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第二部 第二編 生命の発展

第6章 人間の誕生


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第6章 人間の誕生

人間の誕生は一人の人格の誕生ではなく、人類の誕生である。人類の誕生は生物の進化過程と人間社会・文化の成立過程とにある。人間の存在は人類学的枠にとどまらず生物史、地球史、そして基本的には宇宙史に位置づけられる。[0001]
今日の人間存在は人類の典型でも、理想型でもなく、到達点での有り様である。しかも、その有り様は多様で「動物以下」と評される人さえいる。[0002]
我々自身のこととなると、自己肯定的結論を先取りしがちである。安易に還元主義や神秘主義に陥ってしまう。[0003]
自分たちが人類の典型ではない。「自分たち」という理解が決して普遍的ではない。社会階層によっても、宗教によっても、国によっても、時代によっても異なる。奴隷や被差別民が人間として生きることはなかった。人権等という思想はたかだか数百年前からであるし、今日でもどの国で国民議会が機能しているか。[0004]
人類の誕生を科学でとらえようとしても限界、制約がある。初期の社会、文化に関わる資料は物としては残されていない。考古学、人類学、生物学等いづれであっても決定的なことは言えない。新たな資料、新たな測定方法によって、それまでの結論が否定されることもある。それでも人類誕生までの主要な段階を歴史的にたどることはできる。生物進化の延長として人類が誕生し、社会、文化が成立した、このことが否定される可能性はまずない。[0005]


第1節 ヒトへの進化

生物進化の延長上としてだけで人間が現れたのではない。人類以前の進化の要因とは異なる「社会性」と「労働」によって人類は進化した。人類は生物の遺伝法則を超え、獲得した経験・知識を次世代に伝えることができる。人類の誕生に関しては生物進化としての連続性と、それを超える変革者としての異質性の両面がある。[1001]
人の身体は生物進化のたまものとして我々に与えられている。この身体を人間として生かすのは生物としての生活ではなく、人間としての生活である。人間としての生活で、人間としての訓練を経て、人間性を実現できる。「個体発生は系統発生を繰り返す」との生長理論は否定されているが、人間の成長は人類の成長を繰り返しているように思える。何も木にぶら下がる訓練は必要ない。しかし、群れで揉まれる経験、物を作り、道具を使う経験を積まないと、健全な人間性を獲得することは困難になるようだ。物心ついてからの道徳教育にどれほどの効果を期待しているのか知らないが。[1002]

【ヒトの特徴】

生物としてのヒトは解剖学的にも特別ではない。ヒトを構成するタンパク質、脂質、炭水化物、核酸は他の動物と同じである。同じであるから動植物を食べてヒトは生きる。感覚能力、運動能力も特別ではなく他の生物よりも優位に立ってはいない。[1003]
他の生物と異なるヒトの特徴はいくつも数えられている。身体的特徴として直立歩行による手の発達、大脳皮質の増大、声帯の発達、無毛と見えてしまう程の細く短い体毛等。霊長類との共通した特徴としては立体視、前肢親指が他の指に対向している等。生活上の特徴として、火や道具、言語を使う。大人も遊ぶ。これら諸特徴は互いに関連し合っている。進化の過程で相互に連関し、原因と結果の相互関係としてある。他の動物との決定的な違いはその肉体ではなく、作り出し、利用する物事であり、文化であり、知性である。[1004]

ヒトの祖先は樹上生活により手足を分化し、立体視を身につけた。強い握力に適した対向性の親指、距離を測る前視性の両眼は樹にぶら下がり、枝から枝へ飛び移るのに有利な能力である。果物を食べる哺乳類はすでに色覚を獲得している。視覚の発達の代わりに聴覚、臭覚は相対的に退化した。[1005]
ヒトの祖先は樹上生活から平地へ生活の場を移し、直立二足歩行をするようになった。気候変動によるジャングルのサバンナ化を原因とする説、水中歩行によるという説もある。直立二足歩行は脊椎の上に頭蓋骨を乗せ、頭部の重量増加を支えることができる。また移動に腕を必要としなくなり、物を持て運ぶことができる。サバンナでの強烈な日射を受ける面積を小さくできる。直立、手の使用、視覚、大脳の発達は相互に作用し合う。脳の発達が視覚、手の作業を高度化した。これにより認識能力が発展した。[1006]
肉食は効率的な栄養補給であり、食物獲得の活動負担を軽減し生活に余裕をもたらす。行動のすべてを捕食に費やさずにすみ、余裕は捕食のための準備を可能にする。加工した柔らかい食事はアゴと頭蓋を結ぶ強力な咀しゃく筋を必要とせず、頭蓋・脳の発達を可能にしたともいう。[1007]

【ヒトへの歴史】

宇宙開闢が137億年前、太陽系と地球の誕生が46億年前、生命の誕生が35〜40億年前、ほ乳類の誕生が2億5000万年前、霊長類の誕生が5,500万年前、チンパンジーとヒトの祖先が分かれたのが800〜500万年前と言われている。ヒトへの進化段階は猿人、旧人、原人、新人と分けられたが、一つの系統の発達史ではない。[1008]
現代人と同じ霊長目ヒト科に分類される最古、450万年前のラミダス猿人の化石が発見されている。[1009]
400万年から130万年前頃のアフリカに直立二足歩行するアウストラロピテクス属がいた。脳の発達度が違う種が区別される。[1010]
次いでヒト属の祖先であるホモ・ハビリス、ホモ・ルドルフェンシスが現れた。200万年から150万年前の東アフリカである。ホモ・ハビリスは道具や火を使用した。[1011]
180万年前に現れたホモ・エルガステルは、我々と同じスライド歩行をしたであろう骨格を、また同じ構造の三半規管を獲得していた。また、アフリカから出たのもエルガステルが最初といわれている。世界に広がったホモ属は多様化し、インドネシアでは1万2000万年前までホモ・フロレシエンスが生きていたという。[1012]
170万年から50万年前にホモ・エレクトス、直立原人が現れる。各種の石器を用い、木や肉を切ることができた。生物学の分類で人類の属するヒト属の始まりである。[1013]
12万年から3万年前にネアンデルタール人がヨーロッパ全土、西アジアに現れた。ヒト属の種ホモ・サピエンスの亜種に分類される。葬送の習慣があった。発音は分節化せず言語には発達しなかったが、音声によるコミュニケーションはできた。[1014]
われわれホモ・サピエンスは5万年前にアフリカを出て世界に拡散した。[1015]
ホモ・サピエンスの現代人と同じ亜種に分類されるクロ・マニオン人は4万年前に、西南アジアからヨーロッパに進出した。フランスのラスコー洞窟などには絵を残している。[1016]

【群れから社会へ】

ヒトを特徴づける機能や、可能性だけでは生物の一種でしかない。生物進化として獲得したこれら機能、可能性を人間のものとし、人間としての生物的生き方を身につる。人類への進化を実現したのは労働であり、労働を人間的にするのが社会である。労働と社会性は相互に緊密に関係している。生物進化の必然的到達点としてヒトは環境、自然を変革し、それらを自らの生活圏として再生産してきた。同時に、自らの内に対象を反映し世界を再構成する知的生物に至った。人類への進化は、地球の歴史を通じて条件づけられている。地球上では人類への進化であったが、他の星では同じ型の生物である必然性はない。[1017]

家族が成立する以前から人間社会は存在した。人社会以前に群れ社会があり、群れ社会で淘汰されヒトが進化した。配偶関係の秩序化前に、群れでの生存能力によってヒトは淘汰された。群れ存続への貢献によって淘汰された。群れの存続への貢献は多様でありえる。ヒトの性淘汰も極楽鳥や鹿とは質的に違う。人の性淘汰は流行、変化を許す幅がある。[1018]
早く走ったり、牙や打撃力などの肉体的な闘争手段を持たないヒトが身を守り、狩猟するには、道具を使用することとともに、集団行動による。集団行動は食料獲得を容易にするとともに、相互依存関係を強め、社会性を強める。[1019]
人は狩猟だけでなく採集も分担し相互依存する。物質代謝を生物個体の単位から集団単位にする。群れでの物質代謝こそ社会の基礎である。社会的物質代謝を実現することで群れは社会になり、物を社会的物質として価値評価し取り扱うようになる。[1020]

物のやり取り、会話は個体間の個別的関係ではなく、集団全体の動きに現れる。個人間の取引ではなく、集団全体での物質代謝がまずある。社会が発達するほど、個人の物事への働きかけは、人との関係で物事を扱うようになる。個人だけで処理するのは個体の新陳代謝以外にはほとんどなくなる。個人の活動のほとんどが社会的活動になる。そして言語を媒介にした関係は、単語のやりとりではなく、言語系の共有としてある。言語は相互説明関係全体の系として社会の中で意味を表す。[1021]
言語を媒介にすることによって世界は二重化する。直接的対象世界、いわゆる実在世界と言語によって表現される世界とに二重化する。言語によって表現される世界は直接的対象を操作するだけではなく、関係をも操作する虚構世界である。[1022]

【知性の獲得】

物を操作し、物を作り出すには対象の理解が不可欠であり、対象の理解は物を操作し、物を作り出すことで獲得される。人は誕生してから知識を学べるようになるまで数年を要する。知識を学べるようになる以前に、物を操作ることで世界の基本的秩序を理解する。感覚、運動能力自体が訓練を要する。人個体が知的能力を訓練によって獲得するように、人類の知的能力も物を操作し、物を作り出す労働によって獲得された。さらに人類は社会的に知識を共有、伝承することと、社会関係秩序に参加していることとで知性を発達させた。[1023]
物の見え方、臭いの仕方等の物事と感覚の関係、個体、液体、気体の感触や性質等は人に教わるものではない。同時に空間、時間といった抽象的関係形式も日常経験の中で学ぶ。数の数え方や、物事の名前は人に教わらなくてはならないが、日常的物事の有り様は経験から学ぶ、というより身につける。物事と接する経験をとおして日常的世界を学ぶのであって、決して人に教わるのではない。[1024]
生殖、保育を超えた社会生活は知的能力の発達を必要とし、また知的能力の発達は社会生活を必要とする。生殖、保育を超えた社会生活は社会の構成員数が増えることでもあり、生殖、保育以外の個体間の相互関係が作られ、必要とする。社会的物質代謝を担う個体間の秩序であり、社会秩序である。社会的秩序があるから群れとして行動できる。[1025]
社会秩序関係は社会的物質代謝の実現形態としてある。生物個体が物質を取り入れ、排出する新陳代謝、物質代謝過程として生存するように、群れも物質を社会的に代謝して存続する。社会的物質代謝は物質、エネルギーの秩序ある運動である。社会的物質代謝を担う個体は物質代謝の秩序を担って関係づけられる。社会的物質代謝自体が物質の運動秩序によっているが、人個体間の関係秩序となって現れる。下部構造が上部構造を規定する。[1026]
社会的物質代謝に適応することは人個体にとって死活の問題である。人個体間の関係を理解し、人個体間の関係を主体的に調整することは、生物個体の認識能力を超えた知的能力による。相対的な力関係の変化を理解することは、直接的因果関係の理解を超えた知的能力を必要とする。実践的に多体問題を解く能力である。[1027]

社会的秩序構成と生物個体行動は社会的物質代謝を実現するのもとして基本的には統一されているのもではあるが、対立もありえる。社会の構成員である人個体は社会秩序を実現維持するものでありながら、人個体が私的に社会関係を利用することがありえる。社会的力の私的な利用である。人個体間の関係に軋轢が生じえる。人個体間の性格の違いが生じえる。[1028]
人個体間の関係秩序は時に揺らぐが、餌や異性を巡って事あるごとに争っていたのでは損失の方が大きい。裏切りより、助け合いの方が受ける利益を大きくできることはゲーム理論でも明らかである。争わずに調整する行動が様式化された社会秩序として実現する。知性以前に動物は力関係を見わけている。かえって見境がなくなるのは人類である。[1029]


第2節 労働

ここでの「労働」は取引される「賃金労働」、職業としての労働ではない。労働も歴史的に様々な形態を経て発達してきたが、ここでの労働は対象への人の働きかけであり、「一般的人間労働」である。生活として採集し、狩猟し、加工し、運び、保管する労働である。形態は多様であるが、社会的物質代謝を担う働きである。いつの時代にあっても絶対に必要な、誰かが担う労働である。[2001]


第1項 労働の創造性

【物質代謝の基礎】
労働は人が生物として生きる物質代謝の基礎である。生物として、しかも動物として生きている限り、人間も食物を摂り、体温を調節し、傷病から身を守る。人間である限り、生物としての生命維持の基本的過程を否定することはできない。[2002]
生きていく上で、他の動物と同じく人も太陽光、土地、空気、水、食糧を必要としている。このうち太陽光と空気を除けば、人による働きかけが必要である。水や自生の植物であっても採集し、運搬し、蓄積する対象である。動物は狩猟し、飼育の対象である。衣料は加工し、住居も安全性、快適性のために手を入れる。生活が多様化するほど、自然のまま利用できる物の割合は少なくなる。対象に手を入れることで生活は向上し、偶然の作用を安定的に利用することができるようになる。人間としての生活は何らかの生産的労働を必要としている。[2003]
労働は環境との相互関係を代替性のある、選択の余地のあるものにする。動物にとっては、環境との関係は受け入れるか、別の環境を求めるしかない。労働する人間は環境に働きかけることによって、部分的に環境を変えることができる。寒さに対しては火を起こし、より暖かい質、量、形の衣服を着、建築物によって外気を防ぐ等。労働は環境との相互関係の選択手段、選択範囲の可能性を更に拡大する。[2004]
さらに、生産、消費が拡大すると増大するエントロピーの意図的排出が必要になる。散らかし、汚した生活環境では生物としての生存ができなくなる。消費のための生産と同時に、生活環境を維持するための労働が不可欠である。労働しなくては存在し続けることすらできない。経済学者がどんな解釈をするにしろ、人間の生活は社会的物質代謝として成り立っている。社会的物質代謝秩序の一部でも崩れるならば、そこで人々は生活できなくなる。[2005]

【道具の使用】

道具は身体的能力を拡張する。棒は腕を延長し、武器にもなる。石片、骨片は打つ、切る能力を拡張する。特に火の使用は暖を採り、猛獣から身を守るだけでなく、化学反応を利用する基本的技術である。やがて時代が下れば、見る、聞くことの分解能も、到達範囲も、化学分析能力としての味覚能力も道具によって飛躍的に拡張する。人は空を飛び、海に潜り、宇宙にまで飛び出すことができるようになった。道具の使用は環境へ働きかける能力の飛躍的拡大である。自然に対する人間の関係の質的発展である。道具の使用は環境を利用するための強力な武器である。[2006]

身体能力の拡張は能力差の拡大でもある。体力差には限界があるが、技能の差には計り知れないものがある。名人と呼ばれる人の成果は圧倒的である。道具は単に便利なだけではなく、社会的物質代謝を拡張し、人々の関係をも変える。身体能力は多様な能力であり、能力差の拡大によって専門化と相互分担が進む。[2007]
道具の使用によって生活が安定すると寿命も延びる。35歳程度であった寿命が延びれば、中には70歳以上まで生き延びる人もでてくる。人の倍以上生きた人の経験と知恵は、短命な世代交代による経験と知恵を遙かにしのぐ。さらに人の経験と知恵は遺伝によらずに引き継がれ、蓄積される。[2008]

道具は道具を使う者を変える。道具の使用は神経系の発達を促す。知識を獲得することの意味だけではなく、眼を中心とした感覚器官、手、手指を中心とした運動器官の機能の発達をとおして、特に中枢神経系を発達させる。[2009]
自然の性質、物の性質を道具を媒介にして比較することができる。理論としてでなくとも、具体的に自然の関係を道具の使用によって理解する。力、運動を物の関係で理解する。平衡、回転、摩擦、合力など、道具は自然の関係を具体的な物の関係として表現する。道具は知的能力を訓練する教材でもある。[2010]
道具の使用による人個体の変化は、生物進化の延長線上にありながら、質的に全く異なる進化である。それまでの進化は身体機能を環境に適応して特殊化した。したがってその適応には身体的限界がある。しかし、道具の使用は身体機能を一般化することで、無限の多様性を獲得する。[2011]

道具の使用は主体発展の物質的基礎である。道具の使用は対象と主体との直接的相互作用過程を道具によって媒介する。直接的相互作用過程では働きかけの結果は一つである。対象の反応に応じて働きかけを調整する。直接的相互作用過程は反復繰り返しである。直接的相互作用過程に対し、媒介される相互作用過程では、媒介物である道具の反応と対象の反応とが二重化される。相互作用過程に媒介関係を組み込むことで主体の働きかける対象は二重化される。対象の反応に応じて調整する前に、道具の反応に応じて働きを調整することになる。対象の反応に応じる前に道具の反応に応じて調整する。対象との反復繰り返しの相互作用過程が完結する以前に、道具への働きかけ結果に応じて働きかけを調整する。道具との相互作用過程の結果が再帰してから、対象への働きかけを調整する。物理的時間の経過は同時であっても、制御過程は二重化されていて、道具の制御過程が再帰されていることで対象への働きかけを制御している。この二重化される制御を意識しなくなることが、道具を使いこなすことになる。[2012]
道具自体が二重化されている。道具は働きかける手段であると同時に、働きかける対象でもある。道具は使う対象であると共に、手足の延長でもある。操作する物と操作される物との二重の役割を道具は担う。その道具を理解することは操作される対象理解であると共に、逆に操作する主体の理解をもたらす。[2013]
道具を使うことの媒介関係、二重化される対象は、対象を客観的にとらえていることの証である。主体と対象との直接的関係になくても、対象と道具の関係が実現する客観的関係を認識できている。道具自体が一つの対象として主観にとらえられ、対象間の関係に位置づけられている。対象間の関係として客観的関係を主観が理解しているのである。客観的認識を獲得する契機として道具がある。[2014]

【道具作り】

道具を作ることは他の動物でも行う。野生のチンパンジーも適当な木の枝を選択し、余分な小枝、葉を取り除き、アリ塚に差し込んでアリ釣りをして食べるものがいる。道具作りは人間だけの能力ではない。生物進化の必然的な到達点である。人間は進化上の隔絶された特別の地位にあるのではない。[2015]

道具は作られる前に目的が設定されている。目的のために利用するのではなく、目的を実現するために作られる。因果関係を、目的と手段の関係を作り手は理解している。道具作りでは対象との相互作用過程と、道具との相互作用過程が時空間的にも完全に分離している。[2016]
道具作りでは、変化させることのできる自分と対象との関係が意識されている。対象としての環境を、変革の主体の側に取り込む。環境の制御は、環境を与えられた条件に止まらず、働きかける対象として認識する。道具を利用し、作り、利用する繰り返される過程で、対象を試し、道具を試し、全体として環境を試す。道具を目的にあうよう改良し、労働対象を目的にあった物にすることは、対象を理解し、制御するだけでなく、主体の可能性の理解でもある。[2017]

人は道具を作る道具=工具を作る。工具は再生産を前提とし、未来を予測するものとして文化である。道具を作る道具=二次的道具は、道具使用の普遍性の実現である。工具は製作結果だけでなく、製作過程の技術を物質化したものである。個々には製作成果物が有用であるが、製作能力を物質的に実現し蓄積している。工具作りは技術を発達させる物質的保証である。道具の利用は具体的であるが、使いこなすには熟練を要する。熟練は伝承可能な文化に支えられる。工具は伝承なしに利用法を伝えることはできない。熟練し、利用法が伝承されることで工具は改良される。[2018]

【自然変革】

労働は基本的に自然を対象化し、変革する。ただ、労働によっても自然秩序、自然法則を変えることはできない。労働は自然秩序・法則の組合せを変える。自然のままでは不可能なことも、自然法則の組合せを変えることで可能にする。[2019]

基本的に労働は対象を変化させる。対象変革が労働の基本である。位置の変化としての採集、狩猟。質の変化としての調理。過程の変化としての道具作り。対象の有り様を変化させ、秩序を変化させる。[2020]
ビーバーも水の流れに応じたダムを造り出すが、アリやハチの巣と同様本能によっている。本能による行動と労働の違いはその効果の汎用性にある。労働は道具を用い、一つの道具は多様な対象に使われる。一つの剥製石器であっても肉を切ることにも、骨から削ぐことにも使われる。[2021]

労働は自然環境を人間化する。生物が地球環境を生物化したように。人は植物を作物にし、耕地を作り、動物を飼育して家畜を作り出した。人は時空間までも構成しなおし、交通機関、マニュピレータ等を利用して時空間距離を縮めたり、拡大したりできる。今では人自体をも組み替えようとしている。[2022]
人間の社会的労働は、自然環境を社会化する。物質代謝が社会的に組織され、自然物は労働対象として、労働関係に位置づけられる。さらに、人間社会なしに今日の自然環境は存在しない。そして、人間は自然環境を根底から破壊する力を獲得してしまった。[2023]

【自己変革】

労働は対象変革であると共に、自らを変革する。物質代謝過程としてあるのだから当然対象に働きかける。働きかけることは自らを変化させることによる。自ら動き、変化することが「自己変革」という大層なことになるのは、対象と自らの関係、有り様が変化するからである。変化する関係、過程にあって働きかける者として自らを変え続ける者に自己を変革する。意図を意識的に実現することで、対象と自らをより理解する。[2024]
意図し、実現する主体として自らを実現する。対象を変革する主体は自己も変革する。[2025]

単純な労働であっても、対象のみを変化させるだけではない。自らの認識能力、加工能力を訓練する。対象になれ、なじむことは対象を意識しなくなるだけのことではない。対象になれ、なじむことでそれまで気づくことのできなかった対象の違い、変化を発見できるようになる。労働によって、労働そのものが熟練する。[2026]
人を対象とし、人に働きかける労働であれば、全人格的労働過程になる。自己変革できる者でなければ、人を変えることはできない。[2027]

【自己実現】

労働は生活に必要なものを作り出すこと、物質代謝を担うことの他に、人間の自己実現でもある。労働は意図するものを作り上げる。自分の内なるものを、自分の外に、自分の存在以外に、自分の存在とは別に作り、産出し、実在化する。そのように創造するものとしての自分を実現する。自分の生活を実現するために労働し、生活することである労働は自分の実現である。[2028]

ただ存在するだけでは生きてゆけない。生物としての存在は代謝によって実現している。人間は社会的物質代謝を担うことで生活する。代謝は今までの自分ではなくなることである。物質として、生物として、知性として自分を更新することが生きていることである。その自分の代謝を実現するのが労働である。労働過程に、これまでの自分を継承し、次の自分を実現する。労働は職業としてだけあるのではない。[2029]

人それぞれ労働の効率は違っても、それぞれに可能な形で社会的な役割を担う。自ら労働して生活することが、人間として生きることである。それぞれに可能な社会的な役割を担うことが、人間としての生活である。働かないで他人の労働を搾取することがここでの問題なのではない。能力があり、権限があるのに働かない人間性が問題なのである。報酬だけを目的とした労働は人間性をゆがめ、社会を腐敗させる。競争によって作られる基準によるのではなく、それぞれに可能である社会的活動が普遍的基準としてある。ハンディキャップがあっても、社会的に働きかけることができ、それで生活することが存在することなのである。[2030]

労働は、自己実現は生きていることの本来的楽しみである。現実の労働が生活のための手段でしかなく、他人に指図されるだけ、疲れるだけでしかなくとも、本来の労働は生きる喜びである。労働には達成感、充実感として感じられる喜びもある。本来の喜びでなくとも、与えられた目標を、自らの課題と思い込むことによって、自らを、家族を犠牲にしても仕事を遂行する人すらいる。[2031]
細分化され、他人に管理され、目標と自分の生き方が一致していない労働は、疎外された労働である。労働が悪なのではなく、社会的物質代謝過程が歪んでいるのである。[2032]


第2項 労働の社会性

【社会的物質代謝】

人間の物質代謝は社会的に実現される。協力、共同によって社会が維持され、人個体の生存が保証される。社会の基礎となる物質代謝を実現するのは人の働きである。ただし、協力、共同は人個体間の関係であるが、個人が協力、共同するのではない。個人が生まれたのは歴史的に近代以降である。人類誕生以前に、集団としての生活単位、群れとしての物質代謝系があった。[2033]
食べるだけなら獲得したその場ですむ。食べるだけの行為は社会的ではなく、動物一般の行動である。人の場合に採集、狩猟、分配、貯蔵は群れがおこなう。群れで移動し、群れとして散開し、集まり暮らす。群れの社会関係のなかに自然物は持ち込まれ、それぞれの人個体に属し、あるいは群れに属す。人個体に属す場合であっても人個体が占有することは個人的なことではなく、他の所有を排する社会的関係にある。[2034]

人の働きかけによって自然物は社会に取り込まれる。働きかけを必要としない自然物は社会的に価値を持たない。太陽、空気、雨水は絶対不可欠であるが、そのままでは社会的価値を持たない。社会的価値は社会的物質代謝での有用性である。自然物としての有用性とは別の社会関係に取り込まれ、位置づけられることによる社会的な有用性である。自然物としての有用性も社会に取り込まれなくては人間の役に立たない。取り込むのは社会の物理的時空間ではなく、社会的物質代謝過程への取込みである。[2035]
社会的物質であっても自然物としての性質に何ら変わりはない。動物にとっては社会的物質も、自然物も何ら違いのないただの物質である。社会的価値は社会的物質の価値であり、人間にとってのみの価値である。社会的物質は社会関係の内にあって、社会関係を担い、社会的に評価される。所有者や観察者の主観的評価の問題ではなく、社会的物質は社会関係にいずれかの位置を占める客観的有り様である。[2036]
社会的有用性は自然物としての有用性と同じではない。空気や水が自然物として絶対に必要なものであっても、働きかけることなく手にはいるなら社会的価値はない。逆に多大な力を使って獲得するならその社会的価値は大きくなる。自然物としての有用性は社会的価値の必要条件ではあるが、十分条件ではない。自然物としての有用性がなくとも、社会的価値を認められるものもある。[2037]
労働は単に物を作るだけではなくなる。原材料、食物、建物、衣類、日用品、道具、機械等を作り出すことだけではない。労働の過程自体を変革の対象とすることも労働である。ただし、質の違う労働である。企画、経営も社会的物質代謝に不可欠な労働である。[2038]
経済学で取り上げるところの、生産的労働の定義に問題があった。原理的には自然物を利用可能にすることが生産である。使用可能な形態へ変化させることとして社会的価値が生産される。しかし生産されるだけで消費が実現する保証はない。生産物も放置されれば腐朽する。社会的生産物は運搬、保管されなくてはならない。生産の途中の過程でも原材料、中間材の運搬、保管は必要である。生産がより高度に、より社会的に発達するほどに、運搬、保管の労働は必要である。[2039]
また生産にともなって副産物、不用物もでき、エントロピーは必然的に増大する。有害な副産物、不用物は無害化しなくては物質代謝秩序が崩れる。不用物も処分されなくては堆積してしまう。社会秩序、自然秩序を維持する労働も社会的物質代謝に欠くことはできない。さらに、生産、運搬、保管を管理、制御する労働が不可欠になる。これら労働を非生産的労働として軽視することにより、経済成長を停滞させ、社会の物質代謝を破壊してしまうまでに至ることがある。秩序の維持には秩序を作り続けなくてはならない。このことは物理的基本法則である。[2040]

【労働主体の対象化】

共同労働は一つの労働過程を、複数の人によって分担する。共同労働を分担する人として、自分と他人は入れ替わることができる同質の存在である。他人も自分と同じに感じ、同じに考え、行動する人である。自分の労働を統制するように、他人の労働も共同で統制することができる。他人に対する働きかけは、共同の場において自分に対する働きかけでもある。労働は原材料を対象とするだけでなく、人自らを対象化する。人は人自らを認識対象とし、変革の対象とする。人間は人間社会を認識対象とし、変革の対象とする。[2041]

【労働による社会結合】

労働の社会的結合は分担が初めにある。人以前の動物の群れでも分担がある。すべての構成員が同じ働きをするのは小型の魚の群れに見ることができる。小型の魚は群れることで大きな個体に見せかけているという。個体間の分化があれば社会的分担が必然である。保育するものと保育されるものがあれば社会的立場は必然的に分かれる。性差があれば、老若の差があれば、得手不得手の差があれば社会的分担が必然である。分担することで社会は維持される。差があるにも分担しないなら、その社会は発展しない。差別は差の有り様、分担の仕方とはまったく別の社会問題である。[2042]
分担、共同した労働は協業と分業へと発展する。労働を協業と分業とした社会は、生殖関係を中心とした社会を労働を中心にした社会に発展させる。社会的物質代謝が人間の生存条件になる。生物としての物質代謝を社会的物質代謝、生産と流通、消費の過程を組織する。よほど恵まれた自然環境になければ自給自足はできない。孤立しているならば自給自足の技術・知識を利用できないし、子を生むことは不可能である。[2043]
分業はそれぞれの作業の習熟に有利であり、協業は作業間の調整を習熟させる。分業と協業は生産性を向上させる基本である。[2044]
分業・協業での真似は伝承である。伝承は獲得した技術を他の個体へ授ける。遺伝によらず獲得形質を伝えることができる。練習方法、訓練方法の伝授は能力を伝える。能力の伝授はさらなる工夫を可能にする。[2045]

【労働手段の社会化】

道具、労働手段は、一回の労働にだけ使われるわけではない。労働手段は制作者一人だけに使われるわけではない。社会的に共同利用され、社会的に伝承し、社会的に改良される。労働手段は社会化される。[2046]
石器であっても規格化される。打製する際にどう、どの角度で打ち合わせるのが良いかが伝承されて結果として同じ様式の石器ができあがる。同じ様式の道具は使い回しができる。まずは社会的規格としてではなく、目的にあった形状としての規格化である。目的に合わせる規格化は、機能に合わせた規格化であり、やがて社会的規格になる。社会的試行錯誤を経て、社会的経験として蓄積されることにより社会的規格になる。規格自体が社会化された概念である。規格化された見本に習って再生産することは、その見本の形状を知ることだけでなく、規格の意味を知る。規格の目的と、製造過程の技術を学ぶ。[2047]
社会における規格化は知識として社会によって保持され、伝承される。道具、労働手段としてだけでなく、その使い方、使うための訓練、作り方、材料の見分け方、さらに伝承の際の教育方法も含めて社会化される。規格制度、教育制度として発達する。[2048]


第3節 社会性

【人の社会性】

人間は生物的生存条件の制限から大きく解放されている。生物的生存条件からの解放は労働実践と社会生活とによっている。そして、生存条件の制限解放は幼児、高齢者の生存、すなわち生物的弱者が生存可能な生活環境を実現しているところに強みが有る。そこでは幼児、高齢者にとどまらず、病弱者、障害者をも生活可能にする生存条件のいっそうの発展が、豊かな生活向上の物質的基礎である。生物的生存を超えて、それぞれの人間としての自己実現を保障し、相互に人間性を認め、相互に依存して生きる社会関係の実現が目指される。健常者ですら生活が大変であれば、社会的弱者の生活は一層大変である。社会的弱者の人間性を抑圧することは、健常者の人間性の破壊でもある。社会的弱者の生活、人間性が保証されることで、健常者の生活、人間性も保証される。健常者どうしが生存をかけて競争する社会はまともな社会ではない。[3001]

労働は生物をヒトにしたが、社会はヒトを人間にする。人は群れで進化してきたが、社会生活によって人間となる。人間は社会生活によって、生物的活動を人間的活動とする。社会は人間性を実現する。人間は社会生活によって人間性を完成させ、定着させる。人間は社会的物質代謝、社会関係の中で人格を陶冶し、個性を形成する。[3002]
個人は一個体であるから個人であるのではない。社会的関係の内にあって個人でありうる。個性は社会的性質である。一人で個性を磨き、人格を高めることはできない。社会性ゆえに個人が成立し、個性が伸び、人格が陶冶される。同じ生物的・遺伝的性質を持ち、同じ環境で育っても個性は異なる。同じ環境だからこそ個性が異なる。双子の兄弟、姉妹であっても、兄弟として関係し会うことによって、それぞれ互いの立場が異なり、性格が別々に形成される。性格、個性は生理的制約を受けない部分でより豊かになる。生理的制約を受けない部分は社会的関係である。[3003]

人間の活動はすべて社会的であり、人間性は社会性である。逆に、人間の社会的でない活動は、生物的、物質的活動である。衣、食、住、生殖、人間の基本的活動もすべて社会的である。人間は社会の中でしか、人間として生きられない。社会の意味は価値評価としてでなく、解釈としてでなく、なければ生活そのものが成り立たない。[3004]
生物の特徴である自己複製、世代交替も人間の場合は社会的である。哺乳類の新生児は単独では決して生きられない。出生から次の世代を出産するまでの生長期間の長さも人間の特徴であり、社会的生活能力獲得の為の期間である。[3005]
人間は社会の構成員として生まれ、育つ。それぞれ個人の生活であっても、社会活動の一部、一環としてある。一部の人間が反社会的であることですら社会の存在を前提にしており、反社会的行為自体社会的である。非社会的人間は、社会的矛盾によって歪められたのであり、社会的保護なくして生きていくことはできない。[3006]

物質の階層、生物階層、精神階層、それぞれにおける社会性が人間の特質である。そして最後に個性、人格における社会性が人間の豊かさである。各階層はその下位の階層に存在・運動の物質的基盤を持っている。[3007]
人間も、生物としての生活は社会的生産、流通、消費によって実現され、保証されている。今日の人間の生活水準だけでなく、人類数十億人の生活、熱帯から極地までに広がる生活ができるのは人間社会が機能しているからである。[3008]
ただ生きるだけでなく、よりよい生活、価値を求めての生活、それぞれに創造する生活を実現できるのも、物質的保証を社会的に実現しているからである。スポーツを含め、文化活動が行われる社会であるからである。新しいものを目指す、創造する文化活動自体、社会的な教育・訓練を含めた制度、手段によって実現されている。文化活動の発展は、個々の活動の社会的相互作用、交流があるからでえある。[3009]
社会的人間は自然に働きかけること以上に、社会に働きかけることが生活の中心になる。自然を相手に生きたいとするのは、社会的生活の矛盾に疲れたからであって、人間間の結びつき、相互関係そのものを否定するものではない。[3010]

人間は子としてうまれ、育てられる。生物的に生まれ、育つだけでなく、人間として生まれ、育つ。人間は基本的に対等な存在として育つ。アリやハチのように、生理的に異質な個体として集団をつくるのではない。サルと同様に個体の能力に応じた役割を果たすものとして、基本的に対等な存在である。サル以上に対等であるのは、出産、授乳が生活の中で比較的小さな部分しかし占めなくなったことによる。離乳までの母親の負担量が相対的に小さくなり、社会関係で両性間の関係が対等になりうるようになったことによる。生理的両性間の違いを前提とした上での対等な人間関係の可能性が開けてきた。サルに比べてのことである。現代社会での男女平等ではない。しかし、現代でも男女平等は可能性としてはある。[3011]
対等な人間関係は相手を知り、理解することによって自分自身を知り、理解することになる。社会関係の中にあって、自分の位置を知り、理解することができる。自分自身の決断は社会的決断である。自分だけの問題では決断など必要ない。自分だけの問題はただ、実行すればよい。[3012]
自分自身を変えることは、自分の社会関係を変えることである。自分をより良く変えることの持続が、自分自身の人間性形成である。社会的自分を変えることは、社会を変えることと相補的、一体のものである。どちらか一方だけを変えようとすることは非現実的である。[3013]

【性の社会性】

人の場合は性関係も社会的である。近親相姦の忌避=タブーは社会の掟、人為的強制としてよりも、遺伝機序として生理的に備わっているらしい。幼児期を共に過ごした者に性欲を感じないのが一般的である。[3014]
意識以前に人関係は社会的である。意識でも、無意識でも人は社会的に行動する。配偶者の出会いも偶然のようであり、競争によって選択するようではあっても、社会関係が影響している。出会いは社会関係においてであり、選択基準も社会的であり、むしろ社会関係による制約の方が大きい。動物の場合は雄の「強さ」が生活力であっても、人間の場合の強さは腕力、体力だけが生活力ではない。たとえ腕力であっても社会的に通用する使われ方をしなければならない。[3015]
人間の発情は通年化していて、発情期がない。生理が季節によって影響されにくくなったのは、生活が社会的に保証されているからである。性交そのものが社会文化の影響を受け、生殖にとどまらない発達をしている。対面性交位は社会性の強い類人猿の一部とと人間だけのものであり、生殖だけを目的とするのではない。性交に限らず、直接の接触によって親密さを作りだし、また親密さを確かめる。人間の場合は性行為を生殖だけに還元、歪小化できない。[3016]
性関係は動物にあっても生殖にとどまらず、共同する子育ての関係にまで続く種がある。人間関係にあっての性関係は子育ての過程と切り離すことはできない。また両性の関係が社会関係の基本になっている。子育てによって、人間として成長に資する課題を多く経験する。子育てを仲立ちとし、両性それぞれの立場から人間関係を見直すことになる。子育ては子のために両親が関わるだけでなく、両性の社会的生活を振り返る重要な契機になる。[3017]
人間の性関係は広がりを持ち、広がりは社会関係によって実現されている。さらには、社会関係によって性関係は歪められる場合すらある。男らしさ、女らしさの強制から始まって、言語表現にまで社会的に方向づけられた性差別が生じる。歪められた性関係によって、社会関係が影響されることもある。性差別として人間関係の断絶を社会に持ち込み、また他の差別を容認し、社会関係の発展を阻害する。[3018]


第4節 知性

「第一部第三編第10章 人間の存在一般」と重複することになるが、客観的有り様を改めてとりあげる。[4001]
知性は人間固有のものとして、人間の誕生から関わる。「知」は知性ある者にとって余りにも当たり前であり、その基盤はなかなか見えない。知の階層を基礎となる感覚から整理してみる。[4002]

世の中には「思考は論理的言語による意識の働きである」と思いこんでいる理知主義者がいるが、私はそうは思わない。言語による思考は説明のための、確認ための思考である。生きていく、生活していく上では意識されない思考がほとんどであるし、まして、思考を言語で表現するのが得意な人は少数である。[4003]
運動と言うよりスポーツという方が適当であるが、事前に言語で戦略、戦術を立て、言語ではないイメージを描く。始まってしまえばよほど余裕のある場合を除き、言語は使わない。掛け声や、気合いは言語ではない。意識は要点に集中し、委細は身体と経験に頼るしかない。終わって、反省する時に言語化して確認する。過程での自分の意思を想起できるのであるから思考していたのは確かである。スポーツが苦手なら、囲碁、将棋、チェス、何でも勝負に集中している時を振り返ってみるといい。それも苦手なら、論理的思考をしている時の「ひらめき」を思い起こせばいい。ひらめきは言語で表現のしようがない、まさに思考の産物である。[4004]


第1項 意識

知性の基である感覚や意識は余りにも自明で、確かめようとする方が異様である。しかし前章で見たように、感覚すら主観的解釈である。日常的に了解している程に感覚や意識は確かではない。にもかかわらず日常的了解を当然のこととし、多少の反省だけで意識を基礎づけてしまう議論がある。意識、理性が精神活動、知性の中心、真理の判定者とする理知主義がある。意識は精神活動のごく一部しか対象にしていない。意識が何をしているか、無意識が何をしているのかを改めて確かめる。[4005]

【感覚】

普通「感覚」とは五感のことをいうが、五感は感覚の一部分でしかない。五感は感じることのできる感覚であるが、感じていない感覚が圧倒的に多い。「感じる」こと自体が制限されたことであり、しかも主観の範囲に限られている。[4006]
感覚は「感じ」ていると意識されているとは限らず、神経系、筋肉系の制御は意識にかかわりなくおこなわれ、生命を基本的に維持している。自律神経系の制御は感じることなく機能している。感じることのできる感覚も、同じ刺激が続くと慣れて感じなくなる。動物は環境に対応し、身体の状況に対応することで感覚を発達させてきた。感覚は世界を知るためではなく、世界に適応することとして進化してきた。[4007]

感じていない、意識されないで感覚刺激を受けることを「感受」として感じる感覚とは区別する。感受は感じない感覚過程である。感受は感覚の最も基礎的な過程である。感受としての感覚は意識されなくとも記憶され、反応を制御する。熟睡している間は意識は失われて感じないが、感覚はある。乾きや尿意は寝ていても感受していて、必要になれば感じる。感受は感覚器と効果器とそれらを媒介する神経系によって担われている。[4008]

感覚は感覚器官だけでなく、全身の感覚受容器からの信号授受であり、個体自らの運動も対象としている。平衡感覚や運動感覚は五感とは別の、同様に明らかに感じることのできる感覚である。また、感覚器官からの刺激だけが感覚でない。大人になってアルコールを飲んでみれば酔いを感じることができる。感情も感覚器官からの刺激ではないが感じてしまう。[4009]
感覚刺激を受け、感覚信号を発するのは感覚細胞、感覚器官であるが、感じるのは脳である。脳は感覚器官が無くても感じ、夢では脳だけで感じている。「感じ」は脳によって担われている。[4010]

感じることのできる感覚も、「感じ」ていることを意識しているとは限らない。意識する感覚と意識しない感覚とがある。感覚に二種類あるのではなく、意識自体が制限されている。意識は寝てしまえば失われるし、意識は一時に一つの感覚、しかも局所的な感覚しか感じることはできない。五感は意識に関係なく感じているが意識できるのはその一つである。一つの感覚も意識できるのは一つの対象である。視覚の場合、視野全体を見ているが、意識して見えるのは視線に関わらす、視界の内の一箇所である。感覚は意識より遙かに広く対象を感じている。意識は感覚のごく一部を対象にできるだけである。無意識の感覚は意識していない感覚であり感受と「感じ」のすべてである。[4011]
感覚には感じることのない感覚一般=感受と大脳で感じる感覚、そして大脳で「感じ」を意識する感覚と、3つの異なる質がある。この3つの質は階層関係にあるのでもない。神経系の対象化の違いである。いずれも神経細胞系の活動として、生理的には違いはない。しかし、対象とする表象に、対象化を担う神経細胞網群に明らかな違いがある。[4012]

「感覚」は感覚イメージ=感覚印象を受けることと、感覚印象そのものの二重の意味をもっている。感覚イメージ=感覚印象を受けることは客観的過程であるが、印象そのもの=感覚表象は主観そのものであって、他人には感じることはできない。[4013]
意識される感覚過程は感覚器からの神経刺激による脳の感覚受容野、そして連合野の発火として客観的に観察することができる。刺激に対する反応としても確かめることができる。対するに、主観的な感覚印象=感覚表象は本人だけにしか感じられない。感覚表象そのものは当人の主観である。本人は感覚表象を客観的に表現しようとすることはできる。しかし、客観化して描かれるのは感覚表象とは別物である。絵や文が物として別物であるというだけでなく、表現しようとする過程自体が翻案の過程である。[4014]

【感覚(即自)意識】

意識は感覚を感じることとしてまずある。意識はまず感覚表象を対象にして感じる。感じを経験記憶に照会し、記憶から想起された対象表象と感覚表象とを照合する。この照会、評価として対象化され、記憶されることで感覚表象が意識される。感覚表象を対象化し、意識していることはまだ意識されてはいないが、感覚表象は意識される。感覚表象を経験記憶と照合し、自らの反応を選択・制御するものとして意識は実現し、獲得されてきた。[4015]

感覚表象を実現する感覚過程と、感覚表象を対象として感じる意識とはともに神経系の活動である。感覚は神経細胞網の活動として感覚信号を解析して特徴づけ、感覚表象を構成する。感覚表象を対象化する意識も神経細胞網の活動としてある。感覚器から脳へ伝えられる神経信号と、意識を実現する神経信号に物理的、化学的、生理的に違いはないし、信号処理する過程にも違いはない。感覚も、意識も神経系としての区別はない。神経細胞網の同じ活動として感覚表象も意識もあるが、意識は対象化するものとして神経細胞網の活動一般と区別される。意識の特殊性は神経信号の再帰関係での対象化にある。感覚と意識では神経細胞の種類とそれぞれの神経細胞網の関連位置が違う。感覚、意識を担う大脳皮質は信号処理単位としてのいくつもの領野に分かれ、領野はさらにコラムに分かれて相互に接続し、対象化している。[4016]
神経生理学的に意識は末梢の感覚受容器からの脳の体勢知覚野への刺激、視床から大脳皮質全体への刺激、中脳網様体からの脳全体に対する刺激等が継続していることである。[4017]

意識は感覚による無意識の運動を方向づける。再帰する過程によって方向付けができる。再帰がなければ環境との偶然の相互作用のみで方向は決まるが、環境からの入力に加え、評価結果を再帰入力する。どう方向づけるかはまた次段階の再再帰による。意識は感覚による感じに基づいて個体としての有り様を方向づける。どのように方向づけるかはまた次にして、意識されていなかった身体、感じを意識的に操作する。[4018]

【対象(向自)意識】

次ぎに、意識は意識自体を対象とする。意識は自らを意識する。感覚表象を感じていることを意識する。意識の第二の対象化、再再帰である。感覚表象を意味づけることとして意識する。[4019]
意識を対象とすることで意識を顕在記憶として記銘し、保存し、想起することができる。意識自体の対象化は対象化する対象の階層が違う。対象化そのものの階層が違う。自由度としての「次元」とは別の、階層の次元が違う。第一は感覚の無意識の階層次元である。第二は感覚を対象化する意識の即自的階層次元である。第三に意識を対象化する意識の向自的階層次元がある。[4020]
意識の意識としての向自的階層次元には様々な意識がある。美意識や規範意識等であり価値観の基礎になる。[4021]

【自意識】

最後に、意識を対象化する意識を自分として対象化する自意識の階層次元がある。対象化の次元はこれで終わりである。無限後退は起こらない。有限の部分に無限後退は起きようがない。無限後退を想定するのは限定のない観念がすることであり、観念とて無限後退の段階を一段ずつたどり尽くすことはできない。[4022]
意識が何をどう対象化するかは認知関係組織の遺伝的経験と、個体の経験による。生物種として淘汰された経験によって認知関係組織は発達してきた。個体発生からそれぞれの生長経験によって意識の指向性は決まる。そして、意識を意識することで目的意識的に自らを訓練することができる。訓練することができるだけで、思うように対象に集中できる様になるのは大変であるし、できても長くは続かない。この意識を意識して方向付けを保つのが意志である。[4023]
意識を意識し、他者の意識をも理解できるのは人間である。サルが他のサルの表情を伺うことはあっても、自らの意識を意識できるようには見えない。人が自らを意識できるのは3歳以降であろう。自意識を確かめようともがくのは10歳を超えてからである。[4024]
日常会話でも「意識が低い」「意識が高い」というが量的違いではなく、質的違いがある。対象の質的、階層次元の違いにかかわらず、意識を一つの有り様として意識してしまうが、それは意識が一つしか対象にできないからである。意識は階層次元の区別を意識することなく、当面重要である対象を指向している。[4025]

意識は再帰過程で実現しているから意識している瞬間を対象化することはできない。自らの対象化は一瞬前の自分を今意識しているのである。この「一瞬」は物理的時間ではなく、神経回路の再帰過程に要する時間を経ている。神経細胞の軸索は長さも伝導速度も異なる種類がある。それでも意識は身体各所の感覚を同時として感じ、また制御している。[4026]


第2項 精神

精神は意識を対象とし、反省する意識である。したがって精神は自意識によって担われる。主観的意識を反省し、対象と主体・主観の有り様を客観的に理解するのが精神である。個人の意識=主観的世界感を反省し、客観的世界観を獲得するのが個人の精神である。社会的意識を反省するのが社会的精神である。反省できなくなることが精神の病である。[4027]
思考は精神の働きの一部であるが、サルでも思考し、工夫ができる。人も意識しないで思考している。意識しない思考は精神的ではない。反省する思考が精神である。[4028]

【精神の存在】

人間の精神・知的能力は労働と社会生活過程で発展した。発展はしてきたが、精神は物質と決別し対立するものではない。生物物質代謝が物理化学過程を自己組織化したように、精神は神経活動を自己組織化した。[4029]
進化心理学、進化社会学の「遺伝子が人の心理、行動まで規定している」との主張を「決定論」として拒絶するのではなく、世界の有り様として「決定」の有り様、秩序の有り様を読み解く。精神は物質に還元できるものではないし、世界を照らし、顕すものでもない。ましてや、精神が物質世界を作り出してはいない。精神が作り出す世界は正しさの保証のない、物質世界を反映する観念世界である。[4030]
精神活動はその存在環境である物理的、生物的運動を対象としてまずある。精神的活動は物理的、生物的存在の表象と意識とを対象にする。表象と意識とを対象にすることによって、その観念性によって表象を自由勝手に、現実の規定性を無視して想像を広げることができる。「無」や「無限」までも一つの対象にすることができる。しかし、精神活動の対象が物理的、生物的存在から切り放された表象を対象にしても、精神的活動自体は、神経の生理的活動として物理的、生物的運動形態としてある。[4031]
人間精神の物理的有り様は遺伝子によって決定されていながら、物質の運動から独立した運動が可能である。物質の運動から独立はしても、その物質の運動との関係は切れてはいない。物質的規定からの自由を獲得しながらも、現実性は精神自体の存在にまさに根ざしている。認識、知識、感情、意志として人間の精神の基本となる要素は、どれをとっても現実との結びつきにある。どんなに突飛な空想でも、その発想の契機は経験にある。現実と結びつかない精神は末葉の、個人的な事柄である。[4032]

さらに、精神活動は一人一人を超えて相互作用する。精神の運動そのものが社会的である。親、家族、その他の人々がいなければ、人は言語を使うようにはならない。共同生活がなくては物事を指示することもない。社会生活なくして道具の使用能力を身につけることはむずかしい。教わることなく人一人で発明できる道具などたかがしれている。表現の機会がなくては知的能力の発達は保証されない。[4033]

【精神の自由】

物質に媒介されてはいても、精神活動は独立した運動が可能である。その独立の程度は物理的運動に対する生物的運動の独立の程度とはまったく異なる。その程度の違いが飛躍的であるがために、精神は物質、生物とはまったく別のものであるとの解釈までが生まれてくる。[4034]
物理的運動階層に対して生物的運動階層の運動形態は独自の法則として現れている。生物的運動は物理的運動に媒介され、物理的運動に収束する。生物は死ねば物理的存在に還元される。生物の行動は物理的存在に対する働きかけである。これに対し、精神活動はこれらの運動に方向性を見い出し、方向性にしたがってこれらの運動を制御する。その結果、物理的運動法則に対する精神的運動の自由度は、生物的運動の自由度を飛躍的に拡張している。精神も物理法則を無視することはできないが、方向性が示す目標に向かって物理的運動、生物的運動を組織することができる。物理法則を変えることはできないが、組み合わせ、利用することができる。死ぬとどうなるのか確かめようとするのは精神であるため、精神は死を理解できず、勝手な解釈を許す。[4035]
精神活動は物理的運動過程、生物的運動過程によって媒介されているが、精神活動は物理的運動過程、生物的運動過程を方向づけ、意味づける。精神活動自体が物理的運動過程、生物的運動過程を基礎としていながら、物理的運動過程、生物的運動過程を対象として変革する。[4036]

精神活動が物理的、生物的物質の運動形態と質的に異なるのは無規定性にある。物理的対象、生物的対象は相互規定関係にあり、それぞれの秩序にしたがっている。しかし、意識は対象化することであり、再帰としてあり、対象の被規定性は意識には直接及ばない。精神の対象である意識、観念表象は、意識によって対象化されるだけであり、どの様にも規定できる。精神の対象は他による規定、相互の規定にかかわりなく、意識による対象化だけによって措定される。対象の存在を否定すること、論理を対象にとらわれることなく変化させることが、精神では可能である。物理的、生物的運動形態から、精神的運動はまったく「自由」である。[4037]

ただし、精神の「自由」もやはり無条件の自由ではない。精神の存在そのものが世界のなかの存在である。それに「無条件の自由」は定義矛盾である。自由は条件からの自由であって、無条件では自由も不自由もない。精神の「自由」も世界の存在、有り様が前提としてあり、その否定をも許す自由である。また「肯定」から「否定」までも選択できる方法の自由である。精神の自由は精神にあっての自由であり、精神の自由さすべてを生物的運動過程、物理的運動過程に実現しようとするなら厳しい制裁を受ける。[4038]
精神的運動は、物質の物理的、生物的運動形態を反映しながら、物理的、生物的運動形態から「自由」に、無規定的に運動しながら、その精神的運動形態の存在基礎である物理的、生物的運動形態を変革しようとする。精神的運動形態は物理的、生物的な物質の運動形態を超えて発展した、物質の運動の最高の発展形態である。[4039]

【精神の有り様】

神経細胞網があり、個体を制御できる動物にあっても自己対象化できる種はヒトだけである。自己対象化は自己によってしかできない意識作用である。他の個体に「自己対象化」している意識があるかを直接確かめることはできない。自己対象化の経験から、他者と関係することで他者に自己意識があるかどうかを判断する。[4040]
類人猿にも意思があり得そうだ。犬猫などペットには意思があるように思えてしまう。コンピュータや機械にも意思を擬制してしまう時がある。自分も、他人も意識がある時とない時がある。精神の存在は自らの意識経験を根拠にするしかない。精神は人間の自己対象として実現する意識の有り様である。[4041]

人個人は個体だけでは存在し続けることはできない。人は社会的物質代謝過程にある人間としてでなくては生活できない。人の精神は人間の精神として個人間で共有され、影響しあう。精神は人間個人の内に閉じこめられているのではなく、人間間で共有される、個人を超える存在でもある。個人があって共有するのではない。共同の生活で共有される関係に個人が意識され、育ってきた。共有され個人を超えた精神は社会精神である。社会精神であっても個人を超えることで存在するのであって、個人の存在なくしては超えようもなく、社会精神は存在しようがない。[4042]
精神を媒介、表現する物も、人間関係にあって媒介するのであって、人間関係に位置づけられないものはただの物である。表現手段は言語や造形物に止まらない。制度や組織など秩序を表現するものはなんでも精神を媒介することができる。[4043]

【精神活動での言語】

人間の精神活動の物質的基礎として、言語の役割は基本的である。認識対象、思考対象をコトバによって表現し、確認し、操作する。言語はコミュニケーション手段であるが、精神の表現媒体としてもある。[4044]

対象をコトバに対応づけること、置き換えることは、具体的、個別的対象を指示するだけではない。それまでにそのコトバが指し示してきた対象、個人の経験の内で、社会的関係の中で、歴史の中で指し示してきた対象と関連づけることが「コトバにする」ことである。人は短い句にも感動する。その句に連なる意味全体を表徴することで感動する。[4045]

言語は使う人々の交流に媒介されており、人々の経験を反映している。社会関係の中で、歴史過程で対象にしてきた物事を表現してきた。言語自体が社会的歴史的に媒介されている。[4046]
言語には指示対象の直接的個別性に対する相対的普遍性がある。言語で表現することは直接的個別対象を言語による普遍的規定関係に位置づける。言語による表現によって個別的である対象を、他との多様な関係で区別されている普遍的個別=類と関連づける。言語で表現しようとすることで、個別的認識を一般的化する。コトバに表現することによって、非個人的客観的言語の体系の中で対象を評価する。[4047]
コトバ自体が媒介されている。コトバはコトバで説明される。主語−述語の関係によって様々な説明形式が可能であるが、そのすべてが言語による説明である。個々のコトバは言語自体に媒介されて意味を表す。[4048]
共有する意識の基本になるのも言語である。言語自体が個人間の関係を物理的に媒介するものとしてある。言語は音声、文字を物理的媒体としてあり、しかも人間意識の表現手段でもある。言語以外の表現手段も、精神を表現できるが、人はどの表現手段を採っても、その説明を言語に頼ろうとする。[4049]

一方、人それぞれの言語は、人それぞれの言語獲得過程での経験に媒介されている。言語はそれぞれ個人の成長過程で獲得されてきた意味をもつ。個人それぞれが用いる言語は、用いられる度に意味が変容されていく場合もある。同じ事を表現するにも、言い換えによって確認しようとする。[4050]
社会的意味も含め言語の意味はすべて確定してはいない。言語の意味は用いられる時々に、表現されると共に、確かめられる。辞書の定義は典型的な意味である。典型的な意味表現に修飾を加えることで個別的、具体的違いを表現しようとする。むしろ意味が一致していないことを前提に、一致させることを目的に言語は使われる。[4051]
表現技法の多様性のことではない。一連の文中で、同じ物事に異なる表現をするのは表現技法の問題であって、言語の意味表現の問題とは別である。時代と共に意味が変化してしまうのも、技法を梃子にした変化である。[4052]

コトバは対象を指し示すものとして対象とは別の存在である。言語はコミュニケーションだけではなく、対象を記号化して表現し、操作する。言語に表現することで思考を意識的な対象にすることができる。無意識も含めた非言語的思考を言語によって表現することで、思考を論理化する。言語によって論理を表現し、操作することができる。この内言語として用いることによって精神の発達は飛躍した。[4053]
言語は意識を反省する契機でもある。意識を言語化することで意識を反省する。意識を表現する言語を操作することで意識を反省する。意識の対象化は言語によって可能になる。個人それぞれに自己対象化として、対象としての自己と対象化する自己との関係で言語が自己を表現する。自己弁明も、自己正当化も言語で語っている。思考を文章化させることで、反省を強要することもできる。[4054]
言語は思考を客観化するものとして、自己をも客体化する。自己を対象化し、認識する手段としても言語は人間を他の動物と区別する。[4055]

言語による表現は同時代に限らず、異時代とのコミュニケーションを媒介する。記録された物によって、過去の人間、遠隔地の人間からの情報を受け取れる。書くこと、録音することによって、未来の人間に情報を送ることができる。今では録画も容易になっているが、説明と確認は最終的に言語でおこなわれる。[4056]

【言語の学習】

赤ん坊の発声は生理的機能として自然に生じる。不具合があれば泣く。呼吸し、声帯が振動すれば音が出る。動物の鳴き声と同じである。生まれたばかりの声帯はのどの奥にまで下がってはいない。のどの奥に下がることで嚥下、呼吸と発声とを区別することができるようになる。[4057]
周囲の大人が声をかければ赤ん坊は反応する。意味内容ではなく、声の掛け合いとして大人のまねをする。表現の交換として、すでに共同関係を確認する。[4058]
成長し6歳までに咽頭を下降させ、発音を多様化させる。同時に大脳言語野の信号処理も発達させる。大脳言語野の機能実現として獲得するのが母語である。母語の音韻、語順、接続詞のニュアンス等を身につける。母語は複数の言語であっても獲得可能である。音声言語を使えなくとも手話言語を使うことができる。手話言語は代替手段ではなく、表現手段が違うだけの自然言語である。言語獲得には臨界期があり、成長してからの外国語は母語と同じように学ぶことはできない。[4059]

【言語の社会性】

言語は生理的にも、人間独自のコミュニケーション媒体である。言語は労働のための手段、共同のための手段以前に共感を表し、共感を実現するものであり、言語の起源は歌謡にある。個人間の会話自体が目的としてもある。言語を交わし、話し合うことによって個人の社会性を実現する。人々が会してしばし無言でいることの方が不自然である。会話によって、精神的安定、充足がえられる。「おしゃべり」はストレスを解消するだけではなく、自らのアイデンティティーの確認でもあるようだ。心理カウンセリングも会話をとおしておこなわれる。表現することで自らの感情が変化するし、表現を受け入れることでも感情に作用する。[4060]
会話の媒体として、言語は生理的に対象と分離している。会話では、言語は表現対象と直接的関係をもたない。言語が媒介するのは、それぞれの感情、知識、意志である。言語自体が人間関係での意味をもって交換される。言語自体が社会関係を反映し、そこにそれぞれの人自らの行為を位置づける。[4061]


第3項 知性

【知性】

知性は知識、記憶が支えている精神である。知性は知識、記憶も含めた精神の働きである。知識、記憶によって精神は豊かな知性になる。[4062]
知識は人類の歴史の中で蓄積されてきた。対象を区別することによって関係づけ、世界をより詳細に理解してきた。全体と部分の変化をたどること、対象を変革することによって人類は知識を確認してきている。知識を言語により、図形により、記号により表現して共有してきた。共有によって知識は質的に高まる。天才といえども個人が獲得できる知識には限りがある。共有することで天才の知識も一般のものになる。知識の整理、交換、保存方法を拡張して知識を普遍化してきた。[4063]
知識の媒体である言語、図形、記号そのものの操作をも、技術によって拡張してきた。初めは手で書き写し、記録してきた。印刷技術によって大量の複写が可能になり、知識の共有は一機に進んだ。複写機は大量のデータを少量でも複写することを容易にした。複写によって貴重なデータを共有することができる。その象徴が「国防総省秘密報告書」の暴露である。データのデジタル化によって、複写、交換、検索、共有技術は飛躍し、世界的規模でも利用されるようになった。利用するか、利用できるかはまた別の問題である。[4064]
こうして蓄積、拡張された知識をそれぞれに教育し、個人が学習し、個人の認識過程で活用する精神的能力が知性である。[4065]

知性は知識を蓄積するだけでなく、知識を自己との関係で体系化している。知識対象を対象全体から相対的に独立させ、知識全体の構成部分として把握する。知性は個別対象を抽象し、一般化し、知識全体の中に取り込み位置づける。[4066]
対象と主観の直接的関係だけでなく、対象間の関係に主観も位置づけることで、全体の中に自らを位置づけるのが理性である。対象を概念間の論理的規定関係に位置づけるのが理性である。感覚表象を反省して論理概念としてとらえる。対象と概念との媒介関係は、繰り返したどって確かめる。2つの概念間の関係は双方向の規定関係であり、この双方向の規定関係がさらに他の概念との規定関係へと連なっている。理性は世界の関係秩序を論理的に反映する。[4067]
人類の知性史で概念の規定関係は繰り返し試されてきている。対象と概念との対応関係は一定の普遍的関係、全体の中に一定に位置づけられた関係として論理的である。知性はこの論理をたどることによって、対象間の関係をたどり、その関係を敷衍、拡張することができる。[4068]

【知性の訓練】

知性は論理によって生まれ、訓練される。知性そのものも論理的に運動する。対象を論理的に操作し、実際の対象の運動によって論理を確かめる。二次元の平面は三次元空間では表裏が連続可能なことをメビウスの輪で確かめる。三次元空間にはクラインの壺は実現できないことを確かめる。次元の違い、次元の性質を確かめる。より基本的な空間形式、物の性質等を生活経験で確かめる。見え方と物の形・距離、光と色、物事の大小、強弱、前後等は経験で学ぶ。感覚が意識以前の経験で身につけた存在の諸形式を論理としてとらえ直す。対応関係の保存、集合関係の普遍性を学問として学ぶ。対象の運動秩序を概念の論理操作によって法則として理解する。対立関係、個別性、連続性、さらには遠近法や集合関係等の諸形式を改めて論理的にとらえ直すには、努力と技巧を必要とする。概念操作の繰り返しによって、知性は論理操作の能力を訓練する。[4069]
生活の知恵は記憶されているだけでは機能しない。生活の知恵は生活の中で生かされる。そして、さらに編み出される。生活の知恵を生かし、編み出すのは整理された知識、体系化された世界理解としての知性である。[4070]

賢さは遺伝的に決められている。個別性と関連性を把握する能力が賢さである。どう理解するか、どう表現するかは賢さではなく知性である。賢さは本人には意識できない与えられた能力である。賢さは鍛えようがない。その賢さを使いこなすのが知性である。賢さの使いこなし能力は知性の実践によって訓練される。[4071]
実生活では対象をめぐる力関係、対象への働きかけの時機と方法の把握が賢さである。力関係、働きかけの時機と方法とを当面する全体に位置づけ、評価し、選択するのが知性である。狭く、しかも偏った対象理解は知性とかけ離れた賢さになる。賢さは狡さとも結びつくが、知性は善でしかない。[4072]
対象理解をより広く、普遍的に反省することが知性の訓練である。広く、普遍的な反省によって感情の制御も無理なくできるようになる。そして知性を育むことができる。そう簡単ではないだろうが、無理した感情制御はストレスも大きい。感情を制御する方法は他には薬物くらいしかない。[4073]

【知性の拡張】

従来、知識は表現され、確定したものとして評価されてきた。しかし今日の情報処理技術の発達は運動のシュミレーションを容易にし、評価を動的にしてきている。現実世界との相互作用を担える人工知能開発の目度は立てられないが、知識の獲得構造、蓄積構造、結合、置換等の要素技術についてはモデル実験ができる。コネクショニズム等知識獲得、運用を実験できる手法が開発されている。[4074]
将来、知性が人間だけのものでなくなる可能性がある。知性が漠然とした「人間性」の価値に埋没することなく、論理的に表現し、技術的に実現する可能性が出てきている。従来の哲学では表現された結果を評価するか、自省するしかなかったが、知性の客観的検証方法を獲得できそうである。[4075]
動物や機械の知性を考える時、その対、基準になる人間の知性が問題である。人にも色々いて誰もが天才ではないし、善人でも、ましてや知性の研究者でもない。[4076]

人間の記憶はコンピュータの記憶とは違う。今日までのコンピュータでは記憶の内容と共に、記憶の位置(番地指定)が基本的には必要であり、記憶位置の指定が索引である。人間の記憶の場合、記憶の内容自体の関係が多重な索引となっており、その内容と索引は社会的に、文化的に条件づけられ、経験によって作られている。条件によって記憶は様々な関連から想起される。[4077]
人間の知識は単なる記憶ではない、単なる信号のビット列でも、論理の体系でもない。知識の獲得、体系、媒体、知識全体を、人類の歴史的遺産を知識として受け継いでいる。個々人が人類の全遺産を引き継ぐことはできないが、基本的に部分的に受け継ぎ、全体で全体を引き継いでいる。その知識は表現された結果としてだけあるのではなく、個々の知識が具体的な感覚、抽象的な感覚と結びついており、その結びつきは意識されていない部分が多い。したがって個々人の知識表現を機械に置き換えても、知識としては機能しない。[4078]
さらに、感覚だけでなく、感覚は現実の具体的物事と連なっている。感覚はその特徴諸要素を個別対象に重ね合わせることとしてある。コトバで言い表せることだけが知識なのではない。諸特徴を備えた個別とその他との関係として対象を概念としてとらえ直すことが知的対象理解である。視覚でも色形は解析されて、様々な特徴に区分、評価し、その特徴を対象に重ねることで見ている。「イデア」を対象に投射して、捕らえているのではない。人間知性は現実と切り離されてはいないし、実践の過程で実際に運動している。知性の拡張はコンピュータを利用することではなく、人間として生き、生活する中での可能性である。[4079]

【実践知】

対象認識の確かさは対象を作り出し、操作することである。日々生産過程で物を作り出し、また生産の工夫、研究・開発が行われている。確かめられた技術なくして今日の生産、開発はありえない。新しい物質は、元素や化学合成物質に限らない。自然物を原材料として、人間は物質の新しいあり方を日常的に作り出している。当たり前の物事は、日々確かめられているから当たり前に納まっている。ただし、科学技術に限界があり、自然を制御しきれないことはいつの時代でも当然である。すべてが確かめられ、理解される日など来ない。認識、制御の限界をわきまえた上での利用が求められる。しかし、人の欲は科学技術の自制を容易に眩まし、打ち破る。[4080]
認識の確かさは、対象を理解できたと納得することではない。「物自体」は知ることができないという不可知論があるが、人間は新しい物を作り出している。自然界には存在しなかった元素を作り出した。化学合成物質を作り出した。物自体を理解するのではなく、物自体を作り出すことができる。物自体を作り出しているにも関わらず、知ることができないと言うのは「知る」ことの勝手な解釈によっている。人それぞれ日々物を食べ、物を利用している。その物に依拠しないで、あるいはその物を否定して物の本質を求めても何も得られない。[4081]


第5節 人間主体

人間の行動は動物の行動と区別される。[5001]
対象関係を理解し、対象と主体の関係から自らの行動を方向づけているのが人間の実践である。実践は精神の実現である。[5002]
さらに、人間は自然に対する働きかけと同時に社会に対して働きかける。人間が対象として働きかける物質はすでに社会関係に組み込まれた社会的物質である。そして人それぞれ、社会的物質代謝を担うことで人間である。例え、収奪するだけの人であっても。[5003]
個人だけでなく社会集団も主体としてある。個人は個々の物事を対象にするが、他の個人も、集団をも対象にして働きかける。[5004]

【意志】

意志は秩序・法則の現象過程、実現を意識することによっている。[5005]
法則は結果としてあるのではない。法則は裸であるのではない。法則は現実に実現する秩序形式の顕れであり、偶然の諸条件の組み合わせ中で実現し、現象する。そこに何等かの意志を見いだすのは、そここそが、意志が生まれる地であるからである。秩序形式を法則としてとらえ、好ましい法則の実現を求める意志が生まれる。意志は実現できそうにもない物事を求めたりしない。法則に反し、あるいは法則のとらえ方が誤っていたなら、意志は何も達成できない。現実の秩序実現過程にあって、対象秩序を理解し、望む秩序の実現を指向するのである。[5006]
個々の部分的条件の寄せ集めとしてではなく、相対的全体の運動を規定している秩序・法則をとらえる。絶対的全体の運動法則は理解できなくとも、部分的運動法則の理解は確実に深まり、広がっている。法則に基づいて現象を理解することによって、現象の現れを方向づけようとする意志が生まれる。秩序は全体として崩れながら、部分間で多様に出会い、組み合わさる。法則が組み合わさることで、組み合わさり方が物事実現の多様な条件を構成する。法則の組み合わせ方で、好ましい物事実現の阻害条件を取り除き、促進条件を整える。法則を曲げることはできないが、組み合わせ条件を変えることはできる。目的達成のための条件を整え、満たすこととして実践があり、目指す意志がある。[5007]
意志は法則の実現を意識するだけでなく、法則の実現に価値づけし、目的とする。何を実現したいかを見出す。何が実現できるかを理解する。どのように条件を整えるるかを見通す。意志は世界の主体的理解としてある。[5008]
意志もまた主体と環境との相互作用過程で形づくられ、作用している。意志だけでどうにでもなることは、主観の内にしかない。無意味な目的をやり遂げる意志は、歪められた意志、隷属の意志である。意志を持ちえないのも、従属の意志である。[5009]
その目的意識が倒立すると、あたかも法則自体がそれだけで目的を持って作られているかのように解釈してしまう。「人間原理」のように。[5010]

【社会的精神】

精神活動は個人によって担われ、個人の社会的活動によって文化を実現している。社会的個人によって担われる精神活動は社会の精神活動であり、それが文化を形づくる。[5011]
個人の使う言葉も社会的に変化し、風俗には流行があり、思想も社会的に影響される。個人の精神活動とは別に社会的精神活動が存在するのではない。個々人の精神活動が社会的に相互規定し合って全体として独自の運動形態をとる。[5012]
社会有機体が存在し、特定の組織が社会全体を支配するような社会精神ではない。社会的理性、社会的意志が一方的に個人を支配するような社会精神ではない。一人一人の精神活動を媒体とする相互作用総体としての社会精神である。物質代謝が社会的に実現しているから、生き、生活するための選択は現実の社会関係を前提にする。個人的し好で社会を選択することはできない。それぞれの個人は既成の社会に生まれ、その中での選択が可能性である。[5013]

社会精神は社会関係における個人間の精神活動総体としての有り様と、操作の対象としての社会精神とがある。[5014]
操作対象としての社会精神は、古代国家の成立とともに現れる。社会の支配権力として、操作対象の社会精神がある。権力は善し悪しにかかわらず、社会の意志決定として実現し、肯定される。社会的物質代謝の実現過程で折り合いがつけられる。権力は正統性、手続きの瑕疵にかかわらず、現実の既定力としてある。誰かの頭の中にあって決定する精神ではなく、事実として実力行使を決定する意志としての社会精神である。直接的権力の意志決定だけではなく、反対意志を掲げる人々の意志も含む社会精神である。[5015]

社会精神は手続きとしての議決民主制とは何の関係もない、既定力の実現としての社会精神である。議会等の組織制度としての意志決定機関は、社会精神を公式化する手続きとしてある。世論調査は社会精神の有り様を統計的にとらえようとする。しかし、世論調査自体とらえようとする問題設定自体に指向性があり、結局一面を取り出すだけであり、調査技法によって結果が歪む可能性がある。[5016]
社会精神により大きな影響を与える者を社会的権威という。一般に認められる権威も、すべての人に認められるはずもない。その影響力も相対的で、相対性も社会の有り様と共に変わる。今日マスコミの影響力は絶大であるが、マスコミ機関を支配する者の意思と社会精神はまた別である。一つの事件、一つの資料が明らかになるだけで社会精神は大きく変わる。[5017]

社会精神は人類的規模でも存在するが、実践上問題になるのは部分的社会精神である。国家単位、地域、職域、家族等の部分的単位として社会精神が現れる。[5018]
規模別の社会精神だけでなく、それぞれの規模別内にあって、党派的対立として社会精神の対立が現れる。社会精神は単一の意思としてはない。それぞれの集団の合意、個人の意思としてあるのでもない。人個人でも無矛盾の単一の意思など持ってはいない。社会精神は誰か一人、あるいは数人によって代表されるものでもないし、決定されるものでもない。[5019]
社会精神にも知性も、感情も意志もある。[5020]

【文化】

文化を構成するのは個々の人間であり、社会である。コトバ、記号等およびその媒体と、その媒体の社会的運動である。個々の人間、社会、社会的媒体総体の関連として文化は成っている。[5021]
文化は出来上り、固定された物ではない。社会精神の活動によって実現されている。人々の、社会精神の有り様である。時代的に区切り、過去の文化を問題にすることができるが、それも活動した文化であって、歴史書の内に固定されたものではない。[5022]

文化は社会活動の精神的部分であり、社会的価値体系を含む。一つの社会の価値体系は一つとは限らない。一つの社会の価値体系が一つであることの方が異様である。抽象的には、一つの社会にはひとつの価値の現象形態があるが、それは他の社会と比較する際にひとつに数えられるのであって、具体的にその社会内での価値体系は多様な系の相克としてある。価値は全体の方向に対する部分、個別の方向性の変位を量るのであって、対象とする範囲の相対性によって異なる。[5023]


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