Japanese only
世界観組立中
メール交換
序
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寄せていただいた
メール
、あるいは返信を以下に紹介させていただきます。
Date: Sat, 26 Jan 2002 23:57:49 +0900
From= t*******@rui.ne.jp への返信
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>何か気にさわることを言ってしまったかと気になってメールしました。
何もありません。私はメールを頻繁に使わないのです。
>あのサイトなんですが、最近は更新されてないんですか?
進めてはいるのですが、壁にぶち当たっているというか、もがいています。
>どんさいさんは、世界観体系化の試みの意義をどのように感じていますか?
人は誰でも生まれてからの経験で世界を認識し、生活しています。生活実践では、それまでに獲得した世界感に依拠して価値判断し、意志決定をしています。
その世界感の獲得の基礎は意識的になされたものではありません。また、物理的制約、生物的認識機能の制約、社会的・歴史的制約、個人的環境・経験の制約等によって制限された普遍的でない世界感です。そうした不十分な世界感を意識的に点検しなおし、科学の成果に学びつつ、普遍的世界観として体系化することを目的としています。それはよりよく生きるためにも、豊かに生きるためにも必要なことと思っています。
したがって、世界観は「世界の何が確かなものであるのか」同時に「世界観を確かなものにするには何から始めるべきか」から始まります。
私の出した結論は「全体と部分」です。存在も全体の連関として関係する部分のあり方です。認識も全体と部分の区別から始まります。論理も集合と要素として、全体と部分の関係を基礎にしています。
抽象的で無内容であるが、それゆえ確かな全体と部分の関係から始めます。「全体」から論理的に導きだされる概念の体系としての世界観を組立てます。したがって、概念と論理からなる観念的な世界観です。世界観自体が観念ですから致し方ありません。
しかし、観念である概念を結ぶ論理が正しければ、対象世界の物事の関係を正しく反映できると考えています。対象である具体的物事を抽象化し、概念化して獲得した世界観・認識の筋道を、逆に抽象的普遍から論理的に個別的具体へと辿ることで対象世界を再構成できたなら、正しさの証明になります。さらに、世界観は対象世界に重ね合わせて世界を見通せるようでなくてはなりません。この様に世界観は実践による正しさの検証とともに、論理的検証もできると考えています。
私の世界観は観念的ですが、中身は素朴実在論です。
2002.1.29.
Date: Fri, 28 Dec 2001 18:39:17 +0900
From= t*******@rui.ne.jp への返信
CC Date: Fri, 17 Aug 2001 17:28:30 +0900
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メールをいただき、「
序
」を拝見しました。
共同体・類の問題意識、営為に敬意を持ちました。
まとめられている成果に、私の物との共通点も認められうれしく思います。
ただ、私の場合には学問、アカデミックなものに対する劣等感が大きく、学者にあこがれを未だに持っています。その学者に「世界観体系化の試み」を無視され、または「対象が大きすぎて中身がない。何の役にも立たない」と評され、意気消沈しています。私より頭脳明晰な多くの人々に接するにつけ、努力だけではかなわぬのかとも思います。個人の力では及ばないのか、互いに認め合う社会的な関係がなくては存在しえないのか、とも思います。しかし、私の対象の場合、共認は自己否定になりかねますん。
私の対象とは哲学的といいますか、言葉によって表される概念間の規定関係を整理することが基底にあります。したがって、学者やマスコミの用語によって自らの説の説得力を装うことのない様に努めているため、やはり孤立感に捕らわれるのでしょうか。
また、社会の構成、経過を見るには時代の発展段階、到達点の視点を欠いては現実に立てないことを、労働組合員であった頃学びました。最近では上野千鶴子氏の「ナショナリズムとジェンダー」から、歴史学の描くところの「歴史」(より普遍的には「事実」)は現在の視点から再構成され続けなくてはならないとの指摘に、「万人が認めることのできる事実」というのも難しいものだと思い至りました。
「生産」や「性」の問題もありますが、メールを媒体にしてどのようなコミュニケーションが可能であるか自信がありませんので、とりあえず思いついたことでメールのお礼にしたく思います。
2002.1.10.
Date: Sat, 28 Nov 1998 05:45:43 +0900
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無断の引用にて発信者名は表示しません
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ところで25日のイギリス上院のピノチェット逮捕正当化の判断についてどう思われますか.
前のメールで私の評価を率直に明らかにするのはためらわれました。引っかかるものがあったからです。
「ピノチェットを裁けるのは誰か」という問題です。イギリスか、スペインか、はたまたアメリカか。
アメリカは「エア・フォース・ワン」という映画をつくり、日本にガイドラインづくりを求めています。アメリカが世界の最高意思決定機関、最高裁判所なのでしょうか。こうした状況で、ピノチェットの裁判権は誰にあるのでしょうか。
参考例はいくらでもあると思います。
ヒトラー、東条英機、スターリン、毛沢東、ポルポト、等々。傀儡政権であろうと、政権獲得の手段を問わず、結局その国の人々が自らの責任で裁かなくては決して歴史を総括できないのではないでしょうか。
フセイン、金正日を裁くのはアメリカでしょうか、日本でしょうか、それとも国連、国際世論。
理想、民主主義、国民主権の実現は歯がゆくとも、結局これに依らなくては歴史は前に進まないのではないでしょうか。
1998.12.3
Date: Sun, 18 Oct 1998 15:32:25 +0900
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無断の引用にて発信者名は表示しません
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「世界観が検証されるのは、現実の社会現象や自然科学の個別科学とのかかわりだろうと思うのです。壮大な世界観が、現実の教育問題、銀行への救済問題、ソ連の崩壊などの問題との関係で、どういう切れ味を示すのかのページを作られたら、「話し相手がない」と嘆かなくてもよくなるのではないのでしょうか。」
とのご批判も覚悟しています。しかし、そうした諸問題は基本的に押さえるべきところを無視して議論されているように思えます。日本では形式的には政治的民主主義の手続がとられ、結社の自由もあり、選挙も行われ、役人の分限処分も制度としてはあります。圧倒的多数の人がこのままではまずいと言いっています。しかし、決定権限をもっている人に勝手を、あるいはサボタージュを許しています。子供たちを除くすべての人が選択した結果、選択しなかった結果が現実の現在の社会であり、誰かをバッシングすれば免責されるものではありません。こうした状況を打ち破るのは一人一人と話し合う合意作り、生活や行動を組織していく運動であると認めます。その上でまたしかしなのですが、私にはこうした問題を生身の人と話すことができないので、こうした形を取って発言しているのです。試した時期もあったのですが、話す覚悟をするだけで消耗してしまったのです。この性格のために高校生の頃からしたかった結婚も30歳を過ぎてしまいました。
Date:Sun, 11 Oct 1998 06:24:00 +0900
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石川光一@日大理工/フランス語・フランス哲学
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先日ようやく論文を全部ダウンロードしましたので,そのことについて一言感想を述べさせていただきます.
ダウンロードしたばかりですから目次にはすべて目を通せたものの中身はまだ全部読めてはいません.でもあえて感想をと思ったのは,今の時代まじめに「世界観」を考えようとしている人は哲学の専門家でも少ないと思うからです.それもポストモダンという思想が流行するなかで真理の相対主義が叫ばれ,私たちの行為や思想の営みそのもの客観的な位置づけを回避しようとする傾向が強くなっています.その意味で市川さんのなさっていることはすばらしいことだと思いました.これが一番目の感想です.
まだ第二番目の感想は上に専門家と書きましたが,わが国で「哲学」を語る人の大部分は大学で「哲学」を講じている人たちです.しかし西欧の哲学(これなら私も少しかじっているので言えるのですが)は,ドイツは日本と似ていますが,多くの場合そうではないだろうと思います.特に近代以降哲学は社会の発展のなかで問題になっていることを思想的,理論的に解明しようと(仮にそれが非自覚的であったとしても)してきました.その意味でそれぞれの国で国民的課題を思想的に解決してきたとも言えます.なんなことを書いて何を言いたいのかと言いますと,今の日本では一方で哲学の必要性が叫ばれながら,他方で哲学の専門家はそれに十分答えていない.その間に大きな乖離があるということ,そしてそれを埋めるのは講談哲学者ではなく,日常生活の積み重ねの中からその生活体験を深部で思想化しうる者でなければならない,そのためには市川さんのような方がどんどん哲学的発言をされ,それがいろいろな人と哲学のキャッチボールの材料になることが必要なのだと言うことです.市川さんの「世界観」はそういう役割を持っているのでは,というのが長くなりましたが私の二番目の感想です
何年か前からフランスでは「カフェ・フィロゾフィック」というのが流行っているようで最近では哲学的討論を行うレストランまでできているそうです.日本でもネット上でそうした試みがありますが,市川さんのホームページもそうしたものになると良いですね.
早々