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第二部 第二編 生命

第5章 生命の発展


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第5章 生命の発展

生命の発生と進化は人間の「尊厳」に関わることとして世界観にとっても大切な問題である。人それぞれの価値観によって「尊厳」の解釈が異なり、生命の発生と進化に対する理解が歪みもする。人の尊厳は荘厳な自然から生み出されていて、人間だけの隔絶された価値などない。唯の物が生命を実現し、進化によってヒトが生まれ、人類の歴史を経て人間が育って来た精妙さに価値を認めたい。[0001]

生命は代謝秩序系であり、生命の誕生は代謝秩序系の成立である。生命の進化は代謝秩序系の発展である。[0002]
単細胞生物として代謝秩序系は成立し、生命が誕生した。単細胞生物は1個の細胞が1つの代謝秩序系としてある。集団で代謝環境を構成すこともあるが、生存可能な環境では1個体で生存でき、1個体から増殖できる。[0003]
多細胞生物の代謝秩序系は、分化した多数の細胞から成る個体が代謝秩序の単位である。生命の存在様式として単細胞生物と多細胞生物では決定的に異なる。多細胞生物の個々の細胞は単独で生存できない。[0004]
社会を構成する生物の代謝秩序は社会に依存する。単に集団ではなく、代謝を社会化した生物種である。蜂や蟻は代謝を社会化した典型である。哺乳類や鳥類、一部の魚類も保育過程で子は親に依存している。人が人間として生活するには、個人それぞれの代謝は社会的物質代謝に依存している。社会的物質代謝系から離れては人間としての生活はできず、人格は形成されない。[0005]
単細胞生物、多細胞生物、社会的生物は生命の発展段階を画す区別である。[0006]


第1節 生命の誕生

【生物の前提】

前章で見たように生物は物質以外のものに依存しない。物理化学的環境の中で、物理化学的過程として生命は誕生した。しかし今日の物理化学的地球環境から生命は生まれないし、人は生物を作り出すこともできていない。今日の地球環境はすでに地球生命が生存する環境であり、新たな生命が誕生する環境にはない。地球の生命環境は有機物からなっており、有機物は既成の生命環境に取りこまれている。新しい生命秩序を担う有機物要素が作られたとしても、自己組織化する前に分解されるか、他の生物に取り込まれてしまう。地球生命が誕生したころは有機物を餌にするものはいなかった。生命誕生の条件は今の地球環境とは違っていた。[1001]

生命秩序を実現しているのは物質代謝系、自己複製系である。物質代謝系は低エントロピーのエネルギーがエントロピーを増大化する過程で部分的に低エントロピーの物質秩序を実現し、保存する。自己複製系は自己の秩序を複製すると共に、複製過程を物質代謝系として実現する。秩序を保存することと、複製することが生命秩序の基本である。秩序の保存は動的である。動的な秩序の保存は不安定であり、失敗の可能性が常にある。秩序は複製しておくことで、個体の保存が失敗しても類として保存される。さらに秩序を多様化しておくことで、多様な環境、変化する環境に適応し秩序全体を発展させる。[1002]
秩序を保存し、複製することは機械システムとして原理的に可能であり、コンピュータ・プログラムとして実現できる。ただしプログラムの場合、最初の秩序は与えられたものである。[1003]

【生命誕生の条件】

物質の相互作用はエントロピーを増大化するが、同時に相互作用は相互を区別する秩序の実現である。ただこの秩序は相互作用の形式として、相互作用がなくなれば消失する。自己組織化は相互作用の連関が相互作用の実現条件を整えるよう作用することで実現する。[1004]
相互作用が発展し、相互作用関係を保存する階層が実現することで相互作用の連関が作用を再帰させることが可能になる。相互作用の発展は対称性の自発的破れとして偶然ではあるが、必然の方向である。高エネルギー、低エントロピーの物質はエントロピーを増大化させ、低エネルギーへ移行する過程で対称性を破る。全体の秩序を破ることで、より部分的秩序を実現する。より部分的秩序間の秩序として、自己組織化する秩序が可能になる。[1005]
以前は生化学反応の進みやすさを根拠に、太陽光や、稲妻がエネルギーを供給し、粘土が触媒となる海岸が生命誕生の環境とされてきたが、今日では深海熱水噴出口周辺での大きな温度勾配が生命誕生環境の候補とされている。[1006]

【生命誕生の要素】

地球生命誕生の前提であるアミノ酸は宇宙のありふれた存在である。アミノ酸が結合してタンパク質を作ることも、自然の物理化学環境中で可能である。タンパク質は条件によって立体構造を変え、変化する立体構造によってタンパク質どうし結合、分離し、結合、分離に作用する酵素としても機能する。[1007]
RNAは程よく結合しやすく、分離しやすい分子であり、アミノ酸、タンパク質とも作用し、タンパク質どうしの結合の触媒としても機能する。[1008]
地球生命の基本単位である細胞の膜は、リン脂質分子が水中で集合することで形成される。リン酸の親水性と脂肪酸の疎水性とが水中で引き合い、退け合って膜を形成する。内外を区別する膜は自然の物理化学的環境中で可能である。[1009]
タンパク質とRNAからなる相互作用の連関がリン脂質膜によって外界から区別された、閉じた反応系を実現する。この前駆細胞体間の相互作用が閉じた反応系を複製できるようになって細胞が生まれる。やがてRNAよりも安定なDNAを遺伝子とする生物が進化した。この過程の詳細は明らかになっていないが、他の可能性を見つけることもできない。[1010]

ミラーらの模擬原始大気放電によるアミノ酸の生成実験の頃は、地球初めの大気は還元的であったとされてきたが、今日では非還元的、酸化的大気であったという。[1010-01]《2006.07.29 地球初めの大気は非還元的であったとのことで追記した−中沢 弘基著、新日本出版刊「生命の起源 地球が書いたシナリオ」による》
無機物の化学反応が有機物をつくりだし、有機物の化学反応が無機物の化学反応に媒介されて、生命の基礎となる生化学反応過程とその制御を実現した。[1010-02]《2006.07.29 粘土好物には親水性、膨潤性、揺変性(外力によってゲル状態から流動性のゾル状態に変わる性質)があり、有機分子との親和性で吸着、包接、触媒の働きをするとのことで追記した−同上》

地球が太陽系の惑星として形成されたのが46億年前とされるが、生物の誕生は30億年前と言われる。当時の岩石はグリーンランドなどの一部に残されているだけであるが、生物化石は微細で生物の痕跡か鉱物の構造か区別が難しく、発見のたびに議論されている。[1011]


第2節 生命の進化

「進化」の問題は対象を明らかにしないと混乱する。記述する時には主語に注意が必要である。進化の主体は、主語は何か。進化の主体は生物であるが、個々の生物個体は成長するだけで、進化しない。進化させるのは当然に、われわれ寿命の短い観察者ではない。生物の多様な機能が実現している様を知れば知るほど、その精妙さに、われわれの知性をはるかに超えた意思によって設計されたのではないかと思われるほどである。もしこの過程が何らかの意思に基づくなら、無駄になった組み合わせの多さ、時間とエネルギーの浪費から、その計画性と知性とを人以上に高く評価することはできない。進化の主体は生命であり、生命秩序の発展としてある。[2001]
遺伝子は進化しない。遺伝子は変異するだけで、変異は偶然で方向性はない。遺伝子の媒体は進化し、RNAからDNAへ、DNAの本数は複数化し、核を構成し、膜を獲得したが、その遺伝子の形質は変化しない。遺伝子は進化しないことで生命の普遍性を保証している。[2002]


第1項 進化

生命は誕生の段階から環境との相互作用過程でその生命秩序を変化させ、様々な環境へ適応し、地球上の普遍的存在になった。[2003]
「進化は進歩ではない」と強調される。進化の到達点に人間を位置づける驕りを戒めることは必要であるし、「進歩」という一定の価値評価で進化を理解しようとすると、進化過程に目的因を持ち込むことになり、進化の機序を誤解することになる。「すべての生物がそれぞれの環境に適応して、最も進化した位置にいる」と「進化」を理解することもできる。しかし、生命は物質の運動形態として明らかな発展段階を積み上げてきた。人間の営みは単細胞生物の生活よりはるかに発展してきている。特に、知性、自意識という生物的有り様を超えた存在形態にまで進化して来ている。知性の評価は、知性を持たないものたちとの比較ではなく、知性を持った者たちの間での問題である。[2004]

【生物進化論】

アメリカ合衆国では「インテリジェント・デザイン=ID説」が政治問題にまでなっているが、今日、生物進化を否定する世界観は社会的にも少数である。しかし、生物進化の専門家以外は進化論を一貫させようとする試みは少ない。特に生命の誕生の時期にさかのぼるほど、進化論に対する確信は揺らぎ、非進化論が持ち込まれる。生命を神秘化する見解が繰り返し現れる。進化の問題とは別であるが、物理学者の中にまで「人間原理」を唱えるものが現れる。[2005]
生物学の個々の分野で生命の誕生、生物の進化の機序を明らかにできていなくとも、生物学だけでなく、物理学、化学、考古学などからも生命の誕生、生物の進化は事実として承認されている。生物学の個々の分野でどの様な進展があっても、パラダイムの変換があっても、物理・化学過程からの生命の誕生、生物の進化を否定することにはならない。もし進化を否定することになっても、否定するのは科学であり、科学しかできない。[2006]
今日地上では、生命以外から新たな生命が生まれない。生物学も生命を合成することができていない。卵が先か、鶏が先か、個体発生を辿っても論理が循環する。獲得形質は遺伝しないのに、肺呼吸のできなかった魚が肺呼吸へどうやって飛躍したのか。鳥がどうして飛べるようになったのか。飛躍を突然変異だけでは説明できないと言われる。進化を否定する様々な論拠は科学が明らかにできていない点であるが、その否定する論拠そのものが科学的に証明されていないから不明なのである。「飛躍」は中間段階がなかったことが明らかになって飛躍といえるのであって、中間段階を想像できないことが飛躍なのではない。かって、分子遺伝学によれば、原生生物からヒトまで進化するには宇宙の歴史以上の時間が必要とされた。サルにタイプライターを与えてシェークスピアの戯曲を打ち出せるかと問われた。サルがタイプライターをたたき続ける以上の時間、頭数をかけることで進化は実現してきた。[2007]
生物進化から学ぶことのできる原理は、歴史の原理であり、必然性と偶然性の弁証法である。[2008]

【進化の機序】

生物個体は遺伝子の情報に従ってタンパク質を合成し、組み合わせ、発生過程を経て代謝秩序を実現する。この個体実現の過程、個体の再生産過程では偶然も作用するが、必然的過程である。この過程の必然性が偶然性によって妨げられるなら、その生物固体は生まれることもできない。生まれたとしても、生理的に生き残れない。[2009]
遺伝子自体は偶然に変異し、ほとんどの変異は有害で生物の生存を妨げる。ほんのわずかな無害の突然変異が蓄積される。[2010]

物理化学法則は生物の生化学的有り様としての秩序を顕す。遺伝が代謝秩序、種の保存、進化を実現している。秩序、法則が生物の存在を必然的に規定しているが、必然性だけでは進化のしようがない。生物存在の必然性を部分的に否定する偶然性によって進化の可能性が現れる。[2011]
物の必然性を否定するのは出会いの組み合わせであるが、生物の必然性を否定する偶然性は遺伝子の突然変異である。遺伝子が突然変異することで進化の可能性は現れるが、進化を決定するのは淘汰条件である。淘汰条件は多様であり、偶然の作用である。また、淘汰自体が偶然の組み合わせ過程にある。進化にも因果関係を見ることができるが、進化は少数の因果関係の組み合わせだけで決定される過程ではない。[2012]
遺伝子の突然変異は一定の確率で必然的に生じる。遺伝子の突然変異のうち、形質の変異に影響するのはわずかであるが、その影響のほとんどが生物にとって有害である。また、多細胞生物に影響する突然変異は、生殖細胞に生じる変異だけである。生存に有害ではい変異が遺伝子に蓄積される。変異によって新しい形質が現れたり、細胞組織が量的に増える。[2013]
淘汰条件としての環境は生物に関係なく変化する偶然である。そこで生き残り、子を残せるかどうかにも偶然が作用する。物理法則でも必然性と偶然性の現れようが問題になるが、生物進化の必然性の追求によって「必然性」と「偶然性」の概念理解が深まる。これほどまでに複雑な人が進化してきたのだから、偶然は作用するにしても進化は必然であったのだろう。同じく言えることは、人類が必然的に生き残れる保証は何もない。[2014]

進化を実現してきたのは淘汰の歴史である。1回や数回の淘汰ではなく、30数億年の歳月を経、その間の世代交代、地球環境の変化を経て実現してきた。100万年もあれば新たな生物的能力の獲得は十分であり、すでに多様な能力が獲得されている。多様化と淘汰の歴史は偶然による多様化と、必然的淘汰からなる歴史である。淘汰を生き残るのに生命は何でも利用する。環境にあるもの、それまでに獲得した形質、何でも利用したものが生き残る可能性を広げる。偶然の揺らぎがあっても、有利な方が必然的に生き残る。自然にあっては必然性をはるかに凌駕する偶然の作用もあり得るが、少なくとも地球上ではこれまで生命は生き残った。[2015]

生物進化は淘汰、選択の累積である。歴史の発展性は選択の累積である。発展性こそ歴史の本質である。現在のこれまでの物事はすべての可能性の中から一機に実現したのではない。ヒトの身体を構成する原子を一人分用意してかき回したら一人の人間が生まれたなどということはありえない。確率的にはありえるのかもしれないが、宇宙の時間の中では非現実的な確率である。1回の確率がいかに低くとも、われわれから見ればほとんどゼロの確率でも、われわれから見ればほとんど無限の時間と空間での、ほとんど無限の繰り返しによって実現してきたのが事実である。人が存在するにはその前の生長の段階があり、親、祖先の過程があり、生物進化、化学進化、宇宙進化の過程がある。その一つ一つ、偶然の過程で確率的に決定され、あるいは環境条件によって決定されて、その積み重ねとして宇宙の歴史、化学進化の歴史、生物進化の歴史、人類の歴史、社会の歴史の中でわれわれが生活しているのである。[2016]
物事は単に繰り返されているのではない。物事は単に変化しているのではない。物事は発展的に変化し、発展は持続する。確率によって決まる事象も、累積される一定の環境条件で偏りを生じる。まったくの対称性も実現するには対称性が破られなくてはならない。一定の環境では対称性の破れ方にも偏り、方向性が現れる。偏り、方向性の実現が環境条件となり、あるいは繰り返される運動の前提に組み込まれるなら運動は繰り返しではなく、単なる変化ではなく発展の可能性を持つようになる。[2017]

【突然変異】

遺伝子の変異は染色体突然変異と、遺伝子の内部構造の変化としての遺伝子突然変異に区別される。染色体突然変異には染色体数の変化として倍数性、異数性があり、また染色体の一部が逆位、重複、欠失、転座もする。遺伝子突然変異には遺伝子を構成しているDNA塩基の入れ替え、欠失、転置、重複、挿入などがある。これら遺伝子の変異は偶然ではあるが決定的な過程である。[2018]
遺伝子突然変異はアミノ酸の配列を変えて構成するタンパク質の形、機能を変える。タンパク質酵素の変異は代謝過程に大きな影響を与える。酵素タンパクの異常は多くの遺伝病を発症する。他方で水から水素を取り出す酵素ができたおかげで、地球大気に酸素分子がもたらされた。[2019]
遺伝子突然変異はタンパク質を変質させるだけではなく、タンパク質の合成過程を対象として制御する遺伝子にも起こる。体節や肢の数なども遺伝子によって決定されている。全身の臓器配置、血管の連なり、神経細胞間の連関の仕方までも遺伝子とその発現過程に規定されている。タンパク質に止まらず、組織や器官の構成、さらには行動も遺伝子に規定されている。組織や器官、行動が役に立つから、不用であるから遺伝子が変異するのではない。遺伝子の変異による組織や器官、行動が役に立つから、淘汰に生き残ったのである。[2020]
有性生物では生殖細胞での変異のみが遺伝する。遺伝子変異による形質の変化が個体の生存にとって不利でない限り、その遺伝子は生殖可能な集団内で混ざり、普及する。集団内の遺伝子が多様化することで、多様な形質の個体からなる集団が構成される。遺伝的つながりのある集団は生物種とは一致しない。同じ生物種内で遺伝的つながりは地域的にも相対的に区別される。[2021]

【淘汰】

遺伝子が変異し、遺伝子によって形質や行動が変異するが、形質や行動が「役に立つ、優位に立つ」かは生活の場で試される。淘汰基準は個体が生き残れるか、子孫を残せるかだけである。個体が生き残れなかったり、子孫を残せない形質や行動は絶対に遺伝しない。「役に立つ、優位である」かは相対的であり、また偶然も作用する。「役に立つ、優位である」ことの効果は偶然も作用するが、繰り返されることでより「役に立つ、優位である」ものが生き残るのは確率的必然である。[2022]
偶然によって生き残るものも、繰り返される試練のすべてを越えることはできない。必然によって生き残るものも、偶然に死ぬこともある。必然的に生き残れないものは、必然的に死ぬ。生き残り、遺伝子を伝えるものは、偶然に生き延びる少数のものと、偶然の災難に遭遇しない必然的に生き延びる多数のものである。個体の生死は偶然であり、有利な遺伝形質をもったものが必ず生き残るわけではないが、一定の環境の下、数世代に渡って同じ淘汰が継続するなら有利な遺伝形質をもったものが生き残るのは必然である。長い世代交代を経て、必然的に生き残る形質を実現する遺伝子をもった集団が残る。淘汰は努力や意志とはかかわりない、生き残る結果がすべてである。[2023]

地球上の生物にとって地球の存在は絶対的であり、不変である。海があり、陸があり、空があるのも不変である。しかし、その有り様は変化する。生物の多様化が海から陸へ、空へと拡大したのは必然であるが、どのように進化したかは偶然である。淘汰基準は環境の変化として個体にとっても、種にとっても偶然である。[2024]
大陸も移動するし、地球全体が凍り付いたこともあるという。巨大隕石が衝突するという劇的な変化も何度もあったという。地質的、地理的変化だけではなく、生物による環境変化もあるし、生物間の相互関係自体が環境条件として作用し、変化する。[2025]
淘汰は種間に働くのではなく、同種の個体間に働く。同種間の個体差、個体差をもたらす遺伝子が淘汰される。遺伝子のすべてが淘汰されるのではない。遺伝子の多様化は淘汰の対象にならない形質を多様化させ、個体差を実現する。淘汰の対象にならない形質遺伝子は生殖集団の中にプール=蓄えられる。環境が変化したとき、それまで遺伝的に区別されなかった遺伝形質が新たな淘汰基準として加わる。集団内に多様な遺伝子をプールしておくことは、環境変化に対する保険になっている。個体間での淘汰の結果、種が進化する。[2026]
新しい能力の獲得は飛躍的な発達を可能にする。酸素呼吸、光合成能力、視覚や聴覚、胎生、肺呼吸、言語と知性は生物の主体的能力の拡張史を画してきた。[2027]
淘汰条件は生活環境だけではない。生物種間の関係では、「食うものと食われるものとの関係」では食われにくい形質・行動を獲得したものと、食いやすい形質・行動を獲得したもの関係が競争の様になり、進化的軍拡競争を繰り広げる。生物代謝系としての能力だけでなく、捕食関係、社会関係での能力獲得も飛躍的進化を実現してきた。相互依存する種間では虫媒花と昆虫のように共進化が実現するし、寄生、共生の関係も成り立つ。互いに敵対したり、依存し合ったりする種間では互いの変化が環境条件として再帰して進化を方向づける。種間の関係だけではなく、生殖を巡っては同性間の競争による性淘汰があり、一見目立って生存に不利と思われる修飾羽や巨大な角をもつようになる。性分化も免疫的変異を作り出すことで、寄生者が入り込むことに困難な環境をつくりだす形質として進化したとされる。進化に至らなくとも、形質の変化は家畜の育種によって実証されている。[2028]

遺伝形質の多様性は一定の環境の下でも有利さに程度の違いがある。形質の有利さの程度の違いは淘汰の結果に方向性を表す。より有利な形質の遺伝子が残り、さらにより有利な遺伝形質が残されることで、形質の変化に方向性が表れる。形質変化の方向性を「力」として言い表して「淘汰圧」と呼ぶ。淘汰圧は物理化学的力でも、生化学的力でも、生物物質代謝を制御する力でもない。淘汰圧は生命の有り様に作用する力である。[2029]

【適応】

淘汰に残ったものは、結果として淘汰条件に適応したものである。淘汰条件に合うように変化し、進化したのではない。進化は目的因の例ではない。進化自体に方向性があるのではない。偶然もかなり作用する淘汰条件を通過したものが生き残ったのである。淘汰条件に対してより良く生き残る形質が適応を実現する。適応は淘汰の結果であり、個体や種が適応して変化したのではない。いわば適応するために生物が変化したのではなく、適応できなかった生物が歴史的に削ぎ落とされたのである。[2030]
生物は代謝を維持することで存在している。進化は代謝を維持しながらの変化である。生物が生存に必要とする資源は限られており、代謝を維持しながらの変化では資源の浪費は不利になる。進化の過程で過去に有用であった形質、組織を維持することが不利になることもある。形質、組織が不利になるのではなくとも、それを維持することが不利になる。維持することが不利な形質は退化させた方が有利になる。進化と退化の評価は相対的な変化である。進化は代謝系としての合理的秩序の実現過程でもある。[2031]
進化の系統がまったく違う種間でも、生活環境が同じなら同じような形質を持つように収れん進化する。鯨は魚と同じように流線型に近いし、手足ではなくヒレの形を獲得している。[2032]
環境は多様で、地球の環境は一様ではない。海中、陸上、空中でまったく環境が異なる。地域的な違い、季節的な違いがある。それぞれに一様ではない多様な環境条件がある。生命はあらゆる利用できるものを利用し、それまで生命が生息していない環境でも、利用できるようになったなら進出する。残された生存可能な環境世界をニッチと呼ぶ。海から、陸へ、空中へと。人は宇宙にまで進出しようとしている。生物はそれぞれ多様な環境に適応し、多様な種が進化してきた。変化しても繰り返される一定の、多様な環境の中での進化を適応放散と呼ぶ。[2033]
生物としての新たな能力を獲得した種はその能力を発揮できる環境に適応放散する。適応放散の過程でもまた多様化する。水生生物が陸上で生活できるようになれば、水中での相互規制関係から解き放たれて増殖し、生息地域的にも広がる。その際、1つの種として放散するのではなく、陸上なりの環境の多様性に適応して多様な種が現れる。[2034]
適応の歴史を振り返るなら、進化は環境への適応でありながらも、自由度を拡張する歴史でもあった。進化した種ほど多様な環境で生活することができる。[2035]
進化の結果を環境条件に適応する「ために」と表現することが多い。結果の評価としては「自然な」表現である。「自然な」表現ではあるが、自然ではない。自然には「ために」が通用する価値基準など存在しない。同様に、「最適化」「コスト計算」「ゲーム理論」は結果を説明するのに適しているのであって、現実の過程を規定しているのではない。[2036]

【獲得形質】

生物の様々な形質は遺伝子によって決定される。発現する形質は環境によって変化するが、形質の変化は遺伝子を変化させない。獲得形質は遺伝しない。[2037]
獲得形質が遺伝するならスポーツ選手の子は運動能力を活かした生き方が最も適したものになり、学者の子は知的能力を活かした生き方が最も適したものになる。職業の分化が生物種の分化になってしまう。そのような進化は、道徳的に許されないのではなく、生物的にないのである。[2038]
個人が獲得した知識、運動能力は遺伝しないことは、一般にも認められている。しかし、「生物が進化してきたからには、個個人の獲得した能力は、全体として集まれば遺伝情報として固定されるはずだ。進化が歴史的事実なのだから、獲得形質も遺伝情報に何らかの形で反映されるはずである。」こうした現象からの解釈に頼っていては、非進化論につけいるすきをあたえてしまう。自然の意志と神の意志は言葉は違っても、同じ意味である。[2039]
獲得形質が遺伝子を変化させ遺伝することになれば、人間の場合は環境への適応を超え、超自然的な存在へまで進化してしまう。獲得形質は人間の場合、文化として受け継がれている。遺伝による素質の基礎はあっても一人一人、一世代毎に教育され、訓練された形質として文化が継承されている。教育、訓練なしに獲得形質が遺伝するなら種の普遍性がなくなり、文化が人種を規定してしまう。社会的権力をもったものは生物的に進化し、抑圧された人々は生物的に退化してしまう。社会的に差別を持ち込み、非人間的な政策を合理化するために、時代の支配的地位の人間の優秀さを理由づけるため、何度も用いられている考え方ではあるが。[2040]


第2項 進化の過程

【原始生物】 海中、あるいは海底下に化学エネルギーを利用する原始生物が生まれた。今日の嫌気微生物の祖先である。エネルギー利用を多様化する過程で、有害であった酸素をエネルギー代謝に利用する微生物が生まれた。[2041]《2006.07.29 地球初めの大気は非還元的であったとのことで訂正した》

酸素を利用できる微生物をミトコンドリアとして細胞内に取り込み、この共生関係が今日の多くの生物個体の基本的代謝になった。ミトコンドリアは独自のDNAをもち、卵細胞経由で次世代に引き継がれる。このことが進化系統を探る一つの指標として利用されている。また植物の葉緑体も取りこまれた微生物であるといわれる。[2042]

【原生生物】

微生物は光合成による独立栄養の植物と従属栄養の動物とに区分されてきたが、動植物いずれにも区分できない原生生物を独立した区分とし、今日では3つに区分している。進化としては原生生物から植物と動物が分化したとされる。[2043]
原生生物は進化の上で、原始的な原核生物である細菌と、より高等な真核生物である菌類に分けられる。[2044]
細菌は藍色細菌(植物)も含め、DNAを1分子しかもたない単細胞生物である。膜で囲まれた細胞内小器官がない。太陽光、有機・無機物それぞれをエネルギー源とするものがある。[2045]
粘菌などは個体=細胞間での信号授受としてのコミュニケーションが成り立ち、飢餓凝集し多細胞生物に似た集団を作る生活還をもつ。[2046]
窒素固定をおこなう生物は細菌の一部だけである。マメ科の植物は根に窒素固定細菌を寄生させている。生物界に窒素を供給するのは、人間が肥料を工業的に作り出す以外窒素固定細菌だけである。[2047]

【真核生物】

18億年ほど前に真核生物が誕生する。原生生物としての真核生物は藻類、原生動物、菌類に分類される。真核生物から多細胞生物が進化する。[2048]
藻類は光合成をおこなう有機物の第一次生産者である。個体の大きな物は昆布のように全長50mにも生長する。[2049]
原生動物は単細胞で、光合成をおこなわず細菌を捕食したり、寄生したりする。アメーバ、鞭毛虫などの種類がある。[2050]
菌類は酵母、カビ、キノコなどで光合成を行わず、成体は一般に空間的運動もしない。酵素を出し有機物を分解して吸収し、有性生殖をおこなうものもある。[2051]

【多細胞生物】

単細胞生物の誕生が生命の誕生として地球史で画期的であったように、多細胞生物は細胞を超えた存在として生物主体を形作り、同等に画期的であった。[2052]
日常生活では多細胞生物が当たり前の存在であるが、生命体の量からして多細胞生物はごく少数でしかない。[2053]

細胞の分裂は、細胞間の相互関係の基本である。細胞の相互関係の下で分裂は生殖へと発展する。細胞の相互関係としての分裂は、多細胞生物への進化の契機として重要である。[2054]
単細胞生物は環境が許す限り自己増殖するが、多細胞生物は個体形成として自己増殖を自律的に制限している。多細胞生物の細胞は単に増殖して塊をつくるだけでは生存できない。塊全体の代謝を保証する組織をつくり、組織を構成する細胞を分化する。個体形成過程で不用な細胞は遺伝情報に基づいて自己死する。自己死はプログラムされた死=アポトーシスと呼ばれる。分化した細胞の相互依存秩序として個体を構成する。[2055]
自己増殖の自律的制限は個体、主体としての他との相互作用をも制御する。環境に対して閉じた代謝単位系としての個体を構成する。動物の場合、運動主体としても個体は他に対して働きかける。[2056]

単細胞生物には事故死、病死はあっても自然死はない。多細胞生物にいたって、個体死が実現した。[2057]
生物は生長し、活動することで物質代謝機能を低下させる。多細胞生物では全体の制御機能も低下する。物理的にも秩序は必然的に崩れる。生物の場合老化として代謝秩序が維持できなくなる。これを復活するため、物質代謝を単純化し、物質更新を一時に集中して行う。縮小した物質代謝系を回復する過程で、全体の構成物質を更新し、生命の活性を取り戻す。[2058]
生殖は多細胞生物の生活環の節をなす。生殖により、生命活動は生物個体としての限界を超え、永遠化の可能性をえる。[2059]
生殖は有性生殖へと進化し、遺伝子を多様化する。有性生殖は性愛と、家族の物質的基礎である。生殖は単に雌雄一対の関係だけではない。性を備える生物がすべてではないし、性別のある生物でも、雌だけでも子を生む種がある。[2060]
「雪虫」は1年間に複数の世代交替を経るが、その間、雌雄による生殖は1回だけである。しかも、世代によって住む環境を変える。ダニやハチの中には兄弟姉妹と近親交配するために雌雄の性比が違うものがあるし、魚には性転換するものもある。[2061]

【植物】

陸上への生物の進出は植物からであった。多細胞の独立栄養生物であるから、水中から伸び上がることができ、水から出ても水を蓄え、物質代謝を維持できる。[2062]
植物によって、その遺体腐食によって土壌が堆積した。植物によって二酸化炭素が固定化された。二酸化炭素の固定化によって、太陽エネルギーは、熱エネルギーから変換されてでんぷんとして蓄積される。[2063]

【動物】

進化の中で動物は特別な意味を持つ。動物は自らの身体を動かすことで空間を移動することができるようになった。生物学の動物定義にかかわらず、能動的行動は主体性の獲得である。他と区別される個体としての存在が、他との相互作用境界、代謝の交換過程面、生物学的には表皮細胞面で囲まれた身体を環境内に実現する。動物は生活環境内を移動し、代謝環境を主体的に選択する。動物の物質代謝は行動によって担われる。環境での物質代謝を自らの身体を制御することで制御する。この制御のための器官、神経系が発達した。[2064]
環境に対する積極的な動物の行動は、それ自体、餌生物、捕食者、競争者を含む生物的環境、そして無生物的環境の変化に対し、その種の存続を最優先に保証する方向に発展してきた、歴史的産物である。[2065]

【ヒトの進化】

進化は一般に環境適応としての特殊化であった。しかし、ヒトへの進化は特殊化しない方向性にある。ヒトは生理的、動物的能力として特別な進化はしなかった。ヒトは生物的条件によって生命が左右されないように進化した。唯一大脳皮質を進化させ、環境との相互作用を制御するようになった。ヒトは生命維持、物質代謝を一般化した。[2066]
人は遺伝子操作技術を手にしようとしている。遺伝子操作は生物進化、淘汰の機序を超えるものである。遺伝子操作技術の獲得は、自然の秩序維持の責任をも引き受けることになる。自然の秩序維持を考慮しなくては、生命秩序は破綻する。人間は自然秩序を理解する知性は人の欲望よりも強力であって欲しいが、まだ最終的に証明されていない。[2067]


第3節 生命の到達点

【進化の到達点】

進化は下等な生物存在からの高度化である。下等・高等の基準は歴史的なものである。構造的に下等・高等の区分もあるが進化における下等・高等の区分は歴史的であり、生物としての価値の上下ではない。構造的に下等な原生生物も進化の基準からすれば、歴史的最前線に位置する。動物と植物のどちらがより進化しているかなどは意味がない。進化が環境への適応であるとすれば、今現在の地球環境に適応している生物種はすべて歴史的に同じ位置にある。適応できなかった種が絶滅し、適応できても偶然の事件で絶滅した種もある。従って生き残った種が優れていることの保証は何もない。[3001]
これからの地球環境の変化に対応する既得の位置は平等である。構造からすれば、下等な構造の生物ほど多様化の可能性が大きい。構造的に複雑化したヒトは環境変化に対して、環境を変革することで対応する。これからは、人間は自らの生物的能力も改造しようとするかもしれないが。[3002]

生命、生物は多様化することで生き残りの可能性を拡大してきた。量的な組織の重複によったり、質的に組織を分化し、あるいは機能を転用することによって多様化してきた。可能性の拡大は多様な環境への普遍化であるが、同時に環境によって淘汰される。可能性の淘汰によって、環境に適応したものとしての特殊化が結果する。環境に適応できなかった厖大な可能性が否定され、残された現実性は精妙な、合理的にみえる有り様を現す。それぞれの能力は獲得されたのではなく、多様な可能性のうちから淘汰されて残ったのである。環境との相互作用過程では無駄なものはそぎ落とされるが、内部では多様化の痕跡が蓄積される。遺伝情報を担わない塩基配列や、厖大な大脳新皮質、思い出記憶など。結局進化はひとつの正解を探り当てるのではなく、試行錯誤の結果として実現する。到達点でのあらゆる可能性を試すことで進化は実現してきた。[3003]


第1項 身体

動物個体はその身体性によって環境との相互作用を主体的なものにした。植物にも食虫植物のように動物と同じように素早い運動をするものもあるが、多くの動物は移動可能なことによって主体性を実現した。主体的環境との相互作用によって、認知能力を獲得した。[3004]
個体としての主体的運動は環境との相互作用を超える運動である。物質代謝、刺激と反応としての相互作用を超え、個体を保存し、個体を増やす方向性をもつ運動である。方向性の実現は制御系に担われる。刺激に対して生存可能性を拡大し、淘汰をくぐり抜けるものが生き残り、子孫を残す。刺激に対する反応を制御することが生存可能性を拡大する。[3005]
刺激反応過程の淘汰によって、刺激を区別する感覚系と反応を実現する運動系とを組織、器官として分化する。感覚と運動の分化は同時に統合する組織、器官を神経系として実現する。[3006]
多細動物は身体のそれぞれの部分で異なった刺激を受ける。異なった刺激に対して一個体としての反応は、多様な刺激を比較評価することで決定される。異なる多様な刺激に対して、いくつかの反応か可能であることで比較評価の有効性が試される。多様な刺激評価と、反応選択とは相互に規定し合って発達する。多様な刺激を評価することで刺激そのものの対象化を超えて、刺激の原因を対象化して反応する。知性として評価し、反応を選択するのではなく、刺激・反応系を獲得したものが生き残り、刺激・反応系を発達させたものがその制御系として知性を実現、獲得した。[3007]
感覚系、運動系、制御系が組織、器官として機能するにはその運動を生理的に実現する代謝組織、器官もあわせて発達する。呼吸に必要な肺と心臓・血管系、その他の物質代謝を担う消化・吸収・排泄系、肝臓、膵臓、腎臓、脊椎動物では免疫を担う脾臓、等がある。感覚系、運動系、制御系、代謝系は相互に依存し、相互に規定し合いながら全体としての身体を構成する。[3008]

主体的運動の制御は環境条件への対応である。決して勝手な運動ではない。環境条件への対応を通して、環境条件を記憶し、区別する神経系が発達し、世界観をもつまでになった。[3009]


第2項 認知

普通、感じることのできるものを確かなものとし、感じられるものを当然の存在と思っている。対象は感じることによってしか知りえないのであるから当然のことである。しかし、感覚能力に限界があるのも確かであるし、様々な道具、設備によって感覚能力を超える対象の有り様を知ることができる。感覚が主観的であることは錯覚や、図形の見え方の偏りからもわかる。認知関係科学の発達は感じることが常識的解釈ほど単純ではないことを明らかにしてきている。感覚についての常識的理解も突き崩される。[3010]

認知を問題とするとき、「知ること」「理解すること」と狭く捉えることが多い。「理知」的な人ほどその傾向が伺われる。しかし、生物進化からすれば生存に有利か否かが基準である。理知するだけでは生存に有利にはならない。理知は環境、あるいは対象への対応を見通すことで生存に有利になる。生活実践を導く能力として認知能力が進化したのである。感覚も運動と相補的関係にあり、理知は現実変革という実践過程に位置づけることで理解できる。[3011]

【感覚器官】

人の感覚器官には眼、耳、舌、鼻、皮膚がありそれぞれ視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚を担っている。しかし、感覚はこの五感にとどまらない。平衡感覚と身体の各部分の位置、圧力から姿勢を感じ取る。それぞれに特化した感覚器官があるが、感覚器官だけでは機能しない。まず、各刺激の感覚受容器があり、刺激は感覚受容器の感覚細胞を物理化学的に刺激し、感覚細胞は神経細胞を発火させる。神経細胞の発火信号は感覚受容器を出て神経細胞網へ伝わる。神経細胞網へ伝えられた発火信号は生理的にはすべて同じであり、神経信号としてはすべて同じ電気化学的反応である。[3012]
感覚受容器からの信号を感覚として意識するには、臭覚をのぞき神経細胞網での数次に階層化された中継点を経る。各中継点では信号相互が比較され、加工され、各感覚の統合中枢へ伝わる。神経細胞網はいくつもの段階で信号処理をし、情報を加工している。感覚統合中枢での神経細胞網の反応を意識は対象化し、感じることができる。痛みや快感を感じるのは脳である。失った腕の痛みを感ずる幻肢がこのことを示している。[3013]
神経細胞の生理的反応としてはすべて同じでも、連関のしかたで区別される。神経細胞網の連関の仕方が互いに対象化し合い、互いを評価することで感覚がえられる。体を動かすことは身体の対象に対する働きかけであると同時に、身体の運動自体を運動感覚として感じる。時間感覚は様々な運動リズム、物事の前後関係だけではなく、「体内時計」にも制御されていることは時差ぼけが教えてくれる。感覚にはさらに、美的感覚、道徳的感覚等の価値に関わる感覚もある。価値に関わる感覚は理性や論理からは独立した、感覚の中でも高次の感覚である。[3014]

味覚と臭覚は分子が感覚細胞を化学的に刺激する。味覚は唾液に溶けた分子、臭覚は蒸発した分子に反応する。臭覚は味覚と関係していて、臭覚が失われると味覚も変わる。進化上、味覚と臭覚は生存にとって直接的な感覚器官であり、特に臭覚は記憶や情動との強い結びつきがある。[3015]
触覚は皮膚全般での感覚であり、他の器官内にもある。触覚は皮膚の対象との接触だけではなく、皮膚自体の変形にも反応し、身体の全体を捉えている。皮膚にある受容器は温度、痛み、そして機械的刺激に反応するものが区別される。これらが組み合わさって接触している物の質感、振動などの運動を捉える。[3016]

聴覚は主に空気の振動を捉える。音波の振動数の違いは高低として捉える。音波の振幅は大小として捉える。波形の違いは音色として捉える。両耳への到達時間の差と音波の位相差から音源の方向を捉える。[3017]
聴覚は単に音の振動をとらえるだけではなく、それぞれの発信源を区別し、その変化をも感じ取る。視覚が異なる色を混色して一つの色として感じてしまうこととは異なる。[3018]

【視覚】

人は普通視覚にたよって生活しており、脳の感覚情報処理量も視覚が圧倒的に多い。空間の理解も、世界の理解も視覚に多く依存している。晴眼者には物を見ることは余りにも当たり前であるが、物を見ることは写真を撮ることほどに単純ではない。視覚のしくみは非常に複雑であり、精緻である部分と粗雑な部分とが組み合わさり、さらに主観的に処理されている。[3019]

視覚も進化の過程で獲得された。生活環境のなかで光の来る方向、対応する運動の仕方で視覚器官の身体上の位置が決まった。ミミズと脊椎動物との視覚器官の違い、魚や牛馬と人とには視野の違いがある。視野を広くとるか、立体視をとるかは生活環境によって異なる。感じることのできる光の波長範囲は、生活環境である地球での太陽光に応じて決まった。光源温度6千度のエネルギーで波長400〜700ナノ・メートルを可視光として人は適応している。ひとたび受光の組織ができれば、組織は受光に特化することが淘汰圧になる。よりよく光に反応することが有利になる。眼の視覚機構は種によって大きく異なるが、それぞれ生活環境に適した機構を獲得している。明暗の区別は、影を認知し、影を像として抽象する。像を区別することで環境を評価する。視覚像を区別することで餌を見つけ、自らが餌にならないよう敵を見つける。視覚による捕食関係で個別存在を対象とする運動能力が飛躍的に発達した。カンブリア紀に視覚を獲得したことによって種は一機に増えたとする説がある。[3020]

人の視覚は写真機に例えられ、光量の調整、焦点の合わせ方が説明されるが、写真機であっても機械的に写しとってはいない。フィルムは現像することで像を化学的に再現し、保存することができる。CCDであれば光信号はメモリに磁気的に記憶され、ディスプレイの上に再現する。レンズを用いて像を結ぶ仕組みは眼と写真機とで同じであるが、像を処理する過程はそれぞれに異なる。眼に入った光は網膜で像を結び、網膜の視細胞によって神経信号に変換される。[3021]
網膜では光を神経の信号に変換するだけではない。視細胞からの信号を受ける網膜の神経細胞は信号を組み合わせて画像処理し、光量情報、位置情報、色情報として視神経へ伝える。網膜の神経細胞網では側抑制によって濃淡の区別を強調することで境界を輪郭線として際立たせている。3原色を4色関係に変換し、その結果反対色特性が現れ、それぞれの原色に反応する神経細胞は反対色に反応する細胞を抑制する。また光のあるなしに反応し、素早く脳にまで伝達する神経系と、光の強弱を脳へ伝達する神経系が分化してある。視神経は集まって眼から出て脳へつながる。[3022]
脳では視神経が分岐し一部は聴覚情報、前庭器官からの頭の位置情報と共に身体の空間的位置を把握する。一部は体内時計を担う部分で日周リズムを調整する。その他の信号が視覚情報として大脳の分化した部分で次々と処理される。後頭部にある一次視覚野までで網膜で処理された画像要素を解析し、特徴を区分する。輪郭線も線分の傾き、方向、長さをそれぞれ区別して神経細胞群が反応する。一次視覚野からは色、形、大きさ、遠近、動きを解釈して意味づけるそれぞれに分かれた領野に伝えられる。最後に聴覚、臭覚、触覚などの情報と統合し対象を解釈する。ただし、統合するのは視覚像としてではない。それぞれの経路に分かれた分析と解釈に要する時間は異なり、像として統合することは物理的にできない。[3023]

視覚は眼で物を見ることとして単純に解釈して日常生活に支障はない。しかし、眼がとらえているのは光であって物ではない。光から物を解釈しているのは神経組織である。見ることの生理的過程と、見えを解釈する心理的過程がある。しかも、どちらも発生の段階で視覚組織、神経組織ができあがるだけではなく、見ることを経験する過程が不可欠である。[3024]
視覚は必要なところしか見ていないし、不要なところは見ていても、見ていなくても気がつかない。網膜で焦点が合っているのは視線上の一部分であるが、視界全体を鮮やかに感ずる。色を区別する視細胞も視線上に集中しているが、視野全体をフルカラーとして感じる。網膜での像はレンズをとおして倒立しているのに、対象は正立して見える。盲点には視細胞がなく、光を感じることはできないが、視界に欠失した部分を感じない。網膜は面であるにもかかわらず、対象は立体的に見える。それぞれ実験によって客観的に確かめることができる矛盾である。これらの矛盾を意識しないのは、視覚の情報処理のしくみによっている。さらに視覚情報処理のしくみによって、多様な錯覚が生じる。[3025]
色は光の波長を区別する解釈であり、主観的である。網膜には赤、緑、青それぞれに相当する波長の光りによく反応する視細胞が分布している。それぞれの視細胞は赤、緑、青に相当する波長の光に反応して信号を出力するが、この信号を受ける網膜の神経細胞で演算処理され、黄色を加えた4色関係に変換して視神経に伝える。客観的には画像ディスプレイのように赤、緑、青とそれぞれの光の強弱によってすべての目に見える色を表すことができる。しかし、主観的には青の反対色としての黄が、赤と緑が反対色として色の関係を構成し互いの色刺激を抑制する。可視光のすべての波長に渡る光りを白く感じ、光りの強度によって灰色から黒へ連続する変化として見える。より大きな反射率の白は銀色に感じ、黄色が加わると金色に感じる。茶色は波長の違いとしてではなく、赤に灰色が加わることで見える色である。このように色が主観的な性質であることは混色によって確かめることができる。色とりどりの点が集まって別の色に見えるのは印象派の点描手法でもある。コマの表面を色分けして回転させれば別の色が見える。決して光の波長が変化するのではない。他方聴覚では混合は起きない。オーケストラの演奏でも各楽器の音色は別々に聞こえる。合唱でも各パートを聴くことでハーモニーを感じる。[3026]

感覚は一般的に対象を個別化してとらえようとする。全体のなかに部分を個別として捨象する。個別として他から区別することは、対象の秩序を抽象することである。パターン認識は対象にある秩序の抽出である。パターン認識としての秩序抽出を感覚は生理的にも、意識的にもおこなっている。[3027]
ランダム・ドット・ステレオグラムでは左右それぞれの眼に入る画素を見て、対応関係にある画素と無秩序の画素とを見分ける。対応関係という秩序を見いだすことで対応秩序がちょうど視差と一致して浮き上がる像が見える。対応関係にある画素の秩序を抽出することで遠近を構成している。意識的に画素の対応関係を確認することは試みる気にもならない根気を必要とする。眼は無意識のうちに左右の画像を比較して、そこに秩序を見いだす。渦巻く木目に人の顔を見いだすように、視覚も意味や秩序を見いだそうとしている。[3028]
パターンを認識するための情報処理が様々な錯視を生む。錯視であることを確かめても、分かっていても客観的な形を見ることはできない。相補的なパターンは一度に一方しか見ることができない。ネッカーの立方体の例やゲシュタルト図形の数々。向き合った人の顔が見えれば杯を見ることはできないし、杯を見たのでは人の顔は見えない。老婆が見えたなら、婦人は見えず、婦人が見えたなら老婆は見えない。同じ図形を見ているにもかかわらず、見える範型は異なる。範型は意味づけられた他との区別として群化、分節化され、符号として認識される。視覚は意味づけられた、構成された視界を獲得する。視覚も地と図それぞれの秩序をとらえるが、意味づけることによってどちらかの秩序しか見ることはできない。秩序は他との比較によって意味を与えられる。感覚も秩序に意味を見いだしている。[3029]
空間秩序も眼だけではわからない。物体は眼との距離によって網膜に異なった大きさで写る。網膜像と水晶体の調整と両眼視によって距離感を得て、物の大きさを理解する。物の大きさの理解は視覚経験によって獲得される。経験することのできない太陽や月との距離にまでなれば、地平線上の太陽や月は大きく見え、天空では小さく見えてしまう。線分や図形の水平と垂直の長さは見え方が違ってしまう。これはわれわれが地表表面で進化してきたからであろう。さらに、実生活空間での水平と垂直の距離の見積もり能力に差があることが体験できる。幅や奥行きはだいたい言い当てることができるが、高さや深さはよほど経験を積まないと分からない。地表にいる人は遠くても近くても同じ大きさの人に見えるが、高層ビルの上から地表の人を見るなら小さく見える。[3030]

視覚器官、視覚神経網も遺伝情報にしたがって形成されるが、眼がある、視神経がある、脳があるだけでは対象の輪郭を捉えることもできない。視覚は客観的に、受動的に光を受けているだけではなく、主観的に光の信号処理をし、主体的に対象を見ている。視覚情報処理をすることによって、必要な神経細胞間のシナプス信号伝達が機能し、強化される。人も誕生してから見る訓練をしてから物事を見ることができるようになる。視覚の能力もヒトの場合、2歳頃の臨界期までに視覚体験をしないと、視覚は正常に発達しない。例えば先天性の白内障の開眼手術などで報告されている。この視覚訓練過程をランダム・ドット・ステレオグラムで追体験できる。ステレオグラムや3D画は通常の視線とは違う見方、交叉法、または平衡法によるため練習が必要である。ひるがえって、鏡を見る時も鏡を見ることから、鏡像を見るまでにも慣れがあった気がする。絵画の鑑賞でも訓練に応じてより豊かに見えるようになる。[3031]
また、焦点が合って、詳細に見ることのできるのは視線方向だけであるが、視線方向だけを見ているのではない。広がりのある対象を見るには視線を移動させる。連続的に視線を動かすと画像が流れてしまうため、一点一点に一時的に視線を固定し、次々と特徴点に跳躍して見る。この際視線の先だけしか見えないように制限すると対象を理解することはできない。視界の内に全体を見ながら視線先の部分を次々と見ることによって対象を理解する。全体を視野に捉えながら視点が跳躍的に特徴点を移動することで範型を理解する。視線方向は意識的に制御できるため、見ているのは視線方向であるかのように思ってしまうが、パターン認識は視野、それも立体の場合には両眼の視野全体の中に対象部分のパターンを見出す。範型=パターンを見るには全体を視野のなかで捉える。個別対象の全体を視野の中に抽出する。[3032]

視界に動く影が入ってくると反射的に視線を向ける。生きる上で必要な反射である。対象を解釈、理解する以前にとらえようとする視覚の基本的な主体的機能である。視線の移動は無意識であっても、主体的な意志によっている。[3033]

光学像を「見て」いるのは網膜上である。しかし、網膜上に結像した対象を「見て」いる者=トムンクルスはいない。網膜上の像は視細胞の興奮として捉えられるが、視細胞が捉えるのは視細胞に到達した光であり、像ではない。網膜上の像は視細胞によって捉えられるが個々の視細胞は像を捉えてはいない。視細胞からの信号を脳に伝える視神経細胞も像については何も表現していない。意識は人体内に何らかのスクリーン状の場をもたないし、スクリーン上に映像を映して対象を見ているのではない。神経細胞の信号送受は相互的であり、いずれかの領野が最終的に統合解釈するような連結はしていない。対象が網膜上に結像する経験を、主体が「見ること」として意味づけているのである。それぞれの視覚野で処理された対象の特徴解釈は、主体が見ている対象に重ねられている。網膜上に結像する光学過程を意味づけ、解釈しているのである。網膜上の像がなくては像を見ることができないことは、目をつむってみれば明らかなことである。どこかに内的な再現スクリーンがあるなら、目をつむっても像を見ることができるはずである。目をつむっても見えるありありとしたイメージは、決して対象の表象ではなく、意味づけられて記憶された抽象的表象でしかない。[3034]
視覚は眼から始まり、脳が反応する全過程として像を描いているのであり、脳内のどこかの領野に画像、映像が保存されるのではない。それこそコンピュータで記録された画像がビット列でしかないように、その再現はディスプレイがなければ再現されようがない。記録されたデータ信号があるだけである。他のデータと同じ物理的電磁的パターン列である。コンピュータ内ではビデオRAMが画像を扱っているが、人がこれを映像として解釈するにはディスプレイ上の光点に再現することで解釈する。[3035]
ただ、夢の中ではありありと見える。夢の中で「ありあり」と感ずるのは網膜上の像を解釈している経験を疑似再体験しているからである。目をつむって意識的に対象像を見ることはできない。つまり、光学過程として、生理的過程として視覚経験できなくては「見る」ことはできない。対象をより詳細に区別した経験があって、より詳細にありありと思い出すことができる。[3036]

「物をありのままに見る」というが、眼で見ることだけでも「ありのまま」は定義できない。見ているのは客観的対象像であって、脳内では神経細胞網の発火反応過程でしかない。ひとつの視覚対象によって視覚関連の各領野でそれぞれに特徴を区別する諸信号処理過程が引き起こされる。線分の傾き、方向、長さそれぞれを、その量に対応する細胞群=コラムが反応し、区別する領野がある。それらをさらに太さ、間隔等に区別する領野がある。意識はこれら多様、多層な発火反応過程を対象化し、一体化して視覚対象に重ねている。脳内の多様多層の反応過程を、多様多層の特徴として対象を表象する。この対象表象には知識と経験とが関連づけられていている。知識、経験と関連づけられた表象が視覚表象に重ねられる。この重ねることが、重なることが見ることであり、視覚認知である。対象表象の想記も発火反応過程の再現を対象と重なっているものと解釈している。特徴を区別する発火反応過程をそれぞれ対象表象として信号、象徴、記号、観念、概念等々さまざまな階層をなす実在対象の性質を記憶と結びつけ、視覚対象に重ねることが見ることである。こうして対象を見ているのはトムンクルスではなく、我々人間主体である。視覚器官や脳だけでなく対象と主体的に向かい合う関係で、自分が見るのである。[3037]
意味表現として、対象化での解釈が重要な働きをしていることになる。主体としての人間が生きる上で対象化する物事が個別化されて見えてくる。サルやヒトの場合、相手を見る場合には顔や手が注目され、特に眼、口の情報処理に特化された視覚イメージ処理がある。視覚には社会的関係の影響以外にも、文化的影響もある。分子や原子、素粒子など、また膨張宇宙、社会、国家など見ることはできず想像するしかない。解釈であるから生活環境、社会的傾向も作用することになる。当然に科学の到達点も、科学の普及度合いも反映することになる。[3038]
この意味づけによる対象「表象」こそ、実在とは別の「観念」としての存在である。認識されるのは構成された像である。構成された像は観念であり、物質ではない。実在は、世界は認識によって構成される物でないが、認識は世界を構成する。ビデオカメラをとおして対象を見る場合、リアルタイムであるか、ビデオの再生であるかは表示がなければ画面から読み取ることはできない。構成された世界感、世界観が対象世界と、実在世界と重なり合うことが真実、真理の把握である。[3039]

【人の感覚】

人間の認識として感性的認識も人間的過程である。視覚においても、対象の存在、主体との関係だけではない。人間は形も認識する。サルであっても四角らしさを判断することができる。ヒトは形を認識することを誕生後に学ぶ。形は他との区別としての輪郭の抽出であり、対象の存在そのものではない。形は対象の他との関係を媒介して抽象され、対象には属しない性質である。四角い平面も斜めから見れば台形に見える。形は既に抽象化された感覚である。人間の視覚は周辺の図形との関係により錯視が不断に起こる。錯視は人間の視覚が対象を直接的に認識していないことの例証である。[3040]
人間は道具を使用しなくては日常的なスケールでも直線を識別できない。それでも人間は対象が物差しであると知るると、物質の平滑さを超越する直線をその輪郭に具体的に見る。定規を構成する分子、原子の並びの乱れは見ない。形の認識は形式の認識である。他との区別による形式の認識は分析的であって直感ではない。人間の認識は認識道具の分解、変換機能とは違い、統合する認識であり、えられる結果は諸秩序形式全体に位置づけられている。[3041]

感覚による認識、すなわち感性は受身ではない。例えば鏡を見る場合、ガラスでできた反射板を見るか、写された像を見るのか、焦点を合わせるといった生理的運動にあっても、対象についての知識と、関わる意志が必要である。[3042]
生物個体の生活活動過程としての運動に、感覚器官を経て反映される過程が感性的認識である。その意味で、動物的認識といいうるが、感覚的認識として位置づけられるのは人間認識の段階としてである。ほとんどの動物にとっては感性的認識がすべてであり、それは即実践の過程である。感性的認識と理性的認識と区別されて措定されるのは人間の認識であり、それは既に単なる動物レベルの認識ではない。[3043]

生理的反応運動としての感覚は、感覚器官への外界からの刺激から始まる一連の継起的反応連鎖とその統合としての再帰過程であるである。それは、生体の活動として統制されている。意味づけが行われ、単なる継起的反応が組織的に展開される。単なる生理的反応の運動としてはなかった運動が現れる。生体の活動としての統制そのものも発展し、より高次の統制を受ける。それが神経系による統制であり、ここで感覚器官の意味づけが行われる。[3044]
人間は感覚を実践=現実変革の一環に組織し統制する。感覚−認識−知識−意志−実践−感覚−…からなるが、一方向のみのサイクルではない。体内感覚、体内環境の認識、実践感覚いわゆる勘所、運動制御のシステムとして実践的である。感覚的に反映される情報は生物的、動物的、人間的、各レベルで操作され、意味づけられるものが統制され組織される。単なる光、音、分子、温度、圧力、湿度等等、単なる餌、代謝の快適さ、といったことではなく、世界認識として、すなわち実践の指針、方向を示すものとして人間の感覚はある。これこそが、コンピュータの情報処理との決定的な違いである。[3450]

人の場合でも感性的認識の基本は生命を直接脅かす対象の認識、生命を維持するに必要な対象の認識である。人間の場合それに止まらず、感性的認識は生に関わる一次情報である。生活の豊かさの基礎には感性的認識、一次情報の豊さがある。芸術性の根源がここにある。[3046]

【中枢神経系】

神経系は感覚器官と運動器官を制御する。脊椎動物は脊髄によって反射反応を実現している。感覚器官の入力信号を運動器官に出力する神経は、運動の結果を再帰=フィード・バックさせる器官として、中枢神経系として発達する。脊髄での反射は個々の運動器官の制御であるが、個体全体の制御を調整するのは後脳である。大脳でも中心溝を挟んで体性感覚皮質と運動皮質が隣り合っている。[3047]
【メモ:人の脳】
ヒトへの進化過程で後脳、中脳、前脳へと線状に順次発達してきた。後脳は延髄、小脳、橋が区別される。中脳は左右対をなす上丘と下丘が区別される。前脳はやはり左右対をなす間脳と終脳とに大区分される。間脳は視床と視床下部が区別される。前脳は中隔、基底核、海馬、扁桃核、大脳皮質が区別される。
後脳の延髄と橋は呼吸と心臓のリズムを制御する。小脳は基本的身体運動を学習し、制御する。
中脳の上丘は視覚情報、聴覚情報、頭の位置情報を処理し、身体の空間的定位を担う。また、音のした方向に視線を向けるなどの視覚の制御も担う。下丘は聴覚情報を中継する。
間脳の視床は前脳への信号の出入りを中継し、視床下部は自律神経系を制御し、下垂体ホルモンによって身体を調節する。
前脳が知性を担う。中隔、基底核、海馬、扁桃核は相互に分担して情動と記憶、運動の一部を担い、辺縁系と呼ばれる。大脳皮質は環境の変化を把握して、個体の運動を方向づける。意識が対象化できる、意識できるのは大脳皮質へ反映された感覚情報と、辺縁系からの情報である。意識は大脳皮質への反映を対象化し、意味づけることとしてある。
大脳皮質は大きく大脳縦裂によって左右の大脳半球に分かれ、脳梁によって繋がっている。大脳皮質の全体は脳溝によって、前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉に分かれている。前頭葉と頭頂葉を分ける中心溝を挟んで運動を制御する皮質と体性感覚を受け取る皮質が前後に配置する。前頭葉は個体の主体としての調整を担い、運動を制御する。頭頂葉は感覚を統合し反応を担う。側頭葉は音、空間認識や言語処理を担う。後頭葉は視覚情報処理の初期段階を担う。
大脳皮質の外側は灰白質と呼ばれる神経細胞の層で、5mm弱の膜がしわくちゃに折りたたまれて、脳全体を包むようにしてある。灰白質の神経細胞からの神経繊維が脳内の様々な神経細胞間を連絡している。皮質の神経細胞はさらに垂直方向に大きく6層が区別される。また、皮質は水平方向に神経細胞層を貫く柱状のコラムに区別される。コラムはさらに信号処理単位であるミニ・コラムによって構成されている。ミニ・コラムは外部からの入力、コラム間での入力、コラム内の信号処理、外部への出力を担う通常100個ほどの神経細胞によって構成される。ミニ・コラム間の順次の信号処理によってコラム単位の情報処理が行われる。感覚細胞で区別された刺激は区別に対応するコラムに伝わる。どのコラムが活性化するかで感覚情報が表現される。例えば、一次視覚野では線分の傾きに反応するコラムが、傾く程度順に並んでいる。
大脳皮質での情報処理はコラム単位で行われるが、コラムは大脳皮質それぞれに区別される部分=領野で異なった情報処理を担う。大脳皮質でのそれぞれの情報処理は階層化され、階層ごとに異なった領野で担われ、順次、そして相互に連関して処理する。言語は音韻を聞き分ける聴覚系、文字を読む視覚系、発話・書記する運動系の諸領野全体が統合される高度な情報処理を必要としている。言語に関する情報処理は左大脳半球がにない、発話・文法を担うブローカ野と意味処理を担うウェルニッケ野が主に言語野として区別されるが、他の部分角回・縁上回でも言語に関わる情報処理が担われ、また全体が相互に依存している。文字単語、音韻の認識といった基本的要素機能から、意味処理まで複数の段階を経て処理される。そのため、大脳の局所的機能障害によって様々な言語障害が発症する。
感覚からの入力信号はそれぞれの感覚情報の特性を分析する野、感覚対象を認知する感覚ごとの領域、前頭、頭頂、辺縁、側頭を経て、頭頂連合野、側頭連合野、後頭連合野で統合される。[3048]

脳は個体が必要とする情報処理容量をはるかに超える処理能力を持っている。しかし、これは進化によって説明できない過剰さではなく、多様な情報処理の質的容量として獲得された能力である。信号量に対応するなら過剰であっても、意味を階層化して処理するのには必要な容量である。[3049]
脳は機能分化していても、情報処理は神経細胞網全体でおこなわれる。成人してからの脳の欠損は様々な障害を発症するが、幼いときの損傷は残された部分でほとんどの機能を分担するようになる。幼児期に大脳皮質の半球を失っても残った半球でほとんど正常に機能する可塑性が脳にはある。[3050]

物質的、生理的基礎としての脳だけで精神活動は成り立たない。脳へ情報を入出力する神経系、感覚器官、運動器官があって成り立つ。脳も組織であり、遺伝情報によって神経細胞網は生理的にできあがる。軸索が結びつくべき細胞を目指して伸びるのも、個体発生過程で決まっている。言語の習得能力も、文法運用能力も、大脳皮質の言語関係野に先天的に準備されているという。脳神経細胞は出生時にはすでにその数のすべてが作られ、基本的に増えることなく、減少する一方である(記憶を制御する海馬では神経細胞も新生する)。出生後数年でできあがった大脳皮質の神経細胞の変化は、使われる神経細胞が残り、不要なものが死滅する。知的能力は神経細胞の軸策と樹状突起間のシナプス結合の増加、神経伝達物質のやりとりとして経験によって育つ。[3051]
身体の状態としての体内環境の変化は、直接精神活動に影響する。酸素、アドレナリン、エンドルフィン、アルコールとその分解生成物などのように精神活動へ決定的に影響する生理物質は多数ある。精神活動、知的活動も物理化学的作用から離れてはありえない。[3052]
脳は感覚からの刺激だけでなく、脳内の活動が相互に作用し合う。脳は身体重量の2〜2.5%しか占めないが、摂取エネルギーの20〜25%を消費している。筋肉は運動しないときには休むことができるが、哺乳類の脳細胞は脳が活動している間は休むことができない。身体は座るなり、寝転ぶなり部分的に休むことができるが、脳は全体の関連として活動しており、部分を休めることはできない(イルカは左右の脳が交替で眠るというが)。脳の活動の全体性と相互作用を考慮するなら、1日単位の睡眠の必要性は当然のことと思われる。[3053]

人の中枢神経系は対象を、世界を認識し、主体としての行動を制御していいるだけではない。特に大脳の言語野のある半球、普通は左半球が対象の解釈だけでなく、自らをも説明する。中枢神経系は自己正当化を担っている。[3054]
人は膨大な知識と経験とを記憶し、記憶を参照しながら行為、行動を判断している。しかし、すべてについての知識を持ってはいないし、持っている知識もすべてが確かではない。知識には真実として獲得したものも、小説などの虚構を介して獲得した知識もある。「真実」として獲得したはずの報道機関からのニュースも多くの誤りを含み、時には情報操作が行われている。「真実」として学んだ物事の記憶は失われることも、歪んでしまうこともある。その上で判断する人はその根拠を信ずるか、賭けなければ行為、行動ができない。人は自らの行為、行動を説明するための根拠を信念として形作る。自らにとって真実であると同時に、行動指針として経験し、試してきている根拠を信念として形作る。同時に信念であっても反省する能力も獲得してきたはずだが、失敗経験がないと反省能力も衰退してしまうらしい。[3055]
信念があるとか、信念に従うとかで人によるのは程度の違いである。信念を形成するのは人の中枢神経系の生理的成り立ちによる。解剖学的に欠陥がなければ、誰もが信念を形成し、自己正当化している。信念や正当化の内容、その当否は中枢神経系の問題ではない。解剖学的欠陥を無視するように信念は機能するらしい。[3056]
生物進化の延長上では経済的、社会的、精神的に有利に、さらに配偶者獲得に有利に信念を形成し、自己正当化するものが淘汰をくぐり抜ける。宗教組織の社会的成功はこの信念、正当化に応えることによって達成される。しかし、人は自らを超えようともし、屈折もする。宗教であっても信仰を深めるには社会的組織にかかわらず、自らを超えることによる。数々の宗教改革は宗教組織によって与えられる信念、自己正当化を、そこに位置する自己を超えることによって達成されてきた。[3057]

社会生活をする人には、類人猿であっても遺伝的に社会性がある。むしろ社会関係を破壊的な諍いなしに維持するために人の中枢神経系は発達してきた。端的な例がチンパンジーに発見されたミラー・ニューロンである。他の個体の行為、行動を見ることで、自らが行為、行動する時に働く大脳領野が活発に活動する。[3058]
人も相手の行為、行動に自らを重ねて反応する。人は道徳訓として「相手の身になって考える」ことを強調するが、大脳皮質そのものが自らを相手に重ね合わせて生理的に反応している。人が痛い目に遭っているのを見ると、痛さを感じる。人が痛い目に遭っているのを想像したのでは痛みを感ずることはなく、想像できるだけである。[3059]
相手に自らを重ね合わせることによって、他者を理解することができる。絶対に経験することのできない他者の意識を理解することができる。相手の身になって、相手の行為、行動を予測できることで、理解できたことを確認する。相手の、他者の身になる身代わり能力は理性的な、道徳的なだけのことではない。生理的に大脳皮質が行っていることである。人の場合、遺伝的に身代わり能力があるが、経験的にも身代わり能力を訓練している。赤ん坊が親を、大人をまねて学習するのも、身代わり能力による。鏡に映った自分の左右が反対に思えてしまうのも身代わり能力の表れである。[3060]

【秩序の認知】

意識することは難しいが、感覚器官でも、中枢神経系でも意識にかかわらず秩序を探査している。秩序がなければでたらめな感覚刺激であり、何も見いだせない。一様であっても秩序がないことと同じである。白い壁の前では焦点の合わせようもない。雲の中の中では方向感覚が失われてしまうという。網膜では神経細胞間で側抑制が働き、濃淡の違いを際立たせて輪郭を抽出している。輪郭、形は保存される空間秩序である。敵を知り、餌食を追うには動く物を敏感に見つけ出すことが有利であるが、動きはそのものが変化せず他の物、環境との関係が変化する。空間的運動はそのものが変化せず、さらに他との関係が連続的に変化する秩序であり、運動法則として把握される。ランダム・ドット・ステレオグラムでは左右の対応秩序を見いだす。認知は感覚器官でも中枢神経系でも秩序に反応し、秩序を見いだそうと能動的に働いている。もともと、見いだすだけではなく秩序を作り出さなくてはこの世には存在することもできない。[3061]
秩序を見いだすこと、パターン認識を人は無意識のうちにおこなっているからこれを工学的に実現することが難しい。工学的に難しいことであっても進化は実現したのである。ランダム・ドットの一つひとつの位置を確認し、記憶し、比較することは難しいが、視線を動かし、ピントの合う位置を探すことは訓練すれば容易にできる。[3062]
秩序を実現している対象を個別として認識する。秩序は主観的に見いだすのではない。対象が個別としての秩序を実現し、保存して存在しているのである。一定の空間を占め、一定の時間保存される秩序を個別の存在として認識する。日常的には保存される秩序が物質の存在形式である。その物質の存在形式を見いだすように生物の認識器官は発達してきた。非日常的量子力学的存在形式を認識し、理解するようには進化してこなかった。[3063]

秩序を区別し、個別を認識する能力は秩序の秩序をも対象にする。個別的秩序から個別間の普遍的秩序を把握する。存在そのものが一つの秩序から多様化してきたのであるから、異なる物にも共通点がある。最低限「存在する」という共通点が。より普遍的秩序を認識することとして人間の知性は発達してきた。秩序を発見した喜びは科学者でなくとも体験できる。人類にとっての新発見でなくとも、自分に理解できなかったことが理解できた時に発見の喜びを感じることができる。[3064]
普遍的秩序は抽象的である。抽象的形式を扱うことが知性的であるとの驕りもあるが、もともと秩序という抽象を生理的にもおこなっているのである。普遍性の存在根拠は存在の運動秩序にある。存在の運動秩序に人は普遍性を見いだし、法則として表現する。秩序には、法則には普遍性と個別性の程度の違いがある。程度の差を絶対的差と思い込むことで驕りに縛られる。対象秩序の説明を観念秩序として記憶するだけの知性は役に立たない。[3065]


第3項 学習・記憶

記憶の区分については第一部第11章認識で扱った。プライミング記憶について追加しておく。プライミング記憶は文章を読む時など既に読んだ文、単語が記憶されていて、続く文を読む際に参照される。文章を効率よく読み取ることができるが、似てはいても違った単語などは読み飛ばしてしまうことも起こる。[3066]
記憶もまだ解明され尽くしてはいない。しかし、未知でもない。記憶は物質に変換、記録することができる。言葉も論理も、画像も、音も、物理的に記録し、再生することができる。ところが人の記憶となると神秘的である。記憶する物、記憶を再現する物、記憶を解釈する物が同一のものであるから。記憶が対象でありながら主観であるから。[3067]

【記憶の物質的基礎】

個々の記憶を保存する記憶物質はない。記憶は脳の神経細胞、神経細胞網の物理的、生理的状態としては存在しない。個々の記憶内容、記憶要素が直接物質によって媒介されてはいない。コンピュータの記憶でも素子に蓄積されてはいない。記憶は単に記録表現ではなく、再現可能な物質秩序として保存される。[3068]

生物記憶の物質的基礎は特定の刺激入力に対する特定の反応出力関係が保存されることである。様々な刺激に対して、刺激を区別し、刺激に応じた反応行動をとることが記憶の基礎である。様々な刺激の経験を保存、記憶しているから対応する行動を決定できる。でたらめな反応ではなく、有効であることが経験して検証してある反応を引き出す。有効な反応をする能力のあることで淘汰に生き残る。多様な刺激に対してはどのような反応が有効であるかを選択できるものが淘汰に生き残る。知的な「記憶」の印象とかけ離れているが、記憶の物質的基礎である。[3069]
神経系のある動物は経験を記憶する。その経験から決まった反応を起こし、あるいは起こさない。無害な刺激に対しては慣れてしまって、何も反応しなくなる。慣れてしまった刺激も、環境条件が変わったりすると改めて反応する。慣れた刺激に改めて反応することを感作という。[3070]
無条件反射は記憶の原型である。中枢神経系の発達した動物では複数の異なる刺激を結びつけて記憶する。無条件反射に別の条件を加えて条件反射を起こすことができる。パブロフの条件反射実験として有名である。犬は意識に関係なくベルの音と餌とを関連づけて記憶している。[3071]
記憶の神経細胞網での有り様は、アメフラシを利用した実験で示されている。条件反射が神経細胞間の結合関係として構成されることが紹介されている。記憶は電気化学的過程として再現し、神経細胞間のシナプス結合として解剖学的に保存される。慣れはシナプス間の伝達を抑制することで、感作は促進することで起こる。[3072]
記憶は神経細胞間信号処理の強化・安定化である。まず、神経細胞シナプスで神経伝達物質の伝達が行われると、神経細胞は伝達物質に反応しやすくなる。伝達する神経細胞では神経伝達物質をより多く放出するようになる。伝達を受ける神経細胞では伝達物質受容器の反応によって神経信号を担うイオン・チャンネルがイオンを通しやすくなる。また、神経細胞内の二次信号伝達物質の合成が活発化する。反応が起きやすくなるのが最初の反応である。刺激によって反応しやすくなることは神経細胞網の容易な変化であるが、刺激がなくなれば元へ戻ってしまう。[3073]
次に、シナプスを増やすことで伝達効率を上げる。シナプスを増やすには受ける細胞からのカルシウム・イオン等の放出が増え、これが伝達する神経細胞に作用してシナプスを増やす。信号伝達方向とは逆の信号伝達によってシナプスが増える。次に樹状突起を増やすことでも伝達効率を上げる。さらに、海馬などでは他では見られない神経細胞そのものを作り出して神経回路を増やす。[3074]

【記憶の進化】

記憶の種類と階層性を手がかりにし、生物の進化をとらえなおすなら、生物個体の環境への反応システムの進化として記憶が獲得されたことが推測される。光や栄養、有害物質に対する走性の反応がシステム化され神経系が発達し、刺激適応反応は一定の反応形式として固定化され、神経系システムとして体制化される。記憶の存在基礎は定式化された反応過程の再現である。[3075]
記憶が知的精神活動として価値を持つのは学習へと発展するからである。何を記憶するか、何を対象とするかの方向性が主体性によって定まる。主体としての対象理解が知的精神活動を価値づける。与えられる刺激を記憶するだけではなく、刺激を主体的に評価する。過去の刺激記憶に関係づけ、位置づけることで反応を選択する。評価による意味づけが記憶を知的にする。[3076]
環境刺激からの信号集合を受けるのは物理化学的過程である。刺激信号を神経信号に変換するのは生化学反応過程である。神経信号処理が精神活動の過程である。視覚でも明らかなように感覚器官で信号処理は開始される。輪郭の抽出や、動きの抽出は感覚器官の神経細胞での信号処理として行われる。個別や運動の対象化能力は感覚が機能する基礎として獲得した能力であり、意識以前に処理されている。意識はされていないが個別や運動の対象化こそ対象評価の基礎である。人が、動物が行動する上で行動に関わってくる物事を対象として認める能力である。当面の行動に関わらないものは感じることもない。感覚は日常生活で関わる物事を感じるように進化してきた。[3077]
未知の、未体験の対象に対する過程で、無意識に行っている学習・記憶を意識的に体験できる。入力信号の集合から個別を対象化する。個別とは関わり合う可能性のある対象存在である。入力信号の集合要素を比較分類する。要素間に違いがなければ何も見出すことはできない。入力信号の空間的、時間的変化の中に相対的に変化しない秩序を見出す。視覚で言えば色、形、距離、動きが相対的に一定に保たれている部分間を区別する。聴覚で言えば一定の発信源からの音、一定の音色の音等を区別する。変化と不変とを感じるには記憶の働きが前提になる。感覚信号が記憶されなくては変化も不変もとらえることはできない。[3078]
区別される信号集合は個別として記憶された信号集合に照会される。記憶信号集合に一致する物がなければ、入力信号集合と記憶信号集合との類似性を探し、あるいはそれそれの信号集合の集合操作をする。部分集合を探したり、補集合をとったり、和集合をとったりする。入力信号集合と記憶信号集合の一致が個別対象の分節化である。個別としての意味の対象が確定する。他の多くの個別との相互関係に区別して、位置づける。信号集合の表象が範型=パターンとして固定され、個別の記憶になる。対象の範型は一次的には感覚情報の集合として記憶される。同時に対象の範型の他の範型との連関も、対象を経験したときの体内情報も関連して記憶される。脳の活動が主体の対象との1対1の孤立した関係ではなく、体性感覚、運動感覚も含む心身全体が関わる相互関係として実現している。[3079]
対象を個別として切り分け、他との関係に位置づけて記憶することが理解であり、学習である。[3080]
記憶能力は進化によって獲得されたのであり、生き残り、子を残すことの淘汰圧を反映している。経験を記憶することは無意識のうちにもできるが、形式的関係は経験を対象化しなくては記憶できない。抽象的知識は経験を対象化した記憶である。経験と結びついた知識は抽象的であっても対象の理解であり、理解した範型表象は形式的表象よりよりよく記憶される。対象の範型表象は感覚の段階で知識記憶に照会され、関連づけられている。対象の範型の記憶だけではなく、対象は意味づけられて記憶される。意味づけはすべての対象間との関係に位置づけることであり、より忘れにくい記憶である。[3081]
記憶される範型は社会の中で名づけられる。名づけることで範型は社会的に確かめられる。対象個別は言葉によって表現される。言葉そのものも記憶の対象になるが、言葉の意味は対象個別の対象間での位置である。範型間の共通の範型は対象個別の抽象的性質を表す。抽象的性質は対象個別に媒介されるが、直接には存在しない。抽象的性質は普遍的範型秩序である。抽象的性質も言葉で表現すること、あるいは記号で表現することで意識的操作が可能になる。言葉、記号の表現により抽象的性質を顕在記憶として対象化できる。空間、時間、方向、等々物事の性質の基準となる普遍的秩序は言葉や記号によって表現できるが、直接具体的に示すことはできない。具体的に示すことはできないが記憶することはできる。餌や危険な場所、時間の記憶は生きるために必須の記憶であった。[3082]
知覚される個別表象がどの神経細胞群の反応によって担われているかまでは明らかにしきれないが、各感覚の処理を行っている領野、その相互関連までは観察することができるようになった。一連の基本的運動動作の記憶は小脳に担われる。意識的記憶にも短期記憶と長期記憶の違いによって関わる領野が異なる。記憶には種類と階層がある。神経系自体が階層システムであり、情報処理システムとして単なる並列処理ではなく、処理が階層化された並列処理システムである。記憶も階層化され、分類された関連としてある。[3083]

【記銘、保持、想起】

顕在記憶は記銘、保持、想起として対象化される。繰り返される経験、あるいは意識されたことが記憶、記名される。「意識されたこと」は対象化される「感じたこと」の記憶である。感覚器官は常に全身からの信号を脳に送っている。脳では感覚器官からの信号を受け入れ、処理している。信号処理には記憶が不可欠である。記憶された信号を対象にして信号は変換され、伝達され、あるいは消去される。脳での信号処理での記憶が作業記憶である。作業記憶は意識に関わらす、それぞれの領野で平衡して保存され、処理される。意識は脳での信号処理を対象にして、主体として最も重要な信号処理を選択して対象化する。意識は脳での信号処理結果を対象として、個体の外部対象に重ね、関係づける。意識が対象にできる記憶が顕在記憶である。脳では顕在記憶を遙かに超える量の潜在記憶が保存され、処理されている。意識が対象とする作業記憶が短期記憶である。意識が対象化できる短期記憶の信号処理単位は7プラス・マイナス2個が限界である。意識は並行して処理している無数の作業記憶から、主体にとって当面重要な信号処理を対象に意識的に記憶する。当面重要な対象は次々に変化する。変化に逆らって、記憶を保持するには努力を要する。繰り返し想起することで短期記憶を保持する。対象になる量が多ければ、区切ってまとめることで7つを超える要素を記憶する。[3084]
単に記憶は繰り返し想起することで長期記憶へ変換される。長期記憶は他との関連づけ、意味づけによっても強化される。世界理解の内に位置づけることで記憶し、体験として他の感覚と結びつけて記憶する。短期記憶から長期記憶への変換では海馬が重要な役割を担っている。長期記憶は意識的に想起しなくても保持され、意識しなくても参照される。強い感情体験と連なった記憶は想起することがなくなっても長期に保存され、意識することができなくとも意識に作用する。[3085]
想起は信号処理過程の再現である。信号処理過程は脳内でも平衡して行われており、想起の信号処理過程が他の過程からの干渉を受けることがある。想起の際の干渉によって記憶のゆがみが生じる。想起の信号処理過程が部分的にしか再現されないことが繰り返されると、記憶の欠落が起こる。[3086]

神経システムの情報処理は階層化された並列処理である。記憶は階層化された並列処理の再現である。ただし、環境との相互作用に依存しない神経システムの作用の再現である。環境との相互作用としても、環境との相互作用がなくとも再現することとして、記憶自体が実践的運動である。記憶という存在をどこからか引っ張り出してくるといった、静的、固定的な存在ではない。[3087]
記憶される神経システムの作用は感覚記憶、運動記憶、感情記憶、表象記憶、記号記憶、言語記憶等のに区分することができる。一つひとつの記憶対象は、これらの記憶の複合としてある。経験は感覚、運動によって現実の環境、状況にあり、感情が生じ、変化し、表象が受け入れられ、これまでの経験と対比され、記号化され、言語によって反省される。これらは同時に進行し、相互に影響し、反すうされることによって長く記憶されるようになる。[3088]
学習や知的能力の評価は言語、記号の記憶に偏っては健全な発達はしない。運動の練習は筋力を増進させるだけではなく、大脳によって方向づけられた運動過程を小脳や反射神経が、筋肉を制御できるようにする訓練である。目的意識を明確にした練習でなければ、消耗するだけの練習になってしまう。喜び、悲しみ、怒り、己惚れ、屈辱、さまざまな感情がさまざまな状況の意味合いを持って記憶されて豊かになる。[3089]

【記憶の再生】

記憶は定式化された反応形式としてだけではなく、意識的に環境とは独立に操作される。環境から切り離され抽象化された表象は意識の操作対象である。記憶は意識的にも作られ、保持、想起される。[3090]
記憶想起の契機は、記銘の際と同じ経験によって当然に同じ信号処理が再現される。似た経験からの連想によっても、経験の要素の類似性からも、信号処理の形式の類似性からも再現される。信号処理の類似性は信号処理自体を経験対象とする自己言及的経験である。信号処理形式の対象化は形式の内容への転化である。そして具体的経験に対する抽象的経験である。こうして記憶自体が組織化され、対象間の関連、全体が記憶され、世界像を形成する。[3091]
記憶は更新され、忘れられる。繰り返される経験は繰り返しのたびに記憶を強化する。繰り返されない経験は、そのままでは忘れられる。記憶が残るか忘れられるかはその経験の頻度にもよっている。一度の経験であっても全人格的に作用した体験は深く記憶されることもある。経験が繰り返されなくとも、意識によって繰り返し思い出される記憶は長く残る。しかし、繰り返しはまったく同じに再現されることは限らず、省略や付加によって記憶は変容する可能性がある。記憶は静的な固定したものではなく、変容する。[3092]

【記憶の参照】

意識的な想起のためにはインデックス=索引を利用する。記憶自体が神経活動の連関にあり、他との関連の中にあり、その過程で再現しはする。環境によって呼び起こされる記憶はこの関連の中にある。運動記憶のような非陳述的記憶の場合も、それでも事足りる。しかし、陳述的記憶や時系列の記憶などは索引がなくては再現することはできない。たぶん、海馬での長期記憶化がこれにあたると思われる。記銘の段階で多様な、より多くの索引をつけることが想起を容易にする。[3093]
神経細胞組織における信号処理は意識的にも再現され、無意識にも強化される。さらに、言語と結びつくことによって記憶自体操作可能になる。信号処理の再現が抽象化、記号化される。言語に記号化されても、言語記号自体は信号処理過程として経験と同じ神経組織の信号処理に媒介されている。しかし、言語記号は具体的経験のように多様な要素を含んでいない、単一の要素を対象にする抽象的経験である。さらに、言語は言語によって説明され、言語だけによる対象表現を形作っている。具体的経験に依らず、言語を操作することによって記憶を参照することができる。[3094]

記憶は改訂され続ける集成であり、また起動力である。思い出したくもない醜悪な自分から、苦悶から抜け出た時の光明に彩られた眺望。日々の些細な雑事から命、人類史の理解等、感じ、考えることのすべてによって集成される世界が記憶である。顕在化できない身体を制御する膨大な記憶も含んで集成している。自分を感じることのできるのも記憶を対象としてであり、記憶の範囲でである。短期記憶に障害がある人はアイデンティティーを記録に残そうと苦労しているという。[3095]
処し方を決めるには信念に依拠するが、信念は記憶によって確かめられる。記憶は書籍や磁気記憶等とは違い、人が生活し、行為する基礎過程を担っている。記憶は人から分離できない。分離し表現される記憶はその一面でしかなく、その媒体上に表された記憶は影でしかない。自意識は蓄積された経験の記憶と、記銘し、想起することとして感じられる。[3096]


第4項 感情

感情の物質的基礎

感情も物質的基礎の上にある。[3097]
感情は自律神経系及びホルモンによって調整される生理的状態を基礎にしている。自律神経系及び内分泌系は生理的状態を体外条件に対して一定に保っているが、急激な環境変化、刺激には制御された変化で対応する。急激な環境変化、刺激に対して戦いに対応したり、逃走を図ったり、ストレスを回避するため生理的状態を変化させる。身体の運動可能な状態を変化させたり、表情を表す。アドレナリンの分泌は火事場の馬鹿力を引き出す。[3098]
体外環境に対して体内環境を調整する生理的反応が自律的に生じ、これを大脳辺縁系の扁桃体で意識する。体内環境が一定に保たれている時は、意識に反映されることはない。体内環境の変化によって意識に情動が現れる。[3099]
体内環境の変化は生理的状態の変化、体外環境の変化だけでなく、意識による自律神経への作用によっても起こりうる。泣くことによって悲しくなり、笑うことによって楽しくなる。[3100]
情動は生理的感情である。情動が対象との直接的相互作用として表れることから、感情的であることが否定的に評価されることがある。過剰な感情的反応はエネルギーの浪費であるが、一体化する対象理解から生じる感情は豊かさをもたらす。[3101]

【感情の媒介性】

生物一般は生理的代謝によって生命を実現しているが、動物は行動することによって生理的代謝を実現している。動物一般の行動は、生理的代謝と遺伝によって決定されている本能とが基礎にある。鳥や魚、昆虫なども巣を作り、子を育てるものがいる。これら中枢神経系の発達していない動物の行動は、刺激と反応の組合せとして遺伝的にプログラムされた行動である。環境との相互作用にあって、特定の信号に対して、特定の行動が解発される。その結果巣が作られ、子を守り、子に餌を与える。巣を作るため、子を守るため、餌を与えるために行動しているのではない。そこに目的を見いだすのは観察している人間である。彼らの行動に、目的はなく、直接的である。そのように行動できるものが生き残り、進化してきた。[3102]
その意味で、彼らには「愛」などの感情はない。そこに「愛」を見いだすのは観察する人間である。これら利他的行動について、動物生態学が様々な興味有る事例を報告している。ただし、身近なペット動物の観察では、相互の関係が身近すぎて観察の客観性を維持することはむずかしい。[3103]
さらに人間は感情そのものを対象化する。人間は感情そのものを創造し、操作する。多様な芸術は感情を対象化したものであり、感情を保存し、感情を伝達するる。人間は自らを対象化し、自らの行動を対象化し、目的を設定して行動を制御することができる。対象化した行動にともなう、感覚、体内環境の経験が感情として記憶される。感情は知的に制御された行動によって媒介されている。[3104]
感情を対象化する人間だけが、動物の行動に「愛」を見いだす。しかしその「愛」は動物が実現するのではなく、愛の基礎となる原始的な裸の行動である。愛の物質的、進化史的基礎は生命を保存する、個体を超えた行動にある。すさんだ社会では「人間が動物の愛に学ばなければいけない」といわれる。「動物の愛」といわれる行動は、愛をつくりだす物質的、進化史的基礎ではあるが愛ではない。愛などの感情は行動によって媒介され、対象化されているのである。[3105]

感情は非人間的でも、非論理的でもない。人間によって実現されており、人間によって対象化されている。より人間的であることが、より豊かな感情を実現できる。感情的という評価は感情を制御できないということであり、非人間的であることを意味しない。また、感情は媒介されたものであり、対象化は他の対象との関連に位置づけられ、対象間の関係が認識されて豊かになる。感情は対象化され、対象間の関係として論理的にも評価される。[3106]
感情も論理的であるから、喜怒哀楽が生じる。笑いは本質と現象との論理的矛盾に遭遇した場合の感情表現の一つである。本音と表現、事実と粉飾等、他人においてでも、自分自身においてであっても、食い違いを意識した際、様々な笑いが出てくる。直接的誤り、悪意は笑いの対象にもならない。[3107]

【感情の直接性】

感情は対象との相互作用に対し、相対的に独立しており、保存される。しかし、感情を媒介する物の存在だけでは感情を実現しない。芸術作品も物としての存在に感情はない。鑑賞されることによって、鑑賞する者に感情を実現する。しかもそれは主体の鑑賞という行動過程、鑑賞活動においてである。そして感情を実現する主体の活動は主体によって対象化される以前の、直接的過程である。[3108]
様々に名付けられ対象化された感情も、主体によって呼び起こされる直接的過程で実現される。主体に記憶された個々の感情も、思い出す直接的過程で実現される。実現されるのは直接的過程であり、実現される感情を対象化することはできない。対象化は対象との双方向の関係であり、感情の実現は対象から主体への一方的関係である。[3109]
客観的過程では感情を引き起こす対象は感情に何の作用も実現しない。感情は主体での主観として実現する。主体の状態変化を主観が感じるのであり、直接的である。主観にとって感情は認識の無意識な結論として与えられる。[3110]

【感情の共有】

感情は自律神経系に物質的基礎をもっていることで人々の間で共有が可能である。感情は主観にとって直接感じられ、極めて個人的でありながら、共有される。共同行動によって同じ体験をすることで感情を共有し、特に歌舞によって意識的に感情を共有する。振動は物理的に共振するだけでなく、リズムとして生理的にも、心理的にも同調する。[3111]
感情を共有することで精神的不安=ストレスを緩和し、安心する。群れとして進化した人は感情の共有を求める。感情の交流、共有は人にとって特別の価値がある。おしゃべりに夢中になり、褒められることに喜びを感じる。同じ行動、同じ体験によって感情を共有する。今日の成人の間でも事あるごとの行事やスポーツ、芸能等で共通の経験によって感情を共有する。感情の共有を確認するために表現する。その洗練されたものを「芸術的」と高く評価する。なかには「愛国心」を政治的に利用できると思い、自らの思いこみを人にも強要する者がいる。[3112]
感情の共有から、個としての自分の評価、承認を求める。名誉欲は自らの社会的役割が高く評価されることを求めるが、評価基準価値の共有を前提にしている。社会的役割、あるいは社会的地位の価値観が共感されているとしてその名誉を求める。社会的役割の評価ですら歴史的に変わるが、社会的地位の場合、地位を占めただけで共感を得る保証はない。[3113]

【様々な感情】

怒りは論理の人為的歪曲に対する感情表現である。法則は適用することはできるが、曲げることはできない。論理は曲げることができ、社会の規則を曲げることができる。論理を曲げて、私的利益を得ようとすることに対し怒る。事実を知っても怒りに直接結びつくことはない。怒りは悪人に対するものではない。怒りは論理を曲げることに対する感情である。論理を理解できずに、怒りの感情を持つことはない。飼い慣らされることは、論理的能力、知性を奪われることである。[3114]

恐怖は全体性、方向性の喪失の感情である。実践は未知との対決であり、自分と対象との関係は決まっていない。未知の対象、未知の状況で恐怖を感じる。日常生活では繰り返しが多く、未知との遭遇はわずかである。部分的であれば、未知の対象に対しても従前の例によって対応できる。しかし、日常性の延長で対応できない未知は、自分の対応方向を明らかにできず、自分の位置づけができなくなる。[3115]
恐怖は未知に対して、冒険主義的に突進することを押し止める力である。恐怖に対して、対象の全体性とそこでの自分の位置づけ、方向性を可能な限り明らかにすることによって、知性的対応が可能になる。[3116]

愛や憎しみは人間を超えるものでも、人間以外のものでもない。愛や憎しみは人間が誕生する前には存在しなかったし、人間以外に存在しない。人間の現実における諸関係の、認識に関わる感性が愛であったり、憎しみであったりする。愛や憎しみは、知性、感情、意志の統一された情動である。[3117]

知性的で人間的であることで感情はより豊になりうる。知性的な情動は普遍的な感情である。[3118]
自然の法則を理解することによって自然の神秘、深遠さ、美しさを理解することができる。感覚だけでは、夜景の美しさと星空の美しさ、大きさを区別することはできない。自然の法則性を理解することによって、自然の美しさがより理解できる。関係性の理解に数学美はある。[3119]
芸術性は認識と実践が不可分に統一されている。作者において、製作過程において、鑑賞において、作品として芸術は認識と実践の統一である。創作は対象の認識であるとともに、認識の外化・対象化であり、実現のための実践である。鑑賞は認識であると同時に、生活実践である。作品は認識媒体であると同時に、感情の共有としてのコミュニケーションを実現する。また、芸術は知性と、感情と、意志の統一である。[3120]


第5項 社会性と言語

物質代謝の単位はひとつの細胞からはじまり、多細胞生物によって質的な飛躍をし、さらに個体間の相互依存関係の質的飛躍によて社会性を獲得する。同一種の集団以外にも共生、寄生等がある。社会ではなくとも、生物は相互依存、一方的依存の関係を利用する。[3121]

【社会性の基礎】

動物は本質的に依存的存在である。動物は単独では生存できない。酸素、窒素、タンパク質をすべて植物に依存している。[3122]
多細胞生物は個体間の関係がなくては種を存続できない。動物は生殖関係で種によってその程度を異にする社会性を示す。動物は一時的であれ、最低限生殖のための番い、集団を作る。より発展的な種にあっては、保育の為の集団を形成する。より発展的な種では役割を分担する社会を形成する。[3123]
動物は集団での新たに獲得された生物としての能力を、生物個体の能力として遺伝的に蓄積する。社会性自体も遺伝形質として蓄積する。種は集団性、社会性を発達させることによって、環境への組織的適応能力を拡大する。組織的適応能力は再帰して種の社会性を強める。動物の行動は、その集団内での相互関係を生存の前提にまでする。雌雄関係ですら社会関係の中に組み込まれる。生殖関係が雌雄関係という社会的現れ方をする。[3124]
ただし、昆虫社会という場合、その社会は疑似社会である。みつ蜂のように餌や敵についての情報交換の手段を持っているものであっても、人間などの社会とは異質である。アリやミツバチは同じ遺伝子を持ちながら、遺伝子の発現過程、発生過程で分化する。異なった形態に生長する個体形質も社会的役割と共に遺伝的に決定されている。働き蜂は不妊である。子を生む女王蜂は特別な餌で育てられ、選別された個体である。個体として同じ成体同士の共同生活ではない。個体間で互いに立場を交替できる社会関係ではない。質的に発展する可能性を持っ社会は、個体どおし社会的立場を交替できる社会である。社会構造そのものが変化しうる可能性をもたなければ、社会は発展しない。昆虫の「社会」は人間の社会とは本質的に異なる。人間の社会は生物的には同質の、対等の個体の社会である。人間や猿は社会的役割を個体間で交替することができる。昆虫の場合、分担は生物的個体の特化である。人間は一定数分かれることによって独立した社会集団を作りうるが、昆虫はそれぞれに分化した機能の個体をひと揃い揃えなくては新しい集団を作ることはできない。[3125]

ほ乳類では繁殖、子育てのための社会関係が発達する。繁殖期以外は単独で生活している動物も、互いに縄張りを持ち、利害を調節する行動様式を持っている。生活集団としての社会にあって、生まれてきた子供は社会の構成員として訓練教育される。個体間のかかわり合いの規則を身につけなくては、集団内に受け入れられないだけでなく、生命すら保証されない。人間によって育てられた野生の個体は、餌の分配規則、喧嘩の調停規則等を身につけていなければ集団内では生活できない。[3126]
社会性の強い種にあっては、その社会性が個々の個体間の関係に特殊な社会性を与える。生殖や、共同しての食料の確保、外敵からの安全確保のために、個体間の関係を制度化する。サル社会にも階位制がある。生理的集団を超えて生活集団を形成する。地位、階層がその著しい現れである。しかし地位、階層は名誉欲、権力欲の結果ではない。社会組織とその構成員の生存のためのものであり、人の欲はその結果として生み出されるものである。[3127]
ほ乳類は分担しなくては子育てをできない。分担と共同とは相補関係にある。分担の形は種によって多様であるが、授乳するもの負担を他のものが補償することで保育ができる。人以外のサルも保育関係以外でも餌を与えたり、共同で狩りをする。特に人の場合、生物としての物質代謝が社会的に組織されている。衣食住、生活全般が社会的である。[3128]

【ヒトの社会性】

人間社会は動物としての社会性を基礎にしている。人間性自体が動物としての社会性、群れの中で育まれた。[3129]

群れは物質代謝を社会的に実現するが、同時に群れは環境に対する精神的緊張=ストレスを緩和する。精神的緊張の緩和は生理的平衡を維持するために不可欠である。群れに守られることで精神的緊張を緩和する。群れでの感情交流、一体化する情緒の場で精神的緊張を緩和する。初期人類にとって天候の変化、肉食獣におそわれる危険等の精神的緊張は都市生活者の人間関係のストレスとはまったく違ったものである。圧倒的な力の恐怖に対し、不可思議な、未知の恐怖に対し、分かり合える群れによって癒され、鼓舞し合うことができる。感情的効果は個人的な気分ではなく、集団の生理的状態としてつくりだされる。感情的効果は脳内でのドーパミンやオキシトシン等のホルモン放出として客観的に確かめられる。[3130]
精神的緊張を緩和する群れの役割は社会的機能を発達させる。儀式、饗宴は慰安以上の効果がある。逆に精神的緊張を緩和し、安心を得たり高ぶらせたりできるように儀式や饗宴は発達した。「群れ感情」とでも呼ぶべき心理的反応効果は、人に死への恐怖すら超えさせることができる。今日でも「群集心理」として説明される集団の行動特性がある。[3131]

群れ感情は慰安として、労働とは直接結びつかない表現を発達させる。その重要な表現手段が身体表現であり、歌舞である。歌舞は協調した動作、同調する拍子=リズム等が一体感を作り出し、高揚をもたらす。共動でなく一方的な鑑賞であっても群れ感情の効果はある。今日、歌舞は趣味程度でしか問題にされないが、初期人類にとっては生き抜くことに直接関わっていた。今日でも歌舞は政治的にも利用されている。共同の情動経験の繰り返しが人々の結びつきを強める。[3132]
歌だけでも精神的緊張を緩和し、解消することができる。赤ん坊を寝かす時にも有効である。歌と揺動のリズムによって安心できる環境を作り出す。造形表現だけでも感情を表現することができる。造形表現はヒトの認知過程と結びつくことで多様な表現形式を作り出してきている。多様な表現形式であっても共感できることが、発達した人の認知能力と感情の豊かさを示している。[3133]

【共感と表現】

言葉の獲得過程を実証することはできない。しかし、人は生物進化の過程で生まれ、人が言葉を獲得したのは実証できなくとも確かである。どのように獲得したかは推測することになる。像や鯨が低周波で言葉を交わしているとの紹介もあり、コミュニケーションの様子を解釈・通訳することもできる。ただ、低周波音が意味を分節し、組み合わせていることは証明されていない。[3134]
言語は歌舞の身体表現が最も発達した形態である。言語起源は単にコミュニケーションの手段ではなく、群れ感情の表出である。生物個体としての互いの区別は、感情表出によって意識されるようになる。群れの感情共有、表出の場でそれぞれを生物個体として区別する。コミュニケーションは個間の意思疎通であり、個の成立を前提にしている。個としての区別が成り立つことでコミュニケーションが成り立つ。個がなければコミュニケーションは成り立たない。個の確立以前に、個を確立する過程で群れ感情の共有、表出があり、言語表現があったとするのが物事の発達過程としてありそうだ。表現の洗練化、形式化として、互いの役割を明確にし、表現手段、表現方法を発達させる。群れ感情の表出での役割分担、言語のやりとりをとおして個が育ってきた。個の間でのコミュニケーション成立以前に言語は獲得される。ここでの「個」は当然に個人意識にまでは発達していない。自らの「個」を反省する以前の、他者と共にあって区別される個である。物心つく前の「自分」である。[3135]
青年期を過ぎ、個人としての意識、「私」が身に付いてしまった我々には受け入れがたい事かもしれないが、老いると受け入れざるを得ないのではないか。老いても凛と「個」を貫くことができればよいが。[3136]

確実な表現は分節化である。音楽はメロディー、ハーモニーといった感情の直接表現だけではなく、文節に分けるリズムによって明確化、強調する。リズムは身体表現と容易に同調できる。[3137]
同調は物理的にも安定である。連結振動子のように。蛍の明滅のように。人の動きでも自然に同調に向かうことの方が、差異を生み出すよりも自然である。[3138]
光には指向性があるが音には広がりがあり、同じ音を共有することができる。一つの物を同じ位置から同時に複数の人が見ることは絶対にできない。映像として擬似的には体験できるが映像であって、対象そのものではない。映像を見ることで感情を共有することはできるが、共感はできない。音には視覚によってはできない共感が可能である。[3139]
感情の共有、表出は限定されてはいない。喜び、悲しみ、怒りの違いだけではなく、それぞれにまた質的、量的違いがある。その違いを表現することで洗練化し、形式が整う。巧みな表現の発達がリズム、抑揚、音色の変化として豊かな感情表現になる。呪術的な意味づけが加わるなら、一層その対象を明確に表現する。リズム、抑揚から音声が分節化する。新生児の音声は分節化しておらず、母語の習得過程で母語を構成する母音の分節を身につける。[3140]
感情の共有と表出の発達がコミュニケーション言語へ転用される。音声言語だけではなく、文字も記号化する以前に絵文字から発達した。洞窟壁画は呪術的意味で描かれたのであろう。絵画表現も描く者と見る者の役割分担とその関係での感情交流が、アニミズム的力の源とされたのであろう。絵文字は記録することより、表現することから始まったのであろう。漢字は占いに起源をもつという。どの人間社会にも、その起原に関する物語がある。[3141]

【言語の獲得】

動物の音によるコミュニケーションでは、伝えるべき状況と発音とは直接している。動物の集団中では、ひとつの発音は同一の機能しか持たない。個体間に分担があっても、発音に対する対応は集団として、一体のものとしてある。危険に対した時の叫び等は一斉の逃走を引き起こす。それは「危険だ」の意味でも、「逃げろ」という命令を意味するものではない。動物のコミュニケーションは伝え、反応することだけであり、情報を対象化していない。[3142]
群れでの行動と共感がコミュニケーションを発達させ、個を意識させる。感情の表出手段であった音声が、共同行動の過程で言語へと発達する。協働するには掛け声をかけたり、労働歌を歌ったりして調子を合わせる。単に合図のための信号ではなく、息を合わせるための連続する分節である。狩猟と農耕では異なった様式になったであろう。[3143]
コミュニケーションは人以外の動物、例えばピグミー・チンパンジー=ボノボでも行っている。コミュニケーションは群れを構成する動物にとって不可欠である。人の発声器官は嚥下、呼吸から独立した特別なものではあるが、音声だけがコミュニケーション手段ではない。身振りでも意思を伝えられるし、手話は音声言語と同等の自然言語である。[3144]
大脳言語野の獲得が言語獲得の契機であっただろう。人はどの言語社会に育っても母語を獲得することが、言語習得能力、言語運用能力が先天的であることを示している。言語習得能力、言語運用能力は大脳言語野が担っている。遺伝的に言語を扱うために言語野ができたのではない。言語を獲得するにはコミュニケーション主体の確立、発生器官、そして何より大脳の言語野が必要である。[3145]
大脳皮質の言語野は脳神経細胞が次第に増えるのではなく、機能単位=領野の重複によってできたのであろう。言語を扱うことのできる機能単位は、入力を保持し、入力信号の指示する表象と保持した入力信号とを共に対象化することで再帰対象化することである。記号の意味と内容を区別しながら、一つの対象として操作し、他と関連づけることで言語を使う。再帰対象化能力は道具の使用によって既に獲得されている。道具は対象と主体とを媒介し、かつ道具自体が対象化される。再帰対象化する脳神経回路が機能単位として獲得され、重複した領野が対象化されることで言語を担うことができるようになった。[3146]

言語は分節音を単位にしている。音節のある発音の組み合わせとして、多様な対象を区別することができる。声帯は音を出すだけではなく、音節を区切ることができるように進化した。音色は主に舌を変形させ口腔内の形を変えることで変化させる。舌の筋肉とその運動制御能力を必要とする。言語の発達と生理的発声機能は相互作用して進化した。[3147]
言語は共同生活を前提にしていて、孤立した人は話すことができない。話す能力の訓練としてだけでなく、共感し、共同の目標設定がなくては話す機会がない。しかし、人は言語獲得能力を生得的にもっている。人の大脳の言語野として神経細胞網として言語使用の生理的基礎を持って生まれてくる。人は通常の環境で育てば、誰でも母語を獲得できる。母語の習得は成長してからの外国語の習得とは異なる。聴覚障害があっても、対象との関係を符号化し、記号に置換して記憶できる。ただし、一定の幼児期までに言語環境におかれなくては、生得的な言語能力は実現することはできない。[3148]
人間の行動には反射的行動と、言葉に媒介された行動がある。反射的行動は生理的行動と訓練された習慣的行動である。言葉に媒介された行動は初めての経験をコトバとして、象徴される過去の経験、社会的経験と比較し、判断を伴う行動である。比較、判断に際しコトバが機能する。環境を対象化し、過去の経験、知識の標識としてのコトバを発し、あるいは思い浮かべる。人は行動に際し、かけ声をかけ、あるいは自分の行動を自分に説明すらする。[3149]
人間の言葉と動物の鳴き声の違いは生理的遅延性に物質的基礎がある。中枢神経、特に大脳資質は生理的反射ではなく、受け入れた刺激を経験、知識と統合する。運動の主体として、状況と統合処理した刺激に対する行動をとる。受け入れた刺激と、反応である行動には遅延がある。[3150]
言語は対象を分析する能力を前提にしている。一定の条件のもとでの、対象の他との異同を見つけることのできる知的発達を前提にしている。対象の区分基準は生活の必要性に応じ、社会環境によって異なる。生活上特定して確認し合わねばならないことに対応して語彙が増え、文法が複雑化する。対象の分析能力は、生産労働としての対象を変革する経験によって獲得された。[3151]


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