存在秩序の受容
世界の存在秩序を理解できたなら終わりです。
秩序を理解できたなら、先行き、終わりが見えてしまいます。
秩序を理解できたなら、物事は思いどうりになり、悩み事もなくなります。
しかし、人の理解力には限りがあります。
人の能力は生物として生き残る環境に制限されています。
元々、人の関われる範囲は世界の極一部分です。
人の理解を超えた世界があります。
誰もが世界の秩序を断片的にしか理解できません。
理解できなくとも世界の存在秩序に則って生活しています。
日常経験する重力、光、音等の物理的性質は法則として知らなくてもわきまえています。
人以外の動物も秩序表現を捉えて生き残ります。
物事の因果、関係秩序から予測ができるほど、生き残りに有利になります。
理解内容を表現できなくても、秩序表現を捉えて生活しています。
確かなのは世界が何らかの秩序を実現し、表現していることです。
何らかの秩序ある形が表現されていなくては分かりません。
区別と関係の秩序表現がなければ
ホワイトアウト*、または、真っ暗闇になります。
正しくは、真っ暗闇ではなく、視野の外のように感じすらありません。
人自らの存在そのものが実現している秩序です。
誰もが意識しているかにかかわらず、その身体は
代謝秩序*としてあります。
代謝秩序が保たれていて、医学も
治癒力*を基に治療できます。
すべての生物は
代謝*秩序を実現することで生きています。
ヒトもほぼ20年で世代交替し、命をつないでいます。
日常生活でも爪の手入れが必要ですし、髪型の変化が気になる人も多いようです。
代謝秩序が崩れると病気になります。
代謝秩序が失われると死にます。
人は代謝の仕組みを知らなくても生き、生活しています。
代謝を理解しなくても飲食し、呼吸し、排泄し、寝ることが必須であると理解しています。
理解内容を言葉にできなくても実践しています。
自らの身体だけでなく、生活に必要な物事を経験から理解しています。
認識は表現を意識しますが、意識されなくても受け止められる表現があります。
意識にかかわらず、意識も含めて表現を受け止めるのが「受容」です。
「
受容」は認知や看護の「
受容*」に止まらない一般的意味で使います。
「受容」は表現と相補し、表裏を成します。
「表現」は受容を他として区別される関係にあります。
すべての表現は何らかの受容と対になっています。
例として、印面と印影は表現と受容の関係にあります。
そして、印面と印影の表現は光に像として受容され、
さらに、光の像表現は網膜に受容されます。
世界の存在秩序表現を受容し、理解を超えて世界を解釈します。
全てを理解できない世界の秩序でも、解釈が適当であればよりよく生きられます。
理解できないから理解しようとします。
昔から知は無知を知ることととされます。
まずは理解できた秩序を整理して自らに表現してみます。
理解できない対象を理解するには、これまでの理解を敷衍します。
理解できた事柄からできていない事柄への連関を推測します。
経験から推測した連関を予測し、検証します。
経験知と検証知は違います。
経験知は統計的予測です。
生物は実践経験の統計的予測システムを進化させてきました。
大規模言語モデルAIは言語の統計的予測システムです。
大規模言語モデルの統計資料となる言語は人々の実践経験の表現です。
経験知は帰納です。
帰納である経験知には例外の可能性があります。
検証知は経験知である統計的予測の検証によります。
検証知は演繹です。
検証知として検証した範囲で演繹推論が成り立ちます。
人は胎児の時から動作を予測し検証しながら制御しています。
動作時の違和感は予測と検証のズレを感じ取っています。
目眩では予測と検証が生理的に乖離しているのでしょう。
ベイズ推論*は事前確率を事後確率で評価して確率予測をより高めます。
動作に伴う身体感覚を介して空間と時間の感覚を形成しているのでしょう。
これは
記号接地問題*の前提をなす問題で、ヒトの知能形成の問題でもあります。。
時空間の感覚にすべての秩序表現を重ねて世界の感じを描き受容するのでしょう。
秩序を捉えることは、秩序表現の受容です。
秩序表現はいわゆるパターンです。
感覚からして受容した大量の神経信号の中にパターンを見出します。
差異と同等、変化と不変を区別して表現秩序を捉えます。
視覚では
網膜*で信号処理は始まり、
中継*され、大脳では
次々段階*を経てパターン認識されます。
各段階の信号処理で捉える訓練を積み重ねてパターン認知能力が進化してきました。
意識しなくても、意識自体が秩序表現に向かって働きます。
意識は常に何らかの対象を捉えてあり、対象を失うと意識自体が消えます。
対象を失って意識を失う経験は寝入る時に繰り返しています。
意識の
指向性*は対象の他から区別される秩序表現を捉えます。
認知能力の獲得には脳の各処理領野の分担が定まるまでの訓練期間、
臨界期*があります。
開眼手術で光信号を受容できるようになっても、信号処理能力が伴わなければ見ることはできません。
臨界期を超えても、成長期に限らず、常に秩序表現を探しています。
研究者も獲得した知識、データに潜むパターンを探すのが仕事です。
意識自体が秩序の表現です。
意識は生きている世界を感じています。
世界の感じは意識の世界表現です。
感覚が世界を意識に表現し、その世界表現を対象世界として意識しています。
世界の感じですから「世界感」です。
世界感は論理的に表現できる世界観以前に、意識として表現される世界の感じです。
脳に表現される感覚表現を受容する者=、
ホムンクルス*はいません。
感覚表現は身体と身体の対象の表現に重ねられ、ズレがないよう常に調整されています。
感覚表現は対象の表現として時空間感覚上に外化されて受容、意識されます。
無限後退ではなく、前方投映です。
記憶は想起して再現できる神経信号の秩序表現です。
記憶が脳内に保存され方は他の可能性はないでしょう。
再現される神経信号の秩序は対象の秩序表現を反映します。
秩序を捉えて予測ができます。
関連秩序を辿って未知の領域を予測できます。
変化秩序から未来の変化を予測できます。
予測を検証して秩序認識能力を訓練し、高めることができます。
検証によって連関を理解し、事柄を解釈します。
理解を超えて、未知、無知も含めて世界を解釈します。
世界には気付いてはいるけれども分からない事だけでなく、気づきもしない事もあります。
解釈は観念的思考です。
解釈する観念的思考能力は古代ギリシャの哲学者、いやそれ以前に誕生したホモサピエンスと同じです。
人類の思考は、森からサバンナへ進出してその日を生きることに追われていた時代から始まりました。
人は今日、科学技術的観測手段を加速度的に発展させています。
しかし、人個々の解釈能力はどれ程発達してきたでしょうか。
かつては未知ゆえの滑稽な解釈もありますが、今日でも叶わない洞察が太古から連綿とあります。
洞窟壁画を描いたヒトの表現に対抗できる現代人がどれ程いるでしょうか。
今日でも圧倒的数の人が神を信じています。
であっても、納得して人生を終えるには、自らの解釈を省みるしかありません。
困難に立ち向かうには自らの解釈に納得するしかありません。
納得するには慎ましい理解力だけが頼りで、それ以上は望めません。
秩序の理解によって価値が定まります。
存在そのものに価値はありません。
価値は評価で定まります。
評価はまずは主観です。
しかし、評価者の存在秩序を踏まえるなら主観を超えます。
人の存在秩序を踏まえてなら普遍的価値が定まります。
評価者が捉える無価値の存在であっても、評価者の存在から評価して価値は普遍化します。
存在秩序が宇宙の歴史、生物の歴史、人類の歴史として発展してきたと存在の普遍的解釈が成り立ちます。
人にとって人の存在が価値評価の基準になります。
存在そのものに価値はなく、評価する者によって価値基準は定まります。
当然に評価基準は評価者中心の独善では秩序に反します。
価値の普遍性は評価者が基準であるとの限定によって、評価者自身の存在解釈の普遍性に依拠します。
評価者の自己存在の解釈に普遍性がなければ、個人的独善になります。
人は人とのコミュニケーションにあって人間です。
人は社会関係にあって生活しています。
人の存在の環境条件をなす自然が絶対的基盤としてあります。
この文化、生命、自然の階層からなる個別秩序として人間は存在します。
ただし、この階層の三区分にとどまらず、存在秩序はより細分される階層をなしています。
秩序は時間的にも、空間的にも、質的にも入り組んでいます。
入り組んで複雑だからこそ時間的にも、空間的にも整理して見通す必要があります。
何より秩序の質的な階層構造が価値を評価する上で重要です。
物質進化から意識の実現までの普遍的秩序の発展史を踏まえて普遍的価値基準が定まります。
人が人間として存在し、生活できるのは社会秩序があってです。
社会秩序は物質代謝の組織化です。
人の社会的物質代謝は経済です。
物の採集は自然を社会的物質代謝秩序へ取り込む労働です。
物の生産は自然秩序を組み替え、組合せる労働です。
流通は社会秩序が機能するように物流と保管を担う労働です。
文化は秩序表現として正に秩序を創造します。
労働によって社会的物質代謝秩序は担われます。
労働こそ価値の根源です。
基本的に、そして最終的に人が生活するための社会的物質代謝は労働によって担われます。
労働は価値生産に利用するのではなく、価値の生産そのものです。
労働価値説を否定することで社会秩序は歪みます。
社会的規模が小さいほど労働の価値が明確になります。
保育、家事、教育、看護、介護等の人を世話する労働は絶対になくなりません。
機械化が進むほどに人手のかかる労働は高く評価されます。
人手のかかる仕事の賃金が高すぎるとするなら、人手は不足します。
職人仕事も手間がかかるほどに高く評価されます。
職人仕事、芸術創作は物としての作品に価値が転化されて投機や、蓄財の対象になってしまいます。
社会秩序は人間関係そのものです。
人間の協力共同が社会秩序の根幹です。
協力共同の社会秩序の実現こそ人類社会の価値の創造になります。
社会的秩序は政治制度秩序に止まらない、組織化された物質代謝秩序です。
価値の創造を踏まえる価値観が定まります。
協力共同の価値生産はそれこそ人の労働力が担います。
労働によって生活条件を満たし、自らの代謝秩序を実現します。
社会的労働が自己実現になります。
その社会的価値を売り買いして価値をかすめ取り、独占する者が産まれてしまいました。
人間性の疎外、価値の疎外が常態化しています。
労働が自己実現ではなく、生活の糧を買うための消耗でしかなくなります。
人は物質代謝秩序を組織化することで社会的存在である人間になりました。
ヒトは物を作り、道具を創ることで秩序を創造する知能を育てました
ヒトは協力共同で言語を用いて秩序を表現し、共有するようになりました。
ヒトは労働と社会性とで人間になりました。
人が生きるには社会的生活が前庭になります。
人の赤ん坊は看護されなくては生きられません。
60億もの人々の生活は社会経済が支えています。
地球上の厳しい自然環境でもそれなりに安全に暮らせるのも社会のおかげです。
人は南極から赤道直下の砂漠でも生活しています。
今日の生活必需品を自足自給でまかなうことは不可能です。
戦争や格差があっても、社会を否定することはできません。
ヒトは社会秩序に則って生きます。
与えられた社会的環境条件の中でよりよく生きます。
社会的環境条件をそれぞれ担っています。
環境条件の選択も限られてはいても可能性はあります。
社会が硬直化するほど、立場が弱いほど職業選択の自由は狭まりますが。
社会秩序にも保守と革新が不可欠です。
社会秩序も秩序であり、保守しながらも革新しなくては乱雑化します。
人も既成の社会秩序を担って保守して生活を成り立たせます。
能力を発揮する分野、仕事を担います。
能力を発揮する権限を手にすることも必要です。
人には既成の社会秩序に対して革新してよりよくする役割もあります。
能力を発揮するばかりでは世の中に流されてしまいます。
既成の社会秩序である仕事、職場、組織、制度、社会、政治の革新があります。
無駄をなくし、改良し、公正、公平を目指します。
寄生して生きる人もいます。
社会への寄生には二種類有ります。
持てる能力を発揮せずに人に頼る者と、人々を収奪して寄生する者とが。
人は社会に対して保守と革新のバランスで立ち位置が決まります。
体制内で働くか、体制外から働くか、その体制との距離も人によって違います。
同時に、どの程度取組むか、先頭を切るか、人に従うか、ぶら下がるかと。
東京都庁でも2割の人で局長以下ひとつの組織ができると聞きました。
と言っても、雪道を一人が先頭を切ってラッセルし続けることは不可能で、それでは皆遭難してしまいます。
人は立ち位置と取組によって評価されます。
現実を革新するには世界を解釈して方向が定まります。
世界を解釈するだけでなく、変革することでよりよく、より確かに理解できるようになります。
しかしそれは結果であって、踏み出すには、貫くには自らの世界解釈への確信が必要です。
世界の解釈さえ定まっていれば、社会政治状況ががらりと変わっても流されません。
社会の基準はがらりと変わることも、いつの間にか変わっていることもあります。
以前はは認められていた行為も、罪を問われることもあります。
実践的であるほど、戦闘的であっても現実の激変に戸惑ってしまうようです。
変革に挫折があっても、変革が成っても、さらなる変革が続きます。
歴史に終端がないのですから、変革者にとっての普遍的態度が試されます。
自らの世界解釈の確信程度によって意志の強さが決まります。
解釈だけの哲学であっても、確信には欠かせません。
信念は世界の解釈に裏打ちされます。
2025.09.04