蛇足1
人里離れた荒涼たる風景の中で、一人生活しながら論理を研ぎ澄ます人がい る。
世界が変転する階級闘争の真只中ででも、論理の単結晶を引き上げる人がい る。
かく言う私は数学、論理学、自然科学は勉強できなかった。経済学士は紙免 許、他の学問はとても、図書館の使い方すら知らない。賃仕事にくさり、仕事 をいじくりまわし、子どもとやり合ってヒステリーを起こし、掃除、炊事をす り抜けながら、私に何ができる。
ただ、学問にコンプレックスをもちつつ、憧れつづけた中から何を取り出せ るか。その解答である。
凡俗の極みの中で、しかし、その日常の中で貫くべきものを提示できればよ し、であろう。
蛇足2
物性の専門家が洗っている食器を落として割らない保障はない。労働問題の 研究者が自らが属する労働組合の方針を決定できるものでもない。
蛇足3
物事についての非専門家=素人の解釈は、とんでもない誤りの可能性を多く もつ。専門家=玄人は素人の誤りを指摘する。玄人は素人の解釈をおもしろが り、やがて切り捨てる。素人のひらめきに専門的な価値があることはまずない。 素人の価値あるひらめきを捜して、玄人が耳を傾け続けることはできない。玄 人にそのような謙虚さを求めることは素人の驕りである。ただし、玄人に素人 解釈を禁止する権限まではない。
しかし、玄人は素人の誤りを正さなくてはならない。専門的成果が素人に解 釈され、現実世界の判断に使われるのであるから、玄人は成果が正しく理解さ れるように勤めなくてはならない。科学技術的成果が悪用されないようにする だけが科学者の責任ではない。
しかし、玄人の解説が素人に正しい理解をもたらすとは限らない。それどこ ろか、玄人の解説表現が正しくおこなわれるとは限らない。
蛇足4
分野が違い方法が違っても、世界に対する理解が一致していることが前提に なっている。光年は約94,542億mで光が1年間に進む距離。1オームストロン グは10億分の1m。尺度と方法は違っても、距離は長さの比として連続した数 で表現できる。数字の桁数は違っても、同じ世界の極小と極大を同じ単位で比 べることができる。極小の世界と極大の世界で長さの比に違いがないことを前 提にして、互いの結果を信頼している。
距離だけでなく時間も分野によって単位が異なっても比較できる長さの比で 表現される。
相対性理論で言われる時間の進み方の違いも、同じ時間の測定法による測定 座標系の運動によるものである。同じ時間の測定法によって異なった結果がで てくるのでは、それぞれの遅進すら測定できない。
蛇足5
ここに自分の世界認識、及びそれによる行動指針を導き出す機能、人間情報 処理システムのバックアップコピーを取っておく。
これがデータとして処理できるまでに整理でき、処理できるデータベース管 理システムができると楽しいが。
蛇足6
子供たちへ この「世界観」を読んでほしい。そのためには、並行して高等学校の各教科 を自分の物にしてほしい。大学受験の選択とは関わりなく、言葉を覚えるので はなく、現実の世界を自分のものにすること。そして次の分野の教養講座程度 の知識を身につけること。それは各分野の入門、解説書が理解できる程度のこ とでいい。そして父さんを大きく超えてほしい。
数学は計算、解法の技術より基本的考え方を学び、論理の基礎を理解するこ と。
自然科学はすべての分野の基本的な問題をおさえ、法則の普遍性、階層性を 理解すること。
社会科学は社会の物質代謝を経済学で学び、西洋に片寄らない歴史を学び、 その上での人間関係を社会として理解すること。
人文科学として少数者の文化に触れること。
仕事はその時時の仕事上の課題、自分の分担する課題を明らかにしておくこ と、仲間の仕事をフォローすることを競争すること。できることなら30代ま でに生活基盤を確立し、その後は生活条件に制約されることなく、自分の力を 十二分に発揮できる仕事を見つけること。
体を壊さないで鍛えること。個人競技だけでなく、グループ競技で集団練習 を身につけること。
世の中、どのようにでも生き、死ぬことができる。幾らでも怠惰になれる。 でも喜びは、そんな中でもより目的を見つけ、実現する努力を継続し、節操を もって生ていること。そのことを互いに認め合えることである。
蛇足7
何の予備知識もなく、表題だけに興味をもって手にした本は、始めの数十ペ ージを読んでも何が書かれているかわからないことがある。ドキュメントなの か、フィクションなのか、象徴的表現なのか、言葉遊びなのか、テーマは何な のか。SFだと言うので買ったのに、舞台装置、小道具だけが未来的であるだ けの読物であったりする。
特に哲学的な本はキーになる用語からして何を意味しているのかまずわから ない。
ここで書く(読む)には、日本語で書け(読め)なくてはならない。正しい かどうかはともかくも。世界観について興味をもっていなければならない。何 等かの世界観についての理解がなくてはならない。
蛇足8
「なにか」について言うためには、「ことば」も必要である。「ことば」と して「なにか」を言えるのであって、「なにか」と同時に「ことば」が最初に なくてはならない。
しかし「私」には「他」と同じに「ことば」は、与えられたものである。 「私」と「ことば」をふくむ「他」からなる与えられた関係から出発するので あって、あらゆることがらの「創造の始め」から出発するのではない。
「私」も「他」も「ことば」も世界観を辿る中で、改めて定義される。ここ では世界観を辿り始めることの確認が目的である。
蛇足9
主観のあり様を書くためには主観から離れて眺めなくてはならない。主観に とってあるのは「私」と「他」との間にある境界面である。境界面は壁、鏡と いった平面のイメージではない。変形自在な「膜」のイメージに近い。ただこ の「膜」自体はとらえられない。この「膜」自体は対象となりえない(非対象 性である)。自他の関係としての区別の境であり、少なくとも点ではない。
この境界面に沿って上下、左右の広がりはあるが、主観に関わるのは有限の 範囲である。しかも主観にとって、その限界すら明かでない有限の範囲である。 主観にとっては無限の膜である。
主観にとってこの境界面にそった彼方では、境界面自体がどうなっているの か解らない。主観をとりまいて閉じているのか、無限の彼方まで続くのか、消 失して自他の区別がなくなってしまうのか、その他の状態がありえるのか、主 観にとっては解らない。
また境界面に対して交わる方向についても「こちら」と「あちら」の区別し かない。「あちら」には様々な変化があり、こちらにはその結果が知らされる。 あちらに働きかけることも可能らしい。主観の働きかけの目的が、達せられた ように知らされることもあるし、失敗したように知らされることもある。結果 は様々な程度にある。
この境界面はいつからあって、いつまであるのかもわからない。
「こちら」と「あちら」の区別と方向は、空間の問題だけではない。主観の ありよう(意識)によって変化する。「あちら」を問題にするときは顔、手、 足等の感覚器官の末端まで「こちら」が拡張される。
「こちら」と「あちら」の境界を問題にするときは「こちら」は無限に退行 したように、存在位置が不明になる。
ものを見るとき、ものは「あちら」にある像として見える。「私」と「他」 との境界面に像として見える。しかし、像を見ようとすると、像は境界面の 「あちら」の存在になる。ものをつかむとき、ものは「あちら」にあり、「私」 の手でつかむ。手は「私」の延長である。しかし、私の手を延ばそうとすると き、手は対象であり、「あちら」の「他」としての存在になる。
「私」は常に私として、私にとって絶対的存在であるが、「他」との関係で 「私」の境界面を求めようとすると「私」は相対的な存在になる。
蛇足10
すべてについて一つひとつを検証することは不可能である。しかし、一つひ とつの関係を検証し、関係の全体での位置づけさえ検証できれば無限の対象に ついても検証できる。
蛇足11
意見の対立は声量ではなく、一方の論理によって対する論理をその誤りの根 拠、誤りの生まれた必然性までも含めて説明することで決る。全体性の中に対 立する意見を取り込めることが、正しさの証明になる。
蛇足12
単純に数えるだけでも、人間の一生涯をかけてどこまで数えられるか。1分 間で数えられる数を測定してみる。数が大きくなればなるほど1分間で数えら れる数は少なくなる。70年間でいくつまでの数を数えられるか。
蛇足13
この「世界観」の中で、この目標がどの程度達成されたかは、この「世界観」 の到達点を示すものになる。しかし、この「世界観」の到達点の低さは、この 「世界観」の目指す世界観の低さを示すものでなく、私の責任である。
蛇足14
この手続きを、手前勝手な解釈に利用されるとして、特に自然科学の専門家 に嫌われることが多いがやむをえない。理解していただいて、専門の立場から の批判を期待したい。
蛇足15
例えば、星と愛の数を数えあげても意味はない。通常、星と愛には同じ部分 がない。星に愛を意味づけても星の意味も、愛の意味も明らかにはならない。 星の運行と愛の行方は関係を持たない。
星は夜空の光として数えることができる。星を数えることで宇宙の大きさを 感じることができる。その意味では星を数えることに意味がある。しかし星を 数えることだけで、宇宙の大きさは解らない。見える星より見えない星の数の 方が多い、見える星であっても惑星もあれば恒星もある。さらに遠い銀河も見 た目には一つの星でしかない。同じ星として数えることでなく、星の違いを区 別して数えなければ宇宙の大きさを知ることはできない。
蛇足16
物理学における観測問題、社会的実践における日和見主義はこの実践過程に おける主体の位置づけを問題にしている。
蛇足17
全体は観念においても、存在においても絶対的である。全体は絶対唯一であ る。したがって絶対的全体は混沌である。絶対的全体はなんの区別も見いだせ ない混沌である。
蛇足18
論理の次に内容を取り扱うには、数学の成果に学ばなくてはならない。論理 の枠組みと、内容との関係の形式は数学の問題である。
しかし数学は内容自体については何も結論を出さない。内容については他の 個別科学の成果によらねばならない。特に、全体と部分からなる抽象的な内容 については、物理学を無視することはできない。
ただし物理学の成果だけに頼ることは、けっして正しい結論を導く保証には ならない。物理学の対象たけが世界ではない。物理学は世界の物質の基本的な あり方を問題にしているが、より発展的な世界の物質のあり方、例えば生物、 社会に対してはまったく無力である。物理学以外の対象も含めた無限の世界を 世界観は対象にしている。
物理学の成果を評価する際に、全体を視野にいれておくこと、特に個人的な 生活からの、特殊な条件による規制によって判断が論理的でなくなったり、普 遍性をもちえなくなったりしないようにしなければならない。もっとも、論理 的な普遍性をもった判断をするために世界観を問題にするのであるが。
蛇足19
全体は部分を形成することで、絶対的全体ではなくなる。絶対的全体は否定 される。
いよいよここから観念の世界を抜けて、現実世界と一つ一つ対応する問題に 進む。
部分を問題にするとき、全体の絶対性は捨てられる。部分は絶対的全体とは 関係しえない。部分は現実的であり、絶対的全体は思弁的である。部分が関係 する全体は相対的全体である。部分が問題にする全体は、問題とする部分と、 問題とする部分間の関係によって決められる範囲としての全体である。
問題によって決められる相対性であり、問題の関係によって決められる相対 性、二重の相対性である。
蛇足20
「西洋科学は分析ばかりで還元主義である」との批判がある。一面的科学批 判は分析を否定し、全体性の神秘主義にいたる。科学は分析の方法論について は体系的に確立してきた。しかし、分析方法の発展として、総合の方法を体系 化する試みが20世紀以前から既に始まっている。分析的方法論によって、分 析的方法論と一体の物として形をなしつつある。これまで分析と総合の統一を 主張しても、経験主義的であったり、類推的であったりした総合が、分析的方 法と同じ、論理、表現で科学の方法論として形成されてきている。非線形性科 学、群、トポロジー、カオス、ゆらぎ、フラクタルといったキーワードで代表 される方向である。うさんくささを次第に払拭しながら計算機能力の飛躍的発 展にも力づけられて進んできている。
蛇足21
データベース構造として
知識構造体として。
知識情報処理として。 単に知識情報処理の機械ができたとしても自動運転はできない。何よりも目的、 目標による方向づけが必要である。しかし、目的、目標は、プログラミングす ることができる。しかし知識だけから目的、目標は生まれえない。知識の源泉 である現実の世界の全体の運動、発展の中にあって、歴史的に自らを位置づけ ることによってのみ目的、目標を得ることができる。
その知識情報のシステムとしても「世界観」を作ってみたい。
システムとして作られたモデルは機械的模型とは異なる。変化の結果を表現 するのではなく、変化の過程を表現でき、個々の変化量を変えて再現できると ころが違う。シミュレーションモデルとして、知識構造体としての「世界観」 を作ってみたい。
蛇足22
全体は全体としてある普遍的な場である。場の質は全体として与えられた条 件をもつ。全体は普遍の運動の無限の広がりと、無限の深みである。
普遍的運動のゆらぎが、局所的運動として部分を励起する
部分として局所化した運動は、励起運動とは別に部分間の相互作用として新 しい次元の運動をなす。部分間の相互作用はそれぞれの部分の存在を導出する までに普遍的になる。局所的運動はもはやゆらぎではなく、部分の、個別の普 遍的存在形態になる。
部分、個別の相互作用は相対的全体として、さらに新しい次元の運動・部分 ・個別を作り出す。新しい次元・運動・部分・個別の創出は重ねて続く。
全体のゆらぎの局所化として、局所化された部分の相互作用による個別の存 在は、より発展的な次元の素材となる。
蛇足23
個人としての人間は、物理的運動過程としても多様な相互作用の過程にある。 化学的・生理的過程においても、生物としても多様な相互作用の過程にあり、 他を同化し、自らを異化する新陳代謝の過程にある。新陳代謝の過程は個々の 細胞においても、器官においてもおこなわれ、なにより個体として生活する。 生物個体は相互作用の過程の相対的全体として、他の個体に対し、他の生物に 対し、他の物質に対して部分としてある。生物個体の相互作用の過程を個々に 明らかにすることは、科学によっても極め尽くされない多様性がある。人間は さらに社会的に個人であり、精神活動もする人格である。
個別は個別として他と相互作用するが、その相互作用は個々の相互作用の相 対的全体として統一されている。相対的全体として他の個別と相互作用する部 分である。個別は全体性と、部分の統一としてある。
蛇足24
フィードバックは工学からの概念であるが、制御の一般的概念として拡張さ れる。制御は生物生理の基本である。認識の最も基本的な機能である。
蛇足25
弁証法は「問答法」でもあり、「論証術」でもあり、「教授法」でもある。
弁証法は形式論理学の敵対物でもあり、形式論理学を含むものでもある。
「なんでもあり」は「なにもない」に等しい。これはまさに弁証法論理であ る。
「その論理の内に、誤りを検証する方法を含まない論理は科学ではない」と 言われる。「基本法則であるなら、すべての法則を演繹できる法則でなければ ならない」と言われる。
弁証法はこれらに答えなくてはならない。
弁証法は物事の基本的なあり方であるから、物事の存在としても、現象とし ても、認識においても、解釈においても、そしてなにより運動において現れる 法則である。したがって、様々な形を取って現れる。したがって、様々な誤解 を生じる。しかもイデオロギー対立が関わるからなおさら混乱がひどくなる。
弁証法は弁証法の正しさを証明することが使命ではない。弁証法は弁証法に よって、物事のあり方を解釈するのが使命ではない。個別科学の成果の中に弁 証法の例を探すことも、成果を解釈することも弁証法の役割ではない。
弁証法は概念の法則であるとともに、存在、認識の法則でもある。一方、形 式論理は概念だけの法則である。すなわち、形式論理は思考法則であり、第1 5章に位置づけられる。
蛇足26
個別の研究も「変化にあって変化しないものを認識する」ことである。全体 的・相対的変化の中に、不変の部分・次元の規則性を明らかにすることが研究 である。「不変」のみにとらわれ、結果の形式的「不変性」が科学であると思 い込んではならない。
蛇足27
歴史は繰り返されるが、それでも発展する。
蛇足28
さて専門家はこうした記述を、世界観による勝手な、無価値な解釈として評 価されるのだろうか。
蛇足29
「物体」は日本語では生物までも含まない。「事物」は事を含み、対象の存 在形態の発展的区別を並列的区別でしか表現できない。「物象」として個別の 運動形態=存在形態を表現する。
蛇足30
ここでの水平、垂直は物理空間での方向ではない。他との相互関係を水平と する関係の方向性を基準にしている。
蛇足31
科学方法論で認識を評価するのに、「検証」はトレースであり、「予測」は バクチである。予測は検証の中断であり、飛躍である。
蛇足32
歴史的必然は多数決によって決定されるものではない。歴史的必然は歴史的 である限り当初は少数であり、必然性を実現することによって多数になる。当 初少数であったものが多数になることを否定することこそ、現状を固定化し、 歴史的発展を否定するものである。
蛇足33
置き換えられるものと、置き換えるものとの関係が論理にとって重要である。 これが、非論理的な現実の反映形式になる。置き換えられた形式の論理を詰め ることによって、現実の力の発現点、発現方向が明らかになる。
A=B BをCに置き換える 結果は A=C 問題はBとCとの違いである。A=BとA=Cがまさに「イコール」でるな ら同義反復に陥る。単なる「イコール」ではなく置換可能性、包含関係、関数 関係、問題となる質の違いを捨象し同質を抽象した関係。いづれの関係である のか。いづれか。どの「よう」な、どの「ていど」な違いの関係なのかが、論 理的に成り立っているのかの基準になる。
基準であるか、基準とは何か、こそ関係の現実との対応である。
この「置き換え」の差の大きさが、抽象度の違いであり、考えの飛躍度合、 ひらめき度合、頭の回転度合である。
蛇足34
「直接的に持ち込む」とは、人間の行動における意味での「目的」「役割」 の概念をそのまま、あてはめることである。
蛇足35
コンピュータは電子計算機の意味だけではなくなった。コンピュータは電気 的に高速に算術演算をする道具だけではなくなった。コンピュータの問題は技 術論の問題だけではなくなった。情報処理は数値データ処理にとどまらない。 「知識処理」として論理の問題であり、認識と論理の問題の方法でもある。
コンピュータは情報システムの中核機器である。コンピュータは情報の運動 過程を理解する基本的、具体的手段である。認識と論理を理解するために、コ ンピュータの基礎的理解は不可欠である。
コンピュータの社会的機能の影響力の大きさからも無視できない。
蛇足36
理解する必要のある事柄は技術的仕様ではない。情報システムは機械がなく ても存在するし、機能する。
蛇足37
真理が問題になるのは、宗教的主張に対する場合か、実践に対するイデオロ ギーの評価に関わる場合である。
蛇足38
社会的に差別を持ち込み、非人間的な政策を合理化するために、時代の支配 的地位の人間の優秀さを理由づけるため、何度も用いられている考え方ではあ るが。
蛇足39
こうしたことも、結果として言えることである。過去の主意主義的誤り、我 田引水的解釈の可能性は、世界観が世界を理解し、解釈するものである限り常 にある。時代的制約であるならやむをえないが、論理を無視し、個別科学の成 果を無視、曲解することを常に戒めなくてはならない。
そのためにも、世界観は狭い世界に外から情報を取り入れるだけでなく、個 別科学と相互に情報交換、相互批判ができる方法、環境を整える必要がある。
蛇足40
たとえば、脳。脳を形成する神経細胞は胎児期に既に形成され、その数は一 生増えない。学習によって変化するのは、神経細胞の相互接続である。個々の 神経細胞の位置、およびその位置での神経細胞の量は、他の器官と同じに遺伝 子を媒体とする情報と、発生過程での形質発現過程によって決まる。
一方、脳は生物史的に機能の異なる領域に分かれ、さらにその最も新しい領 域である大脳脂質は意識活動の様々な機能に対応してやはり領域が分化してい る。このことから、意識の様々な機能、能力は遺伝によって決定されることが 推定される。その決定過程は推定ではなく、生物学、心理学等の研究成果によ らなくてはならない。しかし、すべてが遺伝情報によって決定されるのでない ことも、学習によって脳の神経細胞に変化が生じることから推定される。
やはり、脳の発生、発生過程でも階層性が考慮されなくてはならない。情報 処理の資源である神経細胞は遺伝によって決定される。その資源のうち、意識 活動に対応する部分をどの様に機能させるかは学習によって決定される。意識 活動をになう神経細胞の、位置と量をとおして、遺伝は意識活動の機能を物質 的に規定している。遺伝は、資源配分をとおして意識の物質的基礎を規定する。 遺伝が直接意識活動を決定するのではない。
蛇足41
価値法則が物質循環を反映して貫徹する過程を、新しい社会関係を構築する ためにも明らかにしなくてはならない。
蛇足42
バラエティー番組を見ている時も、酔いつぶれている時も、休養・気分転換 なのか、社会的創造的活動の機会を奪われているのか。