注
注1
つぎに、書いた「意味」と読まれた「意味」とが一致しなくてはならない。
一致させるために、まずはじめにこの状況を確認するための用語と、その用語
の示すものとの対応を示す。書く(書かれた)対象と書いた(読む)ことばの
関係について一致させる。
ついで、問題とする対象を抽出・選択する基準を明らかにする。
最後に、この状況での書き手と読み手がここで対象とする「世界観」の表記
・構造についての理解を一致させる。
ただ、このこと自体が、全体とその事柄の位置づけ、意味づけこそが世界観
の目的である。この世界観の前提と世界観全体の結論との循環関係が、世界観
を書く(読む)ことの基本的構造の制約として、世界観の根拠について見解の
分かれ目になっている。
真理についての強迫観念からの解放の手続きをとる。
注2
「言う」前に「私と他」の関係は前提として省略されていることの方が多い。
この「私」は考え、話し、書き、読み、その他である私であり、そうである
一般的な「私」である。
注3
***** 状況説明 II *****
ここでは「なにか」を書く、言う場合であって、まだなにかの存在等を問題
にしてはいない。
注4
少なくとも「こちら」側には現在と過去の区別がある。過ぎ去ったことと、 それに対する現在がある。しかし、過去から現在への作用は結果として認めら れるが、現在から過去へ作用することはできない。
現在から過去への方向の、逆方向への延長として未来が想定できる。未来に
対して直接作用することはできないが、現在の「あちら」への働きかけの結果
として未来に作用できる。過去から現在への作用と同じ方向性によって、現在
から未来への作用を予定できる。
現在から未来に作用することを目的とすることによって、過去は目的に対す
る方向、手段を提供する。未来を目的とすることによって過去、現在、未来の
方向が、流れとして主観に理解される。この「時間」の方向には逆向きはない、
非可逆的である。
注5
***** 状況説明 III *****
「私」にとって「他」は食べ物であり、衣服であり、住居であり、人々であ
り、声であり、文字であり、諸々である。
「私」と「他」との関係以外はない。
「私」は手足を動かすなど「私」自身と関係するには、「私」である手足を
「私」でない「他」としてしか関係できない。
「私」にとって「他」との関係として、「私」はある。「私」だけでは「私」
はない。「他」だけでも「他」はありうる、と「他」は主張している。
注6
「私」は一つであるが、「客体」は「私」との関係にあって全体として一つ の客体であり、「私」の働きかけの対象とする個々に分けた「他」も「客体」 と表現する。
注7
***** 状況説明 IV *****
「私」と「他」の相互作用の関係を基準として主体・客体間の関係をみる。
主体・客体関係を客観的にみるには、主体を客体の延長とする。
主体は客体に働きかけることにより、主体を取り巻く客体からなる主体の環
境を変革し、客体の一部を主体の内に取り込む。客体に対する働きかけによっ
て、主体は維持される。物として、生物として、精神として、代謝活動をする。
代謝活動は主体の存在そのものであり、ときに主体の存在目的そのものにもな
る。このように主体は生活する。
主体は客体と相互作用し、互いに連続している。相互作用することによって、
主体は主体であり続ける。
客体に働きかけることによって、客体の一部に主体と同じ存在を想定できる。
他人を同格の存在として客体の内に想定できる。
客体に働きかけることによって、主体の変革能力をより全体的、より精緻に、
より効率的なものにする。
客体に働きかけることによって、客体を理解し、客体を理解することによっ
て主体自体を理解する。
「私」と主体は同じものの別の表現ではない。別のものである。
「私」と「他」は絶対的な区別である。それはたぶん「私」にとっての区別
である。「私」は私にとって絶対である。
「私」が主体としてあるのは「他」との関係にあってのことである。「私」
と「他」との相対的関係として主体はある。「主体」は私にとって相対である。
「私」と「他」とは絶対的区別であるが、「私」は相対的な主体からはなれ
たことはない。よく言われていることは「私」が主体からはなれることを死と
呼び、主体と分かれた後の「私」の存在が議論される。
しかし、通常、死を議論するのは主体と客体との間においてである。いずれ
にせよ、そして「私」と主体とを分けるには、「他」あるいは客体との関係を
変化させること、または変化することによってのみ可能であるとされている。
長期間監禁され、客体に対する働きかけを止めたり、意欲を失うと、主体は
客体と一体化する。人格が崩壊する。
客体に対する変革は主体の運動を方向づけ、目的をもちえる。客体への働き
かけは人生そのものである。
主体と客体との相互関係はここで一機に定義できない。
注8
哲学は哲学者間で定義された用語で体系化される世界観である。
さらに得られた真理にとって決定的なことは、結果を予測できる程度によっ
て正しさの程度が決まる。程度によってしか判定できないのは客体の大きさ、
複雑さによる制約と主観と客体との相互作用が、相互作用の過程の内にあるか
らである。
したがって、部分的誤りよりは全体的な正しさを認めるべきであるし、部分
的にいかに正しくとも全体に誤りがあるのでは評価されない。
また程度による評価であり、相対的な評価であるからと言って評価自体を無
視してはならない。完全な予測ができないからと言って、予測可能性自体を否
定することは全体に対し、未来に対し、他に代わりうる基準を持ちえない。
蛇足10
一致は一つ一つの検証と全体との関係を評価して確かめられねばならない。
部分的に一致しているだけでは不十分である。検証内容の一致だけでなく、検
証条件と検証結果の解釈については特に注意しなければならない。
検証条件は検証内容と客観世界との関係を規定するものである。検証条件の
整備は検証内容を実現するための環境に、他の条件が入り込まぬよう隔絶する
ことを目指さねばならない。しかし、現実世界の中で現実世界から隔絶された
世界をつくることは不可能である。現実的には検証に際してより完全に環境条
件を制御していなければならない。検証条件の制御が検証結果の普遍性を保証
する。検証条件の制御自体、真理に近ずく重要な手段である。自然科学の実験
においてすら見落とされがちなことではあるが決定的に重要なことである。
検証結果の解釈については検証条件の評価以上に主観が介入しやすい。
注9
主体は客体の内にあって他の客体と相互に作用し、主体としてあり続ける。
やがて主体は他との区別を維持できなくなる。主体は主体でなくなり客体に還
元する。主体は客体の一部分である。
客体の中に「私」は主観として存在し、主体として生活する。
***** 状況説明 V *****
客体は構造をなす空間的広がりであり、未来へ向かう時間的連続体である。
その客体の極一部分に、その極一時期に生まれ、育ち、子を生み育て、やが
て死んで行くのが人間主体である。したがって、客体の構造を知り、歴史を知
った上で、そこでの主体の生成を知り、将来を知ることが世界観の獲得である。
客体としてその内に主体を位置づけ人間の未来を見通すには、単に時間の方向
だけでなく、客体構造の歴史、特に社会歴史の方向もみなければならない。
そこでの知ることが主観の作用であり、主観は主観自体をも対象とする。主
観は対象を通して主観自体を規定できる、再帰的存在である。主観は対象を記
録すると共に、自らを自らの内に書き込むことができる。「私」とは何か、私
は語ることができる。
同様に主体は客体によって与えられるままではなく、対象に働きかけるだけ
でなく、主体自体に対しても働きかけ、その運動・存在を制御しなければなら
ない。
客体にとって、客体としては客体自体の内に客体自体を反映する存在を作り
出す。客体は部分の内に全体を映し出す。しかし、主観へ客体の歴史を集約さ
せることは歴史の終端に立つことではない。歴史の、未来に対する前面に立っ
ていることである。
注10
例えば色である。客体としての色に当たるものは光の波長の違いによる区別 である。それが主観には「色」の違いとして認識され、しかも温寒、肌触り等 の感覚と結びついている。まったく主観的である「色」などの存在は、ことば 等を媒体として伝えることのできるものとして、客体になりうる。その様な非 存在の存在まで存在するのが主観の世界である。
注11
始めは、始めとしてあるにもかかわらず、「始めの、その前は何か」と問う ことは問うている「始め」そのものを否定し、問い自体を無意味にする。観念 的ことば遊びでしかない。
注12
順次連続の後先を先頭に組み込むだけでなく、構造の全体を先頭に組み込ま なくてはならない。まるでフラクタル図形の原点を定める様。あれも全体の美 しい形が画面に程よく収まるように、原点を定めなくてはならない。
注13
個々のゆらぎは全体に対して補正され、吸収される。個々の個人的誤りは全 体の過程中で正され、許容される。
注14
ここでの正しさは「仮定の正しさ」だとか「パラダイムの正しさ」とは無縁
である。抽象的ではあるが単に観念的なだけではない。
ここで、すべての「全体」、究極の全体を問題にしている。この全体の中に、
「全体」を指し示す「全体」そのものは含まれるか、という問題がある。
「全体」の、論理的理解、形式的理解、いづれの立場にも立たない。ここで
の「全体」は範囲でも、ひとつひとつ数え上げる事ができるものとしての対象
でもない。集合についてでも、要素についてでもない。対象を要素の集合とし、
集合自体を要素とする集合を問題にするのではない。対象を要素と集合として
対象化することの枠組み、論理自体を問題にする。
どの様に「不完全」であるかがわかれば、完全性が明らかになる。
注15
「私」と関係するものとして限定される世界は、読み手である「あなた」の 世界と一致している。「私」の著者としての関係は、「あなた」の読者として の関係と同じ相互関係の内にある。同一の関係からなるひとつの世界に「私」 と「あなた」は生活している。
「あなた」の関係するもののすべてが世界であり、「あなた」にとって「私」 もそのすべての中のひとつとして「あなた」と関係している。
注16
「有無」を問題にしなければこの序論はもう必要ない。第二編以降の本論へ 入ってかまわない。「有無」を問題にしなければ、問題にする主観は問題にな らない。しかし、後で再び主観が問題になるならここでかたずけておくべきで ある。
注17
量子力学の成立期に、物理学者の間ですら「物質は消滅した」と主張された。 その後もたびたび繰り返されている。「有」った「物資」が対消滅してしまう。 粒子であり波である「物質」など「有」りはしないと。主観による「有」の問 題でしかない。「有無」と「変化(運動)」は別の問題である。
注18
これらの問題は仮定の積み重ねである。これらのことの証明は対象である世
界をすべて確かめることで明らかになる。主観は対象との関係によって「有る」
とされるのであり、主観との関係を含む対象の関係をすべて確かめることによ
って、対象と主観の関係を全体の中で明らかにできる。
この確認が「第一部 世界の一般的ありかた」のテーマである。
注19
主観の絶対性は主観の内に封じ込められなくてはならない。以降解き放って はならない。
注20
対象によって媒介される主観と主観の関係が成立する。主観の対象化は、対 象の内に別に対象化された主観を承認することになる。
注21
場所、時間が異なることによる、違いは関係の違いではなく条件の違いであ る。真空中での光の速度はどこでも、いつでも一定である。一気圧のもとで、 純粋な水は100度C付近の一定の温度で沸騰する。生物は世代交替して種を 保存し、進化する。ヒトは社会の中で文化を身につけ創造する。
注22
例えば、眼前のこの文字は紙との間に一定の関係をもって文字として固定さ れている。文字は突然消え失せたり、変化したりはしない。眼を閉じても、紙 を伏せても文字は紙の上に有りつづける。主観との関係には影響されない。し かし、文字が書かれている紙は、酸素と関係することで一時に、あるいは何十 年という時をへて消滅する。その結果、紙と文字との関係も変化し消滅する。 あるいは水により、光により、あるいは人の手により消滅する。しかし、それ まで文字は一定である。訂正されぬ限り誤字もそのままである。
客観的存在の関係は一定である。紙と酸素があって一定以上の熱があれば燃 え、それ以下の温度では酸性紙は破壊されボロボロになる。このことは、文書 として用いられている間は、いつでもどこでも成り立つ。
注23
例えば文は紙に書かれても、読み上げられても文に変わりはない。紙から電 子媒体に変換されても文に変わりはない。他国語に翻訳されても文の意味は保 存される。
むろん抽象的存在が単独で存在したり、抽象的存在が単独で他の存在と関係 することはない。存在の抽象性は媒介する存在関係によって他と関係する。
注24
「対称性」は数学、物理学の基本的概念として重要であるが、他の分野でも 改めて問題にされている。
注25
物質代謝によって身体を、学習によって知識を、体験によって感情を獲得す
る。
主体は、対象の相互作用の変化の内に、自己を再生し続ける。
注26
どのように個性的な存在も、人間として同等である。
相互作用をするものとしての主体は、その相互作用の内に、相互作用を絶対
化する「主観」を含んでいる。この相対性の主体と、絶対性の「主観」の担い
手として自分がある。
全体の関係の一部分をなしている自分の全体との関係は、どのようなもので
あるのか。まず、自分と全体との関係、ついで自分と全体の部分としてある個
々の対象との関係、そして自分と自分自身との関係がある。
注27
よく例としてハチの巣、結晶などの構造が引き合いにだされる。人によって は、「神が創造した」と擬人化するほど美しく、精ちである。しかし、それら は結果を予定し、構成を作りだすために関係し、相互作用したのではない。一 定の相互作用の繰り返しが、結果として美しい構成を作りだしたのである。結 果としての構成美は、世界の全体の関連の中で現れる部分でしかない。条件が 変れば、別の結果になってしまう。
注28
世界観を表現する形式の確認である。世界観の表現形式は言葉としての記号 である。世界観の展開を記号処理でできるほどに整理することが、世界観の究 極の形式である。その形式的可能性を探るための前提を確認する。
注29
「主観化される元々の対象」とは認識対象である。「主観化した対象」は認 識結果である。反映対象と、反映結果をそれぞれ意味する。
注30
現実にすべての対象を「1」として、記号に対応させることはできない。し かし、問題とする関係にあって、関係に影響する要素を取り除いた作用の主体 を捨象しなくてはならない。
注31
仮に「存在とは何か」「実在とは何か」から始めてみよう。
「なになには存在する」「それは実在する」と言うとき評価がおこなわれる。
存在するかしないか。実在であるかどうか。対象が評価される。しかし突きつ
めたとき、評価自体が問われる。物理学において肉眼では見えない原子は存在
するのか。グルーオンは存在するのか。重力による空間の歪みは実在か。生物
学において生とは何か。法律学において適法とは何か。個々の対象をどう評価
するかよりも、評価の基準そのものが問題になってくる。
評価基準は他との関係で決められる。一般的には全体との関係の中で個々の
評価がなされなくてはならない。個々の存在は一旦留保して、全体を定めなく
ては世界を評価できない。
注32
ことによると「対象と、客体と、対象と、媒体は区別できないもの」とする 立場も成り立つかもしれない。「主体と主体でないものの関係のみがある」と して。「存在するのは私だけであり、私以外のものとして表現されるものは、 私の一部分である。」 しかしこの立場は、コミュニケーションを成り立たせない。「私」は「私」 に、「私」について、「私」で何ができるのか。何も始まりはしない。主体と 主体でないものとの関係が絶対的であっても、主体でないものとしての対象と 客体、媒体の区別と関係がなくてはコミュニケーションは成り立たない。少な くとも、「私」は「私」以外のものと「私」以外によって関係できなければな らない。
注33
主体と客体は対象と媒体に対して対称性を持つ。
主体は客体が主体と同じ様に「対象」を理解できることを求める。
主体は客体が同じ様に「媒体」を理解できることを求める。
この可能性を前提にして関係し、コミュニケーションする。
主・客体相互の関係を、主体と客体と相互に立場を取り替えることができる。
ここでの主体と客体との関係は対立的なものではなく、対象に対して媒体によ
って同じ立場に立っている。主体と客体は相互に転化するものとして関係して
いる。主体と客体を結びつけるのは媒体との関係であり、隔てているものは対
象である。
主体と対象との関係と客体と対象との関係が主要な部分で一致しえるかどう
かは別の問題であって、一致を目指すのがコミュニケーションである。共通の
理解を確認し、拡大して行くことを目指すのがコミュニケーションの目的であ
る。
また、世界観は対象と主体の存在、主体による対象の認識、対象の法則と認 識された論理全体をその問題の内に含んでいる。存在、認識、論理はバラバラ でも、組合わさっているものでもない。存在、認識、論理は世界観として相互 に依存し、一体のものとしてある。存在の証明は認識に依存し、認識は論理に よって把握され、論理の形式は存在に依存する。存在は認識されるから世界観 として表現される。認識の存在に対する関係は論理として形式化される。論理 は存在の形式である。
注34
一般に記述は対象を説明し、説明を証明することを目的としている。
説明には一致した理解がなくてはならない。証明には根拠がなくてはならな
い。しかし、世界観はすべてを対象とするのであり、何かを根拠にしたり、一
致する理解を前提として求める事はできない。叙述としては何も無いところか
らから出発しなくてはならない。
注35
「水は高いところから低いところへ流れる」。では「高い」「低い」の定義 はなにか。高低は水を使って測るのである。水によって水平を決め、水平に対 し高い低いと決めるのである。地球規模で考えた場合、高い低いの意味はなく なってしまう。地球中心から同じ距離の球面を水平というのか、場所によって 違う重力の変位も考慮すべきか。
世界観の記述に用いる言葉は用語として、表記の形式について定義されてい なければならない。言語表現は対象を表現することも、言語を表現することも ある。いずれも可能であるが混乱させてはならない。それは、対象と媒体との 関係として明確に区別されねばならない。
注36
物質的時空は先験的に与えられた全体である。しかし、物質的空間概念は先
験的ではなく、経験によって獲得される。物質的時空は先験的に定義されてい
ない。これに対し、概念的時空は物質的時空を反映するものであり、定義され
る体系であり、獲得物の系である。概念的時空は表現体系であり、論理体系で
あり、操作対象としての体系である。
物質的時空は個別科学により、概念的時空と対応される。
注37
すなわち、世界がひとつでないとするなら、それは誤りであるか、あるいは 詭弁でしかない。
世界以外から始めることはできない。ひとつしかないのだから。しかし、ひ とつではあるが、その内に部分を含む全体である。全体としてひとつなのであ る。部分は複数であるが、そのすべてである世界全体から始めるべきで、その 全体以外のものから始めることはできない。
注38
時間は時計で測られる。時計の正確さは何によって測られるのか。ニュート
ンの時代では、どこでも時間の進み方は同じとされていた。アインシュタイン
の相対性理論によって、運動によって時間の進み方は異なるとされ、実際に観
測された。では、進み方の同じ時間と、進み方の異なる時間は何によって測ら
れたのか。運動の相互の比較によってである。
ガリレオは、振子の等時性は振子の重さ、振れの角度に関わりなく、周期が
一定であることを発見した。振子の等時性から時計が作られ、改良され原子時
計では10のマイナス13乗の精度であるといわれる。振子の等時性は、振子
相互の比較によって観察された。一日、一年の長さがほぼ一定であることは一
日の労働の成果、旅に要する移動時間等等の比較によって、経験的単位として
理解され、天体の観測によって確かめられた。世界の様々な変化が比較される
ことによって、すべての変化の間の相関関係として一定の時間の進み方が認め
られた。
他方、振子の等時性は実験だけでなく、支点から重心までの長さによって、
周期が決められることが力学の体系の中で証明される。同じ力学の体系の中で
星の運行、特定の原子の電子の運動等等、力学の体系の中では、すべての運動
が示す反復時間が一定であることが示される。
そして、相対性理論では個々の力学系の内では一定である時間の進み方が、
異なる力学系では相対的に異なる。ただし、でたらめになるのではなく、相対
的運動の相互の速さによって決まる割合で変化する。個々の系の中での時間の
進み方を測ることができ、相対的に異なる時間の進み方の差を測ることができ
るのも、時間の進み方の関係がすべての運動の相対関係の内で一定であるから
である。
さらに、世界観にとって重要なことは物理学の説明だけでなく、全体の相互
関係の中での一定の事柄の理解、認識のされ方である。個々に、比較は直接的
に、間接的に行われる。次に、例外が例外である条件を明らかにすることによ
って一貫性が傍証される。最後に、反例がありえないことの証明によって完全
に証明される。世界のあらゆる事柄について全体の把握、相対比較、反例の条
件、不存在の証明により、より確かに、統一的に世界を理解し、認識すること
ができるはずである。
注39
「無限」について、一つづつを確かめることは不可能である。一つづつ確か
めることはできなくても、全体は「無限」としてとらえることができる、表現
することができる。一つづつ確かめることと、全体を確かめることには、確か
さに質的違いがある。しかし、確かであることには違いはない。
無限の一つ一つはそれぞれが区別されることと、一つ一つが順序づけられる
ことによって、数えることができる。「数える」とは、数える対象と自然数と
を順番に、一対一対応をとることである。どこまで対応づけられたかの結果が、
対象の数である。自然数のすべてと対応づけられる対象が無限である。
無限は認識不可能ということではない。無限は不確かなのではない。無限も
確かに数えられる。さらに、無限である自然数と、無限である実数との数の大
きさすら、比較がされる。それは、無限と無限の比較ではなく、自然数一つ一
つと、実数一つ一つの対応として比較される。
無限も、自然数もその全体に意味がある。
「わかる」ということは、ひとつひとつすべてに対応する知識を獲得するこ
とではない。それは原理的に不可能である。すべての物を、それ以外の物と対
応させることは論理的に不可能である。すべての物をその内の部分と一対一で
対応させることも、論理的に不可能である。
蛇足12
すべての物は、それがなんらかの物の「すべて」として、部分と対応づけら
れる。「なんらかの物」として確実に対応させて、特定できることが「わかる」
ということである。
注40
「もの自体」という考え方は、近代哲学だけが縛られた呪縛ではない。現代
物理学の成果の評価においても決定的な役割を演じている。こうした、既成の
観念の勝手な振舞いを許さず、排除しなければならない。
直接の認識の対象となるものは限られている。時間的、空間的、能力的、論
理的な制約は避けられない。その制約を認めず、直接性を絶対化することは、
認識そのものの勝手な解釈であり、認識を歪小化するものである。個別科学の
成果を西洋科学という枠で囲い込んだり、科学的知見を科学者だけのものとし
て限定したりする。論理的推論を論理的と言うことだけで、観念論として否定、
限定する。そのような態度を世界全体のあり方、認識のあり方から批判し、始
めから退けておかねばならない。
例えば無限とは存在するのか。無限は直接には認識しえない。絶対は直接に は認識しえない。認識しえないものは存在しないとは決して言えないことを、 それは存在の問題ではなく、認識自体の解釈の問題でしかないことを始めに明 らかにしておくべきである。論理的存在に対立するのは知覚的存在である。し かし、論理的存在の認知を否定し、知覚の対象の存在のみを認知することは、 結局知覚の対象の存在を否定するだけでなく、知覚自体を否定することになる。
注41
不満で泣く、泣くと乳が与えられる、満足する。不満が空腹であることを 「認識」し、空腹と排せつによる不満の違いを「認識」する。
注42
保護者の顔、声の表情は一定ではない。にもかかわらず保護者を理解する。 この認識成立以前の段階では、人見知りはない。
注43
周囲の物にさわりたがる、口に入れたがる。
注44
男女を区別する場合でも、対象の大人・子供の違いによる区分を混同してし まっては、男女の違いは明確にならない。
注45
ランダム・ドット・ステレオグラムでの最初の認識は、混沌とした2領域の 点の集合である。2領域を両眼で1つの全体として見ることによって、2地域 間の点の相互関係が見え、相互位置のずれが両眼視差と対応することによって 立体像が見えてくる。
注46
自然科学系の人にとっては、このような世界観の序論はつまらない思弁と思 えるかも知れない。しかし、世界観の叙述は言語として表現され、理解される ことを目的としている。その言語は世界の歴史の中で最後の、極最近の段階で 生成された世界の構成部分である。宇宙史の最終段階の生成物によって最初の 段階からすべての過程を表現することの矛盾を、始めから全体を通して意識し ておく必要がある。世界の構成要素を一覧した後で、この矛盾が全体の中に位 置づけられる。世界を叙述し続ける運動の形式として、現実の中に承認される ことになるはずである。
注47
精神と物質の対立を前提とする立場からすれば、「精神も物質の働きの一部 であり、物質的存在、物質である」との主張は論理のすり替え、物質概念の無 原則な拡張に見える。しかし、ここで問題にするのは前提そのものの根拠であ って、前提される概念を基準にはしない。相互の立場を尊重はしない。唯物論 の立場の根拠を示し、唯物論の立場で精神が位置づけられ、さらに観念論が位 置づけられる。
注48
第5章、第6章は「全体」の存在についてである。いわば、全体の即自的存 在である。
注49
ここから全体概念は論理的に進化し、出発点の抽象性からしだいに具体的、 実在の全体へと展開する。
注50
全体を定める、限定することは、言葉によって形式的にだけ可能である。言 葉の形式、論理、文法において、全体は限定されうるが、実体的には全体は限 定されえない。
「全体」でないものの存在を仮定することは、問題にする「全体」そのもの が「全体ではない」ことしか証明しない。
「全体」の大きさは問題になりえない。限りのない大きさは無限としか言い えない。
外延規定は様々な基準によって計られる規定である。
「様々な基準」とは、時間、空間に代表される観念的関係である。「その前、
その後」「その向こう」として計られる大きさ、範囲として全体は無限である。
注51
内包規定は様々なもののまとまりとしての規定である。
「まとまり」とは法則の普遍性という、存在についての論理的なものである。
注52
「分ける」ということは、現実であれ、論理の上であれ別々にすることであ
り、対象についての違い、区別をいうことである。しかし全体は区別されるも
ののすべてとして区別できないものであって、全体は区別されない。
「分ける」ということ自体が、同じ部分と違う部分とについて言えることで
ある。同じ部分を全く持たない部分と部分を、改めて分けることはできない。
同じ部分を持つから分けることを問題にでき、違う部分を持つから同じ部分を
問題にできるのである。
分けて数えることのできる部分が数える単位である。数えるのにそれ以上分
けては数える意味が無くなる部分が、数える最小単位である。数える意味とは、
部分どうしが同じであることを前提に、同じでないことを基準に区別できるこ
とである。部分どうしが同じでありながら、違いを区別できる関係が維持され
なくては数える意味はない。部分どうしが同じであり、区別できる違いを持つ
という、部分どうしの全体の関係がなくてはならない。
蛇足15
個々の違いは個々の違いであって、全体の違いではない。
関係について調べ、認識し、表現することの意味は、同じ部分が何であり、 違う部分が何であるかについてであって、同異二面的な問題である。同異、何 れかしか取り上げられていなければ、他の面が省略されているのであり、その 省略されている面をも検討しなければならない。
注53
「絶対性」は決定論において、必然性と偶然性によって限定されて意味を持
つ。「絶対性」は因果法則において、因果の全体として絶対でありうるのであ
って、原因と結果の個々の関係が絶対的因果法則としてあるのではない。絶対
的関係は因果法則にはならない。
「絶対性」に関わる「正しいかどうか」は、現実と対応しているかどうかで
あり、予測の有効性として実践的価値が問われる。しかし実践において問える
のは決定論的結論ではなく、因果法則と現象過程との相互関係が認識過程に反
映されていることまでを含んでいる。
蛇足16
注54
全体は全体でない「部分」があることで、全体である。部分なしに全体はな い。「全体」の次は「全体」ではないものとしての部分である。全体に対して 全体でないものとしてある唯一のものは部分である。次に取り上げるべきは部 分である。
注55
実質的、実在的全体は、部分を含むことで全体であり、実在である。
部分を含むことは分けることができることであり、可分性である。
部分によって定義される全体を考える。部分間の相互関係として区別される
部分の定義は第6章以下で考える。
注56
「全体」の第一の否定。絶対的全体の論理的否定によって出てくるのは部分
である。
絶対的全体を否定し、「無」にいたるのは観念的否定であり、全体の「絶対
的」実在を見失っているからである。
注57
区別するのは人間、観測者に限らない。他に対して異なる関係を持つことで ある。
注58
まだ、対立する部分が存在しない全体である。相対化する可能性をもった絶 対的全体である。全体と対立する部分を全体から区別することで、全体は絶対 性を失い、相対的、実在する全体になる。
注59
あり方の、現れ方の形式的違いとは主体、主観の認識可能性、認識の理解の 仕方による違いである。客観的には、主体、主観を部分の内に含めて全体があ る。
注60
以上は論理にしたがって論理的に言えることである。これから用いる論理に
ついて始めに言えることである。混じりけを除いただけであり、論理関係以外
については何も意味のあることを言っていない。形式について述べたのであり
内容は何もない。
内容を先取りすることによる誤りをはじめから混入しないようにするために、
論理関係だけによって始めを整理する必要がある。論理自体始めからあるわけ
ではない。論理も、経験、教育によって与えられたものであり、純粋である保
証はない。だからこそ、論理的に言えることの形式、枠組みを明確にしたので
ある。
内容については論理だけでは何も言えない。内容についてまで論理的に展開
しようとするなら、論理を獲得するまでに与えられた、得てきた特殊な環境、
条件によって、まず普遍性を得ることはできない。いわば、母斑を残すことに
なる。
注61
部分は具体的には「物」の存在であり、「個人」としての存在でもある。
注62
結節点は網の結び目であるが、全体における部分の関連は平面的な網目では ない。さらに立体的な網目にとどまらない。網のイメージは糸を媒体としての 関係であるが、部分の相互関係は線形な糸ではない。相互作用の方向性として は線形を抽象イメージとして描けるが、存在は多様な、多重な相互作用の場で ある。その場は平面ではなく、多次元の存在である。
注63
何もない真空などというものは存在しない。何もない部分は存在しない。全 体に対する部分とは空間的枠組みのことではない。部分とは全体の相対的関係 の各々の関係の極、要素を指すのである。部分とは関係を表すものであり、空 間的な存在の入れ物ではない。部分は関係であり、何もない部分には関係その ものがない。
注64
直線であれば2つの無限の長さに分割できる。平面であれば無限の広さをも つ部分に、無限の数分割できる。
注65
無限を実感する機会を持つことは、世界観の具体的イメージを持つために重 要である。同時に有限の多さ、多様さの経験も重要である。有限であるはずの 存在が、計り知れない多様性と、無限としかとらえることのできない数を備え ていることを。
注66
全体がまったくの一つであるなら、部分は全体と完全に一致する。そうであ
るなら世界は絶対的静止である。永遠にすべてが静止した世界を我々には想像
できるが現実の世界ではない。それは想像としてのみの存在である。
絶対的静止の世界は人間の「想像」として、この世界の極極一部分として微
かに存在するだけである。絶対的静止は我々の思考によって「想像」として存
在する。その存在は想像する我々と「想像された世界」とに区別されており、
同じではない。想像する者と「想像された物」は均質、均等ではない。すなわ
ち、区別のない絶対的静止は全体ではない。
注67
全体は部分を形成することで、絶対的全体ではなくなる。絶対的全体は否定 される。
注68
部分からなる全体性は方向性、極性を示す。方向性、極性は普遍的な性質で あり、意味、目的、理由の存在論的基礎である。意味、目的、理由は人が勝手 に見いだし、つけているものではなく、人が方向性、極性を意味、目的、理由 として価値づけているのである。
注69
物理学を含め個別科学は、まず部分を追求している。そして、物理学は部分 を追求することで、部分の構造が世界の構造に関わっていることを明らかにし ている。また、歴史的にも物理学の部分の追求が宇宙の創成の過程を、宇宙の 構造を知る手がかりを提供している。
注70
全体は認識の対象として、我々に対して形式である。
全体は認識の対象として「ある」のではない。我々にとっての認識対象の形
式の枠組みとして全体はある。
全体自体に形式はない。形式は部分があって、部分間の関係として現れる。
「現れる」この表現される過程の時制、時性が問われるのだが。
注71
主観は全体を対象として全体について述べるとき、主観の述べる形式を整え ておかねばならない。全体と対象化された「全体」の関係について、対象化す る主観と対象化の関係については、第一編序論において整理しておいた。ここ では、対象化したものを表現する形式を整理しておかねばならない。全体と対 象化された「全体」からなる形式、対応関係を明らかにしておかなければなら ない。全体がその内部の一部分である主観において、その全体を投影する関係 を明らかにする。
注72
全体の形式は全体のあり方ではない。主観の全体に対するあり方として問題
になるに過ぎない。この形式にこだわるのは無駄なことではない。現に「観測
者」の問題として、物理学の解釈の問題として、重要な現実的問題と連なって
いる。
もともと、観測とは客観的なものではありえない。観測、観察も実践的なも
のであり、主体的なものである。客観性が問題になるのは、観測、観察の結果
を評価し、対象を再構成してみるときである。観測結果の評価、対象の再構成
のときに主観が入り込まないよう、様々な方法、手続きに注意がされねばなら
ない。評価、再構成を経て修正して、繰り返し発展させる、すなわちフィード
・バックである。観測、観察のフィード・バックの過程で重要なのは客観性で
はなく、主体性である。にも関わらず、観測の客観性を求めることは自己を否
定するか、世界を否定することになる。
注73
「第10章 存在の構造」の先取りとして、運動・存在のイメージ・モデル を描いておく
注74
対称性の破れが、全体に対し異なる部分となって現れる。部分間で相互に代 わりえない区別となる。相互転化が禁止される。規則としてではなく存在とし て。
物質場、場の励起として部分が実在になる。
注75
運動は全体の運動である。運動は全体である。全体は常に運動している。運 動していない全体はない。全体には静止はない。
注76
ただ、疑似絶対的静止現象として「無気力、無関心、無感動」の三無主義が ある。いずれにしても絶対的静止は恐ろしいものである。
注77
運動の形式としての方向を例として相対的静止を表現したのであり、全体の 運動がまず方向としての秩序をもつと言うことではない。方向は運動のひとつ の象徴、形式として分かりやすい基準であるが、現実には特殊な運動である。
注78
静止は他との相互作用に関わりなく、保存される運動としての部分の存在で ある。したがって「ものが存在するかどうか」と「どこにどの様に存在するか」 は運動についての別の問題である。「どこにどの様に」は前提に既に観測問題 を忍び込ませている。
静止は現象である。静止は実在ではない。
「現象」の意味は二つある。『形をとること』本質との相補的関係における
「現象」。ヘーゲル弁証法にいう「現象過程」。
日常的な意味で『事象が起こること』、継起するものごとの意味。
ここでは現象過程として、実在のありようを現象と表す。
注79
直線は光によって測られる。物理的には光は重力場の影響を受け曲がる。と 言うことは、光は直進することがない。観測は不可能であるが、日常的な長さ についても論理的に光を用いて直線を測ることはできない。概念としての直線 である。重力場の影響を受けて曲がる光であるが、重力場の影響を受けずに運 動した場合の軌跡が直線になる。実験条件の理想化によって、えられる概念に よって直線が定義される。
注80
具体的には電子計算機を用いたグラフィック・シミュレーションで表現でき
る。この場合に形は座標を与えて表示する場合でも、対象の位置座標だけでは
なく視点の座標も必要である。あるいは表示対象の運動方程式に域値と変化率
の条件を与え、このパラメーターによって規定、規制して軌跡を表示させるの
である。
グラフィック・シミュレーションは方程式とパラメーターによって決定され
るが、物理現象は方程式によって決定されるのではない。方程式は現象を反映
するための形式でしかない。方程式は現象の方向性と力をベクトル数として捨
象したものである。
物理現象は分析、解析され方程式にまとめられる。分析、解析は捨象による
形式化である。方程式として与えられることでシミュレーションが可能になる。
しかし、方程式を組み合わせただけの、裸の構成ではシミュレーションはでき
ない。パラメーターによって条件づけられねばならない。
シミュレーションによって、物理過程をより正確に理解できるようになる。
他方として、形の現れかたの一般的過程を理解することが、世界を理解する手
がかりにもなる。
注81
こうしたことは、したり顔の講釈に似ている。論理をもてあそんではならな
い。
物事の解釈のための解釈にならないように。さらには方向づけられた解釈、
占いにまで落ち込むことのないように。物事を列挙し、そこに無意識の内であ
っても選択が働かないように。
注82
人は安静の言いつけを守ることができるが、呼吸や心臓を止めることはでき ない。代謝を止めることも、体を構成している物質原子内の電子の運動を止め ることもできない。まして地球の運動に対して静止することはできない。
注83
この全体と部分との相互関係の解釈をめぐって今日、ニュー・サイエンスと 自称する観念論が流行している。
注84
全体の絶対的運動は強調しすぎることはない。絶対的運動の統一性が問題で
ある。ただし、個々の存在を形式的に全体に還元して理解するのではない。個
々の存在過程の結果を形式的に包含して一括するのでもない。
全体性の一面的強調は、全体主義、有機体説につけいれられる。個別性の強
調は無政府主義につけいれられる。どちらも観念的理解に基づいて、現実を形
式化しようとする試みである。
存在の仕方そのものが部分は相対的に、全体は絶対的に運動している。すべ
ての運動が、部分と全体の存在をになっていることが重要である。
注85
この関係にあっては、全体はまったくの均一な存在である。まったくの均一
な絶対的存在は思弁の対象であって、現実世界ではない。対称性を決定する部
分が存在しない絶対的対称性、超対称性の世界である。
しかし、現実の世界はまったくの均一ではなく、ゆらぎがあったという。均
一性を否定するゆらぎは、絶対的運動に対する相対的静止としての部分である。
部分は絶対的静止としてではなく、全体に対して静止する部分である。全体が
エントロピーを増大させても、相対的にエントロピーを減少させる部分が運動
として現れる。
注86
そこに絶対性を否定するような無限が入り込んでいるかという問題は、思弁 ではなく、現実に確かめるべき課題である。逆に「無限」についての理解を現 実の存在形式からえなくてはならない。「無限」は延長、繰り返しの観念的、 形式的操作の結果としての理解から離れ、現実の存在形式から概念化しなくて はならない。
注87
継続しない対称性の破れは、可能性でしかない。継続しない非対称性と対称 性を区別することはできない。継続しない非対称性は、無限小の継続としての 非対称関係である。無限小の非対称性は対称性と区別されない。
注88
ここでは、物理学での「質量」概念とは別と考えた方が良い。存在の第1の 性質としての「質量」である。物理的運動として具体化する前段階の一般的運 動の質量である。物理学的質量に具体化され、物理学的質量から学ばなくては ならないが、物理的存在に限定されない存在一般の、普遍的あり方としての質 量である。哲学的概念としての質量である。
注89
その様に区別されるのであって、人が比べて分類したものが質なのではない。 人は相互作用の違いをたどって質の違いを知るのである。
注90
量子化数そのものとしての存在はない。数は概念の形式の一つである。自然
数は存在するが、虚数は存在しないとか、無限数は存在しないとかは実在論の
問題ではない。数は概念として存在するのであって、数そのものが存在するの
ではない。
数は変換することができる。
注91
歴史的に数えることは1から始まった。対象があるかないか、対象と指1本 との対応関係が有りえるかどうかが基本である。有無の状態の組合せとして指 を折る状態を対応させ順次続けることで5進数か10進数ができる。一人分の 手としてまとめた単位として上位の桁、10の位が設定される。
注92
非存在を予定することで数が存在可能になる。存在の単位枠としての存在可 能性が多数のそしてついには無限の枠が用意される。対象の存在可能性は質の 存在を前提にしている。
注93
自然数は集合論によって定義される。空集合とその要素の個数として桁と
「0」が定義され、対象との対応関係は最も一般的な形式とする。
集合論定義では、対象との一般的形式関係は認めるが、対象間の関係と「数」
間の関係の対応を定義し続けるのではなく、「数」間の関係の論理だけで自然
数を定義する。定義された自然数の論理、「0」、「1」、和、積、交換法則、
結合法則によって自然数の関係が定義される。
定義された自然数の体系と対象との対応関係は、自然数全体の中の部分とし
ての「数」との対応として関係づけられる。
自然数の論理から導かれる「無限」と対象との対応を問題とする場合、対応
関係と対象間の関係が存在論にもたらされる。
自然数は「自然」に存在するものではなく、対象との対応の関係として存在
する。対象との対応を定めることによって対象の「数」が決まる。数によって
対象の性質が決まるのではない。
自然数とは、とても「自然」ではない。「自然」と言うなら無理数も、虚数
も自然の数量関係を反映しており、より自然の数である。自然数は、量る者か
ら見た自然でしかない。序数、基数も対象との対応関係で意味づけられた数で
あって、自然数の論理を無条件に適応することはできない。
存在可能性の枠を用意し、存在・非存在の状態を当てはめる。こうして存在 の全体を表現する。存在可能性の枠と存在・非存在の状態という二つの次元間 の関係づけを操作する。この単純なアルゴリズムを獲得するために人は幼児期 に何年もの失敗に満ちた訓練を繰り返す。その後、学校でそれこそ四則演算の 算法・アルゴリズムを訓練し、使いこなすようになる。
注94
矛盾は対立関係の現れである。単なる対立とは異なり、互いの存在にかかわ
る関係である。一方だけでは存在しない「もの」どうしの対立関係である。矛
盾が無くなるとき、一方だけが残ることもない。
矛盾する関係は互いを否定し合う関係である。しかし、相互に前提し合う関
係でもある。矛盾は二律背反とは異なる。矛盾による否定は「全てが、無か」
にはならない。
注95
地球の自転や公転、あるいはセシウム原子の振動を基準に固定し、寿命の長 短、社会現象の遅速を問題にしても、意味はないのである。あっても目安でし かない。
注96
「第5章全体の諸性質」の検討から導かれた全体の性質を示す部分を個別と
して特徴づけ検討する。
全体と部分の対立と統一として現れる運動が、運動主体として全体性をもち
ながら、部分としての独自性を実現していく過程である。運動主体として、存
在主体としての全体に対する部分が個別である。
部分の運動を階層的に発展させ、階層的運動主体として個別が存在する。
注97
x軸に直行する方向をy軸として二次元空間が定義できる。二次元空間はx
軸方向だけでなくy軸方向にも運動可能性があることによって方向づけされる。
x、y軸のなす平面に対して直行する方向をz軸として三次元空間が定義でき
る。時間軸を加えることによって四次元空間が定義される。時空間としての運
動だけが運動の自由度ではない。位置運動だけが運動ではない。運動に内部運
動、例えば回転運動があれば、その回転方向は外部の運動方向に対しても独立
した方向性を持つ。回転には右回りと左回りが区別される。時空間での運動は
単純な運動である。
軸として定義される運動方向は互いに独立である。運動方向は対称性が破れ、
互換ではなくなる。運動軸として相互に入れ替わることのできない客観的方向
である。
注98
階層の系列は物理的階層、生物的階層、社会的・精神的階層に大分類して系 列を見ることができるし、さらに細分することもできる。また運動形態の本質 的発展として相互作用、再帰作用(フィード・バック)、目的的作用(フィー ド・フォァ)としての発展は目的因、価値の実在としての位置づけの要である。
注99
即自的運動主体の運動過程では入力を原因として出力を結果する。しかし、
即自的運動過程は孤立しておらず、入力と出力として他と関係するだけでなく、
運動過程自体が媒介されている。入力において作用するものとされるもの、出
力において作用するものとされるもの、いずれもが相互に作用するものとして
主体であり、相互に作用されるものとして対象である。
運動の経過が運動の方向を示し、原因と結果を区別する。
注100
方向性をもった非可逆的運動過程は、入力と出力を含めた運動系に拡張する
ことが可能である。出力は対象化の過程であり、入力は自己対象化の過程であ
り、出力と入力を結びつけることができる。
出力のすべてが入力のすべてであるなら、その運動過程は循環でしかない。
循環する閉じた系はやがて運動を停止する。
しかし、入力が開かれた系では出力が入力として運動過程に再び入り込んで
新しい運動過程を進める。
出力も開かれた系であるなら、入力に還帰する出力によって運動過程を制御
することが可能になる。出力が入力に還帰し、運動過程を制御する系がフィー
ド・バック系である。フィード・バック系では運動過程に加えて情報過程が成
立する。運動過程では相互作用の連鎖で、個々の相互作用の質的な差異はない。
出力結果も相互作用としては質的差異はない。出力結果が相互作用として入力
に作用する過程が情報過程として、運動過程とは質的に異なる機能を実現する。
情報過程も運動過程の一部として実現されるが、それにとどまらず運動過程自
体を制御する。
生物はフィード・バック系の高度に発展した運動系である。単に生き、生殖 するだけでなく、個々の生理過程が生化学反応の何層にも組織されたフィード ・バック系である。無論、生物は物理過程をも身体の運動としてフィード・バ ック系を実現している。
注101
進化は遺伝子の偶然の変異によって実現している。偶然の変異に方向性はな いし、価値評価もない。しかし、結果としての進化には方向性があり、変異を 「価値」づける。制御される方向性そのものは運動過程に即したものである。 制御が運動過程の継続として実現され続けることが、制御する方向を「価値」 づける物質的基礎である。
注102
目的、価値は科学の対象になる。フィード・フォア系は科学の対象である。 フィード・フォア系を他との相互関係の内で主体の運動形態として位置づける ことで目的、価値が定まる。目的、価値は観念的、超自然的なものではない。
注103
フィード・フォアは実践主体としての知的生命を区別する基準である。対象 を認識するだけではなく、目的を認識する。
注104
弁証法は、物事の存在、すなわち運動のあり方、物事の論理、物事について
の認識についてそこに含まれる関係と、関係の変化、全体の関係を示すもので
ある。
したがって、弁証法については弁証法の方法、基本的概念の説明がされなく
てはならない。形式論理との関係が説明されなくてはならない。個別科学の成
果との関係、真理の認識との関係が説明されなくてはならない。
結局、世界観の問題と一体の問題である。
注105
したがって弁証法を学ぶことは、定義された教科書を覚えることでは身につ かない。現実の様々な物事を学び、次々と報告される個別科学の成果を学び続 けることが弁証法を学ぶ最低限の条件である。ただし、すべての物事、すべて の個別科学を学ぶことであるはずはない。
注106
「有り様」は実在の構造、現象過程、実現過程である。運動体、運動するも のとして運動の有り様である。基本は個別ではない。個別法則は個別としての 有り様であって、個別を個別たらしめる有り様を示す。
注107
「A」は「A」でなくなりつつありながら、「A」としての質が保存されている 存在である。いつまでも「A」であると思い込むのは誤りの元である。永久不変 の存在などない。
注108
基本法則の現れを様々な事象の中に探すことが、基本法則の問題ではない。
主体を含む対象世界との関わりの基本を押さえるためである。
基本法則は万能の研究方法ではない。具体的指針を示すものでもない。しか
し、解釈の道具としてあるだけでもない。いかに専門的分野であっても、対象
の世界における位置、研究手段、研究方法、研究成果の解釈、これら全体を一
つの研究として扱うべきである。この全体に適応されるのが基本法則である。
蛇足26
世界観として基本法則は全体を貫くものであり、具体例はすべてである。
「基本法則」としての項目は、法則の形式を整理する場である。
注109
第8章では「存在の量と質」であったが、ここでは「運動の量と質」である。
注110
水は氷、水液、水蒸気としての相を現す。エネルギー状態の変化によって水 の分子構造は変化しない。分子相互間の運動状態としての存在形態が変わる。 さらに水としての存在の内部エネルギーが高まれば、水の内在的質的規定が破 れ、水素と酸素に分離する。水の存在である分子構造が変わる。水が水でなく なることが質の存在の変化である。ただし、それまでの水素と酸素の存在は残 る。さらに原子核と電子が分離しプラズマとなる。原子としての内在的質的規 定はなくなってしまうが、より普遍的物質の存在形態になる。
注111
光の運動の階層で、光のエネルギーと光の方向性を関連づけても意味はない。
光のエネルギーの違いは光を吸収し、放出する原子との相互関係として意味が
ある。光の運動階層と原子の運動階層との階層間の運動の関連である。また、
光のエネルギーはマクロの量である温度と関連する。光が色として現れるのは
人間の感覚においてである。光の色と暖かさは人間の知覚として関連づけられ
る。
気体の振動と液体、個体の振動との関連づけは振動の媒体の関連づけであっ
て、振動の質的関連ではない。媒体の振動としての運動の質は同じであるから、
媒体による量的な違いが問題になる。運動の質を問題にしているのではない。
注112
極単純な例で言えば、水の沸点は温度だけによって決まるのではなく、圧力
によっても規定される。臨界値である沸点が変化する。
単純な化学変化は双方向である。個別の変化の方向を決定するのは反応の条
件による。反応の結果が条件を規定する場合、化学変化は加速されたり、抑制
されたり、変化の方向を逆転したりする。
注113
人間が知的生物になったからといって、生物でなくなりはしない。生物にな ったからといって、化学変化によるエネルギー代謝がなくなりはしない。
注114
物質的、生理的、社会的、精神的他との関係としてある同化と異化の統一と しての代謝過程を全体に対して位置づける。全体に対する個々の位置づけによ って決まる価値体系に基づいて、自らの存在関係を変革し、関係する他を変え ることによって自らを成長させる。自らの存在関係を変革することで自らを変 えて、他との関係、全体を発展させる。
注115
ひとつの波は部分を区別できない。連続した変化であり、形式的に取り出し
た部分は他の部分と互換である。媒体間の関係は相対的であり、相互に入れ替
わる、相互作用の基本的形態である。
波の運動は全体としての一般的形態であり部分を区別できない。高低、粗密
として相対的に区別されるだけであり、相対の基準は規定されていない。高低、
粗密の区別は相互に入れ替わり、順次入れ替わる。
波形としての形式は移動し、媒体は相互に振動するだけであり部分を区別で
きない。減衰するのは他との関係によってエネルギーが失われるからである。
エネルギーが失われなければ、他との相互作用がなければ波形は永久に保存さ
れる。
注116
同じ質の波であっても位相が違うだけで、位相の違いが共鳴によって唸りを 生ずる。波の重なり合いとして共鳴は増幅する部分と減衰する部分を区別する。 増幅、減衰はそれぞれの波の相互規定の現われである。それぞれの波の元の運 動形態とは違った、振幅の違いとして、他と区別される部分として現われる。 部分として他の部分と区別され、新しい運動形態として元の運動形態と区別さ れる。部分にたいして、全体にたいして二重に区別される。区別は観察によっ て現われるのではなく、運動形態として存在そのものとして現われる。
注117
最も一般的な相互作用は重力として相互作用を実現し、強い相互作用、弱い 相互作用、電磁気相互作用として、次々に相互作用を実現し、宇宙を形作って いる。4つの相互作用、クオークの組み合わせなど量子物理学の対象だけでな く、陽子と電子の相互作用によって原子ができ、原子と原子で分子、DNAと タンパク質酵素で生物、個体の生存、社会の経済、人類の文化として大きな階 層が作られてきた。この大きな階層の内にさらに個々の存在を現わすそれぞれ の相互作用の階層がある。
注118
科学史上でも「究極の物質」に構造があることが繰り返された。世界的に著 名な成果を上げた複数の自然科学者が、物質の非存在の解釈を宣伝してきた。 少なくとも我々は今結論を出せる問題かどうかを判断して先に進むべきである。
注119
哺乳類の進化としての発展と、人類への進化には飛躍がある。人類は生物 的物質代謝を食物連鎖の延長としてではなく、社会的物質代謝=経済として組 織化している。
注120
物理的階層から生物の発生、生物的階層から精神の発現これらは非連続であ
り、まったく別の存在であると、つい200年ほど前まで考えられていた。今
でもそう考えている人々も多い。
古典力学的世界像から量子力学的世界像への発展での物理学者の解釈の混乱
もある。
注121
現象を明らかにしなくては、本質と現実を明らかにすることはできない。現 象は存在論、認識論の問題である。不確定性原理から導かれるところの、粒子 波動の二重性、運動量と位置という2つの物理量の背反、これらを、認識過程 という対象と主体の相互作用の過程の現象としてとらえねばならない。
注122
【ランダム・ドット・ステレオグラム】
一見でたらめに描かれている点に対し、両眼の視焦点をそれぞれに合わすと
と立体的像が見えてくる。左右の眼の視差に対応して一致する点と、一致しな
い点によって実際の点の位置の前後に像が見える。物理的には紙面上に存在す
る点であるが、両眼視することで別の位置に像が現れる。像の物理的存在の媒
体は紙面上の点である。両眼視としての認識過程の相互作用の中に像は存在す
る。紙とインクだけであっては像は存在しない。現れた像は現実に存在する。
像の位置には点は存在しないが像は存在する。対象としての点の媒体と、両眼
視によって対象を認識する視覚において像は存在する。存在させることができ
る。
紙上の点と視認される像との関係は両眼視によって媒介され、点を媒体とし
ての関係にある。存在の媒体と存在とは一致しないこともある。精神の存在と
はまさにこのような存在形態である。
注123
発生卵の分割、構造化の過程で精子の侵入位置、重力、光、磁気、水分、栄 養等いづれが方向性を与えるのかは不明であっても、分割に極性があることは 明らかである。
注124
生物の進化の過程で形作られた複雑な、しかも合目的的な形は進化の方向性 によっている。獲得形質が遺伝するかのような、「進化の意志」にもとづくか のような形の変化が現れる。
注125
宇宙の泡構造、分子構造、結晶格子、雪の結晶、地形等、フラクタル図形と してコンピュータ・グラフィックでも再現される。
注126
生物の発生過程での細胞分裂は、形作りの両方の性質の組合せによっている。 組織毎に違う細胞の機能分化としての細胞分裂。同一組織内の同じ細胞の増殖 過程での全体の構造。
注127
人間の感覚の場合に、「場」は具体的には光であり、空気であり、化学物質
等々である。対象にが光を発し、あるいは反射する。対象と光の相互作用であ
る。対象によって光は一定の波長と振幅で規定され、方向性を与えられる。こ
の一定の波長と振幅をもった一方向からの光として対象の「像」が感覚される。
空気も一様な流れとして対象に衝突することによって振動し、音となって伝
わり感覚される。化学物質は臭い、味覚となる。対象との直接の接触は触覚と
なる。
これら個々の反映の統合として、人間の認識が成立する。
注128
情報媒体は低次の情報であれば、様々な相互作用における物質の関係として
現れる。高次の情報媒体は音声、文字、記号等々であるが、これらは媒体自体
の物質的存在は単純であるが、媒体要素間の関係は非常に高度で、言語学一つ
とっても解釈すら一致していない。我々にとって直接的に重要なのは脳を媒体
とする情報系である。
情報の物質的基礎はフィードバックにある。ただしフィードバックの目標、
制御装置、制御対象、結果の間の関係は独立していない。情報系の関係内で要
素が物理的に独立することで情報として機能する。要素が独立するだけでは単
なる因果関係であり、情報系としての関係が維持されて情報になる。
注129
言葉は情報媒体である。しかし、未知の外国語で書かれた文章は、言葉であ
るらしいことは理解できても内容は理解できない。情報媒体であることは理解
できても情報は理解できない。翻訳辞書があり、一般的な言語文法の知識があ
れば、情報を理解できる。辞書と一般的文法知識という、この場合の情報系を
実現する手段によって未知の外国語の文章を理解できる。情報として理解され
るのは外国語の意味ではなく、外国語で書かれた文章の意味である。文章の意
味を理解するのは主体である。辞書や文法が文章の意味を理解するのではない。
しかし、外国語の文章が自然科学の論文で数式主体のものであったら、やは
り私には理解できない。対象についての理解がなければ、情報媒体によって情
報を理解することはできない。主体と対象との間に情報を授受できる構造がで
きていない限り、情報媒体はたんなるインクのシミを実現しているにすぎない。
注130
人間の知識対象としての自然は、無限の情報の可能性をもっているが、その 存在が即情報対象にはならない。人間の認識能力の量的、質的拡大に応じて情 報対象として、人間社会の情報系に取り込まれ情報として流通する。
注131
素粒子レベルでの一定の状態の存続期間は非常に短い。生物は生理過程にあ
っては、常に物質代謝をおこなっている。人間個体は死んでも、その人の新た
に獲得した知識は歴史的に残りえる。
文字そのものは情報媒体ではあるが、単独では有意な情報を持たない。文字
の組み合わせ配列として単語を形成し、句を、文を、文章を構成する。文字に
よって媒介される情報は、書き写され、複写され、さらに翻訳されて普遍的存
在になる。
注132
ビット列は石の配列でも、1・0でも、電気のオン・オフでも何でもよい。
注133
操作によって生じる誤り訂正の系は複数ある。情報媒体を多重化することに
よって、多重化された媒体の比較で誤りの存在を確認できる。媒体を平行に操
作する多重度が多くなれば、誤りの存在確認だけでなく、誤りの訂正が可能に
なる。9の多重度をもっていて、操作の過程で1つの誤りが発生した場合、他
の8の情報により誤りを訂正できる。具体的に磁気テープが9トラックを使用
している。
また媒体列の前後関係を数値化し、媒体列の一定の単位ごとの計算値を媒体
列に付加することによって誤りの存在を確認できる。具体的にパリティ・チェ
ックやチェック・ビットが使用されている。
誤りが確認できた場合は、同じ操作を繰り返すことによって誤りを訂正でき
る。
注134
コンピュータでは中央処理装置、入出力装置、記録媒体、基本ソフトウエア、 応用ソフトウエアのすべてが保存されなくては情報は消滅してしまう。情報媒 体だけで情報は保存されるのではない。
注135
言語は対象と直接の対応関係の中で発生し、対象構造に対応することで高度 化し、言語自体を対象とすることで高次化してきた。言語は音声、文字から独 立して記号化した。記号化した言語は神経系を媒体として、イメージ、概念の 運動として実現される。概念化された記号は、演算され、記号処理体系を整え、 計算機による操作が可能になる。
注136
面積のない、位置だけの点。太さのない線。幾何学的性質をもつ三角形。こ れらは実在として存在しないが、存在形式として客観的存在である。
注137
自分を対象とするとき、それは「人として」であり、個ではなく類としてで ある。生きること=生活は人との関わりの中で実現される。孤立、疎外も人と の関わり方の問題であって、隔絶されて生き続けることはできない。
注138
ことばは社会的存在であり、個人の、自分自身の認識に形を与え対象化する
ものである。ことば以外にも同じ働きをするものはある。音楽、美術等の手段
としてある。しかしことばがそれらに比較して特殊な意味を持つのは、その社
会的普遍性によってである。言語の違いではなく、ことばの意味表現の普遍性
である。
ことばは社会的に発生したものを、自分自身が社会内で成長する過程で学習
し、獲得してきた。ことばはこれまでの生活の中で体験を通して確かめられて
きたものであるが、それ以前に社会的に確かめられてきた存在である。
そのようなものとして、ことばは情報を取り扱う上で現実を反映していなが
ら、使いやすい手段である。
注139
価値観を内に含んだ閉じられた仮想現実世界で満足できてしまう人々は、そ の世界に逃避してしまう。
注140
具体的には、学習の方法としてまず名づけてみる、言ってみる、書いてみる ことによって対象について覚えることも、理解することもできる。
注141
具体的に、学習において文章を写してみること、発言をメモ、ノートにとる
こと、それを再度読み返すことによって、表現者の思考過程を論理を再現し、
理解することができる。
この用法での言語は、追体験のための記号であり詩的でもある。
詩はすべてを詳細に記号化しない。詩は言葉の通常の意味で、対象を通常に
指示しない。詩は言葉の意味、言葉のつながり、「言葉」の指示する対象の関
係・変化、「言葉」による表現のつながり・変化、それらいくつかの要素によ
って、あるいはいくつかの総合によって主題を表現する。詩の「文字」づらを
追っても、作者を追体験できない。
注142
ただし対象と言語記号の関係は一対一対応ではない。対象は一つの要素では なく、対象要素の集合である。要素が定義されていない集合であり、言語記号 で実現される対象との対応関係は単純に論理操作できない。
注143
例えば遺伝情報と言われるが、遺伝子塩基の配列はそれだけでは情報ではな い。元の遺伝子から次の遺伝子への一方向的信号の複製の過程だけが遺伝では ない。伝えられるのは形質であって、遺伝子塩基の配列ではない。遺伝形質は 遺伝子によって伝えられるが、形質として発現されることで遺伝される。
注144
第11章 現実存在(運動形態)での認識の存在に引き続いて、主体にとっ ての認識を扱う。
注145
個々の認識すべてにおいて、全ての関係をたどることはしない。しかし、関 係が相互に関係し合って存在していること、必要なら関係をたどることができ ることとして対象が認識される。
注146
実験は追試されなくてはならない。実験は理論によって評価されなくてはな らない。ニュースは複数のソースから確認されなくてはならない。誤解は解消 されなくてはならない。関係間に矛盾があってはならない。
注147
憶測や先入観は退けなければならないが、目的意識なしには研究は成り立た ないし、進捗の力にならない。認識の客観性を保証するために、実践過程から の相対的自立が必要であるが、絶対的自立ではない。より本質的に、対象への 働きかけなしに対象との関係を確かめることはできない。
注148
定義されない要素の集合を、数学の集合概念と同じに扱うことはできない。
数学の集合概念を基礎とする形式論理では、対象はすでに捨象されていること
を前提にしている。形式論理では対象の実在を扱うことはできない。他との多
様な相互関係の内の、一つの関係の質量だけによって対象を定義し、論理操作
をする。捨象された関係内でのみ、形式論理は成り立つ。定義された要素の集
合を扱っている限り、形式論理は厳密である。しかし、認識の対象は定義され
ていない、定義しきれていない存在である。
しかも現実の認識では対象の概念は固定されていない。いわゆる「ゆらぎ」
がある。他との関連の別の連なりに注目し、少しずつ条件を変え、解釈を変え
ている。対象の概念規定を、その要素と集合を固定的に定義されたものとして
いない。対象を多面的に見るということではなく、対象は変わりうる、あるい
は対象の認識が不十分であるとして対している。認識を発展させるため厳密な
定義とともに、対象にゆららぎがあり、認識をゆるがしている。
注149
感覚、知覚、概念はそれぞれの機能でもあり、過程でもあり、主観の対象で もある。この区別をして用いないと認識の説明が混乱してしまう。
注150
「存在する」「関係する」とうい観念を否定することも観念にはできる。し かし、否定する関係を関係づけるには、「存在」「関係」の関係を前提にした 関係であり、その関係から隔絶されはしない。
注151
最終的認識過程の検証は、人工知能を作ることであろう。
人工知能も、現実の過程の中になくてはならない。現実の情報を操作者(オ
ペレーター)を通して得るのであれば、常に人間によって加工された情報を与
えなければならない。人間の現実の過程で得る情報は、人間の認識にとって経
験と結びついて加工されたデータである。現実の過程の中で、人間は感覚器官
を通して情報を得るが、感覚器官によって得た刺激を、生まれてから経験した
すべての感覚刺激の中に位置づけ、意味づけられたデータを人間が知的に処理
する。人間が加工したデータを処理するのであれば、単なる記号処理でしかな
い。記号処理によってもその成果は大きいが、人工知能にはならない。
したがって、人工知能は感覚器官(センサー)を持って現実の過程から生情
報を得て、そのデータと人間が処理するデータとの対応関係を持たなくてはな
らない。人工知能の感覚器官であるセンサーを、有意味な刺激に対して、高度
化させることが必要である。どの刺激に対し、どの程度のデータ化が必要かは、
技術と人間の価値判断によるが。
さらに人工知能は、今日の計算機でももっているロギング情報(機械処理過
程の情報)を分類整理し、意味づけ、検索できるように抽象化したデータを持
たなくてはならない。ロギング情報をデータとして、みづからの処理過程と、
現実の過程との相関関係を対応づける機能を持たなくてはならない。処理デー
タの抽象化機能を高度化する必要がある。
すなわち人工知能は、現実過程に対しセンサーによるデータの具体化を発達
させ、他方で自らの処理するデータの処理過程の高度化、抽象化を発達させな
くてはならない。
注152
相互作用は主体、主観にとって、対象が部分として孤立していないこと、対 象は対立を含んでいることを常に気づかせる考え方として重要である。
注153
本質と現象の矛盾は、単に論理関係をたどれば逆説でしかなく、論理的矛盾 として論理自体を否定するようにみえる。しかし、単に論理関係をたどること は、本質過程と現象過程を同列に、並行する過程として扱うことである。現象 間の関係と、本質と現象間の関係を同じに扱うことの方に誤りがある。
注154
主体・主観が感覚的に具体的に存在するとする対象の認識は、個別の極一部 分であり、おおざっぱな概観であり、表層である。
注155
個別と普遍は存在のあり方が異なり、それぞれの存在のあり方で他方のあり 方を同じに扱うことはできない。個別が存在するようには普遍は存在しない。 だからといって普遍が存在しないことにはならない。存在の仕方、存在の意味 が異なる。
注156
丸い形を3つ集めた全体の形は三角形である。媒体の形に関わりなく、媒体
間の配置関係によってできる全体の形がある。媒体が丸ではなく四角や、星形
等であれば全体の三角形は多様でありうるが、配置関係による三角形の普遍性
は保存される。
進化による特殊化は適応による普遍化でもある。進化の系統樹の分岐は特殊
化への分化であるが、環境への適応は普遍的形態を実現する。たとえばほ乳類
の鯨への進化は、水中生物である魚の形態に似て適応している。こうもりは飛
ぶための普遍的な形態を獲得している。媒体の特殊化と存在の普遍化が統一さ
れている。
注157
生命も実在である。生命の基礎である生理化学反応系は、個々の化学反応の 寄せ集めとしての物理的関係ではない。反応環境自体が酵素を触媒とした特別 な生物環境である。そして生物的環境は、偶然の寄せ集めではなく、組織され た環境である。生命は単に物理的な実在ではなく、物理的実在を基礎とする生 命としての実在である。生命は物理的実在よりも抽象的実在としてある。物理 的過程だけで生命を説明できないからとして、生命は物質とは異なる存在であ るとしたり、生命は主観の勝手な解釈であるとするのは誤りである。
注158
この形式の枠組みにおいて、より発展的実在がより基本的実在に作用するこ とができる。上部構造は下部構造に媒介されている。上部構造は媒介されてい る関係において下部構造に働きかけることができる。
注159
与えられた乱数はデタラメさを失っている。与えられた乱数の各桁は決まっ ている。
注160
人類の歴史の継続、発展は社会活動の蓄積として必然的である。同時に軍事 技術の発展も必然的である。軍事技術の管理手法の発展も必然的である。しか し、これれの組合わせは必然ではなく、偶然により人類の絶滅の可能性が存在 する。人類の平和的発展を必然的なものにするには、人類絶滅の手段をなくす ことである。
注161
同じ家族関係・環境であっても、様々な人間が成長する。「同じ家庭環境の 兄弟であるのに、悪事を働くのは本人だけに責任があることの証拠である」と するのは論理的ではない。
注162
その限界は光円錐として物理的に限界づけられている。
因果関係の関連する問題として、予知能力がある。通常言われている動物の
予知の予知能力は、未来を先取りしているわけではない。単なる環境への反応
である。全体の変化の一体性の中で、部分が変化し、部分の変化が全体の変化
と同調、連動しているに過ぎない。要は、動植物の予知能力とされるものが、
その環境のどの変化に対応しているかを科学することである。
環境変化の結果と、個体の反応の因果関係ではなく、環境の変化過程が一つ
の問題であり、その環境と個体の相互関係が別の一つの問題である。
にもかかわらず、なまずの地震予知能力を活用するとして、なまずを水槽に
いれてしまうことは、あるとするなまずの「予知能力」を封止するか、制限す
ることになる。自然環境の中にあって、全体の変化の一つの現象を、人間が
「予知能力」として捨象しているのだから。
予知能力は、動植物の能力ではなく因果関係を追求する、人間の論理能力で
ある。
注163
親子の関係で子であった者はやがて親になるが、以前の親子の関係が逆転し たわけではない。次の世代の親子関係が現れたのであって、関係形式が再現さ れたのである。社会、組織の成立期・発展期・充実期・停滞期・腐朽期は形態 の変化の形式的段階であって、個々の社会、組織それぞれに異なった内容、長 さである。
注164
物理的時間であっても相対的である。化学反応時間でさえ温度、圧力、触媒
によって変化する。生物的時間、社会的時間のそれぞれに絶対的時間関係はな
い。
系統発生と個体発生の関係、個人の成長段階の普遍性は物事の発展順序の必
然性にもとづいている。
注165
人類をこの地球上に誕生させたのは、物理的発展、生物的発展の歴史的段階
を経てからである。物理法則、生物の法則なしに人類は誕生しない。人類の誕
生には歴史法則が貫かれている。
しかし、人類の歴史はこの地球からであって、他の太陽系惑星ではなかった。
また近所の恒星系の惑星でも知的生命は誕生しなかったらしい。知的生命の誕
生の普遍性は、地理的な一般法則としては成り立たない。条件の整った環境で
法則は現れる。法則の実現は条件を整えることである。
注166
地域社会の発展はそれぞれの条件によって異なる。典型的歴史も、典型的社 会も存在はしない。それぞれの地域社会の発展の経過は多様である。しかも、 それら地域社会は相互に関連している。孤立した地域社会もやがて全体に関連 するか、さもなくば衰退する。
注167
英雄は歴史を作るが、英雄を作るのは歴史である。様々な能力や気質はどの
時代にも存在する。能力はその社会的実践によって鍛えられる。能力を実践す
る場が社会的になくては、能力は発揮されない。能力が発揮されるには、実践
の対象がなければならない。
正義や英雄の待望は未来を待つだけで、現在を実践的に肯定してしまうこと
になる。それぞれの社会的実践によって歴史はつくられる。
注168
連続した変化であれば一定の論理に従い、量的変化を関数によって表現する
こともできる。しかし、構造が変わってしまう変化は、構造の変わり方を関数
によって明らかにすることはできない。関数は構造を計算式にしたものである
から。
自由、平等、人権、個人などの概念は歴史的に発展してきたものであって、
各時代の考え方を同じ論理で扱うことはできない。それぞれの時代の概念を明
らかにすることによって、その時代の論理が明らかになり、それらの概念の普
遍的性質が逆に明らかになる。
現代の論理によって過去の社会を描くことは、創作ドラマとしては許されて
も、科学ではない。また社会の違いを理由とした人権抑圧が、そのまま許され
るものではない。それが歴史的到達点の違いであるなら、歴史的に発展させな
くてはならない。さらに、権力を持つものが、覇権を主張して他の社会に干渉
する場合の論理とも峻別しなくてはならない。
注169
この概念構造体の作り方が形式論理のさまざまの流儀の違いを生む。形式論 理から派生する誤りは、概念構造体づくりが目的となり、その結論が現実の対 象よりも価値のあるもののように絶対化することである。形式論理の誤りはそ の内にではなく、その現実との関わり方にある。形式論理の誤りは論理の外に ある。
注170
重力方向に対する上下、日の出の方向へ向かっての左右、運動の前後のよう に限定されなくてはならない。特定の親子関係は親子が入れ替わることはない が、祖父・祖母との関係が加わるとそれまでの親は子になる。
注171
「すべてのクレタ人はウソつきだ」と、クレタ人のエピメニデスが言った。
注172
現実には現実との対応関係があるものとして扱われることにより、扱う人に 依って理解が異なる。一つの学会、分野内では明確に定義された「用語」も、 隣接する別の学会、分野では別の要素集合になる。
注173
概念が定義され、論理が定義され、定義されたものはいつどこでも同一に機
能する。組み合わせによって機能が変わることはない。したがって、計算機で
処理することが可能である。
初期値の違いによって結果が大きく異なるのは、計算の繰り返しによって違
いが拡大されるからであって、定義されたものが変わったのではない。
注174
しかし、この厳密性を保証するために、すべての個別科学の対象が定義でき
るまでまつことはできない。論理的、歴史的、現実的に不可能である。特に自
然科学以外の分野では、対象の定義の数学的明証性をもち、物理的性質を数式
によって表現しできるまで待つことはできない。それぞれの分野における対象
の定義を繰り返すことによって、厳密性を深めていくことがそれぞれの個別科
学の方法である。
社会科学、人文科学には数学的、物理学的厳密性がない、数式によって表現
されていないといって、一方的に非科学と決めつけるのは不当である。
注175
夫あるいは妻は、互いを配偶者とすることによって実現される存在である。 親は子を生み、育てることによって親になる。すべての存在は、他との関連と して存在し、運動する媒介される存在である。
注176
実践の場合に、旧前の存在のどこに依拠して存在関係を変革するかが問題に なる。単なる破壊は存在の継承を否定するものである。単なる制度関係の変革 は存在基礎をもたない。
注177
左右の変化の可能性は一つの自由度である。これに上下、前後の自由度を合
わせ、3つの自由度が定まる。3つの自由度を持つ関係が三次元の構造であり、
3つの軸をもつ。時間による変化を加えることにより四次元空間が日常的物理
時空間である。
さらに個々の運動はそれぞれの質に応じた自由度をもって、独自の空間を形
成している。
注178
「与えられる」、「えられる」妙な表現である。数学の教科書で出くわして 面食らって、方向を失ったことがある。誰が「与え」たのか。神か、教科書の 著者か、理論か、誰が「えた」のか。理論か、著者か、生徒か。
注179
鯨は魚の体型に似ているから魚類である、と類推するのは誤りである。鯨と 魚の体型が似ているのは水中生活に適した型を示している、と類推することが できる。
注180
休む方が良いようなアホな考えも繰り返されることによって、方法、適用力
を発達させ、対象の豊かなイメージを獲得し、本質を把握し、確かな現実とし
てとらえることができるようになる。
直感の鋭さ、直感の到達距離は試行の繰り返しによって訓練される。個人的
に、あるいは世間では確定したことであっても、繰り返し試行することによっ
てやり遂げる能力、意志、見通しが訓練される。できないことをできるように
するのが訓練である。思考の場合も同じである。
注181
生物進化におおける、機能分化の過程が目的因によるものではなくても、結 果と過程との関係は、目的に沿った過程とおして評価される。進化などの自然 過程に「目的」「役割」を直接的に持ち込むことは誤りであるにしても、自然 過程の評価としてそのままの意味で「目的」「役割」の概念を定義することが できる。生物学者の記述が目的論的様式になるのもやむおえない。
蛇足34
注182
相互作用は運動の過程であって、初めと終わりがあるわけではなく、連続し 多数の関係の結節点としてある。それを一つの結果だけを捨象して、相互作用 を代表させるのであるから大変な無理がある。結果の捨象そのものが大変なこ とであるが、結果の捨象は問題とせず、結果だけを問題としてしまう。正しく 本質をつかめれば良いが、できなければまったく非現実的なものになってしま う。
注183
専門家によって定義され実現された機能は、同じく専門家によってその安定 性を評価されなくてはならない。実現された機能は専門家によって実現された ことを根拠に保証されるものではない。
注184
ここでの「オン−オフ」と1、0の組合せは論理回路の組合せのように一致 するものではない。上−下または「オン−オフ」の状態を1とするなら、下− 上またはオフ−オンの状態を0と意味づける。部分の一方の「オン」、「オフ」 と全体の状態の示す1、0は意味の階層が異なる。部分と全体の関係さえ明ら かなら「オン」、「オフ」または1、0どの様に表現してもよいが、ここでは 意味の階層の違いを明らかにするために部分を「オン」、「オフ」で区別し、 全体を1、0で区別する。
注185
論理操作、記憶、演算は電気回路で基本的に実現できる。しかし、以上で示 したのは1回の論理演算、1桁の演算、1個の記憶でしかない。
注186
コンピュータの高速性、正確性はコンピュータの本質的機能ではない。正確 性などは有効桁数によって限界がある。プログラム環境が複雑になれば再現性 のないエラーも生じる。
注187
担当者による判断基準のゆらぎもシステム化することによって防ぐことがで きる。弾力的に適用されるべき基準は、弾力的条件を明確化することによって 主観や無知によるミスを防ぐことができる。
注188
「色眼鏡で物を見る」といった場合、「フィルターがかかって本当の色が見
えない、それでは真理は見えない」と主張になるが、それこそ真理ではない。
色は光源と対象の光学的性質、空気等を含めたフィルター、生理的状態、感覚
的状態の相互関係の中で決まるものである。真理を歪める要素はフィルターだ
けではない。
真理はそのようなものに左右されるのではなく、「色眼鏡」をかけたら見え
る色は変化して見える、とすることで維持される。
それよりも問題は「色」が物理的性質ではなく、光の波長を「色」として区
別し、他の感覚との相関関係として認識している「感覚」であることである。
「色」は「感覚」であり、対象が「色」を備えているわけではない。対象の属
性でもない対象の「色」の真理などそもそも存在しない。