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第14章 個人の生き方

 個人として生きることを強いられている社会、地域共同体が破壊され、住民 が流動化し、入会い地等の共同財産、集会所等の共同施設が個人、組織に所有 され、相互扶助が成り立たなくなった社会。家族規模が縮小し、核家族化によ り家族の共同作業が商品市場化し、個人にまで分断された社会。個人として家 支配から解放された社会。
 個人で生活上の諸問題を判断し、契約を取り交わし、危険を負担する。事故、 病気等の危険に対しても、契約に基づいて保証を手に入れる。個人の責任では ない天災に対し、人々の生命、財産を守はずの国家が、保障の責任を果たそう としない社会で生活する。自己実現ではなく、自己を社会の契約に結びつけ、 維持することが生かされることのすべてになってしまった社会。
 それでいて、競争によって生活手段を得、競争によって発展する社会。競争 に参加できない者は人間として認められない。ハンディキャップを負う者は実 際競争に参加できず差別される。

 社会が提供する価値観を疑問ももたずに受け入れる。社会の提供する価値観 ・価値基準によって評価されるあらゆるものを商品価格で売買して生活する。 言い値に問題意識を持たない「過剰適応症候群」的生き方、その価格暴落によ って「燃えつき症候群」に陥る。
 自己実現の要求に忠実であろうとし、私的生活、内面生活を社会から隔離し、 孤立した王国を築き上げようとする。社会の状況に左右されない孤高の「人格」 実現を求める。社会から家族を守ることを目指すマイホーム主義。刹那的行動 に人生を賭けることで、自己実現を実感しようとする。これらの傾向の間に揺 れ動く個人の生活。

 個人の力ではどうにもしようのない現実に対し、現実を変革することで個人 のあり方を変革する。

 

第1節 生活基盤

【社会的存在】
 生活は社会的物質代謝に参加することによって実現する。主義主張に関わら ず、商品取引によって生活手段を買い入れ消費する。商品取引を中心とした契 約によって関係づけられた社会制度の中で生活する。この社会体制の変革を求 めるのも、この体制の中からである。
 別の所に新しい体制を作り上げてから引っ越すことはできない。この体制を 飛び出して別の体制を作り出すこともできない。この体制の中で、成果を継承 し、問題を解決しながら新しい体制の運動を作り出し、条件を整える。

【社会的地位の獲得】
 社会的地位を得て生活することができる。社会的地位に応じた責任を果たす ことで社会的に存在する。
 社会的地位は生活の保障だけではない。社会的地位は権限、情報、機会、経 験ももたらす。自らの生存を保障するだけでなく、社会的主体としての自己実 現を保障する。
 自らの能力を実現できる社会的地位を獲得する必要がある。地位にふさわし い能力を発揮しない者に代わって、その地位に就くべきである。ただし、自分 の能力を、自分の意志と責任で実現できなくてはならない。その地位に就くこ とで報酬が増えようとも、自分の社会的影響力が拡大しようとも、自分の能力 で実現すべき価値を傷つける地位、価値を失う地位に就くべきではない。

 社会的地位は固定的なものではない。分野も、権限も固定されていない。地 位そのものも不変ではなく、再編成される。社会組織そのものが変化する。
 地位に固執することなく、よりよい地位を得、できることなら自らの地位を 作り出す。

 

第2節 生活手段

【生活での理論】
 考え無しに行うのは愚かしい。考えるだけでは何もしないに等しい。
 経験だけでは進歩はしない。経験なしの生まれた時から生きる意志によって 経験を積み重ね、自己を実現してきた。自己実現の方向を意識することによっ て、成長してきた。自己の方向性は世界を理解し、自分を理解することによっ てより確かになる。世界の理解、自分の理解は理論的作業である。
 生活は気まぐれでは実現できない。将来を見通すことによって、自分の生活 を設計できる。生活設計が現実をよりよく反映した理論によって具体化される ことで、確かな生活実践が可能になる。
 知識の獲得、知識の利用、情勢分析、課題設定、戦略戦術判断、主体条件の 整備、点検、いずれにおいても理論的裏づけ、理論的作業が必要である。

【実践の純粋性】
 個人は環境の中に生まれ、環境の中で育てられる。どの様な環境であれ、人 類の一員として、現代の国家の構成員の一員として、それぞれの経済、社会の 構成員として実践課題は与えられている。
 与えられた環境だけでなく、環境そのものを選択することも一つの実践課題 である。最も捨象した論理に従えば、今現在のもっとも矛盾の激化している環 境を選択し、そこで生き、闘うべきである。ということになる。しかし、これ は論理的にも正しくない。
 主要矛盾だけによって現実が規程されてはいない。主要矛盾は決定的ではあ るが、すべての矛盾の集中的発現であるから主要なのである。主要かどうかは 現実性の基準ではない。すべての矛盾が現実的課題としてである。主要矛盾は 相対的なものであって変化しうる。また、心ある者が、すべて主要矛盾に集中 したなら、戦術的な敗北が戦略的敗北に転化してしまうだろう。敵は大義名分 など捜さずに千載一遇のチャンスとばかり、一網打尽を狙うだろう。
 人それぞれに特性がある。それぞれに向いた課題がある。それぞれの能力を 最大限に発揮できる環境を選択することが基本的な基準である。それぞれの配 置で果たすべき役割がある。
 ただ情勢によっては、それぞれの能力の向き不向きなどに関わらず、人間で あることを唯一の判断基準として、与えられた課題に取り組まなければならな いこともある。それを躊躇するのは日和見である。現在までの経過の中で与え られ、選択してきた課題に取り組むことは日和見ではない。

 

第3節 生活力

【個人の力】
 人の偉さの尺度は能力ではない。
 個人の能力は基本的に個人の責任ではない。個人の責任は個人の能力の活用 の仕方、およびその能力の伸ばし方である。
 社会的地位は個人の能力によって与えられることになっている。したがって、 社会的地位によって個人の価値が計られやすい。しかし社会的地位がいかに高 くても悪人はいる。むしろ悪い社会で高い地位に就く者はそれだけで悪い。悪 を承認するからその地位にいる。
 悪人と決めつけることはできなくとも、社会的地位がどれ程高くても、どの 様な職についても、いい人間も悪い人間もいる。善悪に限らず個人の性格の現 れのほとんどの形式が、ほとんどすべての社会的地位、職の中に見いだされる。
 同じ環境であっても同じ性格にはならない。しかし、環境が悪ければ、必ず 悪い人間が生まれる。社会環境の悪さの程度によって悪い人間の程度も数も大 きくなる。社会環境と個人の性格に個別的相関はみられなくとも、統計的必然 性は存在する。

【生物的能力】
 物質的、生物的能力差は人によって大きくは違わない。誰にとっても1日は 24時間であり、身長は大きくて2m数十cm、体重も多くて200kg程。物質的、生理 的能力の差はどんなに努力しても何十倍もの差にはならない。成果として何百、 何万倍もの差ができ、想像すらできない差が結果するのは、個人の物質的、生 物的能力の差によるものではない。それは、持続力と社会的力による差である。
 単純に計算して、単位時間当りの能力が同じであっても、倍の時間継続させ れば倍の結果をえる。
 生活環境、地位、手段、条件によって差ができる。それらを手に入れ、活用 する才能と努力は人によってそれほど違わない。どの様な天才も個人で社会を 支配はできない。互いに利用し合う集団がなければ支配はできない。例えでき たとしても、せいぜい数十年である。

【社会的能力】
 人間の能力の現れの差を拡大するのは社会的力である。個人が世界を支配し、 国を支配できるのも社会的力による。
 社会的力は技術進歩、科学の発達には関わりない。社会的力は人間間の関係 によってつくられる。社会的力は人間間の相対的関係によってつくられる。科 学・技術は部分的に格差を生むことはあっても、社会の普遍的力であり、人間 間の相対的関係には作用しない。
 社会的力は人を支配し、社会的地位に就くことだけによって獲得されるので はない。協力をえること、共同を組織すること、支持をえることによって社会 的力を増大することができる。

【知的能力】
 知的能力は記憶力だけではない。推論能力だけでもない。情報能力としての 全体である。情報の収集、評価、蓄積、検索、加工、伝達の全体が情報能力で ある。
 知的能力の成果に飛躍はあっても、能力そのものには普遍性がある。情報処 理機器の中心であるコンピュータの能力に桁違いの差があり、ますます高めら れているのと違い、人間の知的能力は生理的に条件は与えられており、能力差 は開くことはない。
 ただし、情報運用の訓練によって知的能力は高めえる。情報能力は情報処理 機器の操作技術でも、プログラミング技術でもない。情報能力は情報そのもの の操作である。データの意味と形式に精通すること。データの加工方法、加工 手段に精通すること。データを変化させる可能性と、その価値を評価できるこ とである。
 情報の蓄積も大容量化する。蓄積された情報、記録は量だけの問題ではない。 個人的に蓄積しても限界がある。それぞれに蓄積したものをネットワークを介 して相互利用することによって、個人的蓄積の限界をはるかに超えることがで きる。
注53

 知的能力も現実を前提として、成果も現実の媒体によって表現される。飛躍 的で新しい成果も次第に一般化する。言葉の操作、計算が極一般化された能力 であるように。当初数人しか理解できない最先端の科学的成果も、やがて科学 者の間で基礎的な知識となり、一般に評価され、解説される。

【人間の力】
 人間の能力の差は健常者と障害者の格差として問題にされる。誰でもが認め る客観的違いであるとされる。しかしその差は特別の健常者と、特別の障害者 を比べることによる差である。健常者の間にも、障害者の間にも差はある。一 人一人の違いは差として連続している。健常者と障害者の区分は社会保障等の 制度的、便宜的区分にあるにすぎない。
 健常者といっても心身にどこにも問題のない人は希である。その希な人でも 一生問題なく過ごすことはできない。生まれたときは保育されなくては生きて いけない赤ん坊であった。最後は病気でなくとも老衰する。
 障害があっても医療、情報技術の発達によってその障害は克服の可能性を高 めている。医療、情報技術を手段とし、周囲、社会環境の整備によってそれぞ れの能力を実現しえる。

 

第3節 よりどころ

 生きる「よりどころ」は初めは誰にも与えられている。生物として、人間と して、その時代のその社会に生まれたところが「よりどころ」となる。しかし、 人間は自己を確立する過程で自己自身の「よりどころ」を確立する。与えられ た「よりどころ」から出発して、自分自身に与える「よりどころ」を創り出す。
 「よりどころ」は出発点であり到達点である。「よりどころ」がなければ意 志実現の場を得られない。意志自体「よりどころ」によって成り立つ。

 自らの評価基準、価値観により社会を評価し、その中に自らを位置づける。 世界観、社会観を獲得し人生観を築く。自分自身の評価基準、価値観の設定と、 それに基づく価値の実現とは相補的であり、一方のみ、あるいは両者の区別が 無いのではない。
 組織、職階、趣味、富、資格にもとづく価値評価は客観的である。しかし、 客観的であっても歴史的・社会的制約がある。「客観的」であることは「既成」 である。保守・革新いずれであっても、客観的価値観は既成の価値観であり、 普遍性はない。自らの、あるいは社会的無知、偶然、全体の変化の中で既成の 価値観の崩壊、瓦解は個人的には避けえないものである。

 生活態度、判断基準等に対する周囲の支持、共感といった主観的価値基準も ある。
注54

 人の感情・意志に対する感受性。人の創造性に対する感受性。いつでも交歓 できる文化的環境、活動的な充実した生活。価値に対する感受性を知的に、組 織的に、可能なら制度的に保障することによってより確かなものにできる。主 体的価値基準として、現実的で確実な価値をえることができる。
 属する社会が反動化し、堕落する中では日々まじめであることが大変な努力 を要する。
 よい仕事をしようとする努力、よい仕事と判断する基準を明確にしておくこ と、そのこと自体が困難になる。
 善であろうとする意志をくじく人、事柄の方が増える。積極的悪人ではなく とも、善に無関心な、善の価値を否定する人が増える。励ましてくれる人、事 柄がなかなか眼につかなくなる。
 空間的、時間的に離れた人であっても人間としての実績によって、お互いを 励まし合うことができる。人間としての実績を理解し、評価できることも、み ずからのよりどころを確信させてくれる。

 

第4節 自己実現

 「よりどころ」に依拠し、「よりどころ」を出発点として自らを現実に創り 出す過程が自己実現の過程であり、自己形成の過程である。周囲に評価された 結果と関わりなく、結果を創り出す過程に現実と自己を実現する。結果と過程 が一体となる、自己完結的な過程で人は充実し、過程に夢中になる。

 理想は「理想」としてあるのであって、現実そのものではない。誰も「理想」 の世界に生きることはできない。「理想」と現実の関係を関係として、一歩下 がって「理想」を現実化する過程が理想の生き方である。「一歩下がる」視点 が「理想」と現実の対立関係を超えた関係、次元を変える。実践的生き方、理 想、理念を現実化する生き方を可能にする。
 理想を実現することは、現実変革能力の実現である。対象を変革することは、 自己を変革することである。特に社会関係にあっては自己変革が周囲の社会関 係を変革し、社会全体の変革に通ずる。同時に自己変革は内省によるのではな く、自己の社会関係から自己を規定しなおす過程である。現実変革は自己変革 であり、自己実現である。現実に合わせて自己を欺き、現実を受け入れてしま う自己規制ではない。理想を空想する観念的逃避ではない。
 人間にはすべて現実変革能力が備わっている。人間にはすべて自己実現能力 が備わっている。しかし、すべての人の自己実現が評価されるとは限らない。 評価基準が画一化され、それも男の企業戦士が人間基準となった社会では、そ の他の者の自己実現が評価されないどころか、自己実現の可能性すら潰されて しまう。
 すべての人間が自己実現を認められる社会を、軟弱な非生産的理想と否定す る者こそ自己実現・自己変革能力を失った者たちである。

 

第5節 節操

 どの様な状況にあっても、自分に対して、そして人類に対しての節操を基準 に考えることが大切である。すべて敵対する人々に囲まれ、暴力も含めすべて の力で相手が威嚇しても、大切なのは節操である。
 節操を守ることは、スーパーマンになることではない。絶対に裏切らないと か、死んでも真実を曲げないとか、そんなことを自分に期待したらつぶれてし まう。自分に妥協せず、負けは負けて節操を守るべきである。
 恐いのは日常的な堕落である。敵対する者と直接していない、甘やかされた 環境での自分自身による堕落である。具体的攻撃の無い時、困難が無い時ほど 自ら隙を作りやすい。実際の攻撃にもろく破れることも惨めだが、自壊するこ とも惨めである。
 自分の生活の重みは重力井戸のようである。活動エネルギーだけでなく、意 志までも引き込んでしまう。どの様に立派な業績を残した人であろうと、壮大 な理論を展開した人であろうと、この重力井戸の影響を受けない人はいない。 しかし、地球人にとって、地上で生活している時に地球の重力は普通苦になら ない。現実を踏まえていれば生活の重みは意識されない。
 節操を守るということは、教条的になることではない。日常生活の中でも大 切なこと、日常生活の中で人類的価値と一致するところを守ることである。世 界政治の大義名分ではない。それでも誤りを犯したら、自ら正すことである。

 自らの判断力に対する心理攻撃に対しては、攻撃開始の時点での判断を教条 化することもひとつの自衛手段である。常日頃、自分の判断力が歪んだり、揺 らいだりする時の兆候、指標を知っておくことも必要である。

 不正が許されることを、自らに許すことは現状肯定につながる。我々にとっ ては重大な自分自身の不正も、現社会を支配するものにとってわずかな不正で ある。わずかな不正を黙認することによって、我々が不正追求に向かう意志を くじく。
 我々に現在の立場を維持しながらできる不正は、慣習的に認められているこ ともあれば、程度の基準の取り方によってどうにでもなることもある。制度的 矛盾を不正な手段で是正する必要もある。しかし、その不正を自らに許すこと は他人の不正を許し、巨悪の不正を許すことにつながってしまう。

 個人の生活体験から世界全体の状況を把握することはむずかしい。困難な状 況、展望がもてない状況。獲得してきた世界観と、現実との対応ができなくな った時。主要な問題を見定めることが困難になる。価値観のぐらつきである。

 広大無辺の宇宙、悠久の歴史、複雑な社会、次々と現れる生活課題。これら を一人の人間として受け止め、理解し、判断し、行動する。
 バラバラに分断され、切り捨てられようが、誤りを犯そうが、結局一人の人 間として生き、自らの責任で生活し、生き方を示さなくてはならない。どれ程 正しく統一された人格を実現するか。少なくとも子供に、家族に、友人に示さ なくてはならない。

【暴力】
 暴力に狂うのは人間だけであり、人間性を否定するのは人間性ゆえである。 人間性をも否定してしまうのが人間性であり、人間性を高めうるのも人間性で ある。
 暴力自体が目的になった暴力。薬物等による錯乱を原因とする理由なき暴力。 暴力を合理化する戦争等の過程における抑制を失った暴力。テロル。
 人間性を本人の態度、行動で破壊させる攻撃。人間性の実現を、発展を否定 する暴力。創造性、協調性を否定する暴力。
 個人的サボタージュ、横領、欺まん、そして自分の社会的立場を理解しよう としない自己中心性。これらも、社会関係、人間関係を破壊する暴力である。
 暴力の行使者自体の非人間化と、その非人間性へ被害者を巻き込む状況に対 し、直接、間接の被害者として、社会の一員としてどうするのか。自分の子供 に対してこうした暴力が向けられたら「考えを整理して」などと言っていられ るのか。「暴力の存在はやむをえない」と言えるのか。「暴力否定はきれい事」 などと言えるのか。たんなる事件の報道、フィクションでしかなかった暴力に 遭遇した時どうするのか。

 自分が攻撃の対象とされた場合。相手が絶対的な力を持つ場合、相手に勝と うなどとしても、相手をだしぬこうとあせっても、それは相手を刺激するだけ である。主観的にならず、憶測を避け、自分が得ている条件の中で最善の対応 を選択すること。少しの妥協が、決定的破滅につながることとし、開き直って、 自分の人間性だけを守ること、誤りを犯したら直ちに立ち戻ること。日常では 多少の誤りも、意識的な誤りも許される。しかし、彼らの暴力に対して、自分 の少しの誤りも自らと、自らの人間性を失うことになる。彼らに捕まったら、 「何とかなるかもしれない」「こちらの弱みの全部が全部知られているわけで はない」などとあなどらず、知りえる、自分に与えられた確かな条件の中で、 最低限守るべき事を確認すべきである。それでも、味方に理解されなかったら やむをえない。自分自身で納得するしかない。
 小中学校の道徳の時間だけの問題ではない。日常的にどこまで対応できるの か。

 暴力はむき出しで存在するものではない。運動の秩序化と散逸化のエネルギ ーの搖れを制御できないことで暴力となって現れる。力の奔流を創造として方 向づける自己訓練と、社会的条件の整備が必要である。暴力行使者を含めた環 境を改善することによって、基本的には暴力を防ぐことができる。しかし、す べての暴力を根だやしにできるほど、現実の環境を改善できないし、効果の速 効性はない。環境の改善が別の形の暴力に転化するだけの場合すら多くある。 社会主義の理想への改善が、社会主義の否定に転化するように。
 暴力に対して時に断固として実力行使が必要である。しかし、全隊列が、常 に、断固として暴力に対する実力行使の内に抑制できるものではない。抑制で きない実力行使を制御して行使しなくてはならない。
 暴力と直接対決できなくとも、少なくともそうした暴力の存在を許さない態 度が必要である。暴力を根絶する社会的運動の組織化、その方向性が現実化の 始まりであり基礎である。

 

第6節 共動、共感

 実践し、励まし、いたわる。
 人間が類として同じ基盤に立ち、互いの人格を尊重して生活できなくてはな らない。皆が互いに尊敬できる社会は人類社会に普遍的価値であった。侵略に 踏みにじられ、ヨーロッパ人の侵略によって、資本主義の世界体制化によって 否定されたが。

【実践】
 自らの能力を見いだし、場を獲得し実現する。体力・精神力の創造的発露と して自分の存在、運動を実現する。共動することで連帯する。
 自分自身と仲間に対する厳しさ。自律による連帯。実践をとおしての信頼。 自分の社会関係をつくり、拡大していく。
 弱点を補い合う競争で活性する。全体を見渡し、全体の実践条件を整える競 争である。仲間に配慮し、全体に配慮する競争が人間の競争であって、勝利に 満足できる競争である。どれだけ貢献できるかの競争である。相手を切り捨て る競争ではない。

【励まし】
 自らの能力の実現、価値創造は連帯する者を励ます。
 日常生活に疲れ、展望を失った時、同じ気持ち、同じ価値観を持っていなく とも、新しい価値の創造は励ましになる。それぞれの専門分野で新生面を切り 開く、これまでの概念を超える成果を示すこと。自ら価値を創造できなくとも、 価値を評価し、伝えることも励ましになる。
 同じ、より困難な条件、環境の中で自己実現すること、し続けること、また それを見いだし伝えることで互いに励ますことができる。

【いたわり】
 より困難な条件、環境の弱者に対するいたわり。
 本人の責任ではない障害によって差別、切捨てを行わない。本人の責任であ っても、身から出た錆であっても、これから自己実現していこうとするものに 対して差別、切捨てをしない。
 弱者の、他人の条件、環境の困難さを理解、知ること。条件、環境を疑似体 験してみることも理解を助ける。
 できる、可能な援助、協力を本人の自律、互いの自己実現に向けて行うこと。 気持ちだけでなく、可能な援助を即実行できるよう自分自身を訓練する。
 弱者への配慮は弱者の為だけではない。すべての人へが自己実現する環境を 作ることである。健常者が自己実現できる社会は、弱者が自己実現できる社会 でなければならない。健常者が悪条件で働かざるをえない社会では、弱者は一 人前とは認められない。

【成果の確保】
 社会組織として、社会制度として成果を蓄積しなくてはならない。標語や互 いの満足で終わってはならない。物として、関係として成果は蓄積され、発展 させなくてはならない。
 それぞれの能力で社会的物質代謝に貢献する者が、尊厳を持って生活できな くてはならない。最低限度の文化的暮しは、働く者すべてに保障されなくては ならない。
 すべての情報が公開され、すべての課題が議論されるようにしなくてはなら ない。


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