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第2章 有論

 

第1節 有ること、無いこと

【有るもの】
 「有るもの」の全体が世界である。世界は「有るもの」の全体である。「有 るもの」の集合が世界である。

【無いもの】
 世界に「無いもの」は無い。また「無いもの」は、世界に無い。「無いもの」 は空集合である。集合「無いもの」は集合「世界」における集合「有るもの」 の補集合と定義されるだけである。

【範囲】
 世界の範囲は「有るもの」と「無いもの」とによって限定される。「有るも の」のすべてが世界の範囲に含まれる。「有るもの」と「無いもの」との境が 世界の限境界である。
 ただし、「無いもの」は無いのであり、「有るもの」と「無いもの」との境 も有りえない。「無いもの」はもともと無いのであり、その境も無い。すなわ ち、「有るもの」は無限であり、世界は無限である。

 世界は、まずこのように定義れる。しかし、この定義で世界が無限であるこ とには意味がない。有ることと、無いことの境が無いだけであって、有るもの が無限に有ることを示してはいないのだから。したがって次に、「有る」とい うことについて考えねばならない。「有る」とはどういうことなのか。ここで は時間、空間は捨象される。「有る」ということによってとらえられる世界を 問題とする。

注16
 

第2節 「有る」は主観的問題である

 有ること、無いことは、有り方、有り様の問題ではない。「有るか、無いか」 それだけのことである。何によって有るのか、どの様に有るのかを問題にして はいない。
 あらかじめ何等かの物事が有ることを前提にし、その上でそのものの有無が 問題にされる。これでは論理も何もない。前提が正しければ結論は「有る」の であり、誤っていれば「無い」。前提が誤っていれば前提を含む問題自体が無 い。このことには、何の意味もない。強いて意味づけるのなら問題にされうる こととしてである。
 このように「有無」が問題になりえないのは、それだからこそ問題になるの は「有」が何の限定もつけられていないからである。「有る」ことは何につい ても言うことができる。「始めに、光あれ」とも言えるし、無い事柄ですら有 無の問題として言い有らしむることができる。

【有を問うもの】
 「有無」に限定を与えるとすれば、それは主観である。主観が「有無」を問 い、審判する。「有無」を問題にする主観が「有無」を限定する。主観にとっ てこそ「無」が問題となるのであって、それ以外に「無」は有りえない。「有 無」が問題になるからには、その問題をとりあげるものが「有る」はずであり、 それが主観である。「無」に対しても、「有」に対しても有るのは主観である。
注17
【有の定立・定有】
 主観によってすべてが決められるる。主観が世界を問題にする。主観は世界 が有ることを認める。少なくとも世界が「有る」ことを前提にこの世界を問題 にする。主観によって世界が「有る」ものとして定められる。世界がどのよう なものであるかは後の問題であり、「有る」ことは「主観」と「世界」のかか わりの問題として限定る。

【主観一元論】
 主観は有無の問題提起者・審判者として存在する。問題提起者としての「主 観」が唯一の「有」であるなら、問題はそれですべてである。「有」は「主観」 の有であり、「無」は存在しない。
 唯一の「有」である主観にとって「対象との関係」は存在せず、「対象」は 「主観」の「有様」であって、存在は「主観」だけであり「無」は存在しない。 「主観」以外の「対象」は存在せず、「対象」との関係も存在しない。「主観」 のみが唯存在する。唯存在するのみの「主観」に「有無」は絶対であり、「有」 「無」の区別もない。
 他に「主観」がとりえる立場は、世界は「無い」、あるいは主観自体も「無 い」である。ところが、世界が「無い」のであれば主観は何も問題にしえない。 世界観は問題にならない。主観自体は「無い」と主観が否定することには意味 がない。残るのは、主観自体が「有る」である。
 主観のみが有るとする世界観はここで終わる。

 

第3節 主観として「有る」もの  (主観の定立)

【主観の措定】
 主観は何等かを対象とする。主観はとりあえず「有無」を問題にするもので ある。
 主観と主観の対象は区別されるものであるが、ひとつの関係として対置され、 結びついている。
 主観は対象との関係になければ「主観」ではない。他のものでもありうるか もしれないが、「対象」と関係しない「主観」は無い。対象との関係にない 「主観」は「主観」ではない。「主観」にとって「主観」とは区別される「対 象」の存在と、「主観」と「対象」との「関係」が存在する。「主観」のみの 存在は無いものを有らしめて否定することでしかない。主観は対象を持つから こそ「主観」でありうる。「対象」との関係にあるから「主観」は有る。

【有の二元論】
 主観を対象と同じものであることを認めない、あくまで主観に固執する主観 にあっても、主観と対象との区別はある。
 すべての関係を主観と対象との関係とすることは、対象と対象との関係も主 観との関係の一部分でしかないことになる。主観と対象との関係にあって、対 象を複数の部分にわけ、その分けられた部分と部分の関係として、対象と対象 としての関係を認める。関係を分割したにすぎない。
 この立場では主観を対象化することはできない。対象はすべて主観との関係 のうちにあり、主観のもつすべての関係の対極をなしているものである。した がって、主観を対象化してみたところで、それは主観ではありえず対象でしか ない。
 対象は主観にとって有るものである。すべての有るものが主観の対象となる。 これに対し、対象を「有る」と評価するものが主観である。何かが対象であり、 その対象を「有る」とするのが主観である。

【主観の定在】
 主観にとって対象は与えられるものである。主観は主観に対して対象を示す。 主観は対象を主観自体に対して評価する。主観は主観に対してのみ働く、機能 する。主観は対象との関係にあって、対象を主観との関係づけることによって 主観をなす。主観は対象を主観自体の内に受け入れることで主観である。
 主観は主観自体の内に向かってのみ働きかけるものであり、主観は主観とし てあり、他に対して、すなわち対象に対して働きかけることはない。だだし、 これは主観が主観としてある場合だけのことである。
 すべての事柄、全世界は主観にとって「主観」と「対象」として区別でき、 また関係している。

【主観の絶対性】
 主観は対象との関係以外にはありえない。対象との関係がどのようなもので あれ、主観を基準にして対象と主観との関係は絶対的なものである。対象が次 々と変化し一定でないにもかかわらず、それは対象の現れであり、主観にとら えられている対象との関係に変化はない。対象の変化は主観の相対性によるの ではなく、対象のあり方である。主観は主観にとって、対象との関係にあって も絶対的である。主観が対象と関係していることは絶対的である。主観と全体 とは常に関係をもつ。そこでは主観と対象との関係は絶対的な関係である。

【関係の硬直性】
 主観と対象との関係を恒久的、固定的なものとする立場は、主観にとって世 界は絶対的なものである。主観が終えんするまで対象は変化しえても主観は変 化しない。主観は主観にとって絶対的なものである。しかしこの「絶対」はま さに硬直である。主観は対象とただ関係しているだけのものでしかない。対象 の変化そのものは主観にとって何の意味もない。
 主観が自らを対象化せず、相対化しなくては、主観について感じ、考えるこ ともない。それどころか、生命としてもあり続けることはできなくい。主観と 直接関係しない対象間の関係を認め、主観を対象化しなくては世界を理解でき ない。

 

第4節 主観の対象化

【主観の対象化の可能性】
 主観は「有無」を問題とするものとして定義された。しかしこの定義はまだ 証明されていない。主観は対象の有無について評価するものとして、対象との 関係によって「有る」とされたのである。対象を離れて主観が「有る」かどう かは答えていない。主観の「有無」はまだどのようにも証明できない。主観の 「有無」は主観を対象化することであり、主観を主観でないものにしなければ ならない。「主観の対象化」はどのようなことなのかが次の問題である。
 対象化された主観は、主観と対象との関係にあって対象化されても主観であ りつづけることはできない。対象化されたものは対象であって、対象化された 「主観」は別の主観、いわば「主観自体」によって問題にされている。

【有を媒介とする主観の存在】
 主観の「有無」の問題は、対象化された主観が主観自体と同じでありつづけ ているのかどうか、ということになる。そうであれば、主観と対象は同じ有り 様、同じ有り方のものであり、主観が対象になりうる。このことはまた主観が、 主観を知ることができるし、さらに主観を対象として有らしめる。
 「主観と対象との関係」が、「対象と対象との関係」と同じ関係の部分をな すものであるなら、主観と関係のなかった対象間の関係も客観的存在としてあ る。したがって、すべての客観的存在は、主観と対象との関係に結びつけるこ とができる。主観のかかわらない対象間の関係と、「主観の対象との関係」は 隔てられてはいない連続した関係である。
 主観は対象を主観化して取り込むが、対象は対象として有りつづける。

【主観の対象性の獲得】
 主観が対象化されるなら、対象としての主観のあり方と、主観の対象とは同 じに有るものとして客観的存在である。主観自体に規定されるのではない対象 と主観とは客観的存在である。主観は対象化され、対象間で関係するものとし て客観的存在となる。主観と、主観と関係する対象と、主観と関係しない対象 まで含めた客観的存在である。そして、客観的存在として主観は対象化して、 他との関係をなす主体となる。
 主観は対象を自らのものとして主観の内に取り込みうる。主観は対象につい ても知りうる。

【他人の承認】
 主観が対象と同じ客観的存在であるということは、対象も客観的存在として 主観と同じ部分をもっていることになる。
 主観と対象との関係は、対象間の関係にあって同質化し、主観は対象性を獲 得する。対象性をもった主観として、主観は対象との関係の内に自らの主観性 を取り戻す。主観の対象性の承認は、対象の内にある主観性の承認である。対 象として有る主観性は他人である。

注18
 そこで、世界は対象であり、対象は世界であるが、主観は世界に含まれるの か、主観は世界とは別のものであるのか。始めに前提とした「全体」のうちに は、対象だけしか含まれないのか、主観と対象ともに含むものが「全体」なの か。対象化の可能性の問題は、このように言い替えることができる。このこと により、前提に繰り込まれた結論の正しさを証明する枠だけが確認できる。

 

第5節 主観の相対化

 対象は主観に対する対象として、主観との関係と対象間の関係をもつ。この 2つの関係とも、対象が対象とて主観と関係しえるものであることを前提にし ている。しかし、この前提は主観にとって絶対的でありえても、対象にとって は絶対的なものではない。

【関係の相対化】
 ただ主観は主観を対象化することで「主観と対象との関係」を「対象と対象 との関係」とみなすことができる。「主観と対象との関係」は「対象と対象と の関係」の一部分でありうる。「主観と対象との関係」は「対象と対象との関 係」の特殊な場合としてありうる。
 対象を主観との関係に従属しない、独立した「有るもの」として認める主観 にとって、対象のとりうる2つの関係「主観と対象との関係」と「対象と対象 との関係」とは代置することができる。主観を相対的なものとみなす主観自体 にとって「主観と対象との関係」は、「対象と対象との関係」と区別するとこ ろのない同等の関係である。

 主観との関係を前提とすることから、「対象」と「対象」との関係を前提に することが「主観の対象化」の問題である。主観とは直接関係しない対象間の 関係を認めることである。この立場では、世界のすべての関係を相対的なもの と見なすことになる。対象と対象との個々の関係は、対象と主観との関係を含 め相対的なものであり、相対的な関係のすべての連なりとして、世界のすべて の関係があることになる。
 主観の絶対性は絶対性として主観の内に封じられ、対象の相対性からすれば 主観は対象と相対的に関係する。対象と関係する主観は相対的である。主観は 自らを対象化することで自らの存在を確かめ、確かなものにする。主観は主観 のままでは、ただそれだけの固定した「絶対的存在」である。主観は、主観と しての存在を貫き、かつ主観として主観を対象として見ることができる。この ことが主観の存在を対象との関係において決定するものである。主観は主観で ありながら何でも対象化することで、自らも対象化する。
注19
 主観にとって主観の対象化は、全体との位置関係を不安定にするものである が、対象間の関係としてとらえなおしてしまえばあたりまえのことになる。対 象間の関係全体にあって主観はひとつの部分としてある。主観が自らを対象化 できるのは、主観も客観的存在であることを認めるからである。主観が主観に 固執する限り、主観と対象との関係は絶対的に永久に続く。主観は対象化され ねばならない。
注20

 ひとつである「全体」が「主観」と「対象」の関係としてとらえなおされる。 始め対象は主観によって「有るもの」として規定されたが、全体の関係のなか で主観は対象によって規定される。主観は世界に含まれており、世界の外に有 るのではない。全体は、主観と対象のふたつの部分からなるが、すべての物事 の関係と同じ関係の連鎖の内に関係している。
 主観からして世界にある関係を、このように相対化して見ることができる。 そして、主観にとって重要なことは主観を対象化することである。主観の対象 化が主観が世界を理解する鍵である。主観は対象を通して主観を知ることがで きる。このことは、子供から自立する過程で経験することである。

 

第6節 主観の評価として「有る」もの

 したがって、主観が「有る」として評価したものは、関係しているもののこ とである。そして、「有る」ということは関係することである。
 「主観と対象との関係」そこで区別される「対象と対象との関係」ひるがえ って主観を対象化し「相対化した主観と対象との関係」この3つの関係が、主 観にとっての世界の関係のすべてである。これらの関係を、同一の、同質の関 係として連続させることによって世界を一元的にとらえることができる。
 主観あるいは、対象のどこから出発するのであれ、関係はたどることができ、 すべての関係は世界の関係の全体をなす。主観と直接関係していなくても、関 係をたどれば主観にとっても「有る」のである。また、主観が実際に関係して いなくとも、実際に関係しえなくとも、関係に普遍性があれば「有る」のであ る。普遍性はその関係が、主観のたどる関係内でいつでも、どこでも成り立っ ていることである。
 主観によって「有る」とされたものは、「この世界の中で、関係している」 という意味である。そして、なかでも主観との関係だけの対象は「無い」と評 価されるものである。対象間の関係を持たないものは「無い」のである。

 客観的存在は主観が評価するから「客観的」なのであって、主観との関係に 従属しない存在である。客観的存在の関係は、主観との関係よりも基本的な関 係である。主観が客観的存在の関係を説明するのではなく、客観的存在の関係 として「主観」が説明される。

【主観によって限定された世界の限界】
 世界は有るもののすべてからなる全体である。ということから始め、その有 るものは主観によって規定された。しかし、主観を対象化する主観自体は主観 を対象と同じ関係の内に位置づけ、主観を相対化した。主観は対象間の関係の 内にあって規定される。対象化した主観を含めすべての事柄相互の関係全体と して世界があることを、主観自体が認めた。
 したがって、世界を理解することは対象間の関係を理解することである。対 象間の関係を理解するには「主観と対象との関係」にあって「対象と対象との 関係」と整合させねばならない。その上で主観は主観を対象化し、対象化した 主観によって対象に働きかける。


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