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第二部 具体的な物質の運動
第二編 生命
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第二編 生命
【物理過程と生命過程】
物理的物質の世界も多様であるが、生物の世界は桁違いに多様である。宇宙のビックバンも日常的想像を絶するが、生命の多様性、精妙な秩序も日常的想像を超える。
[0001]
生命過程も物理過程に媒介されている。生命過程は物理過程から離れた存在、物理過程とは別な存在ではなく、物理過程の一部分としてある。生命過程は同時に物理過程の一般的運動法則を超え、部分的に特殊な運動としてある。その特殊性によって生物は物理的物質と質的に区別される。
[0002]
生物過程には原子、分子としての、物理過程としての存在以外に物質的存在はない。おなじく、生物の化学反応、エネルギー代謝の過程にあっても化学の法則に変わりはない。あらゆる存在は物理化学過程によらないで物理化学過程に働きかけることはできない。しかし、生命過程を物理化学過程に還元することもできない。生命過程のそれぞれの過程は物理化学過程だけの法則によって決定されていない。物理化学過程を組織し、秩序を維持し、恒存性を実現する機序があることは、生命誕生の歴史的結果で明らかである。今日の科学でもその過程を明らかにできていないが。
[0003]
生物進化は物理的物質の決定論的法則性を超え、偶然での決定過程である。種の進化は偶然性がもつ自然の決定過程、現象過程であり物理的再現性はない。物理的物質の法則に従いながらも、生物としての存在、運動は物理的運動法則だけで決定されない自由度を獲得している。「超え」ても「越え」離れてはいない。
[0004]
【生物の物理的質】
物理過程にある日常経験の対象物はその構造も、その構成要素も不変であることによって、そのものとしての存在を維持する。その構造、その構成要素が変わる時は、その物理的存在ではなくなり、別の物理的存在になる。あるいはより基本的物理的存在に還元される。
[0005]
生命過程にあっては生命個体の物理的存在は常に変化している。ヒトの場合でも、その体を構成する物質は常に入れ替わる。タンパク質分子はその構成する組織、器官によって異なる時間で、新旧の交替がおこなわれる。硬い骨ですら代謝によって更新されている。生物個体は物理的存在としては常にその構成要素を変化・交替させ、自らを異化し、同時にその物質的秩序を維持している。物理的にその構成要素がすべて入れ替わっても、生物個体としては同じ存在としてありつづける。同じであり続けるのは、保存されるのは、生物として活動し続ける生命秩序である。さらに、部分的に破壊された場合でも修復し、全体秩序を維持する。その破壊の程度にもよるが、種によっても限界の程度は異なる。
[0006]
流水は流体力学の対象となる物理的運動であり、水分子は入れ替わってはいる。しかし、流水を形作る水分子は互いに区別できない、個別性のない存在である。流体力学で対象化されるのは、個別性のない水分子間の相互作用と、流れる場との相互作用である。川の流れは特定の地形で形づけられることで個別性を獲得するが、地理学の対象となる川は物理学の対象である流体としての性質を捨象され、物理的運動ではない。ところが、生物学の対象である細胞原形質は物理法則に従って流動するが、その方向性は物理的ではなく、その細胞個体の環境との相互作用に規定されている。そして、細胞としての活動が停止するなら、細胞原形質としての方向性を失い、全くの物理的存在に還元される。
[0007]
生物は増大するエントロピーを排出し、低エントロピーの物質を取り込み続け、自らを低エントロピー状態に維持することで生存する。生命過程は全体のエントロピー増大化過程、秩序から混沌への過程にあって、部分的としての秩序を維持し続ける過程である。
[0008]
生物は個体として個別性を実現しているが、個体だけでは生存できない。生命はそれぞれの種として、個体の更新、あるいは世代交代を経て存続できる。種自体が多様な個別性を獲得している。さらに、ほとんどすべての種はその種だけでは生存できない。ほんのわずかな独立栄養種、極単純な個体からなる種を除いて、他の種に依存しないで存続できない。その独立栄養種であっても従属栄養種との相互関係がなす環境に適応している。生命は物質の物理化学的運動過程に生命秩序を実現し続けることで存在する。物理化学環境に生物環境を作り出すことで生命は存続できる。その上で、生命は歴史的に個別性を変容させ、進化し続けている。
[0009]
【生命と生物】
「生命」と「生物」のことばの使い分けで、「生物」は個々の物質的運動主体としてあり、「生命」は生物の運動秩序として、生物の一般的ありかたとしてある。
[0010]
生命、生物の存在についての問題は生物学だけの問題ではない。疾病対策、脳死、器官・臓器移植といった社会問題でもある。感情的に現実を評論してもなんの解決にもならない。考えただけでは答が出ない社会問題でもある。社会的合意、社会的意志を決定していく過程で生命についての理解は重要である。
[0011]
【生命の一様性、普遍性】
DNAあるいはRNAの遺伝暗号によってタンパク質が合成され、個体が実現する。この機構はウィルス、ファージ、大腸菌からヒトにいたるまですべての地球生物に共通である。ただし、遺伝にはすべての個体が同じにならない多様性を保証する仕組みもある。タンパク質、脂質、核酸を主要な物質的基礎としていることも、すべての生物に共通である。そして、物質代謝、エネルギー代謝も基本的に共通の機構によって実現している。
[0012]
地球上の生物圏で生物は普遍的に存在する。土壌の中にも、空気中にも普遍的に存在する。太陽光の届かない深海底にも、地殻の深いところにも生物は存在している。環境の変化によって一時的に生存できなくなっても、再度、あるいは新たな種が繁殖する。人間による生物物質代謝の全体が破壊されない限り。宇宙規模での地球破壊が起きない限り。
[0013]
【生命の多様性】
地球上の生物種は300万種とも、500万種とも言われる。それでも、未だ調査されていない熱帯雨林にはさらに多くの種があり推定3,000万種ともいう。
[0014]
種別の基準が素人に明確であるかはともかく、化学物質の多様性と違うのは、相互に変換できない質的な違いである。化学物質は、原子という共通の要素の組合せからなっている。化学物質は異なる分子間でも合成でき、分解しても再合成できる。しかし、生物種は生命合成の可能性の問題とは別に、置き換えのできない区別としてある。生物種は交配できないことで区別される。(交配できても孫世代以下ができなければ種は保存さず、同じ種ではない。)
[0015]
生物種の生活環境も100度Cを超える温泉に住むものから、南極には零下20度Cで生活するバクテリヤや菌類がいる。大は30mのシロナガスクジラから、1,000分の1mmのバクテリア、そのバクテリアにとりつくバクテリオファージがいる。
[0016]
宇宙全体の大きさとクオークの大きさの比、ビックバンの高温・高密度と絶対零度、星間宇宙の密度の比からすれば比べるべくもないが、生物種ごとの生活環境制限の厳しさからすれば、やはり生命の多様性は大きい。
[0017]
【生命の複雑さ】
生物の物理化学的物質との大きな違いは、その構造と運動の複雑さである。
[0018]
遺伝を担うDNAは4種類の塩基対が鎖状に連なり、二重らせんをなしている。人間の細胞ひとつに含まれるDNAを伸ばしてつなぎ合わせると1mになる。それが幾重にもたたみ込まれて、染色体として現れる。細胞はひとつの授精卵が分裂し、同じ遺伝子を複製しながらまったく異なる機能を持つ組織、器官を形成し、60兆個もの細胞からなるヒトが育つ。
[0019]
運動の複雑さはロボットを例に取ればよい。二足歩行は数カ所の関節をそれぞれに動力で動かし、動かす量と強さを計算し、前後左右のバランスを制御する。そのロボットも膝を伸ばし、脚を振り子のように振り、かつ体重を支えて歩くことはまだできない(2006年1月現在)。そればかりでなく、人は場所、目的に合わせて運動量、方法を選択している。
[0020]
情報機器システムの発達はめざましく、処理量、処理速度、正確さでは人の能力をはるかにしのぐ。それでも人のこなしている情報処理全体と比較するなら取るに足りない。しかも、人の意識的な情報処理は極一部分であり、意識していない遺伝、神経系、内分泌系、免疫系といった高度に発達した情報処理系がある。
[0021]
【生命の合目的性】
生命、生物の運動には「合目的性」、あるいは「意志」があるようにみえる。それぞれの器官は目的にあった形、能力を持っている、それぞれの目的を実現するために進化しているように見える。
[0022]
捕食は新陳代謝を維持するための行動であるが、捕食行動は新陳代謝なしでは動けない。捕食するにはエネルギーを消費し、エネルギーは捕食によって獲得される。新陳代謝の実現が目的でも、捕食が目的でもない。捕食行動をよりよく実現するものが生き残り、進化してきた。人間はともかく、生殖は個体のためのものではなく、種を保存するものである。生殖の「為」に羽根飾りを進化させた鳥もいる。しかし、種の保存の「為」に個体が生殖をするのではなく、生殖をする種が保存され、進化してきた。「目的意識」なしに捕食、生殖の行動があり発達する。発達、進化は結果であり、主体と環境との相互作用過程が発達を実現するのであって、主体だけで発達が実現するのではない。まして意志によって進化させ、発達させることはできない。
[0023]
家畜の改良は人の意志によるのではなく、人の意志は自然淘汰に代わる人為淘汰として選別基準を選択しているに過ぎない。だからこそ、遺伝子操作は意志による生命操作として、進化史を画する重要問題であり、欲得だけで決定されては大変なことになる。
[0024]
このように運動過程自体を存続、進化させる総体として生命の特徴がある。こうして獲得されたフィードバック過程を認識の対象とすることによって目的が意識され、目的と手段の体系が価値として認識される。全体の過程を対象とし、結果を目的として先取りすることは客観視できるようになった意識によって実現される。生物の階層、過程では物事は部分と部分との継起的な連なりの結果として現象している。人の主体的実践方向を見極める能力として「目的」は獲得され、その反省が意識に反映されて「合目的性」が対象化される。「目的」「価値」を見いだし、それによって現実を方向づけようとするのは実践する人間である。実践しない人間は目的を持ちえないし、ただ価値を消費することしかできない。「目的」「価値」は人間の社会的意識として存在するのであって、その外、物理的・生物的自然のうちに存在するのではない。
[0025]
【生命力】
生命力は自然の力である。生命力は超自然的力、神秘的力ではない。また単に物理化学的力でもない。生命力とは代謝能力、生理的制御能力、免疫能力、運動能力といった生物体を維持し、活動させ、種を保存させる能力の総体である。自然的な力が生物体に一体となって実現する自己組織化力である。個々の力の発現の機序(メカニズム)は現代の生物学でも明らかにしきれてはいない。しかし、これまでに科学によってとらえられてきた自然の力で機能していることは確かである。自然力、生命力はそれだけであって、超自然な力、神がかりな力ではない。
[0026]
むしろ、超自然的な力、神がかりな力こそ自然の力によって理由づけ、説明されている。自然の力の現れを変えることができる力が超自然的力、神がかり的力の証明として宣伝される。自然の力に作用するのは自然の力である。自然の力に対して、気まぐれに作用したりしなかったりするのは、偶然である。スポーツマン・シップにのっとって競技している者に対し、えこひいきする神はいて欲しくない。
[0027]
【奇跡の根拠】
奇跡とは自然法則を破ることではない。非常に低い確率の物事が実現することである。確率はそれほど低くなくとも、主観的には起こりえないことのように思えることがある。確率の程度は事柄によって異なり、主観によって劇的に評価される。情報操作によってその印象はさらに強められる。あるいは、奇跡は原因と結果の誤った推論、関連づけによる誤解である。奇跡の問題はむしろ、奇跡を期待することである。奇跡自体は客観的問題にならない。
[0028]
低い確率を実現するには量をこなす。量をこなすだけでなく、事象が起きる効率を高める。効率を高めるには条件を獲得し、整える。人間はこうした方法によって数々の奇跡を実現してきた。富くじも、オリンピックでの勝利も、芸術、学問の成果もこうした奇跡であり、その実現の最後に偶然がドラマを盛り上げる。何もしないで、偶然だけで実現する奇跡など注目されない。
[0029]
低い確率に価値を認めるのは、全体のエントロピー増大化の過程で、部分として組織化が行われ、秩序が現れる事柄に対してである。そこに宇宙が構成され、生命が誕生し、我々が存在し、文化が築かれて来た。そこに共感や、連帯が感じられるのである。そこに我々は価値を見いだすのである。
[0030]
与えられた秩序状態、低エントロピー状態を私物化し、その現状を保守し、あるいはそれに寄生する人間が多数を占めるのも事実である。エントロピーの増大に乗って、時間とエネルギーと低エントロピーをむさぼる生き方もできる。だから故に、逆にそれらを超えようとする存在に共感・連帯するのである。
[0031]
【生物科学】
生物学を人文科学、社会科学と同様に「科学」としては認めない人がいる。さすがに分子生物学の成立以後そうした人は減ってきているが。問題は「科学」の定義である。
[0032]
「生物学では生物的過程を予測することができないから科学ではない」と主張する人がいる。生物学は未来の予測だけではなく、過去の予測もできない。過去の事象がたどった過程=生命の誕生、進化の機序を生物学は実証できていない。過去のひとつひとつの過程を明らかにして、それがどのように実現し、変化したかを説明できていない。
[0033]
このことは物理学でも同じである。物質存在の基礎を扱っている量子力学には不確定性原理があり、量子の状態は決定論的に規定できない。逆に生物学では個体発生の過程を明らかにしている。個体の発生過程は非常に複雑ではあるが、規則正しいものであることを現象論的には明らかにしている。生物学は個体発生の規則性が破られると、どのような結果が現れるかも説明できる。生物学が科学であるからある程度安心して医学手術を受けることができる。
[0034]
生物学と物理学、化学とが違う学問であるということは明らかである。物理学の対象である陽子、中性子はそれぞれ他と交換することができる。そもそも区別する個性がない。しかし生物学の対象である多くの種、そして個体には個性がある。個性は歴史的過程での偶然に修飾されて現れる。一卵性双生児以外、すべての個体の遺伝子が異なる。一卵性双生児であっても、免疫系はその経験によって異なってくる。
[0035]
法則が一般法則であるか、歴史法則であるかも科学の基準にはならない。物理学で扱うこの宇宙の物質はビックバン以来の歴史的産物である。物理学は個々の物質の歴史性を問題としないで、より普遍的有り様を対象にする。そもそも一般法則の一般性も相対的である。
[0036]
【生物科学の問題】
生物を問題とするとき、生物の物質代謝、エネルギー代謝の物質過程の問題はともかく、個体の生理、行動、進化等を物質過程と同質には論じられない。生態のデータを取るにも再現性、データ量、環境等、それぞれ条件の違いが大きく影響する。したがって、動物行動学などの研究成果を非専門家が評価、判断することはむずかしい。根拠とされる事柄を知ることはできても、事柄全体が事実なのか、特殊な条件下であったのか、観察者の誤認によるのか、報告者のねつ造によるのか、なかなか判断できない。
[0037]
様々な動物の運動能力。本能による動物行動の決定。「弱肉強食」と食物連鎖。肉食獣は必要十分な捕殺しかしない。ヒトの生理的早産性。狼少女アマラとカマラ等等。否定するにも、個々の事実データをあげるだけでは十分ではない。狼少女は狼の乳を消化吸収できるのか。行動が狼に似ていることが狼に育てられた直接の証拠にはならない。二次情報、三次情報として得られる情報ではどれが事実で、どれが解釈なのか不明になるが、多くの専門家の引用があれば既定事実になってしまう。
[0038]
人の成長、教育に関する学問は実践と不可分であり、何が正しいのか判断できないということではすまされない。自分自身の成長であればとりあえず自己責任で判断し、実践するしかない。子の育成であれば、自らの経験と学習から判断することになる。
[0039]
個体能力は生物学の概念ではない。個体能力は特定の力を区分する概念であって、生物的ありかたを評価する概念ではない。生物的には差異としてあり、人としては個性として行動の仕方に違いがある。違いを一定の価値観に基づいて評価するのが個体能力評価である。一定の価値観だけに基づくのであり、その価値観だけによって人間を切り捨てたり、その価値観を押し付けることは許されない。障害は人間の個体能力ではなく、その社会の一般的生活様式での生活が困難であることをいうのであって、その社会の一般的生活様式が柔軟な対応を可能にするものであれば、障害は障害でなくなり個性になる。困難を共同して乗り越えて共生するそれぞれの個性である。病気なら病気として対処するのであって、症状は人間を評価する基準ではない。障害の問題にとどまらず、人を害することは別にして多様な価値観に基づく、多様な生き方の人々が共生できる社会が豊かな社会であるはずだ。
[0040]
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