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第二部 第三 社会の運動

第8章 社会発展と歴史


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第8章 社会発展と歴史

1990年前後の東欧社会主義国家群の崩壊以来、唯物史観や階級闘争の話は無意味として、ほとんど扱われなくなってきている。しかし、解釈するのはそれぞれ勝手であるが、世界観は実在の有り様を対象にする。「自由主義」「全体主義」といったレッテル貼りではなく、実在の物質代謝秩序の問題である。人間間の不平等の問題に止まらず、自然秩序、社会秩序の問題である。自分に都合の悪い物事は見たくないし、見えにくい。しかし、自分の生活がどのように支えられているかを理解することは道義的責任にとどまらない、人類存続に関わる責任である。すべての人々が人類史を引き継ぎ、今現在担っている。一人一人の考え、生活も人類史を実現する過程にある。人類の未来を一身に担うことはないが、自分の生活の責任を負うことはできる。日本での生活は環境へ、資源へ大きな負荷をかけている。そして世界の圧倒的に多くの人々にしわ寄せしている。[0001]

人類社会は生物的に、物理的に、宇宙としての自然に開かれた系であっても、社会関係として相対的に閉じている。人類も宇宙では局部的存在であり、その構成員の関係は閉じた系である。宇宙人との通信はおろか、その存在を知ることすらできていない。社会の歴史、社会の運動は相対的に閉じた系としてある。社会の問題は社会内で社会的に解決される。解決できなければ生物的に、物理的に存続できなくなる。[0002]

 

 第1節 人類社会史

【人類史と個別社会】

個々の人間は人類の歴史過程で直接規定されてはいない。出アフリカ以来の人類史で、今は百数十の国家に分断され、言語、宗教、文化的にも異なっている。分断という負評価だけでなく多様化としての発展でもあり、それぞれに相互作用し、地球人類という一つの世界を構成している。その到達点で一般の個人は個別社会に生活しており、人類史の直接的既定を受けてはいない。その意味で個人は直接人類史を引き継ぐものではない。[1001]
人々個々の生きる問題は個々の社会での生活にある。生活上の問題は個々の属する社会と、その今日の歴史的到達点の問題としてある。人類史の到達点ではあるが、それぞれの社会にそれぞれの生活がある。人類史を直接引き継ぐ者ではないにしても、個別社会を介して人類史を担う者として生活している。宇宙史、生命史に重なる物質階層としての社会史を問題にする。[1002]

個別社会は地球上で相対的に区別される地域社会としてある。相互の関連にありながら相対的に自立した社会である。言語、宗教、といった文化的差異で、そして何より政治経済で区別される社会的物質代謝の相対的に閉じた系を成している。関連の質により、問題となる個々の社会の範囲は異なる。地域共同体、趣味グループといった個別的意味ではない。普遍的地域社会としての国であり、政治権力が成立してからはほぼ国家と同じ意味である。[1003]

【社会発展と典型】

社会の発展法則はどこかの国に典型的に現れるのではない。典型的な社会発展形態などは存在しない。そもそも社会発展の典型などを定義することはできない。社会の発展法則は基本法則であり、その現実はそれぞれの社会の条件によって多様な現れかたをする。イギリスが産業資本主義の典型と言われもするが、例として典型的なのであって、論理的に典型なのではない。しかも、より典型的か、より特殊かの違いは社会の事象ごとに様々である。生産様式も文化様式も典型例を示すことはできるが、それぞれの様式は抽象的に定義できるだけで個別的、具体的に示すことなどできない。定義は抽象的な概念規定であって、個別規定ではない。[1004]
社会発展の法則は個々の事象までもを説明するものではない。社会の発展秩序を論理的に表現するのである。全体として非可逆的に貫徹される法則である。社会の発展法則に逆行する社会は滅亡する。あるいは、逆行させられた社会は自然環境、[1005]

ヒトの遺伝子プールがチンパンジーと区別されてから、ヒトは数十億人にまで量的に増えてきた。社会は地理的に散在し、それぞれに拡大・縮小しながらも全地球規模で関連するまでに発展してきた。社会的暴力によって滅ぶ。社会は質的発展と量的増大として時空間的に振動するように運動している。自然物を、自然秩序を利用する技術を質的に発展させてきた。世界理解を科学として発展させてきた。多様ではあるが普遍的人間文化を発展させてきた。このことが発展の意味であり、個人の能力や、個々の作品の優劣のことではない。[1006]
人々の資質の優劣によって社会発展が決まるわけではない。より発展した社会の人々が発展した社会関係に合った資質を表しているだけである。生物的資質が違わないことは生殖可能なことで明らかであり、生物的資質の違いは社会の違いより個人的違いの方が大きい。どの人種もそれぞれの生活に即した文化と歴史を築いてきたし、様々な人種が時代時代で人類の先端をになってきた。人々の社会的資質の違いはそれぞれの社会によって規定されている。[1007]
男女の筋力差であっても特定の男性より強力な女性が何人もいることが普通である。にもかかわらず、自分が男であることを根拠に自分は女性よりも強いと思い込むことは滑稽であるだけでなく、DVの心理的原因になる。個人的資質の違いはどの社会でも同じように現れ、特異な資質もそれぞれの社会に同じように含まれる。人間に対する差異の強調、差別・偏見は社会的に作られる。そのことが逆に文化相対主義までも生む。客観的に差別し、偏見を持つ者ほど偏っている。偏った者には普遍的な人間の有り様=人間性を理解することはできない。偏った者は自らの人間性を、自ら社会的に歪めていることに気づいていない。[1008]

【不均等な社会発展】

個々の社会発展は不均等である。時空間的に環境条件の良いところで発展が始まる可能性が高い。しかし、社会発展には環境条件だけでなく偶然も作用する。現実の出来事は偶然に生じるが、実現してしまえば変えようのない既定の事実になる。その偶然の過程全体として社会秩序は必然的に発展している。社会間に競争があれば優劣があり、逆転がありえる。[1009]
可能性だけの問題ではなく、社会が代謝系であることから発展の不均等性は必然である。代謝系は同化と異化の統一した系であって、単純な力学系、決定論的な系ではない。代謝自体が発展し衰退する系としてある。代謝系は更新され続けなくては必然的に衰退する。系が大きくなる程、全体が均一に更新されなくなる。部分間で更新の不均等が生じるのは必然である。系が大きくなればその不均等になる部分間の区別も多様化する。代謝系は開かれた系であり、系内の偶然の不均等化だけでなく環境からの偶然の作用も受ける。社会発展の不均等はその環境条件と社会内の相対関係からなる偶然によって必然的に規定される。[1010]
一程の発展段階に達した社会では質的安定により、量的には漸次的拡大になる。量の飛躍的拡大は質的発展によってもたらされる。質的発展は代謝系自体の組み替えであり、新たな生産様式の実現である。生産様式の違いは道具の技術的改良から、エネルギー源の転換のような大規模なものまである。質的発展の時期が社会によって異なるため社会ごとの不均等な発展になる。17世紀からの世界市場形成後も世界市場の覇権国は次々と交替している。[1011]

 

 第2節 階級社会

人類の社会史は共同生活集団から始まった。共同生活集団でヒトは進化し、人間へと成長した。人間への発展は道具を用いた労働と社会生活によって実現した。生産力の高まりによって集団の人口が増え、規模が拡大する。集団規模の拡大によって集団間の抗争が生じ、集団内の財の偏在が生じる。原始共同体社会と呼ばれる時代から社会内の財の偏在、財の支配をめぐる階級対立社会へと発展した。生産規模が地域社会から地球全体にまで拡大すると環境、資源問題が深刻になる。階級関係での一方的に収奪する社会では環境破壊、資源乱獲を原理的に制御できない。無階級社会から始まった人類史は階級社会で飛躍的に発展してきたが、未来は再び無階級社会を実現することで拓ける。古代の原始共同体社会への復古ではなく、階級社会が築いてきた生産力を引き継ぐ無階級社会に向かうことで人類の生き残りの可能性がでてくる。したがって、今の階級社会を理解することが世界観にとっても重要である。ただし、永遠に人類が生き残ることは物理的にありえないであろうし、生物進化は止んでしまってはいない。数十年、百年単位の未来で人類が自滅しない可能性を探る。[2001]


第1項 階級対立

階級社会は単に複数の集団が対立する社会ではない。また、いくつもの階層に分類される身分社会の意味でもない。階級社会は単なる貧富の差でもないし、善人悪人の対立でもないし、それぞれの人の意識の有り様で決まるのでもない。構成員の相対的な形質の違いとして分けられるのではなく、生産関係への関わり方によって人々の立場の違いが階級として対立する。生産を担う階級と生産手段を所有する階級へ分解し階級間で対立する社会である。[2002]

【階級対立】

財の所有は個別的であり、所有するだけでは物としての財は減少するだけである。財は再生産され続けることで残り、拡大する。再生産のための生産手段を所有することで生産を支配する。再生産過程を所有することで所有は維持され、拡大される。富の独占はわかりやすいが階級社会は独占による固定ではなく、再生産としてある。労働を担う被支配階級の一部の生活が豊かになったからと言って、生産関係での生産手段をもてる者と持たざる者との対立が消え去るものではない。[2003]
生産手段を所有し生産物を手にする支配階級内の競争は、生産手段を持たない。生産を担う者を収奪する競争でもある。生産過程で生産を担う者を収奪し、交換過程で他者を収奪する。[2004]
生産手段の所有者間の競争と生産を担う者の搾取とは質的に異なる。他方の対立を理由に一方を擁護することはできない。生産手段の所有者にとっては同じ、人による人の量的収奪である。質的には生産手段の所有と非所有という、明らかに違う対立関係が基礎にある。生活財を所有し消費することとは違う、社会代謝の基本である生産手段の所有をめぐって階級対立はある。生産手段の所有をとおして、所有しない者を社会的に支配する。階級社会は人による人の支配・被支配関係としてある。[2005]

階級の違いを基礎にして多様な身分制度も作られる。生産関係での位置の違いを基礎に人々が区別される。少数の者が多数の者を支配するには多数の者を分断することが基本である。生産関係を政治的に補完するために、生産関係位置での人々の違いを身分制度として分断する。政策的に、社会文化的に差別が醸成される。[2006]
他方、階級社会でも階級の違いだけでなく社会階層の違いもある。社会階層それぞれに属する人々の特性による違いがある。青年層、婦人層、老年層は生産関係から相対的に関わりのなかった社会階層の区分である。生産関係に直接参加しない人々が、社会的に独自の動きをする。かって、知識人、文化人などは経済とは関わりのない階層をなしていた。[2007]

社会的生産力の発展によって生産手段の形態は異なる。生産手段の所有の形態も生産力の発展段階によって異なる。生産手段が生産労働と一体であるうちは、労働力のにない手である人間そのものが所有される。農業の発達は農業生産の基盤である農地が所有される。工業の発達によって機械設備が所有される。信用の創造によって利潤請求権が所有される。[2008]

【階級対立の再生産】

階級対立はできあがったら制度的に固定されてしまうものではない。対立関係は再生産され続ける。関係が再生産されることが、階級が社会の基本的構造であることを示す。階級対立は偶然の区別、対立ではなく、構造として維持される。[2009]
生産過程で生産を担う者は労働力を提供し続けえるだけの報酬を受ける。生産を担うものは賃金労働者に限定されない奴隷からの歴史を通して存在する。生産手段を所有する者は生産物のすべてを手に入れる。生産手段を所有する者にも労働を担う者がいる。被支配階級の本体は生産関係での労働を担う者である。支配階級は労働しない者のことではないし、生産手段を直接所有しなくても生産関係を補完する者は支配階級に属する。[2010]
再生産の継続は社会的物質代謝の継続だけでなく、社会的所有関係をも再生産する。労働を担うものは労働力を再生産し、生産手段の所有者は生産手段を更新する。全体の階級関係は再生産をとおして所有関係も再生産する。社会的所有関係が再生産されなければ、公平な賭事と同じに勝者は一定せず、社会関係は混沌となる。[2011]
互いに対立する階級は相補的である。互いの存在を自らの存在の前提にしている。それぞれ同じ社会に属しているが、生産関係によって互いに関係づけられることによって区別される。特定の個人が階級間を越えて移行することもある。労働を担うものにも生産手段を手に入れるわずかな機会はある。生産手段の所有者は互いの競争によって生産手段を失う危険にいつもさらされている。それでも圧倒的多数の労働を担う者と少数の生産手段の所有者がいる。一方がいなくなることは階級社会そのものの消滅であって、階級社会が続く限り対立は再生産される。階級支配を強固にするためには、被支配階級の最良の部分を支配階級に取り込む。これは支配を維持し、強化する重要な方策である。個々の構成員の動きがどうであれ、社会の構造は個々の構成員の動きによらず階級対立は再生産される。[2012]

【階級社会の体制】

社会的富の生産と蓄積は、富の所有と再生産保全の為の経済外的力を備える。生産関係を内外に対して補完し、基盤を強化する社会組織、制度がつくられる。軍事機構、弾圧機構としての直接的経済外的力だけではない。収奪機構としてイデオロギーまでも含めた体制として社会が組織化され、制度化される。学問・教育の有り様、情報の伝達、生活様式に至るまで制度化される。奴隷制では奴隷の人権など奴隷自身ですら気にしないし、封建領主、宗教指導者は神のごとく扱われた。[2013]
階級対立は生産関係に基づき、社会関係全般に対立関係が貫かれる。文化的、イデオロギー的価値も個別社会として他の個別社会と区別できるが、階級ごとの文化、イデオロギーの区別もある。総体的文化、イデオロギーの中にあって支配階級の文化、イデオロギーと被支配階級の文化、イデオロギーの対立がある。相互の文化、イデオロギーは対立しながら、属する社会の総体的規定を受ける。[2014]
誰でも生活し、家族を養うには社会的物質代謝過程に組み込まれざるをえない。既存の社会を拒否しては生活できない。積極的な反体制的な者までを含んで社会制度は運営される。反体制者を御せない未熟な社会は反体制者を隔離し、粛正する。熟達した社会は疑問すら感じさせない。[2015]
それぞれの階級社会の基本的収奪機構それ自体は歴史的発展段階を示すものであり、歴史的発展段階の必然性を表している。搾取は人の直接的支配から始まり、人の労働支配を経て、労働能力の支配へと至っている。生産過程での搾取を基本にして流通過程での収奪は市場の発達とともに量的に拡大し、質的に複雑になってきている。それぞれの歴史的段階での収奪機構に人々の全生活が組み込まれ、生活が方向づけられている。[2016]
収奪機構が体制として固まると、機構・体制を利用して本来の収奪ではなく、利権の分配による社会関係が組織される。個人的には社会制度に寄生して生活し、社会人としての貢献、個人の担うべき社会的責務を逃れる者が増える。あるいは価値生産ではなく投機によって、利権をかすめ取る者が増える。[2017]
収奪する側であれ経済機構を運営しようとする者は現状の変革を目指す。代謝系を維持するためには更新し続けなくてはならない。しかし、利権をかすめ取り、投機によって利益を得ている者は現機構を保守しようとし、社会を腐朽させる。[2018]

【階級関係の変革】

生産力それ自体が量的にだけでなく質的にも発展する。簡単な道具を使った個別的生産段階から、時空間的に継続する生産段階を経て、機械設備を使う技術的生産段階へと発展してきた。それぞれの生活の、個別的必要に応じる生産段階から社会史は始まった。農耕は年間を通して時間的に継続し、次の年の種を引き継ぐ。手工業は原材料、燃料を介して空間的に継続する生産を連関させる。農耕、手工業は生産が社会的関連として継続する段階である。機械設備は生産工程が技術的に組織化された生産段階である。単に生産手段の形態が違うだけでなく、生産力としての質的な違いがある。生産力の質的発展が生産量を飛躍的に拡大する。生産手段の技術的改良の積み重ねであっても、生産力は質的に発展してきた。この発展を押しとどめることは一時的にしかできないし、より良い安定した生活のためには欠くことはできない。自然環境との調和とは別次元の問題である。足りている者、恵まれた者は生産力を問題にしなくてすむが、飢えた人々にはまだ足りない。飢えた人々には援助も必要だが、肝心なのは生産力である。[2019]

生産力の発展段階に応じて生産関係が現れる。簡単な道具を使った生産では道具の使用で生産は完結する。道具の生産も道具を作ることで完結する。道具の利用として生産は個別的に繰り返される。農業、手工業の段階は生産物を取引する生産関係である。取引、所有をめぐって様々な形態の生産関係が現れる。機械設備による生産段階は機械設備に応じて人々が組織される。生産過程での人々の組織としてだけでなく、生産に関わすべての関係が機械設備による生産関係に応じて連関する。[2020]
こうした生産力と生産関係の技術的関係に相互の質量相互転化の規定関係がある。生産力に応じて生産関係が質的に規定され、生産関係によって生産力が量的に規定される。この生産力と生産関係の相互規定関係をとおして社会関係が労働と所有の関係として現れる。社会関係は人々の関係であり、政治的に支配することができる。しかし、生産力と生産関係の関係は政治的には支配できない。生産は物質代謝秩序によって規定されている。[2021]

生産力の発展は生産手段の発達としてある。社会関係は生産手段の所有関係である。生産力と生産関係の矛盾が所有関係の矛盾にまで深まると、階級支配をめぐる対立として表れる。支配階級と被支配階級の対立としてだけでなく、新しい生産手段の所有者と旧生産手段の所有者との対立でもある。階級支配をめぐる政治対立も、所有する生産手段による経済対立によって決着してきた。階級社会での支配階級の交替、すなわち革命は新旧の生産手段所有者間の交替であった。階級社会での革命は被支配階級が支配階級になることではない。[2022]

【階級社会の限界】

階級社会が悪なのではない。階級社会は生産力の発展に応じた歴史的段階である。階級社会であることが、それぞれの階級が善悪の基準ではない。善悪の基準は社会代謝秩序を実現し、発展させることである。社会代謝によって人々の生活は成り立つのであり、階級社会にあっても社会代謝をより良い過程にすることは階級の違いにかかわらず善である。支配者であることが悪なのではない。歴史的にどの時代にも善良な支配者はいた。善良な支配者もいたが、支配者の力だけでは社会は発展しない。支配力だけですべてを解決することはできないし、力は使うことで使う者を変える。より強い力の行使は欲の抑制をより困難にする。世のため人のために生きようとする人でも、社会的力を得ても変わらずにいられる人は極わずかである。だから支配者は悪者になる傾向が強い。[2023]

発達する生産力に見合った生産関係として社会代謝秩序は実現される。生活に関わるあらゆる財が社会的物質として生産され、流通し、消費されるまでになる。拡大する一方の社会代謝秩序を自然の物質秩序と整合させることはますます困難になる。他方社会内では富む者と貧しい者の格差が量的、質的に拡大する。一国の中での格差の問題にとどまらない。今日の社会代謝は地球社会全体を一つの系、市場として成り立っている。[2024]
生産、流通、消費が世界的規模になり、人の生活に必要な財の生産を遙かに超えて経済活動が膨張しているにもかかわらず、その所有が私的であることに今日の本質的矛盾がある。生産と消費は相補的で生産自体が消費によって成り立ち、消費される財は生産されてもたらされる。生産された財は交換されて消費されるが、所有が偏れば交換は成り立たなくなる。人々の収奪の行き着く先は飢餓である。収奪の継続は飢餓人口の増大によって実現されている。[2025]
単に生産と消費の不均衡といった経済秩序であるなら景気変動と、時には恐慌によって調整される。恐慌は社会的立場の違いにかかわらず生活を破壊し、新たな社会秩序をつくる契機となる。しかし階級社会がたどり着いたのは政治経済的矛盾を超え、物質代謝秩序自体に関わる矛盾である。階級社会は人の収奪であるとともに、自然の収奪である。物質代謝秩序を保存し、発展させることと、人から収奪し、自然から収奪することとは両立しない。社会の多数から少数者へ一方的に富を集中することは物質代謝系を破壊する。[2026]
生産技術は用い方によっては破壊技術である。質量共に発達する生産技術が物質代謝秩序を尊重しないなら環境は破壊され、資源は浪費される。軍需産業は戦争を必要とし、直接的に人命と自然とを破壊する。収奪は物質代謝秩序と相容れない。収奪する階級社会を止揚し、競争ではなく共生する社会にしなくては物質代謝秩序を維持できなくなる。[2027]


 第2項 社会史

【原始共同体社会】

原始共同体社会は階級社会成立以前の人間社会である。人類誕生の数十万年前から、数千年前まで、地域によっては最近まで続いた。石器、骨器、木器、土器による生活、採取、狩猟による生産、言葉によるコミニュケーションが成立し、埋葬等の宗教活動もおこなわれる。[2028]
数千年前の人と我々とは人間として区別はできないだろう。人間としての能力、資質に違いはないだろう。違いは文化的である。今日でも地域的文化の違いが人間性の違いであるかのように思えるのと同じに、数千年前の人との違いは文化の違いである。にもかかわらず、この違いを自分個人、あるいは国民の人間的質の違いと思い込む者がいる。さらに、それぞれが属する社会での生活技術の違いを自らの優位性と思い込む者がいる。文化に優位性の違いなどない。技術の優位性の違いは歴史的蓄積の違いであって、技術を工夫する能力に違いがあるわけではない。[20320
互いの能力、立場により、互いに協力しなくては食料も手に入らないのはいつの時代でも同じであるが、原始共同体社会は生きるために、生きる時代である。他の動物、天候等の自然環境からさえも身を守ることの困難な時代である。洞窟に残された絵画も、芸術作品として描かれたものではなく、呪術的意味をもつといわれる。[2030]
原始共同体社会では人間が人間を支配することはできない。人間が自然環境に支配された時代である。人間に支配されることのない平等な社会といっても、いわば自然に強制された平等である。互いの人格を認め合う平等とは異なる。血縁と地縁によって構成される社会である。[2031]
誰彼の区別のない絶対的平等でもない。外敵から社会を守り、生産を指揮し、もめ事を裁定する指導者は必要である。社会が大きくなれば指導も階層的になる。しかし、制度によって指導力を持つのではない。現実の生活、行動の中で試されその地位が認められる。力の衰えたものは、次の代に替わる。[2032]
自然環境が穏和であれば人口は増え、増えた人口は他の地域に移らなくては生きていけない。人類は数十万年をかけてアフリカから南極を除く全世界へ広がった。[2033]

【奴隷制社会】

農耕が始まると次の生産のために種を保存する。穀物が保存されるほどに生産力が高まれば、宗教活動も装飾も発達する。所有されるべく富の蓄積が進む。[2034]
農耕はかんがい等の大規模工事を発達させる。農耕は測量、暦等の自然知識を蓄積する。大規模工事の指導力、暦等の知識の蓄積は、蓄積される富を支配する。蓄積される富は指導者に貢がれる。土木工事、そして暦を中心とする宗教は制度として固定する。制度として固定された支配は強制力を持つ権力として作用する。他の社会との水、土地、富をめぐる争いは軍事力を発達させる。[2035]
所有は私的占有であり、他者を排除する。生活消費財は個人、家族、生活単位で消費されるのであって消費過程で他者を排除することも、私的に占有することも問題にはなりえない。それぞれで消費する過程であり、消費できなくては生活できず、生きていけない。生産手段の所有が社会的問題である。生産手段の所有によって生活消費財以上の富を手にすることができる。富の所有は他者との競争になる。競争の勝者はより多くの富を手にする。より多くの富を所有するものは競争に有利になる。富の集中は富の所有者を社会的強者にする。集中した富の所有者が富だけでなく社会の支配者になる。所有をめぐる戦争の結果は水、土地、富だけでなく人を所有物にする。人の所有は道具と同じ生産手段の所有である。生産手段として所有される人が奴隷である。[2036]
牧畜からは奴隷制は生まれない。[2037]
奴隷制での生産は基本的に直接的労働である。簡単な道具を用いた生産であり、道具と労働力は分離されない。奴隷制生産は働き手を大量に集めるだけで効率化できない。指図する者と指図される者との分離は作業を効率化しない。奴隷労働は指図されるがままの生産であり、奴隷には生産の工夫をする余裕、価値意識などもてない。
奴隷一人の生産力は小さくとも、延べ何万もの奴隷を使用すれば現代技術にも対抗できる建築物を築ける。人間の精神的、肉体能力が基本的に違わないのであるから普遍的価値を持つ工芸装飾を作り出すことができる。支配、被支配の人間関係は階級社会の内で普遍的な、人間の葛藤物語のあらゆる形式を作り出す。むろん、社会が異なればその修飾の有り様は、それぞれの時代の特色を持つが。[2039]
奴隷制は奴隷の集積が富の集積である。奴隷制は人の支配であると共に、労働の支配でもある。労働作業そのものが強制され、支配される。支配する奴隷の量的増加によって生産力の拡大はあっても、生産力は質的に高まらない。奴隷制生産力の増大には空間的、組織的限界がある。労働はもっぱら奴隷に担われ、支配階級は生産から遊離し、腐朽する。腐朽した権力とますます大量になる被支配階級の矛盾は激しくなり、時に反乱となる。[2040]
奴隷制社会は数千年続いた。地球上のいくつかの地域で古代文明を築いた。しかし、地球規模には至らなかった。[2041]
アメリカでの奴隷制は資本主義での奴隷制であり、古代の奴隷制より過酷である。アメリカでの奴隷は資本の本源的蓄積のための消耗品でしかなく、3分の1は数年のうちに死亡した。資本主義的生産を維持するためではなく、資本の本源的蓄積のための使い捨ての奴隷制であった。古代の奴隷制には奴隷制自体を継続するための配慮はあった。[2042]

【封建制社会】

農耕は生産過程を管理することによって発達する。開墾し、利水し、品種を改良し、天候に対応する。農耕の生産手段は道具も使うが基礎は土地である。農耕を主とする生産関係で所有関係は土地をめぐって争われ、階級が分かれる。[2043]
人間に対する支配に代わって、土地の支配が封建制である。土地を排他的に支配し、その土地を耕作させて生産物を搾取する。生産者は努力によって最低限の生活手段を手に入れうるが、より多くの収穫を得ても次年度に土地評価が引き上げられ地代が上がる。収量の多い土地はより多い年貢を納めるようになる。土地の支配者は土地利用にも配慮する。開墾、治山・治水、土地改良、耕作方法の改善など生産性は漸次的に高まる。封建社会の時代は数百年続いた。[2044]
生産性の高まりは余剰人口を養うことができ、土地から切り離された余剰人口は都市に流れ込み、商業、手工業を発達させる。封建制土地支配と商品経済との矛盾が深まる。農耕は一年を生産過程の時間単位とし、生産は天候の影響を強く受ける。商品流通は様々な時間を単位とし、生産力は自律的に高まり、生産関係を新たにしていく。[2045]
封建制の時代に都市での手工業と海外交易によって商品経済が発達しする。地上の主だった地域との交易が行われる。[2046]

【資本制社会】

都市手工業にあって作業工程が分けられ分業と協業が発展する。分業・協業体制に風力、水力、蒸気圧を動力として利用することにより、機械制工場生産が実現する。分業による作業工程の分割と動力の利用を組み合わせた機械により生産力は飛躍的に高まる。[2047]
人の支配、土地の支配による社会的統制から自由になった生産技術は、資本を蓄積し市場を拡大する。生産を維持するためには商品を生産・販売し、投下資本を回収しする。拡大される生産を継続するには市場での資本の回収が不可欠であり、他の資本に打ち勝って、市場の支配をより拡大することによる。市場で敗退すれば市場の支配を失い、他の資本によって吸収される。資本制生産は生産拡大の競争であり、市場支配の競争になる。[2048]
しかし、市場には限界がある。生産と販売は一体ではなく時間的にも、空間的にも隔たりがある。競争の中での生産の拡大が販売市場の規模を超えてしまえば過剰生産になる。過剰に生産された商品に投下された資本が回収されないどころか生産設備が過剰になる。過剰な商品が市場に吸収されるまで生産は停止、または停滞する。資本制生産には景気循環が不可避である。経済活動は社会の物質的基礎であり、経済循環の不況期は社会全体が脅かされる。そのしわ寄せは社会的的弱者に集中される。[2049]
資本制生産は一方に生産手段を集中し、それらを支配する資本家階級、他方に労働力以外売るものを持たない労働者階級を作り出す。資本家と労働者の階級対立が資本制社会の基本的な社会関係になる。[2053]
資本制生産にいたって必要な物の生産ではなく、利潤追求のための生産になる。それぞれの生産が社会に必要であるかは問題にならない。飢餓が広がっても儲からなければ食糧を生産しないどころか、廃棄までする。儲かるとならば、食糧を工業原料に回してしまう。[2051]


第3節 資本主義経済


第1項 資本制生産

【商品経済】

資本制生産では社会的物質代謝が商品経済として実現している。資本主義以前でも商品取引があり、市場があり、商人は存在した。奴隷制時代は人間自体が取引の対象、商品であった。しかし、資本主義以前の商品は支配階級内での取引であり、社会的物質代謝の基礎部分は商品取引の対象ではなかった。封建制社会は宝飾、香辛料等が商品として取り引きされたが、社会の基本的生産物ではない。封建制社会では都市生活者が商取引に加わるが、商取引は物質代謝過程での従属的位置しか占めない。封建制社会での生産者は欠くことのできない食糧を手元に残された分で賄わなくてはならない。生産者にとって食糧は自給自足と変わりない。生産者にとって衣類も住居も自給自足同然であった。[3001]
資本主義によって商品経済は普遍的になる。それまでは採集された物、作られた物が商品になった。資本制生産によって生産手段までが商品として取引される。生産手段が商品として取引されることで本質的な商品経済が成立する。生産手段の商品化は資本自体の商品化である。資本制生産によってすべてが商品として価格評価され交換される。人の臓器、人格、名誉までが価格によって評価され、取引されるまでになる。[3002]

【資本の本源的蓄積】

資本主義生産が開始されるには一方に工場設備、他方に労働者が必要である。工場設備とそこでの生産には生産規模に応じた一定の資本規模が必要である。資本が利益を上げるようになる前に、一定規模の資本の蓄積が必要である。資本の再生産による蓄積に先行して、資本の本源的蓄積がある。他方に生産手段を持たない、労働力を売るしかない大量の労働者がいて機械性工場生産は実現する。[3003]
資本の本源的蓄積の形態はそれぞれの社会の経済的、地理的、歴史的条件によって異なった。イギリスでは毛織物の工場制手工業生産が起こり、それまでの農耕に代わって羊の放牧が行われ、土地は囲い込まれ、農民は土地から追い出された。土地から追い出された農民は羊の毛を紡ぎ、織る労働者となる。賃金労働者の奴隷的搾取によって資本を蓄積した。[3004]
遅れて資本主義化した地域ほど国家権力により政治的に収奪することによって資本は蓄積された。国有・公有財産の払い下げや詐取が行われる。また海外交易、植民地の収奪によっても富は蓄積されていた。日本でも江戸時代の商業資本の蓄積以外に、官営工場が払い下げられ、入会い地の没収や地域の共同利用施設・財産が詐取されて初期の資本が蓄積された。[3005]

【資本の生産過程】

蓄積された資本は生産手段に投下され、生産対象である原材料・動力源を買い入れる。さらに労働者を雇い入れて生産を行う。生産手段に投下された資本価値は、生産過程で形を変えて生産物に分割されて転移する。生産対象に支払われた資本価値は、それぞれの分が生産物に転移する。労働者は賃金を受け取り、代わりに労働を担う。労働によって生産手段、生産対象の価値は生産物の転移され、労働の新たな価値が付加される。労働によって生産手段、生産対象の価値は生産物に移され、労働の社会的価値を生産物に結実させる。生産物は販売され、生産手段、生産対象、労働力分の元資本が回収され、付加された剰余労働分の価値が得られる。労働力の代価としての賃金を超える労働が剰余価値をもたらす。[3006]
生産手段の価値も、生産対象の価値も物としての使用価値ではなく過去に費やされた労働の価値である。労働力こそ社会的価値の源泉である。物の使用価値は役に立つが消費されて失われる。取引され、回収されるのは労働によって実現される社会関係での価値である。[3007]
生産対象の価値は費やされた生産過程で生産物にそのまま転化し、販売され回収される。無駄をなくせば生産物量が相対的に増え、生産物単位当たりに転化される価値は小さくなる。廃棄していた副産物を新たに原材料化して利用すれば生産物量が増え、これもまた生産物単位当たりに転化される価値量は小さくなる。これを従来の生産物単位の価格で販売できれば、より大きな価値を回収できるが、やがて競争の過程で平均化される。[3008]
生産手段の価値が生産物に転化し、元の資本価値を回収するためには、その生産手段によって生産される生産物全体の価値として回収される。生産手段の価値回収は生産手段の能力だけでなく、回収時間にもよる。24時間連続して生産すればより早く回収される。生産に要する時間は生産物の種類によって異なる。生産手段価値回収は生産物の種類要件、環境によって異なる。さらに、生産技術の発達が早まれば、生産手段の物理的機能限界よりも早く投下資本を回収しなくてはならない。[3009]
生産手段も労働によって更新されなくては価値を失う。生産手段も労働によって再生産されることで保存され、蓄積される。[3010]

【剰余価値の搾取】

賃金は労働力の購入に支払われ、労働力は労働によって社会的価値を作りだす。労働賃金は労働力の再生産に必要な価値であり、労働は労働力の再生産に必要以上の価値を作りだす。労働力の再生産に必要な労働が必要労働であり、必要労働を越える労働が剰余労働である。剰余労働によって作りだされる価値が剰余価値として資本の利潤になる。[3011]
剰余価値生産を大きくするにはより多くの労働者を使用すること、労働時間を延長すること、労働強度を高めることの3つの方法がある。剰余労働をより大きくする絶対的剰余価値の生産である。[3012]
労働者の数は生産規模、技術によって決まり、余分な労働者は価値を生まない。生産規模を拡大し、市場占有を高めることでより多くの剰余価値を手にすることができる。[3013]
必要労働時間は社会的に決まるのであるから、労働時間の延長によって剰余労働時間は増え、剰余価値は増える。不変資本の更新を早めるためもあって、交代勤務によって労働時間の延長が可能になる。ただし、労働時間の延長は1日24時間の絶対的制約があり、また労働者のヒトとしての生理的限界がある。[3014]
労働強度を高めることでも生産価値は増えるが、労働力の消耗もきつくなる。その時の技術水準による制約と、人の生理的限界がある。労働強化は労働力の使われ方を変え、労働の質を変えるのであって量的に比較できない。労働強化は生産性を高めるのではなく、相対的剰余価値の生産ではなく絶対的剰余価値の生産である。[3015]

生産方法を改良することで労働効率を高めることができる。同じ労働力でより多くの生産ができれば、同じ価格でより多くの生産物を販売することができる。総生産物価値に対する必要労働価値が相対的に低下する、相対的剰余価値の生産である。生産方法で優位に立つことで特別剰余価値を得る。社会的には生産性の向上で消費生活財の価値が下がることで、必要労働価値が低下する。必要労働価値が低下することで、相対的剰余価値が増える。[3016]

生産物は販売されなくてはならないが、労働者は市場での大きな購買者でもある。賃金の低下は消費市場を縮小してしまう。しかし、個々の資本家が賃金水準を高くしようとするなら、他の資本との競争に負けてしまう。[3017]
他方で生産技術の発達はより少ない労働でより多くの生産を可能にする。技術的発達は生産手段を増大させ、労働力への資本支出を減少させる。生産手段の発達はより少ない労働力として余剰労働者、失業者を生み出す。失業をめぐって労働者間の競争が実際の賃金引き下げに作用する。個々の賃金額は出来高や、労働者の態度によって差をつけ労働者間の競争に利用される。[3018]

【利潤の生産】

資本にとって生産手段、生産対象、労働力への資本投下は生産費用である。生産物として実現される商品の価値はこの生産費用を回収し、儲けを得る。儲けの分は労働力の価値を超える労働の価値=剰余価値である。労働力価値に対する剰余価値の比が剰余価値率である。[3019]
剰余価値率は産業によって、個別資本によって異なる。固定資本と可変資本の割合が異なれば剰余価値率は異なる。固定資本と可変資本の割合が同じであっても、資本の回転速度が早くなれば可変資本量が増え、剰余価値量も増える。剰余価値率が異なったまでは資本は偏在し、社会的物質代謝は成り立たなくなる。自らを商品化した資本は流動し剰余価値の配分を利潤として社会的に平均化する。剰余価値を利潤として資本間に配分することで物質代謝秩序を担う。資本間の競争は投下資本に対する利潤配分をめぐる競争になる。[3020]
労働力の価値としての必要労働の価値と剰余価値の比である剰余価値率はその搾取の効率を示す。資本にとって重要なのは投下資本に対する剰余価値の割合、利潤率である。投下した資本対する儲けの率として利潤率が計算される。すべての社会的価値が商品として評価され、交換される資本主義社会では土地、資金も商品として取引される。土地も資金も生産のための費用である。あらゆる資産は何らかの利益をもたらす物として評価される。資産の価格はそれがもたらす利潤から逆算される。土地は地代として利潤の分け前を受け取る。資金は利子として利潤の分け前を受け取る。逆に、どれほどの利潤をもたらすかによって資本価値が評価される。[3021]

【資本の有機的構成】

資本制生産は不変資本と可変資本の再生産である。生産手段、生産対象はそれらを作りだした労働の価値を体現している。生産手段、生産対象の価値は生産過程で転化するだけで増加することはない不変資本である。労働力に支払われる価値が、労働力価値を超えた労働価値を生み出す可変資本である。[3022]
生産技術の発達は生産手段の改良である。労働によって改良された生産手段によって生産設備は大型化する。一方改良された生産手段はより少ない労働力で運転される。不変資本の蓄積に応じて、不変資本を動かす労働力、可変資本部分は減少する。不変資本に対する可変資本の減少が資本の有機的構成の高度化である。[3023]
改良され、蓄積された不変資本はより大きくなるが、可変資本部分の減少は剰余価値の生産、利潤の生産も減少させる。利潤率は傾向的に低下し、過剰な労働力を生み出す。[3024]

【信用の創造】

生産手段の価値が生産物に転移し回収され、再び生産手段に投下されるには一定規模にまで蓄積されるのを待つことになる。生産手段が大型化する程その再投下までの資本の停滞期間は長くなる。この資本の停滞をなくするのが信用である。金融資本は資本の回転を連続化する機能を担って発達してきた。次の生産手段の更新まで生産手段の価値移転・回収の期間資金は遊休するが、これを集めれば新規投資の規模にまでまとめることができる。利潤を生むべき資本が停滞することなく利潤生産を実現すべく、生産手段の購入に必要な資本が信用貸しされる。産業資本の活動を制限していた、資本の回転による制限を解消し、信用を創造した金融資本は資本運用の中核として中心的役割を果たす。金融資本は設備投資を基本とする産業情報に通じ、資金操作を通して影響力を強める。資本支配を強化し、信用調査、融資資金による締め付け、役員を派遣するまでになる。[3025]
信用は価値流通のあらゆる過程で資本の回転を速めるように利用される。信用はまだ実現していない利潤を保障するのであり、行き過ぎた信用が利潤を回収できなくなった時、信用は破たんする。[3026]

【資本制生産の普遍化】

資本主義市場経済の発展は、工業生産以外の分野も資本主義的に再編成する。すべての産業が資本投資と利潤の獲得の市場になる。政策的に制限されることはあっても、農業、林業、漁業などの第一次産業も公務、教育、文化を含む第三次産業にも資本制が普及する。[3027]
農業にあっても耕作面積の拡大と機械化によって土地を集約し、農民を農業労働者と化す。農民の土地所有を残す場合であっても、農業資本から苗種・肥料を購入し、耕作機械を購入、借り入れることになる。[3028]
漁業においても漁船は大型化し、遠洋に進出する。養殖も大型化し資本の経営になる。[3029]


第2項 資本主義経済の発展と腐朽

【社会代謝の基礎】

資本制生産に限らず社会的物質代謝も基礎代謝と運動代謝に分けられる。社会的基礎代謝量によって人口規模が決まる。基礎代謝量を超えた人口を養うことは不可能である。同時に人々の労働によって社会的代謝は実現し、人口規模によって社会的代謝量は決まる。人口規模と社会的代謝量とは相補的規定関係にある。社会的基礎代謝量は社会の生産力と人口によって決まる。基礎代謝量を上回る人口は増えようがない。人口を上回る基礎代謝生産は無駄になる。人口に応じた基礎代謝生産は生産力によって決まる。[3030]
生理的代謝は人の場合基礎代謝が7割、運動代謝が3割といわれているが、基礎代謝に不可欠な食事は運動によって実現する。といって食糧を確保するための運動は基礎代謝ではない。実際の計測も安静時の代謝量を基礎代謝量としている。基礎代謝と運動代謝とは物理量として区別し定義することはできないが、効果の違いによって質的に区別することはできる。[3031]
基礎代謝量として、人々が生活するのに必要な財を数量として定義するのは難しい。人間の基礎代謝量は生物としての生存に必要な生理的基礎代謝に止まらない。健康で文化的な生活水準を定義することであり、物理的には決まらないし、社会的には立場の違いによって合意はしえない。生活水準は向上し、豊かな人間の生活が可能になってきているが、豊かさと無駄とを区別することが困難である。しかし、観念的なだけの量ではない。人それぞれの生活で問われる、実践的な量であり、現実的な量である。それぞれの社会には、その社会を構成する人々が生活するのに必要な財の質と量があることは確かである。ヒトとして生きるのに必要なだけでなく、人間として生活するのに必要な財の質と量がある。[3032]
基礎代謝生産は農林漁業、牧畜と言った一次産業の分類ではない。原材料、動力源、生産手段の生産でもあるし、流通や生産秩序、社会秩序を維持することも含む。その社会で人々が基本的生活をするのに必要な生産である。[3033]
社会的代謝にとっての運動代謝が生活の豊かさを現す。奢侈や無駄をも含む豊かさを実現するのが基礎代謝を超える運動代謝に当たる。運動代謝として人間としての生活、文化活動が実現する。社会的代謝にとって運動代謝は文化代謝とよべる。当然にこの文化は文化系・体育系の違いを含む人間文化である。基礎代謝と運動代謝とを明確に定義分けできないように、基礎代謝と文化代謝も明確に定義分けできない。人間には文化活動が不可欠であり、健康的、文化的生活水準の保障が求められている。文化代謝は奢侈や無駄と言った価値観とは別の、基礎代謝に対しての区別である。運動代謝を担う人々も基礎代謝によって生活する。基礎代謝を担う人々も運動代謝の成果を受けとる。[3034]
社会的代謝を規定するのは社会的価値であり、その源泉は人間労働である。人間労働が価値を生み出し、取引される。社会的物質代謝系を動かし、制御するのが人間の労働であるが、社会的代謝で消費されるのは使用価値である。社会的代謝量は使用価値量である。社会的価値量と使用価値量との関係は一義的には決まらない。人間のすべての労働が使用価値を有効にもたらすことにはならないし、使用価値の場合供給量と需要量の関係で取引価格は変動する。[3035]
基礎代謝生産を超える生産力によって運動代謝が可能であり、社会的代謝は拡張される。運動代謝も含む社会的代謝総量は生産力と人口によって決まる。運動代謝が何をもたらすかは生産力の使われ方によって決まる。[3036]
資本主義経済はこの社会的代謝を歪ませることで発展してきている。人々の健康的、文化的生活を実現するための社会的代謝を超えて、止まることのない社会的欲望を満たすための生産、消費市場を発展させてきている。[3037]

【市場拡大】

資本主義経済の本質矛盾は生産と消費の乖離である。生産のためでもなく、消費のためでもなく、利潤追求のため資本は流動する。利潤を追求することが経済社会の需要を満たすための動機として作用するのは生産と消費が相互規定している段階だけである。利潤追求が資本の自己目的化すると生産と消費は乖離し、矛盾は景気循環として現れ、恐慌によって解決される。社会的物質代謝が利潤追求の手段と化し、必要な物質代謝の規模を越えて生産を押し進める。一方に資本を集中、蓄積し、他方に貧困化する労働者を増やす。市場に生産と消費の限界が表れる。[3038]
資本主義経済の発展は市場拡大の歴史である。社会的物質代謝は労働価値の交換によって成り立つが、あらゆる人の労働を資本制に組み込むことで市場の限界を超えて拡張してきた。[3039]

資本制生産の原型である機械制工場生産は最終消費財と生産手段の市場から成り立った。資本制生産の基本は最終消費財の生産と生産手段の生産、それに原材料、燃料から次々と加工される中間財生産とからなる。毛織物等の軽工業から始まり、生産手段を作るための重工業へと景気循環を繰り返しながら市場規模を拡大してきた。生産技術の発展が中間財生産と生産手段生産を拡大し、最終消費財の生産単位費用を引き下げてきた。日常の消費生活を営むのに必要な労働量は生産技術の発達によって相対的に減少してきた。資本制生産では原始共同体社会のように1日の食糧を得るためだけに1日中働く必要はなくなった。そのかわり、1日に必要とする衣食住にかかる消費量は増えてきている。[3040]
資本制生産の社会的物質代謝での基礎代謝は爆発的人口増を可能にしてきた。医療、衛生によって死亡率が減少しただけでなく、食糧、エネルギー生産量の増大に応じて人口は爆発的に増えた。生産性を発達させる生産手段の生産は基礎代謝自体を発展させる。基礎代謝の規模の拡大として資本制生産は基本的に生活水準を高めてきた。「先進」と呼ばれる地域での人口推移は生活水準を追求することの余裕からである。[3041]

基礎代謝の拡大だけでは社会的代謝量は人口規模で限界に至る。拡大再生産を維持し、利潤を追求するには文化代謝を拡大するしかない。文化代謝を拡大することで資本制生産は限りないと思える程の発展をしてきた。文化代謝としての市場の拡大にその質を見ることができる。[3042]
市場規模の制限を超えるためにまず、必然的にとったのが海外進出である。原材料を求め、消費市場を求め、労働を担う人間すら消耗品として求めて海外進出した。むき出しの帝国主義である。[3043]
むき出しの暴力が制限されて、過剰生産物を強制的に消費し、公共投資によって市場を作りだす有効需要創出政策がとられた。経済、社会基盤の整備は市場を作りだすとともに、生産力をもたかめる。[304r]
技術の発達は困難な、きつい仕事を機械化した。人にとって困難な仕事やきつい仕事、不快な仕事を機械化することは技術発達の貢献として、資本主義にかかわらず肯定的に評価できる。機械化は家事にも及ぶ。家事労働の市場化は電化製品市場の開拓と婦人労働者市場の開拓でもあった。家庭生活をも市場に依存させることで、人間の生活自体が大きな影響を受けてきている。家庭生活、消費生活の市場化は価値観にまで影響している。[3045]
文化活動そのものといえる趣味さえも市場化される。社会的物質代謝に必要な量を超え、趣味・娯楽の分野まで商品として提供されるようになると社会的物質代謝は歪む。文化もスポーツも本来、人それぞれがそれぞれの条件で主体的に実践するものである。それが空間的場所も資本によって囲い込まれ場所代の支払いが求められる。一定の費用負担をしなくては共に楽しめる種目が成り立たない。教え合うこと自体が市場化する。労働者の自由時間も資本市場に囲い込まれる。趣味・娯楽は個人的楽しみに止まらず、社会的欲望へと転化する。所有欲、独占欲、差異性と共有性への渇望、名誉欲、支配欲など限界のない欲望であり、しかも社会的欲は操作される。宣伝によって欲が増大し、流行が作られる。宣伝そのものが商品であり、物理的限界のない市場である。限りない欲を満たすために社会的物質代謝系に不要不急な生産、消費分野が拡大する。[3046]
欲望の操作は精神への働きかけであり、情報による操作である。情報システムは社会的代謝の制御のために発達してきたが、欲望の操作にも使われるようになった。社会生活上不可欠な個人情報も、欲望を刺激し、誘導するための情報として売買され、盗み出されるまでになってきた。[3047]

歪んだ社会代謝もその地域だけに止まるなら、その社会が腐朽するだけのことである。腐朽して跡形もなく消えた文明、文化はいくらでもある。しかし、資本制生産の場合、単に欲望を満たすだけではなく、利潤追求のための生産と消費を拡大する。しかも、海外進出し、資本制生産の発達していない市場を支配する。資本が進出支配した地域の社会代謝系を利潤追求のための代謝系に変質させる。例えば魚も養殖語に取って代わり地元では買うことのできない高級魚になる。それまでの生活を支える漁業は廃棄される。地域の自立した代謝系を破壊するだけでなく、合わせて武器の輸出市場とし、軍事対立までも利潤追求の手段としてしまう。[3048]
資本制生産の本国であっても、海外市場から離れ、海外の惨状を知らない。それなりに豊かな生活が、他国の経済破壊によって成り立っていることを理解しない。地球環境が破壊され、資源が乱獲されていることを理解できない。このような経済、社会的代謝が行き詰まらないわけはない。[3049]

【独占の形成】

資本主義経済は資本間の競争によって生産を集積、集中する。生産規模が大きければ生産する剰余価値も大きくなる。また、無駄をなくすることによる利潤の損失を小さくすることができる。技術開発への投資を行うことができる。担保の大きさは融資を有利にする。資金の余裕は資本の回転から相対的に自由な投資を可能にする。競争にあって、より大きな資本がより優位になる。[3050]
結果は中小の資本が競争に敗れ、いくつかの大資本によって市場が独占される。独占化された市場では大きな初期投資が必要であり、新規参入はほとんど不可能になる。独占支配された市場以外の新たな製品を作りだすことができたなら、中小資本でも利潤追求の場で対等以上の競争をすることはできるが。[3051]
市場では唯一の資本によって独占されることはまずない。残るのはいくつかの資本の寡占支配である。社会的責任を一資本が負うのではなく、複数にしておく方が資本の社会的責任を問われなくする。完全な独占は国営企業と同じに社会的・政治的責任を追及される。[3052]
また、危険負担の大きな部分、採算に合わない分野が独占市場以外にあする。そこには中小資本の活動の場が残される。[3053]

【国家独占資本主義】

独占資本の支配は経済にとどまらない。政治、社会、文化、社会的権力のあるところすべてに及ぶ。[3054]
国家権力は資本にとって最も役に立つ経済外的力である。本源的蓄積の際は後ろ盾であり、その財産は略奪の対象であった。生産、流通の社会秩序を維持するのも国家権力である。公共事業として、産業基盤整備を税金によって行う。資本間の過当競争を調整する。権力によって保障し、有効需要を作りだし、景気を刺激する。私的資本には危険負担が大きな大規模事業、新規事業、技術開発を国の負担で行うる。儲かる市場を支配し、儲からない事業は本人と国家の負担に押し込めることができる。[3055]
出版、放送、通信、集会施設等のすべてが資本投資の対象になる。民主主義の物質的保障を資本支配の下に置く。[3056]
個人の生活保障資金までもが金融商品によって集められ、投資基金として集中される。投資は投機化し、短期間の値動きで売買される。社会代謝の調整機能を担った信用が、投機化することで社会代謝を混乱させる。生産と消費の相互規定関係から遊離した投機金融は世界市場を自由に駆けめぐることを求める。「新自由主義」であり、「グローバリゼージョン」である。[3057]
労働組合の幹部も買い取られ、政治的地位が与えられる。組織が大きくなれば、直接民主主義的運営ができなくなる。幹部それぞれが現金で買収されることはなくとも、社会組織指導者としての経済的地位が与えられる。労働組合幹部は資本家と違って、元手なしでも手に入る社会的地位である。[3058]

【世界支配】

生産力の増大はより大きな市場を必要とし、国内市場から海外市場へと広がる。さらに商品輸出から資本輸出へと発展する。[3059]
一般に資源は加工してから輸送した方が効率的である。廃棄される中間生産物をわざわざ輸送する必要はない。生産関連は世界的に拡張される。[3060]
資本の有機的構成の高度化による国内利潤率の低下に対して、海外では特別利潤の追求が可能である。国際的生活水準の違いは、賃金水準の違いでもある。低賃金による生産は資本に大きな利潤をもたらす。[3061]
経済的優位だけではなく、現実には侵略として海外支配は特別な利益を資本にもたらす。1950年代までは資源、労働力を直接に略奪した。被侵略地域のほとんどが独立国となった今日でも、無権利労働者の搾取や、天然資源の乱開発、公害企業の移転として資本の海外進出は拡大している。[3062]
資本輸出した相手国においても国家権力と癒着し、軍事力と一体化する。領土分割、地球資源の独占、商品市場の独占、市場支配の再分割が繰り返される。戦争さえ武器市場の拡大となる。[3063]
資本輸出は工業国へも向けられる。資本関係は錯綜し、複雑になるほど世界の支配網は密になる。[3064]
世界侵略の、帝国主義の最先端形態が多国籍企業である。決して多国籍企業は国家権力から独立ではない。国家権力と一体となって、国家秩序を利用する。国ごとに違う税制、金融、法制を最も有利な組合せで利用し、制限をくぐり抜ける。多国籍企業の経済力は、中小国の国家財政をもしのぐ。企業利益のためなら、他国の経済を金融操作で破たんさせることまでやってのける。[3065]


第3項 資本主義の社会関係

【賃金労働の普遍化】

機械の生産への導入はそれまでの熟練労働を単純労働に替えた。機械生産は熟練労働を作業部分に分け、労働を単純化し、均質化し、筋力を必要としなくなった。労働者は制御能力の提供者になる。機械設備の設計も当初は複雑化したが、設計支援技術の開発によって職人芸は組み合わせ作業に置き換えられるようになる。制御技術の発達は多品種少量生産を可能にしているが、多様性は組み合わせによるものであり、質的多様性ではない。一部でまねることの困難な職人芸を尊ぶが、当然に職人には大量生産はできない。その職人的生産物価値は日常生活財とはかけ離れる。[3066]
単純化された労働は熟練を要さず、性別、年齢を問わない。労働者の平等な取扱を普及する。賃金は労働者の生活を基準に決定され、一家の働き手が二人になれば一人当りの賃金は半分になる。本源的蓄積の段階で家長は一家の主たる働き手として売り込むことができず、妻や子供を奴隷のように資本家に売り渡さなくてはならなかった。家長の支配から女性、子供、児童を開放し、工場に招き入れる。[3067]

商品経済の普及は賃金労働の普及でもある。農業、漁業、林業も賃金労働者に担われるようになる。工場制機械工業の高度化は生産設備の開発、運用、保守のための技術労働者を必要とする。市場の拡大は物流情報を処理する営業労働者を必要とする。生産と流通の高度化は企業経営を補助する労働者を必要とする。社会代謝を担うすべての労働が賃金労働者に担われるようになる。教育、研究、行政、労務管理までも賃金労働者に担われるようになる。賃金労働者ではないが経営者までもが雇われる。[3068]

【労働の分化】

機械制生産は当初一方で大量の単純労働者を必要とするが、発達した機械制生産は他方に機械設備の保守、改良のための技術労働者をより多く必要とするようになる。大量生産は生産物の販売のための営業労働者、広告労働者を必要とする。規模を拡大する大量生産、多品種化を担う多種の多量の労働者からなる生産組織を管理するための事務労働者も必要とする。[3069]
直接的生産、工業生産の大規模化、機械化によって、労働の質が変化する。一般的に肉体的労働から精神的労働へ比重が移行する。経験的労働から単純労働と高度技術労働とへの分化が進む。[3070]
単純労働では生産に対する局所化が進む。生産の全体が見えない苛立ち、労働の創造による生きがいの喪失、労働成果物に現れる技能の誇りが奪われる。肉体労働は日雇い労働者、臨時工、中小零細企業労働者によって担われ、不要になれば切り捨てられる。手仕事はパート・タイマー等の主婦、アルバイト学生等によって担われる。[3071]
事務労働の高度化は情報処理の高度化として物理的力になる。段取り、作業・設備・材料の配置、組合せを管理することは、かって生産管理の知識として企業経営者が担った。今日では組織、制度、技術、情報として定型化し、労働者組織によって担われるようになってきた。[3072]
情報処理機器の発達は生産管理自体の機械化を可能にした。生産管理という生産過程にあって最も人間的、知的部分が機械化されることになる。情報処理技術は技術開発競争にあってたちまち陳腐化する。管理対象は詳細化、大規模化し、指数的に増大する。情報処理技術者が大量に必要とされ、不足することになる。情報処理では基礎技術ですら数年で陳腐化してしまう。情報処理技術者が開発能力を発揮できるのは十年程度でしかなく、人生を通じて生産性を維持することは困難である。[3073]
組織の情報化は組織運営を変える。人が人を組織し運営するためにピラミッド型制度を作ってきた。人一人が指導できる人数が数人なら数百人、数万人の人を一つの組織としてピラミッド型制度になる。ピラミッド型制度によって情報は上から下へ伝達され、下から上へ集約される。中間管理職の組織機能上の職務は情報伝達の制御にある。組織の電子情報化によって情報伝達の制御は中間管理職を不用にする。情報が共有されるようになれば、全体の意思決定を担う中枢管理職も不用になる。そのためには働く者は自らを社会的、組織的に訓練する必要がある。[3074]
企業経営にとって労務管理は生産効率上重要な問題である。管理の専門家が統制するよりも、労働者の自主的な統制の方が効率的である。作業の質を維持するだけでなく改善し、生産方法の変更に流動的に対応するには生産管理責任を労働者が負う方が効率的である。作業への集中と周囲との連携という相反する要求であるが、それだけ複雑な動機付けを可能なまでに労務管理は発達してきた。しかし他方では労働者自身の統治能力の訓練でもある。[3075]

【貧困化】

基本的に生産力の発達はより少ない労働で、より多く生産する。道具、機械は労働を補助するが、労働を軽減することに直接しない。筋力、熟練を必要としなくなることで児童でも労働力を担える。無駄な動作、時間を削ることは、労働密度を高めることになる。組織化されることで全体の同期が優先される。道具、機械による生産性の向上によって労働を軽減するか、労働者を削減し、低賃金化するかは別の問題である。生産力の発達はより少ない労働者しか必要としなくなる。余剰の労働者は失業するしかない。労働者にとって失業は生活手段を失うことであり、絶対的な貧困化である。[3076]
一方でより少ない労働は剰余価値生産量も少なくし、利潤も低下させる。失業者が増えることは消費市場を縮小する。雇用問題は剰余価値の搾取と市場の確保の矛盾をめぐっても調整されることになる。[3077]
世界経済の限られた豊かな国、その限られた豊かな地域では絶対的貧困化が問題にならない。それら総体的豊かさも長くて数十年の限られた期間である。そこで取引、流通する情報としては貧困化が問題にならない。貧困は関係のない地域問題として無視されるか、意識的に伏せられる。他の地域を収奪するこによって一部地域では労働者でも生活水準が一時的に向上する。[3078]
絶対的貧困は輸出される。絶対的貧困化は世界規模で偏在化する。それまで自給自足でも生活できていた地域が、資本主義市場化することでそれまでの地域経済が破壊され、すべてが商品化される。利権をめぐる争いは貧困地域では命のやりとりに化す。飢餓は資源収奪、産業基盤の破壊、腐敗させた政治支配、武器によって海外に輸出される。公害も輸出される。低賃金を求めての生産資本の海外進出は国内産業を空洞化させる。[3079]

労働者は就業していても生活手段のほとんどすべてを賃金で賄う。家庭内の扶助手段、教育手段も商品として購入する。病人、老人、障害者を家庭内で世話をすることがますます困難になる。長時間労働、長時間通勤、単身赴任は家族関係を破壊する。過労死にまで追いつめられる労働者が現実に存在する。生活水準を維持するために厳しい労働条件を受け入れざるをえない。人間にしか我慢できない混み合う輸送手段によって長距離通勤を甘受する。食品の工業生産は規格化と添加物によって自然の豊かさから離れてしまう。生活保障のための預貯金も単に貯めておくだけでは減価するだけである。貨幣価値の低下=インフレーションによってわずかな利子も帳消しにされる。資本として価値の生産過程に入らない資産は減価するだけである。労働者は失業しなくても相対的に貧困化する。[3080]
相対的貧困化は富の配分の格差拡大として現れる。さらに、社会施設の法人所有拡大は実際の施設・制度の利用機会の格差を拡大する。個人の富として蓄積されるのではなく社会的富として囲い込まれ、その利用は社会的特権として遍在する。[3081]
貧困化の問題も議論しても決着はつかない。根拠となるデータは多様な側面からとられ、結局解釈の問題になってしまう。解釈の違いがあっては立場の違いを議論では超えられない。地球温暖化の問題も同じである。しかし、議論している間に現実は着実に深刻化している。[3082]

【労働の疎外】

労働は本来生きることであった。衣食住を確保することで生命を維持し、それらを確保することが労働であり、生活であった。労働によって手の能力、精神の能力、言葉の能力、社会的能力を獲得してきた。労働として自らの存在、力を現実に表現してきた。労働は生産と消費どちらの面でも自己実現の過程であった。労働は人間主体の対象化であり、人間主体自らの労働能力を社会的に利用可能な生産物に外化する。外化し、対象化した労働生産物を主体自らの消費に取り戻し、主体自らの生存と発展に資する。外化、対象化は物理的過程と精神的過程の一体となった過程であり、一体となって自己に回帰する。労働は本来自己実現であった。[3083]

肉体労働と精神労働の社会的分離、奴隷による労働と「市民」による支配、祭祈者による知識の独占が歴史の始めにあった。所有と生産が分離する階級社会で労働の疎外が始まる。資本制生産にいたって労働の疎外が最も徹底する。自己実現としての労働が、生活手段獲得のための苦役になってしまった。生活が苦役と消費に二分された。[3084]
生産技術の発展だけでなく、社会関係として労働が疎外される。手工業生産の段階までの生産者は生産過程全体を制御していた。[3085]
直接生産者である労働者が労働の成果物を所有できない。労働によって労働を支配する力、労働を搾取する力を強めてしまう。自己の外化・対象化としての労働そのものが、分離された所有関係を再生産し、強化する。被支配者の労働が自らを支配する他人の力、疎外の力を強化する。労働と労働の制御は個人的にも、社会的にも分離する。労働過程で労働者は労働力の提供者でしかない。賃金労働は労働者を生産者ですらなくしてしまう。動作、発言、挨拶の仕方までもが手引き書に規定される。[3086]
社会関係の制度的安定化は組織・制度への寄生性を強める。巨大化する生産を運営するために管理組織が増大したが、組織は人の処遇を保障するため生産にとっての必要性に関わらず組織を肥大化させ、非生産的地位を作り出す。非生産的地位は人間性を破壊し、精神的、文化的貧困化をもたらす。[3087]

労働者には自己実現の契機がある。本来人間性を実現する労働によって生活する者が社会的物質代謝のあらゆる場を担っている。資本主義的商品市場が人々の生活のあらゆる場に普遍化することで、そこで労働者が市場取引を担っている。労働する者が労働する者だけで社会を実現し、自らを実現することができる。社会は働かない者を必要としないし、働けないものは社会が保障する。価値を創造す者によって実現する社会で、本来の人間の生活が実現する。主体として働くことは社会的にはまだ無理でも、自分の生活でなら部分的に可能であり、拡大可能である。[3088]

【社会的保障】

機械制生産、工場労働、商品経済の普遍化は、それまでの家庭における子供の養育、教育、相互扶助、人間性発達を社会的に保障する必要がある。ここにも、労働者が社会運動に依拠し、自らを社会的に組織しなくてはならない重要な契機がある。[3089]
経済外的に規制されない生産は過剰生産、不況を伴う。経済活動は景気循環をとおして調整されるが、労働条件を規制するには経済競争を超えた社会的規制が必要である。生理的条件を無視した労働条件は労働者を疲弊させ、人格を破壊する。最低賃金の保障、労働時間の制限は労働者間の競争、企業間の競争を超えて社会的に守られるものである。生産環境維持のためには労働者の保護、保障が必要である。[3090]
特別に社会的に保護されなくてはならない労働条件もある。女性は労働者として以前に、母親として保護される。女性の健康は次世代の健康の前提である。出産、授乳が保障されなくてはならない。にもかかわらず女性であることを理由に男性との労働条件に差をつけることは男性の身勝手である。子供の就業年齢は制限され、それぞれの能力の開発が保障されなくてはならない。基本的教育は公教育として、社会的に保障されなくてはならない。[3091]
社会保障を実現するのは労働者の主体的運動である。政治形式上労働立法等の手続きで政治家が主導権をとることがあっても、現実に労働者の主体的力量が社会的に発揮される条件がなければ法も実行されない。権利も行使されなくては現実の力にはならない。労働組合運動は社会主義運動ではなく、もっぱら資本主義下で不可欠な社会運動である。労働運動は資本主義生産の維持のためにも、労働者の生活のためにも不可欠な社会運動であり、労働者自身を社会的に訓練し、組織する重要な契機である。[3092]

【利殖の仮象】

資本主義の生産関係では価値は儲けを生むものである。自己増殖するものが資本主義社会での価値である。[3093]
資本は生産過程に投資され、投資された価値以上の剰余価値分を回収する。産業資本は生産した商品を販売することによって利潤を手にすることができる。土地所有者は剰余価値を生まない土地を産業資本家に貸すことによって地代を手にする。土地は地代を生み出すかのように機能する。金融資本は資金を貸し出すことによって利子を手にする。労働者であっても災害、病気、老後に備えた貯金は利子を生む。資本主義での社会的価値は剰余価値の分け前の請求権である。[3094]
社会に対して何らかの形で投資される価値は儲けを生む。売買は安く買って高く売られなくては売買に意味はなく、商売によって生活することはできない。安く買って高く売ることは一見不等価交換のようであるが、差額は社会的効用として提供される労働によってもたらされている。一定の価値の商品も運ばれ、あるいは保管されることで価値を付加される。ところが金融は資金を用立てることで労働を伴わず利子をもたらす。労働によって生み出される価値と、剰余価値の分け前としての価値の違いが覆い隠され、価値は価値を生み出すもののことになる。子供の教育ですら投資で例えられる。[3095]
儲けをもたらさないものは資本主義社会では価値がない。儲けを生み出さないものは資本主義社会では社会関係に入っていくことができず、社会関係から排除される。儲からない物事には投資されない。[3096]

【状況の閉塞】

20世紀初頭には15億人であった人口が60億人を越すまでになり人道的人口抑制のめどは立っていない。[3097]
一方で過剰生産による暴落を防ぐために農産物が焼却処分され、他方では飢餓地域が拡大している。地域紛争が高度な兵器供給によって支援され、兵士だけでなく子供、老人、病人、障害者の生命・生活を破壊している。[3098]
地球が何億年もかけて蓄積してきた化石燃料を百数十年で大半を消費し、しかも加速度的に消費を拡大している。動力の主要な形態である熱動力の利用は熱そのものの放出だけではなく、二酸化炭素を大気中に放出し、大気の温室効果により地球の熱代謝を歪めている。交通の全地球規模での発達、産業エネルギー消費は地球環境を変え、温暖化による主要都市部の水没すら懸念されている。[3099]
一方に消費都市を築き、他方に砂漠を拡大している。木材の伐採、耕地の拡大のための森林資源の破壊は地球全体の生物環境を変えるほどの規模になってきている。産業廃棄物、産業事故は地球の生物環境、物質代謝に深刻な影響を与えつつある。地球環境の問題は自然保護の問題ではなく、生産様式の問題であり、経済的、社会的、政治的問題である。[3100]
にもかかわらず、社会権力、物事を決定する力は独占資本に握られ、民主主義は機能しない。多様な社会、多様な文化は一様化を経済的に求められている。[3101]

【歴史的・思想的展望】

科学技術の発達は個々の自然過程の制御を可能にしてきた。その科学技術を利用して社会的生産力を拡大してきた。しかしその社会関係を制御することはできないできた。社会関係は自然環境と同じに制御できないものとされてきた。[3102]
階級社会は支配の社会関係であり、自治組織としての社会ではなかった。階級社会では社会的意識としての社会的自覚がなかった。[3103]
しかし、資本主義社会の発展は自然環境を破壊するだけではなく、自然を制御する技術、その技術を運用する技術を発達させた。個人意識を確立し、世界的に普及しつつある。人権が解釈の違いが政治問題化することはあっても、地球的規模で基本的には認められるようになってきた。資本主義社会にいたって、個人が自分を制御することが求められるようになった。必要な生産物を必要とするすべてのひとに人々に配分できる物質的条件は既にある。[3104]
次代は社会が社会を制御する。他人を支配するのではなく、共同による生活関係を実現する。まさに民主主義に基づく社会が展望される。人間の可能性のすべて、それぞれの可能性を発現する条件を社会的に整える時代展望される。[3105]


第4節 社会主義・共産主義

社会主義運動は理想の社会を築くことである。しかし、どんなにまじめに人間として理想的な生き方をしようとしても、理想の社会で暮らすことは不可能である。特にその理想が何の苦労もない、ストレスの無い社会であるとするなら、それはいつまでたっても空想でしかない。現在の苦労、ストレスからの逃避願望による幻想である。現実的な理想の社会は、理想を追求し続けることのできる社会である。[4001]

【社会主義運動】

社会主義運動は資本主義社会の中での運動である。目的は社会主義権力の樹立である。社会主義運動は最終的には国家権力をめぐる、政治闘争である。しかし、基本は現在の生産関係の上での生活向上と、社会的責任の追求である。日常的には道理を通す運動である。道理を通しながら、それぞれの段階での、社会の運営を自らの手で行い、自分たちのための権力行使を学ぶ運動である。[4002]
主体的には組織力、政策力、教育力を育てる運動である。一般的には民主主義を地域、職場、家庭の隅隅にまで徹底し、必然の洞察にもとづく自由を守り、行使する。不当な権力、経済力の行使を許さない。人類の歴史を引き継ぎ発展させるため、地球環境を保全し、新しい文化の創造をめざす運動である。[4003]

【「共産主義」の崩壊】

冷戦を「自由主義と共産主義の闘い」として描いた者が多い。「共産主義」が全体主義であるから、平和の脅威であるから「自由主義」を支持する人々が圧倒的多数であった。しかし、「自由主義」を掲げて「共産主義」と戦ってきた反共主義者たちのほとんどは、民主主義にも、基本的人権にも、社会福祉にも、民族自決にも敵対してきた。反共主義者は「資本の自由」「企業の自由」のために戦ってきた。反共主義者たちは「自由」「民主主義」を共産主義に対立させて利用してきた。しかし現実には「企業内には日本国憲法は通用しない」とまで公言する者たちである。[4004]
「共産主義」の崩壊は彼ら反共主義者たちの勝利で、民主主義、基本的人権、社会福祉、民族自決も制限されるものになった。「冷戦後」彼らは「自由主義」の勝利とは言わなくなった。彼らは「資本主義が勝った」と言うようになった。「自由主義・民主主義」の仮面を捨てて、資本主義者が公然と現れた。[4005]

他方に、共産主義を担ってきた人々も、理想が幻想だったと失望した人が多い。マルクス、レーニンの文言に囚われたマルクス・レーニン主義者は現実を、自分たちを見ていなかった。それどころか、ソ連共産党の指導者ですら唯物弁証法や史的唯物論の基礎を理解していなかったようである。かっての東欧は理論的に検討するまでもなく、働く者が主人公の社会ではなくなってしまっていた。[4006]

世界観にとって重大なことは、マルクス・レーニン主義が科学的な世界観であるとの主張がまかりとおていたことである。科学は現実の認識であり、マルクスとレーニンによって完成されたものではない。マルクスも、エンゲルスも、レーニンも、彼らの業績は業績として、彼らの専門外の分野では彼らも専門家の業績を利用し、解釈し、自らの世界観を発展させ続けていた。彼らよりも今日の我々はより豊かな科学的成果を学ぶことができる。我々は彼らよりも豊かな世界観を獲得できる時代にいる。[4007]
彼らの業績を発展させることは、彼らの理論を修正することも含まれる。修正主義との批判を恐れているわけにはいかない。彼らの到達点は高い。マルクス・レーニンに囚われてきた多くの秀才たちも、彼らを超えることができなかった。それほどに彼らを超えることは難しい。彼らを超えたと思っても、大抵は俗流化でしかない。しかし、誤りの可能性が大きくとも、修正することもいとわない取り組みをしなくては、科学理論として発展の展望すら拓けない。[4008]
共産主義に敵対しない人々も「共産主義は理想であるかもしれないが、実現しようとすると全体主義に変質してしまう。」「中央統制の計画経済では生産力が向上せず、社会福祉や、生活向上の物質的基礎がそもそも保障できない。」と「共産主義」を選択しない。圧倒的多数が善人であっても、必ず人を出し抜く者が現れ、善人の秩序は極少数者によっていとも簡単に破壊される。[4009]
ではどうするか。理想を語って強引に実現しようとすると、非現実的になることは明らかになった。人間には今の所、社会経済を制御する能力はない。少なくとも、今の人間には民主主義を社会制度として実質化する能力はない。[4010]
この現実から出発して、現実の問題点を明らかにし、対応していくしかない。[4011]
この現実は、人類の存亡が問われる時代である。全世界が民主主義によって社会を制御しなくては、人類は地球上で生き残れない。理想を追求し、裏切られ、犠牲になった人々に対しても、日々虐げられている弱者に対しても、我々の後を引き継ぐ子供達に対しても。そして、日本の我々の生活のために収奪されている、数十億の人々のためにも。[4012]


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