Japanese only
just a half century / 1999.7.3


存在、認識と論理

市 川  徹



 70年代矛盾論争を学んでの私なりの解釈である。論点を直接取り上げるのではなく、その前提を確かめるもので、論争を継承したり、総括するものではない。論理とは何かを明らかにせずに矛盾を論じても、議論は成立たない。
 論理を認識から区別することによって、新たな世界観がひらける。以下そのスケッチである。スケッチから細部を整え構築して仕上げるのは私の仕事「世界観の組立方」においてである。

目次

0. 世界の構造
1. 存在
2. 認識
3. 論理
4. 矛盾


階層構造の理解
存在の理解
認識の理解
論理の理解



 

0. 世界の構造


 我々の世界は三つの階層からなる。
 そこから逆に、「我々」が、どのようなものかが明らかになる。
 存在、認識、論理の三つの階層である。
 各層は別々のものではなく、基礎的なものと発展的なものとの相互規定関係にある。
 認識は存在に媒介され、論理は認識に媒介されて存在している。

 我々人間は存在、認識、論理の三階層の統一として他と、世界と関係している。
 認識も論理も存在の一部分でありながら自らを含む存在を反映する。特に論理は存在を論理として再構成する。存在は論理を創出し、論理によって自己に言及するまでに発展した。
 論理は認識の一部でありながら、認識を対象化することで、認識を操作可能にする。論理は認識の結果だけでなく、認識の過程をも操作可能にし、また、認識主体である存在をも操作可能にする。

 我々は、宇宙進化の過程で、生物進化の過程でヒトとして生まれ存在している。
 我々は生物進化の過程で生物として生存を維持し、行動を制御することで認識能力を獲得してきた。
 我々はヒトとして社会生活をし、かつ対象に働きかけることによって論理能力を獲得してきた。論理能力によって認識を対象化し、保存、継承、発展させてきた。
 論理能力は論理をも対象化し、保存し、世界を論理によって再構成する。再構成して世界の運動の方向性を見出す。全体の方向性を実現する運動を価値として評価し、我々の存在する世界での実践の方向を定め、我々の生き方を方向づける。
 論理は対象となるすべてを論理の内に組み込み、位置づけることで世界を理解しようとする。論理の対象には我々自身も含まれる。自分を評価する自分を求めて、自分の視点は無限後退する。あるいは社会的評価におもね、媚びる。自分の視点の無限後退の不安な過程が、自分のアイデンティティにこだわらせる。


階層構造の理解参照
 

1. 存在


 存在は物質としての有り様である。
 物質の有り様は相互作用の連関とその統合としてある。物質の相互作用の連関として世界は存在する。すべては存在するものとして他と関わり、世界を構成する。存在するかしないかの基準はこの相互作用の連関の中に組み込まれているかいないかである。
 「連関に組み込まれている」とは、個々の存在=個別の不変性の実現である。個々の存在が何時、何処であってもそのものとしての不変的存在であることである。他との関連のし方=相互規定性が、そのものの規定性=本質と一致していることである。個別に現われる普遍性とは、時と場合によって本質が違ったりしない、他との関連のし方が違ったりしない不変性である。
 もっと具体的に言うなら、スプーンに作用する超能力がフォークやその他、周囲のものに限らずすべてに同様に作用できなければそれは、特別な超能力創作の仕掛けがなければならないということである。物理法則は精神力で破ることはできない、精神は物理法則を利用するだけである。

 世界の相互作用の連関は個別と普遍との統一した関係をなしている。相互作用の連関は、世界の普遍性であり、孤立した存在はこの世界の存在ではない。普遍性がなくては物事を区別することすらできない。区別とは同一と差異の区別であって、同一(=普遍性)がなくては区別はなりたたない。普遍的な連関の中に個別は特殊な規定性、不変性として現象する。普遍的な相互連関として存在しながら、それぞれを特殊化する規定性、不変性が個別としての存在を規定する。あるものの規定(性)は、そのものを実現している質の、相互作用の結果・過程としての現わである相互作用の一方への作用として他方の存在が現象する。その一方への作用結果によって他方が認識され、規定される。規定するのは我々の思惟による論理であり、この過程は相互作用の反省として反映である。個別は内に相互作用の統合過程としてあり、かつ他との相互作用の主体として運動する矛盾した存在である。存在は矛盾に満ちている。存在は運動であり、他との関係にある矛盾の実現である。
 すなわち、物理学の不確定性原理について、コペンハーゲン解釈はとらない。  個々の存在は全体の一部分であることによって全体を構成している。個々の存在は決して全体ではない部分であるが、個々の存在なしに全体もない。
 個々の存在は他との関係を変えることで、存在の有り方を変える。個々の存在は存在自体を変えて、他のものになることによって存在を維持する。個々の存在は、他の存在との関係を変えることで、自らの存在の有り方を変えてより発展的な存在になる。自らを対象化することで、対象間の関係に自らを拡張し、拡張された関係を組織、統合することで自らを発展させる。自らを拡張し、拡張した関係によって、存在の新たな質を創出する。
 物質進化は新たな質、不変的、超越的存在創出の過程であり、物質の階層性はその歴史的産物である。
 宇宙はビックバン以来のエントロピーの増大過程としての無秩序化にありながら、混沌から宇宙の構造や、生物、文化等としての秩序を創造してきた。

存在の理解参照

 

2. 認識


 認識は生き物としての我々が自分らの命を維持し、制御する他の存在とのやり取り、相互作用の反映である。反映は対象を反映するのではなく、主体と対象との相互作用の反映である。環境、対象との関係の変化に主体的に対応する過程が認識である。変化する環境の中で、個体を維持するために自己を変革する制御が認識である。生物は変化しない環境、一部に閉じた物理系内で生存することはできない。生物は全体の変化の中に不変の自己を実現し続けている。
 細胞レベルから多細胞生物の個体まで、自他を区別する免疫系がある。遺伝は種を保存し、進化を実現する生命の普遍的な過程である。遺伝を実現する発生過程でも物質代謝の環境との相互作用にありながら、自他を区別して個体を形成する。個体の誕生後も、新陳代謝は環境から自己以外の存在を取り入れて自己を形成し、自己を更新してそれまでの自己を構成していた物を排泄することで自己を維持する。多細胞生物では細胞自体を代謝する。さらに動物は感覚、運動、中枢神経系によって対象との多様な相互作用を媒介し、対象・環境との相互作用を制御する。
 認識はこれらの過程での自他の区別であり、これらの過程の統合として対象を主体の内に反映する。

 認識は階層構造をなす統合された情報の並列処理系である。大まかに分類しても、細胞内器官、細胞、組織、器官、個体それぞれで情報処理は行われている。神経系にあっても感覚細胞、末梢神経、中枢神経、特に大脳においは分化した領域で、それぞれの階層で並列して情報処理されている。意識しなくとも、代謝を制御し、危害を避け、個体の運動を調整し、方向づける。認識は、このように広義にとらえるべきである。
 対象は主観の内に反映されるが、反映することが主観の実現である。主観があって対象と関係することによって認識が成り立つのではない。認識を反省することで、客体としての対象と認識主体としての主観が対象化され、意識される。
 主体の対象との相互作用の過程で、対象間の変化する相互作用から対象の不変性、個別性を反映することが狭義の認識である。対象間の関係は、対象と主体との関係に媒介されて認識される。
 意識は、対象との相互作用において対象を他とする=対象化する自己の形成として実現される。主体の対象との相互作用の過程で、対象の不変性を反映し保存する認識活動が意識である。

 認識を対象化する認識過程が思惟であり、対象の区別と関係をとらえる。思惟は論理化された意識である。思惟によって論理はまず実現される。実現された論理によって、次に思惟が論理の対象となり、思惟法則が認識される。論理は認識の一部でありながら、認識を超える不変的存在になる。

認識の理解参照

 

3. 論理


 論理は認識を評価し、存在の全体を論理として再構成し、反映する。論理は対象を概念として定義し、定義による概念の相互規定の関連として対象存在、連関する世界を再構成する。これが論理の広義の定義である。この論理を対象化し、その関係形式を対象とするのが狭義の論理である。広義の論理は存在、認識に対する論理であり、狭義の論理は概念の関係形式についての論理である。
 概念と概念の定義からなる相互規定関連が閉じた関係形式をとり、自律した対象世界を構成するのが論理系である。
 論理は対象を他との関連によって論理の対象として規定し、規定した対象の関連によって対象世界を定義する。対象の論理関係が完全に展開されると論理は系として閉じ、個々の概念は他の概念関連全体に位置づけられ、全体は個々の概念の関連構造として定義される。対象の規定関係を形式化することで対象は論理的に保存され、操作が可能になる。
 対象の規定の仕方によって対象の論理は多様である。何をどのように認識するかによって、とらえた対象の論理は異なったものになる。多様な論理の全体から対象は理解される。
 論理は関係を保存して論理関係自体を対象化し、関係の敷衍を論理的導出として可能にする。この対象化された論理が狭義の論理学=形式論理学の対象である。
 理論は対象を論理によってとらえること、対象を論理化すること、論理化した対象を対象に関連づけて検証することである。

論理の理解参照

 論理は論理として、
 論理は存在を論理的に構成し法則を理解する。
 論理は認識を論理的に構成し世界を理解する。
 論理は論理を論理的に構成し自分を理解する。

 論理は認識として、認識において、
 存在の論理矛盾を追求することで、法則を発展させる。
 認識の論理矛盾を追求することで、世界理解を深める。時に論理のみの同型解釈を観念的に拡張し、類推のみで飛躍し、世界を創造すらしてしまう。
 論理は論理矛盾を追求することで、論理を発展させる。

 論理は存在として、存在において、
 論理は存在自らの不変性創出過程の到達点として、存在自身を反映する。
 論理は認識自体を対象化して、主体としての自己を実現する。
 論理は論理を対象化し、完全性を実現することで対象理解を検証可能、実践可能にする。
 論理は論理的に完全な関係系が成立つことを完全性定理として証明し、論理的に完全に規定できた関係であっても、現実の対象との対応で検証されなくてはならないことを不完全性定理として証明した。閉じた論理系を超えて論理系の系を構築しなくては、世界を論理的に構成することはできない。

 論理は論理的矛盾を追求することで、論理系を完全なものにする。論理系内での矛盾は概念化されて他の概念との関係には影響しなくなるか、論理系外に追放される。論理的矛盾は、論理系から追放され、認識の矛盾であるかどうかが追求され、対象存在の本質と現象過程=運動としての存在矛盾であるかどうかが検証される。
 存在の矛盾か、認識の矛盾か、論理の矛盾かを追求することで認識も、論理も、存在としての我々も発展する。

 

4. 矛盾


 認識から論理を階層的に区別することによって論理性が明らかになる。
 形式論理と、弁証法との関連が定義される。
 形式論理と弁証法からなる論理性のキー概念である「矛盾」を明らかにするのが次の課題になる。矛盾の論理構造を明らかにし、矛盾の論理を分類整理する。


おわり
























































 

階層構造の理解


存在、認識、論理の階層構造の理解
 世界の構造について主観、あるいは主体と対象存在との対極関係として理解するのが一般的であり、そこで認識の反映が論じられるのが普通である。論理はその関係形式を定義することとされる。しかし、この対極関係では論理を認識の一部としてのみ扱うため世界の構造を整理しきれないと考える。論理の認識に対する独自性、主観の認識には依存しない論理の普遍性に着目して、世界を存在、認識、論理の三階層構造で整理することが有効であると考える。
 例えば主観と対象の対極関係で左右の形式的関係が定義される。対象と主観の左右について左右それぞれに方向をたどれば、対象と主観とがともに左右に無限に平行した世界が定義される。しかし、主観を固定し、対象の左右の方向をたどれば、主観を取り囲む閉じた世界の関係が定義される。逆に対象を固定し、主観が対象の左右をたどって対象の周囲を回転すると対象を取り囲む閉じた世界が定義される。対象を主観が取り囲む世界では、主観が当初の位置に対して反対の位置では対象の左右、前後が逆転してしまう。鏡像の左右の逆転が生じてしまう。主観と対象との対極関係では世界を定義することができなくなる。この定義できないことを主張しえるのは、この三つの対極関係を相互に比較できる対極以外の第三の視点を取ることができるからである。対象と主観との対極関係を超える関係を見出さなくては、対象と主観との関係を定義できない。

 主観は対象を対象化するが、主観は対象と主観との関係をも対象化する。対象と直接関係するのは主観であり、主観と対象との関係を対象化することで主観自体を対象化するのも主観であるが、二つの主観は別のものでありながら同じ主観である。対象と直接する主観と、対象との関係に媒介される主観が同じ主観として存在する。媒介される主観をさらに対象化することも可能である。主観は主観を対象化することで、対象化の無限後退が生じる。
 対象と直接する主観と媒介される主観の三者からなる関係は、直接性と媒介性を統一する三階層からなる世界の構造である。媒介性は直接性を論理によって対象化することによって実現される。
 論理は認識の発展の中で獲得されるものであり、認識の一部を構成するものではあるが、論理は認識によって媒介されたものでもある。論理は思惟としての認識活動によって見出されるが、ことばによって表現、保存、操作され、さらに記号化、信号化されて、思惟から独立して機能するまでになる。論理を含めた認識は広義の認識であり、論理を媒介する論理の基礎になる認識が狭義の認識である。






















































 

存在の理解


物質としての有り様の理解
 具体的に今の世界は百数十億年前のビックバンに始まる宇宙膨張の過程にある。
 対称性の破れが相互作用として物理的運動=物理的存在を実現している。エネルギーが低くなりつつある過程で、不均等なエネルギー低下の運動が物理的物質の区別を形成し、多様な物理的存在形態=運動を作り出した。
 物理的物質の運動は全体のエネルギー低下の傾向の中で、部分の運動過程を個別的に閉じる。相互作用の連関(=連なって関係する)としての運動が、相互作用の相互作用を形成する。全体を実現している相互作用の連関に、相互作用の相互作用として、他に対する部分として相対的に閉じた運動を現象する。全体の連関としては開いた相互作用の関連にあるが、相互作用の相互作用として閉じた連関を形成する。閉じた連関は開いた連関を超えた存在である。開いた連関から閉じた連関の形成=自律的フィードバックを自己組織化ともよぶ。
 開いた連関と閉じた連関との関連(=関係の連なり)は階層関係でもある。開いた連関はより基礎的な階層であり、閉じた連関はより発展的な階層である。開いた連関は全体としては普遍的であるが、部分としては絶えざる相互作用の過程にある。これに対し閉じた連関では全体に対して個別的であり、部分の運動として不変的である。
 クオーク、素粒子、原子、分子の連関はこの階層関係にある。より基礎的階層は運動としてはより普遍的であるが、個別はより激しく運動する。素粒子の一般的寿命は1秒未満で他の素粒子に変わる。逆により発展的階層では運動は多様性を増すが、個別はより不変的になる。物理的存在自体その階層的発展はより不変的な存在をつくりだす方向性をもっている。

 世界全体の絶対的普遍性に対し、物質の運動、発展は部分としての相対的不変性をつくりだす。世界全体の発展は全体的普遍性から部分的不変性をつくりだす過程と見ることができる。

 物理的運動の発展は地球上に生物を誕生させた。
 生物こそ自己組織過程の典型である。物理的物質を常に自己の内に同化し、自己の物理的物質を常に異化することで生存する。生存のために運動し、運動のために生存する。生物の担う生命は物理的物質に対しより不変的、超越的存在である。物理的物質としての生物は個体の死によって存在しなくなるが、生命は個体の死を超えて引き継がれるより不変的、超越的物質の運動=存在形態である。

 さらに、生物は進化し、ヒトを生みだした。ヒトは環境に適応するだけでなく、対象に働きかけることによって生存の条件を獲得する。個別の肉体的能力を適応的に進化させるのではなく、個別の肉体的能力を普遍化させ、それを統合的に機能させることによって対象に、環境に適応する。対象を変革することにより、自らを変革する。
 同時に哺乳類としての集団生活は、ヒト相互を対象化する。ヒトの対象化は自らの対象化を導きだす。人と人との社会関係は、人と物との関係も社会化し、人をめぐる物質代謝からして社会化する。個人の肉体的能力を超えて、分担と共同による集団としての力を普遍的、社会的力として実現してきた。
 環境を対象として変革し、人を対象として関係し、人は対象と自己とを認識する人間となる。共同作業と対象の操作・変革は人間間のコミュニケーションを創出し、コミュニケーションは人間の対象理解を保存する。人間は世界を理解し、保存し、継承する。人間は人間の世界として物質に対し、生物に対し不変的な文化を創造する。文化は個人を超えた社会的存在であるとともに、個人を規定し、育てる普遍的環境でもある。
 世界は進化し、世界自体を理解する知性を産みだす。世界は自らの内に、自らを反映し再構成する。























































 

認識の理解


 認識の基礎は反射である。
 細胞も個体も他を取り込み、自己を廃棄する新陳代謝の過程にある。物理化学的反応系を生物的に関連づけ、統合した反射系が認識の存在基礎である。反射過程を統合し、より普遍的反射を実現する過程で神経系が発達してきた。脳における思考も、より普遍的な統合された反射活動である。一定の対象に対して複雑であっても一定の反射系列が対応し記憶を保存する。しかも、一つの対象からの刺激入力だけでなく、関連する対象からの刺激にも不変化された反射系列反応が誘起される。こうして、連想が実現される。対象からは複数の刺激が並行して与えられる。その複数の刺激はさらに複数の反射系列を刺激し、伝えられる。脳における反射系列は階層化され、また分化と統合のネットワークを形成している。

 認識は環境とのやり取りの過程である。生物の階層である。対して論理は人間の階層であり、理性の階層である。したがって感性的認識、悟性的認識、理性的認識の三段階論はとらない。
 認識は存在を対象化するが、認識は認識を対象化することで論理を獲得する。認識の対象化によって、すなわち反省によって対象間の関係、過程が論理的に認識される。論理は固定、保存される自らも含む対象世界の関係形式の認識=思惟である。
 認識は存在によって媒介されるが、認識自体は存在に直接的に規定されている。これに対して、論理は存在に対して認識を媒介にしてある。論理による対象の操作可能性はこの論理の媒介性によって保障される。媒介性によって存在の直接的相互作用の過程としてではなく、全体の運動の方向性を実現させる過程を見通して作用することができる。






















































 

論理の理解


論理の定義
 論理は対象を概念として定義し、定義は対象間の相互規定関係を表す。概念としての対象の定義は、対象の観測者による見方ではなく、対象がその存在関係として他との相互規定関係にあって、あるいは変化する関係の現象過程にあって、そのものとしての関係を保存する規定性である。論理は対象を概念として固定して保存するから、一端定義された概念はその定義した相互規定関係の中では不変でなければならない。概念の論理的関係は対象の相互規定関係であり、この論理関係内は無矛盾でなければならない。無矛盾な論理関係は論理系であり、形式論理であり、典型は公理系である。

論理の制限
 論理関係にあって対象概念は固定され、その取りえる他との関係形式も固定されるから、概念と概念間の関係は記号によって置き換え、記号を演算操作することによって新しい論理関係を導出することができ、新しい関係も既成の関係と矛盾しない。これが形式論理であり、形式論理の有効性である。形式論理にしたがって無矛盾性を追求することによって対象を論理的に正しく認識することができる。ただし、その正しさは当初の対象化の定義に関してだけに制限される。
 例えば、「月は地球の衛星である」、「月は潮汐の主原因である」、「月は主に玄武岩と斜長岩でできている」、「月は恋を照らす」。「月」はその他でもあるように月の他との関係は多様であり、月は多様な概念でとらえられ、その月の概念はその概念の他の概念との関連において定義される。衛星である月は天文学の概念で定義され、潮汐を起こす月は力学の概念で定義され、玄武岩と斜長岩で構成される月は鉱物学の概念で定義され、恋を照らす月は文学の概念で定義される。同じ「月」であっても、対象の定義を無視して概念を関係づけてはならない。しかし、天文学の概念と力学の概念は相互に関連して定義される。学問間の概念も学際的に相互規定関係が問えるようになってきた。何をどのようにとらえるかは論理の問題ではなく、存在と認識の問題である。

論理の全体性
 論理の連関は個々の対象間の関係を表すが、連関が成立つには対象間の関係全体に関係自体が普遍的でなくてはならない。個々の概念関係の正当性は、論理系の無矛盾性によって保障される。個々の概念、定義は論理系全体によって意味づけられ、正当性が保障される。個々の概念は論理系から切り離されては意味をもたない。
 論理は「SはPである」、「SはPであるかPでないかである」という個々の命題のことではない。こうしたトートロジーの命題の意味が真であるか偽であるかは対象を確かめることでしかできない。対象について論理に求められることは対象を論理的にとらえることであり、対象の相互規定性を明らかにすることである。「SはPである」と言うことは「PであるものがSである」と言えるかどうかが問題である。
 また、「SはPである」だけでなく、同様に「SはQである」と言えるなら「P」と「Q」とについての関係も明らかにできることが論理関係である。個々の命題ではなく、命題の連なり、相互の命題の規定関係の連関に矛盾がないことが論理的であることである。

 例で示すならユークリッド幾何学での点の定義は線の定義、面の定義の最初に位置づけられ、線そして面の定義を説明するが、逆にユークリッド幾何学における「点」として定義され、線の定義からも面の定義からも点の定義が説明される。点の定義は論理的必然として点についてだけでなく、ユークリッド幾何学全体の論理系が前提になって説明される。ユークリッド幾何学の体系は点から「始まる」演繹系であっても、幾何研究の全体を体系として仕上げた「後」で、改めて点の定義が先頭におかれる。結論として導かれるべき全体の構造が、前提を証明する論理構造として実現されていなくてはならない。

 基数としての「1」は対象との一対一対応を表してはいても自然数ではない。自然数としての「1」は対象との数的対応関係だけでなく、「1+1=2」を担うだけでなく、「0」に対する関係だけでなく、無限の自然数すべての数との関係で同じ「1」としての関係をもつ普遍的なものとしてなければならない。すべての自然数に対して同じ「1」として「n+1」の数が存在する関係になくてはならない。「1」が演算可能で、どのような演算過程にあっても同じ「1」としての演算結果を保証するには自然数全体の論理系が保障されなくてはならない。自然数全体の論理的関係になければ「1」は対象の単なる数量的記号でしかない。「1」が演算可能な、順序づけ可能な自然数になるには、自然数の論理の全体性が実現していなくてはならない。

 辞書の説明を追うと説明する言葉によって説明されていたという循環があるが、辞書が言葉の連関として閉じた相互規定関係にあるからである。

 個別、部分も他との関係だけでなく、全体の関係があってその中で位置づけられて存在するという全体性がなくてはならない。

論理の実践性、社会性
 論理は環境の変化の中に対象の不変性を認識することが前提になる。対象に働きかけ、対象を変化させることによって対象の普遍的な関係が認識される。道具を媒体として対象を操作することで、相互作用と、運動過程が認識される。対象との相互作用の過程=実践において論理は認識される。論理による対象の構造理解は対象の統一している全体に働きかけるためのものである。論理的にとらえられた対象の構造体は、対象に重ね合わせることのできるモデルである。論理構造体はその外観も、詳細部分も全体の統一の内に取りだし、対象に重ね合わせることのできるモデルである。

 同時に、この認識の実践はヒトの共同関係の中で実現され、検証され、保存され、交換される。社会的実践の過程で、言語が獲得された。言語による対象の記号化と、対象間の相互作用関係の記号関係化として論理能力が獲得された。論理は認識の対象化であり、主体の対象化として、人間主体間の共通認識形成の過程で獲得された。
 人間の存在が社会的であるように、人間の認識も社会的であるように、存在と認識に媒介される人間の論理も社会的である。
 人間存在は社会的物質代謝過程=社会的生産関係になければ生活できない。人個人の認識能力の発達は人類の歴史的認識成果の学習に裏づけられている。大脳の生理的構造、機能までもが社会関係をなすヒト進化の過程で実現されてきた。特に人間の認識を媒介する言語は社会的である。さらに、多様な認識手段である観察、観測、実験器具・設備、記録・検索・教育は社会的成果物である。認識過程自体、教育・学習・研究・発表・交換・検証・保存・評価・組織・費用負担のすべてが社会的活動である。社会的認識過程は科学として組織されている。
 対象存在を知るには生活し、経験し、学ばなくてはならない。対象存在は個別であるとともに全体性であり、全体の連なりをなす部分としてある。個別を知り、世界を理解するのには、人間の社会的認識である科学によって世界全体の論理的連関を知らなくてはならない。

論理の媒介性と自己言及
 論理は認識によって媒介されて実現するが、人と人との間で、思惟の内で言語によっておきかえられ、さらに記号によって表現、保存される。また、機械によって単純な論理関係が構造として実現される。しかし今日ではさらに、論理はコンピュータ・プログラムとデータ構造とによっても実現される。論理は認識によって媒介される思惟としてだけでなく、コンピュータによる情報処理としても実現されている。ただし、論理自体を発展させるのは、今のところ人間の認識能力によるしかない。一方ではコンピュータによって個人の能力では把握できない複雑な論理構造を実現することができ、世界の一部を仮想現実として表現し、操作可能にしている。

 論理の媒介性は自己言及の構造を可能にする。思惟は自らを論理的に表現することによって自らを対象化する。コンピュータ・プログラムはプログラム自体をデータとして処理し、制御する。論理の演算式もゲーデル数化されて論理演算の対象になる。この還元化の過程とは逆に、自己組織化の過程として分子は原子を用いて原子とは別の物性を実現している。生物は分子から生命を実現している。人間は肉体と精神から文化を実現している。媒介性はそのものをそのものでなくし、かつそのものであり続ける矛盾をはらんでいる。

追題
 「コンピュータはイメージ処理が苦手である。」「コンピュータは感情を処理できない。」「コンピュータは創造的思考ができない。」等の主張はコンピュータの限界を語っているようで、実は人間がそれらを論理的に理解できていないことを示しているに過ぎない。逆にコンピュータはそれらが一部であれば擬似的に実現できることで、多様な処理、表現手法があることを示している。コンピュータに人間の情報処理をシュミレートさせることで、感情、思考の論理構造を確かめることはできるが、コンピュータの疑似表現の可能性はさらに、人間の思考法以外の論理的対象把握方法の可能性を示している。

論理系間の論理
 存在対象は他との多様な関係にあって複数の他と相互に規定し合う運動形態として実現、現象している。存在対象の規定性は単一の関係ではない。複数あるだけでなく、それらは階層構造をなしている。より基礎的階層とより発展的階層の重層関係にあり、さらにそれら階層間でも相互に規定し合っている。そうした対象を論理的に把握するには多面的にならざるをえない。階層間の関係自体が階層内の運動の対象化として運動形態を発展させ、階層間の相互規定性が現実の運動の多様性をつくりだしている。論理系内の関係形式とは別に、論理系間の関係形式についても広義の論理が必要とされる。それは現実の存在関係の反映でもあり、認識過程の反映であり、論理の展開過程の反映でもある弁証法である。
 弁証法によって存在対象は一つの論理関係として抽象的に再構成される。弁証法論理によって認識は構造化され、統合化され、普遍化される。弁証法によって論理系間の論理的統合として、主体を含む世界全体が理解される。

矛盾
 論理的矛盾は「SはPであり、かつ非Pである」という関係形式のことではない。そうした形式的矛盾は論理系内にあってはならない。矛盾律は論理系内では破られない。個々の関係形式としての命題の論理矛盾は対象を検証すれば解消してしまう。論理矛盾は論理系内での各命題の他の命題関係全体に対する否定性である。

 対象を一つの孤立した存在と見るならそこに矛盾は存在しえない。現象してしまった物と物ととして認識される関係では、対象は個別化、抽象化され、形式化された関係になってしまっており矛盾関係はない。矛盾が現われるのは力などの相互作用の関係においてであり、また過程などの運動の展開においてである。「現実の矛盾」、「実在的矛盾」とはこの存在形態、運動形態の矛盾である。世界のすべての存在物は相互に規定し合い、全体の一部分としての存在である。個々の存在は相互に規定し合い、階層構造を成している。存在自体が運動の現象形態であるから、すべての存在はその本質的矛盾の現われとしてある。

 矛盾には存在における矛盾と、認識過程における矛盾、論理自体の矛盾とがある。矛盾は存在の矛盾か、認識の矛盾か、論理の矛盾かを峻別しないと矛盾した思考にとどまり、いつまでも止揚できない。

矛盾の止揚
 存在の矛盾は運動の実現として止揚され、過程をとおして止揚される。
 認識の矛盾は認識を正すことによって、認識を発展させることによって止揚される。認識の矛盾は論理的矛盾ではなく、論理の不十分性ではない。
 認識の矛盾はまず、物理学の「フロギストン、エーテル」のように歴史的概念として葬られる。誤った論理は否定され、認識は正される。
 正しい認識の矛盾として、ニュートン力学は光速度に比べて低速な運動法則としてアインシュタイン相対性理論の近似に制限されたが、惑星間を飛行するには十分な理論として活用されている。誤った論理は捨て去られるが、正しい論理は限定されることでより発展的な論理の一部になる。論理は対象を限定することによって閉じられ、より発展的な論理の構築として認識を発展させる。

 論理的矛盾は概念化するか、論理系を閉じてしまうことによって止揚する。
 一つに、論理的矛盾は概念に内部化され、他に対しては無矛盾の関係に定義されなくてはならない。数学の微分の矛盾は導関数として、物理学の無限大の質量はくりこみ理論によって、経済学の使用価値と交換価値は価値として概念化される。対象の矛盾を概念として定義し、概念間は無矛盾の関係にできる。
 または、論理的矛盾は論理系外に追放することによって止揚され、論理自体を発展させる。数学の発展は矛盾追放の論理的発展である。
 自然数は基数を連続量に適用し、減算による矛盾を克服するために負数を含めた整数に拡張された。無理数、虚数、無限も論理的矛盾をはらみ、論理的矛盾の止揚から定義される。平行線の定義からは非ユークリッド幾何学が産み出され、一般相対性理論の数学的裏付けを与えることになった。ユークリッド幾何学、双曲的幾何学、楕円的幾何学はそれぞれの幾何学内では無矛盾であるが、それぞれの幾何学間では平行線の定義において相互に矛盾している。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学はそれぞれ狭義の論理系として閉じており、互いに矛盾している。しかし、いずれも数学の理論として論理的に互いに等価である。数学の論理として、いずれの幾何学も論理的に正しいが互いに矛盾している。
 論理には概念の関係形式としての狭義の論理=論理系と、矛盾する複数の論理系を包含する広義の論理がある。論理的矛盾の追求は多様な論理系を産み出し、論理を豊かにし、世界をよりよく、より全体的に反映する。