続き 第二部 第三編 第9章 人間の生活

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概観 全体の構成

   目次


第8章 人間社会一般

 「第二編生命の発展、第6章人間の誕生、第3節人間社会一般」を受けて、 人間社会の一般的あり方を取り上げる。第1節は人間社会の存在としての基本 的運動。第2節は人間社会によって定まる価値体系。第3節は人間社会独自の 現象としての文化の一般的あり方、その基礎。第5節でそうした社会にあって の人、個人のあり方を取り上げる。

 

第1節 物質代謝としての社会

【人間社会の基本】
 人間が社会的労働を通じて自らを進化させたように、人間の物質代謝そのも のも社会的に発展する。物質代謝に限ってみるなら、社会は有機体としての相 互作用からなっている。
注76
 人間は社会的労働を通じて自らを形成したが、同時に物質代謝を社会的に発 展させた。
 そもそも社会は物質代謝のための組織として生まれた。人間社会がアリやハ チの「社会」と異なるのは、各構成個体の生物的分化によって相互依存する社 会ではなく、生物的に対等な個体によって物質代謝の個々の過程を分担する相 互依存に基づいていることである。そしてアリやハチは、まれにしか物を生産 しない。(かびを栽培するアリ)

【物質代謝の人間的変革】
 人間社会の物質代謝は生物的物質代謝とは質的に異なる。生物的物質代謝は 自然環境を受け入れることが基本である。生物は自然環境、その変化を受け入 れ、自らを変化させ、適応し、進化してきた。しかし、人間は自然を変革し、 そのことによって自らを変革してきた。
 自然を手段として、結果として社会的に変革することによって、自然の物質 代謝を社会的物質代謝に変革してきた。その物質代謝を基礎にして人間がつく られ、文化がつくられた。
 物質代謝を担う物質そのものも、脱生物的質のもの割合が増える。生理的物 質代謝は各人間個体の物質代謝の内の基本的部分でしかない。人間の生活全般 にわたる、人間が構成する社会の物質代謝の内、生理的物質代謝の割合は減少 し続ける。

【人間的、社会的物質】
 人間社会の成立以前、ヒトの進化以前にも物質代謝は存在する。宇宙の歴史 そのものが物質の相互作用の、物質変換・代謝としての発展過程であった。地 球の歴史の中で生物が誕生し、生命の物質代謝が進化し、地上の普遍的な物質 代謝過程をつくりだした。それら物理的、生物的物質代謝を行うものを、社会 に対立する概念として「自然」と呼ぶ。あるいは「社会的物質」に対して、単 に「物質」と呼ぶ。
 自然的物質は人間社会に取り入れられて、人間社会独特の運動をする。エン トロピーは生産過程で増大するが、この過程で生産物において減少させられ、 これが消費によって増大させられ、社会から排出される。しかも、社会からの 排出物も社会的である。そのままでは自然を破壊してしまう。自然環境自体が、 社会的に管理されなくてはならない社会的物質運動の範囲となる。
注77

【社会的物質の生産】
 自然あるいは物質はそのままでは社会的存在、社会的物質にはならない。基 本的に社会的に利用される物、社会的に評価される物は労働によって生産され た物である。自然、物質は労働によって社会的物質に転化される。
 社会的物質は社会によって評価された物質である。その評価基準は労働によ って計られる。社会に必要であると評価される物質が労働の対象になり、労働 によって形作られ、あるいは社会内へ取り入れられ、または社会内で利用でき るように加工される。
 また、現実の労働の対象になりえて、しかもその労働に費やされた労力を賄 いうる成果が期待できる物でなくてはならない。理論的に有用な物であっても、 現実に利用できなくてはならない。現実に利用できるものであっても、技術的 に実用できなくてはならない。技術的に実用できても、採算が合わなくてはな らない。
注78

 生産的労働が社会的労働のうち、自然と社会の境界で物質を出し入れする過 程をになう。
 人間社会を物質的、生物的、人間的に成り立たせる社会的物質代謝は、労働 によって担われている。この労働が人間社会の存立基盤をなし、人間社会の諸 現象に規定的役割をはたす。社会的に評価された労働が、評価の過程で一般化 する。社会的労働として、その生産物が社会的に流通することで、労働が社会 の基本的価値尺度になる。人間社会の物質代謝の発展は、価値尺度を普遍化し、 価値の源泉である労働をも相対的評価の対象にまでしてしまう。労働によって 自然を変革し、自らを変革してきたことを忘れさせてしまう。
 自然と社会の境界は労働により社会の部分を拡大し続けてきた。人間社会の 発展は自然を社会的「自然」につくりかえる過程でもある。

【社会的物質としての情報】
 生物における感覚、反射、本能、運動は社会化され、生物の認識は人間社会 において文化となる。
 情報の社会的存在として「ことば」を含む記号は社会的物質である。記号の 伝達・通信手段、媒体も社会的物質である。
 人間社会の物質代謝は、ヒトと財と情報によって成り立つ。

【社会的物質代謝の拡大】
 社会の発展と共に、自然は社会的物質=財としてとりこまれる。社会的物質 の範囲は拡大する。

 社会的物質代謝が発達すると、加工されない物質まで社会的物質としての性 質を持つ。社会的物質代謝の過程のうち、流通が発達し、交換の尺度が標準化 されて価値尺度が一般化すると、労働対象にならないものまでが社会的に評価 される。場所としての土地は労働の対象にはならない。しかし、土地の社会的 価値が認められることにより山を削り、海を埋め立てて土地が生産される。交 換の発達は社会的物質代謝を離れて自己目的化する。存在の希少性、交換の利 益によって投機としての交換までが行われる。景色までが観光資源として取引 の対象になる。生きた人間の臓器までもが。
 人間社会が関係するものは、たちどころに社会的物質に転化され、取り込ま れる。

 

第1項 社会的価値

 社会の存在形態である社会的物質代謝運動の方向性が、個々の運動を位置づ け、価値づける。

【社会運動の方向】
 人間社会の運動要素は3つである。第1は人間社会自体を存続させる物質代 謝そのものとしての即自的運動である。第2は物質代謝を制御する、即自的運 動に対するする向自的運動である。第3は物質代謝をより発展的に展開するた めの運動である。
 第1に物を作る。第2に作ることを制御する。第3に作ること全体を発展さ せる。

 第1に、人間社会の即自的運動は生物的物質代謝過程と連続している。自然 の存在物を衣食住等の人間個人及び人間社会に必要な物質的資源を社会的物質 代謝の過程に取り入れる運動である。社会的物質代謝に取り入れるとは、自然 的存在物を社会関係内に移動させることだけを意味するのではなく、採取、加 工、保存、運搬、交換、廃棄までを含む代謝過程を実現することである。社会 的物質代謝過程はできあがった経路・組織・制度としてあるのではなく、現実 の代謝過程をとおして実現される。即自的運動は社会そのものを実現させ、存 続させる運動である。即自的運動なくして、社会も人間個人も存在・運動でき ない。社会も人間も存在自体が運動である。
 また加工もひとつの過程で終わるのではなく、道具を作る過程、道具を作る 道具を作る過程のように二次、三次と高次化し、また、一つの原材料も一つの 生産物だけに使われるのではない。生産物のある物は、ある場合は消費財とし て消費され、ある場合は原材料として再び生産の過程にはいる。物質代謝の個 々の過程が有機的に関連し合って社会全体の代謝過程が実現される。
 恒に自然的物質を社会的物質に転換しなくては社会は存在しない。社会的物 質を作り出し続け、それを消費することによって社会は存在する。
 自然の物質が社会的物質代謝の系に取り込まれ、社会的物質代謝を実現し、 自然の系へ還元される流れが社会的物質代謝の基本的な運動の方向性である。

 第2に、人間社会の即自的運動は社会的に制御される。代謝過程は規模が拡 大するに応じて有機的な複雑な関連へと発展するが、この関連は制御されなく ては代謝過程そのものが実現できなくなる。自然環境からの採取で自然環境を 破壊しないように。個々の過程が整合性を保つように。自然環境への廃棄が自 然環境を破壊しないように。人間の技術力がいかに高まっても、自然法則を曲 げることはできない。自然法則を組み合わせて利用するのが人間の技術である。 人間の技術力が高まるほど、制御する技術、文化が高度化しなくてはならない。
 社会的物質代謝の制御は計画的に実現できるほどに単純ではない。しかし、 意識的に問題を発見し、社会的に解決しなくては社会的物質代謝を維持するこ とはできない。また、社会的物質代謝の制御は技術だけの問題ではない。奢侈、 浪費といった文化までも含む問題である。
 社会的物質代謝の基本的方向性を維持し、補足する運動、補完的運動が二次 的方向性としてある。

 第3に、即自的、向自的運動を社会的物質代謝を基本的に実現する過程とし て、さらにより多くの人間に、より豊かな物質代謝を実現させる発展的運動が ある。
 社会的物質代謝の基本的運動だけでは環境の変化に対応できない。かなりの 人間社会の構成員が、地域的にも広がって生存していることによって環境の変 化に対応できる。この増大と、拡大は存続の条件として人間を進化させてきた。
 物質代謝の運動全体を発展させる運動の方向性がある。

 これら運動の方向性は、方向性であって当然にプラスとマイナスがある。恒 に一方向へ進むだけではない。
 しかも、基本的方向、補完的方向、全体の発展的方向が三次元をなしている。 個々の運動過程の方向性が一つの次元に対してマイナスの方向であっても、全 体ではプラスに向かっている場合もありうる。
 浪費は単なる消費であってマイナスである。しかし、再生産のための消費は プラスであって、より豊かに生産するための消費はより大きなプラスである。
 副産物として有害物質を生産する過程があれば、無害化する過程で補完しな くてはならない。しかし、全体の発展のためには、有害物質の有用化する利用 技術を開発することが必要である。

【社会的価値基準】
 社会的物質代謝の基本的方向、補完的方向、全体的発展方向の三次元の運動 の方向性に対する個々の運動過程の方向が、個々の運動過程の評価基準である。
 社会的物質代謝はすべての過程が連関しており、孤立した過程はない。すべ ての過程が全体の運動を構成するものであり、全体に対して評価される。社会 的存在にとって、この全体の運動に沿った方向性が価値である。
 表現を変えるなら人類史に沿った方向性が、人間の価値の基準である。社会 的価値基準である。社会的価値基準が人間の価値基準である。

【価値の源泉】
 この価値基準に沿って、社会的物質代謝を実現する運動が価値の源泉である。 価値基準に沿った運動によって、価値が実現される。この運動を実現している のが人間の労働である。
 物理的運動は人間の労働によって社会的に利用される。生物は社会的に飼育 される。人間労働は人間労働によって結びつけられ、交換される。人間労働に よって進歩する。人間労働以外に物質代謝を社会的に方向づけるものはない。 個々の運動を社会の物質代謝として実現しているのは労働である。
 社会的価値は自然の価値でも、神の価値でもない。社会的存在にとっての、 社会的存在としてのあり方から導かれる価値である。当然に社会以前には存在 しなかった価値である。社会を離れては存在しない価値である。しかし、社会 的存在にとっての客観的、必然的、絶対的価値である。

 

第2項 価値の生産

【価値生産の根源】
 労働の過程は、道具や機械に取って代えることができる。しかしその道具や 機械も労働の産物であり、しかも労働なしに道具や機械は役に立たない。労働 は、故に生産の根源である。
 労働の用に供されねば、土地等の自然物は労働手段にならない。前人未踏の 土地等は将来的に価値があっても、実社会では価値がない。。
 労働手段は自然物を労働対象として、労働によって作り出されてきたもので ある。労働対象も労働手段も、過去の労働によって作り出された、あるいは使 えるようになった物である。

【生産の社会化】
 生理的物質代謝に必要な物質、食料も社会的に生産される。社会的生産なく して、今日必要な量の食料生産は成り立たない。社会的生産が歪められれば、 今日でも飢餓が世界各地で引き起こされている。
 社会的物質代謝が組織的、制度的に進歩し、自然を制御する力を大きくする ことによって人間社会の制度化が進む。人間関係が生殖を基礎とした生物的関 係から、社会的関係へ発展する。社会的物質代謝を実現する人間関係、価値体 系によって組織され、制度化される。
 物理的物質の運動、生物的物質の運動が社会的物質の運動となるのは生産に よる。人間は生産によって、物を財とする。社会関係において生産され、社会 関係において評価される存在が財である。価値一般の体現物としての抽象的な 「富」に対して、具体的に取引可能な存在としての「財」である。
 財の生産は加工だけを意味しない。社会の発展は自然物を財にすること、社 会的目的とすることだけでも生産する。社会的関係に位置づけることだけで財 となしうる。

【必要労働と剰余労働】
 生活はたえず消費することによって実現されている。エネルギーを消費させ ずに生活することはできない。エネルギー消費のためには、利用可能なエネル ギーとしての財を生産しなくてはならない。生活も物質代謝過程の一部であり、 エントロピーを増大させる過程である。生活を維持し、実現し続けるためには 生産しなくてはならず、この生産に必要な労働が必要労働である。
 生活をより確かに、豊かにするには、生活維持に必要な以上に働かねばなら ない。必要労働を超える剰余労働によって、蓄えねばならない。生産の一時的 停止に備え、また生活を豊かにするためには、生活のための最終消費物資を生 産する労働と、より大きな労働成果を得るための生産手段を作る労働が必要で ある。

【社会的生産力】
 生産力は人間が自然に働きかけるにあたり、既に獲得しており、現実に発揮 する諸力の総体である。
 生産力は人間、すなわち人間社会の環境変革能力である。生産力は過去の労 働の集積、蓄積によって次第に高められる物質的な力である。労働手段は過去 の労働の集積である。技術は過去の労働の社会的蓄積である。生産力の増大に よって労働対象と生産を拡大する。
 生産力は生産のための生産によって物質化される。生産のための生産は、生 産―消費―生産―の継起的過程を高次化する。継起的な時間の流れを組織化す る。社会的生産によって生産のための生産が可能になった。
 生産力は社会的な力である。たとえ個人が発揮する力であっても、社会的に 訓練され、社会によって権限を与えられている。また社会に活用されない力は 生産力ではない。

【生産力の発達】
 生産力は分業と協業によって発達する。分業と協業は相補的関係にある。
 分業によって専門化された労働は熟練によって質的に生産力を高める。他面 で分業は作業過程を単純にし、普遍化し量的に生産力を高める。
 協業による労働の統合は、組織管理を高度化し、労働過程の分析能力を訓練 する。
 分業と協業による作業過程の分割と統合は、機械化の基礎である。分業と協 業による個々の過程の道具の機能が、機械の機構として再現される。作業過程 の関係が機械として物質化される。
 作業関係の調整は、個々の生産過程のデータの収集と伝達によって行われる。 データの収集と伝達は、データの蓄積と処理技術としての情報処理である。事 務は情報処理そのものであり、情報システムによって物質化される。
 機械と情報システムによって生産力が増大する。

【社会的生産関係】
 人間は物質代謝に基づき社会的に組織され、生産関係として社会を構成する。 人間社会は物質代謝の体系、組織を基礎にする。人間社会の物質代謝は生産関 係としてある。
 未発達の社会では生産と消費は一体のものとしてある。一般に動物では、餌 をとることと食べることは同じことである。危険な仕事、困難な仕事を安全な、 容易なものにし、自然条件に左右されない生活をするために社会は発達した。 個体間の分業と協業によって、社会的物質代謝は発達し、道具等の生産手段が 発達した。それは家族関係を超えるものである。分業と協業の発達は生産と消 費を分離し、時間的分離、貯蔵へと進む。生産の発達により生産と消費は時間 的、空間的に分離し、それを統一した過程によって社会的物質代謝は実現され る。
 生産と消費の分離は分配を伴う。分配は生産の仕方、労働の生産への関わり 方によって決まる。どのように生産するかによって、生産物の分配・消費の仕 方が違う。生産によって社会内に取り入れられた物は、そこを出発点として社 会内で振舞う。
 生産関係は所有関係である。労働対象、労働手段がどの様に所有され、どの 様に生産が行われているかである。
 生産関係は労働関係である。どの様に労働が組織され、どの個人がどの様に 労働するかは、生産がどの様に行われているかによる。

 

第3項 経済関係

 社会の物質代謝を自然全体の物質代謝から独立した運動として捉えることに よって、社会の経済関係の概念がえられる。
 経済関係は人間社会の物質代謝に基づく価値体系よって関係づけられる運動 である。経済関係は自然全体の物質的運動から相対的に独立した、人間の意志 の支配のもとに行われる、質的に異なる物質の運動形態である。人間の意志は、 社会的物質代謝によって方向づけられている。経済関係は自然全体の物質の運 動を取り込んで支配する。ただし、今のところその意志は個々の過程、部分的 過程しか対象としえていない。
 経済関係は生産と消費、及び流通の関係である。
 社会が発展し、人類が進化するためには経済関係の発展を前提としている。

【生産】
 一般に生産のためには労働対象、労働手段、そして労働力がなくてはならな い。これが生産の三要素である。
 労働対象は働きかける対象であり、原料、材料である。直接自然から獲得す るものと、既に自然から獲得された社会的物質=財とがある。
 労働手段は労働に利用するものである。道具や機械を直接道具とし、建物、 道路、倉庫、土地まで生産のために必要な手段である。したがって、本来人間 の所有物とならない物までを含む。労働手段の所有は、その社会内にあって初 めて意味を持つ。土地、奴隷等。
 労働力は人間の働く能力である。自然物を社会関係内に取り入れ加工するこ とから、最終消費に至る運動過程に働きかける能力である。環境の変革能力で ある。具体的な物質への働きかけだけでなく、働く方法を考えたりする精神的 能力までを含む。労働は社会的・文化的活動を支える現実的な力である。人間 の生きるための能力のすべてである。

【流通】
 分業の発達は分担される生産物の交換の過程がなくてはならない。
 さらに、生産物を交換するだけでなく、生産が高度化し、生産過程全体にわ たって原材料の供給、中間生成物の交換が必要になれば、生産そのものが流通 によって維持されなくてはならない。
 流通は物としての生産物だけを取り扱うのではない。生産物の情報、さらに は生産そのものの情報を流通させる。
 情報の流通は情報そのものを生産し、加工する新しい産業、労働をつくりだ す。
 流通の発達は流通手段の発達でもある。また、流通の発達は物流から、通信、 情報処理へと発展する。

【消費】
 消費は生産の終局的目的である。ヒトが生きていくためには消費しなくては ならない。人間の社会生活は消費し合うことによって成り立つ。
 基本的に消費は生産と共に生命維持活動であり、人間性の発露の活動である。
 社会的生産の発展は消費も社会化する。家事労働も電化され、社会的生産物 の市場を拡大する。料理、清掃等がサービスの直接の対象になる。
 家事労働の担い手もアルバイト、パートタイマー、あるいは一般の労働者と して社会に関係するようになる。
 社会的生産の発展によって、生産と消費は分離する。生産は同時に消費の過 程であるが、消費は生産を目的としない、消費のための消費でありうる。消費 のための消費は制御されねばならない。

【再生産】
 生産と消費は再生産過程として制御されなくてはならない。
 生産力が小さければ単純再生産にとどまり、生産は拡大せず、維持される。 しかし、自然災害等に対応するための蓄えが必要である。
 社会が安定し、発展するためには生産自体の拡大、拡大再生産が必要である。
 生産力が拡大再生産の拡大を超えて大きくなると、消費を拡大せねば再生産 を維持できなくなる。再生産維持を目的とした消費拡大は、人間性の基本であ った生産性、創造性を形式だけ拡張するものであり、人間性そのものを歪める ことになる。

 再生産を安定させ、発展させるには社会的管理が必要である。社会的物質代 謝過程を管理するのには、個々の生産、流通、消費過程を管理する私的方法と、 地域、国家、国際的管理の公的方法がある。私的方法は家庭、企業として歴史 的に発展し、変貌してきている。公的方法は社会制度として機能しているが、 いまだに充分に機能せず、腐敗を生み、地球環境を破壊している。
 社会的物質代謝の生産力は地球規模でも相応に発展してきているが、この生 産力に見合った生産関係、社会的物質代謝の管理ができなくては地球人類は行 き詰まってしまう。

 

第2節 社会体制

 

第1項 基本的社会関係

【社会的蓄積】
 経済活動を維持するためには、生産物の蓄積が必要である。
 牧畜は大量の家畜を必要とする。農業は収穫したもので1年間生活し、翌年 度の種子を確保しなくてはならない。
 生活を維持するだけでなく、気候等の環境変化に対応するため、生活を向上 するためには食料以外にも蓄積が必要である。
 道具などの生産手段は直接的な生産力であるとともに、生活を維持する力で もある。さらに道具は自然の力を人間に与える象徴でもある。
 社会的困難に対応し、集団生活を維持するためには、集団外に集団全体が対 象とする敵あるいは守護者をつくりだし、その象徴を具体化するための行事を 行い、思想を体系化し宗教を作り出す。宗教も社会的に存在を維持するために は、財の蓄積を必要とする。
 財の蓄積は生産の結果であり、さらに目的にもなる。

【所有関係】
 蓄積された財は管理されて維持される。
 当初社会の共有であった財は私有されるようになる。消費財は最終的には私 的に消費される。私有は消費財から生産手段に拡大する。
 生産手段の私有は社会関係の支配である。生産手段を持つ者と持たない者は、 社会階層として分化し、社会階級を構成する。個々人は階層間、階級間を移行 しえる場合があっても、社会体制として階層間、階級間の区別対立が存在する。
 生産手段を持つ者は生産によって生活を維持するだけでなく、生産手段を更 新し拡大する。生産手段を持たない者は生産を担う者として生活を維持するだ けにとどまる。所有関係は所有する者としない者を区別するだけのことではな く、生産をとおして所有関係を再生産することである。
 そして、生産手段としての具体的な財の所有ではなく、所有関係によって形 づけられる生産関係を、社会関係として関係自体を支配する社会体制がつくら れた。
 所有関係が生産によって具体的な社会的力として作用し、生産力の発展段階 に対応した歴史段階を区分してきた。社会的物質代謝を実現する機能・組織が 人間社会の実体である。
 所有関係を社会体制として維持・補完する機能・組織が所有関係の歴史的発 展とともに、発展してきた。

【社会関係の基礎】
 社会的組織が倫理的に正しいかどうかに関わりなく、現実に物理的力をもっ た組織がつくられる。
 社会的物質代謝は生産、流通、消費の過程としての経済関係だけでなく、こ の経済関係を物質的に保証し、社会の全構成員が経済関係に配置可能な能力の 獲得、保持の為の教育機能・組織を作り出した。
 社会的物質代謝は社会構成員の生活を物質的に保証する相互扶助機能・組織 を作りだした。
 経済活動、教育、相互扶助が社会的物質代謝には不可欠である。社会的に組 織、制度として公共部門が作られる。これら機能・組織の主体を担うものは多 様であり、歴史的に変遷してきている。国家事業、営利事業、慈善事業、互助 会等何等かの事業主体によって実現されなくては、社会的物質代謝の維持・発 展は実現されない。

【公共事業】
 社会的物質代謝を維持するための社会基盤の整備と運用である。道路、水路 等の社会・産業基盤、災害対策、教育、医療等はどのような社会でも必要であ る。公共事業のための負担をなくすることはできない。公共事業の負担を分担 する社会制度は不可欠である。
 しかし公共事業の必要性を理由として、私的利権を合理化することはできな い。

【相互扶助事業】
 社会の構成員の生活を保証するためには社会的保護も不可欠である。子供の 養育、病人の介護、老人・障害者の福祉、災害・病気・障害に対する保険は社 会的に保障される。この保障の質は社会発展の程度を表す。
 相互扶助の質は単に被保護者を殺さない、生かすにとどまらない。それぞれ の条件に応じて、社会的に生活できることが基準である。

【調停】
 所有関係は個々にも利害の対立を生じる。対立者の一方が相対的に大きな力 を持っていれば、当事者の間で対立は当面解決される。対立者の力がほぼ均衡 している場合、平和的に対立を解消するためには調停が必要である。
 また所有関係に直接関わらない問題でも、対立は生ずる。論理的、倫理的に 正邪を区別できない対立もある。こうした対立は当事者間では解決の基準がえ られず、社会的に調停される。

【秩序強制】
 社会的物質代謝は人間が生きていくための共同を前提にしている。互いがそ れぞれの責任を果たすことによって共同が組織されている。生存を欠けた共同 における裏切りは制裁される。社会秩序維持の以前に、共同目的実現のための 強制、制裁がある。狩猟において持ち場を離れることは、獲物を取り逃がすに とどまらず、仲間の死傷につながる。結果が直接的であるほど、強制・制裁は 強い。
 歴史的発展によりそれぞれの分担が、致命的な結果を直接的にもたらさない ようになると制裁も穏やかになる。逆に制度、秩序を守るための強制・制裁が 制度化される。
 社会内の対立が社会関係そのものの脅威にまでに拡大すると、社会そのもの の維持のための組織を必要とする。警察、検察、裁判、刑務所は最終的に暴力 によって裏付けられた社会的強制力である。

【イデオロギー】
 経済活動、公共事業、相互扶助、調停、秩序強制の組織、制度によって実現 される社会的物質代謝は、その社会関係に対応する意識、イデオロギーを形成 する。社会関係を認識し、解釈し、計画する社会的意識としてのイデオロギー を形成する。イデオロギーは現社会を肯定し、美化し、保守しようとする意識 と、現社会の問題を解決し、社会そのものを発展させようとする意識を含む。

【国家権力】
 社会的物質代謝を実現するための経済活動、公共事業、相互扶助事業、調停、 秩序強制としての社会組織、制度を実現し、最終的には暴力をもって社会支配 をする力として国家権力が形成される。
 権力そのものは指導力であり、社会的力であり構成員に対して働きかける力 である。どの様な社会、どの様に平等な社会にあっても権力は必要である。家 庭、趣味のサークル、原始共同体、共産主義社会でも権力はその社会維持のた めに不可欠である。
 この社会権力が現社会組織、制度の維持のために集中された力として国家権 力が形成される。国家権力は現社会的物質代謝の為の力である。社会的物質代 謝において利益を得る者のための力である。社会的物質代謝そのものを維持、 発展させるためのものではなくなる。

 

第2項 社会関係一般

【きまり】
 安定した社会関係は「きまり」をつくる。自然環境や、必然的社会内の関係 が安定すると、社会構成員の社会的位置にもとづく役割が与えられる。構成員 の個体差を前提にした分化と共同が発達する。環境や社会内部の変化が生じる と、変化への社会的適応がおこる。変化への社会的適応を、分化と共同を調整 ・発展させる形式が「きまり」として意識される。「きまり」は階級社会以前 から存在し、階級社会以後も社会が存続する限り存続する。
 「きまり」は地球上の人間以外の生物にでは、自然法則であり、あるいは一 般に本能とよばれる、定型化された行動様式として現れる。しかし、その構成 員には行動基準として意識されたり、理由を追及することはない。
 一般論としては「きまり」に価値判断の基準はない。「きまり」の価値基準 は相対的であり、当事者の運・不運も左右する。
注79

 「きまり」はあらゆる社会の階層、部分において存在する。「きまり」は階 級社会にあって、強制力を総動員して維持される。「掟破り」は通常はじかれ、 自滅する。
 「きまり」の社会的存在としての作用は、圧倒的多数の「きまり」を守る人 によって実現される。「きまり」が現実的存在になるのは、法律等の条文によ るのではない。「きまり」は小数の「掟破り」によって現実的力として現れる。 「きまり」を守る多数者による、小数の「掟破り」への強制力として現実に現 れる。

 「掟破り」がいなくては「きまり」はその存在を現すことはない。また「掟 破り」の存在によってその社会的有効性が試される。「掟破り」の存在なしに 「きまり」の正統性の見直しが行われることはない。客観的には、社会発展の ためには「掟破り」が必然的に必要であり、必然的に生まれてくる。
 特に職場において「掟破り」は常に必要である。作業手順、判断基準等の 「きまり」は、統制された生産のためには必要であるが、生産性向上のために は障害である。現実の規則を破る以前であっても、現実の問題点を指摘できる のは、「きまり」にとらわれない「掟破り」による。
 掟破りの最高の形態が革命である。

 

【民主主義】
 民主主義は単なる「多数決原理」ではない。社会的意志決定の基本である。
 民主主義は「多数決原理」と共に、その前の「議論」によって実現される。 民主主義は過渡的な制限として、暫定的結論を多数決によって決するが、その ための「議論」こそがその本質である。決定をより多くの者が受け入れるよう にする、決定過程の問題である。
 民主主義の最大の利点は結論のだしかたではなく、議論による新たな視点の 獲得である。対立者の視点の理解、あるいは、両者の立場を超える視点の獲得 である。妥協ではなく、一つである現実を一つの物と見える視点を議論の過程 で見つけ出し、認め合うことである。通常の対立点は、対立の前提となる知識 の不均等によって生じる。わかってしまえば対立そのものが消滅し、結論は一 致する。結論を出すための議論は、通常対立する相互の知識の獲得を目指すも のである。
 民主主義は政治制度だけの狭い問題ではない。人間社会の意志決定の原則で あり、社会的認識を正常に保つ保証である。民主主義はガスぬきの手段ではな い。民主主義は柔軟な社会的強さの本質である。

【社会組織の維持・運営】
 相互依存関係、分担と共同の社会は、個々人の力が直接にではなく集団の力 として現れる。社会集団内での個々人の力は組織され、集中されることによっ て、個々人の力の合計以上の力を発揮する。個々人の力の組織・集中は、単に 集団化されただけでは作られない。目的意識的な組織化の運動によって実現さ れる。複数の人間が集合として形式的に存在するだけではなく、組織を維持す る運動と、組織を運営する運動を意識的に追求しなくてはならない。家庭であ れ、学校のクラス、趣味のグループ、職場、社会運動、政治運動、あらゆる社 会集団で、全体の目的実現のための運動と同時に、組織を維持・運営する運動 が必要である。生物個体自体の存在・運動がそうであるように。
 社会集団は均質ではなく、その能力、性格には違いがある。それぞれの得意 とする分野で、分担での役割がある。それぞれの集団内での役割を果たすこと と同時に、組織の維持・運営の活動が行われる時に、集団の力が最も発揮され る。組織の維持運営の活動は教育、組織、政策の分野がある。
 教育は集団の目的、環境についての認識であり、先輩から後輩に伝えられ、 拡張される。組織は集団の意思の統一、情報交換、実践の点検、調整、総括で ある。政策は戦略・戦術の体系化だけでなく、その時々の課題、目標、方法、 手段を明らかにする。これらの活動の統一された力が組織力である。

【社会権力】
 他人を動かす力が権力である。
 権力の存在基礎は社会性である。権力は相互依存から形成される。平等でな い相互依存である。社会性、相互依存は普遍的な人間関係であるが、このうち 依存関係の双方向に質的差がある場合に平等でない関係になり上下の関係とな る。親子、兄弟、男女から、雇用、政治まで相互依存の双方向の関係の質的差 が社会化、制度化され、上下の関係と価値づけられ強制が行われる。
 権力は社会的強制力の定型化されたものである。人間社会の権力関係の形と の類推で、猿や他の動物に権力関係を類推する見解もあるが、人間社会の権力 関係を自然発生的なものとし合理化する誤りを導き易い。社会の組織活動の定 型化は社会制度、特に政治制度として明確に組織化される。
 社会秩序の維持には権力は不可欠である。しかし、社会秩序自体の発展を柔 軟なものにするには、あらゆる権力は制限される。不当に拡張された権力を本 来の分野に制限し、正当な権力を行使することが、権力闘争の一般的課題であ る。
注80

 権力は機構をとおしてのみ行使されるものではない。暴力のみによって行使 されるものではない。利益誘導、懐柔、偽慢、教育等、人間を方向づけるあら ゆる手段が利用される。権力は信頼、説得、詐欺、暴力等、手段がなんであれ、 意見の一致、不一致に関わりなく、他人を動かす力である。
 強制力の基は双方向の依存関係が生活の依存、アイデンティティの依存であ ることによる。強制力の裏付けはその関係によって異なり、さらに一定の関係 であっても様々である。
注81
 アイデンティティの依存は既成の社会関係、上下関係の枠組みの中で個人の 位置の変化、競争、昇格等の動きの中で、個人の全人格の評価を一貫したもの としようとする。既存の枠組みへの迎合、枠組みの再構成、枠組みからの飛び 出し趣味等自己の価値を求めることとしてもある。
 自己の評価を自分でできない者は、価値基準までをも他人に依存するように なる。会社組織、宗教によって支配されることで、自らの価値基準を定める努 力を放棄する。自らの価値基準を見いだせない者を蔑視することはできない。 見いだした者の価値基準がどの程度のものであるかは別の問題である。
 自己評価と社会関係との矛盾は、心理構造、精神病理の問題にもなる。

【自由意志】
 個人の自由意志は尊重されるべきである。しかし、自由意志そのものが何物 にも規定されずに生まれるわけではない。また、社会全体では自由意志の集合 として、社会の運動の方向が現れる。
 社会が方向性を失い、発展しなくなるとき、その社会は停滞し、腐敗する。 社会が良くも、悪くも方向性を持ったとき社会活動は活発になる。
 個人段階の自由意志も集まれば、方向性を示す。集まり方、あるいは集団の 捉え方によって集団の方向性は定まる。地域集団を対象にすれば、地域の方向 性がでてくる。個々にはそれに反発する個人も存在するが、全体としては多数 による方向がある。全体の方向を個人が代表するか、投票で決定するかといっ た手続きの、制度の問題ではない。職域を対象とする場合、国家を対象とする 場合、様々な集団を対象とする場合に、個々の自由意志とは別に、その集団の 方向性がある。

【相互理解】
 一方、互いに権力関係を交替することにより、相手を理解する。相手の立場 に立つのではなく、相手を動かしていたものが、相手に動かされることによっ て相手を理解する。
 しかし、支配関係にあって「相手の立場になってみる」は道徳スローガンで あって、現実的でなく、ごまかしである。相手の立場は想像できるだけであっ て、現実に相手の立場にはなれない。
 人間の「やさしさ」とは、自分の権力を保留し、相手に動かされることを受 け入れることである。その上での権力行使が「やさしい」権力関係であり、誤 りを正せる「強い」権力である。人間の「やさしさ」を理解することができる。
 闘いのまっただ中で「やさしい」権力関係を維持することは困難であるが、 「したたかな」権力は「やさしい」権力である。
 「正しい」権力であっても、個人が長期に、様々な分野で正しく権力行使で きるものではない。全体的正しさを保証できるのは「やさしい」権力である。 その物質的保証は、権力交替である。

 権力者と被権力者の関係において、相互依存関係を説明しても科学にはなら ない。相互依存の関係の構造だけでなく、構造を規定する社会関係を明らかに しなくてはならない。「権力者は被権力者、被支配者の意向を汲み上げ、先取 りしなくてはならない」「被権力者、被支配者は、権力者が自分たちの利益を 代表していると納得して支持をする」といった分析は、相互依存関係の結果を 現状肯定的に説明するに過ぎない。

【社会権力と国家権力】
 社会は構成員の意志の統合として、全体としての意志をもつ。相反する意志 の存在も、現実の過程で一つの運動として実現される。現実の過程で複数の運 動に分かれるなら、それぞれの意志をもった社会が実現する。
 内部に対立を含みつつも、一つの社会として意志を実現する力が社会的権力 である。社会的権力はその社会を統括し、運動の方向を規定するものであるが、 逆に権力自体が個々の構成員の運動の対象になる。権力は構成員の獲得目標に なる。

注82

 

第3項 歴史的社会関係

【民族】
 人間社会の現実の同化と異化の過程で、民族が形成される。同化と異化の基 準は地理的、歴史的、イデオロギー的区別である。
 相互依存関係と敵対関係の歴史的過程を経て同化と異化の過程が実現される。
 相互依存関係はそれぞれの生活を実現する上での相互依存の必要性に基づく。 最も基本的な依存関係は親子関係である。相互に扶養関係を必要とするだけで なく、人間性を実現する契機となる基本的人間関係である。夫婦、兄弟姉妹、 家族、親族、相隣、しごと、人間関係は相互依存関係を基礎にしている。この 相互依存関係は敵対関係と相補関係にある。依存関係にある集団は他の集団と 利害対立の関係にある。地理的に離れていれば敵対関係は実現しない。しかし、 集団が大きくなれば地理的にも接するようになる。集団内の相互依存関係と集 団間の敵対関係は、集団関係の区別として固定化されつつ、歴史的に変化する。
 一方、集団内の相互依存性は経済的発展によって減少する。
 民族の形成と歴史は、人間集団の相互依存性と敵対の運動の歴史である。血 縁、地理、言語、習慣、宗教、政治、過去の歴史といった、様々な要素からな る相対的空間として民族を形成する。

【革新と保守】
 生産力によって相互依存関係の内に封じ込められていた人間関係が、経済発 展によって解放され、それぞれの価値観に基づいて人生を実現するようになる のが人類の発展史である。人類史の方向に進むのが革新であり、逆らうのが保 守・反動である。
 相互依存関係は人間性の基礎である。しかし歴史的発展段階としてやむをえ ない。支配関係の強制による依存関係は廃棄されるべきである。相互に独立し た上での互いの尊重、連帯としての相互依存関係を築くべきである。
注83

【職業・社会的地位】
 人間の相互関係を基礎とした役割分担の関係は、社会関係として固定化され る。
 社会的物質代謝・経済分野での役割はその発展とともに拡張され細分化され る。職業として多様化する。
 組織内の役割・職種も経済発展と経営手法の発達によって多様になり細分化 される。
 それぞれの人によって担われた役割とその結びつきが組織・制度として機能 し、権限が定まる。社会的地位に備わる権限はそれぞれの地位の役割を果たす ための権限である。権限は地位を担う個人の能力とは別の社会的力である。権 限には暴力をともなう強制力をもつものもある。社会的権限は役割を果たすた めの権限だけではなく、地位の継承者を決定する権限にまで拡張されることが ある。
 社会的地位は固定化し、担う人には依存しなくなる。それぞれに担う人は交 替することができる。個人と組織の対立を生じるまでに社会的組織・制度は固 定化される。一般的地位ほど固定的であり、動作一つ一つまでもが規定され、 マニュアル化される職業すらある。しかし地位を担う人によって、その地位を 質・量ともに変化させることも可能である。役割をサボタージュすることも、 逸脱することもある。
 経済が質的に安定した時代の職業、職種による個々人の分担役割は、社会的 地位として固定される。すべての人の生活は社会の経済活動に支えられている が、精神的、文化的関係も社会組織化、制度化される。「お稽古ごと」は無論、 科学者、芸術家も社会的地位を獲得しなくては何もできない。
 個人それぞれは社会的地位を得ることによって生活を実現するようになる。 社会的地位によって人間関係が規定されるようになる。地位に応じた役割を果 たせるかどうかではなく、資格によって地位が与えられる。社会的地位は社会 的役割を果たすこととは直接しなくなり、それぞれの個人の生活手段として取 引される。社会的地位の継承、取引は金銭の対象となり、私的依存関係=コネ クションによって決まるまでになる。公的地位の場合には選挙制度や資格試験 もあるが、組織・制度が形骸化した社会では正常に機能しなくなる。 

 

第3節 文化の一般存在

 文化は今現在の実践に利用できる形で生成、集積、蓄積されなければならな い。過去の実践、経験も現在、そして未来に利用されるようになることによっ て文化として継承される。
 文化は歴史的に孤立して生成、集積、蓄積されたものであれ、地域的に孤立 して生成、集積、蓄積されたものであれ、現実の社会、個人の理解実践を通じ て現実変革の力、物質的な力として現れる。
 文化はその社会内で文化がどのように現実的力とされるかによって、様々な 特徴を持った文化になる。
 またどれだけ歴史的、地域的に広く利用されるかによって、より一般的にな る。
 人類文化は人間の集団としての実践、経験の全体的統一として、現実変革の 物質的力として人間社会の物質代謝に働きかける。文化は物質の運動のもっと も高度に発展した形態である。  個人は文化を獲得することによって、生活を獲得する。個人は文化の中で生 活することによって、普遍性を獲得する。個人は文化を身につけることによっ て、生物個体の能力、個別的能力を遥かに超える。

 

第1項 文化一般

 文化は集団的意識活動の結果である。集団的であるが故に、物質的基礎をも つ故に、普遍性へ発展する。

【文化の階層】
 文化は物質の運動の最高の発展段階である。最高の発展段階であって、非物 質的でも、反物質的でもない。物理的運動として存在し、社会的存在として機 能し、精神的存在として実現する物質的存在である。
 文化は対象を人間化する、創造性実現の運動である。物質、生命、社会の階 層の上に新たな、より発展的階層を創造する運動過程である。

【文化の存在様式】
 文化は地球上では人間の活動なしには成立しえない。成立した文化は人間の 活動から離れても存在し続ける。しかし人間活動からはなれた文化は、再び人 間活動の対象として人間社会内に取り込まれなくては機能しない。時には地中 から発掘されて継承される。
 文化は人間の精神活動に対して感覚的に、肉体的に作用し、感情、知識、意 志として実現される。文化は社会的にも、個人的にも実現される。

【文化の媒体】
 文化は様々な形で生成、集積、蓄積される。文化は様々な媒体によって蓄積 され、媒体そのものとしても蓄積される。
 文化の媒体の多様性は人類の活動のすべてに及ぶ。人間の存在、行動そのも のが文化的活動である。現実に対する目的意識的変革運動として実現される。 人間社会の物質代謝を基礎とする、社会的価値体系にしたがっての運動である。  文化運動の媒体はまず物理的物質である。道具、機械、設備、施設、文字、 音声等形象化された物質であり、なにより行動する人間自身である。
 人間の精神活動によって文化の物質的媒体は情報媒体として機能する。文字、 音声は言葉として人間のコミュニケーション、記録を媒介し、文書として物質 化される。
 道具、機械、設備、施設は技術としての文化の成果物であり、それらの利用 技術として実践的に機能し、また人から人へ伝えられる。
 文化の物理的媒体の関係を反映して「ことば」、情報システムが実現される。
 科学は概念、定理、論理、理論の体系を作り出す。教育は肉体的能力、生理 的能力、精神的能力を訓練する。芸術は美術、音楽、文学を創造し、鑑賞する。 イデオロギーは宗教、政治として社会を動かす。
 文化の媒体はまず物として、その物の人間によって活用される機能として、 さらにその総合としての人間精神の表現、実現媒体として存在する。文化の媒 体自体が階層性を持っている。

 

第2項 技術一般

【実践技術】
 技術は第一に労働能力の実現方法である。労働能力は生産関係に生産力とし て組み込まれることによって現実の運動を実現する。技術は社会にあって生産 関係に位置づけられることによって物質的存在基礎をえる。技術は生産過程に あって生産力として実現される。
 どのように高度な技術による道具、機械、設備であっても生産過程で利用さ れなくては生かされない。技術は道具、機械、設備として物理的存在であるが、 生きた操作技術、運用技術によって利用されなければ生かされない。技術であっ ても道具、方法は物質化でき、保存、伝達、訓練ができる。しかし、技術を利 する適用能力は教育などによってもなかなか実在化できない。手段、方法、結 果がわかっても、課題、問題が理解できなくては現実的力として利用すること はできない。

【基盤技術】
 事象あるいは仕事の進展によって、関連する要素の過程での作用量が変化す る。当初の事物の関連として把握していた関係は、関連要素の作用量の変化に よって関係自体が変化する。事象あるいは仕事を進めて行くには、関連要素の 変化をたえず把握し、要素の変化を超えた関係の変化に対応しなくてはならな い。
 個々の要素の変化は線形に捉えることができる。要素間の関係としての非線 形な変化は、実際の過程で確認しながら捉えなくてはならない。この関係の変 化をどれだけ予測できるかが人間の技術である。技術の汎用性、運用期間の長 さは関係の変化の予測の範囲によって規定される。
 事象のシミュレーションであれ、仕事のシステム設計であれ、要素、環境の 変化に対応するシステムの柔軟性は関係の柔軟性である。システムの柔軟性は 要素の変数化と範囲を正確に定義すること、さらに定数のデータ化、表現のエ イリアス化等によって実現される。変数を点検することで、別のシステムに処 理を引き渡すことが可能である。
注84
 柔軟な対応はシステム化することによって、その範囲内では可能である。し かし、事象・仕事に対して柔軟に対応することは、本来的に人間に期待される。 技術的柔軟性が実践過程での基盤技術である。

【技術の発展】
 技術は物質的に固定した物だけではない。成果物として完成されたものが技 術ではない。成果物も必ず継承されるという保証はない。特に工芸技術のよう に、人間に依存する技術は教育制度、社会的要求までもが継承されなくては廃 れてしまう。継承されている技術であっても、技術だけの形象ではなく、社会 的要求への対応、教育制度までも含めた社会的運動としてなければ発展しない。
 科学の最先端の研究成果だけではいかんともしがたい。科学の成果は普及さ れ、応用技術が開発されなくてはならない。科学の成果実現過程が科学の対象 となり、一般的応用技術となる。現実の過程で多様な変化を予測するには、対 象、環境についての科学の成果が普及していなくてはならない。
 また、これらを受け取る人間の能力、組織も実現の基本的要素である。成果 を交流する専門の雑誌等のメディアに紹介されても、それを実現する社会的存 在においてそれらに接し、理解されなくてはならない。  

第3項 知識一般

【知識の存在】
 知識は物として存在するのではない。
 知識は物を媒体として伝えられる。知識は物を媒体として蓄積される。知識 は社会関係の中にあって、伝えられ蓄積される。
 知識は現実の過程にあって、現実を変化させる現実的な力の要素でなくては ならない。知識の媒体である言語や記号、言語や記号の媒体である文書を、い かに蓄積しようがそれは知識の蓄積ではない。
 知識を記憶し、記憶量、記憶検索の力量でもって人間を選別しても、知識の 活用にはならない。

【知識の実現】
 知識は現実変革の過程でえられた、現実の個々の過程の認識への反映である。 知識は現実変革の過程で再現されねばならない。それが人間によって再現され るか、情報処理機器によって再現されるかは知識には関わりない。
 知識は社会化された記憶である。個人的記憶には限界がある。知識が社会化 されることによって、個人的知識も拡張される。
 蓄積された知識は利用できなくてはならない。蓄積された知識の利用は隣接 =アクセス技術、検索技術、適用技術、応用技術によって実現される。知識利 用技術は社会制度として実現される。蓄積、通信、検索の情報システムとして、 利用手段として実現される。教育訓練によって、適用・応用が実現され継承さ れる。

 

第4項 科学一般

【科学の存在】
 科学は社会の主要な認識過程である。
 社会の認識は個々人の認識を基礎に、各レベル集団において成果を蓄積・交 換する活動としてある。科学は論文としてあるのでも、観測・実験の施設・設 備としてでも、科学者の仕事としてあるのでもない。
 科学は認識の成果物としての知識としてだけでなく、すべての人々の日常実 践において、そして科学者の観測・実験において常に再検証され続けている社 会的認識である。新しい知見が科学者の仕事として得られることが圧倒的に多 くなってきたのは、科学者の専門性が高まってきたことによる。科学の最新の 成果も、その関連が展開されて、関係するすべての事象において、誰によって も常に検証され、適用され、応用されるようになる。
 科学が非科学と異なるのは成果を全社会的に検討し、対象全体及び論理の整 合性を図り、科学者を開かれた専門家集団としていることである。

【科学の社会性】
 科学の存在、科学の運動の何から何までもが、社会的である。
 研究者個人自体社会的存在である。いかなる天才も個人的能力だけではなに もできない。自らの能力開発、能力の実現、科学手段・科学材料の入手、自ら の課題の、成果の社会的位置づけが必要である。
 成果は研究者の個人的好奇心を満足させるだけのものであっては、科学の成 果とは言えない。科学の成果として、社会的に記録されなくてはならない。成 果は社会的に利用可能な媒体によって記録されなくてはならない。
 科学の存在はすべてまるごと、社会的存在であり、社会の認識活動が科学で ある。

【科学の担い手】
 科学の担い手は最先端の研究者だけではない。社会の認識の最前線を担う研 究者を先頭に、それを支える、技術者と研究実務を支援する者、研究の管理運 営者、それら組織によって獲られた成果を、既知の成果に位置づけ解説する者。 これを、組織的、財政的に支え、試料、資材、財源を提供、管理する者。教育、 宣伝、組織者、指導者によって科学は実際に担われている。
 各々の役割において、役割について分析と総合、対象と方法を啓蒙し、情 報収集し、整理しなければならない。
 これら全体の認識論、組織論、運動論が科学論である。
 これら科学を支える、施設、設備、組織、制度、資金は、担う人々と共に、 科学の物質的基礎である。  科学とは狭義には、すべての物事の関係を統一されているものとしてみる思 想であり、全体を統一してみようとする運動である。この科学に対立し、日常 以外に非日常を認める思想、運動が宗教であり、非科学である。

 

第5項 教育一般

【教育の位置】
 教育は文化の再生産のための社会制度である。
 教育は学校教育、知育教育に限られない。
 個人の人間としての成長過程が教育の場である。生物個体の生長としては、 人間は形成されない。ヒトは感じ方、伝え方、考え方を訓練され、教育される ことで人間になる。結果だけが教育されるのではなく、方法から教育され、過 程として訓練される。自らのあり方が訓練される。
 最後に科学的認識方法、技術的知識、適用技術、応用技術が教育・訓練され る。
 いつでも、誰でもが自らを再生産することで、生きている。肉体的に、精神 的に自らを新たに実現し続けることが生活することである。時間的に新たな生 活の場に、新たな問題に対応するには学び続けなくてはならない。学ぶ喜びは、 新たに自分を作り出し、実現することでもある。
注85

【教育の主体】
 教育の主体は学習者である。教育者が教育の主体ではない。学ぶことは個人 的なことである。他人が代わって学ぶことはできない。本人が納得しなくては 学習は身につかない。
 教育は教育の主体である学習者を援助することである。学齢に応じて学習者 への援助の形が異なるのであって、学習者が幼くとも教育者が学習者を支配し てはならない。まして、自立した学習者に対し、教育者は対等の立場でなくて はならない。師弟の関係は支配被支配の上下関係ではない。

【学習の援助】
 教育としてできることは学ぶ素材を必要十分に、順番に用意することである。 学習者すべてに共通に必要な素材、学習者それぞれに必要な素材を、論理的、 歴史的、現実的に用意することである。
 繰り返し経験すること、訓練することによって学ぶことができる。学ぶこと を学ぶことによって繰り返しの数を減らすことができる。内容と形式、目標と 方法が統一されていることによって繰り返し再現することができる。過程と結 果が統一されていることによって、学ぶことを学ぶことができる。
 学ぶ技術、学んだことを適用する技術は訓練である。効率的で安全な訓練の 場を整えることが教育の役割である。
 教育制度は学習主体への一般的な援助体系である。目標体系、教育体系、教 育内容、教育技術、教育設備、生活保障、そしてなにより教育を受ける主体を 形成する社会制度が教育制度である。

【社会的教育】
 教育制度そのものも社会的に再生産される。物的手段、設備が更新される。 教師等の人的資源が世代交替する。内容の改訂と現実との対応のために再編さ れる。
 技術、知識、科学が継承され、発展していくためには、教育が社会的に有効 に組織されなくてはならない。資格を得るためだけの教育では、技術、知識、 科学の社会的運動そのものが衰退する。
 教育は学校教育に限られない。生涯教育は労働能力の更新に矮小化されては ならない。

 

第6項 芸術一般

【存在の統一性】
 芸術の形式は部分と全体、目標と手段、内容と形式の統一性が本質である。
 芸術は感覚のみでは成立しない。現実を加工する技術の熟練が必要である。 作品を現実の物とするための世界、社会、人間に対する洞察が、意識、無意識 に関わらず必要である。
 専門外の作品を理解するには、先ず自分の専門分野の表現手段に翻訳するこ とで、全体と部分の対応関係を把握することができる。通常はことばで表現さ れ、解説される。対象となる作品のその表現手段に通じ、表現手段の階調を捉 えることによって全体を理解する。
注86
 第一段の理解力は専門分野での洞察力を深めることで鍛えられる。
 第二段の理解力は基本的な感覚を鍛えることである。これがあるから芸術は 一般性を持つ。
 芸術は第二の力によって表現される。人間の生きることの喜び、不安、憎し み、安らぎ等を、各々の感覚と表現手段で再現する。始めは表現手段の写実性 によって、やがて手段の本質によって芸術は創造される。そして、そこには論 理がある。

【創作】
 人各々の方法で、生きることを追求して、実現し、表現することが創作であ る。方法は人様々である。芸術、学問、日常生活、各々の条件、能力によって 様々な創作活動がある。共通しているのは同じ社会に生きている人間であると いうこと。抽象的人間ではなく、現実的生活過程を担う主体としての普遍性が 地域的、歴史的制約を超える。。
 ひとつひとつの概念を、各々の方法で確定し組み上げ、統一を再構成する。 この「確定」ということは、結果は明瞭であるが過程はそれぞれの生きる中に あってつかまれることである。日常的な感覚によって、対象を知りえるまでに 明確化されねばならない。

【鑑賞】
 芸術は鑑賞されるものである。鑑賞されるものとして芸術は成立する。創作 の段階で創作者自身によって鑑賞、評価されて物質化する。作品は認識の対象 であり、鑑賞する者の理解、解釈を前提とする。受け手の文化的素養が問題に なる。
 文化的素養がなくては芸術は意味を成さない。
文化的素養は批評によって大きな影響を受ける。時には殆ど逆の評価を受ける。 解説されることによって、新たな価値を見いだすこともできる。作品は取引さ れ、金が絡むと批評が重要な要素になる。
 芸術は単なる、個人的好みの問題ではない。

 

第7項 イデオロギー一般

【イデオロギー一般】
 イデオロギーは広い意味では理性的認識の集積、蓄積である。誤りも含んで いる。
 イデオロギーは価値観の体系である。
 個々の社会、歴史的社会によって世界の理解の仕方が異なり、イデオロギー が異なる。
 イデオロギーの媒体は情報である。イデオロギーは情報によって操作される。 個々人の意志の社会的傾向として現れる。個々人にとっては自分だけの考え方 であっても、自分自身が社会的に形成されている。

【個別イデオロギー】
 狭義のイデオロギーは個人の社会への参加の仕方、態度によって形づけられ る。個人の立場により、その人のイデオロギーはアイデンティティ、自己同一 性、自分らしさとして表現される。
 イデオロギーは人格である。
 個人の立場により、そのイデオロギーは変位する。
 イデオロギーの真理は、現実が意識に正しく反映されることである。現実は 一つであり、真理も一つである。相対的真理から絶対的真理へ、相対的真理の 積み重ね、位置づけによって個々の対象が明らかになり、全体が把握される。 個人にとっての真理は、個人の社会への関わりによる。それぞれの社会的環境 による。個人の社会への対応は社会からの働きかけから始まる。社会と個人の 関係から、個人の意志が形成される。個人と社会との相互関係を通じて個人の 意志が方向づけられる。
 個人は育ってきた過程で身についてきたイデオロギーを批判的に継承するこ とによって、自覚的イデオロギーを獲得し、解放される。
 

第4節 人格の基礎

注87

【人格の場】
 人間が人間としてあるのは互いが人間として関係する場である。単なる物質 ではなく、生物ではない人間が存在するのは社会関係においてである。人間性、 人間的であるかが問われるのは、人間関係においてである。善し悪しに関わり なく、人間の評価は人間関係、人間社会内での問題である。
 人間を定義することは理念の問題でも、価値の問題でもない。人間の定義は 現実の問題であり、自分の生き方の問題である。

【人間の範囲】
 人間の範囲は連続していて、物理的、生物的、社会的、精神的、倫理的に定 義することはできない。受精前はともかく、育ちつつある胎児、死につつある 老人、病人、けが人のどの状態が人間の範囲に含まれるのか。これは定義する 理論的問題ではなく、生かすか殺すかの現実の問題である。
 機能、能力によって人間の範囲を決めることもできない。社会的貢献度、共 同生活の受け入れを基準とするな ら、反社会的な人間、私利私欲に凝り固まった人を人間として認めるのか。 「人間性」を否定する主張をする人を人間として認めるのか。この問題は理念 でも、価値観でもない。肉体的、精神的に障害をもつ人を人間として認め、社 会生活の場を保証するかどうかの実際的問題である。現実に知能指数で人間の 範囲を定義したり、「植物人間」、脳死状態の病人、重複重度障害者を生きる 価値のない、生むべきでない物として否定する人間がいる。現実に周囲に関係 する人が、家族が、自分がそうした状態になった場合、理念や、価値の定義で はなく、自分たちが生きることとして問題にしなくてはならない。現実に問わ れている人たちが生活しているのであり、社会的に問題にしなくてはならない。

 人間の存在自体が社会的で、社会生活の中で育てられ、訓練され、位置づけ られている。10秒で100mを走れない人も、自転車、電車、飛行機でそれ以上の 速さで移動できる。天才科学者も教育なくして、研究の場なくしてその才能は 実現されない。だれもが社会的に受け入れられることによって生活を成り立た せている。視力に障害があっても眼鏡で、手術で矯正している人は多い。車椅 子で、点字ブロックで移動し、唇を読み、手で表現し、指点字でコミュニケー ションできる人の活動を社会的に保証することも、社会的に受け入れることで ある。早産の子を保育器で育てられるようになったのも、胎児の遺伝子異常を 早期に発見できるようになったのも、けが・病気を克服できるようになったの も、「植物状態」であっても延命できるのは社会的力が発展してきたからであ る。
 費用と機会によって助かる人と死ぬ人が、就職できる人とできない人が、昇 進できる人と置き去りにされる人とが選別されている。費用と機会以前に人間 に対する理解、社会の受け入れ体制によって規制されている。社会的費用がか かるのは、費用の多少に差があっても生きる上でだれでも同じである。天才も 社会的条件と本人の努力なくして社会的貢献はできない。障害を持った人、病 人・けが人には費用がかかるといって切り捨てつつ、一度手に入れた社会的地 位、財産によって勝手をしている人間が認められることとの釣り合いを無視し てはならない。社会的地位、財産は本人の努力だけでなく、どのような場合で も偶然によって結果したものであり、個の存在も社会的物質的基礎によってい ることを無視してはならない。
 極限状態の人が助かる科学技術によって、あらゆる人に対する医療、看護、 介護の科学技術が進歩している。極限状態の人でも生活できる社会であれば、 すべての人が生活できる社会である。人を陥れ、人を選別し、自らを過労死に まで追いつめるような社会状態をより人間的に改革しえる。理想的人間状態な どがどこかに存在してはいないが、互いに人間として認めあえる社会を作り出 すことを人間的であると定義できる。互いに人間として認めあえる関係をつく りつつある社会を、現実の理想社会と定義できる。

【人間の価値】
 自分の価値を求め、努力することは生きる上で基本的なことである。自分の 生きる価値の追求は、人間一般の価値の追求である。
 自分の内をのぞいても価値は発見されない。価値は比較を前提とし、結果と して出てくる。比較には基準があり、方向がある。何に比較するのか、どの方 向に向かうのかが価値そのものである。価値は比較するものと比較されるもの との関係である。比較関係に入らないものまでをも、価値評価することは意味 がない。
 「土くれの価値は何か」「花の命は・・・」「宇宙の真理は・・・」のよう に「価値」自体を問わないで答えはない。
 価値は対象として含める世界の広がり、その範囲の運動の方向性によって定 まる。人間として、自分の世界とその運動の方向性によって、価値と価値尺度 が決まる。
 人間は宇宙進化の過程にあって、社会的に存在し、文化を創造しながら存在 する。自己を実現し、共生するものとして存在し、運動している。

【生活場の選択】
 個人は社会の物質代謝を前提に生き、生活している。個人もその社会的関係 の中にいる。
 しかし、それを前提としながらも、各個人はどの様な社会関係の中で生活す るかは選択しうる。選択の基準、あるいは社会への関わりの動機づけは、その 個人の社会的環境によって育てられる。個人の社会への対応は、社会から個人 への働きかけから始まり、社会と個人の関係から個人の意志が形成され、個人 と社会の相互作用を通じて方向づけられる。
 人間の個性、人格はその個人の実践、経験を通じて形成される。個人は社会 的物質代謝に様々な位置、形で参加することで生活している。
 そこでの人間関係の中で意志を形成し、生活態度を形成する。いわば個性は 人間関係の中における態度の個体差である。人格は人間関係の中での生き方の 個体差である。
 人間関係、人間の相互作用の中でしか、人間を相手としての生活の中でしか、 人間を相手としての生活の中でなくては個性、人格は形成されない。
 個人は人間関係の諸類型の複合の中で生活する。親子、夫婦、兄弟姉妹、師 弟、友人、……。それらの関係の仕方によって類型的な個性を形成する。
 しかしより基本的には、社会的物質代謝への諸個人の関わり方によっている。 諸個人の社会的物質代謝への関わり方は、社会の人間関係の基礎によって決せ られている。
 社会的物質代謝の諸形態によって、個性と人格は一般的な規定を受け取る。 個人の社会的物質代謝への参加は、自然に対する直接的働きかけ、分配に関す る働きかけ、物質代謝を発展させるための働きかけ、物質代謝の制御への働き かけ、消費への働きかけ、それぞれの持ち場によって、個性は特化の規定を受 ける。
 そしてもっとも具体的には人間関係の具体的条件によって規定される。

【人間性の実践】
 現実変革の目的意識を持たない実践、経験によって得られる認識は一面的に ならざるをえない。一面的認識からは、世界を全体的な運動として捉えること ができない。そこから表皮的な個性、人格しか生まれない。
 社会的物質代謝の運動状態によって、そこでの人間関係、人間の相互作用は 基本的に影響されるが、その運動状態も変化する。
 社会の自然変革が活力に満ちているとき。一定の水準が維持されているとき。 停滞、腐朽しつつあるとき。人間性の現れにも社会状態が影響する。
 個人的欲求の充足を求めて社会への対応を決めるなら社会に従属する。いか なる善意の個人が、いかなる善意の欲求を持っていても、社会の変革よりも個 人の工夫なり、個人の適応変化によって問題を解決しようとするなら社会に従 属する。
 一部分であっても、自分の関わっている全体を見定めて、社会への対応を決 めるなら人間性を発揮できる。  素晴らしいものを知れば、やる気が起こる。第一線の人たちの仕事に触れる 機会を持つのも一つの手段である。日常の中で輝く人を見つけるのも一つの手 段である。その人の生き様を追うこともひとつの手段である。
 価値を知らねば意志はない、意志は眠る。
 価値は具体的に知らねばならない、具体的に意識されねばならない。
 個人にはそれぞれ能力に限界があるのは当然であり、能力自体多面的であり、 個人によってその特性は異なる。したがって個人の能力を比較することは慎重 でなければならない。また結果に比べ、能力自体の差は小さい。能力の差に比 べ、結果の差が大きく異なるのは、その人の条件と、条件に規定されながらの 努力である。
 そこで客観的評価の一つの基準がある。日常的にであれ、責任を果たすべく 追求されている。責任に対して誠実でありたいと思う。しかし能力を超えたと ころで誠実であり続けることは難しい。条件によっては、本意ならずに誠実さ を放棄しなければならないことすらありえる。追い詰められても最後まで誠実 であり続けることを、日常から覚悟し、保証しておくことはできない。しかし、 能力内でありながら誠実さを放棄することは許せるものではない。日常ではそ う責任を追求されたり、追い詰められることはないにもかかわらず。誠実でな い人格は客観的に否定されるべきである。


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