戻る §2.世界観の意義
概観 全体の構成
まず、この「世界観」が「世界」と呼ぶ対象を示す。
世界のすべての物、すべての事はどのひとつであれ、他とそれなりの諸関連 をもっている。世界にあるひとつの物事から、それがなす諸関連をつぎつぎた どれば、現実的可能性はなくとも世界全体をたどることになる。逆に世界の関 連とは、すべてを相互に結びつけていることである。世界が有限であるか、無 限であるかは決定できなくとも、たどることのできる関連によって世界はつな がっている。世界の関連はたどる以前に、たどる可能性の問題以前に存在する。
世界の関連は構造をもち、構造は階層をなしている。
世界の関連は相互作用の関連である。
階層構造をなす相互作用として、世界は関連している。
世界の関連としての相互作用は、関連自体の構造を変化させ、時に新しい階 層構造をつくりだす。世界はこの変化し関連する全体である。
この変化は現象過程としても認識される。因果関係としても認識される。し かし、それは、ミョウバンの結晶析出実験のように、時間とともに原因から結 果が形をとって現れるといった現象の単純なイメージではない。原因としての 本質、結果としての現象、といった形式的対立関係でもない。現に今、こうし て関連している世界である。
この一言で表現しにくい関連を、記述するのが、この世界観の本論である。
【世界はひとつであり、自分もひとつである】
どちらかが複数であるという見解もあるが、どちらも複数あるという人には なかなかめぐりあえない。
そのことがどうであれ、複数であっても複数なりにそれぞれの位置があり、 それぞれに関係しあっている。複数のそれらを、「複数」と区別するひとつの 関係のなかにすべてを含んでいる。形式の関係ではなく、実在の関係である。
また、自分と世界を区別しても、区別できる関係をもってひとつの世界のな かの区別である。つまり、どのように自分を世界と対立させようが、対立する ものとして自分とそれ以外のものが関係しており、その全体のなかの一部とし て自分がある。その全体がまた世界であり、「自分も世界の一部である」すな わち、どのように部分に分けようとも世界はひとつである。
【ひとつの世界に対応して、世界観もひとつである】
絶対の世界観が現実に存在するのではないが、世界観は唯一のものとしてな くてはならない。世界が一つであるから。多様性は個々それぞれにあるのであ って、全体は一つである。
唯一の世界観は唯一の価値観を押しつけるものではない。あらゆる価値観の 併存を含む。含むだけではなく、世界に占めるそれぞれの位置を明らかにし、 誤った価値観の誤りを明らかにする。誤った価値観の存在を許すのではなく、 存在が誤りであることを、誤りの原因にまで遡って明らかにする。そのような ものとして、全体を示す世界観は複数存在するのではなく、唯一の存在でなく てはならない。
一つの世界に対応する世界観は、でたらめで、区別のない、秩序のないもの ではない。世界は構造をもち、世界に対応する世界観も構造をもつ。
【個別科学の成果】
世界について、個別科学が明らかにしている。明らかにしつつある。
物理学が、物質の構造から宇宙の進化まで、極微から無限大までを統一的に 明らかにしようとしている。この宇宙の中に別の宇宙がありはしない。宇宙の 外に別の宇宙の存在可能性が想像できるだけである。この宇宙では、条件によ って異なった形で法則が働くことはあっても、宇宙のすべてを同じ現象は同じ 法則で説明しようとするのが科学である。
化学、生物学が生命、進化を明らかにしようとしている。いわゆる自然につ いては、自然科学が世界を統一的に明らかにしようとしている。統一的結論、 すべてを確定できなくとも、自然科学の発展は世界が統一された存在、唯一の 存在であることを明らかにしてきている。
そして、その延長上で、同じ科学の考え方、同じ科学の方法で社会について、 あるいは人間についても明らかにできる、という立場で社会科学と人文科学と がある。一般に「文化系」と呼ばれるが、文化の意味からすれば自然科学自体 も科学として文化であり、心理学、経済学等の対象は、文化現象ではない。 「文化系」という表現には、非定量的な「科学ではない」といった意味あいが あるように思われる。
社会、人文両科学を区別することはむずかしいが、社会科学を社会現象につ いての科学とし、その他の人間を単位とし、人間の行動を基礎にもつ諸現象に ついての科学を人文科学として区別することが一応できる。
これら個別科学が世界のあらゆる問題を科学として統一的に明らかにしよう としている。特に、認知、認識については、自然科学と人文科学に区別される 科学自体を統一し、それを情報理論として解明し、技術的に実現しようとする 試みがすでに始まっている。
しかし、現状では総ての個別科学の成果を集めたところで、世界を統一的に 説明することはできない。そうすべきであるとして、いわゆる綜合科学が提案 されているが成功していない。それらはやはり限られた分野での綜合でしかな い。
現在可能なのは科学としてではなく、科学の成果に基づく世界観として世界 を統一的に説明することである。
注12
【個別科学と世界観】
世界観として、世界を統一的に説明しようとすることは、科学の成立以前の 古代から、世界の各地で試みられてきた。無論、今日の個別科学の成果を無視 することはできない。しかし個別科学の成果を寄せ集めるだけでは世界観は成 り立たない。世界に対応した統一体として、個別科学自体の世界での有様を問 い、また個別科学の諸成果の関係をたどることで、世界観を体系として表現す ることが可能になる。
また、世界全体、宇宙に対して人間の存在など極々小さな存在でしかない。 しかし我々にとって人類は、それぞれの国民は、人間関係は、自分自身は、世 界全体に劣らず重要な意味をもっている。こうした意味での世界と自分らの関 係をも統一的にひとつにとらえることは、世界観によって可能になる。基礎物 理学の対象として人間など無視されるが、世界観では人間存在と物の運動は統 一的にとらえられねばならない。
個別科学は、世界が多層の構造をもった、統一的な存在であることを示して いる。個別科学の分類に応じて、その対象世界が複数あるのではない。個別科 学の分類は、世界の構造をなすそれぞれの層、分野として区別されている。個 別科学を相互に位置づけ合い、ひとつの世界に対応した、ひとつの体系として の世界観が可能である。
【世界観の存在】
しかし、世界観の論理は世界の構造とも、個別科学の体系とも異なる。世界 観を持つこと、世界を認識することは、客観的存在として世界全体の運動の一 部分である。他の部分、全体と連なった運動として、全体あるいは自らを認識 という部分の中に再現することが、世界観を持つことである。部分の中に全体 を再現しなくてはならない。したがって、対象と再現されたものは一対一で対 応しない。また、再現されたものは、再現の結果としての受動的なものである。 再現ということだけに限れば、相互作用はなく一方的な規定である。
しかし、この再現は、鏡に像が映るといった直接的なものではない。再現は 異なる媒体間で転換されて実現する。対象となる運動と再現を媒体する精神的 運動は、連続した運動として相互作用するそれぞれの部分である。しかし再現 されたものは精神的運動を媒体とした存在である。精神的運動を媒体として運 動し、対象と精神的運動の相互作用には直接関係しない。対象の運動は精神的 運動に媒介されたものの運動として再現され、再現の内の関係と対応している。
一対一対応ではないが、対応する再現が正しくおこなわれているかどうかは、 条件が変る場合に再現されたものが対象の変化を予測できるかどうかというこ とである。適格な表現とは、あるがままということではなく、条件が変っても 変化しない本質としてとらえたもののことである。
【世界観の表現】
世界観は、このように世界を世界観として再現したものでなければならない。 しかも再現そのもの、すなわち世界認識そのものをもその内に再現せねばなら ない。
この世界観を言語という媒体によって再現する。
さらに、世界観の表現はまた別の問題をも含まざるをえない。世界観だけで なく構造をもつものを表現するのは、表現自体の技術的問題を解決しなくては ならない。
表現は線形でいわば二次元である。表現するひとつひとつの問題について述 べ、それを積み上げ、一定の積み上げ後、積み上がったそれぞれの問題間の関 係を問題として述べねばならない。表現の全体はいわば三次元的であり、それ を読む人が頭の中で逐次たどり、全体の構造が読む人の頭の中に再構成される のは、すべての表現を読みおえた後になる。三次元の構造体にとどまらず、さ らに時間も加わる。複数の次元によって構成される世界を表現する難しさに対 し何等かの措置が必要である。
【表現の手続き】
構造をもつものを表現するには、表現自体の構造化を前提として、読む人に も承認してもらわねばならない。構造についての一定の共通理解がなくては、 各構成要素の説明はできない。同じ対象をいくつもの階層においてとりあげる が、それが表現構造のどの位置におけるものであるかを、表現する者と読む人 とが一致した理解にしておかねばならない。
しかし、世界観は前提となるべき構造そのものが主要な問題である。最後ま でいかねば前提が定かではない、というのでは具合が悪い。したがって、世界 観について表現するには、まず全体の構造の概観を示しておくべきである。全 体の構造が何故このようになるのか、という説明はなしにまず概観を示す。こ うした非論理的になってしまう表現は「序」にふさわしい。
序において示す世界観全体の構造を仮の前提として、それぞれの内容につい ては逐次本論で示す。世界観の各構成要素、そして各構成要素間の関係をすべ て示すことで全体を表現する。序での仮の前提は、本論の全体を通じて説明さ れる。すべてをかたづけた後で世界観の構造が評価されることになる。
こうした、全体を作ってから足場を固める様なことをするのは、世界観がそ のもの自体の客観的存在、認識そのものを対象とするからである。
【三部構成】
世界観は3つの部分、あるいは3つの段階から構成される。これらは主観、 客体、主体ということばで象徴される。これは象徴であって論理的なものでは ないが、3つの部分の特徴と関係を示している。即自、向自、即自かつ向自の 関係にも等しい。3つの部分に分けたのは、この世界観自体の考え方にもとづ く。
世界の中に私たちはあって、私たちは世界を知り、世界に働きかけている。 私たちは世界を反映する「世界観」を、私たちの内に形つくる。「世界観」は 私が自由に操作できるものである。私は「世界観」を世界に対応させ、「世界 観」を操作して世界を予測し、世界に働きかける。
しかし、私の「世界観」は私が作り出したものではない。私が生まれてから、 私の経験を通して私と、私を取り巻く世界の条件の中で作られた「世界観」で ある。私に与えられた「世界観」は個別的な、部分的な「世界観」である。ま ずこの私に与えられた「世界観」を対象にし、世界観を定義する。私にとって 操作可能な「世界観」の要素、論理、構造を私たちで確認し、世界と「世界観」 の意義を見いだす。これが第一部である。
つぎに、世界観としてえられた世界の構造を確かめる。「世界観」と世界の 対応関係、相互関係を私たちで確認する。私の内に世界が反映されること。世 界に対し、世界の一部分として、「世界観」が私の内に形作られていること。 「世界」と「世界観」の関係を定義する。これが第二部である。
最後に、世界と関係している私、私たちが世界に働きかける際の世界の関係 を確認する。「世界観」の活用、「世界観」の実現のための世界観を定義する。 これが第三部である。
注13
3つの構成部分を論理的に特徴づけるならば、一般、普遍、個別になる。
認識論的には、論理、認識、実践、あるいは、主観、客体、主体となる。
実践論的には、理論、課題、主体となる。
形式的には、抽象、具象、現象となる。
第一部は、世界の一般的なあり方についてである。
第二部は、世界の普遍的なあり方についてである。
第三部は、世界の特殊、個別的なあり方についてである。
第一部は、存在、認識、論理の世界である。
第二部は、個別科学の成果として描かれる世界である。
第三部は、生き方、人生論についての世界である。
この三部構成は、全体の構造、構成の枠組であると同時に、3つの発展段階、 3つの主題として繰り返される。現象の過程であり、論理の過程でもある。
第一部は、世界観のあり方の基礎であり、比較的観念的である。「主観的な もの」の「客観的なもの」との関係における相互の位置づけと、派生する諸問 題についてである。主観にとって与えられた世界の理解についてである。主観 についての世界のあり方である。
第二部は、世界のあり様であり、客観的世界である。客観的世界の構造をた どり、その中に、主観、主体がどのようにあるのかについてである。世界その ものの理解についてである。客観的世界のあり方である。
第三部は、その客観的世界の中で、主体がどのように生きるのかという、実 践の世界である。現実の世界をどのようにとらえ、現実の世界にどのように働 きかけるべきか。そのような自分自身の運動、活動から派生する諸問題につい てである。
次に世界観の構成を表にして示す。表全体が世界観の全体を示し、その構成 と内容を順次説明する。世界の表現順序は左から右へ、下から上へと昇る。
【この「世界観」の限界】
第一部は一般的である。しかし第二部、第三部については、私たちの社会的、 歴史的限界が当然のこととしてある。それ以前に私の個人的限界がある。まし て第三部に至っては、個人的に歪小化されてしまった世界になってしまうかも しれない。それを承知の上であえて世界観を問う。
表現に際して、特に第二部、第三部では、個人的特殊性による誤りが入り込 まぬよう注意しなくてはならない。また、第三部では、全体の関連を見失わな いためにも、個人的限界を認めた上で、詳細にならぬよう、冗長にならないよ う注意しなくてはならない。
【方法の道筋】
人は世界を認識する場合、第三部にあたる日常生活に関わる問題から出発す る。
漠然とした世界全体の中で関わる諸問題を一般化して本質に迫る。本質から 物事を説明し、現実の諸関係と全体の理解を深める。いわゆる下向と上向の認 識と論理を繰り返すことで世界について、対象についての認識を発展させる。
単なる帰納と演繹ではない。単なる分析と総合ではない。
現実の世界の構造と、現時点での結論として得られている世界像の構成の対 応関係をふまえる。その中に位置づけられる問題として、当面の問題を個々に 分析し、帰納して、個々の問題がそれぞれがつくる関係を明らかにする。同時 に、全体の構成をひとつの像として再現できるように、それぞれの問題を演繹 し、総合して、個々の関係と全体の関係とを明らかにする。
世界観を表現するのに、こうした認識の過程をたどることは適当ではない。 具体的な事柄から抽象的な事柄への順で進むことは、判り易くしはするが一般 的ではない。人それぞれに異なった道を持つ多数の世界観の表現ができる。世 界全体をひとつの一般的統一体として表現するのには適当でない。
統一体として表現するには、最も基本的、最も一般的、最も本質的なことか ら、世界全体の諸問題、諸関係を段階を追ってひとつひとつ明らかにする。一 段階づつ、より具体的な全体へ向かって表現する方が適切である。
【成果物としての世界観】
こうして得られる世界観は自然科学、社会科学、人文科学の対象を含む総合 的統一的である。それぞれの方法論を統一して総合する理論体系であるべきで ある。
しかし、こうしてえられる統一原理によって、世界のすべててを理解できて しまう、などということはありえない。こうしてえられるものは、世界をひと つのものとして統一的に把握する方法がえられるだけである。
方法は、常日頃、具体的に使われてみて意味があり、成果がえられる。どれ 程科学、技術、教育が発達して普及しても、その成果が現実に役立てられてい るのはほんの一部である。
最終利用者が、どこに、どのような形で成果があり、提供されているかを知 り、自ら理解する努力をし、現実に適用しなければならない。また、それぞれ の専門家はそれぞれの成果の利用技術をも提供し、利用しやすくする努力をせ ねばならない。
しかし、それ以上に世界観が現実に適用されるようにすることには、多くの 困難がありそうである。
では、もう少し具体的に世界観の構造を整理する。
【第一部第一編 序論】
第一部は世界の主観、普遍、抽象、論理、分析手法を取り扱う。いうなれば、 世界の一般的なあり方である。「哲学的」な部分である。
一般的な世界のあり方の、最も基本的な問題から始め、最も発展的な問題ま でを整理する。したがって、何が最も基本的な問題であるのかの検証をまずし なければならない。これは、存在論と呼ばれるものに対応する。これは世界観 の内容とは直接に関係しない。ここで世界観そのものの形式、方法を確認する。 世界観の収まるべき位置を確認する。世界観の表現を始めるにあたっての手続 操作の部分であるから序論とする。抽象的で、かつ実体に対応していないが、 形式として先頭になければならない。
これが序論ではあるが、第一部、第一篇をなす。
【第一部第二編 一般的、論理的世界】
第二篇からが本論であるが、やはり抽象的である。しかし実体に対応してい ない訳ではない。現在の宇宙の膨張の始まりからの歴史、宇宙史、そこでの運 動の発展、物質の階層の生成に対応する。この宇宙進化を念頭におくことで、 多少理解されやすくなると思う。全体−運動−部分と存在の形式の発展がたど られる。
そして改めて形式の発展を、全体の基本法則−全体と部分の構造−部分の現 象形態としてたどる。
【第一部第三編 反映される存在一般】
第三篇は認識の中に宇宙、あるいは宇宙進化が取り込まれる構造、認識の方 法論としての論理を取り扱う。
【第一部の位置づけ】
第一部は存在論、論理、認識論の統一的把握をめざしているのである。これ は、認識論、論理、弁証法の統一よりもより一般的な世界の統一的理解をめざ すものである。弁証法は存在のあり方であり、認識、論理を貫く運動の形式で ある。
存在を確かめようとすると、確かめるための認識、存在と認識を関連づける 論理が問題になる。
認識を確かめようとすると、認識の対象と主観の存在、認識を構成する論理 が問題になる。
論理を確かめようとすると、論理を獲得する認識、論理を構成する存在が問 題になる。
【第一部の構成】
第一部の構成は、世界観全体の3つの部分に対応して3つの篇に区分される。
第一篇もまた3つの部分から構成される。主観、対象、主体という3つの段 階をたどる。これにより、世界における主観の位置ぎめをする。主観の主観自 体を含む世界との関係を確かめる。
第二篇は、対象となる実体のあり様を、その発展そして構造の論理に従って たどる。さらに、同じ論理で主観の成立と構造を確かめ、主観を含む世界の構 造を確かめる。
第三篇は、世界の構造としてとらえらけた論理が、主観に反映されて成立す る論理を整理する。
機能からすれば、第一篇は、世界観表現の出発点の点検である。出発点はど うして出発点として認められるのかを問題とする。第二篇は、客観的弁証法で あり、第三篇は、主体の弁証法である。
第一部の特徴は、この世界観の特徴でもあるが、世界の階層性とそれらを貫 いて発展する諸々の存在主体を「個別」としてとらえ、これで世界全体を分析 することにあるる これは、世界を超越する人間性なるものに対して、また人間をただの物と見 ることに対しても反対する。人間が人間としての尊厳をもつ現実をとらえよう とするものである。宇宙における「人間原理」の主張に反対し、人間の位置を 確かめる。
物質の階層性については従前から言われていることであるが、世界が物質と しての存在であるのだから、当然に世界は階層性をもつ。そこに生活する人間 も当然階層をなして運動しているはずである。
【存在形式の単位としての個別】
「個別」とは全体に対する部分の運動主体としての存在である。最も抽象的 な、事物の存在形式である。「要素」でもよいが機能主義的で存在、主体性が 弱くなる。「単子(モナド)」でもよいが階層的発展を表せない。
物質は特定される一つの存在として実現する。あるいは運動は、運動の主体 が他から区別されて実現される。
存在は基本的には連続している。連続している中で他から区別され、特定 される存在を「個別」と呼ぶ。認識の対象としての主観的区別ではない。機能 主義的、実用主義的区別でもない。
注15
個別の存在、個別主体は永久普遍ではない。その存在、個別主体自体がより 基本的存在、個別主体から構成されている。個別主体を構成するより基本的要 素は、個別主体としてでなく自体の一般的存在・運動として他と区別されない。 個別主体の構成要素としてある場合に他の存在・運動と区別される。個別主体 によって規定されることによって個別主体の構成要素は他と区別される。個別 主体は構成要素を他と区別する存在・運動である。
「個別」は限りあるものであるが、「個別」のすべてが、限りない全体を成 している。「個別」以外の存在はない。すなわち唯一無二の存在形式である。
【存在形式としての運動】
すべての物質は運動している。運動していない物質はない。運動は物質の最 も普遍的な存在形態である。その運動の源、運動の原因はその内部にある。運 動はその内部矛盾によっている。しかし、運動の原因である内部矛盾ばかりが 強調されてはならない。すべての運動は全体の運動の一部分であり、外部環境 が常にあり、外部条件に制限されて運動は展開されている。内部矛盾と外部条 件とは、その運動を規定するものとして相互作用している。その相互作用の現 象形式が「個別」である。これをあえて「個別」と呼ぶのは、内部矛盾と外部 条件の相互作用なしに現実の運動はありえず、現実の運動を理解するためには この相互作用の分析がなくてはならないからである。
また、内部矛盾と外部条件との相互作用が、相互浸透し、相互依存の関係に 発展、定着することで、それまでの相互作用は内部矛盾に転化し、運動をより 発展的なものにする。外部条件は、より発展的な内部矛盾に包摂され、一部分 になり、形式的にはより大きな矛盾に発展する。すなわち、「個別」はより発 展的な「個別」を構成する。
内部矛盾と外部条件の相互作用を相互浸透させ、相互依存させる力、より発 展的矛盾を実現させる力が、物事を現象させる力である。その現象形態を特徴 づけるものとして「個別」を考える。この力こそ、混沌から秩序をつくりだす 力であるはずである。
また、「個別」は、こうした多元的な相互作用の網の目の結節点をなすもの てせある。この「個別」を支点として、全体が理解される。
【個別の構造】
「個別」は相対的に全体でもあり、部分でもある。自立性、非対象性をもつ ものとして全体である。自立性、対象性をもつものとして部分である。
「個別」は自立性、自律性をもつものとして一体性、独立性をもつが、運動 主体として他の運動と連続しており、連続性をもつ。
運動主体としての個別は客観的運動の主体、運動全体の結節点としてとらえ られる存在である。運動主体として質をもち、量をもち、その運動の基体をな す。認識の対象として、他から区別されるものとして個別はある。
この個別の運動の存在領域が階層である。階層は無限の階層である。物質の 構造としての階層、物質存在・運動の発展としての階層、それを反映する認識 と論理の階層、さらにそれを表現する言語などの記号の階層等、これらすべて の無限の階層として世界の階層がある。
個別の運動は、個別内の運動であるとともに階層内で運動し、他の個別との 相互作用が他の相互作用と関係し、個別間の相互作用が自立性をもつことで、 新しい、より発展的運動形態としての、より発展的階層を成し、新しい運動、 相互作用の運動主体としての個別を構成する。
こうした、個別と階層性という方法論によって、個別科学の成果とその表現 とをまとめて、世界を統一的に理解することができるはずである。また、様々 な偏見や誤りを、その誤りの発生する根拠から明らかにすることができる。
【具体的な階層の例】
階層性の問題の具体例として、視覚をとりあげてみる。視覚も相互作用の連 鎖からなり、より大きな関係として対象と感覚者との間の相互作用である。
視覚の媒体は第一に光である。対象から発せられ、あるいは反射される光の 運動はごくありふれた物理的な運動である。光の運動は視覚にはまったく何の 規定もされていない階層である。しかし、この階層内でも、光の生成では原子 よりも下の階層の運動があり、反射、伝播には電磁波としての運動の階層で、 空間の条件によって特殊化される運動がある。物理的運動の階層として概括で きるなかにも階層がある。
眼に入った光が屈折し、受光細胞が反応し、神経刺激として反射神経、ある いは中枢神経に伝わり、その反応が運動神経に伝わって水晶体の周囲や、眼球 の周りの筋肉を収縮させる。光を受光細胞が受けてからの運動は、生化学的な 運動の階層である。
しかし、生化学的な運動も、化学的な運動によって実現しており、さらに化 学的な運動は物理的運動によって実現されている。生化学的運動は化学的、物 理的運動を生化学的に統括することで実現する。
しかも生化学的な運動は、それぞれの細胞の新陳代謝を前提にしている。新 陳代謝も、そこには複雑な階層構造がある。これらをべつべに運動させると、 階層構造は崩れ、より基礎的な階層に還元していく。還元を阻止し、生化学的 な運動を維持するのが生理的運動であり、生理的運動を維持するのが生物的運 動である。生理的運動は、生物にとって単なる生化学、化学、物理的運動では なく、生活上の価値をもち、その生活を実現するために統制されている。
生物は多数の段階をもって分類することができる。生化学的運動と、生理的 運動とがまだ区別されない段階のウイルスから、生物的運動が区別されない単 細胞生物もあるる。分類学での区別は交配が可能かどうか等の生物の基準で区 別し、さらに変種、亜種など様々に区別される。しかし、高等生物になると区 別はさらに別の要素を持つ、血液型のように。
生物は物理法則に従ってはいるが、物理法則を超えるものである。水晶体で 光が屈折するのは物理法則であるが、屈折した光が網膜上に像を結ぶように調 節するのは、生理的運動によって光の屈折が制御されるからである。その制御 も生化学的、化学的、物理的運動を介して、光の透過する角度を物理的に変え ることによっている。物理法則を変えることはできない、ということでは物理 法則に従っているが、像を結ぶように、光の運動の条件を制御しているという ことでは、物理法則を超えた運動をしている。
しかし、諸階層の関係はより基礎的な階層から、より発展的な階層へと、単 純に上下関係にあるわけではない。生物の運動であっても手足等を動かすのは、 骨格と筋肉によって構成されるテコの関係であり、これは物理的運動である。 歩けるのは足と地面とに摩擦があるからである。そもそも生物がその体躯を支 えているのは物理的運動である。
生物は無数の階層をなす運動を統括する個別として生活している。
さて、生理的運動としては、光を見ているのであるが、生物としては対象を 認識し、それに対する行動をする。空腹時にえさを視認すれば食べようとする。 満腹であれば無視する。よほど発達した生物でない限り、図書などは視認の対 象にすらならない。図書は投げつけられる時に初めて、危険の対象となる。
生物の認識という運動階層にあっても、そこにはさらに、内に階層がある。 生理的、生物的諸階層に連関した認識の階層がある。
人間の視覚の場合には、さらに知識と連関する認識の階層がある。
人間は生理的、生物的に連関のないものであっても、知識と連関させ、視覚 の対象とする。対象を、これまでにえられた知識と比較して知覚する。その知 覚の結果を評価し、自分の生活上意味のないものであれば無視する。対象が不 明であれば、不明な部分を解明すべく行動する。
ところで、知識自体も階層構造を持つ。知識も世界の反映であるから、当然 に階層構造を持つ。しかし、知識は対象の階層に連関した階層だけでなく、対 象の階層性をも対象とする知識階層をもつ。
人間は不明なものに対して、生理的に目をこらすこともすれば、生物的に位 置を変えることもする。これらは生理的、生物的運動ではあるが、不明なもの に対する解明のための運動として統括されている。
しかし人間が人間としてあるのは、そうした生物的活動ででなく、道具を使 って見、対象を変化させて見ることによる。動かし、分解し、組み合わせて 「見る」。
人間の視覚は人間のものとして統括されている。可視光線の範囲と区別、光 の強弱の見える範囲、視野、これらは人間の生活の中で進化をとおして決って きたものである。しかし人間は、道具を使うことによって、この限界を超える ことができる。目視としては、あい変らず見える光の範囲内であるが、それを 超えた部分を見える範囲内に変換して見ることができる。電波望遠鏡、電子顕 微鏡、核磁気共鳴装置等。
さらに、人間の知識は、その人の属する文化によって規定されている。知覚 した対象の評価、不明な部分があるのかどうか、これらはその属する文化と連 関している。
すなわち、視覚を例にとっても、人間の場合には単純な、基礎的な、物理的 諸階層から、文化の階層までと連関し、それらの階層構造をもって人間の視覚 がある。
人間の視覚はこのような階層性の概観を例示してくれる。しかし、視覚は人 間の認識能力の一部分であり、人間活動の重要ではあるが一部分でしかない。 視覚は認識の一部分として位置づけられており、人間全体の中でそれなりの階 層を成す。人間存在は視覚だけでなく、その様々な機能、能力を複雑な階層に よって実現し、しかも人間存在として統合している。人間は人間として人間と 区別される社会関係の中にあり、また他の動物、生物から区別され、他の物質 から区別される存在である。
人間は視覚によって対象を見るだけではない。対象に反射する光の色、量の 変化を見て、その光源の運動までも認識する。太陽を直視しなくても日の出を 知る。日の出前であっても、どれ程前であるかを知ることができる。壁のシミ に人の顔を見たりする。
後者は視覚を含めた人間の認識能力であり、はるかに他の生物の限界を超え ている。
人間が生物でありながら生物を超えているのは、文化を持っているからであ り、それは世界を認識し、世界を再構成し、世界を変革しているからである。 世界観はその表現である。
ただし、ヒトが生物から進化し生物を超えた人間になったのは、世界観や文 化を持っていたからではない。世界観や文化は、人間への進化の結果でしかな い。
【システムとしての階層構造】
つけくわえておくなら個別と階層の問題は、システム論の一般的基礎をなす べきものである。
システム、すなわち系とは、複数の構成部分が相互作用、相互依存の関係を なし、その相互関係が他の系に対して自立的であり、系の間でも相互に作用す る構造をいう。
システムを構成する部分は、そのものとしてシステムであり、より基本的構 成部分からなっている。システムの各構成部分は自立性をもち、その内部の運 動を統制する自律的なものである。各構成部分は相互に自立的であり、かつ対 象性をもつ。すなわち相互作用をする。その相互作用を統括、制御し、相互作 用の結果をシステムの他に作用させる。
システム論は各構成部分の相互作用の関係を、質的、量的に決定するもので ある。相互作用の統括、制御の関係を質的、量的に決定するものである。この 量的変化が全体の相互作用を規定する量的関係と、量的関係が限界を超え、新 しい質として現れる相互作用への移行を決定する。これがシステム論の課題で ある。
つまり、階層性の問題は単に世界を理解するための整理棚ではなく、現実の 諸運動の構造を明らかにするものでなくてはならない。
第二部ではは、個別科学の諸成果は世界をどのように説明しようとしている のか、そこでの世界観としての問題を整理する。
構成の順序は第一部とほぼ同じであるが、系列の問題があって一連続ではな い。内容の構造的、時間的尺度に差がありすぎるので分割し、重複させねばな らない。
【物質進化の系列】
いわゆる主系列と呼ばれる物理系は宇宙進化と、極微から無限大への連続し た宇宙史の尺度でたどる。その中で発生し発展する生物は、宇宙史の必然的部 分ではあるが、宇宙史の尺度で生命進化の構造と歴史をたどることはできない。 いわゆる枝系列と呼ばれる生物系は一端主系列の中で、主系列の尺度で位置づ けて全体を見る。そのうえで、枝系列の尺度で、主系列からの連続性をふまえ て枝系列をたどる。ただし、この幹枝の関係は実態的分類ではない。枝系列は 存在として主系列から独立したものではない。
さらに、枝系列の先で人類社会がまた別に系列を形づくる。ヒトの進化は枝 系列の生物進化の一部分であるが、ヒトが人間として社会性と現実変革の力を もち、文化としての歴史をなしている。ただし、これらの諸系列は木の枝とは 異なり、物質の運動の発展として一貫している。
【人間の位置】
人間の位置づけは三重になる。
人間は生命史、社会史と文化史に位置づけられ、しかも、それぞれ統一され て人間を形づくられる。
人間の存在の基礎はすべて生物としての存在である。それ以外ではありえな い。いかに超自然的な精神活動も、生物としての生命活動を基礎にしている。
しかし生物でありながら、人間は人間社会において人間であり、人間社会の 中で誕生し、その中で育てられることによって人間となる。人間は社会的保護 がなくては、生物としての生命維持すらままならない。逆に人間としての存在 が、ヒトの生物としての存在を大きく規定しているのである。
そこで、生命史の中で、生物種の生活形態の特殊な発展段階としての人間社 会の成立と、人間性の成立を問題とする。
ついで、あらためてその人間社会の歴史の基本的なところを整理する。自然 科学に比べ、ここでの社会科学のとりあげ方は詳しくなるが、われわれ人間に 関することであるからバランスの崩れもやむをえない。
ところで、個体としての人間は社会的人類の歴史の中、ここでは生命史の特 殊段階の中でとりあつかう。個体発生は系統発生を繰り返すかどうかはともか くも、個人の精神的成長も人類の文化的歴史を辿るようである。人格も社会的、 歴史的なものであり、個人、個性も社会、歴史の中で考慮されねばならない。
文化についても同様である。生物の歴史の単純な延長線上にはないが、延長 線上にある社会性と、その中から発展した人間性によって文化が形成、発展し ている。
この意味では、人類史も枝系列の一部として含まれる。しかし、自然史のな かから生物が誕生したことと、生物史のなかから人類が誕生したことは、同程 度の重要な発展である。ここの第二部では人類の成立とその文化について、生 物史に連続してとりあげる。それは、生物から人間への飛躍を踏まえたうえで の連続である。その飛躍以上に、われわれにとって当面する人類社会の運動、 歴史が重要になる。
【第二部の構成】
ゆえに、第二部は第三編までの前半で宇宙史、生物史と、そのなかでの人類 と社会の誕生という自然科学から文化人類学の対象までの発展を対象とする。 後半第四編で社会と社会の歴史としての社会科学を対象とする。
あらためて第二部を概観するなら、宇宙史の中で自然の発展が自然自体を認 識し、さらに発展していく運動、この大運動の歴史と構造の発展過程を統一的 にとらえようという試みである。
【人間社会の位置】
第二部で重点となるのは人間とその社会の問題である。個別科学はこの問題 をその内部から見る傾向にある。それは、自然史を前提とする場合であっても、 前提として切り離し、視点は人間とその社会の固有の問題に集中してきた。
人間と社会の固有の問題であっても、人間存在の社会性、文化の物質性につ いて常識化されていない。人間は社会的動物であるというのは、個人そのもの の存在が、その誕生以前から社会性を前提として誕生し、生活すること、個人 と社会は対立・敵対するばかりでなく、統一されるべき存在でなければならな い。
文化は非物質的な存在ではなく、物質的基礎をしっかりと持ち、人間社会の 物質的運動と密接に結びついていることが強調されねばならない。特に科学に ついて、これを科学者の研究結果の集合程度に歪小化してはならない。科学は、 人間社会の認識活動の主要な部分として、広く現実の社会運動としっかり結び つけ、広義に理解すべきである。
こうした方向は、社会有機体説的臭を連想させるが、有機体ではないが社会 の独自の運動形態を認めるべきである。
現実には人間とその社会の問題も、より広い自然の問題によって外へ眼を向 けざるをえなくなってきている。すなわち、核戦争の危機、核兵器の蓄積は人 間とその社会の根源的絶滅、さらに地球の生物環境の決定的破壊の可能性を増 大させている。環境汚染、砂漠化、都市問題と合わせ、二方面からの人間とそ の社会の存立条件を脅かし始めている。これらは、経済問題として、政治問題 としての枠を越えようとしている。
これらの問題は、人間とその社会の中からの視点のみでは解決できない。人 間とその社会を、自然史全体の中に見なくてはならない。これらの問題を、政 治課題、社会問題から放棄するのではなく、政治、社会問題の方法論を拡大す るのである。
【社会的物質代謝】
その為にも、社会的物質代謝の概念を検討せねばならない。人類の存在は自 然の運動の一部分を占め、自然の力を噛り取るようにしていた時代は過ぎ、少 なくとも地球規模での自然の運動は、人間が決定的な要素になってきている。 物流は経済学の課題にとどまらず、人類社会の物質代謝の問題になっている。
この社会的物質代謝の検討が第二部の大きな特徴になる。
【科学の位置】
ところで、第二部は個別科学の成果を検討整理するが、当の科学をどのよう に理解するかも主要なテーマである。いわゆる科学論であり、本論でも扱わね ばならないがあらかじめ概要を述べる。
要は、先にも述べたように、科学は人類文化のひとつであり、重要な主要な 人類の社会的認識活動である。
科学は研究、普及、実用、教育それぞれの社会的組織によって担われる社会 的活動であり、どんな天才の発見、発明も、社会との結びつきがなければ実現 しない。またその成果も、論文等の言語によって表現されることが中心である が、言語そのものからして社会的存在である。科学は技術と結びついて現実的 力となる。現実の社会活動の一部分として科学はある。決して観念的なだけの 存在ではない。科学は、科学者の頭の中だけ、あるいは個々の人々の知識を超 越した真理などというものではない。
社会を有機体にたとえるなら、科学は認識機能の主要な部分である。他の社 会的認識として報道媒体、宗教、芸術等々があるが、思いこみ、欺瞞、錯覚な どを正し、現実世界を再構成しうるものとして科学がある。
狭く科学をとらえても、科学はその研究予算の配分制度、予算権限といった ことや、日常的な応用、応用の結果のデータ、データの収集、交換、評価、新 たな問題の提起等々がなくてはならない。また、それを担う研究者、解説者、 教育者、次世代の研究者としての被教育者がいなくてはならない。
【科学の社会的責務】
また、社会的問題として科学は反科学、非科学との闘争という課題をもって いる。科学・技術の発達の歪みを科学の原罪とし、人々の科学を無視し否定し てしまう傾向を助長し、人々の眼を現実から晦ましてしまう反科学。科学が総 てを解明できていないことを根拠に、日常の不合理を正当化したり、科学以外 に世界を認識する方法があるかのごとく宣伝し、人々を空想の世界へ追いやる 非科学。これらは、科学の発展を阻害するだけでなく、科学の存在をも否定す るものである。
こうした科学をとりまく環境をも含め、社会的なものとして見なくては科学 の発展は歪められてしまう。
科学の方法もますます巨大化しており、またその影響力も人類の未来を左右 しかねない。科学は現実社会の問題である。
【個別科学と世界観】
第二部は個別科学の成果を正しく反映しなくてはならない。個別科学の成果 を世界観の中に取り込むことは必然である。しかし、世界観を問題とする者に とっては大きな危険を伴う。
個別科学の成果を先取し、世界観から演繹し、推測しえるなら、その世界観 の最高の宣伝になる。また、世界観の方法論が、個別科学に研究方法を提供し、 新しい成果の導きになることが期待されていたりする。
しかし、正しい世界観に基づこうが予言は科学的意味をもたない。かといっ て科学の先端を見ていなくては、その世界観は陳腐化してしまう。
それでも、個別科学の導きの糸となりえなくとも、世界観により、それぞれ の問題の位置づけをしておくことは大切である。少なくとも、個別科学の成果 をとおして世界を理解する時に、主観的、偶然的誤りを除くことができる。ま た、研究過程での選択を巾広くし、誤りの確率を下げることができる。
個別科学にとってSFと同様に、世界観は科学者とその卵の夢を育むもので ある。
第一部では自分と世界の関係の枠組を確かる。第二部では自分を含めた世界 のあり方を確かめる。第三部ではこれを受けて、世界の中で自分はどうあるべ きかを検討する。第三部は実践論である。
注17
第三部の構成は、今日の「私」の属する社会の歴史的位置づけと、社会構造 を取り扱う国家独占資本主義論。そこでの社会的力関係を取り扱う情勢分析論。 そこで提起される諸問題の体系化を取り扱う課題論。それを実現する組織、運 動を取り扱う主体論。そして最後に、これらを具体的に引き受ける個人が問題 とする実践論。これら5篇によって第三部は構成される。
第一篇、国家独占資本主義論は第二部の延長線上の社会についてであるとと もに、第二部での社会をより具体的に、今日の特殊性において分析すべきもの である。
以下それぞれの篇別に要点をまとめる。
【第三部第一篇 現代世界】
資本主義の最高の発展段階としてのものにとどまらず、社会主義と対立し、 いわゆる低開発国を収奪する現代社会についてである。
資本主義の独占段階における経済論。その経済を制御しようとする権力につ いての国家論。これらを具体的に実現する人々の関係についての制度論。さら にこれらから発生し、これらすべてを包み込み、ひとつに形成しようとする文 化、イデオロギー論。
すなわち、第一篇は第三部の主体、あるいは実践論としての現状認識である。
【第三部第二篇 情勢】
第一篇が個別科学の成果を整理するのに対し、第二篇ではその活用方法を取 り扱う。
現実の社会をより具体的、より正確にとらえる方法と、その実用にあたって の要点についてである。
要点として、国際情勢、国内情勢、地域、職域、その他での情勢分析。それ ぞれの階層における問題点についてである。方法として、一般的な階級構成論、 情勢の表現手段についてである。
【第三部第三篇 課題(社会生活)】
このような世のなかで、人が生きていくうえでぶつかる諸問題が人間が生き ることとしてどのような意味があるのか、どのように解決されるべきかという ことである。
また、世界観を日常に具体化していくうえで解決しなければならない課題を 数えあげ、それらの体系を整理しておくことも主要な問題である。
人類の直面する平和の危機の問題から、日常生活での政治問題、生活してい くうえで避けられない職業上の問題から、保育、家事分担の問題まで、個人が 生きていくうえで負わねばならない課題は無数にあり、しかもその質は多様で 比較し整理しておくことは重要な問題である。
さらに、これら諸課題を社会的に解決しようとする運動上の問題がつけ加わ る。
これらの諸課題は並行して追及すべきものもあるし、専門として取り組むべ きもの、継時的に処理すべきものもある。逆に見るなら、どのように合理的に、 誤りを犯さずに手抜きをするかということである。
したがって具体的になる程、個人的特性が出てきてしまう。
【第三部第四篇 (社会的)主体】
情勢、課題が明らかになれば、運動をいかに発展させるべきかが問題になる。
政治的主体、社会的主体の形成について、個々人の態度について、すなわち 組織論である。
運動の制御について、社会的、組織的な運動を合理的に運営していくために 注意しなくてはならない結節点での問題について。具体的には意志統一、任務 分担、点検、総括上の諸問題の要点について、すなわち運動論である。
【第三部第五篇 実践(人間性)】
情勢、課題、主体については、順次に取り上げるものではあるが、一度経れ ばよい筋道ではない。何度でも繰り返される手順である。
現実にはそれぞれの過程が相互に働きあって実践を構成する。検討した必然 性と、現実の偶然性がぶつかり合う実践の場がある。実践のうえでの相互関係 を、最後に総括しておかなければならない。
そして、この実践の場での個人的対応における問題について、すなわち規範、 道徳についてまとめる。
【実践指針】
実践、生活の中で求められる判断は、世界観の問題の提起でもある。特に子 育てに関わる問題は地域問題、社会問題、教育問題、政治問題等であると共に、 生き方、世界観を問われる。
個人的事柄として放置すべきではなく、社会的問題であり、人類史に影響す る問題が次々に提起されているのが現実の生活である。
第一部は生まれ育ってきた自分の想念を整理するための手続きにすぎない。 世界の体系については第二部と第三部の対象である。
第一部の観念的・思弁的内容は結果としては意味をなさない。しかし、「意 味がないこと」を明らかにするために経なければならない手続きであり、世界 観として必要な前段である。世界観は第二部、第三部の世界の体系と、体系自 体の成り立ちとしての第一部をとおしたものとして成り立つ。