概観 全体の構成
【世界観は全体から始まる】
世界観は何から始めるべきか。全体からである。
以下の理由により、始めるべきは全体からである。
注31
叙述によるコミュニケーションの形式からして、全体から始めるべきである。
【筆者と読者】
世界観は世界についての理解である。ここでは、世界観は言葉で記述して表 現される。
ことばによる記述に限らず、コミュニケーションは主体(私)と客体(あな た)との関係としてある。
コミュニケーションの関係は主体と客体のどちらにも属さない対象(主題) に対する、主・客体両者の理解の一致を確認し合う主・客間の関係である。
コミュニケーションの関係は対象と、主体と、客体と、それらの関係を媒介 するもの、すなわち媒体(ことば等)からなる。
注32
コミュニケーションは主体、客体、対象、媒体の関係についての共通理解を 前提とする。この共通理解は通常、暗黙の前提である。しかし、通常ではなく、 コミュニケーションをも含む、前提である共通理解も含む、世界観の問題とし て前提を確認することから始めなければならない。
主体、客体、対象、媒体の関係の構造について、まず一致させておかなくて はならない。それは世界観の基本的枠組みであり、世界全体をとらえる基本的 構図である。
注33
【ことばの機能】
ことばはことばによって定義され、ことば全体の体系にって、文としての意 味をもつ。しかし、ことばによることばの定義は、辞書の中をさまようように 循環してしまう。ことばが指し示す対象との関係を定めなくてはならない。こ とばの全体系の形式と、ことばの指し示す対象との関係が確かめられていなく てはならない。
【世界観の表現】
記述は対象を表現媒体に置き換えることである。あるいは、対応づけること である。
世界観の対象は世界である。世界観記述の表現媒体はここでは言葉である。 言葉も世界の一部分である。ここで記述の表現媒体とする言葉は自然言語であ り、日本語である。
自然言語は世界と対応することによって意味を持つ。世界全体を構成する要 素と、個々の言葉が対応する。
自然言語に対して人工言語(自然言語も人間が作ったものではあるが)は、 言語単位間の相互関係を明確に定義する。定義された中でなければ、人工言語 の個々の言葉は意味をなさない。
世界を対象とするなら、世界観記述の媒体言語は世界と対応しなければなら ない。この意味で自然言語である。しかし、世界観を記述し説明しようとすれ ば、表現される全体と個々の要素は明確に定義されていなければならない。こ の意味では人工言語である。世界観記述の媒体言語は、対象とする世界と対応 していなければならず、同時に、世界観全体の表現から定義されていなければ ならない。
注35
【世界観の筋道】
世界観の記述という事柄の性質からして、全体から始めるべきである。
世界観は元々の出発点となる共通理解そのものも対象にする。世界観のコミ ュニケーションを成立させるために、記述を何から始めるべきかと。したがっ て、記述、コミュニケーションの前提になる最低限の一致する理解から始め、 前提を得なくてはならない。しかしそれは、前提であるが結論としての全体で もある。
世界観記述の前提は、記述の目的である世界全体の理解である。
世界観は、結論を前提に議論しなければならない。この循環する論理を開始 するには、この循環全体を出発点とする。世界観が対象とする、世界全体につ いての内容の理解を前提とするのではなく、世界観記述対象の枠組みの全体を 出発点とする。「全体」という言葉で記述される、「世界全体」を出発点とし て確かめる。
【宇宙の枠】
対象と媒体の関係についても明らかにしなければならない。
世界観が対象とする「世界」は「宇宙」とも言い替えられる。その意味する ところは銀河、星々、太陽系といった大きな尺度がまず連想されるが、宇宙空 間では多様な化学反応、原子核、素粒子反応があり、少なくとも地球上では生 命活動、人間の知的活動までがある。
世界観で対象とする「世界」「宇宙」といった場合、これら諸相すべてを含 んだ時間と空間を表現する。これら諸相は物質を媒体としている。宇宙=世界 は、いわゆる物質的時空である。
一方、世界観記述の媒体としての言語は概念である。「世界観」が媒体とす るのは、概念としての言語表現である。その意味で世界観は概念を媒質とする、 概念的時空である。
注36
【有無】
「無」自体は何も説明しない。「無」から出発して「無」でないものを説明 し、証明するには「無」でない「有るもの」を根拠とする。「無」でない何も のかが有ることを前提にする。したがって「無」は前提にはならない。
「有るもの」はそれが何であるかは先の問題として、ただ有るもののすべて を出発点にする。「無」でないものとして、「有るもの」は全体として有る。 「無」に対して「有るもの」が「有る」のである。「有るもの」が「無」に対 する全体である。
「有る」ものは「有るもの」の全体である。全体の内容はこれからの問題で ある。これからの問題の前提となるものは、全体として有るものである。
無でない、有るもの全体を対象として解きほぐして行くことが世界観の叙述 である。
【唯一】
世界はひとつであるから、他に始めようがない。
世界が複数であるなら、その何れかから始めることも可能である。「全体」 ではなく「部分」から始めることもできる。しかし世界は複数の「部分」を持 つものであるが、すべての「部分」がひとつの世界であって、その他はない。
全体と部分の関係で、全体より部分が大きいことはない。「大きい」という ことは、部分としてわれわれの対象となる事柄のすべてを「全体」とする。わ れわれ、あるいは私の対象とは、認識、働きかけの「対象」として他の「対象」 と区別される物、主体、主観に関係する物事である。主体、主観との関係とし て定義される「部分」と「全体」の関係である。
対象の「無限性」は問題とならない。無限を尺度とする全体と部分の関係は、 主体、主観と、対象との関係が定義、確認されてからの問題である。自然数を 基数として無限の尺度にするには、対象の、自然数との一対一対応が前提にな らなくてはならない。
【外延】
「世界は全体である」ということと、「全体が世界である」ということは自 家撞着である。証明しようもない事柄である。世界は限定なしにすべての全体 である。世界は全体であって、世界以外にはない。世界はひとつである。世界 は世界以外の世界ではないものを関係も、前提もしない。また、世界はひとつ であって複数ではない。世界以外の何かを認めることは、あるいは、複数の世 界を認めることはできない。それは世界ではないものであるか、あるいは、そ の様なものがあるなら、そのものを含んだ全体が世界である。
注37
【整合性】
正しい論理ですべてを取り上げるには、全体から始めるしかない。
「AはBである。BはCである。ならばAはCである」こうした一つひとつ の関係をたどる論理によって関連させることができたら、論理的正しさの証明 である。ただし、「A」,「B」,「C」などの記号によってすべてを置き換 えることができるのか、そこに作られる関連が置き換えられたものの持つ関係 と同じであるかは、別の問題である。記号によってすべてを置き換える事は不 可能である。同じく、記号でなくてもすべての論理を追う事は不可能である。
論理的正しさは全体の中で、個々の論理が占める位置を明らかにし、それぞ れの位置で他の分野と論理的に整合することを確かめなくてはならない。個々 の論理の位置を示す全体の座標を明らかにしつつ、個々の論理的整合性を確か める。まず、全体から始める。
注38
【連続性】
論理的正しさを保証するために、取り上げる関連の内に部分的破れ、矛盾が 無いことを証明する。すべてが正しければ、部分に誤りはない。部分に誤りが なければ少なくとも、それまでの部分のすべてについては正しい。
未知の部分は既知の部分の連続、延長上に位置づけられる。新しい知見が既 知の部分の変更をもたらすとしても、それは変更であり、あるいは制限であり、 全面否定ではない。それよりここで重要なことは、未知の部分が既知の部分と 連続するからこそ、既知の部分が見直され、より全体的、より正しい理解がえ られるのである。
我々はこの方法によって、世界を理解しようとしてきた。科学はこの方法に より、部分的破れ、矛盾を排除することで発展してきている。全体がもつ連続 性によって部分の破れが明らかになり、矛盾の構造が明らかになる。
注39
【正しさの保証】
世界観はすべてを正しくとらえなければならない。世界観は部分的正しさで はなく、すべてが正しくなければならない。そこで、世界観について取り上げ るには、すべてについて正しいところから始めることになる。すなわち、すべ てである全体について、正しいことから始め順次部分について取り上げる。
全体について正しく言える事は抽象的な事でしかない。まさに全体であれば 最も抽象的である。全体的、抽象的正しさから始めて順次正しさを保持しなが ら、より部分的、具体的ことがらへ展開する。これが世界観の方法である。
世界観の正しさは、より部分的、具体的ことがらへの順次の展開に、正しさ を保持し続けることによって実現される。したがって、展開に際して誤りが入 り込む可能性は大きい。社会的、歴史的、そしてなにより個人的制約により誤 りが入り込む余地はいくらでもある。だからこそ誤りを排除し、すべてについ て正しい世界観を保持することは世界観そのものの使命であり、また社会的、 歴史的使命である。
論理的に、また正しくあるためには、世界観は全体から始められねばならな い。
【「始め」の意味】
「始め」はそれだけでは意味をなさない。「始め」ではない「続き」あるい は「終わり」がなくてはならない。しかし、他になんの限定もなければ「始め」 と「終わり」があればすべてを言い表すことができる。
すべてにおいて、何が「始め」であり、何が「終わり」であるかは、「始め」 と「終わり」との相対的関係として決められる。その基準は「始め」「終わり」 が意味するもの、対象をとらえた相互関係である。
対象の存在をなす相互関係に立ち入る前に、何から始めるかは暫定的である。 「終わり」までの対象の相互関係をすべてたどり、すべての相互関係が分かり、 「始め」が始めでよかったのかが判断できる。「終わり」まで行って、何から 始めるべきであったかが決定できる。暫定であるからこそ何から始めたか、ど こから始めたかを明らかにしておかねばならない。
そこで、暫定ではあっても、「始め」を決定するには、「始め」と「終わり」 の形式的関係によって決める。「始め」と「終わり」の形式的関係は、「始め」 から「終わり」までのすべて、すなわち、全体としてある。「始め」も「終わ り」もない「全体」から始めることによって、すべての関係を「始め」からた どることができる。
【認識の始まり】
認識の問題として何が認識できて、何が認識できないのかは基本的な、重要 な問題である。認識できるできないの問題は、認識とは何かの問題である。
「対象を認識できるか」は、対象は何かの問題でもある。認識が対象を捉え るとはどういうことか。対象と主観の関係をどう理解するか。「主観」はどの ように対象と関係しているかの問題である。
ここでも結論を先取りすることによる誤りを避けねばならないが、全体をど う見るかという、結論が持ち込む誤りを始めにおいて除去しておかねばならな い。
客体のもの自体という存在を認めるのか。これは存在論ではなく、認識の問 題である。また、直接認識の対象とならないものは、知りえないものであるの か。
注40
認識とは何のことなのか。やはり始めに明らかにしておかねばならないこと である。そしてそれは、全体に対して、存在に対して、対象に対して、「認識」 は何かの問題である。
認識自体が全体から始まる。認識の方法、論理が全体から始まる。
全体から個々の部分を認識し、その部分の理解をへて全体を理解する。全体 を分析し、分析から全体を総合することによって部分と全体を理解する。
【個人の認識の始まり】
ヒトが生まれて物事、そして世界を認識するようになるのも、主客の区別も ない全体からである。
認識は何かあることから始まる。
新生児の認識に部分も全体も区別がない。主観も対象も区別がない。絶対も 相対も区別がない。
始めの認識活動は混沌であり、漠然としている。固有の運動と、連なりの区 別がつかない。
感覚器官が機能することによるだけの、生理的活動としてだけの「認識」で ある。自分自らの内の変化に応じた、自らの変化・運動を「認識」する。
注41
自らの欲求実現を通して保護者の存在を認識する。既知のものと未知のもの とを区別できる。既知のものが時間、場所、条件が違っても、同一のものであ ることを認識する。全体の変化の中に不変の部分があることを知る。部分とし ても、時と場合によって変化はするが、全体の変化に対してはやはり不変の部 分を知る。
注42
保護者との交渉を通じ、自らと他のものとの区別を認識する。他の物の存在に 対し関係しようとする。他との交渉には感覚器官だけではなく、運動能力の発 達がともなわなくてはならない。
注43
ヒトは自分自身を含めたすべて、関係するものすべてを受け取る。認識とし ては成り立たない認識以前の認識である。その受け取ったもの全体の中で、 「違い」と「同じ」を認識し始める。全体の中で「違い」と「同じ」によって 対象を、対象として認識することができるようになる。
いつも、受け取るものとして同じ自分。いつも自分に与えられるものとして の自分以外。自分の欲求をいつも同じに満たしてくれる乳、新しいおむつ。自 分の欲求といつも同じに関係する保護者。無論、他人との関係として自分を認 識するのは、ずっと成長してからであるが。対象を選んで認識するのではなく、 認識することで対象を特定できるようになる。
認識そのものの成立が全体から始まり、全体の中で部分を対象として認識が 発達する。
【個々の認識の始まり】
我々は歴史の始めから、物質の基礎的あり方から認識を始めることはできな い。ヒトは、社会の只中に生まれ、歴史の過程に生まれ、物理的階層の中に生 まれる。
何等かの対象についての個々の認識も、対象の全体から始まる。
何等かのもの、それ単独では認識の対象にはならない。他と区別されること で、認識の対象となる。他との関係の中になければ、認識の対象にはならない。 他との関係の中、即ち相対的ではあっても、全体の中で対象は認識される。全 体の中で違い・同じとして区別することが、対象として認識することである。 違い同じとは、時間的に同じであり続ける部分と、違ってしまう部分、形、色、 堅さ、等の属性が同じ部分と、違う部分として区別することである。
どれだけ区別できるかが認識の発達程度を示す。
認識は区別であり、部分単独では認識は成り立たない。部分として区別され るには部分ではない他の部分がなければならないし、全体の中でなければなら ない。全体の中から区別されるから部分であり、認識の対象になる。
区別は違うものを分けることであるのと同時に、同じものをくくることであ る。違うものを分けるだけであっては、個々に分解するだけである。違いの基 準が一定になるには、同じものをくくらねばならない。一定の基準で差異を判 断することが区別であり、認識である。
注44
ただし、部分の集合であるすべてを知ることはできない。部分的にしか知る ことはできない。すべてを知らないからこそ部分を知り、そのことによって、 改めて部分からなる全体を知る。全体の中で部分を知ることによって、全体が 認識される。始めの全体と終わりの全体とは、形式も内容も別のものである。 違っていても全体であるから認識できるのである。全体がなければ認識は成り 立たない。
注45
生物の擬態は、環境全体を把握することによって、対象部分の異常として見 つけることができる。
全体は宇宙として存在し、宇宙進化の中ですべてが現れた。
我々の身体の構成原子にしても、宇宙開びゃく以来の物質進化の過程で作ら れた物で、たぶん超新星爆発の高圧のもとで生成されたとされている。
何も想像することはない。個別科学の成果を学べば、すべては宇宙に中に、 宇宙の歴史の中にあきらかになる。
世界の存在について、世界観について学んで巡り巡っても、結局は宇宙とし ての世界の普遍的存在である。個別科学が明らかにすることを否定して、世界 を説明できない。個別科学を無視してできることは、せいぜい個別科学に解明 できていない、限界の外に異世界を作りえるだけである。異世界の存在がこの 世界に入り込むのは、我々の思考、想像を通してである。
概観 全体の構成