作用と表現
作用と表現が世界が実現している二元の存在です。
存在は作用によって実現し、存在は表現されます。
存在があって作用し、表現されるのではありません。
二元論と言えば物心二元論、心脳二元論等とあります。
しかしそもそも「心」の存在を当然とする議論は成り立ちません。
「心」と呼ぶ存在を誰も示していません。
心は頭にあるのか、胸にあるのか、どのようなものなのか、
存在を確かめることができるのは作用と表現だけです。
世界が作用と表現として実現し、作用と表現を受容して私が存在しています。
何らかの作用が私の身体にあって、身体が受容する表現を私は感じています。
「神」や「物質」と呼ぶ存在も私に作用し、その表現を私が受容できて受け入れ可能になります。
科学的物質も様々な表現としてありますが、科学者も究明できていません。
作用と表現は創り出すことができます。
作用して新たな存在を創り出すことができます。
ことば、作品等として新たな表現を創り出すことができます。
物質やエネルギーは創り出せず、変換できるだけです。
物質やエネルギーは想定されるだけで、その存在を否定も排除もできません。
物質やエネルギーは作用と表現によって対象になる仮想の存在です。
作用は相互作用です。
相互作用は相互の関係で全てと連なっています。
物理的には相互作用の大統一理論が目指されています。
生物はエントロピーの増大過程での非平衡開放系として恒存する相互作用系です。
人社会は物質代謝の相互作用系です。
文化、コミュニケーションも人間の相互作用です。
世界は相互作用の階層増構造として実現しています。
相互作用は全体に連なりながら、作用は局所に現れます。
相互作用の関連を離れては存在しようがありません。
作用は相互に個別秩序を実現します。
個別の存在秩序は局所性を表現しています。
素粒子などの基礎的個別存在には不貫入性はありません。
作用は継起し、並起しますが保存されません。
ですから、時間は存在しません。
時間は作用に媒介される表現の記憶を反省して受容されます。
同様に空間も相互作用関係の連なった表現として受容されます。
物理的時空間が何次元なのか未だ知りえません。
表現は受容と相対します。
作用は互いに表現し、互いを受容して相対します。
表現は相互作用に媒介されて保存されます。
表現は媒介されて作用を超えます。
表現は時空間を超えて保存され、また伝えられます。
表現は世界として意識を表現し、意識はその世界表現を受容します。
自分、私、主観とは何かと考えても手がかりはありません。
自らに相対する、自らの否定としてある対象との関係が手がかりになります。
対象について学べば、自らは脳神経細胞信号によって表現される意識になります。
2024.12.29