戻る 第一部 第一編 序論
概観 全体の構成
序は一般に著者と読者の間の事前の了解事項を確認することを目的としてい る。序は本論の前提と目的を示すものである。
しかし、世界観を論ずる場合には、前提を設けることはできない。すべての 事柄について、その因って立つべきところを問題にするのが世界観であるはず である。
また、著者と読者の了解事項の問題は、人々の間の意思伝達と、それを成立 させる個々の関係を確定する問題である。これは著者と読者の関係を含む世界 の人間関係を理解する問題であり、世界観そのものの主要な問題の一つである。 つまり世界観の「序」は結論で扱うべき問題を前提としなければならない。こ の世界観における前提と結論の論理の循環を断ち切ることが世界観の序の目的 である。循環論理を断ち切るには断ち切り方がどであるかはともかく、循環論 理の全体を見渡さなくてはならない。
世界観の内的論理の循環はともかく、世界観へのとっかかりをまず確認して 置かなくてはならない。世界観の形式的開始位置を、表現内容の第一の先頭に 置かなくてはならない。
【全体の始め】
全体を見ることで、始めが明らかになる。
「論理の始めをどの点にすべきか」として、一つひとつ検討してみても何も 明らかにはならない。一つひとつは限りなくあり、それぞれの理解は完全に一 致しないどころか不一致の方が多いことがある。ただ、いまここで確実に一致 しえるのは世界観について議論を「始め」ようということである。
そもそも「始め」とは「始め」として単独にはありえない。「始め」に続く、 始めをその先端に含む連続体があって「始め」はありうる。「終り」はともか く「始め」は何等かの全体があり、その一部分として「始め」そのものがある。
「始め」は「始め」以外のものと共になくてはならず、「始め」を含む全体 の中で「始め」はある。
注11
「始め」は「一番前」であるにもかかわらず「その前」を問うことは、「始 め」を「一番前」とする意味を否定し、否定した「前」でない「前」でもって 再びその意味を求めるものである。
「始め」は全体の中にあって「始め」であるのであって、その「前」は存在 しない。その「前」を問うことは無意味である。このことの意味を問うことは 問うことの意味を否定する問いである。
【最も一般的な全体】
しかし「全体」についてもまだ何も明らかにされてはいない。「全体」につ いてとらえることが世界観の主題であるのだから、ここでも全体についての結 論は全体の「始め」に組み込んでしまわなくてはならない。
注12
ただし、ここでは「始め」にふさわしい抽象性がある。
「有るものの、全体が有る」これ以上になにも言うことはできない。「有る もの」について問題にするのに、その「全体」以外に何も付け加えることはで きない。まだ内容は何もなく、最も抽象的である。それでいて内容が導かれる 可能性をもっている。ここからすべてが引き出される。
「全体」は全体をなす「有るもの」を有している。「有るもの」はひとつと は限らない。「有るもの」は複数であっても全体をなす。複数であっても「有 るもの」は何ものをも示してはいないが全体を有らしめている。
【抽象的絶対性と端緒】
この「全体」についての抽象的枠組の確かさは世界観にとって絶対的である。 世界観は世界の全体を対象とするものであり、世界は全体の以上でも以下でも ない。世界観は世界の全体を問題とし、「全体」は世界としてある。「全体」 としてある世界を問題にするのが世界観である。世界観のこの抽象的枠組は抽 象的であるだけではなく、内容を伴いうる。内容を導けることが世界観の「始 め」にふさわしい。「始め」の抽象性の中に組み込まれた無限の豊かさの予感 がある。
世界の内容がひとつ明らかになることで、そのひとつを含む全体が明らかに なる。ひとつひとつが明らかになるにつれ、世界観の内容がひとつづつ豊かに 示される。
全体は始めからすべて明らかにされてはいない。しかし、全体があるのは明 らかであり、そのひとつひとつを明らかにすることが全体を明らかにすること になる。
出発点となる全体、そして世界の全体を決めねばならない。
全体を決めるのに範囲を定めることはできない。部分の全体についてはその 範囲の限界を定めることができる。部分は限定されたものであり、その全体は その限定にないものとの間に限界を持つ。限定を持たない全体の限界は論理矛 盾である。限界を求めることは、その外にあるものを前提としており、限定を 持たない全体を限定させるという矛盾を犯してしまう。
全体の範囲を決める限定は、限定なき限定でなくてはならない。全体は限界 を持たず、すべての限定を含むものである。全体はすべての部分を含むもので ある。全体は限定される部分をすべて含む非限定である。
全体が含む部分とは、部分として限定される関係によって区別される。そし て部分はその内により小さな部分を持ち、その外に対して他の部分との関係を 持つ。あらゆる部分は相互に関係する部分として部分でありうる。
全体とはこのあらゆる部分のなす関係のすべてとして限定される。あらゆる 関係からなる部分の範囲が全体である。関係の仕方によって部分は区別される。 部分の関係の仕方のすべてによって、すべての部分の範囲が決められる。
全体の範囲において無関係の関係はない。あらゆる関係によってすべてが全 体としてある。関係しないものは全体の内にはない。あらゆる関係にないもの との区分として、全体の範囲が定まる。全体は何等かの関係によって、すべて と関係するものからなる。
全体の枠組は関係するものとして限定される。これがすべての出発点となる ものである。
世界観の結論、そして全体の正しさとは別に、個々の結論に至る過程も問題 となる。天啓として得たものの正しさは人に理解されない。獲得する過程、方 法の正しさがなくてはならない。
方法の正しさは因果関係を法則として理解し、その法則を他の諸法則と組み 合わせて世界全体を表現できることである。しかし、因果関係は裸で、即ち単 独では作用しない。因果関係の現れは他の因果関係との関係、すなわち条件に よって現れかたが異なる。因果関係の法則は大なり小なり傾向、あるいは確率 としての法則である。
【関係の普遍性】
因果関係を法則として理解するということは、世界のどこでも、いつでも同 じ原因から同じ結果を予測できるということである。しかし、その結果は現実 にはまったく反対の結果でもありうる。光は何処でも直進するとは限らない。
結果の異なった原因が他の因果関係の作用によって導かれたことが示されれ ば、対象となった因果関係の正しさが、より補強されるのである。他の因果関 係による作用を受けて形が違っても、対象となる因果関係が貫徹したこと、そ の普遍性が示されるのである。だから因果関係それぞれの関係全体の正しさが 示されるのである。そのようなものとして、世界全体は理解されねばならない。 いつでも、どこでも因果関係としての法則は一定であり、その因果関係の相 互の作用によってのみ、結果が変化しうるということである。このことは逆に、 全体の因果関係以外に原因を求めるべきではないということである。すなわち 場所によって、時によって、他の因果関係と関係しな い結果はないということである。いわゆる、超自然、超科学的作用などは有り えないのである。あるのはただ未知の因果関係であり、その因果関係も、既知 の因果関係と連続して全体をなしているのである。
【真偽の目撃証人】
また、因果関係は目撃者、証人がいなくとも普遍的に現れる。「だれも知り えぬことだから真偽のほどは不明である」ということにはならない。「だれも 知りえぬこと」と「真偽のほど」は別問題である。「昔、人はサルと同じ祖先 から進化した」ことの目撃者はいない。あるのはその断片的な骨や道具である。 他方「昔、人は神により造られた。その目撃者は神である」一方は目撃者がい て一方にはいない。どちらが真で、どちらが偽か。真偽の決定に目撃者、証人、 証拠は必要ではあるが不可欠ではない。因果関係全体の作用から推測できるの である。推測は不確かな仮説というだけではない。他にはありえないことを示 す推測は、正しい方法である。
「始め」と共に「筋道」の正しさが示される。
「全体」から始める世界観の論理が世界観の正しさの基礎になる。この抽象 的な論理によって世界観の全体が正しくある可能性が保証される。表現される 世界観のすべての論理を検証し尽くさなくとも、まず世界観の論理の始めは正 しい。正しく始めることは保証される。「結論まで見なければ、正しいかどう かわならない」ということはない。「途中の論理をすべて尽くさなくては、全 体は正しくありえない」ということはない。
「始め」の正しさから出発し、ひとつひとつを始めの正しさに照らすことで、 ひとつひとつの正しさが確かめられる。全体の中でひとつひとつを明らかにす ることは、世界観にとって全体の結論を正しくあらせる筋道である。
注13
この筋道をたどることで世界観は正しく維持される。正しい世界観として全 体性を維持することで、この筋道の正しさが維持される。全体から出発し、そ の始めからの連続性と当面の問題の全体との関係を明らかにし続ける筋道であ る。ここでの全体性は、抽象的には始めの全体と同じであるが、当面の問題の 対象の全体性である。そのものは他のものと連なって全体をなしている。全体 の一部として有ること、これこそがそのものの全体性である。
注14
対象となりえるものすべてであり、対象を対象とする、主体をも対象にする。 「無関係」として、関係を問題にできるものをも含む、すべての「全体」であ る。
このことは、「全体」と定義すること自体を無意味にする。ここで問題なの は、「全体」ではなく、「全体」として、それを問題にすることの意味そのも のである。
ここでの「全体」は全体を「全体」としてとらえること、が問題である。 「全体」を対象にする対象そのものの枠組みをとらえることが、課題である。 「全体」を含む全体の枠組み、構造の中ですべての物事の関係を、関係づける 形式を獲得することが課題である。「全体」の関係形式は、固定されたもので はない。「全体」が、その要素も含めて、固定されていないからである。逆に、 固定されていないもの、固定された物として定義されないものとして「全体」 を理解する。
ところで「正しさ」とは独断ではない。「正しさ」とは個々の部分の問題で ある。そもそも全体が正しいかどうかは問題にならない。個々の部分が相互に 否定し合って正しさの問題が生じ、どちらが正しく、どちらが誤っているとし て結論づけられる。どちらも正しいなどという正しさの結論はない。
この「正しさ」はそのものと、そのものと共に全体をなす他のものとが、互 いに正しさを説明すること、証明できる全体の関係の中にあることである。 「正しさ」の全体的関係が正しさを決める。この関係にある個々の部分の連な りが整合性である。
「すべての関係」とは私の関係をも当然に含む。「私」あるいは主体、自分、 自己、何と呼ぶものであれ、「私」の持つ関係をたどることで全体を限定する ことができる。このたどることによって限定されるものが世界のすべてである。 この関係からなる世界の他にはなにもない。この世界と無関係なものはない。 この世界と無関係な別世界の可能性を考えることはできる。しかし、それだけ のことである。考えることができるだけのものとしてしか関係しない。この世 界と無関係な別世界の存在する可能性はない。それは、存在しないものの存在 を考える可能性と同じである。
正しい方法によって獲得し、正しい表現による世界観であっても歴史を画す る力を持つわけではない。世界観はあたりまえの結論にしかならない。正しけ れば正しいほど超自然的、超科学的な力が作用するはずはないのだから。これ までの諸先輩の成果を、何とか自分のものとしてひとつにまとめ、ひとつの世 界に対応させる。その時点での一定の結論でしかない。しかし、正当な新たな 結論は決して常識とは一致しない。
【常識の確認】
通常の意思伝達は常識がなくては成り立たない。意思伝達が成り立つために は、まず共通のことばがなくてはならない。また、ことばの意味について、意 思伝達の内容に応じた共通理解がなくてはならない。そして、共通の問題意識 がなくてはならない。意思伝達の当事者はこれらのことを、互いに認め合って いなくてはならない。ところが、この常識は決して普通ではありえない。たん なる常識、だれもが多数の人が認めることがらとしての常識は、あえて伝達す る必要のない意思である。
一致した常識を持つ当事者が意思伝達を必要とし、行うのは非常識を問題と するからである。常識になっていない事柄、あるいは常識に反する事柄が当事 者の問題になるからである。常識外の事柄を、常識と関連づけ常識内に取り込 むために、共通理解とするために意思伝達を必要とする。非常識、反常識を常 識化することで、以前の常識は常識を点検せられ、新しい常識として再構成さ れる。程度は様々であっても意思伝達によって常識は発展する。
【非常識の常識化】
世界観を問題にすることは、この意思伝達を意識的に徹底してみることであ る。すべてを非常識とし常識を再構成するのである。世界観として再構成され る常識は、当然にあたりまえのものでなくてはならない。しかし、あたりまえ 以上の価値を持たねばならない。すべての事柄を意識的に点検し、意識的に再 構成することで、世界をいままで以上に明確に見ることができる。何となく身 についてしまった常識、何となく共通理解であると思っていた常識から離れ、 自分で確認できる常識を持つのである。手の届かない世の中の動き、漠然とし た将来の不安、いたたまれない無力感をはっきりと意識し、解決へ向かう方向 を定めるのである。
世界観は、そのような常識でなくてはならない。世界観を問題とするとはこ うした常識の点検でなければならない。したがって、世界観は非常識までも問 題とし、それを常識化し、常識を常に新しいものにしていく観点でなくてはな らない。
あらゆる関係を含むものとして限定される世界を問題とするには、関係から 始めねばならない。全体の枠組を限定する関係は全体の存在の仕方の問題であ る。この枠組によって存在と非存在が区別される。この枠組によって限定され る関係によって、存在の仕方が説明される。これが存在論であり世界観の始め の部分になる。
したがって、存在論そのものは無意味である。世界が「世界」として存在す ること、その他に「世界」は存在しないことを論ずるのであるから。存在論は 思弁であり、思弁としてしか存在しない。「存在しないもの」の存在は思弁と してのみ存在する。
しかし、思弁である存在論を始めに置くのは、思弁の限界をはっきりさせる ためである。思弁である存在論が思弁でしかないことをはっきりさせる。世界 観の問題に思弁が入り込まないように、思弁を封じこめ、あるいは思弁から抜 けだすためにあえて存在論をとりあげる。現実の問題をとりあげる時に、思弁 が入り込まないようにするためである。
すなわち、存在論は「存在」「存在とは何か」を問うのではない。存在論は 「存在」について我々がどう理解するのかを整理する出発点になりうるもので ある。
【存在、論理、認識、そして実践】
存在論は、認識論、論理と一体の物である。
存在論を最も本質的であると主張しても、「存在する」とどうして言えるの かと問えば、認識について論じなくてはならない。存在する対象を存在する主 体が理解することを「認識」とするのか。
「存在する」と言うことと「存在しない」と言うこととの関係は、「認識で きる」と言うことと「認識できない」と言うことすることと、言い表すことに おいては表裏の関係である。
存在する対象は認識できるのか、認識できるものが存在するのか、この問題 を整理するのが論理である。
認識できていない対象を認識しようとするとき、対象は存在しているのかを 問題にする場合、認識の過程、方法が論理の問題になるのであって存在は前提 されている。
存在、論理、認識は実践において統一され、実現される。
したがって、思弁である存在論は思弁としての有用性を持っている。存在論 は前時代の遺物とて無視することはできない。前時代の問題であっても現在な お引きずっている問題である。
科学者にとってどのように明白な理論であっても、現実世界では必ずしも明 白ではない。地動説とて今日全人類の常識にはなっていない。科学教育がどん なに普及しても、始めから地動説を身につける人はいない。
逆に、科学者ですら、そのすべてが死後の世界を否定していない。決して存 在論は過去のものではない。常にかたづけられねばならない問題である。放置 すれば新しい科学的装いで復活するのである。
ましてや青年にとって、時には生死の問題にすらなりうる。果してこの世界 観が自殺防止薬になりうるかはともかく、決して存在論は無意味ではない。存 在論は思弁として、思弁にけりをつける意義があるのである。
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