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第三部 第一編 現代世界

第1章 世界の歴史的到達点


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第1章 世界の歴史的到達点

今日の歴史的位置、到達点を観る。人類史として、社会史として、階級関係はどこまでたどり着いたのか。[0001]

商品経済の発達と資本の蓄積は、とどまるところを知らないようである。フィリピンでは人の臓器取引を公認するかが問われている。人間の取引は奴隷制の太古から行われてきた。人間を暴力なり富なりで支配できる者が恨みや迷信から人間の臓器を手に入れることはこれまでもありえた。ナチスドイツや大日本帝国もアメリカ合衆国も含めて、人間を物として取り扱った。しかし売買を目的にする臓器商品化はこの時代になってからである。[0002]
また企業が商品化し、資本自体が商品化している。生活保障のための年金資金も金融市場で運用される。資本家だけが資本を所有するのではなく、労働者にも株を購入する者がいる。企業経営は資本家だけでなく雇われた専門家によって担われる。労働者と資本家との対立は工場内の単純な構図ではなくなっている。[0003]
他方でソ連邦、東欧社会主義諸国が崩壊した事態は資本主義の全般的危機、資本主義から社会主義への移行期、社会主義の生成期といった時代くくりでは説明できない。勝ち誇る資本主義の非人間性だけではなく、やはり歴史的制度、運動、理論が問題になる。21世紀の変化の中にあって、まさに帝国主義の最高の発展段階を問題にする。[0004]

【世界の歴史】

人類世界の物事を把握するなら世界観などより新聞なり、各種の年鑑等を参照する方が手早く、正確である。世界観などと悠長に思いめぐらすのでは間に合わない。しかし新聞、年鑑などでは個々の事象を把握できても、社会の歴史や構造を把握することは難しい。社会の歴史と構造の理解は人それぞれの学習と経験のすべてを通して得られるもので、個々の知識として得られるものではない。[0005]
歴史観をめぐっても様々な解釈がある。人間が歴史を創ってきたと英雄列伝を好む人もいれば、国の興亡をたどったり、書かれた「歴史」をそのまま受け取る人もいる。世界観はこれからの世界を展望するのであり、これからも社会は代謝秩序の発展としてあり、過去は社会秩序創造史として理解する。「社会代謝」はほぼ経済学で言うところの実体経済である。宇宙史、地球史、地球生命進化史ではなく、人間の文化史や精神史だけでなく、社会秩序の歴史がここでの主題である。人の歴史解釈がどうであれ、社会は代謝秩序として発展してきた。唯物史観が主観的解釈によって歴史的誤りを犯したにしろ、史的唯物論で客観的に歴史を見通すのが世界観である。[0006]
第二部第8章「社会発展と歴史」にひきつづき、ここ第三部の実践編では未来に向けて世界の到達点を確認する。[0007]
といっても日本の都市生活者の狭い視野からという制約がある。[0008]


第1節 世界の到達点

【現在の世界】

今日の社会代謝秩序は世界規模に達する資本主義商品市場経済を中心にしてある。社会主義市場も発展しつつあるが資本主義を後追いする段階であり、世界市場を主導することはできていない。「グローバル化」と喧伝されるのは資本主義市場化である。資本主義市場化しなければ経済発展はありえず、競争に勝ち残ることができないとされる。しかし競争はスタート地点があって成り立つのであり、力の差を前提とした「競争」は強者による弱者の収奪でしかない。そこに公正な競争など成り立たない。まして資本主義市場化が人権と民主主義を守るとの宣伝には何の根拠もない。資本主義市場化は多様な商品を消費することが生活向上であるとし、生活のほとんどすべてを商品市場に依存させる。東欧社会主義が崩壊し証明されたのは資本主義の正しさではなく、どん欲さである。東欧社会主義の崩壊後も世界平和は実現せず、飢餓、貧困は減ってはいない。[1001]
世界市場を支配しているのはアメリカ、ヨーロッパ、日本の多国籍企業である。しかし市場支配は相対的に言えることであって、誰も市場を制御できているわけではない。市場予測も人によって対立するから取引によって損益が出る。様々な資金運用が経済に大きな影響を与えるが経済そのものは物質代謝である生産・流通・消費が本質である。商品の生産力が世界市場を支配する。[1002]
多国籍企業は多数の国に属しているのではない。多国籍企業は国境を越えて利潤獲得を効率的に展開している。国内市場の独占にこだわらず、国際市場の覇権支配をめざしている。多国籍企業の活動は世界各地に広がり、それぞれに集中した生産、資金運用、原材料資源と消費市場の支配、軍事力に補完された政治支配、消費文化化を押し進めている。[1003]
商取引での利潤追求は純化し、個々の利潤差をめぐって投機化している。先物取引、予約権取引などはいずれ決済されるが、債券化した信用取引には決済の裏付けがなく思惑だけで売買される。信用商品取引での益は他方での損からもたらされる。どう理屈づけしようが、複雑化しようが、取引だけで価値を創造することはできない。原理は賭け事か、ネズミ講か、詐欺であり、単純な原理を複雑化し、巨大化し、装いを変えて何度でも人々を騙す。その度に歪んでほころびる。[1004]

商品市場化は収奪競争化である。競争は平等によって成り立つが、それぞれの社会はそれぞれの歴史を引き継いでいて公正な競争などありえない。歴史は一つの基準による競争で決まるのではない。資本市場化競争ですべてが決まったのでは環境、資源問題で、或いは核によって人類は破滅する。[1005]
資本市場化競争によらない社会秩序づくりは、資本主義国自体のなかだけでなく世界中にある。社会秩序の発展性は不明でも最も明確に資本市場化に反対しているのはイスラム原理主義である。市場化を進めてはいるが中国は社会主義を掲げている。中南米では独自の国際経済市場づくりをすすめ、なかには社会主義を掲げる国もある。既得権にすがる者達の度重なる非道にめげずに繰り返し前進をしている。北欧では福祉国家を目指すという。西欧での「スロー・フード」が流行に終わるのか、人々の生活スタイルとして主流になるかは分からない。アメリカ合衆国内でもようやく環境問題の深刻さが認められるようになってきている。アメリカに従属し、独自の将来展望を描けない日本の視点から世界を理解することは難しい。[1006]

資本主義の最高の発展段階としての帝国主義は、歴史的に最新の帝国主義、今存在する現代帝国主義である。他国を政治的、経済的、そして文化的に支配し、収奪するのが現代帝国主義である。現代帝国主義は軍事的手段を用いる場合でも侵略とは言わず、世界の警察官であると自称する。「社会主義」を掲げる帝国主義もあった。[1007]
今日の権力支配は一国の枠内にとどまらず国際的であり、全世界的である。しかも一つの権力によって独占されているのでもなく、互いに争いながら収奪体制だけは補完し合っている。政治、経済、軍事、文化にわたる支配の様相は単純に重ね合わせることはできない。[1008]

【世界政治】

現代世界の主要な権力体制は、政治的に各国家に分割されている。政治権力として立法権、行財政権、司法権、軍事力を各国家が持っている。[1009]
国際連合は国家関係の公式化の機関であって、各国家権力を超える権力でも、特定の国家権力に従属するものでもない。それぞれの国家間の力関係を反映し、それぞれの国家権力の相互関係としての世界支配を公式化する。国際連合には総会の他に多数の専門機関、補助機関がある。国際連合以外にも多国間の連合、利害調整のための様々な国際組織が国家権力支配を補完している。[1010]

国家間の関係ではアメリカ合衆国が軍事、経済ともに圧倒的力を持っている。現代世界を理解するのに合衆国の理解は欠かせない。合衆国の評価が現代世界評価の要になる。合衆国を「自由と民主主義の担い手、経済的繁栄の象徴」として評価するか、「悪の帝国」として理解するかで現代世界の理解は全く異なる。合衆国は国際関係での歴史が浅く、多民族国家であり、一代で世界最大の財産を築ける一方で大変な格差社会である。合衆国のこれまでの強みは世界通貨の発行と最先端技術、農業であるが、その依存によって限界づけられる。国際収支は悪化し、工業生産物は輸入に依存する。人の評価にかかわりなく、合衆国が表と裏で行っていることで現実世界が引き回されている。[1011]
合衆国についで力があるのがヨーロッパ諸国で構成するヨーロッパ連合である。ヨーロッパはアメリカ大陸を含め人類史上初めて全地球的に侵略し、そして反省した歴史を経てきている。再生過程にあるロシア連邦は合衆国とヨーロッパとに対抗する力をつけようとしている。日本は経済的には世界に通用する力を持っているが、政治的には合衆国に追随するだけで自立していない。[1012]
面積でも、人口でも先進大国に匹敵する中国は社会主義を称しながら、急速に経済発展している。中国について面積、人口の大きなインド、面積、人口は小さいがアジアの経済発展の中心となる大韓民国、台湾、シンガポールのアジア新興工業経済地域があり、続いて東南アジア諸国連合、中東諸国は石油産出による世界経済への影響力が大きい。最近中南米諸国が合衆国の支配から意識的に自立しつつある。[1013]
人類誕生の地であるアフリカはヨーロッパによる徹底的な収奪、アメリカへの奴隷拉致によって壊滅状態に落とされ未だに部族対立が続く。それでも恵まれた資源により改善の兆しがある。オセアニアでは歴史と伝統が植民によって壊滅されたに等しい。[1014]
歴史的、地理的、経済的、文化的、そして政治的に現代世界はある。好き嫌いによるのではなく、地球全体を見渡す視点から世界を見渡す。[1015]

【次の時代】

資本は自らを商品として、商品市場の拡大によって活動を地域的に制限しない。あらゆる交換関係を商品取引化し利益の極大化をめざして世界に広がる。利益を実現する政治的、経済的、文化的可能性を追求する。権益を持つ者は強く、強い者が勝ち、勝つ者はより大きな力を持つようになる。人々が競争することで富はより集中する。集中する富を手にする者が代わるにしても、富が集中する機序は代わらない。しかし富の集中は社会代謝秩序との矛盾をますます深める。[1016]
資本の利潤追求は社会的物質代謝秩序に従わない。物流がいかに発達しても、食料を必要とする人々に、被災者あるいは災害の危険にさらされている人々に不可欠な物資すら届かない。むしろ軍需産業に投資し、戦争で兵器を大量更新するほうが利益をもたらす。軍需資本が意図的に戦争を仕掛けていることを証明できないが、戦乱があちこちで引き起こり、新しい方法での戦闘を可能にする兵器開発が進められている。資本も環境対策が利潤をもたらすとなると、市場化して投資する。温暖化対策ですら商売にしてしまう。人々に不可欠な食料、穀物までも燃料資源に変えてしまう。既得権益によって優雅に暮らす者達は人間の最大の幸福を体現しているように見えるが、既得権益を守るために人類の未来まで売り渡す。[1017]
今日人類存続の危機として環境問題が提起されている。どのように環境対応技術が発展しようが、エントロピーの増大則を変えることはできない。人々の生活が変わること、人々の価値観が変わり、生活が変わらなくては環境問題は本質的に解決しない。このことは拡大再生産そして消費の拡大を目指す資本の論理と相容れない。[1018]

人類の歴史は多様な文化を創り出してきた。多様な文化はそれぞれの地域での社会的代謝の実現によっている。豊かな伝統文化は人類の財産である。しかし伝統文化だけでは健康で安全な生活を実現できない。健康で安全な生活を実現する生産力と流通、消費の物質代謝秩序の発展が不可欠である。伝統と革新の調和は利潤追求では実現できない。[1019]
多様な文化の中には女性器割礼が象徴するように女性、障害者など弱者の人権を踏みにじり、普遍的な人間文化に反する風習もある。そうした風習を一方に放置しながら、消費拡大が生活向上であるとばかりに市場化を強要する。消費市場のグローバル化は人々の生活、文化を向上させない。[1020]
現代帝国主義が人類の歴史の最終到達点ではない。生産力、環境保護、人口爆発、民族紛争、エネルギー危機、核兵器管理、文化的退廃等で明らかなように、物質代謝秩序を主導する権力構造を根本的に変革しなくては人類は存続はできない。今日を「帝国主義」と呼ぶまいが、解決の方向を「社会主義」「共産主義」と呼ぶまいが、「工業化以後の社会」「高度情報化社会」と呼ぼうが、新しい歴史的段階へ進まなくては人類は生き残れない。[1021]


第2節 経済の到達点


第1項 労働の到達点

【労働の多様化】

資本主義の工場制機械生産は熟練労働を特殊なものにする。機械による大量生産は基本的に熟練も、筋力も必要としなくなった。労働は部分に分割され、均質の作業が求められる。労働だけでなく作り出される製品群も最終製品としてでなく、多くは中間段階の部品として生産され、取引される。多くの労働者はどの様に使われるか分からぬまま労働する。[2001]
生産技術の発展は労働の分化としてもある。生産技術そのものと、生産管理技術に対応して労働は多様化している。生産・加工の多様化に対応した水平方向の労働分化がある。生産管理労働、開発労働の高度化に対応した垂直方向の労働分化がある。[2002]
生産的労働を自然物を社会的物質代謝への取り込みとして定義するだけでは、現代の労働を捉えきれない。生産的労働は使用価値をもたらす労働だけではなく、社会代謝を担う労働のことである。社会代謝規模が拡大し、複雑化することで代謝過程を制御する労働の割合ががより大きくなる。生産過程、流通過程、そして経済過程には含まれなかった消費過程までも労働によって制御しなくては社会代謝秩序を維持できない。[2003]
使用価値を作り出す直接生産労働だけでは生産を制御できず、またその価値を最終的に実現できない。流通過程で生産物が腐り、錆ては再生産は継続できない。代謝過程それぞれでの品質管理によって社会的代謝過程は成り立つ。品質管理は品質基準作り、基準の保証、基準の普及、品質検査等、それらの経験蓄積と体系化としてある。研究、技術開発によって陳腐化する生産設備が更新され、改良される。発達する生産技術、管理技術に対応する労働者教育が必要になる。社会的代謝の自然環境への負荷を減らして維持するには、環境と社会活動全般にわたる科学・技術の発達・普及、監視と対策が不可欠である。生産と流通だけを制御しても社会代謝秩序を維持できない。[2004]
労働が多様化しても、すべての「労働」が社会的に必要ではない。経済に関わる「労働」であっても、契約獲得の為の接待、余剰物の購入をあおるための宣伝、市場操作等はなくてもすむ労働である。[2005]

【労働能力の開発】

工業生産での労働の果たす役割は、第一次産業での労働より決定的である。労働の重要性という意味ではなく、労働対象への働きかけが生産物に決定的に作用する。農作業は必要だが作柄は天候に左右される。工作物の品質は労働に依存し、労働によってつくられた道具に依存する。情報処理としての事務労働の扱う「意味」は人間にしか処理できない。産業の発展に伴い社会代謝はますます人間労働によって担われる。一次産業でも自然についての理解が不可欠であるが、産業の発展によって多様な、大量の労働能力が必要になってきた。[2006]
工業労働者には基本的に識字、計算力が求められる。文書によって指示を受け、数字によって制御する。分業・協業では協調が求められ、規律ある時間管理、動作に従う。資本主義社会になって基礎教育が義務とされ、教育が学校制度として整備された。さらに資本主義的生産の発達は大量の管理労働を必要とし、より多くの高学歴労働者を必要とする。[2007]
近代の労働は仕様が設定され、仕上がりまでを見通し、段取りを整える。多くの労働では日常生活の経験とは異なる仕事の過程を経験することになる。仕事では日常生活と異なる経験を理解し、こなすことが基本になる。仕事の初期状態と、完成状態、いわば設定された入力と出力を理解し、実現する。単純な職責を担う仕事からより多くの、より広範囲の職責を担うようになる。[2008]
労働者の労働能力開発は技術、知識の付与だけではない。個々の労働者の労働能力開発が、基礎教育とは別に必要になる。個々の労働技能=スキルの蓄積であり、対応能力=キャパシティの拡張である。要求仕様を満たす技能と環境や条件に適応して仕事を達成する能力である。職責に要求される他の仕事との精度の整合、連動を同期させて調整する。仕事が複雑化すると内容を理解できない規模=ブラック・ボックス化にまでなるが、初期状態と完成状態での関連する他の仕事との連関、仕事全体での担当の位置づけを理解することで職責を自己評価できる。さらには品質管理能力、仕事の工夫改善能力が求められる。かって「仕事の結果は管理職制の責任である」とする労働者の責任を回避する労働運動もあったが、それでは働く者が主人公の社会をつくろうとする運動にはならない。仕事を本格的に改善するには各段階の連関を解析してシステムとしての完成度を高める仕事もある。職能資格としての区別とは別に、労働技能、対応能力での実力に差がある。労働者それぞれが意識的に労働能力を高めることで労働は発展する。しかし現実にはそれぞれの職責すらまともに果たせないで、地位と賃金の上昇を求める者が結構いる。[2009]
機械化によって汎用技術を駆使する多能工化が求められる他方で、専門技術の熟練がごく一部で求められる。工作機械や特殊な部品づくりでは人にしかできない技術がある。十年以上もの経験によって獲得される属人的労働能力である。継承するには組織的取組が必要であり、組織的評価ができて継承される。それぞれの労働を評価することで、労働者としての誇りが持てる。一般の人事評価制度では評価できない労働者の誇りがある。[2010]
生産技術の発達に応じて、時に産業自体の興亡すらある。人々は一生涯同じ労働することはなくなってきている。転職も増えるが、同一企業内にあっても携わる労働は質的に変化する。経験の蓄積、熟練による立場の変化だけでなく、技術の加速する発達が労働を変化させる。労働へのコンピュータの影響は始まったばかりである。[2011]

【労働者の位置】

生産の機械化がどのように発達しようが労働によって社会代謝は実現する。労働者は社会代謝の直接の担い手である。[2012]
労働者は工場で時間に管理され、作業の質を問題にされ、協調することで組織的に訓練される。共同作業のための文書を媒体としたコミュニケーションの訓練も受ける。労働者は指示伝達、意見交換等の一般的な社会活動の訓練を受ける。[2013]
労働者は資本主義の普遍化に伴って、社会変革の普遍的な担い手の地位につき、主体的力量を蓄える。あらゆる労働が賃金労働者によって、企業経営までもが被雇用者に担われる。ただし、被雇用であることでもって労働者と企業経営者とを同じと見なすことはできない。被管理者と管理者との階級対立関係は厳然としてある。また他方では賃金労働者間にも格差がつけられ分断されている。[2014]
剰余価値の搾取関係が人々の社会的位置関係での本質的対立としてある。社会的価値の配分関係が人々の社会的位置を決めている。人それぞれの主観的評価による位置づけではない。剰余価値の配分機構として社会的地位の序列が定まり、労働者までがそこでのより高い地位を目指す。[2015]

労働者は資本主義社会の基本的対立関係の当事者として、その社会の文化を創造しえる。資本主義文化の一部分でありながら、消費文化としての資本家文化とは別に創造的、変革的文化を創造しえる。消費にではなく、創造に価値を認めることで文化を現実の社会運動として創造しえる。[2016]
すべての労働者が文化的創造性を発揮はしない。文化を享受することすら困難な状況に置かれている労働者の方が多い。しかし社会代謝を担って対象を変革し、社会を実現しているのは労働である。生産的であるからこそ創造できる。知識人とて観想しているだけでは何も生み出せない。先鋭芸術が破壊的、破滅的であっても創造のための破壊である。[2017]

【労働運動】

労働運動の基本的力は資本に対する労働力を担う数の力である。資本は労働者を雇い入れなくては生産ができず、労働者は資本家に対して圧倒的多数である。個々の契約者としては微力でも、社会的人間としての存在が労働者の確かな立場であり、社会的力をもたらす。[2018]
資本主義初期の労働者は労働力以外に売る者を持たない無(財)産者であった。労働者は生活のために労働し、職を得るために生活のすべてを賭けなくてはならなかった。生命の他に失う物を持たない労働者は、他の有産階級より戦闘的である。資本の本源的蓄積過程では生理的限界をも超えた搾取に対しての怠業、機械導入による解雇に対する打ち壊し等の自然発生的運動を始めた。労働運動が社会的秩序を担うことによって、無用な社会的軋轢は除かれ、秩序の暴力的破壊は避けられる。資本主義的生産の普遍化に伴って恒常的な運動体として労働組合が組織されてきた。[2019]
労働運動は労働条件、雇用条件をめぐる闘いから出発した。労働組合は経済要求に基づいて組織される。経済要求を実現し、実効を保障するためには制度化を必要とし、政治要求へと発展する。労働時間規制、最低賃金制、生活保障は政治的にしか解決されない。労働条件の維持向上は個別資本との契約では困難である。労資の個別契約では契約を結ばない他企業との企業間競争に破れてしまう。制度要求は個別の労働組合と資本家の間での契約では解決できない。労働者は企業、産業を超えて団結することによって社会的力を行使し、社会制度要求を実現してきた。[2020]
労働者は経済要求を実現するために自らの社会的立場を政治的にも追求する。経済要求、政治要求を統一的に追求し、将来を見通すためには思想的にも資本家から自立する。労働運動は経済闘争、政治闘争、思想闘争として社会運動として発展する。[2021]
平和、人権、自由、民主、平等、独立どれをとっても労働者がめざし、労働者を支える。そして労働者は社会正義をめざし、社会正義に支えられる。社会代謝を担って生活する、担い生活できる、社会秩序を実現するのが労働者の立場である。取引をごまかし、人を騙し、人の無知につけ込み、利権を取引することは労働者の利益に反する。労働者は社会正義の主たる担い手である。労働運動が弱体化すれば社会的不正がはびこる。労働運動によって社会的不正を追及仕切れはしないが、野放しにしないことはできる。[2022]
資本の活動が世界的に拡大すると共に、労働運動も世界的になり、世界組織にまでに発展した。帝国主義戦争に兵士として徴兵され、家族をも犠牲にされて得るもののない労働者は、戦争に反対することによって自らを守り、生活を守る。世界の労働者は世界平和を実現するために、他国の労働者、民族運動、平和運動、独立運動と連帯した。[2023]
労働運動は闘いであり、資本家との力関係は一方的なものではなく、前進も後退もある。それでも労働運動は組織、制度、手段、経験を蓄積してきている。[2024]

今日社会代謝に関わるあらゆる地位が被雇用者によって担われるようになった。直接的労働、管理労働、経営・企画労働が被雇用者に担われる。被雇用者間が平等になるのではなく社会的格差が広がり、要求も対立するまでになる。地理空間的にも、社会組織的にも労働者が分断される。共同作業を基礎にした旧来の団結では労働運動は限られてしまう。労働運動は社会代謝を担うあらゆる労働者を結集しなくては普遍的な社会的力になりえない。[2025]
共同作業には指導的立場の者が必要であるが、労働者の資本への従属を補完し、実際の指揮を引き受ける末端職制としての労働官僚が大量に配置される。労働官僚は技術も経験も優れた労働者であり、日常的に労働者と関わり、生活上、思想上の影響力が大きい。労働官僚は労働者の仕事を指導すると同時に、職制として労働者を支配する。労働者は労働官僚になることで個人的な労働条件を引き上げることができる。労働官僚は労働者から収奪した報酬を職階に応じて受け取る。労働官僚が増大するほどその待遇は引き下げられる。過労死するのも彼らである。資本の側と労働者の側に挟まれ動揺する。労働官僚の組織人としての能力は労働者の共同のために生かすことができる。労働官僚が資本の側に取り込まれるか、労働運動の側に組織できるかで社会は大きく変わる。[2026]
職制とは別に労働者の代表として労働組合、政党の役員として労働者とかけ離れた生活を手に入れる労働「貴族」が現れる。労働貴族によってご用組合が組織され、労働運動が乗っ取られる。[2027]
多数の労働者に支持され、労働者を指導できる能力は経営者としても必要な能力である。労働運動経験が経営者へ出世する一つの道になる。だからといって労働運動のすべてが売り渡されはしない。[2028]
資本家との対立に眼を奪われ、働かないことが資本家との闘いであるかのような労働運動がある。働かない者は労働者ではない。働けない者を援助することはあっても、働かないのは自らの社会的役割の放棄である。働かない者がストライキをやっても効果はない。働かない者をかばい立てしていては働く者の支持を失う。働く者に依拠し、働く者を組織しなくては労働運動は衰退する。[2029]

今日の先進的労働運動では、社会的主体としての自らを成長させている。各産業分野ごとの研究集会を組織し、交流している。単なる抵抗運動でも、自衛運動でもなく、社会発展を担う主体として運動している。[2030]


第2項 生産の到達点

【財の生産】

人間が生活に必要とする基本的物は紀元前の昔から変わっていない。素材が変わり、機構が変わってきただけで、求める衣食住の機能に変わりはない。ただかっての生産力では今日のような多数の人々の生活を支えられない。社会的生産を支えてきた圧倒的多数の人々は生産のためにだけ生き、自然や支配者の気まぐれに左右されて生きた。それでも生産力の高まりと人口増は相乗的に社会を発展させてきた。[2031]
産業革命以降の資本主義的生産力により、社会が必要とする基本的財を生産できるようになった。今日、世界のすべての人々が必要とする衣食住の生産はすでにできている。問題は必要とする人々のために生産されないこと、配分されないことにある。[2032]
科学技術のさらなる発展は生産物の機能を高度化している。また省エネルギー、省資源、環境負荷のより少ないの生産方法を開発している。今日経済的に求められている技術はもはや大量生産ではない。[2033]
しかし資本主義生産様式が実現した今日の技術は、人々の生活向上を目的としてはいない。利潤追求が動機であり、不要な物まで買わせる市場操作を発達させている。不要なだけでなく「健康志向」などは無菌化によって人自身の免疫力を低下させるなど生活を歪ませるまでになる。大量消費生活ではなく、伝統的生活には今日の社会代謝秩序に継承すべき健全な知恵と文化がある。[2034]
繁栄といっても地上の、日本の我々を含む人類社会の極一部の人々が大量消費生活をしているにすぎない。全人類が合衆国中流の生活をすることはエネルギー資源需給からして不可能である。[2035]

【生産力の到達点】
経済の仕組みとしては単純再生産過程、拡大再生産過程として社会代謝秩序はある。しかし現実の社会代謝秩序としての経済は地域性があり、不均等に発展している。グローバル化が言われるのも未だに単一市場ではないことを表している。社会代謝は生産力拡大過程としてもある。[2036]
再生産過程論での生産力は一定と仮定され、一般的等価物を規定する価値関係も一定と仮定される。しかし実際には生産力は偶然の条件、環境によって左右されるだけでなく、基本的に生産組織、生産地域によって異なり、また生産を繰り返すごとに増減しながら増大する。生産力が変動すれば価値関係が変動し、労働者の生活必需品価値も変動する。生産力が変動する生産力拡大過程では価値規定関係自体が変化する。価値基準を規定する労働力の価値が労働によって変化するのが生産力拡大過程である。価値を規定する労働力価値が労働によって再帰的に規定され変化する。生産力拡大過程である動的発展過程での価値規定は不均等になる。[2037]
生産力拡大過程であっても外延は無限定ではない。社会的代謝は組織的に、地域的に相対的に閉じた相互依存関係にある。生産組織は企業等として明らかな組織的外延をもつ。地域は地理的また政治的相対的に自立した経済圏として閉じた代謝系をなす。地域経済圏内での価値規定関係は動的平衡にある。地域的代謝生産力が価値規定関係の平衡を実現している。生産力の地域、国際間差として基本的為替差が生じる。実際の為替差は多様な要因によって変化するが、基本は国際間の生産力差である。[2038]
企業間、地域間、国際間での格差は生産力の差による。生産力は基本となる労働能力と労働組織、そして生産手段によって高まる。[2039]

労働強化による特別剰余価値の生産は漸増しかしないし、限界がある。しかし作業や道具の一工夫によって生産力は何倍、数百倍にも高まり、特別剰余価値をもたらす。道具や工夫は労働者の肉体的、知的能力を拡張して生産力を高める。工夫の蓄積は機械設備として物質化され、より確かな生産力として蓄積される。ただし、特別剰余価値をもたらす生産方法が普及してしまえば特別ではなくなる。問題は特別剰余価値をもたらす生産方法の普及過程にある。簡単な個々の工夫はたちまちにして普及してしまうが、蓄積された工夫はまねようにも簡単にはまねられない。工夫の蓄積は企業間でも違い、国際間では決定的な差がある。労働者の教育水準、生活環境、文化環境、企業組織、社会制度として工夫は蓄積され、蓄積がなければ簡単な工夫・道具も受け入れることはできない。社会基盤が整備されていなければ最新技術も利用し得ない。[2040]
生産力の高まりは同じ労働でより多くの生産を可能にし、生産物単位当たりの労働価値を相対的に減少させる。逆に生産力を高めた生産手段からの価値転化分が相対的に増大し、全体の労働力価値自体を絶対的に増大させる。生産手段が高度化した社会での労働者の生活財価値は高まっていて、賃金は絶対的に上昇している。生産力の増大と資本の有機的構成の高度化は個別商品の相対的価値を低下させるが、商品を生産する高度化した生産機構の再生産過程を担って絶対的にはより大きな価値を担っている。[2041]
相対的商品価値の低下は手仕事で同じ商品を作るのに比べることで明らかになる。生産力の発達した社会では修理するより買い換えた方が安くすむ。他方で絶対価値は生産力の低い地域の同じ商品と比較すことで価格差として明らかになる。卵を拾い集めるだけで手に入る社会での卵の価値に比べ、大規模養鶏場で飼料を供給し、衛生管理し、流通を整備して供給される卵の価値は高くなる。使用価値は同じでも経済価値はまったく異なる。生産流通経費をかけてでも必要な卵量を供給でき、経済が維持される。[2042]
地域間、国際間の基礎的価格差は需要・供給関係によってではなく、それぞれの社会での生産手段価値、労働力価値の集積の程度差である。労働力価値の高まりはそれぞれの労働者の人間価値が高まることを意味はしない。その社会の経済過程連関、社会代謝を担うことでの経済的価値である。だからこそ、不法移民でも母国より高い賃金を稼ぐことができる。不法であることによってその社会での賃金水準より低い賃金で評価されるが。[2043]
生産力の高まりは生産物単位当たりの価値を相対的に低減させる。資本の有機的構成の高度化は単位生産物当たりの労働力価値の割合を下げ、利潤率を低減させる。生産物価格の低下、利潤率の低減は拡大販売によって補われる。資本主義は市場を拡大することで維持される。今日の資本主義経済は国際地域間差による特別剰余価値の獲得として成長を維持している。グローバル化し世界市場を拡大し続けなくては資本主義は生き残れない。[2044]

【市場化の到達点】

家庭内労働に電化製品が使用されるようになって、家庭内労働者=主婦が家庭外で働くようになる。家庭内生活財、エネルギーが商品に置き換わり、その購入のために収入を求める。生活が便利に、豊かになることは良いことだが、商品市場化は大量消費化が求められる。経済的なことより、家族関係が商品関係化する危険がある。教育熱心さはより高い労働力商品として子どもを育てることになってしまう。[2045]
家庭内だけでなく、取引されるあらゆるものが商品化する。個人的なスポーツや創作ですら用具や施設にも金がかかり、普及組織は会費を徴収し、規模拡大が可能となれば宣伝され、流行化される。市場に飲み込まれず、費用をかけずに楽しむには社会的に孤立した時空間を確保するしかない。太古から名誉や地位も取引されてきたがコネがなくても買えるようになった。著作権すら著作権者から隣接権として引き離されて取引される。[2046]
人が生活をするところ世界の隅々にまで商品市場は普及、進出している。太古からの生活を守っている社会を秘密にして保護していたが、秘密にしておくことも困難になってきている。市場化は観光資源を求めて世界中をのぞき見る。。[2047]
市場を作り出し、市場を方向付けることが経済的力になった。宣伝広告が市場での強力な手段になる。使用価値よりも購買意欲を引きつける商品が受け入れられる。使用価値などなくても、期待だけでもいだかせれば売れる。使用価値を超えてしまう取引を「虚業」と呼ぶが、実業も虚業化させてしまう。広告料によって無料の商品が供給されるまでになっている。報道、娯楽の提供も無料化している。当初情報ネットワークは草の根民主主義の媒体として期待されたが、今日では宣伝、広告の媒体になってしまった。[2048]
保険の確率計算技術の利用はあらゆる危険負担を商品化する。事業の危険だけでなく、取引の危険負担まで商品化する。高い危険度と低い危険度を取り混ぜて商品化する。賭け事の商品化と変わりない。[2049]
最後の商品化は資本の商品化で極まる。株式が資本の商品化であったが、今日株の取引によって企業そのものが売買取引される。それも世界市場で。[2050]

【社会資本】

資本主義社会以前から国家権力の主要な役割は社会基盤整備と社会秩序維持である。国家権力は階級支配秩序維持だけでなく、社会基盤整備を元来の役割として担ってきた。社会基盤整備を担って権力は形成され、社会基盤整備によって権力は強化された。社会基盤を整備することによって社会代謝秩序をよりよく制御し発展させてきた。治山、治水、交通、通信整備は社会代謝基盤として不可欠である。社会基盤としての交通、通信等は生産手段にもなるが生活手段でもある。社会基盤と社会秩序制度は私的資本に対する公的社会資本に担われる。資本主義社会においても社会的価値は私的資本としてだけではなく、社会的資本としても蓄積される。[2051]
社会基盤は更新が長期で半永久的なものもあり再生産過程で評価しきれない。価値の流通過程としては客観的に価値法則を貫くが、他の商品流通過程との価値交換を人為的に評価しきれない。商品単位当たりの価値が小さすぎて評価できなかったり、価値が回収されない場合すらある。道路の建設費がいかに巨大でも、有料道路でなければ運ばれる卵への価値移転は確実な過程ではあるが価値量を計算することはできない。建設されても産業にも、生活にも役立たない道路もある。状況によって利用のされ方も変化する。市場で評価しきれないからこそ社会基盤として、社会資本が当てられる。[2052]
社会資本は危険負担の大きな事業、収益を上げることを目的としない事業を担う。最先端の技術を使ったり、有用であっても成功の保障のない事業に社会資本は投資される。[2053]
私的資本活動による社会的物質代謝の歪み是正も社会資本が担う。社会資本は公害対策、資源・エネルギー対策、廃水・廃棄物処理等を担う。技術開発や運営を私的資本が担うことはあっても、生活基盤の整備でもあることを理由として公的資金を原資として社会資本が担う。[2054]
社会資本も収益が確実になれば私的資本に払い下げられる。研究開発技術が確立し、危険負担確率を計算できるようになって、成功の保障のない分野へも私的資本は特別剰余価値を求めて積極的に投資するようになってきた。[2055]

社会資本は税金と公的貯蓄からなる公的資金が元である。公的機関に預けられた預貯金、年金などが公的貯蓄である。[2056]
公的資金は利潤追求の営利活動を補完し、景気変動による経済破綻を防ぎ、需要をつくり出し、設備更新条件づくりに使われる。景気調整と産業動向の方向づけを目的に公的資金が投入される。公的資金は貸出金利の設定、貸出枠等の条件変更によって景気調整に用いられる。補助金は私企業の救済、危険負担の大きい開発事業にも用いられる。[2057]
公的資金は官僚によって管理されている。公的資金は高級官僚、利権政治家、企業によって合法的にも、非合法的にも横領される。公的資金の支出だけではなく、税制と一体となって公的収奪制度になっている。企業減税は補助金と同じである。見返りに高級官僚は天下り、利権政治家は政治資金と票を受け取る。[2058]

【経済の不均等発展】

経済発展は社会を大きく変貌させる。農林漁業から工業生産へ、サービス産業へ経済活動は拡大した。消費財産業、設備産業、サービス産業、情報産業の興隆が現れた。単に主力産業の変遷ではなく、社会代謝の発展としての歴史がある。太古からの農業は未来でも食糧確保に不可欠である。どの時代でも不可欠な農業もその形態は生産技術の発達によって、管理技術の発達によって変遷してきている。社会代謝の発展によって農村と都市部の関係も変化させて来ている。[2059]
経済発展は拡大再生産としての複合的運動であり、単純に推移しない。拡大再生産は設備の更新による。更新は物的老朽化に対応し、技術的陳腐化に対応し、市場動向に対応する。市場動向、経済環境の変化に対応する設備更新の適時は予測するしかない。利潤を長期的に見るか、短期的にみるか。更新による労働環境条件の変化をどの程度受け入れるか。物質的老朽化と技術的陳腐化とを評価して投資される。財政支出、税制によっても経済環境は大きく影響される。経済主体ごとに設備更新は異なり、また順調に成果をもたらすとは限らない。経済は直線的には発展せず、企業毎、部門毎、社会毎に不均等に発展する。[2060]
相対的に過剰蓄積された資本は、新たな投資市場へ向かう。資源環境、生産環境の変化は新規開発、生産技術の発展によっても経済地勢を変化させる。新しい市場は新しい生産技術によって効率的な生産を実現する。[2061]
経済は国内でも、国際的にも不均等に発展する。近現代の世界覇者はオランダ、スペイン、イギリス、アメリカと変遷してきた。今、東アジア、東南アジアが注目を集めている。[2062]

【信用、投機】

資本回転効率化のために信用制度が発達してきた。剰余価値が新規投資規模にまで蓄積するのを待つのではなく、分散する蓄積をまとめて新規投資する。金融資本は貸借としてだけでなく、資本を効率的に運用し、必要な部門に資金を供給する。[2063]
金融資本は貸付審査等を通じて他の資本の実体、動向を把握し投資を先導する。金融資本は資金だけでなく情報も扱い、そして人も派遣する。金融資本が資本活動の中枢を担うようになった。[2064]

健全な経済では必要な物を供給する為に生産する。今日では売れるものを生産するのではなく、儲かるものを生産する。健全な経営をしていては今日競争に勝ち残れない。これに投機が加わることで社会的代謝とはかけ離れた取引が行われ、社会代謝秩序を混乱させる。[2065]
過剰蓄積された資金は信用取引に加速されて、投機を繰り返す。何を生産するかで投資するのではなく、より多くの利益をもたらす企業に、金融商品に投資される。市場評価の低い商品や企業、国際為替評価の低い通貨が買われ評価が高くなったところで売り抜ける。投機は資金を退蔵することなく利益を確保するために価格の変化する対象を求め続ける。金融商品は市場の思惑で変動するため、売買自体が価格を動かし利益を奪い合う市場になる。産業資本家が、金融資本家までもが投機資本によって収奪され、世界経済が混乱する。[2066]
国際商品、国際通貨の取引によって国や国際的地域経済を攪乱するほどの影響力をもつにいたっている。投機資本は資本の本質を純粋に表すものであり、社会代謝秩序とは相容れないものになってきている。あらゆる企業活動が投機資本の影響を受けるまでになってきている。[2067]


第3項 国際的収奪

【植民政策の免罪】

人類の歴史は植民の歴史であった。人類が誕生した当初から地球上に植民していった。人はアフリカで生まれ生活圏を拡大していった。人類は地上の普遍的生物になってからも、侵略し植民を繰り返してきた。植民地の先住民を人間として認めずに略奪してきた。こうした数十年前までの歴史を引き継いで現在の国際関係がある。[2068]
報復主義でなくとも、植民地略奪をそのまま認めることはできない。植民した側の利益の問題だけでなく、先住民の権利を無視し、財産、文化を破壊し、継承が困難なままに放置することは、人類の財産への侵害である。先住民の困難な生活に復古することが目的ではない。といって大量消費文明を世界に普及することは人類史を豊かにするものではない。[2069]
植民に際しての人手不足を補うために奴隷貿易が行われた。奴隷貿易は三重の犯罪である。奴隷として売買された人々に対する罪であり、奴隷狩りによって人々を奪われた国、地域に対する罪である。回復不可能な損害を与えたのだから補償措置を取るのが道義である。にもかかわらず、奴隷貿易によって蓄積した資本により、さらに市場収奪することは第三の罪である。[2070]

植民の他方で美術工芸品等が戦利品として持ち去られた。学術的品々も研究のためとして持ち去られた。持ち去ることで保護され、研究、鑑賞が進んだ面もある。しかし作られ、利用された場所にあって、文化としての全体の中にあって本来の価値がある。返還されている美術工芸品はわずかである。[2071]

【資本進出】

今日、王制、君主制をとる国であっても「帝国主義」を自称しない。帝国主義は他国を侵略、支配する国を他者が評価する。従って「侵略」「支配」を定義し、実証しないと議論はかみ合わない。さらに、帝国主義を実現する機序を明らかにしなくては、帝国主義の災禍から人々を救い、帝国主義を葬り去ることはできない。[2072]
元来「帝国」は古代王朝の国家制度であった。古代帝国は主従関係を基本に国家制度を作り上げた歴史的制度で善悪の基準とは別である。主従関係の国家制度は王制、君主制であり、反対は平等・互恵関係を基本にする共和制である。君主制も共和制も国家制度であって制度だけで善悪の違いはない。民主主義が政治制度の最高の解であるが、解くには不断の努力が必要であり、衆愚化の可能性が常にある。善悪は制度ではなく為政の有り様の問題である。[2073]
18世紀までは重商主義と呼ばれ交易と植民をする諸帝国があった。19世紀になると軍事力を伴った植民が行われ、他国を収奪する今日の帝国主義の原型ができあがる。資本によって市場を支配し、文化を支配する現代帝国主義、資本主義の最高段階としての帝国主義になる。資本の独占化が国家権力と一体化し、国家独占資本主義となって海外を侵略する。[2074]
帝国主義は国際間取引と被支配国内取引の不均衡をもたらす。国際間取引が活発に行われても、被支配国内の社会代謝が発展しないどころか衰退する。被支配国の政治的発言に関わりなく、国内経済が自立できないのは帝国主義によって収奪されているからである。自国内の資源を保護すれば、対等な貿易を実現するなら自立できる。既得権益を守ろうとする特権階級が理性的になることはないが。[2075]
今日の帝国主義侵略は武力を必然的に伴わない。資源・エネルギーを直接略奪しない。商品市場、資本市場支配を目指し、特別剰余価値獲得を目指す侵略である。資本主義の発達した国間でも相互侵略はおこなわれる。経済交流と違い「侵略」であるのは、非侵略国の市場、制度、文化に干渉し、政治的に歪めることである。今日帝国主義の旗印は「新自由主義」であり「グローバル化」である。[2076]

【資源、エネルギー、食糧】

地球資源は有限である。資源には物理的限界と、技術的限界がある。物理的限界は地球として与えられた条件であり、超えるには地球外の資源を利用するしかない。技術的限界は利用技術の発達によって拡張可能である。掘削不可能であった資源を採掘可能にしたり、新たな資源を発見したり、廃棄物を資源化することで利用可能な資源を増やすことができる。「石油は後数十年で枯渇する」と言われて数十年経ったが未だに利用されている。技術的限界の誤推計は資源の有限性を疑わたせてしまう。物理的に有限であることは確かであるにもかかわらず。[2077]
地球人口増加の推移、資源・エネルギー消費量増大の推移は産業革命以降指数関数的に上昇している。先進工業国の人口推移から地球人口の増加もやがて鈍化し定常状態へ向かうとの希望的観測があるが、希望でしかない。今日地球の多数の人々が飢餓状態にあるのに、皆が大量消費するようになったなら資源・エネルギーの枯渇は明らかである。皆が大量消費どころか最低限の健康的生活すらできていないにもかかわらず、他方で浪費している。皆が安全で、最低限の健康的生活をできるようにする手だての追求と、大量消費・浪費の転換が焦眉の課題になるまでに至っている。少なくとも「持続的発展」が大多数の合意にはなりつつある。[2078]

食料は充分に生産されていながら、飢餓地域がある。余剰穀物を飢餓地域に運搬することが物理的にできないのではなく、必要な地域に購買力がなく、経済的取引が成り立たない。購買力は地域の代謝秩序が整うことで生まれる。飢餓のように消費すらままならなければ生産はできない。収奪されて飢餓に陥ったなら購買力が生まれようがない。収奪する経済によって購買力は奪われ、購買力がないことによって一方的に収奪する経済が多国籍独占資本体制、帝国主義の支配である。[2079]
世界の穀物生産は食糧として十二分な量であるが、動物性タンパク質生産のために穀物は買い占められる。穀物と肉とでは食糧として養える人の数が違う。さらに、バイオ燃料としての利用が可能になって穀物が買い占められ、食糧用農地さえ転作される。[2080]

【環境収奪】

地球温暖化が人類の差し迫った課題として議論されるようになったが、温暖化ガスを主に排出し、排出してきたのは「先進」と呼ばれる工業国である。これまでは地球環境の復元力によって温暖化ガスの影響が出ることは先送りされてきた。一方での排出は他方での吸収によって均衡は保たれてきた。その地球の復元力の限界に至り、新たな経済発展国が加わることによって一機に人類の危機にまで至った。[2081]

温暖化ガスと同時に地球植物の環境悪化がある。植物は動物生存の基礎を担っている。植物の光合成によって動物の生存できる環境が維持されている。[2082]
森林は光合成によって酸素とでんぷんを供給し、水循環にあって土壌中に保水し、蒸発は内陸部の雨水源を供給する。地表の土壌は植物の堆積によって数十億年かけて生成されてきた。それでも土壌はせいぜい平均数mの厚さしかない。気候が変動すると土壌は一機に失われる。[2084]
森林破壊はまた水蒸気の発散による水循環を破壊するだけではなく、温暖化ガスである二酸化炭素を吸収する樹木を失う。水と熱の平衡条件が変化すれば砂漠化が進む。[2085]
森林伐採は土壌環境の破壊でもある。森林伐採は主に工業国への木材供給と、地域住民の耕作地化によっている。焼き畑農耕は地力の循環を利用した方法として数千年の歴史があるが、今日の大規模化する焼き畑は地力の回復を待たずに拡大し森林を減少させる。[2086]
岩塩層を含む山地の森林は、土壌中の水によって塩分を地中に閉じ込めてきた。しかし森林破壊による地下水の変動が塩分を地表に浮き上がらせる。耕作地造成のためのダム建設も逆に土壌中の水圧を高め、岩塩層をとおって地上に塩分を移送する。地上に結晶化した塩分は植物層を破壊する。[2087]
森林破壊、土壌を被覆する植生の消失は土壌の流失を招く。土壌が流出した地域は禿げ山になる。森林の豊かさは河川を伝って豊かな海洋をつくると言われるが、土壌が流入して海は汚される。[2088]
地上の廃棄物は人間が意識的に投棄しなくても水循環に運ばれて堆積し、海洋汚染を引き起こす。有害物質は食物連鎖を通して濃縮される。海底油田、タンカーの座礁事故は直接に海洋を汚染する。地球酸素の供給は陸上植物よりも海草の方が多い。海は生命起源の場としての郷愁だけでなく、現実の物質循環の基礎をなしている。[2089]
地球の気候変動史は氷河期の歴史にとどまらず全球凍結といった想像を超える環境変化を経ている。その歴史を通して地球の物質循環は動き続け、地球生命は生き残り進化してきた。自然の復元力と言われる恒常性が保たれてきた。しかし人間社会の物質代謝は人の欲によって爆発的に拡大している。たかだか200年の間に急激な変化を加速している。この地球環境変化を放置しては人間社会の物質代謝は破綻する。[2090]

【文化的侵略】

大量生産、大量消費は経済発展の必然的な姿ではない。生活環境を機械的に制御することが文化ではない。しかし資本主義的生産はそれを必要とし、それによって拡大再生産を実現している。独占資本の海外進出によって世界が経済的に、軍事的に支配されるだけではなく、文化的にも独占資本主義に支配される。多様な大量消費が独占資本主義文化である。文化の押しつけは物理的に強制しなくとも、経済的に生活を脅かすことで追いつめ、受け入れざるを得なくする。電化製品を購入利用しないと生活時間を確保できなくなる。食料も市場に流通するものを購入するしかなくなる。[2091]
市場経済化によって、無駄をなくし、いま有るものを有効利用し、それぞれの地理、環境にあった生活ができなくなる。歴史的、民族的文化は生活と切り離され、博物館に封じ込められるか、忘れられる。[2092]
科学技術は個人的才能の問題ではなくなっている。教育研究組織、資金、情報流通の社会的制度なしに科学技術は成り立たない。科学技術も世界的に集中する。研究設備が大規模化し、その費用を負担できる地域は限られる。人材は情報と資金と報酬を求めて集まる。飢餓地域に科学技術の施設・設備、資料を持ち込んでも役に立たない。資本主義市場の拡大の後を追って、資本活動に必要な技術として科学技術は普及している。[2092]


第3節 社会の到達点

本来の人間社会、理想の社会などは何処にも存在しない。存在するのは歴史的到達点としてのこの現実社会である。この現実社会をどうするかが政治である。[3001]

地域共同体が破壊され、住民が流動化し、入会い地等の共同財産、集会所等の共同施設が個人、組織に所有され、相互扶助が成り立たなくなった社会。家族規模が縮小し、核家族化により家庭内作業も商品市場に侵される。個人として家支配から解放されたが、核家族さえ互いを個人として分断してしまった社会。個人として生き、組織への従属を強いる社会。到達したのは一般的にこんな社会である。[3002]
個人で生活上の諸問題を判断し、契約を取り交わし、危険を負担する。事故、病気等の危険に対しても、契約に基づいて保障をえる。個人の責任ではない天災に対し、人々の生命、財産を守はずの国家が、保障の責任を果たそうとしない社会である。自己実現ではなく、自己を社会契約で規定することが生きることのすべてになってしまった。[3003]
しかしこれは到達点であり、終点ではない。部分的には失われても人類文化は継承され、より多くの人にその普遍性が共有されるようになってきている。人類の未来に危機感を抱き、生き方を変えようとする人々がいる。なにより、情報を共有することが容易になってきている。[3004]

【近代市民社会】

性善説、性悪説どちらをとるかといった人間解釈にかかわりなく、近代は実際の社会関係を安定化させるための制度・手続きを整えてきた。近代市民社会では法治主義を社会関係の原則に定め、普通選挙、三権分立などが社会制度化された。手続が制度化され、制度に則ればすべての人が公正に扱われることになった。ただし制度を使いこなすには専門的知識、経験が必要であり、費用もかかる。[3005]
近代市民社会の成果は資本主義の到達点である。平和、人権、自由、民主、平等、独立が社会的基本原理として認めらるようになった。ただし政治的基本原理であって具体的、個別的には解釈が分かれる。平和にしても戦争は平和を理由にして戦われる。人権擁護の名の下に内政干渉する。いずれも強者、強国によって勝手に解釈される。自由は強者の勝手放題になりかねない。民主は主体性が無くては担保されない。平等は規制しなければ成り立たず、悪平等もある。独立はその主体が問われ、政治的独立も様々な口実で制限され、経済的独立はグローバル化によって脅かされる。[3006]

善良な小集団であるなら法規律は必要ない。悪者はどのように法律を改正し、厳罰をもうけても法を無視する。社会規律は社会の圧倒的多数者によって実現する。規律の程度を質とし、規定を守る人の数を量として社会規律水準は様々である。[3007]
グローバル化による人の交流は異なる社会規律を持つ人々の交流で社会的摩擦を生じる。例えば、戸締まりなど考慮する必要がない社会も、鍵をかけても壊される、建物までが壊されることにもなる。この犯罪の例えは分かりやすく、そのまま排外主義へつながりやすい。外からの影響は分かりやすいが、自分たち自身の変化に気づくことは難しい。世代が違うと驚くほどの変化が生じて「今の若者は」と嘆き、大人の過去の責任を棚上げして子どもの変化に驚く。[3008]
社会病理的事件が頻発しても、巨悪の存在が暴かれても、圧倒的多数の人々によって社会秩序は自律的に維持されている。商品経済による社会代謝が全世界的に普遍化しても、社会秩序は維持されている。一部に未だに戦乱が絶えなくとも、経済的、社会的矛盾が深刻でも経済活動は持続し、全体の社会代謝秩序は維持されている。圧倒的多数の人が不満や疑問をもちながらも社会代謝を担っている。それぞれの生活として社会秩序は維持されている。[3009]
市民社会の政治的成果は完成されたものではなく、実質化はこれからの課題である。日常生活でも、世界規模でも平和、人権、自由、民主、平等、独立の普遍的基本原理の実質化はこれからの課題である。理念としては圧倒的多数の人に指示されているが、経済的自由だけが謳歌され、平和、人権、自由、民主、平等、独立は緒についたばかりである。[3010]

【社会主義のもたらしたもの】

資本主義の到達点で資本主義の欠陥を是正する運動、資本主義を超える政治運動として社会主義運動がある。東欧「共産主義」国家が崩壊したとはいえ、社会主義の貢献は今日も引き継がれている。[3011]
資本主義では労働者も市民として、契約者として独立した社会構成員として扱われる。人を支配するのではなく、人の意志に関わりなく人の労働能力を支配することで、災いの責は当人が負うようになる。奴隷制ではまさに人が支配された。奴隷は所有者によって生きることを保障されていた。封建制では領主に支配される土地に縛られ間接的に支配された。農奴は生活財を自作できた。市民社会で人は独立した人格として、自由な契約による自己責任で生活する。資本主義社会では人々の災いは自然環境によるよりも社会環境によるようになる。慈善によっては救いきれない社会構造的な災いが増す。これに対抗してきたのが社会主義運動である。[3012]
社会構造的災いに対しては社会的に解決するしかない。労働運動が自分たちに負わされる社会構造的災いに対し労働基本権を獲得し、生活権を目指すようになった。さらに労働者は働く人間性の実現として社会主義を展望する。[3013]

資本主義の下でも労働者教育は不可欠である。より高度化する生産を担う労働者にはより高い教育が必要である。しかし資本主義の下で労働者には当座の労働に必要な教育しか与えい。必要な労働能力に切り分ける選別の教育である。生産のための教育であって、人間性を育てる教育ではない。普遍的人間を育てる教育は虐げられた々の人間解放を目指し、社会主義運動と相携えてきた。多様な条件の人々のもてる能力を伸ばす教育理念が掲げられた。資本主義での才能教育は個人への投資としてなされる。社会主義での才能教育は才能発掘機会を普及し、才能教育を制度化した。[3014]
医療は人の命を救い、健康を保障する。資本主義での医療は技術の高度化によって難病治療を可能にしたが、医療費をまかなえる者の医療である。医療は個人を救うだけでは発展しない。個人責任では疫病・流行病に対抗できない。環境衛生、安全は買えるが、個々の傷病は貧富に関わりない。医療技術は多数の治験によって発達する。社会的保健衛生環境を向上させること、保険制度を整備することによって健康な人間社会は実現する。社会主義での医療はすべての人へ最低限の医療を保障し、その最低限の質を高める。[3015]
今日世界の貧困地域で、労働者だけでなく、すべての貧困層の生活向上、生活安定を求める運動は、個別的な慈善運動ではなく、連帯による社会運動として広まっている。社会保障制度は社会主義運動と結びつきながら発達してきた。[3016]

基本的人権は資本主義社会内の社会的運動によって拡大、実質化されてきた。性、人種による人権の無視、制限はなくなってきた。基本的人権自体が自由権だけではなく、社会権へと拡張されてきている。法治主義も形式的概念から、法執行の実質を求めるものへと発展してきている。[3017]
労働基本権が認められ、資本の専制支配に対する社会的規制が可能になった。労働者と資本家は契約者として対等ではないから最低賃金制がある。労働時間が社会的に制限され、労働安全衛生に関する責任が定められるようになった。雇用契約により、労働者の生活の実質的保障が図られてきている。これらを実質化するために、労働者の団結権、団体交渉権、争議権が認められた。[3018]
民主主義が理念として、運動として、制度として発達してきた。歴史的に選挙権は拡大されてきた。形式的民主主義から実質的に、より日常的社会関係にまで民主主義の理念は拡張されてきている。市民社会の政治的成果をブルジョワ民主主義として捨て去るのではなく、継承・発展さなければ未来社会を築けない。多様な課題を掲げた社会運動が組織され、社会の運動そのものが民主化されてきている。[3019]
民主主義を担保するのは人々の主体性であり、主体性の中身も含め民主主義もまだ十分に実質化していない。民主主義の方法である議論が基本になっていない。会議を開くだけでは民主主義は実現しない。言い合い、言いっぱなしは議論ではない。互いの論理を理解し合うことが議論である。論理的理解は疲れるが民主主義の基本である。社会主義も民主主義でつまずけば集愚政治となり全体主義へひっくり返る。[3020]

【民族対立・宗教対立】

民族対立、宗教対立のそれぞれの経過は歴史的であり、第三者が論評しても解決しない。復讐の繰り返しとして塗り重ねられた歴史を第三者に変えることはできない。民族も、宗教、宗派も当人にとっては存在基盤を問うことなのだろう。日々の生活を導き、意義づける価値観を対立させ、血肉を賭けた対立の上に、復讐の歴史が重なっている。[3021]
貧困がこの対立から抜け出すことをより困難にしている。対立によって貧困化し、貧困によって対立が深まる。かって人々はこれほど対立せず、これほど貧困ではなかった。世界を市場として収奪するようになってから、武器が取引されるようになってから対立と貧困は激しくなった。[3023]
グローバル化によってますます集中する富を貧困解消に使うことによって対立解消の基礎ができる。貧困解消が対立解消の基礎であることまではあきらかになってきている。[3024]
敵対でなければ民族、宗教の違いは文化の多様性である。商品取引の形も文化によって異なる。イスラム社会では不労利得は禁止される。商品取引自体が社会の有り様の一つである。社会関係すべての商品取引化を目指すグローバル化は文化の多様性を破壊する。[3025]

【軍事力】

かつては成年男子の殺し合いであった戦争が武器を用いた戦闘となり、大量の人殺しが可能になった。より大規模な戦闘になり、社会秩序の破壊を手段にするようになった。戦争は非戦闘員を含む殺し合いであり、生活手段、生産手段を破壊する。今日の戦闘は兵器も兵士も消耗品化し、巨額な兵器が大量に消費され、大量多種の補給を必要とする。戦争は最大の環境破壊行為である。[3026]
戦場全体への物資、兵員の補給、物資の生産と運搬は経済活動に依存する。兵士の犠牲とともに、社会の動員体制が軍事力になる。ついには敗戦国に敗戦を承認する権力秩序を残さなくては泥沼化する迄に至っている。敗戦を認めなければ、国土がいかに荒廃しようが戦闘は繰り返される。部族どうしの戦いでも復讐が繰り返され、最強の軍事力をもつアメリカ合衆国ですら収拾することができない。[3027]

今日の前哨戦は情報戦である。情報通信技術の発達によって敵国の動向を探知する能力が高まっている。敵指導者の心理状態を診断するには人的情報源が必要だとされるが、戦争用武器の動きは物理的に捉えることができる。偵察衛星の能力は民間に提供される写真から推察できる。情報技術の発達によって情報傍受と解析能力は飛躍的に高まっている。[3028]
情報ネットワークの高度化は大規模な社会施設制御を実現している。このことが、ネットワークを介して制御に干渉することで社会施設を破壊することが可能にしている。エネルギー供給制御、資金取引が干渉されたなら、大きな損害と混乱が生じる。攻撃する側はネットワークを介して制御に干渉し、破壊を図る。攻撃にはネットワーク・アドレスと通信経路を必要とし、ネットワークの事前掌握が必要である。実践に至らなくても、日常的に準備される。[3029]
軍事技術は「矛盾」を力の差で決着をつけようとする。軍事技術は盾よりも矛、防御よりも攻撃に頼る。防御は受動的であり、攻撃は能動的で目標を選択することができる。防御は予想される攻撃のすべてに対応しなくてはならない。戦略、戦術的に優れた防御を工夫することはできるが、攻撃力の増大に対応するには限度がある。攻撃側は核兵器の圧倒的破壊力、物理的防壁を突破する精密誘導兵器や生物化学兵器によって防御を無力化しようとする。[3030]
軍事技術の発展で戦闘が自動化される。遠隔操作によって命の格差ができ、戦争の有り様を変える。一方に命を脅かされる者がいて、他方にはスイッチを操作するだけの者がいる。圧倒的物量格差、技術格差があっても殺し合いに違いはない。強大な敵に対して正面から戦いを挑む者などいない。戦わなくてはならないのであれば敵の弱点を攻めることになる。無差別テロにいささかも正当性はないが、テロに追い込む強奪にも同様に正当性はない。[3031]
核兵器を抑止力として保持し、他国の核開発を禁止して核の独占体制による世界支配が続いている。核保有国の核は平和を守る正義の核で、他国は核を持ってはならぬとする世界支配がある。世界市場を収奪するための平和であり、必要なら地域限定戦争を仕掛ける正義である。[3032]

軍事力は戦闘の開始を抑止できる。武力には武力の行使を抑止することはできる。武力は武力に訴えることを思いとどまらせることはできる。強い軍事力によって戦闘を有利にすることができる。このことをもって軍事技術を高度化し、軍事力を増大させる国が圧倒的に多い。軍事力で戦闘を終わらせることができないにもかかわらず、軍事力に頼る。平和は軍事力ではなく平和によってもたらされる。[3033]
軍拡競争は軍事力では止めることはできない。膨大な軍需産業が強大な経済力、政治力を持っているのだからなおさら軍拡競争を止めさせることは困難である。戦争をしなくても軍事訓練は多額の軍備を消費し、軍需産業を益する。軍需産業を平和産業に転換させる、平和を目指す取り組みでなくては軍拡競争は止まらない。[3034]
平和は主体的に社会関係を築くことによって実現できる。武力は利害を押しつけることはできるが、調整することはできない。武力は強制力であり、武力で主体性を要求することはできない。武力によって一時的に戦闘を終わらせることはできても、平和な社会秩序を強制することはできない。平和は外部からの働きかけではなく、社会内関係の有り様である。平和は武力で押さえつける静的なものではなく、社会秩序を実現する動的なものである。[3035]
日本は武力に頼ることの愚かさを学び、戦力の放棄を憲法で宣言した。にもかかわらず、合衆国の軍事世界支配に与するため、再び自衛隊を組織し、海外派兵を実現し、実戦の準備をしている。[3036]


第4節 文化の到達点

文化に到達点はない。文化は多様化したが、文化自体に歴史性はない。社会の歴史性が文化に影響するだけである。その影響の最も大きな4つは言語、文字、印刷技術、情報通信技術である。人類は言語によって情報を交換し、共有し、表現することができるようになった。文字によって情報を記録することができるようになった。活版印刷によって情報を大衆化した。そして情報通信技術によって言語だけでなく、図や映像、音まで日常的情報表現手段のすべてを操作できるようになった。[4001]


第1項 情報の交流と共有

通信手段の発達はめざましく、文化に大きく影響している。手紙、書誌は昔からあったが産業革命以降、電信、電話、ラジオ放送、テレビ放送、情報ネットワーク等は社会に不可欠の情報通信手段として普及している。[4002]
通信手段の利用技術は文化に属する。情報の伝え方、共有の仕方が文化の基礎基盤をなす。情報は媒体、形式、表現、意味、評価からなり、その選択と組み合わせが多様である。手紙にしても葉書、封書、速達、書留等媒体によって発信者の意図を示す。筆記具、文字、書体、文体、図形、色づかい等によっても意図の違いを表す。[4003]
いつ、誰から、どの様に届いたかでも意味は違ってくる。この組合せが文化形式の多様性をつくりだす。組合せ方が文化的影響力の大きさを決める。組み合わせて組織的に情報を運用するのがマスコミである。かつては新聞雑誌がマスコミの媒体であった。今日では放送と情報ネットワークを含めてマスコミは構成される。[4004]

【報道と娯楽】

社会のコミュニケーションは報道と娯楽としてある。人のコミュニケーションが知ることと、楽しみであるのと同じである。報道は情報伝達、情報共有を担う。娯楽は人々の共感を担う。[4005]
報道なしに社会のことを知ることはできない。噂でも直接接することのできる人々の様子をうかがい知ることができるだけである。社会、社会でのできごとを知るのに、噂では情報の質、量ともに不十分である。情報源で検証され、普遍的に評価された情報によって社会と、社会のできごとを理解することができる。検証と評価とを保証するのが報道機関である。個人が発する情報も検証と評価の程度によって、その人の信頼度が評価される。社会的報道で最も影響力の大きいのはマスコミである。[4006]
人の快楽追求は人それぞれ、それこそ多様で個人では理解しきれない。社会的快楽追求は娯楽であり、基礎に共感がある。人は共感を持つことで安心した精神生活ができる。不満、不安があっても共感することで主体的に生活できる。共感を確認するために人は意味のないコミュニケーションであっても延々と続けることがある。社会的にもうわさ話や隠語、「常識」を共有し、共有していることを娯楽として確認し合う。芸術鑑賞も作者、演者と鑑賞者との共感を基本とし、鑑賞者間の共感によってより大きな娯楽になる。冒険は個人的だが、社会的には遊具によって共感でき娯楽になる。[4007]

報道は社会代謝の情報系を担い、社会代謝を制御し、発展させるが、確立した報道体制は操作の対象になる。報道されることが社会的認知になる。当事者にとっては過去のことも「明らかになった。」と報道されることで社会的に認知されたことになる。逆に報道されないことは社会的に存在しないと同じになる。巨大化した報道機関は情報統制機関化し、また投資の対象になる。[4008]

【情報通信の発展】

情報通信技術の発達は凡人の想像をはるかに超える。1960年代に個人がコンピュータを所有し、利用する目的・内容があるなどとは考えられなかった。計算やデータ処理よりも人間とのコミュニケーション処理にコンピュータ処理能力がより多く使われるなどということは考えられなかった。ライプニッツ以来の人間の知的能力を拡張する夢の技術が実現しつつある。[4009]
コンピュータ・ハードウエアの重要性よりも、ソフトウエアの重要性、価値がようやく認知されてきている。しかしソフトウエアが扱うデータの重要性、価値はいまだに軽視され、あるいは秘匿される。[4010]
それぞれの所でデータを蓄積し、相互に参照・検索を可能にする技術的条件は整いつつある。データの普遍的蓄積・更新と相互参照・検索のシステムが動き始めてから文化状況は根本的に変わりうる。文化状況だけでなく、社会、政治状況の変革手段として情報通信技術の可能性がある。[4011]

産業発展と相乗する科学技術の発展は大量の、複雑な計算処理を必要とした。工場制機械生産での大量生産制御、大量販売は商品管理、資金管理の情報処理を必要とした。また市場獲得のための戦争は兵器制御と通信技術を発達させた。膨大な作業を必要とする弾道計算のために電子計算機が作られた。暗号通信は情報論理と情報通信理論を発達させた。電子計算機はまず大量の計算をする機械として作られた。[4012]
大量の計算をする機械として大量一括処理=バッチ処理技術は歴史的に早く成果をもたらし、早く限界に達した。単純な処理を繰り返すこと、単純な処理を組み合わせることによって複雑な処理であっても正確に、高速に処理する。情報処理機器の飛躍的発展により大量一括処理は急速に発達したが、それ以上に計算要求が拡大し限界が明らかになった。計算量は対象をより細かく捉えることによって幾何級数的に増大する。大量一括処理は基本的にこれまでの手計算作業を電子的に実現したにすぎない。より複雑な処理に対応する処理を記述するプログラムも同様に複雑化し、正しいかどうかを検証することすら難しくなる。[4013]

知的能力の拡張は知的作業道具作りとして、そして人工知能開発として取り組まれた。そして卓上計算機用IC回路を利用することで電子計算機が小型化し安価になり、個人が所有できるようになった。個人が所有することで多様な利用形態が工夫された。文字だけでなく人の扱う多様な情報、音声、図、映像も同じ電子媒体上で扱うことができるようになり、触覚、臭覚にも対応する技術が開発されている。[4014]
同時に知的作業の分析からデータ入出力の容易さが重要であることが明らかになった。人の自然な情報表現に近い形で入力し、人の認知能力に応じた出力方法が開発されてきた。今日の個人用コンピュータ能力のほとんどは、人とのコミュニケーション処理に使われている。それは同時に人の認知能力の実証研究でもある。情報を容易にやり取りする技術は健常者だけでなく、様々な障害者の不利を補う手段としても非常に有効である。[4015]
人工知能の研究は脳の情報処理が容易にまねのできないものであることを明らかにした。人の記憶、推論が単純な記号処理でないことを明らかにした。同時に単純な記号処理によって知識を処理する方法が開発されてきている。[4016]

情報処理装置としてのコンピュータの発達はめざましいが、コンピュータの歴史的意味はネットワーク通信にある。情報ネットワークは通信設備を必要とするが、通信設備は電話網と同じ社会基盤としてすでに整備されていた。従来の電話と違ってデジタル化することでデータと回線を多重化して回線を共有できるようになった。ネットワーク利用者は出版や放送といった大きな機構がなくても情報を発信することができる。個人でも主体的に情報を蓄積、発信、共有ができる。ただし、情報は意味を表現するものであり、表現する意味がなければ共有する意味もない。[4017]
コンピュータ・ネットワークは社会組織を改変し、商取引、製造方法までも変えている。コンピュータ・ネットワークには社会のあり方を変える可能性がある。[4018]

情報がデジタル化され、電子媒体に記録されるようになって情報保護が社会的基本問題になってきている。デジタル化されて小さな媒体に大量の情報を記録することができる。容易で正確な複写によって情報を永久的に保存することができる。検索が容易で照合によって多様な情報を関連づけることができる。媒体間の変換が容易で、通信による交換と共有ができる。これらの強力な利点は使い方によって大きな害をもたらす。情報を操作する者だけの問題ではなく、情報を託すすべての人々にかかわる社会的問題になる。[4019]
情報通信技術の発達により情報の収集、保存、加工が容易になった。自動化される情報収集は多様で詳細な情報を集積する。道路の監視カメラ、防犯カメラ、商店でのレジスター、クレジットカードでの買い物、銀行の預貯金等、特別に情報収集の手間を掛けなくてもデータは蓄積されている。[4020]
一人一人の言動を追跡しなくとも、すべての電話回線を人手をかけて盗聴しなくとも、特定の電話機の利用、特定の言葉が出てくる会話を選別し、記録することができる。画像として記録するだけでなく、照合可能な特徴抽出もデータ処理として自動化できる。[4021]
いつ、どこで、どのように、どんな情報が集められているかの情報公開が情報社会の基盤になるが、問題提起もまだ不十分である。[4022]

分散された情報を利用することは非常に困難であるが、集中される情報は多様な関連づけが可能になる。住民票、社会保険番号、運転免許証番号等の個人識別番号を互いに関連づけることによって個人の全体的データをまとめることができてしまう。公的な身分や実績だけでなく、病歴や性癖を含む人物像を描き出すことが可能である。プライバシーが漏れるだけでなく、公開される可能性は有名人だけに限られない。[4023]
集められた情報は処分されなくてはいつまでも残される。人々の会話や紙に書かれたことは時と共に忘れられ、再現することが困難になる。しかし電子情報化された情報は消去されなければ半永久的に保存される。消去されるべき少年時代の悪事が永久に記録される。本人に責任のない誤った情報も訂正されないまま残される。[4024]
情報漏れは技術的問題よりも、人為的要因によることの方が多い。性善説では悪意による情報漏れを奨励するに等しい。情報管理者は情報保護対策には性悪説を採る。一般の人にも不注意による情報漏洩の可能性は常にある。情報が買われる時代になってきている。[4025]

情報の生産、流通、蓄積は社会代謝のいわば神経系である。個人の内にとどまる情報は世紀の新発見であれ、危険思想であれ社会的に意味はない。情報の社会での意味実現には情報媒体を必要とし、情報媒体は社会的に供給される。[4026]
情報媒体は情報機器だけではない。情報を運ぶ経路網として情報機器が社会的情報媒体としてある。郵便制度なども収受、分別、運搬といった設備だけではなく、住居表示等の社会制度を基礎にして成り立っている。電子データの通信も物理的な通信線や交換、中継、増幅器だけでなく、送受する機器の位置関係を表すアドレス体系、通信経路を選択する機能、誤りを訂正する機能、送受信信号をそれぞれの利用形態に変換する機能等の通信手順の体系を必要としている。今日では通信の安全性を確保するための暗号化、差出人の本人確認が社会的通信に不可欠になってきている。[4027]
これらの情報媒体の整備には社会的に大きな投資が必要である。個人的な手紙の交換、個人的な電話の利用であっても社会的に巨大な情報媒体によって実現されている。個人にも手軽に利用できるサービスとして運用されているが、必ず費用負担がある。[4028]

情報の利用は受け入れるだけではない。ネットワークでの情報利用は交換と共有である。ネットワーク上の情報は一般的、普遍的であることが大切である情報もあるが、ごく特殊な、個別的情報も必要とする人が利用できることに価値がある。それぞれに困っていることを尋ねることから情報の共有は始まる。ごく特殊な病気の情報は圧倒的多数の人には必要ないが、患者と医療関係者には命に関わる。命に関わらなくても、日常生活、仕事では、知っているのといないのでは大きく違う知識、技術、工夫が数多くある。必要とする情報を誰でもが、容易に入手できるような環境を整え、情報を提供することがネットワークでの情報共有である。[4029]
情報発信が容易になってきているにもかかわらず、まだ社会的共有は始まったともいえない。好奇心の強い者や、目立ちたがり屋がほとんどで、圧倒的多数の人々が発言しようとしない。一方、ネットワークが商業利用に解放されるようになってから、取引情報に偏った企業、団体が多い。商品取引の情報、採用情報、組織概要は提供してもその組織が社会的に担う公的情報を提供しない。ネットワークを商取引の手段としてしか扱っていない。[4030]


第2項 思想

「現代思想」などの哲学の問題ではない。社会的意識としての思想の到達点である。[4031]

思想は意識による世界解釈であり、その端的な表現が「世界観」である。世界観の意識化は日常生活の客観化であり、日常生活に精神的ゆとりがなければできない。思想は日常生活の観念対象化であり、日常生活のしがらみからの解放である。[4032]

【思想の一般化】

市民教育、労働者教育の普及発展は思想の豊かな発展をもたらした。一部の貴族等の教養でしかなかった思想が教育、表現媒体、科学の普及として開放された。思想主体が多様化し、一般的になってきている。[4033]
個人の関わる問題が社会的に広がり、世界と関係するようになってきている。それぞれの生活、衣食住、教育、職業がますます社会に依存し、人類世界との関係を密にしている。社会の問題、人類世界の問題が日常的に報道される。マスコミの普及した地域では人知の及ぶ限りの情報に接することが可能になってきている。人々の生活、文化、歴史の多様性を見ることができる。その最も象徴的なのが宇宙からみた地球であり、地球環境が有限であることを視覚的に理解できるようになった。[4034]
インターネットの普及により社会のそれぞれの階級、階層に属する人々が、それぞれの立場から問題を提起できるようになった。発表の場、流通手段の普及がそれぞれの発言を容易にしてきた。多様な情報メディアの利用が大衆化してきた。思想の媒体が多様化し、普及してきている。[4035]

【科学思想】

産業の発達によって科学発展の物質的基礎が用意され、科学利用の目的が明確化された。経済的要求が技術的に解決され、科学的な理解をもたらしてきた。天上界と地上界の区別がなくなった。科学体系として世界を理解できるようになった。[4036]

科学は日常経験の世界が感覚経験に基づく解釈と全く異なることを明らかにしてきた。日常経験世界でヒトが生きるに適した感覚情報を得て、人が生活するのに必要な知識を蓄積してきたが、これら常識が人を基準とした特殊な世界理解でしかないことを科学は明らかにしてきた。[4037]
論理学は形式論理の限界を明らかにした。論理の個々の概念関係は厳密に規定できても、規定関係全体の連なりは自己言及、再帰することで自らの正しさを証明できない。論理学の不完全性定理は論理的理性の判断の正当性の根拠を否定してしまった。論理は認識と存在に関わることが明らかになった。特殊相対性理論は時空間が物理的関係であることを明らかにし、光の速度が有限であり、同時性が成り立たないことを明らかにした。一般相対性理論は物理空間がユークリッド空間ではなく、重力によって歪む空間であるとする。量子力学は不確定性原理を明らかにし、決定論的世界解釈を否定した。熱力学は確率過程にありながら全体に方向性が表れることを明らかにした。これらは解釈の問題ではなく、実験によって確かめられた世界の性質である。[4038]
生物学は遺伝子による生物の発生秩序、代謝秩序、そして生物進化の機序を明らかにした。宇宙論はビックバンが宇宙の開闢としてあり、膨張してエントロピーを増大させながらも秩序を宇宙の構造として、生物として作り出してきていることを明らかにした。[4039]
脳科学を中心とした認知関係科学は人の感覚の特殊性とその精妙さを明らかにした。意識が精神活動の一部分しか対象にできていないことを明らかにし、理性の限界と明証性の根拠を限定した。[4040]
科学は論理的理解が可能であり、理解しようとする者に開かれている。理解の程度は異なってもその意味するところを論理的に説明する。科学を理解するのに特殊な、超人的経験は必要ない。科学は普遍的認識の方法である。科学知識は空間的に宇宙でも、海中でも、地上でも実践的に確かめられている。医学も生物学、化学、心理学の応用として実践されている。科学技術の発達は自然に対する人間の働きかけを全面化してきた。[4041]

科学の成果には西洋も東洋もない。すべての事象は西洋でも東洋でも同じに現れる。洋の東西の違いとして言われることは方法と解釈の違いである。経験を蓄積して体系化する東洋に対して、西洋は秩序を論理法則として演繹体系化する。東洋は人間も自然の一部としてとらえるが、西洋は自然を支配すべき対象ととらえる。こうした類型的区別も科学の発展とともに共通な世界認識に至る。[4042]
東西にかかわらず科学は社会的認識として反駁できない知識を蓄積してきた。論理的であろうとするなら科学がもたらす知識を否定できず、原理主義をのぞく宗教も自らを科学によって説明し、根拠づけようとしてきた。奇跡ですら科学を承認した上で、科学的事象を超える物事として科学の概念で説明される。科学を否定し、信仰だけで納得できるなら科学的説明など無視すればよいのに。[4043]
科学に対立する思想は原理主義と似非科学である。原理主義はまさに科学を無視する。集団社会内での独自の世界解釈によって生活を律しようとする。原理主義も組織外へ向かって社会的な影響力を行使するためには科学的説明との調整を試みる。[4044]
科学は既知の知識を前提にして仮説を立て、仮説を検証することで新たな知識を獲得する社会的認識活動である。したがって仮説のほとんどは誤りであり、仮説を科学の最先端とするなら誤りばかりといえる。既知の学説にはほぼ完全に検証されたと思われていても結局否定された歴史がいくつもある。しかし誤った仮説でも似非科学ではない。仮説を含む学説の相互規定関係で検証するのが科学である。仮説の段階では科学と似非科学を区別する方法はなく、検証を待つしかない。似非科学が問題なのは科学の装いをしながら、人々の非現実的願望をよりどころに科学を否定することにある。原理主義も似非科学も人々の現実的実践を妨げる。[4045]
現世、俗世ではよりよく科学を利用することでより稼ぐことができる。科学を利用できない者は稼ぐ機会をより失う。社会的利益の私的独占を追求する者は科学の発達を必要とはするが、科学の普及を妨げ、似非科学を利用する。[4046]

【思想対立】

思想は社会対立を反映している。思想、人間の生き方を定める社会理解、社会評価として対立する。資本主義社会の思想は封建制社会の思想に人々の平等を認めるかどうかで対立する。資本主義社会の思想は人々の様々な関係に差異と平等の評価をめぐって対立する。資本家階級の思想と労働者階級の思想との対立である。資本家の思想も労働者の思想も資本主義社会の思想である。思想以前に階級対立自体を否定する思想は現実の矛盾を否定する思想であり、資本家階級の思想の亜流である。[4047]
資本家も多様であり中小企業の資本家から多国籍企業の資本家ではその考え方も違う。産業資本、商業資本、金融資本の違い、産業分野の違い、企業経営者と出資者の違い等もある。しかし共通しているのは「資産は競争によって増やすもの」と考える「資本の論理」である。人間の平等を認めるが対等な契約取引の結果生じる格差は社会問題ではなく、個人の責任と解釈する。[4048]
対する労働者は「生活のために働く」ことしかできない。生活のために働くのは当然としながら、社会的格差も仕方のないことと受け入れるか、格差を生む機序を正そうとするかで労働者の間にも違いがある。社会が自然科学の対象のように見通せないことで、格差を作り出す機序が見えにくい。巨悪の跋扈すら見えにくい。[4049]
直接的に社会的立場を主張して対立する思想的立場と、社会対立の存在を否定することによって現在の社会のあり方を肯定する立場もある。社会的対立を否定する思想が、あたかも中立な、科学的立場であるかのように主張されている。イデオロギーの終焉、テクノクラート支配、中流意識化、脱工業化、情報化社会、生産性の向上による賃上げ、高福祉高負担等様々な課題について社会的対立を否定する主張がある。[4050]
どのように考え、解釈しようが現実に格差があり、その格差はたまたまではなく社会の構造としてある。たまたま格差を乗り越える者が何人もいても、社会構造としての格差は無くならない。社会矛盾を覆い隠すか、さらけ出すかの思想闘争がある。[4051]

思想支配は価値観の支配で完成される。暴力による支配も部分的には強力であるが、全体として、長期的にに完全な方法ではない。すべてを暴力で支配することはできない。暴力支配の究極は被支配者の抹殺であり、それは支配そのものの否定である。暴力支配が永続しないことは歴史的にも明らかである。暴力は非論理的であり、暴力による思想の押しつけには限界がある。現状肯定の思想を自らのものとして受け入れるようになることが支配の完成である。[4052]
マス・コミュニケーション特にテレビは有効な思想管理の手段である。提供する情報を意図的に選択し、他には何もないかのように情報統制する。複数のテレビ局があっても、多様な形式で同じ内容の報道を行えば、その内容がすべてとして受け取られる。非論理的であっても映像と音響により影響力は大きい。視聴者が求めるものをふんだんに提供することで提供されないものへの関心を失わせる。問題意識、関心を囲い込み、その答えをただ一つ用意し、提供する。視聴者は囲い込まれた情報を共有することで互いに安心する。[4053]
これに新聞報道、週刊誌報道が後押しすれば世論操作はほぼ完ぺきである。社会報道の圧倒的な物量が社会での情報を仕分ける。選挙の争点もマスコミが設定する。[4054]
報道機関ごと、メディアごとに相互に牽制し合い、真実の報道競争ではなく、メディア間の収益競争だけを基準にした報道がおこなわれる。支配的価値観にどれだけ迎合するかの競争が組織される。競争によって公正な報道がされているかのように印象づける。それでも競争があることによって時たま不正が、真実が暴露される。[4055]

マスコミには第四の権力として、権力を情報によってチェックする役割が求められた。マスコミには視聴者を先導するこも、視聴者に迎合することもできる。マスコミには権力の不正を追及することはできるが、権力の方向を決めることはできない。マスコミの力が既成の権力を揺るがしてからは、権力はマスコミをも取り込んできた。マスコミの暴露が打撃になるのは権力の中枢にいない者である。権力の中枢ではマスコミ報道をぼやいて見せることで、隠し事を隠す。[4056]
技術進歩によって次々と社会的表現手段がもたらされて権力を批判する。有効な批判を展開する媒体は次々と権力に取り込まれる。「批判」と「取り込み」の段階を繰り返して歴史は展開してきた。インターネットが強力な通信手段であることが分かれば、権力は通信を管理する。インターネット上に普遍的な情報通信手段が実現したことで、より新しい表現方法をめぐって批判と取り込みが始まった。物理的媒体をめぐる闘争ではなく、情報の中身と表現をめぐる闘争になる。[4057]


第3項 文化生活

生活必需品は誰にでも必要である。消費しなくては人は生きていけない。消費は生産と連なって代謝秩序をなす。代謝秩序を利用して人間は自らの生活を営む。生産力に応じて消費を限ることができる。必要な消費に応じて生産することができる。個人なら収入と支出を均衡させ、安定した生活ができる。安定した生活にとどまらず、より快適で楽しめる生活が文化を創造する。太古から人間は生活を維持し、生活をより豊かにするための工夫をしてきた。[4058]
物理的存在、生物的存在を超えて人は限りがない欲をもつ。創造力も、想像力も無限の欲を求める。欲がなければ成長できない。創造力は生産力を高め、生活に必要とする以上の消費を可能にする。生活には余裕も必要であり、何が生活に必要かは価値観による。生産力の高まりは価値の自由度を増した。[4059]
価値観の自由度拡大は節度を失わせる。創造力を欠く想像力は収奪によって欲を満たす。生産力、収入を超えた消費=支出は人を収奪することで可能になる。収奪は生産力、収入に依存せず、人の消費欲を押さえる節度を失わせる。いずれにせよ生活に必要な消費を超えた消費は奢侈であり、浪費である。奢侈、浪費をも生活に必要とする価値観によって消費文化が謳歌される。収奪される人は生産に加わる機会を奪われ、収入を奪われる。[4060]
資本主義は生産力の飛躍的拡大と消費文化をもたらした。資本の再生産のためには市場の絶えざる拡張が必要であり、大量消費市場の拡張が必要である。市場の拡張ができなくなれば恐慌に至る。[4061]

【生活文化】

文化は衣食住を中心とする人々の生活のすべてにかかわる。生活が豊かになり、安定するほどより豊かな文化を享受できるようになる。それぞれの社会環境と歴史を経てそれぞれの文化を形作ってきている。「資本の文明化作用」によって多数の人々が余暇時間をもてるようになり、スポーツを含む文化が普及した。[4062]
しかし競争社会では収奪文化になる。作られる富は有限であり、より多く富を消費するには人から奪うしかない。資本主義ではより多くの利潤獲得のためにより多くの消費が奨励される消費文化になる。[4063]

食事は人に不可欠であるだけでなく、文化である。親しい人と、特に家族と会話しながらの食事が基本である。食事は生活を豊かにし、豊かさの表現でもある。食事の豊かさは文化としての楽しみ、多様性の楽しみとしてある。しかし食事を文化として楽しむ余裕が失われている。ファースト・フードが典型である。多様性の豊かさは一年中季節に関わりなく、世界中の食材を食い散らかすことではない。[4064]
消費では量的に豊かになった食生活であるが、質的には貧しくなっている。地域、季節に関わらない大量生産は食材の質を均一化し、個性的質が失われている。肥満、生活習慣病の増加が事実としてある。個人の嗜好の問題ではなく、消費だけでなく、流通、生産からなる経済全体の問題である。その上で人それぞれの価値観が問われる。[4065]

創造文化であるなら限界はない。創造性は無限である。究極を究めようとすると次の次元が現れる。究めた人はわずかでも求める人は多く、究めた人は孤独ではあっても賞賛される。究めた創作物は少数しかつくられない。少数であっても歴史的に蓄積され、多すぎて鑑賞しきれない。物流が発達し、情報の共有が容易になって文化を楽しまないのはもったいない。[4066]

【消費文化】

利用できる地球資源、エネルギーのほとんどを「先進工業国」が消費し、浪費している。生活のための消費をはるかに超えて、消費を増やすために消費される。生活に不要なものを購入させるために厖大な営業、宣伝が行われている。モデルチェンジ、流行づくり等によって買換を煽る。[4067]
機器の便利さ追及は機能を特化させ、用途を限定し、使い方を工夫することがなくなる。特化した道具の利用は消費、経済上の問題だけでなく人の身体的、知的能力にまで影響する。道具を使いこなさなくなり、道具に依存し、多様な道具所有への欲求さえ生まれる。日常では身近な汎用の道具を使いこなすことが生活技術であるが、特化した道具への依存は生活技術を衰えさせる。器用さや、工夫する、自らを訓練する能力が失われる。美しさや、精巧さを追及するには適した特別な道具を必要とするが、それは創造の道具であって消費の道具ではない。[4068]
様々な道具、機器の購入、機器に必要なエネルギーの購入、消耗品の購入と生活に必要なほとんどが商品として購入され、消費されるようになる。衣食住に関わる役務を自ら担うことが減り、購入がますます増える。[4069]
競争社会での消費文化は収奪文化であり、享楽化する。人々の欲求を満たせば不満は生まれない。欲求を封じ、封じた欲求を満たすことで制御できる。享楽は封じるか解き放つかしかない。大量生産、多品種生産、情報通信の発達が欲求を封じ込めることを可能にする。大量生産によって安価な享楽手段を供給する。多品種生産は多様な享楽手段を供給する。情報通信は興味の対象を供給する。安価な享楽を提供することで低所得者が不満を社会的に爆発させずに消失させる。一方でとどまることのない欲求を追求する人々は決して満足できない。肉体か精神を、あるいは心身共に破滅させるしかない。[4070]
消費を拡大することで生産を維持する経済は自国で浪費するだけでなく、世界に浪費を強要する。伝統的生活を守ろうとする国にも市場開放要求を突きつける。[4071]

【宣伝広告】

宣伝広告は経済活動にとどまらず、文化に多大な影響を与える。宣伝広告は経済取引での情報交換、共有として効率的な代謝秩序に役立つ。宣伝広告は必要なものをどの様にして手に入れるかを案内する。手に入れれば役立つものがあることを知らせる。資本主義経済では市場拡大、支配が利潤最大化の基本であり、宣伝広告は情報交換、共有より市場操作手段として発達した。[4072]
商品市場では売り手、特に買い手が納得すれば取は正当化される。品質、価格も買い手が納得すれば正当な商品であり、正当な価格になる。詐欺もごまかしも買い手が納得すれば正当化される。宣伝広告は買い手を納得させる技術を徹底的に追求してきた。納得する買い手を作り出すことが市場を拡大する。競争社会では正当な価値取引では勝ち残ることはできず、人よりより儲けることで競争をより有利に展開できる。市場を納得させた上で、より儲ける取引を展開する。[4073]
今日、科学的であることは人を納得させるのに有効である。科学的根拠があるかのように宣伝することで、健康関連商品が巨大市場を作っている。[4074]
宣伝広告は情報交換、共有をはるかに超えて流行を作り出す。単に多くの人々が購入する流行を作るだけでなく、社会的運動として組織することで買い手と売り手の区別を超えて取引を拡大できる。流行にはならなくても、宣伝広告は欲望を生み出し、煽る。経済的には市場を掘り起こすことであるが、収入が限られた者にとっては惨めさを増すことになる。[4075]
宣伝広告は有効需要を作り出し、景気を良くするする意味では禁止するまでもない。ただ環境問題からして、資源の浪費で問題になる。将来、宣伝広告によって浪費を排し質素な生活でも納得できる生活に戻る役に立つかもしれない。[4076]

宣伝広告の問題は浪費をあくことだけでなく、人を納得させるために不当な手段を使う場合である。サブミナル効果など、当人が自覚できない方法を手段とする場合である。ただ不当性の基準が定まらない。認知症の人を騙すのは許されなくても健常者は騙される方が悪いと言っても、認知症と健常者の線引きができない。[4077]
宣伝広告が強力であり、有害であることはインターネットの世界でも実証された。当初まさに情報の交換と共有を目的としてボランティアに支えられてインターネットは成立したが、商業利用に開放されてからは宣伝広告媒体になってしまった。スパム・メールは正常なメール交換を妨害している。[4078]

宗教は社会的価値を生産しないが、宗教的価値の取引によって物質的制限なく社会的価値を資金として集めることができる。宗教組織は資金を集めることで、組織を拡大することが自己目的化し、営利化する。宗教改革は健全性を取り戻す運動として各時代で繰り返している。[4079]

【文化と経済価値】

社会的物質代謝は生活財を作り出すだけではなく文化も創造する。文化は公的財産である。芸術作品、文化財は個人の財力を超えた社会的富として継承されてきた。個人が創造したものでも芸術作品、文化財は社会的富であり、それぞれの作者の、それぞれの地域社会の、それぞれの国の、そして人類の精華としての公的資産である。[4080]
庶民の創りだす作品は所有を目的とせず、消費されて来た。社会的評価を目指すのではなく、作者と使用者にとっての使いやすさ、美しさを目指した創造性が評価される。庶民の作品は歴史を経て希少になりながら継承されて歴史的価値を担う。庶民の創作であっても歴史的価値を含め、普遍的美が見いだされることで社会的価値、芸術的価値をもつ。[4081]
文化財の創造、継承主体は時代によって異なる。古代国家の頃から権力者によって奨励、収集、継承されてきた。権力者に所有されることで芸術価値とは別に財産価値として社会的に評価され取引された。今日は資本に支援される鑑定者によって選別されて取引される。[4082]
社会的財産である文化財は社会的に共有されるのが本来の有り様である。投機変動する価格ではなく、作品価値として減価しない社会的財産である。人それぞれの命を救うのと同じ価値、人間価値の結晶として公的資産である。[4083]
文化活動そのものは社会代謝過程に基礎づけられている。文化は社会代謝を超えた創造であるが、文化活動は社会代謝によって可能になる。文化的創造を内容としする興行でも収益を見込めないと続かない。競争社会では経済性を考慮しないと文化的価値だけでは存続できない。文化財は物としての価値ではない。作品の売買は文化的であっても文化そのものの創造ではない。ただ作品も売買されなくては継続して作成できない。[4084]
公に鑑賞されて価値は実現する。このことは再現芸術としての演劇や音楽等では本質的である。物としての作品も、再現して表現される作品も鑑賞の環境条件を整えることで価値を実現する。文化は保存だけでなく、鑑賞環境も含めて公的資金で支えられる。鑑賞に受益者負担が発生するにしろ、受益者は鑑賞者だけではない。[4085]


第4項 芸術

芸術に到達点などない。あるのは表現手段の多様化である。人の認識能力についての理解が深まることで、表現の多様化は表現手段の発達史としてある。[4086]


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