哲学の意味
市川 徹
私なりの哲学、「哲学の一般教養 二元世界」を半生かけてまとめましたが、世間ではほとんど評価されず、寂しい限りです。哲学など無視しても生活できますが、改めて哲学の意味を問います。
哲学の対象は意識です。「精神」としても良いのですが、あいまいです。
誰でも自分に意識があるか無いかは簡単に判断できます。意識があって判断できるのですから。しかし他者の意識はそうはいきません。「ペットに意識はあるか?」「細菌にも意識はあるか?」「外の人にも私と同じような意識があるのか?」。意識の存在を問いますと、逆に意識の定義が問われます。そもそも「意識とは何か」を定義しなければ、そのものに意識があるかを問えません。対象を問いながらも、その定義が問われる、まさに哲学的問題です。
まず、意識は人と対象との相互作用を制御しています。意識は人の活動を制御して進化してきました。人であっても、危険を避け、食べ物を得て生きています。配偶者を獲得しなければ子孫を残せません。人が生きていくために、意識は不可欠です。真、善、美、価値などを追究するだけでなく、意識は生き残りをかけ、人間の存在を支えています。
意識の前段階として、感覚器官からの神経信号が脳で変換処理され、運動器官へ送り出されます。感じて動いた結果が都合良ければ生き残りやすくなります。その感覚信号を運動信号に変換する過程に意識が実現します。どのように実現するかは不明ですが。同時に信号処理の結果である自らの運動も感じとります。更に脳では信号処理過程自体を対象にして循環、再帰して制御します。再帰して制御するフィードバックが意識実現の要です。このフィードバックが意識の機能を担っています。意識にとって意識と意識の対象との再帰は入れ子のように重なっています。こうして生き残ることのできた信号処理能力が子孫に受け継がれ、意識は発達してきました。
意識は感覚と運動を基礎にして成り立ちますが、感覚を意識することはほとんどありません。対象となる物事を意識しますが、感覚そのものを普段意識しません。物事を当たり前に感じていますが、意識を問題にするには感覚の制限や限界を知ることがまず必要です。
その感覚以前に、感覚器官は対象からの光などの信号媒体を受け取ります。しかも、受け取る信号はごく一部分に過ぎません。感覚器官が受け取る信号は、人一人が受け取れる質と量に限られます。視覚が感じるのは電磁波のごく一部分の可視光だけです。聴覚が感じるのは可聴範囲の振動です。味覚は分子の違いを甘味、酸味、塩味、苦味、うま味を基本としてしか表現できません。犬の臭覚は人の百万倍とも言われます。
それでも人には過ぎるほどの、多様で大量の信号を受け取り、生活する上で有用な情報を抽出しています。大抵の人は光の違いを3種に区別し、明暗、鮮やかさと併せて色を感じます。色は光の波長の違いだけで決まりません。金、銀、銅の色やシャボン玉などの構造色は波長によるのではありません。また、動きは変化しない対象の変化です。変化は以前の記憶と比較して明らかになります。音の振動は時間変化です。音は経過する時間変化を記憶して聞き分けます。一瞬の音などありえません。感覚器官が刺激されるだけでは感覚は成り立ちません。
「五感」といいますが、人にとって最も大切なのは体勢(性)感覚です。身体の状態、姿勢の感覚です。体勢感覚が乱れると立っても座ってもいられず、気分が悪くなります。正常な体勢感覚が現実を確かめる基礎になります。
感覚器官への多様な刺激は神経信号に変換されます。神経信号は神経細胞の電気的差異で表されます。神経信号自体に対象、表象による違いはありません。
人が対象とする物を、脳では神経信号の集まりで表現します。脳は異なる神経からの信号を比較し、区別し、関係づけます。脳は神経信号を解釈して感覚表象を描き出します。脳で描かれ、再現される物の表象は、人が対象にしている物にピタリと重ね合わされます。脳での表象が対象からずれれば、重なり合うように調整します。脳の可塑性と言われますが、素晴らしい対応力、描写力です。(例えばメガネを新調した時の視界の歪みは、慣れると歪みと感じなくなります。危険な逆さメガネの実験もあります。検索してみてください。)
感覚表象の対象への重ね合わせは、感覚器官と脳があるだけではできません。感覚そのものが胎内にいた時からの経験による能力です。視覚の場合、網膜に映る曲面像から立体を構成します。両眼視だけでなく、触れたり、周囲をめぐったり等の経験をも踏まえて対象をとらえます。信号を受け取るだけでなく、対象物との相互関係を経験することで再帰的に調整し、重ね合わせています。
更に感覚は意味づけることで様々な錯覚をもたらします。錯視(ミュラーリヤー図形など)は、有用な視覚情報を強調するための、いわば副作用です。錯覚と分かっていても、感じ方を変えることはできません。多義図形(ネッカー・キューブなど)では一時に一方の見え方しかできず、切り替われば他方は見えません。このように、感覚は対象をありのままに捉えていません。「ありのまま」も、定義し直さなくてはなりません。
感覚は人の日常生活に最適化されていて、非日常的、普遍的物事を捉えるのは苦手です。感覚は人間関係での微妙なニュアンスもとらえますが、社会や国の有り様を捉えることはできません。物質世界ですら、ありのままを感覚でとらえられません。日常の観察から地球が太陽の周りを回っているとは分かりません。
しかし、感覚を意識的に反省することで、感覚自体を発達、拡張させることができます。グラデーションはよりゆたかに区別できるようになります。抽象的なことも、記号で表現して感覚的に操作できるようになります。正確な物の形は座標上の数値で表現できます。数値の表現で対象間の関係を何倍にも拡大、縮小できます。座標を使って四次元以上の空間も理解できます。感覚的にイメージできなくても、どのように連なり、変化するかを理解できます。数式を使えば様々なシミュレーションができます。経験できないことも、経験した感覚からの類推によって表現し、理解できます。
さて、本題の意識ですが、意識は意識することで意識です。意識自体が対象を意識することでしか成り立ちません。何かを対象にすることで意識は成り立ちます。何も意識しなくなった時に意識を失います。私たちは毎日意識を失って寝ます。
脳内に送り込まれた信号だけを対象にするのが意識ですから、意識にとって意識がすべてです。しかし意識はすべてを意識できるわけではありません。例えば私たちの視界は前方だけです。前方の限られた範囲は意識できても、後方は前方のようにありありと見、意識することはできません。後方は抽象的に方向として意識できるだけです。振り向いてもその方向は後方ではなく、前方です。後方は闇ではなく、視覚にとってまさに「無」です。後方は「有」として見えません。
また、意識は意識できる物事しか意識できません。未経験の物事、未知の物事、忘れ去ってしまった物事は意識しようがありません。想像できるだけです。
人の表現は意識できることを前提にしていますが、すべてを表現することはできません。すべての書物を読み尽くせても、書物にすべてのことは書かれてはいません。どんなに能力のある人でも、どれ程の権力を持つ人でも、限られた知識しかえられません。「すべてを知った上で答えを出す」ことなど、誰にもできません。
制限、限界はあっても意識は拡張できます。人は動かせる体の隅々を意識できるようになります。他者の痛みすら感じることがあります。更に道具を使い込むことで、意識は道具の先端にまで達します。自動車なども身体の一部のように感じ、操作できるようになります。対象をより良く理解することで、隅々から全体までを一体としてとらえることができます。時に意識は世界との一体感を得ることすらあります。
幻覚は無い物事をあると思い込みますが、物を自在に扱う感覚は幻覚とは別です。逆に、幽体離脱を実験的に体験できるそうです。幻肢の患者は失った手足からの痛みを感じるそうです。意識は物理的存在と異なる対象を、物理的存在と同じように感じます。
意識はまさに、物質とは全く別の存在です。意識は物としては存在していません。意識は脳にありながら、脳は物としてあっても、そこに意識を見つけることはできません。意識が対象にする物と意識とは、存在の仕方そのものが違います。意識は意識によってのみ意識できる存在です。
意識には程度の違いもあります。もうろうとした、はっきりと対象を意識できない状態から、我を忘れて対象と一体化してしまう状態まで。対象についてよりよく知ることで、意識を集中しやすくなります。対象間の関係を知ることで、注意が行き届き、肝心な点を把握できるようになります。
注意は訓練することで、無意識化、潜在意識化します。始めは注意し、意識的にしていたことも、慣れると意識しなくなります。歩き方を意識しなくても歩けるのも、道筋を意識しなくても家に帰れるのも、潜在意識が働いているおかげです。思い出せない記憶も潜在意識に保存されていて、きっかけさえあれば思い出せます。複雑な視覚のメカニズムなど意識しなくても、対象の質、形、動きをとらえます。意識は潜在意識によって実現され、やがて自らを潜在意識化します。
むしろ意識は意識できない潜在意識によって成り立っています。潜在意識の上に顕在意識が乗っていると言えます。元々意識は自らを意識しないで発達してきました。誰でも自らを意識できるようになるのは幼児期になってからです。幼児期以前の記憶すらありません。
人が顕在的に意識できる対象世界は、潜在意識が構成して表現している観念世界です。人は対象、そしてその全体を観念世界として再構成して意識します。人の意識は再構成した観念世界しか意識できません。意識は意識だけで成り立っていて、意識自ら描き出した観念世界を対象にしています。その再構成された世界が自分中心、地球中心、太陽中心であるか、中心を否定するかで世界は、人間関係も、価値も、全く違って見えてきます。意識は自分に都合良く物事、世界を解釈しがちです。潜在意識は自己を正当化して、自らが描く世界と自らを守ろうとします。凡人にとって、あるがままの自分を受け入れるのは大変難しいことです。
潜在意識が描く手前勝手な主観的観念世界にありながら、意識が客観的物質世界を知る、理解する手掛かりは普遍性です。観念表象として描かれている物事をふるいにかけ、より確かな表象、より確かな関係を取り出します。いつでもどこでも同じ表象、繰り返される表象は、人の対象としてある客観的存在の表れです。そして個別的物事の普遍性と同時に、それらの関連である全体の普遍性を確かめます。主観的ゆらぎ、歪みを透して普遍的存在が表れます。感覚が描く表象を超える普遍性として、客観的に実在をとらえることができます。
意識は対象世界の全体も、意識の全体も顕在的に意識できません。しかし意識と物質とからなる世界の関連をたどることで、意識できない潜在意識も含めて自分と世界を理解することが可能になります。物質世界での意識の働きと、限界を確かめることで、意識を客観的に理解できます。意識は意識自らを対象に、自らを意識が構成する世界に位置づけなおすことで、客観的実在世界を理解できます。
意識の対象である客観的実在世界は秩序立っています。世界は普遍的相互作用で成り立っています。それぞれの物事がそれぞれであるのは、それぞれの物事としての秩序の現れです。物理的存在は物理的秩序の現れです。人の体も物質代謝秩序として実現しています。大人になっても体はできあがった物ではありません。人の体を構成している骨を含むすべての細胞は、常に新陳代謝しています。その細胞も代謝されることで、人の体は維持されています。代謝秩序が崩れれば病気になり、代謝秩序を回復できなくなれば死にます。何事も秩序を無視すれば必然的に破綻します。
宇宙全体の秩序が崩れ去るのは物理的必然(熱力学第二法則)ですが、全体の秩序が失われる中に部分的秩序が創られてきました。秩序は秩序を創りだして発展しています。宇宙の構造がつくられ、生命が生まれ、生物が進化し、世界を意識する人間がいます。宇宙の歴史です。
意識は世界の秩序を意識内に再構成して世界を理解します。意識自体が意識内秩序の世界として実現しています。感覚は客観的物質世界秩序からの信号を、意識内の主観世界秩序として再現します。意識は感覚が描く表象を比較し、区別し、関連づけ、関係の関係をも秩序として抽象し、主観世界を構成します。意識が対象を理解できたと納得するのは、意識世界の中に対象の表象がピタリと収まる時です。意識は感覚の描く表象が、元になる対象と一致することで対象と表象とを確かめます。
人は秩序を探り、利用することでより良い生活を手に入れることができます。道具は物の性質を利用して設計、製造し、使用法に従って使います。昔から東洋では乱れることのない生活を求め、世界の理(ことわり)を追究してきました。
秩序、理の追究と、その表現を担うのが論理です。様々な関係秩序の一般的表現形式が論理です。論理による秩序の表現が法則です。法則により対象を解釈するのが科学理論です。科学は世界の秩序を法則として表現し、検証します。科学は人の意識が人類史の過程で築いてきた成果であり、その方法です。ただし残念なことに、科学は物質世界のことを詳細に説明してくれますが、意識については物質世界と同じように説明してくれません。
科学を学ばなくても、人は変化と不変とを区別することで物事を区別し、同じ物事、何度も現れる物事の規則性を利用します。自分の経験を踏まえて、科学を学べば普遍的世界を理解できます。科学は人類の経験の蓄積であり、世界のあらゆる物質的存在を対象にし、普遍的方法で探求し、歴史的、文化的違いを超えて表現し、世界へあまねく普及します。科学は誤りも犯しますが、その誤りを正せるのも科学です。科学を踏まえない哲学は完全性を欠き、健全性を保つこともできないでしょう。世界の普遍的秩序を理解しようとする意識、哲学にとって、科学は不可欠です。意識が到達した秩序世界を表現できるのは科学です。
科学は感覚ではとらえることのできない秩序を明らかにしてきました。この宇宙は138億年前の大爆発から始まっているとのことです。物質世界の時間や空間は延び縮みします。物質は波でも粒子でもあります。客観的物質世界は感覚でとらえる世界をはるかに超えた秩序で成り立っています。
意識も体の代謝と同じに、意識することで常に更新されています。記憶も思い出すことで更新されます。意識は更新されて変化しながら自らを保ちます。常に更新される意識はつい観念を優先し、物質世界から離れた世界を描き出しかねません。観念と物質の世界全体を意識することで、とかく浮いてしまう観念世界を物質世界に重ね合わせておくことができます。観念世界を物質世界に重ね合わせ、実在世界で健全に生きるのが哲学の第一の役割です。
意識は保つだけでなく、深まり、成長してゆたかになる秩序世界です。意識は自らの内なる世界秩序を反省して、成長します。人間としての成長が哲学の第二の役割です。
秩序は更新されなければ維持できず、崩壊します。秩序は更新し続けることで実現されます。哲学は自らを含む世界秩序、世界の理(ことわり)を理解し、その実在世界秩序の実現、発展を目指します。世界秩序の実現、発展が哲学の第三の役割です。
©Toru Ichikawa