戻る §1.そもそも世界観とは
概観 全体の構成
【科学の破壊力】
今日、科学の発展が個別科学の専門化として進み、科学者自身も、より広い 視野から自らの課題を評価することがむずかしくなっている。その結果、誰も 科学応用の歯どめをかけえなくなっている。軍事技術は人類、地球絶滅を可能 にし、産業技術は自然そのものを破壊しかねない。その技術の発達を支えてい るのは科学であり、これらは科学者、技術者が担っている。人間が行っている ことであるにかかわらず、人間が制御できないでいる。
【情報学と哲学】
さらに、情報学の発展は、認識、知識、推論といった、これまで個人的内省 か、現象の観察の対象でしかなかったものを、客観的対象として再構成する可 能性を探る段階に至っている。いわゆる「哲学」の領域に実証的手法がもたら されようとしている。情報システムによって哲学のすべての問題が処理できる ものではないが、その基礎的部分は「見解の違い」ではなく実験「事実」によ って明確にされるであろう。哲学に対するこれまでにない影響、哲学全体を崩 しかねない程の衝撃を生じるかもしれない。
これまで、個人的な人間の内部問題であったものが、社会的取り組みによっ て再構成され、構成されたシステムによって社会の問題になる。さらに社会的 実体として、客観的存在として再構成されたシステムによって、人間性の基盤 に対する直接的働きかけが技術的に可能になりかねない。仮想現実技術はビデ オゲームだけに利用されるのではない。
【巨大科学の基盤】
科学の巨大化は財政負担、組織整備、研究者・技術者教育、地理的環境等、 社会問題として深刻になりつつある。科学そのものの発展も、科学についての 社会的評価がなされねば現実のものとならない。科学の環境を含む問題に対し て個人的努力ではなく、社会的、組織的取り組みが不可欠である。科学は科学 にとっても、社会にとっても、総合的に理解されねばならない。
注9
【科学の社会的基盤】
科学技術一般の一人ひとりの生活にますますかかわってくる。科学の成果は 人々の生存の問題として、社会的生活条件の問題として、それらを理解する問 題としてかかわってきている。また科学のあり方も、一人ひとりの様々な直接、 間接の負担によって支えられている。このように人は生活していくうえで科学 とかかわらざるをえない。人は、少なくとも生活の場から、科学を総合的に評 価しなくてはならない。また、科学の方向づけの責任を社会的に分担しなけれ ばならない。そのためにも科学の総合的理解が必要である。専門家にも理解で き、一般の人にも理解できるよう科学を総合的なものとして表現しなければな らない。科学の体系化、普及は今日的課題でありこれからますます重要になる。
【科学のイデオロギー状況】
科学自体の発展は、個別科学間の境界をなくす方向にもある。特に自然科学 の分野では学問としての分類が難しいほどに一体化はすすんでいる。自然に関 して世界を統一的に理解しえることは疑いえなくなっている。この総合化を自 然科学に止めず、世界全体を総合科学によってとらえようとする専門家もすで に多くいる。特にシステム論として提起されている。さらに、非科学と科学の 統一を宣伝するグループも活動を始めている。
他方、科学では世界全体を理解することはできないものとし、科学を部分的 なものとして限定しようとする運動もある。あるいは、科学とは別に世界を理 解する方法があると主張する者もある。さらには、科学の現状の否定的な側面 を強調し、科学そのものを否定するものもある。
こうした科学をめぐる状況は、科学がイデオロギーとしての問題でもあるこ とを示している。科学は、内からも外からもイデオロギーによって歪められる 可能性を常にもっている。可能性だけではなく、現実にイデオロギーの問題と して科学をめぐってマスコミや政治権力が動員されている。
こうした状況にあって、もともと世界を統一的に理解しようとする世界観に とって、科学の問題は焦眉である。世界を理解しようとして、いわゆる哲学か ら分離独立した個別科学を、その古くからの目的である世界全体の理解のため に総合しなければならない。科学の方法、手段と到達点が示されねばならない。
世界観は、その総合性からしても、イデオロギーや政治といった生臭い問題 とも正面から取り組まねばならない。
まずはわが身を浄めるため、世界観の意義、役割を整理する。
【世界観の歴史的意義】
世界観はできあがっており、それを理解することで役にたつというものでは ない。
世界観は確かめられ、より豊かに発展するものとしてある。その世界観を具 体化し、現実を変革する指針として役立てるものとして世界観はある。
世界観を現実の問題で検証し、体系化し、より豊かに発展させて世界を理解 する。そして現実変革の指針をもつことの意義である。
世界観は歴史過程での現実的課題でもある。世界を理解すること、生活を正 していくこととして、生きていくことそのものと重なることがらである。
また、世界観は個人的問題であるとともに、社会的問題である。個人にとっ て世界観は、生活において現実世界を知り、生活の指針をえるものとしてある。 社会にとって世界観は、人々の合意形成の一定の成果であり、対立抗争の到達 点を示すものである。
人々は、日々の生活のなかで新たな問題に当面した時、自分自身(主体)と、 それをとりまく状況(客体)との関係全体において理解しょうとする。あるい は事前に世界全体、そして未来との連なりを理解し、課題を明らかにし、課題 実現のための方法、手段を検討しょうとする。
これらは自覚されているとは限らない。また意識されているとも限らない。 そして、それぞれ個人独特のやり方もある。個人独特のものでなくとも、意識 されていなくとも、自覚されていなくとも、この結果、世界観が形成される。 人間は世界観と関りながら生活している。
注10
個人にとって世界観の問題は、自分が世界を正しく理解できるのかを確かめ る問題として、次いで、世界についての理解が正しいものであるのかを確かめ る問題として、さらに、この世界を生きていく指針を正しく引出す方法の問題 としてある。世界観の問題は方法、結論、応用として、その一体のものとして ある。
【世界観に含まれる誤り】
個人が生活のなかで獲得してくる世界観には様々な制約があり、多くの誤り を含みうる。その個人的世界観を確かめることは、世界観を客観化し、自覚的 なものにすることであり、体系的世界観を自分のものとすることになる。また、 体系化することで個人の世界観は個人的制約や、多くの誤りを正すことができ る。
具体的には、体系化し全体を問題にすることで、自分の世界観の歪み、矛盾 が明らかになる。誤りの原因の追及は自分の世界についての理解不足か、認識 の仕方の誤りか、それとも世界そのものの問題であるかを問い、その解決の方 法を明らかにする。世界観を正しいものにしていく方向づけがなされる。
体系化された世界観は体系化できていない部分を明らかにする。そこを問題 とすることで目的意識をもって知識を獲得、蓄積し、経験を方向づけることが できる。
【未知への対応】
こうした体系化され正されてゆく世界観を自覚的なものとすることにより、 未知のことがらに接した時、その理解をたやすくし、先入観や、非論理的対応、 現実否定などの入り込む余地を排除できる。新たなことがらと、既知のことが らの全体とを関連づけることができるからである。部分と部分とをひとつづつ 関連づけていくのでは、時間と労力の無駄が大きい。
体系化しておくことは、未知のことがらを理解する方法、手段、手順なども 豊かにする。未知のことがらへの対応としてでなく、当面の問題に対して、そ のことがらをより全体的に、より本質的にとらえることができる。体系化は応 用のきく対応を可能にし、より効率的な対応を可能にする。
これらは、世界観に限ったことではないが、世界観の様に複雑で、多面的な 問題を取り扱うには体系化はどうしても必要である。
【世界観としての到達点】
さらに、世界観を体系的に確かめておくことで、自分自身の到達点を知るこ とができる。主観的な成長感ではなく、客観的な成長度合を明らかにする。世 界についての知識の広がり、深まり、自分の世界に対するかかわりの全体を点 検することができる。
【世界に対する意志】
最後に、世界観の確認は意志固めである。自分を取り巻く情勢を明らかにし、 そこでの課題を明らかにし、問題解決の手段、方法を明らかにすることで展望 を持つことができる。確かな展望を持つことが、意志を固めることである。世 界観によって、生活していく意志を固めることができる。
世界観を確かなものとして持つことは、単なる観念的楽しみや自己弁護では なく、生活を確かな、豊かなものにしていくことである。
【世界観の影響力】
どの個人も、その生活は社会の活動を構成し、その人の世界観の表現は社会 的世界観の存在に作用する。社会的影響力の大きい人程その作用する力は大き く、また社会制度、組織によってその影響力は増幅される。特に、学問的貢献 をした科学者の世界観の表明は、その正誤にかかわりなく重大な影響をなす。
その専門分野で、人類科学の発展に画期的成果をあげた科学者であっても、 その専門分野の問題を無条件に一般化したりして誤った世界観をもつことがあ りうる。そうした誤りは、その専門分野であげた成果の大きさに比例して重大 である。どのように人類に貢献した人であれ、自分の世界観を常に謙虚に、自 分がかかわれるあらゆる分野で点検し、より正しいものにしていかなければな らない。
また、一般的人間として、どのような偉人の世界観であれ、批判的に検討し なければならない。どんな偉人の発言であれ、どれ程社会的にセンセーショナ ルな見解であれ、それを批判的に受けとめるには、自分なりの世界観を自覚し、 自分なりに世界観の検討をしておかなければならない。
【社会的世界観】
社会的世界観は人々が世界を変革し、社会を運営していく合意である。社会 的世界観はしばしば世論として表現され、世論操作として現実を動かす手段に される。
世界観にもとづいて目標が選ばれ、課題が掲げられる。世界観そのものが目 標を選び、課題を掲げる社会的認識の活動である。
したがって、社会的世界観は常に正しい方向に向いて発展しなくてはならな い。すでに人間は人類を絶滅させ、地球を破壊する技術を獲得してしまってい るのだからなおのことである。
しかし現実には世界観は統一されるどころか、人々の利害対立を反映して分 裂し、敵対し、歪められている。統一的に世界を理解し、世界を、社会を、人 類の発展に向けて変革していく世界観を確立し、普及しなければならない。世 界観を正し、発展させることですべてが解決するわけではないが、未来をきり ひらくためには欠くことのできない努力である。
【社会的基準】
人類の課題などといわぬまでも、日常生活に現れる多様な誤った見解や誤解 は、世界全体の中に位置づけることで、その原因にまで遡って誤りを明らかに することで正すことができる。「どちらとも言えない」というあいまいさ、相 対的見方を、一つしかない世界を根拠としてはっきりさせることは世界観の日 常的課題である。
人類の獲得してきたものを、すべてではなくとも、くまなく社会に普及させ るだけでも人類の未来は大きく開ける。地球規模でも、地域社会でも、人類の 獲得してきた技術、知識すら偏らせられてしまっているのだから。世界の資源、 エネルギーだけでなく、知識、技術も地域的偏りがある。世界観の検証、実現、 発展は、日常的課題であるとともに、人類の課題とも連なっている。
例えば、世界観を無視し現実性を無条件、無限定に認めるならば、それは現 実追認の保守主義に陥り権力への投降となる。また、現実性の否定は空想への 逃避であり権力の追認となる。
【常識の根拠】
特に、日常生活では常識が通用しないことが多い。明らかな誤りが放置され ている。これは、それぞれの常識が異なっているからであり、誤りを許すこと でそれぞれ自分の誤りをも許してしまっているからである。
こうした常識の不一致、誤りを正す場として、世界観について討議すること が望ましい。個々の問題で誤りを正し、合意を作りあげる努力も当然に必要で はあるが、それはともすれば根拠を示せない水掛け論に陥ったり、正しさより も力の強弱によって決着をつけられることにもなりかねない。具体的な利害の からむ問題、それ故に切実な問題の解決には一般的な取り組みから出発する方 が良い。
世界観を提起する意義は、こんな日常的なところにもある。
【科学の根拠】
また、個別科学が急速に、加速度的に発展している今日、世界観は個別科学 の成果を世界全体の中に正しく位置づけ、理解するために重要である。量子力 学の成果を引用して、すべて世界の根拠は不確定性であり、何も認識できない などということになってはこまるのである。しかし今日、個別科学の成果は個 人ではとうてい追いきれるものではない。
それでも、個別科学の成果を受け入れることができるのは何によるのか。百 数十億年前全宇宙はピンポン玉くらいの大きさであった。すべての遺伝情報は すべての細胞の中に4種類の塩基の組合せとして記録されている。こうした、 時間的、空間的にも、働く力、構造の複雑さからして、日常的感覚からは想像 できない事柄を受け入れられるのは何によるのか。
科学の発展の歴史の中で、一つ一つが積み重ねられ確かめられてきたこと。 一つ一つを再現しうること。再現できない一過性の場合、実在の証拠を再現し て確認できること。確認する科学者、技術者に対する信頼。対象と観察者との 間の関係の普遍性。それぞれの分野での研究方法の普遍性。科学情報の社会的 流通の普遍性。これら一つ一つの要素に食い違いが無いことによって受け入れ ることができる。さらに、ほかには、科学以外には世界のあらゆる事柄につい て説明できるもの、あるいは説明の可能性があるものが存在しないこと。そし て、個々の研究過程での誤りが研究過程の中で正されること。基礎理論の基礎 的な誤りであっても、それは全面的な誤りではなく、より一般的条件での制限 が明らかになっていなかったことによるもので、特殊条件下では成り立つこと。
これらによって、科学的感覚として受け入れることができるのである。科学 的感覚による世界の見方、その感覚による世界観をもつことが、その感覚を批 判的に使うことになる。
また、個々の成果を正しく全体に位置づけることは、その分野の専門家だけ にまかせて良い問題ではない。科学は技術によって生活を大きく変えうる。生 活を破壊することもできる。その責任は科学者にもあるが、何よりもすべての 人々の生活の問題である。
したがって、個別科学の成果を誰でもが理解できるように提供されねばなら ない。同時に、誰でもが理解できるよう、理解そのものを助ける努力もされね ばならない。内容を正確に、平易に、解説方法を分かりやすく整備しなくては ならない。個別科学の成果は、普遍的世界観の中に位置づけられて紹介されね ばならない。そのためには、あらかじめ普遍的世界観をまとめ、社会化してこ とばで表現し、誰でもが受けとれるよう整理しておかなければならない。
人々が理解をたやすくできるように、それぞれの人々のもつ世界観と、普遍 的世界観との照合ができるようにしておかなければならない。
それには、世界観を社会的に討議し、形を整えておくことが必要である。こ れも世界観の意義である。
【科学者の責務】
世界観、科学論、哲学と言うと、特に自然科学の研究者は敬遠するか、無視 をする。自然科学の厳密で、戦闘的な日々の研究生活との異質性に戸惑うのだ ろうか。自分たちの成果を盗みとったり、歪められたりされることへの警戒か らだろうか。
誰でも、自分の専門の成果を、同じ様に努力をしていない、見ず知らずの他 人にいじりまわされたくはない。
しかし、科学が社会的な活動であり、その成果が社会的に位置づけられ、社 会的作用をするからには、それぞれの成果の生みの親として、同時に、その成 果の生かされる社会の一員として、正しく、十分に成果が生かされるよう、可 能な対応が求められるのではないか。少なくとも、見守る義務があるのではな いか。
原爆の開発にたづさわった科学者、技術者の社会的責任の問題が問われたが、 人々の生死に直接かかわらずとも、すべての科学の成果は、社会に生かされる。
日々の直接的研究活動以外に、研究予算の獲得、研究発表の準備や、論文の 出版といった事務も、研究活動の一環であるのと同じに、研究成果を社会的に 生かす活動もあわせて求められるのではないか。一般の人に対する講演や出版 だけでなく、成果の誤った理解を正すことも必要なことではないか。哲学者や、 学際研究者が、自分の成果をどう理解し、どう位置づけているかを監視してほ しい。
願わくば、社会的視点からの自分の研究テーマの位置づけが、新たな発展の 契機となったり、新たな方法論の展開になれば個々の研究にも利益になる。
【文化の利用技術】
ここで別の視点から世界観を意義づけるなら、世界観は人類がこれまで蓄積 してきた文化の利用技術と言うこともできる。世界観はあくまで目的ではなく 手段である。世界観の利用者は個人、あるいはそれぞれの社会である。ここで いう「人類が蓄積してきた文化」とは生活様式、知識とその媒体である。生活 様式は行動様式、行儀、感情表現等として現れる。知識媒体はことば、文字・ 数字、画像であり、文書、図書、映像であり、文献目録、図書館であり、学校、 研修制度であり、等々である。
それら「文化」媒体を読み解くには、媒体自体の取り扱い、媒体が実現して いるものの意味解釈、意味の評価が必要である。過去の文化、専門家の報告、 新しい事象を受け入れるには受け入れる手だてが必要である。知識や知恵、手 段や方法、道具や制度を利用する手だてが必要である。その一般的手だてが 「世界観」である。
注11
情報、あるいは文化としての記録を、現実の問題と対応させる方法。記録を 検索する方法。記録を比較する方法。記録間の関係から新しい関係を推論する 方法。これらの方法を統合し運用する方法。この方法すべて、利用技術の体系 があって初めて情報、あるいは文化は意味づけられる。
そして、運用を方向づけるのが、それぞれの個人であり、あるいは社会であ る。
「世界観」は個人、あるいは社会が人類の文化を現実に生かす利用技術であ ると見ることができる。それぞれの文化の利用技術の程度によって、その効果 は異なることも推論できる。
文化の利用技術として意識される「世界観」は貧弱であっても、現実の生活 はりっぱでありえる。しかし、あるのに利用しない手はない。
【体系としての世界観】
体系を問題にすることがそもそもの誤りであるとする見解がある。体系化す ることは世界を一つとして理解し、一つとして変革し、その一つの見解を現実 に押しつけようとするものであると非難する。すべてを一つにまとめることは、 独善に至るとして敵視する。完成された体系があり、それを実現することが体 系の意義であるとするなら、それは誤りだろう。体系の内に体系の絶対化、現 実よりも観念の優位を否定する論理が備わっていないならそれも誤りであろう。
一定の世界についての理解なしに我々に何を判断できるのか。その時の気分 で物事を決定してはならないはずである。多様性を認めることは、気まぐれや、 動揺を認めることではないはずだ。
なにより自分の判断根拠を明らかにし、実践での誤りに対して、どこで誤っ たかを明らかにできなくては先に進めない。自分のどの部分が欠けているか、 陳腐化しているか理解するには自らの体系を自らに明らかにしておかなければ ならない。社会的責任のある決定の場合、単に知らなかった、自分の予測と違 っていたではすまされない。「自らが誤ったら、誤りを認め事実を受け入れて より真実のパラダイムの構築へ向かうべきである」とするのはご都合主義であ る。複雑で、行きつ戻りつする現実のなかで、自分が誤ったかのように見える 時でも、見えるだけなのかを判断するには、体系を拠り所にするしかない。
体系の内部にも部分的な誤りはありうる。現実が歪んでいるのか、自らの部 分的誤りなのか、自分の全体に照らしてみなくてはならない。現実の全体と自 分の体系の全体とを対応させなくてはならない。
現実の過程が自分の見解と異なったからといって、自らのすべてを否定する ことは現実追従である。それだけではどちらが誤りであるか判断できない。自 分の見解に固執することが正しさの保証でもない。現実の全体と自分の全体の 双方から、どちらに誤りがあるのかを追求しなくてはならない。
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