私たちは生きている。生活している。
日々の生活に満足したり、不満であったりする。満足したり、不満を感ずるのは、望みがあるから。望みは生活の目標であったり、基準であったりする。生活の目標、基準が自分の生きることの価値を決める。
これまでに経験してきた物事、親や兄弟・親戚、友達、先生、その他の人々との交わり、自分自身の努力と反省の中で、生きることの価値を見つけることができる。確かな物事と、偶然の物事とを見極めることで、豊かな生活をすることができる。危険を避け、災難に備え、楽しみを知り、美しさを理解し、価値をつくり出すことができる。この世界と自分を理解して、よりよく生きることに学ぶことの第1の意味がある。
しかし、確かな物事を見極めることは自分の経験だけでは十分ではない。人の物事を知る能力、認識能力は、人が生きていく能力として、生物進化の歴史の中で獲得してきた能力である。食物か毒物かは見て、嗅いで、味で見極める。敵か味方かを見極める。周囲の人が危険を感じているか、好意を持っているかなどを見極める。さらに、道具を作り使用することで、また共同生活しコミュニケーションするなかで、人として生きる認識能力を身につけてきた。
見る、聞く、触れる、嗅ぐ、味わう、考える能力は人の生活に適した能力であり、逆に制限された能力である。暗闇で見ることはできない。ずっと遠くの物も、ずっと小さな物も肉眼では見ることはできない。錯覚が生じるのは、人の感覚の特性による。人は鏡の平面に映る像も立体的に見ることができるが、四次元空間の世界を具体的にイメージすることはできない。人の感覚も、思考も日常生活に適すように制限されている。
また、個人の経験は限られた、世界の極一部でしかない。交流できる人々も限られている。人の認識能力はその質も、量も限られ、普遍的に世界を理解するには不十分である。
その人の限られた経験からだけでも、直感的に世界を理解できてしまう人もいるらしい。しかし、その人の理解を他の人が理解するのは非常に難しい。
感じや、気持ちで世界を表現する芸術もある。芸術は世界を、生活を豊かにしてくれる。ただ、よりよく芸術に接するにも訓練が必要である。
人の認識能力の制限を超えるため、人々は社会的に物事を見極める能力を高めてきた。道具を利用し改良し、知識を蓄え、交換してきた。そのひとつの成果が科学である。世界を、対象を普遍的な方法で調べ、普遍的に表現することが科学の特性である。
いつでも、どこでも確かな普遍的な物事、環境や、条件によって違ってくる物事、1度しかありえない物事、1度としてありえない物事を見極めてきた。科学は生活を便利にするだけではなく、物事を見極める力である。科学の成果とともに、物事を見極める普遍的認識能力で、世界を普遍的に理解することに学ぶことの第2の意味がある。おまけに科学は好奇心に応えてくれる。
今日の社会は科学なしに成り立たない。科学は技術を介して生活の隅々にまで影響し、生活を支えている。しかし、科学の成果は良いものばかりではない。核兵器をはじめとする武器は科学によって進歩し、人類を滅ぼす力がある。役立つはずの薬や肥料は副作用があったり、環境を汚染したりする物がある。科学技術は限られた資源を次々と消費することを可能にし、地球全体の環境をも破壊しかねない。医学の発達により、移植や、遺伝子操作、生死の問題は当事者だけの問題ではなく、皆で考えなければならい社会的な問題になってきている。
科学はますます一人一人の生活に関係してくる。科学そのもの善し悪しについて、人々の共通理解を深め、広めなくてはならない。そのためにも学ぶことの第3の意味がある。
そして最後に学ぶことの第4の意味がある。
地球の環境、資源、人口爆発の問題が加速度的に深刻になってきている。多くの人々が、少数の人の大量消費のしわ寄せを受けている。にもかかわらず、そのために、地球には圧倒的に多くの教育を受けられない人々がいる。すべての人々が地球の未来を、人類の未来を見極め、自分たちの生活を見極められるよう、学び合えるように。