正しいのは唯物論である。しかし観念も存在する。物質の運動過程とは別に観念の展開を見とめることは、裏口から再び観念論を呼びこみ、復活させることだとの批判がある。しかし、観念は主観に対し強力に作用する。観念を世界に位置付け、観念の働きを明らかにしなくてはならない。観念は世界のどのような存在であり、どのように働くものかを明らかにしなくてはならない。そうしなくては、法則や数学の客観性を確かめることができず、不可知論へ転落しかねない。
第0 前提
まず、対象になる事物がある。どのようにあるのかは別の問題である。
事物を対象にする「私」、あるいは主体、主観がある。
事物と主体とは何らかの関連のうちに関係する。
この事物と主体の関係は対象化の関係である。
対象化の関係は主体を事物のひとつととらえれば、事物間の関係と同じである。
事物間の関係は相互作用であり、他のすべての事物間の関係と連なっており、事物の構造に応じた階層関係にあり、事物の連関の中での運動過程としてある。
対象化の関係が一般の事物間の関係と異なるのは、主体という特別な存在が当事者になり、事物が対象として主体の内に反映され、主体に媒介される観念を創り出すことである。
観念は事物そのものでも、主体の一部でもない。観念は事物あるいは事物として対象化された主体の反映である。観念は人体や食物、衣服、道具、水や空気、地球のように物質的には存在しないが、人の思惟に媒介されて存在する。観念は主体が事物に代えて主体の内で思惟によって操作する対象である。観念は事物とは別の主体の思惟に媒介される客観的存在である。
観念は事物である人々の間で受け渡しができ、保存できる社会的存在でもある。観念は文字、音声、図画、映像、音響等々の事物によって媒介され、人々の思考によって操作され、人々の間に流通する存在である。言語、文化の異なる人々の間ですら伝達されえる。
したがって、世界は事物と、観念との二元によって二重に構成される。
知る、認識する、理解するとはこの観念の創造と、流通のいわば「知」の過程を明らかにすることである。
知の過程は第1に事物の対象化である。
第2に事物間の相互作用である。
第3に主体による対象の評価である。
第4に評価により観念が概念として定義される。
第1 対象化
単なる事物間の連関としては対象化は主体の問題にならない。一般的な物質の対象性ではなく、主体にとっての対象性がここでの問題である。主体が事物を対象化するのは、主体のあり方そのものであるからである。主体は対象化しなくては存在できない。総ての感覚刺激を奪う感覚遮断の実験をすれば、脳は迷走し、思考は形作られず、主体は崩壊する。主体、あるいは主観だけでは生物的にも存在できない。主体あるいは主観の定義自体が客体あるいは客観と対称であり、相補的関係にある。
事物間の連関にあって、主体が存在し、主体が生活することで事物が対象化される。対象化の関係は事物間の関係が、主体と操作対象との関係として主体によって規定される関係である。
対象化は事物との直接の関係を、他の事物との関係に媒介して構造化する。事物の対象化は、主体と対象の直接的存在である事物を、他の事物との間接的関係に位置付けて反省することである。事物は対象として媒介された存在になる。
例えば、存在の否定は、無い対象を対象化し、すなわち、一端在るものとしておいて無くするのである。単に、直接的に無いものは対象化することはできない。一般の存在関係に位置付けて、即ち存在させてからでないと存在を問うことはできない。
さらに例えば、算術においては数を桁で表現する。桁表現によって"0"=ゼロの存在が理解される。桁の存在があって、非存在である"0"が存在する。算術の対象は桁と数に二重化される。算術の対象とされる数には、もともと桁などの規程を必要とはしていない。桁は主体によって付加される。逆に主体は数に桁という属性を対象に付加することによって数の操作を容易にする。主体は数を意味内容と表記形式に二重化して対象化しているのである。桁という表記形式の系にそれぞれの数を位置付けることで、数を対象化し、操作する。
否定だけでなく、肯定も対象化であり、否定と同じ構造にある。同じ構造でなければ、肯定と否定の対称性が破れてしまい、相補性が否定されてしまう。即ち総ての対象化が対象を構造化することであり、直接的存在を相互規定関係の系へ媒介することである。
一般に、対象を対象間の普遍的相互規定関係系で扱うことが反省である。
逆に、対象化によって主体は単なる事物ではなく、主体として対象と関係する。対象化によって事物は一方に対象として、他方に主体として関係する。
対象化はまず主体の実践としての関係である。実践過程で主体は自らの存在を形成してきた。主体の対象化能力は主体の進化史の過程で獲得されてきた。対象化能力は感覚、認識能力であり、また実践能力である。同時に対象化能力の獲得は、対象の普遍性と方向性を追求する能力の獲得でもある。
第2 相互作用
対象化は対象と主体の関係としてあるが、この対象化の関係を媒介するのは事物間の関係である。
一般に事物間の関係は相互作用である。物理的には4つの力の相互作用としてある。物理的相互作用はエネルギーの劣化としてあり、エントロピーの増大であり、全体としては秩序から混沌へ向かう。エントロピーの増大過程にあっても部分的には宇宙の大規模構造を作り、銀河を作り、星を作り、生物を誕生させ、生物は進化してきた。生物は太陽光をエネルギーとしてアミノ酸を合成し、食物連鎖によってアミノ酸を取り込み、消費し、生物環境を全体として地球上に構成している。
このすべての過程にあってすべての事物は相互作用の結節点として存在している。すべての事物は相互作用の連関のうちにあり、相互作用の連関を離れては存在しない。
主体と対象との関係も例外ではなく、相互作用の関係にある。
主体が主体であるのは、物質代謝としての事物の相互作用の過程においてである。主体は物質代謝によって生物として存在する。物質代謝は諸事物のなかから食物や酸素を対象として取り入れ、老廃物を事物として排泄し、対象化する。この物質代謝の過程を停止すれば、主体は主体たりえず、事物間の関連に埋没する。主体はこの物質代謝を制御し、事物との関係を制御する。
主体の感覚も物理的過程に媒介されている。感覚の処理も生物的過程に媒介されている。
主体の存在、生活は実践の過程である。主体が単なる事物の相互作用のように他を受入、排出する過程と違うのは、対象に働きかけること、一定の方向性のもとに対象と主体の関係を変革する過程にあることである。
さらにヒトの場合、物質代謝を社会的に組織し、経済活動を行う。そして、社会関係をも対象化する。
知の過程も情報処理の入出力と基本的には同じである。入力に対して出力し、出力を再度入力に戻す。出力を入力に戻すことによって新たな入力を制御する。入出力処理、入出力の制御処理は対象を処理過程内で処理対象として対象化する。入出力処理を対象化するには、入力に戻した出力が少なくとも再入力までは処理過程内に短期記憶として保存されていなくてはならない。入力の処理過程は処理形式として保存され、対象化される。対象化された処理形式が観念である。観念は入出力の処理形式として保存される。保存された入出力の処理形式は長期記憶として対象化される。単に想起される観念は、記憶として保存可能になり、後に名づけられて主体間で流通可能になる。
第3 評価
事物は対象化されることですでに評価の対象になっている。事物を対象化することは、事物を主体の対象としてすでに評価しているのである。
主体と主体以外の事物との関係は、主体自体には対象化できないレベルまでの多様な相互作用にある。物理的、化学的、生理的、感覚的、知的相互作用、さらにそれらもさらに多様な階層で相互作用している。主体の内でも入れ子構造になって相互作用が組織されており、その主体組織が環境と複雑な相互作用している。主体自体が様々な事物の複合体としてあり、他の事物と複合された相互作用をしている。そのほとんど無限の相互作用の中から、特定の事物を対象化することは、主体にとっての当面の主要な対象として事物を評価しているのである。主体を構成する事物と主体を取り巻く事物とのすべての相互作用の過程にあって、当面の主要な相互作用に働きかけることで、主体は主体としての存在=運動を評価し、方向性をもって対象に関わる。
ところで、評価するには評価の方法と、評価基準が必要である。
対象の評価はこれまでに主体が対象としてきた事物との比較によって評価する。当面の対象と過去の対象とを比較するには、過去の対象を現在に再現し、現在の対象を過去の対象と比較できるようにとらえなくてはならない。これは対象を普遍的な相互規定関係に位置付けることであり、逆に対象の普遍的な相互規定関係を認識することである。
対象化は、事物を対象として他の非対象とする事物と区別することである。事物を対象として区別する基準がまず問題である。過去の対象は区別され、評価対象として、評価法として、評価基準として保存されてきている。この区別し、保存してきたのは個々の個体としての主体の経験だけではない。個体は生物としての系統発生、すなわち進化の過程を経て現在の主体としてある。したがって、個々の主体にとっては先験的な対象が保存されている。主体の対象とする事物との相互作用の能力は、主体としての個体形成の過程でこれまでの環境に適応して獲得された能力なのである。生理的能力、運動能力だけでなく、感覚や中枢神経系の機能も環境の中で、系統発生の過程で形成されてきた。主体といえども、自由な空想であっても主体の生活環境にないような事物間の相互作用を対象化することはできない。
評価法としては現在の対象を過去の対象との同一性と差異として明らかにできる関係にとらえなおさなくてはならない。そもそも同一性がなくては差異を問題にしても評価にはならない。同一性と差異の把握、すなわち区別が必要である。
区別は双方向である。過去の対象間での区別が一方であり、他方に当面の対象としての事物を他の事物から区別する。内に向かっての過去の対象の区別と、外に向かっての現在の事物を対象として選択する区別がある。この双方向の区別の過程を相互に参照し、異同を明らかにすることによって評価がおこなわれ、対象が定まる。
区別は区別するだけでなく、分類されなくてはならない。主体の事物との相互作用によって分類することがとりあえずの分類基準であり、対象の評価基準になる。対象とする事物の必要性、用途、経過過程、時間的変化等が当面の基準になる。
しかし、当面の基準だけでは環境の変化には対応できない。未知の事物は過去の対象によって区別することはできない。未知の事物は過去の事物からの類推によって区別し、検証するしかない。類推は過去の事物間の関係を未知の対象に対して適応することである。すなわち、過去の対象事物を区別するだけではなく、過去の事物間の関係を対象化しなくてはならない。事物の区別だけでなく、事物間の関係を対象化することで、未知の事物を対象として受け入れることが可能になる。
未知の対象を既知の対象間の関係へ位置づけることは、既知の対象間の関係が拡大することであり、関係全体の変更である。関係の変更は量的拡大にとどまらず、質的変更となる。質的関係の変更は既知の対象の関係全体の見直しに連なる。既知の対象の関係の見直しは、関係を構造的に、階層的にとらえる契機になる。この契機を実現するのは主体の対象事物に対する働きかけであり、環境の変革である。与えられた事物を主体との相互作用において変革し、新しい主体と事物の関係の創造、新しい事物の創造によって、事物の普遍的存在を主体の対象とすることができる。道具の使用、道具の製作は作業対象だけではなく、作業を媒介する関係を対象化する契機であるとともに、逆にその成果である。
事物との直接的相互作用だけではなく、事物間の関係としての間接的、媒介関係をも主体は対象とする。主体の対象は直接相互作用する事物だけにとどまらず、事物の変化、変革可能な事物の有り様をも対象にする。
対象との直接的関係と媒介的関係によって事物一般と主体との相互作用を対象とすることができる。すなわち、世界を全体として主体の対象とすることができる。そして、主体にとってはすでに世界は世界感、あるいは世界観として、対象になっている。
最後に、主体は事物のなかから他の主体を対等な主体として対象にし、さらに自らを対象化する。個体としての主体誕生の際は子として、親としてそれぞれ対象化の関係にあるが、それは対等な主体間の関係ではない。親から自立する過程で、逆に子育ての過程で、主体間の対等な関係として互いを対象化し、その過程で主体自らを対象化する。
他の主体との対等な関係、すなわち社会関係は主体にとって主要な環境である。主体の物質代謝は社会的物質代謝として実現するからである。物質代謝を社会的物質代謝として構成することにより、主体間の共動、協同の事物の変革過程で共通の認識の了解が成立つ。社会的実践過程でコミュニケーションが発達し、道具を使用する事物の変革によって事物の構造、階層、過程の理解にともなって言語が発達し、文化が成立した。
こうして獲得されている世界感、あるいは世界観が対象評価の基準になる。
第4 概念化
対象化は事物の主体の内への反映である。事物は対象として主体の内へ反映される。事物は主体の対象としてあり、同時に主体の内に反映され、内での操作対象となる。反映された主体の内で、反映そのものを対象化することで思考が実現する。思考の対象として反映された事物は名づけられ、事物間の関係を反映して、同一・差異性による種類の分類、包含関係の分類、関係の関係として関連づけられる。
対象化した事物の名づけは、概念としての定義である。定義は他の概念間の関係における位置づけである。概念間の関係形式は、事物間の関係形式を反映する論理関係である。事物間の関係は主体の内に反映された論理関係であり、論理関係は論理として対象化される。概念は概念によって規定され、概念間の関係は概念間の相互規定であって、それ以外ではない。概念間の関係は相互規定の循環構造として成り立っている。すなわち、概念間の相互規定として論理は閉じた世界を構成することで、事物の世界を特定の関係形式=質として反映する。閉じて自律した相互規定の関係形式の典型は数学や、論理学の公理系である。
概念と論理によって閉じた観念世界は、そのままでは閉じた相互規定関係であり、無意味な循環論理である。しかし、特定の関係形式=質として閉じた相互規定関係を対象とし、その他の相互規定関係、循環論理の総てを対象とすることによって、「特定」ではなく事物の世界の全体を対象として反映することができる。概念と論理の観念世界は、全体性によって意味を獲得する。概念と論理の観念世界の全体が、事物の世界の全体を反映することによって、世界をシュミレーションし、主体の方向性を定め、未知の事物への対応を明らかにする。
観念世界の論理は事物の世界を反映していなくては、単なる空想の世界、あるいは非現実的な世界でしかない。事物の世界を反映する観念世界は、事物の運動を過程と階層構造として反映し、事物の運動は相互作用として事物全体の運動の部分であることを反映しなくてはならない。
一部の運動の論理形式を解釈して運動全体の形式の解釈にあてはめるのは観念的解釈の現実への押し付けである。たとえば事物間の運動は関わる事物すべての相互作用の過程である。観測も主体がその運動に一つの事物として当事者になることである。観測主体が対象間の運動過程に干渉ではなく介入することがまず注意されなくてはならない。しかし、論理の問題として観測主体の介入以上に問題なのは、観測対象と観測主体の異なる相互作用を客観的論理的関係として切り出し、観測対象と観測主体の複数の相互作用結果を再構成して、対象の一つの有り様=存在形式として解釈しようとすることである。対象の運動は諸事物の相互作用過程としてあるにもかかわらず、その一部を抽象して組合せても、現実の相互作用過程全体を再構成することにはならない。にもかかわらず、観測関係だけを論理的に組合せて解釈することで、運動過程を観測主体が決定することにしてしまう。個々の相互作用の結果として観測されるにもかかわらず、観測結果の原因である相互作用の過程を決定してしまう。結果によって原因を決定してしまう。
反映は主体が事物を対象化する現実変革過程で獲得される。対象事物を相互作用の過程で定義することは直接規定である。これに対し、反映結果を普遍的な相互規定関係での定義が反省規定である。直接と反省それぞれで獲得される概念を現象概念と思考概念とも区別できる。直接規定と反省規定は異なる次元での対象を規定するものであり、これを混同するととんでもない様様な誤りを犯すことになる。
論理は主体のうちに反映される事物間の関係であるが、主体にとっては論理関係として閉じた世界であり、事物間の世界から相対的に自律した世界である。すなわち、観念の世界である。観念は世界を反映する世界としてあり、主体にとって世界は事物と観念の二つの元に見える。
知ることは事物世界を対象として、主体の内に概念の相互規定の循環構造を組み立て、規定関係が対象事物の有り様、相互作用の総てに及ぶことによって世界を再構成することである。再構成された対象としての概念は反省の過程で解釈、検証される。反省の過程は実践の過程によって事物対象と照合される。
概念として再構成される世界観は、事物世界の自己言及であり、部分に全体を反映するために相互規定の循環構造となる。部分としての相互規定の循環構造のすべてを対象化することによって、事物世界は観念世界として再構成される。
主体
ここで「主体」とは「私」であり、主観であり、ヒトであり、人間であり、個人であるが、対象と相互作用し、対象を反映し、対象を変革する主体である。論の視線の原点として主体を定めることにより、世界の階層構造、運動過程を一定の論理形式で統一的に表現する。主体を原点とすることで、主体の媒介された存在としての立場を、自己言及構造を二極の相対関係として単純化することができる。したがって「対象」は主体の対象であって、世界も、事物も、概念も、論理も主体の対象になり、「対象」は主体の関係する対極の存在として一義に意味づける。 逆に何を対象として扱うかによって、主体が対象との関係において客観的に規定される。
「観念」はゲシュタルトあるいはパラディグマ的シンボル、一部で流行のミームと呼んでもよい。観念は主体を含む事物としてある物質に媒介される。観念は物質を超えた存在である。ただし、この物質とは、意識の対立物としての哲学的物質概念とは異なる。意識は事物の主体としての有り様であり、観念は意識において対象化される物質の反映結果である。
反映は映像ではない。対象を目の前に実在しているかのように再現できたと感じても、現に相対しているように新たな様子を発見することはできない。
量子の位置の観測と運動量の観測は別の過程である。同時に観測することはできない。量子のスリットとの相互作用とスクリーンとの相互作用とは継起しているが同時に起こりはしない。
素人の思いつきで言えば、「存在は確率として現象し、運動は相互作用として現象する。相互作用しない存在は場としてある。」