存在秩序の作用と表現
世界を実現しているのは作用と表現です。
存在は作用によって実現し、表現されます。
存在があって作用し、表現されるのではありません。
二元論と言えば物心二元論、心脳二元論等とあります。
しかしそもそも「心」の存在を当然とする議論は成り立ちません。
「心」と呼ぶ存在を誰も示していません。
心は頭にあるのか、胸にあるのか、どのようなものなのか、
確かめることができるのは作用と表現だけです。
何らかの作用が私の身体にあって、身体が受容する表現を私は感じています。
「神」や「物質」と呼ぶ存在も私に作用し、その表現を私が受容します。
神の言葉も威信も人の意識に作用し、表現されなくては届きません。
様々な物事を奇跡と評価し、神の意思だとするのも表現の解釈です。
それは神の解釈ではなく奇跡の解釈、事象の解釈です。
物理化学的存在は人の感覚器か観測機器に作用が表現されます。
量子は波動か粒子か、どちらの存在状態かは作用して定まります。。
量子の位置とその運動量は作用によって一方の値が正確に表現されるほどに他方の値は不正確になります。
「暗黒物質」と「暗黒エネルギー」の作用とその表現は観測されますが、物質との関係は不明です。
そもそも、「物質」存在の問いは自然科学の対象ではありません。
物質については性質を示す内包定義も、対象を列挙する外延定義もできません。
物質は相反する性質で内包定義は成り立ちません。
局所性は粒子を表現しますが、量子のもつれた状態は非局所性を表現します。
物質は他との区別ができず、列挙できなくては外延定義はできません。
素粒子から生物まで階層をなし、多様性があり列挙はできません。
暗黒物質、暗黒エネルギーとの区別も不明です。
哲学的定義であっても物理を前提にしなくては対象も議論領域も定まりません。
「物理」は「物の理」、つまり「物の秩序」です。
物質は意識の対象となる存在としても、意識できるのは意識の対象だけであって何も規定できません。
物質は意識の外にあるとしても、意識は意識の外に出ることはできません。
「唯物論」と言っても物質を定義できなければ成り立ちません。
無論、物理的存在を否定する「唯心論」には検証できる対象がありません。
物理を無視したのではそもそも生活が成り立ちません。
呼吸なし、食事なし、排泄なしでは、寝なくては生きていられません。
太陽なしでは凍えてしまい、星以外何も見えません。
物理が効かないなら、逆に何でもできてしまいます。
重力がなければ空も飛べ、空気が無くても呼吸でき、死んでも生き返ります。
物質は普遍的議論領域で論理的に定義、表現できません。
質量、電荷、粒子といった実験的対象に限定するなら、その限定が物質の定義になります。
物質を研究対象にするのは物理学者ではなく、哲学者です。
物理学者は一般に物質と呼ばれる対象を研究しますが、物質を定義はしません。
人と作用する対象に「物質」と名付けているだけです。
「心」が物質とは作用しない別の存在であるなら心を否定できません。
心が物質とは別の存在とする人に、物理的説明は根拠になりません。
ただし、物理の制限がなくなれば、何でも思いどおりになります。
作用と表現なしに何物の存在も現れず、確かめようもありません。
作用と表現のない対象の存在は空想でしかありません。
作用と表現が実在です。
作用と表現の定義が問われます。
物質の定義を否定したのですから。
「表現は同一性と差異性の区別の実現である。」
「区別は同一性と差異性の表現である。」
「同一性は区別を否定する表現である。」
「差異性は同一性を否定する区別の表現である。」
「実現は同一性と差異性の表現である。」
言葉の表現ですから循環定義です。
循環を断ち切るのは定義者の存在です。
定義者が自らの存在に当てはめることで、この定義は成立します。
自他の区別、自他互いの同一性と差異性、自らを実現する生存に当てはめて必要十分な表現であることが成立の基準になります。
定義者自らの存在表現に一致していれば受け入れられるでしょう。
同一性と差異性は二律背反ではなく、互いによって実現します。
同一であるから差異が現れ、差異がなくて同一です。
表現は個別対象の定義ではないので、内包定義だけになります。
「作用は互いの区別の実現、又は消滅である。
あるいは、
作用は区別された互いの同一性と差異性の実現である。」
作用によって全体は部分に区別されます。又は、
作用によって同一性を失えば、区別も差異性も消滅します。あるいは、
作用する個別相互の同一性を保ちながら、それぞれに差異性を現します。
作用次元が違えば同一性が成り立たず、同一性があるから作用します。
現実の世界の物事と夢の世界の物事は次元が違っていて互いに作用しません。
夢と現実が作用するのは、身体意識の同一性を介してです。
他者の意識とも作用は成り立ちません。
他者と共感できるのは同じ人間として共通する理解が成り立ってのことです。
作用と表現は存在を実現し、創り出すことができます。
作用して新たな存在を創り出すことができます。
日々食材に作用して料理を作っています。
料理を食べて、身体をつくり、事をなします。
表現は存在を表し、存在の表現も創り出します。
日々新聞は発行され、WEBページも更新されています。
作用は変化を生じます。
作用はエネルギーと質量とを相互に変換します。
質量とエネルギーは創り出せず、相互に変換できるだけです。
ただし、この宇宙が唯一無二の場合です。
重力作用は互いの位置関係を変えます。
原子どうしの関係が電磁気作用によって分子を構成します。
次々に物のありようが作用によって変化します。
原材料を消費して製品を生産します。
決して無から物を創造することはできません。
変化は表現です。
変化の基本はエントロピーの増大化である乱雑化です。
観察、観測されなくても表現されます。
観察者、観測者が生まれる前から表現されます。
量子は観測されなくても相互作用によって物理量を確定します。
実験で観測されるのは相互作用によって定まる物理量の表現です。
表現は作用に媒介され、受容されて重なり、保存されます。
作用に媒介されて表現は過去の作用も重ねて表現します。
写真は画像が定着した印画紙を表現しています。
同時に写真は現像されたことも、画像が撮影されたことも表現しています。
写真が写真であるのは画像として撮影対象を表現していることです。
写真は調べればもっと詳細な相互作用の経過を表現しています。
対象のどの表現を受容するか、受容する能力があるかどうかは受容する者の問題です。
事件の証拠写真なら利用可能な技術を駆使して徹底的に調べられるでしょう。
表現は存在するかではなく、存在が表現です。
作用は相互作用です。
一方的では作用は成り立ちません。
引力作用は万有です。
万有引力ですべてが互いを引き合います。
ただし、万有引力である重力は電磁気力等の他の力に比べて圧倒的に小さいため、作用は決定的ではありません。
人と地球は圧倒的な重さの違いがあり、人は地球に一方的に引っ張られているように感じられます。
物理的には4つの相互作用が基本にあるとされます。
相互作用は相互の関係で全てと連なっています。
相互作用関係は相互にすべてとの関係に連なっています。
すべてが連なって関係することで
宇宙原理*の一様性、等方性が現れます。
物理学では相互作用の
大統一理論*を超えることが目指されています。
人社会は物質代謝の相互作用系です。
文化、コミュニケーションも人間の相互作用です。
世界は相互作用の階層構造として実現しています。
相互作用は全体に連なりながら、作用は局所に現れます。
量子は非局所性であっても、作用して局所化しなければ観測できません。
もつれての非局所的広がりでは、そこに相補的物理量の相関はあっても表現されません。
もつれた量子は他との相互作用で局所化して確定する物理量を表現します。
すべては相互作用の関連を離れて存在しようがありません。
関連そのものが相互作用です。
作用は相互に個別秩序を実現します。
量子のもつれは相互作用によって解消し、個別の存在を現します。
電磁場と光子が相互作用して電子と陽電子を対生成します。
電子と陽電子が衝突すると対消滅して個別性を終わらせます。
素粒子などの基礎的個別存在の
排他性*は日常的物のとは違います。
フェルミ粒子*の排他性は量子状態についてです。量子状態が異なれば共存します。
光などの
ボーズ粒子*はいくらでも重なり合います。
個別は局所化した存在秩序です。
他から区別されて個別が現れます。
他からの区別によって局所化します。
存在秩序は他からの区別の保存です。
水面にインクを落とせば一様に拡散せず、局所的な模様を描きます。
水分子とインク分子の相互作用で区別と関係による秩序が模様を表現します。
インクはやがて一様に拡散しますが相互作用が組み合わさると平衡秩序が実現します。
個別性は相対的区別です。
秩序は乱雑化する過程に局所化して個別秩序を
創発*します。
宇宙のビッグバンからの高温高圧が膨張して温度、圧力が下がって局所的安定が生まれます。
局所的にエネルギーが下がると他からの擾乱に対して保存され、安定します。
他からの擾乱に対する保存、安定が秩序です。
熱は高温から低温に移動しますが、対流が相互作用して互いを区別する
六角形*を生じます。
生物は同化と異化の平衡を実現する物質代謝秩序系です。
生物は細胞を存在単位として物質代謝、エネルギー代謝の平衡を創りだしています。
生物進化は個別秩序の発展です。
進化は遺伝子の突然変異とその
表現型*が生き残りに有利に作用して実現します。
突然変異も偶然なら表現型に作用する環境条件も偶然です。
圧倒的に多くの変異は有害です。
有害でない変異と、有益な変異とが中立変異として遺伝します。
表現型に作用する環境条件として自然選択、
性選択*、
社会集団選択*、育種選択があげられます。
多様な表現型を環境条件が選別し、選別された遺伝子が受け継がれます。
環境条件に適応した表現型が進化した様に見えてしまいます。
「適応して生き残るのか、生き残って適応するのか」が問われることにもなります。
その時々の環境条件に選択されるため、進化は合目的的ではありません。
眼*に入った光は脳へ信号を送る細胞を通過して受光細胞で神経信号に変換されます。いわば光を裏側で受け、盲点をくぐって信号を脳へ送ります。
それまでのすべての表現型にわずかでも適応があれば選択されます。
選択される表現型の適応が続けば方向付けられた
定向進化*が実現します。
視覚*では光量をを調節し、焦点を結び、色を分け、しかも像を上下反転させて受容します。
環境条件が原因となり、表現型が結果になると解釈できます。
表現型と環境条件の相互作用によって、表現型が世代を超えて変化します。
世代を超えた表現型の変化を環境条件への適応と解釈できます。
ついには秩序の制御を対象として情報処理する意識を実現します。
反応系が情報処理制御にまで進化します。
情報処理制御によって秩序の操作が可能になったと解釈できます。
秩序を表現する意識が実現します。
意識は秩序を創造する意思、意志を持つことができます。
秩序の発展一般は方向性を示すようになります。
秩序の発展に沿うほどに発展は加速します。
原因である変異と選択による結果としての適応進化の因果関係に意図、目的、価値が表現されます。
意識が意図、目的、価値を評価します。
秩序の発展は多様化と普遍化の矛盾と止揚をはらみます。
種が多様化しても生存に必要な器官は種を超えて普遍です。
魚類のエラ陸上生物では胚が呼吸を担います。
動物の胃で消化液を分泌しますが、
食虫植物*も消化液を分泌する腺毛があります。
種が進化して器官がそれぞれ
相同器官*として多様化します。
種が多様化しても環境情景に適応すると
相似器官*として種を超えて
普遍化*します。
特殊な環境条件に特化する適応と、環境条件を超えた生活環境への適応があります。
一般に生物進化はより特殊な環境条件=
ニッチ*に適応します。
一方で人は地上の何処へでも進出し、宇宙にまで進出しようとしています。
局所性を表現する秩序が個別です。
相互作用の連関が閉じた系を構成します。
細胞は膜によって内外、自他を区別しています。
空間的内外と細胞間の自他とを区別します。
個別性は相互作用の階層をなしています。
物理的階層、生理的階層、社会的階層、文化階層があります。
物理的主な階層は素粒子、原子核、原子、分子、気液固体です。
生理的主な階層は分子、細胞内器官、細胞、組織、個体、社会です。
社会的主な階層は番い、家族、地域、職域、業界、行政、国家、人類です。
文化的主な階層は言語、概念、理念とでも整理できるでしょう。
非平衡開放系は系としての局所性で区別されます。
すべては平衡化に向かって乱雑化しています。
全体の乱雑化に抗するには非平衡に開かれながら、部分に平衡する系を実現します。
瓶に流入する雨を汲み出すことで瓶の水位を一定に保つことができます。
生物は同化と異化の平衡を保って生存します。
太陽からの秩序だったエネルギーを取り入れ、全体秩序の乱雑化で自らの個別秩序の平衡を維持し、乱雑化したエネルギーは宇宙へ放出されます。
事象としての作用は継起し、並起しますが保存されません。
事象としての個々の作用の影響は残っても作用そのものは残りません。
残る影響が表現され、継承されて重なり、保存されます。
質量、エネルギーは変換されても保存されます。
「事象としての作用」とは個別間の特殊化する局所作用です。
ですから、時間は存在を問う対象ではなく、表現される存在です。
あるいは時間は記憶によって表現されます。
時間は作用の対象としては存在しません。
作用の対象になければ存在ではありません。
時間は作用によって変化する表現で測られます。
物理量の変位によって時間は表現されます。
時間が存在して運動が実現するのではなく、運動によって時間は表現されます。
作用間の変化の違いで時間は表現されます。
時間は作用に媒介される表現の記憶を反省して受容されます。
同様に空間も相互作用関係の連なった表現として受容されます。
物理的時空間が何次元なのか、人類は未だ知りえません。
表現は受容と相対します。
作用は互いに表現し、互いを受容して相対します。
表現は相互作用に媒介されて保存されます。
表現は媒介されて作用を超えます。
表現は時空間を超えて保存され、また伝えられます。
表現は世界として意識を表現し、意識はその世界表現を受容します。
自分、私、主観とは何かと考えても手がかりはありません。
自らに相対する、自らの否定としてある対象との関係が手がかりになります。
対象について学べば、自らは脳神経細胞信号によって表現される意識になります。
2025.09.14