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第二部 第三編 社会

第7章 人間社会


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第7章 人間社会

誰も実在である人間社会の有り様を知らないし、原理的に知りえない。それでも、人々は生活するために社会を理解しようとする。[0001]

地上の我々は銀河系を天の川としてしか見ることはできない。同じく社会内の我々は社会を外から見ることはできない。さらに社会は物を見るように眼で見ることはできない。眼で見えるのは人々と物の動きである。銀河とその運動は他の銀河や天体観測による法則から抽象し、モデルとしてイメージを描くことができる。社会も銀河以上に抽象してイメージを描くことができる。[0002]
一つひとつの音を正確に聞き分けても音楽を聴くことにはならないように、人々と物の動きの関係とその変化とをとらえないと社会はとらえられない。しかも、社会に関わる情報は時空間的に部分的であり、かつ断片的である。人々と物の動きを記憶し、相互関係全体の動きを抽象してはじめて社会を理解することができる。[0003]

世界観の対象として位置する「社会」は生活の場であり、自己実現の場である。社会は解釈して納得するなり、否定するのではなく、理解する対象であり、実践の場としての対象である。[0004]
解釈は不明な部分を補って対象を捉える。理解は不明な部分を確かめて対象を捉える。方法の違いではなく、目的の違いである。例えば目の前にある立体を見て「立方体である」と捉えるのは解釈である。手にとって回転させ、あるいは周囲をめぐり検証して概念化するのが理解である。知識、経験を元に解釈によって大体の物事は処理できる。しかし、世界観は世界の解釈にとどまるのではなく、論理的概念として世界を理解しようとする。[0005]


第1節 人間社会の対象化

今日人それぞれが就業、就職して社会関係にどのように入り込むかは条件付きであっても自由である。しかし、社会関係から離れては生きていくこも、生まれることすらできない。人々は生きる前提としての人間社会を様々な方法で把握し、表現することを試みてきた。[1001]
どのような権力者であっても、実在社会の今を知ることはできない。身の回り以外の出来事は、結果の一部分を事後に知ることができるに過ぎない。過去の出来事は今現在の証言や証拠によって調べることができるだけである。情報システムを実時間対応=リアルタイム化しても社会全体を対象にすることはできないし、情報システム自体の今を把握することができない。情報システムが正常に稼働しているかを、データの改ざんが行われていないことを、当の情報システムによって確かめることは原理的にできない。[1002]

人間社会を対象として認識しようにも、物を見るように直接見ることはできない。かといって「社会は実在ではない」と否定することもできない。社会は人と物の運動秩序として明らかに存在している。そのような社会全体を俯瞰するするのが一つの方法。当事者として具体的に周囲を透かしてうかがい見るのがもう一つの方法としてある。[1003]
集まった過去の物事の関連構造を解釈し、実際に生成される物事を検証して社会の秩序を理解する。実在社会を実時間で知ることはできないが、社会の普遍的有り様を理解することができる。詳細を個別的にとらえることはできないが、社会を俯瞰することができる。こうして社会を客観的に対象化できる。[1004]
周囲の人々との交わりから、人間関係を理解する。個々の人々の有り様、それぞれの集団の有り様、それらの相互関係からなる組織の有り様を理解する。人々の間で物事がどのように執り行われるかを理解する。こうした理解は人それぞれの成長過程で学んできている。こうした生活経験から実社会の実時間での有り様を解釈することができ、実社会全体をうかがい知ることができる。こうして社会を主体的に対象化することができる。[1005]

主体として経験できるのは属する社会である。属している社会は感覚により、道具により、操作して確かめることができる。人であれば会話し、共動して確かめることができる。しかし、属することによって客観的に対象化することはできない。人類学調査だけでなく社会学が実社会を対象とする一般的な困難である。また、過去の社会、離れた他の社会は記録された情報によって知るだけである。属しなくては遺物、文書、通信媒体等の客体化された情報によってしかその社会を知ることはできない。[1006]
社会に属し、生活することで得るいわば「生情報」と、客体化されたいわば「公情報」とでは質が異なる。生情報は直接検証できる。自らの判断、実践の結果はまず生情報としてある。生情報は直接再帰=フィード・バックされる情報である。対する公情報は社会的に媒介された情報である。属する社会についても圧倒的な公情報に満たされている。人は生情報を確かめつつ、社会的評価を経た公情報によって生情報を評価し、同時に公情報を確かめる。生情報と公情報によって人は世界について、生き方について学ぶ。相対的に極わずかの、しかし確かな生情報と圧倒的に大量の公情報を相互評価し、その整合性によって人は社会を、世界を知る。[1007]
日本の圧倒的多数の人は今の総理大臣を知っている。しかしほとんどの人は公情報によって知っているに過ぎない。原子について知るのと同じに知識として、伝えられた情報によって知っているに過ぎない。ほとんどの人は友人を知るようには総理大臣を知らない。人によっては生情報より公情報を信頼する人すらいる。公情報は相反することもあるし、ねつ造の可能性もある。[1008]
生情報と公情報から、社会を抽象的秩序として理解する。時と空間を隔てた社会も客観的、主体的2つの視点から理解する。隔たった社会からの情報を客観的に理解し、客観的理解を元に属したら得られるであろう主体的理解を構成する。[1009]
自らが属する社会も、属していない社会もそこでの人々の生活の有り様と文化の有り様として具体的に対象化できる。生活の有り様は社会的物質代謝としてある。文化の有り様は人々の意思表現に見ることができる。[1010]

【人間社会の存在】

社会は人々の相互作用として人の存在と同じに実在している。どの様であるかを捉えることは困難でも、社会は実在としてある。そして多くのことが繰り返し実現し、様々なところで同じように実現しているからには秩序がある。人々の相互関連が消失しないのであるから社会には何らかの秩序がある。人々の物事との関係秩序として社会は実在する。どのように実在するかが問題である。[1011]
実在する社会にあって人それぞれは社会からの作用を受け、社会に対して働きかける。具体的には個々の人を相手に、個々の物事を対象に働きかけるが、その連鎖として抽象的に社会と相互作用している。[1012]
家族、友人、その他からの期待にどう応えるのか。それぞれからの期待は多様で、相反することもある。自らの希望に反する期待もあり、それらに対して一つの答えを出す。最終的には自分の判断であってもその前に他からの期待が社会的作用としてあり、自らの決定は社会的に実現することになる。個人の判断は一つの結論になるが、個人に対する作用は複数の人々からの社会的作用として多数である。社会的作用はどの人からの働きかけにも還元できない。社会的力は力学的合力のように全体の統合された作用力として実現する。社会の運動は要素個々の運動に還元できない。どの様な独裁者も一人で社会の意思を決定できない。独裁者であってもその意思を実現するには他者に働きかける。一人の動きは他者との関連にあり、相互作用関係総体として社会は運動している。[1013]
「自分」は力学的な他からの作用を一方的に受ける質点ではない。力学的作用であっても必ず反作用がある。人は複数の人々との相互作用過程にあって、その作用関連で一つの方向を選択する。多数の相互作用の中で一つの方向を決定する。[1014]

まず、社会は人々と、物とをその存在基礎にしている。ただし、物質としての物は社会性などもってはいない。物は人に働きかけられることで変化し、人々の関係間で取引されることで社会性が与えられる。社会関係の中に位置づけられることでそれぞれの物質は社会的に規定され、社会的物質になる。物だけを対象にして観察してもその社会性は表れない。[1015]
人は生物として生きるだけでも飲食し、被服し、住まう。自給自足できるよほどの恵まれた環境に無ければ、必要とする物は社会的に生産された財である。人の生物としての生活を支えるのも社会である。[1016]
人々の間で取引される財物の動きは社会的な物質代謝の秩序としてある。社会的物質代謝も生物の物質代謝と同じ物理的過程の実現としてある。物理法則に反する社会的物質代謝はありえない。何物も無から生じないし、他との作用無しに変化も消滅もしない。人々も社会もエネルギーを取り入れ排出することで運動している。個々の人々も生物個体としての代謝秩序を更新し続けることで生き、同じく社会もその秩序を更新し続けることで維持される。この物質代謝なくして人も社会も存続できない。社会の基礎は物質代謝であり、財の生産・流通・消費の経済過程としてある。社会は人を含む物質によって媒介されているが、物質としての存在ではない。[1017]
社会的物質代謝秩序も実現し続けなくては必然的に崩壊する。社会的物質代謝秩序は人々が意識的に維持しているのではない。政治経済学などが意識される以前から、人類の誕生当初からの秩序である。財の生産はまさに物としての秩序作りであり、流通は秩序だっていなくては混乱する。消費も秩序に配慮しなくては環境が悪化する。その全体が一つの秩序として実現することで社会は成り立つ。社会的物質代謝秩序は理念として、目標としてあるのではない。社会の存在を、運動を成り立たせる秩序である。[1018]
生活と文化として社会を主体的にそして客観的に表現することができる。その生活と文化の基礎は社会的物質代謝である。社会的物質代謝の有り様の理解を基礎に、生活と文化を理解し、表現することができる。[1019]
普通、「社会秩序」と言えば政治制度や法律、道徳をめぐる規制秩序を意味するが、社会の基礎には物質代謝秩序がある。物理的秩序、生物的秩序を社会的に組織する社会的物質代謝秩序がある。[1020]

社会にも階層がある。最も普遍的社会が人類社会であり、その上の抽象的社会である宇宙の知的生命社会については何の手がかりもない。人類社会は時代に区分される地域社会を下位階層の社会としてある。地域社会の個別性は地理的区別、政治的区別がわかりやすいが、基本は物質代謝の相対的相互連関、相対的自律性にある。時代区分としての歴史性と地域的個別性とによって個別社会の階層構造が形作られている。[1021]

【人間社会の意思】

人の意思はヒトの精神活動に媒介されて実現しているが、人それぞれの意思は人間関係にあって実現している。人それぞれに実現する意思の相互作用総体として社会的意思が実現する。[1022]
人の意思はまず肉体を制御する精神としてあり、精神を制御するために反省する。その精神を表現するものとして人の意思がある。同じ意思過程を社会的にも実現している。社会の運動を制御するために社会を理解しようとし、制御するために調整する。社会的意思を表現するのが文化である。[1023]
これらの過程を解剖学的に検証することは可能であるり、社会を解釈することはできる。解釈できるだけであって、実時間での社会の運動を知ることは不可能である。社会現象の推移を追って社会全体の有り様を解釈し続けることで理解が可能になる。停止してしまった解釈では現実の社会を取り逃がしてしまう。[1024]
人それぞれの意思と社会的意思とは別の有り様であり、一致はしない。人は社会的意思を直接対象として知りえない。人は社会的意思を直接対象として操作することはできない。つまり社会的意思は実証の対象にすることはできない。実証できない社会的意思は科学の対象にはならない。社会的意思の実在性を否定する人がいるのも当然のことである。[1025]
それでも世界観では実証もできない社会的意思を原理的実在として認める。社会的意思が物理的に存在しないことは誰もが認めるが、人々は社会的意思を世論、民意等として想定している。そもそも人それぞれの意思も科学的に実証のしようもないが、自分にとって自分の意思は物質の存在以上に確かな存在である。人の意思は生命の存在と同じに物質的存在を超えた、そして生命をも超えた確かな存在である。人それぞれの意思が存在し、それぞれの意思が相互に作用し合っている。人それぞれの作用し合った意思が社会的意思であり、人それぞれの意思とは異なる。社会的意思は選挙を経るなどして、正しく反映している保証はないが現実的な強制力を発揮する。[1026]

社会秩序の評価、価値観として社会的意思の有り様が形をとって社会に表れる。社会的物質代謝が順調に発展する時には社会的意思の迷いも少ないが、衰退する時には様々な評価の違いが現れ、社会的価値観の衝突が起こる。社会的物質代謝の転換期には決定的な社会的価値観の対立が起こる。[1027]
社会的価値観は人々の観念に現れ、社会意思の評価がまた人々の立場の違いをつくりだす。社会的意思の存在を否定する立場も、社会的価値も人の主観的評価でしかないとする立場もつくりだす。立場の違いを超えた議論は水掛け論にしかならない。立場の違いなど無視して、社会的物質代謝過程とその秩序として社会があるとの立場に立つ。[1028]

【個別社会の表現】

一般的な社会の理解と同時に、個別社会の有り様が問題になる。地域、時代ごとの社会の有り様である。手軽な方法として事象によって特徴づけるか、統計量によって表現する。[1029]
個々の事象、事件を例示することによって、対象となる社会を特徴づける。何があった時代か、どんな事件が起きた社会か、それぞれに多様な事象が含まれ、評価が分かれる。その社会的事象の報告はでっち上げや、存在の否定が平然と行われている。[1030]
個別社会の特徴抽出として統計調査が科学的方法とされる。物事の質量の調査と人々の意識調査がある。統計調査は個別社会の一面を表現することができる。社会の運動経過を特定の指標変化として表現できる。社会の動きから現れる量を測り、統計処理する。客観的な変化としてとらえることはできるが、その量の変化原因、運動機序を明らかにすることはできない。[1031]
全量調査は大変な資源を必要とするが、国勢調査でも漏れはある。抽出調査でも調査技法によって一定の精度を確保できるが誤差は必ずある。データとして客観的数量を表現できても、客観的数量は解釈されることで個別的に意味づけされる。人々の階層区分にしても区分の設定自体が解釈と相補的関係にある。申告による調査では基準の解釈が回答者ごとに違ってしまう可能性がある。[1032]
世論調査は調査項目の設定自体一つの視点から行われる。何を問題にするかに調査自体の方向性がある。選択肢の設定、表現によっても回答は方向づけられてしまう。調査結果の公表が社会に影響を与える社会では調査項目、選択枝の設定に社会的圧力がかかる。社会的圧力のかからない抽象的な正悪、好き嫌いを調査しても何の意味もない。[1033]
いずれにしろ社会の普遍的有り様の理解を前提に特徴を修飾のされ方として表しているにすぎない。その前提としている普遍的社会の理解を自らの属する社会と同じにとらえると、他の社会、過去の社会をとんでもなく誤解してしまう。安易なドラマにあるように、封建社会に平等な人間関係を当然とする人々ばかりの訳がない。[1034]

実際に様々な社会事象がが解釈され、解釈が発表される。それぞれの解釈の支持、承認が社会意思として表れる。現実の社会と解釈とは別であり、正しく理解されている保証はない。正誤が争われるのではなく、支持、承認の量、あるいは強弱が争われる。解釈の提唱者=オピニオン・リーダー達への支持分布として社会意思が表われる。[1035]
解釈の提唱者は国家社会の階層に限らない。国際的な解釈もあるし、地域社会、職場、井戸端会議場にもそれぞれの解釈を提唱する者がいる。それぞれの解釈をめぐる支持、反発として社会的意思が表れる。[1036]
社会的意思は解釈の方法、内容への支持としてだけあるのではない。解釈の内容だけでなく、解釈の提示方法によっても支持は変化する。表現、伝達、支持、承認までも含んで社会的意思は形成される。その社会的意思とそれぞれの個人の意思が相互作用している。[1037]

【社会現象】

社会は個々人と諸組織の相互関係としても充分に複雑である。個人は一人として同じ人はいないし、時とともにその人自身も変わる。個人間の相互関係の組合せは現実的に無限である。組織間の関係も同様である。個人と組織の関係はより以上に複雑である。[1038]
それだけ複雑な関係の社会は抽象化することで対象化可能になる。抽象的であることが観念論なのではない。普遍的であるから抽象的なのであって、普遍的な有り様が実現する過程で、多様な相互関係で個別性を獲得し、具体的に現象する。普遍性と個別性の有り様を論理的に表現できるよう目指す。論理的構造から現実過程の数量変化を説明できることを目指す。社会が一つの運動体としてまとまりがあるのだから、そこには一つの秩序が必ずある。[1039]
にもかかわらす、国家間の関係を単純化し、個人間の関係にすり替える議論がある。複雑な関係は抽象することで論理的に扱えるのであって、一面だけを切り取りとって例えるのでは非現実的である。[1040]
現実の秩序には直接的規定と媒介的規定とがある。直接的規定は相互作用過程での相互規定である。媒介的規定は繰り返しや、大量の事象間の傾向として現れる。個々に限られた事象が多数ある場合、個々の事象は偶然に規定されているが、事象間の関係に普遍性が秩序として表れる。対象とする社会規模が大い程に事象は媒介的に規定される。逆に対象とする社会規模が小さければ事象はより直接的に規定され、偶然にも規定されることになる。国家間の事象は媒介的であり、個人間の事象は直接的である。しかしどれほど媒介されていようが、戦いが高じれば直接的であるのと同じに死者が出る現実の社会的事象である。[1041]

一般的に再現性のある現象は部分的な現象、あるいは現象の特定の一面を捨象し、抽象的に関係を取り出すことで表れる。物理法則であっても理想気体、摩擦の無い平面のように環境から完全に切り離された時空間等として本質を示すのであって、現実に法則はそのまま現れはしない。物理的対象であっても現象過程での諸条件を捨象しなくては再現性はない。社会現象では本質的法則と、現象法則、環境条件が作用し、それぞれの結果に対する影響力は相対的である。[1042]
原理として世界=宇宙全体が不可逆過程にあるのだから、全体的事象に再現性などありえない。一般的再現性としてあるのは個別的現象である。「再現性」としての普遍性は個別の有り様として現れる。したがって、見方によっても異なり、「チャンスは2度とない」と言われ、また逆に「歴史は繰り返す」とも言われる。視点、枠組みを明らかにしなくては社会現象の再現性を問題にすることはできない。[1043]
社会現象に普遍性がなければ時代の比較や、国や地域間の比較は無意味である。比較は普遍性と個別性を明らかにすることであるが、対象それぞれの特殊性、個別性を明らかにし捨象することによって再現性、普遍性が抽象される。[1044]
対象社会を地域、階層に小さく分けるなら、そこでの普遍性、再現性は見出しやすい。逆に対象範囲を大きくするほど個別的になる。地球規模の社会現象を対象にするなら個別性が目につき、普遍性などあるのかと不安にすらなる。国境、文化の違いを越えた相互理解が成り立つのかと。[1045]

社会現象には始まりも終わりもない。すべては今を到達点として実現している。必然も偶然も含んだ結果として現在があり、偶然が作用しながら必然的に未来が実現していく。偶然だけであるなら物語しか生まれない。偶然をとおして必然が実現していく普遍的過程として社会の歴史性を対象化できる。世界観として社会科学から学ぶことは、宣言ではなく、解釈ではなく、現実の運動過程の把握である。現在の秩序構造と歴史的方向性の把握である。[1046]

【社会の発展法則】

社会は発展する。社会秩序は普遍的であるのと同時に発展的である。普遍的秩序は不変として表れ、発展秩序は変化として表れる。社会秩序は不変としても、変化としても現れる発展秩序であり、発展法則を表す。[1047]
社会は単独の法則によって決定されるような単純な存在ではない。社会のより基本的法則は、より全体を規定するが個々の事象に対する規定性は弱い。社会の個々の事象を規定する法則は、その現象の環境、条件に作用されて決定的な規定性をもたない。法則を実現させる社会の人間自体によって法則の組合せが変えられる。人間性そのものが法則を意識的に適用して対象を変革することで獲得されてきた。法則そのものを無視することはできないが、他の法則との組み合わせによって現象過程を変えることができる。法則を合理的に組み合わせることによって、主体的力量を効率的に使用して目的を実現できる。社会法則は社会的主体によって選択され、組み合わされて実現する実践法則である。特定の権力構造が何年維持されるかは法則で決まっていることではなく、物理的時間で予測することはできない。[1048]
すべての社会が法則どおりに発展する保証はない。社会発展には結果としての必然性はない。社会には発展する必然的法則性はあるが、どのように発展するかは法則だけでは決まらない。基本的に拡大再生産を実現する条件によって社会は発展する。拡大再生産が社会発展を実現する。拡大再生産が、戦争、浪費等によって妨げられれば社会は発展しない。社会の発展法則はその構成員が実現する法則であって、結果を決定する法則ではない。また外部条件によっても社会発展の法則は実現できないこともある。条件がなく、発展できず滅亡した社会は数多くあった。[1049]


第2節 社会的物質代謝

まずは社会を客観する。社会を俯瞰する。社会の本質である物質代謝秩序を観る。[2001]

普通には社会的物質代謝は「経済」としてとらえられる。しかし、経済では生産、流通、消費という人間社会内の過程に閉じられてしまう。さらに経済は儲け追求の場、方法といった意味を帯びてしまっている。世界の運動の中に位置づけるなら「社会的物質代謝」と表現することが適切だろう。[2002]

ここでは人間社会一般を対象にする。実践的に対象になる今日の社会、資本主義社会、商品経済を見通せるようにしたいが、ここでは普遍的人間社会の有り様がまず問題である。歴史的社会は次章で扱う。[2003]


第1項 社会的価値

【自然の価値】

自然には、物質には価値はない。エネルギーは不滅で変転するだけである。自然の過程は全体秩序の崩壊する過程で、それぞれの個別秩序を自己組織化する。それだけであって、自然に価値の問題などない。人がどのように大切にしている価値であっても、自然の過程は価値に関係なく進行する。価値に配慮するような過程は自然ではない。[2004]

空気や水、食糧、その他が人にとって不可欠で、有用なものであってもそれは自然物としての性質である。自然物は利用され、消費されるが、それは自然の有用性として利用され、消費される。人にとっても、人の自然としての存在に自然の有用性は利用されるだけである。自然物の有用性は人それぞれにとっての個別的価値であって、社会的価値ではない。[2005]
ダイヤモンドの宝飾に価値を認める人も、それを眺めるだけならその人だけの楽しみ、満足である。金塊を求める人は蓄え、他の物事と交換できることに価値を認めている。ダイヤモンドの硬度や金の導電性、展性としての有用性を普通の人は求めはしない。自然景観の価値は、人々が観るために移動したり、道具、施設を利用することによる。所有とか交換としての社会関係で価値を認めるのである。価値は社会関係で意味がある。[2006]
自然物の有用性は時と場合によって異なる。空気は人に絶対に必要であるが、だからといって誰も対価を払おうとしない。高山に登ろうとする人、水に潜ろうとする人は空気を買うのではなく、持ち運びできるように、必要な時に呼吸できるように加工したことに対価を払う。物の有用性はまさにそれぞれの有用性が異なる。同じ物でもその扱いによって有用にも有害にもなる。物の有用性に普遍性はない。物の有用性は個別的であり、その個別的有用性がそのものの質であり、そのものを他と区別する性質である。普遍性がなければ価値基準にもならない。物の有用性は社会関係に位置づけることで、社会関係での価値が量られる。[2007]

【社会的価値】

価値は人間にとっての価値である。ヒトも自然秩序に自らの生命秩序を実現する。自然秩序のうちにヒトとしての秩序を実現することで存在し、生きている。秩序あるものを取り入れ、秩序を利用して生活している。ヒトそして人間としての秩序実現を意識し、目的とする人間存在にとって価値が問題になる。人間としての秩序を創造すること、保存することが人間にとっての価値である。[2008]
秩序は「負のエントロピー」とも「理」とも呼ばれる。秩序は負のエントロピーとして量的に計測が可能である。古来からの「理」は漠としているが世界の秩序を意味している。それぞれの秩序によってそれぞれは個として存在し手いる。[2009]
人間は世界の秩序形式を法則として論理的に表現する。法則としての論理表現が正しければ自然の、対象の運動過程を予測することができる。予測に基づき法則を論理的に組み合わせ、新たな秩序実現が可能になる。法則の組み合わせの可変性が、自由の物質的根拠である。人は論理としてだけでなく、秩序の有り様に美を見いだす。[2010]

法則として理解できるか否かに関係なく、秩序に従い、秩序を実現し続けなければ人間も生物としてすら存在できず、生きていけない。呼吸も食事も生物的物質代謝秩序に反したなら生きていけない。生物的物質代謝秩序を法則として理解していなくても、秩序を無視して生活はできない。[2011]
人間は生きるだけでなく、より良い生活を求める。より良い生活は、より安定であることを含み、生活の質の高さである。質は秩序の程度を表す。安定であることは秩序が維持されているのであり、より高い秩序を作り出すことができる。高い質、良い生活の価値基準が人それぞれに異なるから混乱する。人それぞれの価値基準が主観的であるから、それぞれに異なり、対立し、敵対もする。それでも客観的に、これほど多様な価値観があっても、これほど多くの人が生活できていることが到達点である。まだまだ足りないにしろ、放置できない生活破壊、人間破壊があっても。[2012]

人々の生活を保障し、活動を保障しているのが社会的物質代謝である。生活の秩序、人の生命秩序を実現しているのが社会的物質代謝秩序である。社会的物質代謝秩序を維持し、発展させることに社会的価値がある。社会的物質代謝過程は自然の過程ではない。物理的運動過程、生物的物質代謝過程としてもあるが、それを社会的に組織しているのが社会的物質代謝秩序である。人々の生活は社会的物質代謝過程の一部として実現している。特に都市生活者には非社会的行為などほとんど不可能である。物を操作し、利用することの一挙手一投足が社会的財を消費している。わずかに瞑想することだけが非社会的行為と言えるかもしれない。[2013]
社会的物質代謝に役立つことが社会的価値である。価値は誰かによる評価ではなく、社会的物質代謝を秩序づける力として人の評価に関わりなくある。社会的物質代謝は財物を運び、加工し消費する過程としてまずある。生産も、運搬も、保管も秩序を利用し、秩序を保存し、与えることであり、消費はまさに秩序の消費である。労働によって社会的物質代謝秩序は維持されている。対象の秩序を認識し、利用することが労働である。人間労働こそ社会的価値の源泉である。社会的物質代謝過程を基礎に、その基礎過程を制御する知的・精神的活動も社会的物質代謝として労働によって実現している。[2014]
物質代謝秩序を実現させる力としての個々人の力は小さいが、その力の制御によって社会的代謝秩序が実現している。自然の力に人それぞれの力はとても及ばないが、自然の力を社会的代謝秩序として組織することで社会を実現している。[2015]

【普遍的価値】

人が協力・分担するのは互いの働きが役立つからである。協力することで力を出し合い、分担することで役立ち合う。協力することでより多くの財を作り出し、分担することでより多くの財を手にすることができる。互いに必要とする働きを提供することで協力・分担が成り立つ。この役立ち合いが協力・分担の目的であり、協力・分担を組織した秩序が手段である。社会的物質代謝はこの協力・分担によって成り立つ。協力・分担する労働こそ社会的物質代謝に必要な普遍的力である。協力・分担しない者、しようとしない者は普通その社会関係から排除される。[2016]
社会的価値は社会的物質代謝過程を担う、秩序を実現する労働として客観的に評価される。社会的過程を組織しているのは人間であり、その労働によってである。人間が物に働きかけ、人間同士働き合うことによってのみ、社会的物質代謝秩序は維持される。[2017]
物の社会的価値が実現するのは、人々の社会的働きかけ、労働によってである。物は人間労働の働きかけによって、社会的価値を担う財になる。自然物が人間労働によって社会的物質代謝過程に取り込まれ、財になる。財は自然物としての性質ではなく、人が利用、消費できる秩序を担う物である。自然物を人に有用な財に転化するのは人間労働である。財を作り秩序を作ることとして人間労働は社会的物質代謝を実現する。[2018]
道徳を持ち出さなくても、労働によって人は生き、生活し、人間へと進化してきた。「働かざる者、食うべからず」は人間が生きる秩序の基礎である。[2019]

【価値の二重性】

物にはまず社会的物質代謝の目的物としての有用性=使用価値がある。自然物としての有用性である。物理化学的、生物的有用性が社会的物質代謝過程で利用される。衣食住の有用性、原材料としての有用性、環境にとっての有用性等として社会的物質代謝過程に取り込まれる。自然物としての有用性は人それぞれにとっての使用価値である。使用価値はそれぞれの物の違いによって異なり、利用のされ方によっても異なる。使用価値は使用しなくても腐敗したり、老朽化したりして失われる。使用価値は使う人によって、条件によって評価が異なる。洪水に浸かっている人にその水は負の価値しかないが、届けられた飲水には正の価値がある。[2020]
使用価値は使用されなくてもただ失われる価値である。使用価値を使用可能にするのが人間労働である。採集し、運搬し、保管するのが人間労働である。さらに人間は加工することで新たな使用価値をも生み出す。人間労働は使用価値をも生み出す。廃棄物を資源に変えることもできる。社会の基本的過程として使用価値は労働によって利用、消費可能になる。個別的使用価値を利用、使用可能にする労働に普遍的価値がある。この労働の価値創造性はやがて架空の価値まで創造することになる。価値が増すであろうと予測することだけで、架空の価値が付与されてしまうまでになる。[2021]
財は物の有用性と労働価値の結晶としての二重の価値を担う。財の担う使用価値と労働価値の二重性が人々の眼を眩まし、欺きに利用される。[2022]

社会的価値は自然の価値でも、神の価値でもない。社会的存在にとっての、社会的存在としてのあり様で定まる価値である。当然に社会以前には、社会以外には存在しない価値である。社会を離れては存在しない価値である。しかし、社会的存在である人間にとっての客観的、必然的、絶対的価値である。[2023]

使用価値があるから取引されるが、人それぞれの必要性によって価値評価が違う。使用価値は個別的な価値である。使用価値は個別的で所有する人によって異なるから交換の対象にされる。質的に異なる使用価値を普遍的な労働価値量で量ることで交換が成り立つ。同じ有用性ならそもそも交換する必要はない。異なる有用性の個別的使用価値物を普遍的労働価値量で量り同量を交換する。等価交換によって交換秩序は保たれる。等価交換秩序が崩れると、社会的物質代謝秩序も歪んでしまう。大きな価値を小さな価値と交換するのは、価値評価以外の経済外的力が作用している。[2024]

【社会的物質の循環】

自然物は自然にあるだけでは社会的物質代謝に関わらない。宇宙の存在も、地球の物質循環も自然の過程としては何の社会的価値もない。社会的に利用される物、社会的に評価される物は社会的物質代謝を担う労働が働きかけた物である。ただ人が働きかけただけではなく、社会的物質代謝に秩序づけられた物である。自然、物質は労働によって社会的物質=財に転化される。[2025]
社会的物質代謝に必要な物質が労働の対象になり、労働によって社会内へ取り入れられ、または社会内で利用できるように加工される。労働は社会内での物質代謝を実現するだけでなく、労働が自然と社会の境界で物質を出し入れする過程を担う。かっては社会から自然への還元は自然の過程に任せても支障はなかったが、今日では人の制御、労働が必要になっている。社会的物質代謝の質と量の増大によって、取り返しのつかない自然秩序の崩壊を招く危険な時代になっている。社会的物質代謝の入り口から出口まで、労働によって制御されなくては社会的物質代謝秩序を維持できない。[2026]

人は自然的物質循環過程に社会的物質代謝を拡大し続けてきた。人間社会の発展は自然を社会的「自然」につくりかえる過程でもある。物理的運動は人間の労働によって社会的に利用される。生物は社会的に飼育される。人間労働は人間労働によって結びつけられる。人間労働によって社会的物質代謝は発展する。人間労働以外に物質代謝を社会的に方向づけるものはない。個々の社会的運動を物質代謝として秩序づけているのは労働である。[2027]


第2項 労働過程

労働はそれぞれの人にとって家族とともに生活するために不可欠の活動である。より安定した生活は共働する社会によって実現してきた。今日の労働がどの様に疎外されたものになっていようが、本来の労働は生活の糧の獲得であり、生活を充実させるものである。なにより、人間への進化を実現したのは労働であり、人間を成長させるのは労働である。[2028]

【具体的労働】

労働ははまず、具体的に消費するための生産である。これは物の有用性を獲得し、作り出す具体的労働である。誰にでも、あるいは誰かに有用であり、使用される価値として社会的物質代謝に生産物として取り込む。具体的労働の生産物は人の生活手段であり、あるいは生活手段を作り出すのための生産手段である。[2029]
具体的労働は単に考え、単に動き回ることではない。労働は労働対象と労働手段と労働能力によって実現する。労働対象は働きかける対象である。個別的労働対象は狩猟、採集の対象であり、加工の原材料である。人や物事の関係、関係の関係としての情報も労働対象になる。単純な労働では労働手段を必要としないものもある。労働手段は道具と動力であり、機械や設備である。労働手段も元々労働対象としてあった物から作られる。労働能力は人が対象へ働きかける能力である。[2030]
具体的労働は目的に対応して特殊であり、個別的である。作業形態としても特殊であり、個別的である。具体的労働は作業段階での環境の影響を受け、偶然も作用する。労働は偶然の作用を排し、利用可能な秩序を取り出し、つくりだし、保存する。[2031]
具体的労働によってもたらされる価値は必要とする者に一方的に引き渡され、消費される価値である。その物事に属した個別的価値である。[2032]

【抽象的労働】

労働は抽象的に社会の物質代謝を担う。採取したり、運んだり、加工したり、保存したりといった、労働対象の個別性にはかかわりなく必要とされる労働である。人の生活に有用であるだけではなく、人間社会の運動にとって必要とされる。社会を維持し、社会を運動させる汎用の有用性である。抽象的労働は秩序をつくりだし、秩序を保存する、また同時に人間秩序と社会秩序を実現する。[2033]
役に立つのは秩序であり、人は自然秩序にしたがって育て、物の秩序を組み合わせて製品を作り、必要とする人に必要とする財を届ける。労働対象の秩序を操作し、労働そのものの秩序を実現することで物質代謝を担う。抽象的労働は個別的には労働能力の発揮として実現する。労働能力の発揮は労働の一般的有り様であり抽象的労働である。[2034]
労働能力は労働対象を動かし、変化させる体力だけではなく、動かし、変化させる過程を見通し、制御する知力でもある。闇雲に動き回っても何も作り出すことはできない。有用であるものを作り出すことは秩序を創り出すことである。既成の秩序を組み替え、あるいは既成の秩からより高度な秩序を創り上げる。一般に秩序を創り出すには他方で秩序を壊す。秩序を壊すことが社会的物質代謝秩序を壊すことにならないようにすることも、今日の労働能力として不可欠になってきている。資源、エネルギー、環境への配慮も労働能力として不可欠な能力である。[2035]
ここでも「秩序」が鍵である。単に製品規格、職場秩序、道徳秩序ではない。負のエントロピーとして計量できる秩序であり、法則として変化過程の表現可能な秩序であり、生活として実現する運動秩序である。[2036]

抽象的労働は協働によって互換できる価値として一般的である。この価値はそれぞれの財の生産に必要な労働の量として表れる。その社会でその財を作るのに、獲得するのに必要な労働の量である。その社会での平均的量として社会的必要労働は測られる。具体的、個別的に、どれだけの労働をより少なく、より多く費やしたかは問題にならない。無駄になるかどうかの基準は、それこそ限界効用で計られる。抽象的労働は具体的・個人的な労働の量ではない。その財を作り出すのに必要な社会的労働量として抽象的労働は量られる。[2037]
生産がより容易な原材料、技法が見つかればその財の社会的必要労働量は減る。原材料の入手が困難になれば多くの労働を必要とするようになる。それぞれの財に必要な社会的労働量は交換可能な関係内で平均化される。[2038]

【社会的労働】

具体的労働よってもたらされる使用価値と抽象的労働によって作り出される価値とは社会的物質代謝過程で社会的価値となって、一つの財として現れる。社会的物質代謝の歴史的発展段階に応じて使用価値の形態はもちろん、社会的価値、普遍的な価値の現れ方は異なる。使用価値は技術の発展に応じてますます多様な形態をとる。社会的価値は労働過程での直接的協働、分担から始まり、生産物の共有・分配、そして交換物としての形態をとる。[2039]
価値は価格でも表されるが、価格は商品経済での一般的等価物、貨幣価値による評価である。価値は商品でなくとも、物々交換でも取引される。労働の直接的分担でも価値は交換される。価値は社会的物質代謝での財の普遍量である。[2040]
むろん、具体的労働と抽象的労働とは労働過程で分離されることなく一つの労働過程としてある。社会的労働によって生産される財の価値は使用価値と社会的価値と区別されることなく財の価値として扱われる。[2041]
労働には生産的労働と、非生産的労働とがある。非生産的労働は社会的物質代謝秩序を壊す、役に立たない労働である。生産を妨げる行為は明らかに非生産的労働であるが、その地位にありながらその権限を行使しないのも非生産的労働である。労働者は生産的労働を担う者のことである。[2042]
生きることとしての本来の労働が具体的労働として苦役でしかなくなることが労働疎外である。生活としての労働ではなく、社会的関係に従属しなくては生活できなくなることで労働は疎外される。生活として労働するのではなく、労働が稼ぐ手段でしかなくなり、さらには稼ぐために生活するまでになる。[2043]

【社会的平均労働】

労働価値は人々の労働能力の実現としてある。社会的物質代謝を実現する労働価値にはその社会、その時代で一定の質と量がある。それぞれの社会で一つの物を作るには一定の質と量の労働を必要とする。個々人の労働能力の違いに偏差はあっても標準となる質と量が定まる。なにより、現実の社会的物質代謝を担う労働として、標準となる質と量を労働秩序が規定する。社会的に必要とされる労働が費やされたものとして、個々の生産物に含まれる価値は社会的に平均化される。統計としての平均化ではなく、社会が必要とする個別労働の分担量としてである。[2044]
社会の物質代謝を維持するには地域的、歴史的に必要な物質の種類と量がある。その社会の技術水準、生産環境によって物を作るのに必要な技能と労働量が定まる。それぞれの社会を維持するのに必要な労働量があり、労働量によって維持される社会の生産物量がある。代謝は過程であり、生産と消費が繰り返される循環で維持される。[2045]
労働の質の平均化は生産物の交換と労働の配分を通して実現される。生産物の交換をとおして労働の配分が調整されて労働の質は平均化される。費やされた労働量が個別的に違っても、社会的には等価であるとして交換される。等価交換によって報われない程に労働がつぎ込まれるなら、生産を維持することはできず、繰り返される交換はできない。個々の労働が平均化されるのではない。偏差がある労働の質量は流通によって量られ、社会的に平均化される。社会的平均基準によって個別の労働の質量の偏差が量られる。[2046]
労働の価値は流通の範囲としての地域社会ごとの基準を表す。社会活動が範囲を拡大し、他の社会との交換が始まれば、それぞれの社会の価値基準の差によって価値基準は大きく変動する。しかしやがてそれぞれの社会を含む全体社会の新たな平準化で集束する。[2047]
また、新たな生産技術の発展によっても価値基準は変動する。それも新たな生産技術の普及とともに平準化される。[2048]
最終的には世界を一つの社会に結びつけるまで、平準化は続く。しかし、個々の要因による平準化の過程が完了する前に、新たな価値基準の変動が生じるのが実際の社会である。それ以前に気候変動や、事故等によって平準化は乱される。[2049]

労働能力は人によって異なるが、社会的物質代謝秩序が労働秩序として整う程にそれぞれの過程で必要とする労働能力は均一化される。労働秩序としてそれぞれの地域、部署で必要とされる労働の質と量が定まる。作業方法が規格化される程に一定以上の能力があれば、誰が担っても同じ労働になる。機械による生産では誰がスイッチを入れても同じ物が、同じ量生産される。作業毎に必要な労働能力の程度が定まる。作業技術の開発によって必要な労働能力は単純化する。だれでもが社会的労働に参加できる可能性がふえる。社会的物質代謝に必要な労働を誰でもが担えるようになる。[2050]

【労働力の再生産】

労働力も使われたら疲弊する。疲れた労働力は回復されなくてはならない。生産は労働力の消費であり、消費された労働力は生産物を消費することで回復される。この生産と消費の均衡がとれることで安定した生活が実現する。労働力を再生産し続けることで生活を維持する。より大きな生産とより大きな消費によって生活は向上する。人が生活し続けるには、そして社会が存続するには、世代が交代する。人一人が生活するだけではなく、家族が生活することで、そして社会が成り立つことで人それぞれが生活できる。人それぞれの労働力の再生産とともに、世代を超えて労働力が再生産されることで、社会は存続する。[2051]

人が生活に必要とする栄養量には限度があり、超えれば肥満し、さらには罹病する。着るにも体は一つである。住まいが広すぎては管理しきれない。人が生きていく上で必要な財には最低限の量的限界があり、消費しきるにも限界がある。欲望にはきりがないにしても。健康で文化的な生活を営むのに必要な財の量はほぼ決まる。それを手に入れるのに必要な労働量は社会によって相対的に決まる。[2052]
生活に必要な財を手に入れるのに必要な労働量を決めるのは働き手の範囲と労働効率によって決まる。家族の内1人の労働で生活を維持する社会もあれば、子供まで働かなくてはならない社会もある。子供までが働いたのでは、その子の世代の労働能力は停滞し、疲弊する。事故や疾病にも備えなくては生活を維持し続けることはできない。[2053]

労働能力は人の誕生から備わってはいない。労働能力は生物として活動するだけの能力ではない。社会的物質代謝過程を担う能力である。社会的物質代謝秩序にあって秩序を保存し、変換し、創り出す能力である。したがって、その社会、その時代の物質代謝形態に見合った労働でなければ役に立たない。社会的物質代謝水準にみあった労働能力は訓練によって獲得される。人それぞれの労働の熟練度は技能訓練によって高まる。労働技能は自然の秩序を利用する技であり、自然の理解と応用技術の発達によって社会的に高まる。社会は教育制度、組織によって人の労働能力を訓練する。労働能力も訓練しなくては獲得されず、生産技術の発達によって陳腐化する。教育訓練によって必要な水準の労働能力が獲得される。訓練と能力が正比例する保証はないが。[2054]

労働技能には限界がなく、労働技能こそ労働効率を高める決定的な力である。自然秩序の理解と法則の利用は科学技術として加速度的に進歩している。労働効率は科学技術によって量的にだけでなく、質的に高まっている。高度化する労働を担う労働力として再生産されることで社会的物質代謝は維持される。労働力の再生産として、人々の生活が実現し、世代交代が実現する。科学技術、労働効率はそれぞれの社会発展の到達点としてある。労働効率は生活環境、労働環境と、労働技能の熟練度によって決まり、そして様々な偶然によって乱される。疲労を蓄積しない生活環境、集中できる労働環境によって労働効率は保証される。[2055]
労働効率は歴史的に順次高まり、今日では60数億の人々の生活が可能になってきている。ただし、労働効率が高まること、一人一人の生活が豊かになることとは別のことである。労働の報酬が労働効率にも、量によっても決まるのではないから。[2056]

【必要労働と剰余労働】

生活はたえず消費することによって実現されている。財を消費せずに生活することはできない。健康で文化的な生活を営むために必要な労働量がある。生活を維持するために必要な財を作り出すのが必要労働である。必要労働量はそれぞれの社会の労働効率によって決まる。[2057]
必要労働は生活を維持する労働であり、その生活は数日、数年で終わりはしない。一生で終わるのではなく、次の世代の働き手を育て、次の世代を育てるための家族の生活を維持でき、労働能力を訓練できるのに必要な労働が必要労働である。[2058]
生活をより確かに、豊かにするには、必要労働以上に労働することで可能になる。労働は必要労働を超えて可能である。必要労働を超えた労働によって財の生産は拡大し、社会は発展してきた。必要労働を超えた労働が剰余労働である。[2059]
剰余労働によって労働手段を増やすこともできる。剰余労働によって自然秩序を理解し、利用技術を工夫することができる。剰余労働は科学技術のための時間、資源を確保するだけでなく、科学すること、技術を工夫すること自体が剰余労働である。科学技術労働そのものはその労働過程での生産・消費に直接作用しないが、将来の生産に役立てられる。[2060]

必要労働と剰余労働は人それぞれに担われるが、社会的には人によっても分担される。科学労働や教育労働、公務労働は具体的には消費生活に役立たない剰余労働である。しかし社会的には科学労働、教育労働、公務労働によってより良い生活を実現するためにある。社会的には剰余労働であっても、それぞれの科学者、教育者、公務員の生活を支える必要労働としてもある。つまり必要労働と剰余労働は具体的な労働の区別ではなく、社会的労働の抽象的区別である。抽象的区別であるから時間という抽象的尺度で量られる。[2061]

必要労働と剰余労働の割合は相対的である。労働効率が一定でも労働時間を増やせば必要労働の割合は相対的に下がる。労働時間が一定でも、労働効率が高まれば必要労働の割合は相対的に下がる。消費財の価値が下がることでも、必要労働量はより少なくてすむようになる。[2062]
剰余労働の成果が誰の手に属するかが社会の根本問題、本質的な社会問題になる。[2063]


第3項 生産過程

【財と価値の生産】

物理的物質、生物的物質が社会的物質になるのは生産労働による。人は生産労働によって物を財にする。社会関係において生産され、社会関係において評価される財である。価値一般の抽象的な「富」に対して、具体的に取引可能な「財」である。[2064]
財は物としての有用性を利用することができる。物の有用性は秩序であり、秩序ある物の性質を利用し、秩序あるエネルギーを利用して運動し、生き、生活することができる。誰もエントロピーの増大則に逆らうことはできず、物理法則は利用できるだけである。[2065]
財の生産は物を作り出すことではない。無から物を作り出すことはできず、物は加工できるだけである。物を加工することで物の有用性を有効に利用することができるようになる。採集や狩猟では食料等を生産できるが、物としての植物、動物を作り出してはいない。栽培、飼育によって育てることはできるが物として作り出してはいない。育種は新しい物を作り出しているようだが、選択して育てているのである。物理化学的に新しい物質を作りだしているが、変換しているのであって物質を創造してはいない。作り出しているのは食料や生活財、生産・流通財である。その意味で採集や狩猟も生産である。手に入れ、運び、貯蔵し、加工することが初歩的、基礎的生産である。[2066]
これは解釈、観念的差異ではない。使用価値と社会的価値とを区別する物質的基礎である。物理的、生物的物を作り出すのではなく、人々が消費できる有用性を担う物を財として生産するのである。財は人間にとっての価値であり、他の生物や物質にとっては唯の物である。[2067]

【再生産】

物質代謝過程では消費される財が生産され、生産手段と労働力の消費によって生産される。一般的に生産には労働力、原材料、生産手段が必要である。労働力、原材料、生産手段によって財は生産される。労働力、原材料、生産手段は生産過程で消費され、財を生産する。生産された財は消費された労働力、原材料、生産手段を、生産した財によって賄うことで生産を継続する。再生産によって生産を続けることができる。再生産は労働し続けることで実現する。生産と消費は均衡することで物質代謝秩序を維持する。消費量が生産量を超えたなら破綻する。生産量が消費量を超えたなら無駄が出、再生産が部分でしか実現できず、引き続くならやはり破綻する。[2068]

剰余労働によって生産量が消費量を超えることで生産の拡大が可能になる。生産と消費の均衡を保ちながらより多く生産することで物質代謝秩序は拡大する。より多くの生産によって、より多くの人口を養うことができ、生産手段を増やすことができる。拡大再生産が可能になる。[2069]

【価値の転移】

生産は価値を生産するだけではなく、価値を転移する過程でもある。使用価値は転移のしようがない、それぞれの財固有の価値である。転移するのは労働価値=社会的価値である。[2070]
原材料・補助材料の価値はその生産、運搬、保管に使われた労働の価値である。原材料・補助材料の価値は加工過程での労働によって、加工労働の価値を付加して生産物に転移する。[2071]
生産手段の価値はその生産手段を作り出した労働の価値である。その生産手段の価値は生産手段として利用した生産物に転移する。ただし、生産手段は一般的に一度きりではなく、繰り返し利用され、多くの生産に使われる。生産手段の価値は生産される生産物量全体に転移される。一定の生産手段によってより大量の生産が行われれば、生産物単位あたりに転移される生産手段の価値量は小さくなる。逆により少量の生産であれば、生産物単位あたりに転移される生産手段の価値量は大きくなる。価値は転移されなくては補填されず、生産を維持できなくなる。[2072]

原材料、生産手段の価値は生産物に転移し、最終消費者の提供した労働価値と交換される。生産と消費が直接していれば生産された同じ価値量の異なる財が交換される。生産か高度化して価値の転移が複雑になっても、等価交換として物質代謝秩序は維持される。商品経済でも売買によって価値は転移する。[2073]
技術的欠陥や事故、災害等によって原材料・補助材料、生産手段が有効に使われなくとも、全体の再生産が維持継続することで物質代謝は成り立つ。転移せずに漏出する価値は転移できた価値によって補填される。転移する価値は等価であり、担う財の物質的量とは一致しない。[2074]
価値の転移は物質の移動や質の変化としての運動とはまったく異なる。価値は物質に媒介されるが、社会的物質代謝関係での秩序の現れである。一部で不等価交換が行われたり、無駄に消費されたとしても、他で損害が吸収されることで代謝秩序は維持される。価値関係が歪んでしまった場合、最終的には恐慌となって価値関係は修復され、価値法則は貫徹される。[2075]


第4項 生産力と生産関係

【生産力の基本】

生産力の源泉は労働力である。今日の機械設備の能力には圧倒されてしまうが、その機構、設備を作りだし、運転するのは人である。自己修復、自己増殖する機械システムの可能性が話題にはなるが、それは限られた部分系としてである。人社会の物質代謝から切り離されて成立したなら、それは人類とは別の存在であり、人社会には価値をもたらさない。人間社会から物理的に切り離されていながら人間社会の役に立つ関係などありえない。[2076]
人間労働によって食料を初めとする生活財、道具、機械、設備が作られる。人間労働によって道具、機械、設備が使われる。人間労働によって生産、交通、消費、文化、社会活動が実現し、維持される。労働によって社会的物質代謝は実現している。労働力だけが価値生産力である。[2077]
労働力は生産過程で生産力になる。労働力が生産手段と結びついてより大きな生産力になる。労働力は生産過程で、生産関係に位置づけられて生産力を実現する。生産は工場や農場、漁場といった物理空間に限られない。家庭内でも炊事、洗濯、清掃等の生産的労働が必要である。社会的物質代謝過程を動かしている労働が価値を生産している。金銭を稼げるかどうかは価値の生産とは別の評価の問題である。[2078]

労働能力には限界がある。時間では1日24時間が物理的限界であり、生物的限界はそれより短い。労働の質的限界はほとんど生物的限界である。力の及ぶ範囲、力強さ、正確さ、緻密さ等の身体能力と知的能力には生物的限界がある。[2079]
能力の限界は普通の人と非常に優れた人との差は大きくて数倍程度で二桁の違いにはまずならないだろう。体力であれば記録を比べることができ、2から3倍程度の差になる。100m走なら普通の人が20秒弱に対し、最速の人が9秒台である。マラソンなら普通の人が練習して5〜6時間に対し最速の人が2時間余りである。知力の適当な測定方法はわからないが、読書速度、進学の速さの違いもそれほど大きくはない。特殊な労働であるプログラミング能力では数百倍とも言われているが、長期に高水準を維持できないようである。[2080]
労働力、生産力では個人的能力差はあってもこの程度であるが、生産手段と結びつくことで生産力は桁違いの差を生む。道具、機械の利用は体力で圧倒的な差を作りだす。コンピュータは知力で圧倒的な差を作りだす。[2081]
人の労働能力の差は訓練によって違ってくる。弁別能力、制御能力は訓練によって圧倒的な差になる。対象との関係で階調をなす違いが指数的に拡張する。一定の階調弁別能力、制御能力は訓練によって飛躍する。名人と初心者では圧倒的な差がつく。勝負事で初心者には名人の能力は無限に見えてしまう。芸術でも表現力、鑑賞力は訓練により一定のレベルに到達しても、次ぎにさらなる違いがあり、差に限りがない。[2082]

違いが大きくなるのは労働能力ではなく労働成果である。労働能力のわずかな差が労働成果の大きな差になる。2倍の差が数十年継続したなら残る成果量は圧倒的な差になる。[2083]
それでも、今日の所得差は個人的な差によってもたらされる差を遙かに超える。今日では生産的労働をしなくても、膨大な所得を手にする者がいる。その源泉は圧倒的多くの人々の労働による。その所得を手にする方法は社会的物質代謝制御の私的支配である。[2084]

【生産力の発達】

自然物を財に変えるのが生産力である。生産力の主体は労働力であるが、労働力は労働手段を利用することで生産力を高める。協働、分担の組織化によって生産力は高まる。動力の利用は生産力を飛躍的に高める。自動化は当の作業工程だけを見るなら、労働力は不用ではないかと思わせる程にまで生産力を高める。労働手段の利用、動力の利用、自動化を実現するには対象についての理解と工夫とが不可欠である。理解と工夫は労働組織の有り様とともに知識として累積される。科学技術の発達によって生産力は歴史的に、指数関数的に高まってきた。単位労働当たり財を作り出す効率は高まってきた。[2085]

労働力そのものの質が高まることで生産力も高まる。より早いより正確な労働によって、無駄のない労働によって生産力は高まる。速い労働は動作の速さであり、正確さである。無駄のない労働は作業の洗練さ、手順の良さである。労働力を生産力として高めるのは教育、訓練である。しかし、労働力そのものの質は属人的であり、限界がある。[2086]
協働・分担による労働の組織化は人々の間の生物的違いや、好き嫌いによる結びつきではない。労働対象に応じた、得手不得手の組み合わせである。労働組織は対象の大きさ、複雑さに応じて構成される。労働対象に直接働きかけるだけでなく、準備、支援、片づけ等の後背労働、管制労働にまで関連は拡大する。組織は構成するだけでなく、運用も高度化する。労働過程の複雑さだけでなく、人間組織の運用として構成員の任用、処遇も生産力に影響する。[2087]
動力の利用による生産力の発達には科学技術が直接的に作用してきた。家畜、水力、風力から化石燃料まで利用が広がってきた。核燃料は廃棄物処理まで含めればどこまで生産力として有効であるか不明であり、化石燃料ですら二酸化炭素を排出して地球全体への影響が危惧される。それでもエネルギー革命と呼ばれる程の劇的変化を実現してきた。[2088]
自動化は機械によって作業を自動化することから、コンピュータによって作業工程、制度、組織まで自動化する。機械の補修から改良まで自動化が可能なら、生産力はほぼ無限にまで高まる。そこまでいけば労働する者としての人間存在、労働の意味が問われる。[2089]
生産力が高まればより多くの生産が可能になり、あるいはより少ない労働によって必要な生産がまかなわれる。現実に過剰生産が生じ、失業者が増える。社会が必要とする財の生産量をまかなうことは今日でも可能である。にもかかわらず飢餓が生じ、失業者が生じるのは生産が原因ではない。社会的物質代謝が歪められているのである。肉牛などの生産に使われる厖大な穀物飼料を人の食料の生産に回せば飢餓をなくせる。鉱物資源をその国が生産管理できれば、国際資本が介入する戦争を回避できる。[2090]
生産力は均等には発達しない。生産力の発達は地域的にも不均衡であり、格差を固定するどころか、拡大する。生産力は社会的物質代謝を制御する力でもあり、商品経済では購買力として現れる。高い生産力は低い生産力の国、地域の資源と人々の生活を収奪する。収奪される人々の生活によって、一部の国、地域に高度な消費生活が実現している。[2091]

【技術的生産力】

訓練によって労働能力を拡張することができる。筋力、速度、正確さといった運動能力に基づく労働能力も、感覚、知識、論理といった精神的能力も訓練で高めることが可能である。技量、集中力といった能力は訓練、経験によって獲得される。現実の作業では予測できない様々な環境条件の変化があり、これに対応する人間の能力には測り知れないものがある。しかし、訓練によって拡張できるのは属人的能力である。[2092]
人間は属人的能力にとどまらず、普遍的な能力拡張を道具によって実現した。道具を作る道具である工具は、人の肉体的能力の直接的延長を超える。機械は人の肉体から完全に独立し、人の肉体を代替しえる。オートメーションは生産工程全体の機械化である。人間は人の労働能力の及ぶ空間範囲を拡張し、縮小する。今日太陽系を超えて探査できるし、原子一つひとつを操作することができる。労働対象までも生活に必要な財を遙かに超えて拡張してきた。[2093]
人間は労働に利用する力を拡張し、多様なエネルギー利用を可能にした。火の利用は暖をとり、肉食獣と戦う武器にとどまらず、生産のためにエネルギーとして利用される。家畜は食糧、衣料等としてだけでなく、動力源としても利用される。水流、風もエネルギーとして利用される。太陽光エネルギーを電力として直接利用する技術も進んでいる。電気は多様なエネルギー源から社会的、経済的運動の普遍的エネルギー媒体として利用される。電気は他のエネルギーに比べて、日常的制御が容易であり、また制御のための信号処理の基礎媒体である。[2094]
社会、経済の運動を反映する情報は信号として、やがて記号、文字として使われる。手紙、電信、電話、ファックスとして発達した通信は、コンピュータによって一元的に処理され、社会の普遍的情報処理・通信となる。コンピュータを中心とする電子情報機器は記憶、照合、検索、計算、通信といった知的能力を拡張する。[2095]

【組織的生産力】

個人労働を組織化することによっても、生産力は高まる。協働は個人の労働能力を加算するだけではない。[2096]
作業を連続させることによって、無駄をなくすことができる。バケツリレーは水を移動させるための運動に特化し、運搬者である個々人の移動運動を省くことができる。[2097]
作業を並列にすることによって、全体の処理速度を速めることができる。個々の作業時間は短縮されなくとも、全体の時間が短縮される。あるいは期限のある大量作業を行うことができる。ただし、並列する過程間の調整が必要な場合もある。[2098]
作業を組み合わせることによって、複数の相互関係を制御することができる。複数の作用点を同時に運動させるには、共同作業が不可欠である。多体の構造を組み上げには、共同作業が不可欠である。自立しない構造も、組み上げることで自立するようになる。[2099]

【社会的生産力】

生産基盤を整えることによって、社会的に生産力を高めることができる。産業立地、物流、通信基盤の整備といった物理的生産基盤にとどまらない。基準、規格は指の長さ、手の長さ等によって自然に決まるが、社会的に制度化されることによって互換性が保証される。社会制度的生産基盤が文明として、生産力を支えてきた。[2100]
科学・技術力とその普及も生産力を高める。科学・技術そのものだけではなく、研究・開発環境の整備、人材育成の教育が社会的生産力を支える。[2101]
生産・流通の管理・運用能力としての組織力も生産力を高め、生産力の高め方を高める。[2102]
労働は人間の活動であり、意識の作用は労働に大きく影響する。労働が自己実現の過程として意識できるかどうか、生活に希望が持てるかどうかは社会的環境によっている。人間の生活の場として社会が整備されることも、社会的生産力を高める基礎である。[2103]
新しい物事に取り組むには失敗がつきものである。失敗することによって成功する手順が明らかになる。成功した経験だけに頼っては環境、条件が変わることで失敗の可能性がでてくる。失敗経験を忘れてしまえば失敗を繰り返すことになる。失敗経験から秩序法則を知識として蓄積、継承することで生産力は健全に発達する。[2104]

【生産手段と生産力】

生産の歴史は道具をつくり、道具自体を経験の蓄積として発達させた。また、道具の目的を区分し、社会的に標準化した。転用可能な道具は、普遍的な道具として生活を基本的に支える社会的必需品となる。道具は肉体的能力を拡張し、知的能力を訓練した。[2105]
道具の作り方、道具の使い方、道具の改良の仕方は個人間、世代間で継承され、教育される。道具は量的、質的に蓄積、集積され社会的生産力を高める。道具を用いた直接的生産と共に、道具をつくる生産を発達させる。[2106]
道具の利用は労働対象間の関係と労働対象の変化に対応する操作としてある。道具は労働対象を理解することによって作られる。労働の過程が道具によって具象化される。さらに道具によって対象化可能な範囲が拡張される。労働対象と目標の関係を作業手順として段階的に明らかにし、拡張する。道具は労働能力の対象化された、具体化された生産力としてある。[2107]
道具の発達は道具を使う個々の作業過程を客観化し、規格化する。道具は道具どうし組み合わされ、自然の力を動力として利用する機械へと発達する。道具と機械の利用による生産は飛躍的に発達する。個々人の肉体的限界、知的限界をはるかに超えて生産力を高める。[2108]

コンピュータを利用する電子情報通信によって知識の共有が可能になった。コンピュータによる電子情報通信はデータを確実に保存し、検索することが容易である。このことはデータの個別性と普遍性の乖離、対立を一般化して一様に扱うことを可能にする。ごく希な将来利用されないかもしれない例外的なデータも保存するのに資源の心配はいらない。そのデータも必要になった時には容易に検索できる。汎用のデータは多くの人によって点検され、確実なデータとして利用される。例外的なデータと汎用のデータ、この中間のデータも、求める人によって異なる詳細さで蓄積、検索できる。誰か一人が提供したデータでも、世界の人が利用可能になる。[2109]
コンピュータを利用する情報共有は始まったばかりで、共有の意義理解が社会的に浸透していない。それどころか情報の独占、あるいは操作で利益を得てきた者達の妨害もある。情報の発生源で確実に提供できるようになるには、制度も教育もこれからである。共有は一部の者では意味がない。[2110]
国家権力による情報共有の規制も問題であるが、商業目的の情報通信によっても情報共有が歪められている。商品販売に関わるだけの情報提供に終始し、商品自体、提供組織自体の情報を提供しない者がいる。情報を共有するのではなく、広告情報を押しつけ、商品取引に限定する。[2111]

【生産関係】

生産関係は労働力と生産手段が結合する社会的関係である。一面で財の代謝関係であり、他面で財の代謝への人の依存関係である。人は既定の用意された社会的立場で生産関係に位置する。個々人はその社会的位置を移ることは可能であるが、立場、役割それぞれの配置は生産関係によって決まっている。生産技術水準に応じた生産過程では、そこに必要な人の配置が定まる。直接的生産過程だけでなく、運用、管理、支援、さらに前後する原材料、製品の扱いまで、社会的広がりで人の配置が定まる。[2112]
単純に一人の作業工程は一人によって担われる。一つの道具は一人、あるいは数人によって使われる。他の人は他の作業工程、他の道具の使用、あるいは道具の製作を担う。社会的物質代謝の発達段階に応じた人々の数とその配置が決まる。固定した配置数としての決定ではないが、分野、職層毎の配分はおおよそ決まる。人の配置構成が社会的物質代謝系に反するなら、物質代謝が機能しなくなる。最終消費財だけ、道具だけ、原材料だけを作ったのでは再生産は行き詰まる。社会的物質代謝はすべての働ける人の労働によって機能し、すべての人を養えるように機能するのが正常である。社会的物質代謝秩序が歪めば、歪みによって排除される人々はどうしようもなく生活できない。生活できない人が増えれば社会的物質代謝は縮小する。[2113]
生産関係は労働対象、労働手段に媒介された人間の関係である。労働力が労働対象、労働手段と結びつき、生産力として機能する関係が生産関係である。労働力の生産力への転化を実現するのが生産関係である。労働の対象である原材料、労働の手段である道具、機械、設備、エネルギー等を用いて、社会的有用物を生産する労働力の社会的関係ができる。労働力、労働対象、労働手段の社会的な配置が生産関係である。[2114]
経済的現象形態の転化過程を貫き、経済=社会的物質代謝をひとつの運動として実現しているのは社会的価値である。その価値の転化形態、所有関係を生産関係が規定する。生産関係の有り様として、社会の歴史的発展段階が画される。[2115]


第3節 社会秩序

客観した社会内での主体として周囲を透かし見る。[3001]
透かし見るには限界がある。人の視界には限界がある。すべての問題をとらえることはおろか、すべてを正しく理解するなど不可能である。あらゆる個々の社会問題に正しい答えを出せる人などいない。ただ、可能な範囲で問題を明らかにし、可能な範囲を次第に拡張することにする。[3002]

社会的物質代謝秩序は物理的物質循環秩序、生物の生理代謝を実現する生物的物質循環秩序に従い、人が社会的に生活する秩序である。物理的秩序、生物的秩序からはずれるなら社会的秩序は必然的に崩れる。社会の秩序も人が自在に創り出せはしない。人は社会秩序を運営できるに過ぎない。[3003]
社会的物質代謝過程で人々の思惑も含めた秩序の有り様を問題にする。いわゆる上部構造秩序についてである。[3004]


第1項 基本的社会関係

人々の関係には生物的関係と社会的関係とがある。人は生物的有り様も人間の関係として実現している。生物としての基本である性関係ですら人間独自の有り様をなす。同様にほ乳類としての群れ関係も人間独自の社会の有り様として発達させてきている。[3005]

【社会的力】

物理的力は物質間の相互作用として現れる。生物的力は物質代謝秩序の実現として現れる。社会的力は社会的物質代謝秩序の実現として現れる。[3006]
社会秩序の中で人々はそれぞれに意思を持って行動する。人それぞれに意思を持ち、あるいは意思を持たずに人に働きかける。人と人との関係にも相互作用があり、人それぞれに異なる作用力、影響力がある。人には人に影響を与え、人を動かす力がある。実力としての強制力だけでなく、騙すこと、説得すること、共感を引き出すこと、同情を得ること等、人の社会関係で作用する様々な力によって人を動かす。逆にそれぞれの個人は多様な人々から直接に、間接に働きかけられる。社会的力はそれぞれの人の社会での動きを規定する力である。[3007]
社会的力は一般に社会的物質代謝秩序を実現する力であるが、個人に対して個別的に現れる。社会的力は多数の人々によって具体的に担われるが、個人的力の集合ではない。人々は互いに働きかけ合っていて、それぞれの力はその合力として作用する。個々の相互作用は一つの全体の作用として実現している。それぞれの個人間相互作用も相互作用関係全体の中にある。個人間の働きかけ合いにも、全体の相互関係が作用している。個人の意思にかかわらず、個人の働きかけも、個人への働きかけも社会的力として実現する。[3008]
互いの作用関係を交替することにより、相手を理解する。相手の立場に立つのではなく、相手を動かしていた者が、相手に動かされることによって相手を理解する。人間の「やさしさ」は、自分の力を保留し、相手に動かされることを受け入れることである。闘いのまっただ中で「やさしい」力関係を維持することは困難であるが、「したたかな」力は「やさしい」力である。その上での力行使が「やさしい」力関係であり、誤りを正せる「強い」力である。[3009]

【社会的折り合い】

ほ乳類としての群れにも社会的秩序がある。ボス以下の序列関係があり、雌雄の関係があり、親子の関係がある。群れるサルの共同生活秩序は餌の与え合い、毛繕い等によって互いに確認しあう。序列関係は身振りによって確かめられ、時々の力争いによって確認される。上位、下位ともそれぞれにストレスを受け、個体それぞれに疲れる。上位のものもただ楽をしているのではない。[3010]
群れでの生活、互いのやりとりは個体の欲と群れ秩序との調整によって成り立つ。個体間の欲の調整ではない。基本的に群れの秩序が保たれることで、個体にとっても利益をもたらす。でなければ群れは存続しない。ゲーム理論が明らかにするように、論理的にも助け合いが利益を最大にする。群れの維持は個体間の関係では「折れ合い」として現れる。客観的には「折り合い」である。互いの欲を折り合うことで、折り合いを受け入れ、社会的秩序を実現する。[3011]
個体間の生物的関係であるなら折り合う以前に社会的関係も決定されている。雌雄の違い、成体と子の違いであれば、違いそのものが関係を決めている。[3012]
生物的関係以外の個体間の折り合いのつけ方は多様である。実際に面識のない者同士が集まって一つの課題に取り組む時に経験できる。得手不得手を探り合い、最適の分担を組織する。最適であるかどうかは保証されないが、最適と思われる分担に納得するしかない。無理矢理納得するのではない。実際、すべてを自分で片づけることはできない上、任せる人のすべてを確認することもできない。完璧な人間など定義すらしようもないし、実際に集まることはない。多様な人が集まり、その多様性を生かすことが現実的に最良になる。[3013]
人々が折り合うにはそれぞれの特性の違いを認め合う。いずれの場合でも何にどの様に取り組むかでそれぞれの特性の評価も違ってくる。集団移動でも先導としんがりでは役割が異なる。分担する役割の種類が増えれば調整役も必要になる。集団が大きくなる程、多様な役割分担が必要になる。役割の分担と報酬の決定過程で折り合うことになる。社会行動の具体的課題、具体的構成員に合わせて折り合うことになる。[3014]
生きることは自らを実現し続けることで常に不安を伴う。人は個々の実利よりも生活の安定を取ることの方が多い。折り合いにより生活ができるなら、脅かされる生活よりもましである。実利とともに安心を得ることができる。[3015]
例えば保険は確率に基づく損害補償の仕組みである。危険や損害を被ることがなければ保険は不用である。危険や損害を被っても、他に補償されるならまた保険は不用である。どちらも確かでないから折り合って保険契約をする。契約する場合に他に有利な可能性があっても、すべての可能性を追求するより当座の取引に損がなければ折り合って契約する。[3016]
折り合いは相互依存であり、もたれ合いでもある。この関係を利用するに長けた者も出てくる。社会的成功はこの関係を私的に利用することが最も手っ取り早い。[3017]

【社会的既定力】

社会的折り合いによって実現される社会的力は既定力としてある。現在の誰も過去を変えることはできない。現在の原因となった過去の物事は現在を既に決定してしまっている。現在の評価にかかわらず、過去の思慮の深さにかかわらず既に決定されている。[3018]
現実の社会の有り様は制度、手続きを経て実現されるのではない。法律等によって定められている制度は公認するための、裁定するための手続きである。制度や手続きは公認する方法を定める。実際には制度、手続きを待つことなく決定し、実行される。制度、手続きは取り返しがつかないような重大な事について定められる。その重要性が軽んじられて制度、手続きは無視される。公認、非公認、未公認にかかわらず、社会は実際に運動している。間違ったことでも実行されてしまうのが現実の社会である。犯罪も起きるし、戦争も起きる。起きてしまったことを裁くことはできても、取り返しはつかない。折り合いによって実現し、力関係によって確定してしまうのが現実の社会である。[3019]
正しくても、間違っていても、価値判断に関わりなく、社会の動きは実現していく。物質代謝は一時も止まることはない。人が意思によって働きかけることもできるが、意識しなくても社会は代謝し続ける。社会代謝を一部でも止めてしまったら、止まってしまったら、その部分は崩れるだけである。実現している社会代謝として現在の物事は既成であり、どの様に評価しようが評価には関わらず現実である。[3020]
人が働きかけることができるのは現在であり、未来に対して働きかけることができる。現在は既成であり、その未来の可能性に対して現在働きかけることができる。人の意思は未来に実現する可能性がある。実現してしまったら既成であり、意思に関わらず既成である。過去の意思が思うようになったかにかかわらず、善意悪意にかかわらず、結果の評価にかかわらず既成の現在をもたらしたのである。その作用力の大きさにかかわらず、働きかけることで、働きかけないことでも現在の結果をもたらしたのである。現在は過去に規定され、未来は現在に規定される。互いに働きかける作用は現実を規定している。[3021]

新しい社会制度ができるとき、社会的既定力が制度、手続きを定める。古い制度にすがろうとする者たちにとっては不満でも、新しい制度に正義が認められ、手続きが決められる。[3022]
社会制度が安定であれば制度は詳細化する。制度は選択肢を定める。選択肢が定まることで、調べ、工夫する労力が省かれる。選択肢以外の失敗、危険を回避できる。定まった選択肢から選ぶことで社会制度の安定がもたらされる。逆に調べ、工夫する能力が訓練されなくなる。[3023]
社会制度が複雑になると、社会的力の実現する過程が見通しにくくなる。折り合いに際し、全体を見通せずに周囲の関係だけから判断せざるを得ない。腕力で決まるなら単純であるが、社会制度が複雑になると社会的力が制度、手続きによる公正さを保っているかも見通しにくくなる。制度、手続きに形式的に従っているなら認めるしかなくなる。[3024]

【社会関係の基礎】

人を納得させ、導く力として個人的影響力はある。個人的影響力は人それぞれに得意な分野で、人それぞれの程度の力としてある。分野ごとに個人と個人間に優位、劣位が区別される。[3025]
一方、集団での影響力は指導力=リーダー・シップであり、個人の力ではない。指導力は社会的な力である。集団として統一した運動をするために折り合い、一つの指導の下に動く。集団を指導する力に折り合い、特定の者の指導に従う。特定の者個人の指導力を認めるが、発揮されるのは折り合った社会的力である。属する個々人が積極的に指導に従うか、やむを得ずか、拒否するかに関係なく、集団が一つの統一された動きをするには折り合いの上での指導力が発揮される。[3026]
社会的指導力は折り合いによって定まる。折り合いがつかなければ指導力は実現せず、社会は分裂する。互いの折り合い関係が見通せないほど大きな社会になると、折り合う既成の社会関係の正統性を説明するようになる。社会関係を維持、強制する制度組織が作られ、正当化される。折り合う事によるそれぞれの負担と見返りが釣り合っている内は社会関係は安定する。負担と見返りの平衡には経済的にだけでなく、人様々な欲、暴力、文化等、人の生活のすべてが関わる。善悪の評価とは別に平衡のとれた社会、組織が安定する。カルトは価値を偏らせながらも平衡を取ることに非常に長けた特殊な集団である。[3027]
社会関係、折り合いは個人間の損得計算ではない。独立した個体間の関係ではない。個人は社会関係の中での個人であり、存在そのものが独立してはおらず、社会関係の中で区別されて個人である。任意団体であるなら加わらないこともできるが、生活の場である社会、物質代謝を実現している社会は任意団体ではない。生活の場である社会から外れることはできない。[3028]

社会的指導力は制度化され、強制力を付与されて権力になる。権力は折り合いによる指導力ではなく、制度として付与される強制力である。[3029]
権力の行使には社会的価値の運用が委ねられる。再生産に必要な価値はそれぞれの代謝更新に必要であるが、剰余価値は拡大再生産か、社会保障、社会環境整備、社会的価値の保存に回る。その使われ方を具体的に決定するのが権力である。権力者個人に私消されるか、構成員のために役立てられるかに関係なく、権力に社会的価値の処分が委ねられる。歴史的に狩猟・採集の指導者、宗教的指導者、暴力的指導者、生産的指導者、経済的指導者が現れてきた。国家権力に限らず、社会的組織には権力関係が現れる。権力者といえども、社会的価値を独占することはできない。独占してしまえば物質代謝秩序が崩れる。[3030]


第2項 社会関係一般

【社会生活】

生物として生存すること自体が代謝過程であり、他を自己化し、自己を他のうちに実現する過程である。人は生物としてだけでなく社会生活でも社会関係のうちに自己を実現し、知的生活でも自己実現を目指す。自己実現は「欲」として人の本性であり、欲を持つ者が淘汰に残ってきた。欲は道徳的に否定されるだけのものではなく、意欲は生きる上で不可欠である。[3031]
生理的である「欲」が人間では自己実現の希求として現れる。欲が生理的であるうちは限りがある。欲は社会関係にあって際限が無くなる。食欲、性欲も生理的には限りがあるが、社会的に刺激されることで限りを失う。[3032]
自己実現は意識的にも、無意識にも自らの存在をささえる。意識される社会的自己実現は社会的評価を求め自己主張する。評価基準、求める評価の有り様は人様ざまで、屈折はしていても基本は社会的に認められることを求める。それぞれの自己実現の方向性が存在価値の基準であり、自己実現を反省し、自らを評価する。報酬をともなわなくとも家族、他人に認められることで自らの存在に満足を得る。自らの存在感の喪失は精神に障害をきたすまでになる。[3033]
自己実現は自己を獲得する不確定な過程であり、他方で人は安心を求める。自己実現は他の自己化であり、同時に他を所有し、自己化することである。自己の支配を強化することでも安心を得ることができる。他人、物の支配をめぐる競争と協調が対立する。闘争か逃避かの選択が生物としての生き残り基準であるように、競争か協調かの選択が社会生活の基準になる。[3034]

意識するしないにかかわらず、世界理解に基づいく価値基準、自分なりの価値系を設定し、自己実現を反省する評価系を設定する。価値系と評価系は相補的であり、また内容と形式の関係でもある。価値系は自己実現の内容を設定し、評価系は形式を規定する。価値系も評価系も客観的に定まってはいない。人それぞれの意識に主観的に設定される。無意識に形成され、反省によって意識される。人それぞれの世界理解に基づくが、自己を肯定するためには歪ませることもある。価値系、評価系いずれかを固定化し、絶対化するなら他は歪むことになる。[3035]
評価系は可塑的である。一つの結果をどの様に評価して満足するかは多様である。評価系は躾として家庭で、地域社会で、学校で刷り込まれるが、自己形成過程で反省し、自らの評価系を作りだす。より多くの報酬を得ることを評価基準とすることも、価値獲得過程での多様な評価項目間の釣り合いを評価基準とすることも、報酬を固辞する自らに満足することもある。社会的に定まった評価制度に応じる者も、社会の評価制度自体を変えようとする者もいる。[3036]
評価系を絶対化するなら、評価に合うよう対象を価値付けし、世界を解釈し、生活、行動を評価枠内に制限することで、個人的には完全に幸せな生活を実現することができる。他人の感じ方、社会の在り方を無視し、自己中心の世界に閉じこもる。社会的には狭い、偏った、迷惑な生き方であるが。[3037]
価値系を絶対化するなら、価値実現にすべてをささげる修行僧的生活になり、果ては殉教者にもなる。[3038]
普通の人々は生活の中で世界をより良く理解し、価値系を反省する。価値系を反省しながら自らを評価し、評価系を安定化する。評価系の安定化は行動の範型化=パターン化であり、無意識化である。同じ刺激、同じ条件では同じ行動をすることで、同じ感情を再獲得し、満足する。同じ感情の獲得で満足できなくなると新たな価値を求め価値系を修正するか、評価系を調整することになる。いずれにせよ、自己肯定によって生き続けることができる。人によっては、自己肯定のために評価系を歪めて自らを欺くことすらする。[3039]

価値系獲得のための対象理解は知的対象の自己化であり、表現は自己理解、自己意識の外化である。無意識であっても知的自己実現は対象秩序の探求であり、自己肯定の指向である。知的自己実現は好奇心としても現れる。対象秩序の探求は感覚器官の生理的能力であり、対象秩序を見いだすことが生き残りをより確かなものにする。感覚のパターン認識はまさに秩序を抽出し、対象化している。対象秩序を見いだせなければ行き当たりばったり、試行錯誤だけになってしまう。一般的に対象秩序には価値を見いだし、「美」を感じる。自己表現は芸術家に限らない。おしゃべりですら明らかな自己表現であり、多様な自己主張が表れる。

自己は社会関係にあって個人として客観的に規定されるが、自己を再帰対象化する主観的規定は自らの理想規定である。実現すべき自己を本来の自分、あるべき自分として規定する。自己の再帰対象化によって反省され評価基準になる自己は「本来の」自分として、実現すべき目標として描かれる。目標としての自己と主体としての自己は一致していない。想定される「本来の」自己実現を目指すのが主体である。自己実現自体既定の自己を否定し、本来の自己を実現しようとする矛盾を孕んでいる。[3041]
社会の制度化が進むと選択肢は既定化される。自らの収まるべき社会的位置と行動様式、選択する方向が既定されて提示される。自己と他である社会との相互関係での社会的規定が強まる。社会の相互規定関係が形式化し、動的平衡が社会制度としての安定になる。社会の相互規定関係を担った自己が、固定化する社会関係によって規定される。[3042]
社会的地位、行動様式が固定化され、他の選択肢が制限されることで社会関係が自己実現過程を阻害するようになる。自己実現が阻害されることが疎外である。さらに本来の自分を反省することすらできなくなるほどに疎外は深化する。世間で高いとされる社会的地位に納まるだけで満足してしまうまでになる。高い地位につくことで自然資源、社会的資源、人々の思いを喰い散らかすことを当然の権利と思い込む。[3043]

【社会的競争】

社会は物質代謝系として人によって担われ、人々を結びつけ、区別するが、そこで人は競争する。資源、財が限られるなら奪い合うことになる。資源、財が満たされても、生物として子孫の繁栄を願うなら奪い合い、さらに異性を奪い合う。数量だけでなく、質を奪い合い、折り合う。[3044]
社会的競争はまず財をめぐる競争である。異性をめぐっての生物的競争も人の場合は財を介しての社会的競争になる。財をめぐる競争は直接的財の争奪と、社会的物質代謝の制御権をめぐる競争になる。[3045]
財をめぐる直接的競争では財の生産競争と分配競争になる。直接的競争では働き者と怠け者が現れる。昆虫での実験では働き者だけを集めても、怠け者だけを集めても、やがて働き者と怠け者の分布ができあがるという。個体の気質ではなく、社会関係の中で働き者と怠け者の性質が作られる。社会関係によって怠け者が作られるのであり、怠け者をより少なくすることがよりよい社会になる。怠け者対策を働き者にまで敷衍するなら閉塞社会になる。[3046]
物質代謝の制御権をめぐる競争は政治闘争になる。利権をめぐる争いであり、合法非合法の違いも力関係によって決まる。[3047]

社会的競争には財に関わらない競争もある。創造性による競争である。創造的であるなら奪い合いにはならない。創造した価値を財で評価するならまた奪い合いになる。創造した価値そのものであれば分かち合う競争になる。どれだけ広く、どれだけ多くの人々に創造する価値を届けることができるかの競争になる。[3048]

【きまり】

安定する社会関係では折り合いの形式から「きまり」がつくられる。安定化そのものが秩序化である。物理的にも方向性のある運動では方向が衝突するよりそろう方がエネルギーは小さくてすむ。混み合う通路では対面方向を左右に分けた方が、さらに混み合うなら一方通行にした方がより多くの交通量をさばくことができる。右側通行、左側通行のどちらに決まるかは歴史的偶然や、何らかの理由付けで決まる。[3049]
自然環境や社会内の関係が安定すると構成員の個体差を前提にした分担と協同が発達する。環境や社会内部の変化が生じると、変化への社会的適応がおこる。社会構成員の社会的位置にもとづく役割分担が固定化する。変化への社会的適応を、分化と協同を調整・発展させる折り合う形式が「きまり」として意識される。「きまり」は階級社会以前から存在し、階級社会以後も社会が存続する限り存続する社会秩序の表れである。[3050]
「きまり」は地球上の人間以外の生物には自然法則であり、あるいは一般に「本能」とよばれる定型化された行動様式として現れる。[3051]
一般論としては「きまり」は既定力の形式であって普遍性はない。「きまり」の基準は相対的であり、時と場合によって異なる。「きまり」に反してしまう当事者にとっては運・不運も左右する。[3052]
人社会では「きまり」はあらゆる階層、部分に現れる。「きまり」は階級社会にあって、強制力を総動員して維持される。「掟破り」は通常はじかれ、自滅する。[3053]

「きまり」の社会的作用は、圧倒的多数の「きまり」を守る人によって担われる。「きまり」が現実的存在になるのは、法律等の条文によるのではない。「きまり」は小数の「掟破り」に対して現実的力として現れる。「きまり」を守る多数者による、小数の「掟破り」への強制力として現実に現れる。「掟破り」がいなくては「きまり」はその存在を現すことはない。また「掟破り」の存在によって「掟」の社会的有効性が試される。「掟破り」の存在なしに「きまり」の正統性の見直しが行われることはない。客観的には、社会発展のためには「掟破り」が必然的に必要であり、必然的に生まれてくる。[3054]
特に職場において「掟破り」は常に必要である。作業手順、判断基準等の「きまり」は統制された生産のためには必要であるが、生産性向上のため、環境の変化に対応するには障害である。現実の規則を破る以前であっても、現実の問題点を指摘できるのは「きまり」にとらわれない「掟破り」による。[3055]
掟破りの最高の形態が革命である。最悪の形態が復古である。深まる対立矛盾を解決するのが革命であり、押さえ込むのが復古である。[3056]

【法律一般】

「きまり」の社会的規定である法律は社会秩序の制度としての表現であり、条文だけの問題ではない。国家レベルの法だけでなく、慣習法、諸社会集団内の取決め、国際法、条約等がある。[3057]
法は社会関係、人間関係を裁定する基準であり、手続である。基準・手続はそれ自体の決定の際、また適用の際に解釈される。対立があるから基準・手続が必要であり、対立する解釈が問題になる。いかなる立場に立って解釈するかはまさに世界観の問題である。当面だけの利害、利害調節に関わる社会的範囲で判断するか、普遍的な人類発展を見通して判断するか、どの立場を取るか、どのように一貫した立場を取るかが問われる。[3058]
当面の利害であっても、一度きりの偶然の対立であるのか、継続する、あるいは並起する対立であるのかによっても採る解釈は違いえる。個人として、親として、職業人として、消費者として、主権者として、人類として、それぞれの問題に対してどのような法的解釈の立場に立つのか。憲法解釈にとどまらず、ゴミの分別からして立場の違いが解釈の違いを正当化しかねない。憲法に定める男女同権を認めても、夫婦別姓に対する態度でも、家事、育児への関わりでも解釈を一貫し、普遍的立場に立ちきることは難しい。[3059]
歴史発展の中でも解釈、立場は変わりうる。社会変化の中で変わらない方がおかしい。理想の社会が現在実現できる訳もなく、実現できていないからこそ理想である。正義は法律によっても決定されていない。法律を正義を実現すべくどのように解釈すべきかも吟味しつづけることになる。変わりうるのであっても、理想実現に向かっていることが肝心である。変わりうることで、過去の、まして現在の誤りを合理化する理由にはならない。「人間の尊厳」をめぐる闘いは今もって、我々が担っている。[3060]

【民主主義】

民主主義は単なる「多数決原理」ではない。社会的意志決定実現の基本である。そして互いの違いと平等を前提にしている。[3061]
互いの違いがなければ意見の対立もなく話し合いも必要ない。互いの違いを前提に、その折り合いをつける方法が問題になる。互いの違いを否定することは民主主義とは相いれない。互いの違いを否定し、均一な扱いを求めることは反民主主義である。このことの誤解は民主主義運動にとって致命的な損害を与えている。民主主義は手段であって、目的はすべての人の人権の尊重である。すべての人々の人権が尊重される方向によって人類は発展する。反民主主義は民主主義の否定だけでなく人類の将来を危うくする。[3062]
互いの違いは物理的、生物的、精神的、人格的違いであり、大切にすべき違いである。歴史的に民主主義の主張は身分による社会的意思決定権の違いを否定してきた。民主主義は身分という社会的違いを否定するのであって、人間の個性を否定するのではない。違う一人一人が平等な「個」として決定に参加することが民主主義である。対等な人格として認めることは、決定権が対等なのであって、社会的に同じ処遇を求めることとは違う。逆に社会的立場の違いで決定権の重みに差をつけることが非民主主義である。[3063]

民主主義は「多数決原理」と共に、その前の「議論」によって実現される。民主主義は暫定的結論を多数決によって決するが、そのための「議論」こそがその本質である。議論によって互いの違いを明らかにして互いを尊重することが民主主義の本質である。尊重するのは人格の、個性の違いであって、利害の違いではない。[3064]
民主的議論の意味は結論の出しかたではなく、議論による新たな視点の獲得である。対立者の視点の理解、あるいは、両者の立場を超える視点の獲得である。妥協ではなく、一つである現実を一つのものと見える視点を議論で見つけ出し、認め合うことである。通常の対立点は、対立の前提となる知識の不均等によって生じる。わかってしまえば対立そのものが消滅し、結論は一致する。結論を出すための議論は、通常対立する意思の相互理解獲得を目指すものである。[3065]
対立を超えて相互理解に至ることは難しい。利害対立があるなら相互理解を得ても対立は残る。議論や多数決ではなく利害調整が問題の解決方法である。利害対立の機序を明らかにし、機序の改革による対立の解消に向かうことで解決をめざす。次善の手続として、決定をより多くの者が受け入れられるように多数により決定する。多数決は折り合いがつかないでも決定しなくてはならない時の手段である。[3066]
民主主義は政治制度だけの狭い問題ではない。人間社会の意志決定の原則であり、社会的認識を正常に保つ保証である。民主主義はガスぬきの手段ではない。少数者の意見を聞いたことで多数決が正当化されるものではない。民主主義は社会を柔軟にし、力強くする。対立する意見を明らかにし、対立を超えることができるなら問題は残らない。[3067]

利害対立がなくとも互いの理解は生活経験によって獲得されたものであり、経験していない異なる生活経験を理解することは生活を変えることと同じ程に困難である。困難な議論は民主主義の困難さである。困難な議論を回避するなら民主主義は形骸化し、衆愚化する。民主主義を実現するには生活に関わる、具体的な問題の議論から発展させていくしかない。[3068]
民主主義は生活することの中で主体性によって実現される。従って民主主義は強制できるものではなく、外部から持ち込むことはできない。民主主義は軍事力によっても押しつけることはできないし、経済的便益によっても輸出することはできない。それぞれが自力で民主主義を確立しなくては、与えられてもなし崩しにされたり、換骨奪胎されてしまう。[3069]


第3項 歴史的社会関係

【民族】

地域社会間の同化と異化の過程で、民族が形成される。同化と異化を分けるのは地理的、歴史的、宗教的、イデオロギー的区別である。相互依存関係と敵対関係の歴史的過程を経て同化と異化の過程がある。個別社会内の相互依存関係はそれぞれの生活を実現する上での相互依存の必要性に基づく。[3070]
最も基本的な依存関係は親子関係である。相互に扶養関係を必要とするだけでなく、人間性を実現する契機となる基本的人間関係である。夫婦、兄弟姉妹、家族、親族、相隣、仕事、個別社会の人間関係は相互依存関係を基礎にしている。この相互依存関係は敵対関係と相補関係にある。依存関係にある集団はその他の集団とは利害が対立する可能性がある。地理的に離れていれば敵対関係は実現しない。しかし、集団が大きくなれば地理的にも接するようになる。集団内の相互依存関係と集団間の敵対関係は、集団関係の区別として固定化されつつ、歴史的に変化する。[3071]
民族の形成と歴史は、人間集団の相互依存性と敵対の運動の歴史である。血縁、地理、言語、習慣、宗教、政治、歴史といった、様々な要素からなる相対的空間として民族を形成する。[3072]

【職業・社会的地位】

生活での相互依存関係が高度化する社会代謝に応じて制度化される。職業として社会関係が制度的に固定化される。[3073]
社会的物質代謝・経済での人々の役割はその発展とともに拡張され細分化される。職業として多様化する。組織内の役割・職種も経済発展と経営手法の発達によって多様になり細分化される。[3074]
経済が質的に安定した時代の職業、職種による個々人の分担役割は、社会的地位として固定される。すべての人の生活は社会の経済活動に支えられているが、精神的、文化的関係も社会組織化、制度化される。「お稽古ごと」は無論、科学者、芸術家も社会的地位を獲得しなくては何もできない。[3075]
それぞれの人によって担われた役割とその結びつきが組織・制度として機能し、権限が定まる。社会的地位に備わる権限はそれぞれの地位の役割を果たすための権限である。権限は地位を担う個人の能力とは別の社会的力である。権限には暴力をともなう強制力をもつものもある。社会的権限は役割を果たすための権限だけではなく、地位の継承者を決定する権限にまで拡張されることがある。[3076]
社会的地位は固定化し、担う人には依存しなくなる。それぞれに担う人は交替することができる。個人と組織の対立を生じるまでに社会的組織・制度は固定化される。一般的地位ほど固定的であり、動作一つ一つまでもが規定され、マニュアル化される職業すらある。しかし地位を担う人によって、その地位を質・量ともに変化させることも可能である。役割をサボタージュすることも、逸脱することもある。[3077]
個人それぞれは社会的地位を得ることによって生活を実現する。社会的地位によって人間関係が規定される。地位に応じた役割を果たせるかどうかではなく、資格によって地位が与えられるようになる。社会的地位は社会的役割を果たすこととは直接しなくなり、それぞれの個人の生活手段として取引されるようになる。社会的地位の継承、取引は金銭の対象となり、私的依存関係によって決まるまでになる。公的地位の場合には選挙制度や資格試験もあるが、組織・制度が形骸化した社会では正常に機能しなくなる。[3078]

【国と国家】

国家は権力の制度であって、地理的、歴史的に形成される社会としての国とは重なるが別である。[3079]
人々の活動範囲は社会的物質代謝関連の範囲、交通手段の範囲としてまずは地理的に区別される。社会的物質代謝関連の拡大、交通手段の発達にともなって国の範囲は歴史的に拡大し互いを区別する。[3080]
国は単独では存在しない。国は他国と区別することで成り立つ。他国と区別する社会としてのまとまりに対して、人々の活動が及ばない地域からも地理的に国を区別する。国は社会的物質代謝秩序が形成されてからの社会関係の基礎単位である。人々の生活が家族単位であった古代以前では国は形成されないし、国が形成されることで古代からの歴史が始まる。人々の活動が生み出す言語、技術、知識、教育、宗教等の文化は多様化し、生産力の発達と共にそれぞれの国の歴史をつくってきた。それぞれの国毎に伝統があり、伝統は混ざり合いもする。[3081]
国の成立は同時に権力関係の成立である。社会的物質代謝関連と重なるがその支配関係として国家権力が成立する。国家の区別は相互承認としてあり、制度的独立を相互尊重する。国際組織も国家権力間の調整ができるだけである。[3082]
国家は最強の権力である。今日、制度として最も強力な強制力である。国家として暴力は強制力として公認される。暴力は物、生命、社会、人格、文化を傷つけ、破壊する力である。暴力は物理的力に限らず、社会的力、精神的力としてもある。道徳的に暴力を承認するかではなく、暴力の正当性にかかわりなく、現実の力関係で暴力の行使は国家には認めれれている。国家の内で、国家間で国家は暴力を振るう制度である。暴力を振るわないこともできるが、暴力を公認させる制度として国家は他の社会制度と区別される。[3083]
国家は権力制度であり、国家は守られねばならない制度ではなく、必要に応じて改正されるべき制度である。まして、官僚の地位を守るために国家があるのではない。愛国心は国を思う心であって、国家権力を至上化することなどではない。[3084]


第4節 文化

文化は知の社会的有り様である。文化は社会的意思の表れである。精神活動は個人によって担われるが、その個人は社会関係にあって生活している。人々の社会的精神活動によって獲得された知識、技術、もたらされる感情、意思の物的表現、人間関係の有り様が文化である。[4001]

文化では個別と普遍を区別することが困難になる。文化は人々に媒介され、人々の生活に実現されるが、人それぞれの有り様を超えている。文化は社会的意識の有り様であり、個人の意識では直接にとらえることはできない。生命を直接とらえることができないように。社会、特に文化を「これである」と指し示すことはできない。個人は社会的意識の有り様を社会的な多様な事象を介してうかがい知る。個人が直接対象化できるのは個々の具体的社会事象、人々の言動、表現等にとどまる。しかし、社会、文化は人々が人々の関係に作り出す秩序であり、人々に作用する秩序である。文化は個々の事象を理解し、その全体を抽象することでとらえることができる。[4002]
文化と生命の存在が異なるのは文化を対象としようとする主体、主観それ自体が対象の一部として含まれる関係にある。生命体である人主体は人々を含む他の生命個体、生命個体間の関連を客体として対象化することで生命を抽象することができる。文化に対して主観は自らを客観化るすことができない。また他の人の意識を自分の意識と同じ様に直接知ることはできない。[4003]

文化は今現在の人々の実践に生成、蓄積される。過去の人々の実践、経験は現在、そして未来の実践によって文化として継承される。今現在の人々の理解・実践として現実変革の力、物質的な力を現わす。今現在の人々に関わらない物事は文化としての有り様を実現しえない。[4004]
文化はそれぞれの社会で様々な特徴を持つ。歴史的、地域的に広く交流されるかによって、より一般的になる。人類史を見通すなら、普遍的な人類文化を抽象することができる。人類文化は人間集団としての実践、経験の全体的統一として、現実変革の物質的力として人間社会の物質代謝に働きかける。文化は物質のもっとも高度に発展した運動形態である。[4005]

個人は文化を獲得することによって、生活を豊かにする。個人は文化によって普遍性を獲得する。個人は文化によって生物個体の能力、個別的能力を遥かに超えることができる。[4006]


第1項 文化の有り様

文化は社会的意識活動である。文化は社会的であるが故に、物質的基礎をもつ故に普遍的でありえる。[4007]

【文化の階層】

文化は物質運動の最高の発展段階である。最高の発展段階であって、非物質的でも、反物質的でもない。物理的運動として存在し、社会的存在として機能し、知的存在として実現する物質の有り様である。文化は物としての結果を残し、社会的に取引され、交流し、知的に理解され、評価され、人々の実践を方向づける。[4008]
文化は対象を人間化する秩序実現の運動である。対象を人間関係のうちに関係づることで人間化する。自然と人間、人間と人間の間に対象を位置づけ、評価し、意味づける。社会的物質代謝過程の反省として秩序を認識し、制御する機能として文化は実現する。文化は目的意識的変革運動として社会の有り様を秩序づけている。人間社会の物質代謝を基礎とする、社会的価値体系を担う精神の運動である。文化もまた自らを反省することで、自らを価値づけ、方向づける。文化は社会的に評価された物であり、社会的に評価する意識としてある。物、意識いずれを欠いても文化として成り立たない。人それぞれにあって共有される感情、知識、意思の社会的表現が文化である。物質、生命、社会の階層の上に新たな、より発展的な文化の階層を創造している。[4009]

【文化の存在様式】

文化は地球上では人間の活動なしには成立しえない。成立した文化は人間の活動から離れては存在しない。人間活動からはなれた物事は再び人間活動の対象として、人間社会内に取り込まれることで文化として再生する。時に遺物は地中から発掘され、海底から引き上げられて継承される。埋もれたままでは遺物ですらない。社会に引き戻されて遺物になり、再現されて文化を担う。[4010]
文化は人の知的活動に対して感覚的に、肉体的に作用し、感情、知識、意思として実現される。人々相互の秩序、また物との関係秩序を認識し、制御する社会的意識としてある。一つの全体意識としてあるのではなく、人それぞれの意識が全体として社会的意識を自己組織化して実現する。文化は社会的にも、個人的にも実現される。[4011]

【文化の媒体】

文化は様々な形で生成、蓄積される。文化は様々な媒体によって蓄積され、媒体そのものとしても蓄積される。知情意を表現し、保存し、共有することとして文化がある。[4012]
文化運動の媒体はまず物理的物質である。道具、機械、設備、施設、文字、音響等の物質であり、なにより行動する人自身である。[4013]
道具、機械、設備、施設は技術としての文化の成果物であり、文化とは区別される。文化はそれらの利用技術として実践的に機能し、また人から人へ伝えられる。[4014]
今日電子情報システムが文化のより普遍的な媒体になってきている。電子情報システムは文化の保存、共有、継承を容易にしている。電子情報システム以前から出版、図書館、報道機関、公演、講演、展覧等々、情報を伝え、保存するシステムがある。[4015]
人の知的活動によって文化の物質的媒体は情報媒体として評価される。文字、音声は言葉として人のコミュニケーション、記録の媒体である。言葉は図形や記号と共に文書を媒体として物質化される。電子媒体によっても人に認識可能な形に変換、表現される。[4016]
科学は概念、定理、論理、理論の体系を作り出し、観察、実験によって検証する。教育は肉体的能力、生理的能力、知的能力を訓練する。芸術は意思表現を創造し、鑑賞される。イデオロギーは直接社会の意思決定を規定する。イデオロギーは個別的に宗教、政治として社会を動かす。[4017]
自然物はそのままでは文化として評価されない。自然物は人間関係に位置づけられ、取引され、加工される社会的物質として文化を担う。文化の媒体は作品として、作者から独立して評価される。文化媒体は選ばれ、加工され、組み合わされた物として、何らかの人間が認める意味を担っている。[4018]

以下、文化のとる様態の主なものを整理する。[4019]


第2項 技術

技術も社会的であって、人個人だけの術ではない。人も生物個体として様々なものを利用し、消費する能力があるが、それだけでは技術ではない。人々に共有され、あるいは利用されることで技術となる。属人的技術も他の人にまねができないが社会的に使われるから技術である。個人が個人だけで用いる術は社会的に何も残さない。[4020]

【実践技術】

技術は第一に人の労働能力の実現方法である。労働能力は生産関係に組み込まれて物の秩序、生物の秩序、社会秩序、秩序を表現する知識を変革する。技術は秩序変革の手段である。技術は生産過程にあってまず生産力として実現される。[4021]
どのように高度な技術による道具、機械、設備であっても生産過程で利用されなくては生かされない。技術は道具、機械、設備として物理的存在でもあるが、操作技術、運用技術によって利用される。技術は道具として、操作方法として物質化でき、保存、伝達、訓練ができる。[4022]
しかし、技術を利用する適用能力は教育などによってもなかなか継承できない。手段、方法、結果がわかっても、課題、問題が理解できなくては現実的力として利用することはできない。適用能力としての技術は現実の変革過程で訓練、継承される。[4023]
技術は社会的財の生産にとどまらず、人々の生活の術である。人々の生活は秩序を理解し、秩序を実現し続けることとしてある。社会関係では話術、説得術等の技術によって関係が作られる。生活秩序を実現する術として、技術は普遍的な人間の能力である。[4024]

【技術の発展】

技術は物質的に固定したものだけではない。物を作る術だけが技術ではない。成果物も必ず継承されるという保証はない。特に工芸技術のように、人間に依存する属人的技術は教育制度、社会的要求までもが継承されなくては廃れてしまう。継承されている技術であっても、技術だけではなく、社会的要求への対応、教育制度までも含めた社会的運動としてなければ継承されないし、発展しない。[4025]
科学の最先端の研究だけで技術は成り立たない。科学の成果は普及され、応用技術の開発によって試される。科学の成果利用過程が工学の対象となり、一般的応用技術となる。一般的技術は適用される環境、条件との関係で個別的に利用される。一般的技術を個別的利用に適用するのも技術である。[4026]
また、技術を継承する人々の能力、組織も技術発展の基本的要素である。成果を交流する専門の雑誌等のメディアに紹介されるだけでなく、それを実現する社会にあって適用されて生かされる。[4027]

【技術体系】

技術は個々の技術の単なる集合体ではない。個別技術は相互に規定し合い、支え合っている。それぞれの課題解決のための体系として技術は構成される。生産技術はこれまで大量生産の技術体系がもっぱら発達してきた。集中する生産力によって大量生産する技術が開発されてきた。[4028]
大量生産技術による環境・資源での限界が明らかになってきた。代わりに人々の生活に必要な生産を個別的に実現する技術が適正技術として注目されるようになってきている。エネルギーの供給を個別化し、分散した生産技術の体系である。大量生産や効率的生産を追求する技術から自然秩序、全体秩序と調和する技術が求められている。大量生産、効率的生産は集中することで実現されてきたが、他と調和する技術は分散する技術であり、個別的要求に応じる技術である。[4029]
大量再生産技術の反省から技術開発、実施の事前影響評価技術も提案されている。自然への影響と共に社会への影響をも評価することが求められる。新しい技術体系以前に現実の社会でいかに不当な、強権的な政治経済活動が行われていても、その解決だけで人類社会の問題は解決しない。人類の未来を保証するには欠くことのできない新しい技術体系である。[4030]

【軍事技術】

技術は戦争によって飛躍的に発展してきた。生産に何ら貢献することのない戦争が、生産力を高める技術によって経済と深く結びつくことになっている。産軍学複合体と呼ばれるように。人類史で軍事は技術と相互に密接に連なって発達してきた。今日軍事技術は地球環境を破壊するまでに強大になってきている。[4031]
戦争目的を実現させるために技術を開発し、新たな技術が新たな戦争を可能にしてきた。今、核兵器使用を可能にする技術、味方の人的損失を出さない戦闘無人化の技術が開発されている。戦争は人をより大量に殺す技術である。兵士の損害を出さない技術ができたなら、敵は殺せる兵士以外の人々へ攻撃を転じるのは明らかである。[4032]


第3項 知識

【知識の存在】

知識は物を媒体として蓄積され、伝えられるが、知識は物として存在するのではない。知識は現実変革の過程でえられた認識の社会的意思への反映である。個人が記憶し、使う知識も社会的に評価され、表現されている。知識は社会関係の中にあって、伝えられ蓄積される。個人の記憶とその表現は確実ではない。確実に表現できる保証も、正確に再現できる保証もない。個人の記憶も社会的表現手段=言語等に媒介されて知識となる。個人の記憶は社会的表現手段に媒介されるだけでなく、社会的に検証されて知識になる。[4033]
知識は社会化された記憶である。個人的記憶には限界があるが、記憶が社会化されることによって、個人的知識も拡張される。[4034]

知識はまず人々の生活にかかわる主体的情報を客観化した反映としてある。主観的思い込みは知識にはならない。対象の有り様を客観的に反映していることが知識の要件であり、社会的検証が客観性を保証する。[4035]
知識は対象についての理解にとどまらず、知識獲得過程、個別知識間の関連づけ、知識の表現についても対象として知識を構成する。知識の社会的有り様についても対象として知識を構成する。知識は自らをも対象にしする反省知識を含む。ただし、知識は結果の記録であって、知識自体は保存しようにもいつか失われる。人々の生活で生かされて、知識は保存され、より豊かになる。[4036]

【知識としての歴史】

知識は歴史としてあり、歴史は知識の構造としてある。過去は既に存在せず、過去の物事は知識・情報としてだけ今存在する。過去の物事が今日の諸存在を実現するに至った時間構造を表現した知識が歴史である。逆に、古文書、遺物、化石等を含む今現在の物を調べることで過去の有り様を歴史として構成することができる。新たに明らかになる過去の物事は、既知の歴史のなかに位置づけられて歴史知識をより豊かにする。過去に対する未来はこれから作られる可能性としての世界であり、未だ歴史として存在しない。[4037]

【知識表現】

保存した知識を人に理解できる言語、図形、映像、音響等として表現することの可能性を知識工学が課題としている。知識の獲得、保存、検索、表現を工学的に実現しようとする研究である。獲得、保存することが技術的に難しい。獲得では知識の対象を抽出し、他との関連を定義する。人の場合には生きる上での重要性に応じて対象を選別しているが、客観的知識を獲得しようとするなら厖大なデータ量となって処理しきれない。データの有用性を選別するフィルターの設定が必要になる。個々の物事の他との厖大な関連の中から、対象個別として特定する性質を選別する方法、基準が必要である。さらに知識システムでの内部表現、知識推論の内部処理が困難な課題としてある。保存では形式を定め関連づける。保存は電子データ化によってますます容易になっているが、検索索引、データ間の関連づけはどのように定義したら最適化されるか、その評価法も明らかになっていない。素早く正確な検索、人が理解しやすい表現方法については技術的に大いに進歩している。困難はそれぞれが互いに規定し合っていて、その規定が確定していないことにある。[4038]
それでも、限られた課題についての知識表現はエキスパート・システムとして実用化されている。熟練者の技術・知識をデータ・ベース化する研究もされている。他方で、インターネットは人の知能とネットワークによって運用される現実の知識データ・ベースになっている。ただし、人に依存しているため知識・データベースとしての客観性を無視したデータや、商取引のみを目的としたシステムも含まれている。[4039]
世界観も知識表現の一つである。人の知能をハードウエアとする知識表現が世界観である。ただし、「世界観」としての客観的表現は不十分この上ない。「世界観」は特定の個人の世界知識の極わずかを表現できるに過ぎない。人それぞれの世界観の内部表現がどのようになっているかを意識することもできない。人は世界観の内部表現の表層を意識できるだけである。脳科学も世界知識処理研究の緒に就いたに過ぎない。それでも、「世界観」は個々の知識の関連を体系化し、位置づけることで世界観を点検する目安になる。「世界観」として点検した世界知識が価値判断の基準になっている。[4040]


第4項 科学

【科学の理念】

科学は人間社会の理性的認識である。科学は人間社会の認識であって個人の認識ではない。主に科学者によって担われるが、個人ではなく科学者間の相互批判をへる認識である。科学は秩序を論理として表現するから理性的である。相互作用として実現する相互規定関係を、概念間の規定関係である論理として表現する。対象秩序を論理によって表現する法則が科学の成果物であり、対象世界を法則によって表現する。[4041]
科学は対象秩序の普遍性を追求し全体を統一して理解しようとする。対象秩序の普遍性の追求は、対象の本質の追求であり、より普遍性を求めることでより確かな秩序を追求する。より普遍的な段階での把握がより確かな存在の把握、本質の把握である。より普遍的な把握が獲得された段階で、その前段の特殊的把握も限定されて、同じだけ確かな把握になる。一つである全体がより確かな把握になる。より普遍的、より本質的把握は、全体が一つであるのだからより全体的な把握を可能にし、全体の統一された把握になる。[4042]
秩序は個別の形式を表す個別性とともに個別を超えた普遍性でもある。保存される秩序によって個別を他の個別と区別する個別性を現す。同時に、個別間の共通な性質である普遍性を現す。水分子には酸素原子と水素原子の化学結合した秩序形式で他の水分子と区別される個別性がある。同時に、水分子の秩序形式で液体としては同じアルコールとは区別される水の普遍性を現す。個別性と普遍性の組み合わせとして秩序は秩序を現す。秩序は秩序の秩序からなる。世界が一つであるのだから世界の秩序は秩序の秩序として世界の統一秩序をなしている。科学はこの世界の秩序を対象とし、世界をより統一的にとらえるようになる。[4043]
科学は法則として対象を表現するが、対象に法則があるのではなく、対象にあるのは秩序である。科学は対象秩序の現れである関係形式の一面を法則として表現しているに過ぎない。にもかかわらず科学者のなかには法則表現のとおり世界秩序があると思い込む者がいる。例えば、方程式は決定論を基礎にした表現である。方程式が表現しているのは決定論的関係だけである。にもかかわらず個々の現象を方程式で記述できるのだから、世界は決定されていると解釈してしまう。決定論で表現された世界での物事はすべて決定されているのは当然である。[4044]

ただし、科学も理念の現実化にはさまざまな問題、制約がある。科学は理念としてだけでなく、主に科学者によってになわれ、現実の社会の中で実現される。すべての科学者自体完成された専門家ではないし、専門化すれば専門分野は狭くなる。科学研究にはより高度な、より高価な研究施設、設備が必要になる。社会的な評価によって、人材、資源、資金、栄誉が与えられる。[4045]
科学の理念を実現するために、科学自体の方法が研究対象になる。研究手段、研究手法が開発される。また、科学の環境として、成果の公表、検証制度、記録方法が整備される。[4046]

【科学の存在】

科学は社会の主要な認識である。科学は論文としてあるのでも、観測・実験の施設・設備としてでも、科学者の仕事としてあるのでもない。社会の認識は個々人の認識を基礎に、各分野、各認識レベル集団において成果を蓄積、交換、共有する。科学は学会のなかに閉じこもっていては自滅する。[4047]
科学は認識の成果物としての知識としてだけでなく、すべての人々の日常実践において、そして特に科学者の観測・実験として常に再検証され続けている社会的認識である。新しい知見が科学者の仕事として得られることが圧倒的に多くなってきたのは、科学者の専門性が高まってきたことによる。科学の最新の成果も、その関連が展開されて、関係するすべての事象において、皆に常に検証され、適用され、応用されるようになる。[4048]
科学は非科学と異なり成果を全社会的に検討し、対象全体と照合している。日常の物事から非日常的、超日常的物事まで同じ方法、同じ方法の組み合わせによって検証している。成果を論理によって表現し全体の整合性を検証可能にしている。普遍的秩序を論理によって表現していることが非科学、反科学、宗教とは決定的に異なる。[4049]
科学を担う科学者は開かれた専門家集団である。血縁等ではなく知識の伝達のみによって受け継がれ、科学者集団への参加は訓練された科学的資質だけを基準にしているはずである。[4050]
科学は属人的なものではない。科学者の名を冠せられた理論、学説であってもそれは業績を評価し、記念するための名前である。学者の数ほど理論があるのでは科学としては成り立っていないことの証明である。その傾向は人文、社会科学の分野に多い、というより人文、社会科学の分野ではまだ普遍的な理論として成り立っていない。社会科学では理論以前に現実の利害対立が事実の検証を妨げている。人文科学では個性ある人格を最大の価値としている。だから、人文、社会科学は自然科学者からは科学としてなかなか認めてもらえない。[4051]

【科学の社会性】

科学の存在、科学の運動の何から何までもが、社会的である。[4052]
研究者自体社会的存在である。いかなる天才も個人的能力だけではなにもできない。自らの能力開発、能力の実現、研究手段・研究材料は社会的に提供され、自らの研究課題、成果も社会的評価を受ける。[4053]
成果は研究者の個人的好奇心を満足させるだけのものでは科学とは言えない。科学の成果として、社会的に記録されて共有される。成果は社会的に利用可能な媒体によって記録されて共有される。[4054]

科学の担い手は最先端の研究者だけではない。社会認識の最前線を担う研究者を先頭に、それを支える技術者と研究実務を支援する者、研究指導者、成果を解説する者によっても直接になわれる。これを組織的、財政的に支え、試料、資材、財源を提供、管理する者によって間接的に担われる。研究、教育、運営、広報、組織、指導者によって科学は実際に担われている。これら科学を支える、施設、設備、組織、制度、資金、原材料、動力は、担う人々と共に科学の物質的基礎である。[4055]
科学者は科学することで生活しており、研究を続けることで生活は保障される。生活を保障するためには研究を社会的に認められることが必要になる。認められるには研究成果が上がり、有効な成果であることが求められる。ここに成果のねつ造と、成果の粉飾の可能性がある。先取権の名誉をめぐる競争だけでなく、生活のための成果の宣伝がおこなわれる。[4056]
各々の役割において、役割について分析と総合、対象と方法を啓蒙し、情報収集し、整理される。これら全体の認識論、組織論、運動論が科学論である。[4057]

【科学と学問】

科学は社会の普遍的な認識であるのに対し、学問は個人の普遍的認識である。科学の専門家以外でも、すべての人は科学を理解し、自らの生活実践の中で、科学に依拠した普遍的な世界認識、世界観を発展させる学問に取り組むことができる。科学に依拠する世界観の形式、普遍的な世界認識が学問である。自然科学以外の社会科学、人文科学では科学研究の要素より、学問としての要素の方が多いようである。[4058]
学問も科学に依拠するが、個人が扱える科学分野は限られている。今日の自然科学研究では専門家以外が直接担うことのできる分野はごく限られている。自然科学の専門家であっても、自らの専門分野以外では素人である。ただ、科学は社会的認識であり、科学の成果を理解し、普及するのも社会の認識過程の一部である。その意味ですべての人々の認識は科学に依拠できる。各個人が科学に依拠して世界を理解しようとするのが学問である。[4059]
科学の専門家は、専門分野の研究を通じて世界を理解する。専門家個人の世界理解=世界観の内に自らの研究の意味を見いだし、研究課題を見つけだし、研究を方向づける。科学の専門家も研究ばかりしているわけはなく研究以外の仕事も、市民生活も、家庭生活もし、その総体の中で世界を理解している。その中で、自らの研究成果を自らの世界観によって評価し、自らの世界観を発展させる。だから宗教を信じる科学者も大勢いる。手品に騙される自然科学者もいる。[4960]
そして、科学によって媒介される学問は科学でないことも対象にできる。科学の手法を利用して科学の対象となっていない物事を扱うことができる。普遍性のない個別対象を学問として扱うこともできる。科学の専門分野間の隙間も始めは科学研究としてではなく、学問として研究される。科学の飛躍的な知見は学問としての研究が普遍的な認識としての科学との整合性を獲得することによって科学の一部に組み込まれる。[4061]

【科学と政治】

科学が社会的認識過程であるからには政治とも関わる。政治は権力関係であり、国家権力に限らない。科学者間にも権力関係があり、科学界内にも政治はあり、政治運動と科学の関わりは血なまぐさくもなる。政治も科学に依拠しなくては現実を変革することはできない。しかし、政治は学問以上に科学と距離を置くことで両者とも健全性を保てる。学問は科学を媒介にして成り立つ。政治は学問を媒介にして社会を認識する。二重の媒介によって政治と科学の距離関係は保たれる。[4029]
政治による科学の勝手な解釈、その解釈の科学への押しつけはルイセンコの問題にとどまらない。「マルクス・レーニン主義」を掲げた政治によって、ソ連東欧の科学は自らの社会を科学的に認識できなくなっていた。自然科学であっても環境破壊を問題にしえなかった。革新技術を社会的に普及しえなかった。[4063]
政治が科学の成果を利用するのは当然のことであり、政治認識も科学的であるべきだ。政治は現実変革を科学的に行うために科学の成果を理解し、解釈する。政治実践を行う者が自ら学問して科学を利用する。科学や学問の分野を限定したり、方向づけることは認識活動としての科学を歪める。[4064]
科学の発展は真偽の転化の過程としてある。正しい学問のみによって科学は発展してきたのではない。誤りであろうようなことに対しても、学問的展望に基づき果敢に研究することが科学を躍動させる。特定の分野、特定の方向性が誤りであるとして政治的に排除することは科学を歪める弊害の方が大きい。[4065]

それこそ学問、科学は多くの誤りを含んでいる。仮説のほとんどは誤りとして捨てられる。既成の科学の成果ですら対象の限定された認識である。誤りは科学研究、学問研究の過程で正される。正されるだけでなく研究過程での誤りが、条件をつけることで真理に転化することがある。[4066]

逆に科学は政治から孤立するのではなく、政治をも科学の対象にする。科学によって社会の健全性を保証する。社会的物質代謝、自然の物質代謝が歪められるようなら警告を発し、是正措置を提案する役割がある。人々の知的活動に対しても秩序を無視する非科学、反科学を明らかにし、追求することも科学の役割である。科学の成果が社会に、自然に正しく利用されるよう見届けるのも、科学に精通した科学者がまず担う役割である。科学者も社会の一員であり社会政治、科学政治に漬かっている。[4067]


第5項 芸術

ここでは芸術を論じるのではなく、人間社会での芸術の有り様である。文化としての芸術であり、芸術の内容ではなく形式である。[4068]

芸術は人間の共感を実現するものとしてそれだけで価値がある。[4069]

科学が実在に即した秩序を探求するのに対して、芸術は主観を介した秩序を探求し、そして表現する。秩序の探求としては同じ認識であるが、実在を超えた主観における認識として主体にとって直接的説得力があるし、人によって理解が違ってしまえばまったく否定されてしまう。芸術は実在の有り様を対象とするだけではなく、主観の有り様、主観の内容、そして主観の形式にある秩序も探求し、表現する。抽象芸術であっても抽象的秩序を具象化して表現する。どのように抽象的であっても思考とは違って、実在物によって表現され、時には秩序が崩壊する過程によって秩序の有り様までも表現する。[4070]

【芸術の存在性】

芸術の本質は創造性である。自然あるいは自然のものがどのように美しくとも、芸術的であっても芸術にはならない。芸術は人間が創り出すのである。ただ様々な人が創作をしているが、その作品が芸術になるとは限らない。数ある創作作品のうち、社会的、歴史的に新たな表現を獲得したものが芸術になる。作品そのものの物理的価値ではなく、社会での関わり方で、社会的に評価されて芸術になる。場合によっては、対象に対する創造的視点を提示することによって作品は芸術になる。庶民が使っていた日用雑器も、その造形美と歴史を経たことで高価な美術品になるが、芸術になるのではない。その芸術性は美を見いだす新たな視点によって与えられる。芸術は社会的関係にあって価値がある。[4071]
芸術は部分と全体、目標と手段が統一した秩序を表し、形式と内容は一体になる。表現対象の秩序だけではなく、作品媒体のもつ秩序と表現される秩序の全統一を形式としている。[4072]

芸術は感覚のみでは成立しない。対象秩序についての理解、人が対象を理解すること自体が基礎にある。対象と認識の理解は論理的理解に限られない。論理的理解が前面に出てしまっては説明的になってしまう。芸術も認識であり、科学とともに、科学とは別の認識方法である。自らの理解を反省することも含めた理解である。芸術家による探求は科学者をも超えた対象理解に至ることがある。芸術の表現様式は人の認識能力の解析としても発達してきた。色覚の三色説、反対色説も視神経の仕組みが明らかになる以前に知られていたし、脳内での図形解析がキュビズム同様の表現を経ているなど。多様な絵画表現様式は人の視覚能力を直感的に追求した成果である。認知科学が人の認知機序を明らかにすることで、芸術様式を一般的に評価できるようになってきた。[4073]
科学が社会的認識として一般的知識の歴史的蓄積に依存するのに対し、芸術は個人的認識を掘り下げることによってもたらされる。芸術は一般的でなくとも、個別、特殊であっても普遍性をつかみ取ることができる。[4074]
芸術にも現実を加工する技術の熟練が必要である。作品を現実の物とするための世界、社会、人間に対する洞察が、意識、無意識に関わらず必要である。[4075]
秩序に対する独自の視点、独自の表現を獲得することが創作を芸術にする。秩序をどこまで作品に作り込むかによって芸術的質が区別される。偶然の作用結果であっても他より秩序だっていることを見いだすこと、その視点を提示する。個別の存在、人は秩序によって成り立っており、でたらめを創造することは、無限に至ろうとすることと同じに、ほとんど不可能である。[4076]

【創作】

人各々の方法で、生きることを追求して、実現し、表現することが創作である。生きること自体が自己実現過程である。人生での自己実現が完成した時には本人は死んでしまっている。生きているうちに完成させ、結果を提示する自己実現として創作がある。方法は人様々である。芸術、学問、日常生活、各々の条件、能力によって様々な創作活動がある。共通しているのは社会に生きている同じ人間であるということ。抽象的人間ではなく、現実的生活過程を担う主体としての普遍性が地域的制約、歴史的制約を超える。[4077]
ひとつひとつの秩序を、各々の方法で確定し組み上げ、統一秩序として再構成する。この「確定」ということは、結果は明瞭であるが過程はそれぞれの生きる中にあってつかまれる。日常的な感覚によって、対象を創造しえるまでに明確化される。[4078]

【鑑賞】

芸術は鑑賞されるものとして成立する。創作の段階で創作者自身によって鑑賞、評価されて物質化する。作品は認識を媒介するのであり、鑑賞する者の理解、解釈を前提とする。受け手の文化的素養が問題になる。[4079]
文化的素養がなくては芸術は意味を成さない。作品の表現する秩序、あるいは作品としての秩序、あるいはその作品とその置かれた環境に現れる秩序を抽象して共感できるのは、秩序を見いだす訓練による。[4080]
文化的素養は批評によって大きな影響を受ける。時には殆ど逆の評価も受ける。解説されることによって、新たな価値を見いだすこともできる。作品は取引され、金が絡むと批評が重要な要素になる。[4081]

未知の分野の作品を理解するには、先ず既知の分野の表現手段に翻訳することで全体と部分の対応関係を把握することができる。通常はことばで表現され、解説される。対象となる作品のその表現手法に通じ、表現手法の階調を捉えたうえで全体を理解する。[4082]
第一段の理解力は既知の分野での洞察力を深めることで鍛えられる。[4083]
第二段の理解力は基本的な感覚を鍛えることである。感覚は経験、訓練によって弁別能が高まる。これがあるから芸術は一般性を持つ。[4084]
芸術は第二の力によって表現される。人間の生きることの喜び、不安、憎しみ、安らぎ等の情感を各々の感覚と表現手法で再現する。始めは表現手法の写実性によって、やがて手法は普遍化される。始めはひとくくりにされる簡単な秩序表現から、個別的秩序を破るより普遍的秩序を感得する。そして、そこには秩序があり、論理によってとらえることも可能である。[4085]


第6項 教育

教育論ではない。文化としての教育であり、社会的形式についてである。[4086]

教育は知識・技術を得ることではなく、知識・技術を使えるようにすることである。教育の評価が知識、技術の量に偏り、使うことを無視するのは手軽な評価方法に依存するからである。[4087]

【教育の位置】

教育は文化の再生産のための社会制度である。教育は学校教育、知育教育に限られない。[4088]
個人の人間としての成長過程が教育の場である。生物個体の生長としては人間は形成されない。ヒトは感じ方、伝え方、考え方を訓練され、教育されることで人間になる。結果だけで教育されるのではなく、方法から教育され、過程として訓練される。自らのあり方が訓練される。最後に科学的認識方法、技術的知識、適用技術、応用技術が教育・訓練される。[4089]
いつでも、誰でもが自らを再生産することで生きている。肉体的に、精神的に自らを新たに実現し続けることが生活することである。新たな問題に対応することは学び続けることである。学ぶ喜びは新たな自分を作り出し、実現することでもある。[4090]

【教育の主体】

教育の主体は学習者である。教育者が教育の主体ではない。学ぶことは個人的なことである。他人が代わって学ぶことはできない。本人が納得しなくては学習は身につかない。[4091]
教育は教育の主体である学習者を援助することである。学齢に応じて学習者への援助の形が異なるの。学習者が幼くとも教育者が学習者を仕切ったのでは学習にならない。まして、自立した学習者に対しては、教育者の対等な立場によって実践的学習ができる。師弟の関係は支配被支配の上下関係ではない。[4092]

【学習の援助】

教育としてできることは学ぶ素材を必要十分に、順番に用意することである。理解は量ではなく質が大切である。量であるなら何から始めても同じであるが、理解するには全体と部分の関係が分かるように順番に進む。経験できる具体的なことを豊かに学ぶことが基礎になる。次第により普遍的な秩序、したがってより抽象的秩序を理解する。理解は対象の部分を明らかにし、全体での関係をとらえることである。より詳細な部分、より大きな全体へ理解は進むのであり、理解は段階的に進む。同じ課題であっても学習者の発達段階で理解の程度が異なる。学習者それぞれに必要な素材を、論理的、歴史的、現実的に提供することが大切である。[4093]
繰り返し経験すること、訓練することによって学ぶことができる。内容と形式、目標と方法が統一されていることによって繰り返し再現することができる。学ぶことを学ぶことによって繰り返しの数を減らすことができる。過程と結果が統一されていることによって、学ぶことを学ぶことができる。[4094]
学ぶ技術、学んだことを適用する技術は訓練による。効率的で安全な訓練の場を整えることが教育の役割である。[4095]

教育者が学習者を理解することが前提とされる。学習者を理解しようとしない者に教育者としての資格はない。すべての教育者がベテランのことはなく、また余裕を持って学習者を理解できる保証はない。教育者は組織的に補い合うことで学習者を理解することができる。[4096]
教育制度は学習主体への一般的な援助体系である。目標体系、教育体系、教育内容、教育技術、教育設備、生活保障、そしてなにより教育を受ける主体を形成する社会環境が教育に大切である。[4097]

【社会教育】

教育制度そのものも社会的に再生産される。物的手段、設備が更新される。教師等の人的資源が世代交替する。内容の改訂と現実との対応のために教育課程も再編される。[4098]
技術、知識、科学が継承され、発展していくためには、教育も社会的に歴史的に組織される。資格を得るためだけの教育では技術、知識、科学の社会的運動そのものが衰退する。[4099]
教育は学校教育に限られない。生涯教育が労働能力の再生に矮小化されては教育が個人的なものになってしまう。技術的に陳腐化した労働者の再教育が生涯教育のすべてではない。社会的学習力、科学力を高めるために生涯教育はある。[4100]


第7項 イデオロギー

イデオロギーは人々の社会的行動を方向づける世界認識である。イデオロギーの語意は意識の有り様であり、普通には社会的・歴史的に偏った意識の有り様を意味する。しかし、意識の有り様は一様ではなく、当然に社会的、歴史的制約の下にあり、正しい基準など示せない。社会的意識の有り様としてイデオロギーを問題にする。[4101]
世界観は客観的、普遍的な世界の認識を追求するが、イデオロギーは実践的世界認識である。世界観とイデオロギーは主観的には同じ世界認識であり、客観的には実証方法が違う。世界観は論理的検証を目指すが、イデオロギーは実践で検証する。[4102]
個人にあっても論理が説明、確認の道具でしかなく、実践では直観によって選択しているように、社会も論理に関わりない規定力によって決定している。表現された、固定された論理では社会は動かない。論理に関わりなく社会は動く。[4103]

【普遍的イデオロギー】

イデオロギーは意識の有り様で人間の有り様を律し、生活を律する。意識そのものは他との相互作用関係を反映し、他によって規定されている。その意味で意識は下部構造によって規定されている。他によって規定はされているが、しかし意識は自らを反省することで自らを対象として他と区別する。意識は自らを他から区別し、他との関係に自らを実現しようとする。自己実現する「主」として意識は観念=主観である。観念でありながら物質、生物、精神としての人間、その自分を規定しようとする。意識は自意識として、自らを自分の本質として思い込みやすい。自らの出自を覚えていないのであるからやむをえないが、自らの観念性を無視して様々な思い込みによる観念的誤りを犯す。イデオロギーの偏りが生じるのはこの意識の観念性による。意識、イデオロギーの偏りや誤りを正せるのは科学であり、科学によって意識は本来の役割を果たせる。[4104]
個人のイデオロギーも世界観と共にあり、日常的に人々を方向づけている。世界観が対象世界を客観的、論理体系として説明するのに対し、イデオロギーは対象世界に主体としての自分を位置づける。位置づけるからには向きがあり、方向性を規定する。日常的な他との相互作用過程にあるのだから偶然を含む過程であり、個別的な位置での方向性である。イデオロギーは日常生活での個別対象への態度を規定する。日常生活での態度であり、人格としての普遍性にはないが、他に対して自分を貫く普遍性はある。物事へのこだわりの程度、基準への厳しさへの程度、評価への執着の程度として人それぞれにあり、その物事、基準、評価の対象を何に絞り込むかで多様なイデオロギーがある。愛、誠実、節操、名誉、権力、金銭等々の取捨、組み合わせは多様である。[4105]
個人のイデオロギーも単独では成り立たない。成長過程で親兄弟、さらに多くの人々からの影響を受けている。生長してからも社会関係の中で相互作用している。個人の社会的相互作用として社会意識として、社会的イデオロギーが形成されている。社会的イデオロギーが個々の人々のイデオロギーに作用する。社会問題としてのイデオロギーは個人的ではなく、社会的イデオロギーである。社会的利害を反映してイデオロギー対立が生じる。[4106]

【イデオロギー一般】

個人的にも社会的にもイデオロギーは判断指針の集積、蓄積であり、到達点であって誤りも含んでいる。イデオロギーを反省すれば論理的、体系的に世界観として整理することができる。しかし、日常の生活は予定通りには進まず、偶然に満ちていて論理的、体系的に過ごすことはできない。その中での生き方、生活を規定する意識がイデオロギーである。[4107]
イデオロギーは十分に体系化されていない価値観である。価値を比較し、判断するのであるから対象の相互関係を把握し、相互比較できる程には体系的であるが、論理的に検証できる程体系的ではない。経験し、反省することによって対象の大切さを判断し、何を大切にするかを表現できる信条としてある。生活上で物事を取捨選択をするための世界認識である。[4108]
個々の社会、歴史的社会によって世界の理解の仕方が異なり、イデオロギーが異なる。個人的にも社会的にも経験と反省によって獲得する認識であるから、個々の社会的、歴史的に規定されており、制約されている。物の生産と消費、取引する人間関係に規定されており、科学を含む知識の発展段階によって制約されている。イデオロギーの社会的、歴史的規定性、制約を超えることでより普遍化が可能である。自らの世界観の検証によって社会的、歴史的規定性、制約を超えることが可能になる。[4109]

イデオロギーの媒体は情報である。イデオロギーは情報によって操作される。イデオロギーはそれぞれの意思の社会的傾向として現れる。個々人にとっては自分だけの考え方であっても、自分自身が社会的に形成されている。[4110]
どの様に通信手段が発達していても、それぞれの生活に関わる情報を手にすることすらできていない。今日では食材のそれぞれがどの様な自然環境、社会環境で作られているかすら知ることができない。それぞれの生活が自然環境にどれだけの負荷をかけているかを知ることはできない。科学的知識によって推測できるだけである。どう生活し、行動するのがより良いかを推測できるだけである。不確かな情報が多い程情報操作は容易である。[4111]
今日でも情報は相互検証されてはいない。政治権力や商業主義によって歪められたり、ねつ造されたりする以前に検証されていない情報がある。科学的装いをとる偽科学が受け入れられている。人々の行動を左右するイデオロギーを方向づけるために情報操作が行われる。[4112]

【個別イデオロギー】

狭義のイデオロギーは個人の社会への参加の仕方、態度として実現する。個人の立場により、その人のイデオロギーはアイデンティティ、自己同一性、自分らしさとして表現される。[4113]
個人のイデオロギーは人格もである。人それぞれ自分のあるべき姿を描く。世界の解釈だけでなく、自らの理念を世界として、世界に実現する。自らの存在が自らを再生産しているのであり、世界の存在として世界を再生産する。[4114]
それぞれの個人の社会的立場として、そのイデオロギーは社会的位置を占める。社会的立場の選択と、その立場での役割の果たし方としてイデオロギーは実現される。[4115]
イデオロギーの真理も現実が意識に正しく反映されることである。現実は一つであり、真理も一つである。相対的真理から絶対的真理へ、相対的真理の積み重ね、位置づけによって個々の対象が明らかになり、全体が把握される。個人にとっての真理は、個人の社会への関わりによって検証される。それぞれの社会的環境において検証される。[4116]
個人は育つ過程で身についてきたイデオロギーを批判的に継承することによって、自覚的イデオロギーを獲得し、解放される。理念のない生き方は隷属である。[4117]

【道徳】

個人的イデオロギーを反省することで徳が形成される。目指す目標としての徳と、実践する主体としての徳が形成される。身体と意識が一体となって日常生活での態度を徳として実現する。徳を反省しつつ、実現していく過程を「道徳」という。歴史的には道教の教えから引き継がれたのであろうが、教条としてではなく、日常生活での人格の有り様として道徳はある。[4118]
道徳は自己実現するものであって、人に求められるものでも、人に求めるものでもない。反省することができなくては道徳は問題にもならない。道徳は自らを対象にすることであり、人を対象にすることではない。[4119]
であるから、学校教育科目としての「道徳」はいかがわしいし、道徳教育を強要する者達の道徳性は道徳を否定している。人に反省を促すには、相手の人格を認め、相手を許容することでの信頼関係があって可能になる。一方的に指示する関係で反省を求めることはできない。[4120]

すべてを対象にすることはできないし、すべての能力を常に発揮することもできない。完全性を求めても、完全性を定義することもできないし、実現することはありえない。何をどう実現するか、実現できる可能性の追求、できることの何を大切にするか。選択し、指向する価値観が知識としてでなく、自らの態度、姿勢を律する基礎として徳がある。[4121]
対象の関係は二分法で際立たせることができるが、自己実現では他と区別する統一した自分を創り出すことになる。個々の関係で白黒をつけるのではなく、関係全体で一つの個、主体を実現する。「働きたい、遊びたい」、「外で働きたい、家事を済ませたい」、「強くありたい、優しくありたい」等自己実現では二分しては自己が成り立たない。[4122]
他との変化する相互関係過程で己の普遍的人格を不変に貫き実現する。様々な人々、変化する人々の心象に対して応じつつも自らを恒存させる術は自尊心、他尊心、節操、礼節である。自らに価値を認めなくては自分を守れない。相手に働きかけるには相手を認めることで可能になる。変化する環境、条件に態度、行動がぶれることはあっても肝心なことは一貫させる。当然に生じる生理的、感情的好悪を留め、社会関係ではしきたりに従う。[4123]
新しいことに失敗はあたりまえである。新しいこと程失敗の可能性は高い。失敗を速く認め、取り返す。生まれてこの方ずっと経てきたのは失敗克服である。自己実現は新たな自己を実現し続けることであり、新たな失敗に挑むことである。[4124]
人はやがて衰える。できなくなることが増える。自己を生理的に崩壊させる神経疾病の可能性もある。できることでどの様に自己を実現し続けるか。生物的自己、社会的自己、精神的自己を人格として実現するのは生活実践においてである。[4125]


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