続き §2.世界観の意義

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概観    全体の構成

   §5.目次


§1.そもそも世界観とは

【世界感】
 世界観は広い意味で世界感であり、人々それぞれがとらえている世界の感じ (認識)である。
 世界感はその人の、その人自身についての理解を含め、その人が関係し知る 可能性のある事柄、知る可能性はなくとも間接的にでも関係し、関係をたどれ る可能性をもった事柄の一切合切の全体についての理解である。その人が関係 し、関係しようとしていることの全体の感じである。世界感は人それぞれの、 世界についての「感じ」である。

【指針としての世界感】
 人々は物事に対しての新しい経験を自分の世界感の中に位置づけ、これまで の経験と関係づけることで納得する。自分の世界感の中に位置づけられない物 事に対しては意識的、あるいは無意識的に無視するか、自分の世界感を拡張し て新しい世界感の中に位置づけなおす。
 この過程が阻害されると、特に成長期には精神的、肉体的に様々な問題が生 じやすい。
 人々は事柄を自分の世界感の中で値決めし、それに応じて行動する。世界感 の中で事柄は関係づけられ、比較されることで評価される。新しい事柄を評価 することで、逆にそれまでの世界感を点検する。
 このようなものとして世界感は人々の生きざまの基準であり、行動の結節点 である。
注5

【世界感から世界観へ】
 自覚していない世界感はそれまでの経験の偶然に影響され、経験の狭さで制 限されている。それでも自分自身の世界感によってでも日々判断を下さなくて は自立した生活はできない。世界感をもちえないハンディキャップを負ってい るならともかく、意識ある人は表現の程度はどうであれ、自分の世界感にもと づく意志を実現しようとする。
 自分の仕事を自覚し、目的意識的に追求し、日々客観的責任ある判断にもと づいて生活している人は、世界感を背景にもっている。客観的、論理的判断の 基礎に日常的感覚の世界を感じている。最も抽象的な対象を扱う学者であって も、対象のイメージを日常経験から抽象して操作する。
 だれでもがもつ世界感を客観的に、意識的に、体系的に再構築したものが世 界観である。

§1-1. 人間観

 まずは「世界観」の主要課題である人間の一般的あり方をここに先取する。
 人間について表現することで、ここでの世界観を表徴することができる。人 間を世界に位置づけることによる人間についての理解が、世界をひとつのまと まりとして理解することになる。逆に世界を理解することが、人間をよりよく 理解することにもなる。
注6

 むろん、世界観はこのような人間の問題に限らない、すべての物事の「一般 的あり方」を取り扱うものである。

【物としての存在】
 ヒトは物として存在し、生物として生き、人間として生活している。
 人間は単なる物ではないが、物としても存在している。人間は物としてある からこそ存在する。物としてない人間はいない。
 また人間としての物の存在であるから、他の物と入り混じったり、乗り移っ たり、埋没したり、融合したりしない。
 人間は全体的にひとつの物として、他の物と関係することで自分を他の物と 区別している。部分的には常に他の物と入れ替わって自分を更新し、維持して いる。人間は物として物質代謝、エネルギー代謝、情報処理をする物との関係 の中に存在している。
 人間は物として、単なる粒子でも波動でもない。人間は単なる原子、あるい は分子、有機物の集合体ではない。物は人間を存在させるが、人間はそれらの 物を人間独自のあり方で存在させている。もっとも、この存在のあり様は人間 だけの特殊性ではない。生物も同様である。

【生物としての存在】
 人間は生物として代謝し、生殖し、種をなし、社会生活をして生きている。
 人間は単なる生き物ではないが、生物として呼吸し、食べ、排せつし、寝、 子を育て、集団をなす。人間は単なる生物ではないが、生物でない人間はいな い。
 人間は生物として一定の環境のなかで生き、適応し、種を保存する。人間の 生存は生物を超えるものでも、生物より劣るものでもない。
 人間の生物としての諸能力は、他の生物と比較してそれ程すばらしいもので はない。ただ、人間を他の生物から区別するのは、人間が環境に適応するだけ でなく、適応以上に環境を変革する能力である。人間は人間の生活に適応する ように、生物としても進化しているし、退化もしている。

 人間は社会を人間としての組織にする。人間は人々をとりまく自然環境を組 織的に変革し、さらにその社会環境をも積極的に変革しょうとする。
 人間の生活は自然と社会とに対する働きかけである。その成果として、人間 は単なる物、単なる生物から自分自身を区別する。人間は人間社会の構成員と して訓練することで、人間として生活ができる。単独では生きることすら難し い。人間の赤ん坊は他のほ乳類と同じく、単独では生き残れない。
 衣食住を中心とする物質代謝は、社会活動として組織化されており、この社 会化した物質代謝の制度(経済)を離れて、人間は人間でありえない。人間は 社会の中で育てられることにより、単なる生物の生存以上の存在になる。

【人間としての存在】
 人間は単なる物、単なる生物であることをやめた存在である。自分自身の存 在を形づくっている物を、人間としての物の運動過程として組織している。生 物としての存在をとおしてだけでなく、直接物の運動に働きかける。道具をつ くる道具、ことば等によって。自らの生物としての存在を、人間としての生理 的生物環境につくりかえる存在である。人間は、文化をつくりだし、世界と自 分自身とに働きかける存在である。
 人間は常に他の物、そして自分自身に働きかけねばならない。自分自身で制 御しなくてはならない。人間は物質としての、生物としての法則だけに従って いては、自己破滅する力を持つに至っている。社会的にも、個人的にも自己破 壊力を備えている。いずれも、社会問題になってきている。社会的には自然破 壊、環境破壊、核兵器として。個人的には精神的・肉体的萎縮、自殺の可能性 として。

【全体としての人間】
 人間は物として、生物として、人間としてあるが、それぞれ別々の構成部分 ではない。物として、生物として、人間として、それぞれはまったく異なる特 徴であるが、それが一体のものとして人間がある。
 人間は物としてのあり方の上に、生物としての生きかたが乗り、その上に人 間としての生活が乗っているのではない。いわば物理的、生物的座布団の上に 座っているのが人間ではない。人間は物理的、生物的、人間的、それぞれの層 に輪切りにできる存在ではない。
 単なる物のあり方としても人間としてのあり方があり、単なる生物の生き方 としても人間としてしかないあり方がある。そうした物、生物としてのあり方 が人間のあり方であり、逆に人間のあり方が物、生物としてのあり方を人間独 自のものとしている。
 人間は生理的にも他の動物と同じには生きられない。裸で生活できるのは地 球の極一部分である。道具を使わずに、他の動物と生存競争はできない。
 人間は夢がなくては生きて行けない。生理的に生きていく条件が保障されて も、それだけの条件で閉じ込められては、一般的に生きていけない。

§1-2. 個人的世界観

【生き様としての実践】
 こうした人間の存在、生き方、生活は自然なり社会に対する働きかけである。 自然なり、社会に対する働きかけとして、人間の生き方は自然において、社会 において表現される。
 また、人間は自然あるいは社会に対する働きかけそのものを変革することに より、自分自身を変革する。人間は自己をも変革する。自己変革は自然、ある いは社会に対する働きかけ方を変えることであり、自己変革の成果は自然、あ るいは社会に現われる。
 人の生き様は自然あるいは社会を対象とするものであれ、自分自身を対象と するものであれ、実践としてある。対象をどのように意識しているかにかかわ りなく、自然、社会、そして自分自身の変革として、その統一として、人間の 生き様はある。人間の生き様は実践である。
 実践により、自分を自然あるいは社会の中に表現し、実現し、自分自身の存 在を証明することができる。また、実践により自分自身を形成し、成長させる ことができる。実践は対象の変革であるとともに、自己の変革である。これら が妨げられ、あるいは歪められると肉体的、精神的障害症状が現れることが普 通である。

【実践と反省の蓄積】
 人の生き様としての実践は、それぞれの人にとって狭義の実践と反省とに分 かれる。
 人間は実践し、実践について反省する。反省にもとづき次の実践に取り組む。 実践についての反省は、次の実践へ連なる。もちろん、この実践、反省の過程 は形式的に区分できる過程ではない。実践によらない反省はありえない。実践 から離れてありうるのは空想か、幻想である。
 実践が繰り返され、反省が繰り返され、新たな実践と、新たな反省が拡大し ていく。こうして蓄積された反省は、実践の対象となったものを知識としてと どめる。反省はまず知識の集積をもたらす。
 反省と結びついた実践は自覚された実践である。自覚された実践は、それま での反省に裏打ちされており、新たな反省を伴い、反省によって総括される実 践である。総括された実践をとおして、反省は総括そのものに及ぶ。総括につ いての反省は、反省についての反省である。反省についての反省は自覚的反省 である。
 自覚的反省の蓄積は、実践の対象を知識全体の関係のなかに位置づける。全 体的関係に位置づけられた知識が対象についての理解である。

【世界感の形成】
 自覚的反省は、主体である自分を対象とする反省でもある。自分を主体では なく、客体として対象全体のなかに位置づける。自覚的反省は自分を客観化す るもので、客観的反省である。客観的反省は、自分と対象との関係を理解する。
 対象を全体的関係として理解することと、自分についての客観的反省とによ り、自分を対象の全体的関係のなかに位置づけ、自分の実践における主体性が 理解できる。
 この実践と反省の発展の問題は、論理的問題であるとともに、認知発達の問 題である。人の成長、あるいは社会発展の問題でもある。
 要は、実践も反省も、この様ないくつかの段階を経て発展するものである。 実践と反省の過程として、すなわち広義の実践によって、主体のうちに形づく られる対象の全体的関係、すなわち世界感もいくつかの発展段階を経るのであ る。
 世界感は様々な程度でありうるし、またそれぞれの人の特殊性をもっている。 世界感は多様である。そしてそれゆえに、世界感は様々な誤りを含みうるし、 含んでいる。

 誰であれ世界感をもち、生活している。そして正しく生活しようと、一定の 世界感にもとづいて生活を規制することがある。あるいは生活の様々な場面で、 自分を貫こうとする。多様な生活場面において、一つあるいはいくつかの問題、 価値判断を中心に据えて自分のやり方を押し通そうとすることがある。価値判 断の固執、意じっぱりである。これらが、自分自身へではなく他人に向けられ ると、どのように美化されようとも暴力である。修身教育、ツッパリがこれの 典型である。
 生活を正すことは世界感を基準としてはできない。生活そのものの中での実 践と反省により、全体のかかわりの中で自分と対象との関係を変革していくこ とで生活は正される。この生活で、全体の関りと自分と対象の関係を理解しよ うとする。その経過していく時々の結論として世界感がより現実に対応するよ うになる。

【世界感の点検】
 世界感は正しい答えとして与えられるものではなく、正しくある様に常に点 検されねばならない。
 世界感もいわゆる「理論」でありうる。世界感も実践と一体のものとして、 実践によって確かめられはする。しかし世界感は身についた理論でも、血肉化 した理論でもない。世界感は生活、実践から抽出されていない、一般化されて いない、感覚の寄せ集めでしかない。
 世界感を常に点検できるようにするには、世界観として形を与えておくこと が扱いを易くする。
 世界感は一般化し、普遍的なものとすることで、世界観となる。世界感の内 容をひとつひとつ区別し、ことばによって確定する。すなわち対象を概念化す る。世界感における対象間の諸関係を整理し、論理として確定する。すなわち 対象を体系化する。このように概念化され、体系化された世界感が世界観であ る。世界観は概念の体系として理論である。このようなものとしての世界観を これから検討する。

【世界観の実現】
 世界観は観念的なものである。しかし実践と結びつき、現実と一体になる観 念であり、価値がないどころか現実的な力として現われる。
 世界観は正しく自分のものにしえたからといって、すべてを解決してしまう ものではない。実践され、実現されていく過程の中で世界観は確かめられ、よ り確かな、より豊な理論になっていく。世界観は目的ではなく、経過途中の到 達点としての結論でしかない。世界観は答えをだす一過程であり、無限の世界 をとりこみ、無限に展開されていくものである。
 したがって、世界観は最も全体的な理論であり、最も一般的、最も本質的、 最も現実的、最も明確な理論であるべきである。しかし、ここでの最上級も、 やはり現段階におけるという限定つきである。

§1-3. 社会的世界観

 世界観は個人的なものにとどまらない。世界観は社会的なものでもある。世 界観はそれ自体が対象化され、一般化され、あらゆる人々に検討される。世界 観はそうした普遍的な理論として社会的存在である。だからこそ、世界観が社 会的対立点になる。
 社会にあって世界観は個人的世界観を寄せ集めたもの、また個人的世界観を 一般化、普遍化しただけのものでもない。また、どこかに隠され、人に発見さ れるのを待っている宝物でもない。個人の世界観を媒体として、その交換、コ ミュニケーションとして社会的に運動する。社会的世界観は生活、教育、文化 として個人の世界観に影響する。世界観は社会的存在である。

【世界観の社会的表現】
 ところで、世界観は様々な形で表現されている。音、光などを利用して音楽、 絵画、彫刻等々として表現される。いわゆる芸術としても世界観は表現されて いる。その表現は作者と鑑賞者の意思疎通を前提とし、少なくとも意思疎通を めざして創作される。作者の自己満足をめざすもの、あるいは芸術至上主義の ものであっても、意志疎通が可能な手段を用いる。何の表現手段も伴わないも のは、作者の空想である。表現すること自体が個人的なことではなく社会的で ある。芸術も社会関係を前提にしている。芸術も社会的に通用する様式、社会 的意味をもったものでなければならない。たとえ創作時に社会的評価をえられ ない表現、テーマであっても。また、いかに時代を先取したものであっても、 そこに表現される世界観は作者の属する社会の世界観に基づき、その世界観を 出発点としたものである。属する社会の世界観と対応しつつ、社会の世界観に よって規定されている。
 しかし、芸術による世界観の表現は、その手段、方法が極端に限定されたも のである。むしろ限定された表現で全世界を表現しようとするところに、芸術 性があるのかもしれない。したがって、芸術は世界を世界観として全面的に表 現するには不適当な手段である。
 やはり世界観は世界観そのものを言葉によって検討さしなくてはならない。

【言葉による世界観の表現】
 ことばによって表現されることで、世界観は社会性を保証された表現となり、 現実的な存在になる。
 そもそも、ことばは対象をひとつひとつ検討され、他と区別するものとされ、 普遍化され表現手段となった。様々に、様々なレベルで、周囲の他の物事と関 係している対象をとりだして、社会的に名づける。諸関係の結節点を社会の中 で特徴づけて示し、表すのがことば(単語)である。
 普通人々はことばによって表現することでものごとを理解し、理解しようと する。様々な表現の最終的説明はことばによってなされる。「ことばは必要な い、作品を見てくれ」と言う場合も、その会話者の間でまずはことばによる表 現が必要とされたのである。
 時には、ことばによって表現するだけで、対象のすべてを理解したかのよう に思い込むことすらある。これらはことばが社会的存在であり、社会的に蓄積 された知識に対応し、裏打ちされているからである。ことばによって表現され ることで、対象は普遍性と結びつけてとらえられる。ことばそのものが、社会 の中で対象の理解を普遍的なものにするよう練られてきているからである。
 ことばによって表現されていることで、古代の哲学者の思想を、まったく異 なる生活を営む人々の考えを知ることが可能になる。日常的に他人の経験や反 省を知ることが可能になる。ことばによって数え、計算し、推理し、未来を知 ることすら可能になる。
 この、ことばによって世界観を検討する。この検討は社会的に裏付けられた ことばによって組み立てられ、ことばとことばの構造の社会的検証を求めてい る。

【個人に具体化される社会的世界観】
 各個人は、その生活を社会的共同によって支えられているだけではなく、も のの見方、考え方といった方法論、方法の手段としてのことば、そして諸知識 を社会から学び、社会から得る。それらは決して自然生得されるものではない。 個人的世界観は、社会から授けられる。
 各個人はその世界観をその属する社会から学ぶ。社会的世界観はそこに属す る各個人によって、それぞれの生活の場で具体化され、検証され、発展させら れる。
 それまでに、社会的組織や制度、技術として発展せられ、文書等々として蓄 積された世界についての知識、世界を理解する方法や手段が、各個人によって 具体的な生き生きとした世界観として確かめられる。普遍的な社会的世界観が 具体化される。
 しかし、社会的世界観も歴史的に制約されており、地域的にも制約されてい る。また社会の利害対立による歪みも受けている。さらに、それを個人が学び、 受け継ぐにも同様の制約や歪みがある。
 いずれにせよ、社会的世界観は各個人によって具体化され、検証される。そ れだけでなく、各個人の経験を経て、より具体的な成果、より普遍的知識、よ り新しい知識を獲得し、より豊に発展する。

【社会的経験の専門化】
 科学の発展と専門化により、自分自身を位置づけをる世界についての理解が 部分的になってしまっている。専門とする世界と現実世界との整合がとれず、 歪んだ関係のもとで自分を位置づけ、判断を中止している場合がある。一般の 人でもわかる非現実的な結論を、科学者が論理を駆使して納得しようとするこ とすらある。
蛇足2
 一般の人にわかる体系として、現代科学の成果を整理することが今必要であ る。

【科学の成果と問題提起】
 世界観が科学的であるためには、科学の成果を取り込まねばならない。しか も個別科学の成果の間に不整合がなく、互いに補い合う体系として世界を説明 できなければならない。
 科学は単に世界を分析するだけの事ではない。物理学は物の存在、認識に関 して重要な問題提起をしている。数学は認識の形式について。化学、物理学は 地球環境の変化。生物学は生命の誕生、健康、進化。考古学は人類の誕生、人 類文明。情報学は認識、論理、知識について。その他の分野においても、科学 は世界、人間についての理解として基本的な問題を解明している。日常的直感 だけでは世界を理解することはできない。不完全性定理、連続性と無限、不確 定性原理、相対論的効果にとどまらず、社会的差別や不正がエセ科学的根拠に よって正当化されている。科学的知識なくして自然や社会の全体を正しく見る ことはできない。世界、人間の理解に対してだけでなく、個々の分野それぞれ に互いに成果は利用されている。境界領域、学際、総合科学と言われるように。

 通常われわれが、あるいは専門研究者であっても専門外の分野に関して利用 できる最先端科学の成果は時間的にも遅れており、内容的にも専門家の解説を ジャーナリストが噛み砕いたものがほとんどである。われわれとしても専門家 の成果物を直接的に利用できるよう努力は必要である。しかし、生きていく上 での全体の枠組みに対する理解、基本的な論理の使用については、われわれが 専門家に対してそれほど劣らない面としてあるのではないか。世界観にとては 個別科学の成果とともに、生きて、生活していくこととむすびついた知見が必 要なのである。
 様々なものが、様々な立場、様々な人によって評価され論ぜられている。そ れを、1つの、ひとりの立場で、いま生きている人間の立場で評価し、体系づ けることの意味が世界観の意味である。
 世界観において専門性とは別の科学性が問われる。

【世界観の表現方法】
 体系的に表現するには抽象的な本質から始めて演繹的に現象過程をたどって、 より具体的、より個別的問題を取り扱う。
 しかし、説明的に表現するには具体的事例によって、論理をたどることによ り抽象的な本質を明らかにする。
 表現としての叙述は、この二つの方法を組合せる。

注7

【世界観の発展】
 「世界観」で肝心なのは、得たものの、既知のもの内の誤りを正すことの手 段としてである。既知のものの内の誤りを正すことで未知のものを取り込み、 既知に替えることができる。知の対象としての既知のものは未知のものとつな がっているから、既知を拡大して未知のものを取り込むことの原理的な可能性 がある。現実的には未知のものとの遭遇によって既知の物事の理解の足りない 点、誤りが正される。その際、既知のものごとの内に誤りが混入していないか を点検する手段の一つが世界観である。
 既知のものは未知のものを取り込む過程の中で得たものの蓄積であり、この 過程にあって常に繰り返し点検される。
 専門家からみれば幼稚であっても世界をとらえうる。幼稚なりにも正しくあ り続けることが肝心である。正しくあり続けることとはより大きく全体をとら えて、成長することの意味を含んでいる。

蛇足3

§1-4. 意識的社会的世界観の確立

【専門家の世界観】
 専門家の専門分野についての正しい正確な理解によって、世界全体の理解を 獲得し、それをすべての専門家、非専門家の理解とするにはどうしたらよいの か。その保証は専門家みずからが「世界観」をもつことである。専門分野の内 では対象の内部の論理によって正しさをたどることはできても、専門化した分 野間で論理が連続・整合している保証はない。
 共通の、一般的「世界観」の中に位置づけられて、専門家の専門分野の解説 は正しく表現され、非専門家に正しく理解される保証がえられる。
 専門家どおし互いの専門分野の尊重が不干渉ではなく、互いに連続した立場、 連続した方法であることによる相互信頼によって、互いに共通のものとされる。 互いに「共通の世界観である」との一致の上で、互いの専門分野で認識を深め、 共通した実践課題に共同して取り組むことができる。あるいは、役割を分担で きる。
 個々の専門家の専門分野を包含することによって、すべての人の世界につい ての理解を包み込みうる。専門家を科学の専門家である科学者に限らずに拡張 することで、すべてを包含する普遍的な世界観が実現される。
 専門家は専門分野の正確さと同じ正確さで、全体を理解することはできない。 最新の科学の成果によって表現された「世界観」は存在しない。専門分野から、 専門分野の正確さで、専門分野の成果を拡張することはできない。個々の専門 家の理解は、世界全体を包含するほど大きくはならない。

注8

【世界観の実践による検証】
 「世界観」は結論として与えられているものではなく、すべての人によって それぞれの分野で確かめ続けられ、日々いつも、よりよい理解をもたらすもの である。
 その「世界観」の枠組みの中で、それぞれの専門分野の理解を一般化する。 できあがっていない「世界観」の枠組みの中で、専門分野の世界を「世界観」 として実現する。論理的には循環であるが、現実的過程である。世界観は社会 的認識である。
 科学者でない人も、その仕事なり、趣味なり、生活上の分野での専門家であ る。すべてのひとが、その生活の場で、特定の科学研究生活ではないが生活に 関わる事柄の専門家である。生活からの成果を、社会認識に反映させるのであ る。
 素人に好意的な専門家は非専門家の視点からの問題提起、データの提供を期 待している。しかし、データの提供ということよりも、データを利用した理論 が日々の生活の中で評価されることの方が世界観にとっては重要である。科学 の成果をすべての人々の、それぞれの生活の中で確認し合えることで、科学成 果の正しさが確かめられることで、科学による世界の理解の正しさが確かめら れる。例外は、例外になる条件を確かめることで基本の正しさを証明する。

【判断基準としての世界観】
 素人であろうが、玄人であろうが個人は自分自信の世界観によって判断を下 す。世界観にまで「さかのぼって」の判断が必要かどうかも含めて、世界観に 基づいて判断する。その判断が権力者によっても行われる。その判断が社会的 金銭的損益を結果することもある。まして権力者の判断をそれぞれの専門家が 一個人の判断だからといって、「科学と政治は別である」として無視すること が許されるのか。暗黙の誤解、沈黙の裏切りを許してはならない。
 個人的事柄としてではなく、社会的責任として世界観についてすべての専門 家が自らの専門の責任を果たすべきである。すべての専門家のたたき台となる べき、個人が取り扱うことのできるコンパクトな「世界観」が提示され、すべ ての人によって目的意識的にたたかれ、一定の合意が得られる「世界観」が必 要である。個人が実践的判断において使用できる、コンパクトな仕様の「世界 観」が必要である。何十冊にもなる全集のような「世界観」では一人で日常的 に取り扱うことはできない。

蛇足5


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