続き 第三部 第三編 第11章 生活の到達点と展望

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概観 全体の構成

   目次


第10章 個々の生活課題

 

第1節 課題一般

 人が生きていく上で関わる問題、課題は個人的に生きることそのものの具体 的な形であり、また成長する過程である。生き方は考え方ではなく、個々の具 体的な問題への態度、処し方である。社会的には階級社会にあって、常に疎外 され歪められることに対する人間の闘いである。具体的生き方として、個々の 問題を歪めることなく対し続けることで人間としての成長が実現する。

【課題の連関の理解】
 生きることの問題、課題は多様な質があり、構造をもち、時間的にも連続し ている。世界そのものを個人の生活諸側面で反映し切り取ったものである。生 活課題は個人の意識、意志に関わらず、現実の世界の関連の中にある。特に 「世界観」などとして問題にしなくても、生きることとして常に問われている。
 それら問題、課題を体系的に、すべてについて理解することは難しい。しか も、生きていくこととして常に意識していることはほとんど不可能なことであ る。だからこそ、世界観の一分野として個々の問題、課題の位置づけ、意義を 一度は整理しておくべきである。

【課題は実現するもの】
 課題は理解するだけではならないし、掲げるだけで済むものではない。
 すべての課題を解決するどころか、個々の課題であっても最終決着がつくこ とは少ない。個々の問題の決着はあっても現実が続き、生活が続く限りどの課 題も新しい問題として再びあらわれる。
 それぞれの課題に対して、すべてを一括して解決することはできない。個々 の問題に対して対処しなくてはならない。基本的問題と派生的問題、恒常的問 題と一時的問題、普遍的問題と分野別問題、日常的問題と緊急の問題と整理す る基準は一つではない。さらに現実には優先度と段取りによる処理の順番づけ として、複数の基準がある。現実における優先度基準自体に実践的組合せを逐 次見直すことが必要になる。優先度と段取りによって優先順位が判断される。 優先順位は事前に評価されるが、一つ一つの処理の度に状況の変化に応じて評 価され直されねばならない。
 課題を実現するには優先順位にもとづいて時間と資源、自分の能力を振り分 けて集中しなくてはならない。

【課題をとおしての連帯】
 個々の問題で対立する対応がある。それぞれの社会的地位によって立場が異 なる。それぞれの価値観によって立場が異なる。社会的地位を位置づける基準 軸と、価値観の基準軸の2軸によってそれぞれの対応が異なる。
 個々の問題に対して基本的対立は二律背反である。殺す者がいれば殺される 者がいる。殺人を認める者がいれば殺人に反対する者がいる。より多くの利益 を得る者がいればより少ない利益しか得られない者がいる。利権は得る者がい れば失う者がいる。具体的には一つの問題であっても関係者それぞれの対応が 異なる。対立する2極の間に様々な位置をとりうる。人の数だけ違った立場が ありうる。
 しかし、現実は一つであり問題はいつか解決されねばならない。いづれかの 立場が勝利し他は敗北する。勝利する立場を選択することも一つの生き方であ る。勝敗とは関係無しに、価値観に基づいて立場を選択することも一つの生き 方である。価値観に基づいた選択であっても価値観によって生き方は異なる。 逆に価値観の選択が問われる。
 価値観の選択は、結局生きることに関わるすべての課題を一つの生き方とし て統一できる立場が選択されるべきである。生きることに関わるすべての課題 を統一した生き方が、人類史の方向にそう生き方である。対立する立場は分裂 に至り、歴史を進めることはできない。個々の問題での違いを、課題全体を解 決に向け前進させるために調整し、統一させることが人類史の方向である。個 々の問題で一時的な対立になっても、人類史の方向にしたがうなら統一できる。 人類史の方向にしたがた統一により、基本的にすべての人々と連帯しえる。基 本的でないことがありえるのは、個別の利益を追求する人がいなくなることが ないからである。その意味で連帯しえる人と、敵対する人に分かれる。どちら の立場を取るかは本人の問題であって、人がどうこうできる問題ではない。武 力によっても社会的制裁によっても強制できない。敵対する人に対しては、連 帯する側は害を及ぼされないような策をとるしかない。
 個々の問題で対立があっても、連帯する立場であれば対立を統一的に解決で きるとするのが、統一的世界観を求めるものの立場である。

【社会的地位と専門課題】
 それぞれの社会的地位によって専門とする課題が異なる。生活地域によって、 職業によって、職場での地位、役割分担によって、年齢によって、性別によっ て社会的地位が異なる。制度化された地位を離れても、それぞれの生活上の立 場としての社会的位置がある。それぞれの生き方の違いとして社会的・専門的 課題がある。
注30
 それぞれの社会的地位による専門分野は、専門的に課題に取り組むべきであ るが、それだけではすまされない。専門分野に関わりのない一般的課題もある。 同じ世界、同じ社会に生活することによる一般的課題に対する対応がある。生 活する上で同じ人間として対応する普遍的・個人的課題もある。それらはどれ も人間として生活する、生きることに関わる課題としてそれぞれの生活に位置 づけておかなくてはならない。

 

第2節 一般的課題

 誰でもが関わりを持たねばならない課題。

 理念は掲げられた目標ではない。理念は現実に実現されるべきものである。 理念を現実と切り放すことは、現実の肯定である。理念としてだけ立派な存在 は非現実的な存在なのではなく、現実変革をあきらめることによる傍観的立場 における存在である。

 

第1項 平和

【平和の理念】
 平和は戦争がないという消極的状態ではない。すべての人々が自らの能力に よって、自らの生活を実現できる状態が平和である。人々の能力の実現を妨げ る、その意志を奪う社会は平和ではない。殺し合いがなくとも抑圧の存在する 社会は平和ではない。
 平和は分割することができない。一方に戦争や抑圧のある地域が存在し、他 方に平和な地域が存在するという、そういう社会は平和ではない。地域を分割 し、平和を分割することはできない。他の地域の平和の保証なくして、自らの 平和の保証はない。
注31

【冷戦後の平和】
 「冷戦」は熱い武力衝突がなくとも戦争状態にあるとの国際的共通理解であ った。しかし、「冷戦の終了」は平和を意味しない。「社会主義」国が崩壊し たのであって、核支配は数量の一部削減はあっても依然として続いている。核 の拡散を防止しようとする策略は、核のない世界を目指すのではなく、現在の 核支配の継続を目指すものである。
 全体の核支配の下、地域的紛争、武力衝突、テロが多発している。これらは 当事者だけの責任ではない。核支配、経済支配、地域分割としての世界の抑圧 体制が本質的問題である。本質的な世界の抑圧体制を打ち破らずに、テロリス トを逮捕し、休戦協定を結んでも平和は実現しない。それは単なる敵対的関係 の延長にすぎない。この世界の抑圧体制にあって、社会的弱者は常に犠牲にさ れる。障害者、病弱者、子供、老人、女性は武力衝突がなくとも犠牲を強いら れる。
 戦争を目的として戦争を始める者はいない。どの侵略者も平和を求めての戦 争であると言う。
 世界の抑圧体制によって利益を得ている者がいる。対外的武力衝突によって、 自らの対内的支配の強化を図る者がいる。武器を輸出し、消費させることによ って利益を得る者、国際収支の均衡を図ろうとする国が存在する。軍事予算の 縮小は景気を後退させる、雇用を削減する、技術を衰退させるとして反対する 者がいる。軍事は高度な秘密と、技術の問題であるとして専門家である軍人以 外の議論を封じようとする。

【日本の平和】
 「平和国家日本」は戦争と無縁であるのではなく、世界の紛争体制の一部を なしている。日本は平和理念を実現しようとする憲法を否定し、「平和」を武 力によって実現する方向へ実際に踏み出している。自衛隊の海外派兵、アメリ カ軍への便宜供与、その根拠はアメリカの世界支配に組み込まれた日米安全保 障条約にある。応分の負担は、アメリカの世界支配の補完を目指す。
 日本国憲法を否定し、武力によらずに現実の平和を実現することはできない という「現実主義」者は、世界の被抑圧者の犠牲の上に立つものである。国内 の弱者の犠牲の上に立つものである。軍事費を削って海外援助へ、弱者の生活 基盤整備に、災害対策に充てることが直接に平和に結びつけることを否定する 者たちである。

 

第2項 民主主義

【民主主義の状況】
注55
 民主主義は形式的平等主義ではない。それぞれの違いを尊重するから民主主 義が必要になる。構成員を標準化し、分け隔てなく同じに扱うのに民主主義は 必要ない。それぞれの個性を生かし、能力を発揮するための調整方法として民 主主義はある。

 民主主義は全体主義に対立する思想、制度、運動である。
 民主主義は歴史的に発展してきた。民主主義は古代ギリシャで誕生したと言 われるが、古代ギリシャの民主主義は市民階級の民主主義であり、奴隷制度に よって支えられていた。今日、民主主義は一部の反民主主義者を除く万人の拠 り所である。
 民主主義は全体主義からだけではなく、実行力、効率を求める勢力から、形 式美を求める美学の装いをもった勢力から攻撃されている。
 民主主義は決定に時間と手続きを要し、専門家の決定を縛るとされる。しか し、手続きの過程で全体の認識が深まり、責任を全体のものにする。最も強力 な決定は独裁者の支持ではなく、全構成員の一致による実践である。実行力、 効率は民主主義を否定するのではなく、その運用と訓練によって解決されるべ きものである。
 結果としての形式美は多くの犠牲の上になり立ってきた。人間の創造力を組 み尽くすことによる美は、物質的存在の美よりも、生きている人間性の美に価 値を認める。美的装いを求めて民主主義をあげつらう者は、自ら独断する個人 的感性、欲求が制限されることによっていらだっているのである。
 全体主義は全体の利益を一部の者が独占する支配をもとめる。全体主義は騙 しと抑圧をその手段とする。専門性、技術による決断力、実行力を売り込み、 競争心、排外性、利己性を利用し、物質・情報・権限を独占して人間関係を支 配しようとする。
 民主主義は地球全体、国家、地域、職場、学校、家庭すべての人間関係の課 題である。

【民主主義の制度】
 民主主義は結果ではなく運動過程のあり方である。情報の交換、意見・要求 の対立点の明確化、問題の解決のための意志統一、実践結果の検証という手続 き・方法が民主主義の制度である。
 多数決、少数意見の尊重、会議規則、秘密投票、代議制は民主主義実現の手 段であって、手段だけで民主主義は実現しない。民主主義手段は民主主義の保 証として尊重されるが、手段だけで目的は実現しない。
 民主主義は分散・分離を目指すものではない。全体の実質的統合のための個、 部分の尊重である。個、部分の運動の方向性を一致させるための手続き、制度 である。個、部分のそれぞれの方向性を相互に確認し合って全体の運動を全体 の力を引き出して方向づけるのである。民主主義に基づく集中、統一は統制に よって実現されるものではない。人間組織は制度化されると安易に統制に依存 しがちである。民主主義と集中の統一は実践の中で鍛えられなくてはならない。 民主集中は原理的に否定されるものではない。実践によって解決されるもので ある。

【民主主義の運動】
 民主主義は社会の運動のあり方として実現される。社会の運動の進め方であ るとともに、運動の一つの目標である。社会の運動は個々の課題を持った運動 体としてだけではなく、社会の物質代謝としての運動を基礎にしている。社会 の運動は人間関係としてすべての社会関係に現れ、民主主義は普遍的な課題で ある。
 社会の基本的あり方として、個々の人間関係において、それぞれに目的を持 った集団・組織において、社会制度において民主主義は実現されなくてはなら ない。
 軍隊においてすら、民主主義のあり方が追求されなくてはならない。

【社会主義と民主主義】
 社会主義国の欠陥として特権階層の独裁的支配が指摘される。
 これは民主主義の問題である。人間性の性善説、性悪説いづれをとるかとい った観念的解釈の問題として切り捨てる訳にはいかない。一般的に社会の構成 員である個人は、基準を何にとるにしろ良い人も、悪い人もいる。社会主義革 命が成ったからといって、その教育、福祉制度のもとですべての個人が善人に なるものでないことは証明するまでもない。多少の革命的変化があったとして も、人を出し抜いて社会的利益をかすめ取ろうとする人を無視することはでき ない。かえって革命のような混乱期には、そうした人がうまく立ち回る。
 社会主義革命前にはファシズムの権化でありえる人が、社会主義革命の時期 に先見性と世渡りのうまさで社会主義権力の中枢に入り込むことは大いにあり うる。そうした人がいないほうがおかしい。主義主張に関わらず、権力を私的 利益のために行使する個人がいる。社会主義革命によってすべての人が善人に なるなど話にならない。
 社会主義、共産主義の善し悪しにかかわらず、こうした人を封じ込める制度 的保証は民主主義である。この民主主義を徹底し、権力主義者を封じ込めなく ては、社会主義革命は成果を発揮できないどころか、権力主義者の純粋な形で のファッショ的支配を実現してしまう。
 社会のすべての分野での民主主義の実現が、今から常に重要な課題である。 なれあってはならない。

 

第3項 自由

注32

【自由の理念】
注33

 自由は対象性の問題である。対象を持つこと、対象になることによって自由 は問題になる。対象を規定すること、対象として規定されることによって自由 が規定される。何物にも規定されない自由などはことばの遊びであって、実在 はしない。
 対象を持つこと、対象になることは運動が非対称性をもち、方向性をもつこ とによって現れる。方向をもった運動として、運動のもつ価値基準が定まる。 より大きな価値実現への運動の選択が自由の根拠である。

 「自由は必然性の洞察である」 【自由の実現】
 自由の問題は方向性をもつ自由と、方向を選択する自由の統一の問題である。 基本的に方向性を持たない存在には自由はない。逆に自由を奪う完全な方法は、 対象の運動の方向性を奪うことである。具体的に人間の場合では苦しめること ではなく、感覚刺激を奪うことである。感覚刺激を奪うことによって、意志の 方向性が奪われ、自由に動き回る、思考する、感じることがなくなる。自由を 奪うことによって、人間性を奪う。
 人間性を追求し、自由の価値を求める者はその生き方の方向性を定めること が基礎になくてはならない。決定論に抗して、創造の方向を定めることが自由 獲得の出発点である。方向性を獲得することを妨げるものに対して、運動の方 向を妨げるものに対して闘うことが自由の追求である。

 自由は理念の問題であるとともに、切実な問題である。方向性をもった生活 は要求を自覚した生活であり、要求を実現する過程である。自由の内実は要求 を持つ自由、要求を実現する自由、二つの自由の統一としてある。
 自由は主体の問題だけではない。社会的矛盾が激しくなればなるほど、自由 の否定は身体に対して、精神に対して過酷に攻撃してくる。過酷さは生きる方 向性によって、多様な現れ方をする。
注34

【自由の実践】
 抽象的自由、一般的自由、そして思い込みは現実の自由の否定である。逃避 の自由は自由の否定である。
 自由は主体的自由であって、客観的自由などない。人間は物としての存在で あり、生物としての存在であり、社会人としての存在であり、精神としての存 在であり、その統一としての存在である。物として物理化学法則に従い、生物 として生命の法則に従い、社会人として社会関係に従い、精神として論理に従 う。法則、関係、論理に従いながらそれらの統一した運動として、法則、関係、 論理に方向づけをする。統一した方向づけとして、方向を定める自由を人間は もつ。法則、関係、論理に従い、方向づける主体としての位置づけを獲得する ことが、自由の物質的基礎である。
 特に人間の物質的、生物的存在は社会的に保証されており、論理は生活と教 育によって保証される。社会関係は社会人としての存在そのものである。社会 規範に従うということではなく、社会規範は社会関係の主要な一部分である。 人間は社会関係にあって社会的地位を獲得することによって、社会的権限と生 活の保証を手にする。社会的地位は職業・職制としての地位だけに限定はされ ない。社会的権限と生活の保証が人間の自由の物質的基礎である。人間の自由 は人間以外の他の存在には意味がない。「石に自由があるか」は問題になりえ ない。
 獲得した社会的権限と生活の保証を行使し、自らの選択した方向の社会的運 動を実現することが人間の自由である。「実現する社会運動」は社会的物質代 謝を基礎とした社会存在としての普遍的運動であり、個別の社会運動に限定し ない。社会全体の運動の一部としての普遍的運動である。 注35

 人間関係は相互調整を必要とする。意識的な調整である。本能による結果と しての調整ではない。結果を予測しての調整である。予測は論理によって可能 になる。論理的自由は論理を破る自由ではない。論理を組み合わせる自由であ る。組み合わせの多様さは、対象の理解の広さと深さによって拡張される。

【自由と責任】
 自由は自らの運動=存在に基づく要求であり、存在は自らを規定している。 要求の実現は運動として自らをも変革することである。物を獲得する要求であ っても獲得された物の所有は、自らの社会的あり方を変化させる。結果として の責任を引き受けるだけではなく、物を所有しての自分の方向性が問われる。

【自由と秩序】
 個人の自由と社会秩序は対立するものではない。個人は社会において人間で ありえる。個人は社会的存在として社会秩序を形成する。
 社会秩序と個人の自由が対立するのは、階級社会であるからである。生活基 盤の再生産が階級対立の再生産構造になっているからである。階級社会での社 会秩序は支配によって実現される。「民主的」であれ従前の公認された制度を 守ることが秩序であるとされる。保守することが体制の利益にかなわなくなっ た場合にだけ、部分的な改訂が行われる。社会制度としてだけでなく、人間関 係においても上下の秩序が強調される。上下の秩序が強調されるのは、上の者 の実力に関わらず支配秩序を優先させるためである。
 自由と統一される秩序は自律による秩序である。自律は経済的自立、生活の 自立が基礎になる。女性、障害者、老人、被差別者が支配され、自由でないの は自立できないからである。自律は自らの社会的存在を認めること、自らの社 会的責任を負うことである。自律は経済的自立だけではない。
注36

 

第4項 独立

【民族】
 民族は生活の相互依存関係を物質的基礎に、その社会への帰属意識によって 形成される社会集団である。他の民族との対立によって民族内の依存関係は高 まる。
 日常生活が保証されていれば、相互依存関係の内で生活は安定する。貿易も、 海外投資も相互依存関係の拡張である。地域間の違いこそが地域間の交流運動 の力となる。資源の違いが交易を盛んにする。

 民族は歴史と、文化の個性として否定されるべきではない。文化は統一され るべきではなく、多様な豊かさを誇るべきである。

【民族問題】
 民族問題の基礎は収奪である。収奪を「正当化」するために民族の違いが利 用される。優劣、過去の経過によって自らの民族を「正当化」し、収奪を「正 当化」する。
 収奪の「正当化」はやがて暴力の、殺戮の「正当化」にまで行き着く。収奪 は貧富の格差を拡大する。貧富の格差の拡大は民族間の対立を敵対化させる。
 すべての人々の能力を実現して生活を豊かにするのではなく、機会に恵まれ た者の成功に報償を与える競争によって生産力を高める仕組みが貧富の差を拡 大している。
 貧困は貧しい国の人々の責任ではない。人々は国や地域を選択して生まれて くるのではない。

【民族自決】
 民族が同化でなく、独自性を継承するひとつの方法は独立である。民族自決 権は対立のある国際関係の基本権である。収奪を政治的に終わらせるためには、 独立が基本的手段である。経済的収奪は残っても、政治的独立によって一定の 民族存続の保障になり、民族の誇りの継承が可能になる。
 日本は民族の誇りを失ってしまっている。進歩、文化、平和、経済発展は日 本にとってはアメリカ化以外には考えられなくなっている。産業の発展、情報 技術の発展はアメリカが切り開いてきた。そのことと、未来社会の実現がアメ リカ化と同質であることの証明にはならない。にもかかわらず、日本では「社 会発展はアメリカ化である」と承認されてしまっている。日本ではアメリカの 世界支配実現が「世界の平和の実現」と同義になっている。多国籍企業による 世界経済の支配が、世界経済の当然の発展方向としている。
 日本は自らの存在を含め、多様な民族の発展としての将来を持てないでいる。

【日本の民族問題】
 日本政府の公式見解は「日本に民族問題は存在しない」である。しかし、日 本の国土の中にはアイヌ人も、朝鮮人もいる。
 アイヌ人は独自の北方文化を継承する民族である。アイヌ民族が日本から抹 消されようとしたのは明治時代以来である。大和民族の東進、北進は大和民族 の誕生以来の日本の歴史である。国家権力支配の下、アイヌ民族の国内での独 自性を政策として否定したのは明治政府になってからのことである。
 朝鮮人は日本の歴史の中で、大陸文化の伝承者であった。大和民族の成立自 体が南方からと、モンゴルからとの移民によると言われている。今日の日本の 朝鮮民族が問題になったのは明治時代の朝鮮侵略と、朝鮮人労働者の徴用によ る。今日の朝鮮人蔑視と差別は朝鮮侵略を契機としている。朝鮮戦争、朝鮮民 主主義人民共和国の対外政策が敵対意識を増幅したにしても、大韓民国の出身 者に対する差別も存在する。今日でも中学生、高校生の間ですら民族差別、暴 力的攻撃がある。それを助長してきた学校制度、スポーツ制度等を運営してき たのは彼ら生徒ではない。
 さらに沖縄も文化的、社会的、政治的に独自の歴史を持っていた。民族とし ての沖縄の独自性は、他の地域の独自性と大きな違いがないほどに同化されて きている。民族問題として沖縄が問題にされることはまずない。しかし、第二 次世界大戦での「沖縄決戦」、アメリカ軍による占領は沖縄にとって特別の歴 史的意味をもつ。

 日本の民族問題が日本政府の否定にも関わらず、社会問題になってきたのは 日本の進歩である。物質的、社会的保障が一定程度実現したことにより、民族 の違いを収奪としてではなく、文化の多様性として意識できるようになったと もいえる。収奪が繰り返されることなく、過去の収奪の補償と、民族文化の継 承をこれからの課題としなくてはならない。
 日本にとってより重要なことは、国内の民族問題の解決を、世界の民族問題 の解決につなげることである。世界には自らの民族問題を否定し、あるいは敵 対・紛争に拡大する運動が存在している。「生活に余裕ができたら民族問題が 解決する」として待つのではなく、民族対立を利用した抑圧体制を終わらせる 国際連帯の運動が、日本の民族問題の最終解決の道である。

 

第5項 人権

 人権は理解と普及、実現が目指されなくてはならない。
 個々の人権侵害に対する闘争が組織され、実践されなくてはならない。人権 侵害に反対する一般的、普遍的、基本的社会関係、思想の実現をめざしさなく てはならない。
 個々人にあっては人権侵害の起こる過程を理解することで、意識することな く侵害する側にならないこと、人権侵害に反対する立場を守らねばならない。
 人権の問題は抑圧と差別の問題である。差別だけを問題にすることも、抑圧 だけを問題にすることも誤りに陥る。個々の差別なくすこと、是正すること、 救済することだけでは差別そのものをなくすことはできない。抑圧だけを問題 とするのでは、現実の人権侵害、暴力による抑圧に対抗できない。

【人権の歴史】
 人権は保護と自立の歴史として理解することができる。
 人間は社会的存在であり、誰もが社会的保護の下で人間へと成長する。競争 社会では特に社会的弱者は保護されなくてはならない。他方、人間は他との関 係において自らを実現する。対象を自らの内に取り込み、自らを他との関係に おいて作り出す。一般的関係を自らの関係として自律することによって自らの 存在を実現する。人類史を人権の面から見れば、どれだけの範囲・程度で人権 を実現できたかの歴史である。
 今の日本でも封建主義と人権主義との対立がある。封建主義は保護者と被保 護者の支配関係として人間関係を律する。保護関係は人間社会に不可欠である が、封建主義はこの支配関係を絶対化する。保護者を支配者として保護するこ とによって秩序を維持しようとする。保護関係、支配関係を社会秩序の基準に してしまう。保護者と被保護者との支配関係を公認の社会秩序にしようとする。 親子関係を国家支配の関係に拡張したり、成長した子供に対してまで親の支配 を永続化しようとする。被保護者の自立は支配関係の破壊と受け取る。

【人権の理念】
 人権は生まれながらの人間の権利である。本人の責めに帰さない事由によっ て抑圧、差別されることなく、自らの生活を営む権利である。
 人権は人間として生きる権利である。社会的平等を求める権利である。自ら の能力を実現する権利である。人権は分割することも、売買することもできな い人間に備わった一体としての権利である。
 人権侵害は侵害するものにとって容易におこなうことができる。意識するこ となく人権侵害をしている場合がある。被侵害者の受けとめ方によっても、被 害の程度は拡大され縮小される。社会問題になっている「いじめ」は自殺にま で追いつめることすらある。自殺した者の意志や感情といった個人的問題では なく、いじめは対象になった者の何人かを自殺にまで追い込むものであること を人権侵害者に理解させることが必要である。
 一般的に社会的地位の高い者は競争の勝者であり、弱者保護の必要性を理解 しにくい。自らを社会的勝者であると誇る者は、人権の主張を弱者の論理、理 想主義と切り捨てる傾向にある。しかし、人権を基礎にした社会的連帯は、普 遍的で絶対多数者を結集する力となって、国家権力を崩壊させる力に発展する こともある。

【人間として生きる権利】
 生存、自由、身体の安全は人間が社会的に存在する基礎である。物質的に存 在し、生物的に生存することは基本的人権の基本である。社会的存在としての 人間は社会的生存を基礎にする。人間社会は人相互の生存の保証を目的として 発展し、人間自身を進化させてきた。
 人間としての生存を保証するには当然に奴隷は禁止される。奴隷制の支持者 は奴隷を人間として認めないことによって奴隷制を正当化してきた。同様に、 非人道的な待遇又は刑罰を正当化する者は知能、性格、過去の犯罪を根拠にす る。
 健康、福祉に十分な生活水準の保障、本人の責めに帰しえない災難による生 活不能に対する保障は社会的に実現しなくてはならない。母と子への特別な保 護と援助は人間社会の継続の基礎である。
 人間はただ生存するだけの存在ではない。社会に関わり、社会の内に自己を 実現する存在である。自らの生き方を方向づける思想、信条、良心の自由は生 きることそのものと不可分である。異なる思想、信条の許容と相互の批判が保 証されなくてはならない。自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くこと のできない経済的、社会的及び文化的権利の実現は余録ではない。

【社会的平等権】
 人間は社会的存在であることによって発展してきたが、疎外された社会では 社会によって人間として生活することを妨げられる。
 人間は生まれながらにして自由、尊厳と権利とについて平等である。人種、 皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、 財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受ける こはない。
 法の下に人としての承認され、法の下における平等、基本的権利の侵害に対 する救済を保証される。逮捕、拘禁又は追放は制限され、裁判所の公正な審理 を受け、確定までは無罪を推定され、罰刑は法定された範囲でなくてはならな い。弁護の保障、公開裁判、刑罰の不遡及は当然のことでありながら、実質的 に制限しようとする動きがある。
 国民主権、自国の公務につく権利、普通選挙、秘密投票は参政権の基礎であ る。
 社会的生存を支える財産の所有と保全は保護される。しかし、相続は被保護 者の養育はともかく、社会的不平等の根元である。
 私生活、通信の法的保護は情報システムの発展により、弾圧の手段として以 上に、社会統制手段として普遍的な力になる。
 国家制度がある以上国内での移住の自由、入出国の自由は保証され、迫害を のがれ他国の保護を求めることができる。本人の意志にもとづき国籍を有する。

【自己実現の権利】
 成年男女の本人の意志にもとづく、自由な婚姻とその解消ができること。意 志だけではなく、経済的にも結婚・離婚が可能であること。いまだ、離婚によ る不利益のため結婚を継続せざるをえない女性がいる。家庭の社会及び国によ る保護は社会の基礎であり、次世代の保障でもある。
 国境に遮られない意見及び表現の自由、情報、思想の交流は貧困の中に埋も れている多様な才能を実現することにもなる。
 平和的な集会及び結社の自由、および組織に属しない自由は社会秩序を維持 することで、すべての人の生活を保障する。
 職業を選択し働く権利、失業保障、団結権は生活を社会的に保障し、個人の 自立の基礎になる。
 労働時間の制限と余暇をもつ権利は、競争社会では社会的に規制されなくて は実現しない。
 初等教育は義務的で、無償でなければならない。技術教育、職業教育の機会 は一般に平等でなければならない。高等教育は能力に応じ、ひとしく開放され ていなければならない。教育は人権、自由、平和を目指さねばならない。
 権利と自由はすべての人に対して平等である。平等であるためには制限され る。権利と自由は相対的なものではなく、ここに掲げる権利と自由に対する破 壊活動の権利と自由を認めるものではない。

【世界人権宣言】
 国際的英知と良心によって策定され、国際的に認められた宣言である。基本 的基準である。少なくとも社会的、政治的権力、権限を行使する立場の人間は 了解しておくべき宣言である。
 権力の行使者の中にはそれぞれに、認めない項目もある。その見解を権力、 権限行使にさいし公開すべきである。ごまかすことを許すべきではない。日本 はあまりにも安易に許してしまう。さらには、社会制度として守られるべきこ とである。
 基本的人権としてうたわれていること、基本的人権を追求する運動を「理想 主義」とする批判も当然予想される。「正しいことであるから、即実施しろ」 とするのは「理想主義」として批判されるべきである。逆に「現実主義」をと り、無視することは許されない。社会的、政治的運動、それがよりよい世界を 目指そうとするものである以上、基本的人権の追求を基本とすべきである。各 項目を保留することはありえても、切り捨てること、侵犯することは許されな い。個人の活動にあっても、国家政策の実現であっても基本的人権は常に前進 的に掲げられる課題である。
 最先進国であるはずの日本において、どれだけの基本的人権が保障されてい るのか。

【基本的人権侵害としての差別】
 基本的人権の問題で社会問題になることの一つに差別がある。人種差別、民 族差別、部落差別、男女差別、障害者差別。
 差別に対する基本的戦略は2つである。差別をつくりだし、差別によって得 をする人間を見誤らずに、見失わないこと。あらゆる差別をなくすこと。
 戦術として次の事が考えられる。差別が不当であることを明らかにすること。 差別をなくす運動を組織すること。差別による不利益を是正すること。差別意 識を醸成する思想状況を改めること。個々人の自己の内外に、差別助長の傾向 を避けること。

 差別の不当性は様々な状況、様々な当事者の責任で明らかにされなくてはな らない。しかし共通する差別の方法、論理がある。
 差別は現実の差を根拠としようとする。人の形態的差、または生活形態差は 歴然とした事実である。人の形態的差、生活形態差が個人の感性と結びついて、 好悪の感情をともなうのは自然なことである。しかし、形態差が能力差として、 あたかも科学的に実証されているかのごとく扱われること、そのことで社会的 ・経済的・政治的不利益を強制されることがあってはならない。
 IQ、脳容量等、あたかも客観的根拠があるかのごとく、また国家権力とも 結びついて宣伝されたことがある。データのねつ造は当然非難されるべきであ るし、統計処理の不当性、目的のデータ結果に対象が正しく反映されない調査 方法等、科学者と呼ばれる人の中に誤りを認めない人々がいることも事実であ る。
 形態差が直接能力差として評価されてはならないこともある。差別が能力開 発の環境条件を奪い、能力開発の環境条件を奪われたことによる能力差を、あ たかも形態差を根拠としているかのごとき論拠で差別が合理化されることがあ る。
 形態差は協力の条件である。互いの形態差によって、互いの不足している能 力を補い合う必然性がある。
 形態差が障害者のように直接的能力の差となる場合もある。本人に責任の無 い能力差を保障するのが社会であるはずである。その保障が個々の人間の、互 いの豊かさに反映されるものである。

【差別意識の発展】
 差別は第1に隠然と仲間内での承認から始まる。差別は始めから公然と行わ れることは少ない。差別することの合理化と差別対象の差別内容の確認がされ る。
注37
 第2に差別対象の類型化が行われる。形態差、対象の標象が特定され、能力 差、評価の差との因果関係が承認さる。偏見、先入観が形成される。
 第3に偏見、先入観は具体的事象によって検証、強化される。具体的な事象 が偏見、先入観を裏付けるものであればそのとおりに評価され、否定するもの であれば例外として評価される。いづれにしろ、評価によって偏見、先入観は 強化される。偏見、先入観を否定する事実は見落とされ、無視され、肯定する 事実は強い印象を残す。
 第4に差別が社会的に承認される。差別を不当とする人も反差別の行動をと りえなくなる。被差別者も差別を受け入れてしまう。
 第5に差別が社会制度として、国家権力の承認するものとなる。ただし、国 家権力の影響、責任は最終段階で生じるものではない。国家権力、社会権力を 行使、利用しようとする者はあらゆる段階の差別を利用し、人を分断支配しよ うとしている。

【差別の社会的発展】
 第1に、差別対象をひぼう、中傷する。
 第2に、差別対象を回避する。仲間外れにする。
 第3に、差別対象を隔離する。積極的に離間する。
 第4に、差別対象に身体的攻撃をする。
 第5に、差別対象に対する絶滅。
 子どもの間でも差別と、その発展はありえているし、国家規模でも行われて きた。

【差別をなくす運動の組織】
 反差別には被差別者の告発がなくてはならない。普遍化された差別は、差別 者に取って差別と意識されないものである。差別に直接関わらないものにとっ ても、社会的不正の存在を知らせなくてはならない。被差別者の「いたみ」を 社会的に認知させねばならず、被差別者の告発を保障する運動が必要である。 「寝た子」は起こさねば生きていけない。成長しない。
 反差別の運動は思想闘争でもある。思想的に影響力のある者を育て、社会の 各層、各位置に配置しなくてはならない。
 差別者は実社会の強者であり、時には国家権力である。これに対し、被差別 者が反差別の運動を行うには、被差別者とその支援者からなる運動組織が必要 である。
 反差別の運動が被差別者の利益をもたらす運動である以上、その利益をかす め取ろうとする者が現れることに注意されなくてはならない。反差別の運動が 自浄力をもつためには、組織がしっかりしていなくてはならない。逆差別を生 む運動であっては、差別をなくすことはできない。
 差別は様々な対象にある。しかし、社会的作用は同一であり、その社会が差 別をつくりだし、承認するものであるうちは、一つの差別の廃止は別の差別に 転化される。反差別の運動は、すべての反差別の運動と統一されなくてはなら ない。さらに、社会的不正に対する一般的闘争とも連携されなくてはならない。 自由・平等の社会を目指す運動は、反差別の運動と本質的に連帯し、同化しな くてはならない。

【差別による不利益是正】
 差別解消が決議されても問題は解決しない。差別による不利益が解消されな くてはならない。差別を生み出す環境条件を改善しなくてはならない。
 物質的、精神的、社会制度、社会手段として不利益是正の措置が取られなく てはならない。これは社会的責任であり、差別者の責任追求は当然としても差 別者だけの責任ではない。

 

第6項 環境

【環境保護】
 社会的物質代謝が自然環境とのバランスをとれていない現状では、生活その ものが環境破壊と関わっている。
 エネルギー代謝、物質代謝が閉じた系として成り立たないことは物理法則で あり、生物の法則である。生物は全体のエントロピー増大の中で、部分の系と してエントロピーを減少させ続けることによって存在している。
 人間社会は原理的な不可避性だけではなく、社会的物質代謝によって自然環 境を破壊している。地球のエネルギーは太陽の光と、地熱である。そのエネル ギーの数十億年の蓄積を数十年で一期に放出している。エネルギーだけではな く、自然界には存在しなかった物質、自然の物質代謝系に整合しない質と量の 物質を作り出している。人間の作り出した物質代謝の矛盾は人間が制御しなく ては解決しない。
 環境破壊は自然環境の破壊にとどまらず、人間・人間社会の存続の基礎を破 壊しつつある。環境保護は「美しい」自然を守るといった感傷的な運動ではな く、人類と地球の将来にかかわる運動である。

【環境保護と企業責任】
 より快適な生活、より便利な生活は一般的により環境を破壊することにつな がっている。その社会的生産を担っているのは企業である。企業はその製品だ けではなく、生産過程、消費過程、廃棄過程まで見通した生産、製品開発をし なくてはならない。
 企業活動は生産だけではない。生産管理、在庫管理、流通、様々な業務を必 要としている。社会的物質代謝に関わるすべての過程で環境保護は問題になる。
 企業責任は経営者だけの問題ではない。責任は経営者にあるが、開発し、問 題を提起し、改善策を立てるのは労働者である。労働者が企業責任を監視する 最も適した立場にいる。企業組織の中で労働者が社会的責任を果たすことを保 証するのは労働組合である。労働者が社会的責任を果たすことに対し、不利益 を被らないようにし、積極的に援助するのは労働組合の社会的責任である。
 企業の外からは公的機関による監視が必要である。公的機関は住民運動等と の連携によって地理的、時間的制約のない監視体制を築くことができる。公的 機関自体の住民運動と連携した効率的運営が必要である。また、公的機関自体 住民によって監視されなくてはならない。公金、資源、人材の無駄を監視しな くてはならない。

【環境づくり】
 環境保護は「環境づくり」でなくては解決しない。
 生産過程、生活過程で自らの物質代謝の位置づけを理解しなくてはならない。 すべての人が理解できるように教育しなくてはならない。運動を組織しなくて はならない。
 少なくとも廃棄物を減量する、無害にする、処理をし易くする、再利用する、 無駄をしない。それぞれ相互に関連し、重なる部分があるすべての人々に関わ る課題である。
 産業、生活廃棄物の減量は誰にでもわかりやすい。しかし、生活態度として 実現することは難しい。生活の知恵も必要である。
 無害化は商品として備わっていなくてはならない機能であり、生産過程で特 に問題になるが、薬品や塵芥を日本の下水道に流すことは下水道機能を破壊す ることになる。日本ではごみと水は別々に処理されている。
 処理の容易化は廃棄物の分別と、希釈しないことである。止め金と紙、アル ミ缶とスチール缶、色つきガラス、新聞紙と広告雑誌等々、分別することによ って再資源化が可能になる。積極的な廃棄物管理だけではなく、空き缶、ガム、 タバコの吸殻の投棄はその回収、清掃を必要とし、そのための資源、資金を使 うことになる。
 処理の容易化、再資源化は個人の努力だけでは実現しない。リサイクルの社 会的システム作り、システムの運用、技術開発が不可欠である。
 無駄をなくすことは価値判断に関わる。何が無駄かは価値観によって、状況 によって異なる。公共交通機関を利用せず、個人で自動車を利用することは無 駄ではないのか。余暇にドライブを楽しむことは、社会的ストレスの下で必要 ではないか。価値観は多様であっても公共輸送機関の優先的交通、自動車利用 のコストに環境保護費用の負担を増やす等の社会的対応が可能である。自動車 産業保護のために規制に反対するなどとは、環境問題の深刻さを理解しない者 である。ストレスの解消には物質、エネルギーの消費の少ないものもある。

【環境社会づくり】
 省エネルギー、環境保護は個人の道徳に訴えても解決はしない。個人の教育、 動機づけは社会的に取り組まなくてはならない。社会的評価を生産性を基準に したものから変える必要がある。社会的地位の高い者ほど、社会的に点検評価 する制度が必要である。
 省エネルギー、省資源の生産、消費のシステムはコストの問題となることで 徹底される。石油危機は日本の産業を破壊するのではなく、省エネルギー、省 資源を実現した。しかし、石油の供給が安定すると省エネルギー、省資源のた めの開発が進まなくなった。
 道徳律としてだけでなく、廃棄物の回収・再利用システムは技術開発、制度 の整備、制度の運用まで含めて対応しなくてはならない。公的機関だけでの対 応はコストだけではなく、拡散する対象をとらえることができないということ からしても現実的でない。

【世界の環境】
 世界の環境については、現状の生活条件を耐えられる程度に切り下げて環境 破壊要因をなくす課題が提起されている。一部の国だけで資源・エネルギーを 消費し浪費による経済繁栄を認め、世界の多くの地域での貧困を放置すること は許されない。経済的に遅れた地域の経済発展のための資源、エネルギー利用 をまかなうための再配分が必要になっている。

 

第3節 社会的・専門的課題

注38
注39
 

第1項 政治運動

 主義、理論の社会的保障は政治制度である。政治制度を革新的なものにして おくことも、独自の社会的課題である。政治は国政に限らない。地方自治も、 地域運動も、社会運動も、労働運動も、日常生活も政治と関わっている。すべ ての分野、地域で政治が制度化され権力が行使されている。

【政策】
 目標として掲げる政策と、現実の問題を解決するための政策がある。両者を 形式的に関係づけると矛盾することもある。しかし、実現の過程、歴史的論理 としては整合性がなくてはならない。現実のこれまでの経過を引きずった状況 に対する批判と将来の目標、現実から目標へ向かう具体的な個別の政策までを 明らかにしなくてはならない。
 政策の具体化には総論と各論の不整合がありえる。全体に有用性、必要性が 明らかでも、受け入れる部分にとって不利益が伴うことが多い。

 政策づくりには要求の掘り起こしが前提としてある。要求の掘り起こしは運 動存続のために要求をねつ造することではない。政策化される要求は日常的に 意識されているとは限らない。要求すべきことが、権利が自覚されていないこ とによって眠っていることもある。本質的な問題を敷衍することによって明ら かにされる問題と、それに伴う要求が明らかになることもある。要求は政策と して体系化されるために掘り起こされなくてはならない。

 要求の掘り起こしは政策の体系化だけが目的ではない。政策掘り起こしはそ れ自体が政策活動であり、運動である。要求の政策化自体が組織的活動であり、 組織に要求と政策を徹底する運動である。また政策に対する支持を、自らの要 求として普及する運動でもある。政策づくりは統治能力の訓練でもある。

【政治制度変革】
 現在の政治制度は支配制度としてある。同時に現実を変革していく出発点で もある。現在の政治制度は支配抑圧の制度として否定されるものであるが、社 会変革はこの現実を対象として実現される。現実変革は考えられた新しい政治 制度によって、現制度を置き換えることではない。
 現制度によって要求し、要求を実現することから現実は出発する。現実に生 活している者の切実な要求は今実現されなくてはならない。要求に対し現制度 では実現することができないことが明らかになって、制度改革が要求されるよ うになる。現制度の限界によってあきらめるのではなく、制度自体の変革に進 むことが制度要求である。
 現制度は個々の制度が独立に設けられているのではない。支配のために、支 配を補完するために現制度はできている。現実の矛盾はあっても、支配のため の一貫した制度である。個々の制度要求が多少改善されても、最終的にはすべ ての制度の変革が必要になる。支配の制度から自治の制度に転換されなくては、 要求実現の基礎はできない。
 個々の制度要求の全体、将来の制度を見通すことが政治運動である。

【政治活動】
 政治の主体は人と組織である。政治には政治によって利権を得る「政治屋」 ではなく、政治家としての専門家が必要である。政治家は本人だけの問題では なく、政治家を支持する人々によって育てられる。
 政治家は交渉、説得、調停等の折衝力が技術として必要である。その技術は 多様な分野の知識と、力関係を評価する能力に基づく。しかし、政治家にとっ て基本的に必要な能力は組織力、教育・宣伝力、節操である。
 政治組織は政党だけではない。個々の要求を掲げる団体・組織が政治課題で 一致して運動するのも組織である。個々の団体・組織が自らの要求実現のため 他の団体・組織と相互に協力し、共同して運動することが必要である。

【政治課題】
 政治自体が要求対象として課題をもつ。
 普遍的課題として平和、民主、自由、独立、生活向上がある。普遍的課題だ けであれば建前上誰も反対しない。現体制の評価によって、それぞれの課題に 保留条件がつけられる。平和を守るために軍事力の整備が必要である。行き過 ぎた民主主義は社会秩序を破壊する。自由は競争、収奪の自由である。選挙で 選ばれた代表が主権を行使する。生活向上は努力目標である。

 政治独自の課題として選挙制度、議会制度、官僚制度、公的資金の管理・運 用制度、地方自治制度等にそれぞれに問題がある。すべての個々の要求の実現 のためにはこの課題と結びつけられなくては本質的に解決しない。

【日本の政治】
 日本の政治は土建政治であるといわれる。公的資金を使う土木建設工事の利 権を配分する取引が政治であると。公共工事により地域の経済発展を図り、見 返りに政治選挙の票を囲い込む。得票と当選回数は政治的権力を増大させる。 得票と当選のためなら買収もし、世話焼き活動が即政治活動であるかのように 飛び回る。社会の木鐸であらんとするマスコミは刑事告発された場合のみにと りあげる。せいぜい漫画で自嘲するにとどまる。
 土木・建設に限らず、「政治は男の道楽である」と権力行使を生き甲斐とす る生き方が存在する。人を、組織を動かす事で満足し、人や組織で何を実現す るかなど問題にしない。一般の人には禁止されていることを、自らに与えられ た特権として誇示することが恥とは思わない男たちがいる。
 彼らは平和、自由、民主、独立等というものはお題目か、自らの権力に敵対 するものとしか理解しない。
 アメリカが覇権を世界に主張し、多国籍企業の支配にあっても「民主主義の 守護者」と思われるのは、利権あさりを社会悪とし、告発することができるか らである。少なくとも国政では選挙の過程で徹底した暴露が行われる。

 

第2項 社会運動

 社会は人間の存在の場であり、社会運動は人間の運動である。自覚されてい るかいないかに関わらず、すべての人々は社会運動の主体として生活している。 普遍的な社会運動の一部分として、個々の要求に基づいた社会運動がある。地 域により、分野により、あるいは組織により多様な社会運動がある。
 政治運動は社会運動の一分野である。しかし政治が社会を支配する制度であ る現在、政治運動は他の社会運動から相対的に独立した位置にある。

 個々の社会運動は、それぞれの要求実現の運動としてある。対象に働きかけ る運動も、運動自体が要求実現の場である運動もある。互いに異なる個々の社 会運動も、現実の存在である限り、要求実現の共通の基盤の上にある。より普 遍的な要求で一致し、協力、共同して運動することが要求実現の力になる。
 社会運動の意義は要求実現だけではない。社会運動自体が個々の人間の能力 を引き出し、鍛える。社会は自己実現の場であり、生活のための報償と直接結 びつかない社会運動によって純粋に自己を実現できる。逆に生活として純粋に 自己を実現することが困難なことが、生活手段の確保が生きることから疎外さ れていることの証明でもある。

 さらに社会運動の意義は組織的訓練の場としてもある。政治を支配でなく、 自治の制度として実現するには構成員の組織的訓練が必要である。主権在民を 実質的に実現するためには、社会的主体としての確立が必要である。
 意見を持つこと、表明すること、説得すること、他の意見を理解し、尊重す ることといった社会的コミニュケーションの基本的技術も実際の運動の中で身 につけられる。意見の調整、状況の把握、役割分担といった組織的訓練は運動 によって行われる。労働運動とは違った、社会階層の広がりと交流がある。

 無気力、無関心、無感動は支配・管理にならされた結果である。すべての人 が要求を持つこと、要求実現のために運動し始めることが社会運動の基礎であ り、目標である。

 

第3項 職域運動

 職場は、社会の生産的活動の場である。
 同時に主要な権力闘争の場でもある。
 生活の大部分を過ごす職場は楽しく、充実していなくてはならない。

【生産の場】
 労働は生活手段獲得のための犠牲ではない。
 労働が生活の代償としてあり、苦役であるのは、社会的、歴史的制約による。 労働が人間生活の中心からはずれ、無い方がよい代償にまで疎外された状況は 社会的にも、個人的にも克服されるべきである。社会制度がどうであれ、個人 にあって創造性の追求は人間生活の実現の課題である。
 労働における創造性、自主性に本来的価値があるからこそ経営管理、動機づ け、QC活動などで重視されるのである。収奪手段に利用されているからとい って、労働の本来的価値である創造性、自主性を否定することは現在のより人 間的生活を否定することになる。要は創造性、自主性の方向性を生活に向ける か、収奪の手段とするかの日常的闘いである。
 労働自体が労働の目的と労働生活の維持の2つの課題の統一としてある。そ の労働が疎外された社会的、歴史的制約の下では、労働を労働する者の創造性、 自主性による価値実現として取り戻す課題をも合わせて追求しなくてはならな い。

【生活保障】
 生活保障は生活手段の保障ではない。生活手段の保障でしかなければ、生活 手段の獲得としての労働を否定することになる。生活手段の獲得としての生活 保障がされなくてはならない。老齢者、心身障害者であっても、低開発国であ っても自らの生活手段を獲得できなくてはならない。自助努力の強調が、収奪 のための社会保障費用負担の軽減を目的としているからといって、弱者が生活 手段を獲得することを否定してはならない。
 自らの生活手段を獲得することによって、人間としての自立が可能になり、 社会経済活動も正常化する。すべての人間が応分に労働し、生活できることが 生活保障である。逆に、能力がありながら労働せずに、労働以上に生活手段を 独占することを許すべきではない。

【権力闘争の場】
 社会の生産的活動の場として、働くことは積極的意義を持つものであって、 権力闘争を重視する余り、非生産的、反生産的見方、活動は一般的に誤りであ る。権力闘争の意味であっても、普段働かない者がストライキ、サボタージュ しても実際の効果もないし、支持も獲られない。
 権力闘争の場として職制と、労働組合とどちらが職場の支持を獲られるかが 問題である。労働組合がなくても職場は成り立つ。労働組合を作った場合、労 働組合がある場合には、組合員等が個人的な問題でどちらに相談に行くかが最 重要な指標である。組合員の組織率、ストライキ批准率、職場集会実施状況等 の指標も重要であるが、これらは労働組合に対する支持以外の要素も影響する。 職場に相談に応じられる職場委員がいるかどうかという人材の問題ではない。 直接相談に応じることのできる組合役員を各職場に配置できることはまずでき ない。そうした役員は上級役員として配置されるから。
 職場委員が相談に応じられる体制が組織的に保障されなくてはならない。職 場委員の人材獲得、経験の蓄積、教育が制度的にも整備されること。データ集、 手引き書等として職場委員をバックアップできること。職場委員が直接に相談 に応えられなくとも、相談に組織的に応じられることとして、職場での運動を 組織化する。

 労働組合も搾取、収奪が一般的に認識されなくなった今日の経済状態では、 職場の社会的位置づけとしての生産的活動も課題とすべきである。
 企業の社会的責任、企業活動における反社会性の監視、これらをとおして職 場における生産管理を学ぶべきである。

【仕事の場】
注40

○ 執務訓練
 まず訓練が必要である。文字、数字の書き方、人を誤らせるだけでなく、自 分自身の誤りで、何度も検算を繰り返すようなことのないようにしておくべき である。転記、入力で誤ったら発見し、訂正できること。誤りやすい箇所、条 件、内容を把握しておくこと、誤りを見つける方法、手段を用意しておくこと。 書類の並べ方、閉じ方もどうでも良いのではない、組織の中での仕事である。 正確、効率の為にも、こうした実に些細なことに気を使えるかが重要である。 集中できるように課題を理解し、体調等条件を整えておくこと。
 会議などでは、まず記録をとること。後に自分でわかる記述、結論がどうな ったのか明らかに記録すること。記憶の補助のための記録は誤りの元である。 項目だけでなく、結果を必要充分に記録しなくてはならない。発言をいちいち 記録することは機械ができる。しかし、まとめるのに録音機械を利用するので は、会議の時間と再生の時間として倍以上の時間がかかる。議論について、議 論の流れ行く先について理解できる予備知識と事後調査、確認が必要である。

○ 仕事の遂行
 課題と同時に与えられた条件、情報が十分とは限らない。細かいことにこだ わらず必要十分な情報入手の手段、方法、コネを使うこと。関係規則、きまり に矛盾がある場合がある。矛盾は状況と、本質の把握によってしか解決しない。
 情報のアクセスに習熟すること。公認される根拠を誰に聞くか、聞き方、必 要なら複数に確認すること。何を調べるかを把握し、収集、保存、整理、検索 の仕方の訓練。
 与えられた課題を持てる力で処理すること。与えられた権限、持っている能 力で処理するだけでなく、処理方法を改善する。非生産的仕事をだくだくとし て守っていることは許されない。仕事の方便を、方便を守ることを仕事にする ことは許されない。仕事の方便は、制度を改善し、合理化し、現実的な仕事に しなくてはならない。
 公式の処理と補助的な処理の組み合わせは、処理対象の理解と処理手段の理 解がなくてはならない。補助作業を公的なレベルで処理するには手間がかかり すぎる。公式化は要件だけではなく、関連する事項との調整や、整った形式、 正確な記録性が必要になる。メモですむことを公式文書にする必要はない。第 三者にも伝えるメモであれば、公式文書に準じて作成する必要がある。
 定型化、マニュアル(手引き書、ドキュメント)化、制度化し、システム化 する。例外処理、不測の事態に対して、押さえるべき要点を整理する手段とし てもマニュアルは欠かせない。マニュアル作成は作成者自身の仕事に対する理 解を深める。マニュアルは情報システム化の基礎にもなる情報である。
 問題点を洗い出したら、重要度、自分の適性、能力に応じて、どうあっても 取り組まなければならないもの、任期中に片付けるもの、年度、四半期、月間、 週間、日々の課題を整理し、実行スケジュールを作る。課題の優先順位は進捗 だけではなく、状況の変化によっても変わる。

○ 仕事の責任
 必要十分な処理をすること。正確さ、期限、美しさ等の程度は課題によって 異なる。誤りが実際に訂正できる仕事であれば一通りの注意でよい。金銭、信 頼が関わる場合は充分な確認が必要である。人命、仕事の本質に関わる仕事で あれば注意だけでなく、再検証の手続きが必要である。
 「取り返しのつかないこと」その判断は仕事についての日常的な理解が必要 である。訂正のきかないこと。結果の社会的影響力評価ができるためには、社 会の主要関心の流れを不断に追っておく必要がある。世界的に、国内的に、地 域的に、関連分野で何がどの様に問題になっているのか。
 関係規則、きまりに反していないこと。成文の法律であれば、条文の確認、 判例の確認、解釈能力の訓練でことたりる。実体法、しきたり、法則は知識と してだけでは身につかない。こまごまとした実務でも何等かの根拠規程がある はずである、また関連規程、前例など手にいれなければならない。すぐに理解 できなくとも必要なときに入手できるようにしておくべきである。制度、組織、 人についての理解、特に予算要求から、執行、決算、監査まで、金に関わる流 れの理解は基本である。

 仕事は結果を出さなくてはならない。仕事はいかに努力したかによっては評 価されない。見習い中であるなら結果に最終責任はない。努力が評価されるの は訓練としてだけである。

 そして、仕事を私物化しないこと。自分が交通事故などで突然死んだとして も、仕事に支障のないよう整理し、懸案、保留事項には付箋を、入れ物にはラ ベルを付けておくこと。決して書類をしまい込んだりしないこと。生き長らえ て、記憶力、集中力が衰えてからは、自分自身にとっても必要なことである。 自分の成果、到達点を明らかにする。そして、後任者に親切な引継をするため にも総括する。

○ 職場における個人的立場
 仕事に熱心なのも良いが、現実の仕事は理想どおりではない。反対し、足を 引っ張るならまだいい、職場環境を腐敗させる人間がたいていどこにでもいる。 そんな人間に対されたとき、自分を守れるよりどころも必要である。仕事以外 に、自分個人の普遍性を実現する場を確保するのも一つの手だてである。最も 良いのが人類に対する自分の責任を果たす仕事を見つけることである。

 

第4項 科学運動

 理論は概念として形を与えられていても、現実変革の力にはならない。理論 は未知の分野に対する前進と、既知の理論の普及、そして適用がなければなら ない。理論を社会的に実現しているのが科学運動である。

【社会的科学運動】
 理論活動は科学者の専管事項ではない。
 科学の純粋性をいかに強調しようとも、科学と対象との関係は科学そのもの の社会的存立に関わる。イデオロギーの如何に関わらず、対象との関係を奪わ れては科学は成り立たない。いかに研究者の個人的研究課題であっても、孤立 した研究活動はありえない。研究者の主観がどうであれ、科学、その一部分と しての研究は人間の社会的認識過程である。

 それぞれの研究者の研究の端緒、および研究者としての自立の過程は、当該 研究者の研究活動を含む社会生活の中でえられたものである。職業として研究 活動を維持できるのも、研究と研究者が社会的に評価され、社会によって研究 活動と研究者の生活が保障されているからである。
 現代にあって、研究職を含む職業の社会的存立は社会的組織なくしてほとん どありえない。社会から隔離された国家の極秘研究であっても、それこそ社会 的関係にある。また、政治的、政策的に規制され、外部と遮断された研究でも、 その研究組織内では公開されていなければ研究の進展は保証されない。
 自然科学に限らず、研究規模の拡大によって、研究組織そのものが研究成果 を左右する。太古、万学の女王であった哲学ですら心理学、情報理論、システ ム理論を無視しては、認識論を正常に発展させえない。

【研究主体】
 研究者は研究能力があるとされた者が生活を保障され、資金と、時間と、情 報利用の権利(アクセス権)を与えられる。社会的特権を与えられる。
 研究者を統制するために、実際の研究過程とは別に研究計画、予算割当、業 績評価がある。研究計画作成では研究課題の有用性についての説明、予算割当 では成果の到達可能性を説明する。研究業績評価では論文数、被引用論分数、 学会活動状況によって非専門家に客観的に見える方法で評価される。

 科学的展望、研究課題の設定、目標設定、研究者それぞれの研究方法・技法 の組合せ、研究成果の評価と、研究過程へのフィードバック等を決定できるの は研究者である。研究過程での本質、現象、実験・観察、体系化等、様々なレ ベルで価値判断できるのは研究者である。科学者の自主性が保障され、かつ科 学者は社会的責任を果たさなくてはならない。これは社会的認識過程としての、 社会的運動としての科学の中枢をなすものである。しかし、これらすべてが 「科学的」創造過程ではありえない。

【研究組織】
 今日、研究主体は研究者の社会的組織である。研究成果は一般的には学会で 評価される。基本的な学会は独自に事務組織、予算を持っている。しかし、社 会的に認知されていない分野では研究者の個人的な負担になり、その研究者の 研究課題を認めている所属研究機関の許容量の大きさにより成立する。
 研究グループ等、直接的研究組織に研究主体は限られない。研究活動を社会 的に機能させるための研究者の組織も重要である。
 人間のDNA(ゲノム)の解析等では予算と、組織・制度の獲得競争が、自 動解析技術の開発が、研究の成果を決しかねない状況にある。研究者の能力よ りも研究費の獲得、研究組織の運営手法が研究成果を左右しかねない。
 競争の激しい分野では雑誌にもよらず、ファックス、電子ネットワーク通信 で研究成果の情報交換が行われている。研究成果の評価も情報交換の過程で分、 秒を争っている。研究の効率化は行政の締めつけだけの問題ではない。研究競 争の中で研究成果をあげるには、効率的な研究活動が行われなくてはならない。
 また、ますます組織的研究が進められていく中で、職務分担を明確にし、研 究においては研究者がリーダーシップを取って組織運営をし、事務分担を適正 化していかなくてはならない。研究遂行上の判断は研究者が行い、実務は事務 職を指揮して進める、経営能力・組織力は研究の場合でも例外ではない。

【研究環境】
 科学情報メディアが、社会的に公開され、予算獲得のためには科学ジャーナ リズムの育成が、場合によっては政策的影響力の行使が研究の進捗に影響する。 当面、新知識獲得だけを科学研究の目的としたのでは、高エネルギー加速器、 宇宙探査、DNA情報解析、知識データベース構築等に予算を獲得することは できない。
 当然に、次代の研究者の獲得、育成も政治的、社会的問題になる。
 研究の社会的活動の場としても、研究者自らの社会的役割の評価の場として も、学会の運営、学術会議の運営、研究補助金の採択審査等研究者の社会的役 割は減ることはない。巨大科学であるほど研究者の採用、配置、分担、進捗管 理等の事務分野の重要性は高まる。

【研究組織の延長】
 限られた数の専門研究者だけでは対象をすべて把握はできない。すべてのデ ータが実験や、標本によって提供されてはいない。現実の世界が科学の対象で あり、空間的、構造的広がりは専門家だけでとらえきれない。非専門研究者、 同好者によって新しい発見がもたらされることがある。
 社会現象を対象とする場合には、専門研究者の手元にデータが届くまでに質 的変化、時間の経過がおこる。社会的対象の新しい動きは当事者によって意識 されるか、関係者によって認識される。それが新しい動きであることを評価し、 報告できるのは担当者か関係者であって、すべての事象を研究者が追うことは できない。研究者はより多くの人に学問的評価能力、報告能力を普及しなくて はならない。
 特に自然科学の分野は産業技術に依存している。実験・観察手段の提供、実 験・観察手段の開発、研究の効率化は産業技術の発達によって著しく進歩して いる。
 科学の非専門家を組織し、収集されるデータの価値を評価し科学に反映させ るのは専門家の役割である。

【研究環境の整備】
 科学も含めあらゆる社会活動は物的環境が整備されていなくてはならない。 土地、建物、交通、通信に限らず、空気、光、水等々すら自然には備わらなく なっている。研究活動を維持、発展させるための社会基盤の整備がなくてはな らない。これは、研究事業をおこなおうとする者が絶対に回避できない責任で ある。
 最近問題となっているのが大型設備が次々導入されても、その稼働のための 経費予算、人員が措置されないことがある。実験材料、消耗品を買う予算がな い。エネルギー供給の容量が足りない。運転要員が確保されていない。研究を 滞りなく遂行できるよう関係予算を配分し、予定外に必要になる予算を補填し なくてはならない。
 設備原材料の購入、組立、運転の実務は研究の専門性とは直接しない専門的 実務である。今日特に重要となる研究情報媒体の管理は研究者だけでは対応し きれなくなり、それぞれに専門家を必要としている。一般の事務の情報管理が 定型化する傾向とは逆に専門的に多様化する傾向にある。情報媒体は技術革新 の最中である。書籍等文献情報は分野の細分化に応じてますます専門化してい る。
 土地建物の整備も研究課題の大型化、安全性の問題として政治課題にもなる。 その場合には他分野の研究者を含む研究者の総意として意志表示する必要があ る。

【研究の人的環境】
 人的環境は研究者、技術者、事務職、それぞれの立場に共通した問題、それ ぞれ独立した問題がある。しかし基本は研究者と技術者、事務職が研究発展の ために協力する体制をつくることである。
 人的環境は社会的環境でもある。研究者が現実に社会生活をする上で、その 生活保障はけっして個人的問題ではない。研究者が研究を続けていける社会的 報償、金銭、生活環境、社会的地位・名誉が保障されねばならない。
 次世代の研究者を引きつける条件がなくてはならない。若手研究者が事務処 理に追われている状況は、研究者の就職選択の条件としてもよいものではない。
 「好きな研究をして給料がもらえるのだから、教育や事務に多少煩わされる のもやむをえない」といった理由づけは問題解決にいたらず、すべての構成員 の将来展望を潰すものである。関わりのある問題はそれぞれの立場からの努力 を統一して可能になるのであり、職場としての活気がでてくる。

【研究成果】
 研究成果の科学体系への位置づけは、最も地味で最も政治的影響を受けやす い分野であるからこそ、専門家である研究者の注意が注がれていなければなら ない。
 研究成果は社会的に公表され、利用可能な状態にならなくてはならない。応 用技術と結びつける意味だけではなく、次の研究過程に継続・発展できる状態 のことである。そのためには、社会的情報交換媒体に乗らなくてはならない。 その媒体を利用者が利用できなくてはならない。
 近代までは図書館、博物館、教育機関等が研究成果の媒体をほとんど独占し ていた。しかし今日、そのような施設、制度によらず、研究成果の交流が行わ れている。図書館に揃った図書を見て研究していては時代に遅れる。
 図書館、博物館等の役割はなくなっていない。図書館も、博物館も、情報媒 体の倉庫ではない。図書館の例でも書籍だけが対象媒体ではなくなってきてい る。書籍であっても、いまある書籍のすべてを電子情報に媒体変換することは 現実に可能である。画像読み取り、文字読み取りシステムの進歩によって。媒 体に乗った情報がよりよく生かされるよう整備し、さらに集積させねばならな い。
 科学の成果は新しい知見であり、新しい解釈、方法、世界観としてもたらさ れる。それらは成果の報告、解説、教育、応用として実現される。そして次の 研究段階の基礎になり、他分野へ敷衍される。さらに社会の認識運動として、 研究組織・体制のを拡大強化し、運営を発展させる。最終的に科学思想を発展 させ、普及する。
 科学運動としてこれらは専門家学者だけではなく教育者、解説者等科学に携 わるすべての人を中心に、社会の構成員全員によって担われる。

【科学の自立】
 教育・研究は社会の要請に応えなければならない。しかし、無批判に社会の 現状を肯定することではない。社会の現実を踏まえた上で、人類の歴史発展の 要請にも応えねばならない。それらの要請をどう評価し、対応をどうバランス させるかはそれぞれのイデオロギーにもかかわる。イデオロギーの違いが暴力 や、破滅にいたらないためにも、大学自治の意義があったはずである。
 具体的に研究者の場合には、研究グループ、研究組織での意志決定と、研究 活動の統括、講座、学科、学部、学校・研究所の運営、これらは研究者以外に 責任をとることはできない。研究者が責任をとるための制度として代表者、各 種会議、委員会等の組織を研究者が担わなければならない。
 しかし、そのために本来の教育・研究活動が制限されることは最小限にすべ きである。

【理論闘争】
 研究の競争と理論闘争は異なる。
 研究はグループでも行われ不可欠でもある。しかし、理論闘争は組織闘争に すりかわってはならない。理論闘争は研究者としての資格で行われるべきであ り、組織力の闘いではない。組織力の闘いでは正しい結論はえられない。理論 を巡る組織力の闘いは社会的災禍をもたらしかねない。
 政治闘争としての理論闘争は組織間の闘争である。理論闘争課題が政治の論 争点になれば組織的な闘争になることもやむをえない。組織的地位、組織の人 材、媒体を利用した組織闘争として行うことは、理論の正しさを保証するもの ではない。政治理論そのものの論争でも、論争と組織闘争は区別されなくては ならない。

 

第5項 教育運動

【人間教育】
 教育は個人の権利であり、社会的義務でもある。人間は教育されなくては、 人間になることができない。自らを教育することによって、自らの生き方を決 め、生活の糧をえる。社会的に、より高い教育を受けることによって、より大 きい社会的力の行使の権限をえることができる。

 教育には基礎教育と能力に応じた教育がある。技術的に分けることは困難で あるが、理念、目標として区別しなくては混乱する。
注41

 基礎教育は人間としての成長を保障するものであり、社会生活を実現させる ためのものである。基礎教育であっても、具体的内容は能力に応じて異なる。 異なる能力であってもその能力を実際に発揮し、社会参加する基礎的能力を身 につけなくてはならない。どのように頭が良くても、その使い方がわかってい なくては役に立たないし、本人のためにもならない。身体に障害があってもそ の能力に応じた学習・コミニュケーション・スポーツの実現が工夫されなくて はならないように。

 能力に応じた教育はそれぞれの社会的地位の資格獲得に直接結びつく。個人 に利益をもたらすとしても、社会的に放置してはすまない。社会的には人材を 育てなくてはならない。人にないものを持っている才能は、社会的に生かされ るように伸ばさなくてはならない。

 基礎教育には学習と訓練がある。生活技術の獲得と文化を継承するための学 習と訓練である。教育としての訓練は、本人の理解に関わらず強制力によって 身につけさせることではない。強制は環境条件にしか及ばない。本人の関心、 記憶、論理、想像に対して強制することはできない。
 話す、読む、書くの基礎的部分は訓練である。またどの分野の発展的部分に も訓練は必要である。早く計算すること、論理的見通しを立てること、基礎知 識を記憶することは訓練として必要である。
 そして訓練の重要な内容として学習過程そのものの訓練がある。学習目標の 設定、学習環境の整理、学習態度、学習の継続は訓練しなくてはならない。基 礎教育の仕上げは教えることである。自らの獲得したものを、人に教えること によってより完成されたものに仕上げることができる。
 語学、芸術、体育、保健、技術、家庭科目は訓練を必須とする科目であり、 その科目の研究、教育者でない者にとっては科学ではない。全教育期間を通じ て必須であるべき科目であるが教育の成果として評価されるべきものではない。
 語彙、構文の訓練は表現を適切に具体化するために必要である。より多くの 言葉を記憶し、複雑な構文を解釈することではない。表現しようとする対象と 語彙、表現方法との間の感覚的実践的対応関係、語彙間、語彙と構文との多重 な関係獲得としての語彙と構文の訓練である。「思ったままを書くこと」は思 う対象の複雑なニアンスを的確に表現する語彙によって扱う訓練である。つか み取った対象を的確に言語表現する訓練である。「思うこと」の創造性、想像 性とは別の基礎訓練である。
 特に外国語科目は必須の訓練科目である。国際化し、海外旅行をしなくても 外国人と接し、外国語のニュースが直接届けられる。外国語学習の必要性は外 国人との直接コミュニケーション、異文化の理解にとどまらない。言語は人間 関係を反映しており、言語を学ぶことは対人関係をとおした人間観、思考方法 を学ぶこともできる。自己の表現を明確にする契約的言語形式もあれば、対象 とするものを指示するだけの表現で話者相互間の関係までも暗示する言語形式 もある。特に外国語学習で重要なことは意識的に言語を再学習することである。 母語は意識せずに獲得してしまったが、外国語は母語でない言語の意識的な学 習として特別な意義がある。

【教育の基礎】
 教育の基礎は基本的には学校制度である。体系化された学問を効率的に、普 遍的に学ぶには学校制度を利用するのが最良の方法であるはずである。個々の 学習者にとって、新しい世代全体にとって効率的、普遍的教育制度は、社会制 度として社会的に保障されるものである。現実の学校教育制度がそのようにな っていないなら、そのように変革されるべきであって、他の方法によって効率 的、普遍的教育制度を作ることはできない。
 学校だけで学習環境を整えることはできない。図書館、博物館、美術館、体 育施設、会館、集会場、公園等の施設、設備、制度が利用しやすく、身近にあ ることが必要である。
 学校、子供をとおして職業、地位、思想、信条にかかわらない大人の交流が、 学習者としての子供の学習環境にとって必要である。
 社会的権力、国家権力を持つものにとって教育はその支配のために重要な分 野である。被支配者の労働力訓練、社会的動機づけ、選別のための制度として 特に学校教育は重要である。制度、環境を改善して行くだけでなく、権力者の 介入に対しての意識的な闘いが必要である。

【初等教育】
 初等教育にあっては親と教師が主体となって学習環境を変革しなくてはなら ない。初等教育はなんでもまねることによって、人間としての可能性が引き出 される。生活のすべてが生活訓練であり、社会訓練であり、人間としての発達 の基礎を形成する。
 初等教育は子供の住んでいる地域で行われる。地域の教育力とは、子供が生 活の過程で関わる環境での子供への働きかけである。教育機関に限られない施 設、制度、そしてなにより地域の様々な立場の人々の子供への配慮と関わりに よって初等教育が実現する。
 人間関係の基礎を母親との関係に矮小化したり、子供への責任を母親に押し つけることは、子供の人間としての発達に十分ではない。保育園と幼稚園の分 離など大人の都合と思惑によって、子供の全人格的発達の保障を無視している。 学童クラブも含めて、子供を保護措置の対象として管理するのではなく、子供 が地域で安心して生活できる場として整備する。その中で学校での生活訓練、 基礎知識の獲得、個性の発揮を目指す。

【中等教育】
 中等教育にあっては、学習者の主体性を尊重した教師との協力関係を実現す る。自我の確立期としての中等教育は自己主張と自己反省の場を提供する。そ の中で学校は心身の発達、知識の拡大を援助する。生徒を選別するのではなく、 本人の可能性を見いだし、本人のの確信によって進路を定める。

【高等教育】
 高等教育では学習者の自治権にもとづく取り組みが前提である。高等教育に あっては学習者は被指導者ではなく、独立した人格である。研究者として研究 グループに加わるなら指導、被指導者関係の研究組織に自らを位置づけるが、 高等教育課程では学習者として自らの学習に関しては独立した主体である。高 等教育は学習者が主体であり、学習者を援助する課程である。教師は指導者で はなく、援助者である。
 したがって、学生は自治を実践し学ぶ。
 研究と教育が一体となる専門課程では研究主体として、指導・被指導の関係 で組織される。

【教育制度】
 教育は本人にとっては生活手段獲得の資格を得るためである。より高く自ら の労働力を売るために教育を受け学習する。
 教育は社会にとっては社会的物質代謝の担い手の教育である。新しい世代に 引き継がれなくては社会は維持できない。よりよい人材が育てられなくてはな らない。
 社会の支配者にとっての教育は、搾取材料の育成である。競争させ、選別し、 より安く、従順な労働力を確保しようとする。
 本人、社会、支配の何れの目的も否定しきれないのが現実の社会である。具 体的な教育問題に取り組む場合にはこの3つの視点から整理する必要がある。 教育費用の負担、授業料金の決定は額と負担者、学費援助の問題としても複雑 である。
 基礎教育は公教育であって、公費で負担されるべきである。基礎教育は選別 の教育ではない。私教育も基礎教育部分には私学助成は認められる。受験技術 教育に公的補助はふさわしくない。義務教育は公費負担でなければならない。 社会の一員として生活し、それぞれに社会的に貢献できるよう教育することは 社会の義務である。
 さらに、それぞれの能力を発揮できるようにする教育も、社会的でなければ ならない。社会的に必要な教育過程の費用負担は、必要とする組織が負担する。 教育を受ける権利は基本的人権である。
 しかし、教育が選別手段であり、個人の社会的地位獲得手段となり、個別企 業の職業訓練であるなら受益者負担で行うべきである。
 しかし現実に基準があるわけではなく、不公正もある。就業即報酬に結びつ き、個人負担分が回収される。

【教育者の処遇】
 教育制度で焦眉の課題は教師の処遇である。教師に適していない者が教壇に 立つことは本人の責任だけでなく、被教育者にとって取り返しのつかない損害 を与える。不適性な教師は首を切るのではなく、速やかに適職に転職できる制 度が必要である。労働者としての権利は守って、教育者としての責任を果たせ る者が教育を担わなくてはならない。
 適格性の判断が管理教育のための手段とならないよう、教師の専門家として の自主組織と、被教育者とその保護者に開かれた組織の双方によって担われる べきである。

【教育環境】
 学習すること自体が自らを変革する闘いであるが、学習環境を獲得、変革す ることも闘いである。管理教育との闘い、教育予算獲得の闘いといったことだ けで済まされない。学習者が獲得しなくてはならない課題を確実にえられるよ うにする闘いである。

 教育環境は学校卒業後の社会での評価によって大きく影響される。出身学校 によって社会的地位が決まってしまう。学問分野によって就職の容易さが違う。 教育内容ではなく、学歴によって評価される。最終学校への入学試験の形式に よって、それまでの課程の教育内容が規定されてしまう。
注42
 教育の評価は自立し、才能・能力に応じて社会的に貢献しているか。能力に 応じて働き、働きによって生活できること、働きに応じて処遇されることが、 教育環境にとってとりあえず重要である。
 学校での勉強ができる人も、できなかった人も、それぞれの社会的地位で能 力を発揮できる社会環境が理想である。
 教育制度の普及した日本であっても、すべての子供に目が届かない。受験戦 争も、画一授業もどれだけの才能を埋もれさせ、潰していることか。世界の地 域では子供の生命すらが大量に奪われている。戦争、飢餓によってどれだけの 才能を見殺しにしていことか。

【職業・社会教育】
 職業によって就業するために必要な基礎資格がある。社会的責任が問われる 職業は社会的資格基準を満たさなくてはならない。人の生命、人格に直接関わ る医療、教育を社会的に保証するためには高い資格基準が設定され、その報酬 が保証される。社会的公正をになう職業は選考によって選抜される。選挙によ り、試験によって公務員は採用される。準公務員には資格免許が与えられる。 もっぱら営業が目的であっても、社会的影響、責任がある職業には免許が与え られる。
 これら社会的に位置づけられた資格には、社会的教育が保障される。しかし、 報酬を目的に資格を手にしようとする者が出てくるのは当然である。一度の試 験、選挙だけで一生の資格を与えることはできない。事前の教育の各段階での 適正が判断されるべきである。一度の試験の選抜方法が完全であるわけはない。 不適切な者が、あるいは不正により選抜されることもある。是正制度が必要で ある。

 社会的に重要なのは初めての職場での訓練である。事業全体とそれぞれの立 場の位置づけ、目的意識、留意事項、関係者との相互関係の理解、これらを系 統だてて、日常的に教育されるかどうかは本人にとっても、組織にとっても重 要なことである。
 職業に就いた後、必要な教育、不足している教育が明らかになることがある。 社会人教育が必要である。社会人教育も、本人の生活手段獲得、社会的貢献、 企業利益を求めての場合がある。しかし、今日社会人教育の必要が強調されて いるのは、企業の研修負担を公的あるいは個人的費用によって肩代わりするた めと、高齢者の余暇対応としてである。
 学習は学習者自らの課題である。学習は生活実践の一部としての自己実現、 自らを成長させることが本質である。しかし現実の学校での成績、資格試験、 そしていわゆる「生涯学習」は生活のためであっても直接学習者のためのもの ではない。

 技術・文化の継承が教育である分野もある。

 

第6項 文化・スポーツ運動

【文化】
 娯楽だけが文化ではない。娯楽は文化の一小部分である。生活のそれぞれの 面で文化的でなくてはならない。仕事、家事、余暇生活全体がより文化的にな らなくてはならない。
 産業化された文化は「価値」の消費が目的になる。
 文化は省力化ではない。機械設備を利用することが文化ではない。暇つぶし を見つけることが文化ではない。文化は人のための自己犠牲ではなく、自分の ための自己満足でもない。
 生活に必要十分な物を備え、生活を自らの意志で制御し、将来の不安を保障 することが文化の基礎である。人間関係、物、環境が人間としての生活に調和 されることが文化である。現実を変革し、未来を切り開く創造活動として文化 は発展する。
 今日の日本では本来の文化的生活を実現する物質的基礎は備わっている。主 体的に、社会的に、文化を意識的に作り上げることが必要になっている。

【スポーツ】
 スポーツは修行ではない。修行の一つの方法としてスポーツを位置づけるこ とはできても、スポーツのすべてが修行ではない。
 環境、物質代謝のすべてが人工的になり、生物としての人間は人間として意 識的な運動を必要とする。訓練により筋力・肉体制御の限界を拡張することが できる。成長過程では成長の方向性を決め、全体的発達を実現するために重要 である。肉体的負荷をかける場合も代謝過程としての負荷と、筋力としての負 荷は異なる。それぞれの方法と力学的強さの適正値がある。それらは年齢によ っても、本人の状態によっても異なる。
 スポーツは競争ではない。競争はスポーツの重要な要素ではあるがすべてで はない。
 スポーツは意識的・社会的に目標を設定した運動として、動物の運動と区別 される。スポーツはゴールを決め、方法を制限したルールに従う社会的運動で ある。
 意識的に肉体を動かすことがスポーツである。意識的に肉体を動かすことで、 肉体の生理機能が保全され、充実する。 個々の運動要素として筋肉を伸ばす 場合も、その筋肉に意識を集中する必要がある。技術訓練の場合はなおさら意 識的な練習が必要である。疲労が蓄積してからの技術練習は効果・意味がない。
 これらのスポーツにおける意識の役割は、科学によって援助される。科学的 トレーニングでなければ、成長を妨げ、傷病をまねき、時間を無駄に過ごすこ とになる。

 肉体は精神と一体のものである。肉体的機能の実現は壮快感をもたらす。競 技の緊張感、意識的練習は精神的能力の訓練でもある。壮快感、緊張感は肉体 と精神の相互を充実させる。
 それぞれの能力に応じたスポーツが可能である。能力が異なれば、同じルー ルに従う必要はない。幼児、高齢者、障害者もスポーツを楽しむ権利を持って いる。
 スポーツの目標・方法は社会的に設定されている。すべての人がスポーツを 享受できる環境は社会的に保障されなくてはならない。設備だけではない。時 間、利用条件が整備されなくてはならない。
 見るスポーツは壮快感、緊張感等を疑似体験し、共有する。

 

第4節 普遍的・個人的課題

注43

 

第1項 生活

 限られた時間、限られた能力でよりよい生活をするには、生活を管理しなく てはならない。一生を見渡して、幼年、少年、青年、壮年、老年それぞれの期 に、年、月、週、日、時、分ごとに管理しなくてはならない。
 歳をとると時間の経過が速く感ぜられる。歳をとると自分の生活能力が落ち るように感じる。肉体的・精神的老化によることもある。あるいは、より多く のことに気が関わることによるのかもしれない。自らの生活を制御することの 重要性は、歳をとると共に理解できる。
 生理的リズムに合わせ、社会的条件に対応し、生活上、仕事上の課題を段取 りする。ほとんどの問題が個人的にだけではすまされない、社会的な問題であ る。

【生活の段取り管理】
 物事には順番がある。前段階を経なければ次の段階に進めない段取りがある。 前段階を省略することはできない。逐次処理の場合である。前段階を点検し確 実に処理しなくてはならない。前段階をよりよく処理することによって、結果 の「でき」が大きく異なる過程もある。成否を決する場合も、価値の大小を異 にする場合もある。仕上げだけでは取り返すことのできない質を、前段の各段 階・過程で積み上げる必要がある。
 関わりのない複数の事柄を期日までに終わらせなくてはならない段取りもあ る。並行処理の場合である。右手と左手で分けて処理するように、担当を分担 して行う場合と時間を分割して処理を切り換えて行う場合がある。担当を分担 する場合は分担の仕方と統一の仕方に問題がある。一度にまとめてできること は二度はしない。
 時分割の場合も機械的時間ではなく処理の過程の区切りとしての時間の場合 と、現在の最適条件の処理によって選択する分割もある。種を蒔く時期は決ま っている。

注44

【生活リズムの管理】
 集中力を維持、回復するためには、休息、気分転換が必要である。生理的リ ズムを維持するためには、生理的条件に応じた食事、睡眠、運動の質と量の管 理が必要である。
 実現させるのは訓練であり、子供の頃は親が直接に、あるいは教育制度を通 して訓練する。しかし基本は自己訓練である。
 生活のリズム管理は時間管理でも、スケジュール管理でもない。機械的時間 という形式によって管理し易くすることは手段であって、目標ではない。無駄 な時間を無くし、その時々の課題に集中すること。予定がなくて生じた短い時 間も、その時にできる気分転換、リラックスにでも集中する。集中できる時間、 程度は限られている。訓練によって集中力は一定程度増すことができる。課題 を明確にする。意義を明確にする。生理的内外の環境を整えることによって。
 受験勉強、仕事のノルマに集中することも、集中することの訓練にはなり、 それなりの報償もあるが、自分の生活の充実にはならない。自分の生活を充実 させる課題を明らかにしなくてはならない。
 一生になしえる仕事量は人によって大きく異なってくる。それは能力の違い によってだけ決まるのではない。能力以上に自己管理によって決まる。

【衣】
 衣服は生理的環境の保全と安全が基本的問題である。保温、保湿、換気等肉 体的生理環境と外部環境とを仕切る。
 衣服は怪我、病気を防ぐ。特に非日常的な環境ではそれなりに専門的な配慮 が必要である。
 素材の選択と維持管理はそれなりの基礎知識を必要とする。素材の機能と性 質は、技術革新によっても変化する。新しい素材が開発され、改良されている。
 衣服の物理的な機能、目的に応じた服装の活用は文化的な機能でもある。気 分を装いで整えることができる。服装の自己主張は相手の評価に影響する。
 衣服も最善の状態を実現しようとすると、知識と時間と費用がかかる。生活 上のバランスによって決定するしかない。

【食】
 食料として「食」は生存の物質的基礎である。
 食糧の量が確保されるだけでは生存は保障されない。栄養の質と量、生活の リズムに合わせて食事ができなくては健康を維持できない。朝食の重要性、就 寝前の食事制限は消化吸収の代謝機能としてだけでなく、生理リズムを整える 意味がある。定時の食事は生理代謝リズム形成の基本である。
 人間の食事は調理を必要とする。調理は食べやすく、栄養を吸収しやすくす るだけでなく、衛生上も必要である。
 調理は生活の中でなくなることのない創造活動である。できあいの食材が普 及しても、調理が完全になくなることはない。食材、調理法、味付けの組み合 わせは無限であり、その組み合わせの中から費用と、時間と、持てる技術によ って、実用的に必要な物を創造する。
 「食」はさらに社会的、文化的である。食事を共にすることは人間関係を豊 かにする。食べる環境、作法、話題が栄養補給にとどまらない社会的、文化的 な場になる。食事によって気分転換することもできる。食は肉体的生理だけで はなく、精神的健康とも関係している。
 社会的な食事技術として味覚に肥えることがもてはやされているが、重要な ことは「好き嫌い」である。子供の好き嫌いは親の食生活の反映である場合が 多い。食生活は自分個人の問題ではない。場合によっては粗食を受け入れられ ること、早食いの技術も必要である。

 食品公害、栄養価、市場価格、生産・流通費用削減のための食品としての質 の低下、見栄え、物流、出荷時期、添加物。社会的生産への食の依存は、社会 問題となって現れている。

【住】
 住むことは居住空間として、財産の保全としての問題である。建物の存在形 態が自己主張の手段にもなりうる。
 住居は生活空間として物質代謝の場、近隣環境・相互環境の保全、家族の人 間関係の存在の場である。
 日本の住居は核家族化の進行中はとにかく不足した。家族単位が安定するこ れからの住居は将来の家族構成を見通しやすくなった。それでも日本での住宅 取得は、一般の人々にとって一生の問題である。住宅資金、住居環境、構造の 問題として生き方に関わる。借家も一つの選択肢である。
 自然環境から居住環境を守る構造には強度がなくてはならない。生活は水、 ガス、電気、通信等を受け入れ、ごみ、屎尿、排気を出す。受け入れ排出手段 は物質代謝の基礎である。設備は生活方法、建物の構造に影響する。光、熱、 風の利用は省エネルギーだけではなく、快適性の確保になる。利用のしやすさ、 維持管理のしやすさも基本的な機能である。遮音、断熱、防湿は他の条件との 調整が必要である。

 住環境の確保は自然条件よりも経済的社会的条件が決定的になってしまって いる。職業・職場の地理的条件によって選択は大きく違ってくる。すべての宅 地が高いだけではない。不動産、金融のために政策的に地代が高く、あるいは 上昇する。個人的住環境の問題では済まされない。

【医療】
 医療は医者だけの専管事項ではない。何よりも本人の問題であり、医者だけ ではなく看護婦(夫)、医療技術者、家族の問題である。社会的にも保険制度、 医療制度、健康観、生死観が問題になっている。
 健康は病気でないといった消極的なことではない。社会にあって主体的に生 活できる状態が健康である。肉体的に、精神的に実践的でなくてはならない。
 生死の問題は哲学、生物の課題だけではなく、どの時点から人間として認め られ、死んだと認められるかは法律の問題ですらある。医療の発達はこれまで 救えなかった未熟児や疾患のある新生児を育て、治療することが可能になって きた。不治の病でも延命措置が可能になってきた。医療をどこまで行うかは本 人ではなく、周囲の人々が判断しなくてはならなくなってきた。本人の意思の 尊重といても、新生児に意志はない。意識を失った病人に意志表示はできない。
 さらに医学の発達のために、医師の実績づくりのために医療が行われる場合 すらある。少なくとも、自らの死について事前に意志表示をしておかなくては ならない。
 臓器移植、遺伝子治療は人間存在の問題である。その治療で生き延びること のできる人にとって切実な希望である。臓器移植の場合は提供者の健康、死が 問題になる。将来的にはどこまで移植、遺伝子の加工が本人の存在として認め られるかが問題になる。将来の問題が延長線上にあることを確認した上で、今 現在の問題の現実的対応が求められている。
 社会的結論はいつか出され、また変更されるが、自らの扱いの結論は自分で 出しておく必要がある。

【職業】
 職業は進路決定、就職の問題である。職業は生活手段の確保と、自己実現の 場の選択である。

 生活手段の確保として、自営業、就職、自由業によって条件が異なる。生活 手段は社会的立場、職種、地位で割り切って考えることはできない。生活手段 で生き方を分類することはできない。それぞれの社会的地位でのそれぞれの方 向性がある。方向性の基準は階級的立場と社会的立場である。職業選択の際に 「知りませんでした」ではすまされない。
 階級的立場は革新と反動の対立方向である。人間性の実現を目指して未来を 指向するか、既得の利権を保守するのか。
 社会的立場は正と悪の対立方向である。公金は制度によっても、詐欺によっ ても横領されている。公金横領の体制のおこぼれに預かり、体制に食い込んで のし上がる。あるいは投機によって資金の奪い合いをする。こうした体制を許 しているのは悪の立場に立つ者だけではない。自らは悪の分け前にあずからな くとも、体制を維持する仕事によって生活手段を得ている者、悪を知っていな がら告発しない者がいる。
 職業選択に際し、自らの生活手段をどのように選ぶかは、階級的立場と社会 的立場によって自ずと決まる。

 自己実現の場の獲得として職業そのものを選択する場合と、生活手段とは別 に選択する場合がある。職業以外に自己を実現したければ、条件の良い就職を 選択すればよい。
 職業に自己実現を求めるには職業によって仕事は異なる。芸術家などの創造 的職業は才能と努力を必要とする。研究者、教育者、医者、技術者などの専門 的職業はそれぞれの分野の技能を必要とする。生産・物流現場への就職は社会 的価値の直接的生産を行う。事務職の場合一般的能力を実証しなくてはならな い。事務職は法律関係、経済関係に対応し物品管理、組織管理、資金管理、人 事管理、情報管理をおこなう。事務職はどこに配置されようが専門家が担う以 外のことすべてを担う。すべての事務職に自覚されているかどうかはともかく、 高く評価される事務職はゼネラリストとして能力を発揮する。

 

第2項 家庭

 家庭は生理的人間関係である。家庭に好き嫌いの人間関係の選択は入り込ま ない。
 家族関係は感情的であって良いし、感情によって損なわれてもならない。信 頼などあっても無くても存続する関係であるはずである。
 配偶者の選択、共同生活の他の家庭環境は与件であり、取り替えることので きない前提である。配偶者との関係であっても、子どもを媒介にした特別な人 間関係になる。
 家庭内の物資代謝への商品経済の浸透によって、意識的に家族の生活関係を 確認しないと取引可能な関係にすり変わってしまう。

 

第3項 育児

 育児には気配りの心地よさ、感情の交流を経験させることが大切である。成 長してから「協調性がない」「他人を理解しようとしない」と言って非難し、 本人の責任を追求しても意味がない。何故それが人間関係において必要なのか 身についていないのだから。親、おとなが余裕をもって子供に接し、気配りの 心地よさ、感情の交流を体験させる生活を実現しなくてはならない。

【保育】
 育児は家庭だけの責任ではない。さらに育児は母親だけの責任ではない。母 親がいない場合、病気の場合育児は母親の責任ではない。まして幼児本人の責 任ではない。社会的責任、保障があって安心して親は育児ができる。
注45
 具体的には保育園・幼稚園などの社会的保育施設、制度が整備され、措置の 必要性に限らず、すべての子供が専門家の援助を受けられることである。
 また、核家族化した家族構成では家庭の外で同年齢、異年齢の子供どうしの 関係の場は不可欠である。家庭が不用なのではない。家庭を中心として安全な 子供の生活環境を社会的に整える必要がある。
 さらに、生理的免疫も早い時期の集団の中で鍛えられた方がよい。病気にな るのがよいのではなく、いつかかからなくてはならない病気は、専門家の援助 がある環境で、病状が軽くて澄む内に免疫を獲得しておいた方がよい。

【親になる】
 人間関係にあっても一方的な関係はない。子を育てることは子を通して自分 を見、点検することでもある。生きる上で必要なこと、睡眠の確保、栄養の量 とバランス、健康のための運動を子供を育てることによって理解する。生活上 必要なこと、生活のリズム、整理整頓。社会生活で必要なこと、挨拶、立場の 尊重、コミュニケーションの方法、共同作業の進め方、規則に対する態度を育 児の過程で自覚する。子どもとの関わり、子どもと一緒の時の態度は、子ども にとって実施学習であり、親にとって考え方、生き方の見直しの機会である。

 子育ては基本的に成長の再体験、成長過程の客観的観察であり、生きること、 生活することになる。


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