づけ、対象の運動の形式を、 主観的に表現するのが関係である。
関係は対象の運動によって変化しない、対象の形式を表現するものである。 運動は常に変化するが、運動形式そのものまでは変化しない。運動には複数の 要素があって、その要素が互いに作用し合っているが、その形式を表現するの が関係である。運動する要素は作用としてあって、別のものにはならない。運 動の構成要素は保存される。作用は同じ要素間で作用し続ける。要素と作用か らなる形式は普遍である。その内容がいかに変化に富むものであっても、その 形式は不変である。不変であるから他と区別される。
関係も主観であり、主観の変化による歪みを補正し、主観に客観性を持ち込 むための主観の道具である。
【次元】
ものがどこに、どの様に存在するのかは、一見客観的問題のようであるが、 対象の存在を主体との相互作用において反映させる主観的な問題である。「ど こに、どの様に」存在するかが解らなければ、存在について何も確実に言えな いとするのは主観主義である。
対象はひとつの関係としてのみとらえられるものではない。対象は多数の関 係をともなって運動する。多数の関係は関係相互にも関係する。対象の関係の いくつかは一体となって運動するものも、互いにほとんど相関しないものもあ る。
運動は方向性を持っている。方向性なしに運動は現れない。逆(形式的)に、 変化しうる方向が運動の性質になる。運動として変化しうること、その方向に 対しては自由でありうる量、物理学で言う「自由度」が次元である。
他の諸関係から独立して、変化する量の変化の方向性を、ひとつの次元とし て他の諸関係と区別する。次元と次元との関係は、次元を構成する関係間の関 係に直接作用しない。
空間は形式であり、3次元空間が絶対ではない。物理的次元も基本的物理量 の自由度の数として3次元、4次元に限られない。
【超】
関係は関係の関係に発展する。主観によって表現される関係ではなく、対象 の存在として関係の関係は存在する。客観的関係の関係が存在する。
関係の関係は、関係を超える関係である。メタ、スーパーの関係である。
超えたからといって、超えられた関係から独立してしまうわけではない。超 えられる関係を常に基礎とした存在である。
超えた関係が、超えた関係同士の関係に変換されると、より強固な関係にな る。超えた関係は普遍性を強める。超えられた関係の不安定さに比べ、超えた 関係はより普遍的である。
超えた関係は「超」として存在の発展を特徴づける。存在のあり方を超える 存在を発展させる。ものの存在のあり方として、超えることによってつくられ る階層関係の視点は、もののあり方を理解する上で重要である。
超えることによって全体の存在に回帰する。超えることによる普遍性は、全 体の普遍性に近づく。
概観 全体の構成