注1
世界についての正しい知識、最新の知識をえようとするなら、この第二部を 見る必要はない。時間の無駄であり、省略すべきである。
注2
世界にとって人間存在は小さな存在でしかない。人間社会の発展が驚くもの であっても、それは人間にとってであり世界の時間の経過、空間の大きさから しても、極ごく小さな存在である。人間は自然の極くわずかな力で潰れてしま う。焼かれてしまう。溺れてしまう。
人間が人間存在を位置づけ、主張するのは世界に対してではない。人間は人 間に対して、人間としての存在を位置づけ主張する。宇宙進化の目的を、知的 存在としての人間に求めるのは、世界ではなく人間である。人間の世界に対す るこの位置づけを逆転させ、倒錯した関係にするのも人間である。人間の命、 人間のつながりをもてあそぶのも人間である。
同じく人間を殺し、否定することであっても、自然の過程と人間の意志によ るのとでは、その人間に取っての意味はまったく異なる。結果だけをみて同じ に論じることは、人間の位置づけについて倒錯した考えである。
非日常的な状況、事故とか、戦争とかにあっては、命のやりとりを人間が判 断しなくてはならない状況におかれることがある。そこにあって、人間として の判断を維持できるかも問題だが、そうした状況に至らないようにするのも人 間の責務である。
注3
いわば個別科学と世界観とのインターフェースの規定である。
注4
個別科学の成果を解釈して「世界観」をつくる。世界観によって個別科学の 成果を解釈するのではない。前者が科学であり、後者が宗教である。
個々の認識過程で両者が入り交じることもある。宗教においても何度も現実 の認識から再出発するための努力が行われてきた。宗教改革、新しい宗派の創 設として。科学者であっても実験の解釈において、理論値の解釈において、宗 教教義あるいは日常的経験に依拠する誤りを犯した者も多い。
注5
私に個別科学の成果を解説できるはずはない、正しく理解できているという 保証もない。単に私の知識をひけらかすだけであるかもしれない。この「世界 観」が扱うほとんどの知識は、専門研究成果の解説の孫引きといってよい。正 確さ、最先端からは程遠い。知識のひけらかしではなく、事実の確認のために は引用が必要である。しかし、私にどの成果が初出であるのか判断する資料も、 能力もない。したがって引用はできない。基礎としてはれぞれの分野の入門書 に解説されている事項を利用するしかない。
また、「である。」という、あたかも私の研究(勉強)成果の主張であるか のごとき、断定的な言い回しをする。正確には「と一般に解説書に書かれてい る。」とすべきであるが、わずらわしいのでここで断わることで、かまわずに 使用する。
注6
時間と空間の形式、存在の形式を自然科学が対象とするのであるから、哲学 は当然のこととして自然科学の発展に注意を払わなくてはならない。
注7
宇宙の始まりでは物質とはなれて生命活動があったとか、銀河系の外では光 の速度が倍になるとかといったことはない。超能力者の手の中であれ、宇宙の どこかで物理法則が破れたなら、宇宙は崩壊し存続できない。
注8
光速度、元素の半減期等は宇宙のどこでも一定である。陽子1個の原子は宇 宙のどこでも水素原子としての性質をもっている。どこでも同じであるから水 素として同定され、陽子として同定される。
注9
近接作用は時間や空間を飛び越さない。同じ事であるが瞬時に無限の彼方に 作用することはない。そのような遠隔力としての超能力は存在しない。
注10
速度を上げるにはエネルギーをつぎ込まなくてはならない。重さのある物体 には無限のエネルギーをつぎ込まなくては光速度にはならない。光速度で運動 する光は重さ、重力がないから有限のエネルギーで光速度で運動する。
時間経過を軸にして光の伝わる範囲の広がりによって円錐形の光の運動領域 の軌跡が描かれる。この光円錐をその外から観測することは原理的に不可能で ある。また内からも円錐形を観測することはできない。光の伝わる範囲は、内 からは宇宙の果てとして、過去の宇宙の観測限界として与えられるだけである。
注11
対象化は主観の解釈でも、生物の物質代謝として初めて実現するものでもな い。物質存在の基本的あり方である。
注12
銀河、恒星の観測は過去の観測である。
心理実験では、被験者に実験の心理的影響を与えずに実験することはできな い。
注13
放射性同意元素は、その原子の種類によって崩壊する比が一定している。崩 壊して半分の量に減るまでの時間を半減期として測定する。数個の原子では比 を計算しても、偶然が大きく作用する。まして、1個の原子の崩壊は、いつ起 こるか予測はできない。
強い相互作用、弱い相互作用は物質の構造として現れる。電磁相互作用は電 流、磁場として、電気エネルギーとして現れる。重力は引力、位置エネルギー として現れる。
注14
1つのスリットだけを開け、光や、電子線等を通した場合は、相対的に到達 量が多い中央部を形成する分布が現れる。2つのスリットを開けた場合は、1 つのスリットを別々に開けたときの分布位置を重ね合わせたのとは異なり、干 渉縞を現す。
2つのスリットを開けて線源を十分に弱くした場合、一つの粒子点として現 れる。点の現れる位置は予め特定できない。しかし、複数の点の位置を測定し 重ね合わせると干渉縞が現れる。
注15
地球生命と特定するのは地球外生命の存在が論理的に可能であり、ただ実証 的に確認されていないため「地球」と限定する。地球外生命が炭素を基本的結 合元素としていないことまでも、意味しない。
注16
陽子、中性子などの重粒子は、クオーク3個の組合せで構成される。中間子 はクオーク1個とその反クオーク1個の2つのクオークの組合せで構成される。
注17
物質の階層性を問題にするとき、「階層の無限性」という概念がある。科学 的成果の相対性を強調し、概念の絶対化を戒める意味はあるのだろうが、歴史 的に、いつまで「階層の無限性」に意味があるのか。自然科学によってもクオ ーク以下の階層性はほとんど見えない。絶対零度、特異点などの極限値の存在 が限界の存在を示しているのではないか。かえって「無限」概念の抽象性によ って、日常的観念の神秘性が「実在」概念をすりかえることになるのではない か。「階層の無限性」はかえって、自然科学の視点を踏み外すことになるので はないか。
注18
原子内の電子は太陽系惑星のように原子核の周りを回るのではなく、電子軌 道上に広がりを持って運動している。この電子を励起の程度によって、局所化 することができ古典力学的な運動形態に近づけることはできるらしい。
電子軌道上の電子は古典力学では回転運動によってエネルギーを失い、たち まちに原子核に落ち込み原子はつぶれてしまう。しかし実際には、電子のエネ ルギーは連続的な値では増減せず、一定の値のエネルギーを失うまでは別の軌 道に落ち込むことはない。
注19
銀河までの距離は、明るさが週、月単位で周期的に変化するケフェウス型変 光星の観測による。ケフェウス型変光星の明るさの変化の周期は全光量との相 関関係がある。星がどれだけの光を出していて、実際にどれだけの光量が観測 できるかによって、ケフェウス型変光星を含む銀河までの距離が計られる。
銀河の遠ざかる速さは銀河の光の赤方変異によって観測される。速く遠ざか るほど光の波長は長くなり、赤い方へずれる。音の場合と同じで遠ざかる物か らの波は波長が長くなる。色だけでは全体にずれるので、ずれの大きさは測定 できない。ずれは、元素固有の光の吸収によるスペクトル・パターンのずれと して観測される。こうして遠ざかる銀河の相対的速度が計られる。
注20
これらの発見によって「ビックバン」が支持された。そしてビックバンに依 拠することで、存在の全てを統一した歴史の中に位置づけることができるよう になった。
注21
物理的相互作用の分化を逆にたどることで統合に至る。相対論的量子力学は、 宇宙の歴史を逆にたどることによって「ビックバン」に行き着いた。ビックバ ンでの物理過程、対称性の破れ、初期宇宙のインフレーション膨張、ビックバ ン以前の宇宙については、相対論的量子力学を超えた物理理論が形成されねば ならないとされている。
注22
この偏りのキーワードはカオス、ゆらぎ、宇宙の泡構造、グレート・ウォー ル等であり、宇宙論のテーマになっている。
注23
実際には地球の生命しか知らない。他の生命を発見できていないことが、地 球生命の誕生の確率の低さが、人間原理の根拠とされている。しかし、生命の 誕生・進化は必然と偶然の弁証法の厳しい現実の例証である。
偶然の産物である地球生命の歴史をたどることで、そこに生命の必然性が明 らかになる。どの条件が地球生命の特殊条件であり、どれが生命発展の必然的 条件であったかは明確にはしがたい。他の生命が知られていないのだから。酸 素が必要条件なのか、他のエネルギー代謝が生命を実現できるのかはまだSF の世界である。
注24
生命の誕生前の地球は太陽からの紫外線を防げず、今日一般的な生物は生活 できない。太陽紫外線は生命誕生の化学エネルギーとして十分な供給源であっ た。誕生したばかりの生物には、酸素は毒性であった。酸素は地球の物理的初 期条件では、安定的に単離されなかった。生物が地球の大気の酸素を供給した。
注25
精神は生物進化の延長線上に位置づけられる。その精神が実践によって進化 し、社会性を基礎として文化が生成した。
注26
生命、生物の存在についての問題は、生物学、哲学だけの問題ではない。脳 死、器官・臓器移植、情報システムと人間とのコミュニケーションの問題とし て実際的な問題に連なる。考えただけで解答がでるわけはない。社会問題とし て、社会的合意、意志を決定していく過程も重要になる。感情的に現実を評論 してもなんの解決にもならない。
注27
神経系の情報処理能力を情報機器システムと比較して過大評価し、遺伝情報、 神経系、内分泌系、免疫系の高度な発達に眼を奪われてはならない。生物進化 はさらに、生物進化を超えて文化を創造した。文化によって、個体の集積した 情報、情報処理能力を一代限りにせず伝達し、世代を超えて発展させることを 可能にした。文化としての情報及び情報処理能力は哲学の現代的課題とも結び ついて考えられねばならない。情報統制、世論操作と言った政治過程において、 文化と情報は実際的な問題である。
その前に、生物過程と生物過程での情報処理について考えなくてはならない。
注28
今日地上では、生命以外から新たな生命が生まれたことは観察されていない。
生物学も生命を合成することができていない。
卵が先か、鶏が先か。個体発生を辿っても論理が循環する。
獲得形質は遺伝しないのに、肺呼吸のできなかった生物が肺呼吸へどうやっ て飛躍したのか。生物がどうして飛べるようになるのか。適応や突然変異だけ では説明できない。
分子遺伝学によれば、原生生物がヒトまで進化する可能性は、宇宙の歴史以 上に時間が必要になる。
注29
個人が獲得した知識、運動能力は遺伝しないことは、一般に認められている。 しかし、「生物が進化してきたからには、個個人の獲得した能力は、全体とし て集まれば遺伝情報として固定されるはずだ。進化が歴史的事実なのだから、 獲得形質も遺伝情報に反映されるはずである。」 こうした現象からの解釈に頼っていては、非進化論につけいるすきをあたえ てしまう。自然の意志と神の意志は言葉は違っても、同じ意味である。
注30
スポーツ選手の子は運動能力を活かした生き方が最も適したものになり、学 者の子は知的能力を活かした生き方が最も適したものになる。職業の分化が生 物種の分化になってしまう。そのような進化は、道徳的に許されないのではな く、生物学的に認められないのである。
獲得形質が遺伝子を変化させ遺伝することになれば、人間の場合は環境への 適応を超え、超自然的な存在へまで進化してしまう。獲得形質は人間の場合、 文化として受け継がれている。遺伝による素質の基礎はあっても一人一人、一 世代毎に教育され、訓練された形質として文化が継承されている。教育、訓練 なしに獲得形質が遺伝するなら、種の普遍性がなくなり、文化が人種を規定し てしまう。社会的権力をもったものは生物的に進化し、抑圧された人々は生物 的に退化してしまう。 蛇足38
注31
獲得形質も、進化も結果としてあるのであって、目的因、原因ではない。遺 伝子そのものの変異、運動から新たな適応形態、進化の方向が現れる過程を生 物学自体の説明によらねばならない。 蛇足39
注32
むしろ、超自然的な力、神がかりな力こそ自然の力によって理由づけされて いる。自然の力の現れを変えることができ、それが超自然的な力、神がかりな 力の証明として宣伝される。自然の力に作用するのは自然の力である。自然の 力に対して、気まぐれに作用したりしなかったりするのは、偶然である。
スポーツマンシップにのっとって競技している者に対し、えこひいきするの が神の意志なのか。
注33
統計上の確率はそれほど低くなくとも、主観的には起こりえないことのよう に思えることがある。あるいは実際に低い確率であっても、対象となる事象が 膨大であればそれなりの奇跡が起こり、情報操作によってその印象は強められ る。
注34
与えられた状況を私物化し、その現実を保守し、あるいはそれに寄生する人 間が多数を占めるのも事実である。エントロピーの増大に乗って、時間とエネ ルギーをむさぼる生き方もできる。だから故に、逆にそれらを否定する存在に 共感するのである。
注35
アミノ酸は1つの炭素原子を中心に、1つの窒素原子と2つの水素原子から なるアミノ基、1つづつの炭素と水素と2つの酸素からなるカルボキシル基、 1つの水素原子、それにアミノ酸の種類によって異なる原子団が結合した有機 化合物である。
注36
タンパク質はアミノ酸のアミノ基とカルボキシル基の間で水がとれることに よって互いに結びつくペプチド結合によって、多数のアミノ酸が鎖状に連なっ た高分子である。
小さなタンパク質は数十のアミノ酸の結合からなり、一般的には数百、大き いものは千以上のアミノ酸からなる。アミノ酸の配列の種類によって異なった タンパク質になるが、20種類のアミノ酸が数百並ぶ配列が可能であるのだか らタンパク質の種類は膨大である。
タンパク質の中にはアミノ酸以外の成分をアミノ酸の鎖に共有結合している ものがあり、糖タンパクのように特別な生理的役割をしている。
さらにタンパク質はアミノ酸の鎖からなる空間的構造をなしている。タンパ ク質の空間的構造は、タンパク質の生物的活性に関わる。熱などによって構造 が変化するとタンパク質は変性する。
注37
核酸は遺伝情報の物質的担い手である。核酸の構造として保存される遺伝情 報に基づき、アミノ酸を結合させタンパク質を作りだす。
核酸の物質的構造は糖とリン酸基が交互に連なり、糖の部分に塩基が結合し た高分子化合物である。糖とリン酸基からなる鎖は糖に結合した塩基が他の鎖 の塩基と水素結合し、互いの鎖からなる二重らせん構造をとる。
注38
脂質は生物体の主たる構造材であり、またエネルギー源である。
注39
ミクソバクテリアは胞子から発芽し、単細胞のアメーバとして分裂=増殖し、 栄養が欠乏すると集合し、子実体とよぶ集団をつくり、やがて胞子を放出する。
注40
これ以外に運動エネルギー代謝はおこなわれない。精神力だけで運動するこ とはできない。乳酸の蓄積した疲れた筋肉では、運動を続けることができない。
注41
ヒトの赤血球細胞は1秒あたり約250万個死滅し、補給される。肝臓のタンパ ク質分子は10日から20日でその半数が置き換わる。
注42
遺伝子、遺伝形質、遺伝形質の発現過程の概念を明確にしなくてはならない。 そして、これらからなる全発現過程が、遺伝の発現過程である。生物個体、あ るいは個体の組織の形成に、これら遺伝要素がそれぞれにどの程度の決定性を 持つものであるか、生物学から学ばねばならない。感覚能力、運動能力、認識 能力、言語能力、思考能力等、どれほどが遺伝形質として決定されるのか、生 得的能力なのか。
注43
「考えられている」とは、実証されていないということである。
注44
マスメディアの発達は、単一の情報を全体に普及するといった機能だけでな く、その好奇なものを求める取材の多様性によって日常生活では知りえない情 報を提供してくれる。マスメディアの提供する情報が虚構である可能性を常に 警戒しなくてはならないにしても、一部の専門家しか知り得ない情報を、理解 しやすい形で一般に知り得ることはすばらしい。
注45
例えば、「雪虫」の生態である。1年間に複数の世代交替を経るが、その間、 雌雄による生殖は1回だけである。しかも、世代によって住む環境を変える。 自然の出来事を、勝手に解釈することはできないが、少なくとも、通常の「有 性生殖にあっては、雌雄の生殖によって子を生む」という生殖についての理解 が、絶対に正しいとは言い切れない。
注46
生物進化の理論と生物進化の過程の記述は区別されなくてはならない。歴史 的事実としての生物進化は、生物進化の理論としては明らかにされていない。 過去の生物進化も、未来の生物進化も予測しえていない。
注47
染色体突然変異には、染色体数の変化として、両親からの染色体の組が増加 する倍数性、染色体の組の構成が増減する異数性がある。
染色体の構造の変化として、染色体の一部が逆転する逆位、重複、欠失、一 部が他の染色体につながる転座がある。
遺伝子突然変異には、遺伝子を構成しているDNA塩基の入れ替え、欠失、 転置、重複、挿入などがある。
これら突然変異は染色体、あるいはDNAの複製の際に生じるものであり、 個体の生活環境とは関係ない。生活環境が影響するのは、遺伝情報が個体の形 質としいて発現する際である。
注48
「進化の圧力」という類推は実証されていない、といっても同じに進化の機 構も実証されていない。
注49
化石から確かめられる人類への進化の過程として、400万年から130万年前頃 にアウストラロピテクスがアフリカにいた。
アウストラロピテクスに次いでホモ・ハビリスが現れた。200万年から150万 年前の東アフリカである。ホモ・ハビリスは道具を使用した。
170万年から50万年前にホモ・エレクトス、直立猿人が現れる。各種の石器を 用い、木や肉を切ることができた。生物学の分類で人類の属するヒト属の歴史 的始めに当たる。
注50
生物学において人類の属する種であるホモ・サピエンスの最も古い化石は50 万年前のヨーロッパの物である。
12万年から3万年前にネアンデルタール人が、ヨーロッパ全土西アジアに現れ た。ヒト属の種ホモ・サピエンスの亜種に分類される。葬送の習慣があった。 発音は現代人に比べ、十分に発達していなかった。
ホモ・サピエンスの現代人と同じ亜種に分類されるクロ・マニオン人は4万年 前に、西南アジアからヨーロッパに進出した。フランスのラスコー洞窟などに は絵を残している。
注51
経済学で取り上げるところの、生産的労働の定義に問題がある。原理的には 自然物を利用可能な形質にすることが生産である。使用されるための価値、使 用されるために交換される価値が生産される。しかし生産されるだけで消費が 実現する保証はない。生産物も放置されれば腐朽する。社会的生産物は運搬、 保管されなくてはならない。生産の途中の過程でも原材料、中間材の運搬、保 管は必要である。生産がより高度に、より社会的に発達するほどに、運搬、保 管の労働は必要である。さらに、生産、運搬、保管を管理、制御する労働が不 可欠になる。これら労働を非生産的労働として軽視することにより、経済成長 を停滞させ、社会の物質代謝を破壊してしまうまでに至ることがある。
注52
肉体的能力の拡張が人類進化の契機として重要であったことに比して、精神 的能力の拡張である情報システムの意義について社会的理解が進まないことに はいらだたしい限りである。現在が人類の前史であるからこそ、理解されない のか。
注53
働かないで他人の労働を搾取することが問題なのではない。ハンディキャッ プがあっても、社会的に働きかけることができ、それで生活ができることが必 要なのである。能力があり、権限があるのに働かない人間は許されない。
報酬だけを目的とした労働は人間性をゆがめ、社会を腐敗させる。競争によ って作られる基準によるのではなく、それぞれに可能である社会的活動を基準 にしなくてはならない。
注54
自己実現は生きていることの本来的楽しみである。
現実の労働が生活のための手段でしかなく、他人に指図されるだけの労働は 苦痛でしかなくとも、本来の労働は生きる喜びである。本来の喜びでなくとも、 与えられた目標を、自らの課題と思い込むことによって、自らを、家族を犠牲 にしても仕事を遂行する人すらいる。
細分化され、他人に管理され、目標と自分の生き方が一致していない労働は、 疎外された労働であり、克服されなくてはならない。
注55
単なる映すだけであれば、人間を介してであれ、カメラも、コンピュータも 世界を映す。この反映の人間としての特徴は、反映を結果にとどめるのではな く、生活の指針として実践のうちで対象に関係し、検証するということである。 生活を離れて精神活動はない。このことを無視した、人工知能が精神活動を代 替するという幻想に惑わされてはならない。
注56
例えば電子を媒体とする電子顕微鏡、電波による電波望遠鏡。今日ではニュ ートリノによる宇宙探査が行われている。量的、質的認識能力の拡張として認 識手段は発展している。認識手段の発展、多様化は認識結果の統合能力の発展 がなくてはならない。肉眼で見たものと、顕微鏡、望遠鏡で見たものの像の違 いと連続性を理解しなくてはならない。可視光線による像と電子、電波で得た 像とから、対象の構造を統一的に理解しなくてはならない。
注57
反科学技術の立場から、自然状態への復帰が言われるが人間の自然状態は自 然状態を変革することによって成り立っている。
注58
赤ん坊が労働しなくても知恵づくことは反証にはならない。赤ん坊の知恵の 獲得はヒトの進化の過程で労働により獲得してきた能力と社会的訓練によって 発現するのである。またここでの労働は職業としての労働ではない。
注59
人間はもはや生物としてだけ生きることはできない。
人間は社会の中で育てられねば、生きて行くことすらできない。
人間は社会環境の中で、社会から与えられる知識、道具なしに生きられない。
人間は社会なしに、単なる生き物としては弱過ぎる存在である。
注60
たとえ譲って、精神活動と精神活動が直接関係するとしても、それだけでは 関係したかどうかすら、他の関係に関係、影響しない。テレパシーや読心術は 精神と精神が直接、物質の媒介なしに作用しえると主張する。そのことを証明、 あるいは証拠立て主張するのは、物質的手段によってだけである。主張するこ と、主張しようとすること自体、物質的関係である。もし、物質の運動から独 立した精神活動が存在するなら、我々の世界観はその方法、対象、論理も含め てまったく別にうち立てられなければならない。しかし、精神活動の独立を主 張する人、さらには、精神活動が物質の運動より基本的であると主張する人は 誰であっても、物質的世界観に寄生して物質的世界間の主張の解釈として、各 々の世界観を主張している。
注61
最先端の科学であっても世界を十分に説明できないのは、精神活動の位置づ けが誤っているからではなく、発展過程にあるからである。
科学及び物質的運動が基礎であるとする世界観は、枠組み、及び基本的部分 は十分に正しい。精神活動の独立を主張する立場は枠組みから、基本的部分か ら物質の運動を説明していない。
注62
生理的にも感覚器官で能動的な処理が行われている。例えば網膜の受光細胞 からの神経は相互に連絡し、興奮性の刺激と抑制性の刺激を組み合わせ、対象 からの像を際立たせる処理を行って視神経に信号を送り出している。
注63
実際に脳では直線、三角形、円等を単位として認識する。
例えば「あたたかい」と言うことは、単に温度に対する感覚の反応だけのこ とではない。温度についての感覚的表現にとどまらず、一般化して色、旋律、 響き等を表現もするし、さらに抽象化して、ことば、人格についてまで表現す る。
注64
音楽では音程、音色、音長、音量を基本的媒体としている。しかし、これら 基本的媒体である音の性質だけでは音楽にならない。それらの組み合わせとし てより抽象的なリズム、ハーモニー、メロディーが要素となって対象を表現す る。リズム、ハーモニー、メロディーは音楽だけの要素ではない。また芸術表 現だけの媒体ではない。生理的活動、スポーツ、仕事等にも現れる。
注65
新しい知見は学術誌に論文として掲載されて事足りるのではない。再現され、 追試されなくてはならない。これまでの知見との整合性が確認されなくてはな らない。知識として解説されなくてはならない。教材として整備され、教育さ れなくてはならない。利用技術が開発されなくてはならない。技術が実現され、 実施されなくてはならない。社会的現実変革力として実現されれうには社会的 普及が実現されなくてはならない。
基礎的統計データは問題を取り上げようとする人々が共通して、必要なだけ 手に入れられなくてはならない。今日の情報システムでは技術的には可能であ る。データ項目の整理、データ形式の統一、データの蓄積・整備・メンテナン スの負担、管理体制が整備されていない。必要性が社会的に理解されていない。 要求が社会化されていない。
注66
対象の論理の確認。対象のイメージの形成。対象を媒介しての創造性の実現。 対象認識の多面性、総合性の拡張。
注67
原子核の研究者は原子、原子核をピンポン玉の大きさで、いやバスケットボ ールの大きさでその運動をイメージして検討する。
計算機による大量の計算結果数値を逐次調べて全体の結果を出すことは不可 能である。画像(グラフィック)表示してイメージをえる。
個々の変数の変化を追いかけても運動の全体は理解できない。運動全体のイ メージから対象の本質を構想する。
科学的には数値に裏付けられたイメージの操作能力が問題であるが、日常的 には科学的に裏付けられた類比イメージが問題である。
注68
例えば量の計測、比較は直接的に連続量として計算される。道具を使用して、 計算尺が直接的量の比較に用いられる。これを、単位量によって分割し、数と して比較演算することで定型化、一般化する。
数の算法は位取りと桁上がりが基本になる。最も単純な数の算法は2進数で ある。
注69
光等の電磁波で見ることのできない微小な事象、世界線を超えた事象は観測 不可能である。
どの程度で破壊されるかは実物で実験したのでは対象が破壊されてしまう。 物性疲労で性質が変わっては検査の意味を失う。破壊実験、臨死実験、地球環 境の変化これらは思考実験では可能である。
注70
なまずを水槽に入れて地震予知に使うことは、なまずの「予知能力」を封止 するか、制限することである。自然環境の中にあって、全体の環境変化のひと つの変化を、人間が「予知能力」として捨象しているのであるから。
注71
例えば鏡を見る場合、ガラスでできた反射板を見るか、写された像を見るの か、焦点を合わせるといった生理的運動にあっても、対象についての知識と、 関わる意志が必要である。
注72
最も制度的に整備されているはずの行政機構でも、補助金の利用率ですら自 治体の規模、中央からの距離によって勾配が現れ、勾配に沿って人材派遣が行 われている。
注73
翼賛体制は多様性を部分的なものに囲い込むことによって実現される。その 手段が暴力的であるか、策略的であるかは問わない。
注74
自然科学からすれば、統計手法は現象の数量的関係整理の有力な方法である。 しかしその自然科学においても、厳密な数値化は不確定性原理によって成り立 たない。確率論的にしか成り立たない。
注75
自然科学でも数値計算の限界はある。気象モデルを高気圧部分と低気圧部分 の2つの部分に分けるなら手計算でも可能であろう。しかし、部分的モデルで も、10×10、100の区画に分けて、区画間の作用を計算するとかなり複雑な計算 になる。区画を小さくすると、平面的区画の数の増加だけでも指数的に大きく なり、たちまちの内にどんなに高速な計算機でも計算不可能になってしまう。 明日の天気を予想するのに、1週間もかかるようでは、天気予報の計算には使 えない。
注76
社会全体が有機体的存在であるとする社会有機体説に組しはしない。社会に は物質代謝だけでない文化的運動もあるのだから。
有機体は機械的構造物と違い、構造の維持そのものの活動が不可欠である。 機械の働きと、その機械自体の部品を再生産し、組替える働きは分離している。 有機体は有機体全体の活動とは別に、有機体の構成要素である器官そのものを 再生産し更新する。有機体は有機体の環境に対し、外に向かってだけ運動する のではなく、有機体の維持のため、内にあっても運動し、内外の運動は統一さ れ、均衡が保たれさらに発展していかなくてはならない。
社会の物質代謝も自然環境に対する働きかけだけによって実現しない。自然 環境から取り入れた物質を必要とする部門へ配分し、不用となった物質を自然 環境に還元する物質代謝と、物質代謝自体を統一し、均衡を維持するための活 動が行われなくては社会は維持できない。
注77
大気にしても窒素酸化物等の汚染、二酸化炭素の排出、フロンによるオゾン 層の破壊。水の汚染、温排水。地球環境全体が社会的作用にかかわっている。
石油も石炭も過去の生物の物質代謝の遺物である。生物的物質代謝から排出 された物質である。それが人間によって採取され、掘り上げられることによっ て人間社会の物質代謝の重要なエネルギー源となり、原材料となった。
注78
核融合は無限のエネルギーを供給できるとされている。その意味では社会的 に有用である。しかし、未だ核兵器以外に、平和目的には利用されていない。 生産的労働の対象ではなく、科学実験の対象である。核融合を実現する高温、 高密度の条件を作り出すための投入エネルギーが、核融合によって取り出され るエネルギーより大きい現段階では、核融合は社会の物質生産として評価され ない。科学労働という特殊な労働の対象にとどまる。
注79
対向して進む者は左右、あるいは上下にそれぞれに回避しなくては衝突する。 衝突する時になって互いの回避方向を決めるのでは手間がかかり、衝突の可能 性が増す。
注80
階級社会において、すべての権力闘争は国家権力をめぐる闘争になるが、他 の権力闘争を国家権力闘争に置き換えるのは正しくない。アナーキズム批判と して、日常の個々に現れる権力行使に対する闘争を軽視する傾向がある。
注81
生活を維持するための経済的相互依存が所有関係の構造によって不平等にな る。労働者は所有に関して自由、資本家は売買に関して自由である。労働者は 労働力を売らなければ生活できない。資本家は労働力を買わなければ再生産が できない。労働力の売買関係に限定するなら平等な依存関係である。
注82
【人脈、コネ】
権力の目的化は個々の集団・社会の関係とは別にそれらを横断した人間関係 を形成する。個々の集団内の構成員の関係が対等であることは希である。構成 員はそれぞれに集団内で分担した役割・機能を担っている。集団内の社会的地 位、役割、機能を一致点として集団社会を超えた人間関係が形成される。一致 点での関係によって相互に援助し、補完することによってそれぞれの集団内で の地位、役割、機能を強化する。人脈が形成される。人脈を利用する取引が 「コネ=コネクション」をつくりだす。
集団としてのまとまりは集団の意志と、運動によって実現している。様々な 社会集団の内に社会的権力が実現されている。それぞれの集団の性質、目的に よって権力の現れ方は異なる。構成員の行動が別々であっても、相互に関係が 継続して維持される家族など。共通の趣味によって形成されるサークルなど。 共通の利益を追求する利益団体、取引団体など。
集団間の相互関係によっても集団は分離したり、統合されたりする。集団内 の相互関係は集団間の相互関係と相互に転化可能である。一定の相互関係によ って一つの集団が形成され、他と区別される。他との区別によって集団内の一 定の関係が形成される。
この集団関係が血縁的、地域的、思想的、経済的、歴史的社会関係として統 合されたものが国家である。国家を規定する社会関係は歴史的に発展してきた。 国家は統合の実現のための規範、強制力を国家権力としてもつ。
注83
核家族化、個人主義化としての相互依存性からの脱却について弊害、悪い面 が強調され、保守の復権が言われるが、相互依存性からの脱却の過渡性の悪を、 自立化の悪と同一視してはならない。
注84
会計システムを例にとるなら、単価はデータ化、変数化により値上げ、品数 の増加に対応する。部門のデータ化、エイリアス化により組織変更に対応する。
柔軟なシステムを作るには詳細で、正確な予測が必要である。詳細で、正確 な予測の程度に応じて、それに要する労力は指数的に増大する。どれだけ柔軟 なシステムを開発するかは、システム・エンジニアの能力だけの問題ではない。 システム発注者の要求が明確に定義されていなくてはならない。
注85
階級社会での教育は社会、政治権力保守のための選別制度でもある。
注86
ちょうど外国語学習のように、始めは翻訳して理解し、ついでその外国語で 考えるようになる。
注87
人間社会一般を問題にする場でも、人格の基礎を課題とする時にも抽象的で あることはできない。基礎といっても生身の人間の基礎であり、個人として生 活しながらも、社会関係の関連の中で現象する人格のあり方が問われる。日常 性の中で問われている人格の基礎について、個々具体的に考えなくてはならな い。社会的到達点としての現在の歴史性を捨象して人格を考えることはできな い。
注88
学校教育の荒廃を子供の気質、教師の姿勢、学校制度の問題等としてだけ捉 えていたのでは本質的解決にはならない。学校教育に限らず、教育そのものが、 そして社会そのものが歪められて様々な問題が生じていることに目を向けなく てはならない。教育そのものがどのように社会的に歪められているかを明らか にするには、教育の普遍的意義を明らかにしなくてはならない。現実の様々な 問題の解決と、教育そのもので実現しなくてはならない課題の追求を区別しつ つ、同時に解決しなくてはならない。
現に教育を受けるものにとって、個々の問題を解決することは焦眉の課題で ある。人格が踏みにじられ、生命すら危険にさらされている。教育が人間選別 の手段として利用され、生活手段獲得の資格として求められている。
同時に教育をとおして獲得されなくてはならない課題を、歪められた教育環 境の中でも少しでも実現できるようにしなくてはならない。
教育政策を作る際も、個々の問題と普遍的問題の体系化が考慮されなくては ならない。
注89
ほれた、はれたで長年いっしょに生活できるなら、それも選択である。子供 ができたから、子供のために。出世のために。いづれであっても、自分の人間 としての判断である。
注90
結婚は式を挙げることではない。結婚式は、社会生活の個人的節目として形 を整えることに意味がある。式は社会的宣言として、相互の確認として意義が ある。どの様な形をとるかは、結婚の中身によって異なる。世間体を重視する のか、世間並に憧れるのか、世間体に逆らう中身なのか。形を整えるには世間 体との関係を無視できないが、それだけが目的ではない。
注91
始めから歩ける人はいない。歩けるようになることは、転ばないでバランス をとれるようになることである。結論を自信を持って出せるのは、誤りをすべ て明らかにすることによってである。
失敗、誤りを経験しないで前進することはできない。
注92
眼の機能が正常になっても、視覚情報を処理する脳神経細胞のネットワーク が形成されなくては視覚能力は獲得できない。
注93
宇宙空間での長期滞在では筋力の衰え、骨のカルシュウウムの減少等、生理 的適応を食事、運動等によって管理しなくてはならなくなる。都市生活にあっ ても、程度の差はあれ肉体の制御は不可欠である。
注94
子供に早起きの習慣をつけさせるには、親が早起きしなくてはならない。子 供にだけ挨拶を強制しても、周囲の人との関係なくして挨拶は成立しない。大 人同士が挨拶する関係の中で、子供の挨拶が認められる。交通道徳は身を守る 規則である。子供に教えるには交通規則を破る親の都合を意識する。子供の都 合の理解によって、親の生活態度が理解できる。
注95
男性の競争社会では、男性が争い合う能力が社会的基準になる。就職、賃金、 労働条件において、子を生む女性の生理的条件はハンディキャップにしかなら ない。老齢者、身心障害者も男性の競争基準からはハンディキャップを負う。
男性自身が競争の中で、競争のために生活を擦り減らす事になる。人間とし て競争するのではなく、ハンディキャップを負わないように駆り立てられる。 競争させることで、支配収奪する者の利益にしかならない。
注96
物質的に豊になったといっても、傷病によって、老齢によって生活保障が不 安になる社会は豊かな社会ではない。互いに自立した生活を全うできなくては ならない。
注97
職場の中でも中間管理職は情報操作によって権限を維持している。
注98
第8章第1節が人間社会の存在・運動としての物質代謝一般だったのに対し、 ここでは物質代謝の基礎過程を扱う。経済過程としての物質代謝過程であり、 社会の下部構造の運動過程である。
注99
【社会的生産と個人】
物質代謝は社会的運動であり、個人の生活も含む。個人の所有の量と質、利 用の仕方の多様性に関わりなく社会的物質代謝は運動している。経済関係を社 会的過程とし、消費を個人的過程として分離したのでは、価値を問題にするこ とはできない。個人を基準にしては社会の相対的な関係をとらえることはでき ない。
そもそも個人が問題になるようになったのは、資本主義社会になってからで あり、歴史的に限定された社会の問題である。
注100
食材としての生産は完結していない。食材は調理されなくてはならない。調 理はもともと消費過程として分類された。しかし今日、調理も飲食業として成 り立っている。さらに、病人の中には口に食物を入れられなくては食事のでき ない人がいる。これを介添え人が行う場合もある。
注101
詐欺等の不等価交換も現実にはある。詐欺の被害にあえば次の仕入れができ ず、あるいは同水準の生活ができなくなる。
個々の取引では少しでも利益を得ようと交渉される。しかし、交渉によって 社会的価値基準が明らかになる。
注102
熟練した職人の技を機械に置き換えることは容易でない。現実の作業では予測 できない様々な環境条件の変化があり、これに対応するのは人間の能力である。 技量、集中力といった能力は訓練によって拡張することができる。
注103
バケツリレーは水を移動させるための運動に特化し、運搬者である個々人の 移動のための運動をなくすことができる。
注104
多体の構造を組み上げには、共同作業が必要である。自立しない構造も、組 み上げることで自立するようになる。
注105
疎外された労働者の評価に基づき、「労働者には労働、生産を管理する能力 が無い」とするのは、労働の価値を評価しないことによる誤りである。労働は 社会的価値を生産すると共に、労働の主体自体を生産する。労働は労働者自ら を再生産し、訓練し、成長させる。疎外された労働が労働者の創造性、規律性、 社会性を奪っているのであり、労働者自体が本質的に被支配的存在、受動的な のではない。
疎外された労働を前提として生産力と生産関係を問題にすると、労働が組織 化されることによる生産力の発達を資本の生産力として錯誤するまでに至る。
意識の上では疎外されていない労働者であっても、労働者誰でもが直接的生 産労働、管理労働、企画労働をこなせることにはならないのは当然である。い ずれの労働であっても訓練が必要であるし、教育制度の普及が前提にある。さ らに、労働者それぞれの資質も様々であり、それぞれの資質にあった労働分野 がある。労働者のそれぞれの資質が十分に実現するように労働者は組織されな くてはならない。組織の中で労働者は自らの資質を実現させる地位を獲得し、 自らを訓練しなくてはならない。
さらに将来的には管理・運営を担う者を訓練しなくてはならない。
注106
この情報拠点が、これからの生産関係、労働形態にとって重要である。情報 拠点とは情報センター等の制度でも、組織でもない。それぞれの社会機能を担 う部門で、発生源にあってデータを収集する人、組織であり、収集したデータ を利用・加工して作業する人、組織のことである。データの「入」と「出」に おいて現実を反映する人間の価値判断が必要であり、その間の伝達や変換は情 報機器が行えばすむことである。
入出力は情報機器・設備の発達・普及だけでは対象の価値判断ができない。 人間の現実認識能力が問われる。
情報拠点の形成と通信網の整備は、社会全体のコミュニケーションのあり方 を変革し、組織のあり方を変える。
注107
職制は人を処遇するための格付けではなく、組織を運用するための制度であ る。
注108
生産手段の所有者の仕事であった企業経営は、今では被雇用者によって担わ れるまでになっている。
注109
一般的に太陽光、空気は労働対象にはならず、社会的に価値評価されない。 日照を妨げられる場合に、太陽光は労働対象にはならないが、日照権の問題に なる。汚染された空気を浄化する場合に、空気は清浄化の労働対象になる。あ るいは宇宙や水中のように、空気の無いところで利用する場合に、空気は保存 ・運搬の労働対象になる。
注110
流通が価値を生産しないとして切り捨てることはできない。工場内での物流、 工場間での原材料の運搬と製品の流通と労働過程として区別することはできな い。
注111
電子計算機は数値計算だけを行うものではない。電子計算機はデータの蓄積、 検索、比較演算、関係の操作を行う情報機器である。情報システムは情報、デ ータを媒体に依存しない、そのものとして取り扱うことができるようにする。 紙にかかれた言葉は、紙がなくてはならないし、人間が読み、解釈しなくては ならない。しかしそれが一端電子データ化されれば、媒体は変換され、通信さ れ、複写され、記憶され、処理される。電気信号、光信号、磁気の配列、孔の 配列、印字模様の配列、配列形式を保存し、再生できるものであれば媒体は問 わない。
情報システムを利用することにより、人間は知識を体系的に順次記憶する必 要はなく、知識の連なりを理解できていなくとも情報の連関を辿ることができ る。また抽象的関係を操作可能な具体的対象として表現する。情報システムは 人間の精神的能力を拡張し、生産力を高める。
ただし、情報システムも機械と同じに、使われ方で良くも悪くもなる。
さらに、機械は物が対象であり、使い方は訓練によって容易に身につけるこ とができる。しかし、情報システムは事・関係が対象であり、頭自体の使い方 である。対象を使うことを考える、その考え自体を対象にしなければならない。 いかに高等教育を受けたからといって、教育を生かすことまで身につけている とは限らない。
注112
人が生産手段として所有されていた時代、土地が支配された時代、資本が支 配される時代、情報が支配される時代によって生産関係は質的に異なる。
注113
生産力と生産関係を下部構造とする、経済以外の文化的社会運動をなす上部 構造との統一物として生産様式があるのではない。生産様式も経済関係である。
注114
鎖国した国家をここでの「社会」単位とはしない。鎖国は国際交流がすでに あり、それを政策的に断つ、それ自体一つの国際関係である。鎖国は極度に制 限され、歪められた国際関係であって、国際交流がないのではない。
注115
ヨーロッパ人が世界的規模で侵略、支配するようになったのはヨーロッパ文 明の優秀性によるものではない。世界の交通が可能なまでに人類の存在が普遍 化し、交通用具が発達していた歴史的環境条件が基本的にある。その下で、世 界支配を可能にする侵略的文明特性をヨーロッパ人が担ったのである。歴史的 環境条件は人類史の基本的発展法則の実現であって、偶然の条件の組み合わせ ではない。ヨーロッパ人のすべてが侵略的であるわけではない。ヨーロッパ人 以外は非侵略的であるわけではない。
注116
同じ奴隷制と呼ばれる、社会制度であっても、古代の奴隷制は人間に対する 生物的支配であった。近現代の奴隷制は生産力商品として人間を支配するもの である。歴史的発展段階が異なり、アメリカが、古代に逆行したのではない。 一方、奴隷の供給社会となったアフリカの社会は滅び、人は生き続けたが文化、 生活は破壊された。
注117
近代アメリカにおける奴隷制は社会発展の歴史の合法則性によるものではな い。資本主義商品経済のもとでの人種差別を背景とした奴隷制である。資本主 義に組み込まれず、奴隷制生産だけによってアメリカは繁栄を築いたのではな い。基本的には資本主義経済により、それに組み込んだ奴隷制による特別剰余 労働の搾取によってである。奴隷を人間として再生産、すなわち生活する人間 としいて扱わず、死ねば代わりを買ってくる原材料として人間を搾取したので ある。
奴隷を非人間化したのは支配者であり、人間関係を非人間化することで自ら を非人間化した。奴隷自身は非人間化しなかった。奴隷制度の中でも人間的文 化を生み出した。
注118
ギリシャの民主主義も奴隷制の上での民主主義である。奴隷は市民ではなく、 支配階級が市民として議会制度を持ち、合議制度を発達させた。
注119
今日の労働時間の短縮も企業経営者の側からすら必要性が主張されているが、 現実に、超過勤務手当が生活給化し、あるいは超過勤務が無給のサービス残業 化している実態のもとで、労働者自体が時短を即受け入れられない現実がある。
注120
資本主義生産の過程を経るか、一機に社会主義政権を実現するかに関わりな く、労働運動、地域運動、民主主義運動が統一的にさらに発展しなければ社会 主義政権も崩壊する。
注121
階級構成分析は統計数値処理だけの問題ではない。分析対象の質の問題とし て、分類基準の決定自体が課題である。区分される人数の変化を数値によって 表す。数値区分によって、分類対象の質の変化をつかまなくてはならない。構 造自体の変化を数値によって把握する。
政治動向だけでなく、より一般的に社会動向を示すものである。
注122
「政治改革論議」政治資金規制議論の中で「法人も税金を納めているのであ り、政治に何も言えないのは民主主義に反する」などという発言がなされ、そ れに反論しない政治家がいる。
注123
【共産主義社会】
「共産主義」の亡霊が去った今、理想郷について語ることは馬鹿げたことな のだろうか。私利私欲に乗っ取られた、生き血を吸っていた官僚機構が倒され、 その圧制に反対していた人々は亡霊と共に、人類の未来まで葬り去ってしまっ たのか。
全体主義にまで至った官僚機構に反対してきた善意の「反共産主義」者たち は、人類の理想郷を建設する道に今、共に歩み始めることはできないのだろう か。東欧の「社会主義」国の半世紀の非道を否定することは歴史的に無意味で はなかった。社会主義の理想を実現しようと無私の献身によって築かれた運動、 理論、組織までも否定することは理想と合いれない。われわれが、今日基本的 人権、労働基本権、男女平等、普通選挙権を手にいれたのは社会主義運動があ ったからではないか。それまでも否定し、歴史に逆行し、われわれの社会で私 利私欲を「社会主義」国と同様に、それ以上に悪らつに、より巧妙に追求して きた者たちを許してよいわけはない。
はいかいした共産主義の亡霊を明らかにし、理想主義としての共産主義を今 一度明確にする必要がある。