注

 


注1

 世界のすべての物事と、世界観の内容とを一対一で対応させることは不可能 である。一つひとつを含む全体のほかに、一つひとつに対応したものを含む全 体を作ることはできない。どちらも「全体」でなければならないのに、結果は 2つの部分としてあらざるをえない。どちらも全体であることを否定される。

 多対一で対応させることもできない。
 知りえていない対象については数えることもできない。知りえていないのだ から、対象が「多」であるのか「一」であるのかすら区別できない。
 「一」として数えられたとしても、知りえたのは抽象、あるいは捨象された 対象であって、その対象として指し示せるのは元々の知の対象としてあったも のではもはやないし、数えられる「多」でもない。その対象に名前をつけても、 知りえたことにはならない。

 対象に対し、「全体」ということばとを対応させることはできる。しかし、 「多対一」を「全対一」に置き換えても無意味である。置き換えられた「一」 の中には「全体」に対する「部分」を区別できないのだから。

 


注2

【知ること】
 「知ること」についてここで簡単な断わりが必要である。
 「すべてを知らなくては、その一部分についても完全に知ったことにはなら ない。」という判断は、「知ること」の意味を消失させ、何もしないことを正 当化する願望によって歪めている。
 「知ること」は「絶対知」をえることではない。
 「知ること」は「予測できること」である。部分的事柄について、部分的な 予測ができることが知ることである。さらに、知ることは結果としてえられる ものではなく、より正確なより全体的な予測をえる過程である。

 「予測」の正確性は現実的な程度の問題である。誤差のない数字データとし ての正確性ではない。また逆に、実用主義的、あるいは結果がでてから予測を 説明できる正確性でもない。予測と検証を含んだ実践の過程の中での正確性で ある。もちろん、実践を破滅に陥れる不正確な予測であってはならない。実践 をより効率的に制御する意味での、より正確なことである。
 「正確性」そのものも時間的、空間的に他の物事との関連を確定的に示すも のとは限らない。現実には統計的、確率論的「正確性」しかえられない物事が ある。

 知らなくても実現できることがあるし、知らなくても試みなくてはならない ことがある。だれしも自転車が倒れずに進む原理を知らずとも自転車を利用す る。
 むろん、「知ること」は「記憶すること」だけではない。

 


注3

 「必要なのは現実を反映するデータであって、感想や解釈を集めても発展性 がない」という意見もある。最新の科学成果の正確なデータは専門家に提供し てもらうしかない。足りないデータの提供、誤った解釈の訂正は専門家に依拠 するしかない。しかし、人が生きる上で関わる問題の評価は、一人ひとりがも ちよることになる。ここでの「世界観」は専門家に依拠しつつ、その結果を日 常的問題を基礎にして体系化する論理的方法を問題にしたい。共通の論理にし たがって世界観を検討し、表現し続ける場をつくるきっかけとしたい。その世 界観の論理を問いたい。
 論理は論理なりにデータとは違った意義がある。

 


注4

 世界の空間的、時間的スケールがわれわれの日常感覚を大きく越えるもので ある以上に、世界の構造、動きは、複雑であり、その記述も多岐であり、複雑 である。したがって記述の全体を鳥かんできるようにすることが、序で必要で ある。

 もっとも「世界観」などといっても所詮この世のことであり、この「理論」 によって天地がひっくり返ったり、新世界が開ける訳でもない。結局は当り前 のことを、当り前にとりあげるにすぎない。ただ、当り前を集積することで、 当り前の現実の価値を改めて評価してみたい。  

 


注5

 心理療法が成り立つのも自覚されていない、阻害された「世界感」を現実と 対応させることによる。
 自分自身の世界感についての主観的な誤りを防ぐためにも、人々の生き様を 一般的に考えて自分の世界感を点検しなければならない。
 自分の世界感の阻害要因であるストレスの原因を理解し、対応するためにも 世界感を意識しなくてはならない。

 


注6

 人間中心に考えすぎると主観的になりすぎて「人間が世界の存在の原理を示 すものである」と思い込む人もいるが。

 


注7

【引用】
 科学論文は引用にも明確な形式を要求する。引用は初出の原著作者の成果を 評価するものである。そのことによって自らの主張を現在までの体系に位置づ けるものである。そして、体系として確定された理論を示すことで、証明を省 略する。
 しかし、「世界観」はすべて引用である。それぞれの問題について証明も解 説も、その余裕も能力もない。専門家に依拠するしかない、それどころか引用 の誤りがないか専門家に点検してもらわなくてはならない。とは言っても、引 用による誤りの混入を意識的に防がなくてはならない。引用する時も、引用を 読むときも注意が必要である。引用の対象が確定しているかどうか。証明され ているか。複数の意味がある場合にどれをとっているか。適用範囲、適用条件 はあっているか。
 そして、なによりも引用の内容を正しく理解できているかどうか。
 「ことば」自体が意味の引用である。

 


注8

 自然科学研究者の間でも、互いの研究発表をどの程度信頼するか違いがある。 発表者の実績、研究に対する態度によって違う。一つの研究成果の発表は、複 数の異なる研究者によって追試、再検証されねば客観的成果として認められな い。相互に認められた研究成果が集積、体系化されていくことで研究対象に対 する認識が深まり、全体的になっていく。
 その過程を制度的に保証するものが研究組織であり、学会、研究雑誌である。 この制度的保証が正常に運営されるかどうかはこれもまた重要な問題である。

 他分野の専門家に対する信頼とは、やはり世界観の一致である。
 世界をどうとらえているのか、どうとらえようとしているのか。共通の考え 方、方法がなければならない。
 例えば距離の測定であっても、研究対象の大きさによって尺度だけでなく測 定方法が異なる。異なる物差しで測るにもかかわらず結果を信頼できるのか。 日常的な物差、巻尺によるmm,cm,m,kmの測定結果と、星間、銀河間の距離の 測定結果、原子核の直径の測定結果、それぞれまったく異なった方法で測定し たにも関わらず、研究者間では互いの結果を信頼している。それを前提に研究 計画、研究課題を設定する。
 


 距離と時間とによって測られる速度やより複雑な運動の測定については無条 件で結果を利用したりはしない。しかし、条件付きで互いに認め合う。かえっ て結果を違うものにした条件を突き止めることが、複雑な運動の研究目的にな る。そこには「条件が同じであれば、運動は同じである。」との世界の普遍性 についての共通理解がある。いかに専門化によって互いに理解できない状況に なっても、基本的には同じ世界について研究しているとの了解がある。
 なかには実験結果をねつ造したり、恣意的にサンプルを選択した研究が専門 化から発表されることがある。しかし、それがねつ造であるか、恣意的な選択 であるかの判断はそれが事実ではないと判定できる一般的基準による。意識的 にでなくとも誤った研究が正されるのも、正しさの基準として共通の世界認識 があるからである。
 データの信頼性も基本的な評価基準である。測定データを取る時、データの 表現に影響する条件をどこまで考慮しているのか。複雑なより発展的な物理系、 特に心理学実験等では実験の設定に要する配慮によってまったく異なる結果を 生じる。一過性の事象を報告する際にも、その事象の原因だけでなく環境条件 を正確に把握し、結果に影響した条件を漏れなく報告することが重要になる場 合がある。過去の事象が観測された時代の科学的常識からは想像できない観測 データへの影響が、後の時代に指摘されることがる。観測結果の評価が評価技 術の歴史的発達に耐える報告が信頼される。結果が貧しくともその関係条件を 明確にすることが科学的成果にもなりうる。

 


注9

 科学を狭く解釈し、「対象を定量的に測定でき、変化を計算できることが科 学の本質的性質である。」とし、社会科学、人文科学を科学として認めない見 解もある。しかし、方法として数学を厳密に適用するいかなる科学であっても、 定量化の際の厳密性が程度の問題として問われる。統計手法によって表現すれ ばすべてが科学になるわけでもない。対象を定性的に明らかにし、定義された 質の示す量を測らなければならない。特に因果関係は統計によって推測はでき るが、証明されるわけではない。

 


注10

 再び注意が必要であると思うが、ここでの世界観は、本人が自分の世界観と して理解しているものとは必ずしも一致しない。

 


注11

 電子計算機のソフトウェアーは、利用技術の体系として典型的なものである が、機械に蓄えられた情報そのものは何の意味もない。すぐれた文学作品を一 字一句記憶させても理解したことにも、知ったことにもならない。それは単に 内部表現としての電気的状態の組合せにすぎない。出力ソフトウエアを利用し なくては、計算機に蓄積したデータ、ソフトウエアは何の役にも立たない。ビ ュワーというデータの形式を問わずに表示するソフトウエアが開発され、改良 されている。
 人類文化は電子計算機より複雑であり、なおのこと埋もれたままであったり、 人類が絶滅し、地球が破壊されてしまっては意味はない。また、すべてとは言 わずとも、人類文化のどれにでも接する機会が十分に与えられていても、活用 されなければ何も変わりはしない。
 計算機の情報にしろ、人類の文化にしろ、いずれもが現実の問題と関連づけ られ、関連づける方法がなくては意味をなさない。

 


注12

 世界観として個別科学の成果を引用する。しかし、私にその個別科学を解説 できる力量はまったくない。まして知識のよせ集め量を自慢してもボロが出て くるだけである。にもかかわらず引用が必要なのは、世界観全体の中でそれぞ れの個別科学の成果をどう位置づけて考えているのか、位置づけるに当たって、 私はどの様に理解し、あるいは誤解しているのかを明らかにするためである。
 個別科学の成果の引用は、世界観の表現が象徴詩句となって自己満足に陥る ことのないようにするための現実的重石である。

 


注13

 個別科学にあって、科学する前に科学とは何かを問題にすることがある。科 学を追求した後で、科学の対象はそもそも何であったのか、観測者、人間と対 象世界はどの様に関わっているのかを問題にすることがある。個別科学だけを 取り扱っていては、科学は明らかにならない。
 問題を整理するには、第1に、科学そのもの、科学と科学を含む存在につい て明らかにする。第2に、科学の成果の全体を明らかにする。第3に、科学す る者の生き方、科学成果の生かし方を明らかにする。科学を明らかにする3つ の構成部分が組み立てられる。

 


注14

【一般システム論】
 ところで「一般システム論」の傾向は、同様な表現の立場に立っているが、 決定的に違うのは、世界全体のシステムを問題としないこと、特に社会のシス テムの問題を政治的に避けるか、歪めてしまっていることである。
 「一般システム論」は、個々のシステムとしての事象と、その階層性につい ては学ぶべき成果をあげているが、それら全体が世界システムとしてどのよう に構成され、運動しているのかを問題にしない。
 また、社会システムについては、これまでの社会史を正当化したり、肯定的 に、あるいはやむをえないものとする。その上で、当面の問題の解決のための フィードフォアを検討はするが、現システムそのものの改良、現実の変革とし て世界にかかわろうとはしない。
 このことは、「一般システム論」がシステム工学から派生し、発展してきた 歴史によるもので、機能主義的観念論を克服できないでいるためであろう。

 


注15

 この「区別」とは修辞上の表現ではない。運動のあり方としての、存在とし ての区別である。異同の区別は観測者によって判断、表現されるのではない。 運動自体の形態が相互に区別をつくりだす。
 左右、上下、前後といった空間形式、時間形式の区別ではない。空間形式、 時間形式自体が運動の発展によって表れる。部分相互に運動の対象となること によって、対象化によって区別の関係をなす。
 形式的区別も、運動の発展により質的区別に転化する。運動は部分間の区別 として全体と部分を区別する。区別された部分間の関係・運動として、相対的 全体が部分構造をなして実現する。

 


注16

 具体的に、原子は物性によって元素として区別される。元素は人間が主観的 に区別した種類ではなく、原子の構造と、原子間の相互作用の違いとしてそれ ぞれに別の運動主体としてある。
 原子のより基本的要素である電子、陽子、中性子は構成する原子によって区 別されることはない。水素の電子、陽子、中性子とウラニウムのそれらとの違 いはない。電子、陽子、中性子は原子を構成することによって特別の運動形態 として存在する。電子、陽子、中性子は一定の原子内部の相互作用と運動構造 をとる。運動形態・運動のあり方として電子、陽子、中性子は特別の存在、原 子間で区別される存在になる。
 電子も個別として他の電子と区別され、陽子と相互作用する。原子も個別と して他の原子と区別され、元素として分類され、他の原子と相互作用して分子 をつくる。
 個別は物質レベルでの運動・存在、個別主体としてだけでなく、生物として、 社会として、精神として、それぞれの階層で、それぞれの個別を構成する。よ り基本的階層の個別の統合として、より発展的階層の個別がある。

 


注17

 第二部においても、個別科学の成果を数えるだけでも個人的限界がある。ま して世界観として充分に展開するなど個人的にできることではない。ましてこ の第三部では、個人的限界は致命的であるかもしれない。
 他国での生活を理解することは無論、自国内でも地方による生活の違い、階 層、職業、性別等々、個人的にすべてを理解することは不可能である。具体的 な生き方は、それぞれの人の数だけある。
 したがって、実践の一般的方法論を検討するにすぎない。それでも個人的制 約を受けざるをえない。
 また、表現も例示的なものにとどまる。それぞれの人々の生き方への具体化 は、それぞれの人々における問題としてしまわなくてはならない。

 


注18

 世界観に「無いものねだり」しても何の批判にもならない。多くの書かれた こと以外に、比較にならない量の事柄があるのは明かであるから。世界観にと って必要なことは、基本的な事柄についてはひとつの欠けることもあってはな らないということである。