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私の哲学

【 要約版 】



 私の世界観は、アカデミックな哲学者からは、お一人を除いて評価してもらえていない。「哲学」と呼ぶことは許されないのかもしれない。しかし、現象学とも、論理実証主義とも、現代思想とも違う。私は唯物弁証法であると思っているが、そうは認めてもらえない。であるから誰とも違う「私の哲学」となる。
 特徴は、素朴実在論と心身二元論を折衷した唯物弁証法であり、人は制限された世界認識を科学によって普遍化し、論理によって定式化し、生きる指針にするというものである。
 私の1995年にまとめた「世界観体系化の試み」を見直すと、若気の間違いも、不勉強なところも多いが、元気なのがいいと思う。だが周囲の人々は「何が書いてあるのか分からない」と言う。誰にも分からないのでは意味がない。そこで要約をしてみた。


私からの視点

 私の哲学は、生きるよりどころを追求する。どのような環境条件でも、より豊かに生きるには普遍性がよりどころになる。普遍性はいつでも、どこでも不変にあることである。普遍性は多くの人々に受け容れられるものでもある。普遍的な生き方は、より多くの人々と共に人類の歴史を継承する方向でなくてはならない。

 私にとって世界は私と、私でないものとから成り立っている。私は私でないものと関わることができるし、私自身と関わることもできる。しかし、私は私でなくなることはできない。私と共にある世界も世界でなくなることはない。私にとって私は絶対のよりどころである。にもかかわらず、私は酒に酔い、疲れ、病気になり、でなくとも誤りを犯す。
 絶対でありながら不確かな私は私を意識し、私でないものを意識する主観として限定することができる。私を限定することで不確かさを閉め出してみる。主観としての私は観念であり、観念としての世界とのみ関わる。主観として私は観念としてのみ存在し、私と観念である対象との区別はなくなる。主観としての私はそれ以上でも、それ以下でもなく、主観であることがすべてであり、それだけである。主観としての私にとどまる限りこれで終わりである。

 しかし、私は私を意識しなくても私である。私は私を意識しなくても、他から働きかけられ、他に対して働きかけている。無自覚な私、身体を含めた私が存在する。私は身体を介して、私でないものと関わっている。私の限定は私でないものと関わる主体に拡張できる。主体である私は、私でない対象と対等である。私の対象は主体に対する客体になる。私は主体を介して客体と関わり、主体を介して客体=世界とその物事を私は受け取る。主体を介しても、私が受け取れるのは対象の観念である。観念として受け取った客体=世界とその物事は、私の対象世界である。主体の対象である客体世界は、主観である私が対象化する観念の対象世界として私に対する。こうして、私は主体の対象を対象世界とし、その中に私自身を対象化することが再び可能になる。対象世界に位置づけられる私自身は、対象世界によってどのように説明されるのか。

世界からの視点

 世界として宇宙の構造ができ、銀河系ができ、太陽系ができ、地球ができた。
 生命は太陽エネルギーを利用し、地球上の物質代謝系を利用し、生物として誕生した。生命は地球の様々な環境に、環境の変動に対応して多様性を増して進化した。地球上の物質代謝系をよりよく利用するよう進化してきた。
 環境の変化に対応する過程で、環境変化を認識し、変化を利用する能力を獲得してきた。特に動物は感覚と運動能力を獲得し、感覚と運動能力を調整し、運動を制御する神経系を発達させた。この認識能力は対象を、対象への対応を記憶として保存する。この記憶としての保存が対象の普遍性を認識する基礎である。時間的、空間的に異なる対象を普遍的に認識する。
 動物としての人も必要な物、環境を手に入れ、栽培し、飼育し、加工する労働によって、様々な物事の普遍性を学んできた。栽培し、飼育し、加工することは対象を理解する上で特に重要な経験である。さらに人は共同して栽培し、飼育し、加工し、それを貯蔵し、交換する。社会生活は協調を必要とし、意思疎通=コミュニケーションを必要とする。意思疎通の能力は人に限られない。意志疎通は程度はともかくも、集団生活をする動物の普遍的な能力である。さらに社会的協調経験から微妙な表情を見せる他者を理解することで認識能力を高める。
 人は対象の指し示しを言葉で表し、対象を意思疎通の場に絵や、記号、文字によって記録するようになった。記憶として保存するだけではなく、記憶そのものを対象化して表現し、保存し、さらにそれを交換、蓄積する。社会生活での労働と意思疎通をとおし、人は文明、文化を実現してきた。
 それでも人は生物であり、身体の物質代謝を維持しなくてはならない。物質代謝を制御することで身体を動かすことも、考えることもできる。物質代謝は社会的物質代謝、地球の物質代謝によって実現されている。その物質代謝は宇宙の歴史的過程で実現してきている。
 人が人間になる上で決定的なことは、こうして獲得された認識能力を、その対象を自分自身に向けたことである。自分自身を対象化し、対象の中、他者の中に自分を位置づけ、自分の方向性を見いだす。その方向にそう物事が価値になる。その方向に向かえることが自由になる。
 認識は単に個々の対象を識別して反応するだけでなく、対象全体を普遍的世界としてとらえ、その中に個々の対象を普遍的にとらえる。対象の普遍化は人の対象化、他者を介して自らをも普遍化して対象化する。他者と同じく、自らを意識し律する人間として人格を陶冶する。

 こうして獲得してきた人の認識能力は、地球の生物環境に適した、逆にいえば環境に制限された能力でしかない。感覚も運動能力も制限されている。視覚はごく限られた波長の光しか感じない。同様に聴覚も限られている。五感は制限されている上に、その精度も人の生活にて適するように制限されている。すべてを感じていたのでは、対象を区別することが困難になる。さらに輪郭を協調するように生理的に補正処理すらしている。その補正のために錯覚が起きるし、逆に訓練によって識別能力を高めることもできる。
 感覚だけでは対象の普遍性は認識できない。色は光源と対象の状態によって変わる。音は音源の運動と媒体によって変わる。物の形はまさに一面しか見えない。主体的に対象に関わることでより普遍的に認識することが可能になる。対象との関係を変え、対象に働きかけることで普遍的にとらえようとする。また、複数の感覚を統合して対象をとらえる。私が意識しなくても生理的に対象を普遍的にとらえるように反応し、そうすることで生きている。動き変化する物にまず注意する。不審な音がすればそちらを振り向く。
 さらに人間は道具を使って認識能力の制限を超える。虫眼鏡、望遠鏡、顕微鏡のように、視覚に限らず様々な観測機器が用いられている。

 認識能力の制限は、思考能力をも制限する。私には四次元空間も空間の歪みも視覚化することはできない。時間の進み方が、それぞれの運動によって違ってくるなど実感できない。真空から物質(電子)が出現するなど思いもよらない。物理に限らず、文化の違いも思考の制限であり、違いを知ることで制限を超えることができる。思考能力の制限は論理によって超えることができる。
 人間の認識は対象を観念として受け取り、対象と対象の関係を観念と観念の関係として記憶する。人間は観念を言葉によって表現し、記録し、交換する。対象と対象の関係は言葉と言葉の関係として、言葉によって説明される。言葉のあやふやさを厳密に定義した観念が概念である。対象と対象の関係は概念と概念の関係として論理によって定義される。概念と論理によって概念の相互の関連を過不足なく明らかにして全体が確定する。概念と論理として明らかになった全体に物事を位置づけることで、その普遍性が明らかになる。概念と論理によって対象世界は定義される。普遍的な論理をたどることによって、未知の対象間の関係を推測し、未知の対象を発見することができる。
 そして概念を記号で置き換え、記号を他の記号に置き換えることで論理の関係を表現することができる。記号を電気信号によって表し、論理を電気回路として構成することで論理の関係をコンピュータで実現することができる。コンピュータは記憶と検索、置換、通信を高速・大量・正確に処理することができる。人間は道具・機械によって人の肉体的能力を拡張したように、コンピュータによって思考能力の一部を拡張することができるようになった。
 しかし、論理は論理と概念の普遍性を示すだけであり、論理によって世界を説明することはできない。論理によって組み立てられる対象世界は、世界との対応関係を常に検証されなくてはならない。

私と世界の重ね合わせ

 世界は私をこのような人間として説明する。私は生物としてよりよく生きるために対象を認識し、対応する。対象に働きかけることで対象を理解し、対象を自分の物とすることで自分を維持する。新陳代謝は対象を取り込んで自分を更新し、更新によって不要になった自分を廃棄する過程である。感覚も常に対象と関わり合っていないと混乱してしまう。感覚遮断実験は誰にでも体験できるものではないが、大きな白い壁に対する時、視覚が混乱することで似た体験をすることができる。認識も対象を理解し、その中での自分を理解し、ありたい自分を対象の中に実現しようとする。
 世界の中に生まれ、その一部分である人間主体の、その中の私が世界全体を対象として認識しようとするのである。全体を部分の中に取り込み、部分の中に全体を再現しようとする。私と世界の関係、精神・意識と物質の関係、主観と客体の関係は、一体でありながら分け隔てられた関係である。その構造は、全体を部分に繰り込み、部分が全体を超えるのである。世界が世界について語る自己言及である。

 対象と、対象に働きかける私を改めて対象にするのが主観としての私の意識である。私は私を対象化できるが、私の対象化によって対象でない私を意識する。私は決して対象化できない、対象にはなりえない主観としてある。
 主観は世界を対象化することで、主観自体を対象化できない世界の対極に位置づける。主観は観念であり、主観の獲得する対象世界も観念である。観念として獲得された対象世界は主体によって、主体の生活、実践過程で世界そのものに重ねられる。対象世界は生活することで、実践の中で世界と重なって確かめられ、豊かになり、同時により普遍的な世界観となる。

 私一人で世界を普遍的に理解することは不可能である。私は世界ではなく、世界によって制約された存在でしかない。私は時間的にも、空間的にも、能力的にも制約された存在である。しかし、私の認識は私だけによって獲得されたものではなく、社会の中で育てられ、教育の中で学んできたものである。私の生活も社会によって保証され、こうして語る言葉も親から、社会から学んだものである。そして、社会は一人一人の認識を蓄積、交換し、また一人一人の認識を社会的に組織してきた。この社会的認識を普遍化する働きが科学である。科学は社会の普遍的な認識活動である。私の認識の制約は科学を学ぶことによって普遍的になりえる。ただ、私は諸科学の成果を解説することはできない。私は科学の成果を「このように理解している」と示せるだけである。科学を担えなくとも、科学を学ぶことはできる。
 私にとって確かなもの、普遍的な世界を世界観として手にすることができる。私が生きるなかで手にした世界観を、社会に返して検証してもらうことができる。共有できるものかどうか。