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第三部 第二編 実践

第4章 社会組織


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第4章 社会組織

疎外され、孤立した人にとって社会や組織はうっとうしいだけだろう。個人の尊厳、自己探求を目指す人にとって社会は愚かしいだけかもしれない。しかしすべての人は社会的役割を担うことで生き、生活している。よりよく生きよることは社会的役割をより主体的に担う。人間存在は社会的主体性の問題である。[0000]

人々が集まり、群れるだけでは社会は成り立たない。人々は相互に働き掛け合い、協同して生産、流通、消費して社会的物質代謝を担い社会を成り立たせている。人々は知識、感情、価値を共有して文化を実現している。社会は物質代謝を基礎とする代謝秩序として成り立っている。社会の歴史、進歩はよりよい社会秩序の実現としてある。様々な問題を孕みながらも、問題を生みながらも数十億の人々が生活できるまでに進歩してきた。この社会秩序を維持し、発展させるために人々は社会を担い、運営する。[0000]
社会は手段としてあり、目的としてもある。社会秩序によって人々の生活は成り立ち、人は社会秩序に自己を実現する。社会秩序にあって人間性は実現し、人間性は社会秩序を表わす。[0000]
生物としての生理的代謝に必要な食糧、環境は社会によって供給される。知的代謝は過去の人々を含むコミュニケーションによって更新し、コミュニケーションの場で表現する。人格としての文化的代謝は感情を交流、共有し価値を創造する。社会的代謝が歪むと健康が損なわれ、偏見がはびこり、文化が退廃する。完全ではなくとも健全な社会代謝秩序によって完全ではなくとも健全な人間性が実現する。[0000]

心理学あるいは統計調査を用いて人間行動、欲求、動機づけ、組織運営の研究も行われている。神経経済学なるものまで現れている。それら研究では一般的に社会的主体、歴史的人間としての考慮はしない。社会性、歴史性の問題はイデオロギーであるとして無視されている。また企業経営、運営のためのノウハウの提供を目的とすることを隠さない「経営学」もある。[0000]
新興宗教には組織拡大、強化に既成の宗教にない組織力がある。既成の宗教も創始の頃、中興の頃そうであったであろうように、より多くの者を引きつける組織的力がある。巨大化する新興宗教組織には信仰の問題よりも組織そのものが目的になり、行動基準になり社会問題化しているものがある。本来宗教は人間の本性の追求が目的であった。にもかかわらず新興宗教あるいは集団化した宗教が社会問題化するのは、本来の目的が構成員間の人間関係、社会関係取引に代わってしまうからである。[0000]
宗教に限らず、組織の存在はその運営に関わって利権を生ずる。人の社会的行動は社会的価値の取引である。労働によって価値を作り出し、必要とする使用価値と交換する。組織は人々の価値交換を媒介するが、組織が大きくなれば人々は組織と価値を交換しているかのように見なす。組織社会に属することに人々が価値を認めるなら不等価交換が成り立ち、組織に社会的価値が蓄積される。組織の資金を管理する者と、これに取り入ろうとする者の癒着が利権を生む。組織は組織の目的以外に利権を求めて運動を開始し、腐敗を開始する。[0000]
宗教は人々の日常的生活に方向性を与え、宗教実践による満足感を与える。その方向性が社会的従属を甘受させるものであるか、よりよい生活実現であるかは宗派によって異なる。[0000]
組織運営を問題とする場合、これら「経営学」、新興宗教も参考になる。その社会的影響力、役割が大きければ大きいほど組織運営に関しては現実的である。疎外された人に「親密な人間関係」を示したり、「自己犠牲によって獲得できる目標」を示すことで善意の人々を企業、宗教に従属させる。その目的はともかく手段は合理的である。[0000]
宗教家にもこの世での人々の生活を大切にする人がいる。世界についての基本的理解が違っていても、この世のことでは未来をきりひらくために協力・共同できる。[0000]

【実践性】

実践は主体の本質であり存在基礎である。しかし実践とは単に実行すること、行動することではない。単に対象を変革するだけではなく、同時に自己も変革することが主体性である。[0000]
対象の変革と自己の変革は、対象と自己との全体の変革である。自分が変わらねば相手を変えることはできない。自分が変われば自分を含む全体が変わる。それが実践である。対象となるものを動かすだけでは実践ではない。[0000]
与えられた課題を実現することは訓練であって、実践ではない。組織活動にあっても行動の成果が対象を変えるだけでなく、組織に反映され、組織の経験として組織を豊かにするのが組織的実践の有り様である。官僚的に運営される組織では組織は発展しえない。官僚的な組織の構成員は成長しえない。[0000]


第1節 社会組織の表象

【人の組織】

人は人と関わることで生活を実現する。人と関わることで自らの役割を担い、自らの役割をつくりだす。決まった人との決まった生活はいわゆる自分なりの殻を作り出す。殻を守ることで安心して生活し、殻を破ることで成長を実感する。[0000]
毎朝会う人との挨拶から始まり、挨拶で相手の様子を伺い、こちらの状態を知らせる。必要打合せをすませてそれぞれの作業を開始する。日々会う人たちとの接触で一つ一つを意識して対応していたのでは神経がすり減ってしまう。日々の繰り返しの中で互いの接し方に慣れ、互いの変わった様子だけに気をつける。多数の人々との接し方が定型化して自分なりの殻を作る。[0000]
人との関わりの殻、定常を変え、自分の生き方を変えて成長する。日常的行動の一部を変えることであっても他の人との関わりを変えることになる。自分の動きが人との関わりを変え、人と自分の関わり総体である自分を取り巻く人間関係社会を変化させる。人々の殻が互いに結びつき定常化した人の関係が組織として振る舞い、運動する。人々が相互関係し相互作用する社会関係としての人間関係を組織する。当人の意識に関わりなく人々の関わり方が変化し、人々の関わり方の変化として人間関係組織は変化する。人との関わりの維持も、変化も当人の意識にかかわらず組織的である。家庭も社会組織の基礎単位であり、それ以前に両性の駆け引き、親子の力関係も組織的である。既定された人の関係と関係を変える過程として組織的である。[0000]
いわば自然発生的社会組織であり、現象する組織であり、表象として対象化する組織である。対人関係として感じられる組織関係である。人間関係組織の主体は各個人であり、組織としての主体性はない。原初的組織であり、組織としての体をなしてはいないが、相互連関し相互作用する個人単位からなる組織である。組織的一体感や閉塞感として感じられる。この人間関係組織を基礎にして人々は日々の生活をしている。[0000]

社会的動物であり人間は社会を組織することで生活を成り立たせているが、大勢が集まるとそれぞれに集団を作る。少数の単独社も現れるが、大多数の人々は分かれて集団を作って、互いに区別し合う。制度的にではなく実体的集団は人々の相互作用関係に区別を現わす。人と人との関係を区別するのではなく、人の関係の関係に区別が現れる。子どもでも集まって部分集団ができ対立するまでになることがあるが、対立するために集団を作るのではない。[0000]
人々は自らの人々との相互関係を反省することで組織を意識的な対象にする。人々が人間関係を組織として意識し、社会的に定義することで通常の制度的組織を作り出す。制度的組織は人の働きかける対象として作られる。制度的組織に対しての個人が意識され、さらに社会に対する個人が意識される。近代市民意識である。[0000]
個人の組織や社会への働きかけは直接的、具体的には人々への働きかけである。人々への働きかけは人の相互作用関係として組織的運動になる。社会的に生きる人間はそれぞれの役割を担って自分らを組織する。既成組織の役割を担うことも、既成組織を変革することも組織活動として取り組む。[0000]

制度的組織は法律や契約によって定められる。制度的組織の社会的役割、責任は法人として規定することで認められる。法人として認定されて組織は社会的人格を認められる。家族は婚姻届、出生届で、会社組織等は登記によって制度的に規定される。通常の制度的組織は客観的な人間関係を定義している。実践主体として、あるいは実践対象としての社会組織である。[0000]
その客観的に定義できる制度的組織であっても実際には組織の行為であるのか、構成員個人の行為であるかを区別することが困難になりしばしば争いの種になる。[0000]
制度的組織は普通入れ子構造をなし、それぞれが作用し合い重なり合っている。制度的組織間でもその運動は単独ではなく相互作用としてある。客観的なのはその構成定義である。他との相互作用関係は現実の過程で実行されるのであり、定義されてあるのではない。[0000]

【人の差異】

個人は一様ではなく様々な個性を持っていることで組織問題は複雑になる。様々な運動能力、感覚能力、記憶力、論理力、想像力、説得力、交渉力等々のいくつもの能力に違いがある。[0000]
人間に違いがあることを認めるのは差別ではない。個々の違いを根拠に人間としての評価をしてしまうことで差別になる。差別は一つあるいは少数の差異を人格の違いにし、それを根拠に社会的処遇を分け隔てることである。逆に人格の平等を求めて個々人の多様な差異を否定しては、個性をも否定することになる。差別を克服するには同質性の承認を強要するのではなく、違いを認めることが前提になる。互いに違う人間の社会的平等を保障することが差別の克服である。[0000]
運動能力は種目からして得て不得手がある。それぞれの種目に必要な能力もさらに肉体の様々な部位の筋力、柔軟性、代謝、感覚、反射、制御、意識等、それらの調整力等の能力がある。また能力は訓練、経験によっても現れ方に違いがある。そして能力全体として種目に応じた優劣の違いがある。[0000]
人間の能力の何が優れているかを決めるのは社会的、歴史的である。狩猟民にとっての視力は決定的に重要な能力ではあっても、都市生活者にとってはメガネで補えば問題にならない。技術の発達は様々な障害を補い、障害のない能力を発揮することを可能にしてきている。それぞれがもつ多様な種類の能力の統合としてそれぞれの人間能力がある。[0000]
人を測ろうとすること自体が社会的、歴史的に規定されている。人の能力を測ろうとするのは異なる能力を持った人を適材適所に配置するためである。そのために人の能力を測る多様な方法があり、その流行もある。知的能力を測るIQが話題になるが、IQも知的能力の一面を条件付きで測定する手段の一つである。社会の課題に取り組む人の選抜を公平にするために適材を選ぶためである。社会の課題は歴史的に発展し、必要とされる人間の能力も歴史的に変わる。社会的処遇に格差をつけるために人を選別するのは本末転倒である。[0000]

個々の能力については量的差があり、多様な能力の統合としての質的差がある。人々の能力差は個性の基礎である。個性の違いは人格の優劣ではない。
人間は互いのもてる能力を発揮することでそれぞれの人間性を発揮する。統合されたそれぞれの個人の能力として、その個人の個性があり、それぞれの社会的位置が割り振られる。「天は人に二物や三物も与えている」が、人間はいくつかの基準だけで測れるような単純な存在ではない。人は様々な能力、個性を持った社会的存在として平等なのである。統合された個性として、個々の能力の格差は相対的なものであり、これによって祭り上げられることも、切り捨てられることもない。問題は備わった能力を、与えられた役割でいかに発揮するかである。そこにこそ人の善悪の差異がある。人格の優劣はもてる能力をどれほど発揮するか、発揮の仕方の問題である。[0000]

【集団内関係】

人が集まった集団も他に対して同一性があり、集団内に対して差異性がある。対象として集団をとらえる時は同一性によって対象の外延を定義し、内包の差異性を問題にする。自発的に形成される集団ではその自発性によって集団の同一性が規定される。同一性は集団の質であり、差異性は集団の量であり一方のみでは存在しない。同一性と差異性にょって集団は特徴付けられるのであって、いずれか一方のみで評価すると一面的になる。[0000]
同好会であれば動向の対象への興味が集団を形成し、一致する興味が集団の同一性である。学校のが級であれば年齢が同一性であり、学校によって居住地域、成績が学級の同一性になる。学級の男女別身長・体重、運動能力を計測しようとするなら、性別が対象集団の同一性を規定する。[0000]
同一性によって括られる集団の構成員は集団内では同一では有りえない。素粒子レベルでは個別性を区別できないとのことであるが、日常生活の対象は同一ではありえない。一卵性双生児であっても互いを相手にすることで差異が現れる。周囲も姉妹、兄弟として区別し、区別を当人たちも受け入れる。差異性は単に区別できるだけでなく、集団内の差異性は互いにどの程度違うかに意味がある。違いの程度は集団の範囲、外延との関係をも表す。[0000]
集団の差異性には統計的特徴がある。集団の構成要素間の同一性と差異性が均等に作用する場合に構成要素の差異性は正規分布=ガウス分布となって表れる。差異の度合いを横軸に、最後との構成要素数を縦軸にグラフで表すと釣り鐘状の山になる。正規分布の釣り鐘の形は高くなったり広がったりの違いはあっても両端に行くほど少なく、中央値が最も高くなる。[0000]
集団の差異性を調べるには正規分布を仮定してデータを集め、正規分布からのずれが差異性の特徴であるのか、調査法の問題であるのかが検討される。中央値以外に最大の分布があったり、左右非対称になったりは対象の特別な性質を表す。その性質の追求が対象の性質か、基準の取り方によるものかが問題になる。人の集団でも正規分布を仮定して人々の差異を問題にすることで誤りの可能性を小さくできる。特に例外への対処法で。[0000]
人の集団表象を正規分布で思い描くのであるが、人口構成などは正規分布にならないのは当然である。生まれた人口は減るばかりであるのだから。それでも人口ピラミッドに表すなら先は尖るが山形になる。戦争や疫病によって途中がくびれたり、出生率や死亡率の変化を山形からのずれとして見取ることができる。[0000]
人の特定集団で一つの性質に注目して分布を採ると正規分布が期待される。人の集団は様々な性質を備えていて、その一つ一つに分布がある。それぞれの性質を組み合わせて中央値を中心にして差異を表す軸を並べれば放射状に並べることができ、分布は三次元立体としての釣り鐘を表す。集団の多様な性質の総体が釣り鐘のゆがみ具合として表現される。しかしさらに、人間それぞれはたまたま属した集団を超えた性質を持っており、その超えた性質を考慮するなら集団分布を表す釣り鐘は三次元を超えて多次元空間に表される。一人の人間を理解することは難しいが、人間集団を理解することも尚難しい。[0000]
類的存在を扱う時に正規分布を仮定して考えることは教訓的である。男女の筋力差は正規分布の二つの釣り鐘のずれとして表される。圧倒的多数の男より筋力のある女が存在する確率は非常に高い。任意に男女の対をとれば統計的には男の筋力の強さが証明されるが、すべての対で男の筋力が強いことの証明にはならない。[0000]
自分を自分が属する集団の代表として他集団を評価することは客観的ではない。自分が自分の属する集団の中央値に位置場合だけ、他集団と自分を比べて集団間の違いを判断しても客観的である。しかし自分の得意分野、あるいは不得意分野についての比較判断は主観的である。[0000]
さらに定義のはっきりしない「頭の良さ」「善良さ」「幸福」など抽象的価値を、自分の基準で対象集団を評価するなど先入観の最悪の表れである。[0000]
人の集団に変化が生じるとき、一時に全体が変化することはまれである。全体の分布形状が変化せずに平行移動するなら変化に気づきにくい。環境の変化などは分布の先端部分に変化が現れる。窮乏化の変化は貧しい者程早く影響される。疫病は免疫力の小さな人から罹りやすい。先端に表れた変化を例外と見なすなら、全体の変化への対応を誤ることになる。中央値に分布する者には変化が現れないからといって、変化を否定する論拠にはならない。[0000]
事件を起こした人に対して「同じような境遇の人は大勢いるのに事件を起こしたのは本人が特異だからだ」と評する人がいる。特異なのは正規分布における位置が最端なだけであって、人の質としては皆連続した違いでしかない。「社会が悪い」と責任転嫁はできないが、皆似たような過ちを犯す可能性があることを棚上げして、人を一方的に非難することはできない。弱い人が犯罪に走りかねない、走らざるをえない社会全体のあり方を正すのか根本的な対応である。[0000]
善悪を対立概念としてしかとらえず、自分を善の側におくことで不寛容が生まれる。善悪も正規分布で表せる。どの値から凶悪と定義できない。中央値付近では善悪の判断など凡人には不可能である。「相手の立場になって考える」ことも客観的評価の一手段であるが、自分も含めた同じ人間である集団での位置評価も客観化の手段である。[0000]

集団内での人々の関係を正規分布で表象することができる。差異の度合いを表す横軸での分布範囲を、高い方の第一分位から第五分位まで五等分するとそれぞれに属する量的、質的特徴がある。[0000]
第一分位と第五分位の人数はわずかである。第二分位と第四分位の人数は少数である。第三分位の人数は大多数である。[0000]
組織内の指導関係として見るなら第一分位が指導者であり、第二分位が管理者であり、第三分位が実働部隊であり、第四分位は補助、第五分位は監護対象である。これは役職の高低を表してはいない。役職の高低は普通ピラミッド型である。この正規分布の分位区分はピクニックの団体にも、最先端の研究グループにも表れる。企業組織のそれぞれの役職にも、国家元首が集まって会議をしても分位区分が表れるのが人の集団である。[0000]
組織を運営する場合などこの分位区分毎の対策が必要になる。第一分位の者は意識的に育てないと補充されない。第五分位の者は何もしなくても現れる。本人の責任にかかわらず、傷病や家庭の事情などによっても現れる。第五分位の切り捨てには容易に賛同を集めることができるが、切り捨ては次々に続き組織を切り崩すことになってしまう。[0000]
脇の甘さ、意識の低さを数値化できるなら、汚職をしたり、不祥事を起こすのは第五分位である。対策は第五分位に対してであって、全体に対して負荷をかけることは組織的対応ではない。脇の甘さ、意識の低さに対策を立てるのが担当者の責任である。[0000]

【集団の運動状態】

集団の運動状態には集団全体の状態と構成員の状態とがある。[0000]
集団全体の運動状態は人々の分布状態によって決まる。対称的分布は安定であるが、発展に対して停滞的である。正規分布は静的な分布である。発展的動的な集団は分布に偏りが表れる。運動の方向性が分布の偏りとなって表れる。前進的であるか、衰退的であるかはどちらに偏るかの違いを表す。[0000]
構成員の運動状態が集団の活性度を決める。互いに協力し、あるいは競争することで集団は活性化する。協力にはなれ合いへ向かう可能性があり、競争には消耗の可能性がある。役割分担が組織的、制度的に固定化するとなれ合いと競争による消耗が大きくなる。特に集団の中央値に分布する大多数の者は互いの差異が小さい。差異性が小さいだけなれ合いやすく、逆に競争は激しくなる。差異が小さいほど競争は偶然に左右されやすく、偶然を超えるために競争は激化する。選抜された成果のわずかな差をめぐっても競争は激しさを増す。[0000]

組織論では組織の活性化が主題である。組織の主体性を作り出し、維持する方策が探求される。結局は様々な人の主体性を引き出すために、組織全体に主体性へ向けた圧力をかけ続けることになる。組織は運動体であり、長期的には構成員が交代し、短期的にも人、物、資金、情報が更新される代謝過程にある。放置すれば無秩序化する必然にある。[0000]

【組織機構】

社会組織は機構図、分掌規定、物理空間として表象=イメージできるが、肝心なのは集合体であり、運動体としてである。社会組織は人々の互いの連関である。社会組織は人々が集うだけでなく目的を追及すし、人々によって運営される。目的は対外的運動方向であり、運営は対内的運動を統制する。目的と運営とは組織にとっても分隔できず、それぞれの構成員にとっても分隔できない。分隔できないがそれぞれの組織的役割によって担う目的と運営との相対的比重が違う。担当者によって違うだけでなく、同じ担当者でも目的と運営の相対的比重は組織の運動段階でも変化する。[0000]
一般に組織は入れ子の階層をなして、組織単位は相対的である。企業に部・課・係等の組織階層があるように、また企業が業界団体を組織するように個々の組織単位は相対的機能を担う。最小の基礎をなす組織単位は人個人であり、サイダは人類社会である。それぞれの階層で相対的外部に対して組織目的の実現を目指し、担う。相対的内部に対して組織を維持・運営する。組織目的の実現を目指して組織は運営されるが、組織運営は運営自体独自の活動としてもある。動物に運動代謝と基礎代謝があるように。組織目的実現が運動代謝であり、組織自体の運営が基礎代謝である。さて最大の単位組織である人類社会の目的とは何だろう。[0000]
最小の組織単位である人それぞれの担う役割は違う。機械設備の場合は同じ機械はまったく同じ作業を担うが、人の場合同じ役割分担、同じ処遇であっても関係し合う人によって役割が違う。双子であっても関わり合えば立場が違ってくる。[0000]
人の立場の違い、それぞれの組織の役割、経過環境変化によって社会組織は多様な条件にある。その他様な条件でそれぞれの人が条件を評価し、それぞれの課題を理解する。あるいは理解しようともしない。多様な人々を組織し、組織を運営することで人は生き抜き人間へ進化してきたし、人間として成長する。[0000]

社会代謝は社会関連の全体としてあるが、個々の代謝過程は部分的組織に担われる。部分社会組織として家庭、同好会、企業、自治体、国家等がある。部分社会組織では目的と手段とが乖離しやすい。それぞれの部分社会組織は人の考え方によって評価が異なる。家庭は目的と手段とを統合していると考える人が多い。家庭では目的と手段とが乖離すると崩壊しやすくなる。国家の存立こそ生きることの目的であるとして、個人の命をなげうつことを強要する人もいる。社会秩序や家庭のように自己目的的に成り立つ社会組織と、目的と手段が乖離する制度的組織とがある。乖離した目的と手段が矛盾することで制度的組織の様々な問題が生じる。[0000]


第2節 社会的実践主体

与えられた環境としての社会ではなく、生活を実現していく舞台としての社会で個人が人格としてつくられ、個人は組織を作る。人との相互作用関係での振る舞いを社会的に躾られ、それぞれの能力を訓練する。知識、解釈を常識として刷り込まれる。その過程で社会的押しつけとして反発し、無視し、あるいは受け入れる。[0000]
個人がそれぞれどのように社会を解釈し、対応しようが、社会的代謝を多くの人々が担うことで社会秩序は実現し、人々の生活が成り立っている。人が生活するには遭難でもしない限り人を相手にし、社会を組織として相手にする。実践主体としての人間が対象とする社会組織、社会的実践の主体としての社会組織がある。[0000]

【組織性】

ヒトは社会的に労働することで人間へと進化してきたのであり、人間の社会性は本性である。それでも社会性は社会のなかで成長することで実現し、身に付く。反社会性も含む社会性である。反社会性は歪んだ社会性であり、非社会性ではない。[0000]
社会性は具体的には組織性である。人間関係が相対的全体、まとまりとして社会的に運動する組織をつくる。人と人との相互関係が相互作用し、相互依存のまとまりをつくる。人と人との相互関係が相対的に自律し、他に対する運動主体として組織を形成する。[0000]
組織は組織内の人々の関係として内部運動し、また対外的にも他の組織や人と関係して対外運動する。内部運動は生物での基礎代謝に対応し、対外運動は運動代謝に対応する。社会組織も有機的組織としての普遍性がある。内部運動と対外運動の統一が組織性である。内部運動がなければ対外運動は成り立たないが、対外運動がなければ内部運動秩序は維持されない。対外運動を実現することで、内部運動は構成員の相互関係秩序を実現する。対外運動によって内部運動は意味づけられ、方向付けられる。[0000]
組織は人個人の有り様、運動を超えた人々の相互作用運動としての全体である。組織で人は人を対象にする直接的関係を超えた、互いの相互作用全体を対象にする。抽象的な媒介された関係、組織構造を対象にするには経験と訓練が必要である。人は生まれてから人との関係で成長して自らを形作るが、同時に人間関係を経験し、人間関係を操作する訓練をする。単に相手に働きかけるだけではなく、相手に働きかけられることで相互関係、全体の関係に連なる。人との直接的関係であるなら経験することで理解できる。媒介される組織全体という抽象的関係を見通し、予測し、結果を理解する組織能力は意識的な訓練によって身に付く。[0000]
組織性は組織の構成員の能力であると共に、組織自体の能力でもある。組織構成員の組織性訓練と共に、組織自体の組織性訓練によって組織は社会的に成長する。それぞれの構成員が組織全体をどれほど意識して理解しているか、そしてどれほど主体的に組織を担っているかが組織力の高さであり、成長度である。[0000]

【組織作り】

組織は運動主体であり、完成することなく作り続けることで維持される。個人の成長と同じに組織も意識的な運営でよりよい秩序をつくる。目的、情勢、役割分担、組織状況、進捗状況を構成員が理解しすることが基本になる。しかしどんな組織でも均一な構成員の集まりではない。皆が同じに理解し、同じに能力を発揮することはない。かえって多様な構成員で構成されることで柔軟な組織が構成される。多様な見方で、多様な能力を適材に配し、欠ける部分を補い合うことによって適応力のある組織ができる。[0000]

自然発生的に組織ができることもある、それでも持続するためには組織運営を行い、組織制度がつくられる。1人のリーダーシップによる場合もあれば組織規約を持つものもある。組織構成員の単純平等では単なる集団である。[0000]
組織制度は意志決定、統制の合理化である。決定、統制は内容が組織的に徹底し、合意され、承認されて実現される。組織全体が決定に参加して実効力のあるものになる。しかし直接民主主義であっても全員が同じように決定を理解できるわけはない。同じに理解できているなら改めて組織的決定の必要はない。その時点でのそれぞれの理解に基づいて意志決定される。意識の程度の違い、問題意識の違いがあっても決定が構成員の総意に基づかせるために決定手続きを取る。総意に基づいた決定であることで統制が有効になる。決定は組織的手続きによって合理化される。形式的決定であれば形式的合理化であり、実質的合意であれば実行力のある決定になる。[0000]
民主主義の総意に基づく決定には多大な努力を要するが、努力によってより強力になる。一端なされた決定も、より多くの構成員によりよく理解されることでより実効あるものになる。形式的決定にとどまるなら、実質的に合意できるよう決定手続き後も合意を深めてより強い民主主義になる。構成員が世代交代するような場合にはなおさら決定についての理解を深める手だてが必要になる。 [0000]
決定手続きを定めることで、手続きを整えるための労力が省ける。ただ制度化して手続きの労力を省くことは内容の形骸化を生ずる可能性がある。組織制度が整備されつつある段階では手続きに対する問題意識も働きかけもある。完成された組織制度に頼った組織運営は手続きによって形を整えるだけで内容が形骸化しやすい。[0000]

決定に続く実践、執行の組織機構にそれぞれの機能がある。それぞれの機能を1人が担うか兼務するか、複数人で個別組織として担うかは組織の規模による。組織が大きくなったり、取り組む課題が複雑になれば専門機能を分担する。専門的機能として指導、事務、監査機能がある。指導は課題、戦略戦術を提示し組織を統制する。事務は兵站と記録を担う。監査は健全性を確保する。個人の場合でも時にそれぞれの機能の視点で点検しながら実行する。[0000]

【要求作り】

運動化、運動組織作りの基本は目的、要求の一致である。しかし要求の一致も組織されなくては維持されない。要求は不変ではなく状況によって生滅、変化、拡大縮小する。要求をまとめ、組織をまとめる目的意識的努力が必要であり、組織の取り組みが必要である。[0000]
組織活動の基本に要求作りがある。「要求作り」は要求を捏造することではない。漠然とした不満、不安を具体的な課題として明確化させることであり、組織全体の課題として合意することである。要求で既に一致していても、変化する要求をとらえ、またより具体化させる。一致する要求を明確にし、状況にあった具体化が必要である。[0000]
新しい要求は始めは一部構成員のものでしかない。一部分の要求を全体のものにする要求作りが組織運営の基本にある。その際組織的に力のある者や関係する他の組織からの要求を押しつけるようなことは組織のためにならない。外部からの要求の押しつけは組織にとって要求の一致を破壊することになり、組織運営の民主主義を否定する。民主主義の否定は組織だけでなく、属する構成員が関わる社会一般の有り様を誤らせる。要求の押しつけは組織内外二重の誤りである。[0000]
組織運動には対外的運動だけではなく、内部運動がある。組織運営を担うことで構成員である。会議に参加すること、問題を理解することだけでも時間と努力を要する。会議が人間の交流の場になり、成長の場になるなら組織活動は消耗的ではなく、創造的になる。組織活動も構成員の生活の一部であるから、文化活動を目的としていない組織であっても価値生産的組織活動ができれば文化的になる。人間的組織活動であれば組織的文化を創造する。課題を消化するだけの運動では発展性がない。[0000]
現実的要求は現実の矛盾を反映するものであり、要求の追求が現実の矛盾構造を明らかにする。現実の矛盾構造を明らかにすることで、様々な要求が同じ問題から派生していることが明らかになる。本質的要求を実現するにはより多くの組織との統一した取り組みが必要になる。要求と、運動と、組織の協力・共同が組織の要求になる。[0000]

【組織運営】

組織の力は人、資金(物)、情報が物質的基礎である。しかしこの物質的基礎は構成要素であり構成要素だけで運動は実現しない。構成要素である人によって運用される。資金管理、情報処理にとどまらない組織の運用技術がある。組織技術によって目的・課題の設定力、構成員の結集力、状況に適合する柔軟性、組織運動を維持する補充力を統制する。[0000]

組織力は個人の能力として、組織の能力としてある。個人の能力は経験として蓄積される。組織の能力は個人の経験の継承と、運営手続きの制度化として蓄積される。[0000]
構成員の教育は基本的に既存の社会制度に依存する。基礎になる読み・書き・計算は学校で教育される。専門分野もそれぞれに学校等の教育機関、制度がある。接遇、説得、制度づくり等の人間関係は幼児期からの経験によるが、人間関係が歪めば実務上の訓練(OJT)として組織単位、個人にまかされる。[0000]
組織運営としての構成員への働きかけは動機づけである。強制であってもやむなく従わせることはできるが、完全に強制できたとしても強制したことしかできない。最良の動機は自己実現である。自己実現のためであれば人間は死をもいとわなくなる。逆に自己実現と思いこんでしまうと自己を実現するのではなく、自己を摩耗させ破綻にまで進みかねない。宗教組織の力強さの根元は信者に自己実現としての目標を納得させることにある。自己実現のための組織的権限を与えられれば、人は自覚している能力をはるかに超える働きをする。[0000]
動機づけの次善の策は報酬である。物品、金銭、地位、名誉それぞれの欲するものを報酬として提供することで動機づけられる。社会的報酬だけでなく安心、安全、他者に認められること、褒められることといった心理的報酬も動機になる。[0000]
動機づけを組織運営手段にとどめず、組織内人間関係として互いに認め、組織運営の基本にすることで組織は活性化する。[0000]

最近問題となる危機管理は状況を想定して手順書を準備し、訓練することだけではない。想定を超えた状況への対応が本来の危機管理である。想定の限界を理解し、想定を超えてしまう環境条件を理解する。環境条件の変化は突然に起きるのではなく、突然に気づくのである。自然と社会の環境条件の変化を理解できれば想定を事前に改訂することもできる。普通社会的環境条件は突然ではなく、何かの事件をきっかけにして検討されて変更される。情報を収集し、事態を理解しておけば社会的環境条件の変化を追うことができる。[0000]
想定を超えた状況への対応は既存の制度を改善できる程に理解して可能になる。日常の仕事をこなすだけでなく、仕事の段取りを組み上げられるまでに通じて可能になる。権限と責任の実際での機能が理解されて制度の改善、危機対応ができる。[0000]

組織運営の改善は今日では情報技術=ITの利用によって確かな形を整えることができるようになった。ITの活用は単なる省力化ではなく、組織の情報処理の組織化であり、組織そのもののあり方の改善である。入力する情報を分類評価し、出力情報を評価するのも人間である。既存の制度を前提にIT化で省力化しても効果はわずかである。人間と組織に必要十分な情報、仕事に必要十分な情報の洗い出しとその処理を利用可能な技術でシステム化する。人間とシステム機器との連関はシステム機器、システムの仕様に依存するのではなく、人の情報運用に依存する。新たに獲得された情報運用技術はシステム仕様に作り込まれるが組織運営技術の獲得と作り込みは人が担う。情報システムは経営手段ではなく経営そのものの媒体である。[0000]

【組織評価】

評価なしに組織秩序は維持できない。評価することで組織秩序は更新され、発展の方向性が明らかになる。評価はそれぞれの人についてであり、それどれの組織についてである。[0000]
評価は主観的である。人が評価するのであり、その立場なりから、その時点での評価しかできない。客観的評価基準があるなら株式市場も、投機も成り立たない。評価が人によって異なるから思惑によって資金が動く。すべての情報が集められて人、組織が評価されることは有りえない。敵対的関係にあれば偽情報が流される。評価情報の操作が世論操作であり、情報戦は国家間の戦争だけではない。敵対関係になくても恋愛関係など情報戦の最たるものだ。人による主観的評価をより客観的にするのが組織的評価である。[0000]

個人的に評価される実績は本人には経験の蓄積であり自信になる。実績の評価は権限と情報と信頼をもたらす。実績は脚色され伝説化されもする。人格イメージが形成され、人格イメージは本人にも作用する。生理的能力を超えて社会的能力として影響力は拡大する。個人間では尊敬されることは重要である。しかし尊敬が組織的に制度化され、操作されることは危険である。個人崇拝にいきつく。[0000]
すべての構成員と直接接触できないほどに大きくなった組織では、それぞれの構成員は制度的に評価される。人事評価制度は公正でなければ不満を生むが、公正であることの評価が人によって異なる。企業に導入されている業績評価制度は仕組みはもっともであっても、評価の実体が常に問題にされる。[0000]
評価基準、評価方法が明確であることが公正さの基本である。基本が定まっているなら基準、方法を受け入れない人でもそれなりに対応できる。一つの基準、方法だけで組織と人のすべてを評価すると組織も人も評価基準にとらわれ硬直化する。評価を担当する者にとって一つだけの基準を守ることは安易な方法であるが組織のためにはならない。評価基準と評価結果が公開されることで公正さは保証される。組織内でのそれぞれの個人評価は個人的なことではない。隠せば噂が評価になってしまう。[0000]
しかし制度的評価は操作される。不心得な者が評価を担うこともある。不心得でなくともそれぞれに問題を抱えている人によって組織は構成されている。そうした人々が善意であれ個人に対する評価を歪めることもある。そうした者が評価権限を持っているからといって、評価を否定する自らを正当化することはできない。組織の不全を理由に自らの正当化は自らの判断基準をすりかえ、自らを裏切ることになる。不心得な評価者を更迭することが組織のためになる。[0000]
逆に自らについての評価も操作の対象である。自らの評価を作り宣伝することで自己変革のテコになる。操作が表面的な演出ではなく自己を変革し、結果として評価に値する実績を実現できるのなら周囲の評価を利用できる。[0000]

組織的運動は統制される。進捗状況が点検され、状況の変化が点検され、結果が点検される。組織評価が運動の継続を規定する。[0000]
人に社会的評価と自己評価があるように、組織にも外部評価と内部評価がある。外部評価は組織の社会での関係から客観的に数値化できる。企業であれば資本金、生産額、生産量、利益等として、粉飾がない限り会計基準に基づく客観的数値で評価される。[0000]
組織の内部評価は構成員による評価であるが個人的評価ではない。満足度であってもそれぞれ個人の満足度ではなく、全構成員の満足度である。個人の満足度を客観化することは難しいし、まして数値化しても比較はできない。しかし構成員は組織を評価することで自らを動機づけ、組織の活性度に影響する。[0000]
組織評価の基準は課題の達成度、組織の社会的力量の到達度、構成員の組織への貢献度、構成員の経験が組織化されて蓄積した程度である。課題の達成は組織の基本である。社会的力量は組織目的によって異なる質的、量的影響力の大きさである。より大きな影響力をより少ない構成員で発揮する課題もあるし、より多くの構成員によってより大きな影響量を発揮する課題もある。組織の質的、量的力量である。構成員は生活のすべてを組織へ託すことはほとんどまれである。どれだけの構成員がそれぞれどれほどの質的、量的貢献をするようになったかを量る。経験の蓄積は組織運営、組織制度の改善であり、構成員の意識水準、いわば理論水準である。[0000]


第3節 組織と組織

多様な要求、多様な組織がある社会で、社会全体に関わる問題を解決するために組織は互いに協力する。それぞれの組織の個別要求を実現するために、より普遍的社会的課題で協力する。新たにまったくの始めから組織作りをする場合もあるが、既存の組織運営を調整する組織を作ることで組織活動を発展させる。[0000]
それぞれの課題を追求しつつ、普遍的課題で協力することで社会運動として統一する。組織間の関係が組織される。別の目的を持った組織であっても同じ社会の中で活動すれば共通の利害関係にある。[0000]

【協力、共同】

協力は異なる専門分野の組織と相互援助である。それぞれの専門に責任を持つことで、社会の基本的分野を網羅した社会的運動主体を組織する。共同は異なる専門分野の組織が共通の社会的課題に一緒に取り組むことである。それぞれの専門を尊重し、生かして協力、普遍的分野で共同する。[0000]
利権をめぐる組織関係であれば取引であり、一時的な協力、共同になる。社会的に普遍性のある課題での組織関係は永続する信頼関係をつくる。協力、共同は対等、平等、相互不可侵によって信頼関係を作る。組織間でも指導関係はありえる。構成員は相互に重複して属しうる。しかし他の組織、上部組織によって組織の内部決定が干渉されては信頼はできない。組織それぞれの目的、組織運営は対等、平等に尊重されることで信頼関係は作られる。組織の生成、消滅はその組織自体の自決問題である。[0000]

【統一】

協力・共同が組織的に発展し、全国的になれば実質的に統治できる社会組織になる。それぞれの専門分野の力を生かした、自治による社会の運営組織である。こうした統一組織なくして、国家権力を選挙をによって獲得しても統治能力を獲得することはできない。主権者の一人一人がそれぞれに組織され、個人、組織それぞれのもつ社会的力を発揮することによって民主主義国家は形成される。国家の意思決定の問題ではなく、それぞれの日常課題を担う組織の統一である。国家の意思決定は運動としてではなく、制度的手続きによらなければ収拾がつかなくなる。総論は制度的手続きによって最高議決機関が担い、各論はそれぞれの組織が担う。[0000]
裁判員制度のように個人が社会貢献を求められれても積極的になれないのは、個人の資質の問題ではなく、社会的経験が蓄積されていないからである。個人の社会貢献がそれぞれの社会関係で評価される様になっていないからである。[0000]
組織の統一ではなく正義の統一である。協力共同は自己批判、相互批判によって健全になる。闊達な自己批判、相互批判によって不正を防げる。協力共同を統一していくことで隠された利権取引をあぶり出すことができる。[0000]
各専門分野組織の全社会的統一によって、人間の意識的な制御の下に社会を運営していくことが可能になる。社会の全体的をすべての人々の意志によって統治する。それぞれの専門の力によって、全体として一つの社会を統治するなら、全体の問題を解決する方向は一つに集約される。社会的課題を根本的に解決するためには人類史の発展の方向に向かうしかない。[0000]
他に方向、手段はない。武力によっても、権謀術数によっても、すべての人々が主権者として統治する社会は実現できない。家庭、地域、職場、学校、地方自治体そして国家機構においてそれぞれの構成員による自治と、それぞれの専門の能力を引き出すことによって未来社会は可能になる。[0000]


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