Japanese only
第三部 具体的な人間の生き方
索引
前章
次編
第一部では、主観として創りだされる観念世界を扱った。
[0001]
第二部では、主観の元である実在世界を扱った。
[0002]
第三部では、日々生活する日常世界を扱う。
[0003]
第一部の主観的観念世界を第二部の客観的実在世界を重ね合わせ、第三部は主客を統一する生活実践、自己を実現する日常世界である。第三部での「世界」は人々の生活する世界であり、人間社会である。
[0004]
第三部は「実践論」と「まとめ」である。実践論は情勢論、組織論、課題論からなる。実践論であっても世界観であり、実践の仕方ではない。私の生活実践など紹介するまでもなく、褒められたものでもない。また実在世界を解説するのでも、実在世界の物事を紹介するのでもない。それぞれの課題に真摯に取り組んでいる人々の世界理解に比べたら空疎に過ぎるが、形だけは整えたい。
[0005]
それぞれが人間主体として関わる世界についてである。実践主体に観えている世界についてである。
[0006]
物理学が4つの相互作用を統一して超不可思議な物質世界を提示しても、生物として、人間として生活している世界が変わりはしない。感覚、思考の制限をわきまえることで、相変わらず日常的世界理解に依拠して生活する。驕りを戒め日常世界の有り様と人の生き様を受け入れる。
[0007]
人間の物質としての存在、生物としての存在を支えているのは社会的物質代謝であり、知的生活を支えているのも社会生活である。日常生活も理想の生活も社会生活としてある。実在世界での生き方を追求する場は現実の社会である。人間社会の日常世界を対象にして世界観は完結する。
[0008]
日常の問題は個別的であり、個人的である。普遍性のない問題を公に問う必要はないし、他者にはほとんど価値がない。社会的実績のない者が何を語ろうとも遠吠えでしかない。日常的事実の体系化を試みても知的興奮、論理的興奮もなく、世界観として表現するのも苦痛ですらある。しかし生活主体として、実践する者としてあえて物事の評価基準を明らかにし、評価を共有できるなら主体性実現の為に価値はある。人誰しもの生活することの基本だけは踏まえたい。
[0009]
社会について語る必要のあるのは未来である。過去は未来のために参照される。語るべき未来は何も確定していない。確定していないものを確定すべきもとのして語る強引さは、どのように慎重に、また謙虚であろうとしてもふんだんに誤ったものになるだろう。世界観はそうした誤りの可能性をも飲み込んで世界を提示する。
[0010]
社会についての過去の仮説を現在検証しても実践的意味はない。現在検証できることは過去の仮説の正しさの可能性だけである。例え正しい仮説であっても他の仮説も正しかった可能性がある。正しい仮説でも環境条件によって実現しなかった可能性がある。社会のできごとの検証は難しい。過去と同じ誤りをしない役には立っても、新しい誤りを避けることはできない。社会について語る意味は未来についてであり、その仮説は未来で実証される可能性がある。何も語らなくては実証どころか実践ができない。
[0011]
日常生活では大抵のことに慣れてしまう。慣れて問題意識の水準が下がってしまう。普遍的で大切なことを見失ってしまう。日常生活で係わる物事全体の連関を確かめ、反省の要点を整理する。日常世界理解を共有することで自己批判し、相互批判し、励まし合うことができる。真っ当な日常生活の問題意識水準を共有することで、世の中の真っ当性が実現し維持される。自己批判、相互批判によって問題意識水準は維持される。
[0012]
政治屋は見え透いていてもたいてい本音を隠している。失言して本音を漏らした時、慣らされ、問題意識水準が下がっているとその不当さを見逃してしまう。不当さに気がつかなくては怒りに結びつかない。
[0013]
日常世界、具体的現実世界を理解するにはいくつかの困難がある。
[0014]
「今」この一時に人はひとつの視点しか取りえない。一つの視点からでは全体、構造を知ることはできない。
[0015]
今現在、得られる情報量が限られている。人より多くの情報を集めることはできても、情報は部分的でしかない。
[0016]
得られている個々の情報すべての真偽は検証できない。情報は組織や通信手段等によって媒介さていて、直接検証することはできない。情報大国アメリカ合衆国ですらベトナム戦争で間違い、再びイラク戦争で間違えた。
[0017]
今現在は暫定的で進行中の過程である。今現れている結果は未来の原因である。世界を結果として静的にとらえては未来は拓けない。
[0018]
この物理的、生理的、社会的、歴史的、そして個人的制約の上でより完全を目指し、結果としての完全を求めずに生きる。結果の完全性を目指し証明しようとすると「無謬主義」に陥り、結論が先送りされたり、新たな局面での課題を理解できなくなってしまう。同時に必要な事柄に限定し、余計なことに気を取られないよう健全性を求める。完全性と健全性を備えた真っ当な世界観に仕上げたい。
[0019]
新しい事象の発見・評価等の創造的精神活動と、食事の席につく生命維持のための生理的活動とを、自分が生きることの同じ重要度で、生活上の対等な価値として統一する。
[0020]
価値創造の活動も、生活を維持する活動も、どちらも実践主体の日常生活の中で実現される。目標と手段、形式と内容は成果物での統一だけでなく、実現過程でも統一される。成果物の質としてだけでなく、実践主体の質である人格を陶冶することでもある。
[0021]
生き方を選択する方法は科学の方法とまったく異なった次元の問題である。生き方では自然科学のように再現性を期待できない。社会科学が利用できる年間データはどんなに最近のものでも去年のものでしかない。科学としての社会科学でも現実に進行している事象に対しては評論するしかない。しかも生活上の判断には充分に検討するデータも時間も期待できない。
[0022]
「客観主義」をよしとする立場は現実逃避である。現実変革、主体的立場の否定は現状肯定になる。「分かるまで、何もすべきでない」と言う立場は、結局永遠に何もしないことになる。どのようなことでも始めから分かっていることなどない。どのようなことでも全体の関連の中にあり、すべてを理解することはいつまでもできない。「何も分からなくともやりたいようにやる」のでは無論ない。現実変革の立場とは現実を知りつつ実践し、実践しつつ知ることである。現実に向いどれほど普遍的問題意識をもつかによって社会に対する立場が違い、敵対にすら至る。
[0023]
どの様な道具、機械、知識を使う場合でもその全部を理解しなくとも、一定の基本的理解だけで使っている。必要なことは目標の理解である。実際に使用することで手段を、過程をよりよく理解しできるようになる。完璧は求めるが実現するものではない、誤りを正すことで完璧を期する。
[0024]
索引
次編