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第二部 第三編 社会
第9章 人間の生活
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第9章 人間の生活
人間の生活は社会生活である。ヒトは人間社会に生まれ、人間社会の中で人間へと成長し、社会活動を担う。ヒトの、人間の生活の基本を考える。
[0001]
社会は歴史的であり、現在の歴史的到達点が生活の隅ずみまでを規定している。歴史的に規定されていない生活はない。支配、被支配の関係にある階級社会の歪みは社会生活の隅々にまで及んでいる。しかし、人間の生活には普遍性もある。当面する問題の歴史的規定と普遍的規定とを見通さないと翻弄されてしまう。様々な問題を同列に扱っては本質的解決にはならない。現象的問題と本質的問題とを同列に扱っては現実を肯定する枠組みから出られない。
[0002]
学校教育の荒廃を子供の気質、教師の姿勢、学校制度の問題等としてだけ捉えていたのでは本質的解決にはならない。学校教育に限らず、教育そのものが、そして社会そのものが歪められて様々な問題が生じていることに眼はなかなか向かない。教育がどのように社会的に歪められているかを明らかにすることで、教育の普遍的意味も明らかなる。社会の様々な問題の解決と、教育そのもので実現しなくてはならない問題を区別しつつ、同時に取り組むことが現実的対応である。
[0003]
現に教育を受ける者にとって、個々の問題を解決することは焦眉の課題である。人格が踏みにじられ、生命すら危険にさらされている。教育は人間選別の手段になっている。教育には収入を得るための資格獲得が求められている。それでも教育によって獲得されるべき普遍的能力を、歪められた教育環境の中でも少しでも実現できるようにするしかない。教育政策を作る際も、個々の問題と普遍的問題の関係を考慮する必要がある。
[0004]
ここで人間生活の基本的課題を整理する。個々の問題は、第三部で歴史的到達点としての現状を整理してから扱う。真当な人間生活の基準を探る。真当さは完全性と健全性である。完全性は必要なものが備わっていること、健全性は不用なものが含まれていないことである。
[0005]
第1節 結婚
人生の問題を結婚から始めるのは唐突かも知れない。人生を考え始める人は学びの途中であり、これから就職、就業して結婚を目指すだろうから。それでも、人生の俯瞰は自らの出発点を定めてしまった親の結婚から始まる。人生の始まりである自らの誕生の記憶は誰にもないのだから、代わりとして二度目の結婚へ至る初めの結婚から始める。
[1001]
家庭生活は当人にとって結婚前と結婚後で決定的に異なる。一般的に結婚前は養われ、結婚して養うようになる。また、結婚後は養う家庭内の役割と同時に、社会生活者として対外的責任が問われる。生活者としての責任は結婚に関わらずあるが、結婚によって社会的責任は形式的にも問われる。結婚は社会的に生活単位としての家庭を構えることであり、同時に家庭内での扶助関係を築くことである。
[1002]
家庭は両性の共同生活の場であり、子育ての場であり、社会生活の基本単位である。同性だけの家庭もありえるが、子が生まれないのであるから普遍的ではない。少数者への差別は社会的問題であるが、家庭内の問題を社会的に問う必要はない。
[1003]
家庭生活は結婚を節目としている。結婚は個人にとっても決定的な節目である。
[1004]
【結婚の意志】
結婚は次の世代を育てる人間関係を生活の場として築く。両性の新しい生活を始める共同の意志が基本になる。憲法で定めるまでもない結婚原則である。憲法で定める必要があったのは、歴史的にそれを否定してきたからである。
[1005]
独身のうちは自分の判断にともなう結果は自分で引き受ければ済んだ。結婚により自分の判断結果は配偶者、そして子供へと及ぶ。生活の方向づけといった積極的意志判断だけでなく、何もしないことによる結果も自分たちの生活になる。結果と責任を自分が引き受けるかどうかではなく、結果は自分たちの生活に現れてしまう。自由意志にもとづく契約の責任問題ではない、結果としての生活を受け入れる意志が結婚には必要である。相手が決まってから結婚を決めるのは泥縄である。
[1006]
結婚は他の人格との共同である。自分一人の意志決定も困難なことが多いのに、二人の意志を調整する。経験も価値観も、感じ方も異なる人との共同生活を受け入れるこおになる。自分の生き方と配偶者との生き方を調整する。生き方に止まらず、タオルのたたみ方といった日常的所作まで調整が必要になる。人が異なれば、同じ生き方、同じ生活はありえない。相手に応じて変えることのできる、自分の許容範囲を確かめることで柔軟になれる。自分の許容範囲のによって、相手の選択幅が変わる。相手の許容力に期待したのでは、対等な人間関係は望めない。なにも自分のすべてを変えることはない。妥協ではなく、創造である。自分を変えることとして結婚の意志を固める。自分の生活を変える意志が固まれば、相手の選択が問題になる。
[1007]
【相手の選択】
現実に世界中のすべての異性の中から相手を比較、選択できるわけではない。結婚紹介組織を利用しても限られた相手、限られた時間での選択である。無限の候補者の中から、理想の相手を選択することはできない。そもそも自分自身が理想的人間でもないのに、相手に理想を求めるのは現実離れしている。自分の社会関係の中からしか候補者はでてこない。
[1008]
姿形、体力、学歴、趣味、教養、職業、収入、生き方、目標、生活様式、家庭環境、信仰、政治的立場、人間のあらゆる要素を尺度に、何を基本に選択するか。評価基準の考慮は相手に求める以前に、自分の人間評価、自分自身の評価を行うことになる。相手の選択は自分自身の人間評価基準を公表することである。相手の選択は自分の世界観、人間観の試験になる。自分が人間として何を大切にしているかが、相手の選択に表れる。人間の選択であり、博愛主義では選択はできない。相手をどう見るかと共に、自分自身をどう評価し、伝えるかという問題が返ってくる。選択権は男性のみにあるのではない。
[1009]
ほれた、はれたで長年いっしょに生活できるなら、それもよしである。子供ができたから、子供のために。出世のために。いづれであっても、自分の人間としての判断である。選択基準が何であれ、基準に基づいて計算できることはまずない。論理的に答えが出るものではないし、論理的に答えを出したなら結婚以降も論理的に生活しないと破たんしてしまうのは論理的に確かなことである。論理は説明するための手段であって、論理だけに頼っては相手の選択はできない。人の決断は大脳皮質だけでなされるのではない。感情が決断にとって後悔しないためにも重要である。
[1010]
選択に誤りがあったら離婚し、やり直すのも選択である。より良い選択をするのに遅すぎることはない。しかし、互いの人生の大切な時機の大切な時間を無駄にしない方がより良い。
[1011]
【恋】
恋は大切である。恋は特定の人に夢中になる。夢中になることは異性に限らない。夢中になる対象を持つことは重要なことである。対象に働きかけ、対象の反応を理解し、対象からの働きかけに応える。対象との相互作用の過程で対象を理解し、自らを理解し、自ら力の増大を知る。どの様な駆け引きをするかで、自分の大切にしているもの、こだわりを思い知る。趣味であっても、夢中になり続けることができる対象をえることは、自らを豊かにする。
[1012]
恋することは物事に夢中になること以上である。相手が人間であり、異性であることによって恋することの意義は特別である。対等の人間を相手にすることであるから、思いどおりにならない。対等な恋ができなければ、結婚後も対等な関係はできない。対等でない結婚では両者が共に悟るという幸運に恵まれないなら、せいぜい逆転を願うしかない。対等の人間を相手にして、しかも自らの影響力を最大にする困難は、人間を具体的に理解する契機である。
[1013]
恋は多様である。何のこだわりもなく恋する人も、恋していることを認めようとしない人もいる。自分の感情をそのまま相手に伝えようとする人も、自らの感情処理にこだわる人もいる。多様な恋に対する関わりの組合せで、恋は多様な経験である。普遍的な愛であっても、現れ方は多様である。それぞれの生い立ち、環境によって愛し方、愛され方は違ってくる。愛についての理解や実践などと言うこと以前に感覚、感情が人それぞれに異なる。自分の愛を絶対化してしまったのでは破綻する。
[1014]
異性を相手にすることは、親子の関係から離れて以来の生理的関係である。性交渉に至らなくても、見つめ合うこと、触れることは人間化した生理的関係である。人間の生理は他の動物の生理的関係と違って人間化されている。人間の生理的関係は、社会関係をも反映して感情をともなう全人格的関係である。恥、見栄、嫉妬等生理的関係に根ざした感情体験が、異性理解、人間理解を深める。金では買えない経験である。
[1015]
育てられる中で与えられた人間関係に関わる価値観、感情をないまぜにして、自らの意志による主体的人間観を形成する第2の誕生ともいえる。人に対する様様な肯定的、否定的感情の経験と評価が恋することにはある。感情、意志、理解に関わる肯定、否定の相反し、相補的な分類基準も含めて経験し、評価する。相手に対して、競争相手に対して、そのほかの人との関わることが感情、意志、理解、生理、生活と現実の人間主体としての経験と評価が、人格形成の契機になる。
[1016]
【結婚の形】
結婚は社会的関係であり、結婚の社会的形がある。結婚は相手との配偶関係であり、それまでの双方の家族に対する関係でもある。結婚によりそれまでのそれぞれの社会関係が変わる。
[1017]
結婚は当然ながら式を挙げることではない。結婚式は社会生活の個人的節目として形を整えることに意味がある。式は社会的宣言として、社会的確認として意義がある。どの様な式の形をとるかは、結婚の中身によって異なる。世間体を重視するのか、世間並に憧れるのか、世間に逆らうのか。形を整えるには世間体との関係を無視できないが、それだけが式の目的ではない。
[1018]
結婚の形は家庭の有り様である。人の生き方が様々であるのだから、結婚の形も多様である。互いの生活に応じ、かつ一致した生活が実現できれば結婚の形は多様である。同居、定住は絶対条件ではない。社会的慣習に合わせる努力よりも、実際の生活を築くことに努力する方が賢明である。
[1019]
家庭にも経営管理がある。家庭には相手方に対する、養う者に対する責任がある。共同生活に要する費用負担、家計管理は小遣いの管理とは異なり、傷病への保障、老後まで及ぶ。
[1020]
家事は分担するだけでなく、家庭としてのまとまりとしてある。家事は尽きることがない。食事の支度、清掃、修繕、近所付き合い、どれもそれぞれの家庭条件があり、条件の変動に対応する。対価負担の基準、対応時間の基準、手段の選択等それぞれ生活上での意味づけによって各家庭ごとに定まる。家事でも分担と調整は果てしなく続く。時に感情的な衝突も交えて、その時には意識的な調整が必要になる。
[1021]
家庭での主導権、形も課題ごとに異なる。性による分担ではなく、役割による分担によって定まる。それぞれの家庭の条件によって、時と場合によって適当な方法、手続き、担当がある。家庭内で面子にこだわっていたのでは疲れてしまう。一歩ひいて、結果が良ければ主導権にこだわっていられないことは、幼児の躾から分かる。
[1022]
結婚の持続は相手を理解しようとし続けることにある。相手に興味を持ち続けられることで結婚は継続する。単なる同居生活は形式だけの結婚である。
[1023]
【性】
人間の
性は人間独自である。生殖、種の保存としての意味は他と動物と同じであるが、人間の性はそれにとどまらない。性交だけが性関係ではない。評価としての意味ではなく、存在形態からして人間の性は社会的であり、文化的である。人間の性は個体間関係としての生殖だけではなく、精神的、文化的にも人間的に規定されている。性が生殖だけでなくなるのは人間だけのことではない、ボノボ・チンパンジーの個体関係保障機構としての性的関係がある。性的関係によって個体間の対立を緩衝し安定化させる。
[1024]
人間は生活が社会的に保障されることで、性周期は季節に依存しない。人間は生理的にも社会化されていて「さかり」がない。性交も他の動物と違い基本は対面位であり、応用は実に多様である。肉体的刺激がなくとも「文化的」刺激によって性欲が引き起こされる。ポルノが産業として成り立つ。社会化された性関係は両性間関係以外にもありうる。進化の過程での因果関係はともかくも、社会的に保障された生活環境によって生理的条件が違ってきている。さらに性交が金銭取り引きされ、社会的地位の取引に利用される。
[1025]
性が人間的になることによって精神的、文化的性行為が発達してきた。なによりコミュニケーションによって、性感覚、充足感が異なる。性行為は精神的にも、肉体的にも感覚の解放によって充足される。相手に対する理解と信頼があって肉体的感覚の解放にとどまらず、精神的感覚までも解放できる。逆に良好な性行為は互の人間としての関係を実感、確認できる。射精だけが快感であるとする男性は最低限の満足しか得ていない。金銭などの欲得によって規定される性行為は人間的ではあるが、人間性の解放としての方向とはまったく逆の人間性の現われである。
[1026]
社会によって性が社会的、文化的になったのとは逆に、性によって社会関係が歪むこともある。男女差別、ジェンダーも性による社会、文化の歪みである。性の違いが服装、行為、行動まも社会的に規定する。個人的、個人間の性の問題が社会問題化する。社会問題化そのものではなく、社会関係を歪ませることに問題がある。性、あるいは異性に対する固定観念が社会生活での判断を歪ませる。内心の問題に止まらず、満員電車での痴漢や、痴漢のえん罪は性によって社会関係が歪められている。買春が経済活動としてあり、情報機器の普及には性関係ソフトが鍵を握る。性はHVIによってまったくの社会問題である。
[1027]
哺乳動物や鳥類の生殖は育児に連続している。人間にとっても生殖は子づくりであり、子育てにつながる。性行為は生殖にゆきつくのだから、避妊も含め子育てまでもかかわる。そして、その子育ても人間を育てるのであり、子育ての社会的環境と条件を、親と社会は整える。遊び半分で子をつくっては生活が大変だというだけでなく、人間が人間をつくる過程として大切である。
[1028]
逆に、理性的であろうとする若者にとって性交は絶望的である。性衝動が激しくとも、異性との交際は不可能事に思える。相手を性の対象として思い込む程隔絶する。人間関係であることを認めたなら、実現には特別に難しいものではない。たいていの人々が実践してきたからこそ我々がいる。
[1029]
第2節 子育て
【親子関係】
子育ては親から子への一方的サービス、支配ではない。一方的作用は実在世界にはない。子育てを子への一方的働きかけと思い込む者は、自らの有り様を反省できていない。育児ノイローゼは反省する余裕を持てないからだろう。子供への管理教育を主張する者は、人が育つことに思い至らない、自らの失敗に気づかない思い上がりなのだろう。それぞれ社会的に敗者と勝者と相反して評価されるが、いずれも自分を、親子関係を反省することができていない。
[2001]
親になることは子を生むだけではない。出生届を提出することも大切だが、子を育てることによって親になる。ヒトの子は生まれただけでは生きていけない。生物的にもほ乳類は乳を与えなくては子は生きていられず、生長できない。人間の場合社会関係を取り結ぶことによって生活しているが、社会性は訓練によって身に付く。人間は文化によって生活を豊かにするが、ことばも、物事の理解、表現も社会生活を通した訓練によって身につける。人は子を生んで人間として育てる親子関係の中で親になる。
[2002]
子育てによって人間の基本的な能力、感情、意志、知性の具体的発現を学ぶことができる。子を育てることによって、親が育てられる。教えることにより、育てることによって内容が意識され、理解を深める。親になることによって、自らの人格形成過程を具体的に見直すことができる。怒りは相手のせいよりも、自分の都合による。自分の心理機制を反省することなく身近な、それも弱者である子どもに感情を爆発させることは親の身勝手であり、子の責任ではない。
[2003]
子を育てることによって、客観的に人間の成長を振り返ることができる。人は成長する過程で何も分からない状態から、分かり方も分からない状態から、次第により広く、より確かに物事を理解し、やりとげることができるようになる。自分の成長過程では生長するだけでせいいっぱいである。反省できるようになるのは人間に関わる全体を一応見通せるようになってからである。子を育てることによって、自分の成長過程を振り返ることができる。
[2004]
子育ては人間の成長過程を理解するだけでなく、今現在の自分の有り様を反省する契機でもある。子供に対する責任は自らの社会的義務を問いなおす。子は親自らが直接的責任を負う社会的弱者であり、子育ては社会的弱者との関わりを考える。子が安全、快適に生活するために、親は社会の守るべき規則を考える。挨拶や礼節の尊重は自分一人で生活していた時とは違ってくる。子供にだけ挨拶を強制しても、周囲の人との関係なくして挨拶は成立しない。大人同士が挨拶する関係の中で、子供の挨拶が認められる。親が早起きできて子供に早起きの習慣をつけさせられる。交通道徳は身を守る規則である。手本を示すことで親は交通規則を破る自らの都合を意識する。交通規則を破る程に余裕なく、急がされている生活を意識する。子の都合を理解することで、親自らの生活態度を反省する。
[2005]
子育てでは結果がでなければ善し悪しも定まらない判断を、即座に下さなくてはならないことがある。しゃべれぬ子供が、夜中に痛みで泣きだしたとき、医者をたたき起こしてでも、処置させるべきか、可能な処置をして、様子を見るべきか。人の一生を左右しかねない決定を自分だけの判断でしなくてはならない。命を左右するほどのことでなくても、親の子に対する一つひとつの影響は大きい。
[2006]
子育ては親子の閉じた関係にとどまらない。子育てによって地域社会と結びつくようになる。子育ては親子関係を軸とした物理的、生物的、社会的、人格的諸関係の重層な結節点として世界に開かれた関係である。人間の親子関係は生物的な関係だけでなく、社会的関係であり、文化的関係であり、全人格的な関係である。
[2007]
子育ては他のどの人間関係よりも可能性の大きな関係である。愛憎の深さ、互いの生活への影響の大きさ、相手の生き方への多様な関与で他の人間関係に比べて、最も大きな可能性を持っている。互いの人生を豊かにする大きな可能性がある。子育てできるということは、親自身にとっての豊かさの可能性である。老後の豊かさだけではない。
[2008]
【生むこと】
子を生むことは生理的に母親にしかできない。しかし、子を生むことは男女、両親の関係があって子は生まれる。生理的に子を産み、授乳するのが女性であるからと言って、子育てを母親の役割として押しつけるのは男の、社会の身勝手である。子育てには全人格的な大きな負担がかかる。それを仕事として分担してしまうのは人間関係を、時代社会的関係におとしめることになる。子育ては普遍的であり、基本的な人間関係である。それを歴史的にも一時的な今の社会関係で規定して分担してしまうのは皮相的である。大変ではあるが、豊かで楽しい子育てを女性にだけ預けるのはもったいない。それを許さない社会は歪んでいる。個人の選択問題ではなく、選択を許す社会が真当な社会である。
[2009]
真当であれば親は子供の幸せを願う。可能な最高の生育環境、条件で子を産み、育てたいと努める。生育環境、条件は親の生き方を基礎にしている。生活資源を親自身の人生と、子供の人生にどの様に割り振るか、時に対立することもある。夫婦の間でも生活資源配分の折り合いは難しいが、子は対等に争うことができない。親子どちらかにすべてを注ぐことはできず、親の思いだけで決まってしまう。結論は一つしかとりようがないわけで、折り合うことになる。子に注ぐのは金銭だけでなく体力、知力、時間もであり、親の生き方にかかわる。普通は「あの人の子」と子が評価されるが、「あの人の親」として子を育てたことで親が評価されることもある。作品によって作者が評価されるように、子を育てることにも自己満足にとどまらない価値がある。
[2010]
親に限らず「犠牲」は客観的評価で言えることであって、進んで負担を負う者にとっては「犠牲」ではない。基準は当人にとって明確であり、考え方、解釈の違いではない。犠牲と思い犠牲になるのは犠牲になる本人にとっても、相手にとっても良い結果にはならない。親子の関係は損得の関係ではないのだから。自ら「犠牲」と思うなら進んで負担を負うことはない。まして周囲が、社会が犠牲を強いることは許されない。
[2011]
人間の場合、子は生きるために親の全面的働き掛けを必要とする。新生児は気温、湿度、安全等の物理的環境を整えてやらねば生存できない。新生児は呼吸、授乳、排せつ等の生理的条件をも整えてやらねばならない。初乳によって当面の免疫を与えるという。授乳を基本とするスキンシップは初期の感情形成に作用する。授乳だけがスキンシップではない。沐浴も、着替えも、運動もスキンシップであり、女性だけの特権ではない。
[2012]
人間の感覚は生まれる前から活発である。乳児は意識できず、生長してからも当然に覚えていないが、生きて生長する感覚は感覚の基礎を作る。感覚は感じる経験によって成り立つ。感覚の統合的記憶である感情も作られる。
[2013]
幼児体験の大切さを主張すると「泥遊びが何の役に立つ」と反論される。「泥遊び」と「役に立つ」こと、それぞれの理解が問題になる。どのような遊びをするかではなく、夢中で気持ちよい、気持ち悪い体験を主体的に経験することで自然環境や人工環境を実体的に理解する。様々な物の感じのわずかな違い、力加減の微妙さを体得するのが幼児遊びの大切さである。役に立つのは個々の技術ではなく、達成感や挫折感を経験し、好奇心を広げ、集中する訓練が役に立つのである。そしてなにより人と人との肉体的関係、知的関係、社会的関係を学び、身につける。遠慮のない自己主張の衝突は幼児期の特権であり、成人してから実践する者には社会が迷惑する。
[2014]
親の配慮は意識し、努めることだけではない。まだしゃべれない子に対して大人はいわば育児語を使う。子に対して大人は高い音程、ゆっくりした速度、誇張した抑揚の育児語を意識せずに使う。子とのコミュニケーションを楽しむことで自然に育児語を使い、育児語によって子は母語を急速に身につける。支配し、導くには責任が問われるが、責任を問う支配関係ではなく、心地よい信頼関係でのコミュニケーションによって育児は成り立つ。
[2015]
これらの生育環境は親子だけの関係ではなく社会的に実現される。これら生育環境を整えることも子を生むことである。少子化問題は単に人口確保に止まったら解決しない。単に親の世代の生活水準保障、子育て支援では解決しない。より豊かになる社会展望がもてなくては本質的解決にならない。
[2016]
【優生】
親は子供の健康を願い、様々な努力をする。より良い子をもうけるために配偶者を選ぶ者すらいる。生物進化は意志によらないその結果である。親の願いに止まらず、医学の進歩は選択の可能性を増やしてきた。男女の産み分けは親のエゴと片づけることもできるが、障害は深刻な問題になる。
[2017]
障害は不幸と決めつける人々がいる。健常であるからといって幸せになれる保証はないのに。決めつけるのは親や社会である。幸せは生き方によって決まるのであり、客観的条件は変えようがない。変えられる主体的条件を変えようとしないことで不幸になる。障害の有無と幸せとは別の事柄である。障害があれば困難を伴うが、困難なことをもって障害とみなされてしまう。障害と定義されることで障害になる。
[2018]
健常者と障害者の区別は絶対的ではない。車椅子に乗ったり、白杖を持ったりすれば違いは明らかなようだが、乗るなり持つなりですら決定的ではない。その日の調子、治療によっても変わってくる。障害は部分的である。障害が全てに及ぶことが死であり、生きている限り健常な部分がある。遺伝子は客観的な根拠と思われがちだが、遺伝子は直接障害を規定していない。
[2019]
何の障害も持たない健常者は希である。障害と呼ばないまでも得手不得手の違いがある。障害は補い合って、健常な部分では大いに能力を発揮することができる。障害がなくても、健常な能力を発揮するためには教育、訓練の社会的制度が必要である。道具によって、設備・施設によってもてる能力は発揮される。
[2020]
競争社会では障害は悪である。障害があれば保障しなくてはならない。社会保障の負担が増えれば社会は発展できない。皆にとって不幸である。さらに、「生物進化は障害を遺伝させないことで実現してきた」とも付け加える。競争社会の行き着く先は優生政策であり、断種、さらには民族絶滅である。
[2021]
競争社会での能力は人より大きな利益を得ている者に役立つかどうかで判断される。相互に役に立つことではなく、特定の利益の役に立つことで人間が判断される。多様性を否定する判断であり、世界の発展方向に反する。得手不得手、障害を補い合って生きることが人間の生き方である。肉体的に、精神的に、そして何より感情的に補い合うことに真当な人間社会の有り様がある。
[2022]
私は余裕のある時は障害者、病人、けが人に対して手助けしようかと思う。しかし、一見健常者に対しては競争相手としか見なさないことを反省する。競争社会に暮らすと劣等感と優越感に支配されてしまうようだ。
[2023]
避けられる障害は避ける。しかし、障害は100%の確率で現れるわけではない。すすんで障害を求めることはないが、あえて希望を求めることもある。子を求める人の思いは他人には計り知れない。避けきれなかったことで責任を追及し、責任を負わせることはできない。
[2024]
現実的問題は困難であることによって差別されることである。差別によって引き起こされる困難が、困難を乗り越えがたくしている。
[2025]
生命科学は遺伝子を次々に発見し、診断方法、処置方法を発達させ、障害の有無をDNAから明らかにする。遺伝子操作技術の発達により遺伝形質を組み合わせたデザイン・ベビーが話題になっている。人の好みが性淘汰となって表れるには生物的過程が介在する。人の好みでの遺伝子操作は生物的過程を人工的に操作することになる。人の好みと言っても理想の人間像など誰も描けない。われわれは歴史的到達点で今の姿をしているにすぎない。せいぜい周囲の人を見比べて、しかも、それぞれ個人的理想像を描いているにすぎない。普遍性の保証もない「理想像」で子を産んでも理想的な人間など育つ保証にならない。
[2026]
現実的には両親の良いところが伝わるように願うだけだ。両親の遺伝子は混ざり合って1人分の遺伝子になるのだから、組合せは偶然である。個人的価値基準で設計するより、自然の偶然な組合せにまかせるほうが個人的責任を負わずにすむ。
[2027]
【才能】
才能は特別な能力のことではなく、人間の可能性のことである。生きるだけでも多様な能力を必要とするが、能力は訓練されなければ実現しない。訓練には適切な時期があり、適切な環境が必要である。
[2028]
人の成長も肉体的、精神的に段階がある。肉体的、精神的訓練によって子どもの可能性は実現する。見ることも成長の段階で獲得される能力である。適切な段階に「見る」訓練をしなくては、大脳皮質視覚野は他の機能に使われて、神経細胞は正常でも視覚認識ができなくなる。生理的能力だけでなく、文化的能力でも母語の獲得のように臨界期がある。器楽の演奏能力も幼児期の訓練が重要であると言われる。能力実現の臨界期は能力ごとに違うし、臨界期の決定性の違いもある。誰にでもある基本的可能性であっても、特別な可能性であっても条件が整えられなければ実現しない。
[2029]
能力には生活に必要な能力も、生活を豊かにする能力もある。生理代謝に基礎代謝と運動代謝があるように。基本的生活が成り立った上でより豊かな生活を目指すのが確実なようであるが、生理代謝も、人間の能力も画然と区分はできない。特に人間の能力は全人格的であり、多様な能力の総体として一つの人格が実現している。人間は基体が皆同じで修飾が多様な着せ替え人形ではない。天才の奇矯ぶりは凡人には理解できない。
[2030]
親に、社会にできることは子の能力をすべて伸ばせるように育てることと、欠ける能力を保障し、助け合える環境を作ることである。生活に必要な能力は分かりやすい。分かりやすいが育てるのは難しい。社会が歪んでいる中で歪まない子を育てるのは難しい。親達が社会の歪みを感じなければなおのこと難しい。生活に必要な能力に関わる教育問題は社会の歪みの問題である。子は社会の鏡であるとはよく言ったものだ。言うだけでなく、実際に子の生育環境を直接整えるのはそれぞれの親であり、社会のせいにしておけない。
[2031]
特別であれ、普通であれ可能性の実現は生活としてであり、子供の場合には大人の配慮が必要である。大人の配慮は意識した生活訓練である。生物としての可能性、社会的可能性、文化的可能性は訓練によって実現し伸びる。大人にできることは目標を定めた訓練ができるような条件を整え、動機付けすることである。実際に可能性を実現するのは当の子供自身である。可能性があれば集中力、継続力、計画性は子自身の訓練で鍛えられる。好きなことには夢中になれる。
[2032]
強制では可能性は実現しない。強制できるのは型にはまることである。型にはまることは可能性を制限し、つぶすことである。可能性は主体的、自主的訓練によって実現する。強制が必要になるのは相手の対応が手に余るからである。人と人との相互関係で相手への要求が受け入れられなくなって強制に訴えることになる。養育関係にある大人と子の関係で強制に訴えることは関係の破たんを表す。
[2033]
訓練は個別的失敗の場である。失敗を経ない成功は偶然である。自力での成功、できるようになることで、失敗しなくなる。失敗しても取り返しのできる環境を整えることが親の、周囲の役割である。始めから歩ける人はいない。歩けるようになることは、転ばないで平衡をとれるようになることである。結論を自信を持って主張できるのは、誤りをすべて明らかにすることによってである。驕りは失敗経験の欠如ではなく、安易な目標設定と過保護な環境、評価にとづく過信である。思い上がりは自らを浮かす。そして周囲を見下す。
[2034]
挫折感ではなく達成感によって成長する。挫折により他の可能性を探り、より広い可能性へ向かうことができる。挫折により自らの到達点を確認することができる。現実を踏まえるには挫折は良い契機である。挫折により反省することができ、停止するのではなく新しい可能性を見出す。可能性に向かって自己を超えるには、自らが成長している実感によって励まされる。周囲からほめられることも励みとなって成長を促すが、人の、社会の思惑を超えて成長できるのは達成経験の積み重ねによってである。
[2035]
親は子と正面で向き合うことも、背中を見せることも、背中を押すことも、その時々できること、できるだけのことで子に接する。親であってもすべてのことを子に教えることはできない。自分のすべてを子に伝えることもできない。
[2036]
すべての子に、すべての物が、その子にとって未知の秩序、新しい秩序として現れている。世界の秩序をこなし、自らの秩序を実現することとして成長する。一人として同じ人間でないように、それぞれ違った能力を発揮する。それぞれ特別な才能があるが、特別の中にも特別がある。その中で人とは違った秩序を見出し、創りだし、表現する特別な才能が現れる。特別な才能は子も大人も区別はない。一個の人間の創造性である。未知の秩序、新しい秩序を見出し、創りだし、表現する能力である。この特別性を評価し、育てることが難しい。物の性能試験のように画一的に評価できない。画一的に評価できるなら特別ではないし、創造的ではない。
[2037]
子の特別な可能性、特別な才能はその子だけのものではなく、社会のものである。子の特別な可能性を的確に理解すること自体が親にとっては難しいことであり、職業教師であってもむすかしい。特別な可能性を育てることは特別であるからこそ、それぞれ個人的であり、それぞれの家庭で条件を整えることは難しい。その子のためにだけ特別の配慮をするのは公平でない、「民主的」でないとするのは人間の多様性の尊さを否定する。
[2038]
才能を評価し、育てる才能もまた特別な才能である。その特別の可能性を評価できずに埋もれさせてしまうのはもったいない。
[2039]
特別な才能であっても、普通の才能であっても可能性はすべて実現する保証はない。現実は様々な偶然の出会いと、偶然の結果としてある。明らかになった才能は本人が育て、そして皆で育てる。しかし、結果は本人が引き受けるしかない。どの才能に賭けるか、どの出会い、環境を選択するかは自己責任で決めるしかない。一個の人間の有り様として決めるしかない。
[2040]
【文化の継承】
文化は遺伝によらない継承である。遺伝によらない継承能力も遺伝的に進化してきた。他の個体行為をまねる、自己を意識する、他者行為の意味を理解する能力は遺伝している。遺伝はしていても発現しなくてはその能力は現れない。社会生活することで、教育されることで発現する。文化は社会関係を担うこと、教育されることで継承される。文化は遺伝によらないから急速に普及し、急速に発展する。また急速に衰え、消失するのも遺伝によらない文化である。
[2041]
文化を継承する能力は生物としてのヒトを育てる過程が基礎にある。大脳に言語中枢があっても、ことばを交わす環境がなければ言語を獲得することはできない。ミラー・ニューロンがあっても社会関係がなければ他の個体の行為を理解する能力は発現しない。ヒトの生物としての文化を継承する能力は養育されることで発現可能になる。
[2042]
文化の継承は「まねる」ことから始まる。まねることは意識以前にヒトの生物的能力としてある。社会生活が可能なのは他個体と同調する能力によっている。宮崎県幸島のニホンザルの芋洗い「文化」も、同じ環境で同調することで結果として経験を「まねる」「文化」として普及、継承された。人の言語獲得も意味を理解し、意味をコミュニケートする以前にまねることが契機になる。言語以前のコミュニケートでまねる能力の実現と、経験によって言語獲得が可能になる。
[2043]
「まねる」ことは技術継承の基礎でもある。運動技術、操作技術はまねることで継承される。記号化された知識の継承ではない、実在の意味の継承である。「コツ」とよばれるものは「まね」て、こなしてみないと理解できない。知識のように直接継承できない。そして、継承されたものがまったく同じである保証はない。「まね」ができたかは反省して意味評価によって判断される。同じ意味を実現できているかで判断される。「まね」て同じ結果を作り出すことができ、納得できることで「まね」ができる。実践経験を介して継承されるのが「まね」である。伝えられる意味は直接ではなく、実践経験を介して間接的に継承される。
[2044]
生きるに必要な能力は生物は皆もっている。多くのほ乳類は数を数えることはできなくても、数量関係を理解することはできる。敵と味方の数量関係を理解して戦うなり逃げるなり判断している。人間が他の生物と違うのは生きることを意味づけることにある。生きることを反省し、どう生きるかを選択することに人間の生き方の特徴がある。世界の意味づけが文化である。人間は数量関係を数で表すことで関係の意味を共有する。意味を記号表現することで文化は共有、継承される。記号化された意味によって反省は反省され階=クラスを重ねて発展する。文化は階層を成す意味の記号表現として継承される。
[2045]
生活実践技術としての文化がまずある。生活実践技術を説明するものとして知識がある。生活実践技術の作り出すものの意味を説明する論理が知識である。技術そのものを説明する論理が知識である。意味間の関係を説明するものとして知識は論理的に階を重ね、階層をより高く、より抽象的な論理を構築していく。意味、論理を表現する記号を説明する知識を階層化する。知識は実在を、そこでの技術を反省し、説明する表現である。知識自体が文化として継承される。しかし決して、知識だけが文化ではない。
[2046]
美術、音楽、芸能等といった作品が残されるのが文化の継承ではない。それらが作り続けられること、それらが鑑賞し続けられることが文化の継承である。人々の生活と関わることで作り続けられ、鑑賞される。人々の生活にそれらが意味づけられることで継承される。美的にも、技術的にも、歴史的にも価値のある国宝とされるものから、より基本的、日常的生活の場で使われる技術、作品までが文化を構成する。家庭生活環境、職場環境、教育環境、通勤通学環境、余暇環境等、そこに空間的、時間的対象として文化がある。享受する条件、環境を整えること自体が文化である。文化的生活を求め、実現する欲求を育てることが文化教育である。
[2047]
文化を受け入れ、継承することはだれでも基本的に可能である。しかし、文化を発展させることのできる資質は特別であり、大切に育てる価値がある。日常生活の中に文化活動が普及し、文化実践が社会制度としても整うことによって才能が発見され、育てられる。才能あるものだけが専門家として教育されるだけでなく、社会が文化的に育つことで受け入れられ育つ。そもそも才能のあるなしを的確に判断できるシステムはそうはない。それぞれの才能を実現することとして、文化は社会的に豊かになる。
[2048]
文化活動は、その活動に限らず世界の中で生起する問題との日常的関わりを探り、実践することによって新しい文化を創造する。文化は人間の活動すべてに関わるものである。文化は人間の活動の方向性を示すものである。
[2049]
【親離れ、子離れ】
いつか子は自立する。子にとって生活のすべてが自立を目指した訓練である。自我を意識するようになると、親を客観視するようになる。親を客観化することで社会を理解する。社会を理解し、親を理解することで自らを理解する。理解が一機にできあがるわけもなく、成長段階毎に肯定と否定を繰り返し、次第に深まる。
[2050]
子自身が自律できる生活範囲を広げ、生活を見通せつようになることで親への従属から自立する。自らの自立した生活を順調に開始できることもあれば、就学、就職、結婚等を契機として自立しなくてはならないこともある。実際の生活が親元から離れることによって、客観条件によって自立を迫られる。客観条件と主体条件が整合しないと感情は動揺する。自らの生活を転換させ、自ら責任を負うことの不安と期待と向き合うことになる。
[2051]
客観条件があってもそれだけで主体的に自立できるとは限らない。ただ、繰り返すことでよりよく自立することはできる。自ら自立できたと感じられるのは、自立してから相当の月日を過ごしてからである。
[2052]
主観的には親から教わったことを経験して確かめ、理解し終えたと感じることが親離れである。一度や二度で最終的な親離れができることはなくても、親の教えの全体が見えるようになれば最終も近い。親から教わったことが少なければ、あるいは多様な経験に恵まれれば親離れは早い。
[2053]
親子は互いに相手の人生に責任を持つことも、とって代わることもできない。すべてを前もって教えることもできない。生き方を押しつけることはできないが、親子のつながりは互いの成長の中で強まる。そして、子どもの自立が独立したそれぞれの生活の始まりである。子どもの自立によって、親は改めて自立し子離れする。
[2054]
親が人格的に自立できない場合、親離れよりも子離れが問題になる。子離れは子との関係だけでない。対等な人間としての配偶者とも関係する。配偶者に従属していては、子にも依存する。金銭的にはともかく、子に自らの存在価値を託して精神的に従属してしまう。社会関係でも社会人として自立できていない親は子の自立を理解できない。親自らが自立することで子離れできる。子供を独立した人格として認められるように、自らの人格を見つめ直すことが子離れである。
[2055]
子離れで感情的に動揺することは致し方ない。自らの自立を確かめ、何かを試みて気分転換するしかない。
[2056]
第3節 教育・学習
【教育・学習の意義】
教育・学習の意義は社会代謝の担い手の育成と、文化の継承である。人間であるために学習は欠かせない。
[3001]
より発展した社会ほどより教育を必要とする。生産を維持するためにも、社会規範を維持するためにも、社会をより発展させるためにも教育は欠かせない。教育は学習者自身だけのためではなく、社会を担う構成員を育て維持する。だからこそ社会が教育費用等を負担する。それぞれが生活手段を手にするために、社会的地位を獲得するために、選別のために、社会的義務を猶予するためにだけ教育があるのではない。
[3002]
不足するのはシステム・エンジニアだけではない。科学者も専門化によって専門分野で議論する頭数か不足し、検証が不十分になりつつある。直接的生産労働が軽減されるのとは逆に、知的労働が増えないと社会を維持できなくなる。知的労働には長期の学習が必要である。より多くの人々が学習することで、全体の知性を高めることで個人の知的能力も伸ばされる。知性を評価するのは知性である。
[3003]
労働技術を更新するため、再就職の為にも生涯学習がある。生涯を通じて社会を担えるよう学ぶ。その時の社会で使われる技術、知識を学ぶ。最新の技術、知識を全員が身につける必要はないが、それぞれの必要な技術、知識を学ばなくては社会は成り立たない。社会の基本的技術、知識は普及しないと社会を停滞させる。例えば、情報媒体の操作、情報の操作、情報の意味理解が普及しなくては情報共有はできない。情報共有は互いの情報発信がなくては一方的な垂れ流しか、死蔵になってしまう。
[3004]
知的好奇心を満たすためにも生涯学習はある。またそれぞれの経験を、社会に反映するには反映方法、手段を学ぶ必要がある。学会に報告するには研究者の資格をえて可能になる。評価される場にたどり着くことで作品を発表することができる。社会との関係を学んで、それぞれの経験、成果を社会に反映することができる。
[3005]
文化の継承は社会の構成員一人一人が継承することと、専門家が継承することの統一としてある。学問の専門だけでなく、芸術ではなおさら一般に受け入れられることで発展する。専門家だけに評価される仕事は、経済社会的に支えられない。仕事の意味が一般に理解されることで普及する。社会一般が一様に理解する事はなくても、啓蒙者、解説者等を介して理解は普及する。一般の理解によって専門分野へ社会的資源は割り当てられる。文化は社会の構成員すべての生活を向上、充実させる。文化活動はすべての構成員の生活で生かされ、発展の方向が定まる。
[3006]
すべての構成員が文化のすべてにわたって継承することは不可能である。それぞれの分野がある。またそれぞれの分野を継承し、発展させるためには専門化も必要である。専門家の育成も教育である。専門家は社会の構成員の中から教育される。社会の構成員一人一人の中から専門家が教育される。
[3007]
才能を特別な機会を設けて発掘などしなくても見分けられるほどに、一人一人の資質を発現できるような教育が理想である。広い人材の中から、すれた才能が育つ。
[3008]
【教育・学習の課題】
教育・学習は文化媒体の操作能力、知識・技能の修得、問題の発見・解決能力の獲得である。知的能力であるが、知的能力は体力に支えられ、感覚によって研ぎ澄まされ、感情によって豊かになる。
[3009]
文化の媒体である言葉を聞き、話し、読み、書く能力が知的能力の基本にある。聴覚障害があっても手話言語で話し、容易に考えることができる。媒体が何であれ、人は言語を使える能力を基本的に備えている。ただし、無意識であっても教育・学習によって言語能力は実現する。無意識の言語利用にとどまらず、意識的な論理的操作訓練によって物事を明確化し、自分に、他の人に説明できる。
[3010]
人には言語だけでなく数量を量る能力も基本的に備わっている。比較しての大小、多少の把握はヒトでなくてもできる。人も感覚的に数量関係を把握できる。人は訓練によって抽象的記号である数の関係を取り扱う計算ができる。自然数を扱うことは自然数の定義を覚えることとは違う。対象とする物をそれぞれ区別し、数との対応関係を把握することで数えることができる。対象物のそれぞれを区別できる性質として把握すること、数との対応関係が普遍的であることを数える経験によって学ぶ。数える経験によって自然数を理解し、自然数の理解は「0」の理解、無限の理解へ発展する。数関係の普遍性を理解できることで負数、実数、虚数も数として理解可能になる。論理関係をたどるなら必ずたどり着く。
[3011]
言語、数を扱う能力の基礎には表象を描く能力がある。実在の対象に働きかけるだけでなく、対象を表象として描く感覚能力は中枢神経系、大脳皮質の発達によってできた。大脳皮質は生まれたままで完成している器官ではない。大脳皮質の神経細胞網には経験をとおして形成される可塑性がある。経験しないと大脳皮質は機能しない。教育・学習によって大脳皮質はよりよくできあがる。随意筋と同じに大脳皮質は意識的に訓練可能な器官である。
[3012]
表象を描く能力の限界は明らかではない。形、色、音、臭い、味、触感は物理化学的には一義的に定義可能でも、感覚を介して作られる表象は限りない階調をなし、組み合わさる。表象を描き、表現することは意識的に訓練しなくてもできる。しかし、よりよく描き、表現することは訓練すればするほどより豊かになる。芸術の愉しみ、表現は教育・学習によってより豊かになる。
[3013]
さらに文化を現実に媒介している文書、図書、通信等の媒体、道具、機器、設備、施設、そして制度も利用技術を必要とする。利用技術は知識としてまず与えられる。一つの知識も歴史的到達点にあり、それ一つを知っているだけで発揮できる技術的効果は、一人で工夫して到達できる範囲を大きく超える。パソコンの利用はその象徴である。学習は知識を覚え、利用するにとどまらない。知識の対象である物事を理解し、身につけることで応用可能になる。理解すれば、知識が無くても利用できる。知識だけでは応用できない。
[3014]
さらに人間の本質である主体性を確立する為にも教育・学習がある。人間の主体性は未来への働きかけである。世界をより広く、より深く理解することで、自分の位置づけはより確かになり、自分の方向性はより明確になる。自分の位置、方向が明確になるほどに主体性は確固になる。
[3015]
第4節 労働
【人間生活の基礎】
人間及び人間社会の物質代謝を実現しているのが労働であり、ヒトを人間として進化させたのも、成長させるのも労働である。
[4001]
労働は秩序を組み替え、秩序を維持し、秩序を創造する。ヒトの生物としての代謝秩序、人社会の物質代謝秩序は自然の物質代謝秩序を組み替え、自らの秩序を維持し、より発展的秩序を創り出すこととしてある。秩序を維持できなくなる時、ヒトは死に、社会は滅びる。代謝秩序を担い、働きかけることが労働である。
[4002]
労働をとおして人は対象の秩序を見通し、秩序の組み替え方を実践的に学ぶ。対象の秩序に働きかけることができるから自らの秩序を維持できる。対象の秩序を見通し、利用できないなら食料も手に入れることはできず、敵から逃れることもできない。生活の基礎を支え、実現しているのが労働である。
[4003]
社会的に価格づけされる、報酬を伴う仕事だけが労働ではない。家事労働も必要不可欠な労働である。社会代謝は経済関係の範囲にとどまらない。生活廃棄物、人の生理的排拙物までも量によっては社会的に処理をして自然環境に調和させなくては代謝秩序は維持できない。
[4004]
労働は社会的代謝そのものが目的ではない。社会代謝を維持することは絶対不可欠な労働ではあるが、人間生活の実現を目的として社会代謝秩序は維持される。人間生活の実現が労働本来の目的であり、人間が生きることを実現している。労働は生活のための手段ではなく、本来生きることそのものである。余暇は労働の目的ではなく、労働維持を目的にある。
[4005]
【就業】
すべての労働の能力と意志のある人に労働を保証するのが社会代謝の理想である。労働は社会代謝を維持するための義務であると共に、自己実現の権利である。自営業、被雇用者等の就業形態の違いを問わず、労働は社会的代謝を実現する。労働として人間の社会的存在を実現する。
[4006]
社会発展として分業と協業も複雑になる。生活に必要な物のほとんどすべてを社会に依存し、それぞれの労働の報酬として受け取る。それぞれの労働は分業と協業関係として、社会代謝過程のごく一部分を担う。労働は多様化し、担当する作業の細分化により、それぞれの担当する位置、全体の動きは見えにくくはなるが、私的活動と社会的運動は労働として統一されている。社会の運動との関わりがあって、自らの方向性が定まる。一人で成し遂げることに価値がある仕事もあるが、その価値を認め受け入れるのは社会である。社会によって扶養され、生かされるのでは自らの方向性は定まらない。
[4007]
社会代謝秩序が整うことで代謝を担う労働の分担機能が形式として固まる。互いの関連が形式的に規定され、仕事が定義される。行き着く到達点が接客の挨拶マニュアルである。本来仕事は新しい秩序を創りだすことであったが、秩序を保守することが仕事になってしまう。社会代謝秩序を担う仕事は不可欠であるが、秩序を保守する秩序を仕事にするようになる。官僚化は役人だけのことではない。
[4008]
商品社会での仕事は商品取引になる。人と取引し、商品を売ることが仕事になる。取引し、売ることの技術が発達する。市場調査や、宣伝が仕事になる。人の弱みにつけ込むことも仕事になる。不用な物まで必要と思い込ませることが仕事になる。こうした買わせるための仕事は社会代謝を不健全にする。
[4009]
就業の基本的形は様々な職業形態として、社会代謝の発展段階によって既定されている。業種としても、業種内の個々の労働形態としても基本的に既定されている。昔からの製品を作り出すにしても、社会の流通への供給形態は今の時代の形態を取らなくては社会的に受け入れられない。農耕は人間社会の当初からあったが、今日の商品経済での形態をとることを要求される。たとえば生産方法が技術的に改良されるだけでなく、これからは産地、時期、生産者名、加工過程の開示を求められるようになる。職業形態が変化するだけでなく、新しい職業が生まれたり、廃れたりしてきた。
[4010]
人それぞれに成長する過程で社会と自分について学び、どのように就業するかを選択する。なにより自分の生き方として就業を選択する。社会の有り様によって、既定の職業を自己実現の場として選択できる場合と、職業としては自己実現の場を見いだせない場合とがある。既定の職業に添わないのであれば、新しい職業を作り出すか、生活のための就業と自己実現の場とを分けることになる。仕事を生き甲斐とするか、仕事は生活手段として割り切るかで生き方、仕事の仕方は違う。
[4011]
【人間労働】
仕事が生き甲斐であるか、生活手段であるかにかかわらず、仕事は人間労働であり、社会代謝を担う。仕事は普遍的な人間労働としてある。
[4012]
人間は労働の意味を理解して労働する。社会代謝で担う労働の意味を理解するのが人間労働である。定められた手順を守るだけでは人間の労働ではない。定められた手順を守ることが必要な労働もあるが、手順を定めた条件を理解するのが人間である。手順を定めた条件が合わなくなった時に気づくのが人間である。個々の工程は繰り返しであっても、その組み合わせ、環境条件、主体的条件の変化がある。事前に定式化できない変化に対応するのが人間の労働である。どの仕事も変化に対応することを人間の労働に求めている。
[4013]
発展的仕事は未知への対応である。未知は既知の変化として現れる。繰り返される仕事であっても変化の要因は様々あり、通常の過程では現れていなかった要因が、条件の変化で顕在化することもある。既知の事柄を整理し、関係する要素を把握しておくことも仕事である。変化の可能性を予測しておくことも仕事である。変化への対応を準備しておくことも仕事である。
[4014]
仕事自体の変化もある。新しい技術、新しい要求によって仕事の方向性、基準が変わる。こうした変化は直接仕事の中には現れない。科学技術の動向、社会経済問題として提起され、それが社会的に普遍化されてそれぞれの仕事に影響する。仕事環境変化への対応も仕事である。
[4015]
社会組織にあって権限にふさわしくない地位に就く者はこうした変化に対応しない。変化に対して、地位と権限に固執し、それぞれに求められている対応を怠り、対応を妨害したりする。そうした人間を変え、あるいは代えるのも仕事である。
[4016]
人間は誤りを犯す。誤りを犯さないように万全の注意を払う必要のある仕事もあるが、誤りを完全に防ぐことはできない。注意しても、また注意しきれない誤りは生じる。誤りを速やかに正すことも仕事である。誤りの正し方にも仕事に応じた方法、形式がある。ほとんどの仕事は誤りを防ぐ多大な労力よりも、生じた誤りを正すことのほうが効率として良い。
[4017]
関連する人の誤りに対して応援するのも仕事である。共同による仕事は、効率だけのためにあるのではない。個々の誤りを全体として正していく、組織的運動としてある。本来人間の労働は連帯した運動である。
[4018]
組織の先端を担い続けることは難しい。冬山のラッセルのように交替して担う仕事もある。長期にわたって先端に留まるのは、祭り上げられているか、後進が育っていないかである。それとも社会が必要としていない仕事かである。
[4019]
第5節 相互扶助
【共同】
社会は競争の場でもあるが、基本となるのは相互扶助である。ヒトは共同し分担することで物質代謝を社会化し、自らを人間として形成してきた。性の違い、年齢の違い、能力の違いによって分担し、共同して生活する。相互扶助の基本の上で競争は成り立つ。
[5001]
生活を共同して支え合うことにとどまらない。人は他の人との関係に存在しているのであり、人と人との関係は対立ではない。意識の主要な表現がことばによって成り立っており、ことばは人々の関係で学ぶ。意識の表現も人々の関係に成り立つ。
[5002]
自立心が強ければ自分と社会とを対立として解釈してしまうが、それでも危機状況で対立は相互依存に救われる。個人は被災し、重傷を負い、重病になるとパニックに陥る。個人のパニックを救うのは社会である。逆に社会もパニックを起こす。社会のパニックは急激なものだけに限られない。全体主義化の始まりは急激ではない。社会の動きが責任の所在が不明なまま変化していく。変化が閾値を超えると急激な全体主義化が現れ、個人の力ではどうすることもできなくなる。それでも社会のパニックを救えるのは真当な個人である。個人のパニックは社会が救い、社会のパニックは個人が救う。人間は相互扶助なくして真当な生活はできない。相互扶助の関係にあって真当な生活を保障される。保証されるのは可能性であって、保障するのは現実の人間関係でである。
[5003]
【競争】
競争は全面否定すべき事ではない。競争は社会発展を方向づけ、人の共同を活性化する積極的意義がある。ライバル関係は緊張を生む。栄誉は努力への社会的評価である。
[5004]
競争の否定すべきは格差を作りだすことである。競争の結果はひき続く競争を不平等にする。以前の競争の結果がひき続く競争の手段となり競争は競争でなくなる。支配・被支配の社会では、競争は競争でなく支配収奪の手段になる。そこでの相互扶助は被支配者の間の救済か、支配収奪を隠ぺいするための策になる。
[5005]
もともと人間の多様性に応じて個人間の競争は多様である。社会的競争は競争の判定基準を絞り込み一元化する。競争は社会化することで社会生活する人々を動機づける。今は人間ではなく、片方の性である男性が競争の社会的基準になっている。子を産めない男は身一つで競争を突き進むことができる。社会的競争に対等に参加しようとする女性は子を産む不利を超えなくてはならない。女性も男のように振る舞わなくてはならない。老齢者、身心障害者も男性の競争基準からは不利を負う。
[5006]
男性自身が競争の中で、競争のために生活を擦り減らす事になる。人間として競争するのではなく、不利を負わないように駆り立てられる。男性であっても、負傷し、罹病し、老齢化すれば競争力は落ちる。社会の一元化した競争は支配収奪する者の利益にしかならない。
競争のための競争社会では弱者の社会的自立はない。競争に参加しえる一定の強者が社会的自立の基準になる。競争に参加できない者は見捨てられる。
[5008]
相互扶助を基礎にすることで、障害を負う者であっても自立できる。相互扶助によって互いの多様性を尊重し、多様な競争が可能になる。
[5009]
第6節 政治
【政治理念】
社会代謝は自然環境に左右され、真当さを維持することが難しい。厳しい環境条件を乗り切るための備蓄資源が健全性の範囲であるかどうかは、困難を乗り切ってみなくては分からない。厳しい環境にない時に備蓄資源は余剰資源として利害対立の源になる。競争社会ではこの余剰資源をめぐって対立し、必要資源までも収奪し合う。競争社会では利害対立は必然である。競争社会では社会代謝秩序も利害対立によって歪められる。社会代謝秩序が真当に実現されていれば社会に利害対立はない。
[6001]
現実の社会で個人も真当に生きることはむずかいい。真当であることに必要なもの、不用なものの判断は価値観の問題になる。価値観は人それぞれで違いえるが、社会代謝が真当であることは人の評価にはよらない。人々の判断にかかわりなく、生産と消費は釣り合って真当であり、環境を保全することで真当である。社会代謝が真当でなければその社会は衰退し、滅びる。それぞれの社会で人はよりよく世界と社会を理解することで真当な価値観をえ、真当な生き方ができる。それでも、時により、場合によってごまかし、だます。だれでもごまかし、だます誘惑には弱い。ごまかし、だます誘惑に打ち勝つのを個人の自覚に求めるのではなく、社会的に保障するために政治運動はある。社会が真当であるために人々の相互批判と自己批判があり、励まし合い、支え合う。真当でない者を矯正するのが政治である。政治は真当な社会を実現するための制度であり、運動である。真当な人々による真当な社会理念が民主主義である。弱い個人が真当に生きるために政治がある。
[6002]
社会代謝は多数の真当な人によって担われなくては秩序が崩壊する。多数の真当に働く人々がいなければ生活財、食糧すら手に入れることはできない。ごまかし、だます人が多いように見えても、本当に多かったなら社会は成り立たない。社会代謝秩序の真当さを維持するための政治運動が社会代謝運動と同時に必要である。
[6003]
政治は社会秩序の完全性と健全性の実現を目指して発展してきた。社会代謝秩序が量的に拡大する程社会秩序を制度的に規定する政治が発展する。政治制度の中でも闘われるが、政治制度自体をめぐっても闘われる。歴史的に真当さを保障する制度と技術、そして思想が発展してきた。
[6004]
意思決定方法としての議決、代議、諮問など、基準、手続を定める法律、規則、規範、審判、処分など、組織運営する会議、代表、委任、代理、広報など、多様な政治制度が整えられてきた。国家政治での三権分立は政治秩序の核心になっている。
[6005]
組織秩序の技術として作業基準、連絡、記録、点検の標準化が工夫されてきた。組織統制技術の認証が社会秩序を保証するものとして公認される。今日の情報処理技術によって内部統制、情報公開、トレーサビリティ=追跡可能性などが実用化してきている。
[6006]
生存権、財産権からはじまり、人格権、環境権などの理念として思想の発達をたどることができる。政治思想の最大の成果が民主主義であるが、民主主義は思想としても未だ完成されていない。真当さの追求として民主主義は常に、いつまでも追求する理念である。
[6007]
人それぞれに真当であることを保障する社会的運動として政治は社会の基本にある。しかし、現実の政治は真当でない人々の利害対立の調整、真当でない人々と真当な人々の戦いの場にもなっている。利害対立を調停することが政治の現実的役割になっている。
[6008]
個々の利害対立をそれぞれ個別に調停していては社会資源がもたない。調停が制度化され、制度に従うことが強制される。利害対立は調停が強制されて法秩序づけられる。強制は力の行使であり、利害対立での力関係を反映する。利害対立が力関係を変えようとするなら、調停制度自体を変えようとし、制度をめぐる対立として政治闘争になる。
[6009]
調停は納得をえるか、あきらめさせるかである。調停の正統性を納得させることができることが最良である。次善には調停の手続き制度の公正さによって納得を得る。実際の利害対立は力の差を背景に弱者にあきらめさせることによって調停される。最も効率的な調停は弱者を無気力化し、調停そのものを不用にする。だからこそ、政治は民主主義を実現することで真当になる。
[6010]
【政治の日常性】
政治は国政、地方政治の問題だけではない。政権党の政治支配だけが政治ではない。政治参加は選挙での投票、請願だけではない。政治は人々の日常的相互作用を真当にし、個人の生き方を真当にすることとしてある。
[6011]
日常で真当さを失うきっかけはなれ合いである。互いの弱さを容認することで真当さが失われる。なれ合いは声の大きい者の意見をとおしてしまう。なれ合っていては形式的正当性を根拠に主張する者に譲らざるをえない。与えられた権限を行使しないで社会的地位を占め続ける者。与えられた権限以上の、あるいは与えられた権限の範囲を超えて行使する者。こうした者達によって真当さは破壊される。なれ合って少数の秩序破壊者を生み出すことで、真当な人すべてに対する規制が導入される。いわゆる悪貨によって良貨が駆逐されることにもなる。
[6012]
権利は行使されなくては権利でなくなる。政治問題だけでなく、社会のあらゆる問題で発言し、議論する場は日常的にある。発言権を行使することで異なる意見、見解が明らかになる。全体の結論に関わらず少数意見も含め多様な意見、見解を明らかにすることが構成員の義務としてある。民主主義は互いの違いを理解し、認め合い、真当な調停を目指す。多様な視点からの検討が議論を有効にし、現実的な決定を保証し、実行後の総括を実践的なものにする。
[6013]
自らごまかさない、だまさない生活が真当な政治の基礎であり、出発点である。どんなに難しいことであっても他にはない。真当さを失う第二のきっかけは強制力である。人々の相互作用関係で力関係に差があれば大きい力は小さい力へ強制力として働く。人々の力関係には差があり、同じ個人間でも関係によって力の大小が逆でありえるし、時による逆転もある。家庭内、友人間、男女間、サークル等、人々が相互に働きかける関係では普遍的に強制力が現れえる。
[6014]
社会制度化された強制力が権力である。制度化されることで、権力の行使を目的としない集団、組織にも権力関係が現れる。しかしそれは政治権力ではない。そこにも、社会制度、政治権力の影響、介入はありえるが、基本的には政治権力とは区別される。「男女別姓は家族制度を崩壊させる」「弱者救済は自立を妨げる」等、社会的に優位な者が人々を見下し、人間関係に介入することがある。
[6015]
職場、生産管理機構=職制、労働組合等にあって政治権力の問題は現実的である。政治権力の根幹は生産関係の支配であり、職場、職制機構、労働組合はまさに生産関係の日常的な場である。労働組合は本来被雇用者が雇用者と対等の立場で交渉するための組織であるが、組合代表が被雇用者を支配する可能性は常にある。宗教も世俗のことでは政治的に利用しやすい。
[6016]
第7節 人間性
第一部の主観としての私から出発し、第二部で世界での関連をたどってここに主体としての私に戻る。第三部実践へ向けて人間性をまとめておく。
[7001]
【人間の定義と評価】
人間存在を定義しようにも一義に規定することはできない。物理的、生物的、社会的、精神的、文化的、倫理的にそれぞれに定義することができ、それぞれの定義を一つに重ねることができない。それぞれでの定義でも相互規定関係の規定が階層をなしている。
[7002]
物理的に身体を構成する物質は化学代謝によって更新され続けている。今の私の物質構成と昨日の私の物質構成は異なる。ましてや十年前、生まれた時の私とはまったく異なる物質である。生物として生死の境を決めることは困難である。受精から出産のどこから人と認めるか、心肺が一時的に停止しても蘇生は可能であるが、死にはいずれ不可逆的に必ず至る。社会的に個人は社会内で個人であって、他者との相互の働きかけがなくて個人は区別されない。精神的に意識を他人と共有することはできないが、物事の意味はことばを介して人類文化から学んできている。人間は文化を受け継ぐ者でありながら、文化を創造するものである。自らの有り様を社会的に、文化的にも実現するのが人間である。倫理的にこれらの総合された人格としてあるが、善と悪とを併せもち、時と場合に逆転させてしまう。
[7003]
人間の定義が困難であるから、人それぞれの評価はなおのこと難しい。人間の評価は一面を捨象することとしてだけ可能になる。いくつかの面を組み合わせて多面的評価はできるが、全面的評価はまずできない。死後に残された仕事結果によって生涯を抽象的に評価できるだけである。
[7004]
間違いのない人間の評価はすべての人間を認めることである。反社会的な人間、私利私欲に凝り固まった者も人間として認めるしかない。自他の「人間性」を否定する人も人間として認めるしかない。知能指数で人間の範囲を定義したり、「植物人間」脳死状態の人、重複重度障害者を生きる価値のない、生むべきでない者として否定する人がいるのだから。人間の尊厳をすべての人間に認めることで自らの、そして他の人々の尊厳を認めることができる。人間の尊厳は理念でも、価値観でもない。肉体的、精神的に障害をもつ人を人間として認め、社会生活の場を保証するかどうかの実際的問題である。現実に周囲に関係する人が、家族が、自分がそうした状態になった場合、理念や、価値の定義ではなく、自分たちが生きることとして問題になる。困難に当面した時に問題になるのではなく、人間として生きることとして日常的な立場としてある。その上で悪は部分でしかなく、悪をなす関係で封じ込め、ただすことが人間の立場である。反社会的な人は反社会的行為ができないように、私利私欲は公共の利益から切り離すことで対応する。
[7005]
人間の存在自体が社会的で、社会生活の中で育てられ、訓練され、位置づけられている。100mを10秒で走れない人も、自転車、電車、飛行機でそれ以上の速さで移動できる。天才科学者も教育なくして、研究の場なくしてその才能を発揮できない。だれもが社会的に受け入れられることで生活を成り立たせている。視力に障害があっても眼鏡で、手術で矯正している人は多い。車椅子で、点字ブロックで移動し、唇を読み、手で表現し、点字でコミュニケーションし、もてる能力を社会的に発揮できる。すべての人の能力発揮を不用とする社会は歪んだ社会である。早産の子を保育器で育てられるようになったのも、胎児の遺伝子異常を早期に発見できるようになったのも、けが・病気を克服できるようになったのも社会的力が発展してきたからである。それぞれの持ち合わせた、訓練してきた能力を互いに認め合うことが人間の立場である。
[7006]
困難な状態の人が助かる科学技術によって、あらゆる人に対する医療、看護、介護の科学技術が進歩する。困難な状態の人でも生活できる社会であれば、すべての人が楽に生活できる。理想的社会、理想的人間などどにも存在してはいないが、互いに人間として認めあえる社会を作り出すことを人間的であると定義できる。互いに人間として認めあえる関係をつくりつつある社会を、現実の理想社会と定義できる。
[7007]
実際には資産と機会によって助かる人と死ぬ人が、就職できる人とできない人が、昇進できる人と置き去りにされる人とが選別されている。資産と機会以前に人間に対する理解、社会の受け入れは規制されている。
[7008]
それぞれの能力を訓練し、能力を発揮する条件を整えるのにそれぞれに社会的費用はかかる。費用の多少に差があっても生きる上でだれでも同じである。天才も社会的環境と本人の努力なくして社会的貢献はできない。障害を持った人、病人・けが人には費用がかかるといって切り捨てて、一度手に入れた社会的地位、財産によって勝手をしている人との不釣り合いを無視できない。社会的地位、財産は本人の努力だけでなく、どのような場合でも偶然によって手にしたものであり、誰もが社会的物質的基礎に相互依存している。
[7009]
勝ち抜き戦では勝者は一人であり、同じ能力であれば偶然によって勝者は決まる。能力が劣っても偶然の条件で勝ち抜くことがある。偶然の条件を排除しても戦う順番によって必然的に勝者が異なる組合せがある。さらに現実には本人にはどうすることもできない不利を保障されることなく戦わされる。繰り返される戦いでは、勝利の成果が次の戦いを有利にする。戦いの勝ち負けで人間を評価することは人間の尊厳と相いれない。
[7010]
社会的優位に立ったことで、自らの能力の証明、功績と思い込む者がいる。自分の戦いはすべての人が参戦する戦いであると思い込む者がいる。取り残された人々は自分が耐えた努力をしなかった怠け者であると思い込む者がいる。
[7011]
社会的優位とは思わなくとも、現在の社会的地位は自分の努力で得たと思い込む者がいる。たまたま困難に出会うことがなかったから今の生活があることなど思いもよらぬ者がいる。困難に直面した時でも、自分は正しくいられると思い込んでいる者がいる。社会が安定しているとそうした人々が増える。社会代謝秩序が維持されていれば、特別の努力をしなくても生活できる。自分の生活秩序が社会代謝秩序によって実現していることに思い至らなくなる。
[7012]
自分を肯定的に思い込んでしまった人には、困難に遭遇した人々、社会的少数の人々を理解できない。相対的優位である自分の関係を困難な人々、少数の人々に押しつける。自分の関係を社会正義として社会全体に押しつける。平均を押しつけられる社会は閉塞する。閉塞した社会で人間の尊厳は顧みられない。
[7013]
【人間の価値】
人間の有り様を理解することで人間の価値が見えてくる。人間は物理的、生物的、社会的、精神的、文化的存在でありその統合として倫理的存在である。にもかかわらず、理性的であることが人間の価値であると思い込む者がいる。価値を意識できることが、価値を手に入れ、価値を創造することが人間の価値であると思い込む者がいる。価値など人間の思い込みでしかない。人間がいるから価値があり、人間が見出すから価値が現れる。人間が自らを含む物事の有り様を反省することで価値は見えてくる。世界の有り様、世界の運動、その方向性に添うことが存在者の価値である。世界の秩序発展に添うことが意識し、選択できる存在者の価値である。世界の有り様、世界の運動をより広く見定めることでより普遍的価値を見出すことができる。存在そのもの、規定されるだけのもの、決定されるだけのものに価値などない。存在を反省することに価値はある。反省する者が秩序を認識し、秩序を創造できる。反省して現れた価値であるから、反省する存在者としての人間が価値を追求する。人間にとってのみ価値は意味があり、人間にのみ価値はある。
[7014]
人間の社会的力は社会によって増幅も減衰もするが人間の価値はその人固有であり、社会に影響されない。社会によって価値が変わるのは評価である。
[7015]
人間の価値は世界の秩序創造過程への貢献である。世界は全体の秩序を崩しながら部分の秩序、秩序の秩序を作りだしてきている。秩序は創りだされ、更新されなければ崩れる。物理的に、生物的に、社会的に、精神的に、文化的に秩序は創りだされ続いている。人間だけに担われているのが人間社会の代謝秩序とその発展であり、精神秩序、文化秩序であり、人間の秩序が倫理である。精神秩序は概念と論理の規定関係として表現される。文化的秩序は様々な自由度の選択と組み合わせからなる空間に最適解の秩序を表現することとしてある。人それぞれがもつ自由度空間に人それぞれの秩序を創造する。自由度を獲得することも価値を創造する訓練である。一つの自由度のうちでその階調を深める訓練も価値を創造する訓練である。
[7016]
価値空間は芸術を例にすると分かりやすい。芸術は分野ごとに自由度の組み合わせが異なる。音楽は音の高低、強弱、音色を自由度とする組み合わせであり、また旋律、拍子、和音を自由度とする組み合わせである。西洋音階、和音階、全音階、無調の違いは自由度の制限の違いである。ことばの意味を付け加えて歌、動作の自由度を加えて歌舞、再現性の自由度を制限することで音楽映画を区別することができる。多様な自由度の組み合わせを選択し、それぞれの自由度での解を決定することが作品作りである。実演者は作者の解に残る自由度の中で自分なりの解を決定することで一つの作品空間を創造する。作者の決めた解を実現できない実演者もいる。会場の条件、聴衆の反応を実演の自由度として加えることもできる。それぞれの自由度での階調をより詳細に区別して認識し、表現することがより深い芸術性を実現する。
[7017]
美術の場合、物理空間の自由度の制限によって動きを伴うもの、立体、平面作品が区別される。直線作品の有無は知らない。平面作品の多くが絵画であるが、絵画はまず平面の大きさを制限し、時に制限をはみ出す。色、画材の自由度を制限することもある。作者が選択し、制限した自由度の組み合わせの中に作者は解を決定していく。色、形、タッチ等の空間自由度に解を決定していく。作品固有の空間が決定される。作品によっては自由度の決定を偶然に任せることもあるが、任せる自由度の範囲は作者が制限する。焼き物の焼成の場合のように。
[7018]
芸術的価値を創造するまでもなく、人々は自らの生活秩序を実現している。生活の多様な自由度の中から、ただ一つの現実を選び取っている。意識するしないにかかわらず、後に残るのは選択の結果である。秩序を崩すことの方が多いが、秩序を維持しながら少しでも新しい秩序を創りだすことが人間の価値である。創造的であることが人間の価値である。身体の自由度、知性の自由度が制限されても、制限の中で創造する自由が人間にはある。
[7019]
【実践主体としての人間】
ヒトは環境に主体的に働きかけることで人間になった。すべてはそれぞれの秩序を維持することによって他と区別される存在である。全体の秩序が崩れる過程にあって、部分としての秩序を保存することが存在することである。秩序を維持、保存することは崩れる全体の秩序に対して部分としての秩序を創り出すことである。物理化学的に、生物的に、社会的にすべては秩序を創り出すことで存在している。部分的秩序が組み合わさり、秩序の秩序を創り出すことで世界は発展してきた。人間以外は世界秩序に従って存在し、運動している。
[7020]
知りうる限り人間だけは秩序を選択することができ、新しい秩序を創り出すことができる。自然過程での秩序の組合せは偶然であるが、人間は偶然の組合せを秩序づけることができる。
[7021]
人は感覚に反映される対象秩序を表象として記憶し、表象を操作することができる。表象の操作によって対象秩序の好ましい組合せを選択し、対象に働きかけることができる。この対象秩序の認識と対象秩序への働きかけ過程をも対象とするのが意識であり、意識的思考である。当然に対象秩序を見誤ったり、秩序に反した働きかけをすれば試みは失敗する。
[7022]
人は秩序を法則として表現し、秩序の関係形式を論理、法則として表現してきた。人は対象秩序を認識し、組み合わせる経験によって世界を知識として理解してきた。世界理解の中での自分の位置を知ることで、自分の進む望ましい方向を見いだす。世界を知り、自らを知り、自らの在り方を見いだす、まさに「反省」である。人は対象秩序の有り様を反省することで、秩序の有り様を方向づけることができる。
[7023]
世界の秩序に従うだけでなく、望ましい秩序を創りだすのが実践主体としての人間である。人は生物としても生理的代謝秩序を更新し続けることで生きている。人は社会的存在として社会代謝を担うことで生活している。その上で、人は自らの能力を発揮する創造によって実践主体としてある。
[7024]
現実変革能力を発展させるが、それは人間の能力自体の発展である。現実変革能力は普遍性を持ち、人間自体の変革、人間社会の変革をも可能にする。人間は対象を変革することによって、自分自身を変革する。
[7025]
実践主体として自らの秩序を無視しては失敗する。自らが階層をなす存在であり、階層それぞれで他との相互作用過程にありながら、自らを一個の存在として実現している。他との多様な相互作用にあって、多様な作用にある自らを統一している。自らの多様な内的相互作用をヒトとしての秩序、人間としての秩序、一個の人格を創りだしている。自己を実現するものとしての実践主体である。
[7026]
人に限らず能力はできあがってはいない。身体能力も知的能力も訓練されて実現する。歩くことも、話すことも、表現することも意識にかかわらず訓練によって獲得され、発達する。訓練によって能力が獲得され、発達するだけでなく心身自体が発達する。心身の発達と能力の発揮は一体であり、実践によって実現する。生長段階では無限の可能性がひらけるように感ずるかもしれないが、ヒトはやがて老衰する。老衰の段階に至っても訓練は必要である。日々衰えつつある各能力に応じて生活するには日々の訓練が必要である。思うように働かなくなった心身でも使いこなさなくては生きていけない。発達する能力を使うのも、衰える能力を使うのも日常の実践においてである。
[7027]
人間は他を対象にすると共に自分自身を対象とし、自分を変革することによって他との関係を変革する。他との関係としての自己を変革する。人間は対象を自己に取り込み、自己を対象として作り出して自己を実現する。人間は対象を変革し、自己を変革して自らを実現する。
[7028]
個人と社会とを対立させる解釈もあるが、人間は個体性と社会性とを統一している。人間は個人であると同時に類としての存在である。人は物理化学的代謝、生物の生理的代謝を社会の物質代謝として実現している。社会代謝として生活財も生産財も生産し、流通させ、消費することで人々の生活は成り立っている。
[7029]
社会の運動は人々の共同した物質代謝としてあり、社会の運動は個々人の相互作用としてある。人の生活は人に対して、社会に対しての働きかけとしてある。物に対する働きかけも社会関係での操作である。物の操作は社会的意味をもっている。「孤食」が社会問題になるように食事ですら社会関係にある。一人で考える時の言語も人との会話で獲得したものであり、言語の意味は社会関係を反映している。本来人は人に評価されることを求め、人とのコミュニケーションを求める。コミュニケーション自体が社会的実践である。コミュニケーションすることで自分の存在を確かめる。
[7030]
財物だけでなく、観念も共同の生活で作られ、共有される。一つの世界に共同して生活しているにしろ、ヒトの認知機構が生物として共通であることが前提としてあるにしろ、意識は絶対に共有できない。自分を感じているようには他人を感じることはできない。それでも、同じ対象については他の人々も同じように感じていると想像することができる。コミュニケーションによって共感することができる。コミュニケーションによって同じに感じ、考えることができることを確認できる。それぞれ個別的物事の感じ方、見方、考え方は違っても、物事の普遍的有り様については一致していることを確信できる。物事の解釈については使っている言語が違っても一致できる。幾何学図形や数学数を異なった解釈をすることはできない。学ばなければ理解できないことはあっても、学べば同じ解釈に至る。異なった解釈ができたら人類史上最大の天才である。
[7031]
解釈は一致しても評価は人によって違う。立場によって評価はまったく異なる。それでも、評価であっても人とまったく共通性を持たない評価は成り立たない。違いは共通性、普遍性の上でのみ意味をもつ。立場が同じであれば同じように評価する。似ているだけでなくコミュニケーションをとおして一致点を拡大する。立場が違えば相違点を拡大する。個人毎に独立した評価が成り立つのではないから流行があり、変化する。
[7032]
自意識は人それぞれ独立にあり、互いに取って代わることはできないが、そのような自意識を持つ同じ人間どおしであると認めることができる。その自意識が対象とする知識、概念は人類史の中で共有され、発展してきている。どのような天才もそれまでの成果に学んで発見、発明をする。知的にも人間は類的存在である。人間の知性は社会的に継承され、発展する。個人は他人を介して自己を規定し、価値づける。精神活動は社会的活動として文化を創造してきた。
[7033]
人は社会によって規定されているが、社会の規定関係をつくりだしているのはそれぞれの人間である。人間の実践主体としての主たる対象は社会である。社会を介して人は自然に働きかける。人それぞれの能力発揮の場は社会にある。人の能力は社会にあって増幅も、減衰もする。
[7034]
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