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第三部 第一編 現代世界

第2章 到達点での社会


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第2章 到達点での社会

歴史的到達点での社会の構造である。歴史の流れに対する断面である。[0001]

社会的物質代謝は全地球的規模で実現していて、それぞれの国家の枠内だけにとどまらない。経済、政治、軍事、環境、文化、社会活動のあらゆる分野が国際的な相互連関と大国からの影響を受けている。ところが全地球的視野で社会を見ようとしても漠然としてむずかしい。日々生活している社会ですら報道によってうかがい知るに過ぎない。日常的な物理化学的対象、生き物は直接観察できるが、社会は知識として理解するしかない。[0002]
日々生活し、仕事を評価され、徴税され、時には強制執行され、徴兵さえされかねない社会を「分らない」ではすまない。しかも成人には主権者としての権利義務がある。[0003]


第1節 社会秩序

社会代謝秩序は人々の意思にかかわらず、物質代謝秩序の上に成り立つ。物質代謝秩序は物理化学的相互作用の連関としてある。太陽から地球に降りそそぐ低エントロピーの熱エネルギーを利用して地球生命は生物環境を維持している。人も呼吸し他の生物を食べなくては生命秩序を維持できない。人間は共同して生活財を生産し、交換し、消費することで生活する。道具を利用することでよりよく生産し、交換し、消費することができる。これが社会代謝秩序の基本である。交換過程を人為的に秩序づける道具として貨幣が発達してきた。人が思惑で交換秩序を歪めようとすると、インフレーションやデフレーションが起こる。生産秩序と消費秩序の整合性が失われると景気が変動し、極致では恐慌を引き起こす。恐慌によって交換秩序は破綻しても、基本となる価値秩序は貫かれる。社会代謝秩序はこのように実現されている。[1001]
しかし社会代謝秩序の実際の過程を理解することは難しい。理解できていれば景気変動を制御でき、恐慌を避けえる。社会代謝秩序は物理化学的秩序よりはるかに複雑なだけでなく、現実の過程を観察、測定することができない。それぞれの工場で今、何がいくつ作られているかすら知ることができない。予測のつかない変動を対象にして、社会代謝に秩序などないようにすら見える。それでも人々は社会代謝秩序を社会秩序として制度化してきた。社会代謝秩序は歴史的に発展し、変化にに合わせようと人々は社会制度を改めてきた。人々は社会制度として社会秩序を表現し、共通の理解にすることで社会秩序の実現を図ってきた。[1002]

一般的、日常的に「社会秩序」は人間関係秩序を意味する。社会秩序を乱すのは悪人で、社会秩序維持が正義であると。現代唯物論では悪人も正義の人も同じ社会関係のうちで生活し、その意識は基本的に社会的代謝過程に規定されるとする。人それぞれの好みや解釈が違っても、人々は財を生産し、交換し、消費する物質代謝によって生活を成り立たせている。この人々の社会的物質代謝関係が社会関係の基礎をなし、その上で人々は好みに従い、人間関係を築き、関係秩序を解釈している。多様な解釈が可能であるが社会的物質代謝関係を離れては、生きることからしてままならなくなるのが厳然とした現実である。人間関係秩序としての社会秩序はその基礎にある社会代謝秩序を踏まえなくて好き勝手な解釈、選択では秩序を失う。[1003]
人々は社会代謝秩序をめぐって、互いに働きかける力関係にある。人を動かし、動かされる力関係を調整する社会秩序を社会規範とし、社会制度化する。力関係を調整御する社会規範、社会制度によって社会秩序が人々に押しつけられる。人々は社会代謝秩序を担って制度的に社会を組織し、人々の互いの関係を意識的に秩序づける。[1004]

物理化学秩序、生命秩序を社会代謝秩序として実現することで人々の生活がある。社会代謝秩序は社会法則として人々に意識されているとは限らない。社会科学法則が社会代謝秩序を正しく反映している保証もない。それでも人々は互いの関係を社会代謝秩序に沿って社会として組織し、社会代謝秩序を社会制度として規定している。[1005]
社会代謝秩序に反するなら消えた古代文明のように、東欧「共産主義」国家群のように破綻する。それでも破綻した社会秩序は一部分であり、人類社会はまだ生き残っている。社会代謝秩序は部分的に破壊されても復元力がある。幾多の戦争、自然災害によってほとんど壊滅的被害を受けても復興してきた社会が残っている。[1006]
必然的に壊れる秩序であっても意識的に壊すのも難しい。全体として崩れる過程でも、部分的には平衡秩序を自己組織化している。これまで自己組織化してきた平衡秩序は生き残るほどに強力であったから今日に至っている。自己組織化する平衡秩序には復元力があり、多少の混乱は吸収してしまう。[1007]
社会代謝秩序を科学的に解明したからといって儲けることはできない。儲けは日常的変動を予測する、偶然の動きを人より早く察知することで可能になる。科学の方法と儲けの方法は原理的に違う。科学が見いだす必然性からはずれる偶然性の大きさを人より早く見つけ、決断することで儲けることが可能になる。今日、日常的変動を予測する「経済学」が求められ、価値法則を追求する経済学は古いとされるが。[1008]
安定な社会制度では個別的に秩序を乱す者があっても多少の乱れは吸収できる。常識にとらわれないとんでもないはみ出し者は徐々に増え、目立つようになる。目立つはみ出し者によって社会は混乱するが、それは表層でしかない。社会秩序に危機を招くのは表層の乱れではなく、社会秩序そのもの矛盾である。制度はやがて社会代謝の変化、発達には対応できなくなる。生産力の発達と生産関係の保守性に根ざす矛盾である。秩序維持のための創造ではなく、秩序創造のための創造が求められるようになる。[1009]


第2節 社会制度

社会制度はそれぞれの社会で歴史的につくられてきたものであって、体系としてつくられてはいない。制度に矛盾が生じないよう体系として整備されるが、体系として完成させることが制度の目的ではない。制度は人々の社会的関係を律し、守りながら改善していく明示された規範である。[2001]
社会代謝は物理化学的秩序、生命秩序、社会的生産・流通・消費秩序、人間関係秩序の全体秩序として実現している。社会制度は社会代謝秩序を社会秩序として人々が了解できるように表現する。物理化学的秩序を対象とする社会制度の典型が工業規格である。人の生命秩序を対象とする社会制度の基本になるのが戸籍制度である。社会保険制度は我々の健康を対象にしている。生産・流通・消費秩序はそれこそ社会制度の根幹をなしている。[2002]
社会制度作りの基準になるのは人々の美的感覚や、道徳的感情ではない。内心の問題は人それぞれであり、多様な人々が互いの生活を支え合うことで社会は成り立つ。社会代謝の持続的発展が制度の基準である。社会代謝の持続的発展が改善の基準でないなら社会が成り立たず、人類は滅ぶ。[2003]

社会制度には社会代謝そのものを規定、実現する実行制度と制度を作り、改善する手続制度とがある。[2004]
実行制度は社会代謝の歪みを調整し、発展環境条件を整える。また実行制度は社会制度を歪める者、破る者を取り締まる。実行制度の運用を誤れば社会は混乱し、疲弊する。[2005]
手続制度自体も歴史的に発展してきた。そして今日の多様でありながら普遍的人類社会にあって民主制度が最善の手続制度である。最善であるが故に実現困難であり、アローの不可能性定理が示す原理的欠陥を含む。実行制度は人間の努力だけではどうしようもないが、手続制度は人間だけが関わる。手続き制度の運用責任は自然や偶然のせいにはできない。人々の互いの生活を定める手続制度は人々の意思のみによって運用される。[2006]


第1項 民主主義

【民主制度】

今日、資本主義者も共産主義者も自由主義者も民主主義を理想としている。社会を運営し、社会を担うのに民主的であることが正しさの基準にされている。民主主義を否定するのは全体主義者、国家主義者などの少数である。そして圧倒的多数の主義を持たない人々がいる。[2007]
だが民主主義の解釈が人々によって異なり、民主主義が要求する主体性が発揮されないことで実現は困難である。民主主義は未だに完成を見ず、これから深化させ、これから実現を目指す人々の有り様である。自らの国が民主主義の守護者であると誇るのは驕りであり、民主主義の理念を貧しくする。[2008]
世界観にできることは民主主義の共通理解を確認可能にすることである。結論を主張するのではなく、共に確かめることができるように提起する。必要十分な民主主義の共通理解が共有できるように提起する。[2009]
民主主義の原則は主権在民、主権平等、情報共有、意見交換、多数決、少数尊重である。[2010]

主権在民の主権者はすべての自然人であって、主権の制限は合理的に主権者による合意に限られる。主権者として社会的合意に参加できない幼少者、認知障害者を制限する。制限されても主権者であることに変わりはない。[2011]
主権は主権者同士が主権者のみによって主権者に対して行使する権利義務である。主権は互いの生き方を尊重する人権に基づく。主権は人民の人民による人民のための民主主義を基礎にする。
自然人は主権を行使するために社会組織を作る団結権、結社の自由をもつ。法人の権利は法人の構成員である自然人が自然人として行使する。自然人と法人とは対等ではない。対等なのは自然人だけであり、人間社会の意思は自然人のみによって決定される。社会的力に差があっても社会関係の中で自然人の権利は平等である。[2013]
団体、法人に主権はない。特別に国家だけが主権を行使する法人である。一般の団体、法人はそれぞれの設立目的に従って社会に参加するが、主権に関わることはできない。営利企業は営利活動、教育機関は教育活動、福祉団体は福祉活動、行政組織は公務をそれぞれ担う。団体、法人はそれぞれの分野で人々の力を合わせ、組織することで構成員の力を合わせた以上の力を発揮する。組織力に参政権を与えて主権に作用させては主権が歪む。既得権の参政権への作用がすべての政治的混迷の原因にある。[2014]
参政権行使を目的とした自然人の組織である政党なり、政党の後援会等は主権に関わることができる。自然人が参政権を行使する組織を組織して互いに争っても、不平等にはならない。自然人の平等が主権平等であり、主権平等は法人や団体が参政することで破られる。[2015]

意見を交換することで対立が明らかになる。対立があるから意見交換し、議論する。民主的議論の根幹は議論によって相手の意見を理解することにある。意見を公表するだけでは世論調査だけで結論を出すようなもので現状を肯定するだけになる。多様な視点からの意見を理解することで現実の問題をよりよく解決できる。より大きな合意による実行ができる。[2016]
主権者がどれだけ多様な見方、選択肢をもてているかが民主主義の到達度である。情報統制によって見方、選択肢は制限される。強権による制限がなくても見方、選択肢が貧しければ民主主義も貧しい。意見交換が行われ、多様な情報が共有されることが民主主義の基礎であり、発展の保障である。[2017]

現実の問題は現実に解決されなければならず、意見が一致しなくとも期限までに結論を出さなくてはならない。意見の対立を残したまま結論を出すには多数決しかない。民主主義は平等の評決権にる多数決を意思決定手段にする。発言力の大きさや、利益供与による決定は民主主義ではない。[2018]
社会規模が大きくなれば情報量も増え、互いに情報交換しなくては知り得ないことが増える。人はそれぞれ得意分野を担っていて、不得意分野の問題までも理解することは難しい。基本的問題に限っても基本的問題は抽象化されて表れる。抽象的問題を得意とする人は少ない。すべての主権者がすべての問題の決定に直接関与することはできない。また社会の問題は直接効果が出るのではなく、相互作用を介して効果が現れる。直接的利害だけで決定したのでは偏ってしまう。総論賛成各論反対では実質の決定を行うことはできない。人々の意見交換、意思決定過程を媒介的制度にすることで、結果を予測し、反省した上で決定できる。諮問制や代議制によって直接的決定の誤りを防ぐことができる。[2019]

決議によって少数意見が否定されても抹消はしない。多数意見の誤りが明らかになった時には少数意見がまず再評価されることになる。新しい意見は必ず少数者から出される。[2020]
また少数意見を持つ者の基本的人権を脅かすことは多数決でも決められない。反社会的犯罪者の基本的人権を制限することはある。しかし多数者によって少数者の基本的人権、特に生活権を奪うことはできない。少数者を認めることは優しさだけではなく、民主主義の強さである。[2021]

決定は責任、義務を伴う。結論を出すだけでなく、結論は実行されなくてはならない。決定に参加した者は結論を実行する義務を負い、逆に実行できる結論を出す義務を負う。民主主義実現の困難さは実行を伴う結論を出すことにある。[2022]
民主主義がどんなに正しくても、輸出することはできない。物や知識は個人が担い伝えることができるが、民主主義は人々の関係の有り様である。人々の関係を他人が規制することは民主主義に反する。民主主義は主体的な人々の関係である。制度としての民主主義を押しつけても、主体性を発揮できなければ衆愚化する。与えられた民主主義は形式を装うだけである。民主主義は自ら獲得しなければ実現しない。[2023]

【選挙制度】

選挙制度そのものが歴史的に獲得されたものであって、理想を実現したものではない。公明正大な国政選挙が一度も実現したことがないために、現状の選挙が当然のこととして受け入れられている。権力を取もつ者に都合よく選挙制度は作られ、運用されている。選挙権の制限、選挙区割り、選挙定数、選挙運動の規制、選挙に関わる制度のすべてが現実の力関係の下で決められている。選挙が行われているからといって民主主義が実現していることにはならない。[2024]
選挙権の買収は不正ではあるが主権者の責任でもある。選挙制度そのものがゆがめられ、選挙運動が恣意的に制限されることに基本的問題がある。[2025]

選挙する参政権は自然人だけにある主権の行使である。参政権は投票する選挙権だけでなく被選挙権、選挙運動権でもある。法人、団体に参政権はない。法人、団体に社会経済的法人格が認められても、政治的人格は認められない。法人、団体であっても諸個人が担い、諸個人の資格で参政権を行使する。法人、団体に選挙運動権を認めることは個人と組織に二重の権利を認めることになる。政治献金は無論、政治団体への人材派遣、選挙運動の請負等を企業や団体が行うことは不当である。まして国と経済取引をしたり、補助金を交付されている企業、団体の政治献金は政治家による公金の横領である。この当たり前のことが一般に問題にもされない現状にある。[2026]

選挙の多数決、そして選出される議会の多数決は平等の議決権を前提にしている。得票率に比例した議席配分ができる選挙制度が民主主義を保証する。選挙区割り、選挙人の調査といった実務上の問題を口実に選挙権が不平等になっている。選挙区の制限は多くの死票を残し、少数意見が反映されなくなる。被選挙者の選挙運動の都合で選挙区を制限することは本末転倒である。人口の少ない地域、産業等への配慮は施策によるべきであって、被選挙人定数をより多くする理由にはならない。[2027]
選挙運動に限らず政権に批判的な者は隙あらば取り締まられる。選挙の不正を取り締まるとして、警察を選挙運動に介入させる。選挙活動へ干渉し、制限し、選挙権者に有形、無形の圧力をかける。ポスター掲示、ビラ配り、戸別訪問を制限・禁止し、取り締まりと称して干渉する。捜査と称して尾行し、賛同者を犯罪者扱いし、圧力をかける。[2028]
選出に利益誘導、買収があり、社会関係・人間関係を利用した強制がある。政治選挙に参加する誰もが不正選挙が行われていることを知っているが、公式には問題にされない。[2029]
社会の理想的有り様を追求しようにも、その実現の第一歩である選挙制度、選挙運動で民主主義は骨抜きにされている。現実の選挙制度、選挙運動は現状追認で正義も論理も通用しない。子供たちに教える民主主義はしらけたものになる。[2030]

【政党】

政治の運動主体は政党である。主権者の公式の意思決定は議会にあっても、日常的な意思表示、政治運動は政党によって担われる。政党は各分野に党員を配し、専門家による支援を受け、支持者による情報を収集して政策実現を目指す政治組織である。[2031]
議員には個人的限界だけでなく任期が定められている。それぞれの分野を専門に担っている官僚と議員が対等に議論することは困難である。議員も専門家として立法権を行使し、政治を行うには政党組織が必要であるし、政党組織外との組織的広がりが必要である。[2032]
政党は主権者による政治運動組織であって、国家制度からは独立である。政党は資金、情報、組織が国家権力からは独立していて健全に機能する。税金による政党助成は「助成」ではなく公金の横領である。[2033]

【主権者の意思決定】

主権者の意思決定制度として議会があり、最終的に国民投票がある。議会議員選挙は国民主権行使のための手段であって、白紙委任を議会に与えるものではない。議会議員選挙は議員、あるいは政党への支持関係を任期ごとに確定する。[2034]
主権者の意思決定機関として立法府に権限がある。主権者に情報を公開し、選択枝を明示し、議論を組織する。主権者の意思をまとめるのが議員であり、政党である。議会、議員には発言権、採決権だけでなく調査権、質問権がある。[2035]
立法は小数意見であっても、主権者としての意思の表示の権利を保証する。誓願により、議員立法により、否決されても議事録に記録される。立法府で意見を表明すること、公式に記録すること、広報することは主権者の権利である。[2036]
議会は主権者の利害調整だけではなく、権力者間の利害調整確定の場である。議会は利害調整の場であるだけでなく、決定しなくてはならない問題を公的に確認にする。主権者に対して、外国に対して問題を提起し、態度を明らかにする。[2037]

【行政】

行政は公的部門として社会代謝全体が円滑に機能するよう保障する。社会代謝は代謝秩序維持、社会代謝基盤整備として行政によって支えられる。[2038]
立法は個別的物事のすべてを規定することはできず、原則だけを規定する。行政が法を具体的に、個別的に適用する。その解釈が適切であるかは裁判によって決着されるが、裁判にかからなければ行政の判断が決定になる。行政は法の実際の執行で強力な権限を行使する。行政は秩序の担い手として公権力を日常的に行使する。[2039]
DIV> 歴史的に行政は社会秩序の担い手として社会を支配してきた。社会秩序を担って秩序を強制し、秩序維持費用を徴収する。必要以上に権力を行使することもあるし、不公平な権力行使もある。特に階級社会にあっては階級支配と一体となった権力行使が行われる。[2040]
行政は他が担わない一切を担う。立法、司法であっても議事に関わらないこと、審判に関わらない実務がある。それぞれ立法行政、司法行政として行政が担う。専門の資格が必要な業務、そして私企業や一般の人が担える業務以外を行政が担う。実際の職務範囲は判断によって変化するし、時代によっても変化する。官民の関わりとして、民営化、外部委託として変化してきている。<[2041]

行政組織は権力行使の公平性、公開性を担保するために権限を明確に規定し、また担当者が恣意的に処分されることがないように身分を保障する。公権力を行使する者が非合法に私腹を肥やす必要はないよう、権限に応じた地位と報酬を与える。権限の規定と身分保障が公開され、評価されることで硬直化、非効率化を避ける。[2042]
行政は社会全体の秩序にかかわり、対応する組織を制度化する。分野ごとに、地域ごとに組織を制度化する。社会秩序をより詳細に規制しようとすれば、行政組織は肥大化する。権力を規制する働きがなければ、社会秩序の隅々にまで介入する。人々の道義や節操にまで介入する。[2043]
行政は対外的には社会秩序を代表するが、内部的には役人権益が支配する。評価、規制しなくては行政は肥大化し、社会秩序を硬直化させる。社会代謝の発展に伴って肥大化が社会問題になり行政改革が必要になる。[2044]

【司法】

司法は現実に発生した対立に審判を下す。審判は主権者の意思に基づき、間接的に個々の司法判断に反映される。主権者の意思が議会又は行政に反映されて裁判官は任命される。主権者を超越した権威を演出して裁くことは、二重に民主主義に反する。第1に主権者を超越した存在は幻想でしかなく、それは現実の権力者を隠す。第2に主権者の主権行使を妨げる。[2045]
司法制度でも個別利益が介入することを制度的に排除し、審判基準はすべてに一様に適用される。個々の利害を調整するのではなく、統一基準によって公平に審判される。社会的公平はそれぞれの人が自らの公平観を反省できないと一方的批判になる。一方的批判が煽られると少数者の立場、外国等の日常的関係にない他者の立場はまったく無視されてしまう。[2046]
司法に主権者の意思が反映されるよう参審制度、裁判官忌避権、国民審査制度、検察審査会が設けられた。裁判自体の情報公開、秘密主義の排除は司法関係者だけでは解決されない。[2047]
建前では主権者の意思に基づくことになっていても、現実には国民審査も機能せず、権力者が裁判官を任命している。ただ共通の権力的立場に立つ者同士であっても利害対立はある。民事の審判であっても、訴訟経験知識、訴訟費用等社会的強者に有利である。[2048]
刑事処分は社会的隔離、更正処分であり、司法制度は抑止もねらう。再犯の可能性が高ければ拘禁する。犯行が病的なもので有れば入院させる。皆が対等でないから人権に配慮しつつも、弱者が被害者になる犯罪には予防措置が必要になる。弱者に加害する者は自らの力を制御できないのであり、社会的に対応するしかない。具体的に正しい対策を立てることは難しいが、開かれた議論による社会的合意を形成するしかない。[2049]
刑事裁判では被害者の感情も大切であるが、裁判は報復手段ではない。審判は主権者皆に公平であることで社会的に受け入れられる。加害者と被害者との対立だけに限れば絶対的正悪の関係になりえる。しかし社会関係は相互連関であり、相対的であり、絶対的関係ではない。相対的関係が公平の基準になる。人を裁くのではなく、罪を裁くことが普遍的な基準である。犯罪の「凶悪」化は個人の資質、人間性ではなく、社会の有り様による。報復は避けねばならず、被害者の救済と犯人の処分とは区別される。[2050]
階級的犯罪においてもこの原則は守られる。テロ、リンチは相手だけでなく、関係者の人間性の否定である。それ以上に階級的犯罪に対する報復は、新しい社会建設を阻害する。[2051]

どの様に民主主義が発達した社会であっても誤りのない制度、運用、執行が常に実現できはしない。現実の人間が審判する以上、えん罪の可能性は常にある。一般論以上に警察、検察の恣意的な判断と、非民主的、人権否定的な捜査、取調べによるえん罪が繰り返される。被疑者は法規的、制度的知識や権利から隔てられ、長期に一方的解釈を押し付けられ、暴力を伴わなくとも取調べに被疑者は動揺する。犯人でなくとも被疑者にされ、日常生活を破壊されれば社会への信頼を失い、確信を持てなくなり、意に反した「自白」に追いつめられる。[2052]
えん罪でないことが前提で死刑制度が問われる。えん罪の可能性があれば死刑制度は成り立たない。人が人を殺すことを合法とする社会秩序を認めることは、罪人を生み出す社会を「やむを得ぬ」と認めることになる。罪人を生み出さない社会秩序を作り上げることが、健全な社会である。[2053]
罪人を殺してしまうことではなく、罪が生まれる環境条件、過程を明らかにし、罪人が罪を認め反省できる方法を探ることで未来は拓かれる。罪と罪人を理解できなくては人間を理解できたことにならない。我々は未だ人間について理解できていない。殺してしまっては理解の機会を失う。[2054]
まして階級対立社会では、司法権力は被支配階級に対してあらゆる手段を行使する。裁く権限を持ち、隠密のうちに工作し、審判もできる。秘密警察は東欧共産主義国家の専売ではない。[2055]


第2項 収奪と抑圧

社会は人が互いの生活を支え合うことで成り立つ。その社会内での私益の追究は他人の収奪になる。皆が作り出した財を人より多く取るのであるから収奪である。[2056]
収奪を正当化し、収奪を制度化し、収奪秩序を人々に押しつけるのは抑圧制度である。[2057]

【収奪機構】

社会の財は人々の労働によって作られ、人々の生活に消費される。消費を上回って作られる財は剰余価値として生産の不足に備え、より大きな生産に投資され、社会的価値として蓄積される。再生産によって人々の生活が保障され、拡大再生産によってより豊かな生活を実現できる。生産−消費秩序によって社会秩序が実現する。[2058]
剰余価値を私物化することが搾取である。搾取による剰余価値の私物化は詐欺や強奪とは違って再生産過程内での価値配分として行われる。生産、価値配分が拡大し、複雑になるほどに詐欺や強奪が増える。搾取、詐欺、強奪として収奪が発達する。様々な取引に拡大し、地理的に拡大する。[2059]
収奪する者は利益を自分の能力と努力の結果であると合理化する。生活できない者を怠け者と軽蔑する。人を収奪する者には人間性を理解でない。[2060]

収奪はまず社会が必要とする公的費用負担を口実にする。公的に必要な社会費用負担は当然にあるが、剰余価値でまかなうべき費用である。公的、社会的であるとして徴税される。自由な契約に基づく市民社会であるとして、労働賃金も剰余価値の配分も同じ所得として課税の対象になる。[2061]
税制をめぐる説明は立場によって様々である。一律の税率、所得に応じた比率、累進税率が課税対象に応じて選ばれ平等性、担税能力、徴税効率等として説明される。税負担による勤労意欲、景気への影響までが税制の理由にされてしまう。[2062]
税制体系は修正や追加で複雑化し、修正も困難になっている。所得税、資産税、取引税、消費税と様々な税がある。一つの税率を変えるだけでも他の税制への影響が出る。現行税制についての説明に論理的一貫性を求めても無駄であり、権力を持つ者が決定する。[2063]
税負担の平等、平等そのもののあり方が収奪の問題としてあるが、税制は収奪機構の半面でしかない。税は国家の収入であり、支出である財政が残り半面の収奪としてある。どのように公平な税制であろうが財政支出が社会代謝秩序維持、社会基盤整備、社会的資産の蓄積以外に使われるならやはり収奪である。政治家や官僚の私利私欲に使われたり、一部の者に供されている。明らかな横領だけでなく、社会代謝秩序維持、社会基盤整備に事寄せてばらまく。無駄と分かってもこれ以上の無駄を出さないためとまでが追加支出の理由にされる。[2064]
目的を定めた税制も欺瞞でしかない。福祉のため、教育のためという増税は不公平な財政支出、無駄な財政支出を放置したままでは増税の口実でしかない。[2065]

経済取引の基準になる交換価値、貨幣価値を変えてしまうことによって収奪する。貨幣価値を減価させるインフレーションによって利子を受け取れる者は減価を補えるが、利子を受け取る資産のない者は収入が減って収奪される。逆にデフレーションになれば再生産が縮小して資産のない者の生活は切り下げられ、資産のあるもは生産過程から資産を引き上げる。[2066]
公的費用の負担者と受益者は一致しない。しかし負担の平等化は単純ではない。「一時的投資では世代間の負担平準化が必要である」として起債が行われている。債権は負担の先延ばしであり、資本主義では利子負担を伴う。公的事業の債権利用は負担の平準化よりも、資金運用による利益を収奪する制度である。公的事業は何時の時代でも必要であり、負担を平準化しなくても負担は常に必要である。一つの事業ができあがっても、他の事業が必要になり、また旧事業の更新も必要になる。既得権益に縛られて不必要になった資金支出を継続し、新規事業を起債によってまかなうのは収奪である。最近では投機資本が公共事業をも投機の対象にして収奪をしようとしている。[2067]
社会の基礎には社会的物質代謝があり、代謝は今現在の現実の過程である。未来を先取りすることも、未来に先送りすることもできない。将来への備えも今現在負担することが現実的対応である。[2068]
生活保障は地域間、世代間の公平が求められる。特殊な条件にある地域的投資は、全体でも負担することが公平の実現になる。経済効率、投資効率だけで公的資金が使われては社会代謝の歪みを加速するだけになってしまう。大規模な自然災害などは地域だけでは対応しきれないし、相互保険でも救済しきれない。過疎や自然災害へ公的資金で対応することは社会代謝秩序維持に必要である。にもかかわらず、過疎や自然災害に公的資金を使わず、私企業の救済に公的資金を投入することは収奪以外の何ものでもない。。[2069]

収奪は強者が弱者を収奪することが基本であるが、経済取引が発達する程様々な収奪関係も発達する。強者同士の収奪関係も広がる。取引関係は価値を移転するが、価値を作り出しはしない。価値を作り出すのは社会の物質代謝を担う取引であって、取引のための取引は価値を作り出さず、価値をかすめ取る。価値を作り出さない取引関係での儲けは人の損失によってもたらされるまさに収奪である。今日の競争は収奪競争である。[2070]
個人的横領は刑事犯罪になるが、制度的横領は世論が告発しないと罪にならない。階級社会でなくとも公金の横領は合法的に、制度的に行われる。高級官僚の天下り、天下りを受け入れるための組織作りは公認された公金横領の例である。制度を逸脱した横領は告発されるが、不適切な財政支出責任が追及されたためしはない。2007年に問題になった国民年金問題は横領だけでなく、公金運用制度の腐敗例である。今日収奪はあらゆる取引関係に現れ、全世界的に広がっている。圧倒的多数の競争を好まない人々まで巻き込んで収奪する。[2071]

【抑圧機構】

収奪は被収奪者に収奪を受け入れさせることで維持される。収奪を当然のこととして受け入れさせる。不当であってもいたし方のないこととあきらめさせる。収奪に不満をもつ者を孤立させる。収奪に反対する者が協力し合わないように分断する。[2072]
収奪反対が社会運動化しないよう、広がらないように抑圧機構が整備される。抑圧機構は排除、強制に暴力を使う。暴力を背景に威嚇し、抑止する。対象に応じた段階的手段を備えている。日常的には警察が前面に出て治安維持を担うが、警察を指揮する検察やその他の権力組織がある。軍事力は海外だけでなく国内に向けても体制維持を担う。[2073]
警察には治安警察と政治警察がある。抑圧を続けることで警察の民主性は麻痺し、腐敗、無力化する。政治警察は「犯罪」を政治的に利用する。政治戦の集約された場である選挙では違法性がなくても運動員を監視し、捜査の対象とし、また関係する有権者を威嚇する。投票日直前など最も有効な時期をねらって、政敵を微罪であっても告訴する。与党政治家であっても事件にことよせて取引するのが政治警察である。[2074]

軍隊は他の社会組織から物質的、組織的に独立している。基地は地域的に独立し、食料、装備、武器弾薬も備蓄されていて、人命も消耗品として扱う。指揮系統は独自の統制制度・機構を備えている。情報も制度、組織、媒体、蓄積と独自である。徴集兵を除いて思想的にも一般社会から隔絶されている。戒厳令などの非常時体制はこの軍隊の独立性によって可能になる。[2075]
警察も警棒、ピストル、ライフル等の武器を所持するが局地的、小集団に対する威力しか持たない。これにたいして軍隊はすべての武力を行使する。核兵器、化学兵器、生物兵器等の軍事力を規制するのは国際的世論である。第二次世界大戦末には国際世論の監視がなかったからこそアメリカは核兵器を使用した。核実験も開発の必要度と、国際世論の圧力の均衡を考慮して実施される。抑圧機構といえども全能ではなく、政治的取引によって規制されている。抑圧機構の統制程度は主権者の民主主義度によって決まる。[2076]


第3項 世論と情報

【社会的意識】

社会秩序は人々の関係秩序であり、人々の意識の有り様に関わる。人々の意識が社会秩序によって規定され、人々の意識が社会秩序を規定する。[2077]
人それぞれが生活する社会で、社会を生活環境として意識し、生活上の諸問題を主体的に意識する。他人との関係での自らを意識し、集団・組織との関係で自分を意識し、人間関係全体を対象にして社会を意識する。社会と自分との関係が意識される。人それぞれが生活し、経験する中で無意識のうちに、そして意識して形成してきた各個人の主観的社会意識がある。[2078]
人々の社会意識が相互作用し全体として社会的意識を実現している。社会的意識は人々の社会意識によって実現しているが、人々の社会意識に働きかけ、人々の意識と区別されてある。人と人とのコミュニケーションでの相互作用にとどまらない、社会全体を対象にしてそれぞれの個人が作用しあう社会的意識がある。主観としての社会意識に対して対象としての社会的意識は「世間の眼」として意識され、「世間の見方」として解釈される。特定の人としてでなく、自分を取り巻く人間関係で対象として意識する。[2079]
人の意識が無意識に規定されながらも、意識が人間としての自分を方向づけるのと同じに、社会秩序の有り様と社会的意識との関係がある。人の意識は意識して形成される以前に無意識のうちに形成される。生理的意識は本人にも制御しきれない。睡魔に勝ち続けることのできる人はいないし、外部からの刺激に大きく影響される。人の生理的意識と同じで、社会的意識に主体性はなく、反省できる人格も、自覚もない。社会的意識は人の無意識と同じように機能する。[2080]
人が社会的意識を自らと一体のものとして意識するか、敵対するものとして意識するかにかかわらず、個人の社会意識と社会的意識は密接に相互作用する。理性を人間性の証、尊厳ととらえる人も、「物質の有り様が意識を規定する」ことを否定する人もいるが、社会的意識から隔絶し、孤立していては自意識そのものが育たない。基本的に人々のコミュニケーションの有り様が人それぞれの意識内容に影響する。それぞれの人への影響はそれぞれの人の意識にかかわりなく無意識の働きかけも含め、互いの働きかけによって相互作用している。[2081]
人は社会的意識に連関し、他人とのコミュニケーションによって自らを確かめ、自らの意識を安定させる。気づかなくても人の評価を気にし、自己主張し、過剰な自己主張に恥じ入りもする。他人とのコミュニケーションが障害されると器質的問題がなくても精神病になる。流行を気にするのは自分を大切にしないからではなく、自分に自信がないからでもなく、もともと意識の社会性に根ざしている。[2082]

【社会的意識の制度】

人の意識は家庭内の躾とコミュニケーションが基礎になって形成されるる。家庭を出て人々の意識を形成する社会制度としてまず教育と報道がある。学校で社会的コミュニケーション訓練がされ、基礎知識が与えられる。学校を出て人は社会の出来事を報道によって知る。教育も報道も歴史的に発展してきたが、同時にその物質的基礎をなす情報通信技術も社会的制度として発展してきた。[2083]
今日報道は新聞、雑誌、ラジオ、テレビ等の少数者から多数者へのマス・コミュニケーション=マスコミに、デジタル通信を介した情報ネットワーク・コミュニケーションが加わり、影響力も個人と組織とで区別できない。[2084]

人々の意識の有り様として世論があるが、社会的媒体によって表現される「世論」もある。人々の社会意識の有り様として内容をなす「世論」と社会的媒体によって表現される「世論」が一致しているとは限らない。人々の社会意識は操作の主体としてあるとともに、対象である。世論も形成と表現とで再帰する規定関係にある。[2085]
学校、報道等の社会的情報媒体が社会的意識制度の基礎をなしている。学校、報道等は公的に規定された制度であるが、それらが相互に連関しながら社会的意識制度を構成している。互いに、そして個人と情報をやり取りして世論を形成する。人それぞれの意識では微妙な違いがあっても、社会的に違いを捨象して物事に対する解釈、評価がいくつかに絞られる。[2086]
社会的意識制度全体は公的に規定された制度ではないため、物事の解釈、評価は人々の力関係、あるいは歴史的経過によって、あるいは偶然によって絞られる。民主的決定手続きなど定まってはいない。社会的意識の形成は社会的意識制度の事情通による支配、影響を強く受ける。社会的意識を方向付けようとする者は学校教育内容やマスコミへの影響力、ネットワーク利用の技術力をめぐって争う。[2087]
社会的意識、世論は現実的力である。流行を作り出せば巨大な経済的利益がもたらされる。現実を演出することすらできてしまう。政治が政策の実現ではなく、人々の意識を操作することで支持を集める。[2088]

【マス・コミュニケーション】

マスコミは情報伝達の社会制度である。情報伝達は個人間でも日常的に行われるが、マスコミは社会的に情報を提供する。社会の共有する情報、物事の解釈をも作り出す。マスコミ媒体は情報を伝えるだけではなく、娯楽も提供する。マスコミ媒体には調査報道と娯楽提供の2つの機能がある。[2089]
マスコミは法定された制度としての政治から独立して社会的問題、課題を提起・報道する。マスコミは他の制度、組織によっては見過ごされ、隠された物事を公開する機能を担い、かっては第四の権力とまで呼ばれた。情報媒体として社会的、政治的意見、評論を公表し、交換する。文化的創造、科学的発見の発表、解説による最新の知識紹介の媒体である。[2090]
マスコミは社会的意識形成の基本的媒体である。マスコミで報道されたことが事実としてマスコミ媒体間で、そして人々の間で互いに確認される。マスコミに報道されることが事実のすべてにまでなる。マスコミに伝えられた時が「明らかになった」時になる。報道されないことは、存在しない物事になってしまう。マスコミの提示する選択肢だけが現実的選択になる。[2091]
マスコミは社会的価値基準を作り出し提供する。マスコミはプラスの評価とマイナスの評価を作り出す。流行の紹介は流行を広める。世論には受け入れられにくい前衛的芸術などでも、物語性を付加すれば受け入れられやすくする。物事の内容理解はともかくも物語性、話題性で売れる。[2092]
逆にマイナスの評価としてスキャンダルがある。スキャンダルは有名人をおとしめるものだけではない。反権力的運動、組織を対象とするだけでもない。競争関係にあれば一般的運動、組織に対してもスキャンダルは利用される。[2093]
マスコミはそれぞれの人に利害関係がなくとも話題性のある悪事を暴く。マスコミが紹介する悪人を批判することで、自分が善人になれる人がいる。善良なる人々はマスコミ報道を批評して日々すごし、悪事の社会的背景を無視する。[2094]

マスコミによって提供される娯楽は共同幻想として社会的感性を支配する。マスコミによって提供される価値観での共同幻想が作られる。マスコミは流行を作り出し、人々の嗜好までも方向づける。[2095]
一方的に提供される感覚刺激的番組、しかも無料の番組は、職場、学校で消耗した者にとって受け入れ易い娯楽である。休息のための娯楽時間に創造的活動をする余裕は残されていない。創造的活動でなくとも、鑑賞に訓練や経験を必要とするものも受け入れがたい。誰にでも分かりやすい娯楽が、次々と目先を変えて供給される。マスコミは職場、学校での共通の話題を提供する。共通の話題に参加できない子どもは仲間はずれにされる事まで起きる。[2096]
映像と音響により、非論理的であっても影響力は大きい。言葉を解釈する努力をしなくても容易に受け入れることができる。対象を理解しなくても擬態的イメージとして受け入れることができる。[2097]
マスコミで番組を制作する人々はより早く流行先を探れと追いつめらるが、そのうちの誰かが見つけ出したものが流行る。提供する者と受け入れる者それぞれの意識に乖離はあっても、社会的嗜好の方向はいくつかに定まる。多数の流行の中から一つが中心的流行をかぎ分ける人が尊ばれる。[2098]
流行ならば人それぞれ流行に対する対応を自己決定できる。しかしマスコミは世論操作にも使われる。複数のマスコミ媒体があっても、多様な形式で同じ内容の報道を行えば、それがすべてとして受け取られる。複数のマスコミ媒体が基本的立場、基本的傾向として同じであれば、社会的意思はマスコミによって決定されてしまう。[2099]
視聴者が求めるものをふんだんに提供することで、提供したくないものへの関心を失わせる。問題意識、関心を囲い込み、その答えをただ一つ用意し、提供する。囲い込まれた情報を共有することで互いに安心する。商品の宣伝活動ですら事件として話題を提供すれば費用をかけずに大きな宣伝効果を期待できる。意図的に提供する情報を選択し、他には何もないように情報を統制する。[2100]
マスコミの評価を変えさせるには、強力な社会的行動が必要になる。マスコミに取り上げられるほどの社会的動きを作り出すことで可能になる。マスコミを騒がせることを目的として事件が引き起こされる。[2101]
言論には言論の場で争うしかない。マスコミと闘うならマスコミの場に上がるしかない。社会的影響力のある人、組織はマスコミ対策を専門にする部門を持つ。商業活動だけではなく、政治的にも利用される。マスコミでのコーディネーター、コンサルタントが職業として成り立つ。[2102]

【社会的情報通信】

情報の生産、流通、蓄積は社会代謝のいわば神経系である。情報通信が正常に機能しないと現代社会は成り立たなくなっている。[2103]
情報媒体は情報機器、情報通信設備だけではない。設備機器だけでなく社会的情報基盤として制度が整えられる。郵便制度でも収受、分別、運搬といった設備、運営だけではなく、住居表示等の社会制度を基礎にして成り立っている。電子データの通信も物理的な通信線や交換、中継、増幅器だけでなく、送受する機器の位置関係を表すアドレス体系、よりよい通信経路を選択する機能、誤りを訂正する機能、送受信信号をそれぞれの利用形態に変換する機能等の通信手順の体系から成っている。今日では通信の安全性を確保するための暗号化、差出人の本人確認が社会的通信に組み込まれてきている。[2104]
これらの情報媒体の整備には大きな社会的投資が必要である。個人的な手紙の交換、個人的な電話の利用であっても社会的に巨大な情報媒体によって実現されている。個人が手軽に利用できるサービスとして運用されているが、巨大な社会的負担によって支えられている。[2105]

情報の利用は受け入れるだけではない。ネットワークでの情報利用は交換と共有である。ネットワークを含む公の場では一般的、普遍的であることが情報の重要性であるが、ネットワーク上の情報はごく特殊な個別的情報でも利用できることに価値がある。[2106]
それぞれに困っていることを尋ねることから情報の共有は始まる。ごく特殊な病気の情報は圧倒的多数の人には必要ないが、患者と医療関係者には命に関わる。命に関わらなくても、日常生活、仕事では、知っているのといないのでは大きく違う知識、技術、工夫が数多くある。必要とする情報を誰でもが、容易に入手できるような環境を整え、情報を提供することがネットワークでの情報共有である。情報通信機器が重要なのではなく、人々の情報共有、交換が重要なのである。個人の内にとどまる情報は世紀の新発見であれ、危険思想であれ社会的に意味はない。情報は社会的に共有されて意味がある。[2107]
情報発信が容易になってきているにもかかわらず、まだ社会的共有は始まったともいえない。好奇心の強い者や、目立ちたがり屋は多いが、圧倒的多数の人々が発言しようとしない。一方インターネットが商業利用に解放されるようになってから、企業、団体の利用は取引情報に偏っている。商品取引の情報、採用情報、組織概要は提供しても公的、社会的にそれぞれが扱っている情報を提供していない。商品情報であっても取引条件が優先され、仕様や機能が説明されない。ネットワークを商取引の手段としてしか扱っていない。[2108]

【社会的情報保護】

情報がデジタル化され、電子媒体に記録されるようになって情報保護が社会問題になってきている。デジタル化された情報は小さな媒体に大量に記録することができる。複写が容易で複写によって永久的に保存することができる。検索が容易で多様な情報を照合して関連づけることができる。媒体間の変換が容易で汎用性が高い。これらの利点は使い方によって大きな害をもたらす。情報を操作する者だけの問題ではなく、情報を託すすべての人々にかかわる社会問題になる。[2109]
情報通信技術の発達により情報の収集、保存、加工が容易になった。自動化される情報収集は多様で詳細な情報を集積する。商店でのレジスター、クレジットカードでの買い物、銀行の預貯金、道路の監視・防犯カメラ等、特別に情報収集の手間を掛けなくてもデータは蓄積されている。一人一人の言動を追跡しなくとも、人手をかけて盗聴しなくとも、特定の電話機の利用、特定の言葉が出てくる会話を選別し、記録することができる。画像として記録するだけでなく、特徴も照合可能なデータに自動変換される。[2110]

分散された情報を利用することは非常に困難であるが、集中された情報は多様な関連づけが可能になる。住民票、電話番号、社会保険番号、運転免許証番号等の個人識別情報を互いに関連づけることによって個人の全体的データをまとめることができてしまう。公的な身分や実績だけでなく、病歴や性癖を含む人物像を描き出すことが可能である。市場調査にはあらゆるデータが利用される。個人情報が売買される時代になってきている。[2111]
集められた情報は消去されなくてはいつまでも残される。人々の会話や紙に書かれたことは時と共に忘れられ、再現することが困難になる。しかし電子情報化されたデータは消去されなければ半永久的に保存される。消去されるべき少年時代の悪事が永久に記録される。本人に責任のない誤った情報も訂正されないまま残される。[2112]
情報漏れは技術的問題よりも、人為的要因によることの方が多い。性善説では悪意による情報漏れを奨励するに等しい。プライバシーが漏れるだけでなく、公開される可能性は有名人だけに限られない。一般の人にも不注意による情報漏れの可能性は常にある。[2113]


第3節 権力

【権力の魅力】

人は生物としても生理的代謝によって個体を維持し、子へと繋がる生命秩序を実現している。人は生活に必要な財を作り出し、財を消費することで生活を実現している。人は対象を理解し、表現することで知性を実現している。人は人を対象に働きかけ、働きかけられることで人間となり、人格を実現している。人間も自己実現する存在であり、自己実現を意識することが自覚的な生き方でる。[3001]
人は道具を使用することで肉体的自己を拡張できる。人は情報を利用して知的自己を拡張できる。人は社会を利用して社会的自己を拡張できる。自己実現は人間の有り様であり、その拡張は人間の人間的な楽しみ、喜びである。社会的自己を拡張する権力行使には魂を悪魔に売っても手に入れたい魅力があるらしい。人の命をもてあそび、あるいは一考だにしない権力者が歴史上何人も登場してきた。権力は膨大な報酬をもたらすが、どんな報酬も凌駕する魅力が権力行使自体にあるらしい。[3002]
報酬は結果でしか楽しめない。力の発揮は現在進行形で、現在進行形で効果を実感できる。再帰効果に遅れがなく、再帰が即効果を現わせば生の生きている実感である。その時しか楽しめないものに人はのめり込む。自己実現は自らの秩序を創造することであり、価値の創造である。自己実現はできあがり、提供される価値を手に入れることではない。[3003]
社会代謝を実現する過程で、個々人は社会での役割をそれぞれ担っている。個々人の肉体的、精神的力量の違いだけでなく、担う役割によって社会的力が拡張される。社会的力量は権限として個人の力量をはるかに超えて質と量とともに大きくなる。[3004]

ただ権力は組織があっての力である。組織は構成員に何らかの恩恵を与えることができて人々をまとめる。人々が組織からの恩恵、組織を認めなくては権力に何の力もない。組織を否定し、組織を離れた者に権力の効力はない。[3005]
権力は本来社会秩序を制御する力であり、私物化したのでは社会秩序を乱すことになりかねない。それぞれ身の丈に合った集団でなら権力の魅力を味わうことはできる。味わいたいからといって家庭内暴力は家庭を崩壊させる。安易に権力を行使すると身を破滅させる。[3006]

【社会的力】

人間社会は自然の、物質の運動秩序を制御し、利用する力を発達させてきたが、それは社会的力である。個人の経験を社会的に共有し、社会的に蓄積してきたことで獲得された力である。社会的力は自然に対する力であると共に、人の人に対する影響力、作用力である。人の人に対する力は、高潔さといった価値観に基づく人格的影響力だけではない。社会的力は生活上の利害関係に決定的に作用する。競争社会での勝者は社会的力を増大させる。[3007]
社会的力はまず個人間で作用する。肉体的、精神的力が個人間に働く。個人が個人に働きかける力が元になるが、相互の働きかけが相互連関してそれぞれの個人に働く。働きかけるのは個人単位であるが、個人へ働くのは全体からである。この個人対社会という非対称な関係にとらわれると社会的力は一方的に見える。しかし個人も人間として社会的存在であり、社会関係で育ち、社会的関係の中で社会的力を担っている。社会的存在どうしという対称な関係で平等が成り立つ。個人という殻に引きこもっては社会的平等は成り立たない。[3008]
親子関係では肉体的、精神的に勝る親が子を監護する。親子の監護に社会的力は必要ない。元々親子間にあるのは愛と呼ばれる対等の関係である。しかし親が子に与えるものが社会的生産物であったり、社会的地位であったりすれば親の社会的力が親子関係にも作用する。親子関係は対等な関係ではなくなり、親が絶対的優位の関係になる。親の社会的力が子に対して強制力として働き、様々な葛藤の原因になる。やがて親は老い、子は生長して逆転する。[3009]

人との協力・協同は単独の行動・行為とは違う。組織化されていなくても力を合わせることで大きな仕事を達成できる。単純な人数に応じた力加算ではなく協力・協同によって無駄をなくすことで効率化する。個人間の連携で無駄を省き、集団としての力を効率的に発揮する。集団は人数に応じて力が増えるのではなく、相乗的に力は増す。ただ連携せず寄り集まっただけでは人数が増えるほど混乱することにもなる。[3010]
組織は人の得手不得手を組み合わせることで集団以上の力を発揮する。得手不得手の組み合わせ関係は部分的に不平等である。得手の者に不得手の者は従い、協力する。他の課題では得手不得手の関係が逆転するとしても、部分的には指示、支配の関係になる。組織は支配統制することで指向性、方向性を社会的力に与えて発揮する。組織自体が社会関係であり、社会的力が組織外に向かってだけでなく、組織内でも直接的に作用する。対等な個人も組織されることで、個人に対する組織力が作用する。[3011]
組織構成員が世代交代して組織が維持されるなら、支配統制の関係は組織的に制度化される。組織の制度化は世代交代にかかわない組織秩序づけであるが、世代交代には組織の制度化が不可欠である。属人的に組織が変化したのでは同一世代内で無駄な軋轢を生む。それぞれの能力を生かす運営で組織は活性化するが、請負になっては組織を維持できない。[3012]
組織は制度化して構成員を支配統制する。制度化した社会的力が組織内権力である。組織構成員である限り個人は組織内権力に従い、組織内権力を行使する。組織内の対立は互いの組織内権力を行使した闘いになる。[3013]
組織の制度化と並行して社会の制度化も歴史的に早くから進んだ。制度化で社会代謝秩序を人の欲得によって歪まないようにする。秩序を乱す者を排除し、取引を制度化すれば社会秩序は安定する。よりよい取引制度を創設すれば繁栄がもたらされる。[3014]
宗教は本来人間の価値観に働きかけることで、いわば人間的力で人を動かすのであって社会的力には頼らない。世俗化した宗教は御利益によって人を動かすが、御利益も社会的力である。「安心」や「慰め」は人間的力と社会的力との間に位置する効果である。[3015]

【権力関係の普遍性】

権力は国家権力だけでなく、利害対立する人社会一般に現れる。構成員が自発的に集う自己組織秩序でなら強制力としての権力は働きようがないが、対立や不一致を含みながら組織を維持し、運動するには権力が働く。[3016]
職場においては職制として権力関係が制度化されている。家庭とて例外ではない。家庭にあっても親子間、夫婦間の主導権争いはあるし、幼児に対しては善し悪しに関わらない親権の行使がある。家族制の転換期に古い家族の有り様を守ろうとする者は権力的に振る舞う。[3017]
社会は一つの絶対的権力に支配されなくても、積み重なり、相互に働き掛け合う権力諸関係としてある。地域的にも、組織階層内でも相対的に独自性を持ちながらも全体の連関を形作っている。人間社会で普遍的である権力は個人に対して個別的にも、組織的にも、制度的にも作用する。社会代謝系として財の取引関係によって生活しているのであり、取引関係を支配統制する権力関係としての人的関係がある。物質的関係をめぐって人々が取引する関係に社会的強制力が権力として作用する。[3018]
様々な人間関係に働く権力であるが、結局人間関係を結びつける、生活を成り立たせる物質代謝系に沿って社会的に体系化される。個別の人間関係では才能や経験、知識によって権力者が決まっても、その部門は社会的代謝系に位置づいて成り立つ。社会代謝系での位置が定まるだけでなく、内部の人間関係にも社会一般の権力関係が浸透する。家族、宗教団体、同好会にも権力的対応が持ち込まれる。階級社会であれば搾取・収奪の権力関係が反映し、人間関係が歪む。[3019]

人それぞれがもつ社会的力、組織それぞれがもつ社会的力と公権力は別である。公権力は人の人に対する支配力にとどまらず、社会代謝系を支配統制し、方向付ける。しかし社会代謝系発展の方向性は抽象的であり、誰にも見通すことはできない。社会代謝はすべての人によって担われ、すべての人々の行動の結果として方向性を現す。社会代謝がどのように実現していくかは人々の思惑と偶然の結果による。個人それぞれの思惑が相互に作用し合って社会全体の方向性を作り出している。[3020]
公権力でも社会代謝系を制御できない。強制力では社会代謝を制御しきれない。物理化学的秩序、生命秩序は方向づけることはできても、強制によって実現できる秩序ではない。人々に強制労働させることはできても、協調労働を強制することはできない。公権力は人々の思惑、利害を誘導して方向づけようとすることはできる。財政支出、金融政策等によって人々を誘導する。公権力といえども社会代謝秩序に反するなら失敗する。[3021]
公権力は社会の様々な力、様々な権力関係を承認し、公認する制度としてある。様々な既存の権力関係秩序を維持し、新しい関係秩序との調整を図る。公権力は権力関係を最終的に調整、公認する。[3022]

【権力闘争】

これまでの権力闘争は権力者間の闘争であった。新たな階級支配のための闘争であった。現代日本の金権選挙も権力者間の国家権力をめぐる闘いとしてある。しかし同時に、現在は権力支配を終わらせる時代でもある。互いの尊重と合意に基づく社会運営を実現する政治と、その基礎になる経済的平等を実現する主権在民を目指す時代である。[3023]
現代の国家権力をめぐる闘争は国内に限定されない。国内の日常的社会権力の民主化と国家権力間の国際的連帯としてある。旧来の地域同盟のような国家権力間の取引ではない。人々が国家を節として国内と国際で連帯する。夢のような話であっても、実現しなくては人類は生き残れない。[3024]

職場での人間関係は権力関係の基礎をなす。職制は経済過程の統制と権力支配制度の二面をもつ。社会代謝に不可欠な経済過程の統制と、経済過程での搾取・収奪制度を保守する権力支配制度として職制はある。職制として組織される職務自体が権力関係によって管理される。[3025]
今日の職制では統制管理だけが権力支配ではない。人の能力を最大限に発揮するのは自発的活動であり、自発性を引き出す労務管理が工夫されている。自発性を統制支配することまで研究開発され、実施されている。また労務管理対象にはならない個人的生活の問題対応も厚生制度として、あるいは宗教組織等を取り込むことで統制しようとする。[3026]
家庭内でも男中心の社会関係を当然とするか、対等の夫婦関係を築くかが争われる。家庭内にも男中心社会の競争収奪関係を持ち込むのか否か。女も男に勝って権力を手にすると、権力に執着してきて負けた男はとまどう。男の中で勝っても世間では「遅れてきた女戦士」と呼ばれてしまう。男女の関係を含め、親はしかること、ほめること、子供との日常的な接触の中で人間の人間に対する姿勢を示し、社会代謝を担う姿勢を示す。[3027]
余暇に娯楽番組を見たり、酔いつぶれても、休養・気分転換は個人の勝手である。しかし個人のし好を誘導し、社会的創造的活動の機会、気力を奪うのは権力支配の手段である。人々の創造性を麻痺させてしまえば欲求が生まれず、不満にもならない。消費欲求だけは肥大化させて追いかけさせ、働かせて、買わせる。[3028]
日常的対立は戦争ゲームのように敵味方がはっきりと分けられてはいない。敵対関係も多様に現れ、敵味方相互に作用し合っている。本質的敵対関係は相互依存的である。元来敵の存在なくして敵対関係は存在しない。敵対的関係にありながらなれ合うことは強者を認めてしまうことになる。[3029]
圧倒的に強大な敵に対しても、自ら存在しつづけることで対立が成立つ。どれだけ巨大な敵でも絶対的ではないから味方の存在を許している。逆に自らの生活自体が潔くなくては、多様な社会関係を通して攻撃される。権力者は人の弱みにつけ込むことにたけている。[3030]

権力をめぐる政治闘争は当分不用にならない。今日の民主主義の到達点に満足する人が圧倒的多数であっても政治闘争は終わらない。民主主義は簡単にできあがらない。形式民主主義の問題ではなく、民主主義実質化の問題である。主権在民は憲法に書かれていればよいのではない。主権者に不満、あきらめがあるうちは民主主義は実質的に実現していない。主権者に選挙権がありながら、多くが行使されないなら形式的にも民主主義は実現していない。[3031]
日常的に道理を通す、道理は何かを明らかにし、合意を形成する闘いであり、社会正義を確立する闘いである。社会代謝は国際化し、地球環境の保全も国際的連帯がなくして実現しない。日常と国際を結びつけ、政治運動の核をなすのが国家権力をめぐる闘いである。国家権力を一部の者に握らせておくのか、主権者皆での統治を実現するかの闘いである。[3032]
権力支配からの開放を求め、平等を目指した社会主義革命は官僚支配によって腐敗してしまった。計画経済は官僚に支配されて機能不全に陥ってしまった。民主主義を徹底することのできない社会主義は旧来の権力支配に戻ってしまった。[3033]

権力闘争は権力を誰が担うかで争われ、権力をどう行使するかで争われる。権力の行使をめぐって制度・組織作りで争われ、基準作り、解釈で争われる。争いの秩序をめぐって権力のあり方が争われる。[3034]
国家権力闘争の日本での最大の集約点は選挙である。政治闘争の成果が数字で明確に評価される。日常の政府批判や世話焼き活動は個々の政治的契機であり、積み重ねが国家権力をめぐる闘争にまでなる。不正に対する闘い、越権に対する闘い、無作為、無関心に対する闘い、非協力に対する日常的闘いの成果が選挙で問われる。これが主体性を鍛え、自治能力を証明することになり、最終的には統治能力の証明になる。職場で、その他社会の様々な要求に基づく組織での組織戦である。様々な組織の普遍的要求での共同の闘いが全国に連なって国家権力を取り巻く。各組織が共同して統一を築く組織運動としての闘いである。[3035]

【国家権力】

国家はそれぞれに法体系を備え、他国から独立した立法、行政、司法、軍備を備える。国際連合も国家の連合であり、国際連合の名で平和維持軍が派遣されても各国家の軍隊によって担われる。ヨーロッパ連合も国家の連合であり、目指すのは統一国家である。国家が国際関係での主体であり、国内を権力によって統治する。今日、南極を除く地上のほとんどの地域が国家によって分割、統治されている。国家間の力関係はには強弱の違いはあっても、時に侵略があっても、未承認国家、内乱状態の国もあるが、あらゆる地域を国家が支配している。[3036]
国家は内外で公認される公権力である。国際的相互承認であり、国際連合への加盟が名実ともなった国際承認になる。国内的に意思決定手続きがなされ、国内外に対すして意思が表明される。意思決定手続きが民主的であるか、独裁的であるかにかかわらず、建前上他国は内政干渉しないことになっている。[3037]

独裁国家であっても一人が全権を行使することはできない。どれほど多能な人でも個人が担える範囲は限られており、権限は独裁国家といえども質的に、量的に分担される。民主主義を掲げる国では権限を分割し、相互牽制によって独裁を防ごうとする。[3038]
国家権力は権力機構の組織運営によって実際に行使される。権力組織の長であっても国家権力を意のままにはできない。一人の権力者が国家権力の意思決定をするにしても、関係する様々な社会権力からの働きかけがあり、意思決定も権力機構を通して実行される。国家権力は立法府でも、行政府、最高裁判所にあるのではなく、それらの権力機構は権限を行使するだけである。国家が社会代謝秩序の維持を図りながら、権力者達の取引を調停する。国家権力は社会的権力の合力として国家の統制管理を図る。[3039]
国家権力をめぐる様々な社会的権力が相互に反発しながら作用し合う中で相対的に主導力を発揮する者が権力者と呼ばれる。抜きん出た主導力を発揮する者も、たまたま権限を与えられる者もいる。誰が担うかにかかわらず国家権力は社会的権力の連関を調停して統治する。[3040]

あらゆる公的社会関係に国家権力は作用する。福祉のようなサービス分野でも権力と無縁ではない。社会福祉等内容がなんであれ権力の行使である。給付は給付しないことでもある。給付資格審査では権力的調査を伴い、給付基準適用判断での資格与奪は被給付者の生活に決定的に影響する。給付だけなら権力行使とは関わりのないサービスのように見えても、公金の支出は権力行使そのものである。[3041]
身近な権力行使の歪みは許容するしかない場合もあるが、国家権力は巨大でありすべての個人の生命、財産を左右する。生命、一生を左右する権力行使の歪みや不公正は、主権者それぞれの生き方を歪める不正である。さらに競争社会では経済利権をめぐる不公正な権力行使が日常的に行われている。身の回りの日常的権力行使の不公正は我慢せざるをえなくても、巨大な経済利権をめぐる権力行使を同じく我慢しなくてはならないことにはならない。[3042]

【権力の国際化】

多国籍企業にとって国家権力は利用手段の一つでしかない。国際的企業は国家が規制をするなら規制のない国へ移籍してしまう。国際的規模の企業であれば、国外へ逃避されては国家経済への影響が大きい。国家権力も多国籍企業に便宜供与はあっても特別に不利になるような規制はできない。[3043]
多国籍企業の国籍を問題にしても意味はない。名目上の本社は「愛国心」の問題ではなく、活動に最も有利な条件の国におく。国家の規制を超えて企業利益に従って配置される。[3044]
多国籍企業は国際的規模で経済取引を支配しようとする。多国籍企業は経済利権に対して他に抜きん出た直接的力を持っている。経済的力によって社会的、政治的な力を権力としても行使する。私的企業としての力だけでなく、社会の公的制度も利用してその支配力を行使する。税制度改正、財政支出配分、政策の方向付けに公式、非公式に関与する。[3045]
多国籍企業の支配が国家権力を超えても、国家が成り立つのは経済的支配とは別に政治的支配が有効だからである。国際関係の秩序維持には、国家権力による地域分割支配が有効である。[3046]
多国籍企業といえども万能ではなく、互いの競争での勝ち負けはある。収奪競争では互いの思惑が相乗的に膨らみバブル化して弾けることになる。実際の生産消費の需要と供給は釣り合っていても思惑で乱高下することを制御できない。世界から収奪した債権が脹らみ、やがて回収できなくなる過程を制御できない。他人を出し抜く取引で巨大な富を稼ごうと競走している者を規制できない。[3047]

国家権力はそれぞれの地域での統治、強制力として機能するが孤立はできない。国際交流を統制する国はあっても、それぞれの地域支配を互いに集団・相互安全保障、貿易・経済協力等として補完しあう。同時に利権をめぐってブロックと呼ばれる国家集団を作り、互いに競争している。[3048]
国家権力間の関係は対等ではない。経済力、軍事力、政治力の違いによって支配・被支配、あるいは従属の関係になる。支配・被支配、従属の程度、形態はそれぞれの力関係によって異なる。国家権力間の関係は地域支配に関しては相互補完的であるが、権力の国際的行使に関しては敵対的でもありえる。秘密結社が実際に存在するかにかかわらず、権力どうしは互いに敵対しつつも取引によって世界を支配する。国家間の関係は権力の一面でしかない。[3049]
かつてのアメリカ合衆国とソ連との関係は第三次世界大戦の危険をはらんだ対立であったが、それぞれの地域での支配に関しては相互補完的ですらあった。ベトナムで、アフガニスタンで互いに非難し、被侵略者への援助はしても、互いの支配構造には手出しをしなかった。[3050]
日本はアメリカ合衆国と経済・貿易摩擦で対立はしても、アメリカ合衆国の世界支配に従属している。日本は独自の外交政策をとれない。日本は政治経済的にも、軍事的にもアメリカ合衆国の世界支配を補完している。[3051]

【帝国主義権力】

帝国主義は多国籍企業化の時代になって、国家権力を全面に出した侵略政策をとらない。今日帝国主義的直接侵略は必要ないだけでなく有害である。他国を直接支配すると政治的、経済的、民族的、宗教的、文化的反発を招く。直接支配では逆に支配に対する抵抗が、明確な反帝国主義運動にまとまってしまう。民族的、民主的な形式をとっての間接的支配の方が直接的支配よりも有効である。[3052]
軍事的支配と政治的支配とは全く別物である。軍事力によって他国を政治的に支配することは一時的にしかできない。人類史上何度も繰り返されたことだが軍事的強制力だけで永続した国はない。社会は代謝秩序であり、代謝秩序は軍事ではなく経済である。経済と文化は軍事ではなく政治によって支配される。[3053]
多国籍化した企業活動は国家権力と分業関係を取り結ぶ。軍事的危機に対しては「国益」を前面にたて、国家の負担によって軍事行動で対応する。公的資金、制度は多国籍企業の利益に沿って運用され、時に直接的に横領される。逆に政府が手出しできない暗殺などをを含む内政干渉を、多国籍企業が引き受ける。[3054]

社会主義運動にあっても国家権力の問題は「帝国主義」概念を拡張した。ソビエト・ロシアでは社会主義権力が帝国主義化した。理念である社会主義の不公平是正の追求が、現実的権益要求によって大国主義、拡張主義へ変質してしまった。[3055]
社会主義革命の目標としての国家権力の奪取は運動の一つの結節点をなすに過ぎない。国家権力を奪取したからといって、万能の社会的力を手にいれたことにはならない。個々の、そして総体の経済活動、社会活動を命令や統制によって支配することはできない。それぞれの運動が関係し合って社会関係が作り上げられるのであって、支配によって社会関係ができあがるのではない。国家権力支配によっても社会の運営はできない。[3056]
発展途上の中国では資本主義国と同じ矛盾を経験している。貧富の格差が拡大し、環境対策が遅れる。権力が利権に結びつかず、理性に従うことができるなら、資本主義国の経験と技術に学び、超えて新しい社会秩序を実現する可能性が出てくる。[3057]
日本での中国報道は地理的に近く利害関係が密接で、歴史的思惑もあって客観性が歪められやすい。個人レベルでも反中国は受け入れられやすい状況にある。[3058]
社会主義国家権力にとっても民主主義が最重要な課題としてある。代議制民主主義は民主主義の要件ではなく、一つの到達点であり、一つの選択肢でしかない。理念としての民主主義にとどまらず、様々な人々によって担われる民主主義でなければ衆愚化する。働く者が主権を行使する民主主義をどのような形、国家権力としてで実現していくかは未達の課題である。[3059]
社会制度として権限と組織は歴史的に形成されてきた。現在の権限と組織は歴史的到達点としてあるのであって、完成されたものとしてあるのではない。社会制度は現実に適応し、理想を実現するために発展させる対象である。[3060]
人それぞれの意思に反するからと知って、当面国家権力を廃止することはできない。理想の実現過程で、国家権力の廃止は将来課題として出てくることはあっても。性善説や科学・技術による社会制御などに幻想を抱くと性悪説の体現者達によって食い物にされる。[3061]


第4節 社会制度の運用

社会を実現し、動かしているのは権力者だけでなく、すべての人々である。脳死状態になった人も家族や医療関係者との関わりのうちにある。一方、社会制度がより大きく、複雑になることで社会に対する人々の影響力には差ができる。社会制度を担う者は大きな社会的権限を行使する。[4001]
社会代謝系は社会代謝を担う多数の、すべての人々のそれぞれの意思にかかわらず、その秩序を実現している。社会代謝系秩序は「見えざる神の手」とも、「市場原理」とも呼ばれてきた。社会代謝秩序はすべての人々の相互連関として実現するのであって、それぞれの人々の思惑にかかわらず社会全体秩序として実現する。社会代謝秩序を無視した取引は社会代謝秩序を歪ませるが、その歪みは取引を破綻させ、社会代謝秩序は復元する。ただ社会代謝秩序の復元にも限度はあり戦争等によって簡単に破られる。[4002]
人々が社会秩序として制定する社会制度はその仕組み作りで目的が達せられるのではない。制度は秩序を人々が合意できるように表現し、物事の関連を規定する。制度は規定に従って運用されることで秩序を維持し、時に運用を誤ることで秩序を破壊する。[4003]

【社会制度と人事制度】

人々は生活の糧を社会秩序から得る。自由を尊ぶ芸術家であっても、店頭の食べ物に勝手に手を出すことは許されない。芸術家も作品を何らかの形で生活の糧と交換する。人々の生活を支える社会秩序を人々の取り決めとしたのが社会制度である。社会制度は公的制度だけのことではなく、私人間の社会関係形式としてもある。[4004]
社会制度は人が作る人工秩序である。社会制度は人々がたがいの関係秩序を維持、実現するために社会的に公認する基準として定める。社会的基準として公正性、公平性、公開性が求められる。基準は公共性の程度によってきつくもゆるくもなる。社会制度には必然的根拠のある規準、歴史的規準、偶然でも必要な基準があっる。社会制度には法定される基準、組織団体で決められる基準、常識とされる基準がある。常識も強制力、明示性はないが従うことで人々の関係を円滑にする制度と見なせる。法律も実際の詳細な適用は常識によって完結する。[4005]
社会制度は人工であっても秩序であるから制度内の規定関係の整合性と、関連する他の制度との整合性、さらに関連全体の整合性が求められる。整合性は必要であるが実現するのは難しい。さらに現実との整合性を実現し続けることはより難しい。現実には利害までも関係して整合性を歪める。基本的、抽象的な規定関係であれば論理だけで整合性は可能であるが、論理自体が整合性を保障はしていない。より具体的規定関係で整合性を維持することは難しいが、難しくても実現しなくては社会秩序が乱れる。[4006]
社会制度は実際に現われる問題点を改定することでより詳細な規定になる。社会制度は完成の度を高めるほど詳細に固まる。それぞれの機能を誰が担っても役割を果たせるように規定することで完璧を目指す。あるいは逆に役割を担える人の能力を資格として規定する。しかし実際の社会制度は完成することはない。社会代謝自体が運動であり、変化発展するし、自然環境も常に変化している。社会制度は環境条件の変化に応じて改訂され続ける。改訂の仕方も制度として組み込む。基本法には改正手続きについても規定する条項が含まれる。[4007]
公的社会制度は全体が国家制度としてあるが、経済制度、政治制度、法制度、教育制度、医療制度、福祉制度といった分野を分けて制定される。分野ごとの制度もより専門的分野に分けて階層化される。また社会制度は地域を分けて都道府県、市区町村、町会のように階層化される。社会制度は区分階層化されることで個別具体的役割を担う。[4008]

社会制度は社会秩序を規定するだけではなく、制度を担う人々を養う。社会制度に限らず社会的組織は人事制度によって構成員の生活を保障する。人事制度は人々の担う役割、責任に応じた報酬を払う。報酬は金額として決められるだけではない。それぞれの制度役割がもたらした余剰利益をすべて報酬とすることも、率で報酬額を決める場合もある。制度を担う者の報酬は制度によって定められる役割、役職ごとに決まる。[4009]
報酬は役職に応じて支払われるが、人は報酬に応じて働くとは限らない。また人は経験により、訓練によってその能力を高める。また病気や老化で衰える能力もある。能力に応じて人を配置する事で社会制度もよりよく機能するし、人の世代交代にも応じることができる。役職に応じて人が働くように、様々な人事制度が工夫される。人は明確に規定された機能を担うことで安心して仕事ができる。人は規定された機能をよりよく実現し、さらに機能規定を改善することで仕事を自己実現にすることができる。理想的働き方として。[4010]
また人の生涯にわたって必要な生活資金は年代、状況によって変化する。社会的役割を担うことで、生涯の生活が可能な報酬が得られなくては社会秩序は維持できなくなる。そもそも社会秩序はすべての人の生活を保障するためにある。社会制度も社会制度を担う人々の生活も保障するものでなくては制度自体維持できなくなる。[4011]

人事制度の完成は個人を選ばなくなる。役職を担う能力は一般的に人間性とは関係がない。人間性は主観的評価が大きく影響し、役職を担う能力評価に向かない。能力は実際の職務で評価する事はできても、選抜では限られた試験等で評価するしかない。役職を担う能力を資格として規定し、あるいは試験で評価する。人事制度は人を資格基準によって選ぶようになる。[4012]
人事採用の難しさは能力を測ることだけではない。今の能力、将来伸びるであろう能力を測ることは、すべての人間関係で難しい人の評価である。人事採用では能力を測るだけでなく担う役割に応じ、処遇に応じることが大切になる。能力が有り余っては役割をはみ出し、処遇に腐る。[4013]

人事制度が安定すると報酬を得るために資格を取得する人々が増える。資格認定が試験によるのであれば、試験合格を目指す人々が増える。資格取得、試験合格を目指すほど、役職を担う能力の訓練は余分な負担になる。自らの能力を伸ばすのではなく、資格取得、試験合格を目指す人が圧倒的に増える。それぞれのもてる多様な能力ではなく、制度が規定する資格、試験を目指して学ぶことに偏る。「資格、試験を目指すことが能力訓練の動機になり、ひいては訓練になる」との弁明は、すでに本末が転倒していることを認めている。やがて役職を獲得することに長け、役割を果たさず、報酬を手にする寄生者が増える。[4014]
かつての閉塞した社会は制度が硬直していた。今日の柔軟な社会制度はより詳細に制度を規定することでやはり閉塞化する。制度が用意する選択肢しか人々は選べなくなっている。[4015]

【官僚】

公的社会制度を担う官僚はその職務権限が制度として規定されている。一般の組織人との違いは公権力を担うことである。官僚は公権力を行使し、職務権限を担って社会制度を運用する。[4016]
官僚制度は単なる形式主義機構ではなく、組織内に公権力の意思を貫かせる制度である。権力行使の結果についての責任を追及されることなく、権限行使だけが要求される。決定、運営、運用を形式化することによって、個々の担当者の判断を排除し、公権力の意思を実現する。階層化した組織制度で意思決定し、決定した意思を組織に浸透させ、執行を統制する。[4017]
権力機構は機関としてそれぞれの権限と責任が規定される。明確な規定によって公正性、公平性、公開性が図られる。権力機構を担う官僚は規定された権限を行使し、責任を担う。権限を行使する者にとって相手は命令を下される者であり、支配を受け入れるべき者に見える。全体の奉仕者が全体を反省できなくなり、自らに与えられた権限を果たすことだけを優先する。[4018]
公権力の行使者は主権者の意思を実現する者で主権者自身が交代であたるのが理想とされた。しかし主権者が多く、職務権限が専門化しては不可能である。公共性を考慮すれば、社会的に最適の人材に任せることになる。しかし官僚も職業の一つ、しかも安定し権力的魅力もある職業として一般の人的構成と違いはない。[4019]
ただ官僚は一般の人と違い社会代謝に直接関わろうとしない。官僚は財の生産、流通、消費を直接担うことへの関心より、権力を振るうことへの関心が強い人たちである。したがって社会代謝を担う人々の良くも悪くもの責任感や倫理観に疎い。官僚たちは自らの仕事が及ぼす現実の社会代謝への影響についての想像力に乏しい。手続きさえ踏んでいれば手がけた事業の失敗が明らかになっても修正したり、中止したりしようとしない。[4020]
官僚機構は権力機構であると共に、官僚の人事組織でもある。官僚も人であり、その能力は一定ではない。官僚個人の経験、知識の蓄積に応じて地位が上がり権限は拡大する。官僚の採用、昇進、異動、退職といった人の組織としての運用が、権力機構の運用とは別にある。[4021]
統制のために宣誓、身分保障、昇給、昇格、異動、分限、懲戒等の制度がある。制度はあっても公正、公平に運用される保証はない。官僚間の競争は権限を拡大し、高い地位を求めるのであって、競争に負けても高い地位に就くことはできないが、失うことはない。競争での人事評価は特別の基準がなければできない。失敗があっても職務に向いていなかったのか、本人の怠慢によるのかを判定できない。評価者の主観では公平、公正な評価はできない。特別な基準では一面的で偏った評価しかできない。結局悪い評価はできないまま公開性がなければ官僚制度はその人事特権によって腐敗する。[4022]
官僚は支配階級の出身者だけではない。公権力を維持し、強化するには官僚にそれなりの能力をもつ者を登用する。広く人材を求め、有能な人材が不満を持たぬよう支配階級へ取り込むことが階級支配を強化する。反権力的であった者も反権力を直接的に経験した者として、権力に利用できればかえって役立つ。反権力的であった者も、権限を行使する経歴の中で支配階級へ容易に取り込まれる。[4023]


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